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日蓮大聖人・池田大作

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実証  

小説「人間革命」9-10巻 (池田大作全集第148巻)

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1  一九五五年(昭和三十年)八月の、激しい全国的な折伏旋風の成果は、わずか一カ月で、現有世帯数の実に一三パーセントを超えていた。この上げ潮は、渦中にあった学会員に、鮮烈な自覚と自信とを与えた。自発的な折伏意欲は、一人ひとりの信心の様相を変え、その息吹が、日常のあらゆる学会活動にみなぎり始めたのである。
 九月十一日の日曜は、台風襲来の時季とされる「二百二十日」にあたっていたが、からりとした秋晴れの空であった。この日、「若人の祭典」が青年部の主催で、東京・世田谷区の日大グラウンドで華々しく催された。前年の祭典よりも、はるかに盛大で、青年たちは、はつらつと、さまざまな競技に闘魂を遺憾なく発揮した。
 戸田城聖は、双眼鏡を目に当てながら、一人ひとりの青年たちの表情を追った。彼らの表情のなかに、学会魂ともいうべき青年の熱と力とが、ようやく兆し始めたことを認めて、なんともいえぬ笑顔で見守っていた。そして、これら愛すべき青年たちの二十年、三十年先の姿が、彼の脳裏には、しきりに去来していた。
 かくも多くの、見事な青年が出現したことは、七百年来、かつてなかったことである。大聖人が、「時を待つ可きのみ」と言われた、その「時」が、まさしく彼の眼前に迫りつつあった。
 ″恩師・牧口先生に、ひと目、お見せすることができたら、どんなに、この光景を喜ばれたことだろう……″
 その思いが、ふと戸田の頭をかすめた時、棒倒しの勝負のついたグラウンドの喚声を耳にして、彼は、われに返った。そして、首都圏の青年たちばかりでなく、各地の青年たちにも、このような「若人の祭典」を開催する機会を与えるようにしなくてはならぬと、側にいた首脳幹部に話しかけた。
 「まず関西だな。早い機会に関西で、できないだろうか。春木は、いないか」
 大阪支部長の春木が呼ばれた。
 「春木君、関西でもやろうじゃないか。どうだ?」
 春木は、「はあ」と答えたものの、口ごもった。
 「関西の青年のために、支部長ともなれば、祭典を見て、そのぐらいのことは、すぐ考えつかなければならんのだよ。頭の回転が遅いな」
 「はい、考えております。来春には、先生をお迎えして、大阪の球場で大結集をしたいと考えていました。しかし、祭典までは、考えませんでしたが……」
 春木の正直さに、戸田は朗らかに笑った。
 「相変わらずだな、春木君は。なんでも伸一に相談しなさい。そうしないと、祭典ひとつ、うまくいかないからな。これからの関西は、大きな、しっかりした構想がなければ後れを取るよ。しっかりしなさい。大結集も結構、祭典も結構じゃないか」
 戸田の全国構想のなかで、関西は一大拠点であった。この拠点の急速な構築が、このころには、既に彼の頭から離れなくなっていた。彼にとって、青年部の競技大会ひとつにも、布石の構想が湧いたのである。
 青年たちは、この日一日の解放感に浸りながら、ただ、もう日常の苦渋を忘れて、歓喜の声を秋空にあげていた。
 九月十八日には、築地支部第四回総会が、同二十四日には小岩支部第二回総会が、いずれも戸田の出席のもとに、東京・神田駿河台の中央大学講堂で開催された。
 このうち小岩支部の総会では、戸田は、地涌の菩薩としての本源的な自覚を参加者に促した。
 「広宣流布の時には、四菩薩をはじめとして、その他の菩薩が出られることになっております。また、もったいなくも日目上人様をはじめとして、大田金吾殿、四条金吾殿など、大聖人御在世当時に活躍した方々が、今度の広宣流布に遅れることなく、全部、出ておいでになることと、絶対に信じて疑わぬものであります。
 もし出てこなければ、大聖人とのお約束を破ったことになり、申し訳ないことになります。阿仏房や千日尼にせよ、みな、皆さんのなかに必ずおられる。今は頼りないような顔をしているが、これは仮の姿であって、四条金吾殿も、あなた方のなかにおられるんですよ。大聖人様の眷属が集まって広宣流布ができなかったら、なんのかんばせあって、霊鷲山にまみえん。地涌の菩薩の皆さん、やろうじゃないか!」
 戸田は、日蓮大聖人の御在世当時、幾多の法難を乗り越え、令法久住、妙法流布の大法戦に、その名を残す弟子門下の名を次々とあげた。そして、それらの人びとが、今、広宣流布の「時」に、それぞれの使命を果たすべく、生まれ、集い来っているのだと語った。
 彼は、今、ここに集い合った一人ひとりが、広宣流布の尊き使命を担い立つ、久遠からの深き縁に結ばれた、誉れある地涌の勇者であることを、確認しておきたかったのである。
 彼自らが、地涌の菩薩の使命に立った、師子吼であった。照明は、紅潮した彼の頬を、まぶしく照らした。
 このころ、学会の急速な拡大にともない、入信の儀式を行うために、数カ所の地方寺院の建設や、登山会のために、総本山の宿坊の増設が急務となっていた。
 また、地方拠点の会館も考えなければならなかった。なかでも、関西に一大拠点をつくるためには、関西本部となる会館を、大阪に設置しなければならない。そのためには、資金が必要であった。
 九月三十日、九月度本部幹部会の席上、小西理事長は、これら建設募金の件を諮って、参加者の賛成を得ると、必要な募金額を発表した。一世帯平均二百円の割である。全員の賛同の拍手で決定された。
 戸田は、これだけの建設資金が、全会員の総意によって調えられるようになった現在、ここ十年の、彼一人の苦闘を思い返さずにはいられなかった。
 彼は、最後に壇上から呼びかけた。
 「日蓮正宗は、ほとんど滅びかけていた。地方の寺院は、どこへ行っても破れ畳であり、総本山は農地改革によって、今までの年一千俵の小作米が入つてこなくなり、まさに窮之の極にあったのであります。
 学会もまた、同じでありました。私は、その罪は戸田にありと感じ、まず、日蓮正宗を興隆しなければならないと努めてまいりました」
 ここで戸田が、「その罪は戸田にあり」としたのは、広宣流布の一切は、自分の責任であると、受け止めていたからである。それが、彼の生涯を貫く一大使命感であった。
