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日蓮大聖人・池田大作

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小樽問答  

小説「人間革命」9-10巻 (池田大作全集第148巻)

前後
14  本部には、多くの友が待ち、にぎやかに法論の内容を報告し合った。慌ただしい十日ほどの闘争であったが、波紋は、その後、大きく広がった。
 まず、北海道各地の身延系日蓮宗の人びとのなかには、改宗し、創価学会に入会する人が陸続と出た。北海道における広宣流布の情熱は、いやがうえにも燃え立ち、組織は、急速な発展を見せ始めたのである。
 小樟問答があってから二年後の統計を調べてみると、百三十八世帯だった小樽班は、二千百世帯になっていた。また、道内の各拠点も同様で、旭川は三千百世帯、札幌は四千二百世帯、函館にいたっては、実に八千百世帯に達し、小樽と合わせて北海道に四支部が誕生している。このほか、東京の支部に所属する夕張地区は三千百世帯、室蘭地区は九百世帯で、北海道の全世帯数は二万一千五百世帯と、驚くべき数字に達した。
 一九五五年(昭和三十年)三月現在、全道で二千七百弱にすぎなかった創価学会世帯数は、わずか二カ年の間に、約八倍の飛躍を遂げたことになる。
 もちろん、この二カ年の間の創価学会の全国にわたる世帯数の増加率もかなり著しいもので、全国平均として三・五倍に達しているが、北海道だけがその倍以上の八倍となっている。これは小樽における法論の勝利が、全道の学会員に強烈な影響を与えたと見るほかはない。
 この勝利の法論を目の当たりにした北海道の学会員は、その後、正統の誇りと確信とをいだいて、いやがうえにも、広宣流布への情熱をたぎらせて活動したのである。
 身延の日蓮宗は、法論直後、宗内において、ざまな問題に直面したという。三月二十九日に日蓮宗宗会が開催され、宗会議員たちは、開会に先立って懇談会を行った。そこでは、小樽における法論の状況が報告され、その後の対応策が明らかにされたことを、四月一日付の「中外日報」が報じている。
 それによると、「宗内全寺院に対して今後、創価学会から申し込まれる法論には個別的には応じないよう警告が行われる」ことになったという。そして、「場合によっては中央的な一大公開法論での対決」も考慮されていたようである。
 宗会の二日目に行われた質疑においても、学会対策がテーマの一つになった。そして、ある議員から、次のような質問が、執行部に対してなされている。
 「創価学会への対策を聞くと宗門の末端では法論はやるな、中央でやるということであった。これだけでは対策にならない、もし当局が中央で問答をやり失敗したら大変なことになろう」
 これに対して、「当局としては聖教新聞に対抗する新聞の発行や折伏教典に対する教学上の批判」を行っていく、という答弁がなされている。
 当時の身延の狼狽ぶりが伝わってくるようなやり取りである。
 身延では、それまでの機関紙「護持教報」を、この年の十月に「日蓮宗新聞」と改題して、内容の一新を図っている。これも対策に腐心した、一つの結果であろう。その後、身延側では大急ぎで学会対策の本の出版を計画し、機関紙でも、真相を曲げた発表を続けた。
 当時の身延の日蓮宗が、創価学会を軽視していたのも無理はない。身延では、北海道全土に寺院は二百カ寺以上あると豪語していたが、日蓮正宗の寺院は、わずか五カ寺であった。信徒数に、おいても、彼らは絶対の優勢を保っていた。
 文部省の「宗教年鑑」によると、一九五五年(昭和三十年)十二月三十一日現在の教会、布教所を含めた寺院数、および信徒数は、次のようになっている。
  寺院数   日蓮宗       五、二九九
        日蓮正宗        一四三
  信徒数   日蓮宗   一、三七七、二二〇
        日蓮正宗    三四九、六二〇
 五五年三月当時の創価学会の世帯数は、急増していたとはいえ、まだ二十万世帯にも満たなかったのである。
 北海道・小樽の、一つの班による果敢な折伏活動を発端として起こった小樽問答は、はからずも日蓮大聖人の仏法が、いずこに厳然と実在するかを、広く世に実証したのである。
 そして、法論に負けても、反省もなく、改宗もせぬ他宗の頑なな実態を見極めていた戸田城聖は、一宗の命運をかけた法論、一宗の総力をあげての法論ならば、いつでも応じるが、それ以外の法論には、今後、応じないことを内外に宣言して終わった。

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