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日蓮大聖人・池田大作

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小説「人間革命」7-8巻 (池田大作全集第147巻)

前後
1  創価学会の会員が、全国的規模で激増し、毎月一万世帯前後の入会者を数えるようになると、世間は、いわゆる「折伏」を問題にし始めた。
 使命感に生きる会員の救世の情熱は、惰性に沈んでいた既成宗教には、とうてい理解されるところではなかった。
 また、宗教活動を営利的に利用することを事とした、戦後、雨後の筍のように発生した新宗教も、創価学会の華々しい折伏によって、自宗の教勢が、日に日にそがれていく現実を目の当たりにし、ざまな中傷と策動を始めたのである。
 創価学会の再建当時から、青年部の有志は、随時、他宗の寺院や本部などに出向いて法論を挑み、他宗の幹部の心胆を大いに寒からしめていた。
 青年たちは、戸田城聖に短日月のうちに教授された日蓮大聖人の仏法が、法論のたびに向かうところ敵なしという結果を重ねるのを、身をもって知るに及んで、彼ら自らがまず驚いた。彼らは、大聖人の仏法の正しさを、法論によって、まざまざと実感したのである。彼らは、生涯の使命と目的を、広宣流布という未聞の大事業に委ねて悔いない覚悟を強くした。
 この青年部有志の、他宗との法論闘争を、戸田は、奨励したわけではなかったが、青年たちが、大聖人の仏法の正統さを知る、最も直接的で有効な手段として見ていた。
 僧侶という、一生を宗教にかけた専門家が、法論に敗れても、なお平然として改宗もしないでいることが、青年たちには、まことに不思議であった。
 ″いくら法論に勝っても、これでは広宣流布の道は少しも進まない。どうしたらよいのか″
 彼らの一人は、戸田城聖に質問しないではいられなかった。
 「いくら法論闘争しても、一人の僧も改宗させることができません。明らかに非を悟っていながら、日蓮大聖人の仏法に帰依しようともしないのは、どういうわけですか」
 戸田は、にっこり笑って、いきり立つ青年たちに諭すように言った。
 「君たちも気がついたか。現代の宗教が、どんなに堕落しているかという明確な証拠です。末法とはよく言ったものだ。昔は、まだ法論にはルールがあった。負けた者は、勝った者の宗旨に改宗することをかけて法論したものです。真剣勝負だった。
 今は、負けても負けたと言わない。恐るべき狡猾さが身について、それが処世術になっているのが、現代の宗教界といってよい。その証拠に、人を不幸にこそすれ、一人の人さえ救うことができないではないか」
 「すると、いったい広宣流布は、どうしたらできるのでしょうか。他宗の僧一人も改宗させることができないようでは……」
 「そこだよ。現代の広宣流布は、不幸な民衆一人ひとりを救っていく活動です。辛抱強く、一対一で、日蓮大聖人の真の仏法を説き、納得させて、一人が一人を救っていく以外に方法はない。これが創価学会の使命とするところの実践活動です。
 では、なぜ、ぼくが青年部に法論闘争を許しているのかと、君たちは思うだろう。
 それは君たちのためなのだ。君たちに、日蓮大聖人の仏法が、いかに正統で、すごいものかということを、わからせたいためです。そうじゃないか。ぼくが、いくら真の仏法のすごさを説いても、君たちが疑っていたら仕方がない。実際に他宗と比較してみれば一目瞭然となる。それには、法論を、ちょっとでも挑んでみれば、すぐわかることだ。法論闘争は、君たちの信心を強固にするために許しているんです」
 事実、散発的な法論闘争が、随所でいくら行われても、他宗の僧侶や幹部は、内心の狼狽はともかく、世間的には微動だにもしなかった。
 青年部の有志たちは、青年らしいため息をついて、現代の宗教の醜態を知り、日蓮大聖人の仏法の偉大さを、いよいよ知るのであった。
2  ところが、一九五四年(昭和二十九年)ごろになると、活発な折伏活動が全国にわたって展開されるに及び、他宗の寺の檀家のなかで、離檀する人が続出するという現象が各地に起きた。地方の、ある寺では、年間三十軒の檀家が、創価学会に入会して寺を離れていった。もし、この事態が続くものとすると、数年たたないうちに、寺の経営は成り立たなくなることが自明である。
 他宗の住職たちは騒ぎだした。宗教上の問題というより、まず生活が脅かされたからである。彼らは、墓地への埋葬を拒否するという挙に出たために、それが法律問題となった。さらに、彼らは地方の新聞に訴えて、中傷を創価学会に加えたのである。
 彼らは、宗教家としての建前上、檀徒の改宗離檀の問題を、さすがに生活基盤の侵害としては公言できなかった。そこで彼らは、宗教団体を管轄する文部省に、創価学会が暴力的宗教団体ででもあるかのように、訴えたのである。文部省宗務課は、各府県に連絡して実態調査を始めなければならなかった。創価学会の活動が、果たして宗教法人法第八一条にある「公共の福祉を害する」にあたるかどうかを問題としたのである。
 今日からすれば、笑うべきことであるが、当時、忽然と社会に頭角を現し始めた創価学会は、全くの誤解と曲解による敵意につつまれていたといってよい。
 たとえば、ある新聞に、「信仰相談」という欄があり、週三回、投稿質問に対し、回答を載せていた。四月下旬ごろから、しばしば、創価学会に対する一方的な中傷を取り上げ、学会の指導は、すべて迷信の妄想などと回答していた。
 回答者は、老子の思想を基調とした、宗教的な小さな団体を主宰する人物であった。彼は、日蓮大聖人の仏法を研究した痕跡すらない男であったが、新聞の回答者としての客観的地位を利用して、あらゆる誹謗を続けていた。彼自身も、既に折伏を受け、感情的な反発を回答に流し込んでいたのである。
 青年部の有志は、これを黙視することはできなかった。直ちに新聞社と回答者に、直接、抗議し、回答者と法論の末、今後、創価学会を迷信、邪教呼ばわりしないことを約させ、一札を取った。しかし、回答者は、露骨な敵意を、その後も改めることはなかった。
 また、地方の新聞のなかには、八月の夏季地方指導での折伏をきっかけに、無認識な批判をでかでかと掲げて中傷するものが出てきた。九月になると、ある新聞が、三面トップに大きく中傷記事を載せたのをはじめ、やがて全国紙も学会のことを取り上げ、批判するようになった。
 さらに宗教団体の機関紙でも、大々的に創価学会を批判しだした。ある宗派では、九月五日、僧百数十人を集めて、創価学会対策の会合を開いた。そして、「創価学会の妄説に惑うな」と大きな見出しを付けた機関紙の臨時増刊号を発行して、同派の全寺院に配布したのである。
