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日蓮大聖人・池田大作

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転機  

小説「人間革命」11-12巻 (池田大作全集第149巻)

前後
1  妙法という法則は、永遠であり、不滅である。その法を信受し、流布する創価学会もまた、永遠であり、不滅である。
 烈風をも恐れず、豪雨にもたじろがず、吹雪に胸張り、われらは敢然と進む。尊き仏子の使命を果たしゆくために、民衆の凱歌のために――。
2  一九五六年(昭和三十一年)九月五日は、残暑の厳しいさなかにあった。東京・信濃町の、創価学会本部の窓という窓は、開け放たれていた。午後には、気温は三十一度を超え、蒸し蒸しとした昼下がりであった。
 戸田城聖は、二階の隅にある会長室の窓を背にして、扇子を激しく動かしながら、クレープシャツ一枚の磊落な姿で、思いをめぐらしていた。
 机の上には、一枚の日本地図が置かれていた。各県ごとに、数字が書き込まれている。戸田は、朝から、県別の会員世帯数を見ながら、彼の誓願である七十五万世帯の折伏を成就し、日本の広宣流布の基盤を築くために、何をなすべきかを、真剣に考えていた。長い思索の末に、考えは、ほぼ、まとまりはしたが、学会を取り巻く諸情勢を考えると、今、得体の知れない黒い影が、彼の背後に迫りつつあることを、ひしひしと感じざるを得なかった。
 その影というのは、この五六年(同三十一年)七月の参議院議員選挙で、戸別訪問容疑で検挙された学会員に対する追及が、執拗を極めていることであった。単なる形式犯として処理されるべき事件を糸口にして、創価学会そのものを、全国的な規模で内偵し始めたという情報が、各所から集まってきていたのである。
 その影は、彼の心につきまとい、日がたつにつれて、薄れるどころか、ますます濃くなっていくのである。
 ″この裏に、いったい何が潜んでいるのだろうか……″
 戸田は、いつの間にか、広宣流布の舞台に、容易ならざる影が忍び寄って来たことを直感していた。
 国家権力のどこかの一角が、全国に指示を与えているにちがいないと察しはついたが、それを操れる者は誰なのか、なんの目的があって操るのかは、測りかねた。
 ″学会が、社会のなかで力をもち、その影響力が大きくなればなるほど、その前進を阻もうとする、さまざまな画策がなされることは、御書に照らしてやむを得ぬことといえよう。それらが、広宣流布をとどめようとする、魔の働きであることは間違いない。ともかく、これと対峠して戦うためには、戦うべき十分な態勢の樹立を、急がねばならないことは確かだ″
 そのために、戸田は、創価学会の組織を、隅々にいたるまで堅塁にしなければならないと考え、多くの幹部が戸惑った組座談会をあえて提唱し、強力に実践に踏み切ったばかりであった。しかし、″これだけでよいのか″という反省が、彼を、なお悩まし続けていたのである。
 考えてみると、彼が、今、予感したことは、既に、あの七月九日の丑の刻――すなわち参議院議員選挙の東京・大阪、二つの地方区の開票が始まる日の未明、孤独のなかで思いがけず覚えた感慨のなかに、兆していたのである。
 戸田は、その思いを歌に託し、こう詠んだ。
  いやまして
    険しき山に
      かかりけり
    広布の旅に
      心してゆけ
 それが二カ月たって、いよいよ抜きがたい現実となってきた。
 「広布の旅に心してゆけ」と警告したことに、まず、彼自身が、真っ先に心しなければならないことに気づいた。
 そのために、彼は、煩わしい雑事から、今後、一切身を引き、いよいよ広布の道ただ一筋に、限られた時間を走らねばならないと思った。
 捜査当局は、個々の戸別訪問容疑に対し、創価学会の組織や、幹部の動静を、執拗に詰問し、その総合データを作成しつつあることだけは、判然としている。やがて、秋の深まるにつれて、当局のこの追及も激しくなり、学会上層部へと、的を絞ってくるであろうことが予測された。
 ――この時の戸田の憂慮は、この五六年(同三十一年)十二月十九日に、日本の国連加盟に際しての恩赦が、突如、発令され、ひとまず霧散したかに思えた。
 しかし、問題は、それほど単純なものではなかった。翌五七年(同三十二年)に至って、四月の参議院大阪地方区補欠選挙を契機として、創価学会に迫った不気味な暗雲は、再び広がり、彼のこの時の予感は、まさに的中するにいたるのである。
 戸田城聖は、今、心して難しい操縦桿を握り、一切の煩わしさを捨てて、一心に針路を探していた。
 この時、扉が叩かれた。入って来たのは、山本伸一である。開襟シャツの白さが新鮮であった。
 伸一は、喜色を浮かべて、机の前に端座し、あいさつをしてから報告を始めた。報告というのは、戸田が顧問をしていた大東商工の決算概況であった。数字は、すべて著しい好転を示している。伸一は、この大東商工の営業部長であった。
 戸田は、伸一の報告を聞くと、意を決したように言った。
 「もう心配ないな。やっと独り歩きできることになったか。後は、一切、皆に任せる。みんなで、しっかりやっていきなさい」
 瞬間、伸一は、戸田の唐突な話に驚きの色を隠せなかった。長いこと苦労してきた会社の基盤が盤石となり、業績が飛躍した途端、戸田は身を引くというのである。しかし、何か意味があることを、伸一は察知した。
 「はい、わかりました。よく伝えます」
 そもそも、大東商工は、五〇年(同二十五年)の晩秋のころ、戸田の出版事業、そして信用組合の経営が窮地に陥ったことから、新たな活路を開くために設立したものである。
 戸田が、一身に負わなければならなかった、あの莫大な負債の整理のために、必要に迫られてつくられただけに、最初から苦しい経営を強いられていた。
 しかし、世間の幾倍もの努力の甲斐があって、ここわずか五年の間に、その負債を、ほとんど返済し終わったところであった。経営常識からすれば、考えられぬことであった。いよいよ、会社の今後の業績が期待されるまでになってきたところである。
 それを、今、戸田は身を引くという。天性の事業家・戸田城聖は、いったい何を考え始めたのか、伸一は戸惑った。
 「この機会に、私は大東商工に限らず、一切の営利事業から引退しようと思う。そういつまでも、みんなと付き合ってもおれないからな。そういう潮時が、ぼくの人生にも訪れたようだ。私には、広宣流布のために、未来のために、まだまだ、なすべきことが山ほどある。潮時を見失ってはならないだろう。まだ、誰にも言っていないが、これは、私のどうしょうもない決意だ」
 しみじみとした、戸田の述懐である。
 伸一は、戸田の決意の容易ならざることを、すぐさま悟らざるを得なかった。彼は、無言のまま、戸田の顔を、じっと見るよりほかはなかった。
 戸田は、優しい口調で語った。
 「君たちは、まだ若い。若いうちに、さまざまな苦労を買ってでもやっておくことだ。それがいつか、必ず生きる時が来るものだ。苦労しない男に、いったい何ができるか。なんでもやっておくことだよ。
 しかし、ぼくぐらいの年齢になると、自分の人生が、いやでも見えてくる。ぜひとも果たさねばならないことが、はっきりと見えてくるものだよ。時間が、もはや限られていることも、いやになるほど見えてしまう。
 それで、限られた時間に、果たすべきことを、果たさねばならぬということになったら、どうしても、自分の仕事を選択し、整理しなければならないことになる。果たすべきことが、重大であればあるほど、気ままな選択は許されなくなってくる。
 広宣流布に、わが身の一切を捧げた私だ。その道は、万年の先を志向しているが、今、やっと第一歩を踏み出したばかりにすぎない。そして、私には、あまり時間がない。確固とした軌道は、誰がなんといっても、この、ぼくしか、敷くことはできないだろう。
 そう考えると、私は、自分の限られた時間の一日一日を、大切にしなければならなくなった。そこで、どうでもよいこと、誰でも間に合うことからは、この際、一切、身を引こうと決心したんだよ」
 「先生、お話は、よくわかりました。先生の、これからの広宣流布の総仕上げのために、お体を大切にしていただきながら、自由にご活躍をお願いします」
 伸一は、これだけのことを言うのが、精いっぱいであった。
 「困ることが起きたら、指導はいつでもしよう。しかし、私が経営の指揮を執ることは、これからはやらない。これからの私の仕事には、そんな暇が許されなくなったんだよ」
 これからの仕事、それは、いったい何だろうと、伸一は、いぶかった。創価学会の発展を仕事というなら、戸田は出獄以来、今日まで、それこそ不惜身命の活動を続けてきたし、これからも、この仕事は変わらず続けられていくはずである。
