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日蓮大聖人・池田大作

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脈動  

小説「人間革命」9-10巻 (池田大作全集第148巻)

前後
2  満井は、二十四貫(約九〇キロ)の巨体で、大阪の地を駆け回り、冬でも汗をかく汗かきで、腰には、いつもタオルを下げ、それで顔や首筋を拭かなければならなかった。五十代という年齢と巨体の恰幅で、貫禄は見るからに満点である。だが、彼自身は、それをいささかも意識せず、戸田城聖や先輩の前では、少年のようにかしこまって、素直な姿勢を崩さなかった。生来、大らかな彼は、支部や地区の人びとに対しては、極めて鷹揚で思いやりが深く、彼の活動が、おのずと衆望が集まり、大きな成果を収めてきていた。
 彼の、これまでの半生は変転を極めていた。九州の大分に生まれ、旧制中学校では、野球の選手として活躍したが、ある年、親友の投手が落第してしまった。落第を恥じた友人は、東京へ遁走することを彼に打ち明け、「誰にも言ってくれるな、見逃してくれ」と頼んだ。窮境の友人の、たっての頼みに、彼は二つ返事で引き受けた。
 友人の失綜は、学校の問題となった。校長や教頭は、親友の彼を詰問したが、彼は、最後まで友との信義を守り、口を割らなかった。これがもとで、彼も学校を追われ、京都の親戚の家に預けられることになった。
 彼が、大分を発つ時、彼の心情を知る二人の教師が、駅まで見送りに来てくれたという。別れに際しての教師の励ましは、「成功するまで大分の地を踏むな」という言葉であった。彼は、心に期した。
 ″よし、成功するまでは絶対に故郷の地を踏むまい。五十までには、必ず成功してみせる″
 関西で中学を卒業した満井勝利は、映画俳優を志し、撮影所の門を叩いた。日ならずして採用通知が来たが、同じ日に電鉄会社からも採用通知が来た。世話になっていた叔母の猛烈な反対で、俳優の道をひとまず諦め、電鉄会社に入社した。
 以来十二年の社員生活で、多くのことを学んだが、いつか悪友の仲間に入り、競馬などで借金をつくり、生活は乱れてしまった。この時、心の底の大志が蘇り、これまでの環境と決別して再起するために、会社を辞めてしまった。そして、成功の早道と信じて、株の世界に、いきなり飛び込んだ。
 右も左も知らぬ証券会社の外交員となったわけだが、この商売は甘くなかった。窮之生活をつぶさに味わいながら、懸命に勉強し、努力した。小便が赤なるほどの労苦の連続であったが、やがて、一、二を争う優秀な外交員となった。信用も厚く、一九四一年(昭和十六年)のころには、信用組合の役員に請われて、浮沈の激しい北浜の世界から足を洗ったのである。
 満井は、戦中、戦後を通じて、二、三の会社の首脳幹部として手腕を振るうまでになったが、ある工業会社への融資で、友人の金、百数十万円を注ぎ込んだ。ところが、この会社が倒産した。計画的倒産であった。これで、彼の信用も一挙に失墜してしまった。
 この時、ちょうど五十歳になろうとしていた。それだけに衝撃は大きく、前途暗澹たる、わが人生を思わないわけにはいかなかった。再起の気力を、全く失ったのである。
 五三年(同二十八年)二月、彼が天六辺りを孤影悄然と歩いていた時、ある知人と、ばったり会った。知人は、四年前、彼が若干の金を都合して貸し与えた人であった。
 「ええところで、会うたなあ。ちょっと、話聞いてくれまへんか」
 債務者は、先に立って、彼を喫茶店に案内した。
 「借金は忘れてまへんけど、もうちょっと待っておくれやす」
 満井は、一瞬、がっかりしたが、知人の話というのは信心の話であった。初めて聞く創価学会という言葉は、彼には耳新しかった。
 「わても十日ほど前から始めたばかりゃが、どんな願いをかけてもええんですわ。それがみんな叶う。この信心以外は、みんな駄目で、願いは叶わんちゅうのですわ」
 唯一の正しい宗教だというのが、満井には、なぜか魅力に思えた。気の早い彼は、あっさり言った。
 「よっしゃ、いっぺん、やってみよ、やろ!」
 「へえ、やりまんのか。そやったら、いっぺん、偉い人の話を聞いてくれまへんか」
 「そんならやめた。偉い人の話を聞かなあかんのやったら、やめとく。やる言うてんやから、それでええやないか」
 「そう、そうですわな。それでよろしおますわな」
 こうして、入会した満井は、翌日から、会う人ごとに、「あんた信心せえへんか」と折伏を始めた。
 彼は、五十歳までの念願であった、錦を飾って故郷の土を踏むことはできなかったが、生命の錦ともいうべき御本尊を、それとは知らず受持できたのである。
 四カ月たった時、初信の功徳であろうか、思いがけなく「産業経済新聞」の専売所の話が、据え膳のように彼の目前に現れた。
 彼は、確かな実証を知った。折伏に力が入ったことは、言うまでもない。日ならずして、一躍、班長の任命があった時、彼は、それを即座に断った。とても自信がない。大勢の人の前で話をすることが苦手であった。
 任命した春木支部長は、一瞬、困惑の表情で沈黙した。
 満井は、なぜか苦しくなっていった。
 「しゃべらんでも、よろしおまっか」
 「ああ、それでいい。黙って座って、周りの人にやらせなさい。そして、その通りに、まねすればいいですよ」
 春木の言葉に、満井は安心したのである。
 座談会では、彼は、最後に一言、こう言うのが常であった。
 「あんたやりまっか。やらない、ああそうでっか。……あんたは? やりまっか、おめでとう」
 至極、あっさりした言い方であったが、彼の班の成果は、見る見る上昇して、支部のなかで、たちまち頭角を現した。
 満井勝利は、不思議な男となった。支部の幹部は、彼の班の成果を不思議に思い、目を見張ったが、たねは、まれに見る彼の人柄にあることを知らなければならなかった。
 彼が、初めて戸田城聖に面接した時、一瞬にして、戸田は、満井の円満な人柄を愛するようになった。彼の前半生の苦闘を知るにつけ、戸田の指導は懇切を極めた。
 その後、戸田は、彼に幾たび会っても、呼びかける言葉はいつも決まっていた。
 「どうだい、サンケイ、商売の方はどうだ?」
 戸田が呼びかける「サンケイ」は、彼の愛称となった。
3  満井勝利と対照的なのが、龍岡巌である。このころ、彼は三十代前半で、小太りの短躯は、バイタリティーにあふれ、精悍であった。「豆タンク」という、あだ名の由来するところである。
 彼は、奈良県の吉野で生まれ育った。大阪に出て学校を終えると、父親の経営する工場で加工業に従事した。一九四二年(昭和十七年)一月、徴兵され、軍曹として中国で終戦を迎えた。四六年(同二十一年)に、中国から博多に引き揚げた時、博多の焼け跡に驚いたが、大阪に舞い戻って、さらに驚愕した。彼の家も焼失して、一面の焼け野原となっている。両親の疎開先の吉野に落ち着いて、二、三カ月、農業に従事したものの、持ち前のファイトは、彼を大阪に走らせた。五月五日のことである。
 知人の会社に厄介になり、十二月に独立した。粗末な小屋のような工場であったが、敗戦のショックで、人びとが虚脱状態にあった時、彼は、いち早く焼け跡から立ち上がった。彼の、脇目もふらぬ奮闘は、たちまち事業を拡大し、四八年(同二十三年)には、大淀区内に、住居とプラスチック製品工場を新築した。さらに、大手電器メーカーとも契約し、五三年(同二十八年)ごろには、従業員二百人にも及ぶ会社にまで成長させることができた。すべて浪花商人のど根性である。
 事業の急速な拡大は、多くの危険をはらんでいるものである。売掛金の未回収、不渡り手形なども増加し、経営は危機にさらされた。こんな時、取引先の営業マンから折伏され、『折伏教典』なども借りて読み、初めて座談会に顔を出した。
 五四年(同二十九年)四月のことであった。
 座談会の終盤は、質問会となった。龍岡巌は、真っ先に手をあげた。
 「信心したら病気が治るというと、医者もいらんことになる。そんなことは、ちょっと信じられまへんなぁ」
 この夜の中心者は、春木支部長であった。
 彼は、食ってかかるような龍岡の矛先を、実践の楯で受けた。二人の目と目は、真剣そのものに光っている。
 春木は、紅潮した顔で力強く言った。
 「あなたが一年間やって、なんの結果も出なかったら、私の財産を全部あげましょう」
 「一筆書いてもらいまひょか」
 春木は、おもむろに参加者に向かって言った。
 「私が言ったことを、間違いないと証明できると思う人は、手をあげてください」
 ほとんどの参加者が手をあげた。その場の勝負は明らかだった。
 龍岡は、急き込んで言った。
 「ほな、どないしたら、よろしおますか」
