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日蓮大聖人・池田大作

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小樽問答  

小説「人間革命」9-10巻 (池田大作全集第148巻)

前後
2  この三月八日、小樽には、身延側の講師となる宗方木妙と長内妙義が、既に到着していて、彼らは彼らなりの作戦の検討を重ねていた。
 小樽の学会員たちは、隅田清行と共に市内の各所を歩き、相手方の動きを、なおも調べていたのだが、本部からの電話で、そうした行動を、一切、停止した。道内に二百カ寺はあるという身延系の寺院が、大動員をかけていることから、学会側も函館、札幌、旭川の拠点と連絡をとり、地元の小樽班の班員の団結をはかった。
 また、この日、妙龍寺の村木啓山から、身延側代表講師の氏名を通告してきた。戦雲は、雪の小樽の街で、刻々と濃くなりつつあった。
 三月八日夜、上野駅を出た青森行きの列車には、十一人の男子部の派遣隊が乗り込んでいた。彼らは、青森から青函連絡船に乗り、翌九日午後、函館に着いた。そのうち三人が函館に残り、あとのメンバーは、列車に乗り込んだ。
 列車は雪のなかを進み、午後八時二十五分、小樽で、秋月英介ほか二人が降りた。さらに、札幌で二人が降りた。札幌の街は吹雪のさなかであった。
 それから残りの三人は、さらに夜行列車で旭川に向かった。彼らが駅に降り立った時には、時計の針は、十日の午前零時五十分を指していた。
 各駅には、地元の学会員が、雪のなかを出迎えていた。派遣された青年たちは、すぐさま十一日の小樽への結集活動に入った。
 三月十日、小樽の学会員たちは、朝から忙しい日となった。水谷日昇の一行は、法論となんの関係もなく、予定通り九日、函館正法寺の行事を終えて、十日の早朝、薄暗い午前五時三十分、小樽駅に到着した。
 午前十時半ごろ、秋月と隅田は妙照寺を訪ね、日昇に、これまでの経過を報告した。妙照寺では、午後から説法が始まり、小樽在住の信徒は、こぞって参加したが、翌日の法論対決を思うと、なんとしても落ち着けなかった。いよいよ慌ただしい段階に入ったのである。
3  一方、東京の本部には、小樽をはじめとする北海道各地からの報告が、次々と寄せられていた。
 戸田一行の本隊の出発は、十一日早朝と決められていたが、先発隊として、十日早朝、二人の幹部が、空路、北海道へ向かった。二人は、定刻の午前十時三十五分、千歳飛行場に着き、バスで札幌に向かった。
 札幌では、地元の幹部や、前夜、到着していた派遣隊の青年が出迎えてくれた。どれくらい会員を結集するかなどについて話し合っているうちに、小樽行きの汽車を逃した。バスに切り替えたものの、一面の雪道はまだ深く、でこぼこの多い道を上下左右に揺られながら、バスは喘ぎつつ、のろのろと進まなければならなかった。道々、バスは停止して、そのたびに運転手がスコップで雪を取り除きながら、また進むのである。
 長い雪の道であった。二人は、「難行苦行だ」などと笑い合った。
 午後四時には、身延側との会見交渉が待っているはずであった。気はせいたが、どうしょうもない。やっと小樽にたどり着いてみれば、午後四時である。予定より二時間の延着であった。元気のよい小樽班の人びとに迎えられて東班長宅に向かい、ここで慌ただしく状況を聞くと、直ちに交渉会場となっている、近くの花園会館に入った。
 時に午後四時二十分、法論対決の正式交渉が始まったのである。身延側の三人の交渉委員が待っていた。例の村木啓山と、赤ら顔の僧、そして、祈祷師を思わせる風貌の僧であった。
 創価学会側の交渉委員は、理事と青年部幹部の二人であった。それに、記録係として、青年部幹部一人がつき、また、これまでの交渉経過の証人として、班長の東恵子らが同席した。
 交渉会場の部屋は、最初から刺々しい空気が漂っていた。
 両方の交渉委員が、面と向かった途端、一人の僧が、きょろきょろと目を走らせて言った。
 「日蓮正宗の方はどうしたんです? 私の方は、創価学会と、どうこうするつもりはない。僧籍にある者同士の話し合いでなければ……」
 「私たちは、日蓮正宗・創価学会の代表として来ているんです。今度の法論について取り決めをいたしましょう」
 学会の交渉委員である理事が、さっそく本題に入ろうとすると、村木啓山が慌てて口をはさんだ。
 「それでは話が違う。最初から水谷貫首の随行の方が出るという話だった。それで、こちらも本山から呼んだんです。僧籍にある人でなければ、話が違う」
 理事は、すかさず言った。
 「僧籍うんぬんということは、誓約書には何もない。創価学会と日蓮宗との対決となっている……」
 その言葉をさえぎって、村木啓山は、いきりたった。
 「そんなことはない。最初の原案は、そうであったかもしれないが、実際のところ、私が日蓮宗を代表するわけにもいかないし、東さんだって、日蓮正宗を代表するわけにはいかないでしょう。だから……」
 「誓約書に基づいて、私たちは代表として来ているんですよ。小樽班から連絡があって、学会本部の代表として来ているんです。そちらが、誰を出そうと、注文はつけません」
 この言葉を、身延側は強く否定した。
 「そりゃ、おかしい。日蓮宗と日蓮正宗の対決です。創価学会とではない。宗門同士の対決だ。あなた方は、僧侶の代表ではない」
 僧籍にこだわる身延側には、在家の信徒を軽蔑する、僧侶の傲慢さがあった。在家の信徒と法論して負けたとしたら、僧侶として、これ以上の不名誉はないという虚栄心から、彼らは保身のために汲々としていたといってよい。そして、できることなら、創価学会との法論を極力避けたいとして、まず誓約書を無視し、僧籍にこだわったのであろう。
 学会側の交渉委員は、誓約書を取り出して詰問した。
 「よくご覧なさい。創価学会小樽班と日蓮宗との対決となっている。代表者は同数とあって、僧侶でなければならぬなどという条件は、どこにもない。
 誓約書に基づいて、われわれは、日蓮正宗・創価学会の代表として来ている。法論の段取りを決めるため、あなた方も日蓮宗の代表として来たんじゃないか」
 「それはそうだが、僧侶が出るというから、そのつもりで来た。能化と能化の対決が、本当だと思う」
 身延側は、あくまでも固執した。
 同席した東班長は、誓約書を取り交わした三月二日の時のことを思い出した。
 最初、小樽班で作成したときは、確か「日蓮正宗と身延日蓮宗との聞に於て法論対決」となっていたのを、村木啓山が、これではあまり大げさだからと言って、「日蓮正宗創価学会小樽班と日蓮宗妙龍寺寄宿村木啓山と法論対決」と訂正することを主張した。そこで主張通りに訂正されたのである。創価学会と日蓮宗との対決としたのは、村木啓山自身であった。
 東班長は、この時のことを話し、話のついでに、水谷日昇の来樽と随行の僧侶の名をあげたにすぎないと言った。
 「村木さん、しらばっくれたことばかり言うもんでない。あんたは、なんでもよいから、一応、名前だけ言ってくれということだったでしょう。本部に連絡してみなければ、私たちにはわからないことだし、変わるかもしれないと、念を押したじゃないですか」
 「…………」
 村木は、ここで沈黙してしまった。
 赤ら顔の僧が、村木を顧みて問い詰めた。
 「村木君、そう?」
 「……見解の相違ですな」
 村木の言葉に、身延側の交渉委員たちは、困惑の表情を浮かべた。
 学会の交渉委員は、素早くそれを見てとって言った。
 「誓約書まで入れておいて、今になって、なんのかんのと逃げようとする。法論できないというなら、はっきり″できません″と言いなさいよ!」
 「できますよ」
 身延側は憤然としたが、また学会側につかまってしまった。
 「では、やったらいいでしょう。僧侶と信者とでは、できないという理由はなんですか。僧侶も信者も同じ人間じゃないか」
 「……日蓮正宗の僧侶は、小樽に来ているんでしよう」
 「それが、どうしたというんです? 正宗も学会も同じ教義ですよ。東さんに法論を申し込んだのは、あなたたちの方じゃないか!」
 「だが、私たちは、今日は僧侶同士でやるということで来ている」
 話は平行線をたどった。
 そこで、学会側は一つの提案をした。
 「では、創価学会が日蓮正宗の代表であるという証明があればいいわけですね。連絡はすぐつくし、代表の認可をもらうが、どうですか?」
 「それなら、それで結構でしょう」
 身延側の一人は、あっさり答えたが、交渉は進まなかった。今度は、もう一人が頑として僧侶同士の対決を繰り返すばかりであった。
 「われわれは、日蓮正宗の代表となっても差し支えないと言っている。それでもやれないというなら、潔く負けたとおっしゃい!」
 創価学会側に追い詰められた身延側の三人の交渉委員は、しばらく苦悩の表情を浮かべていたが、そのうちの一人が、狡猾な言葉を口にした。
 「私たちは、僧侶同士の法論ということで指示を受けてきたのです。今、ここで、創価学会が相手となると、私たちでは決定しかねる。ひとまず失礼させてもらいましょう」
 こう言うと、身延側の三人は、そそくさと立ち上がった。意外な結果となった。学会側の交渉委員は、出て行とうとする三人に、大声で呼びかけた。
 「今夜中に返答しなさい。今夜八時までに旅館に電話で返事をよこしなさい。待ってますよ。さもないと、そちら側が負けたと公表するから、ご承知願います」
 「必ず連絡する、連絡しますとも」
 身延側の三人は、こう言い残して、交渉会場を出て行った。
