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日蓮大聖人・池田大作

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発端  

小説「人間革命」9-10巻 (池田大作全集第148巻)

前後
2  三人の婦人たちは、来た甲斐があったとばかり喜んだ。そして、あいさつをして帰ろうとした時、ガラガラと戸が開いて、二人の男が入ってきた。
 彼女たちの目は、一斉に入り口に向けられた。二人の男は、ややくたびれた外套から粉雪を払いながら、それを脱いだ。そして、頭から頬かぶりしていた襟巻を取ると、二つの坊主頭が現れた。
 帰りかけた三人の婦人は、「あっ!」と声をのんだ。二人は、小樽の妙龍寺の僧であった。
 東恵子は、この瞬間、大森十郎夫妻の御本尊返却の理由が、単なる夫婦喧嘩などによるものでないことを、素早く悟った。
 ″なんだ、妙龍寺の坊主たちが、陰険な策動で、大森夫妻の信心の邪魔をしていたのか。わかった。こうなれば、もう、一歩も退くことはできない!″
 東恵子は、たちまち戦闘的な身構えとなった。まず、身にまとったばかりの角巻を脱いだ。奈良川スミも、九谷貞枝も、東恵子にならって硬い表情で角巻を取った。洋品店の土間は、一瞬にして緊迫した空気が漂い始めたのである。
 「さあ、どうぞ、どうぞ、お上がりになって……」
 大森の妻が、居間の方から二人の男に声をかけた。四十年配の、あまり風采のあがらぬ男は、じろりと三人の婦人を脱んでいたが、何か異様な空気を感じたらしい。もう一人の痩せこけた若い男は、目を伏せて婦人たちの背後から居間に回っていた。
 年配の男は、昨年九月に小樽にやって来て、寺の執事をしている村木啓山であり、若い男は、最近、身延で荒行をしてきた、出口景進という僧だったの
 である。
 険しい空気のなかで、村木と出口は、無言のまま居間に上がった。東恵子たちも居間に戻った。奥からは、大森十郎も出てきて驚きの目を見張った。大森夫妻を挟んで、小樽班の三人と、妙龍寺の二人とが、いつか自然と対峠してしまった。七人は、互いに顔を見合わせたものの、しばらくは誰も口を聞こうとしなかった。気まずい空気は、刻々に濃くなって、何かの弾みで爆発せざるを得ない寸前にあった。
 厳寒の外では、犬の遠吠えが聞こえる。
 ともかく、東恵子たちにとっては、実に思いもかけない事態といってよい。だが、いざという時には、婦人は強い。こうなっては、堂々と折伏して、対決すればよいのだと腹が決まった。彼女たちは、覚悟を決めて、その時の到来するのを待ったのである。
 「ここにいるご婦人方は?」
 村木啓山が、大森の妻に向かって小声で問いかけた。大森の妻は、何か口ごもって、夫の顔をのぞいた。大森十郎は、なんだとばかりに妻を見返した。
 「ご婦人方は、どちらの方で?」
 重ねて、村木が、やや大きな声で、今度は十郎に問いかけた時、十郎は軽く頷くと、あっさり答えた。
 「創価学会の小樽班の衆ですわ」
 「そうですか。やっぱり。……いいところでお目にかかった」
 村木啓山は、老獪な口調で、短い首をちょっと下げて、東恵子たちに目をすえながら話しかけた。
 「この間から、お会いして、一度は、はっきりさせなければと思っていたところです。今日は、よい機会だ。……あんた方は、どうして、うちの檀家ばかり狙うんです。そして、本尊とかというものを、無理やりに持たせたりして、大森さんのところも実に迷惑している」
 「無理に持たせた? とんでもない。大森さんは、納得して創価学会に入会したんですよ。それが、何が悪いんですか。あんた方こそ、裏へ回って、大森さんの信心を邪魔などしている。卑怯なまねは、よしてください」
 最初から、東恵子は戦闘的であった。
 「気の強い人たちだな!」
 村木啓山は、庶民の信徒を見下したようにせせら笑って、とんでもない放言をしたのである。
 「無理やりと言ったのが悪ければ、暴力的と言つた方が正しいのかな。出口君、君もそう思うだろう。大森さんも、そうだったんじゃありませんか」
 出口は、呼びかけられて、のろい語調で言った。
 「いつか新聞で、『暴力宗教・創価学会』という記事を読んだな。なんでもかんでも、暴力で御本尊を持たせることもあるらしいね」
 東恵子は怒った。
 ″坊主のくせに、なんという暴言を吐くのか、もう許せない″と思った。
 「でたらめも、いいかげんにしなさい。いったい、世の中に暴力で信仰する人がどこにおりますか。とんでもない。絶対に正しい御本尊様を持たせてあげたのに、感謝こそされ、暴力とはなんですか」
 村木は、東の言葉尻をつかまえた。
 「あんた方は、正しい、正しいと言うが、どうして正しいと言えるんだね」
 「私たちの信心が正統派なんだから。日蓮大聖人の正しい教えは、日興上人にしか伝わっていない。だから、私たちが正しいと言うのです」
 「では、その正しいという、その理由を言ってもらいましょう」
 東恵子は、はたと困った。
 ――その理由と言われて、教学的に、どのように説明しようかと、思いめぐらしていた。なにしろ、入会わずか半年しかたっていない班長である。教学の力も、断片的な知識しかなかった。彼女は、守勢に回らざるを得なかったが、ここで彼女の攻撃精神は、おのずから身延系の弱点を突いた。
 「身延では竜女や稲荷を拝んでいるが、大聖人様は、そんなことをしていいと、どこで言っていますか?」
 「言っていないね」
 村木は、平然と答えた。
 東は、すかさず言った。
 「言っていない? それではインチキではないですか」
 「拝むのは、その人の勝手です。題目さえ唱えるならば、何を拝んでも差し支えない」
 「そんな変な話が、どこにありますか」
 「『本尊問答抄』に、ちゃんとある。『題目を以て本尊とすべし』」
 この切り文を出された時、東恵子は「本尊問答抄」なるものを知らなかった。まして、この切り文を正確に引用すれば、「法華経の題目を以て本尊とすべし」であるが、それを村木啓山は、狡猾にも、「法華経の」の四字をわざと省いた。その小細工にも、彼女たちは、全く気がつくはずがなかった。
3  その時、東恵子は思い出した。
 ――昨年の夏、東京の派遣幹部と、折伏に同道した時のことである。身延系の一信者の家に行った折、その幹部が、日興上人の身延離山の歴史的事実を滔々と語ったのを、感動をもって聞いたのを忘れていなかった。彼女は、その記憶を絞れるだけ絞った。そして、甲高い声をあげて、記憶にあるだけのことを、真剣にまくしたてた。彼女にとって、仏法の面倒な理論は苦手であったが、歴史的な物語は、はるかに鮮明に残っていたからである。
 東恵子の声は、確信に満ちて響いた。驚いたのは、二人の僧である。なかでも出口景進は、感心したように口をはさんだ。
 「おばさん、よく知っているじゃないか。あんた、信心してどのくらいになるの?」
 「半年とちょっとよ」
 「すごい信心だなあ。日興上人は、身延でも後ろの方に置いて拝んでいますよ……」
 この時、村木は、慌てて出口の発言を制した。
 「君は、黙っていろ!」
 討論は腰を折られたが、東恵子の闘志は、さらに燃え上がった。奈良川スミは、心のなかで、題目をしきりに唱えていた。九谷貞枝は、大森十郎とい
 う、やっかいな男を折伏したことを、かすかに後悔し始めていた。
 「日蓮大聖人の仏法は、ちゃんと日興上人に受け継がれているんです。だから、私たちの方が絶対に正しい! その大聖人の仏法を、正しく実践しているのが創価学会です」
 東恵子は、凛然と言い放った。そして、勝負は、もう決まったかのように勝ち誇っていたのである。
 その時である。
 「あんた方が正しいという証拠を出しなさい」
 村木は、顔を赤くして、自信ありげに妙なことを言いだした。
 「正しい、正しいと言ったって、いったい、どの御妙判に出ているのか聞きたい」
 ″ゴミヨウハン?″
 東恵子は、一瞬、不可解な言葉につまずいて、素早く頭を回転させたが、初めて聞く言葉である。脳髄の、どの隅にもない言葉であった。
 ″ゴミヨウハン?″
 彼女は、奈良川や久谷を顧みたが、二人とも怪訝な面持ちであった。
 その瞬間、出口景進が口をはさんだ。
 「御遺文のことですよ」
 「黙っていろ! 余計なことは言うな」
 村木は、また出口を制したが、とっさに、東恵子は、なんだと言わんばかりに、にっこり笑って言った。
 「ああ、御書のことか、そんなら知っている……」
 「御書なら御書でもいい、その何ページに、あんた方が正しいと書いてある?文証を出せ!」