 不審げな伸一を前にして、戸田は、しばらく考えているようであったが、ぽつりと言った。
 「転機だな。人の一生には、幾たびも転機があるように、創価学会にも転機がある。この転機を正確にとらえるかどうかに、未来の一切がかかることになる。時機を逸すると、未来をもつぶしてしまうことになりかねない。今、その転機が来たようだ。ぼくの人生にも、学会にも」
 戸田城聖は、こう言うと、汗を拭き拭き、しきりに麦茶を飲んだ。
 そして、机の上の日本地図に視線を落とした。地図に、各県ごとに書かれた数字は、八月末の会員世帯であった。
 「これをご覧。広宣流布の伸展も、地方によって、大変なバラツキが、いつかできてしまった。このまま構わず前進するとしたら、今、世帯数の多い地方は、ますます膨張し、世帯のほんのわずかな地方は、いつまでたっても弱体のままだろう。放っておけば、このアンバランスは、ますます広がるばかりだ。
 どうも、今のうちに、至急、手を打つ必要がある。やがて来るであろう総進軍の時代に備えて、今のうちに、このアンバランスを、修正しなければならんと思うが、どうだろう。まず、これをご覧」
 戸田は、伸一に話をもちかけるように言って、あちこちの弱体の県を指さした。中国や九州にある弱体の県は、一、二にとどまらない。
 戸田の指は、山口県でとまった。伸一は数字を読んだ。
 「四百三十世帯。こんなものだったんですか。これはひどい。山口県の人口をちょっと調べてみましよう」
 伸一は、会長室を出ていった。会員世帯は、東京都は十万を優に超え、関西も六万を超え、長野県では七千世帯に迫っている。山口県がこのままでは、中国方面の広宣流布は、大きく遅れをとってしまうことになりかねない。
 「先生、山口県の人口は約百六十万です」
 伸一は、部屋に戻って報告しながら、統監部から借りてきた書類をめくった。
 「山口県の世帯数四百三十の内訳を見ますと、だいたい二十八支部に所属しております。いちばん固まっているのは、下関市ですが、これも各支部に所属しているので、おそらく指導の手は届いていないと思われます」
 わずかな時間に、伸一は、素早くこれだけのことを調べあげていた。要するに、全県下に四百三十世帯が散在していて、各世帯は、ほとんど所属支部からの連絡もなく、それぞれ孤立しており、互いに会員であることすら知らないでいるらしい。
 戸田は、伸一の報告に応じながら、すぐさま一つの腹案を語った。
 「これまでは、地方については自然に任せて、夏季指導などで刺激を与え、後から組織をつくってきた。しかし、もう学会もこれまでになると、未開拓の弱体地方は、学会の組織を動員して育成するということも、考えなければならぬ時代に入ったようだ。これも転機だよ。
 伸一君、君も、この転機の先駆けとして、ひとつ山口県で、指導・折伏の旋風を起こしてみないか」
 「はい、やらせていただきます。まず全国の支部のなかで、山口県に縁故のある人たちに応援してもらいましょう。さっそく企画いたします」
 戸田と伸一との会話からは、たちまち、このように何ものかが生まれるのである。
 「やるからには、思い切ってやってもらいたい。理事室には、私から話しておこう。なにしろ山口県は、明治維新の揺籃の地だよ。広宣流布の人材も、今は、まだ影をひそめているにちがいない。
 では、決定としよう。企画は、じっくり立てなさい。今月いっぱいかけて、準備は万全を期して、来月出陣となればよいだろう」
 戸田は、ごろりと横になって、汗の流れる伸一の横顔を見つめていた。
 後に、「山口闘争」「山口開拓指導」として語り伝えられることになる大いなる戦いも、こうして、あっという間に二人の間で決定をみたのであった。
3  九月は、新設の十六支部の結成大会が、全国で、それぞれ開催された。戸田も、二十日の大宮支部など、能う限り結成式に臨んで、激励を惜しまなかった。二十六、二十七日には、大阪の四支部の結成大会に出席した。
 慌ただしい流れのなかで、二十三日には、青年部の総力をあげて、第三団体育大会「若人の祭典」が、武蔵野の一角、東京・世田谷区にある日大グラウンドを借りて、挙行された。
 秋空のもと、午前九時に入場行進が始まり、競走は、百メートルから一万メートルまで、各種目に分かれていた。また、「学会魂」と銘打たれた棒倒し、グラウンドいっぱいに華咲く女子のリズムダンス、秀逸な仮装行列から、コース上に障害物を置いた「三障四魔」競走など、盛りだくさんの種目が、工夫を凝らされていた。
 戸田は、開襟シャツの軽装で、時に双眼鏡に目を当てたり、大変な上機嫌で微笑をたたえ、愛すべき男女青年部の、はつらったる生命の躍動に、終始、目を輝かせていた。
 優勝した男子第十部隊と女子第四部隊に、優勝旗と優勝カップが、それぞれ授与され、個人競技の優者には、会長賞、理事長賞、青年部長賞などが贈られた。
 戸田は、閉会に先立ち、嬉しそうな顔で語り始めた。
 「本日は、学会魂を思うまま発揮できて、満足であったと思います。私は、この躍動する諸君のなかに、次の時代を背負う青年の姿を、ありありと見たことを満足に思っています。ここにおいて、皆さんの将来の成功を、祝福するものであります」
 時に午後四時二十分、祭典は七時間の長きにわたっていた。青年たちは、一日で、すっかり日焼けした顔に微笑を浮かべ、充実した爽快な疲労を覚えながら家路をたどった。
4  一九五六年(昭和三十一年)九月十八日、初代会長・牧口常三郎のクマ夫人が他界した。七十九歳の高齢で、九日ごろから体調の異変がみられ、東京・大田区大森の娘婿の家で床に就いていたが、十八日午後一時二十分、眠るがごとく息を引き取ったのである。
 駆けつけた戸田城聖をはじめ、多くの門下生、親族が集い、同家で通夜が営まれた。翌二十日午前九時からは、告別式が行われ、十一時出棺となった。
 また、二十九日には、学会葬が池袋の常在寺で挙行された。牧口の波瀾の人生を共に歩み、絶大な内助の功を尽くした夫人を追悼する、謝恩の告別式であった。葬儀委員長には、戸田城聖自らが就いた。彼の敬慕の念は、ひとしおであった。
 クマ夫人の逝去の十八日は、牧口の命日であった。
 夫人は、十八歳で牧口に嫁ぎ、剛毅一徹にして謹厳実直な夫を、五十年近くにわたって支えきった。四四年(同十九年)十一月十八日、牧口は、法華経のゆえに、獄中で壮絶な死を迎えた。その遺体は、親戚のところで働いていた一青年に背負われて、獄門を後にした。老境の夫人は、夫の亡骸を、自宅に寂しく迎えねばならなかった。当時、戦争は末期に入り、一台の車も、早急には自由にならなかったからである。
 多くの弟子たちは、戦線にあったり、疎開したりしていた。また、世間を憚る者も多く、葬儀に参列した人は、指折り数えるほどであった。
 以来十二年、思給生活者の夫人は、御本尊に守られながら、よく戦後の激動と窮乏に耐え、孫の成育を楽しみに暮らしてきた。また、戦後の創価学会の再建と興隆を、何よりの喜びとしてきた。年々の本部総会には、必ず元気な姿を見せる夫人であった。
 夫人は、何事にも控え目で、牧口の陰にあって、若い弟子たちを、こよなく慈しんだ。戦時中の弾圧によって、牧口が拘置所につながれていた時、一家を気遣い、留守宅を訪れる弟子たちに対し、いつも、こう言って優しく諭すのが常であった。
 「あなた方に、迷惑のかかることになってはいけませんから、もう、おいでにならないでください。ありがたいお心は、よくわかっております」
 留守宅といえども、特高警察の監視の目は光り、来訪者も、にらまれかねなかったからである。
 二十九日の学会葬による謝恩の告別式は、午後二時から四時まで、盛大に営まれた。この日は、特に、牧口と縁の深かった、総本山第六十五世日淳が大石寺から参列し、勤行の導師を務めた。
 折から小雨のばらつくなか、三千余の会員が早くから詰めかけ、式は始まった。読経・唱題のうちに焼香が続き、弔辞に移った。故人にゆかりのある人びとが遺徳を偲び、それぞれ、報恩感謝のまことを込めた、追悼の言葉を述べた。
 最後に、戸田城聖が立った。戸田は、両手の拳を固く握り締めていた。
 「戸田城聖、謹んで申し上げます。あなたに私が初めてお目にかかりましたのは、今から三十七年前であります。それ以来、牧口先生を親とも、師匠とも頼み、あなたをば姉とも、友だちともという仲においての三十七年。顧みますれば、昭和十九年(一九四四年)に先生が亡くなられました時の、あの時の様子を、私が牢から帰って承りまして、実に人生の、人の心の頼みがたいことに泣きました。
 願わくは、私の力の限り、また、あなたの命のある時代に、おいて、先生の真心を、人生に対する慈愛を、この世に残したいと念願いたしました。