 一時間余りの交渉は、つまずいてしまった。学会側のメンバーは、東班長宅に引き揚げ、東京の本部に電話した。東京からの指示は、あくまで法論の実現にあった。午後六時ごろ、妙龍寺へ電話すると、村木啓山が出た。押し問答が電話口で続いたが、やっと村木は、最後に強気になって言った。
 「創価学会でも、それが日蓮正宗の正式代表となるならば、法論をやってもよいと思います」
 学会側のメンバーは、直ちに妙照寺に行き、経過を報告し、宗門の細井庶務部長から認定書を受け取った。
  認 定 書
 三月十一日の身延派との法論につき創価学会教学部を日蓮正宗の正式なる代表と認める。
   昭和三十年三月十日
 日蓮正宗宗務院 庶務部長 細井精道 印
   創価学会殿
4  身延側からは、午後八時になっても、なんの連絡もなかった。しかし、この間に認定書はできたのである。身延側は、学会が日蓮正宗の代表となることはないと思っていたのかもしれない。
 八時半、創価学会の交渉委員は再び電話をし、村木啓山を呼び出した。八時までに電話がこなかったことを責めた。そして、認定書の全文を電話口で読み上げた。しかし、法論を行うかどうかについての身延側の態度は、まだ釈然としなかった。村木は言を左右にして、埒が明かなかった。長電話になった。創価学会側の代表は、山平忠平と関久男であることを伝えたものの、反応はにぶかった。ともかく法論することを、一応、約束させ、翌朝十時に、もう一度会談する約束を取りつけて電話を切った。
 厄介至極な相手であったが、先発隊と派遣隊も、地元の幹部も、気を引き締めて、翌日の準備に取りかかった。会場で配布するビラの作成をはじめとして、さまざまな準備を終えると、とうとう午前三時を過ぎてしまった。
 やっと床に就いたが、彼らの言動を思うと、明日になって一切は水泡に帰すかもしれぬという危惧も、なお消えなかった。ある人は起き上がって題目を唱え始めた。雪は、小樽の暗い街になお降り積もり、青年たちの部屋だけが、いつまでも明るかった。
 遂に十一日の朝となった。雪は、小やみになっていたが、なお舞っていた。
 小樽の妙照寺に宿泊中の水谷日昇の一行は、朝、早々と札幌に向かった。
 学会側の交渉委員は、妙龍寺に電話して、念を押してから、約束の会談場所となった公会堂の控室に向かった。定刻の午前十時になっても、身延側からは誰一人、姿を見せない。交渉は依然として進展を見ないままである。気をもんでいると、しばらくして、村木啓山がやって来た。遅れた言い訳に、こんなことを言った。
 「宮本武蔵の故事もありますからね……」
 しかし、村木の繰り返す言葉は、相も変わらず僧侶と僧侶との対決であった。認定書を見せられても、事務上の打ち合わせだけの資格で来ただけだ、と言って、なおも学会との法論を回避しようとした。このような不誠実な使者に対して、学会側の交渉委員は、「あなたのような人では話にならない」と突っぱねて追い返した。
 村木が帰ると同時に、学会側は妙龍寺に電話して責任者を呼びだしたが、本堂で会議中ということで、なかなか出てこない。
 とうとう学会側の交渉委員は、昨夜からの堪えに堪えた怒りをぶつけた。
 「法論をするのかしないのか。交渉に来るのか、来ないのか」
 「待ってくれ」「待てない」の押し問答が続いているうちに、学会側は遂に最後通告を放った。
 「よろしい、このまま十五分過ぎても、交渉の誠意を示さないなら、あなた方が交渉を打ち切ったものと、みなしますよ。
 ――身延側は、二人の講師まで呼んでおきながら、二日間も交渉を引き延ばし、遂に創価学会に恐れをなして法論を逃げたと、天下に公表することにしますが、いいですね」
 「ま、待ってくれ。すぐ行きますから。なにも学会を恐れているわけではない」
 電話は、ガチャンと切れた。
 さて、どういうことに推移するかと思っているところへ、戸田城聖をはじめとする本隊の飛行機が、三時間延着するという報告が入った。午前十時半着の予定が、午後になってしまったわけである。千歳飛行場は、昨夜の積雪が厚く、滑走路の除雪作業が難航しているらしかった。
 学会のメンバーは、ストーブの炎を見つめながら、本隊の到着が、さらに遅れたとしたら、自分たちが代表講師となっても、法論を戦おうと決心した。
 十一時半ごろ、廊下に足音がしたと思うと、どやどやと身延側の交渉委員がやって来た。今度の一行の中心者は、函館の僧侶で、他に村木啓山ら三人の僧侶と、身延の信徒と思われる人びとが五、六人という大人数である。
 学会側は、彼らの不誠実を問責することから始めた。
 「いやしくも仏法を学する者が、厳粛な法論にあたって、無責任なことは慎むべきでしょう。既に創価学会の全道の同志も到着しつつあるし、あなた方も市内でビラなどを配布し、また僧侶や信者が集合しているではありませんか。ここまできて法論を回避するなら、責任は、ことごとく身延側にあると言わなければならない。大身延ともあろうものがと、世間のもの笑いになりますよ」
 「まったく、その通りです。真剣にやりましょう。あなた方は、まだお若いのに感心ですね」
 こう言ったのは、意外なことに、付き添ってきた身延側の信徒の一人であった。
 「この際、ぜひとも御法義を聴きたいものです」
 最初から沈黙していた函館の僧侶は、味方の陣営から思いもかけぬ伏兵の声があがったのを知って慌てた。
 「まぁ、まぁ、話は一方的ではいけません。あなた方は、東京の方でしょう。地元の関係者からも詳しい事情をお聞きしたい」
 話は最初に戻ったかに思われた。
 ここで、これまで交渉にあたってきた隅田清行が、手短に、あらましの経過を語った。村木は、口をはさんで抗弁したが、隅田に抑えられた。
 身延側は、腹を決めたらしい。しかし、なお僧侶の体面にこだわっていた。
 「私たちは、僧侶対僧侶ならば、文句なくやるつもりでいたんです。それが創価学会が相手となると、考えざるを得ない。少なくとも一宗の代表となると、これは承諾しかねることです」
 身延側は、なおも言いがかりをつけて、回避しようと懸命である。ところが、この時、またも身延側の信徒が発言した。
 「そんな形式問題は、どうでもいいではないですか。私どもは、ただ御法義を聴きたいのです。体面上のことで、せっかくの機会が流れることは残念ですな」
 身延側の僧たちは、これらの信徒の手前、いつまでも体面にこだわることはできなかった。しばらく沈黙が続いている聞に、学会の交渉委員は、「一宗の代表」ということを撤回したら、できるはずだと、ふと考えた。
 「それなら、こうしたらどうでしょう。資格は、一切、白紙に返して、日蓮宗講師対創価学会教学部の資格で法論する。どちらも一宗の代表ではない。これなら文句はないでしょう」
 この提案に、行きがかり上、遂に身延側は、しぶしぶ応諾せざるを得なくなった。二日間難航した交渉は、急転直下、当日の法論開始六時間前になって、初めて妥結をみたのである。正午を過ぎ、午後一時になっていた。
 あとは法論の順序を決めるだけである。多少の摩擦はあったが、八日の対策本部の会議で想定していた通りに、ほぼ落ち着いた。
 ――双方、講師は二人ずつ、最初に一人十二分ずつの主張、次いで五分ずつの反論、それから聴衆からの質問二十分、両者の対決質疑三十分、それに司会者の開会、閉会の辞三分ずつ、合計二時間十分。午後七時開始、午後九時十分終了と決まった。
 会場の準備は、学会側に一任ということになった。
 いずれが先に登壇するかの結論は出ず、午後六時の司会者同士の打ち合わせの時、籤を引いて決めることに持ち越した。
 この交渉が終わりかけると、身延側の一人の僧は、妙なことに念を押してつぶやいた。
 「この法論は宗門代表ではなくなったわけですね。すると、たとえ講師が詰まって負けても、日蓮宗全体の負けとはならないわけだ……」
 創価学会の交渉委員たちは、これを聞き流していたが、身延側の心底の不安を鋭く読み取った。日蓮正宗・創価学会教学部と、身延の日蓮宗の代表的論客との法論である。実質的にいって、一宗対一宗の対決であることは、誰の目にも明らかである。
 「どうぞ、よろしく」
 「よろしく」
 身延側の人たちは席を立った。時計の針は、午後一時三十分を指していた。二日間にわたって交渉はもつれたが、法論は、やっと実現するところまでこぎ着けたのだ
5  この時に合わせたように、旭川地区の学会員、百余人が小樽に到着し、妙照寺で待機しているという報告が入った。また、戸田城聖の本隊一行が、千歳飛行場に到着したという電話連絡があった。いよいよ法論決行の時は、刻々と迫り、緊迫した空気が、人びとの表情にも行動にも、にわかにみなぎり始めた。
 午後四時になったころ、戸田城聖と、山平忠平、関久男、山本伸一の本隊が、旅館に到着した。思わず歓声があがり、誰の顔も、にわかに笑顔に変わって、それぞれの責任を果たそうと敏捷な行動に移っていった。
 先発隊のメンバーは、戸田に、これまでの詳細な経過を報告した。戸田は、深く頷き、笑顔で言った。
 「相手が相手だから、交渉は骨が折れただろう。もう一息だ。最後まで油断は禁物だよ。勝負は、もうついているんだからな」
 戸田の側で、山平と関は、御書を広げて、緊張した表情で何事か検討し合っていた。
 戸田は、二人を顧みて笑った。
 「何を、そんなに勉強することがあるのか。法論をやってみてごらん、拍子抜けするぐらいのものだよ。ハ、ハ、ハ」
 戸田の一言に、二人は試験場に臨む受験生のような緊張から、たちまち解放された。潤達な闘志が湧き、緊張は、なんともいえぬ充実感に変わった。