 この使命の自覚は、獄中での悟達に由来することはもちろんだが、悟達から、そのまま、苦難の実践活動に直進できるかどうかは、別の次元の問題である。
 つまり、人は、なんでも思うことはできる。次から次へと思うことによって、使命感の陶酔で終わる人の、いかに多いかを見れば、戸田の十年にわたる実践活動こそ、一人の人間における、偉大なる人間革命であったといわなければならない。当時、この地球上には、広宣流布のすべてを担い立ち、その停滞を自分の責任と考える人は、戸田以外に一人もいなかった。悟達は、そのまま実践であった。ここに、戸田の示した人間革命の道があり、優れた偉大な独創性の淵源があったのである。
 「幸いにも、皆さんのご協力を得まして、奉安殿ができ、宿坊ができ、地方に寺院が建ち、今や、日蓮正宗は日の出の勢いになってまいりました。これは、皆さんの信心より出たものと、厚く御礼を申し上げます」
 彼は、あくまでも謙虚であった。
 九月、二万九百八世帯の本尊流布を達成した幹部たちは、戸田の言葉に、戦後十年にして、日蓮大聖人の仏法が、いよいよ観念ではなく、現実に人類社会を救い得る存在として、創価学会という姿をもって現出したことを悟った。
 参加者は、その姿が、月々に色濃く、またどこまでも巨大になっていくにちがいないとの、抑えようもない確信をいだいて、豊島公会堂から、それぞれ散っていった。
2  その翌日の、十月一日のことである。ラジオの電波は、新潟市の大火を早朝から報道し始めた。しかも、なお延焼中で、火勢は台風二十二号の強風にあおられて、衰える気配もないというのである。
 新潟といえば、戸田が、つい二カ月前の八月に、地区総会のために初めて赴いたところである。戸田は、新潟の会員の世帯数を調べさせた。新潟県では約二千世帯、そのうち約千世帯が、市内に在住する会員であることが判明した。全市に散在する千世帯、それが大火の炎にさらされている。当然、罹災者も相当数に達するものと思われた。電話は途絶していて通じない。情報を待っているしかない。戸田は、先々月、初めて会った新潟の学会員たちの純朴な面影を、しきりと思い浮かべながら、ともかく一人の怪我人もないことを心に祈っていた。
 新潟地区は、向島支部の所属である。支部の幹部数人は、本部と連絡してから、急速、新潟に向かった。一方、正午近くに、新潟地区から第一報が本部に入った。
 ――鎮火したが、今のところ、学会員の罹災者は皆無らしい、というのである。信じられぬことであった。県警察本部の発表では、焼失家屋は千戸を超しているという。
 夜に入って、支部の幹部も現地に到着し、詳細な報告が、次々と本部にもたらされた。
 この大火による焼失戸数は九百七十二戸、罹災者は五千九百一人に上った。当時、新潟市の総世帯数は、五万五千五百二世帯、人口は二十六万五千七百十九人であった。約二パーセントの被害であるが、焼失区域は市の中枢部である繁華街の七万八千坪(約二六ヘクタール)である。市民にとっては、一大事件であり、衝撃は大きかった。
 一日夜、全市は停電している。古町通九番町の長部地区部長宅に、闇夜の焦げ臭い市街を探りながら、地区員が、一人、二人と集まってきた。やがて、地区部長の家は人であふれた。地区部長は、この日、総本山に登山していて留守であったが、各方面から集まった人びとの話を集計してみると、信じられない結果が出た。
 ロウソクに照らされた一同の顔は、瞬間、「あっ」と驚きの表情のまま、硬く息をのんでしまった。
 各班から届いた報告を総合してみると、市の目抜き通りは全滅といってよかったが、その周辺の学会員たちの密集地帯は、全く火災を免れていると判明したのだ。
 純真な信心を貫いて戦っていた地区員に、被害はほとんどなかったのである。
 多くの人は、地区講義で知った法華経の一節を思い出していた。
 「火も焼くこと能わず水も漂わすこと能わず
 今さらながら、しみじみと、この経文をかみしめるのであった。
 こもごもに語る地区員の、尽きぬ話で判明したことは、学会員の家の多くは、広い延焼地域の外周にあったということである。彼らは、懸命な防火活動もしたが、不思議なことに、類焼するかに思われた時、風向きが変わり、炎は彼らの家を避けていったというのだ。
 炎は、柾谷ま さ や小路から上大川前通を、猛烈な勢いでなめていった。その外周には、学会員の家が点在していた。火炎は、当然、隣接する、これらの家を、のみ込むかに見えた。
 ところが、火は、ここでとどまっている。そして礎町いしずえちょう通の建物に飛び火し、さらに付近のガソリンスタンドに移り、新たな延焼は、川幅の広い信濃川の川岸で、やっと終わったのであった。この間、八時間にわたる大火災となった。
 平均風速二二メートル、瞬間風速三三メートルの強風のなかで、火は、縫うようにして燃え広がっていったが、まことに巧みに、学会員の家々を避けて通ったといわなければならない。
 地区員たちは、無事であったことの喜びもさることながら、あまりの不思議さに、顔を見合わせるばかりであった。この日一日、未明からの不安と恐怖にさらされ続けた人びとは、今、安堵に胸をさすり、悪夢から覚めたものの、なお興奮は静まらなかった。そして、ふつふつと湧き上がる、御本尊への尽きぬ感謝を、どうすることもできなかった。
3  市民が、未明のサイレンを聞いた時、台風二十二号の中心は、日本海を縦断し、佐渡沖を通過しつつあった。雨量は少なく、風が強く、新潟市にも、ほとんど降雨はなかった。前日の三十日の午前十時三十分には、火災警報が既に発令されている。火災発生時の一日午前三時の気象状況は、風速二〇・二メートル、気温二四・八度、風向西南西、天候曇りで、新潟地方は異常乾燥をともなうフェーン現象を呈していた。最悪の気象状況である。
 湿った空気が山岳に激しく吹きつけると、空気(風)は昇るにつれて冷え、湿り気は凝集して氷や水の雫となる。そして、水分をなくした空気は、山岳の尾根を越えて平野へ吹き降りる時、加圧されるにつれて温度が上昇する。これがフェーン現象である。
 台風が日本海を通る時、高気圧のある太平洋側からの風が吹き、中部山岳地帯を挟んで、決まって起こる現象である。この時、太平洋側よりも、日本海側の方が一〇度近く温度が高くなるのが普通であった。
 ちょうど新潟の大火の時は、瞬間風速三三メートルの暴風のほかに、乾燥した暖かい風が吹きつけていたわけである。火災に関しても最悪の状態に陥っていたといわなければならない。
