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日蓮大聖人・池田大作

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小説「人間革命」9-10巻 (池田大作全集第148巻)

前後
1  梅雨の彼方に、いよいよ灼熱の夏が見えてきていた。
 七月九日――午前八時から、参議院議員選挙の、東京地方区と大阪地方区の開票が始まった。
 前夜から開票が始まった各県の地方区は、このころまでに当選が判明したのは約半数で、自民二十一、社会十一、緑風会は議席を獲得できずにいた。
 全国区は、まだ、なんの発表もなかった。
 会員の関心は、東京と大阪の、地方区に集中していた。熱心に活動した人びとは、ラジオの前に釘付けになって、刻々の報道に一喜一憂した。
 大阪の春木征一郎は、第三位を堅持し、票は着実に積み重なっていった。
 東京の清原かつは、当選圏に入ったかと思うと、また圏外に落ち、不安定のまま、時は刻々と過ぎた。全国区の開票状況も気になることであったが、集計は遅れ、当落の見当は、まだつきかねていた。
 関西本部の三階にも、固唾をのむ人びとがいた。悔いなく戦い切った人びとの胸には、栄光の確信はあったものの、勝利を現実に握るまでの不安に、さいなまれていた。
 定数三の第三位にいることが、不安の種である。ラジオは、正午の時報を告げた。
 すると間もなく、大阪府の目下の数字が発表され、春木征一郎が、第三位のまま「当選確実」というアナウンサーの声が響いた。
 途端に、「わーっ」という歓声があがった。待望の「不可能を可能にした」瞬間である。
 人びとは、「やった!」と跳び上がり、続いて「バンザイ、バンザイ!」という絶叫が響いた。なかには、抱き合いながら、喜びのあまり涙を流す人もいた。
 多くの同志たちは、この興奮の渦中にあった。互いに、「おめでとう!」「おめでとう!」「よかった」「よかった」と言いながら、握手を交わし合っていた。
2  山本伸一は、一人、別室に入って、思いをめぐらした。彼の胸中は、喜びよりも、東京の模様が心配でならなかった。また、戸田会長の苦悩と激務を思い、健康をひたすら心配していたのである。
 やがて、選挙事務所から春木征一郎があいさつに訪れた。歓呼の拍手と、万歳が続いた。その喜びは、それまでの、重なる苦闘と、忍耐と、苦渋のすべてを、一瞬にして過去に押し流し、勝利の栄光が、一人ひとりの顔に輝いて見えた。
 伸一は、まことに冷静であった。彼は、三階仏間の御本尊の前に端座し、春木をはじめとする会員が、これに続いた。不可能が可能になった勝利の報告を、題目三唱に込めて、力強く唱和した。伸一は、春木にあいさつするように促した。
 日焼けした長身の春木征一郎は立ち、しわがれた声で言った。
 「皆さん、まことに、ありがとうございました。厚く感謝いたします。第一位になれず、残念だったという方がありますが、入学試験に一番で合格しても、卒業のときビリでは、なんにもなりません。私も、これから大いに勉強して、最後には一位になるよう頑張りますから、よろしくお願いいたします」
 伸一は、関西の同志の大勝利を祝福し、心から皆の労をねぎらいながら語った。
 「これからが大事なんです。今後、立正安国のために、長い旅路を続けなければなりません。勝っておごらず、負けても卑屈になることはありません。どこまでいっても、私たちには信心しかない。一時の勝敗ではなく、根本の信心の核をつくり、苦楽を共にしつつ、何ものにも崩れない創価学会を、築き上げていくことです。これが真実の勝利なんです。
 今回、やっと関西勝利の伝統を、初めて築いたところです。どこまでも御本尊を信じ切って前進すること以外に、私たちの道はありません。
 広宣流布の遠征のなかにあって、輝かしい伝統を守って、常勝関西の歴史を築いてまいろうではありませんか!」
 さらに幹部が立ち、喜びのあいさつが続いていった。
 沸き立つ興奮のなかで、伸一は、腕時計を見ていた。やがて、そっと席を立ち、別室で身支度を整えた。
 関西本部の管理者が入ってきた。彼は、管理者に、あらたまってあいさつした。
 「長い間、お世話になりました。よかったね。ありがとう」
 「いいえ、いいえ、室長……」
 「これから東京へ帰ります。皆、喜んでいるね、よかった。……日露戦争の乃木将軍は、一将功成って万骨を枯らしたが、私は、一将功成らずとも、関西の同志が、一人残らず幸福になってくれれば、それでいいんです」
 伸一の言葉は、一人、つぶやくように、しみじみとしたものだった。管理者は感極まって、応えることもできなかった。
 伸一は、二、三人の友人に見送られて空港に行き、久方ぶりの東京へと飛び立った。一人、機上の人となった伸一は、八日早朝の、戸田城聖からの電話が、なおも気にかかってならなかった。
 「東京は、どうも負け戦になりそうだ」
 そう語った戸田の苦衷が、ひしひしと胸に迫ってくるのであった。
3  航空機は、厚い雲の層を破って、やがて雲海の上に出た。果てもない蒼穹の下に浮かぶ真っ白な雲は、生き物のように、さまざまな格好をしていて、それがまた、徐々に崩れて、新たな姿態をつくりつつあった。雲海は、地上の世界を全くさえぎって、さっきまで続いた、ここ半年の苦闘の種々を、遠い過去の足跡として思い浮かばせた。
 伸一は、それらの苦闘が実を結んだ結果に身を委ねて、他人事のように客観視する余裕を得たのである。
 ″苦しいといえば、あれほど苦しい戦いもない。楽しいといえば、あれほど楽しい戦いもない。苦楽というものは、本来、一つのものなのかもしれない。しかし、そういえるのも、勝利の栄光があったからではないか。もし、敗れたとしたならば、苦しさだけが残るのではないだろうか″
 彼は、慄然とした。彼の一念は、やがて、東京の戸田のことだけを考えていた。
 雲海の着想は、未来へと向かった。
 ――広宣流布の、長い旅程のなかにあって、あのような油断ならぬ苦闘から、わが友らは、永久に免れることがないのだろうか。会員は、今後、ますます激増する。広宣流布の時が熟しているからだが、その旅程のなかで、選挙のたびに、同志の支援活動も続くだろう。
