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日蓮大聖人・池田大作

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翼の下  

小説「人間革命」7-8巻 (池田大作全集第147巻)

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1  一九五三年(昭和二十八年)という年は、創価学会の発展の歴史にあって、最も折伏意欲のみなぎった年であった。なにしろ、年頭の二万世帯を、一年間で七万世帯に飛躍させることを目標に掲げ、月々の活動を油断なく進めていった年である。もし、この年につまずくならば、戸田城聖が会長就任の時に宣言した、生涯の願業である七十五万世帯の達成は、不可能になるにちがいない。
 たとえ一瞬の出来事であっても、それが重大なる歴史の転機となる場合があることを、戸田は強く自覚していた。彼にとって、この一年が絶大な価値を内包する時機であることは、明らかであった。そのために彼は、慎重な配慮を払いつつ、周到な指揮を執っていたのである。
 急速に拡大する世帯数に対して、戸田は、人材の活用が、今後の発展を決定づけるカギであることを予見した。
 たとえば、第一位の活力ある蒲田支部も、一月、二月、三月と、今までにない急激な増加をしたものの、支部の指導力が、それに比例して増大するものとは思われなかった。むしろ、指導力の希薄化が、さまざまな面で露呈し始めたのである。また、二月には最下位に転落した文京支部の、支部長交代後の活力についても、憂慮しなければならなかった。
 四月二十日、戸田は、最上位と最下位の両支部に対して、熟慮の末、それぞれ適切な人事を断行した。それまで他支部に派遣されていた青年部長の関久男、男子部長の山際洋ら青年幹部三人を、一挙に蒲田支部幹事兼任として、蒲田に投入した。そしてまた、文京支部に対しては、第一部隊長になったばかりの山本伸一を派遣して、支部長代理に任命したのである。
 このように戸田は、自らの翼の下で育成した青年部の首脳陣を、急遽、登用し、今後の世帯数の激増に備え、各支部の強化を図っていった。
 彼の頭脳は、このころから、組織について、目まぐるしく回転を始めたのである。その回転に応えたのは、彼の翼の下で、こと数年、手塩にかけてきた青年部の中枢の幹部たちであった。彼は、青年部を人材の宝庫としたのである。この有能な手駒を、着々と育て上げていた彼の意図に、当時、気づいていた人は少なかったにちがいない。
 学会の首脳幹部は、ただ、活発化した座談会と折伏に、その日、その日を追われるばかりで、急増しゆく新入会員を、どう指導していくかについて、頭を働かせる幹部は皆無といってよかった。まして、成果のかんばしくない支部のことなどに、頭を悩ます余裕はなかったのである。
 五二年(同二十七年)十二月、文京支部長であった原山幸一が地方統監部長に就任し、その後任として田岡治子が支部長となった。彼女は、最初は大任を受けて一人張り切ったものの、月ごとに悩みは深くなってしまった。笛吹けど踊らず――女性支部長として焦れば焦るほど、彼女は、深い泥沼に落ち込んだようで、どうにもならなくなった。
 田岡治子は、支部長になる時、婦人部常任委員をしていたが、半年前までは班長であった。また、夫の金一は、組長をしていた。
 どちらかといえば、夫は商売の方に忙しく、学会活動は、治子が主体とならざるを得なかった。そのころの折伏成果は目覚ましく、支部の成果の半数近くを、彼女一人で勝ち取った月もあった。彼女は、その当時が懐かしかったにちがいない。
 しかし、今の彼女は、支部長に任命した戸田を、恨めしく思う時さえあった。
2  十二月のある日、田岡治子が、戸田に呼ばれて市ヶ谷の分室に行くと、戸田は、いきなり、こう切りだした。
 「新しい文京支部の建設のために、支部長にならないか。どうだろう」
 「………………」
 即答のできることではない。
 彼女は、返答に窮して、黙っているより仕方がなかった。
 戸田は、重ねて、あっさりと言った。
 「やればできる。じゃあ、決めたよ」
 彼女は、呆然として戸田の顔を見上げた。戸田は、なんの屈託もないように、温かい眼差しで彼女を見ていた。事は、あまりにも簡単に決まってしまったが、彼女は、この時、戸田の信頼を裏切るまいと思った。
 文京支部の一月の折伏成果は六十九世帯、二月は七十世帯であったが、学会全支部の最下位クラスであった。田岡治子は、人知れず頑張って、三月には八十世帯となったものの、多くの支部が、ことごとく飛躍的な増加を示しているのに比べて、なんという不甲斐ないことかと、自らに責任を問うた。
 三月末の本部幹部会の壇上で、悄然として身の細る思いをしながら、一刻も早く幹部会が終了することを願った。
 幹部会が終了すると、次は支部長会である。
 しょんぼりしている女性支部長を見かねて、慰めの言葉をかける同僚の支部長もいた。しかし、彼女は、窮地に陥った文京支部を再興する、なんの方策も思いつかなかった。いつか悲壮感が深くなり、支部旗を抱いて死ぬより仕方ないとまで思い詰めてしまった。
 恵まれていたといってよい班長時代の経験から、彼女は、楽観的に考えていたにちがいない。
 ″組織は順調に動くであろうし、みんなも協力してくれるだろう。折伏も、たやすくできるだろう……″
 しかし、現実は、あまりにも厳しかった。ひとたび組織の頂点に立つと、下から見ているような簡単なものでは決してない。支部長という立場に就いて、初めて彼女は、その責任の重さを知った。日夜、彼女の一念には、苦悩が渦巻いて去来した。いうなれば、田岡治子は、完全に挫折しかかっていたのである。
 そのような彼女の様子に、気づかぬ戸田ではない。支部長会が終わると、戸田は、彼女にひとこと言葉をかけた。
 「私が任命した支部長だよ。私が後ろ盾についている。それを、決して忘れてはいけない」
 夜も、かなり遅くなっていた。戸田は、すぐさま会場から姿を消したが、彼女の胸から、戸田の一言は消えなかった。
 数日の後、四月初句である。彼女は、覚悟を決めて、戸田を市ヶ谷の分室に訪ねた。
 ″一切をぶちまけて、叱られるものなら叱られよう。また、支部長を辞任せよ、と言われるなら辞任もしよう。広宣流布のお役に立ちたい念願は強いが、ことによると、自分が支部長などをしていることが、文京の邪魔になっているのかもしれない″
 芯の強い女性である。深い反省の果てに、彼女は、戸田に一切の判断を請う勇気をもった。
 戸田は、彼女の長い話を静かに聴いていた。そして、なんの叱正も批判も、指導さえしなかった。
 「わかった。もう泣かなくてよい」
 戸田は、大きく頷き、彼女を翼の下にかき抱くように言った。
 「文京を応援してやりたいが、ぼくが、文京ばかりを応援するわけにもいかない。その代わりに、ぼくの懐刀の伸一を行かせることにしよう。それで、どうだ。ほんとに、やってもいいか?」
 「ぜひ、お願いいたします」
 反射的に、治子は、こう言わざるを得なかった。
 山本伸一という新進の部隊長については、まだ、ほとんど知らなかった。機関紙にも、他の幹部のように華々しい活躍は、一切、報道されていない。
 彼女の不安を、戸田は、察したかのように、にっこり笑いながら言うのであった。
 「伸一は、若いが、恐ろしいほど、すごい男だぞ。信心でついていきなさい。
 あなたが、今まで知っている男とは、桁はずれに違う人物だ。ぼくの胸の、ここいらにいる男だからな」
 戸田は、胸の心臓の上あたりに手を置いて、真顔になって言った。
 「……ところで、主人はどうしている? 商売の方は、うまくいっているかね」
 「はい、元気で頑張っております」
 彼女は、小さい声で答えたものの、いちばん痛いところを突かれた思いであった。
