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日蓮大聖人・池田大作

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小説「人間革命」9-10巻 (池田大作全集第148巻)

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1  小樽問答は、当然のこことはいえ、見事な勝利で終わったが、戸田城聖にとっては、一つの突発した事件でしかなかった。
 このような事件が、北海道の一つの班で起こり、それが、見る見る拡大したことは、意外であった。
 当時、全国の各地で起きていた、他宗との数々の論争は、日常的なことになっていた。にもかかわらず、小樽での激突だけが、短日月のうちに、拡大して、広宣流布の歴史に残るような出来事にまでなるとは、予想だにもしなかった。
 戸田は、この突発事件に素早く対応して、適切な方策を立て、周到な用意のもとに、完壁な勝利を収めたものの、小樽問答が終わってみると、台風一過の感慨しか残らなかった。
 彼の孤独な思索には、前年の秋ごろから、彼をとらえて離さぬ大きな構想があったのである。その構想は、彼の頭のなかで、重苦しいまでに膠着して、深く根を張り、いつか新鮮な芽となって萌え始めていた。
 この構想とは、広宣流布の伸展にともなう段階において、いつかは展開しなければならない新しい展望への実践であった。彼は、この実践を、今、踏み切るべきか、それとも先に延ばすかという決断に、自ら迫られていた。
 ″時は、来ている″彼は、ある時、決然と思った。
 ″いや、時期尚早だ、まだ十八万世帯にすぎぬではないか。慎重を期すべきだ……″戸田城聖は、深い思いに沈んだ。
 彼は、原山統監部長に命じて、全国の学会員の詳細な分布図を作成させた。東京都を中心とした関東地方が、最も色濃く染められていた。それから東北地方の仙台と秋田、北海道の函館、関西の堺、九州の八女などが、比較的に学会員の密集地帯であることが判然とした。
 それから彼は、前回の全国統一地方選挙の詳細なデータを取り寄せて、統監部の手によって全国学会員の分布表と照合させてみた。概略の照合ではあったが、全国数十カ所にわたって丸印がついた。丸印というのは、その地域で、もしも、学会員のなかで適当な人物が地方選挙に立候補し、その人物のために、その地域の学会員が応援したとしたら、当選圏に入る可能性を含む箇所のことであった。このような地域が、いつかできていたのである。状況はまさに、彼に決断を、ひそかに迫っているといってよかった。
 広宣流布は、創価学会の会員の拡大だけを意味するものではない。御本尊を受持して信心に励んだ人は、まず、人間として自己自身を革命することは当然のことだ。革命された個人は、自己の宿命をも変え、家庭をも革新する。このような個々人の集団というものは、地域社会にも、一つの根本的な変革をもたらすはずである。いや、地域社会ばかりではない。それらの個々人は、あらゆる社会分野に英知の光を放ち、変革の発芽をもたらしていくであろう。
 政治の分野でも、経済活動の分野でも、生産活動の部門でも、教育や文化や、科学、哲学の分野でも、自らの生命を革命した、わが学会員の日々の活動というものは、その才能を十二分に発揮した蘇生の力となるにちがいない。それは、社会に大きな波動を与え、やがては新世紀への斬新な潮流となって、来るべき人類の宿命の転換に偉大な貢献を果たす時が来よう。
 これが妙法の広宣流布の活動というものだと、彼は心に期していた。
 戸田城聖は、しばしば、このような展望を、率直に人びとに語ったが、聞く人は、それを、ただ夢のように聞いていた。
 だが、彼が会長に就任して、本格的な広宣流布の活動を始めてから、わずか四年にして、彼の展望の若芽が、既に萌え始めていたのである。
 そこで戸田は、まず、一九五四年(昭和二十九年)の十一月二十二日、文化部の設置を発表し、鈴本実を文化部長に任命した。部長一人の文化部にすぎなかったが、戸田は、さまざまなデータを検討し、構想を練った。そして、その構想の若芽を放置して枯らすことなく、育ててみようと、彼は決意したのである。
 厳密な調査が進むと、創価学会員の全国分布図の上に、丸印は四十カ所余りにも達した。意外な数である。
 戸田は、分布図に目を凝らしながら太い息を吐いて、にっこり笑って鈴本実に言った。
 「ほう、こんなにあったか。あとは人の問題だな。私利私欲に目もくれない高潔な人材がいればいいわけだ。人選の方は、見当がついているか?」
 「いや、それが大変です。なかには政治的な経歴をもった人もおりますが、下手に野心的に動く人では困りますし、そうかといって、ただ信心が強盛なだけでは、どうにもなりません。人選は非常に困難な状態です。どこに基準を置いたらよいのか、先生、それに迷ってしまいます」
 新文化部長の鈴本は、思いあまったように顔を曇らせて、内心の弱音を吐露してしまった。
 そして、鈴本は、戸田の前に出ると、いつも思わず本当のことを言わずにいられない自分を不思議に思った。
 ″活躍の場はある。しかし、人がいない。文化部の前途は、まことに暗澹たるものだ″
 鈴本は、途方に暮れていたのである。
 戸田は、色の黒い彼が、目の縁に隈をつくり、青年らしさを失い、老い込んだように悄然としてしまっているのを見ていると、からからと笑いだした。
 「新しい仕事というものは、いつも難産だよ。だいいち、君を文化部長に任命することだって、なかなかの難産だった。人は誰でも、いい面もあるし、悪い面もある。その一面だけを取り上げて考えても、なかなか人選は進まないだろう。君を文化部長にしたのも、何人かの候補者のなかで、『この人より、こっちの人の方がいい』『いや、この人こそ適任ではないか』と比較検討を繰り返しているうちに、落ち着くところに落ち着いたわけだ。
 人選の作業は、厳正な比較対照にカギがある。私心や感情を去って、あくまでも目的に適った候補者は誰だろうと考える時、幾人もの候補者を比較しているうちに、やがて適任者が浮かび上がってくる。
 ある地域で大勢の学会員ができた時、そのなかに、中心者となり得る人ができていないはずはない。
 広宣流布は、どこまでいっても、結局は御本尊様の仕事です。自分たちがやっていると思うのは、一種の傲慢です。御本尊様の仕事なら、へマをするはずはない。その時、その段階で、中心者となり得る人はいるんです。悲しいかな、われわれ凡夫の目には、それが見えないだけだ。いつ、いかなる場合も、透徹した信心が要請されるわけだ。それで、われわれの凡眼も、仏眼の一部となることができる。
 ほかの世界ならともかく、わが学会のなかで人選の困難に逢着するのは、こちらの目玉に問題があるんだよ。
 御本尊様は、適任者となり得る人を、必ずつくってくださっているはずだ。よくよく透徹した目で、もう一度、よく見てごらん」
 鈴本実は、諄々と語る戸田の話に、自らの信心のいたらなさが、はっきりと思い当たった。彼は、返す言葉もなく、深い感動につつまれて、無言のまま戸田の顔を見つめていた。
 「わかったか!」
 戸田の言葉に、鈴本は、初めて我に返った。
 「わかりました。よくわかりました。ありがとうございました」
 「しっかりするんだぞ。君たちの戦いが、広宣流布の勝負を決する時が、いずれ来る。重い仕事だ。今、いよいよ新しい展開が始まったんだよ。
 まだ、世間の誰も気づいていないし、学会の幹部だって、この新展開をなかなか理解はしないだろう。適任者を探すよりも、この方が困難といえば困難なことなのだ。ともかく、各地域から文化部員を選定して、彼らを急速に育でなければならない。大小さまざまなことについて、なんでも私に相談しなさい。独断で動いてはならん!」
 戸田の叱時と激励は、いつもながら、鈴本実を奮い立たせた。戸田は、まず、文化部長を育てることから始めなければならなかった。
 鈴本実が、その夜から、真剣な唱題に取り組んだことは言うまでもない。そして、各支部の首脳と討議し、各地域に飛んで実態をつかむことに専念した。
 事は急を要した。四月に入れば、統一地方選挙が始まる。鈴本は、戸田の細かい指示を受けながら動いて、一月下旬になって、やっと成案を得た。
 全国の拠点のなかで、会員世帯の多い三十八の地域が選ばれた。東京都がさすがに多く二十一地域、関東地方が十一、東北三、北海道一、関西一、九州一の地域となった。各地域における人選も徐々に固まり、五十四人の文化部員の任命が、二月九日夜、本部二階広間で行われた。これらの文化部員のなかには、理事長の小西武雄や、鶴見支部長で、財務部長を兼任している森川幸二などの、古くからの幹部が含まれていたが、大多数は、地区部長や班長のなかから選抜されていた。
 新たな展開である。戸田城聖は、まだ力は未知数の、五十四人の文化部員を前にして、その出立を激励した。言葉は短かったが、彼の万感が込められていた。
 「真実の仏法を実践する人は、その資質を生かし、必然的に、社会にその翼を伸ばすことになる。いよいよ時が来たんです。諸君は、妙法を胸に抱き締めた文化部員であることを、いつ、いかなるところにあっても、忘れてはなりません。民衆のなかに生き、民衆のために戦い、民衆のなかに死んでいってほしいと私は願う。
