Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

学徒  

小説「人間革命」7-8巻 (池田大作全集第147巻)

前後
2  「つまり、こういうことだ。われわれは、釈尊の時代にも、正法、像法の時代にも生きているのではない。ありがたいことに、末法に生まれて、人類最高の智慧である日蓮大聖人の仏法に巡り合えた。この認識から、一切は、始まらなければならない。
 釈尊の法華経と、大聖人様の法華経とを、明確に区別しなければ、仏法の真髄というものを、現代に生かすことはできない。今の譬喩品のところでも、これを読み切るには、大聖人様の立場に還って読む必要がある。すると、法華経が、すらすらとわかるようになる。
 末法における『無智の人』というのは、最高の智慧である南無妙法蓮華経を知らない者をいう。南無妙法蓮華経の御本尊を信ずる人、仮にも信じようと志す人は、『利根にして 智慧明了に 多聞強識にして 仏道を求める者』になる。この南無妙法蓮華経を知り、信ずる人のみが、『此の経』つまり法華経を正しく学ぶことができるんです。君たちも卑下することはない。御本尊を受持したからには、決して『無智の人』ではなく、既に立派在学者といってよい。
 いつも言うように、法華経は、こう読まなければならんのです。要するに、法華経の骨髄は、御本尊の御姿を示したところにある。これが、法華経の究極の理解になるでしょう。だから、この一点を踏まえないと、法華経をいくら読んでも、とんでもない誤りを犯すことになる。法華経の文字を一生懸命に解釈しても、さっぱりわからないでいるのが、今の仏教学者なのです。
 大聖人様の立場から法華経を読めば、非常にはっきりしてくる。また、法華経から逆の順序で諸経を読んでいくと、わかりやすいものだよ。
 それを、阿含部から始めて、方等部、般若部という順序で読んでいくと、ちょうど流れに逆らって舟を漕ぐようなもので、一切経を読んでも、結局、何がなんだか、わからなくなってしまうにちがいない。
 ともかく、われわれは、末法に生まれているのは事実だ。ゆえに理解の根底は、いやでも、ここにあるんです。末法の法華経は、日蓮大聖人の南無妙法蓮華経です。これが末法における最高の智慧だが、同時に、末法の苦悩の衆生を救う民衆救済の原理である。
 そこで、大聖人様は、鎌倉時代は封建社会であったので、鎌倉幕府に、この最高の智慧をなんとしても教えたかった。これが国主諫暁となって、流罪などの弾圧を受けられる原因となった。大聖人様の御一生のなかで、この国主諌暁は、前後三回にわたっておられる」
 戸田は、ここで、ひと息ついた。
3  一人の学生が、首をかしげて言った。
 「三回も国主諌暁をなさって、御本仏であられるのに、遂に成功しなかったわけですね。大聖人様は、さぞかし無念に思ったことと思いますが、どんなものでしょう」
 渡吾郎は、これを聞くと奮然として否定した。
 「無念などというような問題ではないはずだ。大聖人様は、最初から成功しないことを、既にご存じであったにちがいない」
 「では、なぜ三回もなさったのかな」
 「南無妙法蓮華経を、当時の民衆に教えるには、たとえ、それが、すぐに成功しなくとも、いちばん効果的な手段だと、お考えになったにちがいない」
 「果たして、そうだろうか」
 二人の学生は、むきになって言い張っている。
 そして、戸田の判断を求めるように、一斉に目を向けた。
 「はっきりしたことは、大聖人様に伺わないことにはわからんが、私は、こう思っている。成功する、しないという問題は別として、やれるだけ精いっぱいやってみようとの、御志はあったでしょう。大聖人様としては、一生をかけられた重大問題です。
 そして、大聖人様が三回目の国主諌暁の時、つまり佐渡からお帰りになって平左衛門尉に会われた時、幕府は折れてきた。
 大聖人様の仏法は認めましょう。お寺も造って差し上げます。ただし、他宗を排撃することをやめ、蒙古降伏の祈祷を修してもらいたい――と条件をつけた。しかし、大聖人様は、あくまで妥協なんかなさらなかった。さっさと、身延の山にお入りになってしまった。
 そして、身命にも及ぶ大弾圧にも屈しなかった弟子たちがいる以上、大聖人様の仏法は、もう滅びることはない。永遠に残るであろう、という御確信に立たれた。
 『報思抄』に『日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外・未来までもなが流布るべし、日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり、無間地獄の道をふさぎぬ』という御文があります。大聖人様は、御自分の仏法が、未来永劫にわたって、脈々と生きていくという御確信を、身延の沢にお入りになられても、ちゃんと、もっておられた。
 国主諌暁が成功しようが、しまいが、大聖人様の仏法が、未来永遠に伝わらないことには、どうしようもない。むしろ、令法久住ということの方に、大きく、深く、重点を置かれたと、私は思っている」
 戸田は、いつか情熱を込めて語っていた。
 学生たちも、何か、ため息をつき、感嘆しながら聞いていた。それは、理論で納得しようとする彼らの習性が、戸田の話を聞くと、いつも刃がこぼれたように、砕け散ってしまうのであった。彼らは、理論のその奥に、きらきら光る戸田の智慧を仰ぐ思いであった。
4  東大の学生たち数人が、こうして戸田直々の講義を受ける幸運に恵まれるまでには、彼らには、さまざまな経緯が綾をなし、数々の偶然とも思えることが重なっていた。ただ不思議なことは、彼らが学会に入る前から法華経に魅了されて、そのなんたるかを求め抜いていたことである。
 たとえば、渡吾郎が初めて南無妙法蓮華経を不思議と思い、深い関心をいだいたのは、終戦直前のころであった。彼は″満州″の奉天(現在の中国・瀋陽しんよう)に住む旧制中学の学生であった。彼の家は日蓮宗で、家族は、よく題目をあげていた。父は、満州国軍の中佐で、特務機関の仕事をしていた一風変わった軍人であった。この父は、終戦を前にして病死した。生前、よく大酒を飲みながら、「くだらん戦争だ」というようなことを口走っていた。
 彼が、国民学校を卒業した時、陸軍幼年学校を志望すると、父は、珍しく、いきなり怒りだした。
 「おまえは、軍人になんか、なってはならん。いずれ東京に行って、東京帝国大学という大学に行くんだぞ。そのつもりで勉強をうんとしておくんだ」
 旧制中学に進んだ彼は、異境の地で終戦を迎えた。父は亡く、母と姉妹の四人の家庭である。間もなく、この居留地の邸宅街には、ソ連軍に追われた奥地の開拓民が、どっと流れ込んだ。そして多くの人が死んで、その死骸を埋める作業を、彼も手伝わなければならなかった。
 いよいよ、ソ連軍の奉天占領が始まった。暴行や略奪が頻発し、多くの人が家を焼かれたり、命を失ったりした。
 しかし、そのなかで、たまたま彼の家は被害を免れていた。
 少年・渡吾郎は、それは、自分の家が題目を唱えていたからではないかと思った。そして、南無妙法蓮華経は、この時、少年の脳裏に焼き付いたのである。
 一九四六年(昭和二十一年)六月、彼の一家四人は、日本に引き揚げてきた。会津の親類に身を寄せたが、一家の柱を失っていた引き揚げ者家族にとって、安住の地は、そこにはなかった。三カ月ほど過ぎて秋風が立っころ、一家は東京に移り住んで職を求めた。母が働き、姉も働き、彼もアルバイトをしながら旧制中学の三年に編入して、苦しい再生の生活が始まったのである。
 少年の心の支えとなった唯一の目標は、今は遺言となった、「おまえは東京帝国大学へ入れ」という父の遺言であった。そのための勉強であり、アルバイトである。一切の青春の希望は、そこにしかないように思われた。
 彼は、その後、学制の改革にともなって新制高校に進んだ。勉強に力がこもった。五〇年(同二十五年)四月には、新制東京大学にめでたく合格した。
 東大生の渡吾郎は、蘇生した思いで、青春のあらゆる希望と栄光が、そこに待っているように思った。不動の信念を培う思想や、汲めども尽きぬ深い友情や、晴れやかな未来の展望を、そこに期待した。
 彼が、ここ数年、東大入学にかけたのも、理想と情熱と若さに満ち、この世の正義と自由が脈打つ楽園が、そこにあるものと想像していたからである。
 満州での終戦以来、一日一日の生活は薄氷を踏むような苦渋に満ちたものであっただけに、少年の彼は、夢をふくらませるだけふくらませていたのである。
