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日蓮大聖人・池田大作

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小説「人間革命」9-10巻 (池田大作全集第148巻)

前後
1  旭日の勢いというものは、誰人も、さえぎることはできない。草創の息吹には、潮のごとく力強い勢力がある。その流れを、永久に続けゆくための唯一の原動力は、信心しかない。
2  一九五六年(昭和三十一年)四月八日の大阪地方は、前夜から雨がやまなかった。
 いや、むしろ風さえ強くなって、朝から荒れ模様に変わっていた。大阪管区気象台は、風雨注意報を発していた。
 関西の創価学会員にとって、この日は、待ちに待った大阪・堺二支部連合総会の当日である。しかも、難波の大阪球場を会場とする野外集会である。
 前年十一月、創価学会の第十三回秋季総会が、初めての野外集会として、東京・後楽園球場で開催された。これを見た、衝天の意気に燃える関西の会員は、万難を排しても、自分たちは大阪球場で総会を決行しようと決意していた。それが、春雨ならぬ土砂降りの雨である。彼らは、落胆するよりも胸を痛め、天を恨むよりも、なんとか正午ごろには雨のやむことを祈り、待った。
 山本伸一は、前日の七日朝、自宅を出て、夜八時ごろ大阪駅に着いたが、雨である。関西本部では、翌日の晴天を願って唱題の声が響いていた。明日の天気予報は雨と知り、伸一は、愛すべき関西の同志の辛い心を思い、胸を痛めながら、直ちに晴雨両様の準備に心を砕かなければならなかった。
 彼は、三月三十一日、東京での本部幹部会を欠席してまで大阪に向かい、四月二日までの三日間、各種の会合で、大総会成功へのさまざまな問題点を検討した。彼は、大結集に不慣れな関西の会員のために、万全を期して、運営の細部にいたるまで指示し、ひとまず帰京した。さらに、連日、関西本部と連絡を取りながら、戸田城聖の一行を迎えることなど、準備事項の詳細を、速達便で書き送っていた。しかし、雨天を想定した指示は与えていなかった。
 関西の幹部は、組長、組担当員にいたるまで、この祝福すべき大総会までに、果たすべき責任を完壁に果たそうと大奮闘していた。そして晴れ晴れと、会長・戸田城聖を迎えようと、弘教拡大の激しい活動を展開していた。それというのも、四月一日の夜の組長指導会で、山本伸一から、新しい活動方針が発表されていたからである。
3  それまで、班長を中心とする班座談会を主体として活動してきたが、四月からは、それに加えて、組長の発意による組座談会の開催を、積極的に進めてよいという方針が打ち出されたのである。
 心ある組長は勇躍歓喜して、さっそく、この翌日から実行に移した人も少なくなかった。総会までに数日しかなかったが、この記念すべき大総会に、新しい入会者を一人でも多く連れて参加しようと、誰言うともなく、意気込んでの活動が、にわかに始まっていた。
 班から組へと、一段階広がった座談会の開催は、まだ入会して日の浅い組長の実力を考えると、直ちに期待すべき活動の成果が出るとは思われなかった。ところが、彼らの歓喜の実践は、予想をはるかに超えたのである。
 たとえば、大阪在住の一人の組長がいた。彼の所属する地区は神戸市にあり、彼の班も神戸市の近郊にあった。彼は、地区の会合や座談会のたびに、大阪から神戸まで出かけていった。彼の友人を座談会に誘うにも、神戸まで連れて行かなければならなかった。
 彼は、割り切れぬものを感じつつ奮闘していた。彼が、大阪で座談会を開くためには、彼が班長となるほかはない。こんな思いに行き着いた時、組座談会の開催が、思いがけなく可能となった。
 彼は、「よっしゃ!」とばかり、地区と連絡を取り、隣近所の人びとや知友を集めて、数回の座談会を開いた。彼の組は、この四月、実に二十世帯の折伏ができたのである
 組座談会は、組長たちの発心を促した。彼らは、幹部としての責任と誇りとに燃えた。大総会への二万人の結集は、着々と準備されつつあった。
4  その野外集会が、前日から雨である。中止か、決行か、それとも延期かと、会員たちは不安になったが、このまま中止になることは、なんとしても避けたかった。各地区などの拠点では、唱題が続いていた。決行は、全会員の総意として、暗々裏に徐々に固まりつつあった。
 難波の南海電車の駅付近は、早朝から人で混雑していた。
 陽春四月の日曜日を楽しみにして、この日、行楽を予定していた人びとである。雨にもかかわらず、あきらめられない家族連れなどが、駅に繰り出して来ていた。ところが、「雨が強く降るでしょう」という注意報から、行楽地に向かう南海の臨時電車は、いずれも運行を中止した。行楽客は、途方に暮れて、降りしきる雨を、駅頭で恨めしげに眺めては、しぶしぶ帰路に就いた。この日の大阪管区気象台の記録では、雨量四四・八ミリとなっている。
 ところが、駅の雑踏のなかから、雨のなかに飛び出し、傘を広げて急ぎ足に大阪球場の方角に向かう人びとが、早朝から見かけられた。時間がたつにつれて、それらの人びとは、どんどん多くなっていった。
 それに、地下鉄難波駅からの人びとの群れも加わった。駅頭には、腕章を巻いた青年が立ち、球場への誘導を始めだした。雨天のもと、野球試合があるとも思えず、街の人びとは、″何かあるのか″と不審顔であった。人びとが、創価学会という、聞き慣れぬ宗教団体の集会であると知るまでには、それほど時間はかからなかった。球場へと急ぐ人びとの群れが、刻々と増すのを見て、何事ならんと、腕章の青年に思わず問いただしたからである。
 大阪球場は、雨に濡れていた。
 午前七時には、青年部の役員五百余人と、両支部の支部員百人余が、既に雨をついて参集していた。
 この雨に、いちばん気をもんだのが、設営関係の約百人の青年たちである。グラウンドは、そこここに水溜りができている。中央に設けられた演壇まで、入場行進する通路に、ムシロを敷き、その上に砂を撒いて道を造ってみたが、そんなことでは、水溜りを防ぎきれないことがわかった。
 雨を存分に吸ったグラウンドの土は、踏めばぬかるみとなった。急速、この通路の上に、テントなどで使っている防水布を敷くことに衆議一決した。だが、その布がない。青年たちは、雨のなかを大阪の各方面に散って、一枚一枚、防水布をかき集めてきた。そして、開会間際になって、やっと演壇までの通路に敷き詰めることができた。
 午前九時、開門と同時に、内野席は、瞬く間に、ほぼ埋まった。傘を差した会員が、陸続と詰めかけてくる。
 午前十時には、約四千人を数えた。前夜に出発した九州、四国、中国、北陸などの地方拠点の支部員たちも、午前十一時には、次々と姿を現し始めた。
 雨は、やまない。時折、激しい雨にグラウンドは煙った。首脳幹部は、決行か、中止か、検討を重ねたが結論は出ない。
 戸田城聖の一行も、既に大阪に到着して、関西本部で待機している。一切の決断は、最高指揮者・山本伸一に委ねられた。既に内野席は埋まり、外野席も傘で埋まりつつあった。色とりどりの傘一面のスタンドは、決行を、息を潜めて促す気配である。伸一は、胸痛む思いで深く悩んだが、この時、ある思いが彼の心に浮かんだ。
 ″五濁悪世の末法にあって、日蓮大聖人は数々の大難を勝ち越えられ、妙法を弘通された。七百年後の今日、大聖人門下として立ち上がったわれらが、厳しき現実に直面するのは当然の道理である。今、関西の地涌の戦士は、大阪球場に集ってきて、雨に打たれているが、われわれは、大聖人の弟子であることは疑いない。風雪に生涯を戦い抜かれた大聖人の弟子ならば、このぐらいの雨などに負けてなるものか! 雨をもって、われわれの信心を試してくださり、鍛えてくださるのだろう″と、伸一は思った。
 山本伸一は、最後の一瞬に心を跳躍させ、雨中での総会の開催を決断した。
 ″雨の総会が不都合なら、傘を差せばよい。会員たちは、それを既に実行している。式は短くしよう。短縮には、充実をもってあたればよい。
 「時間短縮で決行」という指令が、あっという間に、場内、場外に飛んだ。
5  歓喜の潮が流れた。整理にあたった青年部員のなかで、雨ガッパの用意のある人はいなかった。いつか下着には雨が染み通り、長靴の中さえも、ぐっしょり濡れていたが、決行は、彼らを勇気づけ、使命のなんたるかを自覚させた。女子部員は、かき集めた雑巾で、スタンドの座席を拭いて回った。
