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日蓮大聖人・池田大作

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匆匆の間  

小説「人間革命」7-8巻 (池田大作全集第147巻)

前後
1  一九五三年(昭和二十八年)になると、戸田城聖の一日は、さらに多忙になった。それこそ席の温まる暇は、全くなかったといってよい。
 月々の行事は、拡大の一途をたどった。まず、″一級講義″と呼ばれた方便品・寿量品の講義と、″一般講義″といわれた御書の講義を、ほぼ毎週、東京・池袋の豊島公会堂で行っていた。さらに、毎月二回ずつの水滸会と華陽会、そして、随時の理事会、男女青年部や婦人部などの首脳会議、その間にはさまれる地方支部の総会等々、数えあげれば、きりがなかった。
 戸田は、彼自身の生活と、自在な活動をするための資金を得るために、「大東商工」の経営に携わっており、毎朝、始業前に、山本伸一をはじめ、数人の社員に対して、小一時間、万般の学問を講義していた。わずかな時間ではあったが、毎朝のことである。戸田の、生気はつらったる指導と相まって、社員たちが、社会で存分に活躍できるための基礎知識を身につける早さは、乾いた砂が水を吸うのにも似ていた。
 そのころの大東商工の営業部長は、伸一であった。戸田は、誰よりも伸一のために、講義の時間を、毎朝、割いた。伸一の薫育を、彼は、自分の義務としていたからである。
 戸田は、自分の事業が苦境に陥った時、夜学を断念し、体を張って事業の再建に取り組み、活路を開いてくれた伸一に、自分が知り得る限りの学問を、すべて授け与えたかったのである。それは、まさに″戸田大学″ともいうべき、学問研鑽の場であった。
 午前九時過ぎになると、営業活動は始まった。商談の折衝やら、顧客への対応について、戸田は、こまごまとした指示を次々と与えながら、実業家としての商魂に徹して全力を投入する。全機能を、いつもフルに回転させていった。
 午前の激務が、正午ごろに一段落すると、戸田は、軽い疲労を覚えながら昼食をとる。食事は、かなりカロリーの高いものを心がけていた。彼は、悠然と食事をすますと、しばらく休息しながら、思索の時間をもった。
 このころになると、二階の廊下は、人びとの足音でざわついてくる。同じ階にある分室へ、学会員たちが詰めかけて来るからである。分室というのは、「創価学会分室」である。戸田は、大東商工の事務室への出入りは、商用の人だけに限っていた。仕事と学会活動を厳しく区別して、いささかも混同することはなかった。
 分室といっても、四、五坪(一坪=三・三平方メートル)の狭い部屋である。手を思いきり伸ばせば届きそうな低い天井の下に、東側に幅一メートル余りの窓がついているだけの粗末な部屋であった。
 その窓を背にして、戸田の机が一つ置かれている。机の前に、七、八脚ばかりの木製の長イスが並んでいた。なんのことはない、どこかの病院の待合室といった体裁であった。この待合室に、戸田が姿を見せると、そのまま直ちに診察室に変わるのである。
 午後になると、この部屋に、人生の患者たちが、どこからともなく、わんさと押しかけて来た。多い日には、六十人を超すことも珍しくない。悩み、苦しんでいる人びとばかりの群れである。
 その悩みも千差万別であった。医者に見放された病人もいれば、債鬼に追われて自殺寸前のような蒼白な顔の、町工場の経営者もいる。夫の浮気に悩み、怒りの形相で指導を待つ婦人もいた。
 その姿は、他のいかなる手段をもってしても癒やし得ない、苦悩に満ちた人間社会の実態といってよい。いわば、この分室に集まって来る人びとは、誰もが思案の果ての絶望感に苛まれていた。
2  長身の戸田は、窓を背にしてイスに着くと、軽い咳払いをしながら、気さくに話しかけた。
 「どうした?」
 この日、いちばん早く来て長イスで待っていたのは、三十歳ぐらいの母親である。その側に、四歳ばかりの男の子がいた。
 「お願いいたします」
 母親は、中腰になり、深く頭を下げて、子どもを前へ突き出すようにしながら話し始めた。深刻な顔である。
 「この子のことでございますが、口の中から血がいつも滲んで出て、どうしょうもないんです。このごろは、パンなどをやりますと、白いパンが真っ赤になることもあるんです」
 母親が、ハンカチで子どもの口を拭くと、赤く血が滲んでつくのだった。子どもは、弱々しく母親のなすままに任せ、つぶらな目で、戸田をじっと見上げていた。
 「医者は、なんと言っているのかな?」
 戸田は、子どもの口を開けさせて、案じ顔に首をかしげた。
 「それが、お医者さんも、『よくわからない』と言うのです」
 「やっかいな病気だね」
 戸田は、ため息をついた。そして、母親の顔に鋭い眼差しを向けて尋ねた。
 「入会はいつ?」
 「昨年の四月です。おかげさまで、この一年余りの間、それは数々の功徳を受けました。しかし、この子のことを考えますと、本当に不憫で……」
 母親は、涙声で身の上話を始めた。
 入会前、夫と離別し、四人の子どもをかかえて苦闘したが、この間に長男を病で失っていた。
 入会してから、不思議に生活は向上し、安定したものの、この二、三月ごろから、末の男の子に出血の症状が起きたのである。
 夜、布団に入って体が温まると出血がひどくなるので、寒い夜でも、板の間に着物のまま寝かせなければならなかった。それでも朝になると、子どもの口から滲んだ血は枕を染めて、蒼白な顔で横たわっている。それは、母親にとって、身も心も細る苦悩であった。
 戸田は頷きながら聞いていたが、母親の苦悶の話に愚痴のないことを知って、いとおしく思った。
 「医者で治る病気は、医者で治せばよい。しかし、医者で治らぬ病気は、いったいどうしたらよいのか。これが大問題です。世の中には、医者で治らぬ病気が、たくさんある」
 彼は、水の入ったコップを手にしながら話を続けた。
 「業病といって、そのような病気の方が多いかもしれない。原因が宿業にあるとしたら、これは、この信心でなければ根本的な打開はできません。
 あなたは、よかった。ものすごい力のある御本尊様を頂いている。真剣に、真剣に、お願いしなさい。生命の本源力が、それだけ活発に動きだしていくんです。治らぬはずがあるものか。いいかな、私は嘘を言っているのではない」
 戸田は、渾身の力を振り絞り、大確信を込めて指導するのであった。その慈愛は、母親の心の底を揺すった。母親は、感極まって泣きだした。
 戸田は、母と子を見守りながら、さらに激励していった。
 「あなたは、真面目に信心してきたようだ。私には、それがわかるのだよ。信心を始めて、末の子どもも病にかかったということは、いよいよ業が出てきたという証しなんです。
 今、私には、どうしょうもないが、ここで約束してほしいことは、生涯にわたって、絶対に退転などしないということです。決して、御本尊を疑わないことだ。その覚悟があれば、あとは必ず妙法の力によって、なんらかの実証が厳として出てくるだろう」
 「はい、わかりました。ありがとうございます」
 母親は立って、深々と頭を下げた。そして、何度も礼を繰り返して去っていった。
 母親は、それから数日後に、報告に訪れた。
 ――指導を受けて、決意をして題目をあげ始めたところ、子どもの出血は完全に止まったというのである。
 「今では、血の気を失っていた子どもの頬に、うっすらと赤みもさしています」
 母親は、感涙を浮かべて語るのであった。
3  次に、戸田の前に座ったのは、四十過ぎの男性であった。
 語るところによると、彼は、自動車部品の工場主で、製造販売を業としているのだが、赤字経営がひどくなり、給料も払うことができなくなった。従業員は次々と退職し、経営は全く困難となり、金策もままならない。精根尽き果てて、工場、敷地を三百万円で売却して逃げ出そうという絶望状態の時に、知人の勧めで入会した。
