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日蓮大聖人・池田大作

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小説「人間革命」7-8巻 (池田大作全集第147巻)

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1  一九五四年(昭和二十九年)三月、思いがけない事件が、日本国民の上に降りかかった。
 事件の発端は、三月一日、北太平洋上に浮かぶビキニ環礁で行われたアメリカの水爆実験である。
 実験は、珊瑚礁の上に建てられた高さ百五十メートルの鉄塔の上で、水爆を爆発させたものであった。爆発の衝撃で、この島に直径約一・八キロメートル、深さ約七十メートルの大穴が開いた。五十万トンと推定される莫大な量の珊瑚が、粉末となって空高く吹き飛ばされたのである。
 この水爆の爆発力は、TNT火薬に換算して千五百万トン(十五メガトン)の威力をもつと推定された。四五年(同二十年)の終戦直前、広島、長崎に落とされた原子爆弾の威力が、十五から二十キロトン(〇.〇一五〜〇.〇二メガトン)相当のものであったとされていることを考えると、ビキニの水爆実験の規模が、どれほど大きなものであったか想像されよう。一発の水爆の破壊力は、なんと、第二次世界大戦に消費された全火力の二倍にも三倍にも相当するという。この一事からも、水爆の威力が、いかに恐るべきものであったかは明瞭である。
 それまでに原水爆の実験が、なかったというのではない。四五年(同二十年)七月、アメリカでの最初の原爆実験が行われて以来、ソ連、アメリカは、原水爆実験を繰り返し、イギリスも、オーストラリアで原爆実験を行っていた。
2  しかし、ビキニでの、この水爆実験が、日本の人びとに異常な恐怖を与えたのは、この日、一隻の日本のマグロ漁船が、被曝したためである。漁船は、第五福竜丸という一四〇トンの小型木船で、乗組員は二十三人であった。
 ミッドウェー海域で操業してから南下し、マーシャル諸島海域へ向かった。この海域で幾度かの操業のあと三月一日未明、最後の操業のための作業を終えた乗組員の多くは、仮眠をとるために船内のベッドで横になっていた。
 この時、第五福竜丸は、ビキニ環礁の東方約百六十キロのところでエンジンを停止し、静かな波に揺られていた。アメリカ原子力委員会が指定した、広い航行禁止区域の境界から、離れた地点である。
 現地時間の午前六時四十五分、船員たちは、空に異様な光を認めた。広い大洋の真っただ中である。辺り一面が明るくなり、船は不気味な光に包まれた。水平線に巨大な火の玉が見えた。
 一月二十二日に静岡県の焼津港を出港した第五福竜丸は、そして、七、八分過ぎたころ、すさまじい轟音が海面一帯に轟き、船体が大きく揺れた。
 異常事態である。船は急いで延縄はえなわの巻き揚げにかかった。
 西の空に黒い雲が空高く広がっているのが見えた。この日、空はよく晴れていたが、その雲が徐々に広がり、しばらくすると、船の上空も覆ってしまった。辺りは薄暗くなり、急に天候が悪化して強い風が吹き、雨も降り始めた。吹きつける雨には、白い粉が混じっていた。
 雨が止んでも白い粉は降り続いた。数時間かかった揚げ縄の作業中も、船に降り注ぎ、甲板の上も白くなった。
 作業を終えた第五福竜丸は、焼津港に向かった。しかし、白い粉が降下する地帯から脱出するのに、さらに数時間を要したのである。
 その日の夕方から、乗組員は体に異常を感じ始めた。多くの人が、食欲がなくなっていた。やがて頭痛を訴えたり、めまいや吐き気を催す人が続出した。頭髪が簡単に抜ける人もいた。
 第五福竜丸は、このような乗組員二十三人を乗せて、三月十四日朝、母港である焼津港に着いたのである。乗組員は、帰港の喜びのなかで、そろって疲労を訴え、日焼けとは違った、異様に黒ずんだ顔をしていた。首筋や、手などが、赤く腫れ上がっている人もいる。歯ぐきからの出血もあった。
 その日は、日曜日で、病院は休みだったが、船主に勧められ、乗組員全員が地元の病院に向かった。
 彼らを診断した当直の医師は、広島、長崎の原爆の被爆者と同様な症状が現れているのを見て、″あるいは?″と疑問をもった。ビキニ海域で水爆実験が行われたというニュースを思い出したからである。そして、特に悪化している二人の船員を、東大付属病院に紹介することにした。二人は、翌十五日、東大病院第一外科を訪れ、診察を受けた。
 その結果、一人は即日入院、他の一人は入院準備のために、いったん焼津に帰ったが、翌十六日に入院した。二人の体は、放射性物質にひどく汚染されていることが判明したのである。
3  この日、三月十六日付の「読売新聞」朝刊で、第五福竜丸の乗組員の被曝が大きく報道された。
 「邦人漁夫、ビキニ原爆実験に遭遇」
 「二十三名が原子病 一名は東大で重症と診断」
 国民は、寝耳に水の衝撃を受けたといってよい。遠い彼方の大洋での水爆実験が、他人事ではなく、九年前の広島、長崎の被爆経験を思い起こさせたのであった。核戦争の恐怖を感じていた国民は、大洋上での実験においてさえも、日常の被害を免れないことを知った。暗澹たる思いは、被爆国日本の国民の心に、瞬く間に広がったのである。
 第五福竜丸をガイガー計数管で調査すると、数十メートル離れた場所で、計器は、けたたましく鳴った。船体が放射能で強く汚染されていることは明らかであった。そればかりではない。船体が放射能に汚染されているということは、水揚げした魚も汚染されているということである。焼津港から出荷された魚類を、東京、大阪、金沢などで追跡調査すると、第五福竜丸以外の漁船から水揚げされた魚からも、次々に汚染魚が発見された。高い放射能は、体表のウロコの部分から検出された。
 全国の魚市場は、マグロを忌避し、全国の寿司店は恐慌に陥った。回収された焼津のマグロは、砂浜などに埋められた。
 ビキニ環礁の水爆実験に対する日本国民の憤激は、日を追って高まった。放射能の災害が足もとまで押し寄せてきたのである。核戦争を恐れて反戦の旗印を掲げていた人びとは、戦争がなくても、核実験の反覆が、今や地球上の人類の生存を脅かしていることを知らなければならなかった。被爆国民の神経は、極度に緊張したのである。
 第五福竜丸乗組員を治療するために医師団が結成され、三月二十八日には、これら急性放射能症の患者すべてを、東大付属病院と国立東京第一病院に収容した。
 厚生省公衆衛生局は、太平洋岸の塩釜、東京、三崎、清水、焼津の五つの港を指定し、南方海域から帰港する船は、この指定漁港で水揚げするように指示した。そして、水揚げされた魚の放射能検査を実施したのである。厚生省の調査では、これらの指定漁港で、一九五四年(昭和二十九年)十一月までに、廃棄魚を出した漁船は三百十二隻、その他の漁港で発見されたもの三百七十一隻、計六百八十三隻に達し、廃棄された魚は、四百五十七トンを数えている。魚の価格は暴落し続け、水産業界や飲食業界は大打撃を受けた。
 魚の放射能は、当初、体の表面から検知されるだけであったが、四月中旬ごろになると、内臓から高い放射能が検知されるようになった。また、汚染魚が捕れる海域も、赤道付近から北上して日本近海にまで広がったのである。最終的に、汚染魚は北緯四〇度以北、南緯二〇度以南でも発見された。放射性物質は、太平洋の西半分を汚したのである。
 海ばかりではなかった。空に撒かれた放射能灰は、対流圏ばかりでなく、数十キロ上空の成層圏にまで及んで、地球上の空を汚染し始めていることが判明した。
4  実験当事国アメリカは、この事態に対して、その影響を過小評価するような説明に終始していた。
 三月末、ストローズ米原子力委員会委員長は次のような声明を出している。
 「実験の結果、マグロ、その他の魚類が広範囲に汚染されたという報告に関しては、その事実は確認されていない」「実験区域に降下したいかなる放射能も、毎時一マイル以下でゆっくりと流れているこの海流にのったのち、数マイル以内に無害となるであろうし、また、五〇〇マイルたらず以内には完全に検出できなくなるであろう」
 また、日米関係の悪化を憂慮した日本政府も、アメリカ側に立った対応をしたのである。
 三月二十五日の衆議院厚生委員会で、外務大臣の岡崎勝男は、次のように答弁している。
 「日本とアメリカとは安全保障条約締結等特殊の親善関係にあります」「われわれはできるだけアメリカのそういう実験等には協力をいたしたいと考えております」
 また、四月九日に行われた日米協会の集まりで、岡崎大臣は、あいさつのなかで次のように述べている。
 「われわれは米国に対し原爆実験を中止するよう要求するつもりはない。それはわれわれが、この実験が米国のみならず、われわれもその一員である自由諸国の安全保障にとり必要なことを知っているからである。こうした立場からわれわれはこの実験の成功を確保するため他の自由諸国と協力するであろう」
 アメリカでは、「船員スパイ説」や、「灰はソビエトが持ち帰った」などの流言が飛んだりした。
 東西冷戦の時代である。西側陣営に立つ選択をした日本は、共産主義の防波堤として再軍備への道を要請されていた。五〇年(同二十五年)に発足した警察予備隊は、五二年(同二十七年)に保安隊に改変された。さらに、五四年(同二十九年)三月に結ばれた日米相互防衛援助協定によって、「自国の防衛能力の増強」の義務を負うことになった日本は、この年の七月一日に、防衛庁と自衛隊を発足させることになっていた。
 こうした状況のなかで起きた第五福竜丸事件は、人びとに危機感をもたせた。原水爆に対する反対運動が湧き起こっていった。
 第五福竜丸の母港である焼津市では、市議会が、三月二十七日、原子力を兵器として使用することの禁止と、平和的利用を要求する決議を行っている。
 これを契機として、全国の地方議会は、連鎖反応のように次々と原水爆禁止決議をした。
 東京の一角・杉並区では、原水爆禁止運動の烽火のろしが上がった。区民の有志が、当時、杉並公民館長であった安井郁と話し合い、禁止運動を始めたのである。
 五月九日、水爆禁止署名運動杉並協議会を結成し、「杉並アピール」として、後に有名になった声明を広く訴えた。
5  「全日本国民の署名運動で水爆禁止を全世界に訴えましょう
