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日蓮大聖人・池田大作

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水滸の誓い  

小説「人間革命」7-8巻 (池田大作全集第147巻)

前後
2  この三箇条の宣誓書には、青年部長の関久男以下、四十三人の署名と栂印ぼいんが連なっている。一種の血判状の趣をなしていた。
 どうして、このような宣誓が必要となったか――その背景を語ることは、水滸会の歴史を知るうえで、かなり重大な意味をもっと、いわなくてはならない。
 七月二十一日の夜、男子部から選抜された四十三人が、西神田の学会本部に定刻に集められた。彼らは、本部への集合の通知を受けたが、宣誓については、全くといっていいほど、知らされていなかった。
 「大法弘通慈折広宣流布」の御本尊の前に机が置かれている。その机の上に、隅で認められた宣誓書が広げられていた。そして、机の傍らに、戸田城聖が、藤イスに座って、無言で一同を見ていた。
 一人の青年部員によって、宣誓の三箇条が読み上げられると、青年たちは、さっと緊迫した表情になった。目の前に御本尊があり、その傍らに戸田城聖がいる。しかも、三箇条の誓いは、彼らの生涯を決するにも等しい条文である。
 しかし、選抜された四十三人の男子部員だけあって、さすがに誰一人、逡巡する人はいなかった。
 日々の戸田の指導が文章となって、目の前に突きつけられたにすぎないという自覚が、一同の胸の底に湧いていた。一瞬の戸惑いを、彼らは、簡単に、さっと乗り越えることができたといってよい。
 そして、その後に、覚悟を新たにしなければならぬという極度の緊張感が、彼らの表情を、こわばらせていた。体を小刻みに震わせている人もいた。戸田の顔に、視線をじっと注いでいる人もいる。硬くなった気持ちを紛らすためか、天井を仰いでいる人もいた。
 初めに、青年部長の関が立ち、机の前に端座して筆を取った。その筆先に、全員の視線は、さっと集まっていく。関の署名が終わると、男子部長の山際洋が続き、山本伸一、十条潔、森川一正の順で、次々と署名し、このあと、三十八人の署名と栂印が続いたのである。
 まさに厳粛な儀式であった。一人ひとりの署名のたびに、戸田をはじめ、集った青年たちの目が、一斉に注がれていた。一人ひとりの誓いは、四十三人の連帯の誓いとなっていった。
 全員の署名が終わった。どのくらいの時間が流れたのか、誰もわからない。ただ、異様に緊迫した室内に、一種のさわやかな涼風が流れたように思えたことだけは事実である。
 今、あらためてした決意ではない。久遠の、その昔の誓いを、そのまま末法の現代において、互いに確かめ合ったといえるかもしれない。戸田を前にして、その誓いが四十三人の心に、さわやかに蘇ったといってよい。今、広宣流布の中核、水滸会は蘇ったのである。
3  水滸会の結成は、前年の一九五二年(昭和二十七年)十二月十六日であった。
 結成当時、三十八人で発足し、月二回の会合を重ねてきたが、半年が過ぎた六月ごろには、新顔の新会員も数を増していた。発足当時の、意気盛んな雰囲気は、数が増すにつれて、いつとはなく薄らいでいった。
 多くの人は、真剣そのものであった。しかし、幾人かの安易な姿勢の者がいたために、戸田の話を、ただ面白、おかしく聴いてさえいればよいという惰性が、忍び寄っていたのである。
 六月の会合の折に、それが、あらわになった。
 教材の『水滸伝』は、巻を重ねて、かなり読み進んでいた。
 ――梁山泊の豪傑たちは、何かというと、すぐ羊や牛を何頭も屠り、山海の珍味を並べて盛大な酒宴を張ったりする。これは中国の一般の風習か、どうかということが、一人の会員の質問から話題になった。終戦直後からの食糧難は切り抜けたものの、まだ食生活は豊かとはいえないころである。食糧豊富な梁山泊が、青年たちには気になっていたにちがいない。
 戸田は、笑いながら一同に言った。
 「実に、すごいご馳走だな。日本の水滸会の諸君は、みんな不景気な顔をしているが、これも、こんなど馳走がないからやむを得ないな。いずれ、みんなも育って、それぞれの分野で第一人者となる時が、必ず来るだろう。その時は、梁山泊のような殺伐としたご馳走ではなく、はるかに文化的な、おいしい料理を食べながら、世界人類の平和のことを論ずる存在になるだろう。梁山泊のご馳走がうらやましかったら、今、この水滸会で、一生涯、信心をやりきる決意を定めることだね。
 しかし、梁山泊の豪傑たちの胃袋は、それにしても、よく食い、よく飲むな。私も、酒は彼らに負けんつもりだが、こんなには食えない。
 日本の酒は米だから、それなりに栄養はちゃんとあるんです。
 中国の酒に老酒ラオチュウというのがある。これの原料は、もち米などで、貯蔵がきいて、長く保存すればするほど逸品とされている。そのために、酒に『老』の字がついているわけだ。日本の米でつくった酒は、一年もたつと味はぐんと落ちて、うまい酒とはいえなくなる。製法が違うんです……」
 酒の好きな戸田は、酒については詳しかった。
 この時、一人の新しい会員が口をはさんだ。彼は、戦前、中国にいたという上海育ちの大学生である。
 「先生、中国には高梁酒コーリヤンしゅというのもありますが、それは老酒とは違うんですよ」
 「うん、違うだろうね。高梁酒というのは、非常に強い酒だね」
 彼は、こう言って、青年をまじまじと見た。
 青年は、平然とした面持ちで続けた。
 「私は中国育ちなので、中国の酒のことも聞きかじっているのですが、高梁酒というのは、蒸留してつくったものだそうです……」
 大学生の彼は、得意になって、中国の酒談議を、なおも続けるのであった。調子に乗ったといおうか、呑気だといおうか、彼の話は、わずかばかりの知識をひけらかし、実に嫌味のある響きを帯びていた。
 戸田は黙して、硬い表情になっていた。青年たちのなかでも敏感な者は、大学生の話が早く終わることを望んでいた。しかし、ここまでは、どうやら無事であったが、次の瞬間、彼は調子に乗って、さらに口走ったのである。
 「先生、林檎酒りんごしゅというのもありますが、あれは、どうしてつくるのか知ってますか」
 戸田は、見る見る顔色を変えた。
 「君は、酒のつくり方を聞きに、ここに来ているのか。この会合を、いったい、なんだと思っているのだ! 私は不愉快だ。君は出て行きなさい!」
 怒りは激烈を極めていた。戸田は、幾たびも大学生に退去を命じた。大学生は、自分の非を悟るでもなく、呆然として立っている。それがさらに、戸田の怒りを激発させたのである。
 その場にいた青年たちは、いつしか、だらけてしまっていたこの会合に、深い自責の念から反省に沈んで、なす術もなかった。やがて大学生は、うなだれながら部屋を出て行った。
 それでも、戸田の怒りは収まらなかった。