5  しかし、彼は、駒場の教養学部に通学してみると、一日一日と幻滅を味わわなければならなくなった。彼には、周囲の学生たちが、秀才顔をした冷酷な個人主義者や、要領のいい保身主義者に見え、語るべき友はいなかった。また、師とすべき教授たちも、知識の切り売りに精を出しているとしか思えなかった。
 ただ、彼のこのような幻滅を、すべて、当時の級友や教師たちに帰することは、決して妥当とはいえないのが、そのころの世情であった。彼らは、皆、乱世に生きていたのである。級友は、皆、彼をも含めて、軍国主義的思想を少年期に徹底して叩き込まれてきていた。ところが敗戦によって、一夜にして一切の価値観が転倒したのである。確かなものとして信じ込んでいたことの崩壊は、突然、彼らを虚無に陥れた。日本の勝利を心から信じていた彼らは、最後の一瞬まで夢にも思わなかった敗北の宿命を、突然、身に背負わされたといってよい。
 虚無のなかで模索し始めた当時の青年たちが、心から求めていたものは、食糧と、そして、確固たる人生観や世界観であった。当時、軍国主義的思想の反対の極に、戦前からのマルキシズムがあった。空虚な学生たちの頭に、あっという間に、マルキシズムが浸透したのも故なきことではない。そして、その波に乗って、駒場にも学生運動が華やかに繰り広げられていった。
 戦後の学生運動は、大学における自治獲得の運動として始まった。終戦の年の一九四五年(昭和二十年)十一月二十一日には、東大、早大、慶大、日大、東京女子大など、都下の大学・高等専門学校の有志によって、横の連絡会議として都下学生連合会が結成された。この波は、やがて全国に波及していって、大学単位から地域の連合体となり、全国的規模にまで拡大されていったのである。
 四八年(同二十三年)になると、全国の国・公・私立大学、高専の百四十八校の代表約二百五十人が参加して、全日本学生自治会総連合の結成大会が、九月十八日から二十日までの三日間をかけて、東京で開催された。これが後に、その過激な行動でたちまち世界的に有名になった「全学連」である。
 時あたかも、国際的な東西冷戦の暗雲が世界を覆いつつあった。日本占領政策の変更を余儀なくされ、反共政策を強めていた。全学連のへゲモニー(主導権)は、共産主義的学生によって握られていた。必然的に学生運動は、アメリカ占領政策に反対する政治闘争の色彩を、日を追って急速に濃くしていった。
 四九年(同二十四年)の後半から、GHQ(連合国軍総司令部)は、民間情報局教育顧問のウオルター・C・イールズに、全国の主要大学で講演させ、共産主義者の教官とストライキを行う学生の追放を叫ばせていた。
 翌五〇年(同二十五年)に入ると、全学連は、この講演に対して拒否闘争を展開し始め、東北大では十四人、北大では十人の学生が、このために処分されている。集会とデモが全国各地で繰り返された。六月三日には、「全労連(全国労働組合連絡協議会)」のゼネストに呼応して、イールズ講演に反対する、全学連傘下の大学、専門学校の四十三自治会の学生が参加して、戦争反対の声明を発してストライキを敢行した。
 六月十七日、GHQの方針を受け、文部省は学生の集会・デモ禁止を全国の大学に通達した。
 この直後の六月二十五日、朝鮮戦争(韓国戦争)が勃発し、最悪の事態へと時局は突入した。GHQは、共産主義者への弾圧をますます強化し、報道関係や共産党、労働組合の幹部のレッド・パージが始まった。レッド・パージは、順次、各界に及び、映画や電力関係、官庁にまで進み、九月になると、各大学の教授も俎上にのぼった。
 東大教養学部自治会も、九月二十二日、教授のレッド・パージに反対する決議を行い、その闘争として試験をボイコットする挙に出た。さらに、裏切りを警戒してピケラインを張り、警官隊に対抗して気勢をあげていった。
6  渡吾郎が、入学早々、学内で目にしたものは、時の流れのなかで荒れ狂う青年たちの殺伐たる光景であった。血の気の多い彼も、また巻き込まれざるを得なかったが、大多数の学生と違って、自治会を掌握していた一部のグループにくみすることは、彼にはできなかった。満州で、ソ連兵による占領という体験をもつ彼は、共産主義には、どうしても、なじめなかったからである。また、その折に実感した南無妙法蓮華経の不思議さが、彼の胸中には人知れず秘められていたのである。彼は、デモにも集会にも参加したが、数千の熱狂する学生のなかで、極めて孤独であった。
 この年の秋も深まったころ、彼は、ふと池上の本門寺へ足を向けたのである。ちょうど御会式の当日であった。彼は、賑わう雑踏のなかで、異様な僧の姿を見かけた。黄色い衣を着、団扇うちわ太鼓を叩く僧である。僧は一隅で、盛んに演説をぶっていた。立ち止まって耳を傾けると、非暴力、不服従のガンジー主義的平和思想を説き、日蓮の遺文の一節を叫んだりして、戦争反対と絶対平和主義を盛んに鼓吹しているではないか。
 孤独に沈んでいた渡吾郎は、南無妙法蓮華経には弱かった。しかも、戦争に懲りていた彼に、反戦を叫ぶ日蓮宗系の僧は、極めて魅力的であった。彼は、この時の奇縁から、この平和運動に身を挺することになった。
 渡吾郎は、衣こそ着なかったが、講演会の準備を手伝ったり、インド映画を見る会を準備したりした。しかし、彼は、そこに真の充実を見いだすことはなかった。心の奥深く、常に空虚が潜んでいたのである。
 アルバイトは、依然として続けなければならない。彼は、週に三日、電気やガスのパイプ取り換え工事などという、かなりの重労働に耐えながら、学資を稼いだ。奨学金をもらったが、日々の物価の高騰には、なかなか追いつけない。学生生活が苦しかったのは、彼ばかりではなかった。
 当時の統計を見ると、東大の学生のなかで、約三割が奨学金を受けており、なんらかのアルバイトをしていた人は、六割以上である。
 こうした日々のなかで、彼の心は、肉体的な疲労と、生活の苦しさのために荒れ果て、いったい、なんのために生きるのか、ということを問い続けていた。
 渡吾郎は、その解答を仏教に求めた。暇をつくっては、古本屋で仏教の経典を立ち読みしたり、之しい財布から一冊一冊と買い求め、それを書棚に並べては、ひそかに喜んでいた。若い求道者は、仏教の経典に慰めを見いだしていたのである。
 教養学部に入って一年たった彼は、学業も面白くなく、仏教の専門大学へ転学したいと考えた。そして、思う存分に仏典を耽読できたら、どんなに幸せであろうと思い詰めたりした。
 こうした孤独のなかの読書を続けているうちに、数多くある経典のなかでは、法華経が最も優れて、最高のものだということだけはわかった。
 最高の哲理を期待した彼は、法華経と取り組み、訳本や解説書を真剣に読むようになった。
 しかし、何が最高の哲理なのか、どうもよくわからない。法華経は、冒頭から、この経はすごい、すごいと讃嘆しているが、読み終わっても、結局、その奥底にあるものは、なんにも実感としてとらえることができない。
 彼は、途方に暮れた。
 法華経は、他の経典に比べて、確かに魅力に満ちてはいる。しかし、彼は独力では、この魅力の解明が不可能だと知ると、同好の友を求めざるを得なくなった。この時勢に、仏典の研究をしようなどという学生は、彼の周囲にはいなかった。
 彼は思いついた。
 ″そうだ、東大の全学生のなかには幾人かは、いるかもしれない。ひとつ「仏教研究会」の設立の趣旨を、本郷と駒場の校内掲示板に張り出してみよう″
 それは、一九五一年(昭和二十六年)十二月のことであった。
 入会希望者は、自治会室の隣のアルバイト委員会の部屋に申し込むことにしてあった。書面の申し込みが三通あった。そして、一人の学生が、彼を訪ねて部屋にやって来た。
 その面識もない学生は、藤原明と名乗った。
 小柄な体で、メガネをかけ、蒼白な顔をしている。易者のように肩まで髪を長く垂らした、哲学科志望の文科の学生であった。
 理科の渡吾郎は、その風体に驚いたが、わざわざ足を運んできた学生を珍客として、人なつこく応対した。二人の青年は、それぞれ仏教に関する怪しげな蘊蓄を披歴し合っていたが、そのうちに、法華経に最大の魅力を感じているという点で意見が一致した。そして、さらに、法華経を原文で読むために、サンスクリットの習得を考えていることまで一致していた。意気投合である。
7  藤原明は、旧制中学の四年の時、受験勉強で体をこわし、一年休学した。父の郷里で療養している時、ふと、「人間なんのために生きるのか」という疑問に取りつかれてしまった。悩み苦しむ彼を慰めてくれた人に、東北大出身の物理学者の従兄がいた。
 従兄は、少年の彼に能弁に語りかけたことがあった。