3  こうした事態に対して、戸田城聖は、泰然自若として、笑って言うのである。
 「いよいよ御書に説かれた道門増上慢が出始めたところだよ。つまり三類の強敵のうち、第二類の道門増上慢が約束通り出てきただけの話だ。これまでは、第一類の俗衆増上慢といって、家庭や知人、友人などからの中傷批判であった。そのなかで、諸君は立派に信心を貫いてきたわけです。今度は、他宗の僧や新聞が騒ぎ始めたところだ。何も驚くことはない。われわれの広宣流布の活動の途上で、来るべきものが、当然、来たというだけだ。これは、むしろ喜ぶべきことです」
 批判中傷は、喜ぶべきことだと聞かされた会員ちは、キョトンとしていた。果たしてそうであろうかと、内心疑っている表情を見てとると、戸田は御書を取り出して話を続けた。
 「こうしたことは、今に始まったことではない。大聖人御在世の時は、三類の強敵が全部出そろって、あのような法難に遭われたのだ。『種種御振舞御書』を拝読してみれば、当時の道門増上慢が、どういうものだったか、はっきりわかるだろう」
 戸田は、指さした箇所を、側にいた女子部の幹部に読ませた。
 「又念仏者集りて僉議す、うてあらんには我等かつぬべし……」
 読み終わると、戸田は一同に視線を注いだ。
 「この通りであった。大聖人は佐渡へ流されたが、そこでも盛んに折伏をなさって、次々と大勢の島人が帰依してきた。こういう状態に不安になった他宗の僧たちは、大聖人を憎んだ。『又念仏者集りて僉議す』。何を詮議したかというと、『かうてあらんには我等かつえしぬべし』――このままだと、自分たちが餓え死にしてしまうだろうというんです。今の他宗の僧たちの不安と、まことによく似ているではないか。『いかにもして此の法師を失はばや、既に国の者も大体つきぬ』。なんとかして大聖人を殺したい。もう国の者は、あらまし大聖人についてしまったと詮議したわけです。
 そこで、佐渡の念仏の指導者たちは、鎌倉へ行って幕府に訴えた。『此の御房・島に候ものならば堂塔一宇も候べからず僧一人も候まじ、阿弥陀仏をば或は火に入れ或は河にながす』――ちょうど、今、創価学会をこのままにしておくと、自分たちは飯が食えなくなると、他宗の者たちが、新聞を使って騒いで、文部省あたりへ、なんとかしてくれと訴えている。そっくりではないか。
 こんなわけで、今の騒ぎは道門増上慢であることは間違いない。われわれの活動も、ようやく、ここまできたと見て喜ぶべきだろう。このあと、広宣流布が進むにつれて、いよいよ最後の第三類の強敵、僣聖増上慢の時代が必ず来るだろう。これは手強いことを覚悟しなくてはならない。
 その時、もし退転でもするようなことがあったら、なんのために、せっかく信心をしてきたのか、わけがわからなくなってしまう。その時こそ、しっかりしなくてはなりません。そこで、自分の一生が、栄光か破滅か、そのいずれかに決まることを知らなくてはならない。
 今は、まだ序の口の序の口だが、広宣流布の方程式を、ちゃんと進んでいるわけだ。慌てる必要はない。沈着に学会の方針通り進んでいけばよいのだ」
 戸田は、まるで他人事のような落ち着き方であった。
4  十月二十一日夕刻、ある大新聞の記者三人が、戸田に面会を求めて学会本部に来た。その時も、戸田は、応接室で極めて落ち着き払ったものだった。
 「折伏で弊害が社会に起きていると思いませんか。宗教の道場破りといった感じがしませんか。この点はどうですか」
 一人の記者が、多くの質問のあとに、意気込んで、こう言った。戸田は、軽い微笑を含んで口を開いた。
 「うちの青年たちが、熱情をもって法論をしに行くことは、私も聞いてよく知っています。この間も、東京の墨田で、東大生が他宗の住職をやり込めたそうで、それが問題になったことも聞いておりますが、だいたい一寺の住職とか高僧とか呼ばれる人が、若い者にやり込められるようでは、あまりにも、だらしがなさすぎると思いませんか。
 それというのも、彼らの宗教が、確信のない宗教であるからです。道場破りなんて、そんな大それたものではありませんよ。青年のことだから、私は、行き過ぎがあってはならないと、いつも注意はしています」
 最後に、もう一つ伺います。会の財政はどうなっているのですか」
 記者の質問も、ぶしつけであったが、戸田の回答は、それ以上に率直な真実を語った。
 「一般会員からは、会費は一文も取っていません。学会の月の経費は、二十万円ぐらいですが、出版物や機関紙の売り上げ、財務部員からの浄財で賄っています」
 記者たちは、想像していた宗教団体の暗い陰が、一切ないことに意外さを感じたようだ。
 記事は、十月二十六日付朝刊の七面トップに、かなり大きく出た。反響も大きかったが、さすがに悪意の固まりのような見当違いはしていなかった。
 創価学会の宗教法人認証後の活動状況を紹介し、組織に触れ、各地の活発な法論の模様などを述べ、さらに他宗の住職などにも語らせて、客観的な記事らしくしていた。
 戸田との一問一答にも相当なスペースを割き、戸田の写真と、本部の二階広間の仏壇辺りの写真を掲載していた。最後に、他宗派の僧の話を載せていた。そのなかに、折伏は、信教の自由を踏みにじるもので、創価学会はファシズム的ではないか、といった一片の批判を含ませていた。
 記事全体としては、広く集めた資料を、比較的公正に扱っていたが、学会の目的や日蓮大聖人の仏法の教義には、一切、触れていなかった。
 このように、当時、わずか十五万世帯とはいえ、創価学会の存在は、全国的な社会の関心事となってきていたのである。
 しかし、その評価は、まちまちであった。会員が日本の底辺の不幸な人びとのなかに入って、蘇生の活力を奮い立たせている活発な行動を目にすると、世間は、これを左翼とみなした。また、組織的な活動形態を目にすると、世間は、これをファッショとみなした。つまり、本質的実態が何一つつかめないところから、社会通念に頼って、安直な裁断をしていたといってよい。
5  一方、十一月三日の本部総会直後、NHKが取材に動き始め、戸田に対して宗教学者との対談を申し込んできた。
 戸田は、この対談の申し込みを受けた時、直ちに応じたが、ある種の困惑を感じた。それは、彼が公開録音に不慣れなためでもなければ、世間の厳しい視線が強く注がれていることを意識したためでもなかった。この放送が、果たしてどのような効果があるか、疑問だったからである。