 決行と決まって、最後にマイクのテストをしていると、言葉が不明瞭で聞き取れない。前日のテストでは、完全な調整ができていたはずである。マイクの担当者は慌てた。参加者の、スタンド一面の傘が、禍をしていることがわかった。音量の調整を、あらためてしなければならなかった。さらに、スタンドの各所からの報告を取ると、全然、聞こえない場所が数カ所もあった。原因は、配線の接続不良とわかった。応急処置がやっと終わった時、開会は間近に迫っていた。
 雨は、なお降り続いていた。
 正午になると、雨脚は、さらに激しくなった。その雨のなかを、東京から応援にきた音楽隊が行進を始め、場内を一周した。ずぶ濡れの音楽隊は、泰然として、士気を鼓舞するように演奏し続けた。入場者は、一斉に惜しみない拍手を送った。弁当持参の学会員の、なかには、傘のなかで食事をする人もいた。横なぐりの風は、時折、雨を弁当箱に注いだが、「お茶づけならぬ水づけ弁当だ!」と笑い飛ばしていた。
 皆、意気揚々と開会を待ち、グラウンド中央に特設された演壇を見つめていた。
 午後一時――いよいよ雨の総会は、開会が宣言された。
 約二万の会員の歌声は、難波界隈を揺るがし、街の人びとは、時ならぬ異様なにぎわいに耳をそばだてた。
 二つの支部旗を先頭に、入場式が始まった。内野スタンド辺りから、戸田城聖をはじめとする首脳幹部が、中央の演壇に向かった。雨は降り続いている。
 戸田の一行は、傘も差さず、濡れるに任せて進んだ。
 この日をめざし、戦い切って集った二万の参加者は、雨に打たれて進む戸田城聖を迎えようとは、思いもかけぬことであった。彼らは、胸に迫る万感を学会歌に託し、絶大な歓声と拍手をもって応えたのである。
 雨雲は、厚く空にかぶさり、雨に煙るグラウンドの中央に、四万の眼が凝結した。演壇の上には、テントが張ってあったものの、天幕は風にはためき、雨は容赦なく吹き込んだ。
6  時間短縮の総会は、順序よく進んだが、首脳幹部の講演では、手にした原稿も、時に風にまくられ、雨ににじんだ。三人目に、山本伸一がマイクの前に立った。さすがに、彼の顔は乾坤一擲の険しい表情をしていた。二十八歳の青年の熱血の気迫が、彼の全身から、ほとばしらんばかりであった。
 「わが会長・戸田先生は、日夜、私たちに、『日蓮大聖人の時代に還れ、大聖人の信心に還れ』と言われ、『それ以外に、日本の幸せも、個人の幸福も、真実の仏法もない』と述べられております」
 伸一は、日蓮大聖人が、あらゆる不幸から民衆を救わんと、時の権力者に厳然と諌暁され、思想、宗教の根本の誤りを正していかれた闘争について、歴史をたどりつつ、言葉短く語った。
 彼は、関西で展開されつつある、この戦いも、大聖人の民衆救済の御精神を体して、どこまでも、よりよい社会の建設と、民衆の幸福と、平和の大道を開く戦いであることを、明らかにしておきたかったのである。
 伸一は、力を込め、関西の同志に呼びかけた。
 「今、展開されている広宣流布の活動は、その根本において、大聖人の御精神、使命に立った闘争であることを、私たちは知らなければならないと思うのであります。
 私たちの、開かれた広い分野にわたる活動もまた、民衆の幸福と平和を築くための戦いであることを確信して、不幸の民衆を、勇気をもって救いきっていただきたいと思います。
 ただ、そのことのために、情熱をたぎらせ、本日の総会を契機として、ひたすら進んでまいろうではありませんか」
 雨は、時に小やみになり、時に激しく降った。
 そのなかを、スタンドを埋めた会員たちは、差している傘の柄を肩で支え、両方の手のひらが痛くなるまで、惜しみない爆発的な拍手を、伸一に向けて送るのであった。
 このあと、指導部長・清原かつの、歯切れのよいあいさつが終わった時、大阪支部長の春木征一郎が、いきなりグラウンドに飛び出した。そして、演壇前のピッチャーズマウンドの上に立った。音楽隊は演奏を始め、春木は、小旗を振って学会歌の指揮を執った。
 このマウンドは、彼が数年前まで、プロ野球のエースとして、しばしば登板した思い出の場所である。
 雨は、降りやまない。二万の会員は、彼のびしょ濡れの姿に、感慨を込めて大合唱した。時ならぬ感動の歌声は、雨に煙る球場を圧し、空に舞い上がった。
 続いて地区部長代表の決意発表があり、さらに地元関西の堺支部長・浅田宏のあいさつへと進んだ。
 「本日は、雨が降っております。しかし、私たちは、雨に負けてなりましょうか!
 これから先、嵐の吹くこともありましょう。吹雪の時もありましょう。何がどう降ろうと、本日、ここにいる皆様方の意気と情熱をもって、今後の活動に、さらにさらに勇猛心を発揮して、全関西の民衆を幸せにし、救いきるまで、戦い抜こうではありませんか!」
 浅田の叫びは、集った二万の会員の叫びでもあったのだろう。前夜から降り続いた雨も、小降りとなってきたのである。
 十条文化部顧問、小西理事長とあいさつが続くうちに雨脚は弱くなり、最後の戸田城聖の講演に移るころには、覆った雲が割れて、太陽の淡い光さえ差し始めていた。
 参加者のなかには、ほっと息をついて、傘を畳みかける人もいた。そして、遠い演壇の上にいる戸田の姿に目を凝らし、じっと耳をそばだてた。
7  戸田城聖は、演壇の上のマイクの前に立ち、広い会場を見渡しながら親しく呼びかけた。
 「私が、大阪に月一回、あるいは二回まいります理由は、大阪の会員諸君のなかから、貧乏人を絶対なくしたいという念願のためであります」
 この瞬間、この言葉を待っていた関西の会員たちは、一斉に熱烈な拍手をもって応えた。戸田は、日蓮大聖人の仏法への大確信をもって訴えた。
 「諸君が、正しい信心に立つならば、皆、必ず幸福になっていかねばならない。それを、あなた方の胸に、はっきりと焼き付けたいのが私の念顕であります。御本尊に真剣に祈るならば、幸福にならないわけはない。それを、あなた方に期待したいのが私の念願であります」
 戸田の念願という言葉には、関西の会員一人ひとりへの、深い祈りが込められていた。この厳たる慈愛は、聞く人の目に涙さえ浮かべさせたのである。
 「創価学会を大きくしたいとか、あるいは、学会をどうこうするといったような、小さな精神の私ではありません。
 なぜかならば、私は、日蓮大聖人の弟子であります。大聖人様は、佐渡から帰られ、正法誹謗の為政者を諌められました。三度目の諌暁です。しかし、頑として聞き入れぬ姿に、大聖人様は、『何も私は、法華経を弘めてほしいと願っているのではない。不幸な民衆を救うために、また、苦悩に沈んでいる国家を救うために、一切の誤れる宗教を打ち破り、正しい法華経を信仰すべきであると言っているのである。これだけ言っても聞かなければ、これで三度諌めたのであるから、国を去る』と身延山に、お入り遊ばされたのであります」
 戸田は、淡々と語りかけるように話を進めた。
 「民衆救済に立つ者こそ、日蓮大聖人の弟子であるとの覚悟が、なければならないと信ずるものであります。大聖人様は、広宣流布という大願の成就を、私たちのために残されました。今まさに、その時にあたるのであります。断じて、私たちの手で、広宣流布をしなければならない時が来ているのであります」
 戸田は、すべての学会活動は、広宣流布という民衆救済のためであることを述べた。
 また、彼は、この年の七月に予定されている参議院議員選挙にも言及し、学会として選挙にかかわる以上は、どこまでも公明選挙を貫くよう訴えた。
 そして彼は、創価学会が、政治的野心などで動いているのではないことを言明し、最後に次のように結んだ。
 「創価学会の確信と行動において、皆さんは、よくこの根本のところを理解し、立正安国のため、社会のため、民衆のための行動であることを知っていただきたい。大確信に立って、行動していただきたいと思います。以上をもって、私の講演に代えます」
8  戸田の師子吼は、マイクを通して、球場いっぱいに響き渡り、雨に濡れた一人ひとりの胸のなかに染み込んだのである。
 「同志の歌」の合唱があり、閉会の辞に続いて、退場式となった。戸田をはじめとする首脳幹部が、一列に並んでグラウンドを横切った。