 新しい希望をもって、今日まで信心に励んだものの、窮状は、ますます悪化するばかりだった。そして、戸田の指導を仰ぎに来たのである。
 「入会してからは、朝夕の勤行はきちんとやっております。折伏もできないながらもやりました。しかし、資金の調達もできず、苦境は極点に達し、今、絶体絶命なんです……」
 入会したら、なお悪化したとも聞こえる口ぶりであった。戸田は、その男の業種について詳しく問いただしてから、極めて平静に言うのであった。
 「わかった。ここまで苦しんでくれば、しめたものです。それにしても重病なんだから、百日くらいは一生懸命に頑張ることだ。必ず解決するよ。今、金のできないことは、むしろ君の将来にとっては、いいことかもしれない。後になれば、すべてがわかるだろう。疑わずに、ただ、日々、前へ、前へと進む信仰であることだ」
 入会間もない男である。
 彼は、戸田の呆気ないばかりの指導に、半信半疑の面持ちで帰っていった。しかし、彼は、指導に忠実に従ったのである。
 数カ月の後、彼は、支部の幹部会で、確信に満ちた体験を発表している。
 「工場は、操業停止のやむなきにいたり、手も足も出なくなり、思い切って戸田先生に指導を受けました。ほかにどうしようもないので、ただ指導通り実行しようと強く決心し、それから真剣に御本尊様にも祈念し、さらに折伏もしました。
 すると、だんだん生命力が湧いてきたのです。それにしたがって、今まで考えられないような有利な条件で、毎月、定期的に生産すればよいという注文が入りました。こちらは資金を一文も出さないで、しかも以前とは比較にならぬ利益率です。夢かとばかり喜びましたが、さらに、もう一カ所からも有利な条件で注文が入りました。
 重ね重ねの現証に、私は自信がついてきました。今では、十八人の従業員と共に、連日、多忙な作業に従事しております。私の心境が変わったら、社員たちも生まれ変わったように、はつらつと頑張ってくれるようになりました。今では、この人たちに、立派な寮でも早くつくってあげたいぐらいです。
 あれほど奔走しても、資金の調達ができなかったことは、今になってみれば、戸田先生のおっしゃる通り、私にとっては利益でありました。もし、あの時、資金ができたとしたら、焦っていた私は、おそらく赤字の事業を継続して、さらに収拾のつかない状態に追い込まれ、首でもくくっていたことでしょう。
 後にならなければ凡人にはわからぬ、御本尊様のすごさと、戸田先生の指導のすばらしさを、身に染みて思う昨今であります」
4  分室は、ぎっしりと人で埋まっている。イスに腰かけているよりも、立っている人の方が多いぐらいであった。
 工場閉鎖の工場主の次に、戸田の前に座ったのは、疲れ果てた顔をした主婦であった。髪は、ほつれて、血色も悪かった。
 彼女は、離婚問題についての身の上相談を、戸田にもちかけた。
 戸田の短い質問にも耳を貸さず、ただ一方的に、くどくどと同じことを、繰り返し述べ立てるだけであった。
 戸田は、その愚痴を辛抱強く聞いていたが、いきなり大声で怒りだした。
 「いったい、この人を誰が連れて来たのか!」
 その主婦に付き添ってきた地区担当員であろう。戸田の厳しい視線にあって、恥じ入るようにつぶやいた。
 「すみません。本当に申し訳ありません」
 「御本尊様を頂いたといったって、真面目な信心もない人に、どんな指導ができるというのか。戸田には、そんな義務はない。いいか、ちゃんと信心をさせてから連れて来なさい。信心を真剣にやっても、どうにもならぬというなら、私は、どんな思いをしても指導しよう。信心のない人に、なにも私が指導せねばならない責任はないだろう。今日は、帰りなさい!」
 不機嫌になった戸田は、二人を追い返してしまった。
5  部屋は、一瞬、緊迫して硬くなった。身動きする人もないほど、静かであった。そのなかを、三十前後と思われる一人の男性が、おずおずと前に進み出た。
 彼は、しきりと頭をかきながら、恐縮して小声で話し始めたのである。
 「実は、私は、刑務所に入ることになっていたのですが、入所の通知がさっぱり来ないのであります。どうしたものでしょうか。このまま放っておくべきでしょうか、それとも刑務所へ出頭した方が、よいのかと迷っておるのです」
 「愉快な話じゃないか……」
 さも愉快そうに、からからと戸田は笑い出した。
 男性は、入会前、詐欺罪で起訴されている。その後、入会し、それからというものは、一心不乱に信心に励んだ。だが、いっこうに収監状が届かないのである。入会以来、わずかの間に、彼の人間性は、がらりと変わり、自ら進んで償いの生活を願っていたのである。しかし、通知のない以上、どうすべきか迷いに迷って、戸田の指導を受けに来たというのだ。
 彼が、頭をかきかき、これだけのことを話すと、戸田は、温情を込めて言った。
 「そんなに急ぐことはない。ぼくも知っているが、刑務所というのは、進んで行くほどいいところではない。しばらく待ちなさい。書類でも紛失しているのかもしれない。ともかく、待ってみることだね。
 それにしても、仏法は国法よりも、厳然とした因果の法則なんです。世間法、国法、仏法を三法律というんだが、世間法より国法が強く、国法より仏法が強いんです。だからといって、信心していれば国法を犯してもかまわぬということでは絶対にない。
 国法を犯せば、国法によって裁かれるのは当然です。
 しかし、大聖人様は、『世間の失一分もなし』と仰せのように、国法など犯していないにもかかわらず、罪を着せられた。信心のために迫害され、流罪にされたんです。それが広宣流布に生きる、真の仏法者の姿です。
 また、人によっては、宿命的に社会の罪を犯さねばならぬような状況に置かれてしまった人もいる。そのような、人間の本源的宿命の打開のための法が妙法であり、信心なんです。
 ともあれ、仏法を犯した場合は、三世にわたって、はるかに罪が重く、生々世々、苦しまなければならない。末法の民衆の、目にあまる不幸は、過去世において仏法を犯した罪障によるんです。
 だから誰でも信心する必要があるわけだ。
 この世で絶対の幸せをつかむためには、誰であろうと、仏法によらなければならない。君も若いのだ。しっかり、信・行・学に励みなさい。君の今の不幸は、やがて夢のように思える時が、必ず来るとだけ、今、ぼくは君に言っておこう」
 思いがけぬ激励に、男性の瞳には涙が滲んでいた。
 犯罪者の彼を、戸田は責めないばかりか、信心の要諦をも懇切に教えてくれたのである。彼は、戸田の顔を見た。そして感動した。彼が、これまでの人生に会った人びとのなかで、戸田ほど包容力の大きな人間はいなかった。こんな人物に会ったのは、初めてである。高邁な説教をしているようで、実は観念的で空虚なものでしかない世間一般の宗教家とは、隔絶した何かがあることを、彼は直覚せざるを得なかった。彼は、深々と頭を下げ、思わず涙を落とした。
6  今、この分室には、現代社会のありとあらゆる苦悩が、いっぱい詰まっている。
 ――この世の日陰に実在する、千差万別の苦悩という苦悩が、狭い分室という世界に掃き寄せられていたといってよい。その解決となると、現代の社会政策などの手に負えるものではない。どんな名医も、弁護士も、また高名な政治家でも、手をこまぬくより仕方のないような人生の問題であった。それは、通常の社会保障政策などの通念を、ことごとく超えたものといってよかった。
 戸田は、それらを一つ一つ丹念に取り上げ、点検し、日蓮大聖人の救世の鏡に照らして、一つまた一つと、確信に満ちて妙法の功力を説き、解決への絶対の希望と激励を与えていたのである。
 時には、彼自身もたじろぐような問題もあった。しかし、彼は、逆巻く激流に抗し、日蓮大聖人の仏法を唯一の杭として立ち、懸命に指導した。
 彼は、どんな問題も、最後の最後まで、投げ出すことはなかった。
 刑務所問題の男性と入れ替わって、彼の前に座ったのは、農業をしているという、五十歳ぐらいの朴訥な壮年であった。彼は前歯が欠け、言葉は不明瞭であったが、思い詰めた姿が、どこか哀れを誘っていた。
