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日蓮大聖人・池田大作

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小説「人間革命」7-8巻 (池田大作全集第147巻)

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1  創価学会本部が、一九五三年(昭和二十八年)十一月十三日、西神田から信濃町に移転して、はや三カ月が過ぎていた。
 八畳と続きの二問だけの手狭な旧本部から、一躍、建坪二百余坪(一坪=三・三平方メートル)の本部となったわけである。会員は、誰でも自由に新本部に出入りし、さまざまな会合を開き、楽しみながら信心の糧を吸収し始めた。二階の広間とドア一つ隔てた和室には、戸田城聖が、大きな机を前にして泰然と座っていた。各部門の責任者たちと、随時、会っては、一人ひとりを磨き上げるように、談笑のなかで大きく包容し、そしてまた、時には厳しい指導を与えていた。
 首脳幹部は、彼の部屋に、いつでも入ることができたが、時に、このドアを開けることに躊躇し、ドアの前で太い息をつかなければならないこともあった。事故などを報告に来た人には、ドアは極めて重かったのである。それでも彼らは、戸田の顔を見たかった。悩みがあればあるほど、戸田の膝下へと心は急いでいた。いざ、ドアに手をかける時、喜びと恐れの入り交じった、一種異様な感情にとらわれたが、それを押しのける磁力ともいうべき力に導かれて、扉を開けた。
 彼らは、会長室に入るには、いつも一種の勇気が必要だと思っていたが、実は、部屋で待っている戸田の人間的魅力が、ドアを越えて磁気として彼らに働いていたといった方が適切である。
 ひとたび、心に重かったドアを開けて部屋に入ると、戸田は、その瞬間の姿で、面接に来た人の心を、鋭く直覚してしまうのである。叱られることを覚悟して入った人には、戸田は、不思議なことに、決して叱ることがなかった。ただ漠然と彼の意見を聞きに来た人には、戸田は極めて無愛想であった。訪ねて来た人の求道心の強さだけが、戸田の口を開かせたのである。
 戸田の、この部屋での指導は、市ヶ谷の分室での数々の指導を思わせたが、組織の急激な発展による会員の増大から、分室での指導の形態を、そのまま、ここに移すわけにはいかなくなっていた。
 なにしろ、隣の広聞に唱題に来る人びとは、午前から午後にかけて、ひっきりなしにやって来る。何ものかを求めてやって来る、これらの人びとに、いちいち面接していたら、それこそ戸田には、食事の時間もなければ、息をつぐ暇も皆無になったにちがいない。常に先手先手と打っていくための構想を思索する余裕さえも、ほとんどなかったであろう。
 五四年(同二十九年)の一月から、彼は、一般会員の面接をやめざるを得なかった。そして、十数人の支部長ら幹部を、彼の代理として、毎日、交代で面接にあたらせたのである。階下の一室を、そのための一般面接室とした。面接指導で、支部長たちがてこずるような難問にあった時、支部長は、会長室へ行って、彼の指導を受けた。
 階下には、聖教新聞の編集室も移ってきていた。電話のベルが、ひっきりなしに鳴り、部員も増員されて、生き生きとした雰囲気に満ちていた。そこには若々しさがあり、希望へ向かう戦いの響きがあった。二階は唱題の声、時には会合のさざめき、階下電話のベル……。建物全体は、静かな屋敷町のなかにあって、明るい活気に満ちていた。
2  二月初旬の、寒いある日のことである。
 関東の小都市に住む、一人の地区部長が本部を訪れた。
 そのころ、地方都市に居住する会員は、蒲田支部や足立支部などのもとにある、さまざまな地区に所属して活動していた。それらの会員が、地域でまとまって価値的に活動できるように、統監部の手で組織の再統合が進められていた。そのようにして、新地区が各地で結成され始めていたが、彼は、そうした地区の新任地区部長の一人であった。
 顔なじみの少ない、各支部の会員の寄り合い地区である。いざ統合されたとなると、さまざまな混乱が起きていた。新地区員たちにしてみれば、見も知らなかった彼が、いきなり地区部長になったのである。多くのメンバーが、抵抗を感じていたようだ。おまけに、その都市には、多くの班長がいたにもかかわらず、組長であった彼が、一躍、地区部長に抜擢されたのである。快く思わぬ先輩会員も多かった。新地区設立は、少なからず混乱を巻き起こしたといってよい。
 苦しんだのは、この地区部長である。彼は、支部長にしばしば応援を依頼したが、支部長の言う結論は、いつも同じであった。
 「応援はする、しかし、要するに、一切は、あなたの信心ひとつにかかっている。あなたの信心が確立すれば、地区としての団結も、おのずから生まれるはずです。地区部長である以上、いつでも戸田先生の指導を直接に受けることができるではないですか。これ以外に、あなたの信心が急速に確立する道はないと思うよ」
 支部長の指導は、抽象的に思えたが、適切な助言であった。
 地区部長は、戸田に指導を受けようと決心したが、さて、何をどう質問すべきかさえわからなかった。
 私鉄の駅の首席助役である彼は、四日に一度は、丸一日の休日がとれた。これらの休日を利用し、地区内の見知らなかった会員の家を、一軒一軒、地道に回り始めた。五四年(同二十九年)当時のことである。
 まず、貧しい家が多いのに驚いた。それよりも驚いたことには、入会とは名ばかりで、勤行している形跡すらない家もあったことだ。信仰の根本ともいうべき御本尊が、ホコリまみれのままの家さえあった。
 彼は、自分の指導力の弱さに、自らを嘆かなければならなかった。負けてはならぬと思ったものの、数々の問題は、自分の手に負えぬことばかりである。ぐったりと疲れて家に帰り、意気消沈することもあった。そのうち、″会長のところへ行け″という支部長のいつもの言葉が、見る見る現実性を帯びて浮かび上がった。
 地区の当面している問題を、彼は、一つ一つノートに取って、箇条書きにした。その項目は二十余りになった。彼は、このノートを手にし、次の休日を待って本部へ向かったのである。
3  彼は、会長室のドアを軽くノックした。応答はない。深呼吸して、意を決したように扉に手をかけ、そっと開けた。その瞬間、戸田の声が耳に飛び込んできた。彼は、やや緊張した面持ちで、すっと部屋に入った。
 「先生、こんにちは!」
 うわずった地区部長の声に、戸田の声が返ってきた。
 「おう」
 部屋のなかでは、大きな机を囲んで、数人の幹部が会議中であるらしい。
 地区部長は、部屋の一隅に座ったものの、いささか場違いの感じで落ち着かない。ノートを膝の上に開いて、自分の心を無理にも抑えようとした。
 よく見ると、それは会議ではなかった。教学部の最高首脳陣が、戸田を囲んで御書の校正刷りに目を通しながら、疑点を一つ一つ、戸田にただしているところだった。誰一人、地区部長に目をくれる人もいない。
 彼は、御書の再版が、五月に刊行されるということは聞いていたが、今ここで、こうした真剣な校正がなされているなどとは、考えもしなかった。彼は、ますます硬くなった。
 御書の再版は、二万部の予定で昨秋から進められている。再版が正月に発表されてみると、予約注文は三万五千部に上った。先月末の本部幹部会では、四万部の再版が発表されたばかりである。
 戸田は、校正担当者の相次ぐ質問に、てきぱきと回答を与えている。
 しばしば彼の口から、「畑毛の猊下、猊下に……」という言葉が出た。部屋の空気は、いやでも厳粛さが漂う。地区部長は、その張りつめた雰囲気に、ますます硬くならざるを得なかった。
 地区部長は思った。
 ″とんでもない時に、とんでもないところへ来てしまった″
 彼は、後悔した。
 ″自分の存在は、今、明らかに場違いというほかはない″
 彼は、気兼ねして、そっとノートを閉じた。そして、黙ってあいさつし、部屋を出ょうと立ち上がった。
 「よう、よく来たな。すぐすむから待っていなさい!」
 地区部長は、″おやっ″と立ち止まった。まさしく戸田の声である。
 地区の統合式の時に、初めて戸田に面接した彼である。強度の近眼の戸田が、さっきから自分が来たことを知っていたと思うと、彼は嬉しかった。
 「はい!」
 彼の顔は輝いた。彼は、素直にまた座った。初めて落ち着きを取り戻した彼は、またノートを広げ、質問項目を黙って読み始めていた。
 校正刷りの点検は、なかなか終わらない。その作業は、もう数時間にもわたっていた。人びとの顔は、寝不足の疲労の影さえ浮かんでいる。
 やがて戸田は、一段落を終えて言った。
 「あと幾らもないが、今日は、このぐらいでよかろう。あす、畑毛には山平君と誰が行くか。……山際君も行けるね」
 「はい、土曜だから行けます」
 「では、二人に全権を委任しよう。猊下のご意見をよく伺って、今度こそ決定版にしなければならない。御書を間違えたとしたら、永遠に大聖人の仏法を誤って伝えることになる。これは恐ろしいことだ。令法久住ということは、正しく伝えてこそ令法久住です。われわれが決定版にしようとするのも、そのためです。しかし、やってみると、こんな難しいことはないな。七百年後の今日、やっと緒についたところだ。大変だろうが、最後まで緻密に、正確にやるように頼むよ」