 「誰が、水滸会をこんなにしてしまったのだ。君たち自身ではないか。あの青年だけの責任ではないはずだ。一人だけが出ていく。かわいそうに……。
 君たちは、同志愛まで裏切ってしまったのか。これでは情けない。私は帰る!」
 彼は、部屋を出ょうとした。慌てたのは、関久男をはじめとする首脳部である。彼らは、戸田の前に進み出て、膝をついて謝った。
 「申し訳ありません。本当に申し訳ありません」
 もはや、彼らの謝罪を聞くような戸田ではなかった。彼は、そのまま、すっと部屋を出て行ってしまった。
 この思いがけない激変に、青年たちは狼狽し、心は乱れたまま、じっと座っていた。関は、深い苦悩の色を浮かべて、一同に向かって、彼自身の反省を述べるとともに、水滸会全員の責任を糾明した。
 しかし、それは、なんの救いにもならなかった。
 温厚な山際洋も、いつになく激した調子でしゃべったが、すべては後の祭りであった。沈痛な空気は、刻々と深くなるばかりである。
4  この時、山本伸一が立った。
 彼は、鋭い眼差しで一同を見ながら言った。
 「水滸会は、このままでは、これで終わりになるだろう。先生は、二度と再び、お許しにならないに、ちがいありません。しかし、先生の、お怒りは、私たちに対する慈愛の鞭であるはずです。弟子の立場からするならば、どんなに苦労しても、変毒為薬しなければいけないし、できないことは絶対にないと思う。私は、今、それを考えているところです」
 彼が、何を「考えている」のか見当もつかないが、時が時だけに、この短い言葉は千鈎の重みをもって、皆の心に響いた。青年たちは、これを聞いて、一縷の希望を伸一に託して、ほっとした様子であった。
 伸一は、戸田の心を最もよく知っていた。
 ″先生は、決して気まぐれに怒ったのではない。未来を託すべきあの大学生に、あのような脱線を許す雰囲気が、最も大切であるべき水滸会にできてしまったことを、先生は悲しみ、それを怒られたのだ″
 戸田にとって、未聞の偉大な宗教革命を断行する革命児の育成は、最大の楽しみであったし、その意気込みも、すさまじいものがあった。
 創価学会の会員は、日々、増大している。やがて、幾千万人となる時が来よう。その時のためには、今、膝下に集った、この一握りの青年たちを、見事な指導者に育て上げねばならぬと、戸田は考えていた。
 今は、平凡なこの青年たちが、十年、二十年、三十年後の将来、一騎当千の指導者となるならば、広宣流布は見事に伸展していくはずである。水滸会に臨む一回ごとに、戸田は、この構想を心に確かめて、期待に応えるであろう青年たちを慈しみ愛していたのであった。
 それが、わずか半年で挫折に瀕してしまった。彼は、誰よりも先に落胆した。激しい落胆は、怒りに変わっていった。
 青年たちは、戸田の、いつにない激怒に驚愕し、なすところを知らなかったが、山本伸一は、その怒りを真っ正面から受け止めた。怒りの背後にある戸田の心が、彼には痛いまでに理解できたからである。
 それだけに、伸一の苦悩は深かった。戸田に詫び言を繰り返したところで、とうてい許すことはないに、ちがいない。そんな生半可な戸田の性格でないことも、伸一は、よく知っている。
 水滸会は、暗礁に乗り上げたも同然である。座礁した船体は、水にのまれるか、朽ちるしかないだろう。彼は、優れた船長のように、焦らず、熟慮をめぐらさなければならなかった。唱題は、日ごとに真剣になっていった。
 一週間過ぎ、二週間が過ぎた。当然のことであったが、水滸会の再開は、その気配すらなかった。戸田は、一言も口にしなくなった。
 青年部の首脳たちは、折あるたびに、ただ詫びるより仕方がなかったが、戸田の怒りを解くことはできなかった。
 しかし、その一方、華陽会は依然として続けられていたのである。華陽会が続いていて、水滸会だけが解散に終わるはずがない。
5  山本伸一は考えた
 ″先生は、何かを待たれているのだ。青年たち反省の果てに、生まれ変わった本格的な水滸会を期待されているにちがいない。
 水滸会は、なんのために存在するのか。この「なんのため」という第一義の目的と使命について、不徹底のまま、薄弱な発足をしてしまったのだ。先生の最初からの、徹底した指導にもかかわらず、それを、ただその時々の会合の一環ととらえ、令法久住のためにあることを理解していなかったのだ。
 この根本的在欠陥が、先生の意気込みが本格的であっただけに、露骨なまでに現れてしまったのだ。
 林檎酒の質問だけが、いけなかったのでは、決してない。あのいい気な調子が問題なのだ。あのような調子が、やすやすと当然のことのように出てしまったことに、水滸会の挫折の実態がある″
 伸一は、一人、心を痛めて思った。
 戸田の意を知る彼にとって、水滸会を、このままに放置しておくことは、戸田に対する反逆であるとまで思い詰めた。彼は、居ても立ってもいられなくなった。
 ″どうしても、新しい基礎の上に、再編成と出発を急がなければならない。それには、どうしたらよいのか……″
 今後の重要な問題は、水滸会員の決意と、質の問題であると、伸一は結論した。「質」の追求が、彼の脳裏を駆けめぐった。そして、そのためには、三つの誓いがなければならぬと思い至った。
  一、御本尊に対する誓
  一、戸田城聖先生に対する誓
  一、会員同志に対する誓
 彼は、この三本の柱を軸として、「宣誓」の草案を作成した。こうして「水滸の誓」ともいうべき、あの宣誓文が出来上がったのである。
6  山本伸一は、その宣誓文を戸田に提出した。戸田は、メガネを外し、書かれた紙に顔をつけるようにして読んでいたが、読み終わると伸一に向かって言った。
 「よし、今度だけは許そう。しかし、二度と、求道心のない、老人の集まりのような会合であっては、私は許しません。同じ失策を二度繰り返すということは、愚か者のすることだ」
 相変わらず戸田は厳しかった。しかし、伸一の申し出が「宣誓」という決意となって固まったことを、心では喜んでいるようだった。
 「いつから始める?」
 この一言は、伸一の申し出を、まるで心待ちしていたかのようである。伸一は、嬉しかったものの、新しい態勢は整っていない。彼は、面食らいながら答えた。
 「先生、しばらくご猶予願います。必ず宣誓に値する青年たちを選抜します。それまで、一週間ほどお待ちになっていただきます」
 「うん、待てというなら待とう。しかし、大した者はいそうもないな」
 こう言って戸田は、屈託なく笑いだした。
 伸一は走った。青年部の首脳と、さっそく、人選に取りかかった。一人ひとりの信仰の確かさを、まず基準に置いて、その将来性をも考慮し、人物、人柄にも重点を置いて選んでいった。人選にあたって、首脳のうち、誰か一人でも反対する人がいると、その人物は除外しなければならなかった。
 新編成の水滸会は、こうして、約三千人の男子部員のなかから、今、新たな四十三人が選ばれたのである。「宣誓」は、毛筆で清書された。