 「西洋の思想では、ゲーテの『フアウスト』が最高峰であるが、それより仏教の方が優れているらしい。なかでも法華経というのは、その最たるものであるということになっている」
 やがて、健康を取り戻して復学した彼は、父親の書棚から仏教に関する書物を引っぱり出して読んでみたが、なんら得るところはなかった。
 その後、彼は東大に進学したが、「人間なんのために生きるのか」という疑問を引きずったままであった。依然として病弱であった彼は、学業を放り出して、悶々としながら、やがて来るであろう死について考えた。死ぬまでに、人生観の確立をしておくことが急務になったのである。
 彼は、一人で法華経を読み始めた。しかし、わかるはずもない。あまりにも大きな展開で、つかみどとこもない。難解な箇所に出合うたびに、彼は、その道の先達を求め抜くようになった。
 ある夏の日、彼は、小学校から高校まで同級で過ごした幼友達に会った。大学は違ってしまったが、懐かしさには少しも変わりは、なかった。互いに近況を語り合っているうちに、彼の疑問が話題になった。
 「いや……それで今、法華経などを読み始めたんだが、さっぱりわからないんだ。誰か教えてくれる人がいるといいんだがな……」
 蒼白な顔の藤原明の告白に、健康な友人は勢い込んで言った。
 「そう、そう、その法華経とかいうものだ。実は、ぼくの大学の英語の先生に神田丈治という人がいるんだが、それは一風変わった先生だがね。授業の終わりに、よく仏教の話をするんだ。しかし、その仏教の話は、専門の英語より、ずっと確信にあふれていて面白いよ。なんでも今の世の中に起きているあらゆる現象は、すべて三千年前に釈尊が説いた法華経にある通りだと断言するんだよ。みんな、笑って聞いているんだが、君には、ためになるかもしれないな」
 「ともかく、一度、会いたいなあ」
 藤原が、つぶやくように言うと、気のいい友人は気楽に請け合った。
 「いいとも、紹介しよう。なんとも話し好きな先生だ。君が聞きに行けば、喜んで、いくらでも話してくれるだろう。気さくな先生だよ」
 友人は、簡単に請け合ったが、演劇に熱中して忙しがっていた彼からは、夏休みが終わり、秋になっても、なんの音沙汰もなかった。藤原明は、「人間なんのために生きるのか」という命題をかかえたまま、また、その年を越そうとしていた。
 その十二月、彼は、ふと教養学部の構内の掲示板で、「仏教研究会設立」を呼びかける文書を読んだのである。
8  渡吾郎と藤原明は、さっそく「仏教研究会」の設立準備にかかった。
 第一の仕事は、まず指導教官を見つけることである。学内のサークルとして、大学当局から認可を得るためには、指導教官がいることが不可欠の条件であるからだ。二人は、どの教授に依頼しようかと物色したが、ともかく多少とも仏教に造詣のある教官でなければまずい。
 多くの教官のなかで、他のことならともかく、仏教を知る物好きな教官は得がたかった。それでも、学生たちの噂のなかから、生物学のS助教授が、なかなか仏教を研究しているらしいということがわかった。二人は、ともかくサークルの認可条件を満たすためにと、S助教授を研究室に訪れて依頼してみた。
 生物学と仏教である。断られるかもしれないと考えたが、案に相違して二つ返事で引き受けてくれた。しかも、大変、乗り気なのである。
 「私も、実は長いこと法華経を研究してきて、まあ、ある種の悟りといったものを、これでも得たと思っているんだよ。だが、今まで何人かの学生に、私の悟ったところを説いて聞かせたこともあるが、誰一人として理解する者はなかった。
 しかし、君たちは真面目に、こうして自ら求めて来たのだから、ひょっとすると、私の言うことがわかるかもしれない。私も張り合いがありますよ。ともかく焦らず、時間をかけて、じっくり教えてあげましょう」
 「どうか、お願いいたします」
 二人は神妙に、ぺこんとお辞儀した。そして、サークル認可の願書を出すと、S助教授は、書類を子細に見ていたが、顔を上げて言った。
 「君、『仏教研究会』とあるけれども、そのものずばりで、『法華経研究会』としたら、どうだろう。なんといったって、仏教の経典のなかでは法華経が最高のものです。これさえわかれば、仏教一般の理解は問題ではなくなるだろう」
 S助教授の言葉は、二人を嬉しくさせた。法華経の讃嘆者が東大の教官にもいることを確かめると、心強く顔を見合わせた。
 「結構です。『法華経研究会』の方がすっきりするし、抹香臭い感じがしませんね」
 渡吾郎がとう言うと、藤原明も、「ほかの大学にも『仏教研究会』という月並みなサークルはあるように思いますが、まだ、『法華経研究会』というのは聞きません。ちょっと新鮮な感じがしますし、この方が、ずっといいと思います」と、S助教授の提案に賛同した。
 S助教授は、やや得意になって、名称を自ら書き換え、署名捺印した。
9  こうして、集まった五人の学生を相手に、駒場の一隅で第一回の研究会がもたれたのは、一九五二年(昭和二十七年)一月二十六日のことであった。
 五人は、法華経のテキストを広げて、S助教授の講義を期待を込めて待った。ところが、彼は、古代インドの哲学史の本を机に広げたのである。
 「現代においては、釈迦を真に理解している者は絶無といってよい。それはそのはずです。真に彼を理解するためには、こちらが釈迦の高さまで到達しないことには不可能だからだ。私は、諸君を、その高さまでいくように、まず、その下地から始めたいと思うのです」
 S助教授は、大変な確信と自負の姿勢である。
 「釈迦の教説は、ある日、突然、青天の霹靂のように生まれたものではない。それはそれなりの必然性があったものと思う。したがって、釈迦以前のインドの哲学思想というものが、どういうものであったか、その探究から始めなければならんでしょう。この研究会は、その概略をしっかり知っておく必要があると思うので、そこから入ることにします」
 助教授は、こう言って、さっさと古代インドの哲学史を説き始めたのである。学生たちは、冒頭から狐につままれたような思いをしたが、指導教官に依頼した以上、成り行きに任せるしかなかった。助教授は、一人、張り切って講義を続けた。
 一方、藤原明は、幼友達から聞いた神田丈治のことが、なぜか念頭から去らなかった。彼は、友人にしばしば紹介を督促した。友人もまた、幾たびも話をし、連絡を取ってくれていることがわかった。結局、神田は、多忙を極めており、面会の日が取れないでいたのである。
 神田は、忙しかったわけである。当時、彼は、創価学会教学部の有力な一員として、立宗七百年の記念出版『日蓮大聖人御書全集』の編纂に加わり、休む間もない日々を送っていたのである。
 三月に入ると、友人は、わざわざ神田の自宅を訪ねてくれて、面会の日取りを遂に取り決めてきてくれたのである。
 「君、やっと決まったよ。三月十七日の夜、自宅に行けばわかるようにしておいたよ。君のことは、神田さんに、よくお話ししてきたつもりだ。今日は、ぼくがさんざん聞かされたよ――法華経の話を。だが、とても反論するどころではなかった。
 しかし、ぼくは、信心しろと言われたって、とてもできないものな。でも、何かしら確たるものがあるらしいことはわかった。
 今日、初めて知ったが、なんでも神田さんの上に、さらに戸田城聖という偉い人がいて、その先生から神田さんも、何から何まで教わっているということだった」
 この時、藤原は、戸田城聖という名を初めて耳にしたのである。
 しかし、法華経に関するさまざまな著作を思い浮かべても、著者のなかに戸田城聖という名は出てこなかった。そんなに偉い学者なら、著書の一冊ぐらいありそうなものだが――と、彼にとっては、不思議とさえ思えた。
10  三月十七日が来た。
 彼は、一人で神田の家を訪ねた。神田は、彼を快く迎えたが、藤原の、由井正雪のような長い髪には驚いたようである。いったい、どういう東大生なのだろうといぶかつて、無言のまま、しばし見つめるばかりであった。
 小柄な藤原は、長身の神田と対座したまま、やや長い沈黙が流れた。初対面であるだけに気が臆したのであろう。
 すると、神田丈治は、突然、口を開いた。
 「君、人間の生命は永遠ですよ」
 「はあ?」
 彼は面食らって、神田の顔を見つめた。藤原には、瞬間、なんのことか、わからなかったのである。
 神田は、過去、現在、未来にわたる永遠の生命観――仏法というものが成立している根本命題――を諄々と語り始めた。
 それから話は十界論に飛んだ。