 このフェーン現象のために、新潟市は、しばしば大火災に見舞われてきた。古い記録を見ると、一九〇八年(明治四十一年)三月八日には、古町通八番町で発火し、千二百戸が焼失。さらにこの年には、九月四日、古町通四番町から出火して、二千百余戸が焼失している。さらに湖ると、一八八〇年(同十三年)八月七日、上大川前通六番町から出火した火は、県庁、警察署をはじめとして、六千百余戸を焼き尽くしている。
 とのほかにも、何度か大火はあったが、一九二三年(大正十二年)四月十二日の四百九十戸焼失以来、これほどの大火はなく、戦災も幸い免れてきた。しかし、三十三年目に、今度の大火の災いを受けたのである。
 このような土地柄だけに、市民は火事について用心深かった。眠れないままに、雨戸を激しく叩く風の音に怯えながら、家の中の火元を点検したりして、台風の過ぎ去るのを、じっと待っていたにちがいない。
 サイレンの不気味な響きである。ほとんどの市民は、起き上がって身支度を整え、火元はどこだろうと外に飛び出した。
 風は強い。暗黒の空に上がった火の手から、医学町通一番町の県教育庁が火元であることが、たちまち口づてによって判明した。午前三時を過ぎたところである。
 夜空は、見る見る赤く、明るくなった。隣接するアメリカ文化センターに延焼し、炎は、さらに勢いを増した。消防署員が、ある地域で消火活動に全力をあげていると、強風に乗った火の粉が空高く舞い上がり、どんどん風下の地点に舞い下りて火元となった。飛び飛びに火災を発生させていったのである。消火活動は追いつけない。
 後に調査によって判明したところによると、この夜の、飛び火による二次的な火元とみられる箇所は、実に四十八カ所を数えるのである。
 西南西の強風が、瞬く間に火の粉を各所に撒き散らし、三、四十分後には、火元から六百メートルほど離れた、デパート、市役所、郵便局在どが並ぶ繁華街で、猛烈な火の手をあげていた。
 消防隊は、各所に分散して火炎を追いかけなければならなかった。住民の懸命な火叩きや、バケツリレーで、延焼が食い止められたところもあり、空地でやっと止まったところもあった。しかし、火勢の方向は北東から東に転じ、さらに、東南に転じて燃え広がった。
 地区員のなかには、ラジオで、これら延焼の推移に耳を澄ましていた人もいる。
 ラジオ新潟(RNK)が、火事についての情報を放送し始めたのは、出火直後であった。この夜、ラジオ新潟は、日本海を通過中の台風情報を伝えるために、放送時間を延長しており、火災発生の時は、時間調整のための音楽を流していた。
 この音楽が、突然、中断し、火災発生のニュースが流れたのである。ラジオ新潟は、この第一報の後、午前四時過ぎから、火災の実況放送を行い、刻々と延焼の状況が市民に知らされた。
 ラジオ新潟の本社スタジオは、大和デパートの七階にあった。市街を一望できる屋上にマイクが特設され、実況放送を担当するアナウンサーは、強風で吹き飛ばされないように、体を鉄柵にコードで縛り付けた。瞬間風速は、三三メートルを超えていた。
 「風が、ひとしきり強くなりましたので、マイクが、直接、風を受けまして、ラジオをお聴きの皆さんには、さぞお聴き苦しいところがあると思いますが、実況を続けることにいたします。
 火の手は、ただ今の情報によりますと、鍛冶小路を越したとのことでございます。鍛冶か じ小路から小林デパートに向かって、なお、その魔の手をゆるめないそうでございます。
 新潟日報社の新館には、印刷工場がございますが、そこに、たぶん油瓶もあったと思いますが、その油瓶から発する火でございましょう、特有の色を呈しまして、そして、煙がものすごいのでございます。風が強いために、ここにおります人びとの、目や口、鼻に、煙と火の粉が入りますので、さぞ、この実況もお聴き苦しいところがあろうかと思いますが、ご容赦願います」
 アナウンサーの声が、少し途切れた。
 「火の粉は、ただ今、ずーっと西堀、それから古町側にも飛んでまいりまして、この大和デパートの屋上を、さらに後ろへ越しまして、向こうにもずっと、飛んでいくようでございます。
 お月様は隠れてしまいましたが、火災現場の明るい炎、魔の火の手によりまして、付近一帯は、真昼のような明るさでございます。ちょうど照明弾を打ち上げたようなありさまでございまして、そのために、赤十字社、先ほど申し上げましたように、新潟大学の教育学部、それから営所通一帯が、ここから明るく屋根を、くっきりと浮かび上がらせております」
 捻る風の音と、消防車のサイレンの響きが混じるなかを、沈着なアナウンサーの声は続いた。
 「ただ今、現場からの連絡によりますと、火災現場付近は、消火栓の不足によりまして、消火活動が思うようにできていないような状態でございます。
 どうかラジオをお聴きの皆さんも、お宅の火の元、火災現場だけに気を取られずに、お宅の火の元にも十分ご注意ください。なにしろ、火の手が二カ所に分かれておりますので、消防団の活動も思うにまかせません」
 飛び火により、新たな火の手が上がった。
 「アッ、それから今度は……、十字路の、皆さま、よくご存じと思いますが、四つ角の大和の真向かいにございます北光社から、ただ今、火の手が上がりました。これは大変なことになりそうです。
 県庁側から大和方面に向かって吹いております風、その風によりまして、ずっと火の手が延焼しております。飛び火でございますか! これは北光社! 北光社からただ今、火を出したのでございます」
 消防車のサイレンの音が、慌ただしく響いてくる。
 「結局、そうしますと、県庁前の教育庁の火、それから中通の新潟日報社の火、それからただ今の北光社の火災と、との三つに現場は分かれたようでございます」
 強風によってあおられた火は、新潟市の中心街全域に広がっていったのである。
 「すさまじい火の手でございます。すさまじい火の手でございます! これより申し上げようがございません。と、申し上げておりますうちに、北光社の火の手は、さらに左側に、その火の勢いを転じているようでございます。右、左と、火の手を真っ向に見まして、そこから吹きつけてきます火の粉と煙によりまして、この屋上におります、われわれ、まるで真夏の状態にあるような、熱さでございます」
 猛火は、アナウンサーのいる大和デパートの、交差点を挟んで斜向いにある小林デパートに迫ってきた。
