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小説「人間革命」9-10巻 (池田大作全集第148巻)

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27  全国で華々しい座談会が展開されている最中、五月十三日の日曜日に、総本山主催の「水道まつり」が催された。法主の堀米旦淳の招きを受けて、創価学会の中堅幹部以上の千百人が、この日、参集した。
 総本山に、上水道が初めて敷設された涌出泉水の祝いである。六百数十年問、十分にして安全な飲料水がなかったことから、このたびの敷設は、大きな喜びの日となった。
 これまで、参道を流れるせせらぎを飲料水としてきた。境内の湧き水は、ほんのわずかしかなかった。
 時来って、数千人の登山者を迎える総本山にとって、飲料水の問題は、憂慮すべきことであった。水脈の調査は、明治時代からしばしば続けられたが、厚い溶岩層の下には水脈はないものとして、地質学者たちの結論は、いつも絶望的であった。
 戸田城聖は、登山者の激増から将来を憂えた。
 彼は、秋田の地区部長・佐藤幸治が、温泉などのボーリングの仕事をしていることを知って、一九五五年(昭和三十年)の正月、佐藤に試掘を依頼した。佐藤は、欣喜雀躍し、懸命になって御影堂の裏辺りを三カ月かかって二百メートルも掘ったが、地下水脈には行き当たらなかった。
 佐藤は、三十年にわたるボーリングの経験者である。彼は、絶望感に襲われた。
 この時、戸田の佐藤幸治に対する激励は厳しかった。佐藤は思い直して、十一月末、宗務院側の小川の近くを掘ったところ、わずか二十六メートルに達した時、奇跡のように地下水が噴出した。
 水量は一分聞に一石二斗(約二一六リットル)、水質も良好の、こんこんたる水源である。上水道工事は急ピッチに進み、配水管五千七百尺(約一七三〇メートル)、水圧は東京の水道の約二倍という総本山境内の水道が、五六年(同三十一年)三月に完成したのである。
 五月十三日の午前十時半、総本山の学林の広場には、模擬店がずらりと並び、音楽隊は、次々と学会歌を演奏し、戦いの渦中にある幹部たちを鼓舞し続けた。
 催しを終えると、太陽が、午後の強い日差しを辺りの新緑に注ぐなか、全国の各方面の同志は、各地に散っていった。
 この直後、思いもかけない突発事件が、まず大阪で起こった

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