 このころに、また雨がさっと降ってきた。一行は雨に濡れながら、二万の会員が歌う「星落秋風五丈原」のメロディーの流れるなかを、威風堂々と退場した。スタンドを埋めた会員は、手を振り、ハンカチを振って、一行の姿を見送った。時に、午後二時を過ぎていた。
 春たけなわの雨の日である。
 この総会で、関西の創価学会員は、そろって跳躍したといってよい。雨天にもかかわらず、このような総会が意気高く挙行できるとは、彼ら自身、夢にも思っていなかった。関西の会員たちは、総会を終えて自信をもった。
 ″どんなことでも、やればできるではないか。山本室長の指揮に一切を委ねれば、どんなことでもできるはずだ。心配した二万の会員の結集も、ちゃんとできた。しかも、あの雨のなかでも、この通りできたではないか!″
 ふつふつとたぎる歓喜は、濡れた体の湯気のなかから、抑えても、抑えても、込み上げてくるのである。歓喜の跳躍であった。
 男女青年部の整理役員は、場内の後始末を手際よく、黙々と行っていた。誰の顔も、なんともいえぬ充実感がもたらす崇高な誇りに、キラキラと輝いていた。
9  関西は一変した。
 これまで、関西創価学会の総会については、一般紙に報道されたことはなかったが、四月九日の朝刊には、「朝日新聞」、「毎日新聞」をはじめとする一般紙が、一斉に報道したのである。
 雨中の大総会は、記者たちの好奇心を、よほど刺激したらしい。「朝日新聞」は、写真入りで、次のように報道している。
 「八日午後、ザンザ降りの雨の大阪球場内外野スタンドが黒、赤、黄、色とりどりのカサの波でビッシリうずまった。これは雨中の野球見物とは違い、日蓮正宗創価学会の関西支部総会に、近畿一円からはせ参じた熱烈な信者の集い」
 そして、元東映フライヤーズの春木征一郎投手が、大阪支部長の肩書で登板し、熱狂的な拍手を浴びたことが記され、次のように結ばれていた。
 「学会専属の吹奏楽団の伴奏で『同志の歌』『日本男子の歌』など学会の歌を斉唱、会を終ったが、信者たちは雨にたたられたこの日の感想を『現在の日本の象徴です。この試練に耐え、打ち克ってこそはじめて来るべき春の陽を拝むことができるのです』と″受難の日蓮″精神に燃えて語った」
10  局外者の、まことに気楽な報道記事ではあったが、春木征一郎が、大阪に来て満四年を過ぎ、創価学会の存在が、ようやく関西の一般の人びとに、印象づけられたことは興味深い。
 以後、関西ジャーナリズムは、創価学会というと、何かとうるさく書き立てるようになった。しかしまだ、この時点では、春木征一郎の参議院議員選挙への立候補は、全く問題にもされず、そろそろ始まった下馬評のなかにも、一言も触れられるととさえなかった
 この日の戸田城聖は、大阪球場から関西本部に戻ると、濡れた服を着替え、山本伸一が帰ってくるのを待っていた。その間、大勢の幹部と談笑して機嫌がよかった。
 間もなく、伸一は戻ると、戸田の部屋へ直行した。
 「ただ今、帰りました。先生、雨のなかを申し訳ありませんでした」
 「おう、伸ちゃん、やったじゃないか。大成功だったよ。早く着替えなさい。風邪をひかないように、みんなにも言いなさい」
 戸田は、体が丈夫ではない伸一の身を案じた。
 伸一は、ぞくぞくと寒かった。いつもの微熱が出たらしい。彼は、部屋に戻って、下着にいたるまで取り替えた。この夜、彼は、勤行の時、今日集った二万の会員が、誰一人、風邪をひく人がないようにと、御本尊に深く祈った。
11  翌九日は、皮肉なまでに晴れて暖かかった。
 伸一が、大阪の幹部に、次の活動の指示を与えていると、大阪支部の四月現在の折伏成果が報告されてきた。既に四千世帯を超えている。瞬間、伸一は、ニコッと笑ったが、何事も語らなかった。
 彼は、九日昼の十二時三十分発の特急「はと」に乗り込んだ。
 さすがに疲労は深かった。彼は、書物を手にしてみたが、車中八時間、遂に本を開かなかった。めったにないことであった。
 戸田城聖は、九日、十日と、そのまま在阪し、関西の会員のために、中之島の大阪市中央公会堂で講義した。そして、十日の夜、大阪を発ち総本山に向かった。
 伸一は、九日夜、戸田からの急遽の連絡で、十日昼、東京を発ち、大阪へ引き返して、総本山に向かう列車に飛び乗り、戸田と合流した。車中、参議院議員選挙について語り合い、指示を仰いだ。
 十一日には、総本山で、本住坊、蓮成坊の増築工事が完成し、その落慶法要に出席する必要があったからである。
12  雨の総会は、関西の全会員にとって、一つの成就であった。一月の、山本伸一の来阪から始まって、彼の指導のままに過ぎた三カ月が、いつの間にか、思いがけない成功をもたらしていたのである。それが、彼らには、一種、不思議な成就に思えた。
 それは、あくまで、伸一が緻密に構想し、的確に手を打ってきた、戦いの結実であった。
 そして、関西の人たちにとっても、この総会は伸一と共に行動し、まさしく、骨身を削って勝ち取った栄光の記念碑となったのである。
 彼らは、めざしたことを着実に成就することが、どういうことなのかを、知らず知らずに学んだといってよい。目立たない、陰での辛抱強い行動の蓄積が、いかに大きな仕事を成就するかの秘訣を、自ら悟ったとみてよい。
 彼らは、ただ、信心さえまっとうなら、目的に向かつて努力すれば、どんなことでも、できないことはないという確信に目覚めた。それが、言わず語らず、以心伝心に、関西の全会員の胸に満ちあふれてきたのである。
 総会は、実に跳躍の確かな契機であった。
 ″関西の、不幸な、苦悩に沈んでいる人びとを、片っ端から救っていこう。それが確実にできるのだ。君もやれ、おれもやる! 大阪中には、まだまだ不幸な人びとが、こんなに充満しているではないか。隣の人も、向かいの人も、久しく会わないあの親戚も、知人も。あの友達は今どうしているか″
 不幸な民衆を救済するという使命に立ってみると、なすべきことは、あまりにも多かった。
 関西の会員は、総会直後、いよいよ「よっしゃ!」と総立ちの気配を見せてきたのである。地区座談会、班座談会から組座談会にいたるまで、満を持して弓から矢が放たれたように、あの町の路地の家で、この町のアパートの一室で、夜ごとに座談会が開かれた。そして、数知れぬ歓喜の花々が一斉に開いた。関西の春の桜は、八日の雨で散っていったが、功徳の花は、大阪の地に咲き誇る勢いになってきた。
 ある班長は、一週間に一度の班座談会のほかに、毎夜のように開かれる、どこかの組座談会に出かけた。班座談会は、新しい参加者であふれ、組長は、その勢いに乗って、自信をもって組座談会を主催した。新入会者は、日増しに増えていった。この班の四月の折伏は、実に六十五世帯を数えたのである。
 まず、この成果に、いちばん驚いたのは、班長自身であった。班員たちは歓喜した。こんな自分でも、人を救うことの手伝いができるという喜びほど、純粋な尊い喜びはない。しかも、それは、彼らの、これまでの人生では、知り得ぬことであった。
 まことに、折伏の歓喜は、仏法の真髄に触れた歓喜であった。それは、この世での最大の歓喜にほかならない。「南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜なり」との御書の一節が嘘で、ないことを、彼らは、この月の実践で、一様に、初めて悟りつつあった。勢いは、とどまるところを知らなかった。彼らは、得意になった。実践が生んだ、自らの力に酔ったのであろう。さまざまに世話を焼いてきた派遣幹部の指導を、時にうるさく感じるようになってきた。
 派遣幹部は派遣幹部で、好調に気をよくし、自分たちの指導力を過信していった。地元幹部は、派遣幹部の指示を、なんとなく嫌悪する傾向となり、派遣幹部は、地元幹部の心情的な反発を感じて、ひそかに腹を立てた。あちらこちらで、両者の聞に軋轢が生じ、それは、思わぬ間隙を生み、互いに批判しだしたのである。
13  山本伸一は、ある朝の会合の時、派遣幹部の富井林策と、一人の地元幹部の意見の対立が、感情的な憎悪に基づくものであることを知ると、すべての重い気配を敏感に感じ取った。彼は、彼ら二人に言わせるだけ言わせたあと、珍しく、怒りを含んで富井に言った。
 「なんだ、いかにも相手に問題があるかのように互いに非難しているが、帰するところ、一片の感情がもとになっているだけじゃないですか!