 「今までの信仰を捨てて、御本尊を朝晩拝むだけです」
 「ほんまですな。ほんなら一年間やってみますわ」
 龍岡は、入会を決意して、家に帰ると、さまざまな宗教を遍歴してきた妻の猛烈な反対にあった。
 家庭の破壊を予測しなければならなくなった彼は、それを押してまで入会する義理もないと、理屈をつけて思いとどまった。
 しかし、座談会の話は、彼の心をとらえて離さなかった。
 ″本当に、この信心は功徳があるのだろうか。嘘か本当か、その証拠をつかみたいものだ。そうだ。俺の代わりに、誰かに信心させてみればわかることだ″
 彼は、知人の娘が結核で苦しんでいるのを思い出し、折伏して、知り合いの学会員に紹介した。入会した彼女は、二週間ほどたったころから、他人が見てもわかるほど快方に向かい始めた。
 それを見て彼は驚いたが、″一人だけでは偶然かもしれない。もう一人、試してみよう″と彼の家に出入りして、茶の行商をしていた友人に信心の話をしてみた。
 売れ行き不振で苦しい境涯にあった友人は、素直に入会した。なぜか、日ならずして茶が飛ぶように売れ始めた。新茶が出回る時季ではあったが、その売れ行きを見て、龍岡は目を見張った。
 証拠が二つそろった。彼は、信心の功徳は本当だと考えざるを得なかった。
 龍岡は入会した。
 それから程なく、妻が、突如、虫垂炎で入院した。痛みに苦しみ、妻は、ワラにもすがる思いで、題目を唱え始めた。彼女の手術は成功した。
 「豆タンク」は、自らも現証をつかみたくて、懸命に信心に励んだ。
 入会直後、彼は、戸田城聖の話を聞く機会があった。その感激で、学会活動にも力が入った。
 彼が最初に体験をつかんだのは、あれほど苦しんでいた手形の決済が、難なくついたことであった。また、長年の悩みであった持病の座骨神経痛も、痔も、いつの間にか治ってしまっていた。
 ″この信心は、すごい力がある。間違いない信心や!″
 確信を深めた彼が、猛然と折伏に励んだことは言うまでもない。
 彼一人で、月に十世帯、二十世帯と弘教を実らせた。
 折伏成果に悩んでいた、ある班長は、彼に折伏の秘訣について教えを請いに来たほどである。
 入会から半年たった十一月一日、春木支部長から、いきなり彼に電話がかかった。
 ――十一月三日、東京で開催される創価学会秋季総会に出席せよ、というのである。
 彼は、喜んで同行を約し、二日夜の夜行列車「月光」のなかで、春木と落ち合った。車中、龍岡は、地区部長として頑張るように、春木から言われたのである。
 彼は、東京で面接を受け、この十一月、梅田地区の地区部長に任命された。
 新進の地区部長の行動半径は広く、大阪全域はもとより、中国、四国、九州へと、弘教の足は、地区員と共に、とどまることを知らなかった。
 そして、さらに半年余りが過ぎた時、「豆タンク」は、大阪支部の新鋭支部幹事となっていた。彼の事業も、危機を脱して好転した。彼は、日蓮大聖人の仏法の絶対の確かさを、短日月のうちに、心の奥深く刻んだ。
4  山本伸一は、両極端の二人の人物、満井勝利と龍岡巌を、底の底まで見抜いていて、富井と上田にそれぞれ組ませた。もしこれが、富井と龍岡、上田と満井という組み合わせであったとしたら、大阪全市をあげての活動は、おそらく足並みがそろわなかったにちがいない。そして、未曾有ともいうべき一世を画す見事な成果は、期待すべくもなかったであろう。
 このように、伸一の勝利にかける一念の脈動は、一つ一つの人事をはじめ、組織の隅々にまで、徐々に浸透していったのである。
 富井も上田も、満井も龍岡も、その他のもろもろの人びとも、皆、伸一の掌のなかに蘇り、大阪の天地で、生涯、忘れることのない活躍をし、それぞれの力を、思う存分に発揮できたといわなければならない。
 戸田城聖は、伸一の胸三寸に秘めた厳しい決意を、誰よりもよく知っていた。彼は二月上旬にも、勇んで関西に向かった。六日、七日、八日と、連日にわたって、御書講義、班担当員会、班長会など、入会の日なお浅い大阪の会員たちに対して、入魂の指導を展開した。
 伸一は、東京にあって、その日、その日の報告を受けていたが、戸田の疲労を思いつつも、関西の愛する会員の幸せを思った。戸田が、九日、空路で帰京することを知ると、彼はじっとしてはいられなくなって羽田に駆けつけ、午後二時、戸田の一行を出迎えた。タラップを下りてくる戸田は、意外に元気な姿を現した。
 「伸、私も奮闘してきたよ。もうひと息、ふた息だな」
 戸田は、言葉短く伸一に呼びかけた。
 今、関西に戸田の信心の脈動が、じかに伝わり始めていることを、伸一は感じた。もうひと息、ふた息は、伸一自身のなすべき責任として担うことを決意した。
 関西の地は、今、彼の青春の歴史にとって、天王山ともいうべき位置になりつつあった。彼は、関西との宿縁を思わないではいられなかった。彼の頭脳を、もはや関西が占領したのである。
 この夜、彼に一首の和歌が生まれた。
  関西に
    今築きゆく
      錦州城
    永久に崩れぬ
      魔軍抑えて
 二日後の二月十一日は、戸田城聖の誕生日で、満五十六歳を迎える日であった。関西に永遠に崩れぬ錦州城の構築、これをもって師の恩に応えようとする伸一は、この一首を、誕生日の祝いの言葉として、戸田に献じた。
 戸田は、メガネを外し、紙片に額をすりつけるようにして和歌を読んだ。微笑が頬に浮かび、にこやかな眼差しで伸一を見た。そして、彼はぺンを手にしながら、一瞬、思いめぐらしていたかと思うと、さらさらと、その紙片に続けて、一気呵成に認めた。
  我が弟子が
    折伏行で
      築きたる
    錦州城を
      仰ぐうれしさ
 戸田は、伸一の力闘が何よりも嬉しかった。伸一の秀抜な力を、誰よりも信じていた戸田にとって広宣流布を阻む、さまざまの魔軍と戦う若武者の雄々しさほど、彼を喜ばすものは、この世にないといってよかった。
 戸田は、やがて来るであろう彼の没後の実証の一端を、今、伸一の力闘によって知りたかったのである。錦州城は、まだ築かれていない。戸田と伸一の胸のなかに秘められているだけだ。
 しかし、日ならずして、伸一が幾多の労苦を越えて、その城を確実に築くであろうことだけは、戸田は、今、信じられた。構築されるであろう錦州城を仰ぐ時の、その嬉しさを、戸田は、今、まざまざと思い描いた。
 戦いは、既に上げ潮に乗っていたのである。
5  大阪一円は一月に続いて、二月も徹底的な面接指導と訪問指導が行われた。来る日も、来る日も、派遣責任者はもちろんのこと、全大阪の幹部の総力をあげて、一人ひとりの会員の胸中に、信心の支柱が精力的に打ち込まれていった。それは、直ちに座談会に反映した。
 伸一の顔も、幹部の顔も、生き生きとしていた。参加人員は急増し、これまで見かけなかった顔が、どの座談会にも現れて、新鮮な活気が出始めた。信心から発する活気は、団結の絆となって、志を同じくする同志の親和力を、一段と強めていった。そして、それは、各地域での会員の絆を強くし、連帯を幾重にも広げていった。
 繰り返される各地域の会員への個人指導は、一人ひとりの信心を浄化し、生命の新たな脈動をもたらしていった。同志は、信仰を蘇生の基盤として、思うに任せぬわが人生における戦いに、無限の勇気を沸き立たせて挑んでいったのである。
 大方の人びとは、入会の日浅く、信仰も浅い。なお苦難の日常にあっただけに、今、自分たちの心にともした灯は、彼らの唯一の確かな光明となった。
 日蓮大聖人の仏法は、所詮、「行」に尽きる。日常の「行」なくしては、光明はたちまち消え去るだろう。行じれば行じただけ、その結果は、過不足なく現れざるを得ない。関西の会員の多くの人たちは、行じることの重大さを知ったのである。勤行の実践はむろんのこと、折伏への一層の意欲が、急速にみなぎり始めたのである。
6  勇気は決意を生む。この決意の極まるところに、実践としての「行」が始まる。一月、二月と、慎重な指揮を執ってきた山本伸一は、この息吹き始めた決意を、実践に変える機を、じっと待っていたのである。そして、兆したこの機を、彼が逃すはずはなかった。
 機は、二月十九日と、とらえた。
 大阪・堺二支部連合決起大会が、この日、午後一時、中之島の大阪市中央公会堂で開催されたのである。
 関西全域の、組長以上の幹部が結集し、参加者は場外にもあふれた。東京の本部からは、戸田城聖をはじめとする二十数人の幹部が来阪した。山本伸一は、数日前に来て、大会の周到な準備の指揮を執っていた。
 大会の冒頭、満井勝利支部幹事から、「闘争宣言」が発表された。満井は巨体を壇上に運び、汗ばんだ顔は緊張に光り、厚い胸を張って読み上げた。
 「全国学会員総決起の時来る!