 名聞名利を捨て去った真の政治家の出現を、現代の民衆は渇望しているんだ。諸君こそ、やがて、この要望に応え得る人材だと、私は諸君を信頼している。立派に戦いなさい。私は、何があっても応援しよう。今後、どうなろうとも、わが学会の文化部員として、生涯、誇らかに生き抜いていきなさい。ともかく、われわれの期待を断じて裏切るな!」
 新しい分野に巣立つ五十四人の新部員は、緊張した面持ちで戸田の言葉を聞いていた。それは、激励とも思われたが、また、新しい門出への惜別の言葉とも響いた。彼らは、二カ月先に迫る初陣を思い、不安と焦慮のなかにあった。しかし、戸田が、これまで厳愛をもって自分たちを育んでくれたのは、「今まで生きて有りつるは此の事にあはん為なりけり」であったことを、しみじみと悟るのであった。彼らは、断じて戸田の期待に応えようと、拳を握り締めて心に誓ったのである。そして、勇んで厳冬の街に出ていった。
 それから一カ月過ぎた三月八日、文化部員十三人の追加任命があった。これは、現職の教育者や、経済人で、長年にわたって、戸田の膝下で薫陶を受けてきた幹部たちであった。
 理事で杉並支部長の清原かつ、青年部長の関久男は、小学校教諭であった。中野支部長の神田丈治と男子部長の山際洋は、大学の教員であった。また、理事の春木洋次は、ある会社の常務取締役、文京支部長の田岡金一、築地支部長の大馬勝三、本郷支部長の佐木一信は、それぞれ自家営業の店主であり、支部長待遇の板見弘次、山川芳人、佐川久作らは、工場の経営者であった。
 第二次の文化部員の任命は、教育界や経済界に対する、戸田城聖の最初の布石といってよかった。
 もともと広宣流布の活動は、宗教革命を基本として、それによって、広く人類社会に貢献する活動である。日蓮大聖人の仏法が、行き詰まった現実の社会を見事に蘇生させることを目的とする以上、この宗教活動が、いつか社会化していくことは必然の道程であった。社会の各分野で活躍する人材を輩出していくという戸田城聖の構想は、水滸会や身近にいる幹部との会話で、しばしば語られていたが、政治改革は、未聞の活動領域であっただけに、現実の問題として認識する人は、ほとんどいなかったといってよい。戸田の壮大な構想を耳にしても、心地よいユートピアの夢物語として、歓喜するにすぎなかった。
 そのなかで、師弟不二の道程を着々と歩んできていた山本伸一だけが、戸田の予言的展望を脳裏に刻んで、秘められた理想を現実化するための、うかがい知れぬ多くの辛労を、戸田と共に分かち合っていたのである。構想が未開であっただけに、辛労の質もまた未開であった。
 文化部の活動に踏み出した、この最初の一歩は、まさに歴史的にも、画期的な第一歩であったといってよい。
 この新しい展開に示された戸田の構想は、最初から人類の文化活動全般に向けられていた。それは、人間の幸福の実現をめざす日蓮大聖人の仏法の実践展開として、必然的なことであった。したがって、文化部の活動は、政治の分野に限られるものではない。もっと広範な社会的分野における活動が、意図されていたのである。
 創価学会の存在を際立たせているものは、日蓮大聖人の仏法の唯一の正統派として、広宣流布を掲げ、立正安国をめざす実践活動に尽きるのである。この実践活動は即、一人の人間に人間革命をもたらす実践でもあった。
 自らの生命を革命したといっても、社会に生きる一社会人であることには変わりはない。その一人ひとりが、社会建設の新しい力を発揮していくはずである。そして、この慈悲の哲理を掲げた運動の波動は波動を呼び、やがて社会のあらゆる分野を潤していくことになるのも確かなことだ。
 いかにそれが、遠い道のりに思われようと、他に確実な方途がない以上、確信のあるこの道を、真っしぐらに進むよりほかに使命の完遂はない。
 戸田城聖は、広宣流布のはるかなる道程をつぶさに思いつつ、文化部の手塩にかけた要員をもって、社会を覚醒させる第一歩を踏み出したことに、油断のない配慮を、あらためて重ねなければならなかった。
2  一九五五年(昭和三十年)の統一地方選挙は、まず、全国四十六都道府県と五大市の議員選挙の告示が四月三日、投票日が四月二十三日、続いて東京都各区議会と、五大市を除く全国の市議会の選挙が、四月十五日告示、四月三十日投票日と決定していた。
 東京都議会には、大田区から小西武雄が立候補し、横浜市議会には、鶴見区から森川幸二が立候補し、それぞれ無所属で、地域の衆望を担って戦いを開始した。
 この選挙戦に面食らったのは世間ではなく、その地域の学会員たちであった。大多数の人びとは、選挙運動などしたこともなかった。おまけに、選挙といえば暗いイメージがつきまとっていて、買収や供応をしなければ、票などは集まらないものだと、人びとは決め込んでいたのである。
 ことに、これまで多少とも選挙運動に関係したことのある学会員などは、さも「選挙通」のような顔をして、非合法すれすれの術策を得意気に吹聴して、人びとを惑わせた。
 多くの学会員には、選挙運動即法律違反という通念があり、抵抗感をもつ人も少なくなかった。
 ″世間で横行しているような、汚い選挙運動をしなければいけないのだろうか。いや、それは絶対にできない。しかし、この戦いに敗れることも決してできない……″
 初めて経験する選挙運動に直面して、人びとは、さまざまな不安にさいなまれていたのである。
 文化部は、このたびの選挙に際して、公明選挙でいくという方針を、最初から強く標傍していた。買収や供応はもちろんのこと、選挙法に触れる活動は厳禁とし、しかも堂々と勝利することこそ、われわれの選挙に対する根本精神であることを宣言していた。
 慣れない選挙運動にあたって、学会員たちは、立候補した同志を支援する熱意は、まことに旺盛であった。しかし、ちぐはぐな雰囲気のなかで具体的な盛り上がりが、なかなか見られず、地域では当落の評判すら上がらなかった。
 それもそのはずである。候補者は、学会員の間では、かなり知られた顔であったとしても、世間では、全くの無名に等しかった。金もない、地位もない、広宣流布の熱い使命だけを胸に秘めた無名の新人に、他の対立候補者の陣営では、最初から、なんの注意も払わなかった。
 小西武雄、森川幸二のほかに、全国の都道府県議会議員の立候補者のなかで、学会員の支援を受けた候補者が二人いた。一人は東京都足立区で病院長をしていた区議会議員の女性医師で、都議会議員選挙に立った。彼女は、入会後、日なお浅い一組長であった。もう一人は、秋田市在住の市議会議員の経歴をもつ、土木建築業を営んでいた班長で、県議選に立ったのである。二人は、それまでに選挙活動の経験をもっていたが、それが、今度、初めて学会員の支援を受けることになったのである。彼らは、過去に慣れた運動方法に重点を置いた。そのために、全体として中途半端な活動態勢となり、学会員の支援は、十分な効果を発揮することがなく、結果的に、そろって落選の憂き目を見ることになるのである。
 小西、森川を支援する責任者たちは、徹底した公明選挙を標傍し、実践する以上、金は、一切、使わない、選挙事務所の必要経費だけにとどめると公表した。しかし、いわゆる「選挙通」は、それをなかなか受け入れられなかった。未経験の責任者は、まず、味方の陣営のなかにおける意見の分裂と戦わなければならなかった。この不統一による、人びとの不安は、告示になって、いよいよ選挙運動が実際に始まった時、青年部の室長である山本伸一の指摘で、信心の原点を思い出すことによって救われたといってよい。
 社会的名声も、金もない無名の候補者、それを支援する学会員も、また同じように地位も金もない。
 この一団が、多くの有力な対立候補者と味方の候補者を比較した時、彼らが必勝を期すためには、ただ一つ、不可能を可能とする信心しかないことに気づいた。
 山本伸一は訴えた。
 「世間的な通念からすれば、全くの劣勢で、泡沫候補の一人にしか見えないかもしれません。しかし、世間の人びとにはない黄金の信心だけは、日ごろの実践によって確立しているではありませんか。信心こそ唯一、最善、最高の武器です。多くの有力な候補者を敵に回し、戦って勝つためには、この無形の信心しかないではありませんか! 広宣流布をめざし、異体を同心とする者の信心の団結が、必ず一切を勝利に導きます」
 こうした伸一の呼びかけに応じ、学会員は、急速に団結を固くしていったのである。
 小西武雄の選挙事務所は、大田区・蒲田駅近くの線路際にあった。事務所の壁には、戸田が、この年の元旦に発表した和歌、「妙法の広布の旅は遠けれど共に励まし共々に征かなむ」が、墨痕鮮やかに掲げられていた。
 地域の首脳幹部は、ほとんど総出で、事務長には理事の春木洋次があたり、男女青年幹部は、事務の処理や電話の応対、遊説の企画などで多忙を極めていた。年配の会員数人は、看板作りに精を出していた。すべて手弁当である。活気みなぎる事務所は、人びとの幸福の実現という遠い旅路を、確実に歩んでいる姿を呈していた。
 立候補者十九人、定数八人の激戦のなかで、底抜けに明るい事務所は意気軒昂であった。
 告示三日後の四月六日、大田区民会館で行われた個人演説会に、戸田は応援に駆けつけた。無名の小西候補のためか、聴衆の大部分は学会員で占められていたといってよかった。