 すると世間は、創価学会が、何か″政治的野心でもあって活動している″と思うだろう。学会を、政治集団と誤解して、権力もさまざまな干渉をしてくる。
 創価学会は、あくまでも、人類の永遠の幸福を願つての、広宣流布という希有の使命を担った団体でなければならぬ。とともに、日本における立正安国を実現するには、政治とのかかわりを無視して進むわけには、いかない段階なのかもしれない。
 現実の社会にあって、政治の占める比重は極めて大きい。現実社会にかかわっていく以上、政治的側面が、当初、どうしてもクローズアップされてしまうことも事実である。そのため、社会から、政治的集団のように見られることも、免れないであろう。
 この尊い純粋なる信仰の団体が、政治的団体のように見られることは、残念でならない。また、信仰を利用し、政治家の地位を狙う者も出てくるであろう。これもまた、排除していく必要がある。
 大阪での戦いは、勝った。東京は、敗色濃厚である。ともに壮烈な戦いであった。その死闘ともいうべき戦いのなかで垣間見たものは、権力というもののもつ、底知れない魔性であった。
 立正安国の実現をめざす以上、その魔性との対決を、もはや避けることはできない。かといって、進むには、政治の泥沼に、足を踏み入れなければならないだろう。すると、学会の、広大にして偉大な使命を、矮小化することになる危険性がありはしまいか。このたびのような選挙活動は、どうしても通らなければならない、関所ということになるのだろうか。
 だが、選挙がどうあれ、根本の信心というものを、忘れることがあってはならない。政治だけを目的とするのであれば、こんな苦しみはないはずだ。そこに、立正安国の建設を、現実社会で進めなければならない創価学会固有の苦悩があり、未聞の作業がある。これには、それ相応の覚悟がなくてはならないはずだ。この避けがたい問題に、いかに対処すべきか。
 ともあれ、立正安国とは、生命尊厳の哲理を根底に、人びとが幸福に生きる平和世界を、築き上げていくことだ。
 そのためには、政治、教育、文化、学術、平和運動など、あらゆる分野の建設に取り組まなければならない。しかし、社会は、政治にことさらスポットを当て、あたかも、学会が政治集団であるかのように、歪めて見るかもしれない――。
 伸一は、雲海のなかから、突然、湧き出たような疑問を、反芻しつつ沈思した。
 彼は、ふと雲海の裂け目の下に、美しい海岸線が連なるのを見た。
 ″この山河には、なんの矛盾もないように見えるが、そこに棲息する人間社会は、何ゆえに矛盾に矛盾が重なり、混沌たる様相を呈するのだろうか″と思った。今の彼に解けぬ矛盾は、あまりにも大きく、また重大に思われた。
 ″勝利の直後の、この雲海の着想を、わが師・戸田城聖先生に、お尋ねしたら、師はなんと言われるであろうか″
 彼の心は、東京へ、本部へ、戸田の膝下へと急いだ。
 航空機の飛行は、今の彼には、ひどくのろく思われた。勝利の後の思索は、栄光の陶酔を彼に許さず、彼の覚めた心をさいなんでいた。
4  東京の本部は、憂色につつまれていた。
 昼過ぎには、清原かつは、敗色が濃くなった。定数四を争う戦いで、四位に一万五千票余の差をつけられて、五位に低迷していたのである。
 午後二時を過ぎると、大勢は決した。東京は、四位の候補に「当選」が報じられて、清原の落選が決定した。「当確」となった大阪の春木は、すでに次点と三万七千余票の差をつけていた。
 最終的には、清原の得票数は二〇三、六二三票で、四位当選者に三万六千票以上の差をつけられて、次点にとどまった。一方、春木は二一八、九一五票を獲得し、次点に四万票余の差をつけて、堂々の当選を果たした。
 敗北した、東京勢の衝撃は大きかった。さまざまな条件のうえから比較した時、東京は、決して勝てない戦いではなかったという反省が、にわかに彼らの心を責めたのである。
 補欠の二人を含めて、五十二の議席を争う全国区は、なお混沌としていた。開票集計が遅れ、九日午後の発表で、当確者は、わずか一人であった。創価学会が支援した、全国区候補四人の得票の行方も不明であった。九日午後三時の発表を見ても、関久男だけが五十位以内にいて、十条俊三や、山平忠平は、百位以内、原山幸一にいたっては、百位以下の順位であった。
 戸田城聖は、会長室にあって、不機嫌であった。
 彼が、戦いすんで、九日の丑の刻に予感した不安が、そのまま、白昼にさらされている思いがして、不愉快であった。
 ″確かに、険しい山にさしかかっている。大阪という、最も険しい山は越えたのに、いちばんなだらかな山と思えた東京が、越えられなかった。清原かつを、落としてしまった。東京の幹部は、何をしていたのか、油断もいいところだ″
 戸田は、明暗を分かつ油断の恐ろしきを、今さらのように、かみしめていた。全国区の四人の当落も、まだわからない。彼の脳裏を駆けめぐるものは、立正安国の至難さについての、新たな覚悟であった。
 山本伸一は、九日夜、東京の学会本部に着いた。
 彼は、直ちに二階の会長室へと駆け上がった。戸田は、シャツ一枚で扇子を使いながら、泰然としていた。
 「ただ今、戻りました」
 「おお、ご苦労。伸ちゃん、東京は、ひどい戦をやってしまったよ。大阪の連中は、元気だろう。東京は、火が消えたようだ。少々だらしないが、負け戦もなかなか教訓に満ち満ちていると、今、考えているところだ」
 戸田は、こう言って伸一に笑いかけた。
 伸一は、心なしか戸田の疲れた表情を顔に見て、途端に、雲海の着想を言いだす機会を失って、口をつぐんだ。
 「いよいよ、険しい山にかかってきたな。大事なのは、信心だなあ、伸ちゃん」
 つぶやくように言って、神経質に仁丹を噛んだ。
 そこへ、一人の青年幹部が、紙片を持って入ってきた。ラジオの開票速報のメモである。
 戸田は、静かにメモに視線を落とした。五十位以内は、関久男だけであった。あとの三人は、相変わらず五十位以下で、十条俊三が、もうひと息のところだった。
 「うまくないなあ。あとは関だけか……」