 戸田は、この対談を、世間の好奇心を満たすだけの対談に終わらせたくなかった。しかし、自分一人がどんなに努力しても、世間に、おもねるジャーナリズムの偏向というものは、真実を歪曲して、世間の思惑に合わせたものにしてしまうだろう。ジャーナリズムの性質を見抜いていた彼は、その偏向を恐れたのである。
 戸田は、思った。
 ″対談者は宗教学者ではあるが、これまた日蓮大聖人の仏法については、果たして、どの程度の研究をし、理解しているかが、はなはだ疑問である。おそらくは既成宗教の畑に育った宗教学者であり、西洋から学んだロンドン仏教の影響下にある学者ではなかろうか。
 彼らは、宗教研究の専門家であるかもしれないが、真の仏法に生き、生活の場で価値創造の実践をしている学会員の幸福の実感を、彼らの理論と概念で理解することは、不可能に近いといわなくてはならないだろう″
 戸田は、法論になるならば、それとそありがたい機会だと思ったが、短時間ですむことではない。対談の申し込みを承諾した直後に、提示された質問項目を見ると、教義についての探求心よりも、創価学会に対する世間的な好奇心に基づいた発想であることが一目瞭然であった。
 宗教の問題を、戦後の社会現象の一つとして皮相的にとらえて、ただ、その現象だけを批判することが、今度の対談の狙いであるらしい。しかも、それを、宗教学者を動員して権威づけようとしている魂胆が見え透いていた。
 戸田は、つまらぬ思いがしたが、初めて全国の電波に乗る以上、わずかでも創価学会の真の実態を示すことができるならば、世間に対する啓発にはなるであろうと思い、これまた現代の折伏の一形態であろうと考え、受けることにした。
6  十一月二十六日、NHKの人びとと、宗教学者である二人の大学助教授が本部を訪れた。一同を応接間に迎え入れると、戸田は、いきなり対談者のT助教授に向かって言った。
 「普段、しゃべっていることだけ、しゃべらしてもらいます」
 「はぁ、はぁ、結構でございます」
 対談は、思いがけなく冒頭から、ざっくばらんに始まった。初対面の助教授も、つり込まれたように、彼が二年前の「宗教の時間」に放送した時にあったエピソードなどを語りだした。それは一聴取者が、彼を戸田会長と間違えて、手紙をしばしば送ってくるという、たわいのない話だった。そのあとで、戸田は、いきなり切りだした。
 「皆さんの一般宗教学の立場からすると、私たちの方は、徹底的に偏っていることになるでしょう」
 そして、戸田は、宗教は、決してどれも同じではなく、その教えには、高低、浅深があることを明らかにしていったのである。
 T助教授は、驚いた顔で、戸田をまじまじと見て言った。
 「激しいですね」
 戸田は、日蓮仏法の真実と、それを実践する創価学会の、ありのままを率直に語っていったが、助教授は、十分に理解することはできないようであった。
 T助教授は、現代のさまざまな多くの宗教を、どう考えているのかと質問した。
 戸田は、日蓮仏法の教理のうえから、宗教の実態を明確にしていく学会の在り方を端的に答えた。そして、宗教と、人間の幸・不幸は、密接に関係していることを述べ、創価学会は、どこまでも個人の幸福と社会の繁栄をめざすものであり、事実、多くの民衆が幸福の実証を示していることを語っていった。
 「初代会長が、よく言っていましたよ。近視眼的、遠視眼的であってはならない。正視眼的という言葉をよく使っていました。それはですね、たとえば徳川幕府を倒した志士たちは、皆、家庭を捨ててしまっている。理想のうえに立って活動したんだが、それでは駄目だ。自分の家庭、自分というものも幸福であって、それが人類、社会の役にちゃんと立っていかなければならない」
 「問題は、その幸福ですがね――」
 両者の聞に幸福論が交わされたが、戸田の言う絶対的幸福は、T助教授には、観念的法悦としてしか理解されなかったようだつた。
7  ここで、録音の準備が完了したという知らせがあって、本番に入った。
 「実は、こちらの名前は創価学会というふうに呼ばれていますが、価値を創る学会、何か難しい学術団体のような印象を受けるのです。これには何か意味があると思いますが、それから伺っていきたいと思います」
 対談は名称の問題から入った。当時の世間は、それほど創価学会の名称について奇異な感じをいだいていたのである。
 「初代の会長がですね、左右田博士の価値論を十年間、懐に入れて研究していました。初代会長のいちばん悩んだところは、真理は価値ではないということだったんです。真理は認識の対象で、価値というものは、美・利・善であって、真・善・美ではない。経済学では利の価値というものを重視しているが、哲学界では利の価値を全然、相手にしないで、真理を価値だと誤っている。これは哲学界の大きな誤りである。これが最初なのです。
 そして、自分で教育学の体系をおつくりになった。その時に相談がありましてね、なんという名前をつけたらよいか、ということになった。そこで私は、価値を創造するということは先生の理想でしょう、と申し上げたのです。利の価値を創造すると、美の価値も創造しなければならぬし、善の価値も創造しなければならない。
 結局、この三つの価値を創造することは人格価値になり、それが私たちの目的だ。そこで初代会長の学説が『創価教育学体系』として、世に出ることになったんです。創価学会という名も、ここに由来しています。そういうわけで、創価学会という名は、初代会長と私との話でできたのです」
 「そうしますと、宗教価値、宗教的値打ちを新たに創り出す……」
 T助教授が、こう言いかけると、戸田は言下に否定した。
 「いや、それとは違います。宗教の力によって、見事な美・利・善の価値を創造する、ということであって、宗教的価値などではありません」
 「そうしますと、一言でいえば、人格の価値を新たに創り出す、人格価値を創造する――というわけですね、仏教の力によって。そうしますと、内容として、どんなものがあるのですか」
 「内容としては、すなわち利の価値、美の価値、善の価値、これを豊富にもつことです。あなたに利の価値を創造する力がある、美の価値を創造する力がある、善の価値を創造する力がある、その力自体を、本当の宗教の力によって獲得することができる。これが私たちの理想とするところです。人間的な価値を創っていこうという……」
 「人間的な力を創り出した、その人の気持ちは、幸福という言葉に置き換えてもよろしいでしょうか」
 「そうですね」
 「そうしますと、同時に宗教の目的でもあるわけですね。すると、教団でめざしておられる幸福ということは、どういうことでしょうか」
 問題は、またしても幸福論にもどった。
 T助教授は、幸福という現実的な実感にさえ疑問を感じているようだつた。
