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日蓮大聖人・池田大作

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険路  

小説「人間革命」9-10巻 (池田大作全集第148巻)

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1  一九五六年(昭和三十一年)五月十五日の早朝。
 大阪の八百八橋の街々は、まだ寝静まっていた。
 午前六時というのに、ある青年部幹部のアパートのドアを、激しく叩く者があった。青年は、熟睡していたが、物音に目を覚ました。
 ″いったい誰やろ、こんな早う……″
 彼は、不服そうにつぶやきながら、起き上がった。
 「誰や?」
 戸を開けると、数人の見知らぬ男たちが、廊下に立っている。
 「南警察署から来たんですが、蓮華寺の事件のことで、ちょっと、お尋ねしたいことがありまして……」
 「そりゃまた、なんでんね。眠とうて、あかんのや、後にしてくれまへんか」
 青年は、無愛想にこう言って、ドアをパタンと閉めた。彼は、ただもう眠かった。
 彼は、十三日の、総本山の「水道まつり」に参加し、その夜の夜行で十四日朝、大阪に着き、その日は仕事をして、夜は、戸田の法華経方便品・寿量品の講義に出席し、遅く帰宅したのである。疲れてもいたし、眠気は、彼の思考を朦朧とさせていた。
 「今すぐ、署まで同行願いたいんですわ」
 甲高い声が、ドアの外でした。
 また、ドアが、けたたましく叩かれた。瞬間、眠気は、ふっ飛んだ。″何事だろう″と、とっさに思いめぐらしたが、思い当たる節もない。彼は、再びドアを開けた。身構えた五、六人の私服警察官が、どっと入ってきた。
 「しばらく待ってください。顔も洗わんならんし……」
 青年は、流しで顔を洗い始めた。″洛ち着け、落ち着け″と、わが心に言い聞かせ、″よし、勤行だけは、ぜひ、していかなければならぬ″と腹を決めた。
 「ちょっと待ってもらえませんか。朝のお勤めをせにゃならんさかい」
 彼は、さっさと仏壇の前に端座し、音吐朗々と勤行を始めた。
 彼は、心の動揺が、見る見る平静になっていくのがわかった。
 ″それにしても、蓮華寺事件というのは、一年余りも前のことで、解決ずみのはずだ。おかしな話だが、いよいよ難が来たとでもいうのであろうか。よし、何が起きようと、しっかりしなければならぬ″と覚悟した。
 青年は、″しっかりしろ!″と、われとわが心を励まし、最後に深い祈念をして、仏壇の扉を閉じた。
 勤行が終わった時、刑事の一人が、さも感心したように言った。
 「あんた、えらい、お経が上手でんな。お坊さんみたいやな。ほんまに、うまいもんや……」
 部屋を出た途端、手回しよく狙っていた新聞社のカメラマンが二人、シャッターを切った。
 南署に着くと、玄関前に、やはり数人のカメラマンが構えていて、パチパチと撮った。まるで重大事件の犯人である。
 取り調べが始まった。蓮華寺事件にからむ事情ということから始まったものの、それは、ただ形式にすぎない観があった。取り調べの焦点は、創価学会の組織や、大阪支部の運営と命令系統など、多岐にわたるものである。彼の逮捕理由とは、全く程遠い事柄であった。
 青年は、唖然として考えた。
 ″当局は、創価学会の内情を探索している。事は重大である。陰謀的な権力が働いているようだ。学会を弾圧する手がかりをつかもうと焦っている。これもまた、学会弾圧の歴史に加わる一ページとならないとも限らない″
 彼は、何があっても戦い抜こうと、覚悟を決めた。心は、豊かに平静になった。
 取り調べは夕刻まで続き、そのまま留置され、所持品をすべて取り上げられた。御守り御本尊を取り上げられた時、彼は頑強に抗議した。
 「信仰は自由ではないですか。まだ、罪人ではない、一容疑者にすぎません。大切な信仰の対象である本尊を取り上げるとは、信仰を弾圧するものではないですか!」
 刑事は、「そんなことではない、それに付いている紐が困る」と言った。
 そこで、紐だけ外して、御守り御本尊そのものは、彼のワイシャツの胸ポケットに収まった。
 青年は、地下の留置場に入れられた。
 同室の六人の目が異様に光って、彼をじろじろと見た。彼は、地獄へ来たと思ったが、ここで負けてはならぬと考えた。夜になると、彼は勤行を始めた。下腹に力を込め、力強い声で、朗々と方便品・寿量品を読み、唱題した。留置場の看守が飛んで来て、制止しようとしたが、彼は意に介さず続けた。
 退屈していた留置場の住人たちは、牢獄で聞くお経に、好奇の耳を一斉にそばだてた。
 翌朝も、洗面と朝食が終わると、青年は、端座して、また朝の勤行をした。彼の声は、全留置場に響き渡った。
 同室の住人たちは、よほど好奇心に駆られたのであろう、彼に話しかけてきた。
 「あんた、なんで、そうお経ばっかりあげはるのや。なんか、ええことでもおますのかいな」
 留置場の、いちばんの古手で、皆から″監房長″と呼ばれている男の質問である。
 「ええこと、おますとも。誰でも、みんな幸せになれる信心は、世界中で、これしかおまへんのや」
 「そりゃ、ほんまかいな」
 留置場は、いつの間にか座談会場となった。
 彼は、大聖人の仏法が、いかに偉大であるかを力説していった。皆、初めて耳にする話である。彼らは、いつか好奇心に燃えた目を見張って、青年の言葉に耳を傾け、疑いながらも、彼の顔を、じっと見つめるのであった。
2  青年は、この日の午前の取り調べで、事件は意外な発展をしていることを知った。十五日に逮捕された学会員は、この青年を含めて全部で六人であった。男子部員四人に、壮年二人である。そして、警察当局は、南署に大がかりな捜査本部まで設置しての追及態勢を敷いていた。
 この青年が逮捕されるきっかけとなった蓮華寺事件というのは、一年三カ月前の、一九五五年(昭和三十年)二月に起こった出来事である。
 当時、この寺の住職が、「これまで学会員に下付した御本尊の、すべてを返却せよ」と、要求して問題になっていた。総本山も、その非なることを諭した。しかし住職は、聞く耳をもたなかったばかりか、「御本尊が欲しかったら学会をやめろ」と脱会を迫っていたのである。
 心ある青年たちは、S住職との対話が必要と考え、ある日、大阪郊外の路上で住職に出会い、話し合いを求めた。しかしS住職は、言を左右にして、話し合いに応じようとせず、折から止まったバスに乗り込もうとした。青年たちは、「話は終わっていない」と制止しようとした。住職は、それを振りほどいてバスに乗り込んだ。これだけのことの事件であったが、住職は、傷害罪として曾根崎署に告訴したのである。
 その時、関係した青年の一人が取り調べを受けたが、その後一年余りも何事もないままに過ぎたのである。それを、警察当局は、今ごろになって蒸し返してきた。不自然極まりない話である。
 また、別の男子部員の逮捕理由も、一年前の五月の事件であった。ある地区の婦人が退転し、他宗の人の言うままになり、御本尊を持ち去られたことがあった。青年は、その教団の本部へ交渉に行き、返却を迫ったが、埒が明かなかった。そこで壮年の支部幹事がかけ合い、やっと御本尊を返すということになった。
 ところが、その後も、この教団の幹部が御本尊を返却しなかったことから、青年と口論になった。相手は、数人がかりで青年の胸倉をつかみ、家の中に連れ込み、木剣や包丁で脅したのだ。
 交番の巡査が駆けつけ、本署で夜明けまで取り調べた結果、感情のもつれが原因ということで、供述書も始末書も取ることなく終わった。以来、なんの音沙汰もなかったのに、これも一年たっての蒸し返しであった。
 また、暴行と傷害の容疑で逮捕された壮年部の班長は、この年一月六日、彼の家で開かれた新年会でのことが理由である。その席に、退転した会員二人が泥酔して飛び込んできた。食膳をひっくり返し、ガラス戸を破って暴れたので、皆で追い返そうとした。その時、泥酔した一人が、玄関で転んでコブをつくったという出来事であった。五カ月も過ぎて、今さらの取り調べであった。
 このような、個々別々には既に解決していたはずの事柄を蒸し返し、創価学会による組織的な暴力があったかのように、警察当局は、一斉逮捕に踏み切ったのである
3  十五日夕刊には、大阪の新聞という新聞がそろって、学会が「暴力宗教」であるかのように、大々的に逮捕を報じたのである。
 事の真相を知る人にとっては、警察の意図が、かなり陰謀的な術策を弄しているように映ったのも当然である。
 この事件の報道に、ある地方有力紙は、一面の全面を費やしたり、ある新聞は、三面トップで大々的に扱った。この逮捕事件を、大なり小なり掲載しない新聞は、大阪にはなかった。ある新聞の十五日付夕刊には、逮捕者の顔写真が載り、さらに、大阪府警の警備部長の談話まで載っていた。
 「いまのところ学会員の個人的な暴力行為または傷害事件と思われるが、件数が意外に多いことと暴行の動機がいずれも宗教団体を背景にした理由であるところから学会の指導方針と疑えるフシがある。調べによっては命令系統である上部組織に波及するかもしれない」
 あわよくば、創価学会弾圧の手がかりをつかもうとする意図が、ちらちらと見え隠れしていた。
 この権力の動きの背後には、多分、他宗の画策もあったにちがいない。
 四月の、大阪支部の九千世帯の本尊流布を知って、慌てたのは大阪の他宗であった。ある首脳の一人が、このころ、相手が学会員とは知らずに漏らした言葉がある。
 「寺というものは、檀家が三百軒もあれば、なんとか立ちゆくものだ。ところで、創価学会が大阪方面で一カ月に九千世帯も入会させたそうだが、こうなると、一カ月で三十カ寺が、おかしなことになる計算だ。これでは大変だ。われわれも生活防衛を考えなくてはならなくなった」
 このころ、他宗が連合して、創価学会対策の委員会なるものを結成したという噂もあった。
 一方、警察へのためにする投書や、他宗からの二、三の告訴もあった。そこで、既に春木征一郎の参議院議員選挙への立候補を知っていた当局が、にわかに警察権を発動し、大がかりな捜査障を敷いたと見られなくもなかった。
 いずれにせよ、五月三日の総会での、山本伸一の警告が、意気衝天の大阪なるがゆえに、真っ先に的中したといわなければならない。まことに、「行解既に勤めぬれば三障四魔紛然として競い起る」である。この魔の蠢動に対しては「随う可らず畏る可らず」である。
 山本伸一は、この五月十五日の朝、関西本部で学会員逮捕の知らせを聞いた。彼は、時を移さず、大阪の全会員を守るために、敏捷に立ち上がった。
 魔の出現に際しては、「之に随えば将に人をして悪道に向わしむ之を畏れば正法を修することを妨ぐ」との戒めを深く心に刻まねばならない。
