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日蓮大聖人・池田大作

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一念  

小説「人間革命」9-10巻 (池田大作全集第148巻)

前後
2  伸一は、三階の仏間まで来ると、御本尊の前に端座した。そして、待機していた二、三十人の首脳幹部と共に勤行を始めた。緊迫したなかにも、いささかの無理も感じさせない豊かな、朗々たる音調は、厳寒の仏間いっぱいに満ち、たちまち部屋の空気を、すがすがしく一変させた。
 唱和する幹部たちも、思わず姿勢を正し、伸一の深い祈りに、いつか呼吸を合わせていた。もはや寒さも感じなかった。唱題に移るころには、純一な、強い、深い祈りが、ありありと見られたのである。
 勤行を終えた伸一は、瞬間、じっと御本尊から目を離さなかった。そして、次の瞬間、一同の方に向き直ると、感に堪えない烈々とした語調で言った。
 「この御本尊様は、すごい御本尊様です」
 彼は、また目を御本尊に移しながら、一語一語、区切りながら続けた。
 「大法興隆所願成就――まさしく関西に大法が興隆して、一切の願いが成就すると認められている。すごい御本尊様です。これで、今度の関西の戦いは勝った!」
 居並ぶ幹部は、彼の気迫にのまれて、御本尊に、今さらのように目を注いだ。確かに、向かって右に、「大法興隆所願成就」とある。そして左には、「授与之創価学会関西本部安置 願主戸田城聖」とある。
 この時、大阪支部長の春木征一郎は、ふと、東京・信濃町の学会本部の御本尊を思い浮かべた。
 ″向かって右に「大法弘通慈折広宣流布大願成就」、左に「創価学会常住」とお認めである。学会本部常住の御本尊は、未来にわたる広宣流布の大願成就が示されている。関西本部安置の御本尊は、関西における日蓮大聖人の仏法の興隆と、あらゆる願いの成就が示されている。関西の会員にとっては、まことにありがたい御本尊だ。さぁ、御本尊への純一無垢の祈りだ、祈りだ!″
 春木は、そう気づいたものの、それが直ちに、このたびの関西の戦いの勝利につながるとは思えなかった。
 彼は、大阪支部長として、大阪の実情を誰よりもよく知っている。
 ″このまま躍進したとしても、東京に伍する広宣流布の基盤をつくることは、とうてい無理であろう″
 「これで、今度の関西の戦いは勝った!」という、山本伸一の言葉を耳にした時、春木征一郎をはじめとする関西の首脳幹部たちは、電撃に打たれた思いであった。皆、ごくりと唾をのみ込んで、伸一の顔に視線を集中した。
 「皆さんは、安心して戦ってください。戸田会長に代わって、このたびの戦いの指揮は、私が執らせてもらいます!」
 言葉は穏やかであったが、彼の決然たる決意のほどは、彼の顔の表情に、まぶしいまでに表れていた。
 山本伸一が来阪して、勤行の直後、「勝った!」と宣言したことは、この瞬間の、単なる思いつきの決意などでは断じてなかった。この一言が、彼の口から、今日、発せられるまでには、前年の秋以来、それこそ彼の胸のなかで人知れず、一念に億劫の辛労を既に尽くしつつあったのである。
3  この一九五六年(昭和三十一年)の七月には、第四回参議院議員選挙が予定されていた。創価学会のなかで、この選挙が検討課題となったのは、前年四月三十日の統一地方選挙が、大勝利で終わった直後であった。以来、幾たびか戸田城聖のもとで、学会として、どう臨むかについて、検討が重ねられてきたが、なかなか最後の決定をみなかった。
 全国区三人、地方区二人を候補者として推薦し、支援することが内定したのは、十月初旬であった。
 このなかで、大阪地方区の支援活動の責任者には、山本伸一が、戸田から指名された。候補者は、春木征一郎との内定である。
 春木は、関西の地で、プロ野球の名選手の一人として活躍しつつ、創価学会の活動を始め、やがて信心に全力投球し、関西の広宣流布の基盤を築いた。
 その春木が、候補者に内定したことは、妥当な人選といえたが、支援する学会の組織は、いまだ脆弱であった。まだ学会世帯が、約三万では、選挙の勝利は、とうてい望めそうにはなかった。当選ラインは、二十万票以上といわれていた。無謀というほかない。
 全国区の三人には、それぞれ十万前後の世帯数を割り当てることができる。東京の地方区も、九万を超える東京都在住の学会世帯がある。しかも信心経歴の長い、歴戦の幹部がそろっている。大阪地方区だけが、戦わずして、既に、はなはだしい劣勢に置かれていた。三万ほどの世帯は、いずれも入会の日なお浅く、幹部の育成も、やっと始まったばかりのところだった。
 戸田城聖の目には、当時の大阪の厳しい実態が、はっきりと映っていた。それを知りつつ、なおあえて断行し、その大阪の支援活動を山本伸一に託したのである。
 もしも、山本伸一の存在が、戸田の胸のなかで、年月とともに大きくなっていなかったとしたら、彼は、この指名を口にすることさえなかったであろう。
 彼はこの支援活動の指揮を、どうしても山本伸一に執らせたかった。掌中の珠である伸一に、あえて未来への開拓の苦難の道を進ませ、その健気なる勇姿と、地涌の底力とを、彼の没後のために確かめておきたかったのである。戸田は、広宣流布の高遠な未来の一切を、山本伸一という二十八歳の青年にかけていた。
 山本伸一は、ここ十年近い歳月、戸田の内意に応えなかったことは、ただの一度もなかった。戸田と共に、一九五〇年(昭和二十五年)から五一年(同二十六年)の、苦闘と苦難の極点に達したさなかにあっても、伸一は、身をもって応えた。彼は、これまで、無理難題と思える数々の要望のすべてに、多くの障害を排除する先兵となって、血路を開いてきた。
 関西での戦いに対する、戸田の期待にも、伸一は、ためらうことなく即座に応じた。
 しかし、遠大な目標と現実との間には、あまりにも懸隔がありすぎることに、気づかざるを得なかった。
4  伸一は、まず苦悩に沈んだのである。口には出さなかったが、いかに戦うべきかという難問が、昼となく、夜となく、彼を苛み続けた。
 彼が、苦しい思索のうちに悲鳴をあげようとした時、数々の御書の一節一節が、雲の湧くように、彼の脳裏に浮かんできた。そして、それらの御書の一節一節は、戦いの要諦は、必ずしも数にあるのではなく、少数でも、固い団結があり、そこに強盛な信力があれば、不可能をも可能にすることを、明確にして鋭く教えていた。
 日蓮大聖人の仏法が真実であるならば、末法今時の一信徒の彼にも、それが証明できないはずがない。「なにの兵法よりも法華経の兵法をもちひ給うべし」とあるではないか。
 今、彼が頼るべきものは、御本尊と御書しかないことを、心から納得した。
 伸一は、戸田の願いは、関西に盤石な常勝の組織をつくり、広宣流布の一大拠点とすることにあると、強く感じていた。彼は、その師の構想を実現する戦いの第一歩を踏み出すにあたって、「勝利」から逆算した。
 目的を成就するためには、なんといっても、信心を根本にした歓喜あふれる折伏・弘教によって、広宣流布への勝利の上げ潮をつくっていかなければならない。
 この歓喜ある実践のためには、御本尊に祈る信力を奮い立たせなければならない。それには、入会して日の浅い関西の学会員の間に、まず、日蓮大聖人の仏法が、いかに偉大であり、まことであるかという大確信を、みなぎらせねばならない。文証により、理証により、現証により、信心の歓喜の渦を起こさなければならない。
 彼は、幸にして、このところ、教学部員候補の担当講師であった。
 ″そうだ! まず教学を通して、関西の愛すべき同志を励ましていこう″
 彼の脳裏に、懐かしい関西の、発心した友の顔が、幾重にも浮かんできた。
 その秋からの、彼の講義の言々句々に、強い熱情が込められたことは言うまでもない。
5  山本伸一が、このような大筋の基本方針を、一念のなかで苛烈に練っていた、十月十四日の雨の夜、彼の自宅に、春木征一郎がひょっこり訪ねてきた。
 春木は、自分が候補者に内定したことを知って、慌てていた。往年の名投手も、今日は、意気消沈しているように、伸一には映った。
 「えらいこっちゃ。ほんまに、どないしたらええやろう」
 関西弁で、彼は言った
 「いや、互いにこの世の使命を自覚して、思いきり頑張ろうよ」
 伸一は、彼を励ますように言った。ニコリともしない春木を見て、伸一は、さらに彼を見つめて言った。
 「どんな戦いでも、戦ってみなければわからないものだよ」
 「…………」
 「大関西の広宣流布の基盤建設は、ぼくにとっての初陣だ。また征ちゃんは、七月の選挙に打って出る。これは征ちゃんにとっての初陣だ。共に運命の戦いだよ。生やさしいこことは思えないが、先生が、『やれ』とおっしゃった。それだけで十分じゃないか」