 われらは関西本部を本拠として、民衆救済の大指導者・戸田会長の良き弟子として、その指導のままに一致団結、昭和三十一年(一九五六年)度学会闘争方針を実践するため、次の目標に向かって大闘争を展開する。
  一、本年度折伏目標を六万世帯とする
  一、大講堂建立に率先参加する
  一、今年は一段と大功徳にあふれた生活を確立しよう
 以上、堂々の大陣容をもって、全関西に御本尊の功徳をみなぎらせ、会長の意図にこたえよう。
  右宣言する。
  昭和三十一年二月十九日」
 これで、全関西の決意は、公会堂に参集した人びとの胸のなかで、それぞれ固まっていった。
 壇上を仰ぐ視線という視線が、にわかに強い光を放ったように注がれていた。その光芒を一身に浴びたなかで、山本伸一は、「宗教革命の道を歩もう」と、闘争の本義を宗教革命としてとらえて、語りだした。
 「このたびの関西の戦いは、本格的な宗教革命であります。
 革命といえば、直ちに暴動や流血の惨事を思い描きますが、日蓮大聖人の仏法による革命は、犠牲者もなく、ことごとくの民衆を、すべて救済する革命であります。
 民衆の不幸と苦悩の根本が、誤れる宗教にあるとする大聖人の哲理を、民衆に理解させ、真に正しい宇宙の根本法則、生命の法則たる大聖人の仏法に帰依させること、この活動を、わが宗教革命というのであります。
 この活動の進むところ、民衆は、一人残らず蘇生の実証をもって、大聖人の哲理の偉大なることを知るにちがいありません。また、この活動実践ほど、私たちの人生にとって有意義なことはないのであります。
 この弘教・折伏の実践を、いよいよ関西の同志が一丸となって、一人の落後者もなく、大いなる躍進をもって開始しようではありませんか。これは、学会のためにするのでもなく、大阪・堺の両支部のためにするのでもありません。それは、自他共の絶対的幸福を築くためであります。
 正しい宗教に巡り合えなかったゆえに、人生観に迷い、つい先日まで、不幸と苦悩の底にあった私たちが、日蓮大聖人の仏法を知って、大きく境涯を開くことができました。
 この仏法こそ、自他共に幸せになることができる最も確実にして、最も実践しやすい唯一の道であることを、大聖人がお教えくださっており、戸田先生が、手を取って指導してくださっているんです」
 伸一は、なおも力強く訴えた。
 「わが宗教革命は、即、私たちにとっての人間革命であります。それはただ、この仏法の実践いかんにあると、いわなければなりません。
 皆さん、大聖人が、『湿れる木より火を出し乾ける土より水を儲けんが如く』と仰せのように、御本尊様に向かって、不可能をも可能にするような、強い祈りある大信力を奮い起こして、関西の地に本格的な実践活動を展開しようではありませんか!
 そして、わが生命を変革し、たくましい強い生命力を沸き立たせ、生きているこの一日一日が、楽しくて仕方がないといった生活を現出させ、昨日までの灰色によどんだ人生に、別れを告げようではありませんか!」
 山本伸一の壇上からの訴えには、この一月以来の、関西の会員を思う、彼の祈りが込められていた。祈りの火は、一人ひとりの胸のなかに点火されたにちがいない。激しい拍手とともに、賛同を込めた潮騒のような、「ウオーッ」という叫び声が、公会堂にこだました。
 これを受けて、大阪支部長の春木征一郎、堺支部長の浅田宏をはじめ、来賓幹部数人のあいさつがあってから、戸田城聖の講演となった。
 戸田は、壇上にあって、先ほどから、参加者の顔を、一人ひとり、つくづくと眺めながら心を痛めていた。
 ″今日、集ったメンバーは、関西の幹部とはいいながら、まだまだ幸福の表情というには、程遠い。打ちひしがれてきた久しい不幸の痕跡が、どの顔にも、ありありと残っている。やっとのことで御本尊にたどり着き、さて、幸福への道はどこにあるのかと、手探りを始めているような気配だ″
 戸田が感じたように、参加者の多くは、今、心のなかで信じたいと願いながら、なお不信の魔力と戦っていた。
 自己自身と懸命に戦っている、彼らのいじらしさが、戸田の胸を突いた。
 関西人の傾向性を、よく心得ている戸田は、それを尊重し、むしろ、それを突破口として、不信の魔を砕こうと思った。そして、早急な実践の場へと、彼らを運び、実践の結果による当然の実証をもって、彼らの信心の確立を、おのずから遂げさせようと決心したのである。
 彼は、穏やかに、静かに語りだした。
 「日本経済の中心は、今でこそ東京と大阪でありますが、もともとは大阪でした。ですから、大阪の人は、東京の人より利にさといはずである。この御本尊様を信ずるにあたっても、よくわかるだろうと、私は思うのです。
 初代の会長は、非常にやかましい人で、価値論の大家でありましたから、無駄なことをすると、自分に関係がなくても、なんでも叱られたものです。『無駄なことをしてはいかん。反価値なことをやってはいかん。善であり、利であり、美である価値内容を獲得しなければならん』ということを、しょっちゅう、やかましく言われていました。
 これは教えないでも、大阪の人は、よくわかつていると思う。
 ところで、よく考えてごらんなさい。朝晩の勤行には、それなりの時間がかかります。またロウソクがいる、線香がいる。さらに座談会に行かねばならない。折伏もしなければならない。そうなると交通費もかかる。
 これは、″なんのためにやるのか″ということが問題である。これだけのことをやって、あなた方が儲からなかったら、どうだね、無駄なことになりはしませんか。よく言うように、利益のない信仰は、しない方がよいと、私は考える。
 しかし、私が、『朝晩、勤行しなさい。折伏しなさい』と言うのは、私に確信があるから言うんです。絶対に、あなた方が幸福になるという確信がある。日蓮大聖人様が、おっしゃっているんですよ」
 戸田は、それから、御本尊に、なぜ無量の力があるかを説き、彼自らの絶大な功徳の体験を語った。そして、凡夫そのままで、十分に幸福になり得ることを述べ、中小、零細の事業、商売に携わる人びとの多いことを、念頭に浮かべながら話を続けた。
 「真剣に信心に励み、折伏をしていけば、幸せになることは、間違いない。しかし、人間として、ずるいところがあると駄目です。商売人には、ずるい人も多いが、ずるいのは立派な商売人にはなれないし、幸せにもなれません。だから、信心をちゃんとやっているか、折伏をやっているか、ずるくないか、これだけ覚えて、おけば、指導はちゃんとできるんです。これで、貧乏するわけはないことになる」
 戸田は、ここでユーモアを交え、ながら、にっこりして話を続けた。
 「今、日本に何千億という金が回っている。こちらに福運がついてくれば、千円札の入る穴があれば、ちゃんと入ってくるだろう。
 朝晩の勤行をきちんとやればよい。原料は、ローソクと線香ぐらいのものです。
 私が、大阪に月に二度来ると決意した理由は、大阪の人たちを金持ちにしてあげようと思ったからです。大阪は信心が浅い、指導が足りない。それで、しっかり御本尊を拝んで、功徳を受けてもらいたいと通っているんです。がっちり信心して、皆、金を儲けてください」
 彼は、信心の実践たる「行」について、単純化されるだけ単純化して、大阪の幹部が、どんな初信者に話してもわかるように語って終わった。
 冬枯れの、夕刻の中之島公園は、堂島川と土佐堀川に挟まれて、凍てつくような川風に吹きさらされていた。中央公会堂を出た参加者は、風のなかでオーバーの襟を立てた。寒風も、ほてった頬には心地よかった。
 彼らは、御本尊を朝晩ちゃんと拝み、多くの人びとに御本尊の存在を教え、そして真面目に商売に励むという、日々の生活実践を、着々と貫きさえすればよいということに、確信をもった。懐疑の雲は払われて、もはや迷いはなくなった。大阪の会員は、自らの意志で、力強い弘教の歩みを、この時から始めたのである。
 座談会も、その他の会合も、地に着いた、確信ある実践の誓いの場となった。会員の一人ひとりが、無疑曰信という利剣をもって、「不信」の壁を突き破った先には、ひたむきな実践の場として、大阪の天地が、眼前に果てもなく広がっていた。彼らは武者震いし、勇んで、この広野に挑戦の歩みを、足並みそろえて踏み出したのである。
 二月は、指導の徹底を首脳幹部の行動指針としていたが、二月末の本部幹部会の発表によると、大阪支部三千九百八十六世帯、堺支部六百九十七世帯の折伏を成し遂げていた。一月の成果に比べて、大阪は約六百世帯、堺は約百七十世帯の増加を示している。関西の地における弘教の上げ潮は、着実な向上線をたどっていることは明らかであった。山本伸一の一念の脈動は、早くも二月の大阪において、ここかしこに発芽したのである。
7  創価学会は、この年の七月に予定されている参議院議員選挙の候補者六人を推薦していたことから、三月に入ると、もう一つの慌ただしさを加えていった。