 戸田は、一般聴衆のために用意してきた演説の内容を、急遽、変更しなければならなかった。彼は、まず、小西の人柄を語り、かわいい子を旅に出すような気持ちであると、心境を語りつつ、今回の政治活動の本義について、次のような文化活動の見解を述べた。
 「文化活動、また当面している政治活動というものは、立正安国の大構想から見るならば、一つの分野の活動にすぎません。そして、今回の戦いは、その展開の第一歩を踏み出したところです。いわば試験管の段階だといってよい。まだまだ幾多の分野で、妙法を開花させていかなければならない戦いが待っているんです。
 今度の戦いでは、みんなにご苦労を願うことになるが、これが立正安国のための本格的な闘争であると思ったら大間違いです。それこそ困る。まだ一分野の第一歩の展開です。
 本当の日本の国の平和と安泰を思う時、政治の分野では衆議院にも参議院にも、真に民衆のために体を張っていく妙法の使徒が、数多く輩出されなければなりません。これは、教育の分野にも、また芸術や科学といった世界にも通ずることです。
 最近、『学会として選挙で応援してくれませんか』と言ってくる世間の人がおります。私は、断じて拒否している。私は、政治のための政治をしているのではありません。あくまでも日本の民衆の福祉のために戦うんです。政治は、そのための一つの手段です。
 だから、その目的を真摯に実現しようとするものであれば、必ずしも、党派には、こだわるものではありません。政治には政党がある。それぞれ民衆に日常生活の幸福を与えようとするための政党でしよう。願わくは、名実ともに、そうであってほしいと思う」
 彼は、この時、さりげなくこのように述べたが、現実の政治が、いかに腐敗堕落しているか、また、政党が党利党略に走って、民衆を党勢拡大の手段としてしか見ていないことを見抜いていた。彼は、こうした政治の現状を直視する時、将来、民衆のために、民衆のなかで死んでいく決意の、清廉な人びとの合意として、あるいは政党を結成する必要もあるかもしれない――という思いを脳裏によぎらせながら、最後に決意の言葉を披瀝した。
 「私の立場は、政治、経済、文化のすべての分野にわたって、それを根本的に変革しようとする次元にあるのです。私は、どこまでも、創価学会の会長として貫いていくだけです」
 戸田は、応援演説に来て、文化部が候補者を立てたのは、政治的野心に基づくものではなく、ひとえに民衆の幸福と、社会の平和、繁栄を願う一念より発したものであることを、言明しなければならなかった。つまり、創価学会が政治化したのではなく、その念願を達成するための一分野の活動にすぎぬというのである。この彼の言明は、この時、多くの聴衆であった当時の学会員からの、深刻にして正鵠を射た理解を得るには遠かったにちがいない。まして、一般世間の人びとにとっては、さらに、なんのことやら、わからなかったであろう。
 民衆の物心両面にわたる幸福について、その責任を自らに課した戸田は、政治の病根を深く洞察していた。彼が、こよなく愛した民衆は、相も変わらず政治の重圧に喘いでいる。それが、まぎれもない現実であった。
 ――私利に走り、党略に没頭して、権力の争奪に専念する政治家たち。そのような政治家の徒党集団と化していく政党。そして政治から置き去りにされ、その犠牲となるのは、常に民衆である。戸田は、民衆の怒りを肌で知っていた。しかし、権力悪の根源を見抜いていた彼は、民衆の怒りを、直接、政治勢力化して行動を起こしたとしても、それだけでは、真の民衆のための政治の実現という根本的な変革からは、程遠いことも承知していた。
 戸田城聖の醒めた心は、彼の半生の結論として、政治の世界に巣くう権力の魔性の存在を、疑うことができなかった。本来、民衆の平和と幸福に奉仕すべき政治が、いつの間にか民衆を苦しめる魔力と化していく――その現実を鋭く見抜いていた彼にとって、政治の根底的な変革とは、魔性との戦いにこそ、その焦点があることは明白であった。
 一つの政治権力が打倒され、新たな別の政治権力が登場しても、その魔性は消滅しないことも、彼は知っていたのである。十九世紀から二十世紀にかけ、世界では、さまざまな政治体制の国々が生まれた。しかし、依然として民衆は、政治権力の魔性から解放されたとは言いがたい。どう政治体制が変わっても、いつしか民衆を苦しめる魔性に支配されていく。その愚かな権力の流転の歴史を、戸田は思わずにはいられなかった。この途方もない愚劣さからの脱出――それこそ、民衆が心底から渇望しているものであろう。それは、もはや政治の次元で解決のつく問題ではないのだ。
 戸田は、早くから、こうした問題の本質を、明らかに洞察していたのである。
 民衆の平和と幸福のためになるのであれば、どんな政治形態であっても差し支えないだろう。彼は、政治形態を批判していたのではない。政治そのものに巣くう魔力が、問題の焦点であった。それは、政治権力を握った者、政治家の内にこそ潜んでいることは理の当然である。魔は、自由主義体制や社会主義体制に潜んでいるのではない。それらを支えている政治家、その人間の内部に巣くう魔の力が、それらの体制をむしばんでいることを、彼は問題の帰結としたのである。
 すべての人間は、十界を具しているとする仏法の真理に照らす時、魔の正体は初めて明らかになる。政治権力の魔性も、人間生命に焦点を合わせた時、発生の根拠を初めて知ることができる。
 世間の人びとは、この事実に全く気づいてはいない。そればかりでなく、仏法の原理をもって迫っても、耳さえ貸そうとしない。そして、今も権力をめぐる争いのなかで、多くの民衆は、いたずらに犠牲となっているだけだ。これ以上の人類の愚行はないはずだ。しかも、愚行の歴史は数千年にわたっている。
 彼は、立正安国の大事業たるゆえんを、思い返した。そして、この大事業の責任の重さと至難さとを、孤独の心に、いやでも自覚し、自らに鞭打っていたのである。
3  戸田の任命した文化部員の中から五十数人が、各地で立候補したが、今のところ、彼らの政治的な実力は、まことに未熟であった。しかし、戸田から受けた薫陶によって、政界の魔力と戦う力を備えているはずである。そうだとしたら、全く新しい政治家の誕生といわなければならない。
 この五十数人は、まだ微々たる存在にすぎないだろう。彼らの行動が、たとえ、どれほど正義感にあふれ、勇敢であったとしても、汚濁にまみれた今の政界の狂乱のなかで、埋没してしまうかもしれない。
 しかし、これら文化部員が、確固たる使命感を堅持していくならば、今後の文化部員の増大と相まって、五年、十年、二十年の先において、どのような勢力を形成するか、それは期して待つべきものがあることは確かである。
 戸田は、今の五十数人の文化部員の初陣が、ほとんど目立たない布石にすぎないことを承知していた。彼は、着実で余裕のある指揮を執ったのである。同志的な団結がありさえすれば、不慣れな戦いも、有利に働くにちがいない。それには、何よりも信心による団結を呼びかけなければならなかった。「信心で勝つ!」――それが戸田の信念であった。
 戸田は憂慮していた。選挙運動が、単なる世間並みの皮相的な活動に終始して上滑りしたら、落選の危険は極めて大きい。彼は、信心を忘れた活動に陥ることを、何よりも恐れた。
 告示から数日過ぎて、彼は、そのため山本伸一を、急速、呼び、大田区の小西武雄と、横浜市の森川幸二の選挙の、最高責任者として指揮を執ることを指示した。
 戸田の意を受けて、山本伸一が小西の選挙事務所へ行ってみると、果たして戸田の憂慮が杷憂でないことがすぐわかった。事務所の空気に、いやなものを感じた。告示から、はや五日を過ぎているのに、沈着な力強さは感じられず、幹部は、いたずらに大言壮語を口にした。明確な目標を立てて、一日一日の戦略を固めているものとも思えなかった。
 見てくれの無駄な動きが多すぎた。大多数の学会員には、選挙だ、選挙だ、という言葉は浸透していたが、では、何をどうするのかという具体的な態勢は、まことに劣弱であった。ただ、われも、われもと、事務所に顔を出すことが、あたかも選挙運動であるかのように思い、手持ち無沙汰であった。事務所は、いつも学会員であふれ、拍手が起こり、はなはだ景気がよかったが、実質的な戦いは足踏みしているといってよかった。
 活動の主力は、遊説隊、ビラ張り、ハガキの宛名書き、対立候補の動きをつかむことなどに注がれて、幹部は、茶を飲みながら、雑談に費やす時間が多すぎた。
 山本伸一は、事務所を後にし、街頭に出た。各所の街頭演説を耳に聞き流しながら、十数人の学会員を激励して歩いた。さすがに小西武雄の立候補は知っていたが、ほとんどの学会員の口からは、支援活動の積極的な話は出ない。家族の票の行方すら、あいまいなのである。彼は、事務所は浮いてしまったと思った。
 ″大事な組織は、今、仮死の状態に陥っているのではないか。同志的団結は、選挙に流されて、なんの力も発揮していない。信心は、いつ、どこで消えてしまったのだろう″
 事務所に帰った伸一は、暗然として多くを語らず、騒然とした人びとの挙動を眺めながら、一人、打開策を練り始めた。彼は、このまま、ずるずると中盤戦に入り、終盤戦を迎えたとしたら、待つものは落選かもしれないと、最悪の事態を考えた。そして、その時の純真な学会員たちの落胆をしきりと思ったが、その夜は、何も言わずに、翌晩の首脳会議を指示しただけで帰った。