 こうして七月二十一日、めでたく四十三人の署名の日が来たのである。水滸の誓は、変毒為薬の賜といってよい。
 「宣誓」を起草し、本格的に水滸会を発足させた山本伸一は、今後、一切の責任が、彼の双肩にかかっていることを、厳しく自覚せざるを得なかった。彼は、三箇条の宣誓を着実に実践することが、戸田の期待する青年部の道であり、それが、そのまま広宣流布の大道に間違いなく通じることを確信した。
 この時、彼は山頂に立ったように、はるかな広宣流布を眺望し、ここ数週間の辛労をことごとく忘れ去る思いがした。
 山本伸一が、水滸会の再出発に人知れず心を砕いたのは、もともと、この特殊な会合を戸田に進言したのが、ほかならぬ彼自身であったからだ。水滸会の挫折の責任を、誰より痛感したのも、結成当時の事情に由来しているといってよい。
7  一九五二年(昭和二十七年)秋、笠原事件が半年がかりで決着をみたころ、出獄以来の激闘と辛労のために、戸田の身体は、少しずつではあるが、衰え始めていたのである。これを敏感に察知したのは伸一であった。
 彼は、考えた。
 ″仏法の真髄を体得するためにも、今こそ、戸田先生の広宣流布への全構想を、一人でも多くの同志が、完壁に若き生命に刻み込んでおかねばならない″
 戸田もまた、後事を託するに足る次代の青年に、広宣流布の原理と活動の在り方を、徹底して教えておかねばならないと、苦慮していたにちがいない。青年の育成と成長について、これまでも心を砕いてはきた。しかし、彼は、青年を、ただ教育することのみを考えていたのではない。広宣流布の使命に生きる彼の意志が、やがては、いつか遺志として残る時のことまで思い描いていたのだ。
 過去にも、彼は、それを行っている。
 五〇年(同二十五年)秋、出版事業が行き詰まり、さらに信用組合が崩壊した時、戸田は、刑事責任を問われかねない状態に追い込まれていた。その時、彼の苦悩の底に思い浮かんだのは、彼の発心した広宣流布達成への流れを、今、絶やしてはならぬという決意であった。
 万一、その流れが、地上から消えて、人目につかぬ地下水脈となったとしても、絶対に絶やすわけにはいかぬという、鋭い鉄の決意であった。
 一時、彼が社会から身を隠さねばならぬような事態に立ち至ったとしても、この流れが、たとえ地下に潜ったとしても、それは、いつか地表にほとばしり出る時が来る。そのために彼は、真の「後継者」を鍛錬する必要を痛切に感じたのである。
8  彼は理事長をも辞任し、事業の整理の激闘に、日夜、没頭しなければならなかった。そのわずかな間隙を縫って、山本伸一をはじめ、数人の信頼する青年を集めて、人知れず、しばしば、ある会合をもった。それは、内外の人びとが、戸田を罵り疑っている時である。
 その会合は、名前もつけられ、なかったが、彼は、創価学会の将来の発展のために、確かな布石を懸命に打っていた。ある時は、革命を描いた小説などをテキストとして、彼の広宣流布の構想の核心を叩き込もうとしたのである。
 彼の言葉は、ことごとく遺言のように厳しかったが、後に残る者へのいたわりは深く、慈愛は、あふれんばかりであった。
 この会合は、不定期に、会長就任直後まで続いた。その間、御本尊の偉大な功力によるというよりほかはない結末を迎えた。彼の刑事責任は、幸いにも急転換して解消したのだ。彼の蘇生は、また、創価学会の蘇生となって、第二代会長就任の晴れの日を迎えたのである。
 この半年間の危機のなかで、彼の広宣流布達成への悲願と、令法久住の赤誠は、後継の青年を育成するための、この会合に、必然的に現れていたといってよい。また、彼の赤誠の敢行が、御本尊をも動かし、事態を転換させたと見ることもできる。
 戸田は、青年たちを見るたびに、この折のことを忘れることはできなかった。事あるごとに、戸田の青年に対する訓練が行われていった。この半年にわたる会合が、会長就任直後の、青年部結成の主要な動因となったことも、必然の流れであった。
 そしてまた、結成された青年部のエネルギーは、折伏をはじめ、あらゆる活動に遺憾なく発揮されている。
 今後の青年部の推進のためにも、あの五〇年(同二十五年)秋から五一年(同一一十六年)春にかけての特殊な会合を、今また、別の形でつくる必要があることを、戸田は考えていた
 戸田の、こうした考慮と、山本伸一の懇望とは、時を同じくして一致した。企画と組織は、伸一に任された。まず、『水滸伝』を読破することが決まった時、この会合を、「水滸会」と命名することも決定された。
9  五二年(同二十七年)十二月十六日夜、西神田の本部に三十八人が集合した。佐藤春夫の『新譯 水滸傳』第一巻をそれぞれ手にし、選ばれた者の光栄と自負を胸に、彼らは集ったのである。
 「やぁ、皆、集まったな」
 戸田は、部屋に入るなり、機嫌のよい声をかけた。
 「お客さんのような顔をしていないで、もっと近寄って、私を取り巻きなさい」
 整列していた一同は、車座になった。中心には、戸田が微笑している。
 「これから学会の梁山泊が始まるわけだが、大した豪傑もいないようだ。まぁ、いい。大指導者の卵としておこう。この水滸会から巣立った者は、いずれ、それぞれの道で一流人物になっていくのだ。
 私が、この会合で言うことは、すべて本当のことだと信じてもらいたい。遠慮も警戒もいらない、心からの話であるということを承知してもらいたいのだ。広宣流布のすべての指導の根本理念を、これから諸君に言い残しておきたい。きっと、後になってみれば、どんなに重大な会合であったかがわかるだろう」
 彼は、冒頭にこう語った。この言葉は、いつにも増して真摯な心情にあふれでいた。青年たちは、固唾をのむ思いで聴いていたが、彼の言葉の重大さは、彼らの胸にはそれほど響かなかった。
 戸田の発言が、どれほど深刻で、広宣流布実践のカギであったかに思い当たったのは、ずっと後――戸田の逝去のあと、彼ら自らの手で事に当たらねばならなくなった時のことといってよい。
10  「さぁ、前置きは、このぐらいにして、『水滸伝』を始めよう。まず、序文を誰か読みなさい」
 一人の青年が立った。そして、解説を兼ねた前書きを読み始めた。
 「水滸伝は北宋の宋江等の事に取材した長編の大作である。
 宋江は北宋の末年に山東を横行した大盗として知られた実在の人物である。宋史にもところどころにその名が見られる」
 戸田は、その本の由来と、意義を知るために、いかなる本でも、「はしがき」や「序文」を、必ず読むことを教えている。
 序文を読む青年の声の響きは、冴えていった。