 「十分すぎて、ぼくには、どないしたらええものか、わからへん」
 春木は、やっと顔を上げて、伸一に、かすかに笑いかけた。
 伸一の顔にも、笑いが浮かんだ。
 「さすがの剛球投手も、選挙になると、案外、気が小さいね。度胸をすえて、互いに思いきりやろうじゃないか」
 「その度胸が、今度ばっかりは、出て来まへんなあ。マウンドの上だったらなぁ。どうも、それとこれとは、話がえらい違いまっせ」
 「だから、初陣だと言ってるじゃないか。『臆病にては叶うべからず候』だよ。征ちゃん、腹を決めなさい。あとは一切を御本尊にお任せして、祈りきって前進してみようよ」
 「ほんまに、そうやな。わしは、生来、臆病な人間かも知れへんな」
 真面目くさって言う、春木の、ぼやきを聞いて、伸一は笑った。
 「臆病者の初陣か。どこかの漫画みたいだね」
 春木も頭をかきかき笑いだした。
 二人は、それから勤行に移った。祈りは直ちに始まったのである。
6  深夜、春木征一郎を送り出してから、伸一は御書を開いた。そして、いつまでも考え込んでいた。
 ″春木が躊躇するのは、わかりすぎるほど、わかる……″
 二十万票以上といわれる当選ラインに比して、大阪地方区の会員世帯は、三万に満たない。大阪地方区は、誰が見ても、はなはだしい劣勢にあった。
 春木の落選は、火を見るより明らかな計算となる。しかし、伸一の胸中には、断じてそうさせてはならぬ決意が、火のごとく燃えつつあった。
 伸一は、関西に広宣流布の一大拠点を築くことも、また、春木が立候補する大阪地方区の参議院議員選挙の支援も、絶対に負けるわけにはいかなかった。その理由は、明白であった。
 ″第一に、先生の構想の一つを破綻させることになる。第二に、自身の広宣流布の本格的な初陣に敗れることになる。それは、使命ある生涯の挫折に通じてしまう……。いかにしても勝たねばならない。もし、これを勝利の栄冠で飾るならば、この初陣の一戦を本源として、未来のこうした戦いが勝利に通ずる道を開くことができる。所詮、勝利する以外に道はない。
 当時は、わからなかったが、今にして思えば、この一戦こそ、実は、彼の力量の実証であり、彼の生涯を決定する一戦であった。
 彼は、どんな辛労を重ねても、どれほどの苦難に遭遇しても、耐え忍び、目的を完遂しようと、固く一念に決めた。
 彼は、たった一人であったが、既に立ち上がったのである。
7  それから十一日過ぎた十月二十五日の夜、水滸会の会合の折であった。
 戸田城聖は、青年たちの前で、翌年に行われる参議院議員選挙で創価学会が推薦したい候補者として、五人の名を初めて発表した。
 ――原山幸一統監部長、清原かつ指導部長、関久男青年部長、春木征一郎大阪支部長、それに文化部顧問の十条俊三であった。
 この五人のなかで、十条が、かつて貴族院議員であったほかは、政治の分野には、全くの未経験者であった。
 青年たちは、いきなり五人の名を聞いて、″おやっ″と思った。いずれも、彼らが普段から親しくしている身近な先輩たちである。
 戸田は、これまで幾たびとなく、水滸会で広宣流布の壮大な未来を語ってきた。そのなかには、一分野として政治活動も含まれることを示唆し、国の未来を担う新しい政治家が必要であることを訴えてきた。青年たちは、その時期が、かくも目前に迫っていたとは考えもしなかった。
 先のような地方選挙を、日本の各地で幾たびも繰り返し、市議会、都議会、県議会の議員を、まず輩出して、その経験と訓練を重ね、やがて国会議員が送り出される順序になるものと思い込んでいた。
 それが、いきなり五人もの国会議員候補である。青年たちは、戸田の構想実現は、意外な速さで進んでいることに気づかねばならなかった。
 ″もはや、ぼやぼやしていることは許されない。戸田先生が、ひとたび口に出されたことは、すぐ現実となって、過たず現出するのだ。そのような時機になってきたのであろう。あの身近な先輩たちが、来年は国会議員のバッジを胸に着ける。そして、今後、二陣、三陣と続くとするならば、われら青年のなかから続かなければならない″
 戸田の、年久しい、厳しくも温かい訓育の意義が、この夜ほど鮮明に、彼らの胸に浮かび上がったことはなかった。彼らは、思わず震えた。戸田の言説が、単なる観念や予言でなく、いかに現実性をもったものかが、今さらのように身に染みた。
 「私はただ、諸君たちが立派に育って巣立つのを、一日千秋の思いで、じっと待っているんです。
 われわれは、宗教屋ではない。みんな、それぞれの、この世の使命の分野に、大きく、思う存分、羽ばたくことになっている。一人残らずだ。さもなければ広宣流布とはいえない。今は、そのための仏道修行であり、人間革命の時なんです。
 自分の名聞名利や、野心のために活動をすることは、断じて相ならぬ。信心は、どこまでも純粋でなければ、厳しい魔と戦う強靭な生命は育ちません。
 ここのところが、最も重要かつ大事な要なんだが、みんな、これだけは永久に忘れないでくれたまえ」
 戸田は、一同を見渡して、しばらくしてから、独り言のように言った。
 「まあ、今はわからなくてもいい。やがて諸君の進む軌道だけは、私が、今のうちにきちんと切り拓いておくから、安心して私について来なさい」
8  山本伸一は、十月、十一月、十二月と、慌ただしいなかにあって、次々に、諸行事に全力を注いでいた。しかし、彼は、胸中では、一瞬たりとも、来るべき戦いを忘れることができなかった。忘れていられないということは、深く悩み通していることである。誰も気づく人はなかったが、戸田には、わかつてしまっていた。
 歳末のある日、戸田は、伸一をいたわるように、前後になんの話の脈絡もないのに、いきなり、ぽつんと言った。
 「伸ちゃん、人生は悩まねばならぬ。悩んで初めて信心もわかるんだよ。それで偉大な人になるんだ」
 「はい……」
 伸一は短く答えた。
 師が、現在の彼の苦悩を、すべてをわかっていてくれることを知って、伸一は、心からありがたく思った。そして、この師のために存在する、現在の自分であることを覚って、心安らかであった。
 しかし、彼は、一念の辛労に疲れ果てていたのだろう。大晦日から元旦にかけて、しばしば吐き気さえ催していた。
 例年のごとく、本部の元旦勤行を終えると、戸田の一行に加わって総本山に向かった。
 快晴の空に富士を仰いだ一月二日、山本伸一が、関西での戦いについて、御本尊に深い祈りを捧げたことは、言うまでもない。唱題のうちに、沈んでいた彼の心は、いつか弾んでくる思いがした。いつしか、一つの思念が、忽然と浮かんできた。それは、まるで、彼の心の底で、こと数カ月の間、人知れず問いかけ続けてきたことに対する、明快な答えであったのだろう。
 いきなり、「法華経とは将軍学なり」と浮かんだのである。
 ″ああそうか、そうだつたのか! 御本尊と信心、これに一切が、かかっている。どのような時代に、どのような事態に遭遇しようと、妙法の指導者たる人の資格は、法華経の兵法を将軍学とするか、しないかにあるのだ″
 瞬間、思いが目まぐるしく回転した。そして、唱題は終わった。
9  初登山は、五日まで続くことになっていたが、山本伸一は、その日の午後三時過ぎに下山の途に就いた。冬の厳しい寒さに閉口したが、心は温かく燃えていた。
 家には、午後七時半どろ到着した。狭いながらも楽しいわが家に、彼の心は安らいだが、体力の保持のためにも、住居をはじめとする生活の設計を、なんとかしなければと思うのだった。
 三日の朝は、起きられなかった。微熱が出ていたのである。会社は休みなので、正午までそのまま静かにしていた。
 何人かの友人が遊びに来たが、彼は、気が乗らず、雑談をしばらくして帰ってもらった。すまない思いをしたが、気にかかるのは、ただただ、大阪のことであった。
 思索は、またも苦しくなった。この時、かつて心に留めていた一つの言葉が、思い出すともなく蘇った。
 「大胆なれ、さらに大胆なれ、常に大胆なれ」
 大事に臨んでの、先人の箴言である。
 この決意と実践は、また、妙法の究極とするところではないか、と彼はふと思った。
 夕刻近く、体は楽になった。文京支部の愛すべき幹部たちが、彼を待っているであろう今夕の新年会が思い描かれた。彼は、楽しい気分になって家を出た。文京支部長の田岡宅には、元気な人びとの顔が明るく歓喜していたが、彼には、はなはだのんきに思えてうらやましかった。疲労は、まだ抜けていない。明朝の大阪行きのことを思って、タクシーを自宅へ飛ばした。
 山本伸一は、このような正月の三が日を送ってから、一月四日、大阪に向かったのである。
10  伸一の、この年の正月は、例年のような、いわゆる抱負と希望にみなぎる正月ではなかったといってよい。彼は、既に刻々と迫りつつある大闘争を目前にして、いやでも緊迫した身構えにならざるを得なかった。