 「私は御本尊様のありがたいことは、十分知っているつもりです。しかし、とうてい、幸せになれそうもありません。先生、どうしたらいいでしょう」
 怪訝な面持ちでいる戸田を見ながら、彼は、さらに言葉を続けた。
 「先生は、この間、幸せになる方法を教えてくださいました。勤行と折伏を、実践し抜いていくならば、現在の悩みは、必ず解決するだろう、とおっしゃいました。私は、さっそく、実行してみました。しかし駄目でした。勤行はできても、折伏の成果が上がりません。ずいぶん折伏して、村中の人に説きましたが、誰一人、まともに相手にしてくれないのです。これでは、せっかく先生が、お約束してくださったのに、私は、幸福になることが、とてもできないと思います」
 勤行と折伏、すなわち自行化他の信心――この、人間革命への第一歩の実践方程式は、支部の総会などで、戸田が、よく話したことである。
 今、戸田の前に座った純朴な壮年も、それを聞いて奮い立った一人であろう。しかし、彼には、壁は意外にも厚く、幸福になるべきはずの道を塞いでいるように思えた。
 彼は、戸田の言葉を心から信じた。信じたがゆえに新たな苦悩に苛まれて、はるばる戸田を訪ねてきたところであった。
 「折伏ということは、難事中の難事だと大聖人もおっしゃっている。生命力を強くして、焦らず、弛まず、やらなければならない仏道修行なんです。二、三カ月で落胆するようでは、生涯にわたる信仰者の態度とはいえない。しかし、あなたは、もう既に折伏を実践しているではないか。それだけでも大したことなんです」
 戸田は、慰めるように激励した。
 なぜか、壮年は頑なに押し黙っている。そして、ためらいながら、口を聞いた。
 「先生、私にはできません」
 「どうして?」
 「私の出身の問題です。私が生まれた地域というのは……」
 この一言には、悲痛なまでの響きがあった。彼は、被差別地区に生まれたことによって、同じ人間でありながら、いわれなき社会的な差別に苦しんでいたのである。
 戸田も、一緒になって苦しんだ。そして、なんと素直な人間かと思った。
 戸田の言葉を、心底から信じて、純粋な一念発起を敢行したものの、不当な、社会の偏見と差別が、彼の行く手に立ちふさがったのだ。
7  「わかった。決して嘆くことはない」
 戸田は、彼に温かい眼差しを注ぎながら、話を続けた。
 「世間の偏見は、あなたを差別しているかもしれないが、仏法では、人間に一切の差別はないと説いている。仏のもとにあっては、人間は皆平等なんです。総理大臣であろうと、庶民であろうと、一人の人間として平等に仏法は扱っている。これが、本当の人間社会でなければならない。そうなっていないということは、悲しいことだが、どこか根本が間違っているんだ。その間違いを正すためにも、われわれの広宣流布という運動が絶対に必要なんです。
 あなたは、少しも卑屈に考える必要はない。既に御本尊様を頂き、仏の子となっているんです。あなたは、それを忘れないでほしい。既に、すごい境涯に入っているんです。むしろ、信心の話を聞けない人こそ、哀れむべき人と思いなさい。
 あなたが折伏しても、蔑んで相手にしない村の人たちは、実に哀れな人たちなんです。あなたが悪いのではない。村の人たちが悪いのだ。今もって偏見に囚われている人たちこそ、あまりにも時代錯誤の、古い、かわいそうな人たちなんです」
 戸田は、握り締められた壮年の武骨な手を見つめながら、彼の悲しみを、かみしめるように言った。
 「いくら折伏しても、入会者がないからといって、卑屈になってはなりません。卑屈になって世間を呪うようでは、仏の子とはいえない。あなたが村でしたことは、聞法下種といって、既に立派な折伏なんです。あなたの実践は、御本尊様が御承知です。折伏という、この世でいちばん尊い行いをしながら、卑屈になってはいけない。功徳はちゃんとある。安心しなさい。
 世の中を、いたずらに恨んではなりません。日蓮大聖人様も、御自身『海辺の旃陀羅が子なり』と、おっしゃっている。旃陀羅というのは、インドのチャンダーラという言葉の音訳で、インド社会の四階級のなかにも含まれない、最下級に置かれた階級のことです。漁師の子であった大聖人様は、御自身の出身を、そうおっしゃっているのです。
 これは、示同凡夫の御姿で御出現になった末法の御本仏として、仏法上重大なる意味をもっているのだが、それはさておき、大聖人様は、末法の民衆にとって、あなたもその一人だが、いちばん身近で、ありがたい仏様なのです。その仏の子と、あなたは、なったんです。社会の偏見に囚われて、自身を辱しめでは、決してならない」
 壮年は、やっと顔を上げた。悲しげな目が、いつか微笑んでいる。
 戸田は、さらに、この社会的差別の由来した歴史上のことまで説いて、この壮年の嘆きを刈り取ろうとした。
 「古代や中世にも、不当な差別を受けた人びとはいたが、近世の封建社会になると、大名の政治的、経済的理由から、厳しい身分制度がつくりあげられ、身分によって職業も定められたんです。そして、身分の低い人間がやっている仕事だから、職業も賎しいのだという考え方が生まれた。そうした偏見から、職業によって、それに従事する人間までも蔑視した。こうして、いつしか社会的に不当な差別が生じてしまった。今日もなお、封建時代の悪い遺物として、そのつまらぬ通念が残っているだけです。
 世間が、どんなにあなたを迫害しようが、創価学会には、そんな差別は絶対にありません。戸田は、あなたの最大の味方です。また困ったことがあったら、いつでも私のところに来なさい。決して挫けて卑屈になってはならない。今、あなたが、多くの友や子孫のためにも、力をみなぎらせ、新しい境涯で、静かなる改革の一歩を歩んでいくべきです。ともかく、御本尊の照覧を忘れてはなりませんよ」
 「わかりました。本当にありがとうございました。今後とも、よろしくお頼みいたします」
 壮年は、節くれだった手を膝の上にそろえて、不器用なまでに硬いお辞儀を、幾たびもするのだった。
 なんと純な、愛すべき男だろうと戸田は思いながら、ふと思いついたように秘書に命じて、昆布を持って来させた。
 この朝、彼の郷里の北海道から送られてきた、見事な板昆布の束である。
 「私も、北海道の貧之な漁師のせがれだよ。旃陀羅が子だ。それを何よりも誇りとしているのだ。この見布は、その郷里から来たばかりのものです。今日の記念に、あなたにあげよう。持って帰って食べなさい。いい味が出るよ」
 かなりの束であった。
 「私が、私が全部、頂いてよろしいのですか?」
 「全部、あなたにあげる」
 「すみません。本当にありがとうございます。頂きます」
 彼が、捧げるように昆布を受け取ると、長い板昆布の端が、戸田のメガネをかすめた。戸田は、さっと避け、にこやかに笑いかけた。
 「また、東京に来たら、必ず会おう。安心して信心しなさい」
 壮年は感動したのであろう。目をしばたたきながら、無言で、幾たびも頷き返し、元気に部屋を出ていった。
8  戸田の分室での指導は、このような人たちの難問という難問に、彼自ら親身になって体当たりしたのである。そして、仏法の真髄こそが、一切を解決する、この世の唯一の根源力であることを説いたのであった。
 これは、激しい疲労をともなう作業であった。だが、訪れた学会員たちの姿を見れば、彼は、わが身を忘れて、全力で指導した。戸田は、彼らを何としても奮い立たせなければならなかった。
 明日、住む家が競売に付されるという苦悩の人。借金をかかえたうえに、夫が胃癌になり、一家心中に追い詰められた妻。父母の離婚に小さい胸を痛める娘たち……。
 戸田は、それらを一身に背負ったように、わが事として指導した。彼の背負ったものは重かった。地球の重さとさえ、思われる時もあった。
 人間という動物は、悩めるものなのかもしれない。その人間のために、彼は、懸命に広宣流布の達成へと、人知れず、わが身を鞭打っていたのである。