 日本列島を、会員の分布の濃淡に合わせて四区分し、四人の全国区候補を支援する準備のために、文化部員が、それぞれ各地に派遣されていた。「北海道・東北・関東玉県」「東京地方」「中部地方・神奈川県」「近畿・中国・四国・九州」の四ブロックである。地方区は東京都、大阪府の二カ所で、東京は清原かつが立候補の予定者であった。
 戸田城聖が、各方面の責任者に終始一貫指導したことは、あくまでも信心の浸透によって、社会建設の使命を自覚させ、各人の湧き上がる自発的な熱意で、選挙戦を勝ち取るということであった。これが勝利の唯一の道であり、この根本の心情を忘れではならないと、固く戒めていた。
 戸田は、世間の通念に毒されている選挙戦術なるものを嫌い、会員の信心による自覚を促すことに徹したのである。
 その一方、組織に生じやすい官僚主義で、会員を睥睨し、活動を強制するようなこととなったら、戦いに敗れるばかりでなく、学会の組織そのものを破壊するにいたることを憂慮して、厳しい指示を与えていた。
 山本伸一が、関西の地にあって、戸田の意志そのまま以上といってよい、見事な活動を懸命に展開している時、各方面のそれぞれの責任者たちも、各地で昼夜を分かたず東奔西走していた。
 大都会と違って、広範な山間部の会員たちに、予定候補者を短日月に徹底することさえ、なかなかの難事であった。彼らのなかのある者は、たちまち焦燥に駆られて、会員を、直ちに選挙活動家に速成しようとして、戸田の指示の根本を忘却してしまった。
 信心の指導を求めて集った純真な会員の心には、七月の選挙のことしか頭にない責任者の、ただ支援活動のみを性急に訴える姿が、異様に映った。
 人びとは、心を閉ざした。
 ″われわれが信心したのは、幸福になるためであって、政治活動をするためではなかったはずだ。政治活動をしたい人はすればいいが、選挙活動を、皆が皆、しなければ、果たして信心を全うすることができないのだろうか。自分は、もちろん推薦候補に一票を投じることは間違いないが、世間一般の人たちにまで、その応援を依頼することはどうかと思う″
 これが、そのころの地方在住の学会員が、最初の選挙にあたって、思案していたことであったろう。
 戸田城聖は、前年の統一地方選挙に際し、立正安国という、民衆の幸福と平和の実現をめざす一活動として、社会建設を担う同志を政界に送り出す構想を語っていた。そして、それは、政治を民衆の手に取り戻すためであり、民衆を踏みにじる政治権力の魔性との戦いであることを、仏法者の使命のうえから明らかにしてきた。
 しかし、統一地方選での支援活動を経験していなかった地方会員の聞には、そうした戸田の語った構想は、十分に理解されず、浸透していなかったといってよい。そして、彼らは、選挙と聞いて、戸惑いを覚えていた。
 なぜ、同志を政界に送り出すのか――派遣幹部は、広宣流布の使命のうえから、その意義を最初に徹底すべきであっただろう。ところが、地方の担当に就いた一部の幹部は、それを語ろうとしなかった。そして、会員を、いきなり選挙活動に駆り立てようとしたのである。
8  三月初句、信越の地域を担当したある派遣幹部は、各地の会場を細かく回っていた。そして、どの会場に行っても、冒頭から七月の選挙の苦戦を訴え、選挙になれば、会員一人が、かなりの多くの支持者をつくることを決定事項として、性急に迫った。
 「わかったろうな、やればできるんです。できないと思えばできない。できると思う人、手をあげてください」
 六、七十人集まったその会場は、一瞬、しゅんと静まり返ってしまった。つくるべき支持者の数字に驚いたのである。派遣幹部は、メガネの奥から、ぎらぎらと視線を放ち、人びとを睨んで動かなかった。
 彼が、続いて何か言いかけようとした時、やっと、二、三人の手が、おずおずとあがった。それを見た彼は、急に怒気を含んで、テーブルをドンと叩いた。
 「これでは、どうにもならん! いったい、今は、どういう時だと思っているんだね。やる気がないならないで、それでいいですよ。あなた方とは、もう話す必要もなくなった。よくわかりました」
 彼は、テーブルの上に散乱している書類を片付け始めた。
 人びとは、東京の本部から派遣されてきた、初対面のこの幹部に面食らってしまった。怯えた困惑の表情が、誰の顔にも浮かび、互いに悲しい面持ちで見合っていた。
 彼らは、えらいことになってしまったと思いながら、誰か話のわかる、本部のほかの人にでも来てもらえたらと、淡い願いが、瞬間、頭をかすめたのである。
 場内は、重苦しい空気に一変し、いたたまれないほどの苦しさが頂点に達した。その時、一人の壮年が、手をあげて立ち上がった。
 「お言葉ではありますが、その数字は、ちょっと無理かと思いますが・・・・・・」
 三十代の、この理知的な男の言葉を聞いて、人びとは、ほっとして、派遣幹部の方に、一斉に視線を移した。
 「無理? 何が無理だ。勝利という絶対の要請を前にして、無理などあるはずはない。君、すべては勇気だよ。あなた方が無理と言うなら、いかにも確信のない証拠です!」
 彼は、なおも、おっかぶせるような口吻をやめなかった。
 立った男は、慌てて言い添えた。
 「そうじゃないんです。私個人としては、おっしゃる通りの支持者はつくります。しかし、全部の会員に同じようにやれと言うのは、実情から見て、無茶というものです」
 「無茶だ?……君は、いったい役職はなんだ」
 「班長です」
 二人は、睨み合ってしまった。
 人びとは、息をのんで眼を凝らしていた。すると、まったく思いがけない言葉が、幹部の口から飛び出した。
 「闘争圏外!」
 人びとは、″トウソウケンガイ?″――なんの意味かと、わかりかねていると、彼は重ねて言った。
 「闘争圏外! 君は、今度の闘争には入らなくてもよい。今、君が、この会合の席にいることを、私は許しません」
 さっと緊張した空気が流れた。この班長は、見る青ざめたまま立っていた。憤懣というよりも、突然の衝撃に、言うべき言葉も奪われていたのである。
 人びとも、なす術を失って、心は慌てふためいていたが、どうすることもできなかった。
 「用のなくなった人は、さっさと退席してもらいたい」
 派遣幹部は、班長を睨んだまま、あくまで退場を促した。
 班長は、ちょっと周囲の人びとに目をやったが、思いがけぬ事態に、人びとは凍りついたように、うつむいたままであった。
 班長は、蒼白な顔面を引きつらせ、途方に暮れたように立っていた。
 「君、いつまでも会合の邪魔をしないでほしい!」
 派遣幹部の怒気は、意地になって班長を追い立てた。
 班長は、意を決したように一礼すると、くるっと身を翻して部屋を出て行ったのである。
 この瞬間、一人の青年が立ち上がって、口早に幹部に殴みつくように言いだした。
 「待ってください。班長のどこがいけないんですか。班長は正直に意見を言ったまでです。よく話も聞かないで、いきなり闘争圏外とは、ひどいと思います。私たちの立派な班長です。今すぐ、許してやってください!」
 青年は、思わず義慣に燃えて立ち上がったにちがいない。うわずった声は攻撃的で、懇願というには遠かった。
 「君は、いったい、私の言うことと、あの班長が言うことと、どっちが正しいと思っているのか!」
 担当の幹部は、やや冷静に返って青年に聞いた。
 こう言われて、青年は迷ったように、しばらく無言で考えていたが、必死の思いで答えた。
 「どっちが正しいか、それを、はっきり知りたいのです」
 「わかった。君は、私の言うことを信じようとしないんだね。無茶だと、君も考えているのか!」
 「そうじゃないんです。今の私たちの地方の実情を知っていただければ、班長の言うことも、決して間違っているとは思いません」
 「わかった、よくわかりました。君も、闘争圏外!」
 青年は、予期しない言葉を聞いて、一瞬、耳を疑ったが、もう何を言っても駄目だと悟ると、憤然と席を蹴って部屋を出た。
 彼は、敬愛する班長に殉じたことに、一種の慰めをいだきながら、″俺は背いたのではない。反逆したのでもない″と、忍びよる悲しさ、わびしさをかみしめていた。
 居残った人びとは、ただ、もう呆気にとられてしまって、怯えていた。
 このあとで、その幹部は、延々と今回の選挙について一方的に語り続けた。人びとは、それを耳にしたが、心には、疑問と不安以外に何ものも残らなかったのである。
9  地方在住の彼らは、選挙活動そのものに恐怖をいだいていたといってよい。彼らの大多数は、これまで、縁故者や地域の有力者などから依頼されるままに投票してきた人びとである。
 そして、周囲で選挙活動をする人が、しばしば検挙される場面を目にしていた。彼らが、選挙活動と聞いて、直ちに違反を思い浮かべるほどの固定観念をもったのも、それまでの日本の選挙の実態から見て、無理からぬことであった。