 広島長崎の悲劇についで、こんどのビキニ事件により、私たち日本国民は三たびまで原水爆のひどい被害をうけました。死の灰をかぶった漁夫たちは世にもおそろしい原子病におかされ、魚類関係の多数の業者は生活を脅かされて苦しんでいます。魚類を大切な栄養のもととしている一般国民の不安も、まことに深刻なものがあります。
 水爆の実験だけでもこのような有様ですから、原子戦争がおこった場合のおそろしさは想像にあまりあります。たった四発の水爆が落されただけでも、日本全国は焦土となるということです。アインシユタイン博士をはじめ世界の科学者たちは、原子戦争によって人類は滅びると警告しています」
 この平明な文章のアピールは、全国各地の禁止決議と同時に起こった署名運動が、自然発生的で個別なものであることを指摘し、これを全国的に統合することを訴えて、次のように続けている。
 「杉並区では区民を代表する区議会が四月十七日に水爆禁止を決議しました。これに続いて杉並区を中心に水爆禁止の署名運動をおこし、これをさらに全国民の署名運動にまで発展させましょう。そしてこの署名にはっきりと示された全国民の決意にもとづいて、水爆そのほか一切の原子兵器の製造・使用・実験の禁止を全世界に訴えましょう。
 この署名運動は特定の党派の運動ではなく、あらゆる立場の人々をむすぶ全国民の運動であります。またこの署名運動によって私たちが訴える相手は、特定の国家ではなく、全世界のすべての国家の政府および国民と、国際連合そのほかの国際機関、および国際会議であります。
 このような全日本国民の署名運動で水爆禁止を真剣に訴えるとき、私たちの声は全世界の人々の良心をゆりうごかし、人類の生命と幸福を守る方向へ一歩を進めることができると信じます。
   一九五四年五月
        水爆禁止署名運動杉並協議会」
6  この「杉並アピール」は、庶民の声である。当のアメリカ政府は、責任を回避しようとし、日本政府は、それに追随して一言の抗議すら発しない時、国民の憤激は、国家や政治体制を超え、人間としての原点からの叫びとならざるを得なかった。その叫びは、署名運動という行動となっていったのである。
 この間も、ビキニでの水爆実験は繰り返され、五月十四日までに五回の実験が行われた。
 この十四日には、雨水から異常に高い数値の放射能が検出され、以後、日本列島に放射能雨が降り続けることになるのである。
 原水爆禁止の声は、杉並区であがっただけではなく、全国各地で湧き起こっていた。その声は、原水爆の危機を人類滅亡の暗雲として感ずる、すべての人びとの胸に響き渡り、署名運動は、全国の各市町村で燎原の火となって燃え広がった。
 八月八日には、原水爆禁止署名運動全国協議会が結成され、署名数は、四百四十九万と発表された。
 九月二十三日には、第五福竜丸の無線長であった、久保山愛吉が遂に死亡した。水爆実験による犠牲者である。船員たちの受けた放射線量が、いかに危険な量であったかが証明されたわけである。世界が、このままの状態で進むならば、人類は絶滅の危機に直面することを、人びとは自覚した。
 署名運動は、十月初めには千二百万を超え、十二月には二千万に達し、年を越すと運動は海を渡った。
 一九五五年(昭和三十年)八月六日には、広島で第一回原水爆禁止世界大会が開催された。十年前の原爆投下のその日である。このころには、国内の署名数は三千二百万を超え、全世界では六億七千万に達した。
 署名した人びとは、人類という共通の場から、この事件を考えることを学んだ。そして、人間社会の中の、地球を破滅に導く悪魔の爪の存在を、強く意識せざるを得なかった。
 その爪は、どこにあるのでもない。実に人間の心に隠されて存在するのだ。原爆そのものを生み出した科学や政治だけでは、それを抑止できないことは自明であった。
 二大国間における核爆弾製造の、すさまじい競争にもかかわらず、今日まで、どうやら第二の広島や長崎が、幸いにして地球上に現れないのは、平和を希求する全世界の人びとの良心が、悪魔の爪をやっと抑えているからであろう。
 マグロから雨にまで、放射能が発見される地球にしてしまったことを、人びとは、もはや一瞬も忘れることはできなくなってきた。原水爆について、人びとが健忘症に陥ったその時、人類は自殺への道を急ぐことになるだろう。恐るべき運命を、人類は、いつか握ってしまったのだ。この宿命を根本的に転換し得るものは、いったい何か。
 それは、万人の生命の尊厳性を、完壁に説ききった平和思想しかないであろう。そのような絶対の平和思想を、全人類のなかに生み育てる精神の大地を、どこに求めたらよいのか――誰一人、確信をもって明言できる人は、いないのが現状である。
7  原水爆の暗雲が、そのまま人類の前途を塞ぐ暗雲でなければ幸いである。この暗雲のもとで、戸田城聖は、ただ一人、彼の信奉する日蓮大聖人の仏法こそ、絶対平和思想を育てる哲理であることを、固く信じていた。
 彼は、原水爆禁止の署名運動の展開を眼前にして、そこに、時代の民衆の自覚と動向を見た。
 戸田は、ひとまず、それをよしとしたが、世界的に広がった署名運動の成功だけで、核の廃絶という本来の目的が、達せられるものとは考えなかった。彼は、仏法の説く生命の原理によって、移ろいやすい人間の心というものを知悉していた。原水爆禁止を叫ぶ正義の心も、いつまた、いかなる縁によって、その正反対の行動に展開するかもしれない。過去の歴史には、そうした多くの事件が刻まれている。彼は、それらの歴史的事実を、心に鋭い痛みを感じながら思い出していたのだ。
 人間は、自分の心を自由にすることができると錯覚しているが、いざ事に当たってみると、決して自由にはできないのが常である。その心の奥にあるものこそ、生命の働きなのだが、人は、これに気づかないのである。
 戸田城聖の思索は、常に具体的であった。
 ――彼は、人びとの心の奥には、平和を希求する生命が、本然的に内在するものと考えた。それを仏の生命というならば、その生命状態を発現させるものは、日蓮大聖人の仏法の実践にかかっているはずである。
 彼が現代に生きて、生涯を賭して把握した日蓮大聖人の仏法の真髄は、このためにこそ実在しているのだ。人びとの移ろいやすい心、神にもなり、また悪魔にもなり得る心を、平和建設の光源となる、揺るぎない心に育てるには、生命そのものを変革する以外にないではないか。
 彼は、彼自身の今日に至る宗教活動の実践を、広宣流布の戦いとして口に叫んできたが、その目的とするところは、すべての人びとの生命の変革による、全人類の恒久平和の実現にほかならなかった。
 夜ごとの座談会、教学の講義、辛抱強い真実の仏法に関する啓発運動―これらは地味な活動ではあるが、署名運動より、はるかに根気と、忍耐と、研鑽と、努力とを必要とする。しかし、彼は、それこそが、遠回りのように見えようが、最も根源的で着実な生命変革の運動であると確信し、胸中深く誇りと自信とをいだいていた。
 そして、これらの活動こそ、一人ひとりの民衆を救うと同時に、一国の宿命を転換し、やがては人類の宿命の転換さえも可能にする、現代における唯一最高の運動であると自覚していた。その運動によって、根本的な平和を構築することに、彼は全生涯をかけていたのである。
8  たび重なる戦争に懲りた人びとは、戦争を惹起させる根源が、いったいどこにあるか、やっと気づいたようである。たとえば、ユネスコ憲章の前文に、「戦争は人の心の中で生れるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない」と、うたい上げるところまできた。
 しかし、では、何をもって、移ろいやすい人間の心に、平和の砦を築くことができるかを語ってはいない。
 現代において、人間がいちばん無知であるのは、どうやら自分の心に関してであるといって差し支えないのではないか。人びとは、戦争が悪であることを認めてはいるが、なお地球上では、局地限定戦争などという名目で戦争は続いている。しかも来るべき大戦争に怯えながら、地球を破壊し尽くして余りある軍備増強を、せっせと行っている。そして、″戦争は人の心から起こる″と言いながら、その心をいかにすべきかは、全く不問に付している。
 戸田城聖は、現代の人びとが不問に付していることに挑戦して、一人ひとりの心に、崩れざる平和の砦を構築していることに深い確信をいだいて、日夜、実践してきたことを、しきりに思い浮かべていた。
 彼は、原水爆禁止の署名運動が、世界的規模で波及していくのを見ながら、彼の独創的な広宣流布の運動も、いつの日にか、世界的規模で確固として進展していくであろうことを、まざまざと思い描いていた。
 ″署名運動は、平和勢力の強大なデモンストレーションとはなり得ようが、人びとの生命の状態を、根本的に変革するにはいたるまい。また、戦前のように、これに反対する勢力が台頭する恐れもあり得よう。それは、人類の歴史に刻まれた傷痕の数々を見れば、明らかなことのように思われる。してみれば、現代の平和は、実に危ういところにある……″
 こう洞察した戸田は、月々の創価学会の活動に、いよいよ全力をす注いだ。彼の不動の確信には、救世の誠が燃えていたのである。
9  この一九五四年(昭和二十九年)の夏季地方指導は、全国主要二十都市で行われ、一年前、二年前の規模をはるかに拡大して、二百五十人に上る人員が投入された。
 八月三十一日の本部幹部会の成果報告は、一万二千七百七十一世帯と、月間一万世帯を初めて超えたのである。この年の七月現在の全世帯数が、十二万余であるところからすると、わずか一カ月で一割以上の折伏成果を上げたことになる。驚くべき救世のエネルギーが爆発してきたと見てよい。
 戸田は、八月五日から二十日にかけて、九州から北海道に至るまでの拠点を飛び回った。ことに、北海道では、函館、小樽、旭川、岩見沢、札幌と、自ら陣頭に立って転戦した。その間隙を縫って、山本伸一を伴い、彼の故郷である、石狩の厚田村にも行った。
 彼は、郷愁に浸りながら、石狩鍋などをつつき、未来への大きな使命に生きる、今日の彼自身を振り返り、不思議な思いで北海の荒海を眺めるのであった。北海道は、既に秋の気配が濃かった。
 九月に入ると、四日、五日の土、日の両日にわたる水滸会の第一回野外研修が待っていた。この日程は、七月ごろには決定していた。「例月の水滸会のような、狭苦しい部屋の中での会合をやめ、たまには自然の懐にいだかれて、浩然の気を養う伸び伸びした会合を行つてはどうか」と発議したのは戸田である。
 八月の夏季地方指導を終えたら、そのような楽しい日を迎えようと、青年たちは張り切った。