 戸田は、美・利・善の価値が、皆そろって集まり、信仰の極致にいたると、どこにいても、何をしても、生きていること自体が、心の底から嬉しくて、体から満々たる生命力が湧いてくる。その時に、本当の人生の楽しみが生まれてくる――と説明した。しかし、助教授は首をひねっていた。
 「その泉のように湧いてくる幸福感、喜びに、どうして価値があるのでしょうか」
8  戸田は、この時、「仏界計り現じ難し」という御書の一節を思い出した。そこで彼は、御本尊に帰依することによってのみ目的が達せられ、強い生命力が湧くのである、それを、人びとに勧めているのが創価学会だと説明した。助教授は、本尊と聞いて各宗の本尊を持ち出した。
 「すると、あなたの言う幸福と、他の宗派の言う幸福とは違うのだと、自分たちのもっているものが本当なんだと、叫びたいものがあるわけですね」
 「そうです」
 戸田は、教理のうえからする宗教批判をあえて避けた。助教授ほどの宗教学者ですら、五重の相対や三重秘伝などの原理には、全く無縁の人たちであることを考えなければならなかったからである。
 「私は、こう思うんですよ。宗教的な批判となると、ややこしくて誰にも簡単にできない。だから、実験をするんです。
 まず、先生方のような、あまり宗教というものに偏らない人が、三十人なり五十人なりで宗教批判会をつくるんです。そうして、ちょうど農事試験場でいろいろなものを実験するようにですね、各宗派から百軒なら百軒をあげて、生活の実態調査をしてもらう。そうして一年目に、その百軒はどうなったか、二年目にはどうなったか、こうして十年も調査してもらえばわかることです。
 いくら自分の宗教がいいと言ったって、うちの本尊がいいと言ったところで、水掛け論になってしまう。しかし、実験証明をしてみれば、一目瞭然です」
 「それは、いい立場だと思います。宗教が生活のなかにどう生きているか、それぞれの場面で、いいか悪いかを見ようとする態度は、大変よいことだと思います」
 「宗教を科学的に実験調査してみることです。何派の人はこう言った、何派の人はこう言っている、果たして、その通りになったか、ならないか。
 十年も真面目に研究すれば、宗教の実態が誰にでも見えてくる。信仰すればなんでもよいというのが今の思想です。これは絶対に誤りです。実生活の場面で、言葉通りの幸福というものを得ているかどうかが重要なのではありませんか」
 助教授は、実験証明には賛成したが、幸福の実体そのものが、あくまでも主観的判断によるしかないというのであった。他宗教でも幸福と思っていたら、それでよいではないか、と依然として観念的幸福論に固執した。
 戸田は、絶対的幸福というものを、想像することさえできなくなっている現代社会の、絶望的なほどの病根の深さを思った。彼は、現代に生きて心から幸福だと思える人は絶無といってよいが、仮にそれで満足しているとしても、来世ということを考えると、正しい宗教を勧めないではいられないと主張した。
 「現代では、死んでもまた生まれてくることを、迷信として片づけているけれど、この世で死んでおしまいなら、泥棒したって詐欺したって心配ないわけです。しかし、私たちの生命には来世というものがある。これを言い切りますと迷信だという。知る知らないは別として、私たちは、また生まれて来なければならない。その来世の幸福をも計算に入れると、この世の幸せだけで満足している人にも、勧めなくてはならなくなってくるわけです」
 戸田は、信仰して病気が治った、貧之から脱出できたというのは、御本尊の力の証拠だが、まだ相対的幸福にすぎない。その後に、現世も、来世も、生きていること自体が楽しくてたまらないという、絶対的幸福の境地が実在することを重ねて説いた。
 「会長さんの言う、そのような絶対的幸福は、他の宗教によっては得られない――そういう立場にあるわけですね」
 「得られません。絶対に得られない」
 それは、戸田の信仰体験に裏付けられた強い確信であった。
 断定的な戸田の答えを聞くと、助教授は、折伏とか、他宗との法論とか、世間で話題になっていることに話を移していった。対談は深く入っていきそうで、いかなかったといってよい。竜頭蛇尾に終わったのである。
9  この対談は、十一月二十八日の午前七時から三十分間にわたって、第二放送「宗教の時間」に放送された。前と後に、T助教授とO助教授との批判的対談が加えられていたので、約三十分にわたって収録された戸田との対談は、二十分に整理縮小された。
 NHKとしては、創価学会に対する世間の関心に応えたにすぎなかったが、戸田は、一般聴取者には、宗教的知識のないことを考慮して、理解しがたい教義については、意識的に避けていた。そして、既成の宗教概念によって、創価学会を奇異な目で見ていることに対し、学会こそ仏教の正統派であることを語っていった。そして、学会の現状と真実を、ありのままに明かそうとしたのである。
 戸田が、あえて他宗との違いを明確にしたことは、既成概念に対する一つの挑戦を意味した。そして、その反発的余波が、今後、ますます高まるであろうことも予見しなければならなかった。日蓮大聖人の仏法を理解させることの困難は、とりもなおさず広宣流布の至難さであった。
 戸田は、いよいよ、無理解な世間に挑戦していかなければならない時機が来たことを知り、決心を固めた。彼は、前途に多事多難の道が横たわっていることを自覚し、操縦桿をいよいよ固く握り締め、また闊達に操った。
 彼のこの予見は、過たず的中するが、十数万の会員を守り、一難一難を乗り越えていく彼の慎重な手さばきは、極めて心労の多いものであった。それこそ人知れず、一瞬の休みもない、生命を削つての戦いであった。
 戸田は、そうした社会に対応するために、十二月十三日、早くも渉外部を設置し、山本伸一を渉外部長に任命した。
 また、これより一カ月早く設置された文化部は、広宣流布の伸展に伴う多次元にわたる文化活動を行うことを目的としていた。文化部長には、男子青年部の第一部隊長・鈴本実が抜擢され、任命をみていた。
 戸田の目は、内にも外にも、絶えず油断なく向けられていた。鋭い判断に基づいて、待ったなしの決断を下さなければならない、広布の途上にさしかかったのである。戦後九年、会長就任以来、わずか三年を経過したにすぎないところであった。
10  一九五五年(昭和三十年)元日、戸田城聖は、弟子たちとともに本部の広間に集った。戦いきった五四年(同二十九年)を送ったあとの元旦である。
 初勤行に集まった地区部長以上の幹部は、喜色を満面に浮かべ、新しい年の大躍進を互いに誓いつつ祈った。
 戸田は、この時、一首の和歌を披露した。
  妙法の
    広布の旅