 「宋史巻三百五十二、張叔夜伝ちょうしゅくやでんに、『叔夜又蔡京またさいけいの忌む所と為り、徽猶閣待制きゆうかく たいせいを以て、再び海州に知たり。宋江河朔かさくに起り転じて十郡を略し、官軍敢て其ほこさきかかる莫し。声言せいげんす将に至らんとすと。叔夜間者をして向ふところをうかがはしむ。賊ただちに海瀕かいひんはしり、鉅舟きょしゅう十余をおびやかし、鹵獲ろかくを載す。是に於て死士ししを募り、千人を得、伏を設けて城に近くし、而して軽兵を出し、海をへだてて之を誘ひ戦ひ、先づ壮卒を海旁かいぼうかくし、兵の合ふを伺ひ、火を挙げて其舟を焚かしむ。賊之を聞き、皆闘志無し。伏兵之に乗じ、其副賊をとりこにす。江すなわち降る』
 と見えてゐる。ここには『河朔に起り転じて十郡を略す』と云ひ、また同書巻三百五十一には、『江、三十六人を以て斉魏せいぎに横行す、官軍数万、敢て抗する者無し』ともある。張叔夜ちょう しゅく やの力を以てして辛うじて平げたとは云へ、江の並々ならぬ大盗であったことが知れる。
 しかし、水滸伝中三十六人の事蹟は勿論、虚虚実実、悉くは史的事実ではなく、実によって虚を生じ、虚を以て実を現はす詩的創作たるは申すまでもない。盗を飾って義を喜ぶ任侠の好漢と称し、更に英雄と化して、紀綱のゆるみ切った役人どもを懲したしなめる役割を演じさせ、この英雄談に配するに大小幾多の毒婦を取雑へて、水滸伝はさながらに好漢と毒婦との描き出した唐草模様ア ラ ベ ス クである」
11  この時、戸田は朗読を中止させて言った。
 「『水滸伝』というのは、いかにも大泥棒の話であるが、これだけの大泥棒になると、ただの大泥棒ではないかもしれない。集まった豪傑たちは、いずれも世に容れられなくなって、しかも義を重んずる連中です。これが、それぞれの運命を担って、梁山泊に追い込まれるように集まってくる。
 当時の政府は、綱紀紊乱して、役人どもは悪事を働いている。今の日本も、ちょっと似ているが……。国民は、たまったものではない。梁山泊の連中は、いくら義を重んずるとはいえ、山にばかりもっていては飯は食えない。そこで泥棒はするが、ケチな泥棒はしない。政府の役人や、地方の悪逆な豪族などを襲って、大がかりな泥棒はするが、良民をいじめるようなことは決してしない。
 つまり、することなすことが桁はずれで、世間並みな道徳などは通用しない。実に痛快な、胸のすくようなところがある。これが、昔から中国の民衆に、大変、人気のあったところだろう」
 別の青年が立って、次の朗読を始めた。
 「しかし水滸伝が世々の中国民衆から受ける愛好と支持とをただ英雄と毒婦といふ好題目のためばかりと見ては足りない。この人間性の強烈な芳香の外、別に閑却できない社会性がある。これに関して『中国文学概観』の長澤規矩也氏が云ふ――
 『……姦臣の不義の財をかすめ、権勢に反抗して天下を横行し衆望を荷った宋江が多くの豪傑を率ゐ後に朝廷に帰順して内外の敵を伐ち平げたといふ筋は姦臣が専横を極めた宋なり、明なりの人心を支配するに十分であった。征遼の記事を加へたといふのは明代外敵侵入の反映でもあったらう。三十六人の好漢の個性もかなりよく描かれてゐるが、陣没を免れた諸将が功成り名遂げてまもなく姦臣に殺される事は、甘んじて死に就くといふところに、一層の美しさを持たせようとしたのであらう。』
 全篇の骨子を述べ且つ評し得て剴切がいせつ簡明だからここに引用した」
 序文は、このあと長々と続いている。数人の青年が、交代で読み進んだ。青年たちは、漢語の多い、この序文の文章を理解することがおぼつかなくて、茫然とした者もいたにちがいない。
 戸田は、その気配を察すると、すぐに解説に入った。
12  「この序文は、まことに立派だと思う。よほど中国文学に造詣の深い人でないと、これだけの序文は書けない。中国文学のなかの四大奇書の一つとされているこの小説を、伝記小説とする人もあるし、また単なる英雄譚とする人もあるだろうし、また梁山泊群盗伝として読む人もあるだろうし、どう読んでも、それは人それぞれの勝手だが、私は、今、これを痛快な革命小説として読みたいと思っている。私には、そう読めるんです。
 この小説は面白いから、誰でも面白おかしく読むことはできる。だが、筋の面白さのみに引かれて漫然と読み終わるようでは、この小説にひそんでいる革命的な精神というものを、読み取ることはできないだろう。
 小説というものは、面白くできているが、その底には作者の言わんとする思想が、ちゃんと表現されているものです。その思想が、高いか低いかが問題だが、ともかくも、思想のない小説などというものは、小説の名に値しないと思ってよろしい。
 私は、本を読む時、本文に入る前に、必ず、『序文』とか、『あとがき』を真っ先に読む。それは、作者が何を言わんとしているかを知るためです。つまり、言わんとする思想の片鱗をつかむためだ。諸君も、一冊の本を、本当に読み切ろうとするならば、こうした心がけが絶対に必要だということを、言っておこう」
 戸田は、まず、青年たちに読書法から教えた。多忙を極めるようになった、日常の学会活動の時間を割いて、このような会合をもつからには、彼は、それだけの意気込みと覚悟をもって臨んだのである。
 小説ひとつ読むことも、青年たちの成長を飛躍的に促進させる鍛錬の跳躍台でなければならなかった。
 「『水滸伝』には、百人に余る人物が登場してくるが、それが、皆、強烈な個性をもって描かれている。これが、また面白い。われわれの人生でも、さまざまな人物に出会うものだが、その一人ひとりの人物を見抜くことは、口で言うほどやさしいことではない。『水滸伝』の作者は、登場人物を、一人ひとり見抜くように、よく描いています。人には長所も弱点もある。それが、ある場合には、長所が弱点になることもあるし、逆に弱点が長所になって働くこともある。
 登場人物を、よく見極めて読みなさい。そして、諸君たちの周囲を、よく見てごらん。諸君のなかにも、登場人物に似た性格や癖をもった人がいるのに気がつき、驚くだろう。人間というものは、それぞれ違った性格や癖をもち、長所や短所をもち、それぞれの運命を担って人生を送っているといってよい。
 一人の人物を見抜くということは、極めて難しいことだ。しかし、これが見抜けなければ、同志として事を共にするに足りないのです。ただ、人物を好きか嫌いかで決めてしまうのでは、趣味的判断で、なんの役にも立たない」
 戸田は、青年たちを見渡した。彼らは、目を輝かせて戸田の次の言葉を待った。
 「人を見る訓練というものは、長い人生の間に、ある程度は自然にできていくものかもしれない。裏切られたり、足をすくわれたり、ひどい目に遭って、人を見る目も肥えていくが、このような小説を深く読んで、人物に対する眼を開くことは、大いに役立つものだ。
 小説を読むということは、書かれた事件なり人生を、読者が経験することだといってもよい。だから、さまざまな小説から、実にさまざまな経験をすることができるわけだ。青年のうちに、古今東西の名作を読むということは、古今東西の得がたい経験を積むことと同じです。しかし、ただ読み流すというのではなく、思索しながら、心して読まなければ、名作小説の価値はわかりません」