 ――人間、誰でも生命のなかに「仏界」というすばらしいものをもっているが、それは、何かの縁がないと出てこない。われわれの生活は、九界のなかを漂って、愚痴を言ったり、不平を言ったりして暮らしている。それでは人生は灰色である。この仏界という清らかで、たくましい、力強い生命を発揮することが、人生の目的でなければならない。真の仏教はこれを教えている。その真の仏教を説いたのが日蓮大聖人であり、その教え通りに実践しているのが、創価学会である。君が真の仏教を求めているなら、大聖人の仏法を求め、探究すべきだと思う。
 藤原にとって、何もかも初めて耳にする話であった。彼に、仏教に対する判断力があるはずもない。彼は、この時、折伏されていたのであるが、そうとは思っていなかった。
 藤原は、髪をかき上げて、現在の彼の仏教研究の状態を、ぼそぼそと語るしかなかった。
 ――東大で法華経研究会を組織したこと、S助教授のこと、法華経の原典を読むためにサンスクリットの勉強を始めたこと、将来、哲学科へ進むつもりであることなど、神田の話の次元とは全く異なった、自己の路線の話をした。
 藤原の話を聞きながら、神田は、思った。
 ″これは大変だ。仏法を求めながら、ことごとく見当違いなことを始めている″
 彼は、一人の学生を救おうと、数々の忠告を与えていった。
 「君、法華経を勉強するのもよいが、へたに教わるというのは、考えものですよ。法華経の正しい読み方というのは、日蓮大聖人の相伝がなければできないことです。それを勝手に読んだ人びとが、過去においても、その人の人生や社会に数々の不幸をもたらしているんです。この際、慎重に考え直したらどうですか。
 また、サンスクリットを勉強して、法華経の原典を読もうということだが、釈尊の仏法は、大集経で言われている通り、末法の今日に、おいては滅び去っているのです。わざわざ余計な冒険をして、怪我をしなくてもいいではないですか」
 彼のいだいていた、これまでの仏教に関する常識が、ことごとく誤っていると言わんばかりである。大きな衝撃を受けた彼は、呆然とした。
 黙り込んでしまった彼に、神田は重ねて言った。
 「私どもの会には、今時、珍しい真面目な青年が大勢います。明日の晩も、ここでそうした青年たちの会合があります。ひとつ出てみてはどうですか」
 藤原は、神田の家を辞して、道々考えながら帰った。
 ″もし、神田さんの話が真実だとすると、これは大変なことだ。ひょっとすると、これが本物の仏教かもしれない。しかし、真実かどうか、本物かどうかは、いったい、どうして判断したらよいのか……″
 彼は、それを見極めたいと思った。そして、翌日の会合に出席することを心に決めたのである。
11  藤原は、翌日の夕刻、幼なじみの友人を誘った。友人は、「ぼくは、たくさんだよ」と口では逃げたが、暇だったので、しぶしぶ一緒に出かけた。
 神田宅には、十五、六人の青年が集まっていた。神田は不在であったが、中心者らしい班長と称する男が、てきぱきと会合を進行させていた。
 青年たちは交互に立って、価値論、十界論、仏教の歴史、宗教批判の原理、御本尊の功徳、体験談と要領よく語っていく。まことに内容豊富な座談会である。
 理路整然とした話のなかで、藤原の頭に最も強くひっかかったのは、御本尊の力というものを、確信に満ち満ちて語る青年たちの顔であった。
 ″彼らは、本当に信じているのであろうか″と疑った。
 「質問はありませんか」という言葉に、彼は反射的に手をあげた。
 「その御本尊に題目を唱えると、幸福になるという結論ですが、それは理論的にいうと、どういうことなのですか。その点を説明してくれませんか」
 班長は、やっかいな男だと思った。そして、不機嫌な顔をしながら言った。
 「理論的にと君は言うが、仏法のことを知らな人には、なかなか簡単には説明がつかないものですよ。君が求めているなら、毎晩でも話していい。ぼくらでわからなければ、立派な先輩に紹介もしましよう。
 しかし、仏法の偉大な理論は、一日や二日でわかるものではないですよ。それよりも論より証拠で、早く信心して、現実に証拠をつかみ、なるほどと実感してから、本気になって勉強した方が早道なんです。
 たとえば、飛行機が便利なものかどうかは、乗ってみれば、すぐにわかります。それを、なぜ、飛行機が飛ぶかがわからなければ乗らないというのでは、埒が明きません。いつまでも空論に迷わされてしまいますよ」
 藤原は、入会を勧められたが、踏み切れない。彼の友人もまた、入会しなかった。そして、その場にいた、もう一人の未入会と思われる青年は、憤然として席を蹴って帰っていった。
 座談会は終わった。藤原は、友人を促して座を立とうとした。すると、友人は「せっかく来たんだから、もう少し話を聞こう」と言って動かない。
 その時、一人の青年が、傍らに寄って来て、物静かに話しだした。彼は、東大工学部の出身であると語った。
 「私も、これまでのいろんな学問が、かえって邪魔になってしまい、最初は、とても信じることはできなかったんです。
 ただ、そのころ、精神的にも、どうにもならない辛いことがあって、″まず信心しても、別に損はしないだろう″と思って、入会しました。
 御本尊に題目をあげ、こんなことで果たしていいのかと思いながらも、三日ばかり続けたところが、全く不思議ですね。その困難な心境が、解決したんです。力強い希望が、ふつふつと湧いてきたんです。私は、びっくりしましたよ。
 そして、その不思議な力が、どうして起きたのか知りたくて、この仏法というものを勉強し始めたんです。すると、今まで自分の知らない分野における因果関係が、ちゃんとあることに気づいた。仏法には文証、理証ときちっと、そろっているんです。あなたも、ともかく勇気をもって、実践してみることを、お勧めしますね」
 藤原は、この東大の先輩の話に嘘のないことはわかったが、心の底での反発は、どうしょうもなかった。
 「あなたは、すると利益を受けたわけですね」
 「そうです」
 「その利益のあるということは、今の科学で説明がつくんですか」
 「それは難しい。今の科学というものは、生命に対する考察は全く欠いていますからね。説明はつきません。この意味からすると、真の仏法というものは、生命の科学といってもいいと考えますが……」
 「生命の科学? はぁ、そうですか……」
 藤原は、この先輩の話を聞いて、ことによると、そうかもしれぬと思ったりした。いや、真実の生命の法則ならば、大いにあり得ることかもしれないとも、ふと思い始めた。
 夜は更けて、十一時を回っている。そこへ神田丈治が帰ってきた。彼は、藤原と、その友人をひと目見るなり、笑いながら言った。
 「君たちには、ちょっと難しいだろうね」
 これを聞いて、藤原は、むっとした。君のような人間は、とうてい信心できまいという断定にもとれたし、君の頭では、とてもわかるまいという意味にもとれた。
 彼は、そのまま席を立ち、友を促して家を出た。駅に着くと終電車が来たところであった。
 彼には、この夜のことが頭に残って離れなかった。煩悶のうちに数日が過ぎた。そして、三月二十日午後の法華経研究会に出席してみると、S助教授の講義が、どうも現実離れしていて、一つも頭に入らくなってしまった
12  藤原は、やるせない思いで、帰途、渡吾郎を誘って家に帰った。座談会の模様を、ぼそぼそと語って悄然としている藤原を、渡は、ただ元気づけるように、彼が、仏法に関して知っていることのすべてを滔々と喋りまくった。終戦時の「満州」での体験から、法華経を解明したいとの悲願をもつようになった経緯を熱烈に語った。
 終電車の時刻は、とうに過ぎ去っていたが、話は尽きない。渡は、その夜、藤原の家に泊まった。藤原が、この時、考えたことは、創価学会員でもない渡が、どうして、かくも南無妙法蓮華経を強調するのか、それがあまりにも不可解でならなかった。
 ″神田さんたちが話してくれた日蓮大聖人の仏法には、ことによると偉大な力が潜んでいるのかもしれない……″
 そして、数日の沈思の果てに、「人間なんのために生きるのか」という彼の長年の慎悩は、実は、彼が心の底で、「幸福」を求めていたのだということを知った。
 彼は、「人生の目的」としての幸福を追求していながら、それを「人生の意義」ということにすり替え、いたずらに西欧哲学的な思考で自らを苦しめていたのである。
 藤原明の生命は、無意識のうちに、この人生における偉大な「価値」を必死になって求めていたのだ。つまり、彼は、「価値」を求めていながら、それを、いつしか「真理」を求めていると、錯覚していたことに気がついたのである。