 地元幹部には、″東京の連中がなんだ″という感情がある。派遣幹部からすれば、そうした地元幹部の反発を感じて、″何を生意気な″
 という感情に駆られてしまう。
 敵は、どこにいるのですか。富井君、地元幹部は敵ですか、味方ですか!」
 富井は、うなだれで答えた。
 「味方です」
 「では、どうして味方と喧嘩しなけりゃならないんですか。意見の衝突はよい。しかし、感情の衝突は喧嘩です。これほど味方の戦力を潰すものはない。……富井君、君は、なんという情けない男だ。いつ、そんな増上慢になってしまったんですか。私は、そんな訓練をした覚えはない。
 少しばかりの躍進の気配に酔って、いい調子になり、俺が俺がという顕示欲の魔に取りつかれてしまっている。情けない男になったものだ。君を信頼している私の悲しみが、君、わかりますか!」
 富井を見すえた伸一の姿に、地元の幹部は、″それみたことか″という顔をした。
 富井は、頭を下げた。
 「すみません。本当に申し訳ありません」
 富井は、この時、滝に激しく打たれているような思いがした。胸につかえていたものが、一気に霧散するような気がした。
 伸一の烈々たる叱時は、富井に宿った驕慢の魔を、一瞬にして斬ったのである。
 富井は、自分が情けなくなった。確かに、自分は情けない男である、と素直に思った時、伸一の厳愛の鞭のありがたさに、心は涙にあふれた。彼は、感情に耐えて居ずまいを正してから、伸一の顔を、ひたと見た。
 「私が愚かでした。お詫びいたします。こんなことで、二度とご心配はおかけいたしません。よくわかりました」
 富井が、自責の念にかられて、身も世もなく詫びているのを見て、それまで傲然としていた相手の地元幹部も、初めてわれに返ったのであろう。富井の姿を見るのが辛そうに目をそらし、自らの心に向けた。そして、派遣幹部を憎んだ自分の汚い心に、いやでも思い至らずにはいられなかった。部屋の空気は、静まり返っていた。
 山本伸一の顔には、なお怒気の名残が漂っているようであった。彼は地元幹部を、さっきから、じっと見ていたが、すべてを察したように、居並ぶ一同を見渡した。
 「東京から連れてきた、かわいい同志が、私に、こんなに叱られている。なぜか、わかりますか!
 勝利の道に立ちはだかる魔と、私は戦っているんです。あなた方は、作戦が少しばかり軌道に乗ったからといって、すぐ得意になる。とんでもないことです。
 騎慢という魔にたぶらかされていることに、誰も気がつかない。そして、些細なことから、いたずらに感情的になって、敵を忘れて、お互いに批判し、傷つけ合っている。なんということか。
 味方の首脳は、ここにいる、われわれだけではないですか。ほかに、どこに味方がいますか。かわいい富井君が、これだけ叱られる。大阪の諸君が叱られるのは、当たり前のことです」
14  山本伸一は、御書を手にして、パラパラとめくった。
 「『十字御書』に、はっきりとこうあります。『わざわいは口より出でて身をやぶる・さいわいは心よりいでて我をかざる』。いい気になって、悪口の言い合いをやっていたら、身を破るばかりじゃない。
 何もかも、めちゃくちゃになってしまう。せっかくここまで、みんなで努力してきて、危ないところだった。団結が破れるのも、口から出るんです。味方のなかに起きる批判・中傷は、ことごとく魔の仕業です。
 派遣の幹部と地元の幹部とが、まず、団結しないことには、戦いに勝てるはずはない。『異体同心事』を、もう一度よく拝読してみよう。
 『はわき房さど佐渡房等の事あつわら熱原の者どもの御心ざし異体同心なれば万事を成し同体異心なれば諸事叶う事なしと申す事は外典三千余巻に定りて候、殷の紂王は七十万騎なれども同体異心なればいくさけぬ、周の武王は八百人なれども異体同心なればちぬ、一人の心なれども二つの心あれば其の心たがいて成ずる事なし、百人・千人なれども一つ心なれば必ず事を成ず
 大聖人様は、熱原で弘教に励む門下に対して、戦いは異体同心であるかどうかに、決定的な勝敗の因があることを教えてくださっている。殷の肘王の七十万騎と、それに対する周の武王の八百人との戦いを例として、現在のわれわれの戦いを、お教えくださっているとみてよい。
 いいですか。異体同心の八百人は、同体異心の七十万騎を向こうに回して勝ったんです。ちょうど、今の大阪の戦いのようではないですか。それが異体同心の団結を破ったとしたら、待っているのは敗北だけです」
 伸一は、なおも真剣な表情で、凛々しく指導を続けた。
 「この御文の続きには、こうもおっしゃっている。
 『日本国の人人は多人なれども体同異心なれば諸事成ぜん事かたし、日蓮が一類は異体同心なれば人人すくなく候へども大事を成じて・一定法華経ひろまりなんと覚へ候……』
 私たちは、『日蓮が一類』であることは間違いない。『人人すくなく候』も、その通りです。しかし、異体同心なるがゆえに、『大事を成ずる』ことができるんです。私たちの現況は、まさに、この通りです。異体同心であることほど大切なことはない。
 つまり、派遣幹部と地元幹部との間に、毛筋一本ほどの隙間があっても、団結は破れることを知らなくてはなりません。勝つも負けるも、畢竟するところ、私たちの一念が、固い団結で結ばれているかどうかに、かかっている。重大なことです」
 山本伸一の表情からは、怒りが消えていった。
 「富井君、君も、これで今日から、また担当する組織で、思う存分指揮が執れるよ。しっかり頼みます」
 「はい! ありがとうございました」
 富井が頭を下げた時、居並ぶ幹部の大半が、思わず同時に頭を下げた。幹部間の脈動は、また滞ることなく、激しい血行に戻っていくにちがいなかった。
 いつの間にか忍び寄った破和合の魔は、山本伸一に早くも見破られて、関西本部三階の仏間で正体を暴かれ、瞬時に退散してしまった。
 団結の力は大きい。関西の四月の折伏活動は、ますます勢いを増し、大いなる高まりを見せていったのである。
15  二十日から、総本山では、堀米日淳が第六十五世となる儀式が始まっていた。戸田も、伸一も、学会の幹部は総本山に参集した。
 堀米日淳は、戸田城聖にとっても、恩師・牧口常三郎にとっても、縁深き僧侶であった。堀米は、草創期から、学会の使命を深く理解し、戦前・戦後を通じ、その活動に協力を惜しまなかった。戦時中、宗門存亡の危機に際しては、共に難局に立ち向かったこともあった。
 軍部政府が、戦時の全体主義体制の強化へ、国民精神総動員運動の名のもと、宗教界にも各宗派の合同を強制してきた時のことである。日蓮正宗も、国家権力により、日蓮宗(身延系)との合同を強いられる事態となった。しかし、身延との合同は、大聖人の仏法の命脈を絶つに等しい。宗門存亡の重大な危機であった。当時、宗内においては、国家主義の時流におもねり、「神本仏迹論」の邪義を唱えて、合同に宗内から呼応する僧の一派が策動していた。
 宗門の時局対策局長として、この重大難局に立ち向かっていたのが、堀米であった。牧口らも在家の立場から、日蓮宗各派との合同には、断じて反対の意思を表明した。交渉は難航したが、最終的に合同は免れたのである。
 この新法主を迎えての奉告法要は、二十日午後二時から御影堂で行われた。この日、参列したのは、戸田城聖をはじめとする創価学会幹部二百人と、法華講関係約三千人であった。式は厳粛のうちに進み、首脳僧侶の数々の祝辞のあとに、戸田城聖は、創価学会を代表して、ただ一一言、深い決意を秘めて言った。
 「宗門のため、広宣流布のため、戸田の命ある限り御奉公申し上げるものであります!」
 短い決意であっただけに、この日のあいさつのなかで、ひときわ印象深く、人びとの胸の奥に響いた。
16  儀式に参加する一方、二十日の夜と、二十一日の午前にかけて、理境坊では、戸田を中心に最高幹部の協議会が開催された。議題は最後に、七月の参議院議員選挙のことに及んだが、戸田は、あくまでも公明選挙を実行することと、信心を第一の要諦とすることを、ここでも厳しく指導し、焦る各方面の最高責任者を戒めた。
 四月二十五日のことであった。山本伸一のもとに、大阪から電話が入った。うわずった歓喜の声が、受話器の向こうで叫んだ。
 「ご報告します! 四月度大阪支部成果九千二世帯! 堺支部千百十一世帯!」
 伸一は、この瞬間、″よくぞ、やった!″と思った。
 関西の愛すべき同志たちの跳躍の熱気が、ケーブルを通じて、彼の肌に、直に伝わってきた。
 彼が、寒い一月の時点で、苦渋のなかで立てた、大阪が達成すべき四月の成果は、実に八千世帯であった。その予測を一千世帯も超えている。これで五月には、一万世帯の怒講の達成も可能となるだろう。すべては、予定通りといってよいほどの進路をたどっている。不幸の人びとを、四月一カ月で、九千世帯も救うことができたではないか。大阪の会員たちが、肩を叩き合っている顔を思い描きながら、彼は、舞い踊りだしたい気持ちに駆られるのだった。