 「北光社だけではございませんで……こんどは……小林の付近からも、発火したようでございます。えっ! 小林から火が出た? 小林デパートから火が出ました!」
 目の前のデパートまで延焼してきたことに驚いたアナウンサーは、早口で実況放送の中止を告げた。
 「では、実況をこの辺で打ち切ることにいたします。危険ですから、この辺で実況を打ち切ります」
 沈着な実況放送が打ち切られてから間もなく、大和デパートにも火が移り、屋上にあったラジオ新潟の本社スタジオも炎につつまれてしまった。
4  このような思いもかけぬ大火を生んだのも、ほんの小さな一つの炎であった。
 漏電説が最も有力であったが、それをさらに究明していくと、県教育庁の建物の、二階西側外壁に取り付けてあった外灯の設置箇所から出火したらしい。この外灯の絶縁処置が不十分で、ネジ釘から壁のモルタル下地の金網へ電流がながれ、その下のフェルト紙に火がつき、屋根裏に広がっていったのが出火原因であろう、という推定がなされた。
 この外灯は、この年の一月中句ごろ取り付けられたものである。そのころ、市内の官公庁荒らしが頻々と横行し、その防犯策としての外灯であったことが判明した。
 漏電によるスパークで発火し、折からの強風に乗って、千二百世帯が罹災するという惨事にいたったのである。
 台風は、日本海からオホーツク海へ抜け、午前七時ごろには、風はかなり衰えていたが、余勢を増した炎は、なお燃え続け、午前十時五十分の鎮火まで、市街は延焼し続けたのである。
 新潟市内には、約千世帯の学会員が散在していた。火炎がなめ尽くした町並みの一帯にも、多くの学会員が住んでいた。したがって、確率的には、罹災者千二百世帯のなかに、学会員が相当数含まれていても不思議ではなかった。ところが、事実は違った。火勢は、まるで学会員の住む地域を避けるようにして、燃え広がったのである。
 これまでも、火事で類焼を免れたという信仰体験を各地で聞くことはあったが、このような大火災での事例は、初めてのことであった。
 この事実を、新潟の地区員一同は、妙法を受持した現証として、今さらのように目を見張り、驚きを隠せなかった。
 恐怖に満ちた苦難の一夜であった。だが、今、余燼のなかで、彼らは、否定しがたい実証を通して、御本尊への抑えがたい感謝とともに、新たな確信に燃え立っていた。
 長部地区部長は、登山会から、急遽、引き返し、二日の朝、新潟に帰ってきた。一変した残骸のみの広い焼失区域を見て、彼は、大きな衝撃を受けた。
 しかし、それにも増して、数多くの地区員が類焼を免れていたという事実は、さらに大きな驚愕であった。仏壇の前に端座した彼は、勤行のさなかに滂沱と流れる涙を抑えることはできなかった。
 彼が新潟に移り住んで、地区の建設に渾身の活動のできた、ここ数カ月の結果が、このような実証となって現れたことに、御本尊への感謝の念があふれ、体が震える思いであった
 長部が、東京の家を引き払って、新潟市に移ったのは、この年の五月の末のことである。東京で育ち、東京で一工場主として事業を営んでいた彼が、思いもかけぬ新潟移転を決行したのは、事業のためでもなく、まして一家の保全のためでもなかった。
 長部は、東京で学会活動をしているうち、新潟に愛着をいだくようになった。広宣流布への熱意が、新潟への移転に、彼ら夫妻を駆り立てたといってよかった。折伏の楽しさが、新天地・新潟への開拓の夢となり、移転を決意させたのである。
 長部一家の入会は、一九五〇年(昭和二十五年)末である。町工場を経営しながら、創価学会草創期の、激しい闘争の渦のなかに飛び込んでいった。五二年(同二十七年)ごろ、新潟出身の一人の青年が、彼の工場に働きに来た。青年は、長部の人柄に触れ、間もなく入会した。
 やがて、青年は新潟に帰郷することになった。しばらく音信は途絶えたが、彼は、一人、新潟で折伏活動を始めていた。経験浅い彼に、この折伏という難事が、やすやすとできるはずもなかったが、彼は、悲鳴をあげなかった。長部は、青年のことが気にかかり、指導がてら、新潟に向かった。
 当時、創価学会は、地方進出の機運が、ようやく高まってきたところである。長部も、地区部長として、地方拠点の設置を、地区活動の一環に加えようとしていた。この新潟訪問は、思わぬ好結果を生んだ。青年の地道な下種活動が、長部の応援で、次々と実を結んだのである。
 新しい会員への指導と、折伏で、新潟に行けば暇なく活動しなければならなくなった。長部は、地区担当員の妻と交代で新潟に通った。その頻度は、月に数回にもなったが、行くたびに上がる成果は、一切の疲労を忘れさせた。
 そのため、彼が担当する東京の地区は、このころ急に頭角を現し、全国の地区のなかで、指折りの優秀地区として、注目されるようになったのである。
 食料も、まだ不足がちのころであったが、米どころの新潟の上米は、なかなかの魅力であった。幼い子どもたちや縁者たちの栄養補給のために、帰路には、食料を運ぶこともあった。
 長部の町工場の経営は、なかなか思うに任せなかった。担当する地区の隆盛と、新潟方面の活発な弘教拡大にもかかわらず、営業成績は一進一退で、一般的な不況の波から、容易に抜けることはできなかった。
 当時、日本の経済界は、世界市場の競争に伍するため、生産性の向上運動に問題が絞られていたが、中小企業は、大企業の合理化計画の進捗による圧迫を受けて、犠牲を強いられていたのである。
 長部の工場も、その渦中に陥っていた。そこへもってきて、五五年(同三十年)の初めごろ、唯一の頼みであった親会社が、火災に遭い、倒産してしまった。長部は奔走したものの、血路は、いっこうに開けない。苦闘と苦慮のうちに長部が決意したのは、転業であった。
 幸いにして、彼は工場の経営者となる前に、調理師の資格を取っており、兄と共に食堂経営の経験があった。彼は、調理人として立つ決意に燃えたのである。
 しかし、彼を、ここでためらわせるものがあった。それは、生活的にも時間的にも、新潟へ通えなくなってしまうことであった。
 手塩にかけた新潟の同志への愛着は、もはや、彼の人生にとって、断ちがたいものに育っていた。妻もまた、同じ愛情を新潟の人びとに、いだいていたのである。夫妻は熟慮を重ねて、ひとまずは、ささやかな食堂でも開きながら、広宣流布が伸展し始めた新潟で、わが使命に生きようと決意したのである。信心と生活の両立は、新潟でならできる、東京でならできない、とまで思い詰めた。