 司会役を務めることになる山本伸一は、さっそく公会堂に向かった。木造平屋建ての、この建造物の周囲は、雪に埋もれていた。早くも入場者が詰めかけで来ている。会場の別室は、先着の旭川地区の会員のほか、到着したばかりの函館地区の会員であふれていた。札幌班の会員だけが、まだ到着していなかった。そして、法論の意義や現況報告が話され、待機している人びとの意気は、寒気のなかで、いやがうえにも燃え立った。
 五時をかなり過ぎたころ、札幌班のメンバーが到着し、別室は満員なので、そのまま法論会場のイス席に座った。
 この日、札幌では、午後、水谷日昇が出席した日正寺での行事が予定通り行われた。行事が終了すると、札幌班の会員たちは、慌ただしく小樽に向かったのである。
6  この二日間、札幌では、メンバーが大奮闘を重ねてきた。
 八日の夜行列車で東京を発った本部からの派遣員十一人のうち、札幌担当の青年二人が札幌駅に着いたのは、九日の夜であった。折からの吹雪をついて座談会に臨み、法論の趣旨を説明し、その後、班長宅で幹部六人との結集の立案が終わったのは、午前三時であった。十日は、朝から法論の趣旨を徹底するために、班員の家を一軒一軒、手分けして駆け回った。夜になると、五十余人の幹部、ならびに有志が集まり、翌十一日の小樽行きの綿密な打ち合わせと、日正寺における行事が円滑に終了するよう協議した。そのうちに、身延系の寺院の動向も明らかになった。
 身延側も、道内の僧侶二百五十人を結集するというのである。組長たちは、これを聞いて、札幌班として百五十人の結集を決意するにいたった。
 旭川地区にいたっては、さらに時間的余裕がなかった。三人の派遣隊の青年が、十日の午前零時五十分に旭川駅に降り立ってみると、三十人余りの会員が出迎えていた。
 旅館に着くと、そのまま打ち合わせとなり、十日の夜に、旭川で地区総決起大会を開催することが決定した。当時の旭川地区は、実に広範な地域にわたっていた。早朝から地区員へ、電話や電報で連絡を取り始めた。岩見沢、留萌、愛別などから、直ちに応答があり、夕刻になると、十人、二十人と頬を赤くして旭川にやって来た。
 夜七時、雪のなか決起大会に集った人は、四百人に上った。学会歌が合唱され、身延の日蓮宗から改宗した体験談の数々が語られた。
 小樽における法論を、大部分の人びとは、この夜、初めて知ったのであるが、即座に百余人の参加希望者が決定した。そして、十一日の朝八時の汽車で、慌ただしく小樽へ向かったのである。
 函館は、小樽から急行列車で五時間余である。九日の午後、函館に着いた派遣隊の青年三人は、小樽での法論について訴えて歩いた。法論のことを聞いた函館のメンバーは、闘志を燃え上がらせ、直ちに結集活動に入った。
 十一日早朝、小樽に向かう列車に乗り込んだのは、二百十六人に達した。入会間もない人びとであったが、即応する行動は純真な信心を示して余りあった。
7  法論の会場は、にわかに騒がしくなった。演壇に向かって右側を創価学会員が占め、左側を身延系日蓮宗の僧侶や信徒が占めた。開会一時間前というのに、人であふれていた。
 廊下の壁には、本尊の雑乱など、身延の実態を報じた「聖教新聞」や、四つ切りの写真が展示されていた。学会側の用意は、実に周到であったといってよい。人びとは固まって、その新聞や写真をのぞき込んでいた。
 司会者同士の打ち合わせが行われる、約束の午後六時となった。身延側も控室に現れた。身延側の司会者は、白井という壮年の僧で、山本伸一と対座した。発言の順番を決めなければならない。息詰まる瞬間である。
 学会の代表が、マッチ棒で原始的な籤を作った。司会の二人は引いた。司会の発言は身延側が先番と決まった。
 また、講師の発言も身延側が先番となった。続いて、一般の質疑応答は、学会側が先番と出た。最後の対決質疑も、学会側が先番と出た。
 ここで、昼間の交渉事項を再び確認し、司会者同士の交渉は、難なく終わったのである。
 会場は、もう約千人の聴衆で埋め尽くされている。その熱気は、戸外の厳寒を忘れさせ、興奮のなかで、全員、固唾をのんで開会をじっと待っていた。
 期待の緊張度は、極点に達していた。歴史的瞬間は、刻一刻と刻まれ始めたのである。
 山本伸一は、″よし! さぁ、来い!″と心のなかでつぶやき、司会者席に着いた。彼は、この時、自然に御書の一節が、一瞬、胸に浮かんで消えた。
 「邪法の僧等が方人をなして智者を失はん時は師子王の如くなる心をもてる者必ず仏になるべし例せば日蓮が如し
 彼には、師子王の心が凛々とみなぎったといってよい。
 定刻の午後七時となった時、聴衆の一角から激しい拍手が湧き起こって、会場は拍手につつまれた。戸田城聖の姿を見たからである。彼は、場内右側の学会側幹部席に悠然と腰を下ろした。続いて、山平忠平と関久男が、正面演壇右側の講師席に姿を現した。と同時に、左側から身延側の宗方木妙と長内妙義が登場した。
 拍手が、ひとまずやむと、場内は、一瞬、しんと静まり返った。興奮は、息苦しいほどの緊迫感をともない、場内の視線という視線は鋭く、壇上に集中し、動かなかった。
 午後七時を四分過ぎ、身延側の司会者・白井は、背広に袈裟を掛けた姿で演台に進み、司会者としてのあいさつが始まった。
 「本日は、この画期的な日蓮宗講師と日蓮正宗・創価学会教学部との対決の学会を開催いたしましたるところ、多数ご来場賜りまして、司会者として、まことに感謝感激に堪えない次第であります。謹んでお礼を申し上げます。
 開会に先立ちまして、お題目を三唱いたしたく思いますので、どうぞ、その場で、ご起立をお願いいたします」
 すると、間髪を容れず抗議の野次が飛んだ。
 「どっちの題目だ!」
 創価学会員は、誰一人、起立しなかった。身延側の僧と信徒のみが起立した。そして、実に陰々たる題目が三唱されたのである。
8  司会者の白井は、この法論対決の会合を、まず「学会」と言って、研究会の体裁にした。法論の順序を説明してから、勝敗については、まことに臆病な見解を明らかにした。
 「本日の学会におきまして、勝敗を決するというような判者、判定人を別に設けておりません。そのために勝敗ということには、頓着しないのでございますが、もしも講師間におきまして、その答弁に窮しました場合、約二分間経過するものは、これを負けたりとみなしても、よろしいのであります」
 最後に、白井は、身延側の二人の講師を紹介して終わった。
 学会側司会者の山本伸一は、つかつかと演台に進み、鋭い第一声を放った。
 「学会の司会をいたします山本と申します。日蓮正宗の仏法の正しいゆえんによって、間違った邪教といえる身延派の信者が、全国にわたって何千、何万と、創価学会、日蓮正宗の信者となったことは、実に日蓮正宗が正しいという証拠であります」
 冒頭から破折である。型破りの司会は、最初から炸裂した。驚いたのは身延側ばかりではない。学会側の聴衆席から、これに応えるような拍手が湧いた。
 続いて、山本伸一は、身延山の本尊雑乱ぶりを軽く突いてから、さらに、仏法の勝劣について発言した。
 「世間では、身延山が祖山であるかのように考えておりますが、身延と日蓮正宗との法の勝劣は、厳然たるものであり、いまだかつて、大聖人様の真髄たる日蓮正宗の仏法が、身延などの邪宗邪義に負けておるわけが、絶対にないのであります」
 彼は、これから、この法論が、その正邪を明らかにするだろうと言って、山平忠平と関久男の両講師を紹介した。
 「先ほど、身延派の司会者も申しましたが、審判は絶対に司会者の権限にあり、法論のしっかりした正邪というものを、あくまでもお取りしたいと考えておりますし、また、場合によっては、皆様方の賛否にも問いたいと考えております。どうか、これから両方の講師の話に入りますが、よくよくお聴き願いたいと思います」
 山本伸一の師子の叫びにも似た発言は、場内の空気を一変させてしまった。身延側の聴衆は、敗北の不安に駆られ始めたといってよい。学会側の聴衆は目を輝かせ、今、幕が切って落とされた法論に、耳を澄まそうと襟を正した。既に明暗の空気が場内に交錯し始めたのである。
 司会者おのおの三分のあいさつを終わり、伸一は、場内の反響を直覚した。
 僧侶数十人を擁した身延側の聴衆は、度胆を抜かれたように静まり返っている。学会側の聴衆の目は、まぶしいほどきらきらと光り、壇上を射ている。生命力の明暗が、判然と彼の目に映った。
 ″これなら案ずるまでもない。ただ、山平教学部長と関青年部長が、正義の主張を堂々と述べられるように運営さえすればよい。それは、必ず可能だ″伸一は、そう確信した。彼は、窓から差し込む月影を見る余裕さえあった。
 いよいよ、法論は、最初の段階に入った。
 「それでは、ただ今より日蓮宗講師・長内先生のご講演をお願いいたします」
 司会者の白井の発言に促されて、長内妙義は、袈裟を掛けた和服姿で立った。
 彼は、戦後の新興宗教の狂信的態度を遺憾とする、と前置きして語り始めた。
 「『読売新聞』三月四日の夕刊の『人生案内』欄を見てごらんなさい。こういうことが書いてある。題して『破滅の狂信』というのであります。それは、夫が新興宗教に迷ったために、奥さんが憐れな物語を新聞紙上に提供しております。
 ――子どもを三人かかえ、ささやかな商いをしていましたが、昨年夏から主人がお得意先に勧められ、学会に入り、朝晩二度、何か困ったことがあると一時間以上も題目を唱えております。
 そのために仕事がおろそかになり店もさびれていきますが、それもお祈りが足りないといって説教されますので、最近は借金も増え、家を外にして折伏と称し人びとに入会を勧めて歩いています。そのため、先祖から伝わる仏壇も戒名もみな焼いてしまう。こんな宗教を取り締まる方法はないでしょうかというのだ。家が栄えないのは、一家中がそろって信じないからだといって、そこに問題が起きている」