 その時の先生の葬儀は、わずか六人か七人の見送りであったと聞いておりますが、本日、あなたをお見送りする創価学会は、少なくとも、私の人生をかけた一つの記録であります。
 願わくは、あなたが先生にお目にかかる儀ありや、なしや、死後の生命については知りませんが、もし、お目にかかる時がありましたならば、城聖、このたび先生の跡を継いで闘争していると、申し上げていただきたいと思います。
 これをもって、私の弔辞に代えます」
 戸田は、クマ夫人に別れの言葉を述べながら、彼と、恩師・牧口常三郎を語ることのできる最高の人を、今、失ったことに気づいた。惜別の情は、彼の目を涙で満たした。
 時は、このように流れ、牧口の生前を知る人は、年々、少なくなっても、創価学会の存在する限り、人類は永遠に牧口常三郎を忘れ去ることはないであろうと、彼はふと考えた。
 そして、牧口常三郎という一偉人の実像は、未来にこそ、正しく理解され、やがて、栄光につつまれて輝く時代が来ることを、戸田は信じた。
 時は過ぎ、時代は、次の時代に移る。懐かしく親しい牧口夫人の死も、自分にとって一つの転機であるかもしれぬと、戸田は思った。
 告別式は、再び読経・唱題に移り、その後、遺族代表のあいさつ、葬儀委員長・戸田城聖のあいさつがあって、すべては滞りなく午後四時に終わった。
5  この九月二十九日は、九月度の本部幹部会が、常在寺近くの豊島公会堂で、夕刻、開催の予定になっていた。それで、地方から上京した幹部は、葬儀に参列した足で、三々五々、公会堂に向かう人が多かった。
 午後六時ごろになると、公会堂は、全国の地区幹事以上の幹部で埋まった。まず、幹部の代表が、大講堂建立の募金を、向こう一カ年間にわたって行うことについて、供養の心構えを語った。
 さらに、財務部長は、近く本部財務部員の応募の機会のあることを発表した。
 九月度の本尊流布の成果は、一万千四百八十九世帯と、極めて低調であった。これが組座談会の開始から一カ月の成果ということになると、いささか問題である。
 戸田の提唱に、幹部たちが戸惑っていたせいか、全組織の隅々にまで定着せず、さまざまな試行錯誤があり、混乱していたのである。実施にあたって予想しなかった、さまざまな問題が起きていることは明らかであった。
 そこで、清原指導部長が演壇に立ち、当面する組座談会の問題についての質疑応答に入った。一斉にあがった多くの手のなかで、指名された、ある地区部長は言った。
 「組座談会に行ったところ、折伏意欲が全然ありません。座談会には、たった一人しか来ていなくて、その一人とよく話し合ってきましたが……。やはり、班座談会や地区座談会なら、まだまだ折伏ができます。このまま組座談会を続けていくとすると、折伏の成果は、いつになったら出るか心配です。どうしたらいいでしょう」
 場内の人は、耳をそばだてている。
 清原かつは答えた。
 「座談会に出て、期待が外れたからといって、あなたの期待が正しいとはいえません。現状が、そのような悲しむべき座談会であるということに気がついたなら、そこから一歩を踏み出すべきで、今後、それをどう伸ばすかが問題です。あなたを迎えた同志が、一人でもいたことを喜ぶべきで、大いに励まい合って帰ってくればいいんです。
 そして、次の座談会へと、一段一段、向上していけばいいんです。性急に焦ることはありません。辛抱強く戦うよりほかはありません。広宣流布にかけた、あなたの情熱は、やがて組座談会にも、華を咲かせるにちがいありません」
 そのほかの質疑も、以前の、大きな景気のよい会合の夢を、捨てきれずにいることから起きていた。そして、人びとは、なんとかいい方法はないかと、思案に暮れていることもわかった。
 しかし、組座談会がもたらした好結果もあったのである。今までの座談会の会場は、家から遠く、家族全員の参加は容易なことではなかったが、これが容易になったというのだ。また、少人数なので、納得のいくまで話し合うことができ、家族のなかで反対していた人も、自然に入会するという傾向が、あちこちに出ていた。
 要するに、組座談会の問題は、まだまだ暗中模索といってよかった。戸田城聖は、これらの質疑応答を聞いていて、問題は、幹部の根本姿勢にあると思った。
 一九四七、八年(昭和二十二、三年)ごろ、彼が、ささやかな座談会で、いかにして信心の揺るぎない確信と地涌の使命を、一人、また、一人と打ち込んできたかを、今の幹部は知らなかった。それで方法にばかりとらわれている。
 また、大講堂の建設にしても、供養の根本精神が欠けていて、募金に目の色を変えているようであっては、なんのための供養かわからない。これもまた、注意を喚起する必要がある。基本の精神というものは、いつの時代にあっても忘れてはならない。
 最後に戸田は、決意のほどを厳しく面に漂わせて、演壇に立った。
 「今、財務部長から財務のお願いがありましたが、もらう方ばかり一生懸命で、どこに使っているかと思われたら困りますから、出費の概要だけを申し上げます。
 現在、やっている仕事は、総本山にある百貫坊と蓮東坊、この二つの坊の大改築で、千十八万五千円を費やすことになります。ご了承ください。しかし、まだ建たないんですよ。それに旭川に寺が一カ寺、大阪に寺が一カ寺、約千六百万円かかりますから、金が足りないんです。でも、財務の方に金がなくとも、ないなどと愚痴は申しません。この洋服を売ってでも、断じて、やってみせるつもりです。ご後援いただいた金は、こういうように使っているんですから、ご了承いただきたい」
 戸田は、ここでひと息ついて、場内の人びとを見渡した。まだ、組座談会の話が残っている。彼は、ズボンのポケットから懐中時計を取り出して、ちらっと見た。予定の時間をいくらか過ぎている。仕方がない、今夜は、話が長くなってしまうが、この際、組座談会の問題は、徹底して話さなければならぬと思い返して、緊迫した表情になった。
 「今、質問を聞きましたが、まだ方法論のうちに入っている。私は、ここに集っている方たちは、皆、地区部長級であると理解している。皆さんの、学会における位置というものは、私の任命の範囲にある。班長の任命権は、支部長にある。組長の任命権は、地区部長にあることは、もちろん承知だと思う。
 今、組単位の座談会をやっているが、組単位だから、班長は、そこへ行って座っていればよいという班長がいたそうだ。なんと情けない班長を、支部長は任命したものかと思う。少なくとも、私の任命した地区部長には、そういう人はいないはずです。
 私は、組単位の座談会とは言ったが、組長単位の座談会とは、断じて言っていない。そこへ地区部長が臨もうと、支部長が行こうが、座談会に臨んだ人が、すぐ中心となって諄々と道を説き、法を説くべきであります。
 組長の任命は、地区部長に任せてある。その組長が、満足に座談会の運営もできないとなると、任命した地区部長の責任は大きい。
 さっきの質疑応答で、『私のつくった組長、組が動かない』なんて、地区部長たる者が、よく恥ずかしくもなく言えるものだと私は思うが、諸君はどうですか。自分の任命した組長です。なぜ、そこに自分の信心を振り返ってみる心持ちが起こらんのだろうと、私は思う。
 ″御本尊はありがたい。御本尊以外に人生を救うものはない。自分もこれによって救われたんだから、人も救っていかなければならん″という確信があれば、何も問題はないでしょう」
 場内は、しんと静まり返っていた。会場は、埋め尽くされていたが、咳ひとつする人もない。地区部長たちは、それぞれの信心を反省しながら、戸田の次の言葉を待った。
 「自分の信心、本当の信心を組長に訴え、組長に教えていく以外に、どこに方法があるでしょうか。″こうやったら組長が動くだろう、こうやったら組員が動くだろう″などという作意は必要ありません。どこまでも信心が根本です。
 ″自分は、こうして信心して、こうして幸福になったから、その信心を教える。聞かなけりゃしょうがない。どこまで憎まれても、恨まれでも、これを教えるんだというのが創価学会の魂であり、精神なんです。
 方法も何もあるもんですか。まことの信心、本当に自分が受持した御本尊様に感謝し、これを訴える以外に、方法はありません。それをやるんです。そして、自分がつくった組長だという責任感をもちなさい。そうすれば、あとは何も説く必要はない。そう思いませんか。この心をもって、組長を指導していくことを、諸君らに頼みます。よろしく」
 ともかく、ここまで育った多くの幹部の一人ひとりが、四七、八年(同二十二、三年)ごろの戸田城聖のように、一切の責任を背負って、一つ一つの座談会を広宣流布の戦場として心得、草創の開拓の精神に燃え立てばよかったのである。すべては責任感と自覚の問題でもあった。