 夫の田岡金一は、まだ″三遍題目″の、学会活動の嫌いな、そして、商売熱心な組長であった。
3  二十五歳の新進部隊長・山本伸一が、文京支部長代理を兼任して、初めて田岡の家を訪れたのは、四月二十五日の夜であった。その日は、支部の班長会である。誰の胸も、一種の敗北感に支配された会合であった。一同は、新任の支部長代理を迎えようと、定刻には顔をそろえていたが、七時を過ぎても、伸一は姿を見せなかった。
 当時の支部員たちは、初めて来る伸一を迎えに行く才覚も、路傍まで出迎える機転もなかったようだ。二十四人の班長は、ただ、おとなしく待っていたのである。
 そのうち玄関が開いた。
 山本伸一の元気な声が響いてくる。
 「こんばんは、おじやまします」
 彼は、こう明快にあいさつしながら座敷に上がった。
 「いや、探した、探した、大きな家ばかり探しちゃいました。田岡さんの家は、こんな小さい奥の方にある家だもの、なかなか見つからないわけだよ」
 ずいぶんと道に迷ったらしい。一同は、どっと笑いだした。
 彼は、まず御本尊に向かって正座し、張りのある通った声で題目をあげた。一同も唱和する。だが、その三遍の題目がそろわない。彼は、鈴を町いてやり直したが、まだそろわなかった。三度、四度と繰り返しているうちに、みな懸命になってきた。やっとそろった。
 彼は、くるりと向き直ると、居ずまいを正して言った。
 「あらゆる戦いの要諦は、全員の呼吸が合うかどうかにかかっています。唱題ひとつにも、勝敗のカギがあるんです」
 初めて聞く、厳しい信心の言葉だった。幹部一同は、さりげない短い指導のなかに、なぜか胸に突き刺さるものを感じたにちがいない。支部の薄弱な団結の姿は、既に、伸一が唱題を繰り返させたところに、縮図となって現れていた。
 伸一は、まず信心の姿勢を正すことから始めたのである。
 いかなる理論、方策よりも、一念の連帯が根本であることを、彼は、知り尽くしていたからである。彼は、言葉で指摘するよりも、事実を身をもって示すことによって、誰をも納得させたのである。
 「全員の呼吸が、ぴったりと合ったら、皆さんの力は、ただ合計しただけの力では終わりません。予想もしなかったような、大きな力が発揮できるのです。文京も、まず二百世帯の折伏をしてみようではありませんか」
 一同は驚いた。″無理な数字である″と思った。
 二百世帯と聞いて、居並ぶ班長たちは、無言であった。彼らにとっては、夢の数字である。いったい誰が折伏するのであろうと、他人事のように考えた。
 伸一は、目を丸くして仰天している一同の心を察したかのように、確信を込めて言った。
 「私の言う通りにやれば、必ずできます。楽しみながら、朗らかにやってください。それにはまず、支部全員の呼吸を合わせるところから始めなければなりません」
 彼の言った通り、最下位の文京支部は、その後、徐々に上昇していった。
 九月には待望の二百世帯をはるかに超え、二百七十五世帯の折伏を達成して、堂々と中堅支部に入っていく。さらに、この年の十二月には、誰も想像もしなかった四百三十一世帯という成果を出し、中堅支部の上位に進出していくことになるのである。
4  山本伸一は、この初の班長会で、参加者一人ひとりの名前を聞きながら、班の実態や、生活のことなどを尋ね、適切な短い指導をはさんだ。それが終わると、支部長の田岡治子を見て、激励するように言うのであった。
 「思ったより、いい支部です。これだけいい人材がそろっていて、できないわけがない。絶対に大丈夫です。これから、本格的な戦いを、真剣にやっていこうではありませんか」
 伸一は、それから、さっそく、翌月の活動日程を協議した。伸一の手の打ち方は早かった。皆も、次第に頭の回転が速まっていった。
 田岡治子は、急に身の軽くなる思いがし、戸田城聖の言った、「恐ろしいほど、すごい男だぞ」という言葉を実感して、敬服するのであった。また、「信心でついていけ」と言った戸田の言葉を思い出し、ひそかに心を決めて、どとまでもついていとうと、深く誓ったのである。
 彼女の、この時の決心は、言わず語らず全支部員の心となっていった。支部員にも、一日一日と、自信と歓喜が湧いてきた。
 支部の幹部であればあるほど、山本伸一を慕った。伸一にとっては、誰もが愛すべき支部員であった。支部意識の強かった当時としては、他支部からの派遣者が、このように一体となり、和気あいあいとなっていったのは、まれなことであった。
 兼任の支部長代理は、最初のころは足繁く文京支部に通った。座談会や地区講義などで週二回、三回になったこともある。行動半径も、相模原や横須賀などに広がった。そして、散在する班のために、激闘を重ね、支部の前線組織から急速に盛り上げていった。まさしく全身の神経と頭脳をフルに回転させながら、人材と組織の堅固な構築に奔走したのである。
 伸一はまた、田岡一家のためにも、細かい配慮を忘れなかった。
5  そのころ、田岡金一は、夕刻になると米穀商の店から帰って来ていたが、自宅で会合があると知ると、こっそり茶の聞に入り、食事をさっさとすませて、いずこともなく姿を消していた。
 伸一は、ある時、ちらっと金一を見かけると、会合の行われている奥の部屋から、大声で呼びかけた。
 「田岡さんのご主人!」
 とうとう捕まったと観念した金一は、思い切って伸一の前に出た。人柄のよさそうな田岡に対して、伸一は丁重な口調であいさっした。
 「おじゃましています。いつも奥さんには、ご苦労を、おかけしています」
 礼儀正しい言葉に、金一は面食らいながら、ただ恐縮するばかりである。
 「いいえ、いいえ」
 若い伸一と、年配の金一との微笑ましいやりとりを、集っていた人びとは、笑顔になって見ていた。
 金一は、信心が必ずしも、いやだというのではないらしい。彼は折伏もしていたが、なぜか幹部を避けていた。
 威張る幹部を毛嫌いしていたのである。礼儀正しい伸一に会って、彼は、毛嫌いする理由を失った。伸一青年が、常に温かく金一に接し、なんとか立派な人材に育て上げようと心を配っていることを知った時、彼は、恥ずかしいというよりも、申し訳ないと悟ったのである。
 彼は、やがて地区部長になった。さらに、数年たたないうちに、治子と交代して、力ある大支部長になった。
 伸一の激励と指導が、彼を、そこまで育て上げていったのである。
 伸一は、弱体支部の育成に、間断なく、目まぐるしいまでの手を打った。その手の打ち方は、電光石火の速さであった。そして、会合の折さえあれば、わずかな時間でも、数ある御書の御文の適切な箇所一つ一つ講義して、創価学会の信心こそ、日蓮大聖人の仏法と直結していることを教えた。やがて、文京支部は全国制覇を成し遂げ、第一級の支部となる日を迎えるのである。
 学会における伸一の責任と立場が重くなるにつれて、彼が、文京支部に来る回数は減っていった。目標が達成され、一つの構築が完成されたのにともなって、いつか彼自身から静かに離れていったともいえる。
 「あとは自分たちで自由に、確信に満ちて、楽しみながら活動してほしい」というのが、伸一の常日ごろ、語るところであった。
6  一九五三年(昭和二十八年)五月三日――晴天のこの日、第八回本部総会が、東京・神田駿河台の中央大学講堂で開催された。
 東京をはじめ、関東各地、大阪、仙台などから、五千人を超える学会員が参加した。
 全国の地方寺院から、多くの僧侶も参列していた。
 総会は、いつものように午前の部と午後の部に分かれ、朝九時から夕刻四時まで続いた。
 体験発表は、全部で十五人が登場し、すべてが信心の歓喜と確信にあふれた、鮮烈な感動のドラマであった。
 法主の日昇の講演、男子部、女子部、婦人部の代表抱負、組長、班長、地区部長、支部長の代表抱負など、登壇した人は、実に三十人を超えた。