 まして、違反などを恐れていては、選挙の勝利は、とうていおぼつかないという通念が、世間の常識とされ、選挙は危険を冒して買収や供応をするものだと思い込んでいる人も多かった。事実、地域の人たちのなかには、これまで買収されたり、供応されたりした経験をもつ人もいた。
 集った人たちは、幹部の性急な話を聞いて、そうした選挙活動を、今度は、自分たちがやるのかと思ったのである。その大きな誤解が恐怖を呼び、拒絶反応を示したのだ。
 この担当幹部は、弘教に活躍する勇敢な闘士たちが、直ちに、このたびの戦いの積極的な活動家に、そのまま一変するものと、なんの疑いもいだかず思い込んでいたのである。彼が、拠点を回ってみると、彼の心情と、素朴な地方会員の心情との間には、はなはだしい落差があったのである。単なる指示や命令では、人びとは、決して本気になって動かないことを、知らなければならなかった。
 この落差を、いかにして見事に埋めるかということに、幹部としての忍耐と、指導力と、使命の、すべてがあると気づき、反省すべきであった。
 ただ、全国区候補が獲得しなければならない莫大な票数だけが、重苦しく彼の頭を占めていた。彼は、それぞれの地域における、獲得すべき票数だけにとらわれて、是が非でも、それを会員に押しつけることによって、早く安心したかったのだろう。功を焦る幹部の心は、創価学会が言明した公明選挙を人びとが理解する前に、会員をいたずらに困惑と恐怖に陥れてしまったといってよい。
 ことの幹部は、行く先々で、恐怖とともに闘争圏外者を次々とつくっていった。そして、指導と言いながら、多くの大切な人材をつぶしていたことに気づかなかった。
 この地方のある幹部は、不審のあまり、勇気を奮って上京し、直接、本部に指導を仰いだ。本部の耳が敏感であったことは救いであった。
 本部は、一地域ではあったが、こうした空転に近い派遣幹部の行動に対して、急濯、全面的な軌道修正を厳命しなければならなかった。しかし、これらのつまずきが、最後まで尾を引いてしまったのである。
10  半年後に予定されている参議院議員選挙を考えた時、本来、当選が最も危ぶまれるのは、大阪地方区であった。しかし、大阪では、首尾一貫、草の根を分けての信心指導に徹していて、信心の旺盛な昂揚から、活発な弘教活動に入っていた。
 仏法者としての社会建設の使命の自覚、そして信仰の歓喜と躍動――これこそが一切の活動の原動力となる。ゆえに、明暗は、既に、この時に兆していたといえよう。
 戸田城聖が、当初、弟子たちに与えた厳正な指導は、まことに寸分の狂いもなく正鵠を射ていたといってよい。
 彼の指導を、億劫の辛労を経て肉化させ、わが指標として、戦いの駒を賢明に進めた弟子がいた。その一方で、責任者となり、組織を掌中に握ったと錯覚し、官僚的な権威で、当時の、初信者の多い地方会員を動員しようと焦った弟子もいた。いずれが戸田の長い薫陶を生かした弟子かは、自明である。
 こうした混乱は、他の地方でも皆無とはいえなかった。しかし、会員に悲哀を、次々と与えていくような事態だけは免れていた。「北海道・東北・関東」と「近畿・中国・四国・九州」という、実に広漠たる二つの地域では、散在する会員を連結させ、趣旨をのみ込ませるだけで精いっぱいであった。それでも、この二つの方面は、支援した全国区の候補を、当選させることは、できたのである。
 東京の地方区の最高責任者は、古参の部隊長・澤田良一であった。彼は、懸命に走り回ったが、彼より信仰経歴の古い先輩幹部の多い東京では、澤田を中心に団結することができなかった。
 知恵者ぞろいの先輩幹部の支部長たちは、長年の一国一城の主としての習性から抜けきれず、何をなすべきかについて、それぞれの見解に固執して、澤田良一の指揮は、速やかに浸透していかなかった。大小の摩擦を起こしながら、やっと活動形態が形成されるというような場合が多かった。
 また、東京は、大阪に比べて、会員の絶対数が三倍以上という優位さと、信仰経験の古い会員の実践力を頼んで、スタート時点から油断をはらんでいた。笛吹けども踊らずという事態に落ちて、それに気づいた時には、戦いは終盤戦にさしかかっていたという始末であった。
 戸田城聖が、長年、手塩にかけた弟子たちは、全国に散って活動した。
 この活動のなかで、広宣流布の実践における師弟の関係を、単なる師弟の道ととるか、師弟不二の道ととるかが、初めてあらわにされたと見なければならない。
 師の意図するところが、現実に現れるか、現れないかは、弟子の実践の姿を見れば容易に判断のつくことである。
 師の意図が、脈動となって弟子の五体をめぐり、それが自発能動の実践の姿をとる時、初めて師弟不二の道をかろうじて全うすることができる。師弟に通い合う生命の脈動こそ、不二たらしめる原動力である。
 そのためには、師の意図の脈動が、何を根源としているかを深く理解し、自らの血管にたぎらせていく、困難にして強盛な信仰の深化を必要とする。その師弟の本源の力は、言うまでも、なく御本尊に帰着する。
 まさに山本伸一が、この大阪での活動に先立って、一念に課した億劫の辛労は、その困難さを、避けることなく乗り越える作業であった。それによって、師弟一体の実践の姿を現したのである。
 多くの弟子たちは、その困難さを避ける。
 師の意図に背く考えは、さらさらないものの、師の意図を、ただ教条的にしか理解しない。
 そこで、厳しい現実に直面すると、周章狼狽して、師の意図を、ただ言葉だけで機械的に同志に押し付けて事足れりとする。あるいは、直面した現実を特殊な事態ととらえ、信心という根本を忘れ、浅薄な世間智を働かせて現実に対応しようと焦る。ここに至って、師弟の脈動が断たれていることに気がつかない。
 師の考えるところと、弟子が懸命に考えるこことが合一する時、信仰の奔流は偉大なる脈動となってほとばしる。
 師の言葉を教条的に理解し、ただ追従することは、弟子にとって極めて容易なことだ。師の言葉から、師の意図を知り、さらに、その根源にまで迫って、その同じ根源を師と共に分かち合う弟子の一念は、まことに、まれだといわなければならない。しかし、このまれなる一念の獲得にこそ、師弟不二の道の一切が、かかっているのである。
11  日蓮大聖人に常随給仕の誠を尽くした日興上人が、六老僧のなかにあって唯一人、師弟不二の道を全うすることができたのも、この困難な師弟の道に徹したからである。ここに五老僧の単なる師弟の道が、師に敵対するにいたってしまい、日興上人の師弟不二の道が、大聖人の仏法の正義を、よく継承し得た唯一の理由がある。
 次元は異なるが、広宣流布の実践のうえで、戸田城聖と山本伸一における師弟という不二の道もまた、今日の創価学会を形成発展させてきた大動脈であったことは、一点の疑いもなきところである。ただ、一九五六年(昭和三十一年)当時、草創期の激流のなかにあっては、この大動脈は、人目につかぬ底流に潜んでいるしかなかった。大阪の激闘の成功は、この師弟不二の道の実践が、いかなるものであるかを表していたといってよい。
 七月、この選挙戦がひとまず終わった時、大阪地方区の大勝利に、全国の幹部という幹部は驚愕したが、驚愕は、ただの驚愕でしかなかった。底流に潜んでいた大動脈に気づいた人は、皆無といってよかった。
 一人、戸田城聖だけが、彼の後継者の厳たる存在を確かめて、全候補者の半分が敗北したにもかかわらず、心を慰めることができた。大阪地方区の勝利は、また全国区の十条俊三の勝利をも、もたらしたといってよい。
 ″伸一は、勝ったではないか。してみれば、敗れた候補者たちも、勝利の可能性は十分にあったはずだ″
 もともと、山本伸一が担当することになる大阪地方区は、誰が考えても、常識的にいって敗北が当然であり、六人の候補者のなかで、最も勝利が至難なところであった。敗れて当たり前、ひょっとして勝てば、まれなる幸運というほかはあるまいとされていた。その大阪地方区が勝ち、″敗れるはずは、まずあるまい″と思われた三候補が落ちたのである。
 この時、もし大阪地方区も敗北していたとしたら、戸田の構想の確信は、大きく揺らいだにちがいない。誤算の衝撃から、戸田は、少なくとも再出発への徹底的な再検討に、身を責め苛まれ在ければならなかったであろう。
 後の話になるが、戦い終わって半数の敗北という暗雲につつまれていた彼にとって、大阪の力闘の成果は、前途への、ただ一条の光明であったことは疑いない。
 戸田は、ここで、首脳幹部に対する指導の不十分さを知り、われとわが心を戒めた。そして、伸一の存在が、戸田の生涯のなかで、ひときわ燦然たる光彩を放ち、それが未来を照らし、輝いているのを知ったのである。
12  三月の関西地方は、日を追って変貌しつつあった。地区座談会のほかに数えきれないほどの班座談会が、各所で細かく夜ごとに開催され、参加人員は、開催ごとに増加し、友人の参加者は、かつてない激増を示した。