 東京の地区部長、地区担当員を辞めて、新天地・新潟の広宣流布に生きようという夫妻の決断は、学会の未来にもかかわる、こと重大な問題である。結論は、戸田城聖の指導を仰ぐ必要がある。彼は、戸田に指導を受けようと思った。
 それは、学会が初めて統一地方選挙に挑んでいた、四月のことであり、戸田は、多忙を極めていた。
 「先生、実は新潟へ行きたいと思いますが……」
 戸田は、長部が頻繁に新潟に通っていることを知っていたので、怪訝な顔をした。選挙の最中である。
 「何か、新潟で問題でも起きたのか」
 「いいえ、選挙が終わってからのことですが、しばらく新潟へ落ち着いて、思う存分、活動したいと思いますが、いけませんでしょうか」
 いきなり転居の話である。戸田は、長部の顔を、じっと見つめて言った。
 「工場は、どうなっているんだ」
 長部は、工場が、今、陥っている実態を余すことろなく報告した。既に閉鎖も同然の状態である。彼は、辛そうな顔でうなだれていた。
 戸田は、一瞬、悲しい顔をした。
 「そうか、転業だな。……それで、新潟に行って、どうするつもりだ。生活の立つ当てでもあるのか」
 一人の信頼すべき地区部長の困窮は、戸田にとっても、胸にこたえる辛い問題であった。長部は、今、戸田を悲しませていることを知って、身のすくむ思いで悄然としていたが、自らを鼓舞するように顔を上げた。
 「私も、この際、心機一転、新潟で信心と生活を立て直し、頑張りたいと思います。今、私にできますことは、調理師としての経験を生かすことです。人を使わず、自分の腕でやっていこうと思います」
 彼は、説明した。たとえ、ささやかな食堂であっても、家族が食べるぐらいのことはできるであろうし、学会活動にも支障はないだろうし、それでお役に立ちたいと、心情を披露したのである。
 戸田は、追い詰められた長部の境遇がよくわかったものの、今の方針が、単なる思いつきではないかと、不安を感じながら言った。
 「女房は、なんと言っている?」
 「賛成してくれました」
 「子どもは何人だ?」
 「二人です」
 「四人の生活費だな。新規の仕事は厳しいよ。新潟に、ずっと住むつもりなのか。それとも行って、しばらく様子をみようというのか」
 「行ってみないと、先のことは、わかりませんが……」
 言葉を濁した長部を見て、戸田は心配になった。
 ″新潟で生活が立たなかったら、また、どこかへ流れて行こうというのか。新潟で信心活動を続ければ、それによって生活は守られると、漠然と考えているのではないか。信心の漂民になってはいけない。生活に根を下ろさない信心ほど危険なものはない……″
 事業に敗れた長部の現在を心配する戸田は、何よりも、この点が気にかかった。
 戸田は、急に厳しい表情になって、長部を見すえながら言ったのである。惰眠を覚ますような鋭い語調である。
 「君が、どこへ行って、どんな仕事をして生活しようと、それは、あくまでも君の自由だ。しかし、今の話を聞いていると、一応、決意は立派なようにみえるが、心の底では、御本尊によりかかっていやしないか。
 新潟で、これからも一生懸命、広布のお役に立つ活動を続けるから、御本尊様は、君の生活を、当然、守るべきだ、といったような、虫のよい安易さが、君の決意を甘やかしているように、私には思える。そんなことでは、新潟へ行ってうまくいかなかったら、悲鳴をあげて、また東京へ舞い戻って来るだろう。
 君は、今、気がついていないが、困難に決然と立ち向かう勇気よりも、御本尊様の加護の方を先に当てにしている。ぼくは、そんな意気地なしを育てた覚えはない!」
 長部は、戸田の叱声が意外であった。彼は、全身、滝に打たれるような思いをしながら、黙って耳を澄ましていた。
 戸田は、語調を変え、諭すように懇ろに言った。
 「まだ、わからないか。こう考えたらどうだ。君が信心していなかったとする。そして事業に敗れて、妻子と共に路頭に迷っている。そこで君はどうするか。石にかじりついても、どんな恥を忍んでも、どんなことをしてでも、妻子を養おうと立ち上がるか、それとも、万策尽きたから一家心中をしようとするか、どっちだ?」
 「どんな目に遭おうと、妻子を養っていきます」
 長部は、こう答えながら、目をしばたたいた。今にも涙があふれそうになったが、ぐっとこらえた。
 「そうだ。それでこそ戸田の弟子だ。絶体絶命の時に、生きるということは命がけだ。宿命との闘いも、それ以上に辛く命がけだよ。生活も信心も同じだ。信心しているから、なんとかなるだろうというのは、信心の堕落だ。ない知恵を絞り、汗水たらして一生懸命になるから、不可能も可能になる。この時、御本尊の加護が厳然と現れる。これは間違いない。
 漫然と、なんとかなるだろうという気持ちで新潟へ行くのなら、やめなさい。行くからには、骨を埋める覚悟がなければならない。その覚悟もなく行ったって、男一匹、いったい何ができるというのか!」
 厳しい叱時に、長部は思わず顔を上げて、戸田を仰いだ。
 戸田の目は、温かく微笑んでいた。
 戸田は、自らの過去に思いを馳せ、波瀾の人生から得た体験を、今、眼前にいる長部に、いたわるようにして語った。
 「生活力を失った男ほど、この世で惨めなものはないよ。ぼくも、そういう危機に何度か遭った。そのたびに立ち上がったものだよ。辛いなんて、考える暇もなかった。なんとしても奮い立たずにはいられなかった。
 東京から新潟へ移ったって、君の宿命は、少しも変わらないんだよ。場所が変われば宿命も変わる、というのであれば、こんなうまい話はない。宿命は、どこまでも君について回るんです。君は、今、難に遭っている。そして、生活には敗れたが、幸いなことに、君は、まだ信心には敗れていない。それが、どんなにありがたいか、君、わかるか。すごい心の財産なんだよ」
 長部は、戸田の口から、「信心には敗れていない」と聞いて、ハッとした。
 ″そうだつたのか。それなら、この俺だって、立ち上がることができるはずだ。
 よし、新潟で骨を埋めよう。そして、どれだけお役に立っか、今後の生涯をかけてやってみよう。全精魂を傾けて、もし飢え死にするものなら、それもまた、わが罪障の消滅ではないか。今のわが心事は、誰にわかってもらわなくてもいい。少なくとも御本尊様は照覧なさっているはずだし、戸田先生も知っておられるだろう。これで何が不足だというのか″