 折伏の大旋風を感じさせた総会であった。たぎり立つ情熱と意気が、いつか会場にみなぎっていた。参加できた人の喜びは、午前から午後へと色濃くなり、最後の学会歌合唱では、愛唱歌が五曲、続けざまに力強く歌われていった。
 この日、戸田城聖は、真摯な面持ちで、一切の進行を見守っていた。学会は今、大きく脱皮しつつあると彼は思った。それに対応して、彼の翼の下にある人材の配置と活用を、一人考えていたにちがいない。
 戸田は、午前の講演では、かなり教学的な基本問題を前提として、日蓮大聖人が末法の御本仏たるゆえんを説いていった。
 「他宗派は、大聖人を釈尊や天台の流れを汲むものであると思っている。そこに、すべての間違いがあるのであります。
 末法の仏様は、久遠元初の自受用報身如来、またの名を南無妙法蓮華経様という仏様であります。この仏様は、宇宙大の御力をもち、宇宙それ自体であります。永遠の御力をもち、あらゆるものを変化させていく御力をもった仏様であります。
 この仏様は、垂迹として釈尊の法華経では上行菩薩となり、末法では日蓮大聖人として再誕されたのであります。
 これが、他宗の人びとには、さっぱりわからない。彼らの本尊には、宇宙大の力、宇宙を変化させる根本の力がないどころか、逆に悪い結果を生んでいるのであります。これが、私どもと一切の他宗との根本的な相違であります。
 こう言うと、理論の飛躍ではないかという疑問もあるでありましょうから、この点を少し述べてみましよう」
 彼は、科学と宗教との関係を論じ、この二つは断じて矛盾するものではなく、ただ研究の対象が違うだけであることを述べていった。すなわち、科学は物質や社会や心理などを対象とし、それを分科して研究しているが、宗教は生きている生命そのものが研究対象となっているのだと論断して、次のように続けた。
 「宇宙のあらゆるものは、絶えず変化するものであります。どれ一つとして変化しないものはない。座り込んでいて、どんなに力んでいても、年を取らざるを得ないのです。しからば、この宇宙の一切を変化させる本源とは何か。生命に、もともと備わる根本の力である。これを名づけて南無妙法蓮華経というのです。宇宙それ自体の根本法であります。
 それを悟られた方が、久遠元初の自受用報身如来、すなわち末法の御本仏である日蓮大聖人御自身なのであります。
 してみると、日蓮大聖人は、生命に関する大科学者であると言わなければなりません。譬えて言えば、御自分の研究を発表なされて、宇宙的な生命力を発揮する″機械″をお創りになり、どんな人でも、これを用いて幸福になり得るようにしてくださったということです。これが御本尊です。
 今こそ、この御本尊を、広く人びとに伝える時代が来たのであります」
 戸田は語気を強めながら、最後に言った。
 「御書を克明に拝読してください。『顕仏未来記』にも、この仏法は、西へ、天竺へ還ると仰せになっております。もしも、この仏法が、日本だけにとどまっているとしたら、仏法は虚妄となってしまいます。これを妄語とさせないのが、わが創価学会の使命であります。
 この使命を、よくよく自覚して、仏の御言葉を虚妄としないために、ともどもに精いっぱい、戦い抜こうではありませんか」
 この午前の講演では、理論的な話から、使命達成への自覚を、あらためて促したものといえよう。
7  午後の講演では、がらりと調子を変えて、信心の実践的な面から、かんで含めるように、彼は話しだした。
 「午前は、理論めいた話であったから、今度は、同志と二人きりで話し合っているような気持ちで、お話ししましょう。
 今、私は、広宣流布は当然のことであるから、やっかいな会長という地位にあることを少しも悔いません。私の望むことは、どうか、皆さんに早く幸福になってもらいたいことです。まず、一家が繁栄し、健康であってほしい。『先生、私はこんなに幸せになった』と、言われる時の嬉しさ、反対に、『まだ苦しい』と言われる時は、胸をえぐられるような気がします。
 ある人が、商売をほったらかして、折伏にばかり飛び回っていると聞いた時、私はまったく辛い思いをしました。商売も法華経です。生活をよくするための信仰です。これを逆にする人が、どうして私の指導を受けているといえましょう。ことを取り違えずに、信心中心に考えていくことですよ。
 今日も、皆さん方から、さまざまな功徳の体験を聞きましたが、私の受けた功徳から見れば、まだまだ小さなものです。どうしたら、本当の功徳を受けられるかを、お話ししましょう」
 慈愛にあふれた口調で、彼は語っていった。会場の隅々までも、いつか温かくっつんでいた。しかも話は、いかにして真の功徳を受けるかということである。聴衆の眼は、すべて、微笑んでいる戸田の顔に焦点を合わせて動かない。
 戸田は、一つの譬えを用いながら話を続けた。
8  「ここに三つの畑があるとします。第一の畑には何も蒔かず、第二の畑には莱の種を蒔き、第三の畑には宝のなる木の種を、一粒蒔いたとします。第一の畑には子どもが入ったとしても、誰も叱らない。第二の畑に入ったとしても、真剣には叱らない。ところが、第三の畑に入ったとしたら、それこそ大声で叱るでしょう。
 信心とは、御本尊を頂くということで、仏になる宝の種を植えたことであります。つまり、心田に仏になる種を植えるんです。目には見えないが、こうなると諸天善神は、夜となく昼となく、懸命に守っています。
 種が芽を出し、やがて育った木は枝を出し、葉が茂り、花が咲き、実が、なっていきましょう。それも、わずかのうちにです。こうなると畑の値段は、いやでもぐんぐん高くなる。これを成仏の境涯と言いますが、そこまでいかずとも、葉が茂るころには、人生において本当の幸福生活ができるんです。
 あなた方は、まだ、芽が出たか、出ぬかの時なんです。芽が虫に食われては、なんにもならない。草ぼうぼうにしておいては、芽は腐ってしまう。
 そこで、心田にある雑草を取らなければならない。それが折伏です。朝夕の題目は、畑にこやしをやることです。
 功徳のはっきりしない人は、雑草を抜き取らぬからです。あなた方は、心田に種を植えたのですから、絶えずこやしをやって、雑草を抜き取り、幸せになりなさい。
 本当によくなるのは、十五年だな。仏法は道理だもの……大樹になるには当然なことだ。七年ぐらいから、だんだん、よくなることが見えてくるでしょう。菜っ葉だって、種を蒔いてから芽を出すまでに、五日や一週間はかかる。焦らず待っていなさい。十五年目の実証を確信して、腰をすえて、しっかり信心に励むことです」
 彼は、生涯にわたっての本格的な信心の姿勢を教えたのである。
 第八回総会は、それまでの総会に比べて、内容も、意気も、格段の充実を示し、筋金の通った気迫が感じられた。戸田城聖の正月以来の意気込みは、確実に、全学会員の信心向上の姿となって動きだしたといってよい。
9  彼が,この日、壇上で考えていた幹部の配置と活用は、早くも五月八日、杉並支部長の交代となって発令されている。
 清原かつを支部長として発足した杉並支部は、清原が本部の指導部長となってからは、木村一志が、後任の支部長として奮闘してきた。しかし、その間に、杉並支部を担当していた部隊長の入江千佐子が、女子部長に就任するなど、それまで支部を支えてきた中心メンバーが、相次ぎ姿を消していったのである。
 草創期からの中核を失ってみると、数カ月たった今、杉並支部は、世帯の増加に反して、弱体化がいよいよ目立ってきていた。
 戸田は、早くもこれに気づき、再び清原かつを杉並支部長として復帰させ、兼任の辞令を発した。彼は、一つの支部たりとも見落とすわけにはいかなかった。また、一人の実力ある幹部の活用にも、深い配慮を払った。全戦線が一線に並び、そろって前進できるように指揮を執っていたのである。つまり、全軍の一歩前進だ。もはや、一支部といえども後退が許されない段階に来ていたのである。