 文証を出せと言われて、彼女は、はたと詰まった。
 御書は確かに持っているが、月一回の御書講義の時にしか開けたことはない。これは、教学力のある幹部に聞くより仕方ないが、そんな幹部は、この小樽にはいない。彼女は、あることに思い当たった。
 ――十日ほど前のことである。小樽の日蓮正宗寺院・妙照寺で、住職から、来る三月の十日に、日蓮正宗の法主である水谷日昇が、小樽に来るという話を聞いていた。
 ″その時には、多くの僧侶も随行するにちがいない。村木のいう「文証」などは、たちどころに教えてもらえるだろう。今は、いいかげんなことを言って、失敗しては申し訳ない。我慢して、その時まで延ばすに限る″
 東恵子の腹は決まった。
 そして、最後の反撃に移り、止めを刺すつもりで発言した。
 「いくら立派そうなことを言ったって、インチキなものは、どこまでもインチキですよ。難しいことを言えば、私たちが困ると思っているんでしょう。
 ……ともかく、正しいものは、どこまでも正しい。身延はインチキで、私たちが正しいことだけは実感としてわかる!」
 「だから、正しいということを、文証で証明してみろ、と言っているんじゃないか」
 村木は、なおも執念深く追及してきた。
 東は、村木が勝ち誇った態度に出てきたのが悔しかったが、来月中旬までの辛抱だと思った。
 「御書は、今、勉強中で、私たちには難しいことは、まだわかりません。そのうちに必ず、文証をあげて教えるから待ちなさいよ」
 「それ見ろ! 何も知らんじゃないか。ただ、″正しい、正しい″と言って、騙されているんじゃないか。そのうちとは、いつまで待てばいいんだね」
 村木は、ますます居丈高にからんできた。
 期限をつけられて、東は思わず言ってしまった。
 「来月の十日まで待ちなさい」
 「十日? それはまた、どういうことだ?」
 「来月の十日になれば、水谷日昇猊下が小樽においでになります。大勢の僧侶も随行するから、そんな文証なんて、すぐわかる。その時に聞いて教えるから、それまで待ちなさいよ」
 「ほう、そうか。そんならその時、あらためて法論するとしよう。間違いないね」
 「ああ、間違いありませんとも」
 東恵子は、決然として確約したが、顔は興奮で赤く輝いていた。
 それまで、彼女は、仏法用語に幻惑されて押されぎみであったが、次の法論の機会をつかんだ今、本来の鼻っ柱の強さが戻ったのである。
 ″今に見ろ! その時になって、村木や出口は、どんな顔をするだろう。それが見たい! 僧たる者が、こんなにも傲慢な態度で、庶民を見下すだけでも私は許せない″
 彼女の輝いた顔には、微笑すら浮かんでいた。徴塵の疑いもなく、彼女は、心の底から勝利を確信していたのである。
 村木啓山は、東恵子の意気軒昂さを、幼稚な虚勢と取り、皮肉な笑いを浮かべていたが、ふと思いついたように言った。
 「そうだ、そうだ。こうなったら、あんたらと法論するよりも、その総本山から来る日蓮正宗の僧侶と法論する方が、事がはっきりするではないか。
 いっそのこと、僧侶と僧侶で法論することにしようじゃないか。どうです、その方が筋道が通っている。昔から、法論とは、そういうものなんだよ」
 彼女の目は、一段と輝いた。
 「いいですとも、いいですとも。結構ですとも――日蓮正宗と身延の日蓮宗との法論ということになれば、小樽の私たちにとっても、願ってもないことですからね。これは面白くなってきた。大賛成よ」
 渡りに船とばかりに言った東恵子のこの一言が、句日を経ないうちに、事態を見る見る拡大させていくことになろうとは、彼女は、いささかも気づかなかった。来るべき法論の日の光景を頭に浮かべ、″吠え面をかくな!″と、彼女は酔い心地になってさえいたのである。
4  創価学会小樽班が結成されたのは、前年の一九五四年(昭和二十九年)八月中旬のことであった。全国に布陣された夏の地方指導の派遣メンバーが、多数、北海道にもやって来た。統監部の資料によると、広大な北海道に、わずか五百十世帯の学会員が、各地に散在していたにすぎない。
 本州に近い南部の函館が最も多く、過半数の三百四十世帯を占め、北上するにつれて世帯数は希薄になっていた。北海道最大の都市・札幌が七十世帯、小樽となると、わずかに十世帯にすぎなかった。それも東京の各支部の、それぞれの縁故で入会したというだけで、小樽市在住者の横の連絡は何もなかった。この十世帯のなかに、東恵子も入っていたのだが、彼女の入会は、七月のことで、東京から事前に通知を受けても、夏季指導ということさえ、なんのことか理解できなかった。
 清原かつを中心者として、山際男子部長以下、壮年、婦人、男女青年部員、合計十八人の派遣幹部が小樽駅に降り立っても、迎える学会員は、一人もいなかった。派遣メンバーは、人口十九万の小樽市に、素手で挑戦したわけである。
 派遣メンバーは、十世帯の訪問から始めたが、ほとんど退転状態に等しく、その幾世帯かは、行方さえ知れなかった。
 東恵子の家を訪問した派遣メンバーは、八月八日の夜、駅前の旅館に陣取った清原かつのもとへ、東夫婦を連れて来た。前月入会したばかりの夫婦は、初信の初々しさにあふれでいた。東夫婦には、清原の話が新鮮に響き、初めて日蓮大聖人の仏法の本流に触れた思いがした。
 東恵子は、明治の末ごろ、青森県北津軽郡の、とある貧しい漁村に生まれた。八人兄妹の四番目である。八十戸ほどの小さい集落で、学校も遠かった。十五歳の時、夢見がちな少女は函館に出た。そして二十三歳の時、縁あって結婚したが、生活は苦く、四年後に夫と別れた。
 以来、彼女は、転々とする生活を送った。そして、遂に満州に渡った。終戦の年の四五年(同二十年)一月、小樽にいた姉夫婦が、幼い子ども三人を残して他界した。親戚は、満州にいた恵子を、小樽に呼んだのである。そして九月に、東良三と結婚させた。親を失った三人の子どものためにも、また恵子自身の新生活のためにも、彼女は、一家の幸福を願って、さまざまな宗教に首を突っ込んだが、薄幸な宿命はどうしょうもなく、晴天の日は、なかなか訪れなかった。
 五三年(同二十八年)の夏、東京在住の良三の母から、手紙で、再三、折伏を受けたものの、恵子は、一笑に付した。たまりかねた母は、翌年の七月に、はるばる小樽へやって来た。
 ひざ詰めの折伏が続き、東夫婦は、十分な理解からは遠かったものの、母の熱意に打たれ、入会した。以来、もの珍しさもあって、たどたどしい勤行を、続けていたのである。
 初対面の清原かつの話を、彼ら夫婦は、ことごとく理解したわけではなかったが、宗教が、人間の生活に強い影響を及ぼすことだけはわかった。
 恵子の半生は、長い不幸の連続であった。彼女の渾身の努力にもかかわらず、いささかも好転できずに終わった。それは、他人のせいではなく、実は、宗教に根本的な原因があったということを、恵子は、初めて知ったのである。
 彼女の、過ぎ去った数十年の、どうしょうもない不幸な生活の数々は、すべて、その証拠と思えた。彼女は、この夜、宗教のなんたるかに開眼したのである。
 清原かつは、気丈で、厳しかった。東恵子も気が強かった。二人の気の強さは、弘教の低迷を許さなかった。恵子は、その翌日から、自ら進んで派遣幹部を案内し、彼女の知人、友人を、次々と紹介しながら折伏の第一線に立った。
 この誘い水のような活気が、小樽の夏季指導の人びとを巻き込んだ。坂の多い、この北国の港町を、人びとは体当たりの激しさで、連日、朝から晩まで、上ったり下ったりした。こうして十日間の入会決定の成果は、六十二世帯を数えたのである。
 この間に、戸田城聖も激励に小樽に足をとどめた。戸田は、郷里の厚田村に近いこの小樽の人びとを、思わず北海道なまりの言葉を交えながら激励し、最後に小樽班を結成して札幌に向かった。東恵子は、思いがけなく小樽班・班長に任命されたのである。そのもとに、組長七人が誕生し、創価学会本部直属班となった。
 指導の直接責任者には、清原指導部長があたり、秋には、夏の派遣幹部の一部が、再び小樽を訪れ、折伏戦を展開した。また、東班長も秋の第十一回本部総会に参加し、全国の同志の、はつらったる姿を目の当たりにして、学会精神のなんたるかを自覚した。
 一九五五年(昭和三十年)の初頭、冬季指導があり、清原をはじめとする、なじみの派遣幹部が、再び小樽の積雪を踏んだ。小樽班の信心の炎は、いやがうえにも燃え盛った。
 そして、二月、この出来事が起きたころには、組織は、組長十三人を数え、百三十八世帯と急激な増加を示していた。班長を補佐するために、庶務係・伊藤順次、統監部員・東良三、新聞係・九谷亮一の三人がいて、班の中枢を守っていた。