 信心には敗れていない――という言葉ほど、卑小になっていた彼を蘇生させたものはなかった。彼は、心の底から歓喜した。見る見る昂揚した長部の顔を見て、戸田は、彼の決意が嘘でないことを読み取った。
 「決心がついたか。焦るんじゃないよ。まず腰をすえることだ。そして、どうにもこうにもならなくなったら、その時は、その時で、ぼくのところに来なさい。骨は拾ってあげよう。ぼくは、じっと君を見ているからね」
 長部は、ただもう嬉しかった。彼は、遂に鳴咽にむせんだ。意気地ない彼を、こうまでも心にかけてくれる一人の師が、この世にいたことを初めて知り、感動したのである。
 指導は、終わった。長い対座であった。戸田は、貴重な時間を、長部のために喜んで費やしたのである。
 戸田は、そのまま立ち上がって外に出た。次の会場への時間が、既に迫っていたからである。
5  長部夫妻が、東京の住居を整理して、二人の子どもを連れて新潟へ移ったのは、五月二十六日のことである。古町通九番町に居を構えた。繁華街を、ちょっと外れた表通りに面した家だったが、食堂を開くには差し支えなかった。同時に、この月、数百世帯をもって向島支部新潟地区を結成し、夫妻は、やはり地区部長、地区担当員として出発した。
 長部夫妻は調理場に立ち、代わる代わる訪ねてくる地区員たちを、時には待たせておいての奮闘だった。
 仕事が一段落つくと、地区員の相談に乗り、それがすむと調理場に戻った。仕事と信心は、時間的に、はなはだ合理的に運ぶことができた。忙しい夕刻を過ぎると、夫妻は交代で夜の会合に飛び出した。
 苦闘といえば、苦闘の日々であったが、張りつめた新生の生活は、また夫妻にとって楽しかった。
 長部夫妻には、喧嘩をする暇もないほどの、充実した日々が始まった。しかし、思わぬ出来事や困難が重なって、深夜、われに返ると、絶望的な気持ちになる時もあった。しかし、信心に敗れてなるものかという、必死の頑張りが一家を支え、苦闘を乗り越えさせていった。
 長部は、東京を発つ時、戸田から一つの目標を与えられていた。それは、新潟地区が八百世帯になったら、新潟に寺院を建立するという、激励の約束であった。
 東京での、地区部長としての久しい経験は、新天地・新潟の開拓にあって、大きな力を発揮したとみてよい。目標と力とが合一した新地区・新潟は、発足の月から見る見る急成長を重ね、八月には二百世帯の本尊流布を、地元だけの実力で敢行し、全国の地区十傑に入ってしまった。この結果、発足後わずかにして、戸田との約束である八百世帯を達成することができた。
 長部お さ べの蘇生と、新潟地区のはつらつたる息吹は、十月一日の大火の炎を越えて、新生の前進を開始したのである。
 この大火のころには、新潟の寺院建立は決定をみていた。新潟市の海岸に程近い、松林のなかの家屋を買い取り、寺院に改築されつつあった。そして、十二月六日には、入仏式が挙行された。
 戸田を、新潟駅に迎えた長部地区部長の顔には、苦渋に満ちた、あの四月ごろの表情はいささかもなく、八月の地区総会のころの、苦闘による疲労の影も見せず、晴れ晴れとした笑顔で戸田を迎えた。
 「おう」
 戸田は、気さくに声をかけ、長部の肩に手を置いた。
 「商売は、うまくいっているか」
 「はい、順調です」
 「本当か。儲けるんだよ。商売の下手な男だからな。今度は秘訣を教えてやろう」
 戸田は、笑いながら、長部と共に上機嫌で車に乗った。
 新潟地区は、短日月のうちに、広宣流布の基盤を築き上げたのだ。そして、彼らは、初心のみずみずしい素朴な信心を、そのまま持続し、加えて、大火の試練による体験から生まれた確信を胸に秘めて、新たな開拓に挑戦していった。
 大火の折の、奇跡とも思える実証も、偶然ではなかったといえる。入会後、日なお浅い地区員たちではあったが、地区内には、清らかな信心が脈打っていた。皆、求道心にあふれ、異体同心の強い団結の絆があった。極めて理想的な信心状態にあったといってよい。
 あの日、地区員たちは、暴風下のサイレンの響きに、まず御本尊に向かって唱題し、わが家と、わが町の無事を祈った。そして、迅速な避難準備とともに、果敢に消火活動に励んだ。そこに一切の知恵の発動があり、一切の行動の的確さがあったといわなければならない。ただ漠然と、諸天の加護を待ったのではないのである。
 人は、この初心を失いやすい。新潟に移った長部地区部長が、東京を離れるには、一大決意が必要であった。その決意は、同時に、入会当時の、″この信心によって、必ず人生を開いてみせる″という初心を、彼のなかに蘇らせていたのである。過去の一切を捨てて、彼は、新潟で蘇生することを願って活動した。戸田の久しい薫陶は、遠く離れた新潟の地にあって、見事に花開いたのである。
 新潟地区は、みずみずしく急速な成長を持続した。そして、翌一九五六年(昭和三十一年)八月には、数多くの地方地区に先駆けて新潟支部となり、秋田支部とともに、初めて日本海側に支部旗を翻すこととなった。支部旗を、しかと握り締めたのは、長部地区部長である。彼は、新潟支部長となり、妻は、支部婦人部長となった。夫妻にとって、一年三カ月前には夢想もできなかったことであった。
 この時、全国にわたって十六支部が一挙に誕生し、創価学会は、三十二支部を擁する陣容となったのである。
6  日蓮大聖人の仏法が、広宣流布の軌道に乗り始め、それが創価学会という前進の姿をもって、現実に実証を示し始めた時、それを妨害する勢力の動きも、また、あらわになってきた。他宗からの誹謗中傷は後を絶たず、遂には、世間のジャーナリズムの仮面を被って、創価学会に襲いかかってくるようになったのである。
 十月三十一日の本部幹部会の席上、登壇した幹部は、新聞や雑誌に、学会の誹謗記事が急に増えたことに言及し、初信者や入会希望者への影響を考慮して、注意を促した。
 「最近、また盛んに新聞、雑誌に、学会のことについて、いろいろと悪口を書いたものが出ているようです。まず、ある雑誌は、『全国の坊さん大あわて 宗教界のパルチザン日蓮正宗・創価学会荒れ狂う』と、大きな見出しをつけて書いています。
 また別の雑誌は、『政治団体か暴力宗教かその後の創価学会をさぐる』『赤と黒の戦略・戦術』という見出しで、とんでもない記事を書いています。また、もう一つ、新聞社系の週刊誌が、『地下の日蓮驚かす? ″軍旗″のある新興宗教』という題で、誹謗記事を載せております。
