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日蓮大聖人・池田大作

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波瀾  

小説「人間革命」11-12巻 (池田大作全集第149巻)

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1  一九五七年(昭和三十二年)は、戸田城聖の三首の年頭の和歌で明けた。それは、元旦の勤行会で発表になったものである。
  荒海の しゃちにも似たる 若人の
    広布の集い 頼もしくぞある
  御仏の 御命のままに 折伏の
    旅路もうれし 幸の広野は
  驀進の 広布の旅は 五年いつとせ
    春を迎えて 獅子吼勇まし
 第一首は、青年部に与えたものであった。一週間前の、十二月二十三日に行われた青年部総会の雰囲気から、戸田が感得した所感を詠ったものである。
 あの愛すべき男子部員の、はつらったる姿を目にすることほど、彼を喜ばせ、安心させるものはなかった。手塩にかけて、これまでに育ててきた青年たちが、いよいよ彼の目に頼もしく映るようになったのである。しかも、その頼もしさは、荒海に跳ねる鯱のごとき強靭さである。
 ″山本伸一を見るがよい。昨年の大阪闘争で示した彼の力量を! 伸一がいる限り、青年部の育成は、もはや心配のないところまできた″と、戸田は思った。
 やがて、これらの青年たちが、鯱の大軍となって、末法濁悪の荒海で、広宣流布に挺身する時の壮大な光景が、彼の脳裏に、まざまざと描かれていたにちがいない。
 和歌は、率直な表現であったが、元旦の勤行会で読み上げられた時、戸田は、万感の思いを込めたように、異様に緊迫した表情をしていた。
 第二首、第三首は、一般の会員の日常活動を祝福しての和歌であった。創価学会の活動が、急速に展開し始めてから、わずか五年にすぎないが、地涌の誇りとでもいうべきものが、どうやら、彼らの身についてきたことを、戸田は知った。
 彼らは、さまざまな面で課題をかかえ、貧しくもあり、所願満足とは、まだまだ言いかねる状況であった。しかし、誇らかな顔は輝き、目は時に、まぶしいほどの光を放ちながら、なお柔和であった。
 それは、彼らが、まさしく菩薩行の最中にあって、日に日に浄化されつつあることの何よりの証拠であった。
 戸田城聖は、元旦の勤行会で、支部幹事以上の首都圏の幹部が勢ぞろいした姿を眺めながら、御造酒おみきの盃を頂いて機嫌がよかった。
 理事長の小西武雄が、新春を祝ってあいさつに立った。
 「戸田先生は、このようにお元気であり、私たちも健在であります。今年は、ぜひ八十万世帯を達成しようではありませんか!
 異議ないものと思います。それでは、これをもって、先生への年頭の誓いといたしたいと思います」
 戸田は、終了の題目三唱に、全学会員が一人残らず功徳を受けますようにと、深い祈りを捧げた。
2  勤行会は解散となり、首脳幹部の一行は、午後の列車で総本山に向かった。初登山のためである。
 総本山では、戸田城聖が願主となって建設される大講堂が、いよいよ着工される運びであった。規模は六階建てで、三階の七百余畳の大広間は、四階まで吹き抜けになっていた。大広間の上は屋上で、ここには、三百五十坪(約一一五七平方メートル)の庭園が造られることになっている。寺院建築としては、外観も、内部構造も、画期的なものといえた。
 着工して間もない一月十八日の午後、工事現場は、突然、色めきたった。地下二尺(約六〇センチメートル)のところで、古銭の塊が発見されたからである。
 古銭が発掘された場所は、以前、西大坊があったと言い伝えられてきた所である。回収した古銭を調べてみると、二千枚余りである。これは、大講堂建立の不思議な吉兆として、たちまち人びとの口に上った。
 古銭の種類は、中国貨幣が六十余種、朝鮮貨幣が一種、そのほか、日本貨幣も交じっていた。
 大半は、唐・宋銭である。平安時代から鎌倉時代にかけて流通したと思われるもので、開元通宝、乾元重宝などの唐銭、至和通宝などの文字が見られる北宋銭が多かった。
 また、至元通宝等の元の貨幣もあるほか、世に皇朝十二銭と称される、日本で鋳造された十二種類の銅銭の一種である万年通宝(天平時代の鋳造)も交じっていた。
 その他、明時代の貨幣として、永楽通宝が二百四十四枚、洪武通宝二十九枚も交じっているところから、後代になって、さらに加えて埋められたと推定することもできる。
 それらは、信徒の真心の供養であったのであろうか。いよいよ大講堂の建設に着工した途端、数百年来、地下に埋められていた護法の真心が、忽然として姿を現したのである。
 法主の日淳は、古銭の発掘を、何よりの吉兆として喜び、また、供養を志した創価学会員も、広宣流布のための大講堂建設という大事業に参加できる、身の福運に歓喜し、決意を新たにした。
 一月は慌ただしく過ぎ、二十八日、本部幹部会となった。折伏は、二万八千九百十二世帯と三万に迫る勢いとなった。組座談会も、いよいよ定着してきた。組織の最前線が、活性化しているためであった。
 戸田城聖は、その好調な広宣流布の伸展を喜びながら、信心の本来の姿は、楽しい信・行・学にあることを教えていった。
 「今年は、楽しく信心して、楽しく折伏をして、楽しく教学を勉強していってもらいたい。これが、今年の私の根本的な念願であります。また、そのことによって功徳を得、楽しく大講堂の造営を完遂したいと思うのであります。そして、完遂の暁には、全国から総登山をしたいと思う。皆さんの協力を願う次第であります」
3  戸田は、この直後、思いもかけないことを言いだした。
 「新聞紙上においてご承知の通り、今度、身延は内閣総理大臣の石橋湛山さんを、七階級特進させて権大僧正とし、紫の衣を贈った。これが国家において吉兆であるか凶兆であるか、深く私の心を悩ますものであります。願わくは、われわれの祈りの功力によって、凶兆にならんようにしようではないか」
 石橋湛山が、鳩山一郎の後任として自民党総裁に選出されたのは、暮れの十二月十四日である。最初、総裁候補は岸信介、石橋湛山、石井光次郎の三人であった。投票の結果は、岸二百二十三票、石橋百五十一票、石井百三十七票であったが、岸は過半数に達せず、決選投票に持ち込まれた。石井派は石橋派につき、岸は二百五十一票、石橋は二百五十八票となり、わずか七票差で石橋の勝利となった。鳩山内閣は十二月二十日総辞職し、難産の末、石橋内閣の誕生となり、石橋は一月に入ると、全国を遊説して回った。
