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日蓮大聖人・池田大作

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真実  

小説「人間革命」7-8巻 (池田大作全集第147巻)

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2  戸田城聖の周到極まる指導と指揮によって、五三年(同二十八年)、爆発的な広宣流布の大前進が開始された。全学会員が、かくも喜んで折伏を敢行するにいたったのは、彼らの、その実践によって、みなぎるばかりの大小の功徳が、全員に実証され始めたからであった。
 彼らは、信仰の実証によって、自らが奉持する仏法が、人生の最高の哲理であることを、いやでも悟らざるを得なかった。戸田の指導を、そのまま実践した時、彼らは、身をもって実証をつかんだ。どの家庭にも現れた大小の功徳という実証が、彼らの半信半疑の雲を払ったのである。
 日蓮大聖人の御書に、「日蓮仏法をこころみるに道理と証文とにはすぎず、又道理証文よりも現証にはすぎず」とある。
 宗教というからには、まず、基本となる教典がなければならず、教典に説かれている教義は、道理に適ったものでなければならない。そして、その教えを実践した場合に、そこに説かれた通りの現証が現れるかどうかが、宗教の正邪を判断する何よりの基準となるというのである。
 信仰に励み、功徳の体験をつかんだ学会員たちは、「教」「行」「証」、すなわち「教え」と「実践」と「実証」とが、見事に一致している事実に気づいた。そして、これこそ、現代の、生きている唯一の仏法であることを体得した。その体得したところのものは、動かすことのできない事実の重さとなって、座談会で語られ、居並ぶ人びとを驚かせた。幾つもの体験が、事実として発表されるにつれて、それらを貫く真実の世界が、彼らの眼前に開かれたのである。
 灰色の人生に落ち込んでいた人びとにとって、思いもかけぬ世界であった。彼らは、輝く黎明の空を、はるかに望むかのように、いつも明るい表情をしていた。功徳の実証を得た生活は、たちまち歓喜の共鳴の連鎖を呼ぶ。その源泉は、彼らが等しく受持した一幅の本尊であったことは、言うまでもない。
 幾つもの事実が、ことごとく真実であるということへの驚きは、やがて、″仏法は、自身の人生に普遍妥当性をもっ真理を説いている″との確信に変わっていった。彼ら一人ひとりのつかんだ実証こそ、日蓮大聖人の仏法の偉大な力を物語るものである。彼らは、自ら体験したことを、ありのままに、大いなる歓喜をもって語った。彼らの熱意にあふれた饒舌が、日本の各地に広がり、それがそのまま折伏の実践となったのである。
3  当時の学会員の大部分は、信心年数は極めて短い。一九五二年(昭和二十七年)ごろの会員数は二万世帯で、五三年(同二十八年)の入会者が五万世帯であったのだが、真剣な実践活動は、初信の功徳ともいうべき現証を、人びとに等しく与えている。
 それらは、人びとの容貌と宿命がすべて異なるように、千差万別の現証であったが、入会前と入会後との一線を画すものであったことには変わりはない。
 さまざまな現証の集積は、個別的な「事実」を、普遍性をもつ「真実」に変えた。
 そして、一人ひとりの人生の蘇生のドラマは、確かな内面における変革から始まっていたことも間違いなかった。日蓮大聖人の「御義口伝」には、「功徳とは六根清浄の果報なり」「悪を滅するを功と云い善を生ずるを徳と云うなり」とある。功徳とは、わが生命を浄化することであり、悪の力を滅し、善の力を生み出していくことが、功徳の本質的なものとして示されている。
 日々、仏法を実践した結果、人間としての境涯の変革が起こり、それが実生活に向上をもたらし、自他共の幸福をめざす人生となっていく――功徳とは、日常の現実生活に現れる人間革命の結果にほかならない。
 そのころの入会間もない人びとに起きた現証を、今たどってみると、彼らがつかんだ妙法に対する確信が、どのようなものであったかを鮮明に知ることができる。
4  杉並支部に所属する、富田成一という五十年配の一学会員がいた。彼は、東京の近郊に住む科学者であった。イギリスの大学にも留学した篤学者である。帰国し、大学教授まで務めた知識人であったが、生来の内臓疾患による病弱には勝てなかった。
 さらに、不運にも戦争直後の混乱期に、膵臓壊痘という奇病にかかって手術しなければならなくなった。
 知人は、彼の不幸を見るに忍びなくなって折伏したが、長年の科学の信奉者が、素直に入会できるはずもない。手術は、ひとまず成功したが、終戦直後のことである。彼は、家族を養うために、病弱の体を押し、身についた語学を役立てて、駐留軍に職を得た。
 ところが、しばらくすると、成功したはずの手術の後遺症として、腸がひどく癒着していることがわかったのである。
 彼の日常は、腸閉塞の危険にさらされた。薄氷を踏むような日々が続いた。ある時、またも手術を示唆したが、前の大手術の苦痛を繰り返すのは、思っても辛いことである。この時、再び折伏された。彼は、逡巡しながらも、苦痛から逃れたい一心で、ともかく実験証明してみることだと考えた。
 この世で信じるに足るものがあるとしたら、それは実験証明されたものだけではないか。科学の示すものが、真理として人びとに納得されるのは、実験によって証明されているからである。
 彼は、入会して、半年間だけ実験をしてみようと思い立った。
 「いくらか話を聞いただけで、信じろと言われても、今の私は信じられません。しかし、病気は治したい。虫のいい話かもしれませんが、半年だけ実験のつもりでやってみてはいけませんか。そして、もし、お話の通りであったら、私は、いやでも信じますよ。科学者として実験証明してみたいのです」
 「わかりました。現証を、ご自分でつかみたいわけですね。いいでしょう。ただし、定められた『行』だけは実行してください。これが唯一の条件です」
 折伏する人と、折伏される人との間の、果てしない議論の末の結論であった。
 「もちろん、その条件は守ります。実験のないところに現象は出ませんもの。しかし、半年の実験で証明されなかった場合は、私は、必ず、やめさせてもらうことも承知してください」
 「結構ですとも。信仰は、あくまでも自由です」
 彼は、入会した。
 そして、科学者が実験を繰り返すように、勤行はもちろん、折伏実践も教えられるままに行った。座談会にも、地区講義にも、せっせと通った。不思議な実験である。そして、半年たたないうちに健康は回復し、医師は手術を口にしなくなった。
 実験は、見事に成功したのである。科学者は、信じざるを得なくなった。この世に、このような宗教――日蓮大聖人の仏法が存在することは、彼にとって、一つの驚異であった。そして、驚異の眼で過去の半生を振り返った時、さまざまな起伏をもった彼の、これまでの人生の、宿命の貌が鮮明に映った。
 彼は、わが生涯を厳粛に考え、妙法を最高の人生の法則と考えるにいたったのである。彼の「行」は進んだ。彼自ら得た、動かすことのできない実験証明を、人びとに分かち与えることに、生きがいを感じていった。
5  身銭をきって地方指導に赴く多くの幹部たちの姿を見て、彼もまた、それに参加することを念願とするようになったが、職場を休むことは難しかった。彼の願いは、叶えられそうにもなかった。
 ところが、突然、彼は解雇通知を受けたのである。そのころの駐留軍の縮小にともなう人員整理の余波であった。彼は、突然の解雇に不満をもったが、相手が悪かった。外国の駐留軍である。彼は、軍の命令に服するより仕方がなかった。
 暮れを前にして、新しい就職先を探さなければならないことを、彼は重荷に感じたが、かつて職を替えた時のような、絶望的な動揺は不思議にも感じなかった。むしろ、ほのぼのとした喜びさえ、心の底にあるのが不思議でならなかった。
 ″若干の退職手当さえあるではないか″
 彼は、念願の地方指導に初めて志願し、喜々として一行に加わって、九州・福岡に向かった。
 彼を加えて九人の一行は、博多の旅館に陣取った。そして、早朝から深夜まで、指導と折伏に専念する日が始まった。これまでの彼の生涯には、全くなかったことである。――なんという爽快な楽しさだろうと、彼は思った。しかも、人びとの不幸を、着実に救いきっていく仕事である。彼は、青年のように張り切って、敏捷に走り回った。
 三日後の午後のことであった。拠点で二人の婦人を相手に、妙法のなんであるかを説明していると、清原かつが姿を現した。一行の責任者である。