 新聞に掲載された一方的な投書を取り上げて、まるで世間話でもするような調子であった。話は進んでも、教義らしいものは何も出てこない。壇上の山平と関は、顔を寄せて、小声でささやき合っていた。
 「程度が悪すぎる。戦うまでもない。勝利は、こっちのものだ」
 「先に攻撃しよう」
 「そうだ。それがいい」
 当初の作戦では、長内妙義の議論を、山平が受けて立つことになっていたが、二人は作戦を、急遽、変更して、関がまず立つことにし、それを山本伸一に伝えた。
9  長内の話は、法門には一切、触れることはなかった。彼は、最後にこう結ばなければならなかった。
 「だんだん法門の話も出てくるでありましょうが、開口一番、新聞に出ましたところの○○学会の狂信ぶりを皆様方に紹介して、皆様の反省を促したいのでございます」
 竜頭蛇尾どころではない。頭も尻尾もない話に終わった。
 司会者の伸一は、タイミングよく関久男を紹介した。関は、血色のよい顔で演台に向かった。
 「ただ今、長内先生から、纏々と学会に対する批判らしきものがありましたが、何千何万という数多い人のなかには、幹部の指導の不徹底により間違いが起こることもありますが、ほとんどの人が大苦から免れ、大きく宿命を打開して、歓喜に満ちているのが創価学会の現状であります」
 彼は、軽く長内をいなしてから、本論に入った。
 「宗教で最も大事なことは本尊である。本尊とは、『根本を尊敬する』ということであります。しこうして日蓮大聖人は、『末代悪世の凡夫は何物を以て本尊と定むべきや、答えて云く法華経の題目を以て本尊とすべし』と遺文に明言しておられるのであります。
 ところが、先日、身延山に行って驚いた。まず、お釈迦様の像があるかと思えば、日蓮大聖人の像がある。七面山へ行けば、七面大明神とか、七面天女とか申しまして、犬やら蛇やら、得体の知れぬ畜生が祭ってある。そのほか、稲荷が祭ってあるかと思えば、大黒天が祭ってある。餓鬼道も畜生界も修羅界も、なんでも構わず拝んでいるのが、身延の現状であります。
 これでは、『法華経の題目を以て本尊とすべし』という日蓮大聖人に対する師敵対と言わなくて、なんでありましょうか!」
 彼は、それから「経王殿御返事」を引いて、諸天善神の働きを明らかにし、「開目抄」を引用して、身延の本尊雑乱を、さらに鋭くえぐり出した。
 「『開目抄』に、おいて『諸宗は本尊にまどえり』と、大聖人は喝破されております。身延には定まった本尊がない。日蓮大聖人の仰せられた本尊を拝んでいない。釈迦を拝めとは誰が言ったか。この本尊雑乱について、身延山は、いかに大聖人に、お答えするつもりでしょうか。いかに創価学会に対して返答するつもりであろうか! 明らかな返答を承りたい」
 激しい拍手が場内を圧した。関久男は、それから、「南条殿御返事」の一節、「法妙なるが故に人貴し・人貴きが故に所尊し」を引いて、法が穢れきってしまった身延山は、大謗法の山であることを指摘した。
 「私は本尊雑乱ということをもって、徹底的に身延を爆撃する。これに対して、身延の明らかな返答を、重ねて承りたいと思います」
 関久男は、十二分の持ち時間をいっぱいに駆使して、歯切れのよい所論を展開した。
 続いて、身延側の講師・宗方木妙が、背広に袈裟を掛けて登壇した。ワイシャツの襟が、背広の襟から、かなり飛び出していた。
 宗方木妙は、身延山は、「日蓮大上人」の魂が打ち込まれた山であり、九カ年の間、経を読み、題目を唱えて、国のために、一切衆生のために、祈られた山であるから、「世界がいかようになろうとも、焼けただれようとも、山は決して崩れないものであります。山は決して焼けないのであります」と、真面白くさった顔をして、法門とは程遠い論を展開した。
 場内には、どっと爆笑があがった。最初から論旨不明である。聴衆のなかには、顔を見合わせて、大声で笑いだす人もいた。
 彼は、さらに、関の鋭い追及から逃れようと、御本尊は、「日蓮大上人」の魂であり、題目であり、その題目の功徳が身延山の諸堂に打ち込められているのだと、必死の弁明を続けた。
 「このために、全国の信者は喜んで賽銭を上げるのであります」
 そして、廊下に張り出された身延の実態を示す写真の風刺を思い出したのか、「乞食のような、乞食のような箱ではありません」と言って口ごもった。
 脱線も、ことまでくると、爆笑は、さらに爆笑を呼んでしまった。宗方木妙だけが、相変わらず真面目くさった顔をして、それに気がつかない。
 彼は、いつしか立ち往生してしまった。額には汗が光り、口を震わせているが言葉にならない。
 聴衆は、何事が起きたのかと、しばらく静かに見守っていたが、埒が明かないので、「早くやれ!」と騒然たる野次が起こった。
 本尊雑乱の指摘に対し、抗弁しようとした彼は、しどろもどろのうちに、荒行や七面大明神への信仰を擁護しようとしたが、論旨は、ますます混乱していった。
 「……大石寺は……身延に霊骨がないと申しますけれど、厳然とあるのであります」
 「どこの馬の骨だ!」
 鋭い野次が飛んだ。
 宗方は、衝撃を受けたらしい。
 「馬の骨ということは……馬の骨ということは……大石寺派の勝手に言うことでありまして……真の真骨は、代々の法主がこれを護持し来ったのであります」
 彼は、ここでまた絶句して、口をパクパク動かしたものの、言葉にならず、しばらくして、やっと言葉になった。
 「本尊は……本尊は衆生の、おのおのの真心にある題目を以て本尊とするのであります。この導きが僧……僧侶の役目であります」
 彼の上気した顔は、真っ赤になり、額からは、汗が、たらたらと流れだした。身延側の司会者から、″早く″という催促があった。
 この時、時計を見ていた山本伸一も、発言を促した。
 残り時間は、三分ほどであった。
 宗方は絶句して、立ったままである。
 「あと一分半!」
 伸一の声が響いた。
 宗方は、口を開いても言葉にならない。
 「あと一分!」
 伸一は、残り時間を告げたが、宗方木妙は、金縛りにでもあったかのように、最後の時間切れまで一言も発することなく、講師席に戻らなければならなかった。
10  驚いたのは聴衆である。身延側の信徒は呆然としてしまった。″どうしたのであろう。……これが身延を代表する論客であろうか″と疑いの目を凝らした。学会側の聴衆にとっても意外であった。学会の教学陣の前に、身延の日蓮宗が、かくもぶざまな姿をさらけ出そうとは、想像もしなかったことである。
 まさに、驚愕に値したが、誰の目にも、もはや勝敗の大勢は明らかであった。それにしても、法論対決といいながら、長内妙義は、新聞の投書を問題として持ち出したり、宗方木妙は、関久男に本尊雑乱の実態を突かれながら、なんの回答にもならぬ迷信めいた内容の弁明しかでき、なかった。教学的にいって、あまりにも低い次元にとどまってしまった。聴衆のなかの心ある人にとって、まことに物足りぬ討論であった。
 演壇のすぐ下には、東班長をはじめとする小樽班の班員が陣取っていた。東恵子は、開会の瞬間から、気が気でなかった。このような大事件にしてしまった責任感から、万一、創価学会が負けるようなことになったら、生きておれないと思った。彼女は、壇上と戸田城聖の顔を、交互に見てばかりいた。講師の話は、あまり耳に入らなかったにちがいない。壇上では、時折、山平と関が、笑いながら話し合っている。
 彼女は、油断しては困ると思った。心配になり、戸田城聖の顔をのぞくと、平然と腕を組んで聴いている。この分なら大丈夫だろうと、彼女は安心した。場内の爆笑と拍手に合わせて、彼女も痛くなるほど手を叩いた。
 右側の聴衆のなかほどに、袴をつけた日蓮正宗宗務院庶務部長の細井精道がいた。この日、一般聴衆に交じって、二人の僧を連れて来場していたのである。歴史的な瞬間を目の当たりにして、身延の教学が、これほどまでに凋落し、腐ってしまった実態に、今さらのように驚いていたにちがいない。
 最後の講師・山平忠平が、沈着な足取りで演台に向かった
 「日興上人が、日蓮大聖人の仏法を、正しく受け継がれたということは、厳然たる歴史上の事実であります。今、そのことを、いろいろな面から論証したいのですが、時間の関係から、一つだけ申し上げることにします。
 当時の身延の地頭は、波木井殿でありました。日興上人は、大聖人様の入滅されたあと、寂しい身延山に堂々と第二代の法主となっておいでになった。その時、この波木井殿は大変に喜んで、日興上人にお手紙を差し上げております。
 『日興上人が身延においでになられたことは、大聖人様が再び身延に来られたかのように嬉しい。世間のことにつけても、仏法のことにつけても、何一つ不足はありません。身延においでになったことを重ね重ね嬉しく思います』
 このお手紙は、現在、富士の西山本門寺に、きちんと残っております。
 しかし、他の五老僧は、誰一人、身延の山へ参りません。日興上人は、唯一人、身延の山にいて大聖人の後を継ぎ、弟子の養成、全国の布教にあたっていたのですが、そのうちに民部日向という六老僧の一人が身延にやって来ました。日興上人は喜び、日向を学頭職に就けたのです。
 ところが、それまで日興上人の身延においでのことを、あれほど喜んでいた地頭の波木井殿は、二年たち、三年たつうちに、すっかり民部日向の謗法にかぶれたのであります。
 これらの具体的な事実は、『原殿御返事』(編年体御書一七三一ページ)、あるいは『富士一跡門徒存知の事』(御書一六〇一ページ)などの文書に、はっきりしております」
 山平忠平は、誰にもわかる平明な言葉で、日興上人の身延離山の事実を説き始めた。
 七百年近い昔のことである。