 喜々とした座談会に次ぐ座談会で、連日連夜、数百人の新入会者を迎えている今、この事件が魔の蠢動であることは明らかであった。断固として、権力の仮面を被ったこの魔を粉砕しなければならなかった。
4  戸田城聖は、折よく在阪中であった。
 彼は、十四日夜、中之島の大阪市中央公会堂で寿量品の講義を終え、大阪での法華経方便品・寿量品講義を、ひとまず終了したところであった。十五日の夜も、同公会堂での御書講義の予定であった。そこに、この事件である。
 十五日の夜は、折悪しく雨であったが、御書講義の会場には、大勢の会員が詰めかけていた。戸田は心痛しつつ、多くの指示を伸一に託して、公会堂の壇上に上がった。
 受講する今夜の会員は、夕刊によって、一人残らず今朝の逮捕事件を知っていた。現に、夕刊を手にして来場した人も多くいる。
 彼らの、戸田を見つめる目は、いつもと違って、異様に興奮していたのも無理はない。ある人は、義憤に燃え立ち、ある人は、いささか怯え、ある人は、戸田にすがりつかんばかりの目を向けていた。
 入会して日浅い会員が大多数である大阪にあっては、これも、無理からぬことであった。
 戸田は、何事もなかったように、にこやかに一同を見渡し、落ち着きはらって、「瑞相御書」の講義に入った。
 「夫れ天変は衆人をおどろかし地夭は諸人をうごかす、仏法華経をとかんとし給う時五瑞六瑞をげんじ給う、其の中に地動瑞と申すは……」
 御書の拝読を受けて、戸田は説き始めた。
 「この御書は、日蓮大聖人様が身延にお入りになった翌年、四条金吾に与えられた御手紙であります。物事には、必ず瑞相というものがある。瑞相というのは、『兆し』『前触れ』のことです。天変があり、地夭があって、人びとは驚くけれども、それは、すべてわけがある。
 釈尊が、法華経を説こうとした時、それまで四十余年にはなかった大瑞がありました。つまり、天から四種の華が降りかかる雨華瑞、大地が六種に震動する地動瑞などがそれです。これらの瑞相が起こったのは、法華経とそ元品の無明を破る最高の教えであったからです。
 この法華経も、迹門と本門とあって、いよいよ、釈尊極説中の極説、本門を説こうとした時には、大宝塔が地より躍りいでて虚空にかかり、地涌千界の菩薩が大地からずらりと並び出たと説かれております。
 『……末代は又在世よりも悪人多多なり、かるがゆへに在世の瑞にも・すぐれて・あるべきよしを示現し給う
 私どもは、末代に生きております。悪人も、釈尊在世中とは比較にならないほど多い。質も悪い。したがって、その瑞相も、比較にならないほど大きなものが現れるというんです。しかも、それは大悪として現れる。
 戦時中、創価学会は徹底的な弾圧を受けました。恩師・牧口常三郎先生は、『今こそ諌暁の秋である』と叫んで、遂には牢獄で死を迎えたのであります。
 戸田は、御聖訓を通して、今、現実に折伏を実践している学会に、魔が競い起こっていることを、諄々と論ずるのであった。
 「このところ関西の地で、皆さん方が少しばかり熱心に法華経を説き、いささか活発に弘教活動をした。何一つ悪いことは、しておりません。しかし、末法において法華経を説くのですから、釈尊在世以上の瑞相が現れなければならぬ。
 そこで、皆さんご存じのような、今日の夕刊のような、とんでもない事件が出来した。しかも、一年も前の事件を蒸し返して、いかにも私たちが悪いように見せかけている。真実を曲げることはできませんから、やがて、みんな無事に戻ってくるでしょうが、難といえば、まさに難であります。法華経ゆえの、光栄ある難といって差し支えありません。
 いつ、どこで、私たちが暴力を振るって信仰を強制したというのか。暴力で信心するような人が、今時、一人でもいたら、私はお目にかかりたい。今回の事件は、皆、既に決着がついている問題です。しかも、相手の方が悪いのに、それを反対に書く新聞こそ、まさに暴力ではないか。私は、そう思うが、皆さんはどうですか!」
 期せずして、場内に拍手が爆発して、やまなかった。戸田の、度の強いメガネに照明当たり、彼の怒りを、ひときわ光らせていた。
 「『人の悦び多多なれば天に吉瑞をあらはし地に帝釈の動あり、人の悪心盛なれば天に凶変地に凶夭出来す、瞋恚しんにの大小に随いて天変の大小あり地夭も又かくのごとし、今日本国・上一人より下万民にいたるまで大悪心の衆生充満せり、此の悪心の根本は日蓮によりて起れるところなり……』
 ここのところは、依正不二の原理から、厳しく当時の世相をお教えになっているところです。正法なわち主体である人間の心が正しく、喜びがあれば、依報である環境もまた、吉瑞を現し、悪心が盛んだと、天にも、地にも、凶瑞となって現れる。
 この大聖人の時代、日本の国は、最高権力者から万民にいたるまで、大悪心の衆生が充満してしまった。だから、ろくなことはないのだと仰せです。
 まさしく、大聖人様を迫害した鎌倉時代以後、歴史をつぶさに見てごらんなさい。大聖人様御遷化のあと、五十一年で鎌倉幕府は亡び、南北朝の争乱となり、室町時代から戦国時代へと下克上が続き、全くろくなことはありませんでした。
 鎌倉時代の衆生という衆生が、大悪心をいだいて充満していたと仰せになっています。この大悪心の根本は何かというと、一切衆生を根本から救済しょうとされている日蓮大聖人を怨む心にあった。そこで、大聖人は、『日蓮によりて起れるところなり』と、おっしゃっているんです。
 創価学会は、末法の今時において、日蓮大聖人の御教えのままに実践している唯一の教団であります。末法の衆生が、わけもわからず創価学会を怨むのも、彼らの大悪心のためです。私たちが願うところは、大聖人の仰せのままに、この世から不幸という不幸を、一切なくすことにあります。
 ところが、もって生まれた大悪心のために、彼らは、それがわからない。皆さんが、関西で少しばかり真剣になって活動すると、たちまち七百年前のように、いわれなき中傷・罵詈・誹謗の末、国家権力は、何人もの学会員を逮捕しました」
 彼の話は、なおも続いた。それは、関西の同志が初めて目にする厳しい法難の意義を、納得のいくように説明したかったからである。
 「日蓮大聖人様は、頸の座にあっても、師子王のごとく毅然として、一歩も退くことなく戦われました。私たちは、師子王の子であります。大聖人様のお褒めにあずかる行動を、確信をもって続けることこそ、今の私たちの信条でなければなりません。留置された同志たちも、それを願っているにちがいありません」
 戸田は、一瞬、逮捕者の身の上を案ずるかのように口をつぐんだ。それからしばらくして、温かな眼差しを、場内の人びとに注ぎながら言った。
 「とにもかくにも、私は、この通り元気です。あなた方も、元気ですね。今夜の御書に照らして申すならば、このたびの事件は、関西勝利の瑞相だと、私は確信するものであります」
 戸田城聖は、公会堂から関西本部に戻ると、逮捕された六人の会員に関する、その後の情報を山本伸一から聞いた。
 「伸ちゃん、ご苦労だが、みんなが釈放になるまで、大阪にいてくれないか」
 「そのつもりでおります。幾日かかろうと、関西を離れるわけにはまいりません。東京のことは、よろしくお願いいたします」
 伸一の言葉に、戸田は大きく頷いた。そして、安心したように、十三年前の七月、彼が逮捕された時のことなどを、笑いながら話しだした。
 「まぁ、一度入った者でなければわからんが、いやな所だよ。たまったもんじゃない。二度と行くところじゃないな」
 この時、既に一人釈放の報告が入っていた。
 「あと五人か……」
 かつての偉大なる体験者は、差し入れのことなどを、こまごまと指示し、場合によっては、大阪府警当局を告発することまで、夜の更けるまで話し合うのだった。
 伸一は、降って湧いたような、この逮捕事件が、関西の全会員にどのように影響しているかを、注意深く見守っていた。目にする学会員の表情ばかりではない。全身を耳にして、あらゆる情報を求め、子細に検討して、早急に対応策を立でなければならなかった。
 今、歓喜に燃えて敢行している、せっかくの弘教の上げ潮が、警察の不当な妨害によって引くことを、最も警戒した。しかし、大阪の、新聞という新聞の報道である。会員は、ともかくとしても、入会を決意したばかりの人びとのなかから、信心することを躊躇する人が出始めたのである。座談会の開催は盛んであったが、その空気が、妙に重くなったところも多かった。宗教活動で警察に検挙されることは、関西の学会員にとっては、初めてのことであった。その衝撃を、彼らが口に出さないだけに、心に重くのしかかっているように思われた。
 伸一は、ぐっと胸にとらえ、いかにして、この受け身の姿勢から一挙に脱して、能動の態勢に戻し、反撃に転ずるかに心を砕いた。
 伸一は、深夜に一人、関西本部の御本尊の前に端座し、いつまでも唱題していた。
 翌日、伸一は、留置されているメンバーに対する差し入れなど、細かく手を打つ一方、事件の善後策を講ずるために奔走した。
 そして、五月十七日、まだ日も昇らぬ靄の立ち込めた早朝、伸一は、関西本部を出て、街路に立った。彼は、東の空を、じっと見つめていた。
 静寂な街路に、今日もまた、旭日は燦として昇っていった。
 「ようし!」
 人気のない街路に、彼の活力あふれた声が響いた。
 彼は、さっと身を翻すと、三階の部屋に駆け込んだ。そして、模造紙を広げると、筆にたっぷりと墨を含ませて、墨痕鮮やかに一気に書き下ろした。
 文字は、力強く躍っていた。
 「電光石火」
5  この朝、五月十七日の早朝講義に、派遣メンバーと首脳幹部が、いつものように集った。勤行が終わっても、これまでの朝とは違って、重苦しい空気が漂っている。明らかに魔の蠢動は、これらの最高幹部にも波及していたにちがいない。
 伸一は、一瞬にして、それを察知した。目の焦点を彼から外している人もいる。内心の動揺を隠そうとして、わざと虚勢を張っている顔つきの人もいる。上目づかいに、うち萎れている人もいる。何かを訴えたいのに、自ら口を開くのを、はばかっている人もあった。
 「まず、報告を聞きましょう。昨夜の座談会は、どんな空気だった? 誰でもいい」
 伸一の問いかけに、彼らは発言しようとしながら、誰かが口火を切るのを待っている様子である。
 しばらくは、かえって重い沈黙に落ちた。
 「上田君から聞こうか・・・・・・」
 伸一の再度の問いに、上田藤次郎は立ち上がり、口ごもって、歯切れ悪く言いだした。
 「みんな元気でしたが、昨夜は早く解散しました。事件のことを特に質問する人もなく終わりました。みんな知っているのに、質問がなかったことは、内心かなり怯えている節もあるように見受けられました。強い質問があれば、今度の事件について、徹底して話そうと思ったのですが、その機会もなく……」