6  いよいよ十月に入った。山本伸一の、山口県を対象とした指導・折伏の計画は、各支部から、山口県にかかわりのある会員をリストアップして、綿密に練られていた。この派遣闘争の日程を、伸一は、十月は二週間とした。
 統監部の書類から、山口県下の会員の所属支部を都市別に見ると、次のようになっていた。
 〔岩国市〕 仙台、鶴見、築地、向島、文京、大阪、八女の七支部
 〔柳井市〕 大阪、築地の二支部
 〔光 市〕 中野、杉並、築地、梅田の四支部
 〔下松市〕 梅田、築地の二支部
 〔徳山市〕 鶴見、梅田、船場、岡山の四支部
 〔防府市〕 福岡、足立、文京、松島、仙台の五支部
 〔山口市〕 文京、足立、蒲田、向島、大宮、梅田、浜松の七支部
 〔宇部市〕 蒲田、鶴見、文京、志木、松島、福岡、高知、仙台、船場の十支部
 〔小野田市〕 岡山の一支部 
 〔萩 市〕 蒲田、堺、本郷の四支部
 〔下関市〕 小岩、文京、京都、名古屋、船場、岡山、八女、福岡の八支部
 各支部の折伏によって、各地域に生まれた学会員たちである。これらの都市のなかで、最も会員世帯数の多いのは下関市で、百世帯ほどであったが、それが、八支部にまたがっているのである。地域にあって、横の連絡はほとんどなかった。
 各支部は、山本伸一の指揮する山口闘争と聞いて、山口県に縁故者のある人から一級闘士を選抜し、十月初旬、県内各地に派遣した。約二週間という、かなり長期の派遣である。家庭を留守にする主婦、家業を一時、従業員に任せての自営業者、休暇を取った会社員と、派遣にいたるまでには、それぞれの戦いがあった。
 当時、まだ学会員の多くは貧しく、旅費、滞在費の工面も、ひと苦労であったはずである。しかし、人びとは、それを乗り越えてきた。参加者の胸には、″この年の関西の大闘争に引き続き、今度は、山口県で山本室長のもとで戦える!″という歓喜が脈打っていた。
 その喜びが、さまざまな困難を吹き飛ばし、同志は、各地から闘志満々で参加し、目標とする山口県の各都市に、一斉に向かったのである。
 ところが、勇躍、来てみたものの、彼らは、たちまち落胆しなければならなかった。会員カードに記された住所を頼りに家を訪ねると、既に移転して行方不明の人も少なくなかった。また、訪ねあてた家に上がってみると、御本尊が見当たらなかった。タンスに、しまってあったのである。
 他宗の本尊や神札などと一緒に、御本尊を安置している家もある。
 仏壇に、きちんと御本尊を安置している家に上がり、ほっとしていると、勤行の形跡はさらさらない。勤行から教え始めると、読経の時間の長いことにうんざりして、文句を言う始末である。
 派遣員は、初信者に対する指導が、全く欠けていたことに気づいた。折伏どころではない。随時、作戦変更である。それでも、どうやら信心状態が心配ないといえる世帯は、全体から見て、一〇パーセントから二〇パーセントはあったであろうか。まれともいえる、これらの世帯から知人を紹介してもらい、派遣員の一部は弘教にあたった。しかし、大部分の人は、信心指導に追われているうちに、派遣期間は終わってしまった。
7  山本伸一が、山口闘争の第一歩を下関市に印したのは、十月九日のことであった。彼は、拠点とした旅館に着くと、出迎えた派遣員や、居合わせた地元の人びとに、まず呼びかけた。
 「勤行を一緒にしましょう」
 床の聞に安置した御本尊に向かって、彼は、朗々たる題目をあげた。凛然とした姿勢、張りがあって、さわやかな声の響きに、地元の人びとは驚き、粛然とした。
 ″勤行は、このようにするものなのか。きちんと合掌し、御本尊を見つめ、経文を、はっきりと発音しなければならないのか″
 彼らは、勤行の模範を知って緊張した。
 伸一は、勤行を終えると、御書を聞いて講義を始めた。大阪での戦いで行われた、早朝勤行・講義の方式が、ここ下関でも始まったのである。
 彼は、「四信五品抄」の一節を明快に読み上げた。
 「『問う汝が弟子一分の解無くして但一口に南無妙法蓮華経と称する其の位如何
 これは、日蓮大聖人に、ある人が尋ねているところです。『あなたの弟子が、少しも法華経を理解しないでいて、ただ南無妙法蓮華経と唱えた場合、その弟子たちは、どういう位にあるのですか』という質問です。
 この弟子とは、私たちのことです。深遠な仏法は、凡夫には、なかなかわからない。それでいてお題目を唱える私たちは、いったいどうなるのか。下関の皆さんたちも、大聖人の仏法は、まだよくわからない。しかし、南無妙法蓮華経と唱えたあなた方は、どういう位にいるのか、という質問です。
 『……国中の諸人我が末弟等を軽ずる事勿れ進んで過去を尋ぬれば八十万億劫に供養せし大菩薩なり……天子の襁褓むつきまとわれ大竜の始めて生ずるが如し蔑如べつじょすること勿れ蔑如べつじょすること勿れ
 伸一は、おそらく初めて御書の講義を耳にしたであろう下関の人びとを対象に、派遣員たちの前で懇切に説き、この御本尊を受持した人は、どんなに高い位にいるかを教えた。
 「つまり、私たちは、過去世に、おいて八十万億劫という長い間、仏に供養した大菩薩であると仰せなんです」
 伸一は、皆の顔を見た。どの顔も、半信半疑という表情をしていた。彼は、力を込めて訴えた。
 「私が言うのではありません。日蓮大聖人様が、おっしゃっているのです。と言ったって、今の皆さんは、とても信じられないでしょう。そのはずです。私たちは、信心したばかりの、何もわからない赤ん坊です。お尻にオムツがあたっている。将来、天子になると運命づけられている人でも、赤ん坊で泣いている時、どうして、将来、天子になるなどと信じられましょう。
 大竜だって、生まれたての時は、小さな虫のようなものです。その虫をいくら見ても、大竜になるなんてことは、信じられません。それと同じように、私たちも、今は貧乏だったり、病気だったりして、あまりパッとしませんが、今に見てごらんなさい。やがて誰人よりも、幸福な、立派な境涯になっていくことは間違いない、と大聖人は保証なさっているのです」
 人びとの顔は、急に赤らんできた。伸一は、一人ひとりの目を見た。
 「今は、世間の人は、私たちを見下しているかもしれない。大聖人は、わが末弟を軽んずるな、軽蔑しては相ならんと戒められているんです。つまり、まだ、私たちは、信心の赤ん坊です。何もわからないかもしれないが、信心を貫いていけば、必ず所願満足の境涯になるんです。心配はいりません。しっかり信心して、まずオムツを取りましょう」
 下関の旅館の一室は、たちまち歓喜と情熱につつまれていった。自分たちは、まだこの信心の世界では、オムツをあてた赤ん坊である。しかし、天子と定められた赤ん坊のように、大変な位にあるのだという自覚ほど、下関の初信者に、希望と自信と誇りを与えるものはなかった。彼らは、初めて御本尊の偉大さと、自身の使命の深さを教えられて、これまでの卑屈さから脱出し始め、胸を張って派遣員の案内に立ち、折伏の手伝いに熱情を傾けていったのである。
 山本伸一は、下関に数日滞在し、個人面接に全力を注ぎ、そのなかから人材を発見することに心を砕いた。そして、その人たちのなかから、班長・班担当員を任命し、まず班組織の確立から始めていった。
 また、滞在中、彼は、下関にあると聞いていた日蓮正宗の寺院・妙宝寺を訪れた。驚いたことに、寺は荒れ放題に荒れていて、本堂の畳は雨漏りのシミだらけである。そして、人けのないなかに、御本尊だけがぽつんと安置されていた。
 伸一は、胸を突かれた。そして、思わずつぶやいた。
 「これはひどい。さっそく戸田先生にお願いして修復せねば……」
 彼は、御本尊の前に端座して、しばし、唱題しながら心に誓うのであった。
 彼の誓いの通り、翌一九五七年(昭和三十二年)四月二十日、妙宝寺は、修復された。
 伸一は、さらに防府市にも赴いた。防府は、山口県のほぼ中央の町で、瀬戸内海に面した、古い歴史をもっ都市である。旧習は強く、四日たっても、弘教の成果は一世帯もあがらなかった。
 そこへ山本伸一が現れた。派遣員たちの嘆きを聞くと、彼は毅然として言った。
 「心配しなくてもいい。私と一緒に御本尊にご祈念しましょう」
 全員の深い祈りから、行動が始まった。翌日から、弘教は進み、十月は、ここで二十世帯の成果をみた。派遣員たちは、あらゆる行動の前に、深い真摯な祈りこそ、すべてであると悟ったのである。
 伸一の転戦は、山口市にも及んだ。県庁所在地である。
 東京からの派遣員の一人は、知人の紹介で、町の洋服商・増田一三夫妻を訪ねて折伏した。増田は、リウマチの激痛で、右腕を石膏で固めていた。
 その時、一応、入会はしたが、いくら指導しても、もっと上の幹部に会わせろと、埒が明かない。そこへ山本室長の来訪を知った派遣員は、増田夫妻を旅館での指導会へと案内した。