 幹部は、最前線組織のリーダーである組長にいたるまで、急に多忙となったが、ここ二カ月の信心指導の徹底は、彼らに信心活動の歓喜のなんたるかを気づかせた。彼らの大多数は、いまだ貧しく、生活上のさまざまな苦悩をかかえていたが、それを、あえて乗り越えての活動であった。
 会員たちは、苦悩する人びとを、一人、また一人と、救うことのできる喜びを実感した。それは、いまだかつて彼らの人生で味わったことのない大きな歓喜であったといってよい。
 昨日までの彼らは、ただ、いたずらに自分の心身を苛み、卑屈になり、世を白眼視して、わが宿命を呪うだけであった。だが、信心に目覚め、活動を開始した今の彼らは、そのままの姿で、なおかつ救世の一人に在り得ることを自覚したのである。
 日蓮大聖人の仏法の実践というものが、まさしく地涌の菩薩の振る舞いである以上、苦しみ悩んでいる民衆を救いながら、自分も、共々に幸福への大道を進んでいけるのである。
 その、自他共の苦悩を解決できるという自覚ほど、彼らにとって、この世における尊貴な歓喜はないはずである。
 入会して活動に励むうちに、われ知らず湧き上がる歓喜は、彼らの過去の人生においては、夢にも知らぬことであった。それだけに、彼らは、その胸中の思いを、口に出して表現する言葉を知らなかったが、それは、彼らの日常の生き生きとした表情や、きびきびした動作に現れ始めていた。
 愚痴は影をひそめ、会員たちは、顔を合わせるたびに、温かい笑顔で、互いが互いを確認し、それが座談会や、その他の会合の様相を一変させつつあった。
 当時の大方の会員の姿は貧しく、会合に誘われて来る友人たちの姿もまた、同じく貧しかった。だが、顔色といい、挙動といい、会員と友人たちとの間には、歴然たる格差ができていた。会員たちは、人生に失望した青ざめた友人を見て、入会以前の彼ら自身の人生を、身につまされて思い出さずにはいられなかった。
 だからといって、彼らは、友人たちに優越感をもったのではない。たまたま友人のなかに、背広でネクタイを締めた紳士然とした異色の人物でもいると、彼らは、互いにささやき合った。
 「おっ、あれは人材や」
 「そやそや、大事に育てなあかんで」
 背広が、そのまま人材に映る時代である。今日では、もはや考えられないことであるが、敗戦後の庶民の貧しい生活実相は、まだまだ続いていた。
 会員の急激な増加に、いちばん喜び、かつ悩んだのは、春木支部長であった。彼は、多くの会員に接しつつ、まず考えることは、彼らが幹部たり得る人材かどうかということであった。
 折伏数は、月々、四、五千世帯である。当時の一地区が千世帯前後であったことから、少なくとも四人の地区部長、地区担当員を、月々、誕生させないことには、組織は混乱してしまう恐れが十分にあった。まして、今後、どこまで伸びるかわからない月々の増加状況を頭に置くと、春木は、人材難に頭をかかえ、不安に陥ることもしばしばであった。
 幹部に育てるなどということでは間に合わない。彼は、もっぱら幹部の発見ということに心を定めて、忙しく走り回った。支部長から組長にいたるまで、皆、せわしかった。
13  当時の大阪支部三一十四地区のなかで、三人もの女性地区部長がいたことは、男性陣の人材難を物語っていた。
 そのなかの一人、大矢ひでは、大阪の近郊に住む歯科医の妻であった。夫は、仕事熱心で生真面目、寡黙な好人物で、家庭の波風もなく、平穏な日常を、戦中、戦後を通じて送っていた。
 このような結婚生活のなかにあって、一子・良彦の成長に注意が集中し、いつか彼女の生きがいのシンボルとして、未来への期待と夢とが育まれたのも無理はない。
 彼女の愛情のすべてを一身に受けた息子は、ある時は迷惑にも感じたろう。しかし良彦は、幸いにして善良な、学業成績のよい子であったが、いささか病弱であった。この平凡な母の頭を時折かすめる唯一の不安は、この虚弱体質にあった。
 一九五二年(昭和二十七年)四月、良彦は、優秀な成績で大阪大学歯学部に入学した。大矢ひでにとって、これほどの喜びはない。
 しかし同時に、不慮の災厄を怖れる不安は、平穏であればあるほど、どうしようもなかった。彼女も、周囲の人びとの人生の浮沈を、戦中、戦後の激動の世相のなかで、つぶさに眺めてきたからである。
 ″この世に、幸福を保証するものは何もない″と思い至った時、不安は時に戦慄に変わった。
 このころ、この歯科医院に出入りする一人の歯科技工士がいた。彼は、入会したばかりの創価学会員であった。
 彼は、座談会で耳にした体験談などを、不思議な信心があると言って、彼自らの驚愕を、しばしば語って尽きなかった。彼は、歯科医一家を座談会に誘ったが、社交性の薄い歯科医は腰が重く、ひでと良彦だけが、二度ほど座談会に出席した。
 人びとの、こもごも語るところは、彼ら二人の人生では、これまでに経験したこともないことばかりである。
 良彦は、好奇心に燃え、母親は「絶対の幸福」を、この信心によってのみ獲得することができるという、耳よりな話に身を乗り出した。しかし、話す人たちは、誰もが、自分たちよりも、まだ不幸で、貧しい姿に見受けられ、入会には躊躇を余儀なくされていた。
 大阪の草創期には、歯科医や、技工士や、歯科材料商など、歯科関係者の入会が相次いでいたが、これは、春木征一郎と共に草創期の双壁であった、堺の歯科医・浅田宏の活発な活動によるものであった。
 浅田は、同僚の歯科医や、出入りする歯科材料商から折伏を始め、その系列が次々と多くの新会員を生んでいった。その折伏の波は、南部の堺から北へ大阪を貫き、歯科医の大矢一家のところまで、このころになって届いたのである。
14  ひでと良彦が、三度目の座談会に誘われたのは、五三年(同二十八年)八月十二日のことであった。
 大阪方面の二回目の夏季指導の真っ最中で、本部派遣の幹部が大挙して来阪し、尊い汗を流していた時である。この日の座談会には、派遣員の二人の東京の幹部が出席して、いつにない活気にあふれでいた。一人は、壮年の建築士で、もう一人は、小学校の教員という、若い未婚の女性であった。
 二人は、仏教各派の誤りを正した日蓮大聖人の四箇の格言から話を進めた。
 ひでは鋭く耳を澄ました。宗教が、幸・不幸を決定づけるという理路整然たる仏法哲理は、彼女のこれまでの人生で、夢にも考え及ばなかったことである。
 彼女は、わが家の実態を思い起こした。
 ″生真面目一方で、何事にも積極性というものを全く失っている夫、出来はよいが虚弱体質の一子・良彦、わが家の幸福の基盤は、いつ崩れるかわからない――″
 常日ごろの、彼女の漠然とした不安は、宗教に起因しているかもしれないと気づいた。
 彼女は、目の覚める思いで、建築士と教員の、はつらつたる熱情を込めた話に聞き入った。
 良彦は、確たる仏法哲理に、反論の余地なく、素直に入会を希望してしまった。
 「あかん、あかん」
 ひでは、とっさに、良彦の腕をつついて、ささやいた。
 「そんな簡単に、信心する言うたらあかんで……父さんにも相談せなあかんで」
 「ええやないか、ぼくだけやってみるさかい……。よかったら、母さんもやったらええ」
 良彦は、既に一人の成人であった。
 青年の直観は鋭く、思いのほか、意志は固かった。母から独立した青年の、決然たる思考は、逆に母に影響を与えずにはおかない。彼女も入会に同意した。
15  大矢ひでは、活動を開始した。
 まず、日ごろから交際している、いわゆる「街の名士」に、次々と語りかけた。
 ところが、世情にうとかったひでは、思わぬ反撃に出会った。名士たちは、巷に流布している創価学会の評判を、彼女よりも知っていた。それも面罵である。
 「神さんも、仏さんも、焼くいうやないか、あんた、ようそんな信心に入りはったな」
 彼女が、仏法について語って歩いても、一人の入会者もなかった。幸福への道に逆らう反対者の心情が、彼女には不可解であった。
 要するに彼らの反対は、わずかばかりの財産を頼んでの傲慢さによることがわかった。彼女は、現に苦しみ悩んでいる人たち、社会の底辺で、経済苦や病苦に沈んで生活にあえいでいる人たちに、焦点を変えた。視点を変えると、近隣の人たちのなかにも、知人のなかにも、不運に虐げられている人は多かった。
 入会以来、数カ月過ぎた時、彼女は、十一世帯の折伏をしていた。人びとの蘇生の実態を見るにつけ、彼女は、信心活動の歓喜を知った。歓喜は、一歯科医の平凡な妻に、世のため、人のために、尽くし得る生きがいを教えた。
 一家の安泰にのみ心を奪われていた女性の前に、いつか尊い、唯一最高の救世の道が開かれたのである。
 一年たたぬ一九五四年(昭和二十九年)四月、彼女は四十五世帯の班長となった。