 この瞬間、伸一の口から、いきなり激しい叱時が飛んだ。
 「怯えているのは、君ではないのかね!」
 上田は、口をつぐんで立ちすくんだ。
 強烈な叱時の一撃は、人びとの虚を突き、はっとわれに返らすに十分だった。人びとは、初めて伸一をひたと見つめ、このうえない真摯な面持ちで居ずまいを正した。
 怯えているのは、必ずしも組織の先端の会員ではない。首脳幹部たる君たちの心ではないか――との指摘は、深く、彼らの胸の奥に突き刺さった。
 彼らは、今、この事件に、いかに対処すべきか、思いあぐねていたからである。警察当局が理不尽に動きだしたことから、その関係者として、彼らのある者に、やがて逮捕の手が伸びないとも限らない。およその見当がついた以上、万一の覚悟をしておく必要もあった。山本伸一の眼光は鋭く、一人ひとりの胸を刺すようにきらめいた。
 「今こそ、私たちの信心のなんたるかを、思い起こしていただきたい。『御義口伝』にある御金言ですが、『此の法華経を持つ者は難に遇わんと心得て持つなり』という御言葉があります。法華経を持つ私たちは、このたびの難を、当然のこととして心得なければならない」
 彼の厳しい口調は、さらに進んだ。
 「しかし、日蓮大聖人様の難に比べれば、難というのも、おこがましいような難ですが、凡夫の拙さで、大なり小なり影響を受けずにはすみません。電光石火、どう対処して戦っていくかが、現在の最大の課題です
 どこまでも、金剛不壊の信心にこそ、解決の指針を求めなければなりません。かつて四条金吾が、処世上の難に遭った時、大聖人様が与えられた御手紙があります」
 彼は、御書を拝した。
 「『なにの兵法よりも法華経の兵法をもちひ給うべし、「諸余怨敵・皆悉摧滅」の金言むなしかるべからず、兵法剣形の大事も此の妙法より出でたり、ふかく信心をとり給へ、あへて臆病にては叶うべからず候
 どのような作戦よりも、『法華経の兵法』すなわち信心を根本にしていくべきである。法華経に、『諸余の怨敵は、皆摧滅さいめつせり』とある御金言は、決して嘘ではない。さまざまな兵法や剣術の根本原理は、この妙法から出たものである。このことを深く信じていきなさい。臆病であっては、何事も叶うことはない――との意味です。
 どこまでも、信心を強くしていくならば、どんな怨敵も、ことごとく滅びてしまう。私たちの信心は、いかにあるべきか、さらに深く思いをいたさなければならない。どうあっても、まず、絶対に臆病であってはならないとの仰せです。
 私たちの心に、少しでも怯えがあっては、魔に負けていることの証拠です。まず、これを放り出さなければならない」
 紅潮した伸一の真剣な顔には、首脳幹部たちの心の隅に巣くう、目に見えぬ魔に、あえて挑戦しているような激しさがあった。
 「また御書に、凡夫が仏になるためには、さまざまな障害が現れることを、大聖人様は示され、『必ず三障四魔と申す障いできたれば賢者はよろこび愚者は退くこれなり』と仰せです。
 私たちは、今、賢者であるか愚者であるかを、胸に手を当ててよく考えてほしい。大聖人様の真の弟子であるかどうかも、自然とここで分かれるんです。
 大聖人様は、熱原の法難の時、愛すべき弟子たちに、いかに難に処するかをお教えになっています。それが、『聖人御難事』という御手紙です。御自分の過去の数々の大難を思い返され、温かくもまた厳しい御指導です。
 『各各師子王の心を取り出して・いかに人をどすともをづる事なかれ、師子王は百獣にをぢず・師子の子・又かくのごとし、彼等は野干のほうるなり日蓮が一門は師子の吼るなり
 私たちが、『日蓮が一門』であるならば、既に師子の子であるはずだ。この自覚があるならば、今こそ、信心で培った、わが胸中の師子王の心をもって、どんなに脅されても怯えてはならぬ。ライオンは、どんな猛獣に遭っても怯えないからこそ百獣の王です。いかなる迫害や批判中傷に遭おうと、師子の子たる私たちは、怯えないからこそ、大聖人様の弟子だと胸を張ることができるんです。
 大聖人様の御生涯は、度重なる難に遭われても、毅然と戦い抜かれた。まことに師子王の御生涯でした。また、近くは牧口先生も、戸田先生も、あれだけの難に絶対に屈しなかった。そのおかげで、今日の私たちがあり、今日の関西の華々しい戦いがあるんです。
 私たちは、あまり景気のいい顔はしておりませんが、私たちの行動は、『師子の吼るなり』です。今こそ、信心の原点を確認し、泰然自若として、堂々と広宣流布の駒を、さらに進めなければなりません。
 私たちの取にかかっているのは、大阪四万五千世帯の学会員の、幸・不幸の重さです。頑張る時は今です。信心の利剣で、魔を打ち破るのも今です!」
 寂として声はなかった。
 人びとは、伸一のあげた文証は、皆、知つてはいたが、ただ知っていたというだけで、少しも血肉になっていなかったことを、自覚せずにはいられなかった。ところが、その文証が、ひとたび伸一の口から発せられると、大聖人の血を吐くような御言葉が胸に迫り、滝に打たれるような思いに駆られるのであった。
 ″まさに、その通りである! 反問の余地は何一つない″
 彼らの心中に巣くった魔は、伸一の激烈な力説によって、ことごとく追い払われたのであろう。爛々と蘇った彼らの眼には、師子の子の光が宿っていた。
6  一変した雰囲気を察知した伸一は、やっと、息ついて、話を続けた。
 「大聖人様は、数々の難を乗り佐えて、何を確信されたか――それも、『聖人御難事』に詳しくお認めです。
 『過去現在の末法の法華経の行者を軽賤する王臣万民始めは事なきやうにて終にほろびざるは候はず
 これは、まことに厳しい御言葉です。現在、私たちは、末法の法華経の行者の弟子であることは間違いない。してみれば、私たちを信心のゆえに迫害する人は、誰であろうと、当座は、なんでもないようだが、やがて、遂には滅びると仰せです。
 大聖人様は、このすぐあとで、反逆した弟子たちや、退転した弟子たちが現罰を受け、また日本中が疫病や、飢餓や、同士打ちや、他国からの侵略で、総罰を被っていることをあげておられます」
 伸一の言葉に力がこもった。
 「正しい仏法が、正しい信仰が、最後に必ず勝たないわけがない。
 世間や新聞が、なんと中傷しようと、それに紛動されては、せっかく信心してきた多くの会員が、幸せになれるものを、むざむざ捨てることになります。そうなっては、一月から今月まで、一生懸命にやってきた何万という大阪の学会員が、かわいそうです。
 それを思うと、どうあっても、一人の落後者も出しではならない。どうか、全員が、最後まで信心を貫き通すように、皆さん、よく指導してください。
 私の願いはそれだけです。くれぐれも、お願いします。
 今、留置されている五人も、懸命になって戦っているにちがいない。私には、それがよくわかります」
 この日、昼から夜にかけて、大阪全地域の座談会や、その他の会合で、伸一の一念から発した、この朝の早朝講義の脈動が、奔流の勢いで走ったことは言うまでもない。それは、見事なものであった。
 五カ月かかってつくりあげた、血行のよい組織態勢は、いかなる難にも耐えるだけの強靭さと柔軟さを、いつか備えるまでになっていたのである。
 戸田城聖は、十六日、高知での、学会寄進による大乗寺改築落慶法要に参列し、翌十七日、引き続き高知地区決起大会に出席。夕刻には、空路、大阪に戻っていた。
 十八日も、大阪に滞在した戸田は、この日の午前、関西本部でマスコミの記者会見を開いた。前日、戸田からの指示で、山本伸一が、急速、各社に連絡、手配したのである。
 戸田は、一連の逮捕事件の真相を明らかにし、学会への偏見を徹底して砕いておきたかったのである。真実は、叫ばなければわからない。力の限り訴え抜いていくなかにこそ、「正義」が「正義」として輝くのだ。
 関西本部には、マスコミ各社の第一線記者が集まって来た。
 戸田は、記者たちに、暴力沙汰と言われているものが、いかに事実と異なっているか、警察の捜査が、いかに不当であるかを語っていった。さらに、記者からの質問に一つ一つ答えながら、マスコミの、学会に対する曲解を解くことに努めた。
 彼は、関西の会員のためにも、世間の風評や、事実を歪曲した無認識の報道で、これ以上、無用の誤解が広がることを、防いでおきたかったのである。
 記者会見を終えた戸田は、午後に、学会寄進の神戸・妙本寺増築落慶法要に参列したあと、夜には、大阪一円の班長会に出席した。彼は、大阪一円の班長会に出席した。彼は、さまざまな質問に懇切に答えた。しかし、話が、このたびの逮捕事件に及ぶと、怒りを隠さなかった。
 「こういう、けしからん事件が大阪で起きたのも、現代社会のばかげた一面です。そこには、政治権力の意図がある。このような社会を、いかにして是正したらよいか。まず、政治を根本から正す立派な政治家が、多く出現しなければならない。
 民衆の力で、そのような政治家を、まず育てないことには、いくらブツブツ言っても、どうにもなりません。そのためにも、われわれの社会建設の活動があるんです。高潔にして有能な政治家が、今ほど必要な時はない。
 今度の事件を見ても、その必要が、よくわかると思います。
 諸君、われわれの力で、ひとつ思い切りやってみようではないですか。絶好のチャンスです。魔の蠢動の息の根を止めるのも、われわれの信心が、一歩も退かなければいいんです。
 諸君、広宣流布の途上には、幾多の難が、これからもあるでしょう。『難来るを以て安楽と意得可きなり』とさえおっしゃって、大聖人様は、あのような難を、そのたびに越えられました。
 さまざまな難を乗り越えるのが、使命に生きる、われわれの信心でなければなりません。信心さえまっとうならば、越えられない難などない。
 『たとえば灸治のごとし当時はいたけれども後の薬なればいたくていたからず』と仰せです。その時はかなわんと思っても、必ず変毒為薬するのがこの信心です。まことに、『大悪をこれば大善きたる』です。大聖人様のおっしゃることに、よも間違いはありません。
 皆さんは、びっくりしたろうが、最後は正しい者が勝つ。正しい信心をしておる者が、勝たないはずはない。われわれは、堂々と、なすべきことをやっていくだけです。今度の事件を、よく見極めていただきたい。必ず大聖人様の、おっしゃる通りになっていくことを、私は、ことではっきりと言い切っておきます」
 この夜、留置されていた同志が、一人釈放になったという報告がもたらされた。
 「あと四人だな。東京へ帰ったら、小沢君ともよく相談してみよう。場合によっては、大阪へ来てもらおう。伸ちゃんは、まだ大阪から動けんな」
 戸田は、伸一にこう語りかけた。そして、年来の親友で弁護士の小沢清の名をあげて、翌日、大阪を発った。
 逮捕者は、その後は出なかったが、数人の幹部が警察で取り調べられた。任意出頭の参考人であるべきなのに、警察は強制的に連行したことが判明した。これも違法的事実として、後に府警を告訴する理由の一つに数えあげられた。