 「富田さん、ちょっと」
 彼は立った。
 蓮池というところで、今、一人の青年部員が折伏しているが、てこずっているらしい。誰か至急、応援に来てほしいという電話がかかってきた――というのである。
 「すぐ行ってあげてください。あの二人の婦人は、私が引き受けましょう」
 ほかならぬ清原支部長の指示である。彼は、実直な一兵卒のように、行き先をメモすると拠点を飛び出した。
 彼は、表通りで路面電車に乗り、蓮池に向かった。初冬の、うららかな九州の空は澄んでいる。走り始めて間もなく、電車は、ゆるい坂を非常な速さで下り始めた。そして、轟然たる音がしたかと思うと、乗客は一斉に転倒し、彼も床にしたたか叩きつけられた。もうもうたる砂煙、車内は一瞬、何も見えない。ほこりが、やや静まってから見透かすと、窓ガラスが一面に四散してキラキラ光っていた。
 一瞬の事故である。
 倒れて、うめいている人、頭や手から血が流れている人……。
 彼は、自分の手足をおずおずと触ってみた。どこにも異常はない。かすり傷一つしていない自分を発見すると、彼は起き上がって、一人、車外に出た。
 電車は、前の電車に追突したのである。前部がめちゃくちゃに損傷していたのが、事故の大きさを物語っていた。
 すると、眼前の電車へ、また後続の電車が追突し、またも辺りは砂ぼこりに包まれた。二重衝突である。追突し、また、追突された彼が乗っていた電車の乗客は、重なる怪我をしてしまった。やがて、大勢の人びとが救援に駆けつけ、多くの警官もやって来た。
 彼は、呆然と立ちすくんでいた。
 ″私は、命拾いをしたんだ″
 富田は、仏天の加護に感謝せずにはいられなかった。
 しばらくして、われに返った富田は、ようやく折伏の応援で蓮池に行く自分の任務を思い出した。
 富田は、次の交差点まで歩き、タクシーを拾った。そして蓮池に急いだ。
 彼は、蓮池でも、その夜の座談会でも、なまなましい彼の体験を語って尽きなかった。先輩から聞いていた転重軽受の法門の通りになったと力説した。
6  その座談会の会場に、一通の電報が彼を追いかけてきた。
 ″なんの知らせだろう″――彼は、不安を抑えて、電報を聞いた。
 「フクシヨクツウチアリカエレ」(復職通知あり、すぐ帰れ)
 留守宅からの電報は、夢のような復職の通知であった。彼は、跳び上がって喜んだ。彼は、座談会に集っていた人びとに、失業したばかりであったことを、初めて打ち明けた。
 そして、九州への派遣隊に参加して活動している最中に、復職という功徳が現れたことを、喜び勇んで語った。
 座談会が終わって旅館に引き揚げると、彼は、急いで清原かつに電報を見せた。
 「よかったじゃないの。電車の事故に遭って、怪我も何もなかったなんて。広宣流布のために、真剣に戦っているから守られたのよ。そこに復職の連絡があるなんて、すごいことじゃない。宿命転換というのは、こういうことをいうのよ。悩んでいる人を救うために戦えば、自分に福運がつくのよ」
 清原も喜んだ。
 「今夜、すぐ、東京にお帰りなさい。おめでとう」
 富田は、一行より一日早く、その日の夜行で帰途に就いた。彼は、興奮を抑えられないまま、夜汽車に揺られながら考えた。
 ″教学で一念三千ということを教わったが、本当にそうだ。自分の一念が変わって妙法に則れば、環境世界が変わると言われた。人間の心が変わったからといって、環境が変わるなんて、そんなことが、あるのだろうかと思っていたが、自分の生活に、実際にその現証が現れた。これは信じる以外にない。すごい仏法だ!″
 御書に「人のために火をともせば・我がまへあきらかなるがごとし」と仰せである。他人のために尽くす、慈悲の行為に励む人の胸中には、仏の命が涌現する。その境涯が、すべてを変えていくのである。
 彼は、ほのぼのとした温かいものと、絶対の信心の確信を胸にかかえ、九州へ出発する時よりも、さらに勇躍して東京に戻った。
 駐留軍の事務所に出頭すると、復職の条件は、これまでより一割の昇給となっていた。彼は、前日からの激しい転変に驚き、いかなる困難も、徹底した信心でこそ、解決できるという確信を、さらに深めたのであった。
 富田成一という一科学者は、現証を自ら体験することによって、仏法の真実を把握することができたといってよい。
 これは、何も科学者だからというのではない。誰人であれ、一つの教えが真実であるかどうかを判定するのに、現証をその基準としている。彼が、ただ、実験証明を重視する科学者であっただけに、多くの人びとよりも鮮明に確証を握ったのであった。
7  東京の下町に、山川という夫妻がいた。妻は、終戦によって大陸から引き揚げ、縁あって現在の夫と結婚した。
 夫の収入では生活もままならず、彼女は、近くの小さな工場に通って、ほそぼそと生計を立てていた。その工場に学会の班長がいた。
 彼女は、その班長から、当時は、まだ聞き慣れない創価学会の名を聞き、日蓮大聖人の仏法の話を幾たびも聞かされた。
 班長は、語った。
 「大聖人は、人生の幸・不幸の原因は、宗教にあると言われているんです。これには、それなりの法則、理由があるのです。仏教の教えの高低浅深を、ぜひとも勉強してごらんなさい。
 宗教というのは、人間の生き方の根本法則です。間違った法則を信じて生きれば、人生も行き詰まってしまうし、正しい法則に則って生きれば、幸福生活を送れます。また、その根本法則があることを知らなければ、結果的に誤りを犯してしまうことになる。
 私は、あなたの、これまでの人生を深くは知りません。しかし、失礼ですが、幸福な日々を送られているとは思えない。あなたの、これまでの人生を、よく、お考えになってみてください。
 大聖人の、おっしゃることと、違っているはずはありません。あなたも苦労なさっている。一日も早く、日蓮大聖人の仏法を学んで、幸せになってもらいたいんです」
 話を聞きながら、彼女は憤慨した。まるで、人の不幸に付け込むような話である。
 彼女は、夫に、学会の班長から聞いた、この話を伝えた。
 夫は、せせら笑って言った。
 「迷信だよ。宗教によって、人間が幸福になったり、不幸になったりするものか。抹香臭い話は、俺は真っ平だ」
 夫は、宗教には無関心だった。彼女も、″そうだわ。宗教で人生が変わるなんて、そんなことが、あるはずない″と、夫に同調した。
 ある日、仕事に出た夫が腕を折ってしまった。仕事も満足にできない事態に陥ったのである。夫の事故から間もなく、今度は、五歳の男の子が、転んだ拍子に腕を折ってしまった。
 そうした状況を知った班長は、自分のことのように心配して、見舞いに来た。
 「奥さん、早く信心した方がいいですよ」
 山川光代の頭に、″やはり、信心した方がいいのだろうか″という思いが、一瞬、よぎったが、″事故が重なったのは偶然の一致だ″と自分を納得させて、やはり信心するのはやめようと思った。
 年が明けてからも、折に触れて、班長は、この夫妻に仏法の話をしていった。だが、相変わらず聞く耳をもたなかった。
 ところが、夫が風邪をとじらせ、仕事を休む日が続いたのである。暮れの骨折に続いて、今度は、たちの悪い風邪である。生計は苦しくなった。
 その話を耳にした班長が、工場での休み時間に、彼女に語りかけた。
 「山川さん、『罰』の生活は早く転換させましょうよ」
 彼女は、「罰」と言われて頭にきた。帰宅して、夫に勢い込んで話した。
 「あんた! あんたが怪我したのも、風邪をひいたのも、みんな『罰』だって言うのよ!」
 それを聞くと、風邪で寝ていた夫は、熱っぽい体を、がばっと起こし、妻を促して、班長の家に怒鳴り込んだ。
 「人の不幸に付け込んで、『罰』とはなんだ! それが信仰している者の態度か!」
 二人の怒りを静まるのを待って、班長は諄々と話を進めた。
 「実は、私も三年前までは、宗教のことは何も知らなかったんです。だから、この仏法の話を初めて聞かされた時には、山川さんと同じように、″冗談じゃない。宗教で人間の幸・不幸が決まってたまるか″と反発したんです。
 ところが、よくよく話を聞いてみると、宗教には厳然と正邪があることがわかりました。その明確な判定を、日蓮大聖人が下されているんです。私が、感情的に言っているのではありません。不幸の原因は、誤った宗教にあるんですが、多くの人は、それを知らずに信じている。
 私は、日蓮大聖人の仏法を知って、これからの人生と生活に、強い確信をもつことができました。だから、あなた方にも、早く目覚めてほしいんです」
 班長の、冷静で真摯な真心からの話に、山川夫妻の感情的な反発は消えたが、入会に心を動かすまでにはいたらなかった。