 彼の精神状態は、やや秩序を取り戻し、かすかなる曙光を見いだした。すると、神田丈治の「君には、ちょっと難しいだろうね」と言った一言が蘇ったのである。
 彼は、もう一度、神田を訪ねようと決意した。内気な彼は、またも友人を誘って出かけたのである。
 神田に会うと、彼は、座談会の夜以来たどった思考の跡を、たどたどしく語り、確かなる仏法であるか否かを、重ねて確かめるのであった。
 小一時間、話が続き、日蓮仏法は絶対であるとの、神田の力強い裏付けの言葉を聞くと、彼は、遂に入会の決意を述べた。
 神田は、喜びながら言った。
 「そうです。価値というものは、そのものに直接関係してみないとわからないものです。つまり価値というものは、その人の生命と、そのものとの間に生ずるものですからね」
 「しかし、今の私の状態は、正直言って半信半疑なんです。とても腹の底から信じるとは言えません。信仰するというのに、半信半疑でよいのでしょうか」
 藤原は、まだまだ不安でならない。神田は、それに軽く笑って答えた。
 「いいですとも。半信半疑といったって、半分は信じていることになるではありませんか。それで結構。誰だって、最初から、まるまる信じて入る人はいません。私だってそうだつた」
 友人は、藤原の入会後の様子をしばらく見てからと言って、即答を避けた。藤原だけ、一九五二年(昭和二十七年)四月三日に御本尊を受持したのである。大学の二年に進級した時であった。
13  藤原明は入会したものの、自分に、ある確信がつかめるまではと、法華経研究会の誰にも積極的に話をすることもなかった。数カ月が過ぎた。
 渡吾郎は、相変わらずアルバイトと、学業と、平和運動に、せかせかと忙しく動いていた。「血のメーデー」と後にいわれた五月一日の集会には、彼も参加していた。彼は、桜田門で警官隊に襲撃されて足を怪我したが、逮捕は免れた。非暴力、不服従の彼の平和思想の夢は、現実に直面して無残にも砕かれた。
 彼は、これらの一連の反権力の運動に懐疑をもち始め、時には絶望的な思いに駆られて、無気力な自分自身をもてあました。これではならぬと思いながらも、仏典の耽読に沈むより仕方がなかった。
 六月の入梅直前の夜、ある用件があって、彼は、東京・神田の教育会館にある、平和推進国民会議の事務所を訪れたのである。彼は、そこで親しい一人の僧と落ち合った。用件を終えて、二人は連れ立って部屋を出た。すると講堂では、何かの集会があるのか、盛んに拍手が漏れてくる。
 二人は、なんの気なしに講堂の扉を押して中に入った。そこでは一人の年配者が、迫力ある調子で講義をしている。
 二人は、耳をそばだてると、日蓮に関する講義であることが、すぐにわかった。二人は満員の聴衆のなかで、通路に立って聞いていた。僧の着色の衣が目立った。
 渡吾郎は、この時、なんの会合か、さっぱり見当もつかなかったが、実は、戸田城聖の一般講義だったのである。
 異様な僧の姿を見て、やがて整理班の青年の一人が寄って来た。僧に何か話しかけ、彼を講堂の外に連れ出した。渡は、とがめられなかったものの、彼も同行者である。何事かと後について外に出た。二人は、がらんとした別室に案内された。その部屋に、三人の青年が待っていたのである。
 僧は肩を怒らして三人に対した。青年の一人が、「講義を聴きに来たのですか」と尋ねた。僧は、偶然に立ち寄ったにすぎぬと言った。そして「在家の者が、日蓮聖人の教えを勝手に講義することは、僭越もはなはだしい」と冷笑し始めた。
 二、三の押し問答が繰り返されているうちに、問題は本尊論に移っていった。三人の青年は、僧を相手に自然に折伏の姿勢となってしまった。渡は驚いて、どういう青年たちであろうかと目を見張った。
 「日蓮大聖人は、『開目抄』のなかで、諸宗は『皆本尊に迷えり』と破折されています。あなたは、いったい、何を対象として、題目を唱えているんですか」
 青年たちの追及に、僧は興奮してきた。
 「何を対象としても、差し支えないと考えている」
 「なんでもいいと言うんですか」
 「そうだ。仏舎利塔でも、釈迦像でも、聖徳太子像でも、自分で作った曼陀羅でもいい。題目さえ唱えれば、何を対象にしてもいい」
 僧の言葉に、青年たちは鋭く反論した。
 「それは、おかしい。日蓮大聖人は、『本尊問答抄』に、『本尊とは勝れたるを用うべし』と明確に仰せではないですか。なんでもいい、などとは言われていない」
 「では、君たちは何を拝んでいるのか」
 「『観心本尊抄』に『此の時地涌千界出現して本門の釈尊を脇士と為す一閻浮提第一の本尊此の国に立つ可し』と仰せになっていますが、ご存じですか」
 僧は、虚勢を張って大きな声で答えた。
 「当然だ。知らないわけがない」
 「私たちは、日蓮大聖人が『一閻浮提第一の本尊』と仰せになった御本尊を拝しています。あなたは、この御文を知っていながら、どうして御本尊を根本としないのですか」
 僧は、ぐっと言葉に詰まった。
 一瞬、静かな雰囲気に戻った。すると長身の青年が、低いが強い言葉で言った。
 「あなたは、日蓮大聖人の弟子の格好をしているが、そのままでは、大聖人の仏法を破壊していると思いませんか」
 「破壊はよかった。ハッハッハッ」
 僧は、顔をゆがめて嘲笑した。そして、さっと部屋から出ていった。
 渡吾郎は、ここでまた、もう一つの幻滅を味わわなければならなかった。平和運動の同志の一人と思っていた彼が、その夜、表した態度は、まことの僧の姿ではない。渡は、仏教の同志と思ってきた彼との平和運動の意欲も、徐々に失っていった。そして、藤原が折々に話してくれる不思議な団体の話に、耳を傾けるようになった。その一方では、法華経研究会を盛り上げるよう熱心に走り回っていた。
14  藤原明の方は、その後、連絡を受けると、青年部の幹部会や座談会に出席していた。彼は、隅の方で、人目につかぬように聞いていたのだが、数カ月もすると、知人、友人に会つては、日蓮大聖人の仏法の存在と、その歴史とを話すようになっていた。
 彼は、まず両親に、懸命になって話したが、聞いてはくれなかった。幼友達にも何度も話した。高校時代の友を訪ねては話した。法華経研究会の会員にも話したが、誰も彼のように信心する人はなかった。
 藤原は、二度、三度と、渡のアパートへ通った。ある時、渡は、意外にも、どこで調べてきたのか、創価学会の存在をよく知っていた。
 「あれは君、日蓮系のなかでは、最も正統派で、また最も熱烈な教団だよ」
 「そこまでわかっているなら、早く入会して、一緒にやってみないか」
 「いや、そう簡単にはいかない」
 藤原の折伏は、なかなか功を奏さなかったが、入会四カ月目の八月――彼は、夏季講習会に誘われて、初めて総本山大石寺で五日間を送った。彼が、そこで目にしたものは、彼の経験や教養からは想像できなかった、全く別の世界であった。
 そこに集った人びとの真摯な信仰態度、しかも歓喜にあふれ、一切の差別観を一掃した団体行動は、かつて彼の知らないところのものであった。
 病弱の彼は、最初のうちは、団体行動の一律性が、いささか辛かった。しかし、これも仏道修行であろうと思い、三日、四日と日が過ぎていくと、それが不思議にも気にならなくなった。
 戸田城聖の講義は、真の仏法のいかなるものかを教えて、余すところがなかった。夜の会合で聞く、多くの人びとの身を削るような体験談に、藤原は感動し、目頭に涙を浮かべることさえあった。理知の固まりと思っていた自分に、なぜか人間の真実の血が通う思いであった。
 どの体験も、人生苦に沈潜していた人びとが、ひとたび信仰してから蘇生する過程を語る、躍如とした物語である。それは、藤原が、かって読んだ、いかなる傑作小説にも増して、彼の心をとらえたのである。
 複雑な現代社会に、このような民衆救済の世界が、人知れず実在することは、彼の夢想もしなかった一つの驚異であった。彼が、これまで、いだいていた人生の懊悩などは、語るも恥ずかしい思いである。彼は、甘ったれていた自身の心の不純さや、だらしない日常行動を痛いほど反省させられていた。
 藤原は、謙虚になった。そして、彼の人生の前途にも、ある確信めいたものをいだくことができた。いや、自分自身を見つめることができたといってよい。わずか五日の滞留であったが、もし許されるものならば、夏いっぱいでも滞在していたいとさえ思った。
 明朝の帰途を思いながら、彼は寝床のなかで、明日からの東京のことを考えた。
 ″また、いつものぐうたらな生活に戻るのか。利口げに、空しい漂泊の旅を続けるのか。いや、……いや、まず信心を忍耐強く実行してみることだ。俺は、確実に蘇生できる!