7  そのころ留置場では、退屈まぎれに、延々と″座談会″が行われていた。
 仏法の話に関心をもった″監房長″が、学会の青年に尋ねた。「うまい話やけど、それには、どないしたらええのや」
 ″監房長″は、五十年配の博徒である。
 「御本尊に向かって、朝晩、勤行するだけのことですわ。それが基本ですよ」
 青年の言葉に、″監房長″は考え込んだようであった。
 「ほう、それだけでっか。……しかし、信心したとなると、酒は飲んだらあかん、遊んだらあかん、ということになるんと違うんか?」
 「そんなことない。正しい宗教につくことが、いちばん大事なことです。それだけでも、因果の理法で、今までの人生は、がらっと変わってこなければならんわけです。そして、御本尊に向かって、毎朝、毎晩、勤行するんやから、これまでのいやな人生が、めきめき変わって、楽しい人生になっていくんですわ。
 酒が好きなら、楽しいうまい酒が飲める。遊ぶのがよかったら、心から楽しめる遊びをすればよい。
 日蓮大聖人様は、お弟子さんに、″女房と楽しく酒を飲みなさい″と言われてるぐらいです。この信心は、道徳を教えるのではない。窮屈なことは、勤行を除いて何もないんですわ」
 「ほう、日蓮さんは、お酒を楽しく飲めと言うてるのか。わしらの仲間やな」
 ″監房長″は、わが意を得たように笑いだした。それが、よほど気に入ったのであろう。急に、あらたまって、青年に言った。
 「わしみたいなもんでも、信心できまっか」
 「できるどころじゃない。誰だって、大聖人様から見れば、みんな同じ仏の子ですわ」
 「そうでっか。そんなら安心ですわ。ひとつ、やらせてもらいまひょ。よろしゅう頼んまっせ」
 十八日の朝から、″監房長″は、青年について勤行し始めた。
 夜になると、三十七、八歳の、やはり博徒が、仲聞に入れてくれと言って、彼にならって勤行に加わった。留置場における勤行は、三人の声になって、あちこちに響き渡った。
 驚いたのは警官たちである。上司に報告がいった。翌朝、取調室に呼ばれた青年は、担当取調官から、いきなり怒鳴られた。
 「お前という奴は、なんちゅう奴ちゃ。お前らのデタラメな布教活動を取り調べておんのに、こんなとこまで来て、折伏する奴があるか。あきれた奴ちゃ!」
 さじを投げたように言う取調官の顔は赤かった。
 風邪をひいて熱があるらしかった。奇妙なことに、五月半ばというのに、取り調べにあたった刑事は、次々と風邪をひいた。彼らのある者は、取り調べ中に、「これ、罰か」と聞いてくる始末である。
 留置場の朝晩の勤行は、署内でたちまち評判になり、警官たちは見に下りてきた。
 ″監房長″の権威に、警官たちも、それを見張るよりほかはなく、「二人も信者を増やしおった」と口惜しがった。
 青年は、二人の入会希望者と打ち合わせをした。
 二人とも、近く拘置所送りになるだろうが、いずれ出所の暁には、晴れて御本尊を受持するという相談ができた。
 四人の学会員は、まだ留置されたまま、日一日と時は過ぎていった。山本伸一は、同志たちの身を案じつつ、日々、真剣な祈りを捧げていた。
 彼は、年頭から、未聞の戦いに挑む関西の友を、全力で励まし続けてきた。皆、かけがえのない同志である。今、獄中にいる四人も、伸一によって、広宣流布の戦いに目覚め立った勇者たちである。彼は、自由を拘束され、理不尽な取り調べにさらされているであろう一人ひとりに、思いを馳せずにはおれなかった。
8  この年の三月。ある日の午後のことであった。伸一が、外出から関西本部に戻って三階の仏間に入ると、一人の青年が、真剣に唱題していた。蓮華寺事件で留置されることになる青年である。
 彼は、大阪の地で、男子部の幹部として、懸命に奮闘していた。もともと大学進学を希望していたが、経済的理由から進学を断念し、九州・福岡で就職した。しかし、会社が営業不振のため、大阪にある本店に移らなければならなかった。薄給の生活は苦しく、前途の曙光も見いだせない日々に、悶々としていたのである。
 深夜、わびしくアパートの一室に戻ると、心に忍び寄ってくる悲哀を、どうすることもできなかった。さらに、そのころ、後輩が組織の中心者に抜擢され、複雑な思いをいだいていた。その心の内を、誰に打ち明けることもできず、彼は、孤独感を深めていたのである。
 この青年を、ずっと見守り、成長を願っていた伸一が、彼の悲哀と孤独の影を見逃すはずはなかった。
 青年は、後ろで題目を三唱する伸一に気づき、唱題をやめて、あいさつした。
 伸一は、微笑みを浮かべ、彼に話しかけた。
 「毎日、ご苦労さま。ところで、君の押し入れには、靴下が、いっぱいダンボール箱にたまっているだろうなぁ」
 「えっ、室長、なんでそれをご存じなんですか」
 「そりやわかるさ。……ぼくも、寒々としたアパートに三年間、一人で住んだことがあるもの。臭い靴下が、ダンボール箱に、たくさんたまって閉口したよ。……そう、そう、枕がなくて、新聞を丸めて寝たこともあったつけ……」
 「ほう、室長にも、そんな時代があったんですか」
 「あるもないも、そういう厳しい時があったればこそ、今日の私があるんだよ。誰でも同じだよ。すべて仏道修行なんです」
 青年は、引き込まれるようにしゃべりだした。会合には、まだ間があって、誰も姿を見せない。平素、口数少ない彼が、伸一に対して多弁になったことは不思議だった。彼自身も、それに気がついていたが、誰にも話したこともない事柄が、口をついて、次から次へと出るのが不思議だった。
 その青年は語った。わびしい悲哀の数々を、思いの限り告白したといってよい。
 ――この身が、果たして将来どうなるものか。真面目に信心しているとはいえ、宿命的な悲哀の深さは、彼にとって、あまりにも深すぎる。
 伸一は、いちいち大きく頷いて聞いていた。そして、彼は、この青年のすべてを、胸につつみ込むように、温かい口調で言った。
 「君のことは、ずっと前から、私にはわかっていた。決して心配ない。このまま真剣に信心を続けさえすれば、心配ありません。多くの同志の姿から、はっきりと言えるんです。信じていいんです」
 青年は、無言のまま大きく頷いて、伸一を見つめた。
 「『全世界を征服せんとせば、まず汝みずからを征服せよ』というロシアの作家の言葉がある。自分の意志なんかで、己の悲哀は制覇できないとしても、それができるのが、この信心の修行だよ。これは間違いない。
 私も、かつては今の君よりも、自分自身を情けなく思ったこともある。君も、私と全く同じなんだ。仏道修行は、親もとにあって甘えていてはできない。本当の仏道修行は、親もとを離れた厳しさのなかにあるんだ。今、君は、その最中だ。将来は、誰が保証しなくとも、御本尊様は保証してくださっている。頑張ろうじゃないか。今の戦いのすべてが、仏道修行なんです。
 君、わかってみれば、人生は劇場の舞台みたいなものだ。みんな登場人物となって、一生懸命に劇を演ずるしかない。人生は劇だからです。君も、広宣流布の登場人物となったからには、努力を積んで名優になることだ。君は、必ずなれる。私と一緒に戦おうじゃないか!」
 「はい、ぜひ、お願いいたします」
 青年は、″今、俺は劇を演じているのか″と、ふと思った。すると、些細なことを気にして、じたばたしていた自分の姿が、心に浮かんできた。哀れな拙い俳優である。彼には、自分を笑って眺める余裕が、忽然として生まれた。″どうせ演じるなら、大胆に演じよう″と思った。
 伸一は、青年を見つめながら言った。
 「今日は、君とゆっくり話ができてよかった。記念に一詩を贈ろう。受け取ってくれたまえ」
 伸一は、便筆にさらさらと書き認めた。
  世紀の丈夫たれ
  東洋の健児たれ
  世界の若人たれ
  君よ  一生を劇の如く
 この一詩は、青年の胸に、たちまち焼き付いた。
 彼に、悲哀と愚痴から決別する時が来た。四月、五月の戦いの最先端に立って、彼は、勇敢な戦士であった。そして、遂に留置場にまで、″乗り込んで″しまったのである。
 山本伸一は、なお大阪に踏みとどまって、権力の動きに対峠し、熾烈なまでに八面六腎の戦いに入っていた。
 朝の勤行、御書講義を終えると、時間のある限り、各拠点を回り激励を続けた。午後から夜にかけて回った座談会場は、日に十カ所を超えたこともあった。
 ある会員は、伸一を車に乗せて、大阪一円から郊外へと走りに走った。その走行距離は、一日に二百五十キロから三百キロに達した。伸一は、その移動の車中でも、懸命に唱題を続けていたのである。
 彼は、神出鬼没であった。ある地区部長の家を、突然、訪問し、地区部長が留守であると聞くと、家人に一本の扇子を預け、「地区部長によろしくお伝えください」と言って立ち去った。
 夜、地区部長が戻って扇子を広げてみると、「獅子奮迅」と認めであった。
 地区部長は、翌日から、人が変わったように獅子奮迅の地区部長となった。その直後のことである。この地区部長が、地区座談会で、なんと一挙に三十三人の入会者を出したのである。
 伸一は、座談会の会場を一会場でも多く回ろうと願い、短時間に次々と会場を訪れた。彼が姿を現すと、会員は、思いがけぬ伸一の来訪を、拍手と歓声で迎えた。
 その熱気は、参加していた友人をも、つつみ込んでいった。座談会には、あふれる信心の喜びがあった。歓喜のなかで語られる、さまざまな功徳の体験に、入会希望者が相次いだのである。
 二十日前後になると、かつてない高揚が、大阪の各地の会合であふれた。十五日以来の魔の嚢動は、急速に影をひそめ、逮捕事件は、逆に組織の団結を固めていった。団結は、地涌の歓喜を燃え上がらせたのである。会員たちは、そろって身が軽くなり、動くことが楽しくて仕方がなかった。
 人間の歓喜、信心の歓喜――夜になると、関西本部は、歓喜のあまり、大阪の各地から報告に駆け込む幹部たちであふれた。狭い廊下や階段は、これらの人びとと、戦い終わって戻った派遣員たちが、慌ただしく行き交い、笑顔と笑顔がかちあった。一階の仏間からは、力強い唱題が絶えない。関西本部の建物が、まるで激戦中の戦艦のように揺れたというのが、人びとの実感であった。
 五月二十五日、逮捕されていた四人が、そろって釈放された。みんな元気で、関西本部に集ってきた。人びとは、彼らを帰還の英雄のごとく迎えた。
 山本伸一は、一人ひとりと握手しながら、彼らをねぎらつたものの、彼らの妙に調子づいた様子が心配でならなかった。
 伸一は、あえて厳しい口調で言った。
 「御書の一節に、『善戒を笑へば国土の民となり王難に遇ふ是は常の因果の定れる法なり』という御言葉がある。との御金言に照らせば、君たちは、過去世に相当の罪を犯していたことになる」
 伸一の言葉は、彼らの胸に突き刺さった。