 候補地は、二、三あった。「最後の決定は、皆の希望に任せるから」と、戸田はすべてを一任した。やがて奥多摩の氷川のキャンプ場が選定され、四日、五日の両日を契約したのである。
 六十数人の水滸会員は、四日午後二時に信濃町の本部に集合した。全員が二台のバスに分乗して出発したのは、三時であった。
 第一号車には、戸田城聖が乗っていた。初めての野外研修である。誰もが、浮き浮きとして活気にあふれ、きびきびと敏捷に振る舞った。このような青年たちに囲まれて、戸田も、いつにも増して機嫌がよく、常に微笑を含みながら、鋭い冗談を飛ばしていく。戸田が、口を開くたびに、青年たちは、どっと歓声をあげた。
 バスは、新宿を抜けて、甲州街道を走り続けた。そして八王子、拝島、青梅と通過して、御獄、鳩ノ巣の山間部に入り、氷川に到着したのは夕刻六時であった。
 街道から渓谷への道を下りると、途中、平坦な広場がある。片隅に事務所や売店が、ひっそりと並んでいた。バスは、ここに停車した。
 浅い渓流に沿って、傾斜地に相当な樹齢と思われる杉林があった。その林のなかに、簡便なバンガローが、鳩の小屋のように、思いのまま点在している。河原にも、数カ所にテントが張られていた。
 一行は点呼を行い、テント、バンガローの割当をした。
 先発していた炊事班は、林のなかの炊事場で、大きな釜を使って豚汁などをつくっている。味噌汁の匂いが、林から谷聞に流れていた。
 午後七時に、河原に集合の連絡が流れ、全員、各自のバンガローやテントから飛び出した。河原には、キャンプファイヤーの薪が組み上げられていた。
 薪に点火された。さっそく、それぞれの飯盒に、熱い豚汁がつぎ分けられ、缶詰が配られていった。キャンプファイアーを囲む円陣は、旺盛な食欲で、にわかに賑やかになった。炎に照らされた顔と顔とが、燃え盛る火を挟んで相対した。谷底は、いつしか、すっぽりと闇に包まれている。
 楽しい食事のさざめきが、豚汁の湯気の温かさにのって辺りに流れた。空腹が収まると、青年たちは饒舌になっていく。思い思いに笑ったり、肩を叩き合ったり、元気な顔が炎に映えて闇に浮かんだ。
10  しばらくすると、山本伸一が立ち上がった。話し声がぴたりとやんだ。
 伸一は、張りのある声で、「今度の水滸会の野外研修は戸田先生の発意であり、われわれ弟子に対し、自然の懐のなかで浩然の気を十分に養ってほしいというのが、先生の心であります。このような師の慈愛につつまれている自分たちの存在を思うと、今さらのように、幸せを痛感するものであります」と言ってから、一同を見渡した。
 「それで先生は、今日は、なんでも聞いてあげようと、おっしゃっています。聞きたいことのある人は、質問してください」
 伸一が、言い終わるか終わらないうちに、手が各所にあがる。指名された青年は、立ち上がった。
 「先生は、青年時代、どんなふうに勉強なさったか、それを教えてください」
 「ぼくの勉強のことか。大した勉強もしなかったが、ぼくの体験からいって、勉強というものは、どんな境遇にいても、しようと思えばできるものだということを、まず言っておこう。
 小学校の時には、いろんな本を読んだが、ニシン捕りなども、ずいぶん手伝った。図画と描き方が丙で、あとは全部甲だった」
 円陣に、どっと哄笑が湧いた。「丙」が面白かったにちがいない。
 虚飾のない赤裸々な戸田の話は、いつ聞いても楽しく、彼の閲歴えつれきを知ることは、青年たちにとって尽きない魅力があった。
 「昔の小学校は、高等科二年まであって、十四の年に卒業した。今の中学二年です。それから小僧奉公をした。すると急に勉強したくなって、まあ、二宮尊徳をまねて、仕事をしながら勉強したわけだ。朝は、人より早く起きて六時から七時まで勉強、それから仕事が始まるわけだが、昼間、働くばかりでなく、夜も、七時から十時まで働かされた。それで、また十時から十一時までが勉強の時間だ。
 こんな状態が三年続いて、十七歳の時、準教員の資格試験を受けて通った。それで十八歳の六月に代用教員となり、夕張の真谷地ま や ち尋常小学校に勤めた。
 月給は十六円。夏に正教員の養成講習を受けた。その時の資格試験では、数学などは百点でよかったが、悪い課目もあって資格を取れなかった。そこで、十月に、再度、試験を受けた。今度は、北海道で一番の成績で合格した。
 十九歳だったか、二十歳になっていたか、ともかく一切を捨てて東京に出た。牧口先生の同窓生の紹介状をもらって、牧口先生を訪ねた。この同窓生は、同窓会で先生を見かけるだけで、話もしたことがないという心細さだったが、それだけに私は緊張していた。その折、私は教授法にかけては抜群で、絶対の自信があると、大見得を切ってしまった。すると牧口先生は、じっと私を見ていたが、『君は、うまくいけば、すばらしい人物になるが、悪くすると、とんでもない人間になる』と言われた……」
 またも、どっと咲笑が湧いた。
 むやみと楽しいのである。まさしく青年らしい、健康な心情そのものなのである。
 闇のなかで、キャンプファイアーがパチパチとぜて火花が散り、勢いを増した炎の反射で、どの顔も赤かった。
 瀬音は、夜の闇のなかで、高い音をたてているはずであったが、青年たちの耳には、入らなかった。
 「その後、牧口先生が校長をしている学校に勤めさせてもらったわけだが、同時に、夜学の私立開成予備学校に編入して通った。同級に、今の細井尊師や、弁護士で代議士もやった小沢がいたんです。英語は、この時、初めて習うという始末だった。それで、電車の中でも英語の勉強を続けた。わからないところにぶつかると、電車の中にいる一高生や慶大生をつかまえて、平気で教えてもらった。
 数学は好きだったので、研数学館という予備校へ、よく通った。といっても、授業料を払っていないので、つまりモグリだった。難問題をかかえると、授業の終わるころを狙って教室に入った。そして、泥鰌どじょうヒゲの先生に質問する。人のいい親切な先生で、丁重に教えてくれ、すっかり顔なじみになってしまった。先生が、ぼくのことを、最後まで研数学館の学生と思い込んでいたことは確かだね」
 青年たちのなかには、痛快だと言わんばかりに手を叩く者もいた。
11  戸田は、磊落に笑いながら話していたが、勉強というものは、心底から真剣にしようと思えば、どんな境遇にいようとも、できるものだということを、彼の経験を通して教えたかったのである。
 「牧口先生が、学校を急に追われた時、ぼくは、すぐ先生の家に駆けつけた。無茶な当局に憤慨したな。それでぼくも、先生と行動を共にして学校を辞めたんだが、それからしばらくして、時習学館を経営するようになった。二十三歳の時だ。ようやく時間の余裕もできたので、中央大学に通った。
 こんなような方法で、三十一歳までに、あらゆることを学んだ。ぼくの勉強は、電車の中や、人を待つ間、乗り物を待つ間、また、授業の休み時間といった、わずかな時間を惜しんでやった。枕元には、いつも本を置いていたことは言うまでもない。
 こうして勉強した法律、経済、数学、物理、化学などの各参考書は、畳半畳に山と積むほどになった。事業を始める時、これを売り払ったが、当時の金で七十円だったことを覚えている。ところが、さて事業に入ってみると、それまでやった学問が、なんの役にも立たないように思われて仕方がなかった。
 出版の方の仕事が始まった時には、あらゆる小説という小説を、せっせと読んだ。商売上、いろいろな作家と付き合ったが、新進の連中に、さまざまの知恵を貸したことは数限りない。だから、今でも連中は、ぼくに会うと、とても懐かしがるし、彼らとは親しく付き合っているよ。
 諸君は、昼は仕事で、夜は学会活動で、勉強する暇などないと思っているだろうが、それは本気で勉強する気がないからです。もし本気だったら、毎日二時間もあれば、どんな勉強でもできるはずだ。その二時間がないというだろうが、電車に乗っている時間だって、利用できないことはない。周りがうるさいなどと愚痴を言っているうちは、まだ本気だとはいえない。境遇を嘆いたり、時間や金のないのを口実にして怠けているうちに、黄金の青年時代は過ぎ去ってしまう。
 まず、境遇に勝つことだ。ぼくは、今、言った方法でやって、目的を達した。人生は勝負だよ。まず自分に勝てばよいのだ。諸君は、諸君の身についた方法で、勝てばよいのです」
 青年たちは、いつしか静まり返って、じっと耳を澄ましていた。
 戸田も、しばらく口を閉じている。にわかに瀬音が、彼らの頭の中を清冽に洗うように響いてきた。
12  青年たちは、日ごろの怠慢を指摘されたように、心に恥じたことであろう。
 戸田は、ふと気がついたように言いだした。
 「ぼくが大聖人の仏法に帰依したのは、一通りの勉強を終えたあとのことです。ところが、ここに不思議なことが起きた。あれほど一生懸命に頭に入れた学問も、なんの役にも立たず死んでいると思っていたが、今、考えると、それが全部生きていたことだ。この経験のなかに、恐ろしいまでの真実があった。つまり、仏法を根本にすれば、すべてが生かされるということだ。
 確かに、『活の法門』です。いろいろ学問した人が、その学問を死なせたまま一生を送ってしまうのは、世間にはざらにあることだが、ぼくの場合、死んだと思い込んでいたものが、いつか、全部、生きて役に立っていた。これは、この信心によらなければできないことだ。思えば、すごい功徳だった。
 諸君の、これまでの勉強も、今、している勉強も、みんな立派に生きる時が必ず来る。だから、青年時代には苦労しながら、時間を惜しんで、せっせと勉強はしなさいと言うんです。
 しかし、なんといっても根本に仏法があることほど、強いものはない。今、ぼくは、文科系の学問や、数学、物理などの自然科学なら、三カ月の余裕があれば、君たちが専門としているものでも、得意としているものでも、絶対に負けないぞ。ひとつ勝負するか。ハッハッハッ……。
 どんな学問でも、ぼくには、その学問の根本がすぐわかる。だから勉強さえすれば、すぐマスターして、誰にも負けないだけの自信がある。だが、細かい機械だけはダメだな。目が悪いからね」
 戸田の話は、誰に対しても率直で、無駄がない。聞く人の耳には、素直に入った。素直に入ったものは、青年たちの心を動かしていく。彼らは、どんなことでもいい、身につく勉強なら寸暇を惜しむまいと思った。
13  次の質問に移った。
 最近、ますます父親と意見が合わなくて困っている、という青年の質問である。青年は、いかにも父親が時代遅れで、けしからんと言うような口ぶりである。