8  この日から三カ月ほどたった、暖かい日差しのある日、今度は、路上で遊んでいた三歳の娘が、オートバイに、はねられるという事故が起きた。娘は、すぐに病院に担ぎ込まれた。診察の結果、頭部内出血の重傷であることがわかった。
 「時間の問題です」――医師の言葉に、夫妻は、絶望の淵に陥った。意識不明の幼女を眼前にして途方に暮れた。
 光代は、思った。
 ″やはり、「罰」なのかもしれない……″
 そこに、班長が駆けつけた。彼の心からの見舞いに、彼女の頑なな心が開かれた。
 彼女は、心の底から訴えた。
 「信心させてください。娘を、なんとしても助けてあげたいのです」
 しかし、夫は頑強に反対し、班長を追い返した。
 そのうちに幼女の容体が悪化し、脈も乱れ始めた。夫は、医師の部屋に飛んで行き、幼女の救命を懇願するしかなかった。医師は、医学に照らし、なんの確信ももてなかった。なおも懇願して動かない夫に困惑し、ふと思いついたように静かに言った。
 「私は医師ですが、一人の人間として考えるのです。あなた方は、さっき信仰の話をしていたようですが、ひとつ信仰してみてはどうですか。この前も、大怪我をして入院した絶望状態の患者があったが、なんの信仰だか知りませんが、信心を始めて不思議にも回復に向かった例もあります。
 私としては、もちろん、医学的に最善を尽くしているのだが、正直なところ、今の状態では、保証はできません。信心してみたらどうです」
 頼りにしていた医師から、こう言われた時、夫は唖然としたが、他に選択の道はなかった。彼は、遂に入会を決意した。
 夫妻は、すぐに班長宅に駆けつけた。はや深夜である。御本尊を受けるには明朝を待つ以外にない。
 班長は、二人を自宅の御本尊の前に並んで座らせ、自ら導師とななり、唱題に励んだ。
 唱題が、どんなに真剣であったかは言うまでもない。翻然と入会決意した夫妻は、朝早く、もう一度、病院に戻った。見ると、子どもは、すやすやと寝入っているように思われた。
 妻は、医師に尋ねた。
 「娘は良くなっているのでしょうか」
 医師は、黙って首を横に振った。危篤状態は続いていたのだ。
 慌ただしく入会の手続きをすませ、御本尊を受持した夫妻は、病院に戻り、娘の傍らで必死に唱題をした。
 翌日の昼、班長が、再び見舞いに訪れた。幼い病人を見ると、痛ましさに耐えきれなくなって言つた。
 「奥さん、お子さんのためです。戸田先生の指導を受けてみましょう。これからでも、すぐ行きませんか」
 山川光代は、戸田が、創価学会の会長ということさえ知らなかった。しかし、班長の言うままに、市ヶ谷の分室を訪れた。
 親切な班長は、経過を語り始めた。
 戸田は、じっと耳を澄まして聞いていた。やがて戸田は、病室の瀕死の幼い病人をありありと見るかのように、思いやりの深い口調で言った。
 「かわいそうに……宿命とはいえ、親の信心しかない。ともかく親の真剣な信心でかわいい子どもの生命を動かすことです。本気になって祈り、願うことです。見栄もいらない、ただ仏様に尊い命を助けていただくことです。入会は、いつですか」
 「それが、昨日なんです」
 戸田の顔が、瞬間、曇った。しかし、意を決したように力強く言った。
 「そうか! よし! 私も祈ってあげよう。あなたも、生涯、御本尊様から離れないと覚悟して祈るんですよ」
 「はい、それはもう絶対に離れません」
 山川光代の声には、真実がこもっていた。彼女は、不幸続きの過去を思い浮かべたのであろう、涙に濡れた目を戸田に向けていた。
 病室での、真剣な唱題は続けられた。医師も激励してくれた。
 翌朝、診察があった。医師は、明るい表情になった。
 「不思議なくらい良くなってきた。このぶんなら、助かるかもしれませんね。しかし、油断はできません。長くかかるでしょう。大事にしてください」
 まったく動かせなかった体は、その日から、少しずつ動き始めた。一週間たった時、娘は、小さい右手で煎餅を握り、かじって食べた。そして、入院して十五日目には退院できたのである。
 山川夫妻が喜んだのは言うまでもない。班長の言う御本尊の力ということが、真剣な信心ということが、初めてわかったのである。信じた者の強さは、日常生活を一変させた。病気がちだった夫は、いつか健康な体になって、元気いっぱい働きだした。
 気がついて、わが家を顧みたとき、希望に燃えた明るい家庭がそこにあった。
9  戸田城聖の個人面談は、このように、一人ひとりの苦悩との格闘であった。そとに力点を置かねばならない時代であった。
 彼は、これまでに何千人もの会員を指導してきた結論として、「人びとの悩みには、病気や貧之がいちばん多い。これを解決できないようでは、真実の宗教とはいえないだろう。広宣流布という遠大な理想を実現するにも、社会の人びとを苦しめる、病気や貧乏の解決を第一歩としなければ、進むことはできないのだ」と、しばしば口にした。
 また、戸田は、よく、こう力説した。
 「医学で解決できない病気は、御本尊に祈りきるよりほかに方法はない。そう悟った重病人には、御本尊が、はっきり見えるので、それだけ解決が早い」
 当時、初信の功徳として、病気を克服した体験が、あちらこちらの座談会で、引きも切らず語られたのも、理由のないことではない。医師から見放された人は、ただ、ひたすらに御本尊に向かい、切なる唱題で己の生命力を強靱なものにし、病魔を駆逐したのである。
 また、貧乏もそうであった。八方塞がりで、どうにもならないところまで追い詰められ、処置のしようがなくなった困窮状態のなかにあっても、絶体絶命であればあるほど、真剣な唱題によって、彼らは、なんらかの血路を見いだすことが多かった。反対に、たとえ妙法を受持しても、不純にして信心利用をたくらみ、和合僧を破壊する反社会的行動を取る者は、仏法の厳しい鏡に照らされて、厳然たる仏罰の現証を免れなかった。
10  このころ、埼玉県の農村に、三十三歳の牧田政行という一人の男性がいた。彼はエックス線検査の結果、両肺結核と診断されていた。これを境に、彼ばかりでなく、一家には、いつか病魔が忍び寄ってきた。
 半年の聞に、長女の肺炎、彼自身の痔の手術、母の失明、弟の盲腸の手術、父の怪我と続き、やがて彼の結核は、腸にまで広がる症状をみせ、家中が病人ばかりという状況になってしまった。
 見かねた創価学会員の友人は、入会を懇切に勧めていた。沈んでしまった一家を、なんとか再起させようと努力したのである。理屈屋の牧田は、さんざんゴネたものの、さりとて、なんの思案も、ないことだけは悟った。
 ″病気が治るものであれば、どうしても治したい″
 友人の勧めるままに、彼は、最後には入会せざるを得なかった。
 彼は、腸の発病から、恐るべき衰弱に陥っていた。若い医師は、肋骨を数本、切除する必要を説いたが、衰弱は、それを許さない。手術は、もはや不可能というのだ。
 彼は、息が切れ、道を歩くにも十メートルごとに、息を弾ませて休まなければ歩けなくなっていた。
 このような状態のなかで、彼は、やっと勤行し、座談会にも通った。「宿命転換のための、唯一の仏道修行は、これしかない」と聞かされた彼は、生きるために、一家の幸福のために、懸命に実践に励んだ。
 彼は、座談会で、さまざまな体験を聞いた。そして、何事にも迷わず、日蓮大聖人の生命であられる御本尊に帰命し、あくまでも信心の火を絶やしてはならないことを悟った。彼は、はやる心を抑えて、百万遍の唱題を、まず決意したのである。
 数カ月で百万遍が終わった時、群馬県のある療養所に、やっと入院することができた。肺葉切除に希望をかけたが、意外にも、医師は手術の不可能なことを宣告した。
 「君の今の病状で手術などしたら、いっぺんに死んでしまいますよ。なにしろ、両肺が駄目になってしまっている。既に現代医学の限界を超えているんです」
 彼は落胆した。
 「では、どうしたらいいんです。私は、大勢の家族のために、どうしても、一日も早く良くなりたいんです。責任があるんです。現代医学を、私は絶対と思っていたんですが……どうしたらいいんですか」
 「私は、実情を言ったまでです。焦らず、まず十年は養生するつもりで、かかった方がいいですよ」
 彼は、医師の顔がうらめしかった。働き盛りに十年の療養生活――それは、彼の人生の終罵を意味するにも等しく感じられた。
 彼の心は暗くなった。百万遍の唱題のあとに知った医学の限界に、彼は、自分の罪業の深さを見る思いだった。