 彼は、帰宅すると、理髪店へ行って、まず髪を短き切った。そして、しばらくして渡吾郎のアパートを訪ねた。口の重い藤原が、今日は、夏季講習会のことなどを、珍しくまくし立てたのである。
 渡は、藤原の短くなった頭髪を眺めながら、何事が起きたのかと思った。もはや、病人臭い、いつもの藤原ではない。饒舌は渡のお株を奪って、しかも彼よりも大きな声である。藤原自身は、それに気がつかなかったが、渡は、大きな目を見開いて、ただ驚くばかりであった。
 ″短時日のうちに、何が藤原をして、これほどまで変えたのか。その原因が、彼が入会した宗教とすると、これは、ただごとではない!
 渡は、藤原の誘いのままに、神田丈治の家に足を運んだ。
 神田は、ちょうど名古屋の夏季指導を終えて帰宅したばかりのところであった。折よく、東大工学部出身の先輩もいた。四時間にわたる語らいで、渡は、何も言うことがなくなった。
 その夜、神田宅で青年部の会合が聞かれた。いつもの中心者の班長は、渡の質問に答えて、絶対の宗教であることを強く訴え続けた。
 渡は、入会を決意した。
15  二人の東大生は、学会の青年部員となったのである。そのうちに、青年たちが口を開くと「戸田先生、戸田先生」と言うのを耳にして、その戸田城聖とは、いったい、どういう人物なのかと、二人は、ひどく好奇心をかき立てられるようになってきた。
 しかも、市ヶ谷ビルの二階へ行きさえすれば、誰でも面接できると聞くと、二人は、さっそく、ある日の午後、市ヶ谷に向かった。途中、渡は、二カ月前の夜の、あの教育会館でのことを思い出したりしていた。
 狭い分室の部屋である。既に面接が始まっていて、実に雑多な質問に対して、戸田は、懸命になって一人ひとりに指導していた。
 彼ら二人の順番は、かなり後の方であったが、彼らの後にも、数人の人が押しかけて来ている。ある人は、二、三分ですむかと思うと、ある人には、十五分も二十分もかかって、かんで含めるように指導する場合もあった。
 指導を受けに来た人びとの問題は、通常の世間では、口にするのも憚られるような種類のものもある。二人の学徒は、世間の裏を見るような面白さにかられて、じっと戸田の顔を見ながら、耳を澄ましていた。
 人びとは、指導を受け終わると、部屋を出ていった。これらの庶民に、これほどの信頼を受けている戸田城聖という人は、どういう人なのかと、二人は思いをめぐらしながら、一種の驚きをいだいた。
16  二人の順番になった。戸田は、二人を、ちらっと見ながら向き直り、どこの大学に行っているのか、と聞いた。二人は、東大の学生であることを告げ、それぞれ名前を名乗り、最近、入会したばかりであることを簡単に述べた。すると、戸田は、メガネの奥から、じっと二人を見て頷いた。
 「あと幾人もいないな。君たちは、しばらく待っていなさい」
 戸田は、こう言って、彼らの後の順番の人びとを呼んで話し始めた。間もなく数人の指導は終わった。
 戸田は、軽く咳払いをして、二人を小さい机の前に呼び、微笑を含みながら解放感に浸ったように語り始めた。
 「さあ、今日は、これで終わったな。……君たち、今日は、いちばん知りたいと思っていることを聞きなさい」
 直載な話である。しかも親近感が戸田の顔にはあふれでいる。
 渡吾郎は、臆せず、質問することができた。
 「仏というのは、どういうことですか」
 「仏、うん、いいことを聞いてくれたな。これがわかるには、一生かかるかもしれないが、つまりこういうことです。そう簡単な説明では納得できないだろうが」
 戸田は、何を思ったのか、傍らの書棚から一冊の本をわざわざ取り出して、ページジめくった。
 法華経の開経である無量義経徳行品第一の一節である。彼は文中に「非」という字が、ずらりと三十四も並んでいる箇所を指しながら、渡吾郎の前に示した。
 「君、ここが何を意味するかわかるかね」
 「さあ、わかりません」
 「これなんだよ、君。これが仏の実体の説明で、実に、生命ということにほかならぬことを教えているのです」
 渡吾郎は、きょとんとして、戸田を、まじまじと見つめていた。
 「ここを読み切って、仏とは生命なり、と悟るまでには、ぼくも、ずいぶん時間がかかった。戦時中の弾圧で牢屋にまで行って、やっと、わかったことなんだがね」
 戸田は、感慨を込めて、一行、一行を説明しながら、深遠極まる教理を、さらさらと話すのである。
 渡は、大きな目をしばたたいて驚きに堪えていた。
 彼らのような、未熟な一介の学生を相手に、まるで年少の友人に対するように、戸田は、彼の生涯をかけた最高の教理を、全精魂を込めて語るのであった。
 ″なんという立派な人なのであろう″
 この時、渡にとって深遠な教理は理解に遠かったが、にじみ出る戸田の人格に、涙ぐむほどの感動を覚え、圧倒されたのである。彼は、ただ嬉しく、また、ありがたかった。そして、われ知らず戸田を、″わが師″と心ひそかに仰いでいた。
 戸田の背後の窓は、日没が迫ったのか、赤く染まっていた。その背光を浴びた戸田の像は、気高くも、また人懐かしく温かだった。
17  渡吾郎との話が一段落すると、藤原明が待っていたというように、戸田に軽く会釈して話し始めた。
 「私は、哲学科に進みたいと思っていますが、哲学のなかで、何を専攻したらよいか迷っております。哲学科といっても、教授は、皆、西洋哲学の信奉者で、日蓮大聖人の生命哲学などに関心を寄せている人は、一人もおりません。
 私は、生涯、日蓮大聖人の生命哲学を深く探究し、実践していく決心でありますが、それについて西洋哲学が、いくらかでも役に立つものならば、その役に立つ分野のものを、大学で専攻したいと思います。何が適当でしょうか」
 「役に立つということは、まずないと思う。ただ、メシの種にはなるだろう」
 戸田は、磊落に笑いながら続けた。
 「ただ、こういうことは言えるね。これまでの西洋哲学といっても、真理を探究してきた以上、最高の真理に迫ろうとしている姿勢はよくわかる。日蓮大聖人の生命哲学を中心にして、もろもろの西洋哲学を見た場合、優れた哲学者ほど、大聖人の哲学の周辺の近いところを、行ったり来たりしている。
 ここには超えがたい一線があるわけだが、西洋哲学の最先端が、東洋哲学へ向かって模索し始めているというのも、最近の事実でしょう。西洋哲学を学んで、最後にこんなことがわかったとしても、あまり役に立つことでもない。ただ、西洋哲学のなかで、論理学だけは別だと、私は思っている」
 藤原明の頭に、論理学ということが鋭く突き刺さったことは言うまでもない。そして、普段から気になっていた印度哲学科のことについて尋ねた。
 「先生、大学に印度哲学科という科があって、仏教なども講義していますが、あれも勉強した方がよいのでしょうか」
 「君、そこで教えているのは、ロンドン仏教なんだよ。根本仏教という言い方もなされているが、初期仏教に着目するあまり、大乗仏教を位置づけされていない。釈尊にしてみれば、もっと大きく眼を開き、教え全体を見なさいと言っているかもしれんな」
 戸田は、こう言って笑った。驚く藤原に視線を注ぎながら、戸田は、極めて平静に、その事実を語って明らかにした。
 「イギリスという国は、三百年以上にわたったインドの統治経営の必要から、インドの文化全般について実に根気よく研究した。日本の『満州国』経営とは雲泥の差といってよい。
 イギリスは、仏教の研究もやったが、これは古代インドの仏跡や、石碑や、文献などを手がかりにしたもので、現在、わずかに残っているセイロンなどの仏教にとらわれて、それを仏教の全体と思い込んでしまった。実証主義の悲劇です。初期仏教だけしか仏教と認めず、その後の大乗仏教は仏説に非ずとして、大乗非仏説を唱えているんです。
 しかし、もともと、釈尊の教えには、大乗仏教的な真実が内在している。『撰時抄』を読めばわかることだが、その教えが、竜樹、天親を経て、時とともに展開し、やがて中国に入り、朝鮮を経て日本に伝来した。そして、日本において、末法の仏法を日蓮大聖人が確立して、今日に至っているわけです。このような仏法の歴史の流れを、ヨーロッパの仏教学者は、仏跡や文献にとらわれてしまって、もっとダイナミックに展望しようとしない。
 これがイギリスを中心とする仏教学者の仏教観といってよい。初期仏教のみを仏説とする、いわゆる実証主義的な仏教研究は、ロンドンで確立をみたわけで、そこへ西洋崇拝の日本の学者などが留学して、イギリスの学者から仏教を学ぶという珍現象になってしまった。それをまた、帰ってきた学者が、大学で得意になって講義するという始末だ。