 この日、最高会議が本部であったが、報告すべき戸田城聖は欠席していた。伸一は、ある寂しさを感じながら、慎重に五月の追撃を関西の首脳幹部に指示し、二十七日に大阪に行くことを約束した。急遽、大阪支部幹部会を二十九日に行う決定をしたからである。
17  四月二十九日、沸き立った大阪支部幹部会は、北区の韓民会館で開催された。思う存分戦い切った同志の集結ほど、この世で輝かしいものはない。ここ数カ月、山本伸一の激励と指示のままに活動してきた、入会して日なお浅い会員たちは、九千二世帯の悩める人びとを救ったという事実によって、意気軒昂なまでに蘇生した、つややかな顔をそろえていた。まさに、関西の地における地涌の菩薩の涌出の観を呈したといってよい。
 折伏成果の発表によると、淀川地区が六百二十九世帯で第一位。既に、一地区で、当時のB級支部の成果であった。
 大阪支部三十四地区のうち、二百世帯を超えたところが二十五地区に達していた。
 山本伸一は、関西の盤石な基盤を築くには、あと一息だと思いつつ、五人の地区部長代表が、次々と登壇して、烈々と決意を披涯するのを、耳を澄まして聴いていた。
 彼らのある人は、感激に絶句しながら、「五月の戦いを見てくれ!」と胸を張った。ある人は、躍り上がらんばかりに壇上で足を踏み、「山本室長が必要と考えることは、すべて見事に実践します。どうかわれわれに任せていただきたい!」と主張した。ある人は冷静に、「戦いはこれからである、慢心することなく堅実な法戦へ向かって進撃に移ろう!」と誓うのであった。
 山本伸一は、関西に初めて目覚めた、破竹のこのエネルギーを、五月へと持続することを、心から祈りつつ最後に言った。
 「人生は夢のようなものですが、その人生は、また劇のようなものです。自分を自分でどう決めるかに、すべてはかかっているんです」
 彼は、淡々と、そして力強く話を続けた。
 「私たちは、広宣流布という大目的をもち、民衆を幸せにすると同時に、自分自身をも幸せにするという人生劇場を、実は演じているのです。
 かのナポレオンは、仏法を知らなかったが、一人の人間として、あれだけのことをやりました。彼は、この世に生まれた以上、歴史上の大英雄と同じ劇を、人生という舞台でやりたいと決心した。
 この時から、″過去の英雄にできたことが、自分にもやれないことはない″″自分の辞書には、『不可能』という言葉はない″と信じた。彼は、フランスをまず支配し、それからヨーロッパ合衆国をつくり、共通する法典と、法廷と、通貨と、度量衡を残したいと考えた。
 さらに、世界を統一することさえ考えた、一介の青年でありました。そして、黙々と古今の書に没頭し、時の来るのを待った。彼が、イタリアを征服したのは二十八歳であり、帝位に就いたのは、三十四歳の時でした。
 彼は、『前進!』と叫んで、六十数万の大軍を率いて、ロシアへの運命の遠征を敢行した。しかし、利あらず、冬将軍と、糧食の欠之と、疲労と、敵の忍耐に遭って、初めて敗退した。
 さらに、久しい戦友であったマルモン元帥の反逆、イタリア遠征を共に戦ったオージュロー元帥の裏切りなどによって、運命は窮まったのです。『われ、敵を怖れず。怖るるは、わが味方なり』と叫ばなければならなかった。
 敗れては、もはやナポレオンではない。彼は、エルバ島へ流されました。
 しかし、彼の毅然たる情熱は、まだ運命に屈しなかった。
 夜の閣をついて島から脱出し、『前進!』と叫んでパリに進み、再び皇帝となりました。これが有名な『百日天下』です。そして、連戦連闘し、四方の敵を蹴散らしたが、彼の福運は尽きたのでありましよう。またしても、戦友の裏切りにあったのです。名誉や利害でついた戦友は、最後は皆、駄目だった。
 ある人が、『ただ理想と純愛とをもって引き附けた人々のみが、最後まで味方であり得るのだ』と指摘しておりますが、その通りでありましょう。ワーテルローの戦いに敗れた彼は、セントへレナ島で、五十一歳の生涯を悲劇のなかに閉じたのであります。
 彼は、己の運命を制覇する妙法は知らなかったが、信念に立ち、あの若さで、これだけのことをやる力をもちました。しかし、まことに妙法を知らぬ人生の結末は、悲嘆であります。
 私たちは、最高の仏法を持ち、妙法の哲理を右に、慈悲の剣を左に持って、広宣流布という、最も確かな世界の平和運動に挺身しているんです。ナポレオンよりも、百千万億倍、優れているといってよい。
 断固として立とう!
 『前進! また前進!』を合言葉に、五月の活動も、見事に勝ち抜とうではありませんか。大仏法を奉持している私たちに、何事もできないことはないからであります」
 山本伸一の最後の叫びは、大阪支部の幹部たちの、四月の疲れを吹き飛ばした。
 一瞬のうちに、さらなる奮起は、「前進! また前進!」の合言葉のもとに、すさまじいばかりの破竹の態勢を整えたのである。
18  五月には、各地区それぞれの自覚のもとに、地区決起大会を、次々と開催する日程になっていた。四月八日の連合総会以後、支部単位の行動は、地区単位の行動へと移っていた。
 彼は、それぞれの地区の特色を、思う存分発揮させ、地区の最先端の一世帯までもが、異体を同心として脈動する組織になることを、念願としたのである。
 五月一日の夜、本部幹部会が豊島公会堂で開催された。果たして大阪支部の成果は驚異の的となった。一支部として一カ月に九千二世帯というのは、学会始まって以来の痛快事であった。いや、七百年来の夢としか考えられない成果である。二位の蒲田支部は、三千四百一世帯と、約三分の一の成果である。四月の折伏数二万四千二百十五世帯から見る
 時、大阪支部だけで三七パーセント強を占めた。これに堺支部の千百十一世帯を加えると、関西二支部の合計は一万世帯を優に超え、全体の四二パーセント弱ということになる。
 幹部会の冒頭での、この成果発表の時、関西勢の跳躍に、感嘆の吐息が満堂に満ちたのも無理はない。そして一瞬の後に、驚異の拍手が爆発した。全国から集まった幹部のなかで、心ある幹部は、いたく衝撃を受けたにちがいない。彼らの大部分は、型にはまった生気のない日常活動に堕してしまっていることに、激しい反省を迫られた。
 指導部長・清原かつは、演台から小柄な体を乗り出すようにして、生ぬるい東京勢の活動形態を、厳しく叱咤しなければならなかった。
 「ここ一カ月間、東京の各座談会に、原山統監部長と出席ししてみましたが、どの座談会に行っても、折伏の精神がみなぎっている座談会は、一カ所もありませんでした。実に、東京の座談会は、なんの迫力もなく、形式にとらわれた、ただ集まればよいという状態でありました。この点について、幹部が、お互いに真剣に考えなければならないと思います」
 彼女は、弘教活動が、「行」としての信心活動の眼目であることを訴えた。そして、戸田城聖の、「折伏しなさいよ」という簡単な言葉に、信心を深めつつ宿命を転換して、幸福な境涯を築く道が示されていることを力説して、話は関西勢の現況に及んだ。
 「大阪支部が、あの怒濤のような折伏をしておりますが、支部長自ら、地区部長自らが、率先して折伏を行じています。ところが、東京の幹部は、座談会には顔を出せばよいという考えなので、座談会の終わるころに、のそのそと来て、『今夜は、実はほかの会合があったので……』などと言い訳をする。そして、『折伏しなさいよ』と、もそもそ言って帰っていきます。大阪の座談会を見ておりますと、東京の幹部は、なんの闘争もしていないという、情けない結論になってきます」
 清原かつは、悲憤懐慨のうちに、「東京の幹部よ、折伏の第一線に立て!」と叫んで終わった。
 このあとを受けて登壇した別の幹部もまた、東京の幹部の批判から始めなければならなかった。
 「ただ今、清原指導部長から話がありました通り、四月の東京の状態というものは、今までの惰性のままで、精神的に何か乱れがあります。これから五月の東京は、弘教活動の妨げになる行事や、その他の行動は、一切やめてもらいたいと思います。
 具体的に申し上げると、水曜日だけが、居住地域で活動するブロックの日となっていますが、この日の結集をよくするために、月曜から金曜まで毎日報告を取り、報告書類作成にばかり気を取られています。これでは戦いは進みません。
 ブロックは水曜だけにして、煩わしい雑務は一切整理し、座談会一本槍の五月の活動にしたいと思います。やれ組長会だ、班長会だ、やれ今日は打ち合わせ会だ、明日はなんの会だというのは、一切やめて、会合は最小限度とし、常に座談会を中心とし、連絡も打ち合わせも、座談会が終わって、その場でやれば十分です。