 わずか半年のうちに、小樽の折伏の火の手は上がり、各所で、夜ごとに座談会が開催された。東恵子をはじめ、小樽班の首脳部は、魚が水を得たように、生き生きと対話を繰り広げた。その盛んな活動は、他宗に脅威を与え、身延系日蓮宗の信者の問では、″弁こう(弁舌)のうまい東恵子という女に騙されるな″という情報が、かなり浸透し始めたところであった。やがて、なんらかの激突は避けられない情勢が、刻々と近づきつつあった。
 大森洋品店での遭遇は、いわば、その起爆剤であった。勢い、爆発は、冬の小樽の地で、思いがけず大規模なものにエスカレートしていったのである。
 東恵子、奈良川スミ、九谷貞枝の三人が、大森洋品店から東の家に戻ってみると、数人の会員が寄り集まっていた。皆、はつらつとしている。このような参集は毎日のことで、小樽班の連絡や報告が、東班長の家を拠点として行われるようになっていた。こうした一庶民の家が、活動の連絡拠点となってきたところに、庶民の運動として定着していく強さがあった。
 身延系の二人の僧を相手に、懸命な戦いを展開してきたばかりの三人は、居合わせた人びとに、さっそく、事の次第を興奮冷めやらぬ口調で語った。
 勝敗を気にしながら耳を傾けていた一同は、来月十日ごろに、この決着をつけるため法論をすることになったと聞いて、思わず歓声をあげた。日常の折伏活動に、そろって献身していた健気な班員たちは、まことに意気軒昂ではあったが、仏法用語につまずく未熟な人びとにとっては、一抹の悲壮感も、ともなっていたのである。
 「こうなったら、もう絶対に負けられないのよ。必ず勝つに決まっているけれど、小樽班としては団結して戦うだけよ。そうじゃない」
 東恵子が、胸に去来する悲壮感を払うように言った時、人びとは、口々に、互いに励ますように話し合った。
 「法論となったら、小樽の街の人たちは、どんな顔をするかな? たまげるだろうね」
 「徹底的に、やってもらいたいわ」
 「そうだとも、これで小樽も、ずいぶん折伏しやすくなるな」
 「法論のあとが楽しみだ。いくらでも折伏できるにちがいない。面白いことになる」
 「ともかく、早く法論の取り決めをすることだ。途中で逃げられたら、どうにもならんからな」
 「そうだ、そうだ。小樽班として、さっそく、証文を取らなくてはならん」
 戦闘的な壮年や青年たちは、法論の口約束を成文化することを主張して、紅潮した顔を寄せ始めた。
5  小樽では、この夜、座談会が開かれたが、ここでも東は、意気揚々と事の顛末を報告した。集まったメンバーは、″私たちの正法正義が証明される″と、喜びの声をあげた。
 翌二十六日の朝、東班長と奈良川班担当員、伊藤庶務係の三人は、ギラギラ光る雪面の坂道を、山手の方へと上っていった。小樽の唯一の日蓮正宗寺院・妙照寺の住職に会ぃ、昨日の突発事件の報告をし、善後策を講ずるためである。
 妙照寺は、小樽駅から程近い、小学校や幼稚園などに囲まれた、閑静な市街区域の一角にある。坂道に息を弾ませながら振り返ると、灰色の小樽港に、雪をかぶった三本の埠頭が遠くに望まれた。
 三人の報告を聞いて、住職は、意外な出来事が突発したことに驚いたが、三月十日、十一日の、水谷日昇の小樽来訪が確定していることを思い、「では、総本山に、至急、連絡しましょう」と言った。そして、「あなた方のほうは、創価学会本部に連絡していただきたい。この事件について、緊密な連絡を互いに取り合いましょう」と提案した。
 法論の代表者の件に話が絞られると、住職は、事もなげに言った。
 「それは大丈夫。猊下の随行で、早瀬教学部長と柿沼布教師が見えられるから、身延で、どんな代表者を出そうと問題にはならんですよ」
 「お願いできますね」
 伊藤庶務係が、一抹の不安をいだきながら尋ねた。
 「わざわざ来るのとは違って、ご親教の随行でおいでになるのだから、心配はないでしょう」
 住職は、早瀬道応、柿沼広澄の二人が、法論の代表者として壇上に立つことに決めてかかっていた。代表者について不安に駆られていた小樽班の三人は、願ってもない代表者だと、この時、安堵に胸をなで下ろしたのである。
 小樽班としての報告は、東恵子名義で、さっそく、学会本部の清原かつに速達で出された。冬の北海道である。速達といっても、直ちに返信が来るとは限らなかった。首を長くして待っていたが、そのうちに不安になってきた。
 ″せっかく、事がここまで運んだのに、あの坊主たちは、なんだかんだと理由をつけて、逃げてしまうかもしれない。なにしろ口約束だけなのだから……″
 時間がたつにつれて、不安は濃くなった。誰言うともなく、やはり、約束を証文にしておくべきだという結論になった。班員一同の総意のもとに、伊藤庶務係は誓約書の草案を作成し始めた。
 「今般左記条項に依り日蓮正宗と身延日蓮宗との間に於て法論対決する事を誓約します……」
 一方、二月二十五日、大森洋品店で別れた村木啓山と出口景進は、創価学会小樽班を、甘く見くびって安心していたにちがいない。そして、翌二十六日の朝になると、出口は再び大森洋品店を訪れ、大森の受持した御本尊を外すと、その足で妙照寺に現れた。東班長たち三人が、前日の事件の報告をして、寺を辞した直後のことである。
 応対に出た妙照寺の住職は、法論についての事かと思っていると、出口は、大森の御本尊を返却に来たと言った。御本尊には大森の名刺が添えられ、裏面に大森の自筆で、「仲々お守り出来兼ねますのでお返し致したいと思います。後のことはお寺さんにお願い致します」と書かれ、捺印までしであった。
 住職は、直ちにそれを受け取った。用件は終わったと思っていると、出口景進は法論対決のことを切り出した。
 ――三月十一日、日蓮正宗の管長の来樽らいそんに際し、随行の僧侶のなかから代表を立ててほしい、こちらでも、それに対応する僧侶を代表に立てるから、ぜひとも法論対決をいたしたい。
 御本尊の返却が、おそらく出口たちの強要によるものと考えた住職は、いささか感情的にならざるを得なかった。いうなれば、出口は敵の先兵である。
 住職は、随行僧侶のなかに、教学部長の早瀬道応、布教師の柿沼広澄という、教学に関して宗門では造詣の深い二人がいることを伝えた。それは法論の前哨戦でもあった。
 「出口さん、法論対決したとしても、本尊雑乱の身延では、勝ち目はありませんよ。まぁ、これをご覧なさい……」
 彼は、そう言うと、居間に戻って、「聖教新聞」の一九五五年(昭和三十年)一月二十三日付と一月三十日付との二部を持ってきた。両号とも、身延が日蓮大聖人の正法正義から、いかに逸脱しているかを大々的に特集した記事が載っていた。
 「これをあげましょう。後でよく読んでみてください。
 あなたも、一日も早く日蓮正宗に帰伏した方がよいのではないですか。御書に照らしてみても、日興上人の身延離山の歴史から考えても、日蓮大聖人の正義は、身延にはないことは、一点の疑いもない」
 彼の最後の一声は、さらに大きくなった。
 「あなたも僧侶として、それがわからぬはずはない。『汝早く信仰の寸心を改めて速に実乗の一善に帰せよ』です」
 彼は、折伏を始めた。
 出口景進は、「聖教新聞」をめくっていたが、この時、嘲笑を浮かべながら言った。
 「ご忠告はありがたいが、その『実乗の一善』について、法論で決しようというわけです。私の方も、最高の代表者を出すことになっています。あなたのご高説は、対決の日のあとで伺うことにしましよう。今日は、これで失礼します」
 出口は、早瀬教学部長と柿沼布教師の名前を、記憶にとどめるように念を入れて聞きただし、ずんぐりした肩をそびやかして、帰っていった。
 妙照寺の住職は、この時になって、一抹の不安を感じ始めた。早瀬教学部長と柿沼布教師の名前を、既定事項のようにしゃべってしまったが、総本山の宗務院では、果たして、それを認可するかどうか、今は不確定のことでしかない。もし認可がなかった場合は、どうしたらよいか。考えられることは、北海道在住の日蓮正宗寺院の僧侶のなかから代表者を選ばなければならない。いったい、誰が代表者として適切であるか、即座に思い浮かぶというわけにはいかなかった。
 ″小樽班の人たちは、なんという、やっかいな無謀なことを起こしてしまったのだろう。あと十日余りしかない。いやでも宗務院の認可を得るほかには道はない″
 これまで平穏無事に過ごしてきた寺院の住職は、不安をいだきながら、事件の経過を子細に報告し、宗務院に、早瀬、柿沼を代表とするよう嘆願する手紙を認めて、郵便局で速達にして投函した。