 だから、東大の仏教学は、残念ながら、仏教の本義に光を当てきれていないと言わざるを得ないんです」
 分室の部屋は、黄昏が迫った。二人の青年は、頬をほてらせて戸田の指導を心ゆくまで聞くことができた。
 「今日は、このくらいにしておこう。また、来たまえよ」
 戸田は席を立って、隣室に消えていった。
18  二人の学徒は、共に相手の顔に近来にない満ちたりた表情を、同時に読み取ったにちがいない。渡吾郎は、戸田の仏法に関する蘊蓄の深さに呆然としていたし、藤原明は、戸田の博学に驚いたが、それが厳しい批判のうえに築かれていることを知って、言いようのない感動につつまれていた。
 短時間の極めて充実した面接であったが、彼ら二人の東大生は、日蓮大聖人の仏法についての確信が、この時、胸中深く芽生えたことには気がつかなかった。間もなく二人は、法華経研究会の会員を、一人ずつ折伏していった。同時に、S助教授の講義に対しては、批判的な質問が多くなっていた。
 藤原と渡の二人は、連れ立って、その後も、分室の戸田を、しばしば訪れた。
 ある時、法華経研究会の現状を語り、二人の会員を信心させたが、指導担当のS助教授にも、ぜひとも話をしてくれませんかと告げた。
 戸田は、そうかと頷いて、「じゃあ、誰か教学部の幹部を派遣してあげよう。連絡を取りなさい」と指示を与えた。
 S助教授は、そのような必要は自分にはないと言いながらも、それでは一度だけ会おうということになった。約束の十二月十日、渡と藤原は、創価学会教学部の幹部を案内して、助教授の自宅に向かったのである。
 対談は応接室で始まった。
 S助教授は、最初から難解な表現で話し始めた。
 「バヤダンマー・サンカーラー」を唱えることによって、釈尊の悟りに近づくことができるというのである。
 この言葉は、釈尊の最期の教えとされる言葉の一節であり、「すべて存在するものは、衰滅するものである」という意味だ。これは、仏教の根本思想の一つとして、大乗仏教にも受け継がれている。
 教学部の幹部は、静かに問いだした。
 「今の言葉は、どの経典に出ているのですか」
 「涅槃経にも、ちゃんとあります。漢訳では『諸行無常』と表現されています。私は、阿含経によって釈迦の思想をたどっているんです」
 S助教授の話を聞いて、渡と藤原は唖然とした。
 S助教授も、仏典のなかでは法華経が最高のものだと言って教えてくれたはずだが、今日は、阿含経を中心として、法華経を全く引っ込めて論じている。
 ここからS助教授との問答が始まった。教学部の幹部は、縦横無尽に適切な文証をあげ、法華経に比べ阿含経の説く内容が、いかに低いものにすぎないかを、客観的に論じていった。
 S助教授は、ここで憤然として言い放った。
 「経典の内容を判断するのは、その人の認識能力、判断能力の高さによるのだ」
 「待ってください。それでは勝手に我見を主張してもよいということになりますね。私は口から出まかせの判断を信用できません。誰にでもわかる判断は、現実の証拠ではないですか。いったい、バヤダンマー・サンカーラーと唱えて、悟った人がいるんですか」
 「私の研究では、アショーカなどが悟っている」
 「では、現在、それで誰が悟りを得られるのですか。先生は悟り、悟りと言いますが、いったい悟りというものは、どういうことを指すのですか」
 しばらく待ったが、その答えはなかった。
 教学部の幹部は、ここで質問を変えた。
 「先生は、生命というものをどう考えていますか」
 「生命? 生きていることが証拠じゃないか」
 「三世の生命ですよ」
 「そんな理屈は、いいじゃないか」
 渡と藤原は、ことだとばかり真剣な顔になっている。
 教学部の幹部は、最後の言葉として言った。
 「すべての仏典は、三世の生命を基底にして説かれています。先生は、仏説を説くと称しながら、三世の生命すら謙虚に考えようともされない。しかも仏教の悟りがいかなるものかも説明なさらない。これでは、明確な証拠もないのに、我見を振り回しているようにしか思えません。もっと求道心を起こされて、大乗経典もひもといて、学生たちを指導してくれませんか」
 「君がそう思うなら、それで結構。ともかく私は、あなたと話したくないね」
 座は、白けきって終わった。
 ともあれ、渡も藤原も、日蓮大聖人の仏法哲理の偉大さと完壁さに、今さらながら感動したのである。
19  二人は確信に満ちて、友人や、知人や、先輩や、旧友などに、機会さえあれば、信心の話を進んでするようになった。多くの人びとは、彼らの話に耳を傾けはしたが、現代社会に、日蓮大聖人の仏法が生き生きとして存在することを疑った。しかし二人は、折伏することに生きがいを感じ、ひそかに楽しみさえした。予期した反論にぶつかると、待っていたとばかり破折した。
 彼らは、しばしば現代人の、宗教についての全くの無知を突き、そのたびに溜飲を下げたものの、なかなか入会に踏み切らせるまでには、いたらなかった。しかし、彼ら二人は、めきめきと活力にあふれ、明るい表情になり、それが周囲の人びとの注目を引くようになった。
 渡吾郎は、やがて工学部の応用化学科の学生となった。実験室では、いつも右隣に森永安志、左隣に青田進がいて、三人並んで実習に励んでいた。森永は、気のいい学生で、これまで渡の平和運動の講演会の準備をしたり、早くから同級で仲がよかった。青田は、意志の強い学生で、渡より一年早く入学していたが、病気で休学し、同じクラスになっていたのである。
 渡は、この二人に、折々、信心のことを話しだした。
 「ぼくは、今、すごい宗教をやっているんだ。すごい信心だよ」
 白い実験着を着た三人は、しばしば実験後の余暇に、教室の隅で議論していた。
 渡は、幾たびとなく、両隣の友人を座談会に誘ったが、試験などに、いつも妨げられていた。しかし、議論のたびに、機は徐々に熟していった。
 森永や青田にとっては、仏法など、全く縁のない話である。彼らは、時に、宗教の話にうんざりもしたが、張り切っている渡の元気な姿から、彼らが、それまで常識的に考えてきた、仏教に対する先入観と違ったものを、感じないではいられなかった。
 森永も青田も、数回の座談会に出席して、間もなく信心した。法華経研究会は、七人の会員となったわけだが、いつしか会合は中断されたままになっていた。
20  ある時、渡と藤原は、このような状態を、率直に戸田に打ち明けたのである。
 「そうか、仲間が、ぼつぼつ増えてきたか」
 渡は答えた。
 「しかし、最近は、法華経の勉強会には行っていません」
 戸田は、ニコニコしながら学生たちに細い目を向けた。
 「法華経を勉強するといったって、ただ読んで解釈するだけなら、砂文字を読むと同じことだ。何も残らず、はかなく消えてしまうだけだよ。その砂文字を掘り起こし、その下にある法華経の真実をとらえなくてはならない。しかし、実は、それが難しいのだ。今、日本で法華経を真に読み切れるのは、不肖、戸田城聖一人しかいないと思っている。それで、私は、奮闘しているんだよ」
 渡と藤原は、メガネの上の戸田の広い額を仰いだ。すると、意外な言葉が返ってきた。
 「どうだ、君たち、聞く耳があるなら、私が教えてあげよう」
 「お願いします」
 「ぜひ、お願いします」
 戸田は、にこやかに笑った。
 「東大の学生で、法華経の講義を聴きたいという人があったら、誰でも構わない、みんな集めなさい」
 東大法華経研究会は、ここにいたって、戸田の膝下に、ようやくたどり着いたのである。
 法華経の講義を聴きたいという東大生は、めったにいなかった。一九五三年(昭和二十八年)四月十八日、第一回の講義は、市ヶ谷ビルの事務所の一隅で始まったが、渡、藤原、森永、青田と、もう一人の学生の、わずか五人であった。
21  講義は、序品第一から始まった。
 「是の如きを我れ聞きき。一時、仏は王舎城の耆闍崛山ぎしゃくせんの中に住したまい、大比丘衆、万二千人と倶なりき。皆在是れ阿羅漢なり……」(法華経七〇ページ)
 そして、経文には、釈尊の弟子の名がずらりと並び、そのあと比丘尼と、その眷属が六千人連なったと思うと、菩薩衆が八万人も出てくる。名月天子などの眷属一万、自在天子の眷属三万、梵天王などの眷属一万二千……というように、この会座の人員は無数といってよい。学生たちは、お伽噺を聞くような気がした。
 戸田は、言った
 「まず、如是我聞、私はこう聞いた……うんぬんというわけだが、日蓮大聖人は、『御義口伝』で、こうおっしゃっています。『序品七箇の大事』の『第一如是我聞の事』の、ここのところを誰か読んみなさい」
 秀才の誉れ高い青田が、つっかえながら読み上げた。