 翌日、山本伸一は、学会本部の御本尊の前に端座して、長時間の唱題をした。彼は、不退の勇猛心がたぎるのを覚えた。会長室に行くと戸田は、彼の心境を直覚したにちがいない。心痛の面持ちで、ひとこと伸一に聞いた。
 「どうもおかしいぞ、どうなんだ?」
 「残念ながら、組織が活気を失っております。選挙テクニックに信心が流されてしまった感じです。このままでは、それこそ危険ですので、私も腹を決めました。必ず為すべきことは、ちゃんとしますから、どうか、ご安心なさってください。ご心配かけ、申し訳ありません」
 伸一は、言い訳をしなかった。決意にみなぎるものを認めた戸田は、深く頷いた。
 「わかっているなら、それでいいよ」
 戸田は、すぐさま話題を変えて、先日、取材に来た、雑誌『真相』の内容は、おそらく驚くべき学会誹謗記事になるであろうと語り、今後も、選挙のたびに、このような悪口罵詈が重なるにちがいないと、伸一に教えた。
 「十日には向島支部の総会がある。それをすまして、その日の夜行で大阪へ行かねばならない。しぼらく留守にするから、油断なく頼むよ」
4  大阪では、十一日、学会が建立寄進した新寺院・浄妙寺の落慶入仏式が挙行されることになっていた。選挙があろうとあるまいと、学会行事は、いささかの変更もなく推進することが、たゆみない広宣流布の姿でなければならない。
 伸一は考えた。
 ″座談会その他、日常活動を、一層、活発化することによって、まず、組織の活力を取り戻さなければならない″
 その夜、伸一が、決意を秘めて大田区の首脳会議に出てみると、大言壮語の裏に、これでよいのかと、何かしら不安を感じ始めている人が多くなっていた。楽観を装っている表情には、わざとらしい不自然さがあった。
 果たして、このまま進めばよいかとなると、不安のままに、さまざまな意見が続出して、いつか真剣な討議になっていった。しかし、論議は、どこまでいっても末梢的な方法論の域を出なかった。
 流されかかっていた信心は、支援活動のうえに漂ってしまっている。このまま推移すると、選挙活動が激化する終盤戦になれば、信心は、支援活動にのまれてしまって、姿を没するだろう。
 伸一は、この危険な兆候を見逃すことはできなかった。討論の末、内心の不安があらわになった一座を見渡して、彼は穏やかに話し始めた。
 「われわれの今度の選挙の実態というものを、よく冷静に見極めてほしい。まず、候補者だ。学会でこそ、理事長であり、支部長であり、最高首脳の一人で有名であるかもしれない。しかし、大田区の大部分の区民にとって、小西武雄といったって、果たして何パーセントの人が、″ああ、あの人か″とわかるだろうか。まず、区民にとっては無名の人です。社会的な名声も、地位も、権力、金力もない一介の庶民です。だからこそ、われわれの代表として、都議会に送るに足る高潔な人材ということができる。
 翻って、支援するわれわれも、これまで政治とは、ほとんど縁のなかった庶民の一人ひとりにすぎません。これまで社会的にも、政治的発言においても、全くの無力の集団であったといってよい。それで、政治権力の魔力のために、ずいぶん長いこと苦しめられてきた階層です。
 つまり、世間では問題にもしていない。新聞の選挙情報などでも、まだ小西武雄のことは、ろくに名前さえも、あがっていないじゃないですか。
 これは、戦略的にいうと、敵は油断をしているわけで、ありがたいことでもあります。しかし、私たちが、世間並みの、通り一遍の選挙活動のまね事をしても、看板、カバン、地盤、つまり名声も、金も、選挙地盤もないわれわれの戦いに、勝ち目のあるはずはありません。
 また、そんな汚い選挙をしたいとも思わない。正々堂々たる理想的な選挙をやって、勝ってみせなければ、まず、立候補した意義もないし、政界の浄化も、果たすことはできません。
 では、何をもってわれわれは勝つか。今、問題は、この自覚の深さにかかっている。なんだと思います?」
 山本伸一は、ここで言葉を切って、一座の反応を、じっと見守った。一同の熱っぽい視線は、ことごとく彼に集まっている。しばらく静まり返って、身動きする人もない。それぞれの発言が、喉につかえていた。
 「何をもって勝つんです?」
 再び伸一が繰り返した瞬間、一人の青年が、口ごもりながら言った。
 「団結です。同志の団結です」
 「そうです。それ以外に何ものもない。しかし、団結といっても、政治屋の団結ではない。われわれは、同志の団結という以上、信心の団結でなければならない。全人類の宿命の打開のために生涯をかけた人びとの、御本尊を中心とした団結、それがどんなに力のあるものか、今度の活動で、はっきりわかるでしょう。
 われわれは、選挙のための選挙をやっているのではない。しかし今は、選挙、選挙と先走ってしまい、なんのための選挙かということも忘れて、日ごろの学会活動なんか、かまっておれるかということになってきた。信心を邪魔にさえ思い、選挙一辺倒でなければ、勝てないように錯覚している。
 焦る気持ちは、よくわかるが、広宣流布の戦いは、広大で長遠です。人類の平和と文化を推進していく総合的な戦いです。たかが目前の選挙ぐらいで信心を見失っていて、どうしますか。信心の原点を忘れて、いったい、われわれに何ができますか。
 今こそ、信心で奮い立ち、広宣流布というものへの広い視野と、深い自覚に立って、自主的に総立ちすることです。
 座談会も、地区講義も、堂々と開くべきです。家庭指導も、さらに活発にやらなくてはならない。いつの間にか選挙体制にしてしまった組織を、もとの信心の組織に戻して、それを強くすることが、今、いちばん大切な緊急事だと、私は考えています。どうでしょうか?」
 山本伸一は、日常の学会活動の一切を選挙運動に切り替えるのではなく、日常の学会活動のうえに、臨時に選挙運動が加わったのだということを、諄々と語った。そして、この活動方式以外に、おそらく確実な勝利の道はないだろうと断言した。
 「妙法の使命を胸に秘めて立候補した同志を応援する――この使命を同じくする人の団結ほど強く、また尊いものはありません。この実践活動が、立正安国を、一歩一歩、進めているんです。やろうじゃないですか!
 心の底から使命を自覚した私たちの力は、どんな困難をも乗り越えていくことができます。お互いに、しばらく忙しい思いもするでしょうが、これも広宣流布の途上における一コマです。未聞の歴史の幕を開こうというんです。しっかり頑張ってみようじゃありませんか。今日から指揮の責任は、私が取らせてもらいます。安心して戦ってください」
5  これまで口には出さなかったが、不安に駆られていたメンバーは、今、初めて安堵の表情に変わってきた。警察の目を気にしなければならないような選挙活動をする必要はなく、堂々と、信心の活動を推進していけば、それが勝利につながるのだと、一同は、この時、知ったのである。
 有名無実な浮いた組織編成は、実質的な活動しやすい編成に変わった。もはや、迷う必要はない。信心を根本に、思う存分の活動を堂々と、しさえすればよいのだ。並みいる人の顔に、さっと新しい息吹のみなぎるのが、よくわかった。
 翌日、山本伸一は、横浜市の鶴見区に向かった。横浜の市議会議員に立候補した森川幸二支援のためである。市場町の目抜き通りの事務所は、激しい人の出入りでごった返していた。
 伸一は、ここでも無駄な動きが多すぎると見て取った。無理もない。初めての選挙に戸惑いながら、皆、もう夢中で走っていた。恐るべきは信心の上滑りである。定数十一人に対して、二十五人という多数の立候補である。熱戦の展開にあおられて、森川の陣営は、いたずらにカッとなって、無我夢中の戦いをし始めたところだった。早くも乱戦である。指揮する首脳部も沈着さを失って、ここでも、組織は浮いてしまっているように思われた。
 伸一は、急遽、ここでも、首脳幹部と膝を交えて懇談した。彼は、大田区の時のように、なんのための戦いかと、目的をまず明確にし、その目的を達成するためには、何をもって戦うべきかを、切々と訴えた。いわゆる選挙戦にとらわれてしまっていた幹部たちの頭は、最初は、いささか抵抗を示したが、伸一の信心の慈水が、じわじわと染み込むにつれて、翻然と覚るにいたった。そして、呼び覚まされた深い祈りは、不安を克服し、必勝の確信とさえなって、新しい着実な活動に入った。
 伸一は、東京都大田区と、横浜市鶴見区の状況から目を離さなかった。彼は、人びとの選挙運動については、その自主性を最大限に尊重し、助言はしたが、制約や強制は、絶対に避けるよう固く戒めた。
 公明な理想選挙を行うものこそ、わが創価学会でなければならぬという信条を、固くいだいていたからである。
 何もかも、新しい展開であった。新しい展開の、新しい実践であった。
 これらの戦いのさなか、四月十五日は、東京都の区議会議員、全国の市議会議員の統一地方選挙の告示日であった。
 東京都の二十の区から、三十二人が一挙に区議会議員選挙に、三鷹市から一人が市議会議員選挙に立候補した。その他、関東地方からは、神奈川県の三市、埼玉県の五市、千葉県の二市、群馬県の一市から計十二人が立候補。また、宮城県の仙台市から二人、塩釜市から一人、北海道函館市から一人、秋田県秋田市から一人、大阪府堺市から一人、福岡県八女市から一人が、市議会議員選挙に立候補した。総計五十二人の文化部員の立候補である。