11  しかし、唱題の功力か、彼は、この時、絶対に生き抜き、蘇生の人生を歩むことを確信し始めたのである。信心一筋に生き抜いてみようと決意した彼は、五回目のエックス線検査にいたるまでに、社会復帰を念願として、再び、もう百万遍の唱題を始めたのである。折伏も始めた。
 だが、重症患者の折伏である。誰一人、耳を貸す者もいなかった。
 彼は、挫けなかった。そのうち心臓も悪くなったが、それでも、挫けなかった。
 ベッドの上から、窓越しに戸外を見ると、時に霊柩車が通り、その向こうの山の火葬場の煙突から、煙が上がっていることもあった。
 「死」が、自分にも迫りつつあることを感じた。死魔との戦いである。その戦いは長かった。しかし、秋になると、心臓の異常は自然に消え、両肺の圧迫感も薄らいできた。正月には、外泊を許されるまでになった。彼の折伏活動は、広がった。
 正月を期して、彼は、四回目の百万遍の唱題を発心した。春、暖かくなったころを境に病状は一変して、日ごとに快方に向かった。五回目の百万遍が、入梅の六月に終わった。
 七月一日は、六回目のエックス線撮影日である。七月二日朝、彼は、確信と不安をこもごもに胸にいだいて、医師の診察を受けた。
 思わず、期待と不安の入り交じった言葉が出た。
 「先生、どうでしょうか」
 担当医師は、エックス線写真を透かし見ながら、怪訝そうな表情で言った。
 「いやぁ、驚いたなぁ。すっかり固まってしまっている。牧田さん、あなたは不思議な病人ですね。本当によかった、よかった。このぶんなら、ぼつぼつ働いても差し支えないですよ」
 医師は、牧田の顔をいつまでも見ていた。
 重症患者の社会復帰は、二年七カ月で、見事に叶ったのである。この間に、彼は五百万遍の唱題を遂行していた。
 また、退院間際になって、彼の元気になった姿を見て、六人の人が、相次いで入会を希望したのである。
 まだ、日蓮大聖人の仏法の真髄についても、創価学会の存在にも、世間は、ほとんど無関心であった。しかし、地方の一療養所の一隅で、正しい宗教の実践によって、明快な現証が現れていたのだ。
 そして、これらの現証の数々は、宗教の真実について、無言のうちに多くのものを、日本の社会のなかで語り始めていたのである。
 戸田城聖は、ある時、これらの現証の意味するところを明確に語ったことがある。
 「ある宗教の説くところが、必ず実証されて、時と、所と、民族と、環境とを問わず、ただ一つの例外もなく実証される――ならば、その宗教の説く『教え』は、すなわち『法則』であり、『真理』であると、いわなければならない。
 生活の面に、おいて、幸福になると言ったら、必ずその人にとっての幸福の現象を享受する。不幸になるといったら、必ず不幸を感ずるという力強い宗教……これは、すなわち法則であり、最も科学的であり、吾人をはじめ現代の人びとの欲求するところでなければならない」
 戸田は、ここで、真実の宗教の科学性について語っている。彼が、日蓮大聖人の仏法にいだいた確信は、実証に基づくものであった。
 もちろん、普遍的現証というからには、人間生活のあらゆる面にわたって現れるものでなければならない。病気、貧困、家庭不和などに限られるものではなく、人生百般にわたって、誰でも納得できる現証でなければ、数々の事実が真実とはなり得ない。
12  ここに五十歳を過ぎた一人の漁船の船長がいた。
 若い時から漁業一筋に生きてきた、大杉克夫という、北海道函館に住む男である。彼は、前年夏のアリューシャン遠征漁業に、ある母船団の一隻の船長として参加した。
 彼の船は、船団のなかでも漁獲高のトップを争う成果を上げていた。ところが、船団は低気圧の接近により暴風雨に襲われ、運悪く彼の船だけが転覆し、北海の冷たい大波のなかにのみ込まれてしまった。彼は、乗組員と共に救助されて、九死に一生を得て函館に帰った。
 海の男の間では、「船長は船と運命を共にする」という思想が、不文律のように生きていた。北海の嵐で船を沈没させて帰港した船長は、船主に合わせる顔もなく、恥辱と自責の念に駆られて、もだえ苦しんだ。
 世間を避け、部屋にこもり、暗い来し方、行く末にばかり思いを馳せているうちに、神経を磨り減らし、憂悶のうちに死さえ考えるようになった。豪快な海の男は、わが運命を嘆き、死に場所を探し求めていたのである。世を厭い、人を厭い、傷ついた彼は、ただ辛かった。死ぬことが、苦痛から逃れるいちばんの方法とさえ思えた。
 このような時に折伏されたものの、彼は、耳を傾けようとはしなかった。これまで彼は、自分ほどの信心家は、めったにいないものと自負していた。それが、これほどの災厄に遭ってみると、この世に神も仏もあるものかと、宗教の無力を痛感し、宗教を否定せざるを得なかった。
 彼は、それまで、日ごろから、強い信仰心をもって生きてきた。いつも出航の前には、寺社に莫大な祈祷料を捧げるのが常だった。
 海の男は、それでも気がすまず、機会あるごとあらゆる信仰に首を突っ込んでいった。北洋という、激しい自然の暴威から身を守ることができるならばと、彼は、全半生に数々の宗教を遍歴し、豊漁を祈ってきたのである。
13  しばらくして、八月の酷暑がやってきた。函館の地にも、創価学会の夏季派遣隊がやって来て、活発な活動を始めていた。
 ある日、派遣隊主催の仏教講演会のビラを手にすると、宗教否定者に変わっていた彼は、憤激した。
 ″人を惑わせるにもほどがある。自分のような徹底した信心家を、このような不幸に陥れた宗教などというものは、絶対に許せない。この鉄面皮をひん剥いてやろう″
 彼は、いきり立って、定刻に講演会場に足を運んだ。
 幾人かの講師が立った。
 その説くところによると、多くの宗教の誤りを、痛快なまでに語っていた。彼の怒りは薄らいでしまった。やがて彼は、わが意を得たものと心のなかで拍手していた。
 彼の、これまで信仰してきた教えも、まことに根拠薄弱なことが浮き彫りにされていった思いがした。しかも、最も恐るべきことは、宗教の誤りは、人間から次第しだいに生命力を奪い、最後には、のつぴきならぬ不幸に陥れていくとまで語っているのである。
 その講演の内容は、彼の経験のうえから肯定せざるを得ないものであった。
 しかし、彼にとって不可解なのは、創価学会という聞いたことのない教団が、宗教の正統性をもつという主張である。
 二、三の体験談が発表された。
 これこそ、インチキのサクラであるとしか思えなかった。
 ″人を惑わすにもほどがある″
 大杉克夫は、講演会が終わってから、自分のところへ寄ってきた一人の派遣幹部に反撃を開始した。
 「私には、すべての宗教がインチキであるという実感があります。いやというほど、身に覚えがある。しかし、創価学会の信心が正しいということが、私には全くわかりません。誰が、いったい、その正統性を立証しているんですか」
 もっともな話である。
 派遣幹部は、さも待っていたというように言った。
 「あなたは、実に、いいことをおっしゃる。それは、ほかならぬ日蓮大聖人自らが、生涯をかけて立証されたところです」
 「そんな昔のことは、私には、わかりませんね」
 「でも、さっきの体験はお聞きになったでしょう。何よりも事実が立証しているではありませんか」
 「あの方たちを、私は、全く知りません。知らない人を相手にすれば、どんな嘘でも言えます」
 「あの話が、嘘だと思うのですか」
 「今の私には信用できない。あまりにもうますぎる」
 「あなたにも、うますぎることが起きたらどうします。必ず起きると、私は断言できる」
 「いったい、それを誰が保証するんです?」
 大杉は、踊されまいと必死に警戒していた。
 派遣幹部の顔に、人のいい微笑が浮かんだ
 「私でよかったら、いつでも保証に立ちますよ。あなたは、これまで、さんざん、さまざまな宗教に失望してきた。そして、目が覚めた。覚めた目で、もう一度、学会の真実を……」
 「何を言おうが、信じられませんね」
 「まぁ、よくお聞きなさいよ。あなたの人生の幸・不幸にとって、今日は、実に重大な瞬間です。入会するもよし、しないもよし、あくまでも、あなたの自由です。それは、あなたの決定すべきことですからね」
 彼の心に葛藤が始まった。大杉は、決定が彼自身の意思にあると言われて、ともかく話だけは聞こうと落ち着いたのである。
 派遣幹部は、日蓮大聖人の教えを、順々に語り始めた。それから、さらに、さかのぼって、釈尊以来の仏教の歴史を通し、その正統な流れが、今日、創価学会という教団の中に、脈々として受け継がれている事実を語った。
 大杉の、これまで聞いたこともない話だった。
 ″もし、それが真実であるとするなら、自分が、これまで信仰してきた宗教というものは、いったい、何であったのだ!