 今、思えば、この分室での戸田の指導は、得がたく尊いものであった。ある幹部は、時間を見つけては分室へ通い、無言のまま部屋の片隅に座って、耳を澄まして聴いていた。そして、仏法上の深奥の指導というもののすばらしさを、具体的に学び取っていった。作業服の青年がいるかと思うと、はるばる大阪から出て来た、支部長の春木征一郎の顔が見えることもあった。
 時間は、午後二時から四時までとなっていたがいつも定刻を過ぎ、五時を回ることが常だった。
 指導を求めて来た人は帰り、学びに来た幹部だけが部屋に残る。戸田は、彼らと会釈を交わし、そそくさと大東商工の事務室に入った。そして、夕食を取り寄せながら、外勤社員の報告を聞いたり、これから始まる夜の講義について、思いをめぐらしたりするのである。勿勿の間は、いつもよどむととなく流れていった。
9  この年の夏季講習会は、七月三十一日から五間、例年のように総本山大石寺で行われた。
 参加人員は、実に四千五百人を超え、前年の千五百人の三倍に飛躍していた。この一事をもってしても、この一年間の、学会員の飛躍的激増ぶりがうかがえよう。
 戸田は、非常に元気に見えた。ある午後、彼は、水泳大会を発案し、多くの青年たちを連れ、宗務院裏の、急流をせき止めた小さなダムに向かった。杉の巨木に囲まれたダムに着くと、彼自身も裸となり、飛び込む若者たちの飛沫を浴びて機嫌がよかった。
 何分間、水に潜れるかという潜水競技をした時、ある一人の青年が、なかなか上がってこない。仲間の一人が心配して、たまりかねて言った。
 「まさか、土左衛門になったのではないだろうな……」
 水面をのぞき込む青年に、戸田は、笑いかけて言った。
 「心配するな。お寺は近いよ」
 やがて水中の青年が、水面に顔を出した。一同は、どっと笑って囃した。
 裸の戸田は、青年たちに囲まれ、コンクリートの上にあぐらをかき、遠い昔の、夕張の教員のころを思い出したのか、懐旧談を始めた。
 「ぼくは、十八の時に教員となり、子どもたちと、よく遊んだものだ。十九の時に、校長に代わって四百人ほどの子どもの面倒をみたんだが、月給は二十三円だった。
 私は、勉強は午前中だけさせて、午後は、毎日、山遊びや騎馬戦ばかりさせたので、みんな大喜びだったよ。朝礼の時なんか、なかなかいい。台の上に登ると、みんな最敬礼をする。それが、なんともかわいらしい」
 あちこちの杉木立から、蝉の鳴き声がやかましい。彼方には入道雲が、真夏の絵の背景のように湧いている。
 戸田は、楽しげに話を続けた。
 「人生は、すべからく生命力が強くなければならない。生命力が強いと、人生を楽しんでいけるのです。そのままで、楽しんでいかなければならない。ところが、もらった月給は、足りないようにできているものだ。そのなかで、毎日、少しずつでも残す者がいるが、それはそれでいいだろう。ただ、金を握ることだけを考えて、若いうちから小さな人間だけにはなるなよ。
 ぼくなんか福運のない男で、いつだって足りない男だった。どちらかといえば、ぜいたくだったし、わがままだったからね。しかし、信心に励むうちに、ちゃんと生活できるようになったんです。みんなも、今から崩れない福運を積んで、時には豪遊ぐらいできるようになりなさい」
 彼は、上機嫌で、楽しみきっていた。
 「咋日、面白いことがあったよ。売店のしきみ屋がしょんぼりしていたから、いくらだ、と聞いたら三十円でよいという。その時、一緒にいた理事たちに売りつけようとしたところ、金を持って来ていない。そこで、ぼくが貸してやって、一本五十円で買ってやった。しきみ屋のおばさんは、『こんなの初めてですよ。いいんですか、いいんですか』と喜んでいた」
 青年たちも楽しそうであった。
 「しきみは面白い木だ。鉢に植えればすぐつく。すごい生命力です。ところで、しきみという字は、どう書くか、知っているかな」
 一人が、自信ありげに言った。
 「木偏に神でサカキ、木偏に佛でシキミです」
 「ほう、君、なかなか学があるなあ。木偏に密とも書くんだよ。古くからある木で、いろいろな説もあるが、万葉集などにも出てきます」
 戸田の話は、次から次へと続いて尽きない。水泳大会も座談会で終わった。
 太陽は回り、辺りは静かな木立の陰になった。
 「そろそろ帰ろうか……」
 戸田は腰を上げた。
 青年たちは、戸田と裸で話し合えた、この日が名残惜しかった。
10  例年の通り、忙しい夏季講習会であることには変わりない。戸田は、法華経寿量品の講義や質問会を、連日、担当した。男女青年部の参加者千百人は、青年部だけの独自の企画にしたがって、多彩な行事を消化し、雄弁大会なども開催した。
 講習会が八月四日に終わると、そのまま理境坊で、地方派遣の指導折伏隊を送る、戸田を囲んでの壮行会がもたれた。大阪、名古屋、福岡の三地域のほかに、今回は北海道が新たに加えられた。本部派遣人員総数は、六十六人である。各派遣隊は、総本山で多数の学会員に見送られ、勇躍して各地に散っていった。十日間の日程である。
 戸田は、八日、空路で大阪に向かった。さらに、十一日に福岡に到着、十七日に函館、十八日には札幌へと、各地を回り、激励しながら、地方組織拡大の指揮を懸命に執った。
 八月度の本部幹部会は、八月二十九日夜、東京・神田の教育会館で開催された。
 その時に報告された派遣隊の折伏成果は、大阪百八十二、名古屋六十五、福岡八十三、北海道八十五世帯である。また、全国の折伏成果の総数は、四千六百二十三世帯に達した。
 夏季講習会と地方指導という、八月の二大行事は、大成功裏に終わり、創価学会の大発展の飛躍台となっていったのである。
11  九月に入ると、これまで旬刊であった機関紙「聖教新聞」は、週刊に発展した。旬刊の最終号となる八月三十日付から二円値下げし、一部十円となっている。発行部数は二万一千部にすぎなかったが、二年前の発刊当時を思うと、四倍の飛躍といってよい。
 秋とともに本部行事は再開され、教学部員候補生第三期百十一人が決定をみた。
 金曜の豊島公会堂における御書講義は、戸田の講義録第二巻『開目抄(上)』で始まった。戸田は、広宣流布の伸展とともに、油断なく教学の振興に力を注いでいた。月々激増する学会員のエネルギーを、さらに純粋に維持するものは、日蓮大聖人の正統な教学しかないことを、戦前の苦い経験から、彼は痛感していたからである。
 登山会の参加者も、九月には三千人を突破して、総本山の宿坊は、人であふれでしまった。そこで、十月からは、月二回、第一土・日曜日と第二土・日曜日に分けて行うことに決定をみた。
 このように、あらゆる部門や会合が、急速に膨張を始めたのである。各支部の総会も、参加希望者のことごとくを収容できる会場を確保することは、困難になっていた。
 また、新年初頭の方針にしたがって、地区組織の強化が叫ばれ、戸田自らも、地区部長の育成に力を注ぎ始めた。すると、待っていたように、全国の地区のなかで頭角を現す地区が増加してくるのであった。そこで、この年の四月ごろから、地区総会が支部の責任のもとに、全国各地で盛んにもたれたのである。
 戸田は、それらの総会には、自ら出席することはしなかった。ところが、九月二十七日に予定されている長野県の軽井沢地区の総会に、初めて出席することになった。
 この遠い一地方地区が、懸命な折伏戦を展開していることを知った戸田は、御本尊受持のために、そのつど上京して来なければならない学会員の不便を思いやって、寺院を建立したいと思い立ったからである。
 周知のように、軽井沢は浅間山麓の南東に広がる高原避暑地である。そのころ、町には千数百戸の別荘があり、人口は一万四千人前後であった。町民の多くは、別荘となんらかの関わりあいのある仕事で生計を立てていたようである。
 戦時中は、ドイツ人を中心に、数カ国のヨーロッパ人が住み、やがて、東京や横浜などから、別荘に疎開して来る人も増えた。終戦になると、軽井沢は、アメリカ軍の保養地となり、ホテルは一般将兵の保養施設、大型別荘は高級将校用の保養施設として接収された。これら米軍将兵と、その家族によって、町は賑やかになった。