 戸田にとって、清原かつの落選は、打撃であったらしい。彼の不機嫌を知って、皆、会長室に近寄ることを、はばかっている気配である。戸田には、伸一が、今、側にいることだけが、安らぎであった。
 彼は、ごろりと横になって、伸一に言った。
 「伸ちゃん、疲れたろう。今日は、早く帰って休もうよ。明日、また話そう。ちょっと考えなければならんこともあるからなあ……」
 伸一も、この時、″私もお聞きしなければならないことがあります……″と、口の先まで出かかったが、それは、言葉にならなかった。
 一夜明けて、十日になった。全国区の当選者や、当選確実者が、続々と名を連ねた。関久男だけが、二十位前後で当選となり、十条俊三が五十位の前後に浮き沈みして、人びとの肝を冷やし、なかなか決まらなかった。山平忠平と、原山幸一は、残念ながら落選の見通しとなってきた。
 正午を過ぎて、全国区も、ほぼ確定的になってきた。
 午後四時、ヒヤヒヤさせた十条俊三が、かろうじて四十九位で当選となった。あとは散票の集計だけである。
 最終的な得票は、関が三一五、五九七票で二十三位、十条が二六一、五四九票で四十四位で当選。山平は二二四、八一五票で五十九位、原山は一八九、七八六票で七十八位で涙をのんだ。
 この四人の全国区候補の総得票数は、最終的に九十九万余票となった。
 今回の参議院選挙の焦点は、与党自民党の企てる憲法改正を、革新派が阻止できるかどうかにかかっていた。つまり、参議院の社会党、共産党、革新系無所属などの革新派が、三分の一以上の議席を占めれば阻止できる。自民党、緑風会、保守系無所属が、三分の二の議席を獲得すると、憲法改正が可能になる。予断は、なかなか困難で、国民の関心も、この分岐点に集まっていた。
 社会党は、四十九人の今回の当選で、非改選の三十一人を加えると、八十議席を占めることになった。これは、選挙前の六十八議席から見ると、相当な躍進である。自民党が、六十一人の当選で、百二十二議席と現状維持に終わり、緑風会は、改選前の四十三議席から、三十一議席に転落した。
 これで革新派は八十六議席を占めることになり、参議院の定数二百五十の三分の一を、わずか三議席超えて、憲法改正を阻止できる議席を獲得したのである。
 創価学会の推薦候補は、地方区、全国区合わせて六人のうち、三人当選、三人落選という結果となった。半ば喜び、半ば悲しむといった、勝ったようでもあり、負けたようでもあるという結果である。だが、大方の学会員にとっては、悲しみの比重の方が、はるかに大きかった。
 それというのも、戸田城聖が会長就任以来五年、創価学会が企画したことは、これまで、ことごとく成功してきたからである。
 年間の折伏成果をはじめ、一年前の統一地方選挙の支援活動にせよ、全国的な夏季地方指導や、機関紙の拡張、建造物の基金にせよ、ひとたび企てたことは、そのまま、ほとんど百パーセントが実現し、挫折したり、つまずいたりしたことは、これまで一度としてなかった。
 そこへ、五十パーセントの勝利と、五十パーセントの敗北である。多くの会員たちが、大いなる異変として、衝撃を受けたのも無理はない。
 広宣流布の新しい展開に、骨身を砕いていた戸田城聖にとっては、事態は、まさに深刻であったといわなければならない。正直なところ、彼は混乱したのである。
 真っ先に頭に浮かぶことは、″そもそもこの新展開は、正しかったのだろうか。それとも誤っていたのだろうか。時期尚早であったのかも知れない″という自省であった。
 彼は、この判定に自ら苦しんだ。立正安国という大業が、未聞の大業であるだけに、歴史上、極めて至難中の難業であることを、彼は、誰に言われるまでもなく覚悟していた。それだけに、慎重に慎重を期して、全知全能を傾けて事にあたってきたわけである。だが、このたびの五十パーセントの勝利と敗北は、彼には、敗戦としか思えなかった。
 ″しかし、全くの敗戦ではない、あの最も至難とした大阪が、見事に勝ったではないか。してみれば、時期尚早というには、あたらぬ現実がある。錯雑微妙なところだ″
 大阪の勝利をもたらした山本伸一の存在は、今の戸田城聖にとって、広宣流布の未来に輝く唯一の星であった。
 ″七百年来、不可能とさえ思われた難業の広宣流布を、可能へと推進するのもまた、現時点にあっては山本伸一であろう″
 今、鮮明に湧き出てきた、この確信ほど、思いに沈んだ戸田に、救いとなるものはなかった。
 ″端緒は聞かれた。わが創価価学会は、今後ますます信心強き人びとの集いでなければならない。創価学会は大地である。大地が盤石でありさえすれば、木々は育ち、枝や葉も、果実も、やがて、豊かなものになっていくだろう。現会員四十余万世帯の一人ひとりの信心こそ、問題としなければならない。懇切な指導による信心の深化とそ人材育成の要諦であり、それこそが、いつの時代にも絶対の要請となる。さもなければ、すべては空中の楼閣となって終わるだろう。恐るべきことだ。量の問題も大切だが、それよりも、質の問題が重要であるといわなければならない″
 戸田は、ここで組織の再編成を考えていた。
 ″これまでのように、本部のもとに十六支部があるという単一な編成では、全国各地の隅々にまで、指導の徹底を図ることは、もはや不可能な時期になってきている。方面を充実させ、総支部体制を検討しなければならない段階に入ったのではないか。そのためには、一挙に支部を倍増するぐらいな、大胆な組織変革を遂行しなければならないだろう″
 彼は、全国に散在する、目ぼしい新進幹部の顔々を思い描いていた。
 戸田の思索は続いた。
 ″広宣流布という未曾有の大運動は、あらゆる分野にわたっての連続革命、連続運動である。しかし、あくまでも、仏法を基調とした平和・文化の開花でなくてはならない。もともと広宣流布とは、人類社会のあらゆる分野に、妙法を土壌として真の人物を育てる活動でなければならぬ。なんのかんのと言っても、救世の真の新しい政治家も、この土壌なくしては育てることはできない。私は、確信をもって、そう言い切ることができる。ともかく、原点たる信心即学会精神というものを、いかにして永続せしめるかに、重大なる課題がある。