 彼は、自分が哀れになった。そして、講演会の時に聞いた体験談は、創価学会の正統性の立証かもしれないと、初めて思えてきた。
 派遣幹部は語り終わると、無言で腕を組んでいる彼を促すように結論した。
 「今、お話ししたことは、すべて文献的な証拠のあることです。あなたの苦い経験を尊重するとすれば、それらの教えが誤っていたことは、一目瞭然です。
 しかし、創価学会に限って言えば、あなたは、まだ一度も経験したことがない。私たちも、経験してみて、初めて確信をもってお話しできるのです。私は、入会して、まだ数年にしかなりませんが、ここに最高の仏法があることは断言できます。
 あなたは、経験を重んじる方のようだ。経験してみて、いいか、悪いかを、判定すべきではありませんか」
 大杉は、ここで顔を上げた。そして、派遣幹部に眼を凝らして言った。
 「それは、そうです。今の私には、力を与えてくれる信仰が必要であることもわかります。まだ、すっきりしないところもありますが、あなたを信じてやってみましょう」
 大杉克夫は、入会したのである。
14  失意に沈んでいた大杉克夫は、かすかな希望を見いだして、まず死の淵から脱却し、生きる気力が湧いてくるのを覚えたのである。
 大杉は、信心に怠りない日を重ねた。失業中の船乗りは、何よりも暇である。唱題を積み重ね、会合という会合には、せっせと出席した。同志と共に、折伏にも励んでいった。
 彼は、新しい生活を、張りをもって送り始めた。
 かつての同僚たちは、彼の折伏を受けると、「あいつも、とうとう頭がおかしくなったらしい、妙なことを言って歩く」と陰で噂した。
 表面の事態は変わらなかったが、彼の心の底には、一種、名状しがたい歓喜が湧いていた。彼は、毎日、仕事を見つけることにも奔走したが、五十歳を過ぎた″沈没船長″には、なんの就職の糸口もつかめなかった。
 学会員たちの激励で、彼は、連日、信心活動に没頭していった。入会してから十カ月たち、翌年五月になると、函館の港には、日本各地から漁船が集まり、新しい船団が組織されつつあった。
 彼は、悲哀を感じ、やがて訪れるであろう目前の老年期に脅え、不安のなかで、ひたすら唱題に励んだ。
 そんなある日、ある船主から、彼を船長として迎えたいという話が、突然、舞い込んだ。彼は、夢かと驚いたが、今の彼にできることは、船長の仕事だけしかない。
 大杉、一年ぶりに、またも船長として蘇ったのである。
 慌ただしい出港を前にして、多くの船長たちは、例年のように、競って祈祷に莫大な寄進を捧げていた。
 北洋の激浪との、命をかけての戦いである。安全を願う心情の、当然の発露といってよい。彼らは、人間の力の限界を知っていた。
 弱い存在である人間として、自然の威力に耐え、しかも、豊漁と航海の無事息災を願う時、海の男たちが、どんなに迷信深くなることか、それは経験したことのない人間の想像を、はるかに超えたものである。
 大杉船長は、同僚の船長たちの、にわかに信心深くなったありさまを目にして、自分には、日蓮大聖人の仏法に対する絶対の確信のあることを、ありがたく思った。そして、彼は、心のなかで、「仏法は勝負である」とつぶやき、朝に、晩に、御本尊に祈った。
 この年の新編成の船団は、全国から集った、選り抜きの数十隻の漁船の集団であった。大漁旗を高く掲げた船団は、勇壮に次々と出港していく。大杉の船も、長い海路に就いた。
 数カ月にわたる北海での遠洋漁業である。作業は白夜のなかで、昼夜を分かたず続けられた。魚群を追っての冷たい激浪との戦いは、時に凄惨を極めたが、自然の支配力は、偶然としか言いようがなかった。ある船には、連日、魚がさっぱりかからないかと思うと、ある船は、てんてこ舞いするほど豊漁である。
 大杉の船には、不思議なほど魚がかかった。彼の長い経験からいって、それは不思議と思うよりほかなかった。彼は、心で唱題しながら指揮を執っていたのである。
 秋に入って、船団は函館に帰港した。
 漁獲量の集計が発表されてみると、大杉の船が、見事に第一位に輝いていた。彼は、一躍、北海道一の海の横綱として凱旋したのである。
 彼は、宗教の恐ろしさと偉大さとを、身をもって体験した。さらに、それが御本尊の功力に対する確信となり、多くの人びとに、それを語らねばならぬ使命をも自覚した。事実は、いつか真実として生きたのである。
 このような、動かすことのできない功徳の体験は、このころから、創価学会の会員のなかに、全国的な規模で、次から次へと、枚挙にいとまのないほど生まれていた。
15  関東地方のある小都市に、水沢キヨという婦人は小料理屋を営んでいた。
 彼女は、二十四歳で夫を失い、残された一人娘と共に、三十一年という長い年月を働き通してきていた。店の経営は、料理のほかに、その町の警察署や少年刑務所の差し入れ弁当も作っていたので、かなり安定はしていたが、収入の割に生活は苦しかった。
 彼女は、ある教団の熱心な信者で、働いて得た多くの利益を、そっくり、教団の本部へ運ぶことを、唯一の生きがいとしていたのである。それも、一年、二年のことではない。実に二十七年も続けていた。女一人の力で、これほどまで働きのあることが、何よりの自慢であった。
 ある時、税務署の徹底調査があり、莫大な追徴金が課せられた。それに相当する莫大な利益は、確かにあったが、すべては教団本部に納めていたのである。彼女は、多少の借金をしたが、間に合わない。税務署からの厳しい督促状に困り果て、同じ都市に住む懇意な知人の家に金策に出かけた。
 知人は、創価学会員であった。恰幅のいい、その学会員は、穏やかに、宗教の教えのいかんが、人びとの人生を、どんなに左右するかを語って尽きなかった。
 「今までの信仰生活のままでは、また必ず行き詰まってしまう。どうせ信心するからには、あらゆる面から見て、絶対に正しいと言い切れる日蓮大聖人の仏法に帰依したらどうです。私には、絶対の確信があります。さもなければ、あなたの起死回生はとてもできないし、私は心配なんです」
 水沢キヨは、腹が立った。金策に行って、自分の信仰をけなされた思いがしたのである。
 「そんな話を伺いに来たのではありません。私は、今、お金に困っているんです。相談に乗っていただきたくて来たんです」
 「それはわかっています。私はなにも、意地の悪いことを言っているのではありません。今のままだと、いくら金策をしても、焼け石に水という結果になりかねない。それを注意したかったんです」
 「注意なんか、される必要はありません」
 「そうですか……」
 「あなたは、私の宗教をご存じない。私は、これまで二十七年もやってきたんですよ。おかげで、健康で、これだけ働くことができた。今、少々、お金に困っているからといって、人を見くびらないでください」
 勝ち気な水沢キヨは、憤然と席を立った。学会員は、彼女の後ろ姿に呼びかけるようにつぶやいた。
 「二十七年、惜しいことだ。惜しいことだ。もしも、大聖人の仏法を、二十七年も、あなたのように真面目にやったら、それこそ、どんな幸せな境涯になっていたことか……」
16  それからも、彼女の苦悩は続いた。苦しければ苦しいほど、自分の信仰に燃え立った。
 ″私は、必ず立ち直ってみせる。創価学会が、どんなものか知らないが、今、これまでの信仰をやめたら、二十七年聞が無駄になるではないか。今日からは、無理をしてでも、今まで以上にご奉公をすることだ″