 それから戸田は、一人ひとりを見渡しながら言った
 「学会の教学部の仕事は、令法久住という点からいっても、非常に重大なんだよ。しかし、いくらわれわれが頑張っても、畑毛の猊下がおいでにならなかったら、どうにも仕方がなかったろう。この機を逸してはならないことを、諸君もよくわかってもらいたい」
 戸田は、決定版の重要さを、あらためて説いてから一同をねぎらつた。
 「あと、もうひと息だ。無理なのは承知です。しっかり頑張ってもらいたい。今日は帰りに、そこの中華料理屋へでも行って、栄養を補給しなさい。会計は、ぼくに回しておけばいいよ」
 一同は、分厚い校正刷りをそろえ始めた。やがて戸田に一礼して、部屋を出て行った。
4  「どうした、元気がないじゃないか。何か困ったことでも起きたのか」
 戸田は、地区部長に呼びかけて、机の前に招いた。一カ月前までは組長であった地区部長である。
 「はぁ……」
 彼は、机の前にかしこまった。膝には広げたノートを乗せている。彼は、ノートに目を落としたまま、遠慮がちに言いだした。
 「先生、私は地区のなかを、一軒一軒、回り始めたのですが、驚いたことに、御本尊様をお返ししたり、持っていても、お巻きしている人たちが意外に多いんです。これから回っていっても、そういう家があると覚悟していますが、いったい、こういう人たちを、どのように指導していったらいいでしょうか」
 地区部長は、肩を落として消沈している。
 「そうか。あそこは、そんなに悪いところか。どのくらいの割合かな」
 戸田は、じっと、毛の薄くなりかけた、苦労人の地区部長の顔を、辛そうな表情で見た。
 「まだわかりませんが、今日まで回ったところですと、十軒に二軒ぐらいです」
 「ほう、そんなにひどいか。無茶な折伏をしたところだな。御本尊様が、どんなに尊いかということが、腹に入つての折伏だったら、そんなことは起きるはずはない。ただ折伏すればよいという機械的な考えで、なんでもかんでも御本尊様を持たせるようなことをするから、御本尊様を粗末に扱う者が出てくるのです。これでは折伏する人も、折伏された人も、ろくなことはない。御本尊様は賞罰が厳しい。
 さて、そこで地区部長としての君の問題だが、今、絶対に焦つてはいかん。十軒も二十軒もの、そんな家を、いっぺんに立て直して、信心を起こそうなどと考えては失敗しますよ。
 地区の班長や班担当員たちとも、その実情をよく話し合い、理解してもらって、手分けしながら、たとえ一軒でもよいから、本当の信心というものを親切に教えて、立ち上がらせることです。このような末法における所作は、忍耐しかない」
 地区部長は、いつかノートを閉じていた。その眼差しは、戸田を凝視して動かない。
 「御本尊様のすごさ、ありがたさがわかれば、不敬なことをする人は、一人もいなくなるだろう。君は、ここで、あたふたしてはなりません。毅然としていることだ。御本尊様の愛は、母親の愛ではない。厳父の愛です。決して甘やかした愛ではない。
 子どもを厳しく叱れるぐらいの力がなかったら、子どもにねだられることを、何事も叶えてやることはできないだろう。本当の力があり、威厳があればこそ、親は子どもにも思うようにしてやれる代わりに、間違ったら厳しく叱るわけです。
 ただ、なんとかして信心させようと思う前に、言うべきことは、きちっと言わなければなりません。いやな人は、やめればよいのです。仏法を知ってみれば、こんなかわいそうなことはないが、仕方のない場合もある。御本尊様を讃嘆し、誠意をもって話してあげなさい」
 戸田は、疲れていた。しかし、なんとか地区を円満に立て直そうとして、焦ってばかりいる地区部長の甘さも見抜いて、懸命に指導をするのだった。
5  地区部長は、ノートを再び聞いた。彼は、さらに具体的な指導がほしかったにちがいない。
 「実は、この間、困ったことが起きました。二カ月ほど前に信心した夫婦ですが、奥さんは非常に熱心で、しっかり信心していたのですが、ご主人の方は、てんで勤行もしないでいたところ、つまらぬことから喧嘩して、ご主人が、とうとう御本尊様に手をかけ、破いてしまったんです。
 奥さんは、はたの目にも気の毒なくらい、嘆き悲しんでやって来ました。こういう人を、今後、どう指導していったらよいでしょうか」
 「夫婦喧嘩のホコ先を、御本尊様に向けるなんて、筋違いのことだ。その夫は、何か勘違いしているんだろう。御本尊を不敬するなんて、とんでもないことです。
 しかし、妻の側にも責任がないとはいえない。その夫婦は、以前から、大変、仲の悪い夫婦だったにちがいない。その奥さんは、普段から亭主を大事にしていないな。御本尊様を不敬した根本の原因は、ここにある。
 早い話、男というものは、直接、自分の利害に関係ない場合は、誰でも鷹揚なもので、女房が『お父さん、こういう信心をしたい』と仮に言えば、私なら『ああ、いいよ』と言います。また『お父さん、私、あの着物を買いたい』と言えば、『ああ、いいよ』と言いますよ。これは自分が金を出さない限りです。こちらの懐勘定に関係のある時は、そうあっさりといかない。よく考えます。君もそうじゃないか。ハッハッハッ……」
 地区部長も、つられて、にっこりと笑った。そうかもしれないと、彼は兜を脱ぐ思いだった。
 「さて、そこでだ。女房が熱心に信心して、御本尊様を不敬されるなどというのは、女房が亭主を大事にしていない証拠といっていい。夫婦喧嘩が、信心のことが問題となって起こったとしても、その本当の原因は、たいがい別のところにあるものだ。ともかく、信心そのものが、発火点になるようなことは、百のうち一つか二つだろう」
 戸田は、コップの水を飲みながら話を続けた。
 「たいていは女房が、亭主に対して、喧嘩をしかけるものだ。すると女房がいちばん大事にしているもので、亭主にとっては、金のかからないものを壊してしまうんだ。感情のうえから、こんなことになってしまう。
 こういうことを、よく認識して指導しなければ、効果はないでしょう。亭主には、よく御本尊様のこと、信仰のことを教え、十分に理解してもらうようにしなければいけない。女房には、普段の生活のうえで、女房としての、いたらなさを気づかせることです。そこで、やがて二人とも、だんだんわかつてきて、二度と同じことが起こらないという保証ができたら、また御本尊様をいただけるようにしよう。それまで、じっと温かく見守って、激励し続けることです。
 今、君が地区部長として、こうした面倒なことを一挙に解決しようとしても、相手にも感情があり、いろいろと理屈もあるでしょう。辛抱強くやることです。御書に『忍辱の鎧を著て』という言葉があるではないか。その実践が、本当の仏道修行と思ってもらいたい。
 ぼくは短気な性質だが、信心のこととなると強情なまでに辛抱強いんだよ。大聖人様以来、妙法の使徒は、あらゆることに、じっと耐えて、戦ってきたんです。広宣流布は、実に忍辱の鎧を着なければ、とうてい叶わぬ大事業です」
 戸田は、ある感慨を込めて語り終わった。
6  地区部長は、またノートに目を落とした。
 「もう一つ、別の夫婦がおりまして、半年ほど前に入会したんですが、先月の初めに、四歳になる子が交通事故で亡くなりました。夫婦とも、あまり嘆き悲しんでいるので、励ましに行ったところ、誰から聞いたか、″この信心をしていると、死んだ子と親子の縁を、今世で、また結ぶことができるというが、ほんとか″と聞かれました。私としては確答もきないので、指導を受けてくると言ってあります。この点について、お願いします」
 「その人たちは、どんな信心状態かね?」
 「極めて普通の信心です。可もなく不可もないといったところです」
 「まだ若いね」
 「はい、三十前後かと思います」
 「これは厄介な問題だ。信心がどれだけ到達しているか、という感得の問題になってくるからです。ともかく、その人には、『それは、われわれにはわかりません』と言った方がよいようだ。今世で会うというのも、来世で会うというのも、自らの信心の感得によってしかわからない……」
 戸田は、しばらく口をつぐんだ。この難問を、なんと言って彼にわからせたらよいかと、思いめぐらしていたのであろう。
 地区部長は、その「信心の問題」を、ぜひとも知りたいとの、好奇心を燃やした。
 「先生、御本尊にひたすら願えば、必ず会えるわけですか」
 「そうとも一概に言えないので困るのだ。ぼくも二十四の年に、『ヤスヨ』という、子どもを亡くした。女の子でした。ぼくは悲しかった。まだ御本尊様を拝まないころだったので、ただ、もう悲しくて、冷たい死骸を一晩抱いて寝て、泣きました。
 その子に、その時、別れて、ぼくは、この年になった。当時は、まだ赤子であったが、今、生きておれば、かなり立派な女性になっていると思う。
 死んだその子に、今世で会ったと言えるか、言えないか……。ここで信心の感得の問題になってくる。私は、その子に会っているような気がします」
 戸田は、やや興奮して、こう答えたきり、言葉を切った。遠い昔に、思いを馳せているようでもあり、適切な言葉を探しているようでもあった。