 さらに人事は、学会首脳部の中枢に及んだ。四日後の五月十二日、突然、筆頭理事の交代が発表された。戸田の会長就任以来、筆頭理事であった泉田弘に代わって、蒲田支部長・小西武雄が、筆頭理事に就任したのである。
 誰一人、この人事を予測した人はなかった。事は、いかにも唐突に行われたように見えたが、戸田の胸のなかでは、かなり前から熟していたといってよい。
 彼は、力強く脱皮しつつある学会の実態を、第八回総会に見た時、この人事を決意した。現在の学会のためだけではない。学会の将来にわたる進路の開拓のためであった。現在の首脳陣が新しい決意に立ち、脱皮するためには、この人事が、まず必要であるという結論に達したからである。どちらかといえば温厚で、行動的とはいえない泉田も、それを願っていたにちがいない。
 泉田は、戸田の意中を知ると、即座に、これを了承した。
 この時、戸田は、ただ、ひとこと言った。
 「学会は、今は速度を速めなければならない。泉田君もかわいいが、ぼくにとって学会の組織は、それ以上にかわいいのだ」
 確かに戸田は、人情家であった。しかし、それが広宣流布の戦列を崩す恐れのある場合には、決して私情に流されることはなかった。
 正月早々からの幹部の異動人事は、ことで極点に達したが、この直後にも、なお続いたのである。
 五月十八日には、原山幸一に代わって、新たに山平忠平が教学部長に抜擢された。三十一歳の教学部長である。
 また、五月二十日には、前年末、設置された地方統監部は、発展的に解消して統監部となり、初代統監部長には、原山幸一が任命された。組織の拡大にともない、全国的に、恒常的な統監事務の重要性が、認識されてきたからである。
 戸田は、このように、飛翔を安全にするために、大胆な人事を断行していた。いかなる些細な部分にも、欠陥があっては飛び立つことは不可能である。
 厳しい点検と整備は当然といってよい。それは、練達した操縦士の飛行操作に似ていた。あくまでも慎重に、的確に、一つの小さい機関でもフルに回転させるための配慮を、沈着に払っていたのである。
 幾十年、幾百年にわたる限りない飛行である。全速力を維持するためには、全機関が健全でなければならない。つまり、全組織が生きて活動することが必要であった。組織の一端でも死んでいたとしたら、全速力の飛翔であっただけに、失速を招く恐れが十分にあったからである。
 このような、戸田の人知れぬ慎重な労苦によって、一九五三年(昭和二十八年)の後半は、数万の会員を乗せて、実に安定した飛翔を続けることができたのである。
10  彼は、全速力の飛翔のさなかにあって、なお彼の翼の下に慕い寄ってくる雛鳥たちを、温かくかき抱いていた。
 このころ、男子部のなかで「水滸会」、女子部のなかで「華陽会」という特別な会合が、それぞれ、月に二回ほどもたれていた。いずれも、元気な若鳥たちを彼の翼の下に集めての訓育である。
 古今東西の名作といわれる小説などを教材として、さまざまな感想を率直に語り合ったりする会合であった。人生について、生活について、政治について、経済について、思想について、文化・芸術について等々、テーマは実に多岐にわたった。人間と生まれて、この世で遭遇するであろうすべての問題が、なんの遠慮もなく提示され、それらが、さまざまな視点から活発に論議された。
 戸田の柔軟にして寛容な頭脳は、それらの多角的な問題を、ことごとく包括し、仏法の奥底から発する光に当てて、生き生きとした鮮明な解答を与えていった。
 青年たちは、問題の具体的な解明法を身につけると同時に、仏法の底知れぬ深さに驚嘆し、さらに求道の真心を燃え立たせた。また、戸田の胸中に描かれた広宣流布の構想の偉大さを知って、わが使命を心に誓うのであった。
 戸田にとっては、これらの特別な会合は、若鳥たちを、やがては鳳に成長させるための強烈な育成作業であった。
11  華陽会は、水滸会より二カ月先立って結成された。
 一九五二年(昭和二十七年)十月二十一日の火曜日、女子部のなかから二十人が選抜され、第一期の華陽会員として、戸田のもとに集った。場所は、市ヶ谷の、さるレストランであった。テーブルには、真っ白い布がかけられ、美しい花が飾られている。女子部員にとっては、晴れがましい会合であった。
 華陽会と命名されたのは、「華のように美しく、太陽のように誇り高くあれ」という、戸田の、女子部員に対する願いであったにちがいない。つまり、人間革命をした暁に出現する、新鮮な理想的女性像であった。
 西洋料理が、コースにしたがって運ばれる。ナイフとフォークを不器用に操る人が大半であった。戸田は、それをニコニコと笑いながら見ていたが、ナイフが皿に当たる音がやかましかった。
 「社会のいろいろのことを、今のうちに勉強することも非常に大切なんだよ。みんなも、いつかは一流のホテルやレストランで、食事をする機会が来るだろう。今みたいな食べ方をしては、笑われてしまう。ナイフは、こう持って、フォークは、こうして、がちゃがちゃ音をたてないで……おいしそうに食べるんです」
 戸田は、洋食のマナーから教えなければならなかった。
 当時の世情は、まだ一般庶民には生活の余裕はほとんどない。筍生活をやっと切り抜けたばかりのところだった。生活の厳しさは、なお続いていた。
 それだけに、戸田との晴れがましい会食は、若い娘たちにとって、夢見るような華やいだものと映ったにちがいない。戸田は、愛すべき娘たちに、生活の潤いを与えたかったのである。
 戸田は、彼女たちを、最も人間らしい、革新的な女性に、しっかりと育て上げたかった。妙法を持っていながら、視野の狭い、片意地な、偏狭な女性となることは、彼の描く理想的な女性像から、遠くかけ離れていた。妙法とは、人間が最も人間的であることを自覚させ、育成する、根本法にほかならなかったからである。
 若い娘たちは、雰囲気に慣れてくると、戸田に甘えた。得意のおしゃべりが始まったのである。それは、必ずしも無邪気なものと笑い流すことはできなかった。ある人は、わずかな教養を針小棒大にひけらかし、ある人は、卑屈なまでに取り澄まし、また、ある人は、戸田の気に入られようと、ただ迎合的な言葉で媚びた。
12  戸田は、しばらく黙っていた。やがて、彼は苦笑いしながら言った。
 「今日は、偉い人ばかり集まったようだ。人間、誰でも自分をよく見せようとする。これは一種の、人間の悪い癖だが、私の前で、その癖に花を咲かせてもしようがないよ。もっと、ありのままの姿でいきなさい。その方が立派だ。だいいち、気が楽ではないか。本当に利口ならいいけれど、小利口はやめなさい。
 その人の本当の偉さは、いざという時にわかるものです。今の人は、修養というものを軽視しているが、私も自分の卑屈さを直すために、ずいぶん努力したものです」
 戸田の、分厚いメガネの奥の目が光った。それまで、″大王の膳″についていたように、はしゃいでいた女子部の幹部は、自然に彼の顔に視線を集めた。
 戸田は、いささか厳しい口調で続けた。
 「わずかばかりの教養や知識をひけらかし、私に何か教えようとしても、それはダメです。私は、みんなよりも、なんでも知っているんだから。あなた方の年ごろには、世の中でわからないことが、いっぱいあるはずです。好奇心だらけではないか。人間、若いうちに求道心も、向上心も失ってしまっては、とても役に立つ人間にはなれません。
 私と付き合うならば、もっと、ありのままの姿になって、謙虚に、あらゆることを私から吸収しなさい。なんでも聞きたいことがあったら、率直に私に聞きなさい」
 一座は一瞬、しんと静まり返った。戸田の言葉は、彼女たちに一本の針として突き刺さった。的を射た厳愛の言葉であったといえよう。
 彼女たちは、思わず反省するかのように、生真面めな表情に返った。しばし、皿の料理を口に運ぶ人もない。
 戸田は、この、こわばった空気を破るように、また言った。