      遠けれど
    共に励まし
      共々に征かなむ
 広間に集まった人びとは、われもわれもと、この歌を、わが胸に言い聞かせるように、次々と朗詠した。戸田は、その朗詠に、じっと耳を澄ましていた。
 彼は、まだまだ遙かな広宣流布の旅路を思ったのである。いよいよ多事多難な旅程に入った前途を望みながら、一人の落後者もなく、この遥かなる長征を全うすることが、彼の痛切な願いであった。
 ここ数年の、奔流が堰を切ったような学会の躍進に、大多数の同志は、このまま会員数が急増の一途をたどり、広宣流布のゴールに近づくものと考えていた。広宣流布の責任ある指導者としての戸田には、この躍進に酔うことは許されなかった。
 戦うべき敵は、あまりにも多かった。また、内海から、いよいよ大洋へ向かって船出する時に至ったことを思うと、思いもかけない多難に遭遇することを、覚悟しなければならなかった。
 多事であることはよい。それが、広宣流布の前途を、一歩一歩、踏み固めることになるならば、厭うところではない。しかし、多難には賢明に処さなければならぬと思った。そこで彼は、広宣流布の旅程の遥かなることを教え、短兵急な戦略を頭に描いている幹部たちに、戒めとして、この歌を贈ったのである。
 来るであろう多難を賢明に乗り越えるためには、学会が、あくまでも和合僧の集団であることが必要である。真の団結は、鉄の規律などで維持されるはずはない。遙かな遠征の旅路を、仲よく共々に励まし合いながら、一人の落後者をも出さずに征き、元気に目的地に達するととこそ肝要であるはずだ。
 今、十五万世帯を超えた学会員を、翼に抱えた戸田の覚めた熱い心は、一人ひとりの会員の現在を思い、元旦の和歌に結晶したのであった。
 本部の初勤行を終えると、そのまま戸田の一行は、列車で総本山に向かった。三門には、既に大晦日の夜から登山している男女青年部員千八百人を代表して、青年部首脳が戸田の到着を待っていた。
11  二日午前十時から、理境坊で、五五年(同三十年)の年間行事を検討する会議が、理事室、各部の部長、支部長、青年部参謀室の、約四十人で開催された。予定される行事は、例年になく多岐にわたっていた。この年の最大事業となる一千人を収容する奉安殿の建設も、この時、決定をみたものである。
 戸田は、正月の五日まで、総本山の理境坊で起居したが、極めて多忙な年頭であった。
 この間の会員の登山者は、約一万人の多数に上り、連夜の質問会をはじめ、法主などへの年賀のあいさつ、僧侶の招待、所化小僧の招待、全国の会員のなかで難問題をかかえた人との面接指導などで、寸暇の休息もなかった。
 連日、晴天続きである。冬にしては温暖な日が続き、富士の白雪の秀峰が、くっきりと仰がれた。
 このような最中、四日午後一時過ぎ、思いがけない痛恨事が突発した。それは富士駅の。プラットホームで起きた事故であった。青年部の輸送班員の一人が、瀕死の重傷を負ったのである。
 正月で、どの列車も、あふれんばかりの乗客で混雑していた。こうした列車に乗り込むために、登山会に参加した学会員は、プラットホームで待機した。十三時十分到着予定の列車は、六分遅れて着いた。満員である。三百人の登山者が、この列車に分乗することになっていた。そして、この列車の二号車を担当した輸送班員が、山之内俊彦であった。
 山之内は、混雑しているプラットホームで、きびきびと、登山会参加者の整理にあたっていた。二号車の乗降口と思われる白線に沿って、全員が二列に整列し、先頭には数人の子どもが並んで、列車の到着を待っていた。
 やがて列車が滑り込んできた。デッキにまで人のあふれた乗降口から、降りる人びとが一人、二人と飛び出してきた。団体客であろうか、二号車から降りる人びとは、次から次へと、いつまでも続いていた。
 他の車両では、プラットホームに待機していた学会員は、どんどん乗り込み始めたが、この二号車だけは、まだ待機していなければならなかった。やっと乗車を始めると、間もなく、発車を告げるベルが鳴りだした。最前列に子どもを並べていたため、子どもと親が別々になる家族が出た。
 「お父さん!」
 「お母ちゃん!」
 車内から、親を探して叫ぶ子どもの声が響いた。プラットホームに残った親は、おろおろ声で「子どもが、子どもが……」と叫んでいた。
 山之内俊彦にも、四人の小さな弟妹がいる。彼は、急いで列車に乗り込んで子どもを探し出すと、プラットホームに降りて親に引き渡した。列車は緩やかにスピードを増しつつあった。彼には、乗車させた学会員を、無事に東京まで輸送する責任がある。急いでデッキに飛び乗った。事故は、この瞬間に起きたのである。
 山之内は、デッキの鉄棒に片手をかけたが、列車の速度は速くなっていた。彼は片足を踏み外し、デッキとホームの狭い空聞に挟まれた。あっという間の出来事であった。プラットホームの人びとは、息をのんだ。山之内の体は、足から胴体へと、列車とホームの間に巻き込まれていった。
12  次の列車を待ってプラットホームに残っていた人びとは、一斉に騒ぎ立てて、列車の前方へと飛んでいった。しばらくして、やっと列車は停止した。
 山之内俊彦の体は、線路に落ちてしまっていた。
 救出することも簡単ではなかった。数人の駅員や、輸送班の青年が、ホームから飛び下り、列車の下に潜っていった。
 間もなく、山之内の体は、プラットホームに担ぎ上げられたが、顔面蒼白で意識を失っていた。駅に用意された担架で、近くの病院に向かった。途中、山之内の唇が、かすかに動き始めた。意識が回復したのか、声にはならなかったが、唱題しているようにも思えた。付き添った輸送班の青年は、山之内の耳に顔を寄せて言った。
 「何を言いたいんだ?」
 この時、山之内は、かすかな声であったが、はっきりと言った。
 「広宣流布です」
 病室に横たわった山之内は、苦痛に歪んだ表情で荒い呼吸をしていた。医師が診察に来た。姓名を聞くと、細い声で姓名を名乗った。「年齢は?」と言うと、「十八歳」と答えた。青春のさなかで、入会わずか八カ月を過ぎたところであった。
 医師は診察して、ここでの治療は難しいと判断した。誰が見ても瀕死の重傷者である。医師は、設備の完備した市立富士中央病院に移すことを勧めた。再び輸送班の青年たちは、山之内を救急車で、運ばなければならなかった。
 正月の中央病院は閑散としていた。古い病室は、なおさら、がらんとして寒々と冷えている。耐えがたい苦痛のためか、山之内の蒼白な顔面は歪んでいる。意識は混濁しているようであった。付き添った輸送班の青年たちは、懸命に唱題を続けた。