 この信心で、本当に彼の病気が治るかどうかの確約を迫った。
 伸一は、きっぱりと言った。
 「病気は必ず治ります。もし、信心して治らなかったら、私は嘘をついたことになる」
 こうまで確信にあふれる激励を受けては、さすがに疑い深い増田夫妻も、信心に励むことを誓わないわけにはいかなかった。
 約一カ月の後、十一月の山口闘争が始まった時、増田は山本伸一を追いかけて、防府市の旅館にやってきた。
 伸一は、彼を見るなり、いたわるように聞いた。
 「山口の増田さん、その後、ご病気はどうですか」
 増田は、不機嫌そうに答えた。
 「まだ、治りません」
 「この前より、ずいぶん顔色がよくなりましたね」
 天邪鬼あまのじゃくな増田は、突っかかるように言った。
 「信心と人相と、どういう関係があるんですか?」
 しかし、伸一は、疑い深い増田のために、さらに激励するのだった。
 後日、リウマチは徐々によくなっていったが、ある時、高額な洋服生地を盗まれてしまった。彼は、信仰してもろくなことがないと思い、上京し、学会本部に山本伸一を訪ねた。
 「これまで信心してきましたが、碌なことがなく、さっぱり気が晴れません」
 山口から、はるばる文句を言いに来た増田の言葉を、伸一は黙って聞いてから、つつみ込むように言った。
 「あなたの心中はお察ししますが、まず、大事なことは、疑わずに信心をやりきることです。過去の罪業が出ているんです。どんなことがあっても、退転だけはしてはいけません。困ったことが起きたら、また、すぐにでも相談にいらっしゃい」
 増田一三は、確信ある指導と温かい激励を山本伸一から受けても、相変わらず心の底で文句を言っていた。しばらくすると、また盗難に遭った。″信心をすればするほど、ひどい目に遭う″と腹を立てた増田は、また、上京して山本伸一に訴えた。
 伸一は、この時ばかりは厳しい口調で叱った。
 「あなたのように、疑い深い人はありません。私に楯突くことは結構です。しかし、御本尊様には、もっと素直になっていただきたい!」
 いつもと違って、きつい叱咤を受けた増田は、初めて驚いた。全身から力という力が、見る見る抜けていくような衝撃に襲われた。顔面も蒼白になった。
 しかし、伸一は厳しくも優しかった。
 「心配しなくていい。頑張りなさい。私がついているから大丈夫です」
 伸一は手を出し、増田はその手を固く握り締め、何があっても、信心はしっかり続けることを、ひそかにわが心に誓った。そして、元気に山口へ帰った。彼の信心は、初めて軌道に乗った。すべての問題は、日ならずして氷解した。
 六一年といえば、山本伸一が第三代会長に就任した翌年のことである。彼は、激務の渦中にあったが、かつての山口の友を忘れなかった。さっそく一書を認めて書き送った。
 ところが、数年過ぎた六一年(同三十六年)に、あの執拗なリウマチが再発した。増田は、今度は文句でなく、報告かたがた、書簡で伸一に指導を仰いだ。
8  「本日、芳書頂戴し、びっくりいたしました。さぞ苦しいことでしょう。自ら作った罪業は、当然、今世にすますのが道理です。今の病苦も、実は、護法の功徳力により、軽くすんでいることを自覚すべきです。一点の濁りなく、ただただ、御本尊様を抱きしめて、人間革命と宿命打開をされますことを、胸奥より祈っております。
 長い長い人生です。声高らかに題目をあげて、苦をば苦とさとり、楽をば楽とひらいて、必ず、必ず、来る春を待つことです。何事も勉強と思って、悠々と闘病生活をされたしです。
 御書に云く『法華経を持ち奉るとは我が身仏身と持つなり……さて仏身を持つとは我が身の外に仏無しと持つを云うなり』云々。
 成仏の出来得る大法を受持して、何で病魔に負けることがありましょうや。大兄の元気な身体と顔を楽しみに。
   三月二十二日夜十時三十分
               山本伸一」
 この手紙を読み終わった増田は、滂沱と流れ落ちる涙を、どうしょうもなかった。
 ″なんという慈愛! 文句を言って、迷惑ばかりかけた私のような者に、なんという恩愛だろう。私は間違っていた! 生涯、先生のもとで、広宣流布のために、なすべきことをして死んでいこう″
 増田一三は、ほんの一例にすぎない。山口闘争で山本伸一を知り、彼と共に戦った山口の会員や、各支部からの派遣員たちの中には、幾人もの増田一三がいたのである。彼らは、伸一の深い透徹した慈愛に育まれて、後日、それぞれ広宣流布の逸材に大成していった。真心の指導ほど、人材育成の力となるものはない。
9  山本伸一は、岩国市にも足を運んだ。岩国には、米軍基地などがあった。ここには、七支部に所属する学会員が、市街から郊外にかけて散在していた。
 彼は、駅前の旅館に陣取った派遣員の一人ひとりと面接し、このような長期滞在が、家庭や生活面で無理がないかどうかまで配慮し、ともかく、山口県に魂魄をとどめる覚悟で活動してほしいと激励した。
 派遣員のなかには、主婦も多かった。彼女たちは、夫の理解を得ているとはいえ、一週間も十日も家を空けることは、並大抵のことではない。伸一は、さっそく彼女たちの夫宛てに手紙を書き、彼女たちが、元気で活動している旨を知らせながら、留守宅の夫までも激励するのであった。彼は、派遣員たちが、思う存分、活躍できるためには、誰よりも細かく気を配る主将であった。
 伸一は、時に柳井市に姿を現したかと思うと、徳山市にも現れた。徳山市は、昔から天然の良港であったが、戦後、重化学工業が進出してきて、一大工業地帯が形成されつつあった。
 徳山市では、各支部の派遣員は、思わぬ苦労をなめた。ある旅館は、学会員を嫌い、派遣員は締め出された。いくら辛抱強く活動しても、成果はあがらない。それが、伸一が来てからは、万事、がらりと変わってしまった。会合は明るく弾み、質疑応答も活気にあふれ、何よりも、伸一の話に未入会の人たちは納得するのである。
 あまりの不思議さに、派遣員の一人は、勇気を出して伸一に質問した。
 「室長、私たちの座談会や指導会は、いくら一生懸命に話しても、なかなかいい雰囲気になりません。それが室長が出席されると、たちまち、がらりと変わって、みんな元気になり、明るくなるのは、どうしてでしょう?」
 伸一は、笑いながら穏やかに答えた。
 「それは、使命と責任とを、いかに感じているか、題目を唱えてその場に臨んでいるか、どうかにあるんです。つまり、指導者としての活力が問題で、その活力が、みんなに波動となって伝播するんです。
 ″山口の地で、必ず広宣流布の歴史を刻んでみせる。生涯、もう二度と、この地に来られないかもしれない″と思った時、その瞬間に、活力が湧かないはずはないでしょう」
 伸一は、宇部市にも赴いた。大規模な宇部炭田のあるところで、炭田は海底へと広がっていた。石炭をもといとして、鉱工業の盛んな都市であった。
 十支部からの派遣員は、見知らぬ土地で苦戦に陥り、一日中、足にマメをつくって歩いても、なんの成果もない日もあった。彼らは、街の見晴らし台から宇部全市を見渡しながら、この街のなかで、妙法に耳を傾ける人がないと知って、長嘆息するのであった。
 伸一は、くじけそうになっている派遣員に、御書を開いて、懇切に指導し、彼らの活力が蘇ることを祈りながら、来月へと希望を託した。
 「今月は、これで私は帰らなければなりません。宇部は、将来、すばらしい拠点都市になるでしょう。今月は、苦戦に終わったとしても、皆さんは、確かに戦ったのだから、その成果は、来月には華々しく現れます。
 私も、今月は宇部が最後になってしまって、十分な指揮が執れなかったから、来月も必ず宇部に来ます。また、お目にかかりましょう」
 伸一は、十八日に宇部指導を終えると、その夜の夜行列車で大阪に向かった。二十日に行われる、和歌山での会合に臨むためである。
 和歌山県下には、堺支部に所属する二地区があり、三千世帯を超える会員がいた。県下の会員は、和歌山に一日も早く支部を結成しようと、意気盛んに弘教を推進していたのである。
 二地区合同の決起大会に集った、八百人を超える人びとに、伸一は語りかけた。
 「信心をして、幸福を築くために最も大事なことは、生命力を強くすることです。生命力が弱ければ、困難に直面した時に、すぐ退いてしまう。また、せっかく功徳を受けたとしても、功徳を功徳と感じることも、できなくなってしまうものです」
 創価学会の躍進に、世間の注目が集まり、マスコミも無認識な批判を繰り返していた時である。伸一は、全会員が、それらに屈することなく、堂々と勇気をもって、信念の道を貫いてもらいたかった。そして、すべての同志に、″わが人生の黄金の道″を謳歌してもらいたいと、強く願っていたのである。