 地区部長には、口をはさむことも憚られた。やや長い沈黙が続いた。
 戸田は、平静な調子に戻って言った。
 「生死の問題は、生涯にわたる、最も重大で、また深刻な問題です。子どもに死なれた時ぐらい、この世の中で悲しいことはなかった。そして、″もし、妻が死んだら、どうだろう″と、私は恐ろしかった。ところが、その妻も、しばらくして死んだのです。その時、もし母親が死んだらどうしようと、辛い思いをした。そしてさらに、ぼく自身が死ななければならなくなったらと考えたら、体が震えてしまった。生死の問題が、何もわからない時には、真剣に人生を考えている人は、誰でもそうなるだろうと思う。
 そんな私が、戦争中、牢に入らなくてはならなくなって、少しばかり法華経を読ませてもらって、″ああ、やっとわかった″と、生死の問題を解決するにいたったんです。私にとって、死の問題は、二十何年間かかった。子どもに死なれては泣き明かしながら、妻の死も自分自身の死も、怖かった。これがようやく解決できたればこそ、戸田は創価学会の会長になったんです。
 その夫婦が、死んだ子に今世で会えるか、会えないかは、私から言うわけにはいきません。その人たち自身の感得の問題だと思う。会えると言うこともおかしいし、会えないと言うこともおかしいし、それは、その人たち自身の信心にかかわるものだから、私の力の及ぼぬところです。『自分の力でおやりなさい』と言ってあげなさい」
 極めて微妙な、難しい問題であるということが、地区部長にわかったことのすべてであった。今の彼の信心の理解力では、戸田の説くところの深さに達することはできなかったかもしれない。ともかく彼は、謙虚に頭を下げた。そして、また膝の上のノートに目をやった。
 彼はこうして、あと二つほどの質問をして指導を仰いだ。戸田の回答は、どれも信心の深い根本から発するものであった。地区部長は、五つの質問を終えた時、にわかに信心の視野が大きく開けていくのを感じ取った。
 そして、なお残っている十五問に目を落とした時、これらの項目は、もはや自分自身の力で、なんとか解決できるであろうことを、自ら発見した。われながら不思議な思いであったが、戸田の懇切にして懸命な指導が、彼に作用したものだとは気がつかなかった。
 一つの根本を知れば、それは幾つもの問題を同時に解決することになると、彼が気づいたのは、ずっと後日のことであった。
7  地区部長は、ひとまず質問を打ち切った。しかし、ノートにはない、心にかかる問題が、一つ残っていた。それは地区のことではない。彼自身の身に降りかかり始めた最近の問題である。
 彼は言うべきか、どうかと、しばらく迷っていたが、悠然たる戸田の温かさに接して、思わず口に出してしまった。
 「先生、私事で恐縮ですが、聞いていただきたいことが一つあります」
 「なんだね。難しいことは、もう今日はごめんだよ」
 笑いながら、戸田は言った。
 「少し空気を入れ換えようか。窓を少し開けてくれんか」
 すると、「はい」という婦人の声がした。地区部長は、この声を聞いて驚いた。彼は全く気づかなかったが、いつの間にか、彼の背後には、五、六人の婦人部の幹部が居並んでいたのである。彼は、戸田の話に全身を耳にして没頭していたのだった。人びとが部屋に出入りしていたととすら、ぜんぜん気がつかなかった。
 彼は、おもむろに辺りを見回して、いささか気恥ずかしい思いをした。
 寒い外の空気が流れ込んできた。彼は言いだしてしまったことを、瞬間、後悔したが、誰にも言えない、心にわだかまる私事を、戸田に聞きたくて学会本部に来たことも確かであった。
 彼は、背後の婦人たちを気にしながら、赤くなって言いだした。
 「実は、少しばかり貯金がありまして、去年の暮れに人に勧められてN金融に預けました。家内は反対だったのですが、利息がいいものですから、そっくり出資してしまいました。
 ところが、先々月ごろから、なんだか怪しいという話が耳に入りましたので、解約しようとしたのですが、契約満期にならないとか、なんとか言って、いまだに手に戻りません。家内は怒るし、心配ですし、題目も特別に唱えているのですが、全くうまくいきません。このことで、最近は家のなかも、ごたごたしてきました……」
 「家庭争議か。出資は幾らぐらい?」
 「二十万円です」
 「サラリーマンには大金ではないか」
 「そうです。どうも欲にかられて面白ありません」
 「ぼくに謝ることはないよ。利子は月三分というのだろう」
 「そうです」
 「困ったな。そんな高利のところへ預けるのが、もともと間違っているんです。四、五年前と違って、いったい金融会社で、月三分の利子を出せるわけがない。そういう時代は、とっくに終わっている。
 また、考えてみたまえ。終戦後のどさくさ時代と違って、そんな高利の金を借りて成功する事業がありますか。返済できないような金を借りるんだもの、借りた方もつぶれれば、貸した方もつぶれるに決まっています。今時、そんなところへ出資するというのは、どだい、時代も社会も知らなすぎるし、おかしいことなんだよ」
 地区部長は、うなだれで聞いていた。
 戸田は、これまでに彼が経験した事業上の苦い体験から、地区部長の出資が極めて危険性の高いことを指摘した。
 「こうした類いの会社は、少し利口な人なら、長くは続かないことを見抜くものだ。君は、それを知らないで、かわいそうなことをした。こういうことは、出資してから騒がないで、出資する前に相談すればよかったんです。腹を切る前に、切っていいかと聞くなら、痛いからやめたまえと言えるのだ。それを切ってしまったから、どうしたらよいかなどと言っても、どうにもならないじゃないか。
 世の中、うまい話などないものだ。信心しているから、うまくいくだろうなどと、甘い考え方をするのではなく、賢明になることです。
 さて、差し当たってどうするかの問題だが、頑張って少しだけでも取り返せれば、まだ得の方です。やるだけのことは、やってみなさい。しかし、何も取れないかもしれない。その金融会社は、つぶれてしまう可能性も高いだろう。
 君は、それでは御本尊を拝んでいる甲斐がないと思うかもしれないが、そうではない。仏法のうえから考えれば、君には、大金の損をする宿命があったんだよ。それが信心のおかげで転重軽受できて、二十万の損ですんだのだ。
 これで、自分の甘さに気がついて、二度と同じ失敗をしないようになれば、安いものじゃあないか。
 ともかく、何があっても信心を貫いていくことです。今、二十万失ったとしても、それ以上のものが必ず入ってくると確信するんだね。また、そのような力をもてる自分になることです。それが信仰というものだよ。
 何が、どうして、どうなるか、ということは言えないが、必ずそうなっていく。今回のことで、いつまでも、くよくよするのではなく、新しい気持ちで、しっかり信心し、働くことです」
 地区部長は、大金の行方を思ってがっかりしたが、戸田の話が真実なら、心配することはないと腹を決めた。しかし、今、これを妻に、そのまま話すことはできないと思った。話しても、妻は、戸田の話を、おそらく信じまい。家庭争議が当分続くものと思うと、彼は、はなはだ憂鬱であった。
8  地区部長は、厚く礼を述べて、席を立った。彼は、本部を出て、路上に立った時、どこか身の軽くなっているのを覚えた。そして、何かの活力が、彼の体を充実させていることを知ったのである。
 彼は、このようにして、幾たびか戸田の部屋に通うようになった。ノートには、いつもさまざまな質問項目が、次から次へと書き連ねられていった。膝に広げたノートに目を落として、一つ一つ質問する彼のスタイルは変わらなかった。
 組長から、班長を経ずして地区部長になり、苦しんだ彼は、急速に経験不足を埋めていった。
 数カ月過ぎた時、彼は、はや戸田直伝の力ある地区部長となっていた。同時に、彼の地区が、全国の地区のなかで頭角を現し始めたことは言うまでもない。数年たたないうちに、全国の地区に先駆けて、彼を中心者とした支部が結成されるまでになったのである。
 戸田の会長室での作業は、市ヶ谷分室で行っていたような、誰でも自由に指導を受けられた一般面接とは異なり、地区部長以上の幹部を対象としていた。一人の地区部長を手塩にかけて磨くことによって、数百世帯の地区全体を指導していたといってよい。彼一人が、依然として七万有余世帯の推進力であったのである。
 戸田は、一九四五年(昭和二十九年)末には、確実に十五万世帯を超えるであろう創価学会を予見していた。そして、もはや彼一人の力で、これまで以上のテンポで広宣流布を推進していくことは、不可能であると悟っていた。
 ″現在、二万世帯に近づいている蒲田支部は、昭和二十七年(一九五二年)当時の学会の全世帯数に匹敵している。すべての支部は、今、数年前の学会本部の機能を果たさなければならない状態になってしまった。今は、いい。しかし、今のままでは推進力は薄められて、最前線まで届かなくなるであろう。学会の機能は、麻揮状態を招く恐れが十分ある″
 戸田は、会長室で、連日、幹部を指導しながら、人知れず苦慮しなければならなかった。