 二月四日は、石橋が、国会で施政方針演説をすることになっていたが、彼は既に病床にあった。総理としての職務に耐えられる状況にはなく、岸外相が首相臨時代理として国会に臨み、石橋に代わって施政方針演説を行った。石橋の静養期間は延び延びとなり、二月十九日になっても、なお一週間の静養を要するという医師団の発表であった。
 野党は、首相の出席のない予算審議には、いつまでも応じられないとして、首相の進退を迫った。健康問題は、政治問題となった。二十二日の医師団の結論では、なお二カ月の静養を要すと発表され、遂に石橋は辞意を決し、二十三日、総辞職を表明したのである。
 施政方針演説もできず、多くの期待も空しく、わずか九週間の短命の内閣に終わってしまった。
 戸田城聖が一月の本部幹部会で、「心を悩ましている」と言ってから、実に二十七日目のことである。石橋のあとを、岸信介が継ぎ、二月二十五日、岸内閣が発足した。
4  一月下旬に、全国七都市で、教学部の助師、講師の昇格試験(筆記試験、口頭試問)が行われた。東京だけは、二月十七日に口頭試問が実施された。
 全国の受験者千五百一人のうち、五百五十一人が合格した。その後、さらに論文審査があり、二十一日の教授会で最終審査の末、助教授四十八人、講師三百七十人の昇格をみた。
 これで、創価学会の教学部は、教授二十七人、助教授百十六人、講師七百八十一人、助師二千百九十三人の陣容となり、会員数の増加に比例して、盤石な布陣が、着々と築かれていった。
 さらに堅実な発展を物語るものに、二月の折伏が、三万三千八百七十一世帯と、三万を優に超えたことがあげられる。戸田城聖は、この着実な発展を阻害するものが、外部からではなく、実は内部にあるということを戒めとし、本部幹部会の席上で懇切に説いた。
 このころ、会員間の金銭貸借から、人間関係がこじれて、互いに信心を見失い、時に地獄の苦しみに陥るケースが、見かけられたからである。
 「世の中は、″金と権力″だといわれる。ですから、貸借問題が起こる。″金を貸してはいけません″とは、絶対、言いません。ただ問題は、創価学会の地区部長とか、班長とかいう地位を使って、金を借りたり、権力を振り回してはいけないと私は言うんです。
 『俺は、地区部長だ。俺は、班長だ。金が要るから貸せ』。そんな生意気なことがありますか。学会の地位を使つての金銭の貸借は、断じていかん。学会の地位を使って、権力を振り回してはいかん。学会の組織を、利用するようなことがあってはならん。創価学会は、信心一途にいくものだと、私は考えるが、どうですか。
 私には、権力もありません。創価学会の会長として、皆様に奉ってもらってみても、なにも偉くありません。会長が偉くないというのだから、支部長でも、地区部長でも、同じく偉くないと思うんです」
 信心の世界というものは、あくまでも清潔に保たなければ、どのような宗教であれ、たちまち腐敗・堕落する。これが宗教の恐ろしさでもあった。ゆえに、世間的な権力や金力を、宗教の世界で流通させてはならないのである。
 戸田は、力を込めて言った。
 「事業家は、金を持たなければならない。政治家は、権力を持たなければならない。しかし、学会は信心をもって活動し、運営しなければならないというのが、学会の精神であり、私の精神なのであります。
 信心のことなら、戸田と太万打ちしても負けるものかという相手であれば、私も受けましょう。私は何事にも驚かない。金にも、権力にも、驚かぬ。しかし、信心だけは怖い。だが、私は、信心には自信がある。不肖な私だけれども、日蓮大聖人のお使いとして、七百年後の今日におるのであります。
 もし、『創価学会なんてインチキだ。デタラメだ』と言う人がいるなら、言わしてやろうではありませんか。どんな結果になるか、見ていてごらんなさい。私は、断じて負けません。三年かからずに結果を見せてあげますよ。
 これが信心というものです。金でもなければ、権力でもない。学会の地位を使って、金儲けしたり、権力者のような行動をしたなら、必ず罰を受けるということを、今日は宣言して、私の話を終わります」
5  厳しかった冬を越えて、今年も一日ごとに春めく時節となった。二月十一日、満五十七歳の誕生日を迎えた戸田は、激増する会員のために、一日一日の調査したが、迷いに迷って、決断を渋った。昨年の広布の旅路を、どう開拓していくべきかと心を砕いていた。
 三月に入ると、大阪府で参議院議員の補欠選挙が、近く施行されることになり、それをめぐって、いかに対処するかという問題が起きた。
 ――昨年の大勝利から、地元の会員有志は、候補者を立てることを願った。会員数は、昨年から見れば倍増している。彼らには、昨年の闘争を思えば、必ずしも勝てない戦ではないという楽観もあった。各党は、そろって候補者を立てるという。当選者は一人の激戦である。自民、社会の両党を向こうに回しての戦いとなるが、激戦なるがゆえに、票の分かれ方によっては、有利な展開となるかもしれない。
 戸田城聖は、大阪の政治情勢その他をつぶさに調査したが、迷いに迷って、決断を渋った。昨年の勝利をもたらした団結の二十一万票が、みすみす他党の餌食となって荒らされることも残念であった。
 この団結の力を、なんとか二年後の改選まで、そのまま温存したいという地元の声を聞いた時、戸田は、大阪の幹部のなかから、候補者を出すことを決意した。
 告示は三月二十九日であり、投票日は四月二十三日である。ともかく日がない。短期決戦である。
 戸田は、大阪の事情に最も精通している山本伸一を呼んで相談し、このたびも、伸一を支援の最高責任者に任命したのである。
 伸一は、種々の状況から考えれば、落選必至と思える戦いに臨んで、ともかくも、全精魂を傾けようと決意し、さっそく作戦の立案に入った。一カ月足らずの短期決戦であるがゆえに、応援幹部は、一人でも多い方がよい。
 昨年は、約三万世帯の大阪在住会員が、あれだけの戦いをして勝利した。今度は当選者は一人で、きつい戦いではあるが、基礎世帯は倍増していて六万を超えている。二大政党を相手にした、勝ち目のない選挙のように思われるが、激突する二つの政党の間隙を縫って、勝利することがないとは限らない。短期間の決戦だけに、事態はどう動くか、未知数である。とにかく戦ってみなければわからない選挙である。
 一日一日の戦いのなかで、事態は刻々と変化する、油断のならぬ情勢が続くであろうと思われた。伸一は、熟慮に熟慮を重ねた。
 まず、立候補者は、昨年八月、船場支部長になった尾山辰造に決定した。彼も、関西の幹部に多い歯科医関係の一人で、東区に診療所をもっ歯科医師である。この無名の医師が、一躍、参議院議員の候補者として選考されたのである。尾山は、当時の関西の首脳幹部のなかで、経歴からいっても、信心からいっても、適当な人物といえた。また、戦争にも長いこと引っ張られ、一方ならぬ苦労もしており、候補者としては、いちばん、ふさわしい人物であった。