 読書法についての、戸田の含蓄ある指導であった。
13  もし、この読書法を忠実に実行するならば、青年たちは、若くして、ありとあらゆる経験をすることも可能なはずである。その経験の累積によって、自然に周囲の人物をも正当に鑑別することもできよう。これが、将の将たる者の第一の資格であろう。
 自分の人生を見つめる眼を開かなくては、生涯の大事が成就するはずがない。人が一生の間に体験することは、まことに限られたものである。だが、読書によって、他人の経験を自分の経験として体験することは、人生の深さと、世間の広さを、まざまざと知ることだといってよい。
 戸田が、青年たちに、思索と読書とを強要するまでに求めたのは、彼独特の読書経験に確信をもっていたからである。
 「作者の言わんとする思想を、よく見極め、登場人物を自分の身近なものとして、よく思索することが、小説をよく読むということだ。
 それと同時に、作品の時代的背景というものを、決して忘れてはならない。どんな人間も、時代の動きから免れることはできない。時代の外には行けないものだ。
 乱世の英雄も、もし太平の時代に生まれたとしたら、酔生夢死に終わるかもしれない。また、平和な時代の碩学も、乱世に生まれたとしたら、流浪の徒として終わるかもしれないだろう。
 ともかく、時代というものは、それ自身恐るべき力をもつものだ。人間は、時の流れに抵抗したとしても、結局は流されてしまうものだ。この不可抗力ともいうべき時代の力は、その時代の背景に滔々たる底流として流れているといってよい。
 これを度外視して、思想や人物を論じれば、現実性を失った、勝手な空想に堕することになってしまう。これがわかれば、歴史の必然という、どうしょうもない時代の波のなかで、人びとが、あえぎ浮沈するさまが見えてくるはずです。つまり、時代の動向を肌で感ずることができれば、いかに時代をリードすべきかも、おのずからわかるようになってくる。
 諸君は、既に最高の哲学を身に体しています。誰がなんと言おうと、これは決定的な事実です。しからば、やがては、この時代で指導的役割を演じなければならない運命にあるんです」
 戸田は、いつしか若々しく頬を紅潮させていた。
 一座は静まり返っている。耳を研ぎ澄まし、青年たちの目という目は、戸田の顔に焦点を合わせて、誰も咳ひとつしなかった。
 十二月の夜の冷気は、室内に冴え返っていた。
 戸田の声は、さらに響いていく。
14  「この忙しい最中に、なぜ水滸会という会合を、月二回も開くかというと、それは言うまでもなく、わが学会の目的とする尊い大使命を、必ずや遂行したいがためです。
 広宣流布ということは、未聞の宗教革命だが、日蓮大聖人の仏法が広まれば、それでよいという簡単なものではない。なるほど宗教は、人間社会の底流であり、最も深い土壌です。これが革命されれば、社会総体の革命の源泉となり得ることは当然の理だろう。したがって、宗教革命は、必然的に、政治革命ともなり、経済革命ともなり、教育革命、社会革命、文化革命ともなっていかざるを得ない。
 それを、宗教だけの範囲に限定してしまうことは、広宣流布を偏頗なものにしてしまう恐れがある。大聖人の仏法を興隆させ、人間社会の平和と繁栄を築くことが目標である以上、社会のあらゆる分野の改革が断行されなくてはならない。
 私が、今、諸君に望むことは、あくまでも根本だが、それだけに執着して、広い社会に対する目を自ら塞いではいけないということです。われわれは、いわゆる宗教屋になんかなる必要はないし、また、なってはならない。
 宗教だけの道ならば、これほど気楽で無難な道はないといってよい。あくまでも、社会に貢献する有能な社会人、妙法という偉大な哲学に目覚めた正真正銘の社会人に成長し、思う存分に活躍してもらいたい。これが、乱れきった末法における民衆救済の大道なんです。この道だけが、仏法の慈悲に通じているのだ。
 この大道を、先駆を切って進むのは誰か。それは、ここにいる諸君なのだ! 先駆者は、どこにいるのでもない。今、ここにいるんです。これから大きく巣立つのだ!
 諸君が、水滸会の会員であるという使命に徹するならば、私は、未来に一切の希望を、かけることができる。広宣流布という大願の成就を、安心して諸君に託すことができるのです」
 胸に染み渡るような口調であった。
 戸田は、水滸会員としての強い自覚を促してやまない。彼の話は深く、また遠い将来までも指し示していた。青年たちは、彼の語るすべてを理解はしなかったものの、感動は激しく心の底を揺さぶっていった。
 最後に、「同志の歌」が歌われた。
 未来に生きる、若き彼らの感動と情熱は爆発した。一人ひとりの懸命な歌声は、はつらったる鮮烈な息吹となって響き渡った。彼らは、昂然と眉を上げ、満身に闘志をみなぎらせていったのである。
 水滸会の第一回の会合は、こうして午後九時に散会した。
15  以来、月二回の会合がもたれたわけだが、青年たちは一回に一巻ずつ、『水滸伝』を読破していった。
 作中の事件や登場人物について、感想や意見や、人物論などを発言し、戸田に質問し、また質問を受けたりして、そのなかで大きく目を開いていった。
 戸田の話は、極めて哲学的な、難解なことに言及したかと思うと、たちまち通俗的な慣習に話題が転じたりもした。また、戸田の解説を聞くと、歴史的な事件が、今日的な意味をもって鮮明になるのである。さらに、講義は、現在の社会情勢の分析の仕方などにまで及ぶのである。
 青年たちにとって、戸田の一言一句は、彼らの思考の、限りない誘発となった。誘発された思考は、さまざまな疑問を生み、質問が次々と出されるのだつた。戸田は、それらの質問に対して、名刀の、冴えた切れ味にも似た、明快な解答を結論として与えていった。
 彼らは、疑問が氷解し、蘇ったように、戸田に向けて微笑するのである。まさに、生命と生命との対話は、水滸会の身上であった。
 山本伸一は、一回ごとの会合に、人知れず周到な準備と企画をもって臨んだ。
 彼は、あらかじめ次回の水滸会の担当責任者を選び、その担当者と共に、議題にすべきことを決定したり、時代的背景を調べたり、会合が有意義に終わるように、一切の運営の準備をして臨んだのである。
 『水滸伝』は、巻を追って進んでいった。いよいよ中心人物の宋江が、水滸の砦に行って、梁山泊の豪傑たちから首領に推戴される場面になった。
 「さて、この宋江だが、地方の小役人にすぎなかった人物が、なぜ一党の首領と崇められるようになったのか、これはいったい、どういうことか?」
 戸田は、笑いながら、一同に問いかけた。
 青年たちは、はっと虚を突かれたように戸惑った。口をつぐんで、本を読み直したり、思い当たる節を呼び覚まそうと、空をにらんで考え込んでいる。それぞれ思い思いのポーズで考えを凝らして、解答を探し始めた。
 沈黙は、しばらく続いた。沈黙に耐えられなくなったように、メガネをかけた一人が立った。