 とはいっても彼は、一日中、会長室にいたわけではない。午前中には、彼を顧問と仰いでいる大東商工に顔を出さなければならなかった。営業は軌道に乗っていたものの、まだ彼の采配を必要としたし、だいいち彼の生活は、それによって賄われていた。
 また、一週間のうち三日間の夜は、教学にあてられていた。月曜日には、四級講義という、教学部員に対する、「六巻抄」や「文段」「御義口伝」の講義がある。木曜日には、一級講義といわれた、方便品・寿量品の講義を豊島公会堂で行っていた。その翌日の金曜日には、同じ会場で、一般講義と呼ばれた御書の御消息文などの講義があった。
 このように、月々日々に会員の教学力を急速に向上させることに、戸田は、懸命であった。彼は、これらの講義を、いかにも楽しそうにしていたが、その後の疲労は時に耐えがたいものがあった。風邪ぎみで発熱している時など、痰を拭き取った紙屑の山を机の下に築いたこともあった。
 このほか、教学部の任用試験や昇格試験の、最後の面接も行わなければならず、各支部の総会も欠席するわけにはいかなかった。そして、それらの多忙な行事の合間には、大阪や仙台などへの地方指導がはさまり、戸田は、彼一人の推進力の限界を、思わないわけにはいかなかった。
 世帯数の激増にともなう組織の急速な拡大、それを少しも停滞させることなく推進していくために、彼の緊張度は日に日に高まり、重苦しいまでになっていった。彼は、このことを誰にも語らなかったが、凝る肩を揉ませることが頻繁になっていた。
9  二月八日の夜、学会本部の大広間で講義があった。その後、会長室に戻った彼は、ふらふらと崩れるように倒れた。
 薄れゆく意識のなかで、彼は、しきりと口を動かしていた。
 「伸はいないか。伸はどこへ行った?」
 つぶやく言葉は無意識とも思えたが、このような時、彼は、山本伸一の名だけを呼んだのである。
 発作は一時間あまりも続き、冷や汗をぐっしょりかいて回復したものの、彼の当時の辛労の深さと、健康の衰えとを物語るものであった。
 翌九日は、水滸会の集いである。戸田は、何事もなかったように姿を現したが、どこか憔悴の影が残っていた。
 教材の『水滸伝』は、山にさしかかっていた。
 「宋江は、いよいよ梁山泊から繰り出し、祝家荘へと大軍を進めた。彼は慎重に行動してきたが、それでも敵の計略に落ちてしまったことに気がついた。敵は、背後の道を塞いでいる。周囲には、伏兵の大軍が陣を敷いているらしい。宋江は、誰も気づかぬうちに、『しまった』と気づいた。
 そして、ここにあるように、『敵に臨みて急暴なるなかれ』という言葉を思い出しているところは、さすが宋江です。『しまった』が、『しまった』で終わるなら、ただの人間だ。自分の失敗の因が、彼の一念の狂いにあったことをいち早く悟り、窮地をいかに脱するか、いよいよ宋江という人物の真価が、ものをいう時が来たわけだ」
 戸田は、機嫌がよかった。
 元気な青年たちが、この夜、まことに頼もしく思えたのである。
 彼は、青年たちのなかに、将来、学会の首脳になるであろう者たちの顔を、それとなく探しては丹念に見ていた。
 水滸会の会合が終わった。山本伸一は、戸田について会長室に入った。
 「先生、昨夜は留守をしていて申し訳ありませんでした」
 戸田は、まじまじと伸一を見た。
 「先生、お体の具合は?」
 「いや、もう大丈夫だ」
 戸田は、そう言っただけで、昨夜の発作のことには一言も触れなかった。
 「今、ぼくは、ある重大なことを考えている。構想は、まだ固まらないから、発表の時期ではないが、これは、ぜひともまとめなくてはならないと、昨日から考え続けているんだよ。伸一も、これまでの伸一ではいられなくなる。勉強だ、勉強だ。誰よりも妙法の智慧者にならなくては、今後の使命は果たせなくなる。信心のことだけではない。社会全般のことは無論だが、全世界の運命のなかに自分というものを置いて、一切の発想をすることが必要な時になっている」
 戸田の飛躍的な論理の展開に、伸一は、その焦点をつかむのに戸惑った。
 今夜の戸田の話は、これまでとは違った、何か新しい重大、な構想であるらしいとは思ったが、その内容はつかめず、耳を澄まして、なおも聞いていた。
 戸田は、年頭、男女青年部の幹部に、四月までに一支部一部隊の編成にするよう指示していた。
 それまで支部数は十六あったが、青年部は、男子部隊六、女子部隊五にすぎなかった。ゆえに一つの部隊のなかに、数支部の青年たちを抱えていた。男子第二部隊などは、六支部にわたる青年たちで編成されていたのである。
 男女青年部の若々しい力が、未来の創価学会の推進力であるとするならば、もはや一支部が、数年前の学会本部の機能と力を備えなければならなくなった今、一支部に一部隊の編成が、当然、必須の課題となってきた。
 しかし、多くの部隊の創設は、現在の青年部の求心力を分散し、散漫化する憂いもある。戸田は、四月までに一支部一部隊制の確立を課題として与えたものの、一方では一抹の危慎をも、いだいていた。
 ″これだけでは、何かが足りない″と、以来、彼は、考え続けていたのである。
10  ここ数年の創価学会の躍進を見れば、エンジンはフルに回転していると考えてよい。この盛んなエンジンの力を見て、首脳幹部たちは意気に燃え、ただ、喜んでばかりいたが、会長としての戸田は、そのエネルギーが、時に暴発に赴くことも警戒しなければならなかった。
 どの方向へ、過たず推進するか、それら一切を長年にわたって操縦してきたのが彼一人であったことを、折々、戸田は寂しくさえ思った。
 エンジンの回転だけでは船は動かない。それを推進力とするためには、強靭なスクリューが必要である。彼は舵だけを握っていたと思っていたが、実は、彼自身が、まずスクリューであったことに気がついた。横溢するエネルギーを推進力に転換するために、彼のこれまでの人知れぬ辛労と、多忙な活動があったわけである。彼を除いて、いったい誰が推進力となってきたか。
 あふれるエネルギーを、快調なスクリューの回転に変え、それを唯一の推進力としてきたのは、戸田自身でしかなかった。
 彼は、それを自負するには、あまりにもわびしかった。
 今は、これでもよい――しかし、五年、十年、二十年先の創価学会を思い描いた時、彼は、焦慮に駆られざるを得なかった。将来にわたる展望のもとに、青年部の成長を望んで厳しい訓育をしてはきたが、彼のスクリューが老朽化した時のことを、思い浮かべないわけにはいかなかった。
 エンジンとスクリューと操舵――この三つの快調な連動が、安全な航海の必須条件とすれば、広宣流布の人材とは、この三種類の人間群に尽きよう。彼はこれまで、エンジンと操舵については心を砕いてきたが、航海に不可欠なスクリューの存在を、あまり意識することはなかった。その存在が、実は彼自身であったからでもあるが、忍びよる昨今の疲労が、彼に、そのことを気づかせたのである。
 目覚ましい発展をしてきた各支部に、それぞれ男女一部隊を配属することを予定したのも、いうなれば各支部の未来のために、小さなスクリューをすえ付けることにあった。それはそれで、支部の推進力になるだろう。
 しかし、それらの小さなスクリューは、青年部の求心力を分散させたものである。全学会の強靭なスクリューは、依然として戸田自身に残されている。彼は、彼に代わるべきスクリューの製作に、心魂を傾ける時が来ていることを、一人、わが心に問いつつ苦慮し始めたところであった。
 戸田城聖が、その夜、山本伸一に謎のように語りかけたのは、彼が、そのような心の状態にあったがためである。
 戸田は、畳の上に、ごろりと横になると、伸一にも、横になるように勧めた。そして、二人は語り続けた。
 「今、一つのことが、ぼくの頭を占めてならないんだよ。まだ、誰かに相談するところまでは考えもまとまっていないが、相談してもどうにもならないことだ。
 伸一、君たち青年は、誰よりも勉強しなくては困る。今が大事な時だ。体の具合はどうだ。広宣流布のために大事な体なんだよ」
 「先生こそ、お大事になさってください」
 伸一は、昨夜の発作を戸田が語らないだけに、なお心にかかっていた。
 「わしの体か。まだまだ死ねない。人間、しなければならない仕事のあるうちは、死ぬものではない。生きるということは、仕事をすることなんだよ。さて、その仕事だが、誰もやったことのない大仕事をするからには、誰も気づかない、考えたこともない気苦労があるものだ。ぼくの苦労もそういったものだがね。
 しかし、考えてみると、苦労というものは、次から次へと、よく続くものだ。これまでも、なんとか解決してきたが、これからも、苦しんでは解決していくだろう。それが信心の力であり、信心の証明なんだ。今の、ぼくには、それだけしか信じられないが、それだけで十分だと思っている。君たちが精いっぱい勉強してくれさえすれば、未来は心配ない。……ともかく、今、ちゃんとすべきことは、全部しておくよ」
 今夜の戸田は、いつもの戸田とは違っているようだ。伸一は、さっきから、それを感じて、いぶかしく思った。勉強せよ、という言葉が、幾度も重なった。戸田は、いったい何を苦悩しているのかと、伸一は思いあぐねたが、その夜の謎は、謎として残すより仕方がなかった。