 夕刻、大阪に到着した伸一は、関西本部で首脳幹部と勤行したあと、直ちに第七期教学部員候補の講義に臨んだ。
 一階の大広聞には、多くの候補生たちが詰めかけ、十一日後に行われる任用試験を前にして、難解な「当体義抄」の最後の講義を理解しようと、心を研ぎ澄ましていた。伸一は、末尾の「問う末法今時誰れ人か当体蓮華を証得せるや」以下を、行を追って縦横に講義を進めた。
 ――日蓮大聖人の一門のわれわれだけが、当体蓮華を証得し、成仏できるのだという結論と、その幸せの境涯をしみじみと語り、それには大聖人の金言を信じて南無妙法蓮華経と唱える実践に、すべてが、かかっていることを述べて講義を終えた。
 質問に入ると、さっそく、幾つもの手が活発にあがった。
 「この『当体義抄』は、大変に難しい御書でおますな。五一〇ページの終わりの方の、天台大師の止観に云く『無明癡惑・本是れ法性なり癡迷を以ての故に法性変じて無明と作る』というのは、いったい、なんのことでっしゃろう、ようわかりまへんが」
 伸一は、頷きながら、にっとり笑って言った。
 「『当体義抄』などを拝読しますと、私たちは、なんと頭が悪くできているかが、よくわかります。
 さっき講義したところに、大聖人様の仏法が、なかなかわからないのは、誤った教えを信じたり、正法を誹謗したりしたから、当体蓮華がなかなか証得できない、というところがありましたね。こうして、お互いに頭が悪く生まれてきた原因もまた、根本は過去世の謗法にあるんです。
 だからといって、正法を信奉したら、途端に頭がよくなるわけでもありません。真剣に行学の二道を励んでいくうちに、いつか御書を読んでも、ぴんとわかるようになるんです。今、われわれは、その途中で、まごまごしているところです。心配いりません。行学に励んでいくなら、必ず御書も、すっきりとわかる頭になる時が来ますから。
 今、説明を聞いて、すぐわかった気持ちになったとしても、まだ無明癡惑が残っているので、本当にわかることは、できないかもしれませんが……。
 まぁ、未熟な私に、わかっているところを説明いたします。
 あなたは、『無明癡惑・本是れ法性なり』、これにつまずいているんでしょう。お互いに愚かで、いつも迷っているといっても、本当を言えば、これも法性と言っておられる。このところがおかしい、と考えているんでしょう」
 「そやそや、その通りですわ」
 質問者の正直な答えに、候補生たちは、どっと笑いだした。伸一は、爆笑の収まるのを待っていた。
 「今の文は、天台の『摩訶止観』にある一節ですが、この文のすぐ後の箇所に、『起は是れ法性の起、滅は是れ法性の滅』という有名な文があります。
 法性とは、『法の本性』ということで、あらゆる現象が起きるのも、滅するのも、すべてが妙法の働きであることを説いたものです。
 私たちに当てはめれば、法性とは一念の生命であるといえます。一念の変化によって、私たちは、迷いの境涯に陥ったり、悟りの境涯に立ったりするんです。
 それから無明癡惑というのは、わかりやすく言えば迷いということで、九界の生命です。その九界の生命も、『本是れ法性なり』と説かれている。九界の生命も、煎じ詰めれば、妙法であり、やはり一念から出たものだということです」
 伸一の説明は、さらに続いた。
 教学部員候補生たちの胸のなかには、なんともいえぬ温かさと、感嘆の思いが込み上げていた。
 「では、わが生命、つまり法性が、どうして無明癡惑になるかというと、悪縁に迷わされるからです。
 生命というのは、縁によって変化します。生命は十界を具えていますから、謗法などの悪縁に触れれば、地獄・餓鬼・畜生といった三悪道に陥ってしまいます。逆に善縁、つまり御本尊に縁していけば、仏界を現じて幸福になっていくんです。
 この両方の生命の働きを、染浄の二法といいます。
 染法というのは、生命が悪縁に染まっていくということであり、浄法というのは、善縁に触れて、生命が浄化されていく働きのことです。
 凡夫の生命は、弱さ、愚かさをもっています。その弱さ、愚かさが癡迷です。癡迷に覆われた生命であるがゆえに、悪縁に触れると、染浄の二法のうち染法が働いて、法性はどうしても無明になってしまうんです。
 大聖人は、その理がおわかりになっていたので、御本尊を末法のわれわれに遣されたんです。この御本尊を拝むことによって、染法が働きやすい生命を、浄法が確実に働く生命へと、変えることができると教えてくださっています。
 御本尊は極善の縁です。この御本尊を拝むことで、絶対の幸福境涯を築いていくことができるんです。
 だから、信心は人生にとって、どうしても必要なんです。信心に励めば、浄法が働いて、頭もよくなり、することなすことが順調になり、幸福の軌道に自然と乗ることになるんです。
 簡単ですが、このぐらいでいいでしょうか。あとは自分でよく思索して、自分のものとしてください」
 このあとも、質問は次々と続いた。
 教学部員候補生たちは、山本伸一を離さなかったが、三階の仏間では、男女青年部の班長指導会が、彼を待っていた。それで質問を打ち切ることにした。伸一は、候補生たちの落胆した顔を見ると、任用試験の前日、つまり十四日の夜、再び質問会をもつことを約束しなければならなかった。
11  青年部の男女の班長といっても、入会一年に満たない青年たちが大部分である。
 彼は、一人ひとりに光を当てるように、彼らの信心を妨げている、境涯のさまざまな事柄について指導を始めた。そのなかには、彼らに共通する問題も多かったが、極めて個別的な、特殊な難問もあった。
 伸一は、彼らの身になって考えながら、一人ひとりを残らず蘇生させずにはおかないといった気迫で、全力を振り絞って、入魂の指導を続けた。
 このような指導は、後に深い疲労を残すものである。真剣勝負の指導といってよかった。真剣のなかにのみ、真実の芽生えがあることを、彼は熟知していた。
 伸一は、その後、崩れるように横になった。
 彼が、関西の会員の一人ひとりに、懇切な指導を志したのは、それが一切の戦いの要諦であったからである。至難な目的の達成のためには、まず、一人ひとりの歓喜にあふれた、主体的な活動が不可欠の条件となる。この条件を満たすためには、関西の全会員が、信心で総立ちにならなければ、いかんとも達成されようがない。総立ちになるためには、一人ひとりの信心の向上に、まず、全力を注がねばならない。
 伸一は、時間の許す限り、体の続く限り、一人でも多くの会員に会って、彼らの苦労を聞き、彼らを知り、彼らの勇気ある信心のために、力を尽くそうと心に決めていた。彼は、率先して範を示した。そして、歓喜ある活動の敢行のために、体当たりしたのである。
 翌一月五日は、個人指導に終始した。関西本部を訪れてきた会員が誰であろうと、幹部や一般会員の区別なく、このたびの戦いに、一人の落後者もないことを願いながら、全精魂を込めて激励し、心血を注いでいった。
 この日の、この作業は、午前十時から午後六時まで、すさまじいばかりの気迫のうちに続けられたのである。牧口会長以来の指導の伝統は、あくまでも一対一の対話ともいうべき、精神開拓の個人指導にあった。この日の、伸一の指導の場合も、問題は多岐にわたった。
 現代医学でも解決できない病苦、あるいは努力だけでは解決できない経済苦、また、道徳では解決できない夫婦や親子の問題彼らの苦悩は、それぞれ、かなり深刻であった。
 それらが、一介の青年・山本伸一のもとへ運ばれてきた。彼らは、それらの悩みが解決すると言われて入会したものの、そう簡単にいかないこともあった。無理もないことだが、いたずらに解決を焦り、果ては、この仏法に不信の念をいだき始めている人も多かった。
 伸一は、これらを一身に受けた。彼は、いずれの悩みも、根本に宿命的な問題がはらんでいることを、まず自覚させた。そして、三世にわたる仏法の生命観に照らして、その根本的な解決こそ不可欠であり、そこに日蓮大聖人の仏法の存在する理由があることを、確信をもって訴えた。また、その証明として、さまざまな体験を語って聞かせたりもした。
 彼ら一人ひとりの信力を奮い立たせることに、眼目を置いたのである。人びとの表情は、見る見る変わり、安堵による、ほのぼのとした喜びを胸に抱き締めていく姿が多かった。彼らは、わがことのように、かくまで相談に乗ってくれる山本伸一という青年幹部の存在に、目を見張りながら帰っていった。
12  小休止のうちに食事をすますと、彼には、地区部長会の予定が迫っていた。関西一円の最高幹部の会合である。彼は、昼間の面接指導で疲れきって横になっていたが、定刻になると、わが身に鞭打って、むっくり起き上がり、三階の仏間に入った。
 「こんばんは」
 伸一は、わざわざ関西訛で親しげに呼びかけた。