 これからの東京は、全部の地区の座談会を、あらかじめ調査しておきまして、地区部長や地区担当員が出席しない班座談会は、なくしたいと思います。
 場合によっては、本部の指導部から派遣で、他支部の幹部や青年部の幹部も動員されることになりましよう。
 ともかく、五月は座談会を立派にやり過す精神でやりましょう。そして、全東京の座談会が、活気みなぎる仲のよい座談会となり、大きく発展するように、一カ月にわたる座談会闘争を主眼としていきたいと思います」
19  四月を終わって、当時の、大阪と東京との活動形態の相違が、折伏の数字となって歴然と現れてみると、学会本部をはじめとする東京の幹部は、愕然とした。
 この夜の本部幹部会は、集った全国の幹部を前にして、さながら東京のための幹部会と化した。登壇した幹部たちの叱咤激励も、具体的な提案も、深い反省に立った発言ではあったが、それは、関西の活動を表面的に見て、分析したものにすぎなかった。
 東京の首脳幹部たちは、関西をここまで育てるために、はるか以前から、一念に億劫の辛労を尽くした山本伸一の苦悩は知らなかった。彼らは、億劫の辛労からは、全く無縁であったのである。
 戸田城聖は、会場の硬直した空気を察知した。
 本部幹部会は、全国の幹部のための幹部会である。彼は、全国各地から集った人たちのなかに、遠方から駆けつけた人の姿を見ると、彼らをいたわるように壇上まで招き寄せた。そして、「面倒な話はやめにして、今夜は、まず質問会から始めよう」と言った。
 質問の手は、各所にあがった。彼は、それに応えて、独特のユーモアで質問者を温かくつつみ、難しい仏法の法理をかみ砕きながら、次々と答えていった。
 勤行の質問から始まり、子どもの盗癖の問題、胃癌の問題などの質問に続いて、折伏についての質問が飛び出した。
 「折伏についてお伺いします。折伏の精神はよくわかりますが、強い折伏をしたらよいか、弱い折伏をしたらよいか、わからなくなりました」
 「そりゃ、わから・なくなるでしょう」と戸田はいって、にっこり笑った。
 「もともと、折伏には″弱い″″強い″はないはずです。″どこまでも相手を救ってあげよう″″どこまでも相手に御本尊様を持たせよう″という精神さえあればよいのです。大声で、『やるか』『やらないか』と言う。こんなのは″強い″というのではなくて、″乱暴″というんです。ひどいのになると『ようし、やらなければ罰が当たるからな』と言う。こんなのは、″脅し″というんです。
 そうではなく、『あなたは苦しんでいますね。この御本尊を持めば幸せになれる。しっかり、おやりになったらどうです』と言えばよい。
 ここのところを考えてください。わかりましたか」
 質問者は、返事をしなかった。戸田は、さらに重ねて言った。
 「相手の機嫌を取りながらする折伏は弱いというが、相手が、どんなことを言おうと、こちらはニコニコ笑いながら、相手の痛いことを言ってやる。『この信心をすれば、幸せになれますよ。あなたのような、根性の曲がったのも治りますよ』と。相手が怒ろうが怒るまいが、相手には構わず、悠然として天井を見ていればよい」
 場内は、どっと爆笑に沸いた。笑いが収まると、質問者は、再び質問した。
 「折伏の強弱はわかりましたが、もう一つ、幅の広いということと、御本尊様を、ただ真っすぐに信じていくということについて、お願いします」
 「あなたの″仏法用語″が、私にはわからんが、幅が″広い″とか″狭い″とか、反物ではあるまいし、そんな言葉は学会にはありません。ただ、教学を身につけてから折伏した方がよいか、ということだと思うが、そんなことを学会は言っていないはずだから、何かの間違いだろうと思う。
 折伏には、そんな幅だとかなんとかは、なくともいいんです。『この御本尊を拝めば、あなたの病気は治りますよ。悩みが解決します。幸福になりますから、拝みなさい』――これ以外にはないんです。
 教学が必要だというのは、教学があれば、信心が壊れない。信心を強めるためにやるんです」
 戸田は、こう結んだ。そして、彼の周りを取り囲んだ人びとに目を移し、会場を見渡して続けた。
 「このように、たくさんの人びとが増えると、指導に骨が折れる。どこまでも御本尊様を中心に、指導していってほしい。なまじっか枝葉の問題にとらわれることはありません。
 たとえ、組織のうえで地区部長、班長という立場にあっても、聞かれてわからないことは、『知らない』と答えて差し支えない。それを、なんでも知っていなければならないと思っているのは、大きな誤りです。なんでも知っている方がおかしい。
 なぜならば、仏法は非常に深いものであり、五年や十年勉強しても、到達することは難しい。だから、嘘は教えないこと。わからないことは、『知らない』でいいんです。
 ただ御本尊を持って信じていけば、必ず幸福になる。これだけは間違いない。いずれ、五年、十年先には、私も、そうは生きられないから死ぬに決まっていますが、少なくとも、今の十倍の人が御本尊様を受持してほしい。
 今、よく見ると、みんな蒼い顔をして、貧乏の巣のようでありますが、十年後には、みんな、″自分ほどの幸せ者はない″と胸を張れるようになってください」
 幹部たちは、戸田の話に十分満足して、言いようのない懐かしさを胸にいだきながら、全国の、戦うべきそれぞれの部署へと散っていった。
 五月の東京の活動は、形式的に座談会の回数は確かに増えたが、相も変わらず低迷を続けた。座談会を、活動のための一つのテクニックとしてとらえていたからである。
20  この夜、山本伸一は、一人、夜行列車で大阪へ向かった。
 一日おいて五月三日は、創価学会の春季本部総会であったが、実は、二日に大阪支部の地区決起大会の先駆けとして、阿倍野地区の決起大会が予定されていた。それも、なんと、大会場の、あの中之島の大阪市中央公会堂で催すというのである。気がかりなことであった。
 彼は、車中、東京の事態に、ひそかに心を痛めつつ、東京の幹部たちの奮起を祈ったが、今の彼には、余力はなかった。大阪こそ、盤石な態勢というには程遠く、彼の渾身の能力のすべてを、いよいよ、これから使い尽くさなければならぬと、われとわが心に深く誓っていたからである。
 五月二日夕刻、黄昏迫るころ、中之島を挟んで流れる堂島川、土佐堀川の橋を渡って、阿倍野地区の会員が、陸続として中央公会堂に集ってきた。
 この広い公会堂を一地区で埋めることは、誰が考えても一つの冒険であった。まして、地区部長・佐川一幸の、温厚で律義な人柄を考える時、地区世帯数は比較的多いとはいえ、誰しも無謀な企てと考えた。しかし、四月に五百世帯余の折伏を達成した地区員の自負は、勢いに乗って、この会場を選ばせたのである。
 地区員は、身も心も軽く、喜々として、この夜のための結集に全力を注いだ。六時半の定刻になると、さしもの会場も、ほぼ人で埋まった。三千人に近い結集である。見事というほかはない。地区員の自負は、誇りとなって、会場は晴れがましい活力に輝いた。
 初めてこの公会堂を使ったのは、一年余り前、一九五五年(昭和三十年)一月二十三日、西日本三支部連合総会でのことであった。関西の二支部と、九州の八女支部の支部員で、この会場を埋めたのである。
 しかし、今、大阪の一地区で、公会堂は埋め尽くされたのである。短日月に、ここまで成長した姿を現出したことは、地涌の原理によるとはいえ、人びとの想像を超えた、驚異的な現実というよりほかはなかった。
 決起大会は、経過報告に始まり、男女青年部の代表がそれぞれ若々しい抱負を発表したあと、温厚篤実な佐川地区部長が演台に向かった。
 地区員の拍手に迎えられて、彼は、しばらく言いよどんでいる様子であったが、思いもかけない力強い第一声が、人びとの耳朶を打った。
 声は、かすかに震えを帯びていた。
 「眠れる師子は、今や、立ち上がった!」
 おとなしい地区の、おとなしい地区部長の発言である。
 来賓として招かれていた、大勢の地区部長や地区担当員たちは、唖然として息をのんだ。そして、次の瞬間、割れるような拍手を壇上の佐川に送った。
 控え目であった佐川地区部長の生命力の爆発は、まことに意外であった。また、公会堂を一地区で埋めたことも意外であった。
 つまり、一月以来の四カ月のうちに、山本伸一の打った手が、ことごとく的を射て、大阪の会員たちに、かくも大きな変貌を遂げさせた確かな実績を、無一言のうちに語っていたのである。
21  佐川一幸の温順な人柄は、もともと病弱な少年時代からのものであった。尋常小学校に入学すると、間もなく小児まひに侵された。両親の懸命な、一年にわたる治療奔走の結果、病は克服した。しかし、多少の足もとの不安定が、後遺症として残った。
 生家は、奈良の法隆寺の近くで呉服商を営んでいたが、家業は、発展の見込みは薄かった。