 全国的に見て、立候補地は、ひどく偏っているが、これは、当時の学会員分布の濃淡を、まさしく物語っている。
 戸田城聖の出獄以来、十年の間に、膝元の東京都は急激な発展をし、当時、一足遅れて地方都市への進出も図られていたが、まだ機は十分に熟してはいなかった。中央と地方との隔たりは、かなり、はなはだしく、中央から地方への派遣指導が、ようやく日常活動のなかで活発化してきた段階だったのである。
 小西武雄も、森川幸二も、所属政党はなく、無所属で立っていた。区議会議員、市議会議員に立候補したメンバーも、大多数は無所属であったが、そのうち五人は日本民主党から、一人は右派社会党を所属政党として立候補していた。
 この事実は、いささか注目に値することであったが、世間でも、学会内でも、誰も問題にする人はいなかった。これは、戸田城聖の政治に対する根本姿勢に由来するといってもよい。
 宗教者としての彼は、長年、手塩にかけて育ててきた多くの文化部員を、なんらかの政治目的を意図して立候補させたのではなかった。既成の政治家たちの質について、彼は、ほとんど絶望していたのである。虚飾に満ち、名利名聞を事とし、民衆の犠牲のうえに、権力者として傲慢な保身を続ける政治家という人種に、我慢ならなかった。
 彼は、彼自身、一人の庶民として、民衆をこよなく愛していた。政治悪による、民衆の重なる不幸を思う時、彼の義憤は、胸中に煮えたぎっていたのである。
 一庶民・戸田城聖の、これまでの人生を振り返って見るまでもない。軍国主義に迎合した政治家たちの無能の指導は、数千万の民衆を塗炭の苦しみに陥れ、その帰結として敗戦を招き、今なお多くの民衆は再起の苦悩に、あえいでいなければならい。いったい、どの政治家が、この事実を直視しているのか。
 彼自身の戦時中の苦悩、恩師・牧口常三郎と共に獄につながれ、牧口を獄死させてしまった心の傷痕は、政治悪への直接的な義憤となって残っていたのである。
 彼は、やがて政党を組織して戦う時が来ることも予測しないわけではなかったが、今は、民衆の幸福の実現に挺身する政治家を育てることに眼目を置いていた。帰するところは人間である。行動の主体者である人間のいかんが、すべて行動を規制している。これは、もはや疑う余地はない。
 戸田は、あらゆることの帰結として、人間に焦点を絞らなければならなかった。人間、この厄介なるもの――との厄介なものは、掲げた理想にもかかわらず、政治悪をも生み出すのである。そして、時に、悪魔にも、天使にもなり得るのが人間である。
 問題は、まともな人間としての政治家を、いかにして育成するか。現代の政治の退廃を思う時、まず、この命題から出発しなければならない。
 いくら民衆の幸福と平和を願ったとしても、権力志向の政党という政党は、ひとたび政治権力を握ると、権力に潜む魔性を発揮して、民衆を犠牲にして恥じるところがなかった。この魔性とそ、権力に潜むように見えて、実は、人間の生命に、もともと潜在するところのものだ。
 権力は縁にすぎぬ。政治の改革は、政治的次元で事足りるように思われているが、政治体制が政治をするのではなく、根源的に言って、人間の行為に発するところのものである。しかも、政治力が人間をも改革するといった、思い上がった錯覚は、現代政治家のいだく通弊となっている。
 政治の退廃は、この辺にあると、戸田は考えた。つまり、政治の退廃は、政治家の退廃であり、人間の退廃にほかならぬ。
 この退廃は、現代の社会現象のすべての分野に通じるものとはいえ、権力をもっ政治の世界の退廃は、それが民衆の日常生活の幸・不幸に直接、影響を及ぼすゆえに、戸田城聖は、まず、そこに重大な関心を払わざるを得なかった。
 それぞれの政治目的を掲げる政党に、民衆のそれぞれが全幅の信頼を寄せることができるなら、それでよい。しかし、信頼を裏切られて、政治不信に陥っている民衆が、いかに多く眼前に存在することか。彼らは、心から信頼するに足る政党を求めているというより、信頼すべき政治家たちの集団としての政党が、なんとか実現しないものかとの思いに、暮れているといってよい。
 戦前、戦中と、政治に欺かれ通してきた民衆の悲願が、戸田城聖には、痛いほど胸にこたえていた。
 この悲願は、戦後の民主化の波に乗って叶えられるかに思われたが、十年たった今、それは後退の兆しを見せながら、くすぶり続けている。このままでは、未来には絶望しかないといった方がよい。この絶望の行き着くところに、帰結として、政治するものの人間の問題を、彼は見ていたのである。
 戸田は、政治分野において、妙法を生命に刻んだ人間を、彼の手で育ててみようと思った。その人間が、今は、無名であろうと、無力であろうと、民衆の苦悩を一身に担って、あらゆる社会的苦難に身をもって邁進する政治家として、やがては、見事に成長するであろうことを確信しながら、それを願った。
 彼は、その種子を、人知れず、各所に蒔きたかったのである。彼が育てるというよりも、彼が忍耐強く慈しみ導きさえするならば、妙法をいだく限り、その人間は見事な信頼すべき政治家として、成育するにいたるはずである。今、五十数人の文化部員は、見渡したところ、正直言って、傑出した力を既に備えている人は皆無といってよい。しかし、彼は、何よりも妙法を信じた。
 二陣、三陣と続くうちには、政治分野の斬新な開拓も始まるであろう。二十年、三十年、五十年のうちには、輩出した文化部員のなかから一人くらいは、人格、識見、手腕を兼備し、衆望を一身に集め、すべての党派を超えて、際立った政治家が出現することも、可能であるという確信を、彼は、いだいていたのである。
 妙法の偉大な無限の力は、そのような政治家の出現をも可能にするはずである。妙法の大地に育つ文化こそ、真の人間復興の文化である。その文化の一翼を担う政治家が出現すればいいのだ。彼は、今、それまでの忍耐強い育成を、自らの使命として課し、その第一歩を踏み出したのである。
 戸田城聖は、今すぐ政党にかかずらう必要は毛頭ないと思った。文化部員の立候補者たちが、それぞれ身に合った政治理念をもっ政党に所属して、立候補することも差し支えない。身に合った政党がなければ、無所属で結構である。
 やがて、妙法を生命に刻んだ、多くの政治家が育っていくならば、その政治家たちは、衆望を担って、民衆の期待に応え得る斬新な政党を、組織する運びにもいたるであろう。民衆の信頼は、それを力ある政党に育て上げ、民衆の望む政治変革の実現を可能にするだろう。これが広宣流布の、政治分野における道程というものだ。
 今は、まず、人間を辛抱強く育成することが急務であって、人間革命された政治家とは、どのような政治家であるか、映像は、戸田の心のなかに秘められているというより仕方がなかった。
6  戸田が、政治と宗教の根本問題について、真摯に考え始めたのも、このころのことである。彼は、これまで水滸会の青年たちに、政治が真に民衆のための政治であるためには、心ある青年が、政治を厳しく監視すべきことが必須条件であることを、大前提として、常々、口にしていた。
 「諸君は国土であって、いわゆる宗教家ではない。国に力ある十万の真の国士があれば、国は救えるのです。さて、その国士だが、今の世の中に、私が国士として遇することのできる青年が、どれほどいるのか。寥々たるものだ。残念なことだが、仕方がない。
 私が、今、こうしてやっていることは、ここにいる諸君を、妙法によって、国士として育てているのです。やがて、あなた方に巣立つ時が来るだろう。そうしたら自信をもって、思う存分、大空を天翔あまがけてほしい」
 青年たちは、自分たちが、戸田の希望をかけた未来を担うものだとは、わが身を顧みて、にわかに信じられなかった。しかし、信心に透徹するならば、あるいは、戸田の期待にも応えられる自分になれるかもしれないと思った。
 「先生、国士というと、われわれは、みんな政治家にならなければならないのでしょうか?」
 一人の青年が、困ったように、思い詰めた表情で戸田に聞いた。
 「そりゃあ、政治家として立つ人もいるだろう。学者として、あるいは経済人として、また、教育者、科学者、芸術家として、それぞれの資質をもって立てばいいんです。
 私の言う国士というのは、それぞれ道は違っても、国の現状と民衆の苦悩を肌に感じて、心から憂え、しかも、それを救いきっていける、確信と実力をもって行動する妙法の革命児のことです。さらに具体的に言うならば、広宣流布の遂行者といってよい。明治維新の時の、いわゆる志士などとは、質において全く異なったものでなければならない」
 彼は、続けて、明治維新の志士たちの人物論を、彼独特の見解で面白く語った。そして、殺裁と闘争によって、どんなにか優れた人材が次々と殺され、多くの民衆は、どれほどの犠牲を強いられたか、いかに悲惨事をともなった革命であったかを、痛憤するように、まざまざと語っていった。
 「一流の青年志士は、革命の途上で、ほとんど倒されてしまい、二流、三流の人物が生き残って明治政府を立てた。しかし、権力を握った彼らは、徐々に堕落していきます。迷惑を受けるのは、いつも大多数の民衆だ。これでは、なんのために、あのように多くの尊い血を流したのか。歴史の皮肉というよりほかはない。これまでの革命という革命は、血と犠牲のうえに成り立ったといってよい。こんな革命は、もうごめんです。戦争と同じく、人類の愚行じゃないか。