 一斉に、関西独特のアクセントで応答があった。
 「皆さん、しばらくです。お元気ですね」
 「はい」
 異口同音の返事は、既に指導を求める心の準備が整っていることを示していた。
 さすがに幹部会である。うつむいている人は一人もいなかった。山本伸一に集中したすべての視線は、開始されるべき戦いの焦点を求めているように思えた。
 伸一は、″よしっ″と心のなかで叫び、渾身の力を湧き立たせた。
 「私は、昨日から、ここに御安置の御本尊様に御祈念申し上げております。すごい御本尊様です。関西に大法が興隆し、まさに所願が成就するということをお示しになっております。
 どんな願いも叶うとおっしゃる以上、あとは、われわれにどれだけの祈りがあるか、どれだけの行動がなされるかということに、結論されるわけであります。ただ、それだけです。それさえあれば、いいんです。
 この御本尊を頂いた親愛なる関西の皆さん、ここでひとつ、お互いに大いに願いを立てようではありませんか!」
 激しい拍手とともに、「おおっ」という、唸りにも似た声があがった。
 伸一からほとばしり出る気迫は、彼らの胸を強く打った。
13  伸一は、その願いとは、この関西に、模範となる広宣流布の城を築き上げることであると語った。
 そして、さらには、立正安国のために、七月に予定されている大阪地方区の参議院議員選挙にも、勝利することを、強く訴えたのである。
 伸一は、「最高幹部の皆さんでありますから申し上げますが」と前置きし、現在の関西の組織を、東京に負けぬ強靭なものにすることが、いかに大変な労作業であるかを述べた。
 また、選挙で勝利を収めることも、至難このうえないことを、つぶさに語っていった。真実を語ることが、人びとの決意の、真実のバネになることを知っていたのである。
 ともあれ、容易ならぬ現況を示した時に、幹部一同は、見る見る失望の色を浮かべた。
 ″これでは戦いにならない。勝利の大願は、とても実現不可能だ″と、彼らは直覚した。
 この瞬間に、伸一の熾烈な戦いが開始されたのである。
 「誰人も、これでは全く勝利は不可能と思うでしよう。今、皆さんもそう考えておられる。
 しかし、私どもは、立派な御本尊を頂いている。世間の人びとの常識では、とうてい不可能と思い込んでいることを可能にする力が、御本尊にはあるんです。
 ただあきらめて、不可能と思っている人は、妙法の力を知らない人たちです。すべてを可能にする人は、その妙法の力を引き出すことのできる人です。
 日蓮大聖人様は、このことを、ちゃんと御書にお認めになっている。
 『呵責謗法滅罪抄』の末尾に、次のような御文があります。
 『何なる世の乱れにも各各をば法華経・十羅刹・助け給へと湿れる木より火を出し乾ける土より水を儲けんが如く強盛に申すなり
 これは、佐渡においでになった大聖人様から、四条金吾に宛てられた御手紙の一節であります。
 当時、鎌倉で弾圧に遭っていた弟子たちの身の上を思い、佐渡流罪の最中、″諸天善神たちよ。なんとしてもわが弟子たちを守れ″と、遠く御祈念なさっている、深い偉大な慈悲の御心がうかがえます。
 ひどい乱世で、佐渡におられる大聖人は、弟子たちを、どうしようにも守ることはできない。とても不可能なことです。
 しかし、大聖人様の御祈念は″しっぽりと濡れた木をこすってでも、なお火を出させてみせる。また、カラカラに乾いている砂漠のような大地から、水をほとばしり出させてみせる。このように私は、強盛に祈っているのだ″と、お認めになっている。
 御本尊に対する祈りというものは、一大事の時には、このようなものでなければならぬとお示しになっているのです。
 今、私たちの置かれた立場や、合理的な考えに慣れてしまった頭脳では、不可能と思うでしょう。しかし、無量の力を御本尊は秘めていることを、日蓮大聖人は、明確に教えていらっしゃる。これを信じるか信じないかは、私たちの問題です。大聖人の正統派の弟子として戦う以上、まず、強盛な祈りによって、不可能を可能とする実践が勇んで出てこなければなりません」
14  彼は、それから、宇宙に遍満する大法、妙法の根本義を、「木中の花、石中の火」という比喩を通して語り始めた。
 「たとえば、今、冬の桜の木をいくら見ても、切っても、花が潜んでいるとは、とても思えません。しかし、春が巡り来れば、あのような爛漫たる花を咲かせる。
 また、石ころを、いくらしげしげと見たり、砕いたりしても、火が潜んでいるとは思えないが、火打ち石を打てば、火が出るではありませんか。妙法の力用もこれと同じことです」
 伸一の言葉に力が入ってきた。
 「また、私どもの人生について考えてみてもわかることです。今世では、どうしても幸福になれないと思い込んでいた人が、この信仰に徹して励んでいるうちに、いつの間にか、なに不自由ない幸福な境涯になっている驚くべき事実を、私たちは、あちらこちらに見ています。強盛な祈りと、その実践によって、私たちは不可能を可能にする生活を実現しているではありませんか。これを妙法といい、信心というんです。このことを知ってください。
 ですから、このたびの戦いでも、関西の会員一人ひとりの、強盛な祈りある信心から始めなければなりません。全員の祈りがそろって、御本尊に向かった時、不可能を可能にする道が、豁然と開けるのは当然です。
 このすごい御本尊を頂きながら、その御本尊の力がわからないで、もし、戦いに敗れたとしたら、私は、関西の皆さん方が、かわいそうでなりません。
 私は、御本尊様に、しっかり、お願いしました。どうあれ、勝たせてくださいと、心から祈りました」
 山本伸一の切々とした話は、ことまできた時、並みいる人びとの胸に惻々と迫った。
 部屋には、寂として声はなく、彼らの胸の底で、何かが崩れ、新しい何かが急速に芽生えつつあった。新しい何かとそ、関西一円の最高幹部の一念を刻々と変えつつあったのである。
 いうなれば、山本伸一という青年の百万馬力のモーターが、うなりを生じて回転を始め、それに歯車をかませていったのである。それによって、伸一という動力は、そのまま幹部一人ひとりの回転を促し、いやでも同じ速度と力で回転し始めていくことになる。それをまた、別の小さい歯車がかみ、動力は、そのまま弱められることなく先端まで行き渡り、全体が一つの生き物のような、豪快な回転をするにいたるのである。
 山本伸一の、億劫の辛労を尽くした祈りある一念は、この夜、関西の幹部の一念を一変させるに十分であった。
 「どうか皆さん、皆さんを信頼している会員の一人ひとりを大切にしてください。末法において、仮にも御本尊を受持し、唱題する人びとは、誰であれ日蓮大聖人の尊い子どもです。絶対に粗末にしてはなりません。
 どうか、会員の一人ひとりに、直接、会って、よく話を聞いてあげ、今の悩み深い境涯から、信心によって必ず脱出できることを、真心込めて懇切に話してあげてください。
 ともかく、自分も信心に奮い立ち、人にも信心を奮い立たせることが、一切の肝要であることを教えてください。
 私は、今日の昼間、何十人という人にお目にかかり、私として精いっぱいの指導をしました。今、関西の会員は指導を求めているといってよいでしょう。
 戦う基盤といっても、学会といっても、広宣流布といっても、一人ひとりの会員が、すべての原点です。今、皆さん方は、乾いた土が水を吸うように、真剣に聞いてくれました。皆さんもまず、私と同じことを、広い関西の広野でやってください。これがなければ、一切の勝利はあり得ません。
 決して焦ることはない。来る七月の戦いのことなど話す必要は、いささかもありません。皆さんは、関西の指導者として、一人の会員も漏らさず、懇切に指導することを、今は、お願いしておきます」
15  伸一の話は、なおも続いた。
 「それから、もう一言申し上げます。近く教学部の任用試験がありますが、候補生の人たちが、勉強して、全員、合格するように心を配ってください。その心の配り方が、立派な信心指導であるからであります。
 それから先のことは、すべて私の胸のなかにあります。不可能を可能にするといっても、奇想天外な手段があるというのでは、さらさらありません。
 着々とした過つことのない実践の積み重ねが大切なのです。
 ともかく、油断のない持続の実践が大切です。祈りを込めて、この実践を、ただただ貫き通していくことです。
 私は、皆さんを心から尊敬し、信頼しております。生意気に響くかもしれませんが、私は、関西の人たちが大好きですし、かわいい。
 それが、もしも、このたびの戦いが成就できなかったら、関西の純真な皆さんの悲嘆はいかばかりか。それを考えると、私の胸は張り裂けるような思いに駆られます。
 しかし、必ず勝ってみせる! この決意は、絶対に変わりません。ただただ、皆さん方のために勝ちます!