 内容は、いずれもくだらないデマですが、これを読む学会の人びとは、さまざまな受け取り方をしていることを、考えなければなりません。
 だいたい班長級以上の方々だと、自分たちが見聞している事実と、記事内容があまりにも相反しているので、少しも驚かず、黙殺しているようであります。
 しかし、自分が黙殺しているから、昨日今日信心した人も、黙殺しているだろうと思って、何も言わないですますことには、ちょっと問題があります。信心の日浅い方々は、学会のことをあまり知らないのですから、これら誹謗記事に対して、まだ免疫性が全くないわけです。それで、かなり動揺している人たちも、あると見なければなりません。
 これに対処する私どもの態度は、言い訳をするような態度であってはならないと思う。それらの悪質な記事と、わが学会のありのままの実態とを話せば、嘘と真実の識別は、誰にでもつくことです。堂々といきましょう。
 今後も、こうした誹謗記事は、次々と出てくるでありましょう。日蓮大聖人御在世の難を思えば、何ほどのことでもありません。私たちは、事実をもって、一つ一つ粉砕していこうではありませんか」
 幹部の一応の注意は、それはそれとして、会員たちの胸に収まった。だが、何よりも自らの生活体験が、学会誹謗に対する最大の反証であった。
 日常の実証によって、確信をもっていた会員たちは、悪掠な誹謗記事に紛動されることは全くなく、むしろ日々の学会活動への闘志を、かき立てていったのである。
 面白いことに、このころ、苦境を乗り越えた人びとの生活打開の話が、大新聞の地方版などに、しばしば紹介されたが、それらのうちの幾つかは、実に、わが学会員の話であった。
 九月九日付のA紙埼玉版は、「身体障害者福祉強調、職業更生週間」の取材で、与野町に住む学会員の、三十三歳の女性を取り上げた。紙面には、小児まひで身体に障がいをかかえた彼女が、努力に努力を重ね、ハンディを克服してきた涙ぐましい青春の軌跡を紹介した。
 また、同じ日、S紙埼玉版は、この女性の母親が、小児まひの娘をかかえた長い年月の茨の道から、見事に苦難を越えた物語を、九月十五日の「老人の日」(当時)に寄せて報道したのである。奇しくも、母と娘が、同じ日に、別々の新聞に登場したのだ。
 それは、学会員の功徳の実証が、動かすことのできない事実として、世間の目に強い感動をもって映ったからにちがいない。
 また、十月二十三日付のA紙の「暮しのぺージ」には、杉並区に住む四十二歳の婦人が紹介されていた。彼女の場合は、中国北部から引き揚げ、さらに夫と死別し、三人の幼い子をかかえての苦闘の生活記録であった。そこには、たくましく生き抜いてきた姿が、生き生きと描かれていた。
 彼女たちは、取材記者に、苦難の人生を開くことができたのは、創価学会の信仰による功徳であることを、熱心に語ったにちがいない。だが、記事には、信仰に触れた内容は、どこにも見られなかった。しかし、事実は事実である。取材記者たちは、現実の実証にまで、目をふさぐことはできなかった。
 「道理証文よりも現証にはすぎず」である。
 真実の宗教への眼を開くものは、動かすことのできない事実である。そこにこそ、無認識、偏見という壁を打ち破り、万人に、正義と真実を示しゆく証明の力があるのだ。
 まさに、実証の隠れもない力こそが、広宣流布という救世の民衆運動の光源といってよい。
 しかし、いまだ闇は深く、厚い雲に覆われた光源は、時折、閃光のようにひらめくだけであった。
7  十一月十九日のM紙に、思いもかけない報道記事が載った。公安調査庁長官という位置にある役人が、ある講演会で話をし、そのなかで、創価学会を破防法で取り締まるというようなことを言ったというのである。
 戸田城聖は、これを事重大と見て、十一月の本部幹部会で、この報道に言及した。
 「間違いないように、一つ言っておきたいことがあります。それは、先日のM紙に、公安調査庁長官が、学会の折伏行進は破防法にひっかかるとか、ひっかけるとかいう講演をしたという記事が出ている。
 これは、聞き捨てならぬもので、私としては、断固たる態度で臨まざるを得ません。なぜかならば、これが事実とすると、国家の役人たるものが、真実を知らず、おかしなことを言っているからであります。
 もともと破防法成立の時には、議会で、さまざまな異論が出て紛糾し、結局、国家の組織を破壊したり、社会の秩序ある生活を破壊するものに対する法律であり、かつての共産党がとったような、暴力的行動について適用する以外には用いないということを、この法の精神として、かろうじて通過したものであります」
 最近の、創価学会に対する悪意に満ちたデマ記事の氾濫に幻惑され、政府当局者までが、悪辣な策略に乗せられつつあると感じられた。
 その背景については、推察の域を出ないが、戸田にとっては、これほど心外なことはなかった。
 彼は、激しい口調で言った。
 「わが創価学会が、いつ、どこで、国家の組織を破壊したか。社会の秩序を破壊したか。新聞や雑誌が、正しく認識もしないままに、暴力宗教であるとか、神棚や仏壇を焼いたとか、壊したとか、そうした一方的で独断的な記事を報道しているにすぎない。創価学会は、布教において暴力を用いることなど断じてないし、また、神棚や仏壇を壊せとか、焼けとかいった指導は、今まで、一度たりともしたことはない。これは、皆さんもよくご承知の通りです。
 一部の無認識な報道に動かされて、破防法だなどと、とんでもないことを言っているのが事実とすれば、今の役人は困ったものです」
 しかし、同時に戸田は、世間の非難の根拠となっている誤解について、この際、はっきりしておかなければならないと思った。そして、彼は、愛すべき会員に、謗法払いに関する注意を促した。
 「この際、振り返って、われわれも留意しなければなりません。折伏の仕方、謗法払いの仕方に、こちらの行き過ぎも、一部にはあるのではないかと思う。仏壇を焼くようなことはしないでしょうが、問題は神棚だ。しかし、何も棚を壊さなくてもよい。棚の上にあるものさえ取ればよい。それを取るのも、『あなたが自分の意思で取りなさい』と言って、こちらが手助けしない方がよい。
 それを、しつこく、『あなたが取らなければ、私が取ってあげよう』などとやるようなことは、なかったかどうか。そういう謗法払いの仕方は間違いです。また、ご主人の承諾なくして、奥さんにやらせたりするのも問題です。そのところを、よくよく注意してください」