 戸田は、この夜、伸一ひとりを相手にして話しているうちに、ある暗示を得た。伸一に、彼に代わるスクリューの役割をさせてみようと思いついたのである。
 ″それには、組織上の、ある確かな位置を、伸一のために用意しなければならない。何をどうするのか――まず、青年部のなかにおける強靭なスクリユーを、彼に与えてみることだ″
 彼の漠然とした思考は、徐々に形をなしてきたが、その名称も、権限も、思索のなかにあって、浮かんでは消えていった。
11  戸田の深い思索は続いたが、それを、さえぎるように、行事が容赦なく彼を追いかけていく。
 二月二十一日には、関西三支部連合総会が、大阪市内で開催された。関西の大阪、堺の両支部を中心として、中国、四国に散在する会員をも結集し、さらに九州の八女支部の会員も来阪して、西日本の総力をあげた総会である。
 前日の二十日夕刻、到着した戸田一行は、旅館にくつろぐ暇もなく、地区部長会、班長会、婦人部会と、それぞれに分かれて指導会をもった。
 大阪支部から堺支部が生まれ、二支部の体制で出発してから、わずか三カ月しかたっていなかったが、当日、会場は二千余人の会員で埋まった。底冷えのする会場を熱気の坩堝るつぼに変えたことは、言うまでもない。
 晴れやかなこの日、戸田を迎えた一同は歓喜をもって応えた。
 会場を埋め尽くした会員の活気を見て、戸田は嬉しかった。大阪を、西日本の一大拠点にしようとした、数年前の彼の構想が、ここにようやく結実し始めたことを知ったのである。
 ″これでよい。これから関西も、第二期を迎えることになる。関西独自の発展も、これから始まるであろう。今年の夏の地方指導は、西日本は関西に任せても差し支えなさそうだ″
 この総会の席上、八女支部に男子青年部の部隊旗と、大阪支部に女子青年部の部隊旗が授与された。
 一支部一部隊制への布石は、既に地方から始まったといってよい。
 もはや関西は、組織の面においても、その内容においても、東京の各支部に遜色のないところまで成長していることを、戸田は、つぶさに見て、喜んだ。
 その日の夜行列車で、戸田の一行は、大阪を後にした。
 二月二十七日は、本部幹部会である。七千百四十六世帯の折伏成果を分析してみると、蒲田支部の千五百五十一世帯は別格として、足立支部七百五十三世帯がこれに続き、そのあと五百台の四支部が並んでいた。
 地区部長の一人ひとりに対し、手塩にかけるようにして行われた、戸田の指導によって、まず百五地区の格差が縮まり、それが支部の格差を縮めるにいたったことを示すものであった。
 翌二十八日には、教学部の昇格試験が行われた。講師と助師の受験者は、四十七人である。ただし、三月八日の口頭試問を通過した人は二十五人で、なかなかの厳選であった。新助教授十人、新講師十五人が誕生したが、このうち助師から助教授に昇格した人が七人の多きに達している。ほとんどが青年部員で、教学陣にも新機運が胎動し始めたのである。
12  三月に入って、一支部一部隊制の具体化が進み、その人選が次第に決定するにつれて、戸田の胸中に温められていた、彼を継承するスクリューの作製は、にわかに結実をみた。すなわち、男女青年部の最高首脳陣からメンバーを選抜した、参謀室の設置である。その室長は、山本伸一であり、彼のもとに七人の室員が任命された。
 戸田は、伸一を中心とするこれら八人に、思う存分に力を発揮させたいと願ったにちがいない。
 戸田は、青年部を彼の後継者としてこれまで育ててきた。そして、今、伸一に大切な権限を与え、思うがままに、立案、実践させることによって、次代のスクリューの作製を意図したといってよい。
 三月三十日の本部幹部会の席上で、一支部一部隊制に基づく新部隊の編成とともに、参謀室の設置も同時に発表された。しかし、集った幹部の多くは、それぞれの支部に新部隊長の任命をみたことに心を奪われて、参謀室の発表に対する関心は極めて薄かった。
 大多数の会員は、新設された参謀室を、これまでの青年部の機構を、少々充実させたものとしてしか、受け取ることができなかった。参謀室が、創価学会推進の原動力であると、一同が認識するまでには、まだ多くの時日を必要としたのである。
 山本伸一は、戸田城聖の意を受け、参謀室の機能について深い考慮を払わなければならなかった。彼は七人の室員たちを集め、今後の活動に備えて、その運営について諮ったが、誰からも明確な答えは返ってこなかった。
 もともと、青年部の全体を統括する青年部長のもとに、男子部長、女子部長があり、そのもとに男女の各部隊を擁している。いったい参謀室は、このラインの組織に対して、どこに位置するのか不明であったし、問題は青年部の組織全体にかかわることにもなってくる。
 青年部長の、単なる諮問機関にすぎぬのであろうか。それとも青年部の目付的な存在として、統制の一役を担うものであろうか――彼らには、参謀室の目的と使命を設定することが、今、何よりも緊急事に思えた。
 彼らは、まず、戸田の発想による参謀室設置の意義を、戸田に聞こうと諮った。
13  ところが、山本伸一は、その発議を抑えて言った。
 「われわれ八人が、このたび本部の任命を受けて、『先生、われわれは何をすればよいのですか』などと伺ったら、先生はあきれ返って、がっかりなさるにちがいない。『そんな意気地のない参謀室をつくった覚えはない』と、大喝されるに決まっている。ぼくには、そんなことはできない。先生にお伺いするにしてもだ、まずわれわれ八人の決意を固めて、腹案ぐらい立てないことには、どうしょうもないではないか」
 室員の一人が、伸一の話に大きく頷いてから、さも心配そうに語った。
 「私が、今、いちばん心配なのは、これまで整然と行動してきた青年部のラインと、今後の参謀室との間に、何か余計な摩擦が起きはしないかということだ」
 「摩擦といったって、同じ戸田先生の弟子だ。それほど心配する必要はないんじゃないか」
 別の室員が反論すると、彼は憤然として答えた。
 「そんなことは、わかりきっている。ただ、ぼくが言いたいのは、参謀室の存在が、青年部のラインの実践行動に制御を加えたり、あるいは戸惑わせたりするようなことになったとしたら、かえってマイナスになってしまうということだ」
 「われわれの存在がマイナスになる?」
 「そうじゃないか。参謀室の運営いかんでは、青年部全体の動きをマイナスにすることもあり得る。それが心配なんだ」
 二人のやり取りを聞いていたもう一人の室員が、なだめる口調で口をはさんだ。
 「要するに、スタッフとラインとの問題だね。この両者が混乱すれば、確かに参謀室の設置は、マイナスの働きをすることもあり得る。また、大局的見地から、共に戸田門下生としての深い自覚があれば、どんな摩擦も避けることができるはずだという考えも、もっともだ。
 今までの話を冷静に分析した室員の指摘に、二人も頷いた。
 「その通りだ」
 「そうだ」
 その室員は、伸一を振り返り、同意を求めるように言った。
 「室長、この際、どうしても、スタッフとラインの役目を明確にしておく必要がありますね。確かに下手をすると混乱する憂いは十分にある」
 高度な判断を必要とする組織上の問題である。
 女子部出身の四人の室員は、伸一の答えを促すように、一斉に目を向けた。
 「ぼくとしても、そのことは考えに考えてきた。まず、戸田先生の考えを推測するならば、青年部は君たちに任せるから、八人で思う存分やってみろ、ということではないだろうか。
 いつまでも甘えてばかりいないで、自発的に自分たちで青年部をつくりあげてみろ――そのように、ぼくには思えてならない。いや、それを、ぼくは、今、ひしひしと感じているだけに、参謀室の設置は非常に重大に思っているんです。スタッフとラインとの間を円滑に運べば、それでよいなどという簡単な問題ではないだろう」
 伸一は、鋭い眼差しで、一同の顔を射るように見回した。
 「そりゃ、ぼくも考えた。スタッフとラインの問題ということは、まず参謀室と青年部長との間を、明確にしなければならないことが一つ。次に、参謀室と男女両部長との間、そして男女両部隊長たちとの間を明確にすることが一つ。この二つの関係が、それぞれ明確になれば、不要な混乱は十分に避けられる。しかし、問題の中心は、あくまでも、参謀室は何をなすべきかにかかっていると思う。この問題が明確になれば、それに準じて、すべての問題も明確になるはずです」
 伸一は、ここで一同の発言を促すように言葉を切った。
 まず、女子部の室員が、発言した。
 「全学会、全青年部の推進力になることです」
 最年長の室員が、当たり前のことを言うなと言わんばかりに反論した。
 「推進力といえば、青年部自体が、これまでも学会の推進力だったじゃないか。今さら推進力といっても、特別な意味をもたないと、ぼくは思う」
 女子部の室員は、むきになって言った。
 「でも、一支部一部隊という大きな勢力となった青年部を推進するために、参謀室の働きが必要になってきたんでしょう?」
 「推進の推進か。まるで督戦隊みたいだな」
 最年長の室員は、軽く笑い飛ばした。督戦隊とは、後方にあって前線の軍を監督するための隊である。ほかの二人の男性室員が、口をはさんだ。
 「督戦隊? なるほど。しかし、どこかおかしいな」