 どうか、これから先、無理と思われる注文を出すかもしれませんが、それは、皆さんも、私も、ともどもに悲しい思いをしないためです」
 縦横自在に、諄々と語る山本伸一の指導に、最高幹部たちは、心から頷いて納得していた。
 彼らは、このような厳しくも温かい本格的な指導を、心から求めていた自分たちであったことに気づいた。しかし、この時、既に百万馬力のモーターに、自分たちの歯車ギ アが、思わず知らず、かみ合わせられつつあることには、まだ気づかなかった。彼らの回転が始まっていなかったからである。
 山本伸一は、額の汗をぬぐった。室内は、冬の夜気がこもっていて寒かったが、彼らも、皆、汗をかいていた。
 聴いている幹部たちの目は、伸一を求めて動かない。伸一は、手応えを感じて嬉しかった。彼は、チラリと腕時計を見て、まだ時間があることを確かめた。
16  「まず、戦いは、全関西の強盛な祈りから始まるわけであります。これが第一の要諦です。ただ、唱題して、祈りに祈っていけばよいかというと、それだけでは、どうにもなりません。
 第二の要諦は、最高の作戦、最高の行動です。これがなければ、勝機をつかむことは、絶対にできない。
 第一の要諦だけでも駄目であり、第二の要諦だけでも駄目です。この二つの要諦が調和した時、不可能も可能となり、勝利を得ることができると確信いたします。
 この調和をさせるものは何かというと、それが信心なんです。ですから、信心が根本であると申し上げるのも、そのためです。わかりますか。
 七月には参議院議員選挙もありますが、最高の作戦、最高の行動というと、すぐ世間通例の選挙作戦なんかを思い浮かべて、まねをしたがる人がいる。
 しかし、とんでもない間違いです。
 日蓮大聖人は、四条金吾を戒められた御手紙に、『なにの兵法よりも法華経の兵法をもちひ給うべし』とお書きになっています。
 これは、いかなる活動においても、どんな作戦、行動よりも、法華経の兵法、つまり、信心から出た作戦、行動を用いる意外にないのだ。それが最高の作戦であり、最高の行動となるということです。右往左往する必要はさらにありません」
 伸一は、さらに言葉を続けた。
 「刻々と推移する情勢を、誰よりも敏感にとらえ、的確に行動する知恵は、信心から出るんです。
 将軍学の真髄は、法華経にあることを、私は、ついこの間わかりました。
 以上二つの要諦が調和して進む時、法華経に説かれている通り、『諸余怨敵・皆悉摧滅』となるんです。もろもろの怨敵は、皆、ことごとく崩壊し、滅びゆくとの意味であります。
 ともかく、無敵の作戦、行動にならなければなりません。
 また、参議院議員選挙の支援活動に際しては、法律に違反するような行動は、決しであってはなりません。そんなものは迷惑です。違法行為を、私は断固として許さないことを、すべての方々に伝えてください。公明正大にして堂々たる作戦と行動を、私たちは展開するんです。いいでしょうか」
 「はい、よくわかりました」
 人びとは、大きく頷きながら、一斉に答えた。それぞれの胸のなかでは、″よっしゃ! やりまっせ!″と力んでいたにちがいない。
17  伸一は、また腕時計をチラリと見た。まだ時間がある。
 彼は、固い空気をほぐすかのように、突然、「黒田節」を歌おうと提案した。そして一同が歌い始めると、彼は、歌に合わせて見事に舞いだした。ひとたび舞い終わると、彼は、人びとに促した。
 「さあ、元気よく踊ろうじゃありませんか。関西の初陣だ。さあ、誰か踊ってみませんか」
 嬉しく、なった一人の男性が踊りだした。
 だが、歌と踊りのテンポが合わず、仕草は、まことに滑稽を極め、見ていた人たちは、どっと爆笑した。
 伸一は、笑いながら、次の人を促した。
 今度の男性は、歌を無視して踊りばかりに気をつかったので、操り人形のようなギゴチない踊りになってしまった。その滑稽さに、再び爆笑が起こった。このあと一人、二人と立ったびに、人びとは、腹の皮をよじらせて笑った。
 伸一は、また時計をチラリと見ると、再び舞いだした。静と動の機微は、見事な調和を保ち、豊かな表情を現出した。
 「このたびの戦いは、このように舞を舞って戦うのです。楽しく前進しましょう。そして、勝利の暁には、また、『黒田節』を舞って祝おうではありませんか。どうでしょう、皆さん」
 最後まで関西の人びとと苦楽を共にしようとする、山本伸一という若武者の心を、一同は痛いまでに知るのだった。
 時間は、ギリギリのところまで来ていた。
 「それでは皆さん、私は、今夜、これから東京へ帰らなければなりません。、お目にかかれなかった関西の皆さん一人ひとりに、よろしく、お伝えください。そして、関西の一人ひとりの会員を、くれぐれも大事にして、親切に指導してあげてください。では、また近くお目にかかりましょう」
 彼は、深々と頭を下げ、熱情と慈愛の余情をいっぽい残しながら、別れを告げた。
 大阪駅のプラットホームに慌ただしく駆けつけると、午後十時発の夜行「月光」の発車のベルが、けたたましく鳴っていた。
18  彼は、車中の人となった。
 夜行列車は、どこかわびしいものである。車内の一隅で、伸一は、一月の四日、五日と送った関西での出来事を反芻しながら、まず端緒の行動を予定通りに終えたことに満足していた。
 彼の頭は熱かった。車内の人びとは、あるいは話し合い、あるいは読書し、また早くも寝ついている人もいる。伸一の隣の人は、少々酒気を帯び、心地よく眠りについていた。彼は、そのいびきが耳について眠れなかった。彼は、そっとカバンから郵便葉書を取り出すと、気になる幹部の顔を思い浮かべながら、激励のぺンを走らせた。
 列車の動揺にともなう間断のない物音は、一定のリズムを保ちながら、闇のなかに響き、彼を東京へと運んでいた。
 六日の午前十一時には、大東商工の全体会議がある。その折、戸田城聖に会うことができる。伸一は、ここ二、三日、見ることができなかった戸田の面影を、暗黒の車窓のガラスに映る自分の影と重ねながら追っていた。
19  山本伸一の、一九五六年(昭和三十一年)の関西での歴史的な戦いは、このようにして始まったのであったが、彼には、歴史的などという自覚は、全くなかった。また、一念に億劫の辛労を尽くしているとも思わなかった。彼は、一人で、誰よりも深く考え、誰よりも悩み、誰よりも勝利を決意し、それゆえに、夜となく、昼となく精進を専らにしていた。
 つまり、涌出品の「昼夜に常に精進す仏道を求めんが為めの故に」(法華経四六六ページ)の文のごとく、地涌の戦士としての実践を貫いていた。誰も知らないところでの、伸一の思索と実践が、来阪以前に、数カ月にわたって続いていたのである。
 涌出品のこの文を、日蓮大聖人は、「御義口伝」で次のように仰せである。
 「此の文は一念に億劫の辛労を尽せば本来無作の三身念念に起るなり所謂南無妙法蓮華経は精進行なり
 今、伸一は、一念のなかで、無意識のうちに億劫の辛労を尽くしつつあった。そして、辛労を尽くした信心のうえに、尊い仏智が、いつしか彼の頭脳に宿りつつあったといってよい。
 五六年(同三十一年)の、関西の未聞の戦いにおいて、以後、彼の打つ手、打つ手が、不思議にも過つことなく、不可能を可能として現出したのは、故なきことではない。一月四日、五日と序盤の滑りだしから、随縁真如の智は、きらめくばかりに輝き、あとは油断のない精進が、襲いかかる万難を、次から次へと排していった。
 戸田城聖は、山本伸一の力量が、大阪を舞台に、おそらく後世においても他の追随を許さないほど、未聞の華々しい展開をするであろうと、人知れず、ひそかに期待していた。その期待に応えての伸一の第一歩が、踏み出されたのである。
20  五五年(同三十年)の、関西二支部(大阪支部・堺支部)の折伏数は、全国でもまれに見る伸展を示している。この一年間に、大阪支部、堺支部ともに、三倍前後の伸び率であった。関西に、旭日が昇るごとく、大法の光は広がっていったのである。