 「……不信の人は如是我聞の聞には非ず法華経の行者は如是の体を聞く人と云う可きなり、ここを以て文句の一に云く「如是とは信順の辞なり信は則ち所聞の理会し順は則ち師資ししの道成ず」と、所詮しょせん日蓮等の類いを以て如是我聞の者と云う可きなり云云
 「やかましいことを言っているようだが、この経文の本質は、昔話を聞くとか、世間のうわさなどを聞くのと同じではないぞ、とおっしゃっている。不信の者は、まず駄目、法華経を行ずる者が如是の本体を聞くことができる。
 そして、天台の『法華文句』の一節を引いて、是の如きというのは信順のことであり、ここに師弟の道が成ずるのだ。したがって、大聖人の一門の者こそ、如是我聞の者と言うべきであると、仏法を聞く者の資格をきちっと決められている。
 諸君も不信を起こさず、すなわち、鋭くして絶え聞ない求道の実践をもって、素直に勇気をもって、大聖人の仏法という軌道を、大聖人のおっしゃる通りに行動することです。それができて、初めて大聖人の弟子として、法華経を聞く資格が備わるんです」
 戸田は、初信者に教えるように、講義を聴く者の姿勢を正すところから、懇切に始めた。
 「そのあとに、会座に連なる者の大変な数が出てくるが、どんな大きな競技場だって入りきれない数だ。マイクロホンもスピーカーもない時代に、釈尊の声が届くはずもない。おかしなことと思うかもしれないが、釈尊の己心の大衆を表しているのだから、なんの不思議もない。この辺で一般の学者たちは行き詰まってしまい、納得のできない文上のみの羅列の解釈を始めてしまうんです。
 法華経には、さまざまな儀式が出てくる。しかし、これは、すべて御本尊の御姿を示したものです。ぼくも、かつて、苦しい牢屋の中で、唱題につぐ唱題の日を送った時、大聖人の眷属のなかの一人であった自分を、まざまざと実感することができた。ほんの一瞬のこことはいえ、人は自分の過去がわかる時があるものです。
 それからの、ぼくは、法華経も御書も、すらすらと読めるようになった。これこそ不思議だった。牢屋の中で法華経を読みながら、御本尊の御姿は、こうでなくてはならないということがわかった。そして家に帰って、真っ先に御本尊を拝したのだが、ぼくが考えていた通り、全く違わなかった。この時の感涙は、生涯、忘れることはできない」
 戸田は、やや赤らんだ頬を輝かせて語った。
 学生たちは、戸田の話を、ことごとく心の底から理解することはできなかったが、瞬きもせず、その不思議さに魅せられたように、目を大きく開いていた。
 「今日は、次の会合もあるし、ここまでにしておこう。いくらも進まなかったな。こんな調子でいくと三十年もかかってしまうが、まあ何年かかってもいいだろう。学問というものは、一カ所でも深くやっていけば、あとは自然と解けるものだから」
 戸田は、本を閉じた。
22  すると一人の学生が、ぜひとも指導を願いたいと言いだした。彼は、理科系の学生で、来年春の卒業を考え、そろそろ職業の選択に迷っていたのである。
 「大学で専攻した学科を、そのまま生かす職業分野に進みたいのですが、多くの先輩の例を見ると、必ずしも、そうなっておりません。どこに就職するかで、まず一生が決まるような気がしますが、希望通りの職業でなくても就職すべきでしょうか」
 「職業選択の基準だね。それは価値だ」
 戸田は、明快にこう言うと、青年の生涯を支配する職業の問題を、つぶさに説いた。
 「牧口先生は、よくこう言われた。
 『好き嫌いにとらわれて、損得を忘れるのは愚である。損得にとらわれて、善悪を無視するのは悪である』
 全く、この通りで、『好き(美)であり、得(利)であり、善である仕事』に就くのが、誰にとっても理想です。しかし、実社会は、残念ながら君たちが考えるほど甘くない。希望通り、理想的な職業に就く人は、極めて少ないだろう。思いもかけなかったような仕事を、やらなければならない場合の方が多い。
 さて、そこでどうすべきかが問題となってくる。私に言わせれば、こういう時、青年は、決してへこたれてはいけないということだ。いかにしても、当面の仕事をやりきり、大いに研究し、努力すべきだと私は思う。
 君たちには、もはや御本尊という最大の生命力を出す根本法がある。いやな仕事から逃げないで、御本尊に祈りながら努力していくうちに、必ず最後には、自分にとって好きであり、得であり、しかも社会に大きな善をもたらす仕事に到着するだろう。それまでのさまざまな道草は、この時、全部、貴重な体験として生きてくるんです。信心即生活、社会であり、これが仏法の力なんだよ。
 君たちは、まだ気づかないかもしれないが、それぞれ偉大な使命をもって地球上に生を受けたんです。将来は、おのおのの立場で第一人者になるはずだ。若いうちは、むしろ苦しんで、さまざまな体験をし、視野の広い実力を養うことが大切だね。
 心配することはない。青年は、あくまで信心を深めようと挑戦していきなさい。将来、大成するか否かは、信心即生活の原理からいって、結局、当面の仕事を真剣にやりきれるか、どうかにかかっている。勇気のない者は、青年として、既に失格者です」
 「はい、わかるような気がします」
 就職戦線に怯えている学生は、この時、確かな希望と勇気を得たにちがいない。
 このように、法華経研究会は、月に一度か二度開かれ、目を見張る充実した講義と指導とを吸収して、学生たちは徐々に育っていった。
23  しかし、なにしろ相手は学生である。彼らは、何かといえば批判的で、無責任な顔をのぞかせることもあった。時に無気力な会合に堕すと、戸田は、色をなして叱り飛ばした。
 「よそから来て、聞いているような態度は、実によくない! いやならやめなさい!
 こうやって叱る、ぼくを、憎むなら憎みなさい。ぼくの欠点を数えあげたかったら、いくらでも数えろ。ぼくは、聖職者でも、なんでもない。一人の凡夫にすぎない。それでも君たちは、何か不安で、ぼくについて来なくてはならんのだろう。もし、一緒に仏法の真の探究者になるというのならば、私の本当の弟子になれ!」
 戸田は、本来、豪放な性格であったが、これら数人の学生に対して、寸分の妥協もなく、どこまでも真剣であった。時折、発せられる叱声も、実は深い慈愛から出たものであることを、学生たちは後年になって知るのである。
 東大生たちは、法華経の研鑽は、実践をともなわなければならないと、折伏にも懸命に励んだ。彼らは、戸田の真心に応えたかったのだ。やがて、一人、二人と入会者が増えて、研究会には十人前後が顔をそろえることもあった。
 この研究会の会場も、いつか信濃町の本部の応接間に移っていた。
 他の大学の学生は、この会合をうらやんだが、仏法の深義を学ぶ法華経研究会の熱烈な気迫に刺激されて、おのずから彼らの間にも教学熱が急速に高まっていった。そこで、一九五五年(昭和三十年)になると、各大学の希望者を人選して、研究会は一挙に三十人に増員されたのである。
 ここにいたって東大法華経研究会は、創価学会の法華経研究会へと、発展的解消を遂げていくように思えたのである。しかし、戸田城聖は、東大の後輩のために、この研究会を東大にいつまでも置くよう指示することを忘れなかった。ともかく、三十人の研究会になったこの会合は、早大、明大、慶大、日大、中大、拓大など、各大学の学生が加わって構成されたが、さすがに東大生がいちばん多かった。
 五三年(同二十八年)四月十八日にスタートした法華経研究会の講義は、五五年(同三十年)九月二十七日の第二十六回をもって、ひとまず終わっている。二カ年半を費やしたわけである。
24  東大法華経研究会の、戸田の最後の講義には、山本伸一も同席していた。
 講義が終わった時、戸田は、学生たちに遺言を託すように言った。
 「もし、これから先、わからないことがあったら、この伸一に聞きなさい。わかったね」
 多忙極まる戸田が、何ゆえに、わずか数人の学生を相手に、難解極まる法華経の講義を始めたかというと、広宣流布を実現していくうえでの学生層の存在と役割を、早くから意識していたためといってよい。妙法を受持した学生の、二十年、三十年先の未来の活躍が、彼の脳裏には、まざまざと描かれていたのであろう。
 その学生たちの育成は、また、伸一の使命でもあった。
 その後、彼らは、戸田からバトンを受け継いだ伸一によって育まれ、社会の要となり、あるいは学会内の中軸となって、広宣流布推進の原動力になっていったことは言うまでもない。
 戸田は、生意気で逸脱しがちな学生たちに、彼らの生涯の原点を、忍耐強く刻み込んでいったのである。
 彼の人知れぬ努力のすべては、五七年(同三十二年)六月三十日に行われた創価学会学生部五百人の結成への基礎づくりであった。

1
2