 「私に気に入られようなどと考えるのは、やめなさい。信心で、ぶつかってきなさい。それが、人間と人間との、本当の対話というものだ。質問一つだって、裏に功名心があれば、その対話は濁ってしまうんです。
 ……さあ、料理を、おいしく食べながら、普段から、このことだけは聞きたいと思っていることを、そのままの気持ちで、素直に言ってごらん」
13  「先生!」
 一隅から細い声があがった。
 見ると、メガネをかけ、やや青白い顔をしたメンバーであった。戸田を見つめる目には、思い詰めたものがうかがわれた。
 「先生、キリスト教では『愛』ということを基本にして説いていますが、仏法では『慈悲』といいます。私は、前にキリスト教をやったものですから、考え詰めると、愛と慈悲がごっちゃになって、どうも、すっきりとわからなくなります。『愛』と『慈悲』が、どこがどう違うのか、はっきり知りたいのです。お願いいたします」
 戸田は、軽く頷きながら言った。
 「これは面白い問題を提起してくれた。どこがどう違うか、誰か、はっきり説明してあげなさい」
 どこが、どう違うかと聞かれて、日ごろの饒舌家たちは考え込んでしまった。発言する人がいない。彼は、促すように、最高幹部の一人を指名した。
 長身の彼女は、イスから立ち上がって、瞬間、思い迷っているふうであったが、それでも、はきはきと答えた。
 「キリスト教で説く『愛』は、実行不可能なことを要求しているように思います。『汝の敵を愛せ』と言ったり、『右の頬を打たれたら左の頬を出せ』と言ったり……。私には、とてもできません。
 キリスト教の説く『愛』は、理想的というよりも、空想的だと思います。ですから、実行不可能なことを、美しい言葉で説いた実体のない愛だと思います……」
 こう言って、何か続けて言うように見えたが、彼女は、そのまま座ってしまった。
 「空想的な『愛』か。すると『慈悲』は現実的な『愛』か」
 戸田は、つぶやくように言って、なおも発言を促すように、一同を見渡した。
 「はい!」
 軽く手をあげて立ったのは、丸顔の元気な娘だった。おそろしく早口だった。
 「『愛』も『慈悲』も、同じことを言っていると思います。ただ違うところは、『愛』は『慈悲』に比べて、ずっと低いものだと思います。低いばかりでなく、深さと高さが全然違います……」
 こう言って娘は、さっさと座った。
 「その高さと、深さが、どう違うのか、それが問題なんだよ。落ち着いて、具体的に言ってごらん」
 娘は、また、さっと立ち上がった。
 「それがわかりません。ただ、そう直感するだけです」
 「直感派か。それもいいだろう」
 戸田は笑い出した。一同もつられて、どっと笑う。
 数人の発言が、この後も続いたが、話は、いたずらに抽象的に流れた。人類愛と宇宙愛とに分ける人もいた。愛情のエゴイズムについて論じながら、論点がわからなくなってしまう人もいる。彼女たちの論議が、意外に現実性を失っていることを知った戸田は、娘たちの素朴な心に訴えていった。
14  「これでは、質問者は満足しないだろうな。あなたたちも、少しは教学をやっているんだから、よく思索してみたらわかることです。『愛』といったって、『慈悲』といったって、みな一念三千のなかにあることだ。一念三千以上でも以下でもない。まさに一念三千で、これにすべての生命的なものは包括されている。したがって、これ以上、具体的な認識もないわけで、これがわかれば諸法は実相です」
 選ばれた女子部員たちは、この端的な提示にハッとしたものの、さて、それが「愛」と「慈悲」の解明にどう関係するのか、さっぱり見当がつかない。
 彼女らは、ただ困惑の表情を浮かべている。戸田に視線を凝らしながら、謎解きを待つような心持ちであった。
 「十界や十界互具の話は、今までにも飽きるほど聞いて知っているはずだ。一人の人間の色心は、十界を具している。これは、どうしょうもない事実です。
 『汝の敵を愛せ』というのは、一念三千の大聖人の仏法に照らせば、菩薩界の一分を説こうとしたものだとは、いえるだろう。
 しかし、そのような強靱な『愛』を、どのようにして自分の心に涌現させるのか、それは明かされていない。
 イエスの説いた『愛』は、菩薩界の一分といえるが、結局、九界の範疇です。それに対し、仏法で説く『慈悲』は、仏界の境涯から涌現するものです。
 仏法の『慈悲』は、抜苦与楽といって、苦しみを除き、喜びと楽しみを与えることです。宇宙の根本尊敬の当体である御本尊を拝んでいけば、自らの生命に仏界を涌現していくことができる。その仏界を根源として現れてくるのが『慈悲』なんです。日蓮大聖人は、『願くは我を損ずる国主等をば最初に之を導かん』と仰せになっている。″自分を迫害した権力者を、まず救っていこう″という、すごい御境涯です。まさしく、これが『慈悲』なんです。
 『愛』と『慈悲』とは、ちょっと似ているように思えるけど、厳しく十界に立て分けてみると、厳然たる相違があることが、はっきりわかるだろう。
 しかし、キリスト教が、今日、世界に広まるまでには、長い間、ずいぶん、ひどい迫害に遭ってきた。それはキリスト教の不惜身命の広宣流布だ。
 最高の仏法を弘めようとする、われわれにも難があるのは当然だろう。彼らも、あれだけの熱意で世界に弘めていった。私たちは、仏法という大哲理をいだく者として、強い確信に立ち、世界の広宣流布を使命として、やっていかなければならない。
 付け加えて言っておくが、不幸な人を助けようとする『愛』は、時には、自分の心、感情を制して、努力しなければできない。ところが、仏界となると、自然に、振る舞いそのものが、そのままで『慈悲』になってしまうんです。『愛』と『慈悲』の問題は、このくらいでいいだろう。どうだ、わかったかな」
 戸田は、問題を打ち切った。
 メガネの女子部員は、上気した顔をしながら、感謝を込めて言った。
 「ありがとうございました。よくわかりました」
 戸田は、さらに付け加えて言った。
 「後は、自分でよく思索することだね。思索していくうちに、あなたらしい発見があれば大したものだ。それが、あなたの身につき、立派になるんです。法華経を信ずる以上、女人といえども『諸善男子』だ。『男女はきらふべからず』です。誰とでも、堂々と議論できるようになりなさい。
 女子部に、いちばん大切なのは、教学です。みんなも教学を真剣に身につけなさい。女子部が育つには、それしかない」
 一瞬、彼は、厳しい表情になった。彼女らは、いちばん痛いところを突かれたのである。皆、首をすくめる思いであった。
15  戸田に、なんでも聞いておきなさい、と促されると、近くにいた温厚そうな一人の幹部が質問した。
 「先生、結婚の幸福というのは、どういうことをいうのでしょうか?」
 「それは、結婚してみれば、いちばん、よくわかることだ。結婚してみて、不幸か幸福かは、自分で、よくわかるものです」
 簡明な戸田の回答に、あちこちで、くすくす笑いだす人がいた。
 温厚な彼女は、それには耳を貸さないで、ひどく生真面目であった。
 「先生、私たちは、結婚しなければ幸福になれないものでしょうか。結婚して不幸になる人も大勢いますが、ともかく幸福になろうとして結婚するわけです。幸福な結婚というのは、どういう結婚をいうのでしょう?」
 戸田は、じっと、その娘の顔を見ていたが、いきなり思いついたように言いだした。
 「あなたは、今、恋愛しているね」
 彼女は、顔を真っ赤にしてうつむいた。
 「そうか、大事なところだ。女性にとって結婚は、重大な問題です。これをいいかげんに考えるようでは、女子部員の資格はないと言ってもよい。しかし、目がくらんではだめだよ。結婚で、いちばん大切なことは、なんだと思う?」
 「それは愛情です」
 一隅から元気な声が起きた。
 誰にも、いちばん身近な問題が提起されてみると、一座の華やかな空気は、いつしか緊張に変わっている。私語をする人もいない。食事はデザートに入っていたが、果物に手をつける人もいなかった。