 だが、誰一人、救いの手を差し伸べてくれなくなっていることが、これまでと違って不思議だった。それどころではない。数年前に保証人として捺印した、友人の借金まで、逆に負わなければならなくなった。弱り目に崇り目である。折伏されてから三カ月が過ぎていた。幾通もたまった税務署からの督促状や、借金返済を要求する書面を手にして、いよいよ差し押さえの近いことを、覚悟しなければならなくなった。
 人びとの寝静まった深夜に、彼女は、独り、座敷に座り込んで、ため息をつきながら深い思いに沈んだ。万策尽きたのである。情けなかった。泣くにも、もはや泣けなかった。家が火事にでもなればよいとさえ考えた。
 失意の底で、思いがけない言葉がよみがえった。それは、あの学会員が、最後に独り言のように言ったことである。
 ――もしも、大聖人の仏法を、二十七年も、あなたのように真面目にやったら、それこそ、どんな幸せな境涯になっていたことか……。
 彼女は、なんとなく思った。
 ″そうかもしれない、いや、大いにそうかもしれない……。
 確かに二十七年間の結末は、どうにもならない現状だ。私には、もはや、打開の力がない。そうなると、あの人の言う宗教を二十七年やっていたら、ずいぶん違っていたとも考えられる。
 ひょっとすると、宗教にも正邪というものが、あるのかもしれない。私は、深い教義のことは何も知らない。ただ、信心することにかけて、自信があっただけだ。信じたものが、正しいか、間違っているかについては、自信はなかった。特に、今となっては、全く自信がなくなった……″
 彼女は、独り、思いを凝らして考え続けたが、どうすべきか、わからなかった。ただ、今までの自分を断念し、新しいものにすがる決心だけが、夜明けとともに、いつかできていた。
17  夜が明けた。街は閑散としている。彼女には、もはや、恥も、外聞も、見栄もなかった。早朝、知人の学会員の家を訪れた。
 彼女に、ただ一つ残った、信心することにかけての自信が、創価学会に向かわせたのである。寝込みを襲われた学会員は、何事かと驚いたが、見る影もなくやつれ果ててしまった彼女を、親切に迎えた。
 入会の決意を聞くと、わがことのように喜び、こまごまとした注意を与えながら、「よかった、よかった」と繰り返していた。
 水沢キヨは、近くに嫁している一人娘を折伏し、その婿と、共々に三人で入会した。御本尊を安置すると、物の怪の落ちたような、晴れ晴れしさが漂った。彼女は、この瞬間を、生涯忘れることはできなかった。
 しかし、その夜、婿の両親は猛烈な反対を始めたのである。
 信心することにかけては自信のある水沢キヨは、その日から猛烈に唱題に励んだ。願うことは、ただ一つ、金のことばかりであった。これ以外に現状の生活の解決はないからである。商売にも、朝早くから全力を傾注した。
 夜は、学会幹部に言われるままに、あらゆることを率先して実践した。すると、まず血色が、見る見るよくなった。それと同時に、日々の売り上げが徐々に上昇し始めた。新しい顧客が、次から次へと増えてもきた。月々の倍増する利益は、そのまま彼女の手に残った。夢中で半年たったとき、税金と借金のあらましを支払うことができた。
 彼女の唯一の悩みであった金の問題は、夢のよう解決したが、いいことばかりではなかった。一人娘の大事な婿が、忽然として行方をくらましたのである。
 生真面目な青年と思われていた彼が、いつか競輪、競馬に没頭し始めていた。数十万の金を浪費し、家に寄りつけなくなって家出したというのだ。小学校教員の初任給が六千円ほどの時代である。莫大な金額といえよう。
18  娘は、妊娠している。水沢キヨは、娘を引き取らなければならなかった。長いこと苦労を分け合った母娘は、寄り添って御本尊に祈ることを、今は知っていた。婿は必ず戻ってくることを確信できたが、数カ月は、そのまま過ぎた。
 やがて臨月になった。娘は、陣痛が始まってわずか十五分で男子を安産した。嬰児は一貫目(三七五〇グラム)近くも体重のある大きな子である。ところが、助産婦が産湯をつかわせている時、母と娘は愕然として息をのんだ。
 嬰児の左足が異常なのである。小さい脚は細く曲がって、足首から先が、内側に曲がっているではないか。母は、娘の顔を見た。娘は、その視線をそらし、悲痛、な引きつるような顔を壁に向けたのである。
 水沢キヨは動転したが、取り乱すことはなかった。
 ″いくら正しい信仰に励んだとはいえ、短期間のうちに、過去の宿業というものが、簡単に転換できるわけがない。今世の長かった誤れる信心による生命の濁りというものが、厳しく現れない道理がない。今、私は清浄な鏡を得て、それを厳しく、いやというほど見せつけられているのだ″
 稚い小さい足をさすりながら唱題していた彼女は、″そうだ、初孫の足を、治せるものなら治してみよう″と、さっそく添え木の手当てを施すために、木箱を持ってきた。そして箱を壊し、二枚の板片を足の寸法に合わせると、脱脂綿で足を包み、その上に板をあてがい、両側に添えてから、ぐるぐると包帯を固く巻いた。
 その日から、水沢キヨは、暇さえあれば御本尊の前に端座して唱題した。愛する初孫のために、″自分の命を縮めてもよいから、どうか足を真っすぐにしていただきたい″と切に祈った。料理店のことであり、出入りする人びとに、足の包帯を見せるわけにはいかなかった。産着の長い裾で足を包み、身を切られるような思いで気をつかった。
 これまでの罪業のゆえと、深く信じた彼女は、ひたすら、その罪の消滅を願わずにいられなかった。夜を徹して唱題に励んだ。
 こうして一週間がたつた。
 母と娘は、期待と不安におののきながら、深夜、注意深く包帯をほどき始めたのである。板を取り、脱脂綿を除き、小さい足に触って、なでた。
 内側に曲がっていた足首は、今は、ほとんど真っすぐに矯正されて、まだ細かったものの、元気よく蹴った。
 「足が……まあ、足が……ほれ、こんなに」
 母と娘は、人気のない部屋で、言葉にならない言葉を発した。同時に歓声をあげて抱き合い、「わーっ」と泣き崩れた。右足と比べて、細かった左足は、さらに二週間後に、右足と同じ太さになった。
 彼女たちは、不可思議とも思える現証を目の当たりにして、信心の喜びに浸るのであった。
 しかしまだ、心を痛めていることが一つあった。家出したままの婿が、既に五カ月余りたっても、戻らないことである。嬰児の難問が片付くと、婿のことばかり気にかかってきたが、これも、必ず、やがては解決できるものと確信を深めていた。
 それから間もない、ある雨の夜、母と娘が勤行をしている時であった。もはや人気のないはずの、消灯した店先に物音がした。
 唱題をやめて、水沢キヨは叫んだ。
 「誰?」
 返事はない。しかし、確かに人の気配があった。
 娘は立ち上がって、障子を開けた。見ると、店先に一人の見す、ぼらしい男が立っている。傘も持たず、びしょ濡れのジャンパー姿の夫を発見したのである。
 「お母さん!」
 娘は、母のところに駆け寄って、鋭い叫び声をあげた。
 婿は、家に戻るつもりで来たのではなかった。帰巣本能のままに、彼は、これまでも、深夜、この町に、しばしばやって来ていた。この日も、まず彼の実家の前を通り、それから妻の実家である料理屋の前にやって来た。ひそかに安否を探ろうと思ったのである。
 しばらく店の前にたたずんでいると、唱題の声が聞こえてきた。二人の声を聞いているうちに、どうしたことか、彼は、脳貧血にでも襲われたように、目まいを覚え、思わず店の戸に手をかけたのである。