 「君たちは、そんなことは知らないといっても、『常の因果の定れる法なり』とおっしゃっている以上、そのとがによって、今生で法の裁きを受けなければならない宿命になっていたのです。
 もし、君たちが信心していなかったら、罪を着るような法の裁きを受けていたにちがいない。それが、この程度で無事にすんだのは、転重軽受の典型として、この信心のおかげと、いわなくてはならない」
 これを聞いた四人は、英雄気取りの影は全く薄れ、今、展開されている激しい大阪の戦列に直ちに復帰した。
 伸一は、すぐ東京へ電話をかけた。戸田に、全員釈放の報告をしつつ、戸田の尽きぬ配慮に感謝した。戸田は、「弁護士の小沢清との相談もあることだから、ひとまず帰京しなさい」と促した。
 先に大阪から帰京した戸田は、東京の活動と大阪のそれとの間に、埋めがたいほどの格差ができてしまったことに、気づかねばならなかった。座談会は、東京でも活発になっていたものの、日程表に組み込まれた予定を、ただ機械的にこなしているにすぎないように思われた。幹部たちは、忙しそうに動いている。だが、あの大阪の、はつらつたる歓喜は、東京の座談会では、全く感じられなかった。あの大阪の、赤子を背負って活躍する婦人部員たちの目の輝きは、東京の幹部たちにはなかった。戸田は、これでは、もはや、東京は、大阪に後れを取ることになると思った。
 ″草創期から、共に戦ってきた東京の幹部たちは、いったい何を考えているのか。確かに動いてはいる。ぼんやり遊んでいる者は、一人もいない。何が邪魔をしているのだろうか″
 戸田の心は、人知れず痛んだ。
 ″組織の編成に問題があるのか、それならば、あらためて再編成をしなければならない。七月の参議院議員選挙も、眼前に迫っている。組織に不満をもつ幹部が多いのか。そのような幹部がいるとも思えない。
 しかし、本気になって選挙戦で勝利しようという気迫も感じられない。推薦した候補者が気にくわないのだろうか。いや、清原かつや、原山幸一のような人気のある候補者は、ほかにはいない……″
 戸田は、思い悩んでいた。
9  このような折、五月下旬のある日、水滸会の会合があった。集った青年幹部の、なかに、東京方面の選挙支援の責任者となる澤田良一の顔を彼は見た。しばらく見ないうちに、澤田は憔悴して元気がなかった。背は高くはないが、肉づきがよく、活力にあふれていた、あの澤田良一は、一回りも小さくなったように思われ、顔には、苦悩の影が色濃くにじみ出ていた。戦いを前にして、既に敗残の将である。
 澤田を見た戸田は、胸を突かれた。彼は、とっさにすべてを悟った。
 ″今の澤田には荷が重すぎるのだ。戦力を十分に保持しているはずの東京なるがゆえに、彼の指揮に任せたものの、古い幹部たちがそろっている東京は、彼の指揮では動かないのだろう。このまま推移すれば、澤田は討ち死にするしかない。そして、結果は敗北につながる″
 戸田は、東京の戦列を救い、懸命な澤田良一をも救うことを、考えなければならなかった。
 戸田の心に、一つの決断が生まれた。
 彼は、青年たちに向かって妙なことを言いだした。
 「君たちは、お山の五重塔を知っているね。あの五重塔の建立の由来を知っているか……」
 誰も答える人はいなかった。
 しばらくすると、歴史好きの一人の青年が手をあげた。
 「あれは、確か徳川時代の中期に、備中松山の藩主であった板倉勝澄という大名の寄進で建ったと聞いておりますが……」
 「そうです。板倉勝澄の寄進によることは確かだが、なぜ寄進を発心したか、その由来があるんです。誰か知らないか?」
 誰も答える人はいなかった。青年たちは、戸田が、なぜ、こんな話を、突然、持ち出したのか、怪訝な面持ちで戸田を見つめていた。
 戸田は、澤田良一に視線を移しながら言った。
 「澤田、君知らないか?」
 「知りません」
 澤田は、登山会の責任者の一人であった。彼は由来を知らなかったことを恥じて小声で答えた。それよりも、戸田の質問の唐突さに戸惑っていた。
 「島原の乱というのを知っているだろう。例の、若き天草四郎を首領としたキリシタンの反乱です。
 あの時、徳川幕府は、板倉重昌という小大名を、鎮圧の大将として向かわせた。大将になるだけに、幕府の信任は厚かったものの、九州の諸大名は、板倉などという小大名の指揮のもとで戦うことを、潔しとしなかった。
 さらに、キリシタン軍の反抗が強烈であることを知って、幕府は、大物の老中である松平伊豆守信綱を、総大将として派遣することに決定した。
 これを陣中で聞き知った板倉重昌は、面白丸つぶれである。自分の不甲斐なさを恥じて死を決し、絶望的な総攻撃をかけ、奮戦中、銃弾に当たって討ち死にするのです」
 戸田は、こう語って、また澤田良一に顔を向けた。
 板倉重昌は、江戸幕府初期の重臣で、関東代官、江戸町奉行や京都所司代などを歴任した板倉勝重の子であった。
 彼は、十六歳で徳川家康に仕え、近習出頭人となり、大阪冬の陣の時には軍使となり、豊臣秀頼の誓詞を受領した。逐次、加俸を受け、島原の乱の時には、三河深溝ふこうずの藩主として、小大名とはいえ譜代の功臣であった。だが、九州の諸大名は、なかなか彼の督戦に応じず、重昌は、苦戦の末に討ち死にするのである。
 「板倉家の遺族、遺臣たちは、この板倉重昌の悲運な出来事を、代々忘れかねていたにちがいない。重昌の死から約百年の後、備中松山の藩主であった板倉勝澄が、無念の死を遂げた重昌の追善のため、五重塔を建立寄進したんです。
 これが五重塔の由来だが、澤田、私は、今、君のことを考えているんだよ……」
 青年たちは、戸田にこう言われでも、五重塔の由来と澤田良一とが、どう結びつくのかわからない。ますます怪訝な顔をしていた。ただ、苦渋に満ちて東京で活動していた澤田は、戸田の思いやりのようなものを、漠然と感じただけである。
 戸田は、あくまで冷静に続けた。
 「実は、今の東京の状態が、困ったことになっている。誰の責任かということになれば、誰だ、彼だと、言えるかも知れないが、結局は、会長としての私の責任ということになるだろう。だから私は、誰よりも今の事態がよくわかるのです。
 澤田が、奮戦していないとは言わない。みんなも、戦っているつもりでいるだろう。
 ところが、客観的に見るならば、大阪とは大変な違いです。大阪の戦いには、爆発するような歓喜が渦巻いている。
 東京は、何か、よどんだまま、なかなか渦が起きてとない。いくら世帯数が多いからと数に頼っても、本当の戦いにならない限り、面白くない結果になるというものです。
 私は、ここ数日、考えに考えた。そして、ここで澤田良一を討ち死にさせたくないと思った。このままでは、澤田は板倉重昌のように討ち死にに追いやられる。今が限度だと思うのです。
 そこでだ。私は、一つの決断をせざるを得なくなった。澤田は、東京の地方区の責任者にとどめ、東京の全国区を、椎橋春男に任せてその責任者とし、この二人の上に、東京の総指揮を執る最高総責任者として石川幸男をもってこようと思う。
 澤田、君はこれに不服か」
 澤田は、これを耳にした瞬間、″無念だ″と思った。しかし、われ知らず追い詰められ、時に死さえ考えていた澤田には、戸田の一言は、暗夜の稲妻のようにひらめいた。
 ″戸田先生は、私の胸中を、すべてご存じだったのか!″
 彼は、詫びるよりほかに、どうしょうもなかった。
 「なんとも、申し訳ありません」
 これを見た青年たちは、粛然として、戸田の弟子を思う真心に打たれた。
 戸田は、沈滞する東京にあって、あえぐように奮戦していた澤田から、板倉重昌を連想し、それからまた、五重塔建立の由来を連想した。そして、この故事を説き起こすことから、組織の大変革を、澤田をはじめ、青年たちに、無理なく納得させようとしたのである。
 青年たちは、初めて戸田の深慮を知り、一人の未来ある青年幹部の進退にまで、細かく心を配る姿を目前にして、感動した。
 日ならずして、石川幸男の最高総責任者は発表になった。
 澤田良一の肩は軽くなって活動を続けたが、この変革をもってしでも、東京方面は、ひとたび軌道となってしまった惰性から脱出することが、なかなかできなかった。惰性も一つの軌道である以上、新しい軌道の敷設が先行すべきであった。だが、参議院議員選挙は目前に迫っている。そこに思いもかけぬ大小の事件が勃発して、新しい軌道の敷設をみることなく、混乱に巻き込まれてしまうのである。
10  六月十二日の参議院議員選挙の公示が、十日余りに迫った五月三十一日午後六時、豊島公会堂で、五月度の本部幹部会が開催され、全国の代表幹部が参集した。
 成果発表となった時、場内に一種のどよめきが起きた。
 「第一位、大阪支部一万一千百十一世帯」
 人びとは、ここで一瞬、耳を疑った。やがて、怒濤のような拍手に移った。
 大阪支部は、第二位の蒲田支部の四千五十世帯を大きく引き離し、一万世帯を千世帯も悠々と超えたのである。それも、大阪支部は、五月十五日の会員六人の逮捕事件という受難の真っただ中での成果である。しかも、この事件で、入会を見合わせていた人が、なお数千人もいた。
 大阪支部の折伏成果は、五月の全国成果約三万世帯の四割近くに当たり、堺支部千五百十五世帯を加えると、関西勢は、実に四割をはるかに超える折伏を、この月に敢行したことになる。全国の幹部にとっては、顔色を失うほどの衝撃であった。感嘆と、羨望と、吐息のなかに、拍手は、しばし鳴りやまなかった。
 一月以来の山本伸一の奮闘によって、今まさに、関西に、大錦州城が築かれたといってよい。
 幹部の指導も、大阪支部の活動に焦点を当てなければ、話が始まらなかった。指導部長の清原かつは、座談会の再認識と、座談会における折伏精神の薄弱さについて語った。つまり、座談会の良い悪いは、この折伏精神の強弱にあるというのである。東京方面の、惰性的な座談会の実態を突いたものであった。
 折伏精神とは、断じて人びとを幸福にしようという慈悲の心であり、正義を叫び抜く勇気である。
 戸田城聖は、草創期からの地方折伏の歴史を語り、今は、地方へ地方へという流れがあり、東京都内では、もう折伏ができないと決めているのではないか、大阪も大都会だが、これだけの成果をあげているのは何ゆえか、と反省を迫るのであった。
 「このたび、大阪で、先月は九千世帯、今月は一万一千世帯、どうだ皆さん、東京、その他は、目を回してしまった。なかには″支部で候″といっても、とても話にならぬところもある。岡山の地区など、約千世帯です。どこかの支部は、恥ずかしいみたいですよ。
 先月の幹部会で、座談会を主力にしてやろうという方針になり、東京も、その意気で燃え上がったところもできた。そして、″東京でも、できる″ということに気づいた幹部が出た。地方へわざわざ行かなくても、東京でも、まだまだやれるんです。人間がたくさんいるんですから。