16  この年の五月十五日、戸田城聖は、山本伸一を伴って来阪していた。春木支部長の呼び出しで、ひでは良彦と共に、戸田が滞在している大阪・西成区の花園旅館を訪ね、初めて彼に面会した。
 戸田の存在は、人格といい、スケールといい、彼女の、これまで会った男性からは、想像もできないほど図抜けていた。彼女は、この世に人を信頼するということがあるなら、それは、まさしくこのような存在をいうのであろうと、深く感動した。ひでは、日ごろ、心にかかる一点、一子・良彦のことを思わず話しだした。
 「わかった、心配ありません。息子さんは、山本伸一に紹介してあげるから、安心しなさい」
 戸田は、一言のもとに引き受けたが、大矢ひでは、山本伸一が何者かを知らなかった。
 彼女は廊下に出て、そこにいた青年をつかまえ、事の次第を話した。
 「戸田先生が……」と慌てて語る彼女の声が聞こえたのであろう。別室から一人の精悍な青年が、飛び出してきた。
 「戸田先生が、どうかされましたか。なんですか」
 青年の真剣な表情には、師を守る強い気迫があふれている。その真剣さは、清冽な感動をもって彼女を圧倒した。一瞬にして、彼女は、戸田に仕える姿勢を知ったのである。青年は、山本伸一であった。
 大矢ひでは、戸田を知り、良彦も山本伸一を知り、幸運にも、この親子は、共々に、薫陶を受ける身となった。
 彼女が、北摂地区部長の任命を受けたのは、五五年(同三十年)十一月のことである。
17  この時、多くの新任地区部長のなかに、さらに二人の女性地区部長が誕生した。京極梅子と、麻田元枝である。
 彼女たちは、二人とも看護婦の出身であった。それも、そろって勇ましい剛毅な看護婦で、日中戦争が始まると、自ら志願して戦場に赴いた。
 京極は、中国の上海に派遣された救護班の一員として、砲声の轟くなかで、敵・味方の負傷者の看護で六カ月、従軍した。
 麻田は、満鉄病院の看護婦として、治安の極度に悪い満州の各地で看護活動に従事した。便衣隊に病院が掠奪されたこともある。ソ連国境に近い満州里マンチュリの分院を最後に、二年余りの危険な満州生活を切り上げて内地に引き揚げた。
 二人とも、それぞれ度胸のよい女性となったが、同時に、戦争の無慈悲と悲惨さをつぶさに体験し、それからくる一種の言いようのない虚しさをいだいて帰国した。
 京極梅子は、大阪へ出て書店の店員に転身した。やがて縁あって、印刷会社を経営する社長の夫人におさまった。小さい会社であったものの、官公庁を得意先とする経営は、戦時中の企業整理も免れ、大阪空襲で二つの工場と倉庫が全焼するまでは、順調であった。
 敗戦を境に苦難の生活が始まる。幸いに火災保険の十万円を元手に、やっと会社を再建したが、夫は印削機械の開発に熱中し始め、資金はたちまち底を突き、さらに、莫大な借金をかかえて、破局に瀕した。住む家も、明け渡さなければならなくなった。
 このような時、五四年(同二十九年)十二月十八日、仏縁あって入会することができた。悲惨な生活環境のなかで、ミカン箱で代用した仏壇に向かって、必死の唱題が始まり、懸命な弘教活動が始まった。会社は、やっと会社更生法が適用され、細々と仕事にありついた。
 苦しい生活のなかで、頼りになるものは御本尊だけだと、彼女は悟るにいたった。懸命な学会活動を、あらゆることに優先したといってよい。一年近くたった時、彼女の折伏は、百世帯を達成していた。
18  麻田元枝は、四〇年(同十五年)、満州から内地に帰ると、何をする意欲もなく、かなり貯蓄があったのを幸いに、岡山県の実家で、約一年をぶらぶらと送った。
 彼女は、助産婦の資格を取ろうと思ったところへ、以前、勤務していた大阪の病院から連絡があり、呼び戻されたのである。しばらくして、大工場の医務室の専任看護婦として転出した。ここの医務室が、戦中・戦後の職場となり、衛生管理者、保健婦などの資格を取得した。仕事熱心な独身看護婦の生活は、当時の荒廃した世相のなかで、平穏で優雅でさえあった。
 五三年(同二十八年)九月のある日、彼女の住んでいた会社の寮に、従弟が、ひょっとり訪ねてきた。彼は、長年の結核重症患者である。
 その彼が、元気な血色で、ニコニコしながら、突然、現れたのである。彼女は、彼の出現が信じられなかった。
 「まあ、どないしたんや」
 彼女の驚愕は、彼の話を聞いて、さらに深まった。
 「姉さん、この信心は、すごいんや。信心で、ぼくの結核が、きれいさっぱりと、こないに治ったんや」
 「そんなこと、世の中にあるのん?」
 「あるもないも、この通りや。ぼくばっかりやないで。姉さん、まぁ、聞いて」
 従弟は、座談会で聞き知った、多くの人びとの体験を、次々と語った。
 麻田の驚愕は、強い好奇心に変わった。半生の看護婦の体験から、結核重症患者の悲惨な末路を、知りすぎるほど知っていたからである。
 麻田は、従弟に連れられて、翌晩の座談会に出かけた。それも、三人の友人を誘つての参加であった。彼女が入会を決意すると、友人のうち二人までが、同時に入会した。彼女の入会は、二世帯の折伏と同時であったわけである。
 彼女は、職業柄というよりも、性格的に人の面倒をみるのが好きだった。彼女の紹介で入会する人が多くなるにつれて、責任上、それらの人びとの面倒をみずにはいられなかった。それにはまず、仏法のなんたるかを知らなければならない。彼女の求道心は激しく、先輩幹部に体当たりしていった。やがて、班長となったのである。責任は重くなった。
 彼女の日常生活は、いつか一変していた。
 朝五時に起床、七時まで勤行、唱題。七時半出勤。弁当は二食分用意した。午後四時四十五分退社、直ちに大淀区の地区部長、満井勝利宅に赴いた。
 ここでは、毎日、春木支部長が、支部員の面接指導にあたっていたので、多くのことを耳から学んでいった。そして、夕食用の弁当を食べ、大阪市内に散在する班員の指導と弘教に励んだ。
19  五五年(同三十年)十一月のある日、春木支部長から、花園旅館に来るよう呼び出しがあった。
 何事かと駆けつけると、戸田城聖の面接であった。二十人足らずの人びとは、地区部長、地区担当員の候補者だった。
 麻田元枝は、初めて、間近に戸田を見た。身は固くなって、自分の周りに誰がいるのかも、目に入らなかった。
 麻田元枝の順番になった時、戸田は、一瞬、彼女に眼をすえた。彼女は、体の芯まで見透かされる思いがした。
 「地区担当員ではなく、地区部長か」
 戸田は春木を張り返った。
 「はい」
 「いいだろう。大聖人も『末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は男女はきらふべからず』と仰せだからな」
 戸田は、こう言って笑いかけながら、麻田を慈しんで言った。
 「しっかりやりなさい。退転だけはするものではないよ、いいね」
 「はい、やらせていただきます。なんでもやらせてもらいます」
 麻田元枝の地区部長は決定した。この時、大矢ひでと京極梅子も、地区部長になったのである。
 三人の女性地区部長を待っていたものは、五六年(同三十一年)の、記念すべき関西の未聞の戦いであった。彼女たちは、関西の常勝の礎を築いていったのである。
20  三月になると、座談会活動は、日を追って活発になっていった。弘教拡大の波は、広がり始めた。
 山本伸一は、一切の活動の推進にあたって、どこまでも御書を根本としていた。その御書を基軸とした指導の脈動は、心ある会員に、教学の重要さを気づかせていった。″すべては、御書にある″という自覚ほど、教学への求道心を奮い起こさせるものはない。
 このころの伸一の大阪訪問は、まだ土曜、日曜を主としていたが、彼は、朝の八時というと、決まって関西本部三階仏間の御本尊の前に端座し、勤行を始めた。
 彼の背後には、東京から派遣されていた富井や上田などの幹部数人をはじめ、十人ほどの青年たちが並んでいた。さらに春木、満井、龍岡などの関西の首脳幹部がそろっていた。
 厳然とした勤行が終わると、伸一のの御書講義に移る。彼の講義は、講義のための講義では、なかった。
 不可能を可能にするという大願を秘めた彼は、その朝、その朝、その原動力ともいうべき、時々刻々の焦点を、御書を通して明確にしたのである。
 不可能と誰しも考える厚い壁は、信心の利剣で、こつこつと崩すよりほかにはない。伸一の口を通した朝の御書の一節一節は、全く鮮烈な意味を帯びて、彼らがけ今、何をなすべきかを教えていた。
 伸一の一念は、朝ごとに具体性をもって発露しつつあった。関西の活動の源泉は、まことに、この「朝の御書講義」に集約されていたといってよい。
 ここから各組織の最先端へと散った、すべての幹部は、その日のうちに、朝、会得した御書を根本とする適切な指導を、そのまま全会員の胸へ、次から次へと語りかけていった。