 落ちぶれた若い父は、生後二十日余りの彼の子を、初めて抱いた。そして、子の足の異常と、それを知った時の母と娘の苦衷と、唱題一筋に乗り越えてきた経過を聞いて、流れる涙をぬぐおうともしなかった。また、涙は、蘇生の誓いの涙でもあった。
 入会以来十カ月足らずのうちに、水沢キヨの身辺に起きた――小さな事件のようではあるが、自身にとっては、いかなる事件よりも重大であり、深刻な事件――これら数々の出来事の転変は、ことごとく変毒為薬の実証にほかならなかった。
19  このような市井の庶民の問で、驚くべき現証が幾つも起き始めたのだが、一つ一つの出来事を独立させて考えれば、偶然と見ることもできるであろう。しかし、日本の各地で、これらの偶然が重なり、月々年々数多くなると、もはや、偶然と言ってすますことはできなくなる。会員によって語られる、庶民救済の現証に、ようやく人びとは耳をそばだて始めたのである。
 もし、これらの庶民が、正法に巡り合えなかったとしたら、彼らの生活に、そのような救済はなく、宿命の転換もなかったにちがいない。彼らの人生に夜明けはなく、暗黒に沈んでいたかもしれない。
 また、仮に正法に巡り合えたとしても、創価学会という実践の組織を通じて、厳しく、また温かな指導の手が差し伸べられなかったとしたら、日蓮大聖人の仏法によって、かくも悩める民衆が、的確に救われていたかどうかは疑問である。まことに創価学会の誕生こそ、不思議といわなければならない。
 これらの人びとの体験のなかのは、汲めども尽きぬ真実の救済の実証が、はっきりと現れているのである。
 この世には、どうしようもない不幸が多すぎる。
 どんな社会政策でも、どんな教育施設でも解決できない難問が山積している。現代の文明が、未曾有の発展を遂げたとしても、人間の知恵では、手をこまぬいているしかないような不幸が、あまりにも多すぎる。
 そのような不幸の解決のために、戸田城聖は、正法を唯一の光源として、絶対の確信をもって二十世紀の闇に挑んだ。誰にも理解されない孤独な戦いが始まった。半信半疑の弟子たちを引き連れ、戦後八年――やっと多くの実証を積んで、日本の津々浦々で、人びとの口の端に上るにいたったのである。
 戸田城聖が、戦後の荒れ果てた広野にともした火は、今、燎原の火のごとく燃え盛り始めたのである。
20  ここにまた、不幸な一人の男がいた。関本右門といい、戦後、数多く生まれた暴力団のなかでも有力な、ある組の命知らずの大幹部であった。彼は、家族に飲食店を経営させながら、一方では、人生の裏街道を潤歩する夜の権力者であったが、どうしようもない持病の胆石で、長いこと苦しんでいた。
 話は戦前にさかのぼるが、彼が、胆石で七転八倒の苦しみに陥ると、医者はモルヒネを注射した。たび重なるうちに、彼は、いつしかモルヒネの中毒患者になってしまった。我の強い彼のことである。
 医者や、人びとの忠告を無視して、モルヒネを打ち続けた。中毒は進行した
 終戦直後、組と組との抗争の時には、彼は、機関銃まで持ち出して暴れた。アメリカ占領軍の治下である。MP(アメリカ陸軍憲兵)に逮捕され、占領軍によって、一年七カ月の判決を受け、軍の刑務所に収監された。
 この軍刑務所で、彼は七転八倒の苦しみを重ねた。占領軍の医者は、胆石の手術をするように命じた。彼は、軍刑務所から東大病院に移され、手術台に上った。実に三十二個の石が摘出されたのである。胆石は治癒したが、刑期は残っていた。病院から、また軍刑務所に戻されて、刑期を終えて釈放になったのは、一九四九年(昭和二十四年)のことだった。
 モルヒネ中毒の発端をなした胆石は治ったのだから、彼は、これで更生しようと思えばできたはずである。ところが、裟婆の風にあたった時、彼は、かつてのモルヒネの味が忘れられなかった。たちまち、またも中毒の泥沼に落ちたのである。
 家庭は、日に日に破壊されていった。彼の飲食店に来る客のなかに、二、三人の創価学会員がいた。
 彼らは、はつらつとしていた。その学会員から、関本は折伏を受けた。だが、得意の暴力と威圧で、学会員を店から追い出してしまったのである。
 関本は、妻子まで苦しめている中毒から、抜け出したいと願ってはいた。モルヒネをやめようと、何度、思ったかしれなかった。しかし、意志の力よりも、モルヒネの魔力の方が、はるかに強かった。
 そのうちに、彼は一計を案じた。
 ″毒をもって毒を制するというではないか。モルヒネは麻酔剤である。これを治すには興奮剤のヒロポンを打てばよい″
 彼は、直ちに実行してモルヒネを断った。だが、今度はヒロポン中毒になってしまったのである。
 そしてまた、ヒロポンを制するために、再びモルヒネに戻ったが、もはや普通のモルヒネでは効き目がなかった。常に、意識はもうろうとして幻覚の虜となった。
 彼は、いつか手に入れた、二度と使用してはならないといわれる特殊な劇薬が忘れられず、日本刀などで家族の者たちを恐迫し、その入手を強制した。
 妻と娘は、泣き泣き、その劇薬を手に入れるよう奔走させられた。彼は、もはや狂乱状態を超えていたのである。
21  ここで、妻と娘は、ひそかに創価学会に入会した。夫にわかれば、何をされるかわからない。しかし、二人は死にもの狂いで、家庭をなんとかしなければならなかった。ぎりぎりのところまで追い詰められていたのである。どこにも相談に行けない暗い日々の家庭である。もはや、親類も、知人も、友人も、誰一人、相手にしてくれなかった。母と娘は、御本尊に向かって題目を唱え始めた。意外にも夫は黙っていた。
 十日たった時、関本右門の体に異変が現れた。血尿が出始めたのである。驚愕した妻は、その血尿を持って医師の門を叩いた。
 医師は、分析の結果として、不幸な診断を下した。
 「これまでになってしまっては、残念ながら処置のしようもありません。お気の毒ですが、まあ、長くて一、二週間と思ってください」
 「先生、なんとかならないでしょうか。お願いします」
 妻は、医師に懇願した。医師の返事も、顔も、暗かった。
 「これまで、よくもったものです。好きなように、させてあげてください」
 絶望を宣告された妻と娘は、唱題を決意する以外に、なすところを知らなかった。
 生ける屍同然の右門は、この日、ふらふらと戸外に出て、橋の上で倒れ、意識を失った。家に担ぎ込まれたが、意識は依然として回復しなかった。
 この騒ぎで、近くに住む学会の班長が駆けつけた。
 「題目ですよ、題目ですよ!」と二人を励まして、共々に唱題に励んだのである。病人は、ただ昏睡を続けるのみであった。
 酷暑の八月である。妻と娘は、親切な班長に励まされ、うだる暑さのなかで、ひたすらに題目を唱え続けた。
 妻は、御本尊に祈った。
 ″夫が生きるものなら、一日も早く治してください。もし、運命として駄目ならば、一度でも笑顔を見せて、夫婦で楽しい話を交わしてからにしてください″
 十六歳の娘は、ひたすらに願った。
 ″私の大事な父です。一日でも長く生かしてください。一日も早く治してください″
22  しかし、関本右門は、昏睡を続けていた。しばしば診察に来た医師は、首をかしげながら、応急の注射などをして帰っていった。
 麻薬患者の末期ほど棲惨なものはない。関本右門の場合、前後十六年にわたる注射は、体のいたるところに傷跡をつくり、それらが膿んで膿を出している。それでもなお、注射器を無意識に求めようとするのである。
 意識不明の状態が続き、彼の体は、薬も水も拒絶していた