 彼は、尋常高等小学校を卒業すると、奈良市内の歯科材料店に、十年の年季で住み込んだ。十年たてば、独立させてもらうという契約である。律義で努力家の彼は、歯科医たちからかわいがられ、販路を拡張し、月に一回、大阪や京都までも回るまでになった。それも、自転車の荷台に商品を積んでの″苦行″であった。
 働き者は、契約通り十年後に独立した。一九三九年(昭和十四年)十月一日、法隆寺の近くに歯科材料店を開いた。戦雲が日に日に濃くなるなかで、徴兵検査で丁種合格の彼は、全く兵役からは免れていた。四二年(同十七年)一月、縁あって結婚した。
 戦後、彼は大阪市東区に店を移した。十坪ほどの家である。やがて四八年(同二十三年)に、九州・福岡市の九州大学の前に支店を出した。その支店長が、彼の実弟・佐川伍郎であった。せっかくの九州支店も、本店も、業績は振るわず、五〇年(同二十五年)には、支店を畳んで大阪へ引き揚げなければならなかった。
 やがて、弟の佐川伍郎が、知人の歯科医の紹介で入会する。
 さらに、兄の佐川一幸も、従業員の青年の紹介で信心を始めた。五二年(同二十七年)十一月十日のことであった。
 佐川兄弟の歯科材料店は浮沈を続けたが、戸田城聖や山本伸一の指導のもと、信心に、生活に、苦闘を重ねた末、五五年(同三十年)ごろから、事業は好転し始めていた。
 五六年(同三十一年)の五月の時点では、佐川伍郎は支部幹事に、佐川一幸夫妻は地区部長、地区担当員になっていたのである。佐川兄弟は、俄然、この五六年の戦いの闘将となった。
 自らを眠れる師子として、三千人の地区員を前に宣言した佐川一幸は、五月のさらなる跳躍を心に期して、地区員に呼びかけた。
 「師子の子として、五月度の悔いなき戦いを全員で勝ち抜こうではありませんか! 支部最高の地区の栄誉とともに、一人ひとりが、見事な人間革命をめざし、ここに戦い抜くことを誓おうではありませんか!」
 山本伸一は、幸先よい、この決起大会を祝福して、地区員たちをねぎらいながら激励した。
 「まことに師子の子の団結こそ、最大の力であります。私は、皆さんを心から信頼しております。眠れる師子が目覚めたからには、地区部長を中心に、班長、組長が助け合い、尊敬し合い、大阪第一の、たくましく、また功徳にあふれた地区へと、前進に前進されることを切に願うものであります」
 この夜、伸一は夜行列車で東京へ向かった。
 この日の朝、夜行で大阪に着いて、その夜、また夜行での、とんぼ返りの強行軍である。車中の彼は、翌三日の本部総会での講演の内容を練りながら、列車の片隅でいつまでも起きて、原稿にぺンを走らせていた。
22  五月三日――一九五一年(昭和二十六年)五月三日、戸田城聖が会長に就任した日から満五年を経過していた。
 五年前の会場は常泉寺で、約千五百人の会員の参加であったが、今回の五月三日の春季総会は、一年前まで国技館であった、両国の国際スタジアムでの開催である。これには、場外を含め、全国の幹部三万余人が集ったのである。
 当日は晴天であった。喜々として集い合う地涌の戦士たちは、各地から代表して参加した幹部である。緊張のなかにも、かってない闘魂が場内に沸き立たせていた。
 正午の開会宣言に続いて、創価学会の現況が報告された。
 「学会の総数も、四月末をもって三十七万世帯を数えるにいたりました。しかして、縦には、組織を通して学会精神を貫き、横には、各支部、地区の連絡網を充実強化して、全国的な活動の態勢を完備しつつあるのであります。これを地域的に見る時、実に全国各地に強靭な拠点をもつにいたりました。
 千世帯以上の地域が三十九カ所、五百世帯以上が八十七カ所、百世帯以上は三百三十カ所を数えるにいたったのであります。特に、最近まで不振であった日本海側の各地にも、折伏の旗は、翩翻とひるがえるようになったのでございます。
 かくて全国各地の会員は、今までの中央への依存を脱して、折伏の指導的地位と実力を、保持するようになったのであります」
 ここ数カ月に発揮した大阪地方の厳たる実力は、東京中心であった、それまでの創価学会に、全国的な視点に立つことを要請したといってよい。現況報告は、その視点に初めて立っての説明であった。
 文化部長の鈴本実などの話や、体験発表があってから、渉外部長としての山本伸一の講演に移った。
 「仏法は勝負であります。仏と魔との闘争であります。自己の生命のうちには三障四魔となって成仏を妨げ、外からは三類の強敵となって、広宣流布をさえぎらんとするものがあります」
 彼は、御書に照らして、三類の強敵の出現は、間違いないことを訴えていった。
 「そして今、広宣流布に断固として指揮を執られる戸田先生に、三類の強敵が怒濤のごとく寄せ来ることは明白であり、これ日蓮大聖人の御予言のままであることを知らなければなりません。
 私たち、先生の弟子たる学会員は、ますます強盛なる大信力で立ち向かい三類の強敵の出現あらば、いよいよ広宣流布の近きを自覚して、異体同心の団結固く、さらに前進してゆかれんことを切望して、講演に代えます」
 山本伸一の、この日の警告は、悲しいかな、日ならずして的中する。それは、まず五月の大阪に始まり、六月、七月と、東京、関東をはじめ、全国各地にさまざまな問題が起こり、戦いは熾烈を極めることになるのである。
23  総会の式次第は進み、一九五六年度(昭和三十一年度)の三大方針の発表となった。
 一、年末までに強信五十万世帯の達成
 一、参議院選挙に対し、有能にして高潔なる人材の推薦
 一、総本山の大講堂建立の御供養
 この三大方針に応えて、婦人部、男女青年部、支部長、指導部の各代表が、決意と抱負を語った。清原指導部長は、全国の同志の決起を促し、小西理事長が、勝利者たれと激励したあと、最後に、いよいよ戸田城聖の講演となった。
 彼は、全国の会員に接する登山会での感想から話を始めた。
 「私が、多くの皆さんの姿を見ていて感じますことは、胸を張って自分は幸福に生きているという姿の人を、余り多く見受けないということであります。まことに残念なことです。
 多くの人は、なんとなく首をうなだれているような感じです。決して、そうであってはなりません。しかし、この仏法を知らない人たちは、あなた方よりも、はるかに首をうなだれているように見えます。
 願わくは、日本国中の人びとが、皆、胸を張って、意気揚々と生きていける日の一日も早からんことを、私は望んでいるものであります」
 戸田は、四六時中、会員の幸・不幸について心を砕いていた。この日も、眼前の幹部たちの表情から、人びとの幸・不幸を感じ取っていた。そして、相対的幸福から絶対的幸福への境涯に、一人残らず進むことを願いつつ、彼らの胸に日蓮大聖人の慈悲の灯を点火しようとして説いていったのである。
 「日蓮大聖人の遣された御本尊の功力によって、私たちは、金のない人は金ができ、体の弱い人は丈夫になります。私たちの願いは、このような相対的な幸福を願っていながら、将来は、絶対的幸福境涯に入るんです。
 絶対的幸福など、あなた方は願っていない。願っていないのに、あなた方は、そうならなければならない。まことに、いやでしょうけれども、絶対的幸福というのは、どこにいても生きがいを感ずる境涯。どこにいてもですよ、どこにおっても生きている自体が楽しい。したがって、その人のいるところは、いつも明るい。喧嘩などありません。腹の立つことがあっても、愉快に腹が立つ――そういう境涯になったら嬉しくありませんか。
 早く、予想もしなかった絶対的幸福を、一人ひとりが得られんことを希望して、私の講演を終わります」
24  会場を埋めた三万の幹部は、大闘争の渦中にあっただけに、戸田からの号令を期待していたかもしれない。それが、この講演である。
 戸田は、学会が行ういかなる活動も、広宣流布のためであることを教えたかった。そして、何があっても根本は信心であり、その最終の目的は、自身の崩れざる幸福にあることを、思い起こさせたかったのである。
 三万の幹部は、出陣の決意を胸に秘めて、全国に散っていった。
 関西からも多くの幹部が参加したが、山本伸一の、一月以来の指導による実践を続けてきたことから、今、何をなすべきかを、総会でさらに確かめる思いであった。
 伸一は、五月四日の夜、今度は長期滞在の支度を調えて大阪に向かった。
 彼の荷物は、シャツや下着ばかりでなく、愛読の本も入っていた。さらに、さまざまな悩みをかかえた人たちの名簿が入っていた。それらの人に、手紙でもよし、揮毫した励ましの色紙でもよし、真心の友情として贈りたかったからである。
 彼は、ここ一週間の間に、東京と大阪を二往復半していた。それも、すべて夜行である。彼は、常に激戦のさなかにいたのだ。四日夜に東京を発ったのは、五月五日の堺支部幹部会への出席のためである。