 戸田一人が、ミカンをうまそうに口に運んでいる。
 「このミカンはおいしいよ。みんなも食べなさい」
 ミカンに手をつける人もいた。だが、口に運ぶ人はいない。皆、真剣な顔で、耳をそばだてている。
 「それは愛情に決まっているが、この愛情というのが、なかなか厄介なものだ。理屈ではなく、『好きだ』という一筋の感情を、どこまで貫くことができるかが問題なんだよ。たとえば、夫が不治の病で倒れたり、あるいは投獄されたとしよう。それでも一筋に愛しきっていく――そのような愛情を捧げて悔いない男性を見つけることが大切です。
 家庭をもったとき、どちらかといえば、女性は、愛情一筋に生きられるが、男は、どうしても名誉や、地位や、仕事を中心にする傾向がある。生活を担っているという目覚もあるし、そこに生きがいもあるし、いくら愛する人のためといっても、名誉は犠牲にできないものらしい。ここに、ある面での男女の相違があるといえるかもしれない」
16  「それでは、先生、不公平ではありませんか。女は、ずいぶん損ですね」
 茶目っ気の抜けない娘が、突然、口をはさんで、戸田に尋ねた。
 「損か、得かでは、男女のことは、解決つかないものがあるんです。私は、男だからよくわかっている。
 損だと言うなら、まず夫を愛しきって、幸せな家庭を築き、なお夫が名誉も地位も、もてるような人生を歩ませればいいではないか。それは、ただ愛情だけで、できることではありません。そのためにも、真剣に信心に励む以外にはない。御本尊を受持した人生は、それが、一切、実現できるのです。結婚生活の幸・不幸も、ここのところにあるんです」
 戸田が、こう言って、力を込めて話していた時、比較的年長の一人が、手をあげて言った。
 「先生、結婚は、どうしても、しなければならないのでしょうか。
 私は、今のまま、こうして少しでも広宣流布のお役に立っていくならば、それで幸福だと思います。一生を打ち込める目標がある以上、わざわざ煩わしい結婚などしたいとは思わないのですが……」
 「広宣流布のために、結婚したくないのか。これは弱ったな」
 戸田は、笑いそうになったが、さすがに、それをこらえていた。
 「ほかに、結婚したくないと考えている人?」
 五本の手が、おずおずとあがった。そして、そのなかの一人が、早口で言った。
 「私も結婚したくありません。清原かつさんみいに独身で通し、その代わり、何もかも広宣流布のために没頭する革命児の人生を送ります」
 「清原君が理想の女性か。これは驚いた。女子部に結婚拒否党ができていたとは知らなかった」
 戸田は、大声で笑いだした。
 「手本は、清原かつか。あの女性は、千人に一人という、なかなか出ない女性だ。彼女は特別だね。お手本にはならないよ」
 「でも、先生、恋愛したり、結婚したりして、退転していく人が、ずいぶんあります。まあまあ退転しないまでも、結婚して婦人部にいったら、女子部の時とは、がらっと変わって、主人だ、子どもだといって、動きが鈍くなって信心の落ちた人もいます。私も、もし結婚などしたら、とても今のように、一生懸命に信心はできないと思うんですが……」
 彼女たちは、結婚について、信心の問題との関係から、非常に不安になっているのだった。そして、結婚拒否まで考えるということは、さらに、その不安の度を増しているのだということが、これで判明したといってよい。
17  戸田は、それを知ると、笑いを含みながら言わざるを得なかった。
 「みんなの話を聞いていると、広宣流布が、まるで女性を独身主義者にしてしまうようなことになっている。仏法は、最高唯一の道理を説いているものです。独身主義者になるために信心するのではありません。最も自然に、強く生きるための信心ではないか。最高の生命力を輝かせて、人生の幸福を満喫するために信心に励むんです。
 結婚するのは、自然ではないかと私は思う。ただ、年が幾つになったから結婚しなければならないなどと考え、いいかげんなつもりで、してはならんと、私は言っているだけだ。
 今夜は、女性革命児の卵がたくさんいるわけだが、これまでの歴史上の革命的女性を見てごらん。
 結婚し、立派な妻であったり、母であったりしている人は、たくさんいます。まして、最高の真理を説いた仏法を信奉する女性が、みんな結婚拒否者になっては、私は、やりきれない。
 さっき話に出た、結婚して婦人部にいって、不活発になったという女子部員のことも、もっと親切に見てあげなければいけない。学会の庭で育った人たちではないか。安心しなさい。もっと長い目で見てあげることです。
 私の翼の下で育った人だもの、最後には必ず、それぞれ、ふさわしい花を咲かせることは、絶対に間違いない。それが、この御本尊を信奉することのすごさです」
 慈愛を込めた確信の言葉であった。若い娘たちの心の琴線に触れたにちがいない。共鳴音は、それぞれの生命の奥深く響いたことであろう。
 彼女たちは、各自が描いた、頑なな革命的女性像の訂正を、知らず知らず迫られている思いがした。
18  「このなかには、恋愛をしている人もいるだろうが、恋愛の楽しみは天界です。だから低い。心中なんかするのは天界の地獄界だ。決して、あの世で一緒になれるなどというものではない。生命は永遠であり、厳しいものです。未来に苦しみが続いていくんです。
 もし、恋愛したら、お互いの人格が向上するようでなければならない。男の後を追いかけるような、浅はかな恋愛をしてはいけません。″私の後についていらっしゃい″というぐらいの気概をもって、初めて真の近代女性だ。ともあれ、その前に、信・行・学に励んで、自分の生命に盤石な福運をつけることです。そうすれば、立派な相手も見つかるし、みんなからも祝福されるような結婚もできる。根本は自身の福運の問題で決まるものだ。
 若い時の恋愛は、男を見る目がないから危ない。十人のなかでいちばんよいと思っても、二十人、三十人のなかに入ってみると、もっとよい人がいる。百人のなかではどうかというと、その人が一位になるとは限らない。また別の立派な人を見ると、その人がよくなる。
 だから、あまり若い時に、一時の感情に流されるような、浅ましい恋愛をするのは、私には賛成できません。恋は、一生に一度、命がけですればよいのだ。情熱は、牛のよだれのように、だらだらと流すものではありません。
 男は裸にしてみなければ、その偉大さはわからない。肩書や、財産や、学歴などで評価するのは恐ろしいことです。立派な洋服を着て、立派な肩書をもっていても、人間として立派な男性が、いったい何人いることか。
 地位、財産、学歴、また、個人的な恋愛感情などを、全部取り去って考えてみればわかります。一切の虚飾を男性から取ってみなければ、真価はわからない。すべてをかなぐり捨てた、その男性のなかに何があるかを見極めていくんです。
 若いうちは、恋愛に目がくらんで、これができない。こういう時は、誰か尊敬できる先輩に、よく相談することです。あなた方のためを、本当に思っている親の意見も尊重するんです」
 戸田は、冷めてしまったコーヒーをすすり、ながら続けた。
19  「今夜は、恋愛論の長講一席になってしまったが、いったいなんの話から始まったのかな。……そうだ、そうだ、結婚の幸福という問題だった。
 あなた方の年ごろでは、ただ好きな人と一緒になれたら、さぞかし幸福だろうと思っているだろうが、人生は長い。思いがけない辛い苦労もしなければならない。夫と仲よくいられても、たとえば、子どもの病気で苦しむことだって、ないとは言えない。また、長い人生で、愛情一筋に生きるということは、大変なことなんだよ」
 戸田は、わが娘ともいうべき、女子部員の大切な生涯に、決して過ちのないことを願いつつ、さらに語り続けた。
 「幸福を感じるよりも、不幸を感じることが多いのが、人生の実情といえるかもしれない。結婚の幸福は、なんだかんだ言っても、要するに、長い人生を、どう送るかという問題になる。幸福は、自分の信心でつくるものだとするならば、結婚も、この一点に帰着すると、私は思う。