6  創価学会小樽班が学会本部宛てに出した速達に対しでも、妙照寺が総本山宗務院宛てに出した速達に対しても、三日、四日と経過したが、なんの返事もなかった。
 小樽班の人びとは、この間に額を寄せて誓約書の出来上がると、心せくままに、三月一日、東班長、奈良川班担当員、伊藤庶務係、東組長の四人が、身延系日蓮宗の妙龍寺に出向いた。
 妙龍寺は、妙照寺の前の小樽商大への道を、さらに数百メートルほど登った山の裾にあり、背後には山頂に通ずる道路が通っていた。北風が強く、粉雪が舞っていた。
 四人の闘志は軒昂で、村木啓山、出口景進の両名と、薄暗い部屋で対座した。先日の論争の険しい空気が、またも再燃しかかったが、この日は誓約書を中心にしての話し合いとなった。
 ――法論の日は三月十一日、場所は小樽市公会堂と、双方とも異存はなかったが、「代表者は各二名とする」については、どちらも代表者が未決定であったので、翌日にも決定次第、署名捺印することに落着した。そして、次回の連絡を、翌三月二日午後四時、東宅において行うことを約したのである。
 二日の定刻に、東宅では小樽班の幹部が顔をそろえて待っていた。そこへ村木啓山が一人でやってきた。一日たったが、代表者の氏名は、双方とも決定をみていなかった。誓約書の草案を間にして、各項目を検討し始めたが、村木は冒頭の「今般左記条項に依り日蓮正宗と身延日蓮宗との間に於て法論対決する事を誓約します」を、まずいと言いだした。
 「これでは、あまりにも広範囲で仰々しいし、私のような末輩が、日蓮宗を代表して捺印することは、責任からいっても穏当ではありません。事は創価学会小樽班のあなた方と、私と出口との間のことではないですか。これは、まずい」
 小樽班の幹部は、これを村木の逃げ口上だと思った。そして、二、三の押し問答の末、ともかく村木を逃さないことが肝要だと考えた。
 「では、どうすればいいんです?」
 「正直に言いましょう。日蓮正宗・創価学会小樽班と日蓮宗妙龍寺寄宿村木啓山との法論対決ということでどうですか。これなら私も責任がもてる」
 東班長は、いざ実際の法論となれば、この訂正も、結局、同じことだと思った。
 ″ともかく、誓約書をきちんと取り交わすことが、目下の急務である。些細な言いがかりで、せっかくの約束を破棄することは避けねばならない。敵は逃げ腰である″
 彼女は、事の重大さを考えて、珍しく妥協した。
 「いいですよ。われわれの勝敗は、つまり日蓮正宗と身延の日蓮宗との勝敗ということになりますからね」
 伊藤庶務係が筆を入れて訂正すると、村木は、思わず、にやっと笑いを浮かべた。
 彼は、目前の小樽班の幹部との法論こそ望むところであり、それならば勝利に自信があったのであろう。しかし、宗門から互いに代表者を出すということになると、事は重大である。法論に敗れてしまったらどうしようと、慌てだしたようだ。そこで、なんとかそれを覆したくなったのであろう。冒頭の一文の訂正は、その第一歩であったようだ。
 しかし、それを口にすることは、彼の虚栄心と虚勢が許さなかったのであろう。彼は、あわよくば約束を覆す隙を、じっと狙っていたにちがいない。
 村木は、日時と場所に異存はなかったが、代表者の項目のところで、「各二名とする」とあるのを、「同数とする」と訂正することを提案した。
 次の傍聴者の項目では、「各宗とも五十名同数とする」という小規模の会合に制限することを、村木啓山は提案した。
 最後の懲罰の項目にいたった。
 ――″法論の敗者は、勝者の宗旨の軍門に下り、改宗する″という、宗教的生命を賭した誓約を読んだ時、両者の聞に異常な緊張が見る見るみなぎった。
 東恵子は、必勝を信じた。彼女の心には、日昇に随行してくる早瀬と柿沼の名前が刻まれていた。
 この二人が代表となることは未定であるとはいえ、この機に臨んで御本尊様は、必ず、それを決定してくださるにちがいないと信じた。
 村木啓山は、道内における身延系日蓮宗の勢力を信じていた。彼は、傲慢な調子で道内の寺院数をあげた。
 「当方の寺は、道内に二百カ寺余りある。これが東西南北の四つの宗務所に管轄されているのだが、妙龍寺は小樽周辺の南部宗務所になっています。これだけでも五十カ寺あり、住職と総代だけ集めたって二百人は楽ですよ」
 勝気な東恵子は、即座に反発した。
 「私の方は、小樽は少ないが、函館や、旭川や、札幌の学会員に呼びかければ、千人ぐらいはやってきますよ」
 伊藤庶務係が、口をはさんだ。
 「それでは、″傍聴者各五十名″というのは無意味じゃないですか。聞きたい人は誰でもいい。一般公開としたらどうでしょう」
 「それも一案だな」村木は、余計なことを口走ったことに気づいたが、既に遅かった。
 「では、傍聴者の制限は、必要ありませんね」東が言った。
 傍聴者の項は抹消されたのである。
7  誓約書は、やっとまとまり、一人ひとり思いを込めて捺印した。次のような誓約書である。
  誓約書
 今般左記に依り日蓮正宗創価学会小樽班と日蓮宗妙龍寺寄宿村木啓山と法論対決する事を誓約します。
 一、日 時  三月十一日 午後七時より
 一、場 所  小樽市公会堂
 一、代表者  各同数とする
 一、費用は勝敗にかかわらず折半とし前納すること
 一、懲 罰  日蓮宗が敗けた時は村木、出口の二名は直ちに還俗、僧籍より離脱し日蓮正宗の信徒となること。日蓮正宗が敗けた場合は東恵子、奈良川スミ、九谷貞枝の三名は日蓮宗に帰依すること
           以上
 右誓約書各一通宛領有するものとする
   昭和三十年三月二日
     日蓮正宗  東  恵子 印
            奈良川スミ 印
            九谷 貞枝 印
     日蓮宗   村木 啓山 印
           出口 景進 印
 三月二日、二通の誓約書を作成し、捺印が終わると、小樽班の幹部たちは、内心で凱歌をあげたい気分になっていた。さらに、誓約書の写しを一通書き上げると、さっそく、清原かつ宛ての手紙を、伊藤庶務係が書き始めた。伊藤を囲んで、東恵子をはじめ数人の幹部は、首を伸ばして、思い思いに口添えをしながら、書かれる手紙を、じっと見つめていた。
 「……同封の誓約書を当方で提出いたしましたところ、妙龍寺は北海道身延日蓮宗総代にして五十カ寺あり、これらの寺に相談して本山より代表者派遣する由、妙照寺では大石寺に連絡を取りました。
 創価学会小樽班としては本部の御意見を伺いたく、御返事を期待しております」
 そして、最後に御本尊御申請の用紙を、至急、送付されたいと、書き添えることも忘れなかった。
 封筒に封をした時、いよいよ事の重大さが、誰の胸にも、ひしひしと伝わった。これで戦端は確実に開かれたのである。東恵子は、小樽班の最高責任者として、誰よりも痛切な思いに駆られていた。
 誓約書まで事が運んだことは、緒戦の成功とは思ったものの、東京の本部の意向もわからず、まして、指示を待たずに進めてしまったことに、にわかに心がとがめだしたのである。
 ″大それたことを、してしまった。本部では、いったい、どう考えるであろうか。あの気性の激しい清原指導部長から、叱責が飛んでこないだろうか。誰が代表者として来てくれるだろうか″
 事の重大さは、彼女の思案にあまることであった。その夜、彼女は床に就いても、幾度も寝返りを打ち、一睡もできずに明け方を迎えなければならなかった。そして、期待と不安のなかで、東京からの手紙を待つことしか、今の彼女には残されていなかった。しかし、彼女の心の奥底では、法論の勝利は疑いなく信じられたのである。
8  三月三日の昼ごろ、妙照寺に一通の電報が届いた。
 「ソクタツデ ンワデ キイ夕、タイサクタテル』ガ ツカイトレンラクセヨ』アトシラセマテ』ハヤセ」(速達、電話で聞いた。対策立てる。学会と連絡せよ。早瀬)
 住職は、この電文で蘇生の思いがした。そして、さっそく、電話で東恵子に伝えた。彼女は、ともかく総本山に連絡のついたことを知って喜んだが、清原かつからの連絡が、切ないまでに待たれた。
 小樽班の東恵子の発信による清原かつ宛ての速達は、三月四日の朝になって本部に到着した。同時に、突然、総本山の細井精道庶務部長と早瀬道応教学部長の二人が、本部に来た。戸田は、何事かと話を聞くと、小樽の事件である。法論は小樽班の責任で、既に誓約されていることがわかり、緊急事態の現地での焦りも伝わってきたが、事件の規模にいたっては、皆目、見当もつきかねた。些細な事件のようにも思えるが、代表者うんぬんのことになると、かなりな重大性を帯びてくる。