 「おかしい。督戦隊というのは、いやな言葉だが、そうなりやすい傾向は、確かにある」
 討論は、いたずらに流れて、的を外れていった。
 伸一は、苦い思いに沈んでいたが、この時、厳しい表情になった。
 「われわれは、先生の弟子であり、直結の青年部だ。督戦隊など全く必要もない。そんなものは、あってはならない。これから、多くの青年たちが第一線に躍り出で、懸命に戦おうというのに、その後方にいて脱落者が出ないかなどと狙っている参謀室であったとしたら、これほど卑怯な参謀の集まりはない。
 われわれは、一応、青年部に所属しているとはいうものの、いうなれば広宣流布のための参謀室だと、ぼくは思っている。それ以外に存在意義はない。また、あるはずもない。壮大な広宣流布の最前線で戦う、先兵中の先兵であるという自覚をもとうではないか」
 伸一の発言によって、どうやら参謀室の存在意義が、明瞭になりかけていくようであった。彼の使命感と展望は、既に青年部を超えて、自分たちの手で全学会を担い、支え、広宣流布を具体的に遂行しなければならぬという決意にみなぎっていることを、一同は感じざるを得なかった。
14  なおも真剣な討議が続けられた。夜は既に更けて、本部一階の一室だけが、煌々と明るかった。彼ら八人の青年のほかは、人の気配はない。
 最年長の室員が、再び、同じ問題をむし返した。
 「参謀室と青年部のラインとの接触は、どうあるべきか、これが活動を始めるにあたって、ぼくには、いちばん気にかかることだが――これを今、解決しておかないと、将来に禍根を残すことになると思うが、どうだろう」
 伸一は、事もなげに、あっさり、こう言った。
 「それは簡単なことだよ。こう考えたらどうだろう。つまり参謀室という存在は、あくまでも広宣流布成就へ向かっての、青年部の一切の立法機関であり、各部隊は、いうなれば行政機関と思ったらどうだろう。――この明確な路線でいけば、参謀室とラインの組織との間に、摩擦が生ずるはずはない」
 「なるほど、そうだ。そう割り切れば、すっきりするな」
 室員の一人が、頷いた。
 「広宣流布のための立法機関となると、あらゆる問題を含むわけだね」
 別の室員が、えらいことになったという面持ちで、伸一を見た。
 それに答えるように、伸一は、語り始めた。
 「その通りだろう。広宣流布百年の大計のうえから、一切を考え直さなければならない時期に来ているんだ。これからの戦いは、いよいよ真剣勝負になってくる。広宣流布は、全民衆を救っていく法戦であり、学会の運動は、宗教改革の推進にとどまるものではない。これまでの様相とは、全く変わってくるだろう。
 水滸会で、いつも先生が言われるように、世界の不幸な民衆のための戦いが、広宣流布ということになる。したがって、広宣流布の遂行途上、起こるであろうさまざまの難問に対処して、百年の大計のうえから緻密な作戦を立てる必要に迫られているのだ。
 つまり、民衆にかかわる、あらゆる問題、宗教の問題は当然として、政治の問題、経済の問題、文化の問題、思想の問題、民衆の生存に関する一切の問題に対して、日蓮大聖人の御心を拝して、現実には戸田先生の指針のもとに、見事な作戦、企画を練り上げるのが、われわれの任務ではないだろうか。その企画に基づいて、まず青年たちが、戦いの駒を着々と進めていく……」
 遠い未来への展望に立った、伸一の話を聞いて、メンバーの一人が決意を新たにするかのように、天井を仰いだ。
 「これは大変なことになった。一切の作戦を立て、戦いの指揮まで執らなくてはならなくなったのか……」
15  言下に伸一は言った。
 「それは違う。行動の指揮は、あくまで青年部長の任務です。指揮権はラインにある。男女両部長、部隊長にあるのだから、この関係を混乱させてはならない」
 「すると、参謀室の任務は、あくまで作戦企画に限られるわけですか」
 問いかけられた伸一は、「作戦と行動の問題だね」と言いながら、懇切に説明を続けた。
 「根本的な分岐点は、参謀室は活動の企画、部隊は実践行動の展開ということになるが、要するに、これまでの青年部には、杜撰ずさんな活動計画が多く、行動面がいたずらに飛躍していたきらいがあった。戦いの全過程から見るならば、時にマイナスをもたらしたことも多かったと思う。
 これでは将来、広宣流布の重責を担う青年部として、はなはだ、まずい在り方と言わざるを得ない。五年、十年、二十年の展望といっても、今の今から始まるのだし、未来の萌芽は、今にあるといって差し支えないだろう。今まで、われわれのしてきたことは、場当たり的で衝動的でありすぎた。これからは、どんな些細な問題でも、長期の展望に立たなければ、正しい作戦とはいえなくなってきている。
 ぼくは最近、先生のお話を伺うにつけ、先生のいかなる発想も、ことごとく未来につながっていることを、しみじみと感じてならないのだ。
 先生のお話を、遠い未来の夢として聞く時代は、とっくに終わっていると思う。現実は、どんどん先へ先へと進んでいる。今でも、毎月、一万近くの新入会者があり、会員数が急激に増加している現状ではないか。来年は、再来年はと考えると、既に、広宣流布は軌道に乗り出し、ぼくらが考えている以上に、ものすごいスピードで驀進しているのが現実だ。前途に何が起こるかわからない。大いなる未来へと、過たず行進するための確かな作戦が、今から、なければならない。
 ぼくたちは、会員数の激増を、ただ喜んでいるだけではいけない。それでは会員は烏合の衆と化してしまうだろう。考えれば考えるほど、われわれの責任と使命は重大だと思う」
 寒い室内であったが、伸一の額には汗がにじんでいた。誰もが真剣な顔で聞き入っている。
 「今後の青年部は、この一点の自覚なくしては、着実な発展は考えられない。われわれは、喜んで縁の下の力持ちに甘んじようではないか。また、いくら参謀室があるからといって、はつらつと行動する青年部がなければ、われわれの存在は有名無実だ。われわれは、今、試練に立たされているといってよい」
 室長の覚悟は、そのまま全員の覚悟となっていた。覚悟ができると、なすべきことが山積していることに気がついた。
16  男女青年部の年間の活動計画、各部隊の急速な強化、充実。青年部総会の企画、推進。青年部の総登山の立案――といった具合に、時々刻々に活動方針を決定しなければならなかった。
 しかし、どれほど困難な課題であったとしても、内部の問題は、まだよかった。ひとたび外部との問題が起こると、次々に新たな対応を迫られた。
 たとえば、新潟地方で、新入会者の謗法払いの際、現地の他宗との間に摩擦が生じ、それが警察沙汰になったことがあった。参謀室は即座に現地に赴いて、この厄介な事件の解決にあたらなければならなかった。そして参謀室の活躍は、その事件で得た教訓と反省から、理事室に向かって新方針を具申することにまで及んだのである。
  ○連絡事項第一号
   今般新潟地方に惹起せる問題に鑑み、今後、特に地方折伏において
   左記の事項の徹底を図るべきことと思います。
    一、謗法払いは必ず本人にさせること。
    二、御本尊下附願を必ず保管して置くこと。
  ○連絡事項第二号
   他宗問題に関する件
    対他宗の問題については、速やかに所属青年部に連絡して処理を委任し、地区等の単独の行動を為さざる様、全支部へ徹底願います。
 参謀室が次々と企画を検討するにあたって、当惑を感じたのは、各分野に、どんな人材がいるかさえ、わからなかったことである。
 わかるのは、統監部にある地方市町村別の会員数の数字だけといってよかった。この数字のなかに、有能な、さまざまな人びとが含まれていることは当然であったが、本部においては、それすらわからなかった。組織は、いたずらに眠っていたのである。
 参謀室は、さまざまな専門分野で活躍している人びとを、各支部長に問い合わせることから、始めなればならなかった。
 参謀室は、このように内外の問題に敏感に反応し、一切を、自分たちの責任として、即刻、次々と的確な手を打っていった。八人の室員は、その実践によって、参謀室の使命というものを自覚していたが、青年部の首脳幹部の間では、参謀室に対する理解が極めて不十分であった。参謀室の名において企画、立案されたものが、息つぐ間もなく、通達、発表されるにつれ、しかも、その指示が適切であっただけに、青年部の指揮権が、参謀室に移ったような錯覚に陥ったのである。
17  ここに多少の反発と混乱が生じ、この摩擦を徹底的に除くために、どうしても相互の間の権限を明確にすることが必要となってきたのである。
 参謀室は、その立案に着手し、戸田の内諾を得て、十二項目からなる「青年部規約」を六月十五日に制定し、発表した。
 発表に先立ち、この草案を戸田に提示した時、彼は即決し、伸一たちに言った。
 「仏法の真髄は、宇宙に遍満する、誰人も従わざるを得ない原理を教えているのだから、規則で人びとを縛る必要はないと考える。だが、組織がある以上、混乱はマイナスであるから、交通整理の必要はある。
 この規約も、青年部の交通整理の意味でなら有効だろう。規約というよりも、本質的には申し合わせといったほうが実際的だね。