 それにしても、険しい山に、いつか差しかかってしまったものだ″
 戸田城聖は、今、考えることが、あまりにも多すぎた。
 この日、彼は、必要な用件のある幹部以外の人は、自室に呼ばなかった。指示を受けた幹部は、すぐ退室した。そして、「先生は、今日は機嫌が悪い」と言って、去って行った。
 戸田は、機嫌が悪かったのではなく、朝から一人、沈思して、孤独のうちに、思索から思索へと多くの糸をたぐりよせては、また放ち、また新たな糸をつかんで探っていた。
 ″政治は好きか嫌いかと言われれば、嫌いである。できることなら、権謀術数を事とするこの世界からは、身を避けていたい。しかし、立正安国のために、どうしても通過しなければならない道程であるとしたら、好き嫌いは言つてはいられない。権謀術数を事として人を欺く政治家ではなく、妙法の土壌から、見事な真の政治家を育でなければならぬ″
 彼は、その重い使命を担って、このたびの戦いに、手を染めなければならなかったのだ。戸田の心は、戸田自身を激しくさいなんだ。
 ″今回の戦いで、多くの会員に苦戦を強いてしまった。会員は、この苦戦をも顧みず、身を粉にして戦ってくれた。新しい民衆勢力の台頭を、快しとしない既成勢力からの圧迫もあった。にもかかわらず、ただ純粋に、同志の勝利を願って健闘してくれた。それは、懸命な、熾烈な戦いであったといってよい。しかし、もっと、ゆとりをもって、伸び伸びと戦える道はないものか……″
 戸田は、誰よりも深く、会員を思いやる人であった。彼にとって、会員の苦しみほど辛いものはなかった。彼の脳裏には、いとおしい会員の顔が、次々と浮かんでくるのである。
5  戸田は、新しい課題を、四方八方から攻めるように、執勘に追っていた。厳しい表情である。そこへ、山本伸一が入ってきた。戸田は、あいさつする伸一に、すぐさま声をかけた。
 「暑いなぁ。こう暑くては、考えることが、なかなか、まとまらなくて弱るよ。ハッハッハッ」
 戸田は、豪放に笑った。しかし、胸中の思いは、隠しょうもなく、言葉になって口から出た。
 「伸ちゃん、いよいよ、広宣流布の活動も大変なことになってきた。将来、君には、大変にやっかいな荷物を、背負わせてしまうことになるかもしれないな。昨日から考えているのだが、今度の選挙は、将来の学会にとって、新しい面倒な課題を提起しているように思うんだ」
 伸一は、これを聞いて、反射的に「雲海の着想」を思い起こした。戸田に先を越されて、聞くより先に言われてしまったことに、伸一は、瞬間、驚いた。
 「私も、帰りの飛行機のなかで、ふと、そのことに気づいたんですが、今の私には、わかりません。それで先生に、ぜひ、お聞きしたいと、昨日から思っておりました」
 「ほう、そうか。責任感が同じなら、考えることも同じだな」戸田は、わが意を得たと言わんばかりに目を細めて、さも愉快そうに笑いだした。
 伸一は、ここで、あの「雲海の着想」の要点を語った。
 ――広宣流布をめざす創価学会の活動は、日蓮大聖人の仏法を根底として、平和・文化・教育など、現実社会に展開されている、あらゆる分野に及んでいく。立正安国の戦いは、現実社会とのかかわり抜きにはあり得ない。
 戸田先生の示された構想を実現するには、政治の分野も、避けて通るわけにはいかないだろう。今回のような支援活動も、続いていくことになる。
 そのなかで、学会が、政治的野心をもっているかのような誤解が生じ、世間の批判・中傷に、さらされることもあるにちがいない。さらに、民衆に根差した新しい政治勢力の台頭を恐れる、権力の干渉もあるだろう。長い将来を思う時、政治にかかわることは、創価学会にとってプラスなのか、マイナスなのか。
 また、現実社会における政治の比重が大きいだけに、広宣流布という広大深遠な活動が、将来、政治の分野に偏向するようなことになったら、広宣流布は矮小化されてしまうのではないか――。
 戸田は、一つ一つ頷きながら、じっと、伸一の話を聞いていた。
 「私が、今、苦慮しているのも、まさにそのことだが、日本における広宣流布の展開を考えると、まるまる避けて通ることはできない。となると、単なる戦略に原理が歪められる危険は、絶対に避けなければならないことになる。これが難しい点だ。現実的な社会というものは、どうしても、安易に政治的に流されやすい。
 ともかく大聖人は、『日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外・未来までもなが流布るべし、日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり、無間地獄の道をふさぎぬ』と仰せになっている。この御精神に微塵も違わず応えていくのが、広宣流布の真髄だ。そのうえに立って、立正安国は、いかにあるべきかが課題になる。
 明治に入って、日蓮大聖人の仏法を国家主義的に解釈し、時の権力に迎合し、国家的計略の具にしてしまった、田中智学などの一派もいた。これこそ、大聖人様の仏法の歪曲であり、矮小化だ。
 われわれは、愚かな轍を踏んではならないが、その危険は、常にあると自覚しなければならない。創価学会という、仏勅を奉じる団体が、政争に巻き込まれではならないのだよ」
 伸一は、大きく頷きながら、戸田の目を見つめていた。戸田もまた、伸一を凝視し、話を続けた。
 「広宣流布というのは、人類の生命の土壌を深く耕し、豊かな実りある土壌に変えることにある。その土壌のなかから、人びとの幸福と平和に寄与できる人材を、あらゆる分野に輩出していくのだ。
 広宣流布の戦いは、どこまでいっても信心が根本であり、そして、人間に的がある。一人の人間における偉大な人間革命を、終始一貫、問題にしなければならない。それでこそ、あらゆる分野での、新たな開花が期待できる。
 政治改革といったって、人間革命という画竜点晴を欠いたら、何一つ変わるものではない。歴史を振り返ればわかることだ。
 今度の戦いだって、まだ序の口の序の口だが、立派な政治家らしい政治家を、この土壌のなかから育てなければならぬということに目標を定めて、妙法を持った同志を推薦して取りかかった仕事だ。政治の分野にも、真の政治家を育成することが、これからの課題となってきたところだよ」