 「親子喧嘩か。感心しないな」
 戸田は、笑いながら青年を見た。
 「親父と意見が合うなどということは、どだい無理なことだよ。とにかく世代が違っているのだから、話が合うはずがない。その親父と夢中になって議論するなど、全く無駄なことだし、また損なことだ。それより、親父の愚痴を聞いてやる方が、どんなに価値的かわからない。青年たるものは、そのくらいの心の広さと、度量をもたなければいかん。親と口論しているようでは、私の弟子とはいえないな。少なくとも、賢い水滸会員の態度とはいえないだろう」
 戸田は、素っ気ない結論を出したが、ふと思い返したように青年に呼びかけた。
 「親父と議論したというが、それは君の結婚の問題か?」
 「そう、なんです」
 青年は、図星を突かれて、びっくりして答えた。胸中を余すところなく見透かしたような、戸田の突然の指摘に、青年は顔を赤らめた。
 戸田は、しばらく口をつぐんでいたが、何もかも察しているように静かに、その青年に語りかけた。
 「君たちのうちの大部分の人は、いずれ結婚という問題にぶつかるだろうが、決して女性に迷つてはいかん。好きか、嫌いかだけを判断の基準にしていたら、必ず過つものです。好きという感覚も、時がたち、別の縁に触れれば、たちまち嫌いということになる。こんな当てにならない基準はない。君たちは、女性なるもののすべてを知つてはいまい。そのために、とんだ見当違いをすることがある。だから、先輩の助言を参考にする必要がある。
 子の幸福を願わない親はない。君は、女性と結婚の約束をしてしまったので、それに反対する親父さんと、喧嘩になったのとは違うかね」
 「……そうです」
 「親父さんの意見も、謙虚に聞きなさい。そのような度量をもてというのだ。その度量なくして、なんで、これからの君の妻や子を包容できますか。
 ともかく、焦った結婚にろくなことはない。結婚というのは一生の問題だ。一時の恋愛感情だけで突き進んでいけば、先行きが見えなくなり、危険がひそんでいるんです。理性の判断に耐え得る感情であることが大事です。
 君も水滸会の一員である以上、師子王の子として、偉大なる使命を、大聖人様から授かっているといえよう。君には、今、その自覚が不十分なんだ。
 まずは、もっと自分を磨くことだ。今のままの君では、相手の女性を本当に幸せにできるとは思えない。君が、今の信仰によって、誰が見ても立派な青年となった時に、周囲の人びとからも祝福される結婚ができるだろう。結婚は、決して焦つてはなりません」
 「はい。ありがとうございます」
14  青年は席から立って、頭を下げた。すると、円陣の別のところから手があがった。
 いつも質問の好きな青年である。
 「先生、今、理性と感情ということを言われましたが、この二つが一致することは極めてまれだと思います。私などは、常に矛盾していて、行動の妨げになって困りますが、どうしたらよいでしょうか」
 キャンプファイアーの炎が川風に揺らいでいる。
 青年の言葉を耳にすると、戸田は咳払いをしながら、一同に向かった。
 「確かに、感情では、そう思っても理性が許さない。あるいは理性では、そうかもしれないが、感情ではそうはいかない、ということが君たちにもあるだろう。
 理性というのは、簡単にいえば、本能や感情に左右されず、意志に基づいて行動を決定する能力をいうわけだが、理性と感情は別物ではない。理性と感情を対立的に考えるのは、生命というものの働きを度外視しているところから起きている。理性といっても、感情といっても、それは生命の働きの一側面に過ぎない。どちらも一念の発露だ。
 感情といったって、さまざまだ。ちょっとしたことで、人を憎悪したりする感情もあれば、衝動的な恋愛感情もある。悩める人を見て涙を流し、断じて救おうという感情だってある。
 また、理性といっても、視野の狭い自己中心の理性もあれば、人類に貢献するために、自分の知力を尽くそうとする大理性もある」
 戸田の指導は、立て板に水を流すように、よどみなく続いた。
 「経文に、『心の師とはなるとも心を師とせざれ』とあるが、『心の師』というのは、いうなれば、『偉大なる理想』をもった自己ということだよ。理性や感情というのも、この『偉大なる理想』から発すれば、『崇高な理性』『崇高な感情』に昇華される。早い話が、日蓮大聖人の御生涯を貫いた御振る舞いというものは、仏法の極理から展開された、『偉大なる理想』の発露といえるのではないか。
 この世の不幸な民衆を、とこごとく救済せんとする『崇高な感情』、人類を救いきる永遠普遍の法理を確立された『崇高な理性』――大聖人は、この『崇高な感情』『崇高な理性』によって、人びとを包容し、導き、守り抜いていかれたんだよ。われわれもまた、このような次元において理性と感情を考えるならば、一切の行動は迷いを払ったものになるだろう」
15  夜は更けていった。
 戸田の数々の懇ろな話は、今さらのように青年たちの胸に、そのまま自然に吸収されていった。
 キャンプファイアーは、炎をチロチロとあげ、炭火のような固まりとなって、うずたかく燃えていた。不思議な活力が、青年たちの顔や頬に表れていた。
 この時、戸田は、突然、立ち上がって、右手を高くかざしながら緊迫した表情で発言したのである。
 「不思議なことを言うようだが、今夜は、はっきりと言っておこう。今日から十年後に、みんなそろって、またここへ集まろうではないか。私はその時、諸君に頼むことがある」
 戸田の真剣な表情に、青年たちは、身じろぎもしないで戸田の姿に瞳を凝らしていた。そして、言外の意味を探るかのように、瞬間、思いを凝らしたが、戸田が、何を考えているのかは、わからなかった。
 戸田は、説明をしなかった。そして、話を続けたのである。
 「広宣流布は、今、やっと緒についたところです。今は事なきようであるけれども、このままですむはずはない。三類の強敵の嵐の起こることは必定だ。これから、いよいよ襲いかかって来るだろう。しかし、断じて負けるわけにはいかないのだ。なぜかならば、敗戦日本の救済も、世界の恒久平和の実現も、帰するところは日蓮大聖人の生命哲学による以外に道はないからです。このことを知悉しているのは、われわれだけだ。われわれ以外には、誰人も知らない。
 諸君は、これを確信して、自己を磨き、大いに勉強に励んでもらいたい。私は、諸君を心から信頼している。広布実現の黎明の時に、もう一度、ここに集まってもらいたいのだ。その時まで、今、ここにいる諸君は絶対に退転してはなりませんぞ。いいか!」
 「はい!」
 青年たちは、異口同音に広宣流布への使命に燃えて誓った。気迫のこもった返事であった。
 戸田は、大きく頷くと、静かに立って歩きだした。
 拍手が湧き起こった。この時、一人の青年が感極まったように歌いだした。
  我いま仏の旨をうけ
  妙法流布の大願を……
 歌は、たちまち合唱となっていった。
16  戸田は、足もとを照らす懐中電灯の光とともに、杉林のバンガローへと姿を消した。青年部長のほか、二、三の首脳幹部が、その後に従ったが、青年たちはキャンプファイーの周りをゆっくり回りながら、いつまでも歌をやめなかった。肩を組み、次々と学会歌を高唱する声は、谷間の底から空へと広がっていく。渓谷は、闇に覆われていた。しか青年たちの心には赤々と希望が輝いていた。
 彼らは、やがて、それぞれのバンガローやテントに入り、数人の盟友と、遠い未来や現在の境遇の超克などについて語り合い、まどかな夜のひと時を過ごすのだった。
 闇のなかに浮かんでいた灯火も、いつしか一つ二つと消えていく。辺りは静寂につつまれ、瀬音だけが響き渡っていた。
 翌五日は、五時に起床した。きわやかな早朝の河原である。谷間には、薄いもやが立ち込め、清澄な空気が、青年たちの睡気を覚ました。冷たい清流で口を漱ぎ、顔を洗うと、朝の勤行をした。
 河原の一角に朝日が差し込んできた。青年たちは立ち上がると、参謀室の主任である十条潔の号令に合わせて体操をした。それから、それぞれのテントやバンガローに引き揚げて、炊事場から運んだ朝食を、賑やかにたいらげたのである。
17  集合の笛が鳴った。河原に出ると、数人の青年が、即製の土俵をつくっている。全員がそろうころに、戸田が、機嫌のよい笑みをたたえ、ながら現れた。
 「おはようございます!」
 一斉に、あいさつする青年たちに、「よう、おはよう」と言いながら、土俵の側の簡便なイスに彼は座った。
 東西に分かれて相撲大会が始まった。全員参加である。体格は、まちまちといってよい。小柄な青年が巨体にぶつかって、ころりと転がると、爆笑が起こった。横綱格の二人が勝ち残って、決勝戦になった時には、いずれとも勝負がつかず、皆、手に汗を握って観戦した。
 戸田は、シャツ一枚の姿で、ズボンの裾をたくしあげ、餓鬼大将のように大笑いしながら、扇子を使って観戦している。やがて、優勝者が決定して相撲は終わった。
 今度は、引き続いて騎馬戦である。広場に全員移動した。広場には、小さい石ころが一面に転がっている。まず、全員で、競技中に怪我をしないように、それらの小石を拾った。
 四人一組となり、紅白二陣の騎馬隊がつくられた。
 戸田は、中央の一隅に腰かけ、青年たちの勇姿に相好を崩しながら、両軍を見比べている。
 両軍は、雄叫びをあげながら激突した。
 騎手と騎手が組み合ったまま、どっと地面に崩れ落ちる組もある。三分もたたないうちに、たちまち半数になってしまった。果敢な数騎は、なかなか勝負がつかない。
 戸田は、身を乗り出して観戦しながら、面白がっていた。
 「どんな戦いでも、団結の強い方が勝つんだよ。見ててごらん」
 白軍は、大将の馬を守って、その周りを三騎が常に布陣して戦っている。紅軍は攻撃的で、あちこちに散っては派手な攻勢に出ていた。そのうちに大将を囲んでいた白軍の三騎が中央に躍り出でいった。
 紅軍は、一騎また一騎と襲いかかったが、白軍の共同作戦が功を奏して、騎手は落とされてしまった。
 騎馬戦の勝負がついてみると、多くの青年は、すり傷を負っている。赤チンの小瓶が、せわしく手から手へ渡った。
 ひと休みすると、今度はドッジボールが始まつた。騎馬戦で興奮してしまった青年たちは、またも勇猛果敢に戦った。
 青空のもと、若いエネルギーの発散は、彼らに限りない爽快感を与えているようだつた。かけ声が、はっしと飛び、敏捷な動きに、時折、拍手があがった。