 「どうか、異体同心の団結で、広宣流布の牙城を、この和歌山の地に、必ず築いてください」
 伸一の肉体は、全力を尽くして戦った山口での闘争で、疲労の極みにあった。しかし、最後の学会歌では、再び立ち上がり、大きく腕を振って、渾身の指揮を執った。八百余人の同志に、″和歌山を頼みます″と叫んでいるような姿であった。
 翌二十一日、伸一は大阪に戻った。その夜、関西本部で、男子部の部隊会が予定されていたからである。
 彼が開拓し、彼が築いた関西である。伸一を迎えた会場は、大歓喜の坩堝るつぼと化した。
 彼は、一人ひとりに訴えるようにして語った。
 「青年には、勇気と決断力が大切です。戦い切った人間は美しい。諸君は、全員が、戸田先生の弟子であることを深く自覚し、わが人生の使命を、全うしていただきたいのであります」
 「山口開拓指導隊」の第一弾、そして、関西での指導を終えた伸一は、二週間ぶりに東京に帰った。
10  十一月十五日、山口闘争の第二弾が開始された。伸一は、岩国、柳井、徳山、防府と転戦し、十九日に、約束通り宇部を訪れた。待ち構えていた派遣員は、雀躍して戦い、華々しい成果を生んだ。十月に耕した戦野には、次々と新たな芽が吹いたのである。派遣員や、地元会員の足は軽くなった。
 彼は、十月に比較的長く滞在した、下関の状況が軌道に乗ったと見て、日本海側の唯一の拠点・萩市に、二日間滞在した。
 萩市も、十月から蒲田、足立、本郷、堺などの、各支部の派遣員が来て活動を始めていたので、十一月は、座談会が、かなり活発に開けるまでになっていた。
 伸一は、萩に着いた夜、さっそく座談会に出てみると、約六十人の参加者である。未入会の人も多かった。伸一は、自らの体験をつぶさに語ってから言った。
 「私は、元来、子どものころから病弱で、痩せて顔色も悪かった。そんな体で、東京の街を、大八車を引きながら、働かなければならないこともありました。
 しかし、入信して指導通りやってきたおかげで、今では、この通り元気いっぱいです。そして、どうしょうもない宿命を嘆いていた一人の青年が、こうして、人のために汗を流せるような境涯になったんです。真実の宗教というものを、皆さんはご存じない。この確かなものを、私は、皆さんにお教えしたいだけです」
 伸一は、未入会の参加者の一人ひとりに、礼儀正しく呼びかけた。その十数人のほとんどが入会を希望した。この夜の座談会から、萩での活動は燃え広がった。
 萩市は、もともと毛利三十六万石の城下町である。幕末から明治維新にかけて活躍した長州藩の志士が育ったのも、この地であった。松下村塾をはじめ、史跡は街中のいたるところにあった。
 伸一は、会合の合間に、萩城社から各所の史跡を巡り歩いた。彼の多感な胸に去来するものは――吉田松陰ならびにその門下の政治革命と、今、彼が実践しつつある、戸田城聖ならびにその門下の宗教革命との対比であった。彼は、旅館で皆に語った。
 「この萩の地から、吉田松陰と、その門下生が中軸となって、維新回天の夜明けを開いた。これは、吉田松陰だけが偉大であったのではない。弟子もまた、偉かったから、吉田松陰の名が世に出たんです。
 戸田先生が、どんなに偉大でも、弟子のわれわれがしっかりしなければ、なんにもならない。この萩の地から、今度は、妙法の人材を陸続と輩出しなければなりません」
 彼は、この夜、夜行列車で萩を発った。彼の荷物のなかには、萩焼の窯元であがない求めた陶器が二つあった。一つは戸田城聖へ、一つは妻への土産であった。
11  山本伸一の、十一月の山口指導は一週間で終わったが、十月に続く再度の指導で、各地とも、そろって動きだしていた。山口県の世帯数も、九月末の四百五十九世帯から、十二月末には三千二百十四世帯と飛躍していた。一挙に七倍増である。
 山口指導は、十二月の年の瀬は中断した。翌一九五七年(昭和三十二年)一月に再開された。一月に現地に派遣員が行ってみると、十月、十一月に入会した人たちが、それぞれ、さまざまな初信の功徳を受け、歓喜のなかで口々に体験を語っていた。指導は、急速に実っていたのである。弘教の戦線は、一挙に広がって、全県下にわたった。折伏の成果も、一月は千世帯近くになった。
 伸一は、一月二十一日、山口県東端の岩国市にやってきて、二十二日、徳山、二十三日、防府、二十四日、宇部、二十五日、下関と、瀬戸内を西へと移動しながら、総仕上げの指導をして、組織をつくっていった。そして、山口県は、もはや広宣流布の流れのなかで孤立した県ではなく、妙法の新天地として、それ自身の力で発展していくことを見極めて、山口闘争の幕は下りた。
 十月、十一月、一月と、三カ月にわたる周到な戦いは、延べ日数にすると、わずか三十日を出なかったであろう。伸一が転戦した日数も、正味のところ二十二日である。しかし、一月末には四千七十三世帯へと、戸田と伸一が山口指導を決定した時点から、実に約十倍の飛躍を遂げたのである。
 広宣流布の新たな突破口を開く戦いが、成功のうちに終わった直後の二月、早くも宇部市には船場支部の宇部地区が誕生し、六月にも下関地区の結成をみた。
 このように、山口県の各都市に地区が生まれ、六〇年(同三十五年)に山口支部の結成をみた時、県下の地区は、十五地区にもなっていて、年間約七千世帯の折伏を敢行していた。この年の山口県の会員数は二万六千七十二世帯になっていた。
 「山口開拓指導」による山口県の大飛躍が、全国の会員に波及しないはずはなかった。広宣流布に立ち遅れた地域も、真剣にクワを深く入れれば、肥沃の大地とすることもできる――山本伸一のもとで戦った各支部の派遣員たちは、身をもってこのことを学んだ。
 全国の各支部の日程に、地方での指導、折伏の企画が盛り込まれ、全国に広宣流布の拠点を建設することに、力が注がれていったのである。
 戸田城聖逝去の五八年(同三十三年)四月、八十六万世帯の創価学会は、二年後の六〇年(同三十五年)には、実に百七十万世帯へと難なく飛躍していた。その活力の淵源は、実に、この「山口開拓指導」の三カ月であり、これが学会の「転機」となったのである。
12  戦後十一年が過ぎた五六年(同三十一年)の夏から秋にかけ、世界の政治情勢に、激震ともいうべき事態が、東欧と中東に勃発した。
 この年の二月、ソ連では、スターリン死後、三カ月を経て、彼の生前の独裁と弾圧が問題になった。いわゆるスターリン批判である。その波紋が東欧諸国にも広がっていったのである。六月二十八日、ポーランド西部の工業都市ポズナニで起きた労働者の反ソ連デモは暴動化し、ポーランドの指導者に反省を迫った。八月五日、かつての党書記長で、投獄されていたゴムウカが名誉を回復されて党に復帰し、活動を開始した。そして十月二十一日、党第一書記に就任し、社会主義政治体制の反省のうえに、ポーランドとソ連の友好を確認して事なきを得た。
 ところが、二日後の十月二十三日、ハンガリーのブダペストで、民衆の暴動が勃発し、内乱の様相を帯びてきた。指導者は、鎮圧のためにソ連軍の介入を受け入れた。弾圧された民衆は、さらに激昂し、ソ連軍の介入中止を要求した。
 ここに、一つの偶然の符合かとも思われる事件が勃発した。スエズ動乱である。十月二十九日、イスラエルは、突如、エジプト領に侵攻し、シナイ半島を横切って、スエズ運河に向かった。
 ここで、英仏の政府は、三十日にイスラエルとエジプトに通告を発した。イスラエル、エジプト両国は、戦闘を中止し、スエズ運河から十マイルの地点まで軍隊を引き、運河の通航の自由を保障するために、英仏軍の派遣を認めよ――と十二時間以内の回答を要求したのである。
 イスラエルは受諾し、エジプトは拒否した。英仏軍は、エジプトの各地を爆撃し、スエズ地帯に上陸した。
 アメリカは、十一月二日の国連緊急総会に、エジプトでの停戦決議案を提出、圧倒的多数で採択されたが、英仏は、かまわず軍事行動を続けたのである。
 一方、ソ連はハンガリーで軍事行動を起こし、十一月四日、反乱軍の制圧にかかった。アメリカは、国連安保理事会に、ソ連軍のハンガリーからの即時撤退の決議案を出したが、ソ連は拒否権を使ってこれを葬った。
 翌五日になると、ソ連は英仏に対し、スエズへの侵略を中止しなければ、ロケットをもって攻撃するという威嚇的宣言をし、翌日、早くも停戦同意となった。中立国の軍隊で国連軍が組織され、スエズ占領地帯に駐留した。
 このような国際的利害のからんだ紛争が相次いで起き、東西両陣営の間に緊迫した空気をはらみながらも、触発の危機は、ひとまず流れ去った。
 当時、わが国の鳩山内閣は、派閥抗争から後継内閣を考えなければならなくなった。懸案の日ソ交渉は行き詰まっていたが、鳩山首相は引退の花道として決意し、十月七日、モスクワに向かった。