 一九五二年(昭和二十七年)の講和条約発効とともに、接収されていたホテルや別荘は返還された。軽井沢は、国際親善と文化交流に貢献する観光都市として見直され、夏季だけではなく、冬季も観光客を誘致しようと、スケートリンクが五カ所に新設された。軽井沢は、別荘地としての歴史を生かしながら、新しい時代の観光地として進み始めたのだ。
 しかし、戦後のとの時期、住民のすべてが、そうした復興の恩恵を受けていたわけではない。別荘地として華やかに回復を遂げる陰には、厳しい家計をかかえて苦しんでいる人も多くいたのである。
 五一年(同二十六年)四月、この町に御本尊を受持する一粒の種が下ろされた。彼の家は、代々、身延系の日蓮宗の強信者で、戦前には鋳物工場を経営していたが、終戦と同時に倒産し、今は水道の敷設を業としていた。
 宗教の正邪を知り入会したものの、仕事は、ほとんどなく、暇だけは、あり余るほどあった。彼は、二、三の同志を獲得すると、町中を折伏して歩くことが日課となった。
 生活は、ますます苦しい。彼らは、町の三千世帯に向かって折伏を敢行したが、数十人の入会者を見ただけで、たちまち行き詰まってしまった。
 依然として、生活は苦しかった。米櫃の中が心配な日が、なおも続いていた。仕事はない。しかし、彼らは、なお御本尊を信ずるよりほかはなかった。
 信越線に沿って縁故を求め、汽車賃を工面すると勇ましく出かけていった。沿線の市町村は、東は高崎から、西は小諸、上田、長野、直江津に及んだ。また、北は草津、南は小海線沿線にも弘教の戦線を広げていった。
 大きく動くことによって、折伏は着々と進んでいった。このころ軽井沢に地区が結成され、泉田弘が、月に一回の地区講義に出張するようになっていた。泉田の指導で、やがて仕事が見つかる人も増え、転業して再生の一歩を踏み出す人も出てきた。地区幹部会に集まってみると、功徳が地区内にみなぎり始めていることが、はっきりと感じられた。皆が、大小の功徳を語り合う幹部会であった。
 折伏意欲は、いよいよ盛り上がって、五三年(同二十八年)四月には、三百世帯の地区になったが、燃え上がる勢いは、大きな力を発揮するものだ。その後、毎月、世帯数の二割から二割五分の折伏成果が続き、入会世帯数は、全国地区のなかで、常にベストテンに入るまでになった。
 四月、三百世帯だったとの地区は、九月には七百五十世帯となっていた。山間地域の地区としては、珍しいことであった。このような小町村の折伏の上昇は、未来に輝く栄光譜の記録となったといってよい。
12  意気盛んな地方地区に、戸田は、寺院建立の構想をもって向かった。
 ところが戸田に接した時、地区の未熟な信心は、たちまちその正体を暴露してしまった。地区の最古参者でさえ、信心して、やっとこ年を超えたところで、大部分の地区員は、入会わずか数カ月にすぎなかった。日常の学会活動が功徳の源泉であることは、確かに身をもって知ったものの、創価学会の精神の由来するところを理解するには、とうてい、いたっていなかったのである。
 戸田をはじめとする学会本部の一行は、地区総会前日の九月二十六日の夕刻、軽井沢駅に降りた。多数の地区員が詰めかけたことは言うまでもない。一行は旅館でくつろぎ、戸田は機嫌がよかった。高原の秋の夜は、さわやかで心地よい。
 翌日、幹部一行は、正午前に地区総会の会場に直行したが、戸田の車だけは、寺院建立の候補地を検分するために本道をそれた。案内に立ったのは、地元の一人の幹部であった。
 駅から、徒歩二十分ほどのところに丘陵がある。その一帯に数千坪の、別荘に格好な土地があった。その幹部は地主と交渉して、二百坪でも三百坪でも分譲してもらう約束を取り付けていた。価格も低廉であった。
 秋の日はうららかで、雲一つない。
 澄み渡った青空は、限りなく広がっている。
 辺りには人家もない。閑散とした草原である。秋草が、ところどころに顔をのぞかせて、人影は全くなかった。
 案内者は、いささか得意であったらしい。
 戸田は、辺りの風景を、じっと眺めながら言った。
 「別荘には、いいところだな」
 「先生、浅間が見えないので二等地となっていますが、山の方に墓地も造ろうと思えばできますし、決して悪い場所ではありません。それに、この敷地を全部買い取って、寺院の分を取り除き、あとは分譲地として売り出せば、買い手はいくらでもありましよう。相当、有利な土地ですよ」
 根っからの商人であった彼は、さも妙案のように、戸田に進言した。
 戸田の顔は、その途端に曇った。額に飯を寄せ、悲しげな表情になった。
 その幹部は、地元の会員によく語っていた。彼の妙案というのは、こうであった。
 ――四、五千坪を全部買い取る。そのなかで寺院の二、三百坪を別に取り、あとは分譲地として売り出せば、功徳を受けた東京の学会員も競って買うだろう。その収益を寺院の建設、維持の資金にあてれば、まさに一石二鳥ではないか。地元の会員たちは、この話を聞いて、そんなうまいことができるものかと怪しんで、一笑に付していた。ところが、この幹部は、自分の考えにあくまでも固執していた。戸田が、この地に立った時、彼は、この時とばかりに妙案を披瀝したのである。
 戸田は、その幹部の信心が悲しく、また情けなかった。彼が、この年の初頭から、幹部の育成に力を入れ始めていただけに、それは悲しい衝撃であった。
 戸田は、これまで、創価学会の組織を利用しようと、耽々と狙っている亡者どもを、幾たびとなく厳しく撃退していた。戦前もそうであったし、戦後の混乱期には、さらに油断はならなかった。将来の組織の飛躍的拡大が目に見えている以上、学会精神の一念を純粋に守るためには、このような亡者の根を、絶やさねばならぬと思い続けていた。
 それが、今、信頼すべき一幹部の口から、寺院建立の資金を、土地の分譲によって得ようという計画を聞いてしまったのである。しかも、その幹部は、それが当然のように思って、少しも疑うところがない。
 戸田は、愕然とした。創価学会は、どこまでも清らかな信心の団体でなければならない。仮に、このような幹部が多くなったとしたら、金銭の問題によって信心が崩され、学会は、たちまちに崩壊するにいたるだろう。
 戸田の悲しみは、激怒となって爆発した。
 「何を言うのか! この土地を、ぼくに買えというのか。ぼくは不愉快だ。帰る! 車を東京に向けろ!」
 その幹部は、戸田が何を怒っているのかわからない。やがて、彼の妙案が悪いのだとは気がついたが、その悪い理由には、さっぱり見当がつかなかった。信心の未熟さに気がつかないほど、未熟であったわけである。
 戸田は、車に乗っても怒鳴っていた。
 「車を東京に向けなさい。東京へだ!」
 助手席に乗っていた清原かつは、運転手に小声でささやいて急がせた。
 「早く会場へ、会場へ回しなさい」
 会場の近くの控室には、泉田弘が一人、待っていた。戸田は、泉田を見るなり、怒鳴りつけた。
 「君は、いったい何を指導してきたのだ! ぼくは、インチキは、一切、許さん!」
 泉田は驚いたが、戸田が何を怒っているのかわからない。土地に関して、何か不都合なことがあったにちがいないと察したが、分譲地のことは、彼の夢にも考え及ぼぬことであった。
 この時の戸田の怒りが、どんなに激しいものであったか。戸田は、後年、「あの時くらい腹の立つたことはない」と、しばしば述懐していたが、それは恐ろしい剣幕であった。
 泉田は、蒼白になった。そして、男らしく詫びるより仕方がなかった。
 「責任は、この泉田にあります。地区員が悪いのではありません。一切は、私にあります」
 「そうだ、地区員には、なんの罪もない。寺院建立を儲け話にし、分譲地にする土地を創価学会に買えとは恐ろしいことだ。信心が腐ってしまっている」
 戸田は、入会なお日の浅い、純真な地区員に免じて総会に出席した。そして、先ほどの激怒は忘れたように、懇切に激励と指導をしたのである。