 戸田は、青年たちの発揮する闘魂から、彼らが、遊びにさえ全力を傾注してあたるのを見て取って、ひそかに満足していた。
 「こういうことをやらせると、みんな一生懸命だな。どうか信心の方も、この調子で頼むよ」
 優勝者に、賞品としてスイカなどを与えながら、戸田は、一同に向かって、こう言った。青年たちは、戸田に褒められたのか、けなされたのか、わからなかったが、機嫌のよい戸田を見るのが嬉しかった。
18  一同は解散して、それぞれのテントやバンガローに戻った。そして、食欲にまかせて、昼食を腹いっぱい取ったのである。
 午後一時になると、全員が広場に集合し、楽しい一夜を送った氷川キャンプ場に別れを告げた。二台のバスは、さらに奥地にある建設中の小河内ダムに向かって、エンジンの音を轟かせながら坂道を上っていった。
 ダムの建設工事は、着々と進んでいた。そのころの日本では珍しかった、アメリカ製の大型クレーンや、ショベルカーも、捻りをあげて動いていた。深い谷底で作業に励む人の姿は、蟻のように見える。
 こんな奥地で、かくも大がかりな工事が行われているとは、誰も想像していなかった。まさに山容を一変させる趣であった。
 やがて湖畔になるであろう山腹から、戸田は、好奇の目を走らせていたが、背後の山を振り返って言った。
 「なかなか、すごいじゃないか。全貌の見えるところはないか。ひとつ、よく見よう」
 「あそこに展望台、があります」
 山本伸一は、背後の山を指して答えた。
 青年たちは、展望台への小道を登りかけたが、おそろしく急坂である。伸一は、数人の青年に馬を組ませた。
 「おう、ありがとう」
 戸田は、こう言うと、その馬にまたがり、愉快そうに笑いながら展望台に向かった。
 名ばかりの展望台であったが、ダムの全容が見渡せる丘陵の中腹である。
 工事の規模は大きく、山と山に挟まれた渓谷の遠くまで延びていた。一昔前のように、人間の肉体による労働力で建設するとしたら、連日、途方もない数の労働者を必要としたろう。それが、ほとんど、人間が機械を操作するだけでやっているのだ。
 「ほう、大した工事じゃないか……」
 戸田は、たたずんで、しばらく讃嘆の声を惜しまない。めったに、ものに動じない戸田が、これほどまでに感嘆するのを聞きながら、青年たちも言葉を失い、壮大な工事の様子に見入っていた。
 やがて、戸田の口から、青年たちを諭すような言葉が出た。
 「工事も大規模な大した工事だが、このような山のなかに大ダムを構想し、それを立案した人間の方が、はるかに偉いといわなければならん。人並み外れた、大胆にして周到な人がやったにちがいない。私は、そのような人に会いたくなってきた。
 いいか、青年たるもの、気宇広大で、しかも細心でなければ、将来の大事業はできるものではないということを、よく覚えておきたまえ」
 ダム工事ひとつ見ても、戸田の心は、青年の成長を促さずにはいられなかった。
 二台のバスが、小河内ダムの現場を後にしたのは、三時を過ぎていた。途中、鳩ノ巣で小休止し、滝を見物した。わずか一日半の行程であったが、戸田と一夜を共にした野外研修は、既に青年たちに大きな変化を及ぼしていた。和気あいあいのなかで、元気横溢した彼らは、帰途の車中では、次々と学会歌を歌い、皆、意気軒昂であった。胸中の満ちたりた思いは、清新な息吹に変わりつつあった。
19  水滸会の第一回野外研修を終えた戸田は、あらためて青年の育成が急務であることを痛感した。
 ″青年たちに、確たる目標を与えて、大きく飛躍させねばならぬ″
 戸田は、思索した。
 そして、その思索の結晶を、十月一日発行の『大白蓮華』の巻頭言に、「青年よ国土たれ」と題して発表したのである。
 巻頭言の冒頭で、彼は、創価学会が信奉する日蓮大聖人の仏法が、科学的批判に耐え得る哲学性をもち、法理的に最高の教義を備えた宗教であることを訴えていった。
 「われらは、宗教の浅深・善悪・邪正をどこまでも研究する。文献により、あるいは実態の調査により、日一日も怠ることはない。いかなる宗教が正しく、いかなる宗教が邪であるか、また、いかなる宗教が最高であり、いかなる宗教が低級であるかを、哲学的に討究する、また、いかなる宗教が人を救い、いかなる宗教が単なる観念的なものであり、いかなる宗教が人を不幸にするかと、その実態を科学的に調査している」
 宗教は、観念であってはならず、現実の生活を変え、社会を変革する力を備えていなければならない。宗教は独善的であってはならず、あらゆる批判に耐えられるものでなければならない。それは、戸田が、先師・牧口常三郎から教えられた宗教観であった。そして、そのような条件を備えた宗教こそ、日蓮大聖人の仏法であることを、彼は、体験を通して確信していた。
 戸田は、日蓮大聖人の仏法を信奉する人生が、いかに尊く、いかに誇るべきものか、その大確信を青年たちに与えようとしたのである。
 そして、最高の宗教を奉ずる青年は、自己の安穏を貧るのではなく、社会の実態を深く認識して、世の不幸を根絶するために戦うべき使命があることを、自覚させようとした。
 「諸君よ、目を世界に転じたまえ。世界の列強国も、弱小国も、共に平和を望みながら、絶えず戦争の脅威におびやかされているではないか。一転して目を国内に向けよ。政治の貧困・経済の不安定・自然力の脅威、この国に、いずこに安処なるところがあるであろうか。『国に華洛の土地なし』とは、この日本の国のことである。
 隣人を見よ! 道行く人を見よ! 貧之と病気とに悩んでいるではないか。物価は高くして、絶えず生計の不足を嘆く者、住むに家なくして心うつうつとして楽しまざる者、事業不振におののく者、破産にひんしてとまどう者、数えあげれば数限りがない」
 復興の緒についたとはいえ、まだ戦後九年である。安定した社会というには程遠く、多くの人びとが貧困に悩み、病に苦しんでいた。社会の混乱、民衆の苦悩――これを解決していくのは誰なのかを、戸田は問うた。
20  「国に人なきか、はたまた、利己の人のみ充満せるか。これを憂えて、吾人は叫ばざるをえない、日蓮大聖人の大師子吼を!
 『我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ等とちかいし願やぶるべからず
 この大師子吼は、われ三徳具備の仏として、日本民衆を苦悩の底より救いいださんとのご決意であられる。われらは、この大師子吼の跡を紹継した良き大聖人の弟子なれば、また共に国士と任じて、現今の大苦悩に沈む民衆を救わなくてはならぬ」
 「国士」とは、いかにも大時代的な言い方ではあるが、明治生まれの戸田にとっては、最もなじみのある言葉であったのであろう。彼は、この「国士」という言葉を、不幸の民衆のなかに飛び込み、人びとの幸福と世界の平和を築きゆく闘士、すなわち「革命児」の意味で用いたのである。
 彼は、日蓮大聖人の師子吼を、わが精神、わが命に刻むことを青年たちに望んだ。そして、崇高なる誓願のもとに国士として決起することを促した。
  「青年よ、一人立て!
  二人は必ず立たん
  三人はまた続くであろう。
 かくして、国に十万の国士あらば、苦悩の民衆を救いうること、火を見るよりも明らかである。
 青年は国の柱である。柱が腐っては国は保たない。諸君は重大な責任を感じなくてはならぬ。
 青年は日本の眼目である。批判力猛しければなり。眼目破れてはいかにせん。国のゆくてを失うではないか。諸君は重大な使命を感じなくてはならぬ。
 青年は日本の大船である。大船なればとそ、民衆は安心して青年をたよるのである。諸君らは重大な民衆の依頼を忘れてはならぬ」
 戸田は、青年たちこそ、「国の柱」であり、「日本の眼目」「日本の大船」であると訴え、彼らに全幅の信頼を寄せた。そして、「日蓮が弟子と云つて法華経を修行せん人人は日蓮が如くにし候へ」と仰せの通りに、青年たちが日蓮大聖人と同じ誓願に立って行動を展開すべきことを教えたのだ。
 そして、最後に、「諸君よ!」と呼びかけ、「強き生命力を養い、誉れある国土として、後世に名を残すべきである」と結んだ。
 戸田は、青年が果たすべき使命と、結集すべき態勢とを具体的に示したのである。
21  青年への魂の指針ともいうべき巻頭言を読んだ伸一は、決意を深くした。
 ″先生は、世の不幸を追放するために、十万人の青年を集めよと言われているのだ。これを成し遂げる責任は、参謀室の室長である私にある。誰がやらなくとも、私が断じて実現してみせる″
 伸一は、戸田に会うと、即座に決意を披瀝した。
 「先生。必ず十万の青年を結集いたします。見ていてください」
 戸田は、嬉しそうに伸一を見た。
 「そうか。やってくれるか。頼むぞ」
 目前に青年部一万人の総登山が迫っていた。この成功が、十万結集への跳躍台となるだろう。伸一は、一万人結集に向けて辛労を尽くし、全力を傾注していったのである。
 一九五四年(昭和二十九年)の五月九日のあの日――青年部五千人による雨中の総登山の儀式が終了した直後、戸田の前で、秋に一万人の総登山を決行することを誓った青年部は、その晴れの日を思い描きつつ、半年の活動を展開してきていた。
 この壮挙を実現するには、まず、早急に大幅な部員増加をしなければならない。同時にまた、青年部員としての自覚を、教学の面でも、実践の面でも深化させなければならなかった。
 八月の夏季地方指導が終わるころ、一万人登山とその結集の見通しが、ようやく立つにいたった。彼らは、十月三十一日を、その決行の日と定め、さまざまな準備に取りかかったのである。
22  雨に見舞われた五月九日の日を思うにつけ、青年部全員の願いは、ただ一つ、秋晴れの富士山麓に、戸田城聖を、今度こそ晴れがましく迎えることであった。彼らは、心から、それを御本尊に祈ることから始めた。是が非でも晴天にするという祈願と決意は、徐々に全員にみなぎっていったのである。
 一万人の輸送計画である。東京から出発する部員は、八千余人に達し、地方から直接、総本山に参集する人は、約二千人の予定であった。
 東京部隊は、列車輸送とバス輸送に分けられた。前夜の三十日、午後五時東京駅発の列車には、編成の第一班として女子部四百六十五人が乗り込んだ。このあと、各列車の発車ごとに増結車を連結し、最後の午後十一時五十五分の列車までに、実に八班に分かれて六千余人の男女青年を輸送したのである。
 一方、バス輸送は、観光バス会社十一社と契約し、男子部約二千人が、三十五台のバスに分乗することになっていた。