 いずれにせよ、参謀室は、学会の縁の下の力持ちであることに甘んずる覚悟がなければ、使命を真に果たすことはできまい。その覚倍に徹すれば、初めて、学会のかけがえのない推進力となることができるだろう。
 私は、諸君をひとまず信頼しよう。青年部、学会の活動が、これまでより鈍るようであったら、それは参謀室の責任である。はつらつと動きやすくなったと、青年たちが喜ぶようになったら、君たちの存在意義も大きい。あくまでも自己に厳しく、人びとを大きく包容していくことを、常に心がけなければ、強力なる推進力となることはできないということを言っておこう」
 厳しい指導であった。この厳しさが、彼らの活動を過たず律していった。
18  四月二十九日の午後一時、東京・神田駿河台の中央大学講堂に、男子部二千五百人、女子部千五百人、合計約四千人が結集して、合同青年部総会が開催された。新編成の各部隊に、それぞれ部隊旗が授与されたのである。壇上の端から端まで部隊旗が並んだ光景は、青年部に画期的な新時代が到来したことを、参加者全員に痛感させた。
 新任の若き指導者たちは、一人ひとり立って、決意を披瀝した。そのたびに拍手が起こり、会場は熱気につつまれていった。
 戸田城聖は、これらの光景を見て、彼が、これまでの長い間、青年部の育成に注いできた情熱が、見事に花咲く思いがした。男女青年部の各部隊は、小さいスクリューとなって、それぞれの支部を推進せずにはおかないだろう。
 山本伸一も、新時代の到来を意識した。それは、青年部にとって新時代であると同時に、彼自身の人生にとっても、新たな時代を迎えたと思わないわけにはいかなかった。これらのエネルギーを見事な推進力と化してただ一筋に広宣流布の彼岸に達するまで、すべては彼の責任となることを覚悟し、ひそかに凛然たる思いを凝らしていたのである。
 青年部の総会が終わると、四日後には、創価学会の第十回春季総会が待っていた。
 戸田城聖の会長就任三周年の五月三日である。
 その日、東京・墨田区両国の国技館(後の日大講堂)の大鉄傘下に、多くの会員が集った。ともかく、当時の参加希望の会員を収容するには、もはや、この会場しかなかったのである。
 正午に開会が宣せられた。
 式次第が中ごろまで進んだ時、突如、戸田会長からの緊急動議が提出された。
 何事であろうかと固唾をのむ会員を前にして、戸田は、現在の全理事の解任を発表して、一同に諮った。小西武雄、泉田弘、原山幸一、清原かつ、関久男、森川幸二、大馬勝三、神田丈治の学会古参の八人である。現理事全員の解任を告げられ、瞬間、何かを待とうとする衝撃が、会場を襲った。
 続いて戸田は、四人の任命を一同に諮った。小西武雄を理事長とし、春木洋次た三人を理事とする新体制発足の提議である。
 全員の賛同で、任命は満場一致の拍手のうちに終わった。誰にとっても思いがけない、思い切った人事である。しかも人数は半減している。
 その意味するところは、容易にわからなかったともいえるが、一種の清新さだけは強く感じられた。
 現在、地区部長であるが、幾つかの支部以上の成果を上げて実力を示している春木洋次らを抜擢したことは、広宣流布を推進する、新しい力を、新理事たちに期待したからであった。もし、これに続く新理事が、今後、任命されるとするならば、同様の条件を備えた人でなければならぬと、戸田は、幹部たちに語りかけているようであった。
 ともかく、一支部一部隊の編成、参謀室の設置、新理事の任命という、最高首脳陣の一連の人事は、新機運の到来を全会員に呼びかけたものであったのである。
19  この日の経過報告でも紹介されたが、会長就任の一九五一年(昭和二十六年)五月三日時点において、実質会員約三千人、千数百世帯にすぎなかった創価学会は、三周年を経て、会員世帯約十万へと飛躍的な増加となっていた。そして、そのエネルギーは衰えるどころか、ますます燃え盛っていることを、広い会場にみなぎる熱気が示していた。真の民衆運動が、広範に始まろうとする機運にあったのである。
 戸田は、心に満ち足りたものを感じて、最後に壇上から喜びの笑みを浮かべて言った。
 「もう皆さんに、何もやかましい理論を述べる必要はないと思う。
 学会精神というと、何か面倒な事のように思うであろうが、それは、ただ日蓮大聖人の時代に還れというだけのことです。大聖人の御心を心として、この御本尊を、みんなに受け持たせたいということだけです。
 折伏というと、宗門や学会を、大きくするためのように思う人が、このなかにいないとも限らないので一言しておきたい。大聖人は、御本尊を皆にただ受持させるために顕されたのではないのであって、それによって民衆を幸せにしたいとの、お考えで御図顕なされたのであります。この御心を、わが心とするところに、折伏という行が自然に起こるのであります」
 彼は、これに続いて、功徳は信心の強弱に相応することを説き、満場の会員に別れを惜しんで話を結んだ。
 「願わくは次の総会までに、いや来年の今日まででもよい。今、こうして集った方のなかには、心に悩みをもつ方もありましょうし、また、心に願いのある方もありましょう。どうか、しっかり信心して、来年の今日には、功徳を受けた顔で、われもわれもと集まっていただきたい。それが私の唯一の願いであります」
 第十回総会は、夕刻、かつてみない盛会のうちに、滞りなく幕が下りた。最高首脳陣の理事室の交代は、それぞれの役職をもつ人にとって、衝撃であったと同時に、また警告として響いたにちがいない。学会の役職は、単なる肩書ではなく、あくまでも実践者としての呼称であることを、深く反省させられたのである。
20  総会から一週間もたたない五月九日、総本山大石寺の三門前広場には、新編成されたばかりの各部隊の精鋭、男女五千五百人が結集し、新しい出発を誓う儀式が挙行された。
 この日は、明け方から雨である。時間がたつにつれて雨脚は激しくなり、午前八時開始の予定は、正午まで延び延びになってしまった。その遅延の原因は、雨のためばかりではなかった。まず輸送事情等があった。早朝には完了の予定であった全員の総本山到着が、大幅に遅れて十一時半になってしまったのである。
 前日の八日午後十時、東京の神宮外苑絵画館前から、六十台のバスが順次発車する手筈になっていたが、三つのバス会社は、車両事故などで手筈が狂い、バスの集結が遅れに遅れて気をもませた。参謀室は、バス会社へそれぞれ飛び、督促のための交渉に懸命であったが、前途の多難がひそかに思いやられた。
 女子部員たちの輸送が始まったのは、午前一時である。やっと女子部全員が二十台のバスで出発し終わったあとには、男子部員二千人が、まだ姿を見せぬバスを待って待機していなければならなかった。
 午前二時になって、ようやく後続の十数台が到着し、直ちに輸送を開始したものの、バスは、その後に到着したものを加えても三十五台にしかならなかった。男子部員は、それぞれに分乗して出発したが、六十余台の予定が、五十五台で終わってしまったため、残った青年は、列車輸送に、急速、変更しなければならなくなった。
 この夜、一方では、午後八時台と十時台の二列車に、男女青年部員二千四百余人が乗車して、総本山に向かっている。
 絵画館前を出発したバスの隊列は、第二京浜国道を進み、深夜の東海道を、西へ西へと走った。道不案内のバスが多く、道に迷うものや、エンジンの故障を起こす車もあったりして、輸送は難航を極めた。その間を、参謀室の乗用車は、前方、後方へと縫うように走り回り、大部隊を指揮しつつ進んだ。湘南海岸の道路を走り、小田原で小休止して、箱根の険路に向かった。
 夜明けから降りだした雨は、バスの窓を叩き始めた。やがてバスの大部隊は、雨を突いて三島、沼津を通過して富士宮に向かい、ともかく総本山に着いたのである。到着予定時刻を、数時間も過ぎていた。雨は、なおも降り続いている。豪雨に近い。
 雨のなか、式典の決行が各部隊に通達されたのは、午前十一時を過ぎていた。
 各宿坊に分散待機していた各部隊は、三門前に陸続と行進し整列し始めた。レインコートなどを用意していた人は、ほとんどいない。
 皆、びしょ濡れであるが、顔だけは底抜けに明るい。
 「春雨じゃ、濡れて行こう」
 ある剽軽者は、こう言って人びとを笑わせた。
 雨に濡れることに、誰も彼も平気になっている。やがては歴史に刻まれるであろう、この儀式を、厳然と敢行することを、互いに覚悟した姿といってよい。
 三門の一隅では、これも雨に濡れた十数人のブラスバンドが、士気を鼓舞するかのように吹奏している。懸命というよりも、悲情な表情であった。雨に濡らすまいと、太鼓に傘を差しかけているのが印象的である。しかし、バチを持った打手は、平然と雨に打たれて叩いていた。
21  午後零時三十分、雨中の式典が始まった。広宣流布を誓う集団である。整列した各部隊の前に、雨に打たれ、本部旗を先頭に、戸田城聖ら首脳幹部が入場して来た。誰一人、傘を差している人はいない。
 雨は、やまない。
 山際男子部長が、演壇に立った。
 「本日、青年部の総力をあげての、歴史的な立宗七百二年の儀式が、今、行われつつあるのであります。男女青年部の前途に、三類の強敵が襲うであろうことは、もとよりの覚悟であります。