 三月中旬のことである。春木征一郎から、尾山夫妻に電話があった。「関西本部に、至急、来てほしい。来阪中の戸田会長との面接がある」というのである。
 尾山は、″何事だろう″と思い、″何か叱られるのだろうか″と、びくびくしながら、妻と共に関西本部を訪ねた。
 戸田は、意外なことに機嫌がよかった。
 「尾山君、ご苦労だが、今度、君に出てもらわなければならん」
 「はあ?……」
 何に出るのか、尾山には見当もつかなかった。よく聞くと、参議院の補欠選挙の話である。降って湧いたような重大事である。
 彼は、返答に窮して言った。
 「山本室長に相談いたしたいと思いますが……」
 「ああ、伸は知っている。伸の推薦でもあるんだよ」
 戸田は、事もなげにこう言って、尾山の即答を促す気配である。尾山は、いよいよ窮して、傍らにいた春木征一郎の顔を、助けを求めるように見た。
 「お受けしなさい」
 春木は、小さい声で尾山に言った。尾山は、それに促されたように、思わず答えてしまった。
 「お受けいたします。力の限り頑張ります」
 「おお、そうか、そうか」
 戸田は、機嫌よく笑いながら、尾山の肩を叩いた。
 尾山は、わが身の急変に茫然として、何も考えられず、関西本部を後にした。事の重大さに、初めて気づいたのは、家に帰って、御本尊の前に端座した時であった。
6  尾山辰造は、一九一六年(大正五年)、鹿児島県串木野に生まれた。串木野は、遠洋マグロ漁船の母港として栄えた町である。近くには、串木野鉱山があり、日本屈指の金の産出量を誇っていた。
 彼は、男三人、女三人の兄弟姉妹の末っ子であったが、兄たちは早世し、彼が金物商の家を相続することになっていた。ところが、子どものころから成績もよく、向学心に燃えていたことから、母と、大阪の歯科医に嫁いでいた姉との相談の結果、辰造は大阪の義兄の家に寄宿し、勉学に励むことになった。
 そして、大阪で大阪歯科医学専門学校に入学。四〇年(昭和十五年)三月に卒業すると、義兄のもとに歯科医として勤務した。
 しかし、その後、わずか七カ月で兵役に就き、しばらくして派遣軍の一員として大陸を転戦し、太平洋戦争勃発のころには、陸軍中尉としてベトナムにいた。終戦をタイで迎え、英軍の捕虜となり、四六年(同二十一年)九月に、やっと五年ぶりで故国の土を踏むことができた。
 鹿児島の実家は空襲で焼け、年老いた両親だけが残っていた。彼は、大阪の義兄の診療所で、歯科医として働くことによって、両親に仕送りをしようと考えた。
 尾山辰造は、もともと歯科医を志したのではなく、さらに医科大学に進学すべく、ドイツ語まで独学で学んでいた。しかし、卒業後の兵役、復員してからの家庭の事情から、不本意ではあったが、歯科医の道を進まなければならなくなった。
 義兄は分院を設け、辰造をその責任者とした。この分院に、歯科材料商として出入りしていたのが、佐川一幸たちであった。
 折伏意欲に燃える佐川たちは、無神論者の尾山辰造に、機会あるごとに仏法の話をした。そして、最後は罰論になる。
 ″仏法というのは、厳たる生命の法則である。したがって、その仏法に反対し、法則に反して生きるならば、損をする″というのだ。
 尾山は、佐川たちから、何度もそう聞かされ、そのたびに腹を立てた。
 彼は、信心する気など、まるでなかった。
 尾山辰造は、歯科医として独立することが念願であり、そのために、せっせと貯蓄し、株なども買っていた。ある手持ち有望株が二倍の高値になった時、彼は、喜んで売りに出した。ところが、いつまでたっても金がこない。
 株の預り証を持って証券会社へ行ってみると、彼の株を担当していた外交員は、金を横領して行方をくらました後であった。友人の弁護士に依頼して証券会社と交渉したが、埒が明かない。百万を超える損害に、わずか五万円の慰謝料が涙金となって戻ってきた。
 尾山から、この結末を聞いた佐川たちは言った。
 「おや、そうでっか。先生、とうとう出ましたな」
 「何がやねん?」
 「損でっしゃろ、罰出ると言うたでしょう。信心するのが遅うなると、もっと大きいのが出まっせ」
 尾山は、″何を言うか″と心で反発しても、彼らと争う元気もなかった。しかし、″信心など、まっぴら″と思った。
 それでも、五三年(同二十八年)の四月になって、大きな借金をして、尾山歯科医院を、大阪城にも近い商業地に開業することができた。診療機械の一切は、佐川一幸が納品し、支払いに関しては、特別の好意を寄せ、何かと便宜を図った。しかし、尾山の歯科医院は、借金の重圧で、経営が思うに任せなかった。その苦衷を、彼は、言うともなく佐川に語った。
 「先生! 開業祝いに、心機一転、信心しなはれ」
 親切な佐川の義理に迫られて、尾山は、この時、入会を決意したのである。
 尾山歯科医院がある辺りは、浪花商家の密集地帯で、患者の支払いは年二回、盆と暮れという慣習があり、彼は、借金の返済に行き詰まっていた。
 しかし、勤行し、願っていくと、そのたびに不思議に道は開けていった。
 初信の功徳と知り、歓喜した彼は、毎日、診療室で患者と仏法対話をした。ところが、これが悪評を呼んで、患者はめっきり減ってしまった。こうなると、死活問題である。
 思い詰めた尾山は、春木征一郎に指導を受けた。春木は、信心と生活の混同を戒め、診療室で信心の話をすることをやめさせた。尾山は、仕事を終えてから、仏法対話に出歩くことになった。もはや広宣流布の闘士である。
 ″歯科医先生″は、当時の得がたい人材であった。五四年(同二十九年)五月には班長となり、五五年(同三干年)六月には地区部長の任命を受け、七月には教学部員となった。そして、五六年(同三十一年)には、山本伸一の指揮のもとに行われた大阪の大闘争に参加した。春木征一郎の個人演説会では、歯科医院院長として応援演説に立った。
 さらに八月、尾山辰造は船場支部長となり、「山口開拓指導」にも参加し、彼の生涯にとって記念すベき、この五七年(同三十二年)を迎えることになったのである。
7  三月下旬のある日、山本伸一のもとに、大阪に派遣される幹部らが集った。
 この時、山本伸一から、根本方針として提示されたのは、次の三つであった。いずれも、前年の闘争から得た教訓である。
  一、選挙違反は絶対にしてはならない
  一、信心指導の徹底
  一、選挙をする意義の徹底
 このうち、第一項目は、前年の全国的な参議院選挙で、多くの会員が公職選挙法に無知であったことから、戸別訪問容疑で起訴され、無用の犠牲を生んだ愚を繰り返さないためである。