 第一班は、三十日の午後七時、六百六十人が、十二台のバスに分乗して梯団を組み、明治神宮外苑絵函館前を出発した。引き続いて、二班、三班が、八時、九時と、それぞれ梯団を組んで総本山に向かった。東京は、晴天であった。
 列車輸送の女子部の第一班が、総本山に到着したのは、午後の十一時を回っていた。
 三門に着いてバスを降りると、誰も彼も、まず空を仰いだ。満天の星である。彼女たちは、手を取り合って喜び合った。宿坊に落ち着いても、はしゃいで、なかなか寝ようとはしなかった。
 後続して輸送されてくる青年たちの大群で、三門前は、深夜から明け方にかけて、時ならぬにぎわいを呈した。五月九日の雨中の総登山が、彼らには、どれほど気にかかっていたことであろう。着く人着く人、すべてが、晴れ渡った星空を仰いで、明日の晴天を確信した。
 ともあれ、一万人の人員である。総本山の宿坊という宿坊は人であふれ、客殿や御影堂、蓮蔵坊、学林まで人で埋まっても、まだ足りなかった。
 最後に到着したのは、列車輸送の第八班千百人である。到着時刻は、三十一日の午前六時三十分であった。この班は、結集会場へと直行した。既に、各宿坊から部隊ごとに隊伍を整え、参道で行進が始まっていたからである。
23  会場は、大石寺近くのグラウンドであった。
 グラウンドには、演壇が設けられている。午前七時をいくらか回るころには、男女三十部隊の整列が次第に進められていた。
 雲ひとつない、秋晴れの早朝である。すがすがしい朝の空気は、いくらか肌寒かったが、熱気を秘めた青年たちには心地よかった。
 朝日が、会場いっぱいに差し始めたところだった。青年たちが、やや右手に見たものは、いつに変わらぬ富士の威容である。晴れ渡った空に、くっきりと美しい稜線を長く描き、山頂は白雪に覆われていた。
 ″ああ、富士が見ている!″
 一万人の青年たちは、期せずして、心のなかでつぶやいたにちがいない。彼らは、既に、悠久なる富士の懐に、いだかれた思いであった。
 午前七時三十分、本部旗が馬上の騎手によって掲げられ、入場した。
 その後ろに、白馬に乗った戸田城聖が続いている。戸田のメガネが、時折、朝日を受けてキラリと光った。
 戸田の馬上の姿を、参加者は予想もしなかったにちがいない。青年たちが、″ぜひとも、全員の姿をご覧になっていただきたい″と、千葉方面を駆けずり回って借りてきたものである。
 戸田は笑いながら、「子どもたちが真心込めて探してきたものを、乗らなければかわいそうだ。乗るのではなくして、乗っけられよう」と言って、おっかなびっくり乗ったのである。
24  直ちに、開会が宣言された。
 各部隊からの結集報告がまとめられ、青年部長の関久男が戸田会長に報告した。
 「男子青年部六千三百八人! 女子青年部四千八十二人!総勢一万三百九十人の青年が、戸田先生のもとに結集いたしました!」
 この瞬間、澄みきった静寂な会場に、潮騒のような、どよめきが起きた。
 ″遂に一万人を超える結集ができたのだ! しかも、このまたとない晴天のもとにである″
 演壇に立った戸田に相対して、男子第二部隊長の野田満が、男子部を代表して宣誓を述べた。男子部の精鋭たる自覚をもって、いかなる障魔にも屈せず、広宣流布の大業を誇り高く完遂することを誓ったものであった。
 続いて女子青年部を代表して、女子第九部隊長の谷時枝が、同じく宣誓を読み上げた。大師匠・戸田城聖の娘たる自覚をもって、いかなる難にも耐え、広布達成まで戦い抜くことを誓った言葉であった。
 いずれも前途多難なることに覚悟をおいた宣誓である。彼らは、創価学会の活動が、いよいよ多事多難の時期を迎えつつあることを予感していたにちがいない。
 男女青年部の代表による宣誓に続いて、女子部長、男子部長、青年部長から指導があった。そのあと、この式典の一切を企画、運営してきた参謀室を代表して、室長の山本伸一が演壇に立った。
 戸田は、壇上の伸一に、じっと視線を注いだ。
 凛とした伸一の声が響いた。
 「『霊山一会儼然未散』、すなわち『霊山の一会、厳然として未だ散らず』という御文は、法華経が説かれた霊鷲山の説法の儀式は、今日、厳然と存在しているということであります。それは、御本尊に向かって端座するその時、その場に、霊鷲山の姿が現出するということでありますが、現在の私たちの立場で拝するならば、大法弘通の目的に立たれた戸田先生のもとに、不自惜身命の精神で集った同志の姿を示したものといえます。
 われわれ青年部員は、戸田先生直結の弟子であります。また、先生の言われる『国士』であります。戸田先生は、会長就任の時に、七十五万世帯の達成を生涯の願業として宣言され、『もし私のとの願いが、生きている間に達成できなかったならば、私の葬式は出してくださるな。遺骸は品川の沖に投げ捨てなさい!』と叫ばれました。先生は、ご自身をなげうって宣言されたのであります。それは、われわれ弟子の誓いでもあります。
 なれば、今、弟子が立ち上がらずして、いつ立ち上がる時があるでありましょうか。先生が掲げられた目標を達成しきるのが、われわれ青年の使命であります」
 伸一は、戸田の会長就任以来、七十五万世帯の達成という師の夢を実現するのは、自分の使命だと深く決意していた。戸田の夢は、伸一の夢であった。
 戸田が語る未来構想の一言一句は、そのまま伸一の構想となっていた。師である戸田の誓願は、弟子である伸一の命そのものであった。戸田が示した「国士十万」の結集の実現を、伸一は自らの責務として受け止めたのである。
25  戸田の意を体する伸一は、目を世界に転じて青年たちに訴えた。
 「ソ連にしろ、中国にしろ、アメリカにしろ、その国を興し、担ってきたのは若人であります。彼らは、共産主義を掲げ、あるいはデューイの哲学を掲げて戦いました。われわれは、世界最高の日蓮大聖人の仏法をもって、日本、東洋、そして全世界の悩める人類を救済すべく、立ち上がったのであります。われわれ青年部員は、共産主義やデューイの哲学をもっ世界の青年たちを指導しゆくという、大使命をもっております」
 伸一は、今こそ立ち上がるべき時が来ていることを烈々と述べ、諸難を打ち破って広宣流布の戦いに臨む覚悟を促していった。
 「日蓮大聖人は、『時を待つ可きのみ』と仰せになっておりますが、立宗七百年を経て、広宣流布の機は、いよいよ満ち、その『時』は、今であることを事実が示しております。
 『各各師子王の心を取り出して・いかに人をどすともをづる事なかれ、師子王は百獣にをぢず・師子の子・又かくのごとし、彼等は野干のほうるなり日蓮が一門は師子の吼るなり』の御金言を胸に刻んで、勇敢に進んでいとうではありませんか。
 戸田先生は、『国に十万の国士あらば、苦悩の民衆を救いうること、火を見るよりも明らかである』と仰せであります。十万の青年が集った時は、広宣流布の第一歩が近づいたことになるのであります。これを目標として、堂々と戦っていとうではありませんか!」
 伸一は、室長たる自身の責任として、青年部員十万の結集を決意していたのである。戸田の師子吼は、そのまま弟子の誓いであり、実践であった。この師弟の不二なる誓願のなかに、広宣流布の大道は開かれるのである。
 最後に、うららかな秋の日差しを浴びて、戸田城聖が、いつにない緊張の面持ちで、演壇の上から青年たちに呼びかけた。
 「青年諸君! 日本の国を救わんとして、多くの人びとが政治、経済、教育、文化といった各分野で活動しておりますが、政治のみで、経済のみで、教育のみで、日本を救えるものではありません。
 しかしながら私は、決して政治、経済、教育、文化等の活動を否定するものではなく、それら各分野の活動の根底に、真の仏教がなくてはならぬと主張するものです。政治にせよ、経済にせよ、教育にせよ、真の仏教を根本に置いて、その活動を展開し、助長して、国家を救い、民衆を幸福のなかに暮らさせんとするものであります」
26  戸田は、この時、創価学会の活動というものが、狭い宗教活動に終わるものではなく、広く社会に開かれ、各分野にわたらなければならないことを、示唆するつもりであった。
 いよいよ、そのような時機を迎えていることを、彼は、誰よりもよく知っていた。つまり広宣流布は、社会貢献という形で広く時代に開かれなければ、具体化はないことを教えたかったといってよい。しかし、それによって根本の信仰が、崩れることがあったとしたならば、すべては水泡に帰してしまう。
 彼の訓示は、また、日蓮大聖人の仏法がいかなるものかに戻った。
 「しからば、真の宗教とは何か。それは、言うまでもなく、日蓮大聖人の仏法であり、その教えのままに実践しているのが創価学会であります。このことは、大聖人の御書に照らし、はたまた仏教哲学の原理のうえから、さらに、わが同志の幾多の実証によって、明らかなところであります」
 そして、戸田は、日本の宗教界の現状を憂えつつ、創価学会の広宣流布への使命を訴えた。
 「日蓮大聖人は、四箇の格言をもって、当時のさまざまな宗教が、いかなるものかを明らかにされ、仏教の原理に照らして批判されたのであります。七百年後の今日、われわれもまた、真の妙法蓮華経でなければ、末法の衆生を救うことはできないことを知っています。
 かかる時、われわれは、正法を広宣流布することを自ら願った。今、一人の味方もないことは自明の理です。あらゆる方面から敵が出現することも必定です。
 私は、会長就任以来、これは既に覚悟のうえのことであります。私が難を受けることは、いささかも厭わないが、願わくは諸君に、絶対の幸福をつかませてから死にたいものと思っています」
 戸田は、日ごろ常に念頭を離れることのない広宣流布途上の試練に話が及ぶと、さらに、声を大にして叫んだ。
 「諸君、われわれの前途が多難であることは、火を見るよりも明らかなことである。されば諸君は、御本尊を信仰し、創価学会を愛し、しこうして青年の力を、存分に養ってほしい。今、私は、前途の多難に対して奮起を望むものであります」
 一瞬、寂として声はなかった。
 その次の一瞬、会場は万雷の拍手につつまれた。
27  続いて学会歌の合唱に移った。一万人の合唱である。巨大な斉唱は、潮のように辺りに広がり、虚空に轟いた。
 この時である。彼らの頭上を、一機の軽飛行機が、エンジンの音を轟かせながら旋回し始めた。
 軽飛行機は、会場の上空を幾度も旋回していたが、見る間に急降下してきたかと思うと、通信筒を投下した。それは、演壇の近くに落ちた。通信筒から一通のメッセージが取り出され、読み上げられた。
  世紀を導く師の前に立つ若者よ!