 そうだとするならば、長い人生を、何があっても、一人の男性と共に、同じ偉大な目的をもって、共々に歩むことができるところに、結婚の真の幸福があると、私は思っている。
 このことが、できるかどうか、相手の男性をよく見極めて、自分の心にも問うてみて決定しなさい」
 戸田は、やっと結論を出した。その眼差しは、わが娘に対するように温かであった。彼は、コップの水を一息に飲んだ。
 この夜の質問は、さらに活発に進んで、定刻を、はるかに過ぎてしまった。
20  「今夜は、もうこれぐらいでいいだろう。この次からは、何か世界的な名作や歴史小説などを読んで、それを教材にしてやっていこうじゃ、ないか。何がいい?」
 戸田は、全員に希望する本について発言させた。
 『二都物語』から『三国志』『坊っちゃん』『小公子』『隊長ブーリバ』『人形の家』『若草物語』といった書名があがった。
 「では、みんなの読みたいものを順々に読んでいこう。初めに、ディケンズの『二都物語』から始めたらどうだろう。これはフランス革命を扱ったものだから、いろいろな問題提起には、きっと都合がよい。今度の華陽会までに、全員、読んで来なさい。
 読まないで来るようでは、華陽会会員は失格です。いいね!」
 二十人の華陽会会員は、喜々として家路に就いた。
 以後、華陽会の会合は、新しいメンバーが加えられ、一九五六年(昭和三十一年)五月まで続くのである。月二回ではあるが、さまざまな指導を、直接、戸田から受けることに、彼女らは感動を覚えたにちがいない。
 戸田は、集合時間、出欠に関しては、実に厳しかった。だが、娘たちは、選ばれた華陽会会員である誇りをもち、広宣流布を担おうとの自覚に輝いていた。彼女たちは、多くの女子部員の憧れの的となったのである。
 華陽会のメンバーは、次々と小説を読破していった。そして、作品の思想、時代背景、登場人物の性格などを、さまざまな視点から自在に論じ合った。
21  その語らいのなかで、戸田から、性格上の欠点を厳しく指摘された人もいた。時には、身の上相談にまで及んだこともあった。話は、作品から離れ、活達自在に飛び、料理や化粧、礼儀作法、服装のことまで、戸田は、懇切に教えたのである。
 「糠ミソの、おいしい作り方を教えてあげょうか。糠は煎って、塩水を煮立てて冷ましたのを入れ、よくかき混ぜるのだ。鮭の頭などを入れると、うまいよ。私は、それが好きなんだが、家の者は嫌いで困っている。
 桜湯というのを知っているか。あれは八重桜の花の開きそうなのを取ってきて、洗って塩漬けにしておくんだよ」
 こんなことを語る時の戸田は、実に和やかで、愛情がにじみ出ていた。
 「女性は、美しくなければならない。化粧ひとつだって普段の心がけです。いくら寒くとも、お湯で顔を洗つてはいけません。皺が増えるからだ。水か、ぬるま湯で洗うことにしなさい。若い時は、けばけばしいお化粧はしない方がよい。どんなに疲れていても、お化粧は、その日のうちに落としなさい。夜寝る時は、必ず化粧を落として、お化粧水で肌を引き締めておかなくては駄目になってしまう」
22  また、戸田は、時には広宣流布の壮大な構想について、情熱を込めて語るのであった。
 「今、この時間に、いったい世界のどこに、民衆のために憂え、二十一世紀から末法万年尽未来際の世界を論じている女性がいるだろうか。それは、私と今ここにいるあなたたちだけでしょう。この事実を、おろそかに考えてはいけない。あなたたちは、久遠の約束のもとに、選ばれて、ここにいるのだ。
 今、こうして、この部屋で、私の翼の下で話しているということは、どんなにすごいことなのか、誰も、なんとも思わないが、あと十年もたてば、必ず生活のうえでわかるだろう。その時、今、私と話しているということが、どれほど、すごさをもっているかが、きっとわかります。
 華陽会の偉大さは、その時に明らかになるだろう。華陽会で、こうして訓練を受けていることは、現代の最高の女性の実力をつけているんです。まぁ、将来を、よく見なさい。
 しかし、最後には、このなかで、五、六人しか残らないことになるかもしれない。まあ、半分も残れば、ありがたいことだな……」
 戸田の指導は、的確であった。彼は、この時、既に未来の婦人部をつくっていたといってよい。
 それだけに戸田は、華陽会に並々ならぬ精魂を打ち込んでいた。彼は、会合がだらけていると見た時は、厳しく叱時するのが常であった。
 「私の言うことを信じられない人は、今すぐ、この部屋から出て行きなさい。なにも、私から願って、ついてきてもらう必要などはない。私を信じて、いかなることがあろうと、共に戦い進んでくれる人の集まりが、真の創価学会であり、そこに学会の強さもある。この部屋に入ったら、私の、この意気に感じてもらいたいものだ」
 彼は、翼の下に、彼女たちを強く抱きしめて育てたのである。
23  戸田城聖は、月ごとに激増する入会者の数を考える時、それに備えて人材養成を第一としたが、それとともに、入信の儀式などを行うために、寺院の建立を考えていかねばならなかった。
 全国的な規模での激増である。全国各地に寺院を建立する必要があったが、それは、費用の面から考えでも、とうてい不可能であった。また、建立後の経済的な支援も考えなければならなかった。
 彼の胸中には、全国にわたる大規模な寺院建立の構想が熟してきたが、まず、そのテストケースとして、地方に新寺院の建立を手がけ始めたのである。既に、横浜の鶴見に、民家の一角を借りて白蓮院支院として、出張寺院を設けたものの、それは彼の意を満たすものではなかった。
 彼は、神奈川県・相模原町に一民家を購入し、それを寺院に改造し、総本山に寄進することに着手した。創価学会として、正式に建立寄進した寺院の第一号である。
 新寺院は正継寺と名づけられ、一九五三年(昭和二十八年)五月三十一日午後一時、落慶入仏式が挙行された。庶民の街のなかの小さな寺院にすぎなかったが、ともかくも寺院として必要な条件は、すベて備えていた。参加した人は、付近の会員たち約百人である。
 総本山からは、法主の日昇をはじめとする首脳部が出席し、学会からは、戸田会長以下、小西筆頭理事をはじめとする関係幹部が、ぎっしりと本堂に詰めかけていた。
24  日昇は、読経のあとに長い慶讃文を読み上げた。
 「……惟うに創価学会の折伏布教の効は日一日と現れ、国内に結縁の人士の住せざる地はまれなり。殊に当地相模原町は、文京支部橋本地区として信徒の集団あり、その数二百八十戸に及ぶ。されど本宗の寺院なく、入信を志しても遠く上京して受戒したのである。この不便を排して、今日まで退転はおろか、日々に信徒の増加せるは、その篤信の程、称賛すべきである。
 偶々たまたま信徒一同の懇願により、戸田創価学会会長願主となりて新寺建立を申出たのであった。
 日昇、布教会に命じて援助せしめ、竣立の一日も早き事を欲した。今や幸に工成りて、我もまたこの盛儀に列することは、無上の喜びとする所である」
 朗々たる声に、人びとは寺院建立の喜びを分かち合っていた。狭い屋内は人で埋まり、屋外にたたずむ学会員も少なくない。
 「……希くは宗祖大聖尊大慈大悲を垂れ、正継寺を興隆して以て広宣流布の願海への親近処となし給はんことを」
 日昇の慶讃文が終わると、経過報告に続いて、来賓の祝辞があった。そのあとで、戸田城聖は、喜色をたたえて、あいさつに立った。
 「この寺は、小さいものだけれども、とにかくできました。次に、成増、高崎などの寺院建立が待っております。まったく本部をつくる暇はない。これまでの日蓮正宗の寺は、すべて信者の熱意で、できたものと私は信じます。そして今、また、その一つの形ができたことを、非常に嬉しく思うのであります。