 第二項目は、前年の大阪の奇跡的勝利をもたらした要因は、信心の徹底的な指導による、仏法者の社会的使命の自覚にあったことを、あらためて確認したものであった。
 第三項目は、立正安国という仏法上の深い意義のうえに選挙の支援活動があり、決して、政治的な野心などに基づくものでないことを、理解、徹底させるというものであった。
 短期決戦となるため、組織の形態としては、最高責任者・山本伸一のもとに、五人の首脳幹部が、大阪、梅田、松島、船場、堺の五支部を、それぞれ担当するという形をとった。つまり、派遣された五人の首脳幹部が、その担当した支部を、責任をもって指揮するという形態であった。
 この五人のもとに、それぞれ十人前後の派遣員がつき、各地区の担当責任者となった。
8  三月二十九日の告示を前にして、三月二十八日夜、地元と派遣の両方の幹部が集い、大阪で、初めて支援活動の打ち合わせが行われた。
 両者の顔合わせのあと、山本伸一は、今回の支援活動について、東京で発表した三大方針を、ここでも確認した。実戦の地であるので、説明は懇切を極めた。
 三大方針を理解した幹部たちは、決戦の意気も高く、各人が担当する支部ごとにグループとなり、細かい打ち合わせに入った。
 当面する第一段階の目標は、四月七日、大阪球場に大結集し、第一回関西総支部総会を成功させることにあった。
 まず、これが成功すれば、関西の会員の団結力が生まれ、それは、支援活動への活力にもなっていくからだ。
 あとは、地道に運動を進め、投票日に向かって走ればよい。
 こうして、いよいよ三月二十九日の告示を迎えたのである。
 名乗りをあげた候補者は八人であった。各党は、それぞれ有力候補を立て、たった一つの議席を争うことになった。
 補欠選挙の前例から見て、投票率が低いことが予想されたが、極端に低い時には、尾山辰造はダークホースとなるだろうと報道した新聞もあった。前年、春木征一郎が、一般の予想を裏切って、見事、第三位で当選したことから、今回の尾山を、早くもマークしていたと見てよい。
 支援活動の具体的な作戦は、各支部を担当した五人の首脳幹部が、常時、山本伸一と連携を取るなかで決定され、それが五支部それぞれの派遣員に伝達されるという、間接指導方式であった。
 これが、前年一九五六年(昭和三十一年)の時との大きな相違点である。そのために、五つのグループは、それぞれの団結はしやすかったが、全関西の団結となると、微妙なひずみが生まれていった。期間も短く、しかも、会員世帯が前年から倍増していることも、このひずみをもたらす要因となっていた。
 告示日以後、関西の活動は、四月七日の大阪球場の総支部総会の結集にかけられていた。幹部は、一斉に動きだした。
9  緒戦のある日の夕刻、府下の泉佐野市に赴いた青年部の幹部である浅田克美が、交通事故に遭った。
 彼は、担当した郊外の方面に、オート三輪の助手席に乗って出かけていたのである。衝突した車もオート三輪で、木材を山と積んでいた。彼は負傷したが、気が張っていたのであろう。タクシーを呼び止め、病院に自ら行った。
 ところが、意外にも重傷であった。腎臓破裂によって内出血がひどい。肋骨にもひびが入り、それが呼吸を困難にしていた。
 浅田克美は、青年歯科医の一人として、医師の沈着さをもっていた。しかも、青年部では、関西の中核として重責を担っている。病院で「手術をしなければならない」と言われた時に、彼は思った。
 ″今、手術をすれば、自分は、この戦いには参加できなくなってしまう。自分の使命が、これまでのものなら、それも仕方がない。もし、まだ果たすべき使命が、この自分にあるならば、どうか御本尊様、手術をしないですむようにしてください″
 彼は、心で唱題し、真剣に祈った。
 戸田城聖は、この日、折よく在阪していた。関西本部で、浅田の負傷を聞いた戸田は、一瞬、険しい表情になった。
 「なに、浅田が重傷だと……。かわいい私の弟子だ。よし、御本尊様に御祈念申し上げよう」
 彼は、御本尊に向かい、唱題し、深い、深い祈りを捧げてから、側にいた理事長の小西武雄に言った。
 「浅田は、大事な使命があるんだから、必ず助かる。小西君、これから病院へ行って、しばらく浅田に付き添ってやってくれないか」
 小西は、病院に飛んだ。駆けつけてみると、手術の準備中である。
 浅田は、苦しさと呼吸の困難さから、断末魔の表情さえ浮かべていたが、やがて、次第に苦悶の色が消えていった。体が楽になっていったのだ。
 しばらくすると、浅田は、穏やかな表情でベッドに横たわっていた。外科医が、「痛みはあるか」「苦しくはないか」と尋ねると、「痛みも、苦しさもなくなった」と言うのだ。外科医は首を傾け、「しばらく手術を見合わせよう」と言った。そして、遂に手術はそのまま中止となった。
 翌日、山本伸一は、戸田から預かった、最高幹部に授与される学会の金バッジを持って、激励に訪れた。
 浅田の入院治療は続いたが、二週間もすると、外出できるようになり、時に戦列に加わって、戦うまでになった。必死の一念が、生命力を燃え上がらせ、奇跡的なまでの回復をもたらしたのであろう。
 浅田が退院したのは、選挙が終わって十日ほどあとの、五月初めのことであった。
10  さまざまな大小の突発事故はあったが、関西総支部総会開催の報は、組織の最先端まで浸透し、七日当日、皆が喜々として集ってきた。正午近くには、五万の会員が、大阪球場に見事に結集し終わった。
 関西総支部であるので、大阪の五支部のほかに、京都、岡山、高知の三支部の支部員も多数参加した。外野席まであふれた五万の参加者は、春のうららかな光のもとで、壇上の幹部の訴えに耳を澄ましていた。そして、昨年春の、あの雨の総会を思い、感無量のうちに戸田城聖の登壇をみた。球場の空に、激しい拍手が鳴り響いた。
 戸田は、王仏冥合の根本精神――つまり、社会の繁栄と個人の幸福とは、一致しなければならぬと説いていった。
 「創価学会が、政治の問題を取り扱うことについて、疑惑がある人がいるかもしれませんから、その点について、私の確信を申し上げておきたいと思います。
 今や、世界の状態を見まするに、自由経済の資本主義の国と、計画経済をやっている社会主義の国との二つに分けられます。
 一方は、アメリカ、イギリス、フランスを中心とし、一方は、ソ連を中心とした、二つの異なる経済圏であります。その、お互いが、いつ爆発するかわからない状態になっている。あるいはまた、お互いに妥協したりしているのが、今日の世界情勢であります。
 それに加えて、今日は、インドを中心とした非同盟主義の第三世界が台頭しつつあるのであります。
 いずれの国家も、自国の民衆の利益を考えているものであると信ずるものであります」