 戸田は、二人に、「法論は戸田が引き受けます。心置きなく現下のお供をしてください」と、即座に返答した。
 戸田城聖は、細井と早瀬の二人を見送ると、直ちに青年部の室長の山本伸一を呼び、清原らの理事たちを交えて対策本部を設け、善後策を講じた。即座に現地調査の必要がある、との結論に達した。
 山本室長は、男子部の幹部である澤田良一と隅田清行の二人を、至急、派遣することを提議した。伸一は、二人に電話をかけ、調査を指示した。澤田と隅田は、四日夕刻、本部を訪れ、事の概要を聞いた。調査とはいいながら、事態は緊迫している。二人は緊張して、会長室に入った。
 戸田は、いつもと変わりなく磊落な様子で、事もなげに言った。
 「やぁ、ご苦労。急ぐから、明日の朝、飛行機で飛びなさい。飛行機に乗ったことはあるか」
 澤田が答えた。
 「いいえ、まだ一度も乗ったことはありません」
 「君は?」
 「私も初めてです」
 「そうか、速いぞ。北海道も庭先になった。今は、まだ雪がひどいだろう。風邪をひかんようにな。二人とも、仕事の方は大丈夫か」
 「心配ありません」
 澤田と隅田は、泰然自若としている戸田の、言い知れぬ温かい心遣いを知って、ふと涙ぐむほどの感激を覚え、耳を澄ました。
 「今度のことは、君たち二人の連絡次第だ。うちの小樽班の起こしたことで、総本山を悩ますようなことはできない。そこで、君たち二人を、いわば″斥候″として出すわけです。相手の出方を、冷静に、確実につかんでもらいたい。それが任務だと思えばよい」
 「わかりました」
 「必ず、ご期待にお応えします」
 二人の青年は、拳を固く握り、戸田の目をじっと見た。わずかな時間であったが、二人は、行動の目的を正確につかみ、いつか覚悟を新たにしていた。
 「私は、明日、月例登山会で総本山へ行かなければならない。理境坊にいるから、刻々、電話で知らせなさい。私のいるところが、いつも本部だということを忘れてはいけないよ。よいな」
 二人の青年は、会長室を出た時、どんな事態になっても、思う存分に活動できそうな充実感を、五体に感じていた。
 戸田は、こうして最初の手を打つと同時に、総本山の宗務院に電話をかけて、伝えた。
 「猊下のご心配を思い、また小樽における僧俗の混乱を防ぐために、一切は学会が受けて立ちます!」
 宗務院は、直ちに妙照寺の住職に電報を打った。
 「オタルホウロンハガ ツカイデ スベ テヤルコトトナリ コンヤホンブ ヨリタツ』ガ ツカイニマカセテヨクハナシヲセヨ』ハヤセ」(小樽法論は学会ですべてやることとなり、今夜、本部より発つ。学会に任せて、よく話をせよ。早瀬)
 この電報は、三月四日の夜、小樽に届いた。
9  三月五日、早朝、澤田良一と隅田清行は羽田空港日航機に乗り込んだ。まだ空の旅がもの珍しいころのことである。二人の青年の好奇心が、大いに満足したことは言うまでもない。座席ベルトを固く締めた二人は、巨大な重い機体が、かくも軽々と浮き上がるのを不思議に思った。三時間の空の旅は、退屈を知らなかった。
 着陸した千歳飛行場の光景は、地平線の果てまで白一色の積雪である。東京育ちの二人の青年は、初一色の積雪である。東京育ちの二人の青年は、始めて見る果てしない北海道の雪原に驚いた。そして、ここでの任務を思いながら武者震いをしたのである。
 前夜、本部からの電報で、二人の派遣を知った小樽班は、東恵子と伊藤庶務係が、代表として出迎えに出ていた。電文には青年部員二人というだけで、誰が来るともわからなかった。互いに面識もない。
 窮余の一策で、白い布に、「創価学会小樽班」と書いた一メートル四方の大きな旗を用意して、東と伊藤は、飛行場の到着口で待っていた。乗客は、皆、一様にこの異様な旗を見るのだが、幾人も、幾人も、黙って通り過ぎていった。東恵子は不安になった。乗客もまばらになったころ、二人の青年が、ニコニコ笑って近づいてきた。
 一瞬、東は失望した。彼女が想像していた、恰幅のよい堂々たる偉丈夫の青年からは遠かったからである。一人は、あくまでも色黒く、一人は、青白かった。そして、その一人は太っていたが、背は低く、もう一人は、まあまあ普通の背丈だったが、痩せ細っていた。
 互いに面識のない彼らは、到着口で名乗り合い、バスに乗って札幌に出た。札幌からは汽車で小樽に向かった。車中、さまざまな状況を話し合っているうちに、東恵子の先ほどの落胆は、たちまち消えていった。話の節々で、澤田の逗しい生命力と、隅田の頭脳の回転の速さが彼女を圧倒した。これこそ、学会の青年部だと、彼女は、話に没頭している二人の青年の横顔を、ほれぼれと眺めて満足した。
10  ″確かに、顔形で、人の評価はできるものではない。その人の生命の奥にある、信念とか正義感といったものは、なるほど話し合ってみなければわからない″と、彼女は、しみじみ思った。
 午後二時十五分、小樽に着くと、雪道を踏みながら東宅に入った。待っていた十人ほどの小樽班幹部は、こもごも事件の現況を語ったのである。
 澤田は、メモを取って整理した。事件発生の原因もわかった。法論取り決めの状況もわかった。日蓮宗妙龍寺の二人の僧のこともわかった。日蓮正宗妙照寺の住職の立場もわかった。わからないのは、日蓮宗側の講師の名前と、その後の妙龍寺の動きと、檀家への対応であった。
 澤田良一は、さっそく、電話連絡第一報のために、受話器を取った。当時、静岡県富士郡上野村の大石寺と交信するためには、三カ所の中継所を経なければならなかった。電話は、「急報」にしても、なかなか、かからなかったが、やっと応答があった。電話に出た理事に、澤田は、報告すべきことは詳細に伝えた。通話時間は、予定より大幅に延びた。そして、これから直ちに妙龍寺を訪問し、それから妙照寺を訪ね、住職に会うという予定を伝えて電話を終わった。
 澤田は、夕刻、やっと村木啓山の在宅を確かめると、電話口に村木を呼び出した。代表は決まったかどうかを尋ねると、「まだ返事はないが、宗務院の方から二人の代表が派遣されることになっている。一両日中に、名前は、はっきりする」ということであった。
 それから直ちに、澤田と岡田は、伊藤と九谷の案内で妙龍寺に向かった。雪に埋もれていたが、かなりの規模の寺である。伊藤と九谷は、外で待機していることにして、澤田と隅田は、妙龍寺の中に入っていった。
 彼らは、村木啓山と対面した。
 村木の話から、澤田は思った。
 ″法論決行の腹は決まっている。創価学会に関する認識は極めて浅い。弱小の小樽班を見て、学会を侮っていることは確かだ″
 澤田と隅田は、外に待っていた伊藤と九谷と一緒に、その足で坂を下りて妙照寺を訪れた。
 住職は、二人の青年が、東京から小樽に来ることを、総本山からの電報で、既に知っていた。
 「ご心配をかけました」
 澤田が懇ろにあいさっすると、住職は、ほっとしたように語りだした。
 「いや、全く初めてのことで、一時は、どうなることかと気をもみました。総本山からの電報で、ほっとしたところです」
 「今回のことは、会長も非常に心配され、場合によっては、会長自身が小樽へ、おいでになるとのお話でした。一切、総本山には、ご心配をかけないと言われています。ご安心ください」
 「なんにしてもよかった。よろしくお願いします」
 澤田は、戸田の思いを伝えた。事件の渦中にあった住職にとって、この伝言は何ものにも勝る力強い援護射撃であった。
 一同は妙照寺を辞し、凍てつく夜道を東宅に引き返すと、妙龍寺に関する連絡第二報を電話で報告した。
 あとは相手の講師が誰なのか、また、身延系日蓮宗の信者は、どのような動きをしているのかを、つかむことが課題として残された。
 翌三月六日の朝を迎えると、隅田清行を先頭に、小樽班の幹部は手分けして、知り合いの身延系信者の家を数カ所、訪ね歩いた。また身延系の他の有力寺院へも足を運んだのである。
 そうして聞いた話を総合すると、法論の件については、道内の身延系日蓮宗各寺院には通達ずみだが、まだ信者には連絡していないようであった。講師の件も、初め立正大学学長の大月某の名前があがったが、都合で来られず、身延側は、もめているということが判明した。
 澤田良一は、本部の指示によって、急速、帰京することになった。彼らは本部への電話連絡をすますと、小樽市公会堂に回り、会場の下見をしてから別れ、澤田は、札幌へ出て、空路、東京に向かった。
 小樽に残った隅田清行は、なおも情報を収集していたが、夕方から、またも雪が降りだし、意外な大雪となった。依然として、身延側の代表者の氏名は、雪に埋もれたように不明であった。