 総会は和やかに、有意義に終わった。ホテルの広間で行われた懇親会にも、彼は、笑顔を見せて出席している。
 その夜、汽車が駅を出る時、彼は、窓に群がる地区員たちに手を伸ばして握手していたが、ふと例の幹部を見かけると、彼は、言った。
 「インチキは、よせ!」
 この時の寺院建立の話は絶えたが、彼は、軽井沢の同志のために、翌年秋、駅の近くに、一寺を建立している。
13  九月の本部幹部会は、三十日、初めて豊島公会堂で開催された。折伏成果は、五千世帯を突破し、五千百九十五世帯である。これで順調にいけば、年間五万世帯の目標達成も確実となった。
 この月、蒲田支部は、千三世帯の成果を出して、支部として初めて千世帯を超えた。また、蒲田支部の矢口地区は、依然として地区第一位で、三百三十四世帯を達成している。
 戸田は、これらの新しい展開に注目しながら、こう言った。
 「蒲田がいよいよ千世帯を突破し、蒲田の一地区が、第六位の小岩支部を破っている。支部長といえども、小岩支部以下の支部長は、腹を決めなさい。ここに大きな問題がある。矢口地区部長の春木洋次君は、あらゆる面で福運をつけています。長たる地位にありながら、闘争力のない人には福運はつきません。
 いくら皆さんが折伏しても、私からは、月給は一銭も出ません。一生懸命に学会の大行進に助力しても当たり前、へマをやれば文句を言われる。ずいぶん気の毒だと思います。しかし、それがいやならよしなさい。
 地涌の棟梁たる私には、久遠から約束した眷属がいて、働くことに決まっているのです。しかし、あなた方へのご褒美は、御本尊様がきちんと下さるにちがいない。私もそうです。
 私が仮に、今日、集まったあなた方千数百人から、百円か二百円の聴講料を取ったとしても、せいぜい二十万円ぐらいのはした金です。御本尊様から頂く功徳に比べたら、全く問題にならない。御本尊様に静かに題目を唱え、自分の福運の開き方を考え、一途に広宣流布を願う幹部であってもらいたいのだ」
 戸田は、ここでさらに、このころ全国的に盛んになった地方指導について警告することを忘れなかった。
 「次に、折伏についてだが、全国的な広宣流布の展開のためには、折伏の手を地方に伸ばすことが大事であると、私は考えてきた。ところが、皆、まねをし始めて、地方にばかり目が奪われ、地元での戦いを忘れていることが、少し心配になってきたんです。
 地方へ行かなければ、肩身が狭いなどという考え違いは、やめてほしい。支部や地区で、地元での折伏活動を計画的に行い、労力を有効に使えば、必ず倍の成果をあげるでしょう。このことは、学会全体として考えてもらいたいことです」
 全国各地への進出が顕著になったことは、今まで長年にわたって冬眠状態にあった、従来の日蓮正宗の信徒たちにも、少なからぬ刺激を与える結果となった。
 北海道・旭川近郊にある、愛別の法宣寺と深川の宝龍寺に所属する信徒が、学会の大行進の始まったのを目の当たりにするにつけ、いたたまれない思いで、学会への入会を熱望して申し込んできた。彼らは、創価学会の広宣流布の意気を、この年の夏季地方指導に触れて知ったのである。
 戸田は、熟慮を重ねた。そして、彼らの懇望を総本山に伝えて了解を取り、十一月三日にいたって、遂に入会を許可した。両寺の三十四世帯二百人の信徒が、学会員として迎えられることになった。
14  広宣流布の旋風は、全国津々浦々にまで及び始めた。それは、まだ世間の目には、ほとんど映ることはなかったが、大いなる躍進の態勢は、着々と出来上がりつつあった。
 秋に入って挙行された各地の支部総会は、いずれも、この旋風の強さを示すものといってよい。
 九月二十日、築地支部の第二回総会、九月二十三日、中野支部第二回総会、十月十八日、仙台支部第四回総会、十一月一日、文京支部第二回総会と続いた。
 戸田は、いずれの総会においても、一年間、欠かさず勤行を続け、月々、折伏活動に励むなら、必ず現在の苦悩から脱出することを、彼の生命にかけて訴えるのであった。崩れることのない幸福への道は、御本尊を深く信じ、弛まぬ実践を持続させていく以外にないことを、彼は痛感していたからである。
 十一月十三日、創価学会の本部は、新宿区信濃町三二番地の新本部に移転を完了した。
 新本部の設置は、前年来の懸案であった。全く手狭になってしまった西神田の本部の不便を打開するために、一九五二年(昭和二十七年)に、会員の賛同を得て、建設資金を募った。しかし、急に総本山の五重塔修復工事などへの寄進の必要が生じ、本部建設は延期になってしまった。
 戸田の赤誠は、本部の建設より、総本山の復興を先行させたのである。
 五三年(同二十八年)の半ばを過ぎると、西神田の本部は動きがとれないありさまであった。もはや、新本部の設置は、一刻の猶予も許されぬ状態になっていた。
 九月、信濃町にある某国大使の公邸が売りに出された。土地面積二百七十五坪(一坪=三・三平方メートル)、三階建ての建坪は二百五坪、木筋コンクリートの洋館であった。三五年(同十年)に建設された建物である。
 九月四日、さっそく、幹部が検分に行き、同夜、臨時支部長会で購入が決定された。早くも十六日には売買契約を取り交わし、十月十日に引き渡しと決められたのである。価格は千百五十万円であった。
 二階に約七十畳の大広間を設け、その他は聖教新聞社をはじめ、各部で分割使用するために、大改築を必要とし、改築費二百万円が計上された。一カ月ほどで改築工事は完了した。
 十一月十三日の正午を期して、戸田城聖をはじめとする幹部百人が、西神田の旧本部に参集した。「大法弘通慈折広宣流布大願成就」の創価学会常住御本尊を遷座する儀式が始まった。
 西神田の旧本部から、男子部長の山際洋、第一部隊長の山本伸一が、御本尊を奉じ、車で信濃町の新本部に向かった。新本部では、小西筆頭理事をはじめとする支部長たちが、本部旗とともにこれを迎えた。
 二階の大広聞には、学会員がぎっしりと詰めかけていた。
 戸田城聖の一行が新本部に着いて間もなく、オープンカーに載せた厨子が到着。唱題のうちに、戸田の手により、創価学会常住の御本尊は安置されたのである。そして、戸田自ら導師となり、勤行をもって式典は滞りなく終わった。
 時計の針は、午後一時を指していた。
 その夜、真新しい畳の上で、戸田を囲んで祝賀の集いがもたれた。新本部の広々とした広間は明るく、華やかな空気につつまれていた。喜色をたたえた館からは、笑いさざめく声が、いつまでも絶えなかった。
 翌日の朝早くから、学会員は喜びに顔を輝かせながら、「わが新本部」をひと目見ようと、続々と詰めかけてきた。そして、広間の御本尊の前で楽しげに唱題した。来る人、帰る人、数多くの会員が出入りしたが、広間は、いつも人で埋まっていた。翌日も、その翌日も同じであった。
 戸田は、嬉しかった。
 西神田の旧本部と比べて、なんという違いであろう。建物は、戸惑うほどの広さだ。さらに庭木もあれば、池もある。秋の虫の鳴き声も聞かれる。
 彼は、二階の和室を会長室とし、大きな机をすえて座っていた。そして、朝から晩まで、学会員の喜びの題目を聞いていた。
 彼の部屋は、大広間とドア一つ隔てただけである。唱題は入れ代わり立ち代わり、一瞬も、やむ時がない。こうした日が一週間余り続いた時、彼は、いささか困惑してしまった。静かに、ものを考えることができない。
 ″ああ、これでは困ったな!″
 彼は、やむなく時間的に制限することを幹部に指示した。
15  新本部移転から四日目の十一月十七日、新装の広間で、初代会長・牧口常三郎の十回忌の法要が営まれた。
 午後六時、常泉寺住職の堀米旦揮の導師で勤行が始まった。老齢の牧口夫人、愛孫などのほか、戸田をはじめとする地区部長以上の幹部が全員参列していた。約七十畳の広間は、優にこれらの人びとを収容することができた。
 法要は終わり、追憶談に移った。