 「宋江は、清廉潔白の士です。それで彼は、仲間から信頼されて、首領に推されたと思います」
 「おい、おい、大泥棒の首領だよ。清廉潔白なんて、そもそもおかしいよ」
 爆笑があがった。
 今度は、別の青年が立って、確信ありげに答えた。
 「梁山泊の英雄豪傑たちは、皆、腕っ節が強い連中ばかりでしたが、知恵にいたっては、まことに単純でありました。そこで、宋江の知恵袋が非常に際立っていたと思うのです。彼らの集団生活には、宋江の知恵が必要欠くべからざるものに映って、それで首領の位置に就いたと思います」
 発言は、にわかに活発になっていく。青年たちは、思い思いのことを自由に述べ始めた。
 「豪傑たちは、それぞれ腕に自信をもっていて、それで一切を片づけようと考えていました。義のためという信仰をもってはいましたが、それが具体的にはどういうことを指すのか、曖昧でした。この曖昧さを、宋江だけが明瞭に知っていました。つまり、豪傑たちの信仰のシンボルとして、宋江の存在があったものと思います」
 「なかなか、難しいことを言うじゃないか」
 戸田は、混ぜ返すように目を細めて言った。
 発言は、なおも続いた。
 「宋江というのは、豪傑のなかでは最も中庸を得た人物です。極端な人間ばかりの集団のなかでは、中庸を得た人物に信頼が集まるのも当然と思います」
 「私も、宋江という人物が好きです。信頼というよりも、豪傑たちが宋江に惚れ込んでいた気持ちがよくわかる気がするんです」
 発言は、だんだん抽象的になり、感覚的になっていく。
 宋江の人間的魅力は、誰にもわかっていたが、その魅力の宙来するところは、具体的に誰にも納得できていなかった。彼らは、宋江の人物をめぐって、その周辺をぐるぐる回りながら、もどかしい思いに駆られていた。
16  ひとしきり皆の発言が終わると、戸田は、青年たちに向かって、彼の宋江についての人物論を、深く掘り下げて語りだした。
 「宋江というのは、いかにも地方の小役人といったふうの、中肉中背で、色の浅黒い、いわば平凡な人物だ。女性には全然もてない。文についても、武についても、何一つ卓越した特別の才能というものはなかった。人間としては、まことに親思いで、正直で、道徳には忠実なのが、せめてもの取り柄といった男です。こうした男は、世の中には掃いて捨てるほどいるだろう。
 表面は、なんの変哲もない宋江が、なぜ当時の中国の英雄たちに慕われたのか、誰でも考えてみると不思議に思うだろう。しかも、男のなかの男といわれる連中から、一身に崇拝を集めるようになった。
 みんな宋江と会うことを望み、会えば、たちまち彼を信頼して悔いるところがない。不思議といえば不思議だが、ここがわからなければ、宋江という人物を知ったことにはならないわけだ。
 宋江は、外見は、いかにも平凡な男であったが、ただ一つ、相手の人物をとことんまで見抜く特別の力をもっていたんです。彼は、誰に会っても、相手の才能というものをよく見抜いて、その才能を心から愛しもし、尊敬もした。理解の深さにかけては、第一級の人物であった」
 思いもかけぬ人物論であった。青年たちは、目を見張った。
 「宋江は、相手の長所をよく知ると同時に、また弱点をも、よく知っていたんです。なにもかも知られてしまっては、人はどうすることもできなくなるものだよ。それでよく言う言葉だが、『士は己を知る者のために死す』ということに帰着する。
 宋江が首領に推戴されたのは、偶然のことではない。英雄にとって、自分を、いちばんよく知ってくれる人物に会うことほど、嬉しいこともなければ、生きがいを感ずることもないのだ。
 人の長所も短所も、まるまる見抜いて理解するというのは、誰にでもできることではない。宋江には、これができた。将の将たるゆえんです。権力や、金権や、地位や、学識で人をとらえることができたとしても、それは卒に将たる人間でしかない。
 相手の人物をよく知り、よく理解し、過つことがないようになったら、人は将に将たる器になれるんです」
17  青年たちは、いつか将軍学を身近に教え込まれていた。
 彼らには、宋江の複雑な人間関係のためか、彼の優柔不断ともいえる面が、気になっていたにちがいない。それが、宋江の理解を妨げていたことを知った。
 「これはまた、一種の人徳ということができるかもしれない。一見して、つかみどころのない凡庸な人柄にも、人を率いていく人徳のある人がいるものです。
 あの大山元帥などは、宋江によく似たところがあるように思うが、どうだろう。
 大山元帥というのは、日露戦争当時の総司令官だった。御前会議の席上でも、うつらうつら居眠りをするような将軍で、『居眠り元帥』といわれていた。しかし、この将軍は、乃木や黒木、児玉といった、一癖も二癖もある大将を率いて、あの日露戦争で大勝を収めた。別に戦争を褒めるわけではないが……ともかく、大山なればこそ、できたことで、誰にでもまねのできることではないだろう。
 誰でも、自分のことは隠したがる性質もあるが、また反対に、何から何まで、この人という人に知ってもらいたいという面も、人間は強いものです。君たちも、よく自分のことを考えてみなさい。
 諸君のことも、この戸田が、いちばんよく見て知っている。だから皆、安心して頑張っていられるんだよ。そうじゃないか。もし私が死んで、誰も見る者がなかったとしたら、それこそ大変だ」
 宋江を通じて、青年たちは、戸田城聖の偉大な魅力のなんたるかを知る思いであったにちがいない。
 「士は己を知る者のために死す」――なるほど戸田のためなら、死ぬことも可能だと一途に考える青年もいた。彼らは、戸田が誰よりも自分のことを、よく知ってくれていると実感できたからである。
18  大きな感動が青年たちの五体を走り、彼らの頬を紅潮させていった。また彼らは、自分たちの理解と認識が、いかに浅薄で的外れであったかを、一つ一つ反省させられた。妙法を根底にした戸田の言説と識見が、どんなに貴重で正鵠を射ているかを、まざまざと眼前にする思いであった。
 戸田の念頭からは、未来の広宣流布という大命題が去らなかった。この一筋の思考が、彼のすべての判断の基準であった。広宣流布という畢生の念願を断行するために、彼は、青年たちを限りなく包容しつつ、時に、極めて厳正に一切の妥協を許さず、訓育していったのである。
 彼は、胸一つに秘めた広宣流布の構想と、その道程を、しばしば青年たちに明かしたが、青年たちは、それをユートピアのように、未来の夢物語として聴いているのが常だった。彼らは、それを誰が遂行するかという責任までは考えなかったのである。いや、戸田の話のあまりの壮大さに、圧倒されていたのかもしれない。感動は単なる感動にとどまって、それに陶酔していたのである。
 そのなかでも、幾人かの深い自覚をもっていた青年たちは、特に真剣な一念で一切を受け止めていた。なかんずく山本伸一は、自分の責任において遂行するものであるかのように、戸田の話に、一つ一つ念を押すように質問をした。