  広布をさきがけて集う一万の力
  国を憂うその情熱は
  地もふるい天にも響く
  はるか上空よりその意気を感激し
  洋々たる前途を祝す
    昭和二十九年十月三十一日午前八時
           指導監査部長 清原かつ
  青年部長殿
28  会場いっぱいに拍手が沸いた。歓声が轟き渡った。
 軽飛行機は、なおも旋回を続けた。機上に白いハンカチが見えると、地上の青年たちも、地上の青年たちも、一斉にハンカチを振って応えた。
 機は翼を振って、やがて東の空に消えていった。
 再び、戸田は馬上の人となり、本部旗に続いて、各部隊が並ぶ隊列の前を、会釈しながら退場していった。その後に青年たちの行進が続いた。
 長い列は、総本山に向かった。部隊長をはじめとする部隊の代表は、牧口初代会長の墓前に参じ、この日の式典を報告するとともに、広宣流布への誓いを新たにするのであった。
 総本山は、この日、一万人の青年たちの活気にあふれていた。引き締まった顔と顔。敏捷な動作。決意に満ち満ちた交歓の光景――それらを、始終、富士は見ていたのである。
 男子部の行動が一切終わったのは、午前九時三十分ごろであった。女子部も、それから一時間後には終了していた。下山は十一時半に始まり、最終の列車輸送の青年たちが総本山を後にしたのは、午後六時半と記録されている。
 理境坊の二階で、戸田城聖は、この日の盛儀をことのほか喜び、何人かの幹部たちと歓談していた。
 彼は、ともかく一万人に達する青年が、この総本山に喜々として結集したことは、広宣流布の歴史に、かつてないことだということを、かみしめていた。そして、参謀室の設置が、今後、幾万の青年を統率していくであろう実証を見た思いであった。
 山本伸一をはじめとする参謀室の青年が、下山のあいさつに来た。
 「よう、今日は、いい天気だったじゃないか」
 戸田は、機嫌がよかった。
 戦い抜いた青年たちの顔は、晴れやかに輝いていた。
 戸田は、嬉しそうに一人ひとりに視線を注ぎ、笑みを浮かべて、彼らの報告に耳を傾けるのであった。
 やがて、一同が退出しかけると、彼は青年たちを呼び止めた。
 「もう帰るか。ご苦労だが、三日の日も頼むよ」
 戸田の言う三日とは、眼前に迫った十一月三日の第十一回本部総会のことである。この秋には、大きな行事が、次々と予定されていた。全く息をつぐ間もなかった。
29  青年部一万人の総登山が大成功に終わった今、戸田は、それを思い返して楽しむというより、両国の国技館の大鉄傘下で開催する本部総会が、気になっていた。ようやく、創価学会も世間の注目を浴びてきたころだった。今度の総会には、多くの新聞記者たちが、初めて取材に来るはずであった。対外的な配慮が必要となってきたのである。
 世間は、創価学会を不可解極まる宗教団体としてしか見なかった。ここ一、二年、全国的な折伏活動が活発化するにつれて、一部では些細なトラブルが起こったこともあった。新聞各紙は、それらを取り上げ、悪意に満ちた批判記事が多くなりつつあったのである。
 彼らは、発展しゆく創価学会の存在を、無視できなくなっていたのだ。
 しかし、学会への無理解と偏見から、学会の真実を伝える新聞はなかった。
 それは、結局、宗教に関する全くの無知からきていることは、疑いの余地はなかった。だが、このような無知に、身をもって挑戦してきた戸田城聖にとっては、今度の総会は、今までにない絶好のチャンスに思えた。
 彼は、総会での講演内容を、あれこれと思索しつつあった。そして、世間の人びとの宗教に関する無知の深さに思い至ると、その壁の厚さが、時に絶望的にさえ感じられた。
 たとえば、「成仏」という言葉は、世間的通念では、ただ人の死を意味するだけのものとなっている。「生命」といえば、現在、生きている機能としか考えない世間。死後の生命の実在を説いても、それを一種の霊魂のようなものとしか考えられない世間――そのような現今の社会の人びとに、いったい、どのように説けば、真実の仏法の真髄について、深刻な理解を与えることができるというのか。
 戸田は、焦つてはならぬと思った。
 日蓮大聖人の立宗宣言から七百二年の歳月を経てきたが、事態は、やっと、その緒についたところである。
 彼が会長に就任してから、わずか三年にして、広宣流布を使命とする信徒が十五万世帯を超えたという事実は、かつてないことと言わなければならない。この幾何級数的な激増の根を、まだまだ、たくましく張っていくことが、今は大事な要件である。おそらく性急な挑戦は、事をしそんじることになるであろう。
 意気あがる学会員のなかで、ただ一人、戸田は沈着でなければならなかった。
 戸田は、総会における彼の講演内容を考えながら、その主題の的を、七百年来、社会の人びとに理解されることなく過ぎた根本の教理、つまり日蓮大聖人の仏法についての一事に絞ることに決めた。
 彼の発言に、どのような反応を現在の日本のジャーナリズムが示すか、それを見極めることから始めようとしたのである。
30  十一月三日――この日も秀麗なる青天であった。
 総会は正午に開会され、冒頭の経過報告では、まず、折伏の躍進の模様が伝えられた。
 「本年一月より十月までの折伏成果の総数は、実に八万六千五百四十五世帯でありました。これは、今年度、戸田先生より示された折伏目標八万を、既に軽く突破したものであります。したがって、現在の総数は十六万七百九十一世帯を数え、学会は全国的な布陣にいたったことを、ご報告するものであります」
 本年度の目標が、既に二カ月も早く達成されたことを知って、会場を埋め尽くした会員は、演壇に向かつて激しい拍手を送った。
 このあと総会は、いつもの式次第通り、各部代表の決意発表や、法主・日昇の特別講演、体験発表などが続いた。
 場内は、たぎるような活気がみなぎり、意気軒昂な会員たちは、頬を紅潮させ、瞳は歓喜に輝いていた。
 そのなかで最後に、戸田が演台に進んだ。彼は、熱烈な聴衆の拍手に応えながら、場内を見渡し、会場の一角にいる報道関係者にも視線を注いだ。
 「『日本国に此れをしれる者は但日蓮一人なり』という言葉があります」
 彼は、大聖人の「開目抄」の一節を引用しながら、いつものように御金言とは言わなかった。「言葉」と平明に言った。
 「いったい、大聖人様ただ御一人が、お知りになったこことは何か。これは御書全集の二〇〇ぺージにある一節でありますが、この言葉にあいました時に、私は考えた。はて、何を大聖人様御一人が、御承知なんだろうか。
 ところが、言葉は短いけれども、これが胸の内にじんときた時には、恐ろしくなってきます」
 彼は、人間の生命を無明の闇に閉じ込める思想、宗教の誤りに、人びとの不幸と社会の混迷の根本的な原因があることを語っていった――この一事を社会の人びとが認識し、理解さえするならば、人類の前途は栄え、栄光に満ちた社会へ進むであろうことを、示唆したかったのである。広宣流布の目的といっても、この一事を解決することに凝結されるといってよい。これは、人間にとっても、社会にとっても、一大事であるはずだ。このことを理解しようと試みるどころか、耳を傾けようとさえしない事態が、七百年も続いてきている。
 ここ数年来の創価学会の存在は、現在の日本社会に一波紋を投げかけたものといってよい。戸田は、この波紋が、せめて動執生疑を起こすことを願って言った。
 「われわれは、好んで敵を求めているのではない。宗教の教えを見極めようというのは、われわれの教理において、この一事においては妥協がないからであります。
 たとえば、他の日蓮宗と妥協したらどうかと言う人もある。日蓮宗ならば、よいではないか、と言われでも、大聖人の純粋な教理のうえから、それは駄目だと言わざるを得ません」
 戸田の言説は、やや激しさを加えてきた。
 「他宗の人びとや、宗教に無関心な人びとが、この一事を深刻に考え、嘘か真実かを自らの胸で考え、正しい教えに帰依するならば、人びとの不幸の根源を断ち切ることができるのであります。
 われわれは、そのために活動しているんです。この活動に対して、仏法の真髄について知らぬ人びとは、学会に反感をいだき、反発し、憎悪してきました。やむを得ぬ経過といわなくてはなりません。
 今後、広宣流布の途上、さまざまな難が次々と起こるでありましょうが、その時、皆さんは絶対無二の御本尊を信じ、断じて退転してはなりませんぞ! そして、一人残らず、成仏という幸福な人生を必ずつかみ、幸福に暮らしてください。これが私の願いであり、警告であります」
 戸田の言葉には、広宣流布への覚悟と、会員の幸福を願う深い慈愛があふれでいた。その情熱が、会場を埋め尽くした聴衆の胸を熱い感動でつつんだ。人びとは、この時、涙ぐみさえしながら、激烈な拍手で彼に応えたのである。
31  十一月三日の本部総会も、広宣流布へのたぎる情熱が渦巻いて成功裏に終わったが、休む間もなく、七日には、東京・世田谷区の日大グラウンドで、青年部主催による第一回の体育大会が開かれた。
 大行事の連続である。参謀室設置以来、青年部の活動は、息もつがせぬほどの激しさとなってきていた。
 この体育大会は、「世紀の祭典」と銘打って、青年部の意気盛んなところを見せたのであるが、この大会開催について、当初、理事室は必ずしも賛同しなかった。第一、忙しい信心活動のなかにあって、宗教団体として、そのような企画が、果たして適当かどうか、また、それに費やす相当な費用と労力が、価値的であるかどうか――が問題となったのである。
 山本伸一をはじめとする参謀室は、一万人の総登山を終えた青年部員が、愉快な体育大会の競技を通して肉体を錬磨し、団結の大切さなどを学ぶことも、青年にとって極めて有意義だと考えていた。
 しかし、理事室の了解は、なかなか得られなかったので、青年部の首脳部は、一切を青年部の責任において行うことにして、直接、戸田の許可を求めた。
 戸田の許可を得たものの、青年部独自で企画、推進する行事となってしまった。
 体育大会が行われた十一月七日の日曜日も、秋空に雲ひとつない晴天であった。
 一万人総登山の日から、一週間後である。男女青年たちの、はつらつとした元気な姿は、心地よいまでに、きびきびとして、歓喜に躍っていた。