 彼は、当時の世界の現実を、公平に達観していた。
 「私は、どれがよい、これが悪いとは言いません。ただ、ここにインドの社会党というのがありますが、社会の福祉ということを基本問題としていると思うのであります。
 たとえば、ここに失職した人がいると、六カ月間、月給の補助をくれる。あるいは食えない人間がいると、六千円出すとか言っていますが、これは非常に結構なことで、これに反対するものではありません。
 ただ、このことが、そのまま個人の幸福と一致するかどうかということが問題です。もちろん、社会は繁栄しなければならん。また、自国の民衆の繁栄だけでなくして、中国も、インドも、あらゆる国が一様に繁栄しなければならない。
 さらに、社会の繁栄のために、個人を犠牲にすることは絶対にいけない。社会が繁栄するとともに、個人の幸福も増大しなければいけない。これが王仏冥合の精神であります。
 このために、われわれは、政治の指導者を出していこうというのであります。
 当時、戸田城聖は、『大白蓮華』の巻頭言に「王仏冥合論」を連載中であった。その結論――個人の幸福と社会の繁栄が一致しなければならないという結論を、ここで披瀝したのである。
 彼の脳裏には、個人の犠牲のうえに大戦争をやった、戦時中の悲惨な姿が、焼き付いていた。戸田は、利害が相反するのが常であった、個人と社会の関係を、見事に総合して、矛盾のない世界を現出するには、日蓮大聖人の仏法による王仏冥合の実現にまつほかはないと主張し、この主張のうえに、今回の支援活動があることを訴えた。
 「このたび、大阪において、われわれの同志が参議院の補欠選挙に立った。これは、私の本意通りのことであります。簡単に私の政治論を話して、今日の講演に代える次第であります」
 五万の聴衆を前にして、戸田は、尾山辰造を政界に送り出す、使命と目的とを明らかにした。
 最後に、尾山が、学会歌の指揮を執り、午後三時、この日の総会は終わった。
 選挙戦は中盤を迎え、各政党の首脳幹部は、大阪に応援に来て街頭で演説をぶった。しかし、補欠選挙のためか、選挙の雰囲気は、なかなか盛り上がらず、低調のまま推移していった。
 そのなかで、尾山辰造候補だけは、着々と指示を集め、春木の当選のあとだけに、他の候補者の陣営から、恐れられるようになってきた。戦況は、自民、社会有利と見られていたが、終盤戦は混沌として、確かな予測は立たず、状況は激化していった。
 二十日前後になると、戸別訪問の現行犯で逮捕者が出たという報道が、地方紙にちらほら載り始めた。逮捕者の氏名のなかに、残念なことに創価学会員の名もあって、尾山陣営では頭を痛めた。
 投票日前日の二十二日、大阪の夕刊という夕刊に、何者かが、候補者の名前を箱に書いたタバコをばらまいたという記事が載った。
 「二十二日朝六時四十分どろ、大阪大正区信濃橋職安大浪橋出張所、西区同境川出張所、港区間大阪港出張所、福島区西野田職安野田出張所の四カ所にタクシーで乗りつけた男が集まっていた日雇労務者にパール、光などのタバコを一カ所で数百個もばらまいて逃走した。そのタバコの内箱の折返しに色鉛筆で某候補の姓を片カナで書いていた」
 なんとも拙劣至極な選挙違反であり、愚行として、一笑に付されて終わるのが普通だが、「某候補の姓」というのが、「尾山」であることがわかり、関西の首脳幹部は重大事として色めき立った。
 最初に、地域の学会員から、その連絡があった時、幹部の誰もが、他党の候補の陣営が、尾山辰造を陥れる目的で企んだ、悪質な謀略であると思った。学会員のなかで、このようなことを企むことは、とうてい、考えられないことであったし、だいいち、そんな費用の出どころなど、ないはずだからである。
 そのタバコの現物も届けられた。尾山の選挙事務所は、とりあえず電話で、大阪府警の選挙取締本部に、厳重な取り締まりを申し入れたのである。
 遊説中の尾山候補は、二十二日の午後、この日の朝のタバコ事件を知った.
 また、山本伸一は、夕刻近く、この事件を知った。そして、瞬間、心のなかで叫んだ。
 「まさか、そんなことが!」
 衝撃は憤激に変わり、犯人の逮捕を願った。
 夜になると、追い打ちをかけるように、尾山の名刺を貼り付けた百円札が、ばらまかれたという情報が入った。もはや処置なしの状態となってしまった。いよいよ計画的な敵の悪質な謀略が始まったと思ったが、いったい誰が仕組み、誰が実行したのか、皆目、見当もつきかねた。
 不安のなかで、二十三日の投票日を迎えた。
 この日、各紙の朝刊に、その百円札事件が大きく報じられた。
 「二十二日夜、候補者の名刺をはりつけた百円札をバラまいたものがあり、大阪府警取締本部では最も悪質な選挙違反として府下全署に違反者を買収現行犯として逮捕するよう一せい指令した。
 同夜八時半どろ、大阪城東区鴫野、生野区勝山通、大淀区長柄中通、布施市足代付近の四カ所で各戸に某候補者の名刺つき百円札を放りこんだり自転車で走りながら通行人に手渡していたものがあり、この百円札四十二枚を押収するとともに目撃者の届出から布施市内の映画館から五十才くらいの男と内妻と称する女の二人を東成署に任意向行を求め事情を聞いている」
 「また同夜九時ごろ、同府警本部に問題の候補者の選挙事務所のものからと電話があり『大阪、布施市でバラまかれた名刺つき百円札は他の候補の悪質な選挙妨害である』と申入れがあった」
 尾山陣営の当惑のなかで、投票日は幕を開けたのである。この日は、朝から降ったりやんだりの春雨で、投票率は三二パーセントにとどまり、戦後の、大阪のあらゆる選挙を通じて最低の記録となった。ことに大阪市内の投票率は低く、二六・五パーセントという予想外の低調さであった。
11  二十四日午前、いよいよ開票が始まってみると、自民、社会の候補と、尾山辰造の三つ巴となったが、しばらくすると尾山辰造は第三位から動かず、自民と社会が一位を競り合って、最後まで勝敗の行方はわからなかった。
 この日、戸田城聖は、二十一日の第一回九州総会からの帰途、大阪に降りて関西本部にいた。
 開票が始まると、三階の広間には、多くの幹部が集まって来て、ラジオの報道に耳を澄ましていた。開票の途中経過は、時折、会長室の戸田のもとに報告されていた。
 一時間、二時間とたち、三つ巴の段階から尾山が落ちて、自民と社会の候補者の争いになるにつれ、広間にいた人たちは、一人立ち、二人立ち、遂に、山本伸一や春木たち五、六人だけになってしまった。
 敗色は決定的になり、誰も、会長室に報告に行こうとはしなかった。
 重苦しい空気が流れた。誰かが報告に行かなければならない。しかし、誰も立つことはできなかった。そこへ、戸田が姿を現した。