 そして、十五日から正式会談が始まり、十九日に国交回復に関する共同宣言が調印をみた。領土問題は棚上げされたが、とにかく、日ソ問の国交の回復がなされたのである。
 このような内外の政治的変化のなかで、十二月十八日、国連総会で、日本の国連加盟案が、五十一カ国の共同決議案として提出され、全会一致で可決された。
 戦後十一年にして、敗戦国日本は、ようやく孤立を脱して、国連加盟国の仲間入りを果たしたのである。
 十二月十四日、自民党は、党大会で次期総裁を選出していた。第一回投票で一位となったのは岸信介であったが、過半数に届かなかったため、決選投票となった。その結果、七票差で石橋湛山が逆転勝ちし、新総裁となった。鳩山内閣は総辞職し、十二月二十三日に石橋内閣が発足することになる。
13  戸田城聖は、これらの内外にわたる政治情勢の激動を目の当たりにしながら、深い思索に沈まざるを得なかった。
 戸田は、ハンガリーの暴動から、苦しむ民衆の悲痛な境遇を思った。そして彼が、今、その悲惨な民衆に対して、直接、救済の手を差し伸べる手段も、方法もないことを思った。
 彼は、地球上から、あらゆる悲惨事の消滅を願って戦っているものの、まだまだ遠い道程にあることに焦燥を覚えながら、歴史に思いを馳せた。そして、人類の悲惨を願った先哲も、民衆も、かつて一人もいなかったであろうことを思った。
 ″これは、おかしい。自由主義にしろ、共産主義にしろ、相争うために考え出されたものではあるまい。しかし、この二つの思想が、この地球上で、政治に、経済に、相争うものをつくりだしていることは、悲しむべき事実といわなくてはならない。
 また、ここで、釈尊の存在と、キリストの存在と、マホメット(ムハンマド)の存在を考えてみると、これまた相争うべきものではないはずである。してみると、もし、仮に、これらの聖者が一堂に会したとすると、どういうことになるか。これらの聖者に、カントも、マルクスも、リカードも、天台大師も加わって、大会議を開いても差し支えない。会議は、決して、人間が悲惨になるようなことを協議しないにちがいない。
 彼らは、「人類を、いかにして幸せにするか」という論点で争うことがあったとしても、それは「人類から悲惨を絶滅する」という希求においては一致するはずである。これらの大先達の願いを、現代のわれわれは、利己心と嫉妬といかりのために、素直に受け入れないがゆえに、大衆を悲惨のなかに陥れ、迷わせているのではないだろうか……″
 戸田は、なおも思索を重ねていった。そして、広宣流布という、民衆を一人ひとり救っていく活動を、万代に流れ通わすことが、どんなに遠回りな道に思われようとも、先哲の平和希求の精神を実現する、ただ一筋の道であると、彼は、確信を新たにするのであった。
14  山本伸一を総責任者としての山口闘争が、十月、十一月と続いていた時期、戸田城聖にとっても、ますます多忙極まる日々が続いていた。創価学会全般の行事は、年々、拡大されながら、この秋も開催された。
 十一月一日、第十五回創価学会秋季総会が、約六万の会員の参加をもって、東京・小石川の後楽園球場で、正午から開催された。
 多くの指導や方針が語られ、最後に、戸田城聖の講演に移った時、話は、民衆に、いかにして正しい唯一の宗教を納得させるかという論点になった。彼は、ここで、一つの提案として、仮称・宗教審議会なるものを提唱した。
 「今、宗教の善悪、正邪を明らかにしようとして、いくら哲学的に説明しても、納得できないのが、現在の日本人であります。なぜかならば、宗教哲学のなんたるかを知らないからであります。それは、日本民衆に宗教哲学の教育がないからです。
 ですから、いかに社会的に立派な地位にある人でありましでも、宗教となれば、幼稚園児も同様であります。その幼稚園児の頭をもって、最高の仏教哲学をもつ、日蓮大聖人の仏法を批判しようとしても、彼らには、わからないのであります。
 だが、わからんといって、わからんままにしておくわけにいかない。どこまでも、わかるまで納得させようと努力しますが、もし、ここに宗教審議会とでも、仮に名前をつけたものができて、宗教に善悪正邪のあることを、日本民衆が調べるという機運の起こる日が、あってほしいと思います。
 この方法は、以前に何度も述べましたが、科学的であればいいんです。あたかも、農業学校で米の品質を調べたり、研究したりするように、ある百軒の人が創価学会の信心をする。また百軒が、同じく別の宗教を信仰する。またさらに、百軒が別の信心をする。既にしている人でもよい。こうして百軒ずつを選んで、それを一年間したら、それぞれの宗教で、生活がどう変わったかという記録を取ればよいのです。
 これを、今年百軒、来年百軒、再来年百軒と、二十年も研究するならば、記録のうえにはっきりと証拠が現れる。
 その時こそ、わが創価学会の会員が、どれほど幸せになっているか、他宗教との比較相対のうえから、統計的に、はっきりと現れてくるでしょう」
 彼の提案は、現存する宗教という宗教への挑戦であったが、そのような時勢が、直ちに到来するものとは思えなかった。しかし、創価学会会長・戸田城聖の確信のほどは、会場を埋めた聴衆を、限りなく鼓舞するものとなった。
 十一月十一日には、教学部任用の筆記試験が、全国三十一都市で一斉に行われ、三千六百二十九人が受験し、千六百二十九人が、第一次合格者となった。約四五パーセントという高率である。なかには、五〇パーセントを超える優秀支部も、二、三にとどまらなかった。教学熱の浸透は、全国的な潮流となったのである。
 十一月二十五日、引き続いて口頭試聞があり、千四百四十七人が合格となった。そのうち、講師が百二十九人、助師が千三百十八人の大量合格で、教学部は、一躍、三千人の陣容となったのである。
 十一年前、戸田城聖が、焦土と化した東京の焼け野原に一人立った時、彼が、恩師・牧口の獄死に痛哭しつつ、広宣流布の使命に自らの情熱をひそかに燃やした時、いったい誰が、今日の創価学会を想像し得たろうか。
 わずか三千人余の会員の推戴の署名で会長に就任してからも、まだ五年しか経過していない。今日、もし牧口が存命であったとしたら、どんなに喜ばれたかと思うと、戸田は、今さらのように、牧口の死に胸が痛むのであった。
 その牧口の死も、今年で十三回忌を迎え、十一月十八日、総本山大石寺で、その法要が盛大に挙行された。また、この日、二カ月前に逝去したクマ夫人の納骨も行われた。戸田城聖をはじめ、遺弟の代表六百人が参列し、数々の遺徳を偲びながら、追憶談に花が咲いた。
15  戸田城聖は、相変わらず慌ただしい日が続いていた。十一月二十一日には、北海道旭川の新寺院・大法寺の落慶入仏式に出席、二十五日は任用試験の口頭試問があった。二十八日には東京の妙縁寺の増築落慶式に出席、三十日には十一月度の本部幹部会に臨んだ。
 組座談会は、やっと軌道に乗り始めたのか、折伏は、二万二千二世帯と、久しぶりに二万の線を超えた。
 本年度の三大目標は――(1)参議院へ有能にして高潔な人材の推薦(2)大講堂の建立着手(3)五十万世帯の強信者の達成――とあったが、(1)は終わり、(2)も十一月から第一回の供養が始まった。しかし、(3)は、この十一月になって、五十万になお五万を残していることが明らかになった。
 創価学会は、これまで、立てた折伏の目標は必ず達成し、今までに、ただの一度も狂うことはなかった。それを思う時、幹部という幹部は、十二月に向かつて、力の限り走り出さなければならないとの思いに駆られた。
 戸田は、首脳幹部の懸命な話の後で、極めて平静に話しだした。
 「いろいろと、幹部の方々からは注文が出されて、耳が痛くなったと思います。ただ、私の方は、今日は、お礼を申し述べたいのであります」
 彼は、大講堂の建築が、理事会の承認のもとに、来月早々に、建設会社と本契約をする運びになったと報告し、幹部一同に、ねぎらいの言葉をかけた。
 「また、折伏成果について、今、理事長の話がありましたが、組単位の座談会、組長の協力、また、組座談会の活用について、いろいろとご苦心くださった結果が、今度の二万二千二世帯となっているのであります。私は不足には思いません。まことにありがたいと思っております。だが、今年、五十万世帯ということを、お互いに考えておりながら、今、四十五万世帯であります。
 先ほども話があったように、願わくは、皆さんに、組長諸君と、ひざを突き合わせて、お話し願い、あと五万世帯達成に、ひとつご努力願いたいと思うのであります」
 言葉は、あくまでも優しく、平静であったが、戸田から、「ひとつご努力願いたい」との言葉を耳にした人びとは、五十万世帯達成の誓いを破つてなるものかと、拳を握り締め、全国に散っていった。