 青年部主催の行事ではあったが、各支部の壮年、婦人たちも、応援に駆けつけた。
 午前九時五十分、男女、おのおのの選手代表宣誓が始まり、戸田も満面に微笑をたたえて、激励を惜しまなかった。
 「かくも多くの立派な若人が、私の眼前に、このように出現したことは、私自身の心からの喜びとするところであります。それにつけても、わが国の将来は、諸君に頼む以外にないことを確信するものであります。どうか優秀な精神をもち、強靭な肉体をもつ立派な人物となって、思う存分の活躍をしてもらいたいと思う。私は、諸君に限りない期待を寄せるものであります」
32  さまざまな競技が、手際よく、次から次へと続いた。午前の部の競技の白眉は、一万メートル競走で、これには会長賞が懸けられた。出場者は、全員落後することなく走り通すという頑張りようであった。
 壮年や婦人たちも、それぞれ思い思いの奇想天外な工夫を凝らして、盛んな応援合戦を展開した。
 午後の部では、ユニークな呼称の競技が相次いだ。男子部の「三障四魔競走」は障害物競走のことであり、
 女子部の「部員増加競技」は綱引きのことで、爆笑がグラウンドいっぱいに広がる。
 盛りだくさんの競技は、日の暮れるのを忘れているのではないかと思わせるほどであった。「学会魂」と名づけられた棒倒しは、男子部を奇数部隊と偶数部隊の紅白に分け、百八十人ずつ三百六十人の若人の血気みなぎる激闘である。
 戸田は、テントからグラウンドに出て観戦した。数回の手合わせは、紅軍の連勝に終わったが、両軍とも、広宣流布への燃え立つばかりの闘魂を遺憾なく発揮した。
 最後の、「大法戦」と名づけた騎馬戦に移るころは、グラウンドは、ようやく暮色につつまれてきた。紅白両軍合わせて八百人の出場である。陣太鼓が響いた。おのおの百騎を統率する両軍の大将は、采配を振りながら陣前で互いに宣戦を布告し、戦いは始まった。
 紅白の鉢巻きは、入り乱れ、各所で盛んな一騎打ちが展開された。
 辺りが黄昏れて、西空だけが夕焼けに染まって明るい。日は、既に武蔵野の地平線に落ちようとしていた。両軍とも、相手の大将の采配を狙って、勝ち残った騎馬が集中し、喊声を響かせながら、激突に次ぐ激突で勝負はなかなか決まらない。やっと紅軍が勝った。第二戦は白軍が勝った。青年たちは疲労してきたのであろう。勝負は早くなった。また紅軍が勝った。紅軍は二対一で凱歌をあげたわけである。
 次いで閉会式に移り、山本室長から得点発表があった。総合得点では、男子部は第一部隊が優勝し、女子部は第七部隊が優勝して、最後に優勝旗が戸田の手から授与された。戸田は、この一日のすべてを見ていた。閉会に先立って、彼は全員に向かって言った。
33  「朝の九時半から夜になる今まで、生気はつらつたる若人の姿を、よくぞ見せてくれました。私は嬉しい。これは日ごろの闘争の賜です。こちらは一つも教えないのに、教えられないことが、実によくできた。私が一生懸命、講義している御書の方は、さっぱり覚えてもらえないのに、こういうことはよく覚えるものだと感心しました」
 爆笑が広がった。誰も彼も、迫った薄闇のなかで、笑顔を戸田に向けていた。
 「私は、青年部の誰を見てもかわいいのです。賞品は全員にあげたいが、そんなにないので、今日は男子部長と女子部長に、私が、常々、愛用している創価学会のメダルを贈りたいと思います。これは部長個人にではなく、男女青年部全員に贈るものであるから、部長が代表として受け取ってもらいたい」
 男子部長、女子部長が進み出て、メダルを受けた。
 「さぁ、これで男女青年部全員に贈りました。明日からは、また教学を研鑽し、自分の職業に励み、学生は勉強して、やがては、わが国における指折りの有能な人物になってもらいたいと、切に願うものであります」
 青年部独自の企画と責任において挙行された、この第一回の体育大会は、見事に成功したといってよい。それ以来、東京はもちろん、北海道、大阪、名古屋でも、しばしば開催され、「若人の祭典」として若獅子旗は翻った。
 この体育大会が淵源となって、やがて東京・国立競技場に十万人が集って行われる文化祭へと発展していくのである。
34  体育大会から三日後の十一月十日、長野県・軽井沢の妙照寺で、落慶入仏式が営まれた。相模原の橋本にも、前年、正継寺が建立されたが、新築の寺院ではなかった。敷地を確保し、本堂から庫裏まで、創価学会の手によって新築した寺院が建立、寄進されたのは、この妙照寺が第一号ということになる。
 戸田は、全国的な広布の急激な伸展とともに、周到に地方寺院の建立という新局面を開いたのである。
 妙照寺落慶入仏式の当日は、法主の水谷日昇が出席し、戸田をはじめとする学会幹部、さらに、この地方の学会員のほとんどが参加した。本堂は参加者であふれ、庭に立つ人も多かった。
 午後一時、木の香も新しい本堂で読経のあと、日昇の慶讃文奉読が終わると、戸田はあいさつに立った。
 彼は、一年前の軽井沢地区総会の折の憂慮を、まだ忘れていない。厳しい表情を崩さず、この地方の学会員に、信心の心構えを指導しなければならなかった。
 「創価学会が、全日本に寺を建てようとすることは、最初からの既定方針であります。
 最初、鶴見に建てようとした時、僧俗の一致をみることがなくて、学会の総力を結集して大きな寺を建てようという、私の乾坤一擲の計画は、遂に失敗に終わりました。次に相模原の橋本にある民家を寺に改築したが、これは、まだまだ心に任せなかった。
 今、ようやく、この、まぁ、譬えて言うと、幼稚園から小学校の一年生になったような寺ができた。しかし、私としては、まだ心に足りないところがあります」
 戸田は、この第一号の寺のあとに、数十の寺院建立の計画をもっていた。そして、やがては数百以上の寺院が建立される未来のことも思っていたにちがいない。
 さらに戸田は、こう訴えた。
 「ともあれ、純真そのものの、ひたぶるな信心を貫き、軽井沢の信心を永久に絶やしてはなりません。それだけは言っておきます」
 全国の会員の真心を結集しさえすれば、寺は、やすやすと建つ。すばらしい時代の到来ではあるが、同時に、その安易さを彼は恐れなければならなかった。信心が安易さに流れた時、必ず堕落するからである。これを恐れた彼は、僧俗ともに、信心という根本の魂を打ち込みたかったのである。そして、信心だけは純真に、ひたぶるに貫き、どこまでも広宣流布に邁進するよう、強く訴えた。
 この日から一週間たった十一月十七日、戸田は秋田に行った。秋田の妙華寺の落慶入仏式のためである。それからまた一カ月たたないうちに、今度は、高崎に赴いた。十二月十五日、高崎の新寺院、勝妙寺の落慶入仏式のためである。
 創価学会の組織が、全国的に拡大するにつれて、全国にわたる寺院建立計画の具体化が、この年の新しい局面として現れてきたといってよい。広宣流布への、戸田の壮大な構想は、ようやく、その一端を世間に見せ始めたのである。
 それは、暗い世相のなかにあって、寒い朝、やっと朝日が差し込んできたような感触を、健気な同志に与えた。
35  一九五四年(昭和二十九年)という年は、一月二日、皇居の二重橋(石橋)の上で、参賀の群衆が混乱し、圧死十六人、重軽傷六十数人を出すという不祥事から明けた。
 ビキニの水爆実験が、黒い恐怖を日本の人びとに与え、国民は政府の勇断を望んだが、その政府は造船疑獄の黒い霧でかすんでいった。この根深い汚職事件は進展し、時の自由党幹事長が、造船業界から約二千万円を収賄した疑いが濃くなり、検察当局は逮捕を国会に請求するにいたった。
 四月二十一日、吉田茂首相は、時の法相に命じて、突如、検察庁法第一四条によって指揮権発動を行い、逮捕延期を指示した。幹事長の逮捕は、内閣の命運を左右したからである。指揮権発動の根拠は、「事件の法律的性質と重要法案の審議の現状に鑑みて、本件は特別例外的事情にあるもの」という、内閣には、まことに都合のよい見解であった。
 これを発動した法相は、直ちに辞職。左右両派の社会党を中心に、野党は憤激して内閣不信任案を提出したが、二百八対二百二十八の小差で否決された。後任の法相は、「延期指示は国会終了とともに消滅する」と検事総長に伝えたものの、逮捕の時期を失った事件は闇に葬られた。
 ともかく、指揮権発動は自由党幹事長を救ったが、後に続いたであろう多くの逮捕予定者をも救い、さらに百人に及ぶ被取調者をかかえた吉田内閣の危機を救った。事件は下級官僚二人の自殺を出して不問に付されたのである。
 しかし、吉田政権は極めて不安定なものとなり、以来、保守党内の内紛が続き、反吉田の鳩山一郎らによって、日本民主党が、十一月二十四日、結成をみた。これで内閣不信任案の成立は確実となり、十二月七日、満六年にわたって続いた吉田内閣は総辞職し、崩壊したのである。
36  朝鮮戦争(韓国戦争)休戦後の、わが国の経済界の状況はどうかといえば、特需依存は昔日の話となり、アメリカの経済援助も空しい期待に終わり、前途の見通しも暗澹としてきた。ほそぼそと自立経済に向かわなければならなくなった。国際収支は悪化し、経済的危機は、日本列島に重く覆いかぶさってきたのである。
 近江絹糸などの長期ストライキをはじめとし、数々の争議が各所で始まった。国際情勢は冷戦の重圧、政局は不安、経済界は前途に光明を見いだすととなく、危機的な世情のなかで、国民は暗い表情を余儀なくされていた
 このような重苦しい世間をよそに、貧しい日常のなかで、ひたすら希望に燃えた瞳を輝かせている一団があった。それは、戸田城聖に率いられた創価学会である。全国民からすれば、芥子粒ほどの少人数で、全く社会に埋没しているように見えたが、光るものは、明るく光っていた。
 この年に、光は急速に増大しつつあった。世間も、ようやく、この光を無視できないところまでしたが、不思議な光を光として信ずることを拒否し、批判の砲火を浴びせ始めた。しかし、この不思議な光は、当時の社会の闇がいかに黒かったか、その明暗を色濃く照らし出したのである。

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