 なかでも牧口と親交が長く、牧口を深く理解していた堀米は、牧口がどのような人物であったかを懐かしく語った。
 堀米は、一九四七年(昭和二十二年)十月に行われた創価学会の第二回総会でも、牧口のことを「法華によって初めて一変された先生でなく、生来、仏であられた先生が、法華によって開顕し、その面目を発揚なされたのだと、深く考えさせられるのであります」と述べていた。
 そして十回忌法要のこの時にも、師弟の道に徹した戸田の実践は、法華経の師弟相対の信仰そのものであり、戸田の師・牧口は、自解仏乗の人であると思うと述べた。「自解仏乗」とは「自ら仏乗を解す」と読み、自ら仏の境地を覚ることをいう。堀米は、一貫して、「牧口先生は仏の境地にあった」と語っていたのである。
 また、常在寺住職の細井精道や、牧口に親しく教えを受けた学会幹部六人が、牧口の偉大さを語って尽きなかった。
 戸田は、これらの追憶談に静かに耳を傾けていたが、最後に感慨無量の面持ちでマイクの前に立った。
 「今、牧口先生の追憶談を聞いていると、私が若い青年のころから四十四歳まで、先生のお側にいた時のことが思われ、胸がいっぱいになります。
 先生は青年を真に愛しておられた。私も先生のお宅に、たびたび、深夜の一時、二時まで、おじゃますることがありました。奥様は、『学者の話は長いから』と言われて、先に寝てしまわれることもありました」
 戸田は、こう言って、傍らの牧口夫人に笑いかけた。
 「先生は、実に純真な真面目そのものの方でありました。それほど立派な人が死なれた所は、牢獄の中である。かつて田辺寿利教授は、昭和五年(一九三九年)発刊の、『創価教育学体系』の序文のなかで、ある予感をもったように、こう言っております。
 『一小学校長たるファブルは、昆虫研究のために黙々としてその一生をささげた。学問の国フランスは、彼をフランスの誇りであるとし、親しく文部大臣をして駕をげしめ、フランスの名に於いて懇篤なる感謝の意を表せしめた。
 一小学校長たる牧口常三郎氏は、あらゆる迫害あらゆる苦難と闘いつつ、その貴重なる全生涯を費して、終に画期的なる「創価教育学」を完成した。文化の国日本は、如何なる方法によって、国の誇りなるこの偉大なる教育者を遇せんとするか』
 日本の国家が、先生を遇したのは、実に牢獄にける死によってでありました」
 戸田は、しばらく言葉を絶った。
 そして、発刊されたばかりの『価値論』を手にしながら、激昂した口調で話を続けた。
 「私は、弟子として、この先生の残された大哲学を世界に認めさせなければならない。先生は、わが子がかわいいのと同様に、価値論に偏られた点はあったと思います。
 私も、天台に流れて大罰を受けたが、あくまで御本尊が中心であり、価値論は流通分として用いるのです。これがなかったならば、価値論を生かすことはできません。
 そのために十年間、世間に出さなかったが、今後は絶対に世に出したい。美・利・善の価値体系を、世界的哲学として認めさせるまで、やらなければなおらない。私の代にできなかったなら、諸君たちがやってください。頼みます」
 この時、戸田は、価値論の位置づけをしたのである。
 彼は、ただ一人の遺弟として、この日のために『価値論』を発行し、同時に、その概要を、大学で英語の教鞭を執っていた神田丈治に英訳させ、世界各国の大学に寄贈する準備を進めていた。
 秋の夜に、参加者は、しみじみと牧口を偲び、牧口夫人の謝辞をもって散会したのは、午後九時であった。
16  行事は慌ただしく、次から次へと続く。十一月二十二日には、第九回本部総会が待っていた。
 この年、激増した学会員は、会場となった東京・神田駿河台の中央大学講堂の周辺に、早朝四時ごろから詰めかけていた。組長以上の幹部という入場資格の制限をしていたのであったが、午前九時ごろには、参加者の列が講堂を幾重にも取り巻いていた。
 総会は、開会予定の午前十時少し前に始まった。
 午前の部は、経過報告、組長代表抱負、体験発表、婦人部代表抱負と続き、堀日亨、法主の水谷日昇ら僧侶が祝辞を述べた。そのあとで、戸田城聖の講演に移った。
 「八歳の子どもが十貫(三十七・五キログラム)の荷を持って八里(約三十二キロメートル)山道を歩くとすると、その子どもは、どんなに苦しいことでしょうか。しかし、力士が同様にして山を越すとすれば、秋の景色を眺め、ながら、悠々と越すにちがいありません。
 今、世の中を見ると、家族八人もの荷、商売不振の荷、重病などの荷を負って、よたよた歩いている人と、悠々と人生を歩いている人とがあります。そして私が思うに、どうもよたよた組が多い」
 戸田のユーモラスな話に爆笑が沸いた。
 「それで、世の中を苦しみの場と思い込んでいます。これは大変な間違いです。なんのために生まれてきたのか――法華経に『衆生所遊楽』とあるように、この世に遊びに来たのです。
 真の信心の頂点は、生きていることそれ自体が、楽しいというのでなければなりません。世間並みな相対的幸福は低いもので、これが絶対的幸福となると、たとえ借金取りが来ても、嬉しくてたまらぬといった生活です。女房と話をしていても、朝起きても、ご飯を食べても楽しいという人生が、御本尊を信じきった時に実現するんです。苦のみ味わっていては、生きている甲斐はないだろう。それでは、しょっぱい鮭のようなものです。
 では、世の中を幸福に楽しめるには、どうすればよいのか。
 人生を楽しむには、金も体力もあった方がよい。しかし、根本には生命力がなくてはならない。これは理屈や、踏ん張りでは出てきません。この御本尊を勇んで拝まなければ絶対駄目です。これが、しみじみとわかればいいんです。
 譬えるのは、まことにもったいないことですが、御本尊は幸福になる″機械″です。その使用法は、朝、夜の勤行と、折伏の実践です。
 金をつくり、健康をつくり、人生を心ゆくまで楽しんで死のうではありませんか」
 簡潔な実践的指導である。一点の曇りもなく、人びとの胸に入ったにちがいない。
 戸田の指導をもって午前の部は終わり、午後の部は一時から開始された。
 新支部の誕生が報告され、大阪の浅田宏に支部旗が授与された。この日、浅田は堺支部長となり、これで学会の支部は十六支部となったのである。
 このあと、表彰式に移り、本年度、三十世帯以上の弘教を実らせた闘士が壇上に並んだ。それとともに、全国の地区のなかから、六カ月継続して十傑に入った地区が、それぞれ万雷の拍手のなかで表彰されたのである。
 場内は、早くも熱気につつまれていた。
 そのなかで、体験発表、各部代表の決意などが続いたあと、筆頭理事の小西武雄が、「明年への決議」として会場の人びとに訴えた。
 「今年の闘争も、あと一カ月をもって終わろうとしております。では来年は、どのくらいを目標に戦ったらよいか、それを、今日、皆さんにおはかりしたいのです。
 本年度を振り返ると、昨年十二月の二万世帯を基礎にして、今年は五万世帯を完遂しようとしております。今年は、実に確信通りにできました。これをもって来年を考えるに、八万世帯の目標で満足できるでしょうか。どうです、できないでしょう」
 一斉に激しい拍手が沸き上がった。
 「では、算術をやりましょう。今年は、二万で、二倍半。この計算を来年に当てはめてみれば、十七万五千の線が出る。今年末の世帯数と合計すると、二十四万五千となります。
 しかしながら先生は、来年度八万世帯を目標とされています。先生のお心を持察するに、一つには、皆を、たまには休ませてやりたい。もう一つには、新入会員への指導の不徹底を心配なさっているのではないかと思います。
 皆さん、私たちは、先生のお心をも考えて、来年は十三万世帯の折伏を目標に、計二十万世帯を達成したいと思いますが、どうでしょうか」
 場内からは、盛んな拍手がいつまでも続いた。
 「それでは、私が代表して、先生にお約束いたします」
 小西は、くるりと体を回し、戸田に向かって姿勢を正して言った。
 「会長・戸田先生、われわれは、来年度に、おいて、二十万世帯の達成を完全に遂行することを、お誓いいたします」