 組織の鼓動は脈打ちながら、まず、会員の胸につかえている不可能の壁の一角一角を、崩していったといってよい。山本伸一の胸ひとつに秘めた強烈な一念は、ようやく日ごとに脈動しつつ、重い巨大な歯車を、彼を軸として回転させ始めたのである。
 伸一は、ここ二カ月余りの徹底的な個人指導で、信心のいかなるものかという「信」を自覚させた。そして、座談会活動によって、弘教の「行」の歓喜を沸き立たせていった。それに加えて、「朝の御書講義」で、実践の指針のすべてが、御書に歴然と込められていることを示し、「学」の重要さと、活動理念の崇高さを教えた。
 地涌の菩薩の使命に燃えた「信」「行」「学」の実践ほど、無敵のものはない。智勇兼備の戦力は、このようにして、人知れず刻々と育まれていったのである。
21  この激しい活動のさなかの三月四日、第八期教学部員候補の登用試験が、全国で実施された。大阪での受験者は、千五百人を超えた。当初、予定されていた試験会場だけでは足らず、堺にも会場を設けなければならなかった。
 戸田城聖による大阪での月二回の講義と、それを幾重にも深化し、拡大した、山本伸一の実践的指導は、大阪・堺の二支部で合格者千三百人を超えるという、思いもかけなかった大量の教学部員候補を誕生させた。それは、全国十六支部の合格者四千三百人の、実に三割以上を占めていた。
 このあと、三月、四月、五月、六月、七月と、未曾有の激闘に次ぐ激闘の実践のなかで、教学部員候補への講義も、月三回、三月、四月、五月と着実に続けられた。そして、メンバーは、教学の筋金が一本入った、広宣流布の闘士となって、すべての活動に先駆していったのである。
 当時の教学部員候補のための講義は、激しい活動の渦中で行われたといってよい。教学は、すべて実践の指針として、メンバーの信心の血行を強く促した。
 これらの初々しい教学部員候補の教学研績と相まって、「朝の御書講義」の、全地域への浸透は、勝利の鼓動となって脈打ったことは言うまでもない。教学を実践の教学としてとらえる姿勢が、関西では極めて自然に育ったのである。
22  教学部員候補の登用試験が行われた翌日の三月五日には、山本伸一は、九州の八女市に飛んでいた。当時、関西以西には、八女支部という一支部しかなかったのである。八女は、牧口時代からの、九州の唯一の拠点として、戸田も重要視し、慈しみ育ててきた。また、このころには福岡県の北部一帯に、小岩、大阪などの各支部所属の会員が、急増し始めたところだった。
 伸一には、七月の参議院議員選挙では、大阪地方区のほかに、近畿以西の中国、四国、九州を含む広漠たる地方を地盤とする全国区候補・十条俊三のための支援活動も、重くのしかかっていた。
 十条を支援する主力となるのは、大阪を中心とする関西一円であったが、西日本に点在する会員たちを、結束させることができるか、できないかに、勝敗の分岐点があった。数人の文化部員が担当責任者として、この広い地域を奔定し始めていたが、地域の果てしない広さにのまれてしまって、底知れぬ不安を山本伸一に訴えてきた。
 全地域の布陣が遅れていることを知った伸一は、激闘の間隙を縫って、急速、大阪から九州の拠点・八女に向かったのである。比較的、会員の密集度の濃い八女をはじめとする福岡県内各地の幹部と会合をもち、綿密に打ち合わせを行った。短い滞在期間に、支援態勢の早急な形成に渾身の力を注がなければならなかった。そして、また大阪へ舞い戻った。
 戸田城聖は、三月の五、六、七日と、十九、二十、二十一日との二回にわたって、方便品・寿量品の講義、御書講義、幹部指導と、約束通りに大阪の地で、月のうち六日間を過ごした。
 東京をはじめとする全国的な活動の展開は、日々、活発化していたが、戸田と伸一とが表裏一体となっての指導態勢は、まだ、関西方面だけであった。
 関西には、あらゆる活力が蘇り、沸き立ち、渦を巻く一歩手前の状態に近づきつつあった。
 三月下旬の二十四、二十五の両日は、月例の登山会で、戸田も、伸一も、多くの首脳幹部と共に総本山にいた。
 総本山では、三月二十九日午前、第六十四世水谷日昇から、第六十五世堀米日淳へ、法主交替の儀式が挙行された。
 三月三十一日二二月度本部幹部会が豊島公会堂で開催された。
 折伏成果の発表によると、全国の成果は一万九千六百四十世帯で、このうち実に四分の一の、五千五世帯が大阪支部であり、二位の蒲田支部の三千八百十世帯を、はるかに引き離していた。規模の小さな堺支部も、十六支部のうち九位で、七百五十九世帯の成績をあげた。関西勢に、いよいよ衝天の気迫が現れてきたといってよい。
23  この日、伸一は、勇んで一人、大阪への列車に乗った。夕刻、大阪に到着すると、ブロック座談会、女子部教学研修会などに出席し、師子奮迅の活動を開始した。翌四月一日は、寸暇を惜しんでの会合と個人指導を続けた。昼間の地区部長会に続き、夜は組長指導会、翌二日は班長指導会というように、関西一円の幹部の、信心の急速な向上に、額に汗を流して奮闘したのである。
 また、今度の目的には、来る四月八日の大阪・堺二支部連合総会のための、周到在準備も含まれていた。なにしろ難波の大阪球場を使用しての野外集会である。二万人の結集を、事故なく歓喜のうちに遂行するには、その準備のために、並々ならぬ労苦を必要とした。
 任務を分担する多くの役員の決定から、会場の設営、対外交渉、地方支部員のためのバスの駐車場の指定にいたるまで、遺漏のない配慮に、心を千々に砕かなければならなかった。
 関西は、ちょうど春たけなわで、いつか桜の季節となっていた。伸一は、二日午後、暇を見つけると、一人の青年部の幹部を伴い、奈良に向かった。
 若草山に着くと、彼は、ごろりと横になって、春霞の空を仰ぎ、萌え出る草々の、かぐわしい空気を思う存分に吸った。
 忙中の閑は、彼にとって極めて貴重な蘇生の瞬間であったが、それも二十分で引き揚げなければならなかった。彼は、大阪へ、とって返した。夜の班長指導会が待っていたからである。
24  四月一日、戸田城聖は仙台にいた。仙台支部の、支部長の交代にともなう支部幹部会に出席するためであった。
 夕刻六時、仙台市公会堂で、支部旗の返還・授与が厳粛に行われた。これまで支部長を務めてきた白谷邦男は、初代の学生部長に任命され、新たに仙台支部長として釜屋孝吉が就住した。
 仙台支部は、戸田城聖の会長就任直後に結成された地方支部である。支部長の白谷は、戦前の入会で、戸田の会長就佳前後から彼のもとに馳せ参じ、指導を仰、ぎつつ東北広布に立ち上がった。その旺盛な意気と、学会本部と直結した信心の脈動で、新支部は急速に発展し、このころには、一万五千世帯を優に超えるまでになっていた。
 白谷支部長は、ある保険会社の仙台支社の社員であったが、東京の本社への栄転の話がもちあがった。しかし、彼は創価学会の支部長である。自身の栄達のために、仙台の同志と別れることはできない。彼は、迷った揚げ句、戸田城聖に打ち明け、指導を仰いだ。
 この日の集会で、戸田は、冒頭から、このことに触れて言った。
 「白谷君が、″東京へ行った方がいいだろうか。もし、仙台にとどまった方がよければ、会社の方へ無理に頼めば、そのようにもできま
 す″と、こういう岐路に立った時に、相談してくれました。
 私は、今が、『時』であると思いました。白谷君が、仙台支部をこれまでにした力量を信用して、私は初代の学生部長にしたのであります。さぞや、また何年間か、私に叱られ、泣くこともあろうと思うと、まことに不憫でもありますが、学生部という新しい重大な部門の健全な育成のためには、致し方のないことであります」
 学生部の設置は、早くから戸田の構想のなかにあって、東大法華経研究会などで、大学生たちを手塩にかけて育ててきていた。それを、いよいよ組織化する時機と人とを求めていた時だけに、白谷邦男の東京転任は、偶然とも思えなかった。
 彼は、白谷を学生部長に任命し、部長一人から始まる学生部の設置に踏み切ったのである。
 この日、戸田は、東北放送の求めに応じ、創価学会に対する世間の疑問に答える対談を行った。彼の応答は、いつものように淡々として、実に率直で、先入観をもつ質問者を慌てさせた。
 七月初句をめざしての全国的な準備は、文化部員によって、着実に進められていたが、学会の日常的な行事は、何一つゆるがせにすることなく、浮足立つようなことを抑えて、沈着に遂行されていた。
 戸田城聖と山本伸一は、選挙の支援活動に翻弄されることなく、関西に広宣流布の錦州城を築き上げることこそ焦点としてとらえていた。そして、学会行事の徹底と深化による信心の脈動をもって、戦いに挑んでいった。まことに日蓮大聖人の仏法の瞠目すべき偉力は、純粋にして強靭な信心の脈動以外に発動する術はないことを、身をもって知っていたからである。

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