 戸田城聖は、夏以来、七月の選挙の時の戸別訪問容疑で訴えられていた全国の会員の三百件に近い裁判で、どのような判決が出されるかを、じっと案じながら注目していた。このころ、検察当局は、創価学会に対して、かなり過酷なものがあり、それが、異例なものだということが、専門家の間でも問題になってきていた。違反者の多くに、略式命令で、公民権停止せずという判決が出ていたが、検察側は、そのほとんどを不服として控訴し、公民権停止を主張する挙に出ていたのである。
 戸田は、容疑者が学会員であるということから、色メガネで見る検察側の悪意を感じ取った。彼らの取り締まり方針は、個人に対するよりも、創価学会に意識を向けての圧迫であることは、ほぼ明らかであったといってよい。たとえ創価学会の選挙運動というものが、いくら合法的であっても、気に食わぬとする本質的な悪意が、国家権力のなかの一部にあることに、戸田は気づいた。そして、将来に向かっての新展開に備えて、戦うべき転機の来ていることを思った。
 ところが、十二月十九日に至って、日本が国連に加盟した記念として、選挙違反などについては大赦が行われ、他の犯罪については個別恩赦が行われたのである。
 これによって、一九五二年(昭和二十七年)十月の総選挙以来、五六年(同三十一年)七月の参議院選挙までの、選挙違反に問われた被告や被疑者は、免訴または不起訴になり、公民権停止も全面消滅することになったのである。
 ひとまず、学会員の選挙違反問題も、これで、全部、消滅したわけであったが、もともと悪意で動いていた検察当局は、拍子抜けというよりも、次の機会に狙いを定めたと見る方が正しい。
 戸田は、容疑者となった多くの会員の身の上に思いを馳せ、胸をなで下ろしたが、ひとたび蠢動し始めた検察当局の悪意を、忘れることはできなかった。
 師走のこの月は、全国に、にわかにみなぎった折伏活動のさなかで、男女青年部は、それぞれの大総会をもった。女子部は十二月八日、太平洋戦争勃発から十六年目にあたるこの日、川崎市民会館に一万二千人の結集をし、戸田城聖の前で、生涯の信心を誓った。
 戸田は、女子部員が、一人残らず幸福になることを願い、温かい視線を、終始、会場に注いでいった。
 「私にも家内がおりますが、その同級生に、今日では、不幸な人もいれば、幸福な人もいる。ここに集った一万二千の諸君らと会った以上は、私は、みんなが幸せになってほしいと思う。そして五年、十年たったあと、『先生、私はこんなに幸せになりました』と、側へ来てほしいんです。しかし、本当になるかならないか、それは、問題でしょう。
 しかし、多くの見本があります。ただ題目を唱え、御本尊様を信じて、幸福に、華やかに生きている皆さんの先輩の見本があります。だから、あなた方も、御本尊様を信じて、幸せになってほしいんです」
 年の暮れの一夜、乙女たちは、戸田の熱い祈りを浴びて、蘇生する思いで、青春の道を迷わず進もうと決心した。
16  組座談会に明け、折伏に終わった十二月も、二十一日に本部幹部会を迎えた。
 果たして折伏の成果の発表となると、五万八千六百九十四世帯と、数字が読み上げられた。本年の目標五十万世帯を、悠々と達成したのである。全国三十二支部の幹部たちは、師走の空に一斉に歓声をあげながら、拍手をもって互いに祝福し合った。
 戸田城聖は、本年最後の本部幹部会にあたって、責任を果たした人びとをねぎらいながら語った。
 「学会の底力、また、皆様が真面目に組座談会を遂行した効果が表れ、五万八千世帯という、大した折伏成果をあげたことは、さぞかし日蓮大聖人様もお喜びのことと思っております。
 顧みれば、今年は、ずいぶん仕事をしてきた。すなわち五十万世帯の完遂。また、お山の坊は四つ、新寺院建立は三カ寺、古い寺の再建が二カ寺、そのほか修理申し上げた寺は数カ寺ございます。また、立正安国の精神のうえから、参議院議員選挙でも、思う存分、支援活動をいたしました。
 今年は、遺憾なく戦い切ることができただろうと思います。来年も同じく、自分たちの信仰のうえに立って、来年の目標を完遂し、凡夫に褒められるのではなくて、仏様に褒められる境涯になろうではありませんか」
 戸田は、このあと、ある地方の平凡な地区部長が、勤行と折伏の地道な信心の基本を貫いて、目覚ましい功徳を受けた姿を通し、来年は、まず幹部という幹部が、功徳を受け、幸福な人生を、落ち着いて慌てず、そして、急いで築いてほしいと言ってから、幹部の信心について、特に注意を促した。
 「幹部として、心得るべきことがあります。信心といっても、勤行と折伏の行の実践がないところに、信心はありません。口は調法です。いかにも教学に精通して、教義を重んじているような顔をしていても、自分が受持した御本尊様さえ念頭になく、行の実践を欠いていては、もう、これは日蓮大聖人の仏法ではない。そうした幹部は、会員を惑わせるだけです。
 こうなると、いつか騎慢になり、先輩や学会さえも批判するようになって、いかにも、それが、広宣流布のためであるかのような言説さえ弄して、結局は、大聖人様の怨敵となっていくことに気づかない。信心の基本を忘却した幹部ほど、哀れなものはありません。気づいた時には、自分がとんでもないところへ、来てしまっていることを知るでありましよう。
 私も長い信心です。多くの同志のなかには、このような幹部も、一人ならずおりました。見かけは有能に見えても、信心の基本を欠いたら、信心は即座に崩れ去るのです。よくよく心得て、来年は思いきり活躍してください」
17  本部幹部会のあと、一つの行事がまだ残っていた。それは歳末の二十三日の男子青年部二万人が結集した大総会であった。当時、東洋一の体育館とされていた東京・千駄ヶ谷の東京体育館は、全国から上京した青年部員で、早朝から混雑していた。午前九時から入場を開始し、午後一時の開会前には、場内外の二万余の男子部員が、整然と戸田城聖を迎えた。
 総会は、熱気につつまれて進行した。「日本民族の使命」と題する研究発表では、米ソ二大陣営に挟まれた日本の現実認識からの論が展開された。
 そして、世界の第三勢力である東洋の十二億の民族のために、仏法の法理に目覚めたわが創価学会青年部こそ、世界平和の指導者として成長すべき使命があると訴えた。
 この日、あいさつに立った山本伸一は、近代日本の思想の流れに触れながら、未来にわたって、すべての思想を指導する哲学こそ、日蓮大聖人の仏法であることを語った。
 「仏法の真髄である日蓮大聖人の教えによって、今、五十万世帯の人びとが、現実に、物心ともに幸福になっているではありませんか。この事実こそが、今後の日本の、また東洋、世界の思想を指導するのは、日蓮大聖人の仏法であることを、証明しているのであります」
 そして、「創価学会は″暴力宗教″である」との、誤解に満ちた世間の批判は、三類の強敵の一分にほかならず、毅然として立ち向かうべきであると訴えた。
 「戸田先生が、あくまでも、慈悲と道理をもって、日本民衆を救わ、なければならないと仰せのように、″青年訓″″国士訓″を心に刻み、実践していく人こそ、真実の男子青年部であります」
 伸一の胸には、戸田が、「新しき世紀を創るものは、青年の熱と力である」と叫んだ″青年訓″、「青年よ、一人立て」と奮起を促した″国士訓″が、永遠の指針として脈動していた。
 最後に演壇に足を運んだ戸田城聖は、研究発表に言及して、力を込めて語っていった。
 「先ほども話があったように、世界的な第三勢力の興るゆえんがあるのであります。ハンガリーの今度の問題など、まことに、かわいそうでならない。民衆は、どれほど苦しんでいるか、今日、平和なわれわれの生活から見たならば、悲惨極まるものです。日本をはじめ、二大陣営に挟まれた国々をして、絶対にあのような苦悩に陥れてはならぬと私は思います。
 そのためにも、東洋で第三勢力として立つべき民族が日本です。東洋は、日本を待っている。本当に待っているんです。
 この推進力となるのは、青年の力以外にない。あなた方こそ、日本の青年を指導する指導者です。この確信のうえに立って、信心強盛に、教学を身につけ、体を丈夫にし、自分の商売に熱心に励みつつ、暮らしていってほしいと願って、私の講演に代えます」
 歳末の最後の行事、二十三日の青年部大総会で、一九五六年(昭和三十一年)は暮れた。まさに激動の一年であったといってよい。
 広宣流布の拡大に徹しぬいた戸田城聖は、心身ともに、いたく疲れていた。山本伸一も発熱した。
 今、師も病み、弟子も病んでいたが、戦い切った遺憾のなさに、二人は、なんともいえぬ満足の微笑を顔に浮かべて、年を超したのである。

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