 戸田城聖先生のもとに、命をかけて広宣流布大願成就の日まで、戦い抜くことを決意いたすものであります。名誉ある法旗、部隊旗のもとに、死身弘法を御本尊に固く誓おうではないか!」
 力強い誓いの言葉は、いささか悲情味を帯びて響いた。彼の頭から流れる雨は、容赦なく頬を濡らしている。続いて森川女子部長、関青年部長が、それぞれ短いあいさつを終えた。
 雨は、なおも降りやまない。
 頭から頬を伝わって流れる雫は、首筋を濡らし、衣服の中へと吸い込まれていく。上着は、いつか雨で重い。しかし、誰一人、身動きする人もなく、顔を上げて壇上の戸田を見つめていた。
 戸田のメガネは、雨で曇っていた。彼の広い額も雨に濡れ、雫の流れ落ちるのが見えた。
 「今日の、青年部の集いに対し、梵天・帝釈も加護することなく、雨のなかで行われますことを、深くお詫び申し上げます」
 戸田のこの一言は、五千五百の青年男女の肺腑をえぐった。
 彼は、いったい誰に詫びたのだろう。それは、結集した青年たちに詫びたともいえよう。この時、彼らのなかには涙さえ浮かべる人もいたが、それは、降りしきる雨に流されていった。
 戸田は、愛すべき掌中の青年たちを、このような晴れの式典において雨に濡らしてしまったことを、深く御本尊に詫びていたにちがいない。
 彼は、首筋から雨が体に染みていくのを感じながら、両手の先を演台の端につき、体を乗り出すようにして話した。
 「しかしながら、この雨は、ひとたび思いをいたす時、これこそ、学会の次に来るべき苦難の前兆ではないかと考えるのであります。
 諸君も常に、この雨を思って、どうか幸福な、あなた方の一生、幸福な日本の社会を、つくっていただきたいと思うのであります」
 拍手は力強く響いた。青年たちは、師と共に雨に濡れて立っていることが、なぜか意味あることのようにさえ思えるのであった。
 最後に、山本室長の懸命な指揮によって、学会歌が高らかに合唱された。
 雨は、まだやまない。
 戸田は、伸一の指揮を、じっと見つめながら、雨に打たれていた。
 午後零時四十分――戸田の前を、男子第一部隊から行進を開始した。部隊旗も濡れていた。部隊員も濡れていた。前に進む青年たちの顔だけが、見守る戸田の姿を追っていた。
 戸田は、雨のなかに立ち通して、眼前を行進する各部隊の一人ひとりに応えながら、白いハンカチで、幾度となく首筋をぬぐっていた。
 各部隊は、参道を行進して客殿前に整列した。
 そして、広宣流布の祈念を捧げ、万感の決意を込めて祈ったのである。
 さらに、部隊の幹部は、牧口前会長の墓に詣でて報告を終え、それぞれ宿坊に引き揚げたのであった。
22  雨脚は、ますます激しくなってきた
 ずぶ濡れの青年たちは、宿坊の廊下に並び、互いに雫を絞った。役員の腕章を着けた人は、腕章に書かれた字の、墨が落ちてしまったりした。また背広の染料が落ちて、白いシャツが真っ青に染まった青年もいた。雨は、多くの青年たちの下着にまでも通っていたのである。
 しかし、青年たちは、愚痴ひとつ言わなかった。互いに濡れ鼠の姿を顧みて、陽気に笑い合っている。それどころか、一種の難を堂々と受けて立ち、それを乗り越えた満足感に、誇りすら感じていたといってよい。陽気なさざめきがあふれ、意気軒昂として、学会歌の合唱さえ力強く起こっていた。
 彼らは一人ひとり、心のなかでは期せずして同じことを思っていた。
 ″いかにも、青年部の前途は多難であろう。しかし、われわれは、それを立派に乗り越えて進んでみせよう。今日の雨は、生涯のよき思い出となることは絶対に間違いない″
 この日、参加した五千五百人の青年たちに、この日のことを忘れた人は一人もいない。彼らは、この日、前途の多難を覚悟して、それを乗り越えていったのである。
 青年部の首脳たちは、三年前の一九五一年(昭和二十六年)七月十一日、東京・西神田の旧本部二階で行われた、男子青年部結成の折のことを思い出さずにはいられなかった。
 あの時も、轟然たる雨が激しく屋根を叩き、集った同志は、粛然とした思いで戸外の雨音を聞いていた。
 この時、来賓の幹部の一人は、この雨こそ、青年部の前途多難を何よりも語っていると言ったが、あれから三年――各部隊の精鋭をそろえて、第二の出発をした今、またもや雨中の儀式となってしまった。
 ″諸天は、またも前途多難なことを教えている。
 それならば、未来に起こるであろう幾つもの難に、自ら挑戦していくまでのことだ。案ずることはない。強い信心で乗り越えられない難が、この世に一つでもあるであろうか。広宣流布という未聞の大業は、未聞の難を乗り越えるところに成就されるであろう。覚悟はできた″
 青年たちは、軒端の激しい雨脚を眺め、濡れた体を拭きながら、何か、すがすがしい血流が、体内を駆け巡っていることに気がついた。
23  戸田は、理境坊の二階で、濡れた青年たちの身を案じていた。体調を崩した人が誰もいないことを確認すると、彼は安堵した。
 どやどやと階下に足音がし、やがて、二階の部屋に、部隊長たちが集まった。帰途に就くあいさつに来たのであった。
 「先生、今日は、まことにありがとうございました」
 「えらい雨だったな。臍まで濡れるという言葉はあるが、今日は、ぼくも思う存分に濡れたよ」
 「すみません」
 「ぼくに謝ることはないよ。みんな風邪をひかないように気をつけなさい」
 「はい、大丈夫です」
 「今日は、体も冷えてしまっただろうし、禁を破って、お酒を飲まそう。今日だけは特別だよ。好きな人は、いくらでも飲みなさい」
 湯飲み茶わんが配られた。
 「では、今日の雨の祭典を祝して、乾杯といこう」
 戸田は優しかった。
 二本の酒瓶は、すぐに空になっていた。
 「実は君たちにも、思う存分、酒を飲ませたいと思うのだが、そうなると、みんな月給を使い果たして、生活に困ることになる。だから青年には、一応、ぼくは酒を飲ませないことにしているんです。だが、今日だけは別だ。君たちに酒を飲ませてしまっが、酔って部隊長の責任を果たせなくなるようでは、長の資格もないし、だいいち、酒飲みの資格もない」
 既に顔を赤くしている人もいる。彼らの顔は、歓喜に輝いているようにも見えた。戸田のねぎらいが、痛いほど彼らの胸に迫ったのであろう。
 「今日はご苦労だった。風邪をひくものが一人も出ないように、御本尊様には、私からお願いしてあります。気をつけて帰りなさい」
 若き指導者たちは、席を立った。居残ったのは、青年部長、男女両部長と、それに参謀室の八人である。
24  雨は、なおも降り続いていた。
 戸田は、雨の音を気にしながら軒先を見ていたが、急にあらたまった顔で、山本伸一を顧みたのである。
 「伸一、参謀室の責任で、もう一度、青年部の総登山を企画してみないか。今日の総登山を、このままの形で流すことはできない。雨が降れば、すぐに、やきもち焼きの先輩たちが、『青年部は信心がないから』などと言いだすだろう。それでは、真剣に戦っている青年たちが、かわいそうだ。
 どうだろう。今年下半期の闘争目標として、十月ごろ、もう一度、青年部の総登山を決行したら。張り合いもあるだろうし……。これは、決して私の命令ではない。相談なんだよ」
 「先生、私もそのことを、さっきから考えておりました」
 伸一は、即座に答えた。
 驚いたのは、居並ぶ首脳たちである。さまざまな障害を乗り越えて、今回の総登山を、やっと終たばかりのところである。彼らは、ただ、ほっとしていたといってよい。
 彼らのなかで、誰一人、そのような次の目標を考えていた人は、いなかった。いや、″今日は、まだ考える必要もない、東京に帰ってから、少しずつ打ち合わせをしていけば、それでよい″と思っていた。
 「十月、今度は一万人だな。できるか」
 「できます。必ずやります。十月には、見事な総登山を、お目にかけたいと思います」
 伸一は、一点の迷いもなく即答した。
 青年部首脳は、また驚いた。
 ″十月といえば、わずか五カ月先のことではないか。五千五百人の総登山ですら、容易ならぬ闘争であった。それが今度は、一万人という倍の動員である。このような数が、果たして可能であろうか……″
 彼らは、その瞬間、興奮を覚えたものの、危惧の念を抑えることができなかった。
 戸田と伸一は、全く同じ時に、同じことを考え、話し合っている。それは、師と弟子が一体となって広宣流布へ進みゆく、強靭なスクリューの回転を思わせた。
 伸一の頭は、瞬間、急速に回転した。
 ″まず、青年部員の急速な拡大が必須となる。日常活動の活発化で、その成果をもたらすしかない。現在の男女青年部一万人の部員を、数カ月のうちに二万人に倍増しないことには、一万人の総登山は不可能である。参謀室が、全学会の強力な推進力になり得るかどうかは、この闘争の成否にかかっている。名実ともに新段階を迎えているのだ。青年部の総力をあげなければならない。広布の進展の速度も、この推進のいかんによって、決定されるにちがいない″
 戸田は、伸一の顔に、ありありと現れた決意を読み取った。
 そして、独り言のように言った。
 「今年は激しい年だ。それだけに新旧交代の年になるだろう」

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