 「どうだ?」
 誰も、とっさに答える人はなく、戸田の顔を見るのも辛かった。
 戸田は、伸一の方を見て立っていた。伸一は、きちっと端座すると口を開いた。
 「落選です。先生、申し訳ありません」
 伸一は、両手をついて、肩を震わせていた。かすかに鳴咽が漏れた。
 戸田は、伸一の側に走り寄った。
 「泣くな、伸一、泣いてはいけない」
 戸田は、伸一の肩に手をかけ、抱きかかえるようにして立ち、伸一の肩に手を回したまま、会長室に消えた。
 伸一は泣き、戸田も「泣くな」と言いながら泣き、二人は相擁して、無念の涙をのんだのである。
 しばらくして、伸一は、あらたまって戸田に願い出た。
 「先生、面目もありません。この際、私の一切の役職を、解任してください」
 「何を言うか。伸一、戦というものは、勝ったり、負けたりする。それが戦じゃないか。また戦うんだ。どこまでも戦うんだ」
 伸一は、瞬間、戸田の険しい気迫を感じた。
 そして、強く決意を固め、戸田の目を見つめながら言った。
 「先生、申し訳ありません。いつの日か、どの政党にも負けず、世間を″あっ″と言わせるような戦いを、必ずいたします。先生、どうか今晩は、ゆっくりお休みになってください」
 「それが聞きたかったのだ」
 開票の最終結果は、次の通りであった。
  第一位 自民党の候補者 二七七、九〇三票
  第二位 社会党の候補者 二七六、〇六四票
  第三位 尾山辰造    一七〇、四九七票
 一位、二位の接戦は、選挙の怖さを語っていた。尾山は、第三位であったものの、共産党などの候補者たちを寄せつけず、また、タバコ、百円札などの事件にもかかわらず、得票率からすると、昨年の春木の時よりも伸びていた。支援した創価学会の会員の団結は、さらに強固なものとなり、やがて、二年先の参議院地方区の選挙には、第三位当選を確定させるものとなった。
 山本伸一は、一年前、世間を驚かした華々しい勝利と、今回の、戦い抜いた末の無念の敗北とを、二つながら体験したのである。
 戦いは終わったが、今回も、遺憾至極なことに、会員のなかから戸別訪問の違反者を出してしまった。前年より人数は少なかったが、それでも、この時点で二十余人の逮捕者をみた。大阪郊外の守口や、四条畷などで、戸別訪問の現行犯で捕らえられ、さらに、そこから上部の幹部にまで、捜査の手が伸びていた。
 タバコ事件、百円札事件は、まだ、何者の仕業とも判明しなかったが、検察当局は、厳重な捜査網を張って、鋭意、探索を続けていた。
 あのような公然たる買収行為が、いつまでも不明のままであるはずはなかった。やがて五月中旬、犯人たちが浮かび上がった時、敵の謀略と信じていた創価学会の幹部にとって、まことに驚天動地の、夢にも思わなかった事態となった。
 それは、創価学会を揺るがす大事件へと広がり、戸田城聖や、山本伸一の心身を、ひどく悩ます結果を招くことになるのである――。
12  四月二十八日、日蓮大聖人の立宗宣言の目、千葉県安房郡・保田の妙本寺で、同寺の日蓮正宗帰一奉告法要が、午後一時から営まれた。総本山から法主の日淳が出席し、創価学会からも、戸田会長をはじめとする幹部、地元の会員約千人が参加した。
 妙本寺は、戦時中、軍部政府の政策に躍らされ、身延の日蓮宗と合同した。
 戦後、身延からの離脱を考えたものの、ひとたび合同してしまったものを、元に戻すことは容易なことではない。
 しかし、創価学会の躍進から、妙本寺の檀徒にも折伏の手は伸び、帰一の方向へと進んでいったのである。
 四月三十日は、四月度の本部幹部会の日であった。しかし、戸田城聖は、この日、欠席しなければならなかった。彼が、本部幹部会を欠席したのは、この時が、彼の生涯で初めてのことである。
 もともと病身で、結核の既往症があり、糖尿病から肝臓も侵されるといった病歴をもっていたが、彼の日常の生命力は、人びとに、それを少しも気づかせないほど旺盛であった。剛気な酒の飲みっぷりといい、瞬間瞬間の頭脳の激しい働きといい、全くの健康人としての振る舞いであった。彼は、常に、しゃべるか、思索するか、という日々を送り、休養からは程遠かった。
 その彼が、この日の午後、会長室で机から立ち上がろうとして、急にふらふらと倒れたのである。顔面は蒼白で、冷たい汗が首筋から胸へ、にじみ出ていた。そのうちに、瞬間であったが、全身に痙攣さえ走った。
 医師を呼んだが、すぐには間に合わない。側にいた秘書部長たちは、唱題を始めた。蒼白だった顔面は、徐々に血の気を取り戻し、唇も平常の色になっていった。医師が来たころには、意識は、ほとんど正常に戻っていたが、深い疲労が残り、ぐったりと横たわっていた。
 医師は、どこが悪いとも言わず、「疲労ですな」と、単純に言った。それは、わかりきったことであった。詳しい検査を勧めることもなく、応急の注射だけで、医師は帰っていった。
 戸田は、間もなく平常の状態に戻ったが、本部幹部会に出席するほどの元気はなく、この夜は、静かに横になっていた。
 本部幹部会では、戸田の病気は報告されず、「会長は都合により欠席」とだけ、伝えられた。
13  この日、発表された四月度の弘教の成果は、二万五千六百六十五世帯と、まずまずのところであったが、三十二支部のうち、地方の新支部の進出が、人びとの注意を引いた。第二位の福岡支部が二千三百五十三世帯、第三位の秋田支部が二千三百四十六世帯と、大きな躍進を遂げた。
 席上、一地区で千三百三十三世帯という全国で最高の弘教を推進した秋田支部の婦人部幹部の活動体験が語られた。そして、指導部長の清原かつ、理事長の小西武雄の指導をもって散会した。
 山本伸一は、開会の直前に、戸田の異変を聞き、既に回復したと知らされたが、彼の憂慮は深刻であった。
 三日後の五月三日には、例年行われている春季総会が、東京・両国の国際スタジアムで開催される予定になっている。戸田の体の状態が、創価学会にとって、いかに重大かを痛感していた彼は、病気平癒を心から祈った。
 幸いにして、五月一日になると、戸田は、すっかり元気になり、いつもの戸田に戻っていた。彼の強靭な生命力は、一夜の静養で、健康に重大な異変をもたらした魔を、見事にはね飛ばしていた。伸一は、ほっと安堵の息をついたが、前日、慌てた側近の幹部たちは、もはや何事もなかったかのように、戸田の回復を、当然のこととして、気にもとめなかった。また、戸田自身も、そのように振る舞ったのである。
 五月三日の総会に現れた、さっそうとした戸田城聖の姿からは、三日前の、昏倒した状態を想像することは、全く困難であった。
 正午に開会になった総会は、支部旗、部隊旗の晴れやかな入場式のあと、東北・北海道、関東・中部、西日本の、三方面の代表によって、現況報告が行われた。