 戸田は、破防法の問題に、さっそく手を打った。彼の年来の親しい友人であり、元衆議院議員の弁護士・小沢清をして、公安調査庁長官に面談させ、その真偽をただしたのである。
 十二月二日午前、小沢弁護士は、公安調査庁で長官に詰問した。
 長官の言明によると、創価学会に触れたことは一言もない。もし、あるとするなら、テープでもなんでも持ってきてほしいということであった。するとM紙の恐るべき誤報といわなければならない。
 創価学会は、同新聞社に抗議した。
 渉外部長であった山本伸一は、紙面の担当者に面会した。新聞社は非を認めて謝罪し、十二月十四日の同新聞に、事実無根であった旨の訂正記事が掲載され、一カ月を経て落着した。
 だが、悪意のある誤報というものが、これで後を絶つというには、いたらなかった。創価学会の使命と目的が、いよいよ明らかな実証をもって現れる時、その前進を妨げようとする魔の働きも、思いもかけぬところから、火の手を上げるようになったのである。
8  この年の秋には、創価学会の大飛躍を示す行事が、次々と続いた。まず、十一月三日の秋季総会は、後楽園球場で、なんと七万余の会員を結集して行われた。春季総会の折、両国の国技館に入場できなかった万余の会員の嘆きは、この日の総会にはなかった。
 この大集会に、テレビをはじめ、新聞各社の記者やカメラマンも取材に訪れた。ところが、どうしたわけか、どの新聞も、テレビも、一言も報道しなかった。彼らは、救世の情熱に燃える幾万の庶民の大集会を、ありのままに報じることをためらったのである。
 その背後には、創価学会の急速な台頭に怯える既成勢力から、意図的に流された、悪意に満ちた学会観があったことは間違いない。
 また、彼らの判断基準に、長く権力の支配下で骨抜きにされ、堕落していた宗教界そのものに対する、批判的な眼があったことも否定できない。
 しかし、民衆に基盤を置く学会は、そうした宗教の範疇には収まりきらなかった。そこに、彼らの戸惑いがあったにちがいない。
 ある時、戸田城聖は、「マスコミが、″しまった″と思った時が、広宣流布だ」と、語ったことがある。
 広宣流布とは、まさに、日本社会に広く蔓延する、宗教への無知、偏見、そして隠微な悪意の誹謗の霧を払い、厳然たる実証によって、人類の太陽たる真実の仏法を、輝かせゆく戦いでもあるのだ。それはまた、御聖訓に照らして、地涌の行進を阻もうとする障魔との、熾烈な戦いになることも必定である。
 しかし、あらゆる障害を乗り越え、広宣流布は着々と進んでいた。
 十一月二十三日、総本山では、学会が建立寄進した奉安殿が、見事に完成し、落慶式が行われた。
 師走の慌ただしさのなかで、十二月十三日には関西本部の落成式が行われた。この新本部は、音楽学校の三階建ての校舎を購入し、改築、新装したものである。一階と三階に大広聞があり、数多くの教室は、そのまま各部の会議室や、事務室に割り当てても、なお余裕があった。
 この法城は、翌年の、華々しい関西の大飛躍の時には、連日、集まる大勢の同志の、信心からほとばしる歓喜と戦いの息吹で、大海原に揺れる巨大な母艦を思わせたのである。
 青年部も、この年の掉尾を飾る総会をもった。十二月十一日には、女子部六千余人が中央大学講堂と第二会場の本郷公会堂に集って第三回総会を開き、十二月十八日には、男子部が蔵前国技館で第四回総会を開催した。男子部十八部隊二万五千人のなかから一万五千人が参加し、翌年の飛躍に満を持して備えた。
 この総会は、国技館を揺るがす大拍手で終わった。しかし、戸田城聖は、積年の疲労が重なっていたのであろう。演台に歩を運ぶ時、かすかに足をよろめかせた。これは初めてのことであった。それを、山本伸一は見逃すことはなかった。彼は一人、ひそかに胸を痛めたが、そのことは誰にも言えなかった。
 十二月二十三日、この年、最後の本部幹部会である。戸田は、激動の一年を回顧して言った。
 「いよいよ、年の瀬も詰まって、今年一年を回顧してみますれば、遺憾なく戦った、と私は思います。
 これで三十万世帯の布陣がなりました。悠々と三十万世帯は出来上がりました」
 彼は、ここで、総本山に、奉安殿のほか四つの坊を寄進したこと、また、地方寺院を三カ寺、関西本部、そして蒲田、向島の二つの支部会館を建設できたことを報告した。そして、壇上に居並ぶ幹部を顧みた。
 「振り返って、長い間の折伏生活を考えるに、ここに座っている幹部は、大した人物ではありません。並べておいて言っては、申し訳ないが、なぜ大したものではないかというと、会長がどだい、大したものではないから、幹部も大したものではないという訳です」
 場内に爆笑が湧き、壇上の幹部たちは、照れて苦笑した。
 「しかし、私としては非常に嬉しい。というのは、よくぞ、ここまで育ったということであります。これは、功徳を全身に受けている証拠であります。
 かく考えてきますと、来年は、立派な前進ができると思います。今年の勢いで伸びていけば、七十万も八十万も容易でありましょうが、来年は五十万世帯にしたいと思っている。御本尊を粗末にするような学会員でなしに、十分、指導を行き渡らせて、皆に功徳を受けきった生活をさせてみたい。全世界に向かって、″どうだ、この姿は!″と言わせてもらいたいと、私は思うのであります。
 ですから、来年の五十万世帯の創価学会員は、こごとく功徳につつまれていただきたい。これをもって、私の来年度の抱負とし、確信にしたいのです」
 戸田城聖は、こう語って、一九五五年(昭和三十年)の幕を閉じた。
 ここ半年の上げ潮の勢いが、暴走に陥ることのないように、彼は、指導の徹底を訴えたのである。
 また、この年四月の統一地方選挙の時から、戸田は、胸中で練っていた翌年の参議院議員選挙の初陣に際しての完壁な支援活動も、考慮に入れていた。彼は、支援活動の勝利のためにも、多くの会員が功徳を満身に受け、その喜びと信心への確信が、組織の隅々にまでみなぎることが、必要であると考えた。功徳の喜びこそが、一切の力の源泉となるからだ。
 戸田は、会長として、来年は、この願いを御本尊に説に祈ることを決意していた。
 この年、創価学会は、十九万四千二百三十九世帯の折伏を敢行し、三十万世帯を、はるかに超えたのであった。
 (第九巻終了)

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