 しかし、座談会に新しい人を連れて来るのを忘れていた。同じ顔の人が、同じ話を繰り返す。これでは惰性になって、新しい人を救うという精神を失った座談会になってしまう。
 この間も話したんですが、私は、地方へ出てみまして、広宣流布が近いと、しみじみ感じたんです。一つには、交通機関が非常に発達したことだ。電信・電話の発達もそうだ。もし、われわれが徳川時代に、北海道へ折伏に行くとなったらどうなるか。おそらく、一カ月も歩いて行って、折伏しなければならなかったでしょう。
 今だって、九州まで行って折伏するのは大変だ。しかし、飛行機を使えば、朝行って、晩帰れる。ちょうど、昔の江戸中を折伏する力で、全国を折伏することができる。東京だけなら、さらに労力は少なくてすむ。
 折伏などは、顔色を変えて、口から泡を飛ばしてやらなくとも、十分できる。困っている人が多いんだから、救ってあげようという熱意さえあれば、私は、東京でも必ずできると思う。大阪が、どんどん伸びて、東京中の支部が大阪に負けて涼しい顔をしているのは、あまり景気のいい話ではないと私は思う」
 戸田は、心配していた大阪の、見事な成果に気をよくして語っていた。しかし、最も組織力が強いはずの東京の沈滞が、気にかかって仕方なかった。
 さらに戸田は、目前に迫った選挙を考える時、会員の違法行為だけは戒めておかなければならぬと思った。
 「広宣流布近し、それがために、いよいよ立正安国の戦いに本格的に着手しようと考え、議院議員選挙に、有能にして高潔な人材を送ろうと、みんなで同志を候補者に推薦した。この選挙の支援に際しては、決して違反行為をしては相なりません。公明選挙を掲げているんですから、違反があっては嘘になります。正々堂々と行ってほしい。
 この間、大阪の府警で捜査本部をつくって、″学会は、確かに暴力行為をしているにちがいない″と、こう思ったのでしょう。そこで、材料がないものだから、今年の正月や去年にあった古い事件をつなぎ合わせて作文し、青年部を引っ張れば、何か出るにちがいないと狙ったわけです。
 これには、選挙を妨害しようとする意図があったと思う。こっちを脅す意図があったと思う。そういう魔の手が働いたにちがいないと、私は断ずる。
 そこで、東京や全国のあなた方のなかで、熱心のあまり、法に反するような人が、一人も出ないことを私は望みます。迷惑するのは、大勢の同志です。
 決して、違反してはなりません。
 無理がなく、かつ効果のある方法でいいんです。くれぐれも、選挙違反をしては相なりません。これだけは、私と同じ心になって推薦してくださった方々に、お願いする次第です」
 これだけ明快に、戸田は言明したのである。
 いざ選挙になってみると、警察当局は、疑心暗鬼のあまり、創価学会員に対して、全国各地で無理無体な取り締まりを行った。
 六月十二日、公示とともに、全国で会員は、それぞれ支援活動に懸命に動きだした。大変な人数である。
 これほど多くの人びとの応援を得られる候補者は、学会の推薦候補を除いて、今回の三百四十四人の候補者のなかには、一人もいなかった。創価学会を、貧乏人と病人の集団ぐらいに考えていた世間は、活動の様子を、連日、目にするにつれて、驚愕に変わっていった。対立候補たちにとって、中盤戦あたりから一種の脅威となったことは、自然の推移であった。
 日がたつにつれて、さまざまな臆測が生じたようだ。臆測は、さらに疑心を生み、疑心は、さらに、あらぬ中傷へと変わっていった。警察当局へのまことしやかな投書をした者もあったろう。また、虚偽の密告をした者もあったろう。警察当局は、″それっ″とばかりに各地で動きだした。
 当時、取締当局にとって、創価学会というものが、まことに不可解な団体に見えた。つまり、彼らの常識では、理解できなかったのである。警察当局の臆測に基づく嫌疑は、おそらくこうであったろう。
 ――あれだけの動員をするからには、それこそ莫大な資金が流れているにちがいない。資金がどこから出ているか、資金源を突き止める必要がある。また、あれだけの人数が、一斉に動きだしたところをみると、どこかで強力に号令をする者があるにちがいない。宗教に名を借りた、政治団体ではないのだろうか。
 疑心から、陰謀的な教団と決めつけて、警察は各地で内偵を始めた。
 ところが、当時は、会員の多くは、まだ貧しく、本部といえども、資金などあろうはずはなかった。会員は、すべて手弁当で、なんらの報酬も望まず、おのおのが推薦した責任として、精いっぱい動いただけである。ただで動いて、しかも推薦責任を全うすべく自発的に動いている。これは、当時の選挙常識では考えられないことであった。警察は、内偵や尾行などをして、摘発のチャンスを耽々と狙っていた。
 このような情勢のなかで、戸田城聖は、日程を組んで、日本列島の北から南へと奔走していた。
 指導と激励のためである。六月八日の秋田から始まって、十一日から北海道一円を回り、十七日には仙台、十八日に東京に戻った。そして、二十三日には横浜、二十四日には空路で九州の八女へ飛んでいた。
 二十五日、福岡を回って、二十六日、大阪へ舞い降り、二十七日、二十八日と大阪に滞在した。それから二十九日、岡山、また、三十日には大阪、七月一日が京都、二日が名古屋、三日が浜松と移り、四日、静岡、五日、沼津、横浜と回って、その日のうちに東京に舞い戻っていたという強行スケジュールである。
 戸田は、これらの各地を、ただ回ったというのではない。どこへ行っても、さまざまな問題が起きていた。
 六月下旬に入ると、全国各地の警察署は、会員を戸別訪問の容疑で一斉に摘発を始めていたのである。
 それらの紛糾した事態に、救助の手を差し伸べなければならなかった。どこでも大きな会合があり、数千、時には万を数える会員への、激励や指導をしなければならなかった。
 たとえば、六月二十九日の岡山市である。この日、岡山の烏城公園に、中国地方の会員約一万人を結集しての野外集会があった。岡山県下では、会員は約三千世帯余りしかいなかった。しかし、これに中国方面の拠点である広島、福山、松江、鳥取、米子、などから、また四国の高松からも、多くの会員が、われもわれもと参加したのである。
 責任者は、岡山地区部長の岡田一哲であった。彼の地区は、五月に九百九十九世帯の折伏を敢行し、日本一の地区として、B級支部に伍するほどの頭角を現したところだった。彼は、意気軒昂として、乱暴とも思えるこの集会を企てたのである。
 烏城公園は、もと城であったが、大戦による空襲で失われ、城跡の公園は、大勢が集まるには絶好の広場となっていた。ここに演壇を設け、テントを張り、戸田城聖と、全国区の推薦候補・十条俊三を迎えての、演説会場として準備した。
 岡田一哲は、地区部長の任命を受けてから、一年しかたっていなかった。いや、一九五四年(昭和二十九年)八月に入会してから、二年にも満たなかった。彼が、短日月のうちに、闘志満々の新進地区部長に育った背景には、それなりの独特な前半生があった。
 ――岡田は、二一年(大正十年)三月、岡山の商家に生まれた。商家といっても、呉服店、質屋、衣料店と三店を経営する町の有力者である。代々身延系日蓮宗であったことから、彼の父は宗教に凝り、法華経や御書を研究しているうちに、家業をほとんど顧みないようになり、京都などの身延系寺院で三年の修行の後、僧籍までも得た。ところが、身延系の教義は誤りであるといって、自ら「基調社」なるものを結成し、神戸、京都、福岡、熊本などで布教し始め、本尊までも自ら書写して、信者に与えるようになった。
 母も熱心な信者で、結核を病み、時に神がかりのようになったが、それもとの信仰の力によるものと錯覚していた。
 このような家庭環境のなか、岡田一哲は腕白な少年に育った。いたずらに正義感が強く、喧嘩が好きだった。旧制中学三年の時、体育の時間に、突然、けいれんの発作に襲われ意識を失った。これを機にして、月に一、二回、発作に悩まされる。中学は卒業したが、進学はあきらめなければならなかった。
 しかし、家業の手伝いにも嫌気がさし、ある村の尋常小学校の代用教員となった。間もなく徴兵検査では甲種合格とされ、四二年(昭和十七年)四月、姫路の砲兵連隊へ入営したが、二カ月後には、戸外での朝礼の時、発作が起き、陸軍病院に入院した。精神科の病棟である。翌年四月、兵役免除で退院し、岡山に戻った。
 戦時下のことで、家業は閉鎖し、軍需産業に転業せざるを得なかった。兄は召集され、彼と父は、軍の協力工場を設立し、メッキと塗装の仕事を始める。技術に全くの素人の出発であった。
 日夜の労苦は、彼の持病の度重なる発作を引き起こし、絶望の淵に立つこともあった。そこへ、四五年(同二十年)の空襲で、メッキ工場だけを残し、住居と三軒の店、そして貸家まで灰となった。
 戦後の一家は、細々とメッキ工場を守っていた。そのために、不動産を次々と手放すより仕方がなかったのである。
 このころ、終戦直後の九月、慌ただしく大阪から妻を迎えた。二人は、それまで会ったこともない。十七歳の新妻は、彼の持病を知らなかった。そのうえ彼は、不眠症にも苦しんでいた。驚いた妻は、それから悶々とする日が始まった。食糧難の時代である。
 彼の家も、近くの海岸に製塩工場を建て、調味料の製造を始めて、一応の軌道に乗った。メッキ工場も、占領軍の家庭用温水器のメッキ塗装の大量受注があった。やっと家業に見通しがつきかけた時、今度は、注文のあった大量の調味料を発送すると、それが、あとで取り込み詐欺とわかった。
 不幸は不幸を呼ぶように、五〇年(同二十五年)三月、岡田一哲の父が胃穿孔で悶死した。一哲は、以前の祖母の死と、このたびの父の悶死の様を見て、宗教は無力なものと思った。
 東京にいた兄は、事業不振に苦しみ、五四年(同二十九年)二月、創価学会に入った。従業員に、たまたま学会員の青年がいたのである。
 この年の八月、全国の夏季地方指導の一隊が、岡山にも派遣された。その一員として帰ってきた兄一哲をつかまえて、夜を徹して話したが、埒が明かない。兄は、一行の宿舎に一哲を誘い出し、派遣隊の人びとに引き合わせた。派遣隊の責任者は、大阪の支部幹事であった。
 この時、一哲の心には、あの強信であった父親の面影が去来して、人びとの話が素直に耳に入るはずもない。支部幹事との激論は、実に五日間にわたり、刀折れ矢尽きた思いで八月十二日に入会した。
 一哲は、直ちに岡山の知友を紹介して歩いた。工場の従業員のなかにも、入会する人が、七、八人いた。十日たった時、頑固な長年の不眠症が、ケロリと治っていることを発見した。
 一哲の母は、夫の宗教に執着していたが、彼女なりの実験をした。夫の本尊を十五日拝み、一哲が受持した本尊を十五日拝んだ。夫の本尊では妄想を起こしたが、一哲が受持した本尊では、すがすがしい安楽な蘇生の思いに浸るのだった。そして、入会したのである。