 続いて財務部、統監部、教学部、青年部、婦人部と、各部の代表者から、将来にわたっての抱負がそれぞれ語られた。その後、理事室から、明年三月、大講堂完成の暁には、全国総登山を挙行したいと提案があった。清原指導部長は、組座談会の徹底による、折伏態勢の確立を訴えた。
 宗門からは、宗務総監・細井日達の祝辞に続いて、法主・日淳が講演し、今後、出来するであろう魔の陰険な妨害を排して、厳然と折伏を進めるよう期待した。
 小西理事長は、会員の一人ひとりが、会長・戸田城聖に続いて、広宣流布の立派な人材となり、真の弟子としての使命を果たすところに学会の発展があり、人類救済の偉業があると力説した。
 最後に、戸田城聖は、「時に適うということは大事なことであります」と語りかけ、折伏の根本精神を明らかにしていった。
 「時に適う信心というのは、折伏以外にない。折伏こそ、時に適う信心なんです。その折伏の根本精神が慈悲です。相手を助けていこうという心です。その心を一念に充満させて折伏するならば、相手が聞かないわけがない。
 どんなに聞かない子どもでも、母親の愛情にはかなわない。それは、母親は絶対、子どもをかわいがるからです。慈悲の心には、かなわないんです。
 この、時に適う宗教をして、その信仰に適う折伏をしながら、デタラメなことを言う者がいる。なかには腹を立てて、『お前みたいなやつは、七日で死んでしまう』なんて、とんでもないことを言う者がいたという。そういう折伏は、絶対にいけません。慈悲に満ちて、相手を″どうしても救っていこう″という心になって折伏してこそ、末法の信仰に適うんです。
 その時に、自然に折伏した人に功徳が現れてくる。しかし、『俺は十五人折伏したが、まだ、ちっとも功徳が出てとない』なんて、そんな欲張った根性ではいかん。相手を救う真心に満ちた折伏をしておれば、願わずとも自然に功徳が現れる。
 あまり長い講演をしても、みんな、もうさんざん聞き飽きているだろうから、これくらいにしておくが、今日から、その気持ちで折伏するんですよ。慈悲の行動であって、情の行動である。それを心によく思って、しっかり頼みます」
 戸田城聖は、この日、場内外の三万一千余人の聴衆を前に、折伏の要諦を語って、何を、なすべきかを教えた。
 組座談会が、地に着いて行われ、折伏も軌道に乗ってきただけに、今後、誤りなく、さらに飛躍的な前進を期すために、折伏の根本精神を確認する必要性を、痛感していたからである。
14  戸田城聖は、五月十二日には、北海道に飛んでいた。これは、四月七日の関西総支部総会、四月二十一日の九州第一回総会に続いて行われた、北海道第一回総会に出席するためであった。北海道も、小樽問答以後、大きく躍進し、このころでは、全道で二万五千世帯に達していた。函館、札幌、旭川、小樽と、四支部があり、ほかに他支部の関係では、夕張、室蘭に地区があった。
 この日、全道各地から、約二万三千人の会員が、札幌市・中島スポーツセンターに結集し、北海道第一回総会が行われたのである。
 言うまでもなく、北海道は、戸田城聖が幼少期から青春時代を過ごし、また、初代会長・牧口常三郎が青春の思い出を刻んだ地である。
 会員の多くは、入会して、まだ二年にも満たなかった。
 戸田は、その新しき同志に、親しみを込めて、「本当の個人の幸福というものは、政治の力だけでつくれるものではない。正しい信心なくしては、個人の幸福はつくれない」と語り始めた。そして、六年前に彼が指導した、東北地方の一人の壮年が、五年後には地区部長となり、功徳にあふれた生活になっていたという体験を、ユーモアを交えて紹介していった。
 「さあ! そこだ。五年目ですよ。五年でそうなったんだ。女房と喧嘩ばかりやっていた、金がなかったばかりに女房を離縁しようとまで考えていた、その男が、新調の洋服を着て、地区部長になって、総会で開会の辞までやっている。驚きましたな、これは。面白いだろう。あなたたちも、仏の種を心田に植えているんですから、五年ぐらい我慢して、ちゃんと信心しなさいよ。
 そう言うと、ガッカリしちゃって、『わぁ! 五年か、長いなぁ』、なんて言う。あるおばあさんが、『私は、あと何年、信心したらよいでしょう』と聞くから、『七年ぐらいやりなさい』と言うと、『そんなに待てません』と言う。今、聞いて、これから五年かなんてガッカリしないで、幸福の種は植わったんだから、これから三年、五年と、私が札幌に来るごとに、『先生、こんなに幸せになりました』と言ってきてほしい。
 私は、心から真面目に折伏して、真面目に信心したら、五年もかからないと思う。三年も五年も信心して、『先生、まだ病気が治らない』と言ってくる人がいる。そんな人は、ちゃんと信心していない人だ。御本尊様をしっかり拝んで信心していれば、三年、五年とたてば、誰でも幸せにならないわけはない。
 今日は、このことを教えて、私の講演を終わりたいと思います」
 五月の札幌は、一年中で最もさわやかな季節である。北海道の同志も、吹雪の厳冬をいつか越え、それぞれ、蘇生の春の空気を胸いっぱいに吸って、さっそうたる遅しさで、前進の態勢をつくりつつあった。
 この直後、風雲をはらんだ嵐が吹きつけてきたのであったが、それによく耐えるだけの力をも、既に備えていたのである。
15  五月十七日夕刻、羽田空港で、一人の青年が、大勢の人びとに囲まれていた。青年部の留学生第一号として渡米することになった青年であった。
 それから四カ月ほど遅れて、九月上旬、一人の学生部員が、留学生第二号として、ビルマ(現・ミャンマー)のラングーン大学(現・ヤンゴン大学)へ旅立っていった。
 この年、六月三十日の学生部結成大会を前後して、東と西へ、二人の留学生が巣立っていったことになる。
 創価学会は、よい意味でも、悪い意味でも、社会の注目を集めるようになったが、このころからは、単なる世間の評判や噂で終わるわけにはいかなくなっていた。選挙をやれば政敵ができ、錯雑した社会的問題が、学会にかかわってくる。宗教の世界だけにとどまっている間は、波瀾があっても、他宗との軋轢ぐらいですんだが、創価学会の急激な躍進によって、いやでも社会的な重みが増してきていたのである。
 このころ、社会的に大きな影響力をもっていた日本炭鉱労働組合(炭労)が、創価学会を敵視し始めて、その対抗策を組合の大会に上程したのである。
 五月中旬、東京・芝の中労委会館で、炭労の第十七回定期大会が、一週間にわたって開催されていた。その五月十九日、本年度行動方針のなかに、「新興宗教団体への対策」の一項目を加え、大会での決議とした。
 この報道は、さっそく新聞紙上に載った。新興宗教団体といっても、これは、創価学会への対策であることは明らかであった。