 彼は、なんとかして今夜のうちに、本部へ、その氏名を報告したいと思った。しかし、万事休すである。彼は、東宅の御本尊に向かって唱題を始めた。
 東班長がこれに続き、居合わせた数人の会員も唱和し、真剣な唱題は、かなりの時間、続けられた。
 すると、そとへ、雪ダルマのように雪をかぶった青年が二人現れた。彼らは、新入会者の家に御本尊を安置してきた帰り道で、ふと立ち寄る気になったということであった。
 皆で話し合っているうちに、奈良川班担当員が思いついたように言いだした。
 「妙光寺へは、まだ誰も行っていないわね。行ってみましょうか?」
 身延系の妙光寺の住職と奈良川は、旧知の間柄であった。二人の青年は賛成し、奈良川と一緒にドカ雪のなかに勇んで出ていった。
 妙光寺までは、かなりの距離である。しかし、三人は滑る坂道を苦労とも思わず進んだ。
11  妙光寺を訪ねた三人に、住職は一枚のガリ版刷りの檄文を、見せたのである。
 大石寺貫首下向に際し創価学会から法論を申し込んできた。大石寺派と日蓮宗との法論対決があるので多数来聴を願います。
 但し住職は檀家に呼びかけて、九日までに人数を知らせてください。一泊の要あるものは宿舎を斡旋す。
  日 時  三月十一日 午後六時
  場 所  市公会堂
 一、日蓮宗側講師   宗方木妙僧正
            長内妙義僧正
 一、日蓮正宗側講師  柿沼広澄
            早瀬教学部長
 偶然、目にしたこの一枚のビラには、隅田をはじめ小樽班の幹部が、今、知りたいと願っていたことが、すべて書かれていた。三人は、必死に日蓮宗側講師の二人の名前を脳裏に刻みつけた。
 東宅へ戻った彼らは、居合わせた人びとに報告した。
 隅田は、勇んで受話器を握り、総本山の理境坊にいる戸田に連絡した。
12  総本山では、五日から、春には珍しい降雪があり、広い境内も雪景色で覆われていた。そのなかで午後二時から、三百坪の大宿坊の上棟式が盛大に営まれ、夜七時からは、客殿で月例の質問会が行われた。戸田の透徹した指導の数々は、独特のユーモアに乗って会員たちの胸に染み通り、蘇生の歓喜を呼び覚ましていた。
 六日は氷雨に濡れて寒かった。午前八時半、水滸会の研修が理境坊で行われた。『三国志』を教材として、戸田を中心に活発な意見を交わすなかで、さらに固い師弟の絆が結ばれていった。
 午後三時からは、堀日亨の新居となる、改築された雪山坊の落慶入仏式である。伊豆の畑毛にいた碩学の日亨が帰山する機会に、戸田は、新しい坊の寄進をかねて申し出ていたが、それが、完成したのである。
 木の香も新しい坊は、質素を旨とする日亨の希望に沿って設計されたもので、庫裡、書庫、閲覧室、客間の六十余坪からなり、南面した家屋は明るかった。式後、小宴が催され、日亨は、ことのほかご機嫌であった。戸田の顔も、喜悦に輝いていた。
 戸田が、小樽からの電話連絡を聞いた時は、かなりの夜更けである。身延側の二人の代表講師の名を知ると、彼は怪訝な面持ちになった。
 「おかしなこともあるものだな。宗方木妙はいいとして、長内妙義が出るとは驚いたことだ。彼は、もともと顕本法華宗の人間じゃないか……」
 顕本法華宗は、日蓮大聖人の滅後百年ごろ、京都の日什を派祖として生まれた宗派であった。本迹勝劣を主張して、本迹一致の身延とは、久しい年月、争ってきた宗派である。それが、今度、身延側の一代表となって法論に参加するとは、矛盾撞着どうちゃくもはなはだしい。
 「本迹勝劣だった長内妙義が、本迹一致の身延の代表で出てくるのか。これは面白いことになったぞ」
 戸田は、周囲の幹部たちにこう話しながら、大聖人の正法正義が、どこにあるのかを明らかにする、千載一遇のチャンスであると思った。
 この深夜、戸田は、過去の法論の幾つかを思い浮かべながら、三月十一日の法論に備えて、一人、的確な作戦立案に没頭していった。
13  日蓮正宗の歴史を遡ると、法論対決を行った事例は数多くあるが、身延との対決となると、いつも争点になるのは、「本迹一致」か、「本迹勝劣」かにあった。この典型的な法論としては、「砂村問答」がよく知られている。
 戸田城聖は、一九五一年(昭和二十六年)の暮れから翌年にかけて、『大白蓮華』誌上に、四回にわたり、「砂村問答」の記録を現代語訳して連載したことがある。彼は、身延との法論の決行を決めた時、真っ先に「砂村問答」を思い出し、果敢な折伏活動の闘将・永瀬清十郎(一七九四年ごろ〜一八五六年)に思いを馳せた。
 江戸時代の末期、文化・文政のころ、武蔵国川越に生まれた永瀬清十郎は、江戸・目黒に住んでいた。富士門流の強信な信徒で、鮮烈な論陣を張り、しばしば遠い地方にまで出かけていた。その足跡は、尾張国にまで及び、弘教が進むにつれ、弾圧が始まり、文政から安政年閉まで約三十年にわたる尾張法難に発展している。
 彼は、ある時、東北の会津若松の城下で、日蓮宗一致派の信徒に対し、理路整然と果敢な折伏をしていた。
 ところが、一方、時を同じくして篠原常八という者が、一致派の論客として、城下で盛んに折伏していた。彼は、江戸・砂村(現在の東京都江東区東部)の住人で、佐渡や、その他の日蓮大聖人縁の地を訪ね、その帰りに、会津若松に留まっていたのである。相対立する二人の主張に戸惑った城下の信徒たちは、この両人に法論対決を求めた。二人は承諾した。当時、城下の治安は、はなはだ悪かったので、大勢の人びとの集会は得策でないとし、清十郎と常八のほか、双方五人に聴衆を限定し、十二人をもって法論に臨んだのである。
 永瀬清十郎は、まず篠原常八の格好を見て、厳しく問い詰めた。
 「その方は、首に頭陀をかけ、手に数珠を持ち、千箇寺もうでと申して、修行者の様子であるが、これは、なんの義によるものか」
 「頭陀の行と申して、法華経の行者である」
 「法華経の行者は、頭陀を掛けたり、托鉢をしない。その理由は、法華経の宝塔品に説かれるごとく、法華経を持ち只南無妙法蓮華経と唱うるのが、法華経の行者である。頭陀の行を行うのは、いわゆる律宗等の行者である。これを宗祖は律国賊と破折せられた。ゆえに、その方は国賊である。この義、閉口かどうか」
 「…………」
 永瀬清十郎は、悠々と落ち着きはらっていた。彼にとって、本迹一致派の篠原常八の言い分など、小児を相手にするに等しかった。
 彼は、いよいよ本題に入った。
 「その方は、本迹一致と言っているが、それは何ゆえなのか」
 常八は文証で答えた。
 「六万九千三百八十四字、一一文文是真実仏、真仏説法利衆生とある。この文によるならば、本迹は一致ではないか」
 「汝、この釈は天台の三大部にあるか、どうか?」
 「三大部にあるかどうかは知らないが、御書にはある」
 「御書にはあると言うが、この文をもって、その方が一致と言うならば、この文の出所を尋ねなければならぬ。当に知るべし、この文は三大部にはないのである。だとすれば、宗祖は、なんの文によって講釈なさったのであるか。その方たちは文の出所も知らないで、わかったと思って説明を加えているから、切り文といって大僻見である。
 その方、閉口、ならば、この文の出所を説明しよう。この文は、天台大師の『略法華経』の文である。であるから大聖人開会の上に立てた御文言であって、この文によって一致であるとするのは、非常なる誤りである……」
 「開会」というのは、「方便の教えを聞いて、真実の教えに帰入させる」ということである。
 方便のさまざまな教えは、一面のみの真理を説いたものであり、相互に矛盾する場合もある。しかし、真実の教えに立脚した場合には、方便の教えも部分的な真理としてつつみ込まれ、活用することができる。これが「開会」である。
 つまり、生命の極理を明かした日蓮大聖人の仏法から見れば、迹門も一分の真理を明かしたものとして位置づけられる。この「開会」の立場から、大聖人は、本門・迹門を一括して、真実を明かした教えであると説かれている場合がある。大聖人滅後、師敵対した五老僧の末流に、その真意を理解できず、本迹に勝劣はなく、等しく真理を明かした教えであるとする邪義を唱える者が出てきたが、今、篠原常八も、そのような過ちに陥っていたのである。
 清十郎は諭すように言ったが、根拠となる文献、教義を示しての理路整然とした追及は、一つ一つ手厳しいものであった。七カ条にわたる問答で、篠原常八は、完全に敗れたことを知ったものの、なおも求めて、翌日も問答の続行を願った。だが、既に勝敗は明らかであるので、清十郎は応じなかった。