 「そうですね。今回推薦して当選した人が、なんとしても立派な政治家として育ち、政治の分野で大いに活躍してほしいですね」
 「そうだ、当選した者が、民衆のために、国家のために、人類のために、いかに嵐を受けながら、奔走するかだ。それを、皆で激励し、見守っていきたい」
 「わかりました。そうした人材を、数多く輩出していくには、長い時間が必要ですね」
 「その通り。しかし、手をこまぬいていては、いつまでも人材は育たない。その第一歩として、今度のような支援活動をやった。しかし、その広宣流布の道程が、いかに険難であるかを、思い知らされたような気がする。
 伸ちゃん、現実は修羅場であり、戦場だな。社会の泥沼には、権力闘争が渦巻いている。そのなかで妙法の政治家を育てていくんだから、相当の覚悟が必要だ。まず、権力の魔性と対決することになる」
 「確かに、その通りです。オーストリアの作家シュテファン・ツヴァイクが、『権力にはメドゥーザの眼光がある』と書いている通りですね」
 伸一の語った″メドゥーザの眼光″というのは、ギリシャ神話に出てくる物語で、メドゥーザという女神の顔を見た者は、目を外すことができず、石と化してしまう話である。
 権力の魔性に遭って、将来ある妙法の政治家が、石と化してはかなわない。
 思いめぐらして、戸田は、つぶやくように言った。
 「この権力の魔性という怪物は、信心の利剣でしか打ち破れないんだ。それは、権力を生み出す社会の仕組みもさることながら、深く人間の生命の魔性に発しているからだ。この見えざる『魔』に勝つのは、『仏』しかないからだよ」
 部屋には、誰も入って来なかった。
 師と弟子だけの率直な真摯な対話は、二時間余りも続いていた。
 戸田は、急に観点を変えて話しだした。
 「仮に、今の自民党にしろ、社会党にしろ、仏法の生命尊厳と慈悲の哲理に基づくならば、民衆の願う、真の平和な、幸福な世界の実現に寄与し得るだろう。それも一つの姿であるかもしれないが、まず難しいだろう。
 日本の現状を思うと、政治家だけを、どうとうしようとしても、どうにもならない。新しい民衆の基盤から、新しい民衆の代表である政治家を誕生させることが、今ほど望まれている時代はないだろう。創価学会から、同志を政治の分野に送ったのも、時代の要請ともいえる。
 今のところ、私たちの送り出した同志は、政治手腕も未熟だし、未知数だ。しかし、いつまでも素人ではないだろう。やがて、政治家としても有能な人物に成長していくことを、私は願っている。
 今回の選挙でも、学会の支援活動は、政治に無関心であった多くの人びとに、政治への関心をもたせた。これには、大きな意味がある。本来、政治は民衆のものだから、人びとが、政治を監視する意識をもつことが大事だ。
 そうした土壌を深め、広げていけば、そこから、新しい本格派の政治家が出現していくにちがいない。政治家を育てるのは、結局は民衆であるからだ。
 将来、何十年先になるかわからないが、多くの民衆の期待に応え、衆望を担う真の政治家が、続々と出現したらどうだろう。世論は、彼らを信頼するに足る政治家として、支持するにちがいない。悪徳政治家も淘汰されるだろう。
 こうなると、今の学会員の支援活動など、問題ではなくなる。社会の広範な支持が基盤となっていくだろう。むしろ、そういう時代をつくることが大事だ。
 政治家一人では、何もできるものではない。民衆が大事なんだよ。つまり、人間が原点だ。人間が的だよ。
 また、こうも考えられる。
 広宣流布が進んでいけば、社会のあらゆる分野に人材が育っていく。政治の分野にも、経済の分野にも、学術・芸術・教育など、どんな分野にも、社会の繁栄、人類の平和のために、献身的に活躍している学会員がいるようになるだろう。つまり、あそこにも学会員がいる、ここにも学会員がいる、というような状況になっていく――広宣流布していく時代を具体的に表現すれば、こういう様相になるんじゃないか。
 要するに、創価学会は、人類の平和と文化を担う、中核的な存在としての使命を課せられることになると、私は考えている。
 伸ちゃん、創価学会は、そのための人材を育て上げていく、壮大な教育的母体ということになっていくんじゃないか。
 要は、『人間』をつくることだ。伸ちゃん、この人間革命の運動は、世界的に広がっていくことになるんだよ」
 戸田は、伸一と語り合っているうちに、知らず知らず、広宣流布の未来図を話していた。話しているうちに、おのずと描かれたのである。
 伸一は、その未来図を、遠く望むように目を細めて言った。
 「創価学会が、広く社会を潤し、壮大な人間触発の大地となる。そこから、人類の輝かしい、新しい未来が眼前に開ける、まことに雄大な構想ですね。ずいぶん先の将来に思えますが……」
 「遠いといっても、百年も先ということにはなるまい。しかし、私の生涯に、そのような時代が来るとは思えない。伸ちゃん、君たちの時代だ。それも、後半生の終わりごろから、その傾向が顕著に現れてくるんじゃないかな」
 悠久に身を委ねた予見者の顔は、厳しくもまた、崇高であった。
 伸一は、戸田の顔を見つめながら、あの雲海の世界の悠久さに、身を置いていることを知った。
 そして、戸田の言説は、行き着くところ、ことごとく伸一への遺言の響きを帯び、彼の心に、深く刻まれた。
 「わかりました。政治の分野についていえば、私たちが、今度のような支援活動を一生懸命にやったのは、創価学会という土壌から、識見、人格を備えた真の力ある政治家を、なんとか育てたいという悲願からなんですね。そこで今回、その第一歩を踏み出した……」
 「そうなんだ。しかし、人びとは、政界進出の野心でもあるかのように取るだろう。いつの時代でも、世間というものは、そういうものなんだなぁ。
 創価学会は、間違いなく宗教界の王者になるにちがいない。大聖人が、『されば首題の五字は中央にかかり』と仰せになっているように、大聖人の仏法は、思想・哲学の王者だ。その偉大な仏法を、創価学会は、世界に弘めようと立ち上がったんだからな。