 広宣流布は、戸田の亡き後のことであるかもしれないと予想したのか、それは、まるで戸田に遺言を迫るような調子さえあった。
 戸田は、このような時、内心の喜びを隠しながら、極めて真面目な、厳しい表情になって、明確な解答を与えるのであった。
19  ある時、東洋広布の問題から、世界の広宣流布という大問題に突入したことがある。戸田は、いささか興奮した口調で、地球的規模における大いなる構想を語った。
 「そもそも御本尊は、一閻浮提のための御本尊です。全世界を照らす太陽といえる。決して、日本一国のためというような、偏狭な国家主義的なものではない。
 仏法の普遍的な哲理と、御本尊の絶大な御力を信ずることができるならば、世界の広宣流布は必然といえる。まず、日本における広宣流布の流れが確実なものとなるならば、時代の潮流は、世界広布へといたることは、自明の理ではないか。地球の民族は、それを渇仰しているといってよい。
 今のところ、世界の民衆は、まだ夢にも御本尊の存在を知らないでいる。しかし物質文明の極まるところに、早くも人類滅亡の兆しを感じている。遠からず、それが不可避だと悟る時がやって来る。
 その時、民衆は御本尊の存在に気づいて渇仰するに決まっている。その人びとを、いったい誰が指導するかといえば、まず諸君たちであり、また諸君たちの後輩です。
 今は、そう言っても、ずっと先のことを言っているように思うだろうが、物質文明の行き詰まる速度は、意外に速いようだ。十年、二十年のことではないにしても、二十一世紀までには、その限界が見えてくるだろう。これは、もう確定的なことと言っても差し支えないことです。
 こういう時代が到来した時、君たちは、いったい、どうするつもりか! 君たちの生きねばならぬ時代なんだよ!」
 確信に満ちた予見を披瀝すると、戸田は、一人ひとりの顔をじっと見つめた。メガネの奥で、彼の眼が鋭く光っていた。
 青年たちは、「その時、どうするのか」と具体策を問われでも、壮大な夢に酔ったように、ただ興奮するばかりであった。
20  山本伸一が、立ち上がった。
 「先生、そのような時代に備えて、私たちは、今からでも語学の習得を心がけねばならないと思います。世界広布の順序からすると、どの国の言葉を、まず習得すべきでしょうか」
 「その通りだ。いくら御本尊の偉大さを知っていても、言葉が通じなくては、相手にわからせることはできないからな。黙っていて、わかることではない。
 広宣流布というのは、思想戦であり、言論戦であるはずだ。書きに書かねばならないし、しゃべりにしゃべりまくらなければならない作業であり、大運動だ。それを世界的規模で行うことになると、よくよくの大運動ということになる。語学の達人が、何人いても足りないことになるだろう」
 戸田は、それから、キリスト教の宣教師たちが、世界の辺地という辺地に渡って活動した歴史を語った。そして、交通不便な時代に、キリスト教も、あれだけの規模で戦ったのであるから、まして交通の至便な時代となった今日、日蓮大聖人の仏法の流布には、急速かつ強力な手を打つ必要があることを力説していった。
 「どの国の言葉から始めたらよいかといっても、相手は世界の民族だ。多少の時間的な前後はあるとしても、この国から、その次の国へと、順々にうまくいくとは限らない。地涌の菩薩が、うまく順々に現れるという保証はない。備えるとしたら、万全の備えをしなければならなくなるだろう。日本語と同じように、その国の言葉を操る人材が出なければ、どうにもなるものではない。ともかく、世界広布のためには、まず語学の勝利が前提となってくるだろう。
 このことを諸君は、しっかり腹に入れて、世界広布の実現の先鞭をつけなくてはなりません。しかし、人それぞれの役目というものがある。伸一、君だけは練達な通訳を使えばいいだろう」
 伸一は、妙な気がした。
 世界の広宣流布には、語学の勝利が先行するとまで言う戸田が、彼には「通訳を使えばよい」と、簡単に言う。はなはだ矛盾した話である。彼の語学的能力の貧しさを知って、揶揄して言ったのであろうか。それとも、彼をいたわったのであろうか。
 伸一は、戸惑いながら、それを質問しようとした時、戸田の、「君だけは」という言葉に思いとどまった。
 自分だけに、どうして通訳を使う特権が許されるのか――彼は、一瞬、不思議に思ったが、次の瞬間、未来において果たさなければならぬ自己の使命が思い浮かんだ時、戸田の言葉は、必ずしも自分の語学的能力を揶揄したのではないと悟ったのである。
 ――一、二カ国の言語を習得するために、学会の一切を託すべき伸一が、貴重な時間の多くを費やすことを、戸田は、よしとしなかったのであろう。また、もし、それらの言語を使用する国の広宣流布を優先して考えるようになれば、世界広布の公平性を欠いてしまうことになる。
 戸田は、彼を揶揄したのでも、いたわったのでもない。必要にして十分なことを、語ったまでの話だ。
 伸一は、自己の使命の深さに、身の引き締まる思いがした。
 事もなげに語る戸田の言葉を、青年たちは聞き流すことが多かったが、それが後になって、いや、没後になれば、なるほど、鮮明に蘇ることが多かった。
 戸田亡き後、伸一の頭のなかには、戸田の、このような折々の指導が、ぎっしりと蓄積されていたのである。
21  水滸会のメンバーは、競って戸田に質問した。思いつきの質問を戸田は嫌って、その青年の浅薄さを厳しく叱ったが、考え抜いた質問には、懇切丁寧を極めたといってよい。
 ある時、有村武志が立って、思い詰めたように質問した。彼は変わり種で、大学の理科系出身であったが、放浪好きな作曲家であった。
 「先生! 文化、文化と、世間もわれわれも、よく口にしますが、文化とは、いったい、どういうことなのでしょうか。考えれば、漠然として、とらえどころがありません。人間の生活にとって、文化は、どのような意義をもつものなのでしょうか」
 幅のある、よく響く声である。
 戸田は笑って、即座に口を聞いた。
 「物事が、わけがわからなくなった時には、原点に戻って、素朴に素朴にと考えれば、意外と本質が明らかになるものです。それを、入れ物の小さい頭に、さらに詰め込んで考えようとするから、みんな問題の本質は、どこかへ逃げて行ってしまうんだよ。
 結論を先に言ってしまえば、文化とは、知恵を知識化することだ、と言ったらどうかな。
 知恵を形式化するというか、とにかく形として、人に用いられるようにすることだろう。たとえば、赤ん坊のおしめなんか、立派な文化です。おしめだからといって、低い文化ということはできない。あれを発明した人は、大した知恵者ではないだろうか」
 おしめと聞いて、みんなは笑いだした。
 戸田は、至極、生真面目に言葉を続けた。