 常八には、求道の心が芽生えていた。彼は、それから清十郎の行方を探したがわからなかった。また、越後から佐渡まで旅をし、江戸への帰途、はからずも清十郎の奥州・二本松(現在の福島県二本松市)滞在を知って追いかけた。二本松で両人の問答が再び始められたのだが、今度は長時間にわたる問答は避け、負けた者は、自分の宗旨を捨て改宗するという、厳しい約束のもとに行われたのである。
 もはや勝負は問題にならなかった。本迹の勝劣について、本尊について、立像の釈迦について、薄墨の法衣について等々、永瀬清十郎は、一毛の疑念もいだけないまでに解明し尽くした。篠原常八は、感涙して、これからは富士門の奴婢となり、正法を弘通すると誓って、江戸・砂村へと帰っていった。
 このような縁によって、江戸に帰ってからも、常八は、清十郎を師として、日蓮大聖人の極理に迫っていった。そして、熱心に一致派を折伏し、遂に十一世帯の講中をつくるまでになった。
 一致派の多くの人びとが、常八を非難し始めたことは、言うまでもない。そこで、一致派から、常八に法論を申し込んできたのである。常八は、負けたら富士門に帰伏するかと質し、この約束のもとに法論を受けて立った。しかし、一致派は、対決の講師をなかなか立てることができなかった。多くの僧俗は、尻込みしたからである。五十余日たって、やっと成瀬玄益なる旗本の隠居を名乗る人物に決まった。そして、一致派は、また注文をつけた。常八の師匠・清十郎の出馬を強要してきたのである。
 場所は江戸・両国の柏屋という茶屋である。定刻の午後二時、ここに両派の聴衆、六、七百人が集まってきた。成瀬玄益は、黄金作りの大小の太刀を携え、浅黄綾の十徳を着し、威儀を正して、南面して上座を占めた。永瀬清十郎は、北面して下座についた。両側には、双方の世話人が五人ずつ控え、筆録者が一人ずつ並んでいた。
 約定は、仏教の正邪を決するのであるから、返答のできなくなった者は、自分の宗旨を捨て、勝った方へ帰伏すると決めた。そして、この義を違えてはならぬと確約して問答が始まった。
 永瀬清十郎は、虚を衝くような第一問を玄益に放った。
 「身延山の歴代で、衆人に念仏を勧めた人がおる。この義はどうか。宗祖は念仏無間と破られているのに、その源たる歴代として念仏を勧める法があるか」
 「なにつ、その方、嘘をつくな! 日は西から出るとも、大地は反覆するとも、身延山で念仏を勧めることがあるわけはない。なんの証拠をもって悪言を吐くのか。その証拠を出せ!」
 清十郎は、しばらく無言でいて、玄益の怒るに任せた。聴衆が、清十郎の口からの出まかせの放言かと疑った時、清十郎は、おもむろに口を開いた。
 「勝手な非難をしたのであったら、衆人は納得しないだろう。当門流では、証拠がないことは、一切、言わないのである。当に知るべし、あなたの宗派から出た書籍のなかにこれがある。その証拠があれば、どうするか」
 「証拠あれば、閉口する」
 清十郎は、言質をとり、まず第一問の勝負を決した。
 「『啓蒙』二十八に次のようにある。
 ――身延山の日乾が、先年、京都の本法寺で談義興行の際、題目抄を引いて、″念仏も悪くない。世人が、念仏を申せば口もただれ、舌も抜けるように思うのは、愚痴の至りである″と破した。それを、直接、聞いた人が、その内容をある僧に語った。その僧が書きとめたものを見た――とある。
 また、『啓蒙』には、日乾が、京都の在家・佐藤久兵衛に、同じ趣旨を語ったのを、久兵衛より聞いたと、はっきり出ている」
 『啓蒙』というのは、元禄のころ、不受不施派の日講が著した『録内啓蒙』三十六巻の略称であるが、日寛上人は、『六巻抄』で、しばしば『啓蒙』を引いて、他宗の邪義を叱正するために用いている。未熟な玄益は、その文証すら知らなかったのである。
 清十郎は、このあと、宗祖に背いて本尊を雑乱させ、謗法の山と化した身延山には、厳しい罰の現証が相次いでいることを突きつけ、身延は無間地獄であると責めた。玄益は沈黙し、やがて席を立った。結局、勝敗は他愛なくついてしまったのである。一派の世話人は、驚いて、清十郎に教えを請うかたちとなった。
 この問答は、たちまち多くの人びとの噂になった。ことに砂村の一致派の信者は悔しがり、せめて砂村在住の勝劣派・篠原常八を破ろうとたくらんだ。一致門流の著名人・梶柔之助という旗本を引っぱり出し、砂村で盛んに講演させ、勝劣派に切り込んできた。そして、永瀬清十郎が、大石寺へ参詣中の時を狙って、常八を、そのような講演の席に誘い出すことをたくらみ、それは成功した。
 梶柔之助は、二、三の御書を引用して、本門、迹門について傍正はあるが、勝劣はないなどと、勝手なことをしゃべりまくっていた。
 たとえば、「四菩薩造立抄」のなかから、次の文を引いた。
 「今の時は正には本門・傍には迹門なり、迹門無得道と云つて迹門を捨てて一向本門に心を入れさせ給う人人はいまだ日蓮が本意の法門を習はせ給はざるにこそ以ての外の僻見なり
 「このようにあるからには、傍正に一往は勝劣があるが、再往は一致であることは明らかである。しかるに富士派が、傍正に勝劣があると立てるのは誤りである」
 ――梶柔之助のあげた御文は、「今、末法の時は、中心となるのは本門であり、それを補うのが迹門である。ゆえに迹門では得道しないといって迹門を捨てて、本門ばかりを信ずる人びとは、いまだ日蓮の本意の法門を知らないのであって、もってのほかの僻見である」との意味である。
 常八は、柔之助の言い分を十カ条に書きとめて、反論に移ろうとした。
 「不審の点が多くあるが、ここで返答ができるか、どうか?」
 「不審があるならば、文書にして出してもらいたい」
 梶柔之助は、質問をするりと避けて、この日は、これで散会した。
 三日後の約束の日に、砂村の常八の家へ富士門講中の人びとが集まり、相談しているところへ、思いがけず永瀬清十郎が現れた。彼は、寺行きを中止していたというのである。一同が喜んだことは、言うまでもない。
 清十郎は、この時、初めて梶柔之助との対決を知らされたのであった。
 しかし、彼は、慌てず、騒がず、常八と共に、四、五百人の聴衆の集まった柔之助の講席へ出かけて行き、まず、あいさつをした。
 「私は、目黒の住人、永瀬清十郎と申す富士門の者でござる。今日は、先生のご講談を伺いに参った」
 「今日は、常八氏と、一致、勝劣の法門の邪正を結論することになっているので、貴公はお控えください」
 柔之助は、清十郎と聞いて、避けるようにして常八に向かった。
 ――大聖人の御在世にあって、迹門を無得道といって読まない者のために、その非を諭されたが、だからといって、本迹一致とはならない。あくまでも本迹の傍正は、それ自身、勝劣を表している。
 しかし、梶柔之助は、勝劣ということと、傍正ということは、全く異なることであると、頑強に主張して譲らなかった。
 「互いに口で言い合っていても仕方がないから、記録したうえでやったらどうでしょう」
 永瀬清十郎は、こう言って、紙に書きとめて二人に見せた。
  梶云く傍正は勝劣に非ず
  篠原云く傍正は勝劣なり
 論点を鮮明にしておいてから、清十郎は、柔之助に向かって、「傍正とは、いったい、いかなる意味か」と問いただした。柔之助は、傍は傍意、正は正意としか答えられなかった。
 清十郎は、字訓を説き、文字の意味に即して語っていった。
 「正は君を意味し、また長という意味もある。傍は、側という意味で、左右のことである。つまり君と、その左右とのことではないか。君と君側、君臣の勝劣は明らかである」と結論して続けた。
 「したがって、傍正が勝劣でないということは僻見である。ゆえに本門は正、迹門は傍と大聖人は定められた。この言に背くのは謗法である。録内録外のなかに、正は勝なり、傍は劣なりとの明文は顕然としている」
 「それは、いずれの御文にあるのか」
 梶柔之助は、臆面もなく、無知をさらけ出した。
 この時、清十郎は、初めて怒気を含んで、柔之助に鋭い視線を浴びせた。
 「ものを習うのは弟子であり、教えるのは師匠である。貴公は席を去って、閉口のうえで、私に降参して質問をすべきではないか。貴公が上席で肘を張っているのは、礼を失するも、はなはだしい。私を上席に請じ、貴公が下座に着いて聞くべきである」
 敗色は、明らかに旗本の梶柔之助にあった。一致派の信徒、五、六百人は、これを聞いて動揺した。武士の顔が立たないと罵る者も出てきた。この時、興奮した聴衆のなかから、泥を清十郎めがけて投げつける者があった。泥は講席に散乱した。誰がやったのかという犯人捜しから、いつか喧嘩となり、同士打ちが始まって、取っ組み合いの騒ぎになった。