 岡田一哲は、短日月に宗教の影響力というものを、身をもって厳然と知ったのである。
 真実の仏法のカが、いかなるものかを知った一哲には、もはや一点の迷いもなかった。心は、感激につつまれていた。彼の求道心は、大阪へ何度でも通うことを厭わなかった。会合や御書の講義の日が待ち遠しかった。大阪で、戸田の面接指導を仰いだのも、このころのことである。
 編み機の製造販売に手を染めたが、うまくいかなかった。戸田に、事業についての指導を受けた。
 戸田は、静かに聞き終わって、編み機の仕事はやめて、手慣れたメッキに専念するように言った。
 戸田は、事業に焦る岡田一哲を憂慮して、福運に満ちた事業家になるための信心の確立を教え、数々の事業経験を語って諭した。
 「私の事業の在り方は、すべて仏法哲理の実践なんです。君は、今、何歳だ?」
 「三十四になります」
 「まだまだ若い。四十五歳までは、金を残そうと思わなくてよい。どこまでも信心根本に頑張ってみなさい」
 この時、岡田一哲の腹は決まった。教学部員候補の講義にも、欠かさず大阪に通い、講師の山本伸一を知る。時には、家族が案ずるほどの熱心さであった。班長となり、中国方面最初の教学部助師となり、地区部長となるまで、彼は、戸田の忠告を忠実に守ったのである。
11  選挙については、全く無関心の前半生を送った一哲が、このたび、戸田城聖と参議院議員選挙の候補者である十条俊三を迎えて、烏城公園で行われる大集会に、先頭となって奮い立ったのも、信心のゆえであった。
 当日、彼は、城址周辺の要所要所にのぼりを立てた。
 何千という会員が、烏城公園に向かうのを目にした岡山市民は、何があるのかといぶかった。岡山の幹部たちは、市民にも呼びかけた。傍観の多数の見物人も巻き込んで、いつか城址は約一万の人で埋まった。
 十条は、その前で立候補のあいさつをした。開襟シャツの戸田城聖は、岡山が犬養木堂の出身地であることから、まず犬養の話から始めた。犬養の、政治家としての識見を高く評価して、県民の心に訴えつつ、戸田自身の政治に対する理念を披瀝し、十条俊三の支援を呼びかけた。
 岡山をはじめとする中国地方の会員は、初めて戸田城聖に接する人が大部分であった。彼らは、話や新聞で知っていた戸田の姿を眼前にしたことに十分満足した。また、多くの岡山市民に戸田城聖を紹介できたことに喜びを覚え、胸を張って、それぞれの地元に散っていった。
 この夜、岡山に一泊し、戸田は、宿舎に岡田一哲を呼んだ。戸田は、さまざまな報告を聞き、また、さまざまな指導と激励をしたあと、ゴロリと横になった。
 そして突然、岡田一哲に尋ねた。
 「仕事の方は大丈夫か?」
 「はい、大丈夫です。私がいなくても、みんな、よくやってくれますから、すべて任せてあります」
 岡田は、何げなく反射的に答えたものの、実のところ経営は赤字であった。
 それを知る由もない戸田であったが、岡田の言葉に、安易さと不安を感じた。瞬間、横になっていた体をガバッと起こすと、厳しい表情になった。
 「『任せる』と『放任』とは、大変な違いだ。君の言っている『任せる』というのは、『放任』ではないか! そんな、だらしのないことでどうする。私は、君を地区部長にしたが、君に地区を任せっ放しにしたわけではない。このところを勘違いしているようでは、君は、地区部長としても、事業家としても落第です」
 厳しい叱声である。戸田は、事業に対する岡田の迂闊な姿勢を、この夜から一変させた。以来、岡田は、どんな遠隔の地を飛び歩いていても、夜になると工場の責任者に電話して、その日の報告のすべてを聞き取るようになった。
 常に指導を求め、それを一つ一つ厳しく実践し抜くなかに、学会幹部としての岡田一哲の人間形成があった。一九五六年(昭和三十一年)の戦いでは、彼は中国地方の責任者であった。彼は、機会あるごとに大阪に通った。山本伸一の指導を求めながら、共々に成長していこうという、真剣そのものの姿を、人びとは、しばしば目にした。
12  事件は、まず六月下旬ごろから始まった。張り出された学会推薦候補のポスターが、全国各地で、何者かによって、はがされるという事件である。
 創価学会推薦の候補者のボスターは、顔写真が大きく鮮明で、ひときわ引き立って見えるのが自慢であった。それが無残に引き裂かれたり、はがされたりすることは、いかにも口惜しいことであった。
 六月二十四日には、神奈川県横須賀市で、あろうことか、現職の制服警官が、山平忠平のポスターをはがしてポケットに入れるのを、ある会員が目撃した。現行犯である。さっそく、交番に訴えたところ、警官自身も、はがしたことを認めた。
 報告を聞いた、文化部長の鈴本実と横浜市議会議員の森川幸二が、神奈川県警本部と横浜地方検察庁に、厳重な取り締まりを申し入れた。
 当局は、「告発か、告訴をしてもらうより仕方ない」という返事である。目下の事件の処置は、法律手続きの問題に、すり替えられようとしていた。選挙取り締まりの当局の誠意が、疑わしく思われたのも無理はない。当局に対する、感情的なしこりが残った。
 告発は、大阪における五月の不当逮捕事件に関して、既になされていた。不当逮捕に動いた大阪府警の警部ほか五人を相手に、職権濫用罪などで、六月四日、弁護士の小沢清から、大阪地方検察庁に告発状が提出されていたのである。これにならって、その後に起きた大小の事件についても、弁護士の手を煩わすことになった。
 首脳幹部は、その慣れぬ対策に、全精力を割かなければならない。数人の弁護士は、続発する事件に多忙を極めるようになる。
 六月三十日に至って、学会は選挙妨害対策委員会を発足させた。構成員は、委員長を小西理事長とし、幹部二十人が委員である。全国の会員からの、妨害の報告を一手に受け、それを厳重に調査し、国民の基本的人権を守る立場から、さまざまな不法に対して、その是正のために活動することを趣旨としたものである。
 一方、全国の選挙活動は、いずこの候補者も厳しい終盤戦に入っていた。学会としては、取締当局による妨害への対策までしなければならないとは、全く予期しなかったことであった。このため首脳幹部の活動力は、はなはだ阻害されたが、全国にわたって続発する事件を、そのまま不問にしておくこともできなかった。
 当時の記録のなかから、主な事件を列挙してみると、ほとんどが戸別訪問容疑である。容疑者の取り調べにあたって人権無視の傾向が数多く重なっていた。
 六月二十四日、千葉県市川市で、病気療養中の婦人を、任意出頭であるべきところを強制的に連行し、十二時間も取り調べをした。また同日、群馬県桐生市では、地区部長を呼び出し、誘導尋問をして苦しめた。
 二十六日には、大阪郊外の各警察署は、あちこちで会員を威嚇して連行した。刑事たちは、逮捕状もないのに、ジープなどに乗せて連れ去り、なかには十数時間にわたって調べられた人もいた。
 二十七日には、東京都板橋区でも、九年間、病気療養中の婦人が連行された。また同日、武蔵野市では、連行された会員が、刑事からある雑誌を突きつけられ、「創価学会が邪教だというのを知らんのか」と侮辱された。
 二十八日には、東京都新宿区で、刑事が一会員を取り調べ、勝手に書いた調書を本人に読ませることなく捺印させた。また、品川区では、ある会員の家を家宅捜索した折、同居人の現金が入った賞与袋まで押収した。
 二十九日には、数人の会員が、蒲田駅付近の路上で、知人と立ち話をし、推薦候補の支援を依頼をしていた。それを見ていた警察官に捕まり、交番に連行されてしまった。これは警察官の違法行為である。
 三十日には、江戸川区で、婦人部員が調書に強制捺印させられた事件もあった。
 このような事件は、北海道から九州に至るまで、各地で枚挙にいとまがないほど続発したのである。選挙の公明な活動は、これらの妨害にあって撹乱された。各地に散っていた首脳幹部は、純真な会員の人権が無視された事実に憤激した。他候補との競り合いよりも、妨害対策本部と連絡を取りながら、当局に対する抗議と処置に忙殺される毎日だった。
 二十八日、市川市の事件は、学会の理事らが、署長に面談して詰問するところまでいった。そして、警察署の近くを通りかかった推薦候補の遊説車が、不当な取り調べを糾弾するといった事態までも生じた。勢い、感情的な確執は、日に日に、輪に輪をかけて拡大したのである。
 何ゆえに、このような不快極まる事件が続発したかというと、取締当局の、選挙についての長年の先入観が、災いしていたといってよかったろう。
 多くの創価学会員の、あのように熱心な活動が不可解で、その裏にあるものを突き止めて粉砕しようといきり立っていた。
 裏というのは、誰から金をもらったか、誰に頼まれてやっているのか、どうも組織が臭い、そこに莫大な資金の流れと命令系統があるのだろう、といったことである。そこで最前線で活動する多くの会員を、芋づる式に捕まえて端緒をつかもうとした。
 ところが、資金の流れなどないことは、容易にわかったが、誰かの強烈な命令が、あの潮のような活動を起こしていると思い込んだのである。
 なんの違反もないのに、違反と決めつけられ、無理やり連行されて、長時間の取り調べを受けた人も少なくなかった。特定の候補の支援者を、狙い撃ちするかのような、過剰ともいえる警察の捜査には、選挙妨害の疑いが十分にあったのである。
 よりよき社会の建設のため、人びとが使命感に燃えて、民衆の代表にふさわしい候補を議会に送り出すことは、本来、民主社会における選挙の原点であるはずだ。
 このような有形無形の妨害のなかで、全国の会員はよく戦った。大阪地方区でも、妨害事件は相当数に上ったが、同志たちは、軒昂たる意気をもって、それらの試練を乗り越え、大勝利への熾烈な活動を展開していったのである。
13  公示の日である六月十二日の朝、山本伸一は、春木征一郎の家族全員と、出陣の勤行をした。祈りを込めた勤行が終わると、伸一は、征一郎をはじめとする家族と対座した。厳しい表情であった。
 「いよいよ、今日は公示です。ご主人だけの出陣と思つてはいけません。あなた方一家の、本当の出陣となるんです。征ちゃんも、今日まで懸命に信心を貫いてきたが、今までの人生の、一つの決算にあたる出陣です。今日の出陣は、今後の春木一家のすべてを決定する出陣であることを、忘れないでください。これから二十七日間、一家をあげて、御本尊様に心を込めて、祈りに祈らなくてはなりません」
 出陣は、まず一家の信心を固めることから始まった。この日から、山本伸一は、御本尊への祈りに、新たな一つの祈念を加えた。
 それは、大阪のいかなる人であれ、このたびの戦列に加わって、味方となることであった。
 春木征一郎は、公示の日から遊説車に乗って、大阪府内を駆け巡った。プロ野球選手をしていた春木は、白の野球帽を被り、政界の浄化と、大衆の生活を守る政治の実現を訴えていった。