 われわれが、これから断行しようとしているのを革命というならば、無血で、一人の犠牲者もともなわない革命です。未聞の革命です。労苦は厭うところではない。それができると、私は確信しているんです。
 こんなことを、今、言っても、世間の人は、誰一人、耳を傾けはしないだろう。君たちだって、どの程度、理解しているか疑問だ。歴史上、前例がないから無理も、ないが、私は、断じて夢にはしない。やがて広宣流布が実現した時、人びとは、『あっ』と驚いて、われわれを賞讃するにちがいない。
 それまでは、苦難と労苦と中傷の嵐のなかを、忍耐強く、毅然として進まなければならない。予想もしない大きな難にも遭遇するだろう。その時こそ、固い団結で乗り越え、乗り越えて、進まなければならんのです。その時、ここにいる諸君のなかで、仮にも、退転するような意気地なしが出てはなりませんぞ!」
 戸田の眼光は、青年たちの心を鋭く射ていた。目をそらす人はいなかった。青年たちの目は、ひたと戸田の顔に焦点を絞り、一瞬、火花が散るように輝いた。
 戸田城聖は、この時、青年たちのなかで、彼の言う妙法を根底とする革命を、社会主義革命との対比において考えている者が、少なからずいるのではないかと思った。現代に生きる青年としては、当然のことかもしれない。
 政治と宗教の問題は、社会主義体制のもとにあっては、鋭く対立せざるを得ない。政治権力による宗教抑圧政策は、日蓮大聖人の仏法といえども、その存立を危うくされるにいたるだろう。そのような懸念が、青年たちの心に、重くのしかかっていることを、彼は見逃さなかった。
 「日蓮大聖人は、当時の既成仏教を破折されたが、マルクスも宗教を阿片として批判した。一脈相通ずるものがないとはいえないが、彼は、ヨーロッパ文明の背景であるキリスト教、なかんずくプロテスタンティズムに焦点を当てて、それをもって宗教一般を批判してしまった。大聖人は、宗教の正邪の識別を叫ばれ、誤った宗教の根絶を念願とされた。しかし、マルクスに、宗教について十分な知識があったとは、私には思えない。
 もしも、マルクスが、大聖人の仏法を知っていたとしたら、彼は、あのような性急な結論を下さなかったにちがいない。また、もし、マルクスが大聖人に会って話し合ったとしたら、おそらく三歩下がって敬服したにちがいない。マルクスともあろう人物が、それくらいのことを気づかぬはずはない。
 残念なことだが、彼は、大聖人の仏法の存在を知らずに、宗教を批判していた。一口に宗教といっても、大聖人の仏法と、他の宗教とは、根本的に違うんです。マルクスの信奉者は、このことを考えようともせず、彼の宗教否定の言説を、ただ信奉しているだけです。しかし、人類の運命が危機に遭遇し、切羽詰まったら、人間の知恵は、やがて大聖人の仏法に着目するにちがいない。われわれの広宣流布の活動というものも、君たちが想像しているよりも、実に壮大な規模をもっているんです」
 戸田は、かねてから、マルクスの資本主義社会に対する精緻な経済分析の独創性については、大いに買っていて、称揚さえしていた。彼は、マルクスという人物が、宗教万般については、ほとんど無知といってよいほどの知識しかなかったことを、惜しんでいたのである。
 カール・マルクスは一八四四年、パリで『独仏年誌』に『ヘーゲル法哲学批判序説』という小論文を発表した。
 この小論は、彼の宗教観を知る著名な論文となったが、彼が、いったい、どの程度、宗教というものを理解していたかを、つぶさに知ることも、また可能である。
 彼が、との小論で「宗教」という時、ドイツのキリスト教に焦点を当てて論じていることは明らかである。たとえば、マルチン・ルターの宗教改革を、かなり正確に認識し、結局、理論的な変革にすぎなかったとしている。
 「ルッターはたしかに帰依による隷属を克服したが、それは確信による隷属をそのかわりにもってきたからであった。彼は権威への信仰を打破したが、それは信仰の権威を回復したからであった。彼は僧侶を俗人にかえたからであった。彼は、人間を外面的な信心から解放したが、それは信心を人間の内面のものとしたからであった。彼は肉体を鎖から解放したが、それは心を鎖につないだからであった」
 このプロテスタンテイズムに対するマルクスの批判は、宗教改革が、いかにラジカルに見えようとも、僧侶の頭から生まれたものであったがゆえに、そこに限界があり、現代は哲学者の頭から始まらなければ、真の改革はあり得ぬとするのである。
 そこで哲学者マルクスは、宗教を現実の不幸の表現として、まずとらえる。そして、人間が、辛い不幸な現実からの脱出を、空想的に考えざるを得なくなった時、幻想としての宗教を生み出すとする。
 「宗教は、人間存在が真の現実性をもたない場合におこる人間存在の空想的な実現である」
 マルクスが、人間存在の現実性という時、必ずしも、人間を全体的にとらえているとは言いがたい。肉体と心をもっ人間、物質と精神とをもつ人間を、この哲学者は、完全にとらえていないところから発想している。
 「人間といっても、それは世界のそこにうずくまっている抽象的な存在ではない。人間、それは人間の世界のことであり、国家社会のことである。この国家、この社会が倒錯した世界であるために、倒錯した世界意識である宗教を生みだすのである」
 彼の所説を整理すれば、人間の世界=国家・社会となり、国家悪・社会悪が悪しき意識たる宗教を生むということになる。われわれは、確かに国家・社会に生きているが、それがすべてではない。同時に、宇宙のなかにも、自然のなかにも生きており、歴史のなかにも、人間精神の世界のなかでも、呼吸している生物である。誰が、いったい人間の世界を、国家・社会に限定することができよう。
 生命という、色もなく、形もなく、宇宙に遍満しているものは、すべての人間のなかにも実在している。哲学者マルクス自身にも、生命あるいは生命の働きというものは疑いもなく実在しているといってよい。生命の実在は、決して空想ではない。人間存在の現実性は、この生命の働きそのものであることを忘れてはならない。
 マルクスは、そうした人間生命の全体像を見ることなく、国家・社会のなかにのみ人間の世界を還元してしまった。なるほど、マルクスも、人間の生活を、自然から物を奪取する生産に基礎を置いている限り、自然を度外視しているわけではない。
 しかし彼は、人類の発展を、生産力と生産関係にあると規定し、そこに国家・社会の弁証法的歴史的発展を見て、彼の階級理論に、人間をことごとく繰り入れてしまった。自然や、宇宙や、精神との人間の関係は、いつか脱落して、人間の世界を、国家・社会の次元に還元して、理論を進めざるを得ない。
 この概念規定のうえに、彼は、宗教批判を始めてしまった。一見、どんなに彼の所論が明快に見えようとも、偏ったその着想は、遂に結論においても、杜撰であることを免れることはできない。
 「宗教上の不幸は、一つには現実の不幸の表現であり、一つには現実の不幸にたいする抗議である。宗教は、なやめるもののため息であり、心なき世界の心情であるとともに精神なき状態の精神である。それは民衆の阿片である」
 この宗教阿片説は、以来、マルキストたちのイロハとなって疑う者もなく、その陣営で長くドグマとして君臨していた。マルキシズムの実践者で、また、俊敏な哲学者でもあったレーニンも、宗教阿片説になんの疑いもいだかず、それを継承している。
 彼は、一九〇九年に発表した、「宗教にたいする労働者党の態度について」という一文で、阿片説の継承者となったといってよい。
 「宗教は民衆の阿片である。――このマルクスの格言は、宗教の問題におけるマルクス主義の世界観全体のかなめ石である。マルクス主義は、現代のすべての宗教と教会、ありとあらゆる宗教団体は、労働者階級の搾取を擁護し、彼らを麻酔させる役をする、ブルジョア反動の機関であると、つねに考えている」
 マルクスとレーニンという二つの権威の高峰は、その陣営において、彼らの宗教観に対するいささかの懐疑をも圧殺してきた。しかし、現実を圧殺することはできない。現実は常に生き、生き続けているからである
 複雑にして膨大な現実のすべてを、国家・社会という概念のなかにつつみ込むことはできない。彼らがつつみ込みきれない世界――人間の生命、そして生命の働きこそ、現実を生み出している本源なのである。国家・社会の成立以前から、宇宙的規模で実在した生命の世界を無視しては、人間存在の全き理解はない。
 このような生命の実在を無視して、何が、いったい科学的であるか、はなはだ疑わしい。宗教を幻想とする杜撰な結論の行き着くところを、マルクスは、次のように要約している。
 「民衆の幻想的幸福としての宗教を廃棄することは、民衆の現実的幸福を要求することである。民衆が自分の状態についてえがく幻想をすてろと要求することは、その幻想を必要とするような状態をすてろと要求することである。宗教の批判は、したがって宗教を後光とするとの苦界の批判をはらんでいる」
 つまり、国家・社会におけるあらゆる矛盾――階級対立の問題、国家そのものの問題、経済機構にはらむ問題など、民衆の生活的現実における、あらゆる矛盾が解消した暁には、幻想にすぎぬ宗教は、消滅するだろうというのである。果たして、そうであろうか。