13  事故発生直後、富士駅から総本山大石寺にいる輸送班担当幹部の澤田良一のもとへ、事故は電話で報告された。澤田は、報告を受けると、すぐさま理境坊の二階に駆け上がり、戸田に委細を報告した。
 戸田は、「なに!」と言ったきり、しばらく口をつぐんでいたが、第一部隊長の鈴本実を呼んで、厳しく言い渡した。
 「すぐ病院へ行きなさい。命にかかわる重傷のようだ。良いと思うことは、どんな治療の手でも即刻尽くしなさい。かわいそうなことをしてしまった。私に連絡することを忘れてはならぬ」
 「はい、行ってまいります」
 「私のかわいい弟子だ。なんとしても助けたい。意識があったら、戸田がついているぞと言いなさい」
 鈴本が病室に入ってみると、山之内は、全く意識を失っていた。外傷は見当たらず、腹痛を訴えるように、体を苦しそうに曲げている。呼吸も乱れている。内臓破裂であったろう。
 青年たちは、懸命な唱題を続けた。唱題していると、蒼白な顔面に、かすかな赤みが増してきた。さらに唱題を続けると、どす黒い青さは消え、平常な赤らんだ顔になった。医師が血圧を測ると、入院当初六十だった血圧は、百二十に回復していた。しかし、意識はいつまでも戻らなかった。
 数回にわたって、状況は、逐一、戸田のもとに報告された。戸田は、端座して報告をじっと待っていた。そして、血圧の回復したことを知ると、彼は、側にいた幹部を顧みて言った。
 「なんとか助けたい。私はなんとしても助けたいのだ」
 そこへ、東京にいる山之内の両親と、連絡がついたという知らせが入った。両親は、病院へ向かったということだった。
 夜に入って沼津から、血液型O型の人たちが、病院に到着した。総本山からも六人の青年部員が、輸血を申し出て到着した。唱題のなかで輸血が続けられたのである。容体は刻々と悪化しつつあった。
 青年たちは、両親の到着まで、なんとしても生命をもたせようと、唱題に真剣であった。
 午後十一時三十分、両親が病室に駆けつけた。意識は、もはや戻らなかった。両親と青年たちの唱題のなかで、静かに今世の最後の火は燃え尽きた。十八歳の輸送班員・山之内俊彦は、五日午前一時七分、遂に逝ったのである。
 彼は、すがすがしい微笑さえ浮かべているような、安らかな相であった。
14  死去を知らせる電話が理境坊に入った。戸田は、寝ようともせず、姿勢を正して座っていた。
 「駄目だったか。かわいそうなことをしてしまった」
 戸田は、悲痛な面持ちをし、しばし目を閉じて、思索をめぐらしているようであった。そして目を開くと、傍らにいる幹部たちに、鋭い眼差しを向けた。
 「よし、わかった。法に殉じてくれたのだ。山之内俊彦の死は、実に尊い死です。支部葬だ。彼が所属する中野支部の支部葬に決定しよう。さっそく準備にかかりなさい。それにしても、なんという健気で立派な青年だろう。私には、惜しまれてならない」
 断腸の思いが、戸田の五体を駆け巡った。彼は、やや激して言った。
 「山之内の骨は、私の墓に埋めてあげよう」
 そのころの新聞には、冬山登山で、青年たちが遭難したというニュースが、しばしば報じられていた。前年十一月末には、すぐ近くの富士山で登山中に雪崩に遭い、大学生十数人が死亡したのをはじめ、年頭にかけて、青年男女、高校生らの冬山での遭難死が相次いでいた。また、若い男女が自ら命を絶つという心中事件も、紙面をにぎわしていた。
 山之内俊彦の十八歳の死は、これら若者の死とは、全く次元の違う死であったといってよい。救世の唯一の法理を信じ、その仏法の実践者としての尊い死であった。彼は、法に殉じて死んだのである。日蓮大聖人は、法華経の「是人命終、為千仏授手(是の人は命終して、千仏の手を授け)」(法華経六七二ページ)とは、妙法の実践者のことであると仰せである。まさに、その御文通り、仏は瞬時にして、広宣流布の使命を貫き逝いた彼を、抱き取ったにちがいない。
 山本伸一は、総本山から、二日に帰京していて、東京で山之内の死去を知った。彼は、青年部の有志から預かった香典を持参し、八日、山之内の自宅を訪ねた。そして、戸田に代わって遺族を懸命に励ました。
15  山之内俊彦の中野支部葬は、一月九日正午から、池袋の常在寺で営まれた。
 数々の追悼の辞は、彼の人柄と、青年部員としての潔い信心とを物語っていた。入会八カ月の家庭で、彼は、両親と四人の弟妹をかかえていた。当時、父は失業中で、彼の町工場での労働と、母の臨時の働きが、一家の生計を支えていたのである。妹の一人は、重症の心臓弁膜症で病院に入院中であったが、最近、奇跡的に快癒の兆しが現れていた。
 母だけ入会を躊躇していたが、彼は、母には優しい息子であった。母の入会を促すように、寡黙な彼も、しばしば母に話しかけた。
 「お母さん、この苦しい生活を切り抜けるために、みんなで信心しようよ。お母さんも働いてくれるのは、ありがたいけれども、なるべく家にいてください。今は苦しくとも、必ず幸せな生活ができるようになるんだから、お母さんも、ちゃんと信心しようよ」
 この母は、元日の朝、初めて御本尊に向かって唱題した。コタツでそれを見ていた俊彦は、驚きながらも満面に喜びを現して言った。
 「今日のお母さんは、いつもより、ずっと顔色がいいね。御本尊様を拝んだので違うのさ」
 入会後、初めての正月である。彼は、晴れ晴れとして、友人のところを回ってくると言って家を出た。数人の親しい友人を訪ね、夜遅く帰った。それから三日後に事故に遭遇したのである。
 二月二十日、第三週登山会の折に、山之内俊彦の納骨式が、総本山の客殿で営まれた。言うまでもなく、戸田家の墓所へ納骨するためである。この日は、朝から強い風をともなった横なぐりの雨が、容赦なく境内に吹き荒れていた。
16  納骨式は、午前九時から開始されたが、三十分もすると、厚い雨雲を通して、一条の光が差し込んできた。見る見る雲は風に吹き払われ、そのあとに青空が広がったのである。白雪に覆われた富士は、雄大な姿を、くっきりと冬空に現し、梅林の花もほころんでいた。
 弔意を示す黒リボンをつけた第七部隊旗のもとに、遺族、輸送班員、この日の登山者などが客殿を埋めた。輸送担当部隊長、男子部長、青年部長のあいさつのあと、戸田が、親しい人へ呼びかけるように話しだした。
 「昨日、汽車のなかで清原指導部長の質問があって、生命の話をしてきました。仏法で大事なことは、『常楽我浄』ということであります。初期仏教では、『苦・空・無常・無我』ということを立てる。
 大乗教になると、くるっと変わって、『常楽我浄』と立てるのです。『常』は永遠を表し、『我』は我を表し、『楽』は楽しみを表し、『浄』は清らかということです。仏の生命の本質というものは、かくのごときものだというのです。これを四菩薩に配立すると、上行は『我』、無辺行は『常』、安立行は『楽』、浄行は『浄』となる。