 だからこそ、社会のあらゆる分野に、御本尊を持った真に優れた人材を送り出していくのが、創価学会の使命なんだよ。
 それらの一人ひとりの、偉大な人間革命の実践が、新しい世紀における人類社会に、偉大な貢献をすることになる。
 政体とか、政権といったものは、長い目で見れば、その時代、その時代で変わっていくものだ。そんな移ろいやすいものに、目を奪われてはいけない。民衆自身に光を当てていかなければ、この厄介な社会を寂光土化する広宣流布という仕事は、決してできはしない。
 われわれの仕事は、今は、世間は誤解こそすれ、誰一人、理解しないだろう。それで結構。人目につかなくても結構だ。しかし、いずれは世間が目を見張る時が、きっと来る。その時になって、初めて広宣流布という未聞の偉業を理解し、やっと讃嘆することになるだろう」
 この時、山本伸一は、「雲海の着想」の疑問が、壮大な未来の光輝に照らされていることを感じた。
 そして、彼の思索が、眼前の状況に阻まれ、未来への視界が開けきらずにいたことに気づいたのである。
 「先生、今は、当分、今度のような支援活動を必要とする時代なんですね。究極の目標をしっかり見つめて、目をそらさず、着々と進んでいけば、それでよいわけですね」
 「それはそうだが、今度の新しい展開は、あまりにも教訓に満ち満ちている。結論を急ぐのはよそう。考えることが多すぎるんだよ。世間にどう映るか、それも考慮に入れなければならん。伸ちゃん、君も、よく考えてくれたまえ。厄介なことだが、これは、乗り越えていかねばならない問題なんだよ……」
 また、このたびの選挙で、多くの違反者を出してしまったことに対して、戸田と伸一は、言語に絶する苦痛を感じていた。そのほとんどが、戸別訪問容疑であった。
 真剣のあまりとはいえ、選挙法に対する無知とはいえ、法律を犯すことは社会人として許されない。本人はもとより、家族のことを考えるにつけ、二人の断腸の思いは続いた。
 戸田は、悲痛な表情で伸一に語りかけた。
 「なんとか、弁護士とも相談して、最善の手を打ってくれたまえ。今、頼れるのは君だよ。幹部も皆、疲れ果てている。私も疲れている……」
 「わかりました。先生の苦衷を思うにつけ、私は、会員の激励に最大の努力を払います。ご安心ください」
 戸田の声は、厳然としていたが、伸一は鋭く、その疲れを察知したのである。勝った大阪の将である伸一には、まだ戦う余裕があった。
 この時、会長室の扉が開いた。戸田城聖と山本伸一との、未来をかけた久方ぶりの師弟の対話は、ここで途切れた。
 部屋に、そろって入ってきたのは、六人の推薦候補たちである。今は、当選した三人と落選した三人であった。話は、たちまち現実に戻った。
6  創価学会の推薦候補六人のうち、三人が当選したことは、一般世間にとって、かなり衝撃的なことであった。それというのも、三人とも政治家としては、全くの無名であったからである。
 大阪の春木征一郎の当選も、地元大阪では全く予想外であったらしい。七月九日付の「朝日新聞」夕刊の報道記事は、「″まさか″が実現」との見出しを掲げ、驚愕を、そのまま伝えている。
 「『まさか』といっていたその″まさか″が現実になった。これはどういうことなんだろうか。大阪の三人は、自民の二と社会の二、計四人の候補者で争うというのが衆目の一致したところだったのに」
 同紙は、春木が当選した原因を、「やはり人海戦術か、有権者があえて″新しいもの″に期待したのか」と分析していた。
 創価学会本部には、報道関係者が戸田城聖に面会を求めて、どっと押し寄せた。新聞社はもちろん、放送局、雑誌等の記者たちが、次から次へ、引きも切らずやって来た。
 三人の国会議員が、創価学会を基盤に一挙に輩出されたことは、よほど記者たちの意表を突く出来事であったらしい。彼らの質問も、学会が、まるで政治団体にでも、なったかのような先入観をもって、興味本位の取材に終始した。
 戸田城聖は、彼らに、創価学会の理念を懇切に説いたが、彼らは、理解しようともしなかった。
 戸田にとって、もう一つの心痛む問題は、東京をはじめとする、落選した候補を応援していた会員たちの落胆ぶりであった。その意気消沈した会員の様子を耳にするにつけ、まず、戸田自身が奮い立たなければならなかった。
 反省から展望へと、戸田の思索は続いていたが、躊躇なく、新段階へと広宣流布の道を開くことが、何よりも急務である。さまざまな情勢は、その断行を、彼に迫っていた。
 彼は、まず人心の一新を考え、人材の思い切った登用を考えた。そのためには、組織の新編成が必要になる。
 戸田は、ここ一、二カ月間、慌ただしく全国を駆け巡ってきた。そのなかで、支部長として立つべき新たな人材を、見いだしていた。そのメンバーに光を当て、地方支部の創設を、検討し始めたのである。
 また一方では、毎日のように、各支部の幹部会を、それぞれ開催し、悄然とした会員を激励し、奮い立たせることに力を注いだ。
 七月十七日には、男子部幹部会が豊島公会堂で、十九日には、女子部幹部会が中野公会堂で、それぞれ開催された。そして、形式主義に堕して、硬直したきらいのある組織を、透徹した信心をもって、柔軟にして弾力のある、生気はつらったる組織に蘇らせることが、決議された。
 こうした一つ一つの布石にも、将来を展望しての、戸田の深い反省があったのである。
 七月十六日の午前九時、本部の会長室に、理事をはじめ青年部の首脳らが集まり、戸田を中心に二時間にわたって、最高会議が開かれた。この時の決定が、二十四日の七月度本部幹部会で発表された。
 全国から幹部が集った本部幹部会は、まず、人事発表から始まった。
 満五年にわたり、青年部長の任にあった関久男が、理事に就任し、理事室は小西理事長以下五人となった。後任の青年部長には、男子部長であった山際洋が任命された。男子部三万六千、女子部二万三千の部員を擁する青年部の指揮を執ることとなった。
 男子部長の後任には、男子第五部隊長の秋月英介が任命され、まず男子部から、人心一新の動きが始まったのである。