 マルクスの死後、地球上には、なるほど数多くの社会主義国家が誕生した。ところが、これらの国々の現実では、人間の自由について束縛を感じている多くの民衆の「なやめるもののため息」が、相も変わらず聞こえてくるのは、なぜであろう。理想だったはずの″失業とインフレのない国″の、悩める者のため息である。このため息は、やはり人間存在の心底から発するところの現実のささやきであり、決して幻想ではないのである。現実は復讐する。それは、マルクスの宗教観に対する復讐だったのであろうか。
 この現実の、否定しようのないため息について、社会主義体制下の国々の指導者たちは、口をそろえて、彼らの夢見る高度な共産主義社会へいたる道程における、過渡的な現象にすぎないと言うだろう。
 しかし、二度と返らぬ人生にあって、現に苦悩に沈んでいるこれらの民衆にとっては、「約束の地」の無限の先送りといわざるを得ない。
 人間は、何かを信じないでは、今、この一瞬においても、指一本動かすこともできない。どんな行動も、何ものかを信じたところから始まる。人間は、信じるに足る、何かが必要なのである。これは、社会主義国家においても、なんら変わるところはない。
 宗教を好ましからざるものとした政治体制の社会では、それを強行する政治思想そのものに、宗教的機能をもたせ、いつか、その思想を絶対化せざるを得なくなっている。いわゆる″相対的なるもの″の絶対化であり、不自然なことである。人間精神の偏在化、歪曲化、硬直化に通じるだろう。
 マルクスの宗教阿片説に、彼の陣営の人びとも、ようやくにして、この恐るべき偏見について、疑惑を感じ始めたといってよい。政治と宗教に関する模索の末、宗教阿片説の杜撰さに気づき始めた。
 フランスの共産党は、「自由の宣言」のなかで、宗教に関する全き自由を謳い、イタリアの共産党は、バチカンとの共存を志向している。資本主義国の共産主義者たちは、宗教について、新たなる次元に立って、思考せざるを得なくなりつつある。現実の厳しさは、いつか人間の知恵の発動を促すのであろう。
 宗教に関する現代の無知は、あらゆる現代の無知のなかで、最大のものの一つではなかろうか。碩学マルクスでさえ、はなはだ杜撰であった。さまざまな宗教の功罪について、また、その高低浅深について、深く思いをいたす現代の識者は、まことに皆無に等しい。この事実は、現代社会における、最大の不幸の一つといってよい。現代の人間の不幸の根が、実は、このような無知にあることを、人びとは、ほとんど気がついていないのである。
 宗教を論じるからには、何よりも、その宗教の本質をまず問うべきである。信じるものが、なんでもよいとは断じて言えないことは、日常の飲む水が、水なら、どんな水でもよい、などと言えないと同様である。選択は、宗教に関しては、ことに厳しくなければならない。人生に深くかかわるからである。
 戸田城聖は、この理を、日蓮大聖人の仏法によって初めて知り、救世の原理として弘教する使命を、わが身に課した。さまざまな宗教のなかで、阿片のような作用をする宗教が、いかに多いかを知っていた。
 したがって、彼が宗教と言い、仏法と言う時、生命の法則の実在を信ずるところから語っている。つまり、生命という、不可思議な実在の次元から語ったのである。そして、仏法の歴史のうえから、また、実践と実証のうえから、生命の法則を、すなわち、日蓮大聖人の仏法を解了したのである。
 彼は、この仏法を、人びとにわかりやすい表現として、生命の科学と言ってもよいとまで公言して憚らなかった。この本源的な法則の見地から、宗教がもたらす結果について、極めて峻厳にならざるを得なかった。教えが誤っていれば、人びとは、それに惑わされ、誤った人生を歩むよりほかないからである。
 また彼は、この仏法の視点から、あらゆる社会現象を見ていた。仏法でいう一念の歪み、つまり、ある瞬間の生命の歪みによって、どのような影響を及ぼすかを見極めていた。たとえば、科学そのものには正邪はないが、科学する者、科学を操作する者の生命状態によって、正邪が生じるのである。その生命の状態、ある瞬間の一念が、原水爆の悪魔的災害さえも生むのである。時代は、一念の狂いが、人類の絶滅さえ起こし得るところまで来てしまった。
 「仏」の対極にあるものを「魔」という。「魔」とは、能奪命者、殺者とも訳され、心を悩乱させ、仏道を妨げ、さらに、生命の力を奪い、破壊させていく働きである。そして、それが、人間を支配しようとする野心や欲望ともなるのである。この「魔」も、もともと生命の内に潜在しているものなのである。
 仏法では、人間社会の不幸、苦悩、そして、混乱と破壊の奥に、この「魔」の発動があることを、深く見極めてきた。
 理性や道徳が、「魔」の抑止力たり得ないことは、数々の歴史の例証を持ち出すまでもなかろう。ヒトラーが見せた悪魔的天才ぶりは、そのすべてを語って余すところがない。
 戸田は、現代人の多くが、政治体制など、自身の外の変革に眼を奪われ、肝心の自身の内なる変革に思いをいたしてこなかったことが、宗教への無知や偏見をもたらしていることを、あらためて青年たちに教えておきたかったのである。
 宗教に関する恐るべき無知は、自由主義社会にあっても、社会主義社会にあっても、いささかも変わりはない。ただ、宗教活動の自由については、はるかに自由主義社会の方が束縛がない。
 したがって、フランスやイタリアの共産主義者の、宗教についての大胆な発言が相次いで起こり、他の自由主義国においても、宗教についての再考が、現代文明の行き詰まりからなされつつある。自由主義社会にあっても、社会主義社会にあっても、異なる政治体制にありながら、人間の悩みについては、同様に手をこまぬいているだけである。
 地球上に生存する人間で、心から自由主義社会に満足している人はいないように、また、心から社会主義社会に満足している人もいないといってよいだろう。「心から」という条件を付して考えた場合のことであるが、およそ人間という人間は、その政治体制について、不満をいだきながら困惑していると思われる。
 自由主義社会が、このままの状態で続いていくことは、まっぴらごめんだが、さりとて社会主義体制になったからよいかというと、精神の自由を失うことはとても耐えがたい。
 また一方、社会主義国の人びとは、多くの犠牲を払って、やっと勝ち得た政治体制だが、こう息苦しい精神風土のなかにあっては、人間性が抑圧されはしないかと恐れている。さりとて自由主義社会の在り方は、感心しないと考えているであろう。
 現代の人びとが渇望している政治体制は、正直言って、既に試験ずみの自由主義社会でも、社会主義社会でもないことは確かだ。人びとが渇仰するところは、新しい社会にあるのであろうが、目下は、いかんともしがたいのである。渇望する政治体制は、黙っていて自然にできるものではない。誰かの、一人の新鮮にして偉大な政治的識見をもっ頭脳が、今ほど必要な時はない。
7  戸田城聖は、このような人物を、妙法の大地から育てることを念願として、選挙という試験管のなかで実験を始めたところだった。
 戸田は、宗教に無知な現代政治家たちを、歯牙にもかけなかった。彼らの目には、宗教団体もまた、単なる票田としか映らないことを承知していたからである。
 このころ、既に、彼に誼を通じようとした二、三の大物政治家もいたが、彼らの狙いは、躍進しつつある創価学会の会員数の増加を、そのまま選挙の票に結びつけ、皮相的な憂国の情を盾として近づくことにあった。誰一人として、宗教について、教えを請うたものではなかった。
 戸田は、苦々しい思いで、彼らの懇談の申し出を断っていたのである。
 現代の政治家に絶望していただけに、戸田は、今、始まった文化部員の実験を重視した。彼にとって、政治体制の問題は、それほどの深い関心の対象ではなく、彼の心の広さから巨視的な思考に傾いていた。
 彼は、思った。
 ″時代は進み、同時に民衆の心も変わっていく。多くの民衆が望み、満足する政治体制なら、どのような政体でも差し支えないではないか。それは、風土と時代と民衆の知恵が決定すればよい。極めて流動的な政治体制というものを、ただ、いたずらに理想化して固定的に考えるのは、人類社会の在り方、進化を無視しているものだと言わざるを得ない″
 住みよい、生きがいのある社会を、誰でも望んでいる。この願望がある限り、人類は幾多の辛酸を経験して、やがては高度の福祉社会や、高度に発達した科学技術文明の恩恵に浴する日も来るだろう。そして、おそらく生活面において、満足な保証が生涯にわたって得られるかもしれない。
 もし、働きつつ、食って、住むことに、なんの不安もない結構な世の中になるとしよう。しかし、万人が万人とも姿かたちが異なるように、人の境遇の微妙な差というものは、どんな社会体制や科学でも解決することはできないだろう。たとえば、親しい人との突然の死別や離別、愛憎の苦悩、己の才能を発揮することなく終わらねばならない人生の不遇、あるいは、時に死さえも考えてしまうほどの失恋の悲哀、これらのままならぬ人生を前にした「なやめるもののため息」――人びとの生命をむしばむ宿命的な現実を、どうしたらよいのだろう。
 いわゆる″衣食足りた″社会においては、日常の生活面が満ち足りているだけに、かえって宿命的な苦悩というものは、にわかに鮮明な鋭さをもって露呈してくるにちがいない。その時、いやでも人間は、自分の宿命のかたちを、しげしげと凝視せざるを得なくなるだろう。