 「文化の由来するところは知恵だが、知恵にもいろいろある。日本の文化は、初め外来文化として始まり、飛鳥文化、白鳳文化といわれるものが栄えた。これは源流をたどれば、中国の知恵に触発されてできた文化です。それが消化されて、奈良朝の天平時代を経て、都が京都に移った平安時代になると、次第に日本固有の文化が発達していった。
 今も外来文化の氾濫だが、日本人の文化の消化力は大したものです。日本民族の優秀性は、こんなところにあるといってよい。しかし、真の文化というものは、自分の知恵が築くものです。
 したがって、最高の文化は、最高の知恵によらなければできない。これは当然のことだ。ところで、最高の知恵というのは、何を指していうか、これが問題です。なんだと思う?」
22  ここで言葉を切って、戸田は、青年たちの発言を期待するかのように待った。発言の気配はあったが、あえて発言する人はいない。
 「君たちは、既に知っているはずだよ」
 その瞬間、二、三の声が同時にあがった。
 「妙法です」
 「南無妙法蓮華経です」
 「そうだ、その通りだ。これ以上の智慧は、現代には断じてない。この智慧のある限り、人類は多くの危機を避けて、やがてが絢爛たる文化を開くことがができるだろう。このために、ただ一つ人類に残された道――広宣流布の必要があるんです。しかし、今は、この智慧を知って驚嘆している人は、人類のなかで、わずか数万を出ない。いくら知識人面をしても、知らないというだけならまだしも、知ろうともしないで軽蔑している。今に見なさい。驚き慌てる時が必ず来ます。人類がもっ最高の智慧なんだもの、誰でも頭を下げざるを得なくなる時が必ず来る。
 この意味からすると、広宣流布ということは、最高の文化運動といって差し支えない。確信をもって、しっかりやろうよ」
 戸田の独特な文化論を聞いて、若い作曲家は、さも安心したような表情になった。
 彼は、作曲という仕事に取り組みながら、妙法を信ずる心情から、優れた作品を、ただ機械的に生み出そうと焦っていたのであろう。
 だが、焦れば焦るほど、出来上がるものは生硬な、ぎごちない表現の作品となってしまった。音楽的情緒は、ほとばしり流れることをしないで、枯渇してしまうように思われた。
 彼は、妙法を音楽で説明することに懸命であったわけである。説明は表現とはならない。彼は、この誤りに気づかず、作曲をもって仏法を表現することに行き詰まりを感じて、一人苦しんでいたのだった。
 彼は、今、戸田から、妙法は最高の智慧であることを教えられた。そうだとするならば、妙法という智慧こそが、闊達な優れた音楽的表現を生むはずである。
 妙法を五線紙に託して説明するのではない。まず、妙法で知恵を磨くことが先決である。それこそが個性を生かし、独創的な、優れた表現を保証するであろう。「妙法の音楽」とばかり偏狭に考えて、画一的なパターンを志した誤りを、この時、悟ったにちがいない。彼は、目から鱗の落ちる思いがして、新しい視野が開けた。
23  また、ある時、戸田は、獄中の体験を、冗談を交えながら、つぶさに語って聞かせていた。
 そして、「われ地涌の菩薩なり」との獄中の悟達にいたった、あの瞬間の話になった時、青年たちは身じろぎもせず、眼を凝らし、耳を澄ましていた。
 話が一段落した時、思いがけない質問が飛び出した。
 「先生は、牢獄で悟りを開かれたと言いますが、それでは、私たちは、いつ、どこで悟りを開くことができるのですか。どうも困ってしまいます」
 質問したのは、鈴本実であった。彼は、旧制の高等工業学校出身の機械技師である。数理的な頭脳の持ち主といわれ、一見、傲慢とも見られていた。
 戸田は、さりげない調子で独り言のように言った。
 「それは、本地の問題だ」
 彼は、それだけ言って口をつぐんだ。
 重い沈黙が、一座を支配した。鈴本は、好奇心の塊のような調子で、また言った。
 「先生の本地はなんですか」
 その声の響きは、どこか不遜な響きをはらんでいた。
 その瞬間、戸田は、恐ろしいばかりの剣幕で叱咤した。
 「君は、それを知りたいのか! 本当に知りたいと真剣に思っているのか!」
 戸田の叱咤は、いつになく激しいものであった。
 青年たちは驚き、鈴本の顔は、見る見る青ざめた。
 戸田の激怒は、間もなく静まった。
 彼は、鈴本を見ながら、憐れむように言った。
 「いつも君は、頭の回転の速さに、自らを溺れさせていることが多い。しかし、それでは、信心の本義は何一つわからないだろう。これは人生の根本的な問題なんだ。私は、君のために、本格的な仏法者の生き方を示してあげたいんだ。長い未来の人生のためにだよ。ともかく、君も私についてくるなら、やがて、それがわかるだろう」
 戸田が、回答を拒否したのは、珍しいことであったが、好奇心の趣くままの質問に答えるには、事は、それほど軽々しい問題ではなかった。
 ともあれ、仏法の悟達にかかわる重大事を、軽はずみな好奇心で汚されることを、彼は断固として拒否したのである。彼は、曲解を恐れた。水滸会の青年たちは、生命の奥底を体得した戸田の悟達を理解するには、まだ、あまりにも未熟だったのである。
24  水滸会にまつわる話を、ことごとく集めて記述するとしたら、何巻もの書物になるだろう。振り返ってみれば、戸田の言説は、すべて遺言の響きをもっていた。彼は、未来にわたる広宣流布の道程を、政治、経済、教育、芸術等の各方面にわたって語り、この長遠にして未聞の宗教革命の遂行を、選ばれた青年たちに託したといってよい。
 戸田は、あらゆる分野に、仏法の人間主義の精神を脈動させ、よりよき社会の建設に一身を捧げる革命児としての青年たちを、手塩にかけて陶冶しつつ、せっせと育て上げていったのである。
 四十三人の署名で第一期を発足した宣誓後の水滸会は、順次に拡大されて第三期に進み、百二十人にまで達し、一九五六年(昭和三十一年)五月をもって、ひとまず終わっている。
 この間、約三年の歳月に、『水滸伝』から始まったテキストは、『三国志』『モンテ・クリスト伯』『風と波と』『ロビンソン・クルーソー』『風霜ふうそう』『隊長ブーリバ』『九十三年』などに移り、これらを教材にしながら、戸田は、胸中の構想を語って尽きなかった。
 わずか三年の、厳しくも楽しい薫陶であった。だが、この間に、広宣流布の軌道は明確に、着実に敷設されつつあったのである。
 これらの青年は、その後、創価学会の中枢として、また、政界、経済界、教育界、芸術界、その他、社会の第一線で、存分に力を発揮していくことになるのである。
 青年たちの多くは、話の面白さに紛れて、このことに気づかなかったが、山本伸一は、わが生命の奥に、広宣流布への軌道を敷く思いの三年であった。
 戸田の亡き後も、伸一を中心に、第四期から第五期まで、水滸会は続行され、一期から合わせると、六百四十七人の人びとを育成し、送り出していくこととなるが、それは後日の話である。

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