 この事実は、堀日亨著『日興上人身延離山史』に詳しいが、末法万年の闇を照らす日蓮大聖人の仏法の正義が、今、いずこにあるかを問う時、極めて重大な事件であったといわなければならない。歴史の流れにおける、単なる過去の一事件として見過ごすことはできない。日蓮大聖人の仏法が、今日、なお生きているか、死んでいるかにかかる重大性をはらんでいる。いずこに生きているかの問題ばかりではない。日蓮大聖人が、九カ年の間、お住まいになった身延山は、現在、いかなる意味をもっているか。これらの肝要な問題を、正確に解明するカギが、この身延離山という歴史的事実の背景に隠されているのである。
 大聖人滅後七年にして、その身延を離山しなければならなかった日興上人の決断は、よくよくの状況のもとにあったことを示している。
 正応元年(一二八八年)十二月十六日付の、原殿に宛てられた日興上人のお手紙「原殿御返事」は、その間の事情をかなり詳細に語っている。原殿というのは、波木井実長日円入道の一族の一人であることは間違いないが、それが弟子分帳にある南部弥六郎とも、あるいは日興上人に誓状を書いている清長のこととも思われるが、確かな証拠がないと、堀日亨著『富士日興上人詳伝』にある。ともかく、日興上人が、波木井一族のなかで最も信頼し、心を許した人物であったにちがいない。
 日興上人が、沈痛なまでの切々たる真情を吐露された「原殿御返事」には、冒頭から、波木井実長が謗法を犯していく経緯が記されている。そして、実長が、民部日向に惑わされて、犯していった謗法を、三箇条にまとめて指摘されている。
 第一は、実長が「立正安国論」の正意を破ったことである。
 「原殿御返事」には、次のような経緯が記されている。
 実長の子息の弥三郎が、三島神社に参詣しようとしたことがあった。この時、日興上人は、直弟子の越後房を遣わし、″大聖人が、「立正安国論」で説かれている教えを、どうして破ろうとされるのか″と説得し、神社参詣を思いとどまらせた。
 大聖人が、「立正安国論」で説かれた教えというのは、次の一節に明らかである。
 「つらつ微管びかんを傾けいささか経文をひらきたるに世皆正に背き人ことごとく悪に帰す、故に善神は国を捨てて相去り聖人は所をして還りたまわず、是れを以て魔来り来り災起り難起る言わずんばある可からず恐れずんばある可からず
 〈私の狭い見識を尽くし、経文をわずかばかり開いてみたところ、世の人びとは、皆、正法に背き、ことどとく悪法に帰している。それゆえに、守護すべき善神は、国を捨てて去ってしまい、聖人は、この地を去って他の所へ行ったまま帰ってこない。そのために、代わって魔や鬼神がやって来て、災いが起こり、難が起きているのである。実にこのことは、声を大にして言わなければならないことであり、恐れなければならないことである〉
 これが「神天上の法門」といわれている教えである。
 「神天上」というのは、神が国土を捨てて天上界に去ってしまうということである。善神は、正法によって力を得、守護の働きをなすとされている。仏法が乱れ、正法が栄えない時代・社会にあっては、善神は守護の力を失って天上界に去り、代わって悪鬼・魔神が勢いを増し、国土が乱れるのである。
 「立正安国論」に示された、この「神天上の法門」は、妙法を根本とする日蓮大聖人の教えの根幹であり、この法門のうえから、日興上人は神社参詣を厳禁されていた。
 ところが、弥三郎が日興上人に説得され、神社参詣を思いとどまったということを耳にした実長は、学頭の日向に、「神天上の法門」について質問した。
 すると日向は、日興上人が、外典すなわち仏教以外の諸学にも理解が深かったことを逆用して、次のように、とんでもない邪義を語ったのである。
 ″神天上ということは、安国論に説かれていることではあるが、日興は外典に流されて読んでおり、真意を理解していない。法華経の持者が神社に参詣すれば、諸天善神も来下するのだから、神社参詣は結構なことである″
 まさしく、「立正安国論」の教えを破る師敵対の邪義である。波木井実長は、この日向の邪義に傾いた。
 日向の説を深く信じ込んだ実長を心配された日興上人は、実長を訪ねた。
 そして、懇々と日向の教えの誤りを指摘し、このような邪義を説く日向は、師に敵対する者であり、「追放する」とまで言われたが、実長には、日興上人の真意は伝わらなかった。
 日興上人の訓戒に納得できない実長は、後日、日興上人が講義をされた際、聴聞のために法座に列席する子息の弥三郎を通して質問してきた。
 質問の内容は、念仏無間の問題と神天上法門についてであった。日興上人は、諸宗の謗法と、それによる神天上について懇切に説かれたが、弥三郎は念仏無間の教えには納得したものの、神天上の法門については不審をいだいたまま帰っていった。それというのも、このような邪義を説いていたのは、日向だけではなく、当時、鎌倉を活動の地としていた日昭、日朗なども、神社参詣を肯定していたからである。
 こうして、「立正安国論」の正意は、早くも、むしばまれ始めていたのである。
 日蓮大聖人の仏法の正義を理解できず、日向に惑わされた実長は、次々と謗法を犯していった。
 第二は、謗法への布施である。
 身延の南方に福士というところがある。実長の所領内である。この福士に念仏の塔が建立された際、実長は寄進して助成したのである。
 実長が、正法に帰依して以来二十年ほどの間、領内では念仏僧の姿さえ見られなかったが、状況は一変してしまった。
 また、「富士一跡門徒存知の事」によると、実長は、念仏の道場を建立寄進までしている。日向の邪義に惑わされた実長の謗法は、まことに目にあまるものがあった。正信を失った実長には、反省の色さえなく、さらに、とんでもないことを考えていた。
 それが、第三の謗法、すなわち釈尊像を造立しようとしたことである。
 実長が、釈尊像を造立しようとした時、日向は、制するどころか、なんと、″日朗が持ち去った釈尊像の代わりとしての仏像を造ればよい″と勧めたのだ。
 日朗が持ち去った釈尊像というのは、通説では、大聖人が伊豆流罪の際に、その地の地頭から贈られて持っておられたものといわれている。大聖人が所持されていた釈尊像について、日興上人は、「釈迦の立像、墓所の傍らに立て置くべし」という大聖人の遺言を、「御遷化記録」に書き残されているが、この仏像を日朗が勝手に持ち去ったのである。
 大聖人は、「法華経の題目を以て本尊とすべし」と明確に仰せになっている。日興上人も、「聖人御立の法門に於ては全く絵像・木像の仏・菩薩を以て本尊と為さず、唯御書の意に任せて妙法蓮華経の五字を以て本尊と為す可しと即ち御自筆の本尊是なり」と明示されているのである。
 実長に釈迦像の造立を勧め、自らも絵曼陀羅を描いて供養するなど、大聖人の直弟とも思えない所行をなした日向は、身延を本尊雑乱の謗法で汚す淵源となった悪僧であったといってよい。
 日興上人は、実長に対して、″あなたの謗法は、心がねじ曲がった日向の過ちの結果であるから、よくよく考えて、正信に立ち返るという改心の書状を書き、大聖人の御影に捧げなさい″と説諭された。
 しかし実長は、「私は、日向を師匠にしている」とうそぶく始末である。
 波木井実長は地頭である。地頭とは、その地の最高の政治権力者である。それが、邪師に成り果ててしまった学頭・日向と結びついてしまったのである。身延山は、魔の住処になろうとしていた。
 この時代は、権力者によって宗教が保護され、教えの弘通が進んだ。
 地頭の実長が、邪師・日向に帰依した以上、その支配下にある身延山は、このまま打ち過ぎれば、どのような事態に陥るかわからない。日興上人は、大聖人の正義を継承すべき身延山久遠寺の院主別当として、令法久住のためにも、身延にとどまるべきではないと、覚悟せざるを得なかった。
 日興上人の胸中には、生前の日蓮大聖人の御言葉が蘇った。
 「地頭の不法ならん時は我も住むまじき由、御遺言には承り候へ」(「美作房御返事」編年体御書一七二九ページ)
 仏法の深義を学び、熱原の法難を戦い、師の日蓮大聖人と共に九年を過ごした身延山であった。「いづくにて死に候ともはかをばみのぶさわ身延沢」と遺言された地であった。離れがたい身延山であった。しかし、正応二年(一二八九年)の春まだ浅いころ、日興上人は、決然と身延を捨て去られたのである。
11  今、壇上で、山平忠平は身延離山の概略を語り終え、粛然とした面持ちで、言葉を一段と強めた。
 「この時の日興上人のご心境は、いかばかりであったか、『原殿御返事』を拝したいと思います。
 『身延沢を罷り出で候事、面白なさ、本意なさ申し尽し難く候へども』(編年体御書一七三ページ)――日興上人としては、身延を出るということは、まことに面目ないし、本意ないことである。
 『打還し案じ候へば』さて考え直してみるならば、『いづくにでも聖人の御義を相継ぎ進らせて、世に立て候はん事こそ詮にて候へ』、たとえ富士に移ろうと、どこに移ろうと、大聖人の法義を正しく打ち立てることこそ、第一に必要なことである、との仰せでございます。
 『さりともと思い奉るに、御弟子悉く師敵対せられ候いぬ』――よくよくお考えになっていただきたいと思います。日興上人を除いて他の弟子は、すべてことごとく師敵対せられた。大聖人に敵対した。
 『日興一人本師の正義を存じて本懐を遂げ奉り候べき仁に相当って覚え候へば、本意忘るること無く候』と。このように日興上人は、ただ日興一人、日蓮大聖人の正しい教義を奉じて広宣流布するのであると、ご決意をお述べになっておられるのであります」
 山平は、頬を紅潮させ、叫ぶような調子で訴えた。
 「しかるに、先ほど来、ご両師のお話では、身延山には、大聖人の命が溶け込んでいるというのですが、そのような御書がどこにありますか!