 五五年十一月現在で、大阪支部は約四万五千六百世帯、堺支部は約八千五百世帯の陣容を擁していた。これらの数字は、近畿各県および、中国、四国の世帯数をも含むもので、両支部合わせて四十二地区、三百四十三班の組織をもち、当時の創価学会の地方拠点のなかで、最大規模の布陣であった。
 しかし、この膨大な組織も、大阪府内だけの世帯数となると、やっと三万世帯を超えたところである。
 大阪にあっても、会員の激増にともない、組織の拡大は次々と行われ、多くの班長や組長などが任命された。とはいえ、彼らは、入会して、わずか一、二年という人たちであった。その指導力と統率力にかけては、まことに憂慮すべき問題が山積していた。このまま激増を続けたとしたら、烏合の衆と化す危険も、十分にはらんでいたのである。
 この深刻な実態を、戸田城聖が見逃すはずはない。人材の窮乏は、人材の急速な育成を必要とした。土地柄、現実的で世法に流れやすい関西には、なんとしても、正統な信心を深く打ち込むよりほかはない。しかも、それを、短日月に行うには、戸田自らが、入会の日なお浅い多くの会員に接触して、信心の根本から育てることが急務であった。
 ″妙な癖が、錆のようについてからでは遅い。鉄は熱いうちに鍛えるに限る″
 そこで戸田は、前年の暮れ、関西本部の落成式の折に、″明年から月二回、関西の地を訪れ、東京と同じように、一級講義である「方便品・寿量品の講義」と、一般講義としての「御書講義」を実施する″と、関西の首脳部に発表した。
 戸田は、関西の未来のために、東京と同じ比重で力を注いだのである。
 そこには、同時に、関西での活動の指揮を託した山本伸一に対する、戸田としての深い思いやりも込められていたといってよい。戸田は、月のうちに六日間を割いて、大阪の地で親しく指導することになった。
 一月十六日、十七日が、この二つの講義のための、第一回の日と予定されていた。伸一は、一月十四日の土曜日、大阪へ向かった。
 同日夜の、教学部員候補のための総括質問会の約束があったからである。
 関西本部に到着した時、既に夜になっていた。
 さっそく行われた、翌十五日の任用試験を前にしての質問会は、活発で真剣であったが、それだけに、
 伸一には深い疲労をもたらした。質問は後を絶たず、一切が終了した時には、夜もかなり更けていた。
 彼が、勤行をして休もうとした時、左手が神経痛のように痛んだ。初めてのことである。厳しい寒さのためであろうか、それとも疲労のためであろうか、彼は、痛みをとらえて横になったが、なかなか寝つかれなかった。
 朝になると、″神経痛は体を温めるに限る″と言う人がいて、伸一は、朝風呂に入れてもらった。これで、痛みは、幾分、治まった。
 この日は、任用試験の第一次試験の日であった。
 午後一時過ぎに、大阪市内の会場で試験が開始された。
 関西一円から集った受験者は、四百二十三人の多きに達した。
 三時間の間、山本伸一は、真剣な受験者の態度を見て、信心における求道の精神が、関西にも深く根を下ろし始めたことを知り、いたく胸を打たれた。深遠な仏法に取り組む庶民の、神々しいまでの尊い姿に感動した。
 それと同時に、講師としての彼の講義の良否が、今、試されていることを思い、その責任を感じながら、一人でも多くの人が合格することを祈った。
 午後四時過ぎに試験が終了して、伸一が関西本部に戻ると、「書記会」という、各地区の統監部員の会合が開かれていることを知った。
 一人でも多くの会員に会い、激励しようと願っていた彼は、この機会をすぐにとらえて、会合の席に姿を現した。
 集った人びとの大部分は、山本伸一とは初対面であった。
 伸一は、統監部の仕事が、極めて地味で、煩雑で、神経をすり減らす割には、誰にもわかってもらえない仕事であることを、よく知っていた。彼は、「書記会」に集っている一人ひとりに呼びかけ、個別的な懇談を交えながら、統監部の仕事の重要さを訴えた。
 「このような縁の下の仕事こそ、まさに、陰徳を積む仕事です。誰に知られなくとも、広宣流布の中枢の仕事であることは、間違いありません。陰徳は、必ず陽報となって顕れます。そうでなければ、仏法ではありません。冥の照覧を確信して、体をいたわりながら頑張ってください」
 書記たちの顔は紅潮し、使命感に輝いた。
 ″年の若いのにもかかわらず、なんと苦労人で話せる人か″と、彼らは拍手を送っていた。
 引き続いて、幹部の打ち合わせがあった。関西の中枢幹部たちの会合である。
 伸一は、まず、彼ら一人ひとりが、年が明けてから、これまで、どのような行動で過ごしたかを聞くことから始めた。
 彼が提案しておいた、会員一人ひとりと懇談しつつ指導するという方針の実践が、どの程度、実行されたかを知りたかったのである。
 組織を生かすには、ひたすら誠実をもって、一人ひとりと語ること以外に達成は不可能である。
 彼は、やや満足すべき状態にあることを知った。そして、翌日の戸田城聖の講義を、関西の会員が、どう迎えるかに、すべてがかかっていると思った。
 彼は、そのまま、首脳幹部と万全の準備にかかった。
 たとえば、御書を所持する人が少ないと想定されると、直ちに教材を謄写版刷りにして、何千枚かを用意した。戸田を迎える最善の条件を整えようとの配慮から、こまごまとした準備を、夜遅くまでした。彼の、弟子としての師を迎える姿勢に、関西の幹部たちは、初めて眼を開かされたのである。
21  翌十六日、中之島の大阪市中央公会堂の前には、講義が行われるのは夜だというのに、朝八時から姿を見せた人びとがいた。岡山などから駆けつけ、三食の弁当を持参した人や、泊まりがけで来た人もいたのである。
 正午ごろには、既に二百人近い人びとが集って来た。
 家族総出で参加した人も多かった。京都からは、貸し切りバス数台で参加するといった勢いである。
 ともかく、定刻前に、公会堂の前は人で埋まり、入場を開始した。場内は、たちまち人で埋まった。さらに入場できない人びとが、場外にあふれた。急遽、場外にもスピーカーを設置した。なんと、集まった人びとは、七千人に達していた。
 寒い一月の夜である。彼らは、オーバーの襟を立て、マフラーを固く巻き、ながら、最後までたたずみ、熱心に講義に耳を澄ましていた。
 山本伸一は、午前中から会員が参集し始めたとの報告を受けると、戸田を心から迎える関西の人びとの心意気を知った。彼は、大阪支部長の春木征一郎を促し、戸田を、伊丹空港に出迎えた。
 伸一にとって、数日ぶりの対面である。このところ疲れぎみであった戸田が、元気でタラップを下りてくる姿を見て、嬉しかった。
 伸一の、昨日からの疲労も吹き飛んだ。
 午後六時、会場の中之島の公会堂は、人であふれていた。
 戸田の、「方便品」講義を前に、伸一が、あいさつに立った。
 彼は、戸田の講義こそが、現代の世界において、最高に納得できる仏法講義であるゆえんを説き、また、その講義は、大いなる功徳の源泉になることを語った。
 やがて、万雷の拍手に迎えられ、戸田が入場した。
 講義が始まった。
22  戸田は、咳払いをしながら、受講者を見渡して、親しく呼びかけた。
 「私が、こうして、大阪へ来て講義などをすることは、大阪の地から、病人と貧之人をなくしたいためであります。このほかに、私の願いはありません。
 それには、まず、皆さんが信心することですが、ただ信心せよ、と言っても、ああ、そうですか、なるほど、と納得できないのが、現代の人間であります。
 そこで、日蓮大聖人の仏法というものが、本当は、どんなにすごいものかをお話しすれば、皆さんも、かなり納得して、信心に励むことになると思うので、今夜は、その話から始めましょう。