 この月の折伏成果は、九千三百七十四世帯にとどまった。戦い終わった疲労も、確かにあったことは事実である。だが、何よりも、半ば勝利、半ば敗北といった、支援活動の精神的な打撃が、数字となって現れたにちがいない。
 戸田城聖は、最後の講演で、彼自身の心境を率直に語って、全国の幹部をいたわりつつ、さまざまな世評に惑わされることのないように戒めた。
 「今度の選挙は、勝ったようであり、負けたようであり、すこぶる混乱を呈しております。
 世間では、学会から三人も参議院議員が出るなどということは、夢にも思っていないことでありましたから、こっちが三人落として残念がっているのに、向こうは三人当選してびっくりしている。
 それで、ご承知のように、新聞では、そうとう騒ぎ立てた。今度は、雑誌で書き立てられている。毎日、毎日、押しかけられて困っている。これからも、いろいろと悪くも言うでしょうし、よくも言うでしようが、そんなことで、信心がぐらつくことのないように、真っすぐな信心に立ってもらいたいと思います。
 なにも、新聞で褒められたからといって、嬉しがることもなければ、悪口を言われて驚くこともない。われわれの信仰は、ただ一途の信仰でなければならないと思うのであります」
 戸田は、なんの強がりも気負いもなく、ただ淡々と語っていた。
 平常心というものが、厳然としていて、彼の言葉は、聞く人の耳に素直に通った。つまらぬ世評に動揺したり、悔恨で胸をふさがれていた会員の心は、凍えた土が太陽に溶かされるように、いつか暖かく溶解していった。
 戸田は、今後の活動の指針を与えて、言葉みじかに言った。
 「今後の折伏でありますが、どこまでも、立派な会員をつくっていく、日蓮大聖人様の御心にかなった、立派な会員をつくっていくという心持ちで、しっかりやっていただきたい。
 今月の折伏は、長らく闘争してきた結果、休戦したらしい。戦いを休んだらしい。だから数も九千(休戦)だ。皆、一万やっては悪いと思って、遠慮したらしい。来月からは、遠慮はいりません。立派な会員を数多くこしらえて、御本尊様にお礼を申し上げていただきたいと思います」
 新しい展望による、一つの転換期であった。十七の新支部の結成が企画に乗り、その編成準備が全国的規模で始まった。
 北海道に四支部の創設、大阪支部が七分割されるといったように、組織の拡大が検討された。それは、学会にとって画期的な飛躍であった。新支部長などの幹部の人選は、戸田の胸のなかで練りに練られた。
7  この年も、八月三日から七日までの五日間、夏季講習会が総本山で開催された。三日目の五日午後、運営本部が置かれている理境坊で、戸田を中心とする首脳幹部による最高会議が開催され、今後の方針が検討された。
 席上、課題となっていた新支部の創設についても協議され、当初、予定されていた十七支部のうち一支部の結成が延期された。結局、十六の新支部が誕生することになり、新支部長の任命と、新支部旗の授与は、八月二十六日午後、東京・両国の国際スタジアムで行われることになった。
 この最高会議での最大の議題は、今後の学会の、実際的な運営に関する慎重な検討であった。学会行事の中心は座談会とし、それも、組座談会を主力として、たとえ三人、五人でも、組長の発意で、適宜に開いても差し支えないということになった。戸田城聖が、出獄後の再建期に、自ら実践した方式に則ったわけである。
 これまでは、折伏の実践のない会合が、いたずらに多すぎた。支部長会、地区部長会、班長会、組長会などの会合を極力整理し、草創のはつらつたる息吹を、もう一度、組織の先端から呼び起こそうとしたのである。
 このような変革は、すべて、このたびの戦いの教訓から、反省と展望のうえに立って、立案されたものということができる。
 戸田は、草創の再建期にあっては、毎晩のように座談会に出席した。それも、三人、五人の少人数の座談会から始まったのである。現在の首脳幹部は、そのころ、戸田に同行して、それらの座談会で折伏を学び、指導のなんたるかを、つぶさに会得した。思い出しても、生き生きとした、楽しい会合であった。
 具体的実践ほど、人を成長させるものはない。形式を打破した閤達自在な小会合ほど、生命と生命の触れ合う親しさが軸となって、そこに固い団結も、同志愛も、学会精神の脈動も生まれる。信心という姿なきものの実在は、はつらつと心の通う座談会にこそ、忽然と現れるのである。
 幾多の会合の忙しさに紛れて、いつしか座談会を軽視しがちな幹部の動向を、戸田は厳しく戒め、座談会が形式主義に陥る弊害を除去しようとした。その背景には、座談会を組座談会まで拡大した山本伸一の、大阪闘争があったことは言うまでもない。
 八月二十六日午後一時、両国の国際スタジアムで、全国新支部結成大会が行われた。各地に誕生した十六の支部の、新しい支部長の手に、新しい支部旗が授与されたのだ。
 北から名をあげれば、旭川、札幌、小樽、函館、秋田、新潟、大宮、浜松、名古屋、京都、船場、梅田、松島、岡山、高知、福岡の新十六支部である。そして各支部に、支部長、婦人部長、男子部隊長、女子部隊長が、それぞれ住命をみた。これまでの十六支部は、倍増して三十二支部となり、男子部隊と女子部隊も、それぞれ三十二部隊の陣容に飛躍した。
 さらに、理事も新たに誕生し、理事室は、小西理事長以下六人となった。また、関西に総支部制が敷かれ、初代総支部長に春木征一郎が就任した。
 これらの組織変革は、創価学会始まって以来の飛躍である。集った全国の幹部たちは、新時代の到来であると、いやでも考えざるを得なかった。
 戸田城聖は、林立する新支部旗を前にして、社会が、創価学会という団体を、やっと注目し始めた、と語りだした。
 「七月八日の選挙が終わって、その次の朝、朝と申しましでも夜中の二時に、私は、ひしひしと身に感じるものがありました。そして、一首の歌をつくりました。
 『いやまして 険しき山に かかりけり 広布の旅に 心してゆけ』
 これが、私の心であります。
 案の定、選挙が終わって以来、初めて日本の社会がびっくりして、清く公平な学会が、悪口を言われたり、攻撃されたり、あるいは間違った報道が始まり、あらゆる状態が、われわれ創価学会のうえに降りかかってまいりました。あの選挙の時に、私が同志の応援のために、全国を歩いて感じたことが、それなんです」