 五月度の堺支部幹部会は、愛泉学園講堂で、五日の午後六時半から開催された。四月に千百十一世帯を完遂した支部員の意気は、五月へ向かって、さらに昂揚した。各部の代表が決意を述べると、それに呼応するように、ある支部員は、座席から叫ぶのである。
 「よっしゃ、やりまっせ!」
 伸一は、「報恩抄」の一節、「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外・未来までもなが流布るべし」を引いて、情熱に満ちた顔を、場内の聴衆に向けて言った。
 「日蓮大聖人の、この大確信は、今日の私たちの確信でなければなりません。この確信に立って、信・行・学に励み、″自分は、なんと幸福者であろうか″と、心の底から言い切れる、堺支部の一人ひとりになっていただきたい。
 今、私たちは、未曾有の戦いを眼前にしています。大聖人のおっしゃるままに、師子王の心を取りいだして、前進また前進の五月を戦い抜とうではありませんか」
25  堺支部も、地区ごとに決起大会を開くことが決定されていた。まとまりのよい小さい支部も、確実に跳躍の態勢が、いつとはなく、整えられていたのである。
 男女青年部の各部隊も、それぞれ、この五月には総会を開催した。
 五月八日夜には、関西本部の一階広間に、五百余人の男子第十四部隊の精鋭部員が参集して、青年部部隊総会の火蓋を切った。
 これら一連の、全体指導を目的とする大きな会合が続くなかにあって、各地区、各班の座談会は、大阪の全地域にわたって、夜ごとに各地で開かれていた。
 地区講義の夜も、講義が終わると、それがそのまま、いつか座談会となり、参加した友人との対話が始まるのであった。
 五月に入ると、山本伸一は、昼は活動の拠点となっている会員宅を次々と回り、夜は各所の座談会に顔を出した。まるで神出鬼没といったように、瞬時を惜しんでの激闘が始まったのである。
 このころのある夜、彼は、大阪駅近くの座談会に姿を見せた。
 「こんばんは、ご苦労さん。今夜は質問会を開くことにしましょう。賛成ですか」
 部屋は、約百四、五十人の人であふれ、彼の穏やかな言葉に、人びとは一斉に拍手した。
 「では、まず、このなかで、まだ信心をなさっていない方は、手をあげてください」
 三十人前後の手があがった。そして、何ゆえに他の宗教を誤りとするのかという質問が出た。彼は、人びとの胸の奥にある疑問を、いかにして解こうかということを念頭に置きながら、御本尊の正しいゆえんと、その功力を、明快に訴えた。
 山本伸一は、まだ未入会である人びとに向かって、胸を張って言った。
 「今夜の会合を契機として、皆さんも絶対に幸せになっていただきたい。幸せには勇気が必要です」
 この真心込めての一言に、ある人はすぐ応答した。
 「やらしてもらいますわ」
 また、別の質問が続いた。
 「結核が治りまっか?」
 「この私も結核だったのですが、治っています。御本尊にしっかりと唱題し、リズム正しい生活をし、栄養をとれば、結核ぐらい治らないわけはありません」
 彼の体験は、質問者に確信を与えた。
 質疑が次々と続くうちに、一人また一人と入会を希望し、ほとんどの人たちが入会を決意した。
 伸一の行くところ、弘教拡大の渦が巻き起こった。
 彼は、時に大胆であり、意気のあがらぬ多人数の座談会を見ると、黒田節を舞って人びとを元気づけたり、小人数でひっそりしている座談会では、勤行をし、一人ひとりに、懇切を極めた細心の指導をするのだった。
 また、郊外の周辺都市に足を延ばしたこともある。彼にとっても、初めての土地であった。彼は、その途上、車の中にあって、小声で題目を唱え続けでいた。まるで、広大な未踏の原野に挑戦するような、人知れぬ奮闘であった。
26  各地区は、総立ちの形勢となって成果を競ったが、全地区がそろった足並みであったわけではない。遅れた地区は焦りだしたが、そのような時、まず、信心を奮い起こすことを既に学んでいた。
 たとえば、女性地区部長の一人、麻田元枝の地区は、出足が遅れていた。彼女は、意を決し、地区座談会に先立って、心ある地区幹部と真剣な題目をあげて、折伏の成就を祈念して臨んだ。
 果たして、地区あげての戦いは、八十人を超える友人の参加となり、対話を重ねるうちに、その全員が入会を希望して終わった。
 弘教の歓喜は、会員はもちろん、参加者全員をつつみ、皆が感動の涙で手を取り合ったのである。
 だが、一部の会員のなかには、もともと仕事が不調であったせいもあるが、仕事で努力するよりも、活動にさえ励んでいれば、生活も楽になるかのように錯覚している人もいた。道理に合わない、生活の基盤を全く無視した行き方である。
 伸一は、そうした人たちを見かけると、その誤った信心の姿勢を突き、叱咤した。
 「私は、仕事をしない人は絶対に信用しません。日蓮大聖人の仏法に照らしても、信用してはならないことは明白です。仕事に憂いがあるようでは、思いきった戦いができるはずもありません。
 本当の信心は、そんな甘いものではない。『仏法は体のごとし世間はかげのごとし体曲れば影ななめなり』です。
 また、『みやづか仕官いを法華経とをぼしめせ』とも言われ、厳しく戒められています。″信心で飛び回っていれば、なんとかなるだろう″という考えは、大聖人の仏法ではありません。
 今は苦しくても、歯を食いしばって、仕事にも信心にも頑張る時です。『法華経を信ずる人は冬のごとし冬は必ず春となる』――大丈夫です。御本尊は、すべてをご存じです。今は、いつまでも冬が続くように思っているでしょうが、決してそんなことはない。間もなく必ず春が来ます。今は、頑張る時です。しっかりやりましょう」
 伸一の熱情こめた指導に、「信心即生活」の自覚を新たにした人たちは、見る見る血色を蘇らせ、奮起するのであった。
 山本伸一の、疾風迅雷ともいうべき活動は、関西の跳躍の機運の持続を促した。五月の弘教の拡大は、四月にも増してとどまるところを知らず、あふれる歓喜を味わいながら、数多くの会員たちは活躍した。
 当時の人びとの、今日になっての回想は、異口同音に――あの時は、どうしてあんなに楽しかったのだろう。生活も苦しかったし、信心もよくわからなかったのに、あの歓喜は、今もって忘れることはできない――ということに尽きる。そして、懐かしさのなかに、今日の幸福が確立されたことを、追想するのである。
 伸一の早朝勤行と講義は、朝ごとの活力のリズムとなった。
 この活力のリズムは、派遣幹部や地元首脳幹部の、その日、その日の行動を清新に決定し、リズムは組織に脈動しつつ、全関西跳躍の鮮烈な源泉となっていった。
27  全国で華々しい座談会が展開されている最中、五月十三日の日曜日に、総本山主催の「水道まつり」が催された。法主の堀米旦淳の招きを受けて、創価学会の中堅幹部以上の千百人が、この日、参集した。
 総本山に、上水道が初めて敷設された涌出泉水の祝いである。六百数十年問、十分にして安全な飲料水がなかったことから、このたびの敷設は、大きな喜びの日となった。
 これまで、参道を流れるせせらぎを飲料水としてきた。境内の湧き水は、ほんのわずかしかなかった。
 時来って、数千人の登山者を迎える総本山にとって、飲料水の問題は、憂慮すべきことであった。水脈の調査は、明治時代からしばしば続けられたが、厚い溶岩層の下には水脈はないものとして、地質学者たちの結論は、いつも絶望的であった。
 戸田城聖は、登山者の激増から将来を憂えた。
 彼は、秋田の地区部長・佐藤幸治が、温泉などのボーリングの仕事をしていることを知って、一九五五年(昭和三十年)の正月、佐藤に試掘を依頼した。佐藤は、欣喜雀躍し、懸命になって御影堂の裏辺りを三カ月かかって二百メートルも掘ったが、地下水脈には行き当たらなかった。
 佐藤は、三十年にわたるボーリングの経験者である。彼は、絶望感に襲われた。
 この時、戸田の佐藤幸治に対する激励は厳しかった。佐藤は思い直して、十一月末、宗務院側の小川の近くを掘ったところ、わずか二十六メートルに達した時、奇跡のように地下水が噴出した。
 水量は一分聞に一石二斗(約二一六リットル)、水質も良好の、こんこんたる水源である。上水道工事は急ピッチに進み、配水管五千七百尺(約一七三〇メートル)、水圧は東京の水道の約二倍という総本山境内の水道が、五六年(同三十一年)三月に完成したのである。
 五月十三日の午前十時半、総本山の学林の広場には、模擬店がずらりと並び、音楽隊は、次々と学会歌を演奏し、戦いの渦中にある幹部たちを鼓舞し続けた。
 催しを終えると、太陽が、午後の強い日差しを辺りの新緑に注ぐなか、全国の各方面の同志は、各地に散っていった。
 この直後、思いもかけない突発事件が、まず大阪で起こった

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