 日蓮大聖人の仏法は、世界最高の宗教であり、それが現代に生きているんです。大聖人の仏法が、『宗教の五綱』という厳密な法理に照らして、いかに現代の宗教、思想、哲学のなかで優れたものであるかを、証明してみたいと思います」
 戸田城聖は、こう言って、度の強いメガネを光らせながら、満員の聴衆に温かい眼差しを投げていた。場内は、しわぶき一つない。熱心な聴衆の目という目は、戸田に焦点を合わせて燃えていた。
 戸田は、″今夜は話しやすいなぁ″と思いつつ、やや難解な「五綱」について、一つ一つ話を進めていった。
 「このように、教・機・時・国・教法流布の先後と、あらゆる観点から厳密に点検した時、日蓮大聖人様の仏法が、最高峰の宗教だということに帰結するのであります。
 それゆえにこそ、大聖人様が拝めと遣された御本尊を受持するならば、一年、二年、三年、五年、七年、十年、十五年とたつうちに、皆さんの人生において、考えることもできなかった幸福な境涯というものが現出して、今、戸田が申し上げることが、嘘でないことがわかるはずです。今夜から、将来のことを不安に思う必要はありません。疑いを起こして、信心を中途でやめたり、怠惰になったりしてはなりません。どうか油断なく、日々の勤行をし抜いていくことです」
23  彼の言葉は、自信に満ち満ちていた。
 「それでは、皆さんが、朝に晩に読請する法華経の『方便品』について、それが何を意味するか、お話を進めましょう」
 戸田が、大阪で、最初に「方便品」の講義を京屋旅館で行ったのは、三年前の一九五三年(昭和二十八年)二月一日であった。その夜、大阪支部旗が授与されたのだが、この記念すべき日に集った受講者は、二百人にも満たなかったろう。それが今、七千人の受講者が、中央公会堂の場内、場外で、全身を耳にして聴いている。この驚くべき光景に、一般の報道関係者や他宗の人びとも、無関心ではいられなくなった。
 講義の直後には、質問会も、もたれた。戸田の瞠目すべき講義のあとの質問である。かなり仏法の真髄に肉薄した質問が続出したが、戸田の回答は、これまた明快で、わずかな疑問も残さないものだった。聴衆は、さらに目を見張って、仏法の真髄が、かくも偉大なことに、言葉を失うほど深い感銘を覚えた。
 山本伸一は、この夜の成功に、誰よりも感動していた。関西広布の責任者として、これ以上の喜びはなかったからである。
 伸一は、この夜、午後十時発の夜行「月光」で、一人、帰京の途に就いた。彼は、今夜の戸田の講義に対する人びとの反応から、関西の会員の求道心が、いよいよ軌道に乗ったことを知った。
 戸田の講義は、翌十七日夜にも、同じ大阪市中央公会堂で行われた。御書の「顕仏未来記」である。
 戸田の、このたびの関西訪問には、小西武雄、清原かつらの幹部が同行していた。彼らは、十六、十七、十八日の三日間の昼間、もっぱら面接指導を、それぞれ精力的に行い、正しい信心の徹底を図った。十八日の夜には、戸田は自ら班長指導会を担当し、膝を交えての懇切な指導を行った。清原かつは、地区部長会、小西武雄は堺支部へ赴き、組長会を担当するといったように、まず、きめ細かな指導が、関西で一斉に開始されたのである。
 これら一連の精力的な行事は、東京との格差を縮めるための努力であった。関西の会員は、初信の状態にあったが、既に、それに応えるだけの求道心をもっていた。山本伸一の、戸田城聖に対する渇仰と求道の精神は、関西の会員が伸一に接するたびに、いつか、そのまま、彼らの心に培われてきたといっでよい。いうなれば、山本伸一の一念は、関西の会員の脊髄に、一本の筋として通っていたからである。
24  戸田城聖は、一月十九日、空路、東京に戻ると、翌二十日の夕刻、会長室に最高会議を招集した。
 席上、戸田は、全国的な布石が着々と整えられつつあることから、半年先の会員の増加を見越すと、参議院議員選挙の全国区候補者を、一人追加することも可能ではないかと提議した。
 熟慮検討の結果、山平忠平を追加することが決定された。これで、来るべき参院選の候補者は、全国区四人、地方区二人の合計六人となり、緊迫度を増した。
 戸田は、各方面の責任者から、こまごまと報告を聞き、全会員の団結を、最も重視した。
 「さぁ、団結しよう、と口でいくら言ったって、ばらばらな人の心というものは、容易に団結するものではない。たとえば、一升瓶の酒があったとする」
 戸田は、机の中央に一升瓶を、どかんと置くような仕草をしながら、いたずらっぽい微笑を浮かべた。
 「君たち男どもは、酒を飲もうということにおいて、たちまち見事に団結するだろう。一升瓶の団結だ。また婦人部や女子部になると、ここにデコレーションケーキをでんと置いてみたまえ。たちまち食べようということに関しては、喜び勇んで団結する。しかし、酒を飲み干し、菓子を食べてしまえば、その団結は消えて、また元の、ばらばらの心になる。
 酒や菓子による団結は容易だが、今度の戦いに備えでの団結は、そう簡単なことではない。今度の戦いをどう考えるか、人それぞれ理解の仕方も別々なら、理解の深さも千差万別です。それを、どうまとめていくか、いろいろ世間並みな選挙活動の手段や方法を考えるだろうが、それは、私に言わせれば、ことごとく枝葉末節のことです。それは、決して、われわれの戦いの勝敗を決する活力ではありません」
 皆の表情には、静かななかに真剣さが漂っていた。並みいる一同は、これまで異体同心ということを口にし、団結を叫んではきたが、なんのために団結が必要か、何を中心にすえて団結するのかとなると、具体的には、あいまいであったことに気づかなければならなかった。
 今、戦いを目前にして、戸田の言う団結が何を意味するかに、彼らは耳を澄ましていた。
 「考えてもみなさい。創価学会の、これまでの発展というものは、なんの団結によるものかといえば、信心の団結以外には何もなかった。異体だが、同心とする者の団結です。心などというものは、縁に紛動されて、どうにでもなるものだ。それが同じ心になるというのは、よくよくのことです。号令をかければ、簡単にできるなどということではない。
 われわれの活動は、いかなる場合にも、どんな会合でも、真ん中に御本尊様がでんと座っているようでなければ、何事も始まらない。その時に、初めて信心の団結が生まれるのです。責任ある地位にいる者は、いつ、いかなる時でも、これを忘れてはいけない。
 酒や菓子もそれなりの団結の効果は一時的にあるが、飲んだり、食べたりしてしまえば、その使命は、それで終わりだ。御本尊様には、この世の一切の不幸を救うという、広宣流布の使命が、どこまでもついているんだから、これを忘れて、枝葉末節のことに走つては、われわれの活動は活力を失うことになってしまう。
 われわれの団結は、ひとえに御本尊様の御力にあることを、よくよく忘れないでもらいたい。組織の技術的なことではない。どこまでいっても信心だ。だから信心をわからせて、皆が納得するならば、誰でも喜んで活動するようになる。それには時間もかかるし、辛抱強い忍耐力も必要となるんです。
 このたびの全国的規模の参院選の支援も、われわれの団結いかんによって、勝ちもするし、負けもするだろう。
 団結が全国的規模に広がったということ、これが今度の戦いの特徴です。責任をもった諸君たちは、酒や、菓子や、金を中心とした団結などと違って、御本尊様を中心とした団結ほど、この世で、強くて固い、美しい団結はないということを、夢にも忘れてはならない。
 戦ってみればわかることだが、これを心から信じなさい。随縁真如の智は、いくらでも湧いてくるはずだ」
 首脳幹部たちは、戸田の厳しい言葉に頷いて、そうにちがいないと思ったものの、なお心の底に不安を残していた。
 ただ一人、山本伸一だけは、関西の地で既に打ち始めていた手が、戸田の今の指針そのものと、全く同一であったことを知って、いよいよ確信を深めた。彼は、満を持して、関西の人びとの顔を思い浮かべていた。