 一風変わった候補者の姿は、道行く人の目を引いた。遊説車は、小型トラックの荷台に材木で枠組を作り、そこに候補者の氏名を書いた、粗末なガタピシした車である。会員の好意によって借りた車であったが、数日すると、また別の車に替えなければならなかった。老朽化した車も多く、故障して、街のなかで立ち往生することも、しばしばであった。
 伸一の祈りに呼応したかのように、春木の遊説車は、日に日に、市民の注目を浴びて、人気は上昇していった。
 遊説車が街頭を進むと、赤子をおぶった婦人や、子どもの手を引いた婦人が、車上の春木に手を振ったり、側に走り寄ったりした。街頭演説のさなかに、会員とおぼしき青年や壮年が、盛んに声援を送った。これらの人びとが、日を追って増大する気配が、遊説車の上からもよくわかった。
 まことに歓喜の躍動といってよかった。会員たちは、日に日に、わが使命を果たしつつあるという充実感に、身は軽く、目は輝き、労苦も、愚痴も、生活の不如意さえも、すっかり忘れ去ったような思いで、喜々として活動した。活動すること、それ自体が楽しいのである。
 山本伸一の、人知れぬ一念に尽くした億劫の辛労は、選挙の支援活動でも花咲き始め、一日一日と花弁は大きく開いて、美事な満開へと進んでいったのである。
 皆、もう家にじっとしていられなくなった。街頭へ街頭へと、会員は誰に言われたのでもなく、自らの使命を自覚して飛び回った。あちこちで警察の干渉が頻発していたが、その影に怯えるよりも、使命の重さの自覚の方が、はるかに勝っていたのである。
 大阪支部のなかに、身体障がい者のメンバーがいた。彼らは、会員たちが、はつらつとして飛び回る姿を目にして、″自分たちも、何かできることがあるはずだ″と相談を始めた。そして、終盤戦のさなかのある日、彼らは不自由な体で、繁華街の、とある街角のガソリンスタンドの前に、ずらりと整列した。首に春木征一郎のポスターを下げて立ち、道ゆく人びとに呼びかけた。
 真心は、遂にここまできたが、残念ながら、これは明らかな違反行為である。
 彼らの突飛な行動を知った関西の首脳陣は、慌てて幹部を現地に急行させた。幹部は、グループの真心の情熱に脱帽しながらも、遺憾ながら違法行為であることを、やっと説得したのである。せっかくの発意による活動は、短時間で終わったが、その烈々たる闘魂は、多くの会員の士気を鼓舞し、聞く人の涙を誘うまでの感動を与えずにはおかなかった。
 毎日が戦いである以上、思いもかけぬ事件が突発することもあった。これらに山本伸一は、一つ一つ、適切な指導を与えたり、関係者を、急速、派遣して、その処置にあたらなければならなかった。現実は、まことに厳しく、複雑といってよい。この厳しくも複雑な事態を乗り越えてこそ、勝利への前進があるのだ。
 ある日、一人の壮年幹部から電話があった。
 「こちらの戦いは、なかなか大変になってきましたので、これから地区の人たちと、毎朝、勤行をしたいのですが、いいでしょうか」
 伸一は、すかさず言った。
 「選挙は、まず近隣の人びとを味方にしなければなりません。朝早くから、大きい声を出して、近所迷惑になった場合は、むしろ奇異な感を与えてしまいます。それでは、人の心は離れてしまうではありませんか。ともかく、良識ある行動でなければ、人の心はつかめません」
 会員は、人それぞれ、職業も人柄も、さまざまである。それらの人たちが、それぞれの持ち味を、すべて発揮していったのである。
 演説会は、個人演説会一本で終始したが、いざ応援弁士となると、心細いことであった。座談会とは勝手が違う、一般大衆を前にしての政談演説である。弁舌さわやかとは、いきかねた。それでも、速成の応援弁士には事欠かなかった。
 街の電器店を営む会員は、○○電器会社社長の肩書で演壇に立ち、ガソリンスタンドの主人は、△△石油販売会社社長として応援演説を行った。肩書だけは大会社の社長を思わせたが、話はうまくない。しかし、彼らは春木征一郎を知ることにおいて、何人にも負けなかったし、入会以来、春木に寄せる信頼と尊敬には、心からのものがあった。当選を願う真心からほとばしる、訥々した語り口は、むしろ聞く人の耳に切々と迫ったのである。
 いよいよ終盤に入った七月初めの朝、山本伸一は、首脳幹部を前にして御書を聞き、「新池御書」の一節を読み始めた。
 「『皆人の此の経を信じ始むる時は信心有る様に見え候が・中程は信心もよはく僧をも恭敬せず供養をもなさず・自慢して悪見をなす、これ恐るべし恐るべし、始より終りまでいよいよ信心をいたすべし・さなくして後悔やあらんずらん、たとえば鎌倉より京へは十二日の道なり、それを十一日余り歩をはこびて今一日に成りて歩をさしをきては何として都の月をば詠め候べき……』
 この御書の通りであります。みんな力を合わせて、一丸となって今日まで来たのに、さて最後の段階で崩れるようなことがあっては、すべて水泡に帰し、いくら後悔しても追いつきません。これからが、いちばん大切な時になってきました。都の月を詠めるのには、もうひと息のところまで来ました。
 『月月・日日につより給へ・すこしもたゆむ心あらば魔たよりをうべし』です。魔も今が、いちばん強い時だと知らなければなりません。もうこれからは油断はなりません。潔い心構えでいこうではありませんか」
 伸一は、また御書を手にして、読み上げた。
 「構へて構へて所領を惜み妻子を顧りみ又人を憑みて・あやぶむ事無かれ但ひとえに思い切るべし、今年の世間を鏡とせよ若干の人の死ぬるに今まで生きて有りつるは此の事にあはん為なりけり
 「弥三郎殿御書」の一節である。
 「七百年前も今も、いざという時が大切なんです。このような大事な時に、この事にあわんがために、私たちは、なすべき使命をもって生まれてきたんです。最後まで使命達成のために、大いに頑張ろうではありませんか。皆さんに、くれぐれもよろしく伝えてください」
 一同は、いつか襟を正して聞いていた。東京からの派遣員のある人は、これまでの戦いの種々を思い出して、感傷的になったのか、拳でそっと目をこすっていた。それが伸一の目にとまった。彼は、温かい眼差しを注いだ。
 「もう今からは、あなたたちを叱りません。毎日、毎日、私に叱られながら、よくやってくれました。ありがとう。今日からは、思う存分、思い切りやってください。
 このたびの戦いに、もし負けるようなことがあったら、それこそ、大阪の人が、かわいそうです。お互いに頑張ろう!」
 これを聞いて、大阪の首脳幹部は、目をしばたたいた。
 歓喜と、緊張と、自重のうちに、一日一日を踏みしめて、なすべきことは、すべて行った。そうして、投票日の七月八日が来た。山本伸一は、寝苦しい夜を送り、未明に目が覚めてしまった。五時近く起き出した彼は、廊下に出て、一階の洗面所に、ひっそりと下りた。すると、この時、玄関の方に人の気配がした。見るともなく見ると、龍岡巌が、玄関のドアを、そっと開けて、今、外に出ようとしている。
 伸一は、声をかけようとしたが、ひそやかな物腰から、差し控えた。はやる心の龍岡が、拠点へと急いでいることが、よくわかった。
 この時、伸一は、″これでよし、勝てる!″と思った。各拠点の責任ある幹部が、最後の最後の瞬間まで、緊迫感を持続していることを、龍岡の姿に見て取ったのである。
 伸一が部屋に戻ると、電話のベルが鳴っていた。受話器を取り上げると、東京からである。伸一は、端座して身を正した。受話器の向こうで、懐かしい戸田の声が響いた。
 「伸ちゃん、ご苦労。関西はどうだい?」
 「こちらは勝ちます!」
 「そうか。……東京は負け戦になりそうだ。私が東京に帰るのが、三日遅かった」
 伸一は、戸田の言葉に、なんと言うべきか、窮して黙してしまった。
 「伸ちゃん」
 「はい」
 「そちらは頼むよ。終わったら、早く帰って来なさい」
 電話は、それで切れた。
 伸一は、なお受話器を耳に当てたまま、しばらく茫然としていた。辺りの早朝の静寂が、ひとしお身に染みた。
 戸田城聖は、七月五日の夜遅く、全国一巡の旅を終え、東京に戻ってから本部を動かなかった。全国各地からの情勢報告を集めて、情勢分析をしていたが、彼の顔は次第に曇って、冴えなかった。どの報告も楽観的で、一応、景気はよかったが、彼の心の壁に感じるものは、数字的な報告とは反対なものであった。楽観の裏には、油断が潜んでいた。東京をはじめとする関東方面は、度重なる選挙妨害をめぐっての警察との折衝で、多くの会員は浮き足立って見えた。
 時は刻々と過ぎ、投票日の七月八日は終わった。戸田も一票を行使して、また本部に陣取った。夜に入ると、即日開票の三十七道府県の地方区の開票を、ラジオが報道し始めた。東京も、大阪も、翌日開票である。
 戸田は、会長室で横になったが、寝つかれなかった。春以来、この日の勝利をめざしてきた全国の会員を思い、各地で生じた、警察の干渉によるさまざまの事件を思い浮かべていた。
 全国的な支援活動が、何ゆえに、あれほど妨げられなければならなかったのかと思い返した。
 ″今の世の中は、宗教などというものを、いささかも信頼していない。宗教は死んで、衛生無害なものと思い込んでいる。ところが、信頼すべき唯一の宗教が、世間の風に初めて身をさらすと、たちまちこの騒ぎだ。
 創価学会の活動によって、真実の宗教が生きていたことを、世間は初めて知るに及んで、ただ、むやみに反発して嫌い、それが、干渉、迫害の動機になったのではなかろうか……″
 戸田は、何度も寝返りを打ちながら、深い想いに沈んだ。彼は、わが胸を手のひらでなで、会長に就任して以来の五年間を、遡行して考えた。
 彼の立てた作戦や展開は、たとえどんな困難に遭っても乗り越えて、ことごとく的を射て、完璧なまでに成功してきた。このたびの世間の風のなかでの作戦も、首脳幹部たちは、いろいろの障害はあったものの、同じように成功するものと楽観しているにちがいない。
 九日の正午ごろに大勢は判明するだろうが、おそらく彼らは、初めての挫折を知って驚愕するにちがいない。
 広宣流布も、いよいよ険しい道にさしかかったのだと、ひしひしと、彼は身にこたえた。哀感に沈んだのでも、まして絶望に襲われたのでもない。険しい山の絶壁が、彼の眼前にそびえ立っているのを直視したのである。
 彼は、己心に、その山をまざまざと見た瞬間、一首の和歌に、わが心を託し、愛すべき全会員の一人ひとりに呼びかけた。
  いやまして
    険しき山に
      かかりけり
    広布の旅に
      心してゆけ
 戸田城聖は、遠い未来の幾山河に、いつまでも思いを馳せていた。
 時計は、深夜の丑の刻、二時を指していた。一九五六年(昭和三十一年)七月九日の午前二時である。

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