 大聖人が、『日蓮がたましひすみにそめながして・かきて候ぞ』と顕された大御本尊こそ、大聖人の御本懐であり、この大御本尊こそ、われわれ末法の衆生が即身成仏できる唯一無二の大御本尊ではないか!
 今でこそ、身延と中山は親戚のように思うかもしれないが、ある時には、大いに喧嘩していた。
 その中山の僧侶で、こんなことを言った者がある。『身延なんでいうのは、とんでもない謗法の山だ。あんな寺の前では、馬から降りても相成らん。まして身延へ参ることなどは、とんでもないことだ』。これも歴史上の事実です。
 まだ歴史上の根拠を申し上げると、際限ないのでありますが、このように日興上人が、唯一人、正しく大聖人の正義を伝承されて、今日に至っている!」
 一斉に拍手が続き、しばらくは、やまなかった。
 これで四人の講演は、ひとまず終わったが、聴衆にとって勝敗の帰結は、もはや明らかといってよかった。
 法論は、第二段階の五分間ずつの補足講演に入った。順序に従って、身延側の長内妙義が立った。彼は、ここでも教義に関しては避けて、一閣浮提総与の御本尊について攻撃をしてきた。彼は、大聖人が「開目抄」「観心本尊抄」を著された後に図顕された本尊が正しいと述べた。いわゆる佐渡始顕の御本尊を正しいと主張したが、時間切れとなってしまった。
 次に、山本伸一の指名で関久男が立った。
 「ただ今、大石寺の御本尊につきまして、長内先生から攻撃がありましたが、これにつきましては、山平先生から詳しい説明があります。決して心配することはありません」
 関は、一言、前置きをしてから、これまでの身延側の発言に対し、一つ一つ鋭利な質問の矢を放った。
 「まず最初に、先ほど宗方先生がおっしゃった″身延の仏像には魂がある″という点ですが、何ゆえ身延の仏像に魂があるのか、文証をあげてもらいたいのであります」
 それから、彼は、狐や蛇を拝むことは、畜生道の感応にすぎず、堕地獄であること、そして、身延には本尊がないことなどを力説した。
 「『諸宗は本尊にまどえり』という大聖人の御言葉が、ひしひしと私の胸を打つのであります。身延山に本尊はない!
 もう一つ長内先生は、顕本法華宗の僧侶と承っておりましたが、いつの間にか身延山の用心棒におなりになった。これはどういうわけですか」
 補足講演は、宗方木妙の番になった。関の攻撃に答えなければならないのだが、相変わらず、わけのわからないことを言った。
 「一つ補足しておきます。衆生の心がお題目に結びつけられた時に、それは本尊というのであります。お題目は大上人の、また仏様の魂である。この魂を信ずる時、そこに本当の本尊が開顕せられるのであります。そのなかに、おのずから三大秘法が具足してくるのであります……」
 聴衆には、なんのことか、さっぱりわからない。場内に、どっと笑い声があがった。彼は、笑われていることを意識し、すっかりあがってしまったらしい。
 「狐を拝むということは、決して……身延では狐を拝むことはないのであります」
 ここで野次が飛んで、「拝んでいるぞ!」という声が場内いっぱいに広がった。
 すると宗方は、怯えたように口をつぐんでしまい、しばらくしてから、ぼそぼそと続けた。
 「それは本尊としては、大上人のお心であるお題目より外にはないのであります。それは身延においても実行しているものであります」
 何を言っているのか、聴衆には、ますますわからなくなってしまった。爆笑は嘲笑となって続いた。聴衆にわからなかったばかりでなく、おそらく講師自身が、何を、どうしゃべっていいのか、わからなくなったのであろう。まったく絶句してしまい、苦しい表情で立ち往生していた。
 時間は刻々と過ぎ、身延側の司会者は、野次を制したが、宗方の口は、再び開くことはなかった。学会側の司会者・山本伸一は、時間切れを告げた。
 「どうやら何も言わないでお座りになった。これでは、どうも……。次は、山平先生の補足講演に移ります」
12  山平は、独特の冷静さで、大石寺の御本尊への疑いを晴らしたあと、身延の本尊雑乱を厳しく追及していった。
 「五老僧をはじめ波木井殿にしても、なんでもかんでも釈迦を本尊としようとした。このことを日興上人は、『五人所破抄』(御書一六一〇ページ)において、あるいは、『富士一跡門徒存知の事』(御書一六〇一ページ)において厳しく破折されています。いったい、いつから身延では、御曼荼羅を拝むということになったのか、むしろ、それを逆にお聞きしたい」
 これで四人の補足講演は、ひとまず終わったが、期待した白熱的な論戦というには、はなはだ遠かった。それというのも、長内は一般紙の投書などを問題にして最初から教義論争を避け、関の本尊雑乱の正面切った攻撃に対し、宗方は答えることができず、教義の論争において低次元に終わったためである。早くも論敵を失った山平は、身延離山の歴史を語ることによって、日蓮大聖人の仏法の正統な流れは、日興上人のみに受け継がれたことを、つぶさに論証して終わったのである。
 それでも第三段階の一般参加者からの質問に入ると、待ち構えていた質問者の手が各所にあがった。
 一問の回答は、五分以内とし三分を経過すると司会者は合図をし、五分に達すると打ち切る。この一般の質疑には二十分が充当されていた。
 最初の質問者は学会側で、「身延では、狐を拝むことはない」と言った宗方木妙に向けられ、彼は身延の元信者として、狐を拝んだ自身の経験を証拠として詰問した。これに対し、宗方は、無責任な答え方をした。
 「それは個人が勝手に拝んでいるのでありまして、身延で拝ましているのではありません……」
 聴衆のなかから、怒号にも似た声があがったが、時間切れとなった。
 第二問は、身延側の聴衆の質問で、大石寺の御本尊と佐渡始顕の本尊と、いずれが正しいのかを、学問的証拠をあげて説明せよというものであった。
 山平は頷き、まず、大聖人の三大秘法について述べ、本門の本尊について語ってから、反撃に移った。
 「……もしもあなたが、佐渡始顕を正しいと思うならば、なるほど華厳経は、いちばん先に説かれた。それでは華厳経を信ずるのかと、逆にお聞きしたい。佐渡始顕と申しますと、なるほど、一応、佐渡で初めて顕された本尊といわれています。が、始めだからよいという理由にはならない。始めがよいというのなら、釈尊五十年の説法のいちばん始めの華厳経をやればよいではないか。
 「詭弁だ、詭弁だ」
 野次が激しく飛んだ。
 山平は、野次に向かって言った。
 「なにが詭弁ですか、あなた。日蓮大聖人の出世の本懐が三大秘法にあるということもわからないで、本門の本尊がわかるわけがない」
 野次の応酬が入り乱れて、騒然たるうちに時間がきた。
 このように、二人の司会者が、交互に質問者を指名して進んだ。長内妙義に対しては、先に取り上げた「読売新聞」の「人生案内」欄の内容について、その真偽を確かめたかどうか、という質問も出た。果たして長内は確かめていなかった。質問者は、その軽率さを激しく攻撃した。
 宗方木妙も二回質問を受けたが、その回答は、何を言わんとしているのか、まことに不明瞭なまま、時間切れで終わってしまった。
 いよいよ最終段階の対決質疑である。学会側が先番であった。山本伸一は、司会者として、一宗の運命を決する段階に来たことを意識して、凛然とあいさつをした。
 「それでは、最後に創価学会の先生方と、身延派の先生方と、両者で対決いたします。
 最初に、創価学会の先生から、身延派の先生に質問をいたします。そして、だいたい一問題について七分間、その間、途中において二分経過しても応答のできない場合には、できなかった方の先生が負け、また、その審判がはっきりしない場合は、司会者によって、皆様方に賛否をお願いするようになっております。
 それから、もう一つ、両者の先生方は、どちらの先生がお答えになってもよいことになっております。よろしくお願いします。
 それでは、初めに創価学会の先生から問題を出していただきます」
 場内は、一瞬、緊張のあまり、しんと静まり返った。
 関久男は、再び真正面から身延の本尊雑乱の事実を、鋭く突いて攻撃した。
 「身延山では、竜神や鬼子母神を拝んだり、大聖人の像、あるいは釈迦の像を拝んだりする。まさに本尊雑乱である。何ゆえにそのようなことをして、平気でいるのか。大聖人は『法華経の題目を以て本尊とすべし』とはっきりおっしゃっているのですよ。この点、明らかな弁明を、お願いします」
 長内妙義が答弁に立ったが、彼は、既に感情的になっていて、顔を紅潮させて語気が強かった。