 宿命とは、命に宿るもののいいである。宿るからには、三世にわたる生命の実在が、真実か虚構かが問題となる。虚構と否定しても、今の科学主義では、「なやめるもののため息」は、なんの解決ももたらさず、苦悩のままに放置されるだろう。
 永遠の生命の実在を感じた時、初めて、ままならぬ人生の難問は解決の糸口をつかむことになる。永遠の生命の法則を知った時、人は、宿命の転換もまた、可能であることを知るにちがいない。まことの宗教が、真の力をもつのは、この時だ。
 人間が、社会の在り方に矛盾を感じ、国家や社会の改革を企て、人類の救済を志すことは、それはそれとして十分に理由のあることであり、なさねばならぬことである。しかし、この改革の完遂によって、あたかも人間のすべての難問が解消すると錯覚することは、人間というものへの認識を誤っており、本源的には、人間の冒漬にも通じよう。
 戸田城聖は、マルクスの宗教阿片説に、宗教に関する現代の底知れぬ無知を認めた。また、現代の不幸の深さをも同時に知った。
 彼は、切迫する人類の不幸の救済に心を砕いたが、政治社会の革命の思想は、畢寛、偏頗で不完全な犠牲の多い革命をもたらすにすぎないことを、青年たちに警告した。そして、革命が有効な革命であるためには、妙法の土壌のうえに基盤を置かねばならぬことを訴えたのである。
 「広宣流布の大業というものは、未聞の仕事です。未開であるだけに、人びとの理解にとぎ着けるだけでも、容易なことではない。これから中傷と非難と迫害が、どれほど重なるかわからない。日蓮大聖人の御一生を顧みるまでもなく、魔との戦いであるだけに、諸君は、たじろぐことは許されない。負ければ、人類は永遠の闇につつまれてしまうだろう。真の革命とは、どんなに難事か、身をもって知るのがわれわれです。
 いったい、今、どこの宗教団体が、創価学会ほど罵詈中傷を受けているか。学会が、何を悪いことをしたというんです。何もしていない。大聖人の仏法を理解させようと、ちょっと懸命に動いたにすぎないではないか。誰に迷惑をかけたというんです。御本尊を受持して、絶望の淵から見事に立ち上がって、生きがいをもって蘇生した多くの人がいるだけではないか。
 学会は、考えれば考えるほど不思議な団体です。使命をもった団体です。この学会と縁を結んだ諸君も、不思議な青年といわなくてはならない。なぜ、今の世に生まれてきて、このような活動に生涯をかけようというのか、不思議です。
 大聖人は、地涌の菩薩と断定なさっているが、久遠に誓った、この世で果たすべき、よくよくの使命がわれわれにはあるんだよ。諸君も、今に、しみじみとわかる時があるだろう。私は、それを、あの牢獄で悟ったんです。もはや、私は一歩も退くことはできないのだ」
 彼は、眉間に決意をみなぎらせて語った。度の強い、メガネの奥の目は、はるか遠くを見つめているように動かなかった。永遠をはらむ一瞬ともいうべき瞬間を、青年たちは、戸田の姿に見たと思った。
8  一九五五年(昭和三一十年)四月二十四日の日曜日の午後、東京・神田駿河台の中央大学講堂では、中野支部の第四回総会が開かれていた。
 場内は、約三千人の参加者で埋まり、支部員が晴れがましい顔で次々と壇上に立って、体験を語り、決意を述べ、場内の空気は、いつしか熱気と意気にあふれできていた。
 壇上に向かって右側には、会長の戸田城聖と並んで、選挙の激戦を終えた理事長の小西武雄、鶴見支部長の森川幸二の日に焼けた顔も見えた。そして、進行の途中、時折、壇上の幹部の間に、何かを報告する紙片が、数度、回されて、それを見た人たちは頷きながら、顔をほころばせた。
 紙片には、小西とか森川とか書かれた下に、何やら数字が書き込まれているだけだった。
 壇上の一角の慌ただしさを、参加者は怪訪な面持ちで見守っていたが、前日、投票が行われた東京都議選と横浜市議選の、目下、開票中の得票数の速報だったのである。
 式次第は進んで、終わりに近く、来賓のあいさつが続いていた。その時、いきなり、春木理事が白い紙片をかざして、大きな演台に進んだ。
 「この席をお借りして、喜ばしい臨時ニュースを、ここでご報告いたします。昨日行われた東京都議選と横浜市議選の開票結果が判明いたしました。都議選に立候補した大田区の小西武雄は、一九、三一二票、最高当選。横浜市議選に立候補した鶴見区の森川幸二は、六、一六七票、これも最高当選。これにて、わが同志のなかから、一人の都会議員と一人の市会議員が、めでたく誕生いたしたわけであります」
 春木洋次の声は、わっと沸き上がる三千人の歓声に吹き消されてしまい、緒戦の勝利が確実のものとなった興奮に、場内は酔ったように華やいだ。
 折よく理事長・小西武雄の登壇となった。彼は、「私は最高の幸せ者です」とあいさつし、これまでの長い信仰体験を交えながら、ただ御本尊を信じ、戸田の指導のままに今日まで来たことで、このような立場になったにすぎぬ、と簡潔に語った。
 このあとを受けて、戸田は、場内の華やいだ感動のなかで、静かに話し始めた。
 「時に合い、時に巡り合って、その時に適うということは、生まれてきた甲斐のあることであります」
 彼は、まず、若年のころ、来日したアインシュタインの講演を聴くことのできた数少ない一人であることが、誇りであると述べた。また、初代会長・牧口常三郎に、十九歳で出会い、最後まで教えを受け、牢獄にまでお供することのできたことを誇りとすると語った。さらに、末法において立宗七百年の時に巡り合い、広宣流布の使命に邁進していることは、最大の誇りであり、喜びであると続けた。
 そして、広宣流布の本義について、まことの信心をして、幸福をめざしていく姿そのままが、広布の大道を歩いていることになると説き、側にいた小西武雄を、その例証としてあげた。
 「まことに本人を前に置いて悪いけれども、この信心をすれば頭がよくなるという見本が理事長であります。小学校の先生をしていながら、勉強が嫌いで、酒飲みときては、あまり使い道はない。また、あまり口は上手じゃない。初めて会った人は、″この人は、本当に学校の先生なのだろうか″と首をかしげたくなります。
 私は、今でも覚えているが、彼は、婿に行って追い出され、風呂敷包みなど持って時習学館にやって来た。その日が、彼が御本尊を受持した日でありました。それが、今は、うらやましい家庭をつくられ、その円満なること、穏やかなること、われわれの手本とすべき家庭が出来上がっております。
 不肖、私も創価学会の会長として、理事長の職に就かせ、かつまた蒲田の大支部長として、その任にあたらせるのに、頭が悪くてやらせられるわけがありません。頭がよくなったんですよ。
 しかも、今回は最高当選で都議会に出られたということは、人望なくして出られるわけがありません。学会の組織がどうだの、私が応援したと言ったところで、人望なくして、どうして最高点で出られるでしょうか。大田区で小西武雄といったって、誰も知りません。小学校の一教諭が、多くの有名候補をしのいで、いきなり最高点で出られたのは、長い信心で培った、同志からの信頼があったればこそと言うしかありません。
 皆さんも、信心に純粋な態度を貫き、″さすがに信心していればこそ、ああなったのだ″という姿を示せば、その姿そのものが折伏になっており、そして、われもわれもと、信心するように、なれば、広宣流布は自然に出来上がる。今、そのような時になりつつあるのです」
 戸田は、時に適う信心のできるのは、今だ、と語気を強めた。
 「広宣流布の時は来ているのですから、御本尊様の御力は非常に大きい。それなら、昔の御本尊には力がなく、今の御本尊様に力があるとは、おかしいと言うかもしれませんが、御本尊には変わりがなくても、受けるわれわれに変わりがあるんです。
 東の空から出る太陽も、昼の真上に来る太陽も、太陽には変わりありません。しかし、真昼の太陽の日差しは、最も強い。
 今、その真昼の太陽のような御本尊様の直射を、われわれは受けている。その功徳をわが身に受けるも受けないも、あなた方の自由。しっかり信心して、たくさん功徳を頂きなさい。これが私の教えることです」
 二十四日の中野支部総会は終わったが、そのころ、東京都の区議会議員をはじめ、全国各地の市議会議員の選挙戦は、四月三十日の投票日を前にして、まさに、たけなわであった。全国の三十八地域から立った五十二人の候補者を支援するため、それぞれの地域の学会員たちは懸命に活動していた。
 五月一日夕刻には、開票結果が学会本部に集まった。東京都の区議会議員には三十二人全員当選し、各地の市議会議員にも十九人当選、秋田の候補者が一人落選しただけであった。これに先の小西と森川を加えると、五十三人の文化部員が、それぞれの議会に席を得たことになる。手堅い選挙で、世間からすれば予想外の進出であったわけだが、創価学会の支援活動に注目した新聞記事は、皆無であった。
 戸田城聖は、これらの当選決定を聞いて喜び、次々とあいさつに来る新議員たちを前に機嫌がよかった。本部に詰めていた幹部たちも、喜色満面で、この初陣の成功を祝った。
 戸田は、直ちに鈴本文化部長を呼んで、各地域の当選状況の詳細を検討した。彼の胸中には、早くも翌年の参議院議員選挙を課題とする思索が、既に練られていたからである。

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