 それから戸田は、現代の社会においては、宗教という宗教が死んでいると説き、日蓮大聖人の仏法のみが、生きた宗教である、と次のように語った。
 「わが創価学会によって、″宗教は生きている。生きている宗教がある″ということを教えられているのであります。今日、文化人、あるいは、その他の人びとも驚いた。いや驚いている」
 このたびの選挙が、それを教え、「日本の潮」として、識者が初めて気がついたところであると述べ、こう訴えたのである。
 「今の科学者にもせよ、政治家にもせよ、いかようにして、世界を平和にしようかと考えているのであります。しかし、政治の次元だけでも、科学の次元だけでも、本当の幸福は、絶対にできるものではない。人間は、誰人も、生老病死という根本の命題を避けることはできない。その生命の実相を直視し、解決している真実の宗教が不可欠になってくる。その宗教が、生命の大哲理を説いている、日蓮大聖人の仏法なのであります」
 戸田は、最後に力を込めて言った。
 「大聖人の仏法の力で、宗教そのものの力のうえに立っての、もろもろの活動によって、真実の地上の楽土をつくらんと願うものですが、皆さんも同じ心になって、民衆救済のために、広く人類社会のために、立っていただきたいと、お願いするものであります」
 数日おいて、八月三十一日夕刻、豊島公会堂で八月度の本部幹部会があった。
 席上、小西理事長からは、総本山に大講堂を建設し、供養することについての話があった。「大講の建立寄進」は、「五十万世帯達成」「参議院へ有能にして高潔な人材の推薦」とともに掲げられた、この年の三大目標の一つであり、戸田が発願したものであった。
 「御供養は、どこまでも、信心の表れでなければなりません。どこまでも、信心を根本に、楽しんでできるような御供養を、お願いしたいと思います」
 小西は、御供養が、この年の十一月から翌年の十月まで、一年間かけて行われることを述べて、その趣旨を徹底した。
 最後に、戸田城聖は、九月からの新方針である組座談会の実施について、その根本精神を懇切に語った。座談会についての、学会草創期からの伝統と実践に基づく確信とが、みなぎっていた。
 「来月から、と言っても明日からですが、組座談会を中心にすると言ったら、みんな、とんでもないことが始まるみたいに慌てている。それというのも、今の幹部、地区部長にしても、二代目という人が多い。会長が二代目だからしょうがないとしても、人のつくった地盤で地区部長になり、そのイスに、でんと座っている人が多い。自分一人で地区を育ててきた人は少ない。だから、組座談会というと、とんでもないことが始まったみたいに思うんです。
 私は、牧口会長以来、小さな座談会ばかりやってきた。行くというと、二人か、三人しかいない。今日は集まりがよいという時でも、二十人ぐらいのものです。そのなかに、たいてい、信心に反対の人がいる。そういう座談会が本当の座談会です」
 戸田は、現在の座談会が、形式に流れ、組長、組員の信心の育成の場となっていないばかりか、親しさの全く失われた会合になってしまったことを痛撃した。
 「釈尊は、『法華経を持つものあれば、立って仏が来たように迎えをせよ』と言われている。
 いったい、三人だって同志がおったら、喜んで話し合って、帰って来なければならない。たった一人でもよい。一人でも、その一人の人に、本当の妙法蓮華経を説く。たった一人でも、自分が心から話し合い、二人で感激し合って帰ってくる。たった一人の人でも、聞いてくれる人がいる。この一人が大事なんです。
 私たちは、最初、座談会をやった時は、一人か二人、あるいは三人のために、遠いとこまで出かけたものです。その草創期の精神を忘れずに、組の方々を真面目に育ててもらいたい。そうすれば、あなた方の地区に組長が百人いたら、二百や四百世帯の折伏は楽にできるはずです。それを、組長教育もしないで、班長を集めて、ふんぞり返って威張りくさっている」
 まことに、地区部長や支部長には、耳の痛い話であった。
 戸田は、組織に巣くう官僚性というものが、どんなに人材を殺してしまうか、痛烈な批判を下してから、次のように結んだ。
 「あなた方も、幹部になった以上は、もう腹を決めて、本当の仏道修行を、組座談会でしてください。そうして、本当に苦労した地区部長、本当に磨き上げた幹部の一人ひとりになってください。そして、この世の人生を、悔いなく、信念の人として、飾ってください。、お褒めくださるのは御本尊様です。幹部たちに″褒められたい″なんて考える必要はありません。
 人に″褒められよう″なんて思って生きているのは愚かです。私たちは、御本尊様に褒められるようになろうじゃないか。また、人にいくら悪く言われても、いくら叱られでも、御本尊様に叱られないように、しようではありませんか。これが、真の日蓮門下であり、信仰の極理です」
 戸田は、ささやかな組座談会を、組織の隅々で、真面目に実践することによって、草創期からの学会精神を体得させようとした。地道なところの活動――仏道修行にこそ、真実の人間革命があり、広宣流布があることを、語りかけたかったのである。華やかな活動のみが、広宣流布に連なるとは限らないということを、戒めとしたかった。
 そして、会員の一人ひとりの信心を、ことごとく奮い立たせようと、この夜、いつにない情熱を傾けて力説したのである。
 さわやかな疲労が、帰途に就くタクシーの中で、彼を襲った。
 組織の飛躍的拡大による、三十二支部の新陣容で、全国的な新展開の布石を完了し、その陣容を効果的に全回転させるために、今また、最先端に組座談会一本という新方針を発表したのである。
 すべては、刻々と開かれていく広宣流布の、新しい展望に対応するためであった。
 戸田城聖は、″これで準備は、万全を期して、ひとまず終わった″と思った。学会精神の衰弱と、形式に堕す組織の官僚性とに、彼自ら、真正面から挑戦したのである。
 (第十巻終了)

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