 学会の全国的進出が盛んになってから、九州や北海道の炭鉱地帯での、学会員の増加が著しくなってきていた。ことに北海道・夕張地方では、文京支部の地区があり、既に二千数百世帯を超え、活発な活動をしていた。
 この夕張地方で、創価学会の活躍が初めて注目されたのは、一年前の七月の参議院議員選挙の折である。創価学会が推薦した候補者の関久男は、この谷間の炭鉱街にも遊説に来た。学会員たちは気勢をあげ、強力な支援活動を行い、関久男は二千五百余票を獲得した。
 炭労側は、関久男の票は、せいぜい七百票と踏んでいたから、炭労が推した立候補者の票が、大きく食い込まれたことに驚いたのであろう。夕張の炭労は、組合員のなかの創価学会員に対して、数々の嫌がらせを始めた。そして、秋には北海道大学の講師まで招いて、「新興宗教と労働運動」などという講座を開いたり、調査に名を借り、有形無形の圧迫を加えるようになった。
 この夕張の敵対状態が、中央の機関に報告され、炭労大会の行動方針のなかに、「階級的団結を破壊するあらゆる宗教運動には、組織をあげて断固対決して闘う」という一項目を加えるにいたったのである。
 一歩深く考えてみれば、奇怪なことであった。
 労働団体が宗教団体に圧力をかけて干渉するということは、信仰の自由を妨げることになり、憲法に保障された人権の侵害となる。
 労働組合の活動の基本は、労働者の生活権の確立であり、まず経済闘争にある。そこに政治的な活動も加わることがあるにせよ、宗教活動の規制にまでエスカレートすることは、労働組合本来の活動からの逸脱といえよう。これは、誰が考えても、すぐにわかることであったが、創価学会への憎悪からか、夕張の炭労は、冷静さを全く欠いていた。
 当時、石炭産業は、経済復興の波に乗り、社会的に大きな影響力をもっていたが、炭労は、その華々しい石炭産業を左右する、絶大な力をもっていた。戦後の労働団体のなかでも、炭労は肩で風を切るかのような勢いであり、泣く子も黙る花形団体といわれていた。その炭労の巨大な圧力が、創価学会にのしかかってきたのである。
 しかし、戸田城聖は、あくまで冷静であった。このころ、炭労の問題で、彼に質問するジャーナリストたちに、労働組合と宗教団体が対立するというのは、そもそもおかしなことだと、彼は言明していった。
 「炭鉱の人たちが、自分たちの生活や職業を守るために立ち上がるというのなら、その闘争に、私自身も旗を持って応援しますよ。そうじゃなくて、うちを排斥しようとする。見当違いではないですか。目的も使命も違い、それぞれの拠って立っところも違うのだから、互いに干渉しなければならないことなどは、ないはずです」
 「しかし、組合の大会で、活動方針として戦うことを決議したとなると、これは、もう対決ですね」
 「気勢をあげているらしいが、こちらには、何も言って来ません。売られた喧嘩は買わなきゃならんが、私としては、そんなことはしたくない。対立するというのが、そもそも、おかしなことです。炭労のなかには、うちの会員も多い。だから、かわいがってもらいたいのだが、いじめられたんでは困りますよ。
 組合の指導者が、組合員の信仰まで左右しようとするのは、誰が考えてもおかしい。人権問題です。組合の指導者が、早くこの点に気がついてほしいと思いますがね」
16  炭労の問題が、社会の表面に浮上し始めてから数日後に、今度は、大阪の新聞各紙に、またまた創価学会に関する衝撃的な記事が載り、そのことを知った全国の会員は、愕然とした。
 五月二十二日の大阪方面の夕刊の記事である。
 ――大阪府警は、四月の参議院大阪地方区補欠選挙で、投票日の前日、創価学会が推薦していた候補・尾山辰造の氏名を書き込んだタバコや、名刺を貼り付けた百円札が、何者かによってばらまかれた事件を調べていたが、容疑者として学会員四人を逮捕、一人を任意出頭で取り調べ、逃走中の一人を追及中――というのである。
 そして、逃走中の学会地区部長・大村昌人と、既に逮捕されている一人が、四月十八日に飛行機で大阪に乗り込み、汽車で来た会員三十人と作戦を練り、タバコと百円札を、投票日の前日朝、府下十カ所の職業安定所前でばらまき、さらに夕刻には、北大阪などで軒並みに百円札をばらまき、同夜、東京に引き揚げた――と報じていた。
 また「百円札の数は確認されていないが、約百万円といわれている」とも書かれていた。
 この事件を、対立候補の悪質な謀略と、すっかり思い込んでいた関西の学会員が、驚愕のあまり、口もきけなかったのも無理はない。まして、東京の地区部長が、首謀者の一人であったというのである。
 この報道は、直ちに東京の学会本部にもたらされた。
 戸田城聖をはじめ、首脳幹部の苦慮は深かった。
 「公明選挙をモットーとし、一切の違反をするな」と、厳命して行った、このたびの選挙戦である。このような見えすいた、利敵行為にもなりかねない犯罪が、どうして行われたのか、理解に苦しむところであった。一部の跳ね上がった会員の、軽率極まる即断行為なのか、あるいは、創価学会を陥れる策謀に踊らされたものなのか、不可解このうえなかった。
 学会も、さっそく独自に調査を開始した。そして、事実を明らかにし、学会として断固たる処分に踏み切ろうとしていた。
 しかし、創価学会始まって以来の、まことに恥ずべき不名誉な事件であることは言うまでもない。有能にして高潔な人材を、政界に送り出そうとした選挙に、この愚劣な犯罪行為が、すっかり泥を塗りたくってしまったといってよい。
 戸田は、この事件を契機に、検察当局の、創価学会に対する偏見が高じて、冤罪を被ることを心配した。彼が、戦時中、獄中にあって取り調べられた経験から、それを最も恐れていたのである。
 この彼の危慎は、残念ながら、単なる危慎には終わらなかった。
 この年の五月中旬から下旬にかけて、寝耳に水のような事件が、二つまでも重なったのである。大波、小波が押し寄せてきて、そのはるか向こうに、牙をむく怒濤が見え隠れしていた。
 戸田城聖の健康は、四月三十日の発作以来、徐々に回復に向かってはいたが、ここにきて、心身の疲労は、いたく彼の体をさいなみ始めていた。
 しかし、一瞬の休止もなく、どんな怒濤にも対処しなければならなかった。時には波を避け、時には波を砕き、しぶきを上げながら、なおかつ進まなければならない。さもなければ、船は転覆するからである。
 戸田は、舵を固く握って、荒天の海で、波高と戦う捨て身の構えをしなければならなかった。
 彼の晩年における最後の闘争が、始まりかけていたのである。

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