 「ちょっと弁明いたしておきますが……私が身延の用心棒になったと言われまするが、私は新たな日蓮宗を設立したという意味において、参っているわけだ」
 彼は、弁明にもならない言い訳をしてから、これも苦しい本論に入った。
 もともと、何を本尊とするか明確でない身延である。長内は、「実在不滅の久遠本仏釈迦牟尼仏をもって、われわれは本仏といたしております」と言い、鬼子母神などを拝むのは別勧請によるのだと語った。大聖人の御書のどこにもない、後世に作り上げられた、でたらめな教義を持ち出して、抗弁せざるを得なかったのである。つまり、鬼子母神などを縁とし、手段として、最後に大本尊に到達する、というのである。
 「では、本当の本尊に行くのは、いったい、いつになったら行けるのか、なんでも拝んでよいなら、大聖人が『諸宗は本尊にまどえり』とおっしゃるわけはないのです。もう末法になって久しい。大聖人滅後七百年になっております。いつになったら行けるのですか」
 関久男の追及は厳しかった。長内妙義は、体をかわして、本仏論に話を進めようとしたが、関は惑わされることなく、追及を重ねた。
 「手段として、稲荷や、七面山や、鬼子母神を拝んでもよいと言うなら、その文証をあげてください」
 長内は、善巧方便であるなどと言い訳したが、責め立てられて、遂に文証にならぬ文証を出した。
 「文証、文証と申しまするが、いわゆる題目の光明に照らされて本有の尊形になったという意味において、ここのところをご了解願いたい」
 関は承知しない。
 長内は、しばらく立ち往生してしまった。身延側の司会者は助け船を出すつもりで、「あと三十秒」
 「あと二十秒」と時間を口にした。長内は、同じことを繰り返すより手はなかった。
 「……妙法の五字に照らされて、本有の尊形になる、という御文証がわからないのですか」
 なるほど、これは「日女御前御返事」のなかにある一節である。しかしながら、これは、何を拝んでもよいということを、述べられているのではない。
 「ここに日蓮いかなる不思議にてや候らん竜樹りゅうじゅ天親等・天台妙楽等だにも顕し給はざる大曼荼羅を・末法二百余年の比はじめて法華弘通のはたじるしとして顕し奉るなり……されば首題の五字は中央にかかり……此等の仏菩薩・大聖等・総じて序品列坐の二界八番の雑衆等一人ももれず、此の御本尊の中に住し給い妙法五字の光明にてらされて本有の尊形となる是を本尊とは申すなり
 これは、日蓮大聖人が御本尊の相貌を詳しく説明したのであって、仏菩護から提婆達多や竜女など、十界の衆生が妙法に照らされて大曼荼羅のなかに列座して存在している尊厳さを述べられているのである。これが直ちに、稲荷や鬼子母神など、なんでも拝んでよいという教義にはならない。これは明白なことである。
 山本伸一は、司会者として、この問題を明白にする責任を感じて聴衆に向かった。
 「今の問題について、身延派の先生が文証を出したと思う方は立ってください」
 身延側の席にいた数人の聴衆が、ぱらぱらと立っただけであった。これを見た身延側の司会者は慌てた。彼は、対論の途中で賛否を問うことに反対してから、身延側の講師の質問を促した。
 長内妙義は立って、日蓮本仏論を攻撃してきた。予想通りである。これを待っていた山平忠平は、「開目抄」にある文証を二つ引いて、日蓮大聖人は、もはや天台や伝教のように、釈尊の法華経を弘通する理由はないこと、さらに主・師・親の三徳の上から、末法における本仏であることを、懇ろに論証したが、長内にはわからない。
 時間が来た。伸一は、ここでも、賛否を問うた。
 「今、この問題について、長内先生の質問に、山平先生が答えていないと思う方は起立してください」
 身延側の聴衆のなかから、わずか十数人が立つのみである。場内は騒然となり、身延側の席からは、帰りかける人も出てきた。
13  山平忠平は、再び質問を放った。
 「先ほど、身延山が、ありがたいようなことをおっしゃったが、なぜありがたいのか、仏教の哲学の上から、また、大聖人の教えの上から、お教え願いたい」
 長内妙義は、″日蓮上人が身延に九カ年住んで読誦したから神聖な山だと心情論に終始したが、問い詰められて、やっと日興上人が書いたという手紙を持ち出した。
 「波木井の郷は久遠実成釈迦如来の金剛宝座なり、天魔破句も悩す可からず、上行菩薩日蓮聖人の御霊崛なり……」
 これは、日興上人が波木井実長に宛てたものとされているが、堀日亨は『富士宗学要集』のなかで、数々の疑点をあげており、その真偽が問題にされている曰くつきの手紙である。
 山平忠平は、「美作房御返事」にある大聖人の遺言、「地頭の不法ならん時は我も住むまじき」(編年体御書一七二九ページ)を文証として、「謗法の山には住まないという大聖人の御精神をどうするか」と反駁した。
 時間切れとなり、暖昧のうちに長内の質問に移った。
 「本門、迹門を束ねて脱益といい、用がないとしますけれども、それは本当のことでございますか?」
 対決質疑の予定時間三十分は、刻々と時を刻み、残り少なくなっていた。場内の熱気も極点に達し、聴衆が固唾をのんで耳を澄ましているなかで、山平は明快に答えた。
 「法華経の本門も迹門も、熟益であり脱益であって、末法のわれわれには用事はない。その通りであります」
 そこで長内は、「観心本尊抄」の「本門を以て之を論ずれば一向に末法の初を以て正機と為す」を文証とし、本門こそ末法の始めの仏法と曲解して反駁を試みたが、山平につかまってしまった。
 「なるほど、『観心本尊抄』にそのような御文があります。しかし、それが何ゆえに、末法においては本門でなければならぬということになるのですか」
 大聖人は「観心本尊抄」のこの御文に続いて、「所謂一往之を見る時は久種を以て下種と為し大通前四味迹門を熟と為して本門に至つて等妙に登らしむ、再往之を見れば迹門には似ず本門は序正流通倶に末法の始を以て詮と為す、在世の本門と末法の始は一同に純円なり但し彼は脱此れは種なり彼は一品二半此れは但題目の五字なり」と述べられており、種脱相対して「末法の始は……題目の五字なり」と決している。
 長内にとっては、大聖人の仏法が、末法における下種の仏法、つまり、南無妙法蓮華経であることを、どうしても理解することが不可能であった。
 そこで彼は、山平の反問にあっても、反問の意味を理解することすらできず、まして、末法においては、法華経本門は流通分として用いられるにすぎないことなど、彼の念頭には、影すら浮かばなかった。しかし、彼とても、本門と題目の相違は気にかかる。気にかかるままに、彼は、うっかりそれを口にした。
 「本門は題目を詮ずるところの一つの下地であるということを、よくお考え願いたいのでございます」
 彼は、文底の妙法というものは、下地としての本門寿量品があるから論じられるのではないか、と主張してきたのである。
 「本門は題目を詮ずる下地ですか?」
 山平は、鋭く肉薄した。
 長内が言いよどんでいると、身延側の聴衆のなかからであろう、「下地だ!」という声がかかった。
 山平は、この瞬間、にっこり笑って、力強く言い放った。
 「下地は、いらないじゃないですか。どうですか、皆さん。塔を建てるのに下地として足場を組む。塔が出来上がったら、下地となった足場は取り払うんです!」
 どっと拍手が激しく鳴った。まさに、勝負はついてしまったのである。長内は、自らの言質で種脱相対を認めた格好になってしまった。慌てたのは長内である。彼は、しどろもどろになった。
 身延系の教義は本迹一致であるが、動揺した長内は、彼の顕本法華宗の教義を持ち出して、「本証相対」「種脱相対」に言及し、「本門は能詮であり、そこに所詮である題目がある」などと述べて、ますます窮地に陥った。
 「それでは、その下地になるものは、いらないというのですか。下地というのは言い間違いですか」
 山平の追及は、さらに厳しさを加えた。長内は、わけのわからぬことを口にした。
 「本門という一つの法相論の上におきまして、論ずるのでございますからして、本迹相対の一品二半というものを認めているのでございます。……もし、下地というのが悪ければ、それを取り消しておきます」
 長内の声は、いささか小さくなり、その声は拍手に消されてしまって、山平の耳には入らなかった。
 「下地は、いらないとはっきりしておりますね。下地と言ったのは、言い間違いですか」