 またもや拍手が沸き上がった。
 続いて、戸田が講演に立つと、総会の感動は極点に達した。
 戸田は、淡々と語り始めた。
 「午前中は、幸せになるための実際の方法論について述べたが、今度は、東洋哲学の根源ともいうべき原理について話しましょう」
 戸田は、生命の永遠について語り、最後に折伏の誓いに言及して、話を結んだ。
 「諸君が、生命の永遠を否定しても、事実は如何ともすることができません。そこに仏教があるんです。来世も苦しむのはよそうではないか。思う通りの立派な生活がしたいと思うなら、現世において成仏する以外に道はありません。
 さて、先ほど親が八万世帯と言うのに、子どもが反対して十三万世帯やりたいと言う。まことに親不孝のようであるけれども、それが皆さんの幸福になるのなら、この親不孝は許します」
 彼は、この時、親不孝と言ったが、果たして一年後、一九五四年(昭和二十九年)が終わってみると、折伏総数は、十万二千八百二十世帯しかできなかった。
 戸田城聖の広宣流布推進の指揮は、実に沈着で見事であった。彼の確信は、そのまま過つことなく正確に数字となって現れるのである。むろん、これは単なる算術計算によるものではない。
 総会の終わった夜、彼は、山本伸一を前にして、ふと日蓮大聖人の「一切衆生の異の苦を受くるはことごとく是れ日蓮一人の苦なるべし」との文を拝し、学会の会長職というのは、実に責任が重くて苦しいものだ、ともらしている。一見、沈着なまでの彼の戦いには、身を削るほどの苦闘がともなっていたのである。
17  十二月二十日――男子青年部の第二回総会が、品川区の星薬科大学の講堂で行われた。
 四月十九日の第一回の総会の時は、わずか七百人の結集であったが、今回は、午後一時の開会に馳せ参じた青年たちは、その何倍もの人数になっていた。
 本年初頭に、四個部隊からなる男子青年部に対して、戸田城聖から、一部隊一千人に拡大していく目標が示されていた。それが、年末には、部員数合計五千三百四十人となっていたのである。総会に集った青年たちが、意気盛んであったことは言うまでもない。
 ぎっしり詰まった式次第のなかには、体験発表はなかった。その代わり、研究発表として、各部隊から選抜された八人の青年によって、それぞれの、日ごろの研究が発表された
 民族の問題、資本主義経済と共産主義経済の問題、文化国家の問題など、さまざまに論じたのであったが、そのなかに異色の標題があった。「今は小僧たりとも」という、澤田良一の研究発表である。
 彼は、印刷工員であった。豊臣秀吉を例に、後日の大成の因は、若き日の苦闘時代にあることを論じ、彼の現在の身に、それを当てはめて語っていった。
 彼は、妙法を受持する青年の一人として、「立正安国論」の「予少量為りと雖もかたじけなくも大乗を学す」の一節に感涙し、戸田城聖の弟子たることの誇りを新たにした。
 そして、現在の苦闘のなかから、将来に羽ばたく大成を確信しているとの、歓喜と決意を語り続けた。彼のたぎる熱意は、多くの青年の共感を呼んだ。風変わりな研究発表であったが、体験を通して語る妙法の原理と確信には説得力があった。
 戸田は、終始、にこやかであった。
 青年部の成長を心から喜び、やがて、これらの青年が、社会において第一人者として活躍する様を思い描いていたにちがいない。
 彼のその日の講演は、青年の成長を期待することに触れて簡単に終わっている。すべてを信頼しきっている証左といってよい。
 会長講演の直後、司会者は全員の起立を促した。山本伸一が壇上に進み出た。彼は、聴衆に背を向け、立った戸田に相対したのである。会場は、ものものしく厳粛な空気に一変した。静寂のなかに、伸一の声は、ひときわ高く張りつめて響いた。
 彼の背後には、青年部の全首脳が並んでいた。
18  「 宣誓
 戸田城聖先生
 我々は末法大折伏の師匠たる、はたまた全世界の大哲学者たる先生の我等青年に対する期待の大なることを思います時、我等一同感激の念でいっぱいであります。
 今、五千有余名の妙法の勇士の結集をここに終わり、来るべき立宗七百二年からの大法戦に対し、我等は次のごとき宣誓をなすものであります。
 一、我等男子青年部勇士全員は、宗教革命にこの身を捧げ、共にその心を一にして世界広宣流布の大偉業を完遂せんことを、謹んで大御本尊様にお誓い致します。
 一、我等男子青年部勇士全員は、戸田城聖先生の大目的たる全人類救済のご意志を受け継ぎ、立派な手駒になりて、その達成には、身命を捧げて戦い抜くことを誓います。
 一、我等男子青年部勇士全員は、学会の先駆であり、戸田会長の無二の弟子なることを目覚し、いかいかなる戦野に進もうとも、絶対に同志を裏切ることなく、我等の使命を全うせんことを誓います。
 右謹んで宣誓致します」
19  戸田は、起立したまま、身じろぎもしなかった。メガネが、時折、キラリと光っただけだった。
 宣誓の朗読が終わると、場内には感動の拍手が、嵐のように沸き起こった。
 宣誓は、水滸会の三箇条の宣誓を基本にしたものであった。全男子部員のなかから選び抜かれ、師弟の道に生きることを誓った水滸会の決意を、伸一は、広く全男子部員に徹底したかったにちがいない。
 時代の進展とともに、この日、一堂に会して未来を誓った多くの友が、あらゆる戦野に戦い進んでいった。
 「いかなる戦野に進もうとも」という一節は、未来永遠にわたる、男子部出身者の尊い精神の主軸となっていることは言うまでもない。
 翌二十一日、この年最後の本部幹部会が、豊島公会堂で開催された。十二月、五千九百七十九世帯の折伏成果で、この年の折伏総数は、年頭の目標を超え、五万一千九百九十六世帯となった。全世帯数は、年頭の二万二千三百十二世帯から、七万四千三百八世帯へと、まさに激増した。
 この日、参集した幹部たちは、なすべきことを遂行したという、晴れ晴れとした喜悦を、互いに分かち合っていた。一種の解放感とともに、″やればできる″という確信に満ちて、意気軒昂に新年度への闘志を沸き立たせた。
20  戸田は、この夜、自宅の二階の書斎で、一人机に向かっていた。
 聖教新聞の元日号のために、小説『人間革命』の原稿を急いでいた。
 小説の場面は、一九四三年(昭和十八年)七月のある朝、刑事が彼を検挙に来たところにさしかかっていた。彼は、その日のことを、まざまざと思い出しながら、ぺンを運んだ。書き終えて、ふと十年の歳月が流れていることに気づいた。
 回想は回想を呼ぶ。恩師・牧口常三郎を偲びながら、軌道に乗りかけた現在の創価学会の発展を、ひと目でもよいから、牧口に見てもらいたかった。
 苦しい十年の戦いであった。しかし、彼は、今年、五万世帯の折伏を遂行することができたのである。牧口は、どんなに喜ぶことだろう。
 戸田にとって、今年の戦いは試金石であった。これに勝利するならば、広宣流布への道は、はや確実といってよい。彼は、この年の暮れを待っていたのである。
 彼は、いつしか将来に思いを馳せていた。今年七万、来年十五万、それから再来年は……彼の厳密な計算は、数年の先に、いやでも七十五万に達することを予見した。
 広宣流布の基礎を確実ならしめる七十五万世帯、彼の願望である七十五万世帯……この時、彼は、心臓が異様に高ぶるのを覚えた。彼は、思わず胸を押さえてさすりながら、唱題しなければならなかった。
 彼は、ふと、自身の恐るべき衰弱に思い当たった。肉体を破壊してしまった、あの悲惨な獄中生活から十年――彼の肉体は、はや疲れきっていたのである。彼は、今、晩年にあることを悟らないわけにはいかなかった。
 七十五万世帯は刻々と近づくであろう。と同時に、彼の生涯もまた、刻々と終末へと近づきつつあることを、自覚せざるを得なかった。
 彼は、永劫を感得する覚めた心で、勤行のために敬虔に御本尊に向かった。
 (第七巻終了)

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