 しからば、『我』とは何か。皆さんが生活している時に、『我』『俺』というものがある。この『我』が、死ねばどうなるのか。これが問題です。これがわかれば、一切の生命論の原理がわかる。しかし、わかったからといって、幸福にはなれないのだ。幸福になるためには、どうしても御本尊を拝む以外にないのです」
 聴衆が期待したのは、山之内俊彦の死についての、戸田の痛切な追悼の言葉であったが、彼から、いきなり生命論を説かれて、怪訝な面持ちで見守っていた。戸田は、口をつぐんで、山之内の写真を、じっと見つめていた。そして、重い口を開くように、山之内の死について語り始めた。
 「山之内君は、死んでしまった。この山之内君の生命は、大宇宙のなかに溶け込んでしまって、どこにいるかわからない。いつも話すことだが、ここには、ドイツの電波も、イギリスの電波も、また、アメリカの電波も、中国のもある。あるいはNHKの電波も、ちゃんと存在している。ところが、それらは、負ぶさったり、抱き合ったりしているわけではなく、お互いに、少しも邪魔にならない。それと同じように、死後のあらゆる生命は、宇宙に溶け込んで、ちっとも邪魔にならない。
 『我』は常住だから、山之内君は、肉体も精神もなく、自ら業報を感じながら、宇宙の生命のなかに溶け込んでしまっているんです。それは、あたかも夢のごとき状態といってよい。不幸な状態で死んだ時は、それは、ちょうど犬に追われて逃げようと焦り、今にも追いつかれそうで悶え苦しむといった、悪夢にうなされているようなものです。お題目の力は偉大だ。苦しい業を感ずる生命を、あたかも美しい花園に遊ぶがごとき、安らかな夢の状態に変化させることができるんです。
 山之内君も、唱題の力によって救われ、そして、花園に遊ぶがごとき境涯を感じるようになるんです。これが死後の生命の実態であろう。皆さん、よくよく信心に励んで、生まれた時から健やかで、朗らかで、人生を花園のように思って、暮らすようにしたいものです」
 戸田は、山之内俊彦の事故死を深く悲しんではいたが、その成仏については、夢にも疑うところがなかった。
 彼は「先業の重き今生につきずして未来に地獄の苦を受くべきが今生にかかる重苦に値い候へば地獄の苦みぱつときへて死に候へば人天・三乗・一乗の益をうる事の候」という転重軽受法門の実証にほかならぬことを、心に秘めていたのである。彼は、先業の重かった山之内を悲しんだが、純粋な信仰の実践によって、地獄の苦しみの、ぱっと消えたことを、永遠の生命のうえから確信していた。
 戸田の話によって、陰欝な悲しみは、きれいに払われていた。山之内の好きだった学会歌が、次々と歌われた。「同志の歌」の合唱につつまれて、遺骨は同志の青年にいだかれ、戸田家の墓所へ向かった。遺骨は、山之内の父の手によって墓所に納められ、この日の納骨式を終えたのである。
 墓地は、やがて峻厳な静寂に返った。
17  立宗七百三年――一九五五年(昭和三十年)は、年頭から多事多難を思わせたが、一月下旬、関西で、まことに嫌悪すべき事件が、宗門のなかで起こった。
 後に、「蓮華寺事件」と呼ばれた出来事である。大阪市にある日蓮正宗の蓮華寺が、S住職の名において、これまで創価学会員に下付した御本尊を、すべて、即刻、返還せよと、一月二十七日付で、大阪支部長の春木征一郎に通告してきたのである。ことは御本尊に関する重大問題である。
 戸田城聖は、このころ関西の地にいた。一月二十二日朝、四国の高知地区総会出席のため、飛行機で大阪を発った。そして総会後の懇談会で、地元幹部のほかに四国の各寺の僧侶十一人の出席を得て、忌憚のない意見を交換した。この席には、総本山の細井精道庶務部長も出席していた。総会も懇談会も成功裏に終わり、四国の広宣流布について、僧俗一致の精神のもとに進む体制が整った。
 戸田の一行は、二十二日の深夜、列車で高知を出発した。二十三日の早朝、高松から連絡船に乗り、宇野で再び列車に乗り換え、正午過ぎに大阪に着いた。そして、その足で、午後一時からの、大阪・中之島の中央公会堂で開催される西日本三支部連合総会へ出席した。一万有余の会員は、公会堂に入りきれず、場外にまであふれでいる。急激に躍進し始めた西日本の、大阪、堺、八女の三支部の姿が、ここにあった。
 支部幹事をはじめとする新任幹部の人事と、地区の新編成など、組織の拡大が発表され、躍進の歓喜が公会堂の内外に渦巻いていた。
 三支部長の意気軒昂なあいさつのあと、戸田は絶対的幸福について語った。
 「この裟婆世界が寂光土になって、何をやっても楽しいという境涯になる。それを成仏と言い、これを現代的に言えば絶対的幸福というのである。これは、この信心によって初めて達成されるのだ」
 彼は、集った会員たちの幸せを願って、大いなる激励を惜しまなかった。
 この総会には、四国の時と同じように、関西第八布教区の僧侶が出席していたが、ただ一人、蓮華寺のS住職だけが欠席していたのだ。あらかじめS住職には、地元の幹部から出席を要請していた。また、庶務部長の細井からも、話がいっており、S住職も出席を確約していたのである。
 蓮華寺と創価学会大阪支部との間は、最初から意思の疎通を欠く傾向があり、些細なトラブルも絶えなかったので、戸田は、この際、関西の多くの僧侶も交えて、S住職との懇談の機会をもつことを願っていた。
 しかし、総会後の懇談会にも、S住職は姿を見せなかった。そればかりではない。S住職は、これまでの二回の総会にも招待されていたが、出席することがなかった。
 蓮華寺も、空襲による戦災で焼亡した寺であったが、幸いにして土蔵は災厄を免れ、そこで、御本尊授与などを行っていた。
 小さな土蔵のことである。創価学会の大阪での本尊流布が、急速に進むにつれて、この仮本堂は、あまりにも狭くなった。新入会者を連れて来た紹介者たちは、土蔵の外で待たなければならなくなっていた。雨天の日には、雨傘を差して外で待つのである。
18  戸田城聖は、五四年(同二十九年)夏、蓮華寺を訪問し、今後、増大する大阪の会員のためにも、また蓮華寺のためにも、本堂の再建を申し出、資金も学会の負担において御供養申し上げる赤誠をS住職に披歴した。しかし、S住職は、これを頑として拒否した。創価学会に対する偏見は、彼の日常の所作にも満ちていた。
 宗門僧侶のなかには、S住職のように、創価学会を新参者とみなし、偏見をいだく者が少なくなかった。その新参者が、大阪で活発に活動を開始し、それまでの宗門の惰眠を揺るがしたのである。S住職は、それが面白くなかったのであろう。広宣流布の伸展を喜ぶどころか、逆に、事あるごとに創価学会の行動を批判してやまなかったのだ。