 妻と娘は、必死に唱題を続けた。妻は、ともかく夫に栄養をとらせたかった。ある時、彼女が、夫の好物だったサンマと大根おろしを、彼の口元にもっていくと、なんと、口を開いて食べたのである。他の物は受け付けなかったが、サンマと大根おろしだけは口にして、体力を維持することができた。
 彼の意識が、やや平常に戻った時には、四十七日が経過していた。既に秋である。
 意識が戻った彼の耳に、初めて聞とえてきたのは、妻と娘の唱題の声であった。禁断症状は、ほとんどなくなっていた。
 彼は、班長の指導を素直に聞いて、御本尊の前に座った。まだ正座はできず、足は投げ出したままであった。しかし、翌日からは正座ができるようになっていた。
 御本尊を拝した彼は、心の底から歓喜があふれでくるのを覚えた。かつて暴力団の大幹部であった鬼の目から、涙がとめどもなく流れた。彼は、この瞬間から、全くの正気に返ったのである。
 彼の蘇生から、更生が始まったことは言うまでもない。まず、生活態度が一変してしまった。大きな声で唱題に励むと同時に、彼自ら驚いている体験を、会う人ごとに話さずにはいられなかった。
 折伏は日課になった。彼は、初めて味わった、一家和楽の人間らしい生活と行動に、喜びを隠せなかった。彼の折伏で、一人、二人と知友が入会し始めた。彼は、折伏が楽しくてたまらなくなった。彼の、短日月での驚くべき変化に、人びとは戸惑いながらも感嘆し、入会を希望したのである。
 向こう見ずな性格の彼は、今や、誰に対しても仏法を語らずにはおかない、勇敢な折伏の闘士となった。彼は、家族のなかで、いちばんの活動家となっていた。一家は、見る見る、春風と笑顔が絶えない、家庭革命された一家になっていった。病床から起き上がって五カ月の間に、彼は、実に五十二世帯の人びとを折伏したのであった。
23  この当時、大多数の学会員は、入会経歴は、わずか一年、二年であり、現証としてつかんだものも、初信の功徳にすぎない。十年、二十年という信心経歴をもつ人の、偉大な冥益に比べれば、初歩的な実証といえよう。しかし、それでも、なおかつ、その体験は人びとの目を見張らせ、口から口へと伝えられ、驚嘆すべき現証として、折伏戦線を沸き立たせたのである。
 体験という、これらの一つ一つの事実は、偶然とも見えるし、偶発の些事とも思える。だが、澎湃として全国にわたって、このような偶発が重なって生じるならば、それは、一つの新しい社会的現象と言わざるを得ないだろう。現象というよりも、既に一つの法則の発見であった。
 ニュートンが万有引力を発見したのも、物理的な一現象からであった。万有引力という物質の世界の法則は、宇宙とともに、実在していたものだが、その法則を彼が発見したのは、わずか三百年余り前のことである。
 仏法という、生命についての法則もまた、宇宙とともに実在していたものだが、それが人類に明確に示されたのは、釈尊の出現によってである。しかし、物質界の法則と違って、その対象が生命というものであるだけに、把握しがたく、説きがたいものであった。
 深奥な教説であったがゆえに、釈尊滅後、その教えの解釈に異説が生まれていった。多くの分派が生まれ、釈尊の真意は歪められ、忘れられていった。そのような事態への批判として大乗仏教が興ったが、大乗仏教もまた、時代を経るにつれて、多くの宗派に分かれていき、釈尊が禁じた呪術的要素を取り入れていくものもあった。
 こうして、釈尊の仏法が、混乱を極め、救済力を失った、いわゆる「白法隠没」の末法に入って、東洋の一国に出現した日蓮大聖人は、釈尊の仏法の根底にある、宇宙と生命の根源の法が南無妙法蓮華経であると明かし、救世の原理を確立したのである。そして、そこに生命の法則の具体的発見があったのである。
 その発見は、人類の未来万年の闇を照らす、強烈な光明であったといってよい。しかし、その光源の強烈さと、生命という対象の把握の至難さゆえに、形骸化した既成仏教に慣れ従っていた、多くの人びとは反発し、にわかにその言説を信ずることができなかった。
24  しかし、日蓮大聖人は、人びとの幸・不幸のカギを握る生命の法則の厳然たる存在を示すと同時に、その法則に則った具体的な実践の方途をも、教え残されたのである。
 つまり、一人ひとりの民衆が、誰人であろうとも、あらゆる人生の苦悩を乗り越え、勝ちゆくための実践法を、具体的な「行」として残された。
 「自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり」と仰せになった唱題と折伏の実践がそれである。その「行」の根本となる御本尊の御図顕こそ、すべての人びとの生命の変革を可能とし、幸福へと導く仏法の根源を開示したものにほかならない。
 人類の歴史を見れば、人間は、あるいは自然の力の脅威のもとに、あるいは超絶的な神の支配のもとに服従し、自らを矮小化してきたといってよい。
 そうした力や支配から人間を解放することが、歴史の進歩だと考えられた。ところが、人間解放の努力のなかから、科学技術の驚異的な発展という、新しい事態が展開していった。そして人類は、自然を支配下に置き、何事も自由にできる力をもったと錯覚した。その傲慢さが、いつしか逆に、人間をむしばみ始めたのである。
 科学技術文明の行き着いたところは、人間自身が科学技術文明に縛られ、自由に身動きできなくなった世界であったとさえいえよう。人間疎外が叫ばれている現代社会の病理は、窒息し、翻弄され、むしばまれた人間のうめき声にほかならない。
 確かに、人間解放への道を進むことは、歴史の進歩といえよう。だが、それには、いつの時代にあっても、人間そのものを、どうするかが問題となる。ところが、「人間とは何か」という問いへの答えを見いだし得ないまま、歩み続けてきたというのが、歴史の現実ではないだろうか。
25  科学技術の進歩によって、人類は未知の世界を切り開き、膨大な知見を得た。そして、人間という範疇のなかのことは、ことごとく知り尽くしてしまったかのように思い込んでいるのである。これこそ、人間の深い迷妄なのではあるまいか。
 歴史の背後に″人間″を発見し、神と教会の呪縛から人間を解放しようとしたのが、西洋の近代化の流れである。しかし、発見されたその人間は、途方に暮れ、いずこへ行くべきかと、長い影を引きずって、暗黒の未来へ向かおうとしている。その暗黒を破る光を放つものは、生命の哲理でなければならない。この哲理こそが、人間の内なる生命を輝かせ、未来に光芭を放ち始めた、日蓮大聖人の仏法にほかならない。
 もはや、かつての西欧文明を築き上げた一連の思想では、役に立たない時が来てしまった。人間の存在を左右するものは、日蓮大聖人が早くも洞察したように、生命の力にかかっている。まさしく生命の哲理こそ、人間の尊厳を支える座標軸となるべきものである。
 戸田城聖が、あの獄中で得たものも、生命の尊厳の自覚であった。
 「仏とは生命である」と自覚した時、彼は、大聖人の仏法を、現代に、はつらつと蘇らせたのである。そして、彼の揺るがぬ確信と、その実践は、一九五三年(昭和二十八年)、五四年(同二十九年)に至って、ようやく全国的規模で、数多くの人生を蘇生させる現証を生んでいった。それが、入会間もなかった創価学会員の、数々の体験という事実であったが、それは、同時に、生命の世紀へ向かって門出した、勇者たちの胎動でもあったのである。

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