25  各方面の責任者は、それぞれ会長室を退去した。
 しかし、責任者のすべてが、戸田の今の言葉を、心から信じ、理解したとはいえなかった。後の話になるが、彼らのなかのある者は、地方の組織に対して、ただ命令をもって臨み、地方会員の顰蹙を買い、かえって、せっかくの闘争の活力を、各地で削いで回った者さえいたのである。
 初めての全国的規模の戦いは、さまざまな戸惑いと混乱を引き起こしたが、山本伸一のもとにあった関西だけは、信心一筋を貫いて、苦闘のなかで、誰も想像しなかった奇跡的な勝利を得たのである。
 事にあたって、透徹した信心を、どこまでも貫きゆくことの困難さを、多くの責任者たちは、未熟にも、いまだ知らなかった。
 東京方面の責住者たちは、戸田の話を原理としては理解したが、団結の重要性を、実践のなかで生かすことに戸惑って失敗した。信心年数の古い、多くの幹部の間で、新旧の人間関係の複雑さが、心からの団結を妨げた。その団結の姿は、残念ながら信心のうえを上滑りして、形式的なものに堕さざるを得なかった。笛吹けども人踊らず、責任者の交代を、中途から余儀なくされる事態まで進んだが、時既に遅く、惜敗を招くのである。
 これらのことは、すべて後日に判明したことだが、まことの指導者たることが、いかに至難であるかという事実を語る実例である。
 戸田は、多くの指導者を育てるために心を砕いていたものの、時機はまだ熟していなかった。
 彼の弟子たちは、師弟の道は心得ていたが、広布実践のうえで、師弟不二のなんたるかを悟る者は、皆無といってよかった。不二とは、合一ということである。
 一九五六年(昭和三十一年)の戦いに直面した時、戸田の弟子たちは、彼の指導を仰いだ。しかし、彼らは、自分たちの意図する世俗的な闘争方針を、心に持したままであったため、戸田の根本方針を、単なる原理として聞き、結局、自分たちの方針の参考としてしか理解しなかった。戸田の指針と、彼らの方針とは、厳密にいって不同であったのである。
 師弟の道を歩むのはやさしく、師弟不二の道を貫くことの困難さがここにある。
 ただ、山本伸一だけが違っていた。戸田の膝下にあって、久しく厳しく育成されてきた彼は、関西方面の最高責任者となった時、戸田に言われるまでもなく、一人、多くの辛労に堪えながら、作戦を立てた。
 その彼の作戦の根本は、戸田の指針と全く同一であった。不二であった。彼には、戸田の指導を理解しようなどという努力は、既に不必要であった。
 以来、時々刻々と放たれる戸田の指導の一言一言が、伸一の闘争方針の実践に、ますます確信を与え、いよいよ渾身の力を発揮する縁となったのである。
 彼は、一念において、既に、戸田の一念と合一したところから出発していた。
 ともあれ、大聖人の仏法が師弟不二の仏法であるならば、一切法がこれ仏法であるがゆえに、立正安国の現実的な展開のなかにも、師弟不二の道が貫かれていくことは、当然の理といわなければならない。
26  後の話になるが、戸田が深く尊敬していた、法主の堀米日淳は、戸田が逝去して二カ月後に行われた九州第二回総会での講演で、牧口常三郎の尊い生涯に触れてから、師弟について次のように語っている。
 「戸田先生はどうかと申しますと私の見まするところでは、師弟の道に徹底されておられ、師匠と弟子ということの関係が、戸田先生の人生観の規範をなしてており、このところを徹底されて、あの深い仏の道を獲得されたのでございます」
 日淳は、師弟の関係によって仏道を得ていくというのが、法華経の要であることを指摘して話を続けた。
 「創価学会が何がその信仰の基盤をなすかといいますと、この師匠と弟子という関係において、この関係をはっきりと確認し、そこから信仰を掘り下げていく、これがいちばん肝心なことだと思う。今日の創価学会の強い信仰は一切そこから出てくる。
 戸田先生が教えられたことはこれが要であろうと思っております。
 師を信じ、弟子を導く、この関係、これに徹すれば、ここに仏法を得ることは間違いないのであります」
 日淳は、法華経神力品の「是人於仏道 決定無有疑(是の人は仏道に於いて決定して疑い有るとと無けん)」(法華経五七六ページ)を引き、師弟の道に徹して、「決定無有疑」の境地に到達するという実践をしたのが、戸田であると強調した。
 「戸田先生ほど初代会長牧口先生のことを考えられたお方はないと思います。親にも増して初代会長に随って来られました」と、牧口に随順した戸田の生き方を感慨深げに述べた日淳は、最後に「この初代会長、二代会長を経まして、皆様方の信仰の在り方、また今後の進み方の一切が出来上がっているわけです」と結んでいる。
 まさしく、創価学会の実践的生命は、師弟不二にある。師弟不二の道は、一念における荘厳な不二にあるといわなければならない。
27  一月二十九日、山本伸一は再び関西本部にいた。
 十五日に実施された教学部任用試験の第一次筆記試験合格者二百四十人に、第二次面接試験を行うためである。
 山平教学部長をはじめとする、教授、助教授が、伸一と共に、担当試験官として来阪していた。
 試験会場は、六部屋に分かれ、午前九時から始まった。岡山、高知、堺などから来た受験者は、午前中に終了し、午後は、もっぱら大阪在住の受験者にあてられた。
 この時の大阪での受験者のうち、合格者は、二百二十九人を数え、一挙に三人の助教授を輩出している。全体的に、かなり優秀な成績であったことがわかる。
 今回の全国合格者のなかでは、五人の助教授の登用をみたのであったが、そのうち三人が、実に関西の会員であった。そして、これまで、関西の教学部員は百五十人であったところへ、一挙に二百二十九人の新教学部員が誕生した。関西教学陣は、これで三百七十九人と飛躍したのである。
 伸一は、ここ一カ月の成果に、やや満足した。彼が、関西の戦いに、慎重にも教学の浸透を第一歩としたことは、戸田城聖が、出獄後、創価学会の再建の第一歩を、法華経講義で踏み出したことと似ていた。
 そして、そのうえに、彼自ら始めた面接指導を、全関西の首脳幹部にも急速に実践させたことである。組織の隅の隅まで、一人も余さず、指導の血潮が遅滞なく流れることによって、彼の一念の血行が、関西の地に躍動することを、こいねがった。
 関西広布の動脈は、この一月から、はつらつと脈打ち始めたのである。
 彼は、関西の友の一人ひとりを、心から愛して指導した。彼は、いかなる人にも使命が必ずあるとして、それを訴えながら、その人を尊重して導くことを第一義とした。それは、妙法のもとに、誰人も平等であり、そして、誰人にも、この世の使命があることを、日蓮大聖人の仏法が教えているからであった。
28  一月三十一日の本部幹部会では、一月度の折伏成果は、一万五千七百十七世帯と発表された。大阪支部は三千三百八十九世帯で、全国十六支部の第一位となり、二位の蒲田支部二千七百七十二世帯を、はるかに引き離した。堺支部も健闘し、五百二十四世帯で十二位である。
 ここ一カ月の間に、関西には、約四千世帯の新会員が、新たに広宣流布の戦列に加わることになった。
 その会員の一人ひとりが、真の信心に目覚めていくならば、十人分、百人分の力が備わり、自発・自立の人になりゆくことを、彼は祈りに祈った。
 ″まず、これで教学は軌道に乗ったとみてよい。折伏活動も、波に乗り始めた″
 山本伸一は、意図していた一月の目標が、ほぼ達せられたと、わが胸に納得した。そして、関西の大いなる飛躍のために、弘教の大波を、ぜひとも起こさなければならぬと心に期していたが、その時期は、まだ早いと判断した。若い彼は、逸る心をじっと抑えた。
 彼は、会員一人ひとりに対しての、真心の指導の徹底を、全幹部に強力に促した。

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