 これらのすべてを知っていた戸田は、総会の折にS住職と懇談することを願った。しかし、その住職だけ姿を見せない。総会後の懇談会の席上、戸田は、遂に覚悟を決めて、多くの僧侶と学会幹部を前にして発言した。
 「現状のままでは、大阪の広宣流布の途上に支障をきたします。至急、大阪に新寺院を建立して、関西大折伏の法城とすることが、緊急事であると思いますが、いかがなものでありましょうか。今後、蓮華寺へは、一切、参持しないことにいたしたいと思います」
 聞き入る人びとは、戸田の決意の固いのを見て、一瞬、驚きの色を浮かべたが、日ごろの住職の言動を知る人びとは、誰一人として、戸田の提案に反対する者はなかった。これは創価学会の蓮華寺との決別宣言であった。
 事件は、意外な方向に進まざるを得なかった。これを伝え聞いたS住職は、一月二十七日、春木大阪支部長に一通の書簡を送ってきたのである。
19  風聞によりますれば参寺厳禁とか。これがもし学会の方針なれば右の如き事は心配御無用に願いたく、従って参寺の学会員各位に対しては、その旨こちらでお伝え致します。然して今後は当寺於ては学会員の紹介による授戒並びに法要は一切致しません。尚本年一月下旬に当寺扱い学会員信徒全部を名簿より削除致します。従って二十七年二月以来三十年一月二十三日迄の御本尊を返納下され度く、二月一日以後は名簿のなき事なれば氏名理由等の記入を略し、御本尊の体数にて御受取り致します。
20  文面は、まさに創価学会との対決を意図した挑戦であった。返納を迫った御本尊は数千体である。
 S住職は、関西の僧侶たちが動かないとみると、関西の各寺院の総代に働きかけた。そして、まだ詳細な事情も知らぬ全国の寺院の僧侶に訴えようと、工作し始めたのである。
 S住職は、彼の一存で御本尊の返却を迫ってしまった。これは宗門の一大事であり、また大阪の会員に与える影響も無視できない。戸田は、受けて立たざるを得なかった。″このような理不尽なことを行う住職を、宗門から追放せよ″と叫ばざるを得なかったのである。
 戸田は、善後策を練り、会長以下五人の連署で、S住職の暴挙を弾劾し、宗門を追放されたしという具申書を、日昇をはじめとする宗門の最高首脳に宛てて、二月五日付で提出した。また、それと同時に、青年部は行動を起こした。青年部は、S住職の悪行を追及し、広宣流布の妨害行為をなすS住職は、師子身中の虫であり、破和合僧の仏敵であると断じて、悪侶の追放を訴える御意見伺書を起草した。
 そして、二月五日、六日の両日にわたって、全国の日蓮正宗寺院のうち七十七カ寺を訪問。この御意見伺書を持って、各寺の僧侶の意見を聴取した。
 残りの三十七カ寺に対しては、十三日までに意見聴取をことごとく終了した。
 これは全国的な規模で行われ、北は北海道から、南は九州まで、一カ寺も余すところなく訪ねて、S住職の策動を封じ、創価学会の広宣流布への情熱と主張の正当さを証明したのである。
21  一九五二年(昭和二十七年)笠原慈行事件の時とは異なり、ほとんどすべての僧侶が、僧俗一体の見地から積極的な協力の姿勢を示したことは、創価学会の存在と活動が、宗門のなかで正しく理解されつつあることの何よりの証拠であった。
 関西第八布教区の九カ寺の僧侶は、二月二十一日、全国の寺院へ檄文を飛ばし、S住職の御本尊返納請求の取り消しと、蓮華寺住職の辞職を勧告する旨を連署で発表するにいたった。また総本山宗務院は、S住職の返納請求は不当であるから、返納するに及ばずとの通達を、二月十六日、戸田城聖に対して行った。
 しかし、S住職は、これら一切を無視しただけでなく、さらに蓮華寺信徒有志の名で文書を再三発行し、反創価学会の蠢動を始めた。悪宣伝によって大阪支部の会員に働きかけ、何人かを創価学会から離脱させて、蓮華寺講中の信徒とした。そして、常住御本尊下付などの誘惑手段をもって、さらに、その手を伸ばし始めた。総本山宗務院は、蓮華寺に対し、常住御本尊の下付を当分差し止めるとの通達を発した。
 また、S住職の手先となり、策動にのって活動する学会員十一人を、創価学会は、二月十日、除名処分にした。幸いにして全国の寺院の僧侶は、創価学会の正義を認識し、各地で蓮華寺弾劾の峰火を上げた。笠原慈行にいたっては、岐阜から老躯をさげて、歩行の困難ななかを大阪に出向き、S住職追放の先陣に立ったのである。
 蓮華寺の不法、暴挙は、日を追って鮮明に浮かび上がった。三月上旬、総本山宗務院は、S住職に対して位一級を下げ、滋賀県の妙静寺への転任を発令した。
 しかし、S住職には、いささかも反省の色はなく、辞令を総本山へつき返した。そして、蓮華寺檀信徒有志の名で、全国の寺院の僧侶、並びに信徒に向け、事実を歪曲した内容のパンフレットを発送し、あくまでも抗争の姿勢を崩さず、わめき続けた。
 こうした間に、戸田城聖は、一月二十三日の西日本三支部連合総会の折に発表した大阪の新寺院建立に、懸命の努力を払っていた。彼は、市内のさる旅館を買い取って、改築に突貫工事を命じ、改築を急がせた。
 四月十一日は、浄妙寺と命名された新寺院の落慶入仏式となった。総本山から法主の日昇をはじめ、関係僧侶の出席があり、戸田会長をはじめ、春木大阪支部長以下、地元幹部が喜々として参集。午後一時から式典は盛大に挙行されたのである。
 蓮華寺問題が、依然としてくすぶり続けるなかに、戸田の大阪市在住の会員に対する配慮は急速に実を結んだのである。関西の会員にとっては、蓮華寺は、もはや問題ではなくなってきた。
 S住職のあがきだけが残った。そして、そのあがきは、広宣流布の大道から離脱し、彼の慢心は、やがて自らを滅ぼす道を直進することになったのである。
22  こうした煩雑な多事が西日本で続いている時、北日本の雪の北海道でも、同時に思いがけない事件が突発していた。小樽での広宣流布の活動の最先端で、身延系日蓮宗の僧侶と激突したのである。
 そして、いずれの宗団が日蓮仏法の正統を継いでいるのかを問う大法論にまで進展し、急転直下、創価学会の正義が公開の場で立証されていくのであった。
 戸田城聖は、敏速果敢な行動力を発揮し、東奔西走の忙しい日々を迎えなければならなかった。
 五五年(同三十年)の年が明けて、創価学会は、まさに多事多難の波瀾に、勇んで挑戦したわけである。戸田の晩年の活動は、このころから、ようやく社会の無理解との対決の様相を、色濃く帯びてきたといってよい。
 (第八巻終了)

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