 この騒動を余所目に見ながら、清十郎をはじめ六人の富士門の信徒は、書物や記録を懐に悠然と席を立ち、講中の家に引き揚げたのである。もし、この時、騒動とならなかったら、文字の意味を答えられずに恥をかいた梶柔之助は、武士の恥辱として刃傷沙汰に及んだかもしれないのだ。騒ぎは、まことに諸天のお計らいであったかと、講中の人びとは語りながら、御造酒を御本尊に供えて、勝利を祝い合った。
 時に天保六年(一八三五年)十月のことであった。明治維新に先立つこと三十三年、世は騒然とし始め、徳川幕府崩壊の胎動が始まったころである。この年の九月、天保通宝という百文銭の銅銭が鋳造され、悪貨のはしりとなった。
14  戸田城聖は、理境坊の二階で床に就いていたが、深夜の静寂のなかで、坊の側をせせらぐ清流の音を耳にしながら、はるか昔の「砂村問答」を思い返し、永瀬清十郎の濠然とした剛直無垢な信心を偲んだ。そして、彼の姿を思い描きながら、親愛の情のなかで、この先達の壮烈さに思いを馳せていた。
 彼は、この連想から、近く明治初期の「横浜問答」が、ふと思い浮かんだ。
 この一八八二年(明治十五年)の「横浜問答」というのは、富士門流の本門講と、横浜にあった、当時の身延系の蓮華会との間に行われた問答のことである。蓮華会は、一致門流の流れを汲む会員、七、八十人の講であった。発端は、やはり、この蓮華会の一会員と本門講の一講員が法論したことであった。その後、蓮華会の会長・田中巴之助が、本門講に対して正邪対決の法論を挑んできた。田中巴之助とは、後に有名になった田中智学のことである。
 本門講は、直ちに快諾した。すると、蓮華会は何を思ってか、口頭での対決を避け、文筆での対決をあらためて要求してきた。本門講は、彼らの言うなりに応じ、両者の聞に文筆往復による法論の「条約書」を、取り交わした。
 「条約書」の冒頭の第一条では、「双方論議問難の末、自己の妄見を悟認したる以上は、速に潔く従来の宗派を棄てて正見なる宗派に帰住すべき事。但し蓮華会員は本門講員に加盟し、本門講員は蓮華会員に加盟すべき事」と、それぞれ自己の宗教的生命をかけた厳しいものであった。
 そして、双方提出の問題について、答弁書は七日以内に差し出すことにし、この期間に回答のない場合は、敗北とみなし、「第一条の約章に照らして改宗すべき事」と双方の総代捺印のうえ誓約したのである。
 さらに、蓮華会は、第一問の提議を本門講に請求してきた。本門講は、これをも応諾、その作成に取りかかった。
 この第一書は、十月三日付で蓮華会御中として発送された。論陣は、本尊論を中心としたものであった。蓮華会は、約定に従って、十月九日、第一問に対する回答を寄せてきた。
 本門講の第二号書は、十月十五日、蓮華会の第二号書は、十月二十一日、本門講の第三号書は、十月二十七日、といったように、一週間以内に、それぞれ反論と弁駁を繰り返し、五号書まで進んだ。討論の発展はなく、本尊論などの追及に対して返答不能に陥ったのか、蓮華会の第五号書は、回答といえるものではなかった。そこで本門講は、第六号書において、「諸氏具答に窮迫せば早く前罪を陳露して正門に帰向せよ」と、厳しく追及している。十二月四日のことである。
 以後、蓮華会からは、なんの回答もなかった。本門講は、それでも十日待った。この間に蓮華会は、口頭による討論に移ることを要求してきた。まさに違約である。
 本門講は、そこで約定に従って、十二月十四日、所断書を認め通告を発した。
 「……文壇上の対決は条約の基礎に付きいやしくも窮迫せざる以上は、徹頭徹尾を相図るべき筈なるに、俄に他に事を寄せ謝絶あるは何に意ぞや。まことに貴会の卑怯未錬なる精信求法の良心を放ち失ひ仏祖の威霊を明白に欺き去る。贋信徒たる段真に憫羞びんしゅうの至りに存じ候……」
 この痛烈な所断書に対して、蓮華会からは、一言の返答もなく終わっているのである。
 その後、伝え聞くところによると、会長の田中巴之助は、所断書を受け取った翌日、にわかに居を転じて行方をくらましたという。勝敗は、おのずから明らかとなった。後年、時の極右思想に迎合して、「国立戒壇」の名称を使い始めたのは、実は、彼であった。
 戸田城聖は、さらに宗史を遡行して、繰り返された数々の大小の法論を、思い浮かぶままに点検しながら、たどった。そして、日蓮大聖人の佐渡における「塚原問答」に思いを馳せた。
 大聖人は、文永五年(一二六八年)十月、鎌倉幕府の執権・北条時宗に対し、正邪を決する諸宗との公場対決を迫った。この年の一月、蒙古からの国書が届き、他国からの侵略が現実問題として迫ってきていたからである。大聖人が、正法を用いなければ、国が滅びると警告された「立正安国論」提出の時から七年が過ぎていた。
 しかし、幕府は、大聖人の要請に応えようとはせず、むしろ、諸宗の反発と謀略に動かされて、迫害に転じたのである。文永八年(一二七一年)九月の竜の口の法難が、それである。大聖人は佐渡流罪となり、その佐渡で、諸宗の僧たちが集まり、数を頼んで大聖人に法論を挑んできた。それが「塚原問答」である。
 大聖人の、諸宗の僧を責める言葉は鋭く、瞬時にして彼らの誤りを明らかにしていった。その問答を目の当たりにした多くの人びとが、正法に帰依し、僧のなかには、その場で袈裟を脱ぎ捨てて、″今後は念仏を唱えない″と誓う者もいたのである。
 佐渡流罪が赦免となり、鎌倉に帰還されて以後、幾度か公場対決の機会が訪れようとしたが、いずれも実現せず、大聖人が公場で正義を明らかにされる機会は潰えた。
 戸田は、その御無念を深く察しながら、古く天台大師、伝教大師も公場対決に臨んできたことに思いをいたした。
 天台は、陳の国主の面前で南三北七の諸宗の僧侶と法論して、正邪を決して帰伏せしめている。また、伝教は、延暦二十一年(八〇二年)一月十九日、高雄山寺で南都六宗の碩徳十四人を相手にして、桓武天皇の勅使・和気弘世の臨席のもとに、諄々と破折した。そのため十四人の学僧は、勅宣によって謝罪状を出さなければならなかった。時に伝教大師は三十六歳、後に比叡山に迹門の戒壇が建立されたのは、この時の公場対決に由来するところが大きい。
 戸田は、現代における公場対決とは、いかなる形式を指すのか思索を重ねていた。
 厳寒は深く、暁に近かったが、彼は、なおも目覚めていた。
 ″主権在民″にして、かつてのような国主の存在しない現代に、おいては、民衆の審判による以外にない。してみれば、日夜、展開されている学会活動も、夜ごとの座談会も、大切な公場対決の縮図といえるが、民衆の審判は、いまだ極小の部分に限られている。このような対決が大きな効果をもつためには、その法論に一宗の命運を賭した場合が、ひとたびは必要であるかもしれない。これこそ、現代の公場対決の一環ということができるだろう″
 戸田が、ここまで考えいたった時、小樽に惹起した事件の意義が、にわかに鮮明な色彩を帯びてきた。一宗の命運をかける可能性が、十分にあったからである。彼は、この機会を、偶然、とらえた以上、それを千載一遇としたかった。身延の日蓮宗の代表講師の顔ぶれを知った今、絶対不敗の講師を、創価学会から出す必要があると思った。教学部長・山平忠平は動かぬところであったが、あとは青年部長・関久男にすべきか、それとも他のメンバーにすべきかどうか迷った。
 法論においては、攻撃と、受けて立つ防御とを、ともに備えなければならぬ。身延の本尊雑乱を突くことは極めて重要であり、これこそ、大聖人の正法正義に違背する、断じて許すことのできない事実である。身延側は、おそらく過去の法論を蒸し返して、日蓮本仏論、一閻浮提総与の御本尊などについて攻撃してくるにちがいない。以上の二点が争点となることは疑いない。あとは枝葉末節に属する問題であって、なんら恐れることはないであろう。その解明を十分に用意し、防御から、逆に攻撃に転じる機をつかむことである。
 戸田は、床の上に起き上がった。寒気の忍び寄った明け方の部屋の中で、雪に埋もれているであろう厳寒の北海道を思った。
 昨年の夏、小樽で初めて会ったあの初信の学会員たちは、今度の事件で、心配顔をしながら雪のなかを駆け回っては、題目をあげていることだろう。彼は、かわいい、そして大切な弟子たちの姿を、思い浮かべていた。
 ″よし、よし、戸田がいる限り、あなた方は何も心配しなくていいのだよ。ご苦労だが、もうしばらく待っていなさい″
 彼は、心のなかで、がむしゃらな東班長を中心とする小樽班の人びとに、親しく呼びかけていた。

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