 山平の止めの一撃である。長内は、本門は題目を詮ずるところのものであるとしか返答できない。山平は、さらに声を張り上げた。
 「……下地と言ったのは、言い間違いかどうか、はっきり言ってください!」
 長内は、口ごもりながら、言い訳にならぬ言い訳を、つぶやくように言った。
 「下地といいましでも……それはですね。教観相対する時の教という立場において、言っているのでございます」
 予定の時間は、既に過ぎた。
 身延側の司会者は、形勢不利と見て、時間切れを告げた。
 法論は、下地論争で終わった。身延側の敗色は、歴然たるもである。
 「上野殿御返事」次のようにある。
 「今末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし、かう申し出だして候も・わたくしの計にはあらず、釈迦・多宝・十方の諸仏・地涌千界の御計なり、此の南無妙法蓮華経に余事をまじへば・ゆゆしきひが事なり、日出でぬれば・とほしびせんなし・雨のふるに露なにのせんかあるべき、嬰児に乳より外のものをやしなうべきか、良薬に又薬を加えぬる事なし
 ここに相待妙から論ずれば、本門も末法においては、不要であることは明白である。文底の南無妙法蓮華経が出現した以上、法華経の本迹は、ともに捨てるべきことは論をまたない。
 宗方木妙は、″馬の骨″で立ち往生してしまったが、今また長内妙義は、奇妙な本門下地論で、はからずも最後に馬脚を現したといってよい。終わった瞬間、凱歌は創価学会側の聴衆の胸のなかに、豁然とあがっていた。
 身延側の司会者は、これをもって終結しようとし、席を立った聴衆もあったが、山本伸一は、学会側の司会者として、約束通りの順序を主張した。
 「お待ちください。それでは、学会側ならびに身延側の先生方、一名ずつのごあいさつがあります。まず、学会側から……」
 「予定した時間が既に……」
 身延側の司会者はさえぎったが、壇上には、早くも、補欠候補として選ばれていた理事が飛び出していた。そして、彼は、機関紙の主幹として、身延批判の記事に嘘があるという身延側の言い分に対し、身延の元大本願人・小倉某という人の直接の話であると反駁を加えた。すると、身延側の司会者は何を慌てたのか、司会者の権限を乱用した。
 「議事進行の必要がありますので、弁士中止……」
 会場は騒然となっていた。
 身延側の司会者は、慌ただしく自身であいさつに立ち、聴衆に謝辞を述べ、閉会を勝手に宣した。
 山本伸一は、躍り出た。
 「ちょっと待ってください。……本日は、これで終わりますが、対決は、全部、テープレコーダーに厳然と録ってあります。また、本日のこれまでの対決の現状を見ましでも、日蓮正宗・創価学会が、誰が聞いても、誰が見ても、断固として正しいことは、厳然とわかることです。ご苦労さまでございました。解散します」
 彼の解散宣言は、そのまま勝利の宣言であった。
 宗方木妙は、二、三の僧侶に抱えられるようにして退場した。身延側の聴衆も席を立ち、すごすごと退場した。
 残ったのは、壇上の学会側の講師たちと、学会側の聴衆だけとなった。
 熱気を、なおはらんだ会場では、司会者・山本伸一の発声で三唱する万歳が爆発し、それが、厳寒の戸外の夜空にこだましていった。
 この直後、にっこりと微笑みながら、戸田城聖が壇上に足を運んだ。熱烈な拍手が湧き起こった。
 彼は、「ご苦労さまでした」と全員に親しく呼びかけ、なんとも和やかな表情で、日蓮正宗と身延の日蓮宗との根本的な相違を、三宝論に要約して展開し、しばらく質問会を続けて、各地から、急遽、参加した学会員たちを温かくねぎらつた。
 翌十二日、戸田城聖以下十八人の幹部一同は、小樽から札幌に向かった。宗門側が設けた昼食会に招かれていたからである。
 身延の日蓮宗との法論に、大勝利した報告を聞いた日昇は、ことのほか喜んだ。
 戸田城聖は、札幌にとどまり、その夜は、会員を迎えて質問会を行った。戸田は、弘教の情熱に燃え上がった会員に、渾身の激励と指導を行ったのである。
 戦い終えた青年部の派遣隊十一人は、その日の夜行列車で東京に向かった。戸田城聖以下七人の一行は、翌十三日の日航機で、夜の羽田空港に無事着陸した。
14  本部には、多くの友が待ち、にぎやかに法論の内容を報告し合った。慌ただしい十日ほどの闘争であったが、波紋は、その後、大きく広がった。
 まず、北海道各地の身延系日蓮宗の人びとのなかには、改宗し、創価学会に入会する人が陸続と出た。北海道における広宣流布の情熱は、いやがうえにも燃え立ち、組織は、急速な発展を見せ始めたのである。
 小樟問答があってから二年後の統計を調べてみると、百三十八世帯だった小樽班は、二千百世帯になっていた。また、道内の各拠点も同様で、旭川は三千百世帯、札幌は四千二百世帯、函館にいたっては、実に八千百世帯に達し、小樽と合わせて北海道に四支部が誕生している。このほか、東京の支部に所属する夕張地区は三千百世帯、室蘭地区は九百世帯で、北海道の全世帯数は二万一千五百世帯と、驚くべき数字に達した。
 一九五五年(昭和三十年)三月現在、全道で二千七百弱にすぎなかった創価学会世帯数は、わずか二カ年の間に、約八倍の飛躍を遂げたことになる。
 もちろん、この二カ年の間の創価学会の全国にわたる世帯数の増加率もかなり著しいもので、全国平均として三・五倍に達しているが、北海道だけがその倍以上の八倍となっている。これは小樽における法論の勝利が、全道の学会員に強烈な影響を与えたと見るほかはない。
 この勝利の法論を目の当たりにした北海道の学会員は、その後、正統の誇りと確信とをいだいて、いやがうえにも、広宣流布への情熱をたぎらせて活動したのである。
 身延の日蓮宗は、法論直後、宗内において、ざまな問題に直面したという。三月二十九日に日蓮宗宗会が開催され、宗会議員たちは、開会に先立って懇談会を行った。そこでは、小樽における法論の状況が報告され、その後の対応策が明らかにされたことを、四月一日付の「中外日報」が報じている。
 それによると、「宗内全寺院に対して今後、創価学会から申し込まれる法論には個別的には応じないよう警告が行われる」ことになったという。そして、「場合によっては中央的な一大公開法論での対決」も考慮されていたようである。
 宗会の二日目に行われた質疑においても、学会対策がテーマの一つになった。そして、ある議員から、次のような質問が、執行部に対してなされている。
 「創価学会への対策を聞くと宗門の末端では法論はやるな、中央でやるということであった。これだけでは対策にならない、もし当局が中央で問答をやり失敗したら大変なことになろう」
 これに対して、「当局としては聖教新聞に対抗する新聞の発行や折伏教典に対する教学上の批判」を行っていく、という答弁がなされている。
 当時の身延の狼狽ぶりが伝わってくるようなやり取りである。
 身延では、それまでの機関紙「護持教報」を、この年の十月に「日蓮宗新聞」と改題して、内容の一新を図っている。これも対策に腐心した、一つの結果であろう。その後、身延側では大急ぎで学会対策の本の出版を計画し、機関紙でも、真相を曲げた発表を続けた。
 当時の身延の日蓮宗が、創価学会を軽視していたのも無理はない。身延では、北海道全土に寺院は二百カ寺以上あると豪語していたが、日蓮正宗の寺院は、わずか五カ寺であった。信徒数に、おいても、彼らは絶対の優勢を保っていた。
 文部省の「宗教年鑑」によると、一九五五年(昭和三十年)十二月三十一日現在の教会、布教所を含めた寺院数、および信徒数は、次のようになっている。
  寺院数   日蓮宗       五、二九九
        日蓮正宗        一四三
  信徒数   日蓮宗   一、三七七、二二〇
        日蓮正宗    三四九、六二〇
 五五年三月当時の創価学会の世帯数は、急増していたとはいえ、まだ二十万世帯にも満たなかったのである。
 北海道・小樽の、一つの班による果敢な折伏活動を発端として起こった小樽問答は、はからずも日蓮大聖人の仏法が、いずこに厳然と実在するかを、広く世に実証したのである。
 そして、法論に負けても、反省もなく、改宗もせぬ他宗の頑なな実態を見極めていた戸田城聖は、一宗の命運をかけた法論、一宗の総力をあげての法論ならば、いつでも応じるが、それ以外の法論には、今後、応じないことを内外に宣言して終わった。

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