 この橋本の方々は、今日の住き日を、しみじみと心にとどめ、絶対に広宣流布の戦いに恥を残すようなことがあってはなりません。私は、今日、このことを命じておきます。どうか、立派な折伏の道場、立派な折伏の法城として邁進するように努力すべきであると、ここに明言して、私のあいさつといたします」
 戸田は、新寺院第一号の運営に遺漏なきことを期待したのである。
25  このころ、学会の行事は錯綜していた。戸田は、それらを、連日、沈着に推進していかなければならなかった。
 六月十日には、第二回の地区部長会を開いている。地区部長の成長いかんが、学会全体の飛翔のカギであった。彼は、地区部長との接触の機会を特に重視して、その育成を急務と考えていたのだ。
 席上、彼は、心を開いて、地区部長たちに言つた。
 「ここにおられる地区部長諸君は、学会の大事な方たちであります。私は、心やすく話し合いたいと、常々、思っています。
 現在の支部長諸君とは、既に生死を共にする間柄となっていますが、地区部長となると、まだまだ接触が薄い。これは残念なことだ。皆さんは、やがては支部長級になる方たちと、私は思っているんです。
 しかしながら、仏法は厳しいがゆえに、学会の組織も厳しい。そのまま支部長になるわけではない。広宣流布に大いに献身し、信心を深めねばならぬ。他の団体の組織は利害であり、ここに信心という純粋性をもつ学会との違いがあるんです。
 これに堪えられぬ地区部長には、去ってもらうより仕方がなくなる。どうか一生成仏という自覚に立って、偉大な広宣流布という使命に生き抜いていただきたい。
 そして、地区の人びとを慈しみ、その人たちを生かしていくのが、地区部長の第一の役目です。私の願うところは、諸君が十分な闘争をして、学会と不離の間柄に、一日も早くなっていただきたいということです」
 地区部長たちは、戸田の切々たる訴えに緊張した。
 また、このころ、新しい会合として「教育者懇親会」が、六月二十三日に発足した。
 西神田の学会本部に、定刻の午後六時には、五十人ほどの現職教育者が参集したのである。幼稚園から大学までの、現職の教育者たちであった。
 戸田が、このような会合を企画したのは、ひとえに恩師・牧口常三郎の創価教育学説や、教育指導原理が埋もれてしまうことを憂えたからである。
 この年の秋には、牧口の十回忌を迎えることになっていた。かつて牧口はつくった「教育者クラブ」は消滅したままになっている。戸田は、怒濤の折伏の指揮を執って忙しかったが、そのなかでなお、恩師・牧口のことは、一日も忘れることができなかった。牧口の学説の継承者をつくりつつ、牧口の学説を、やがて世に問う時のことを考えていたにちがいない。
 「牧口先生逝いて十回忌を今年は迎えるが、これを記念して、先生の『価値論』を発刊し、全国の大学に贈りたいと思います。反響のいかんにかかわらず、三十年、五十年の後には、必ず驚異の目を見張る人が出ることでありましょう。
 『価値論』を出すべき時が来たと考えるのです。教育学説も、社会学説も、根本は価値論であります。皆さんの手によって、先生の学説を船出まで残していただきたいのであります。
 ただの一人でもよい。一人から万人に伝わるのを待つのみであります。私が、このまま死ねば、伝えようがなくなる。私が、教育界を去って二十数年になるが、私の知っている限りのことを、皆さんと共に研究したい。この価値論は、必ず世界的に広まるものと確信しているからであります」
 牧口常三郎の『価値論』は、この年の秋に出版され、日本のみならず、世界の各大学、研究所に贈られている。
26  戸田の翼はふくらんだ。地区部長会といい、教育者懇親会といい、彼は、自らの翼の下に包んで、孵化作業の忍耐の戦いを続けていた。
 卵は、いつか雛となろう。その雛を、さらに鳳にまで育て上げることが、彼の念願とする広宣流布の必須条件であった。
 また、このころ、戸田城聖は、各地の支部の総会などに追われていた。
 五月十六日は文京支部幹部会、五月十七日は足立支部第二回総会、五月二十四日には仙台支部第三回総会、六月十四日は大阪支部第一回総会、六月二十一日は蒲田支部第三回総会というように、連日の行事の隙を縫って、彼は、これらの会合に出席したのである。そして、数多くの支部員たちに親しく語りかけた。
 文京支部幹部会の席上、婦人部代表として、同支部の婦人部長・松井トキ子の述べた所信は、いたく戸田城聖を感動せしめた。婦人部の使命の自覚とともに、婦人部の最大の弱点を深く反省したところから、切々と発した言説であったからである。
 「今まで婦人部は、怨嫉の製造元のように言われてまいりました。今日、この機会に、創価学会の婦人からは、この言葉は返上いたそうではありませんか。百獣の玉、獅子も身中の虫には倒れるとか、私たち婦人も外敵には非常に強く断固たるものがありますが、内面的な魔、特に自分の命より出る魔にたぶらかされて、自分はもちろん、他にまで及ぼして不幸な生活に堕ちた例が数多くあります」
 戸田は、この所信に、次のような序をつけて、「婦人訓」として学会の全婦人に与えている。
 「予創価学会会長に就任以来、婦人の活動に期待するところ重かつ大なり。事の成否は、婦人の内助の功による事は明らかなる事実なり。予永らく婦人のおもむく道について苦慮しつつあり。時あたかも文京支部婦人部長・松井トキ子、婦人の確信として予に答うる所、予が永らく願望せる婦人の精神と一致せり。よって文京支部婦人部長・松井トキ子の所信を婦人訓となし、予が精神のある所を一般に理解せしめんと欲す。宜しく予の意のある所を諒せよ」
 婦人部の一員からの声は、戸田の胸中を射貫いて、全婦人部の信心の規範となった。まさに、下からの声である。そして、この「婦人訓」は、創価学会における悲母の立場を明確にしたものであった。
27  五月十七日の足立支部の総会は、東京・北区にある王子百貨店のホールで行われた。一年前の五月に、六百八世帯であった支部は、ここ一年間に、三千世帯を超えるまでに飛躍していた。
 五月二十四日に、第三回仙台支部総会が、仙台市レジャーセンターで開催された。中核となる人たちが、真剣に力を合わせている時は飛躍が早い。地方支部随一の発展の足跡が、歴然とした総会であった。
 戸田は、講演のなかで、妙法の真髄を語り、暴走を戒めて言った。
 「私は、皆に、『信心しているか』とは、聞きません。折伏は、当たり前のことです。私が聞きたいことは、商売はどうか、金は儲かったか、体は丈夫かということであります。皆が功徳を受けてこそ、本当に私は嬉しい。
 『信心しています』『折伏しています』といっても、いつまでも貧乏しているようでは、私の弟子ではない。商売がよくなり、一家がよくなるための信心です。
 信心、信心といって、商売に励まぬ人は謗法です。商売は社会への奉仕であり、信心の証拠の場です。″宮仕えは法華経なり″と言われている通りであります。商売に励みもしないで、学会に迷惑をかけるような姿で、ただ折伏、折伏といって歩き回るような者は除名にします」
 厳しい指摘であった。
 そして戸田は、真の供養というものは、仕事、生活に忙しいなかで、貧しいなかで、身をもって折伏し、供養するところにあり、そこに真の功徳が現れることを強調して、軽率な行動への反省を促したのである。
28  六月十四日は、大阪支部の初の総会であった。支部員は、喜々として天王寺区・夕陽丘の会場に集結した。大阪支部は、支部発足以来、一年有余で七地区千四百世帯に発展していた。仙台支部を目標にして挑戦し、大阪という広大な戦野を駆け巡っての結果であった。
 この日、第五部隊旗が、浅田克美に授与された。盛りだくさんの総会式次第は、二十六項目にわたり、多数の登壇者が、元気はつらつと発言した。
 大阪支部は、戸田が、特に力を入れて結成された支部である。
 戸田は、全国的な妙法流布の構想を早くから考えていたが、関西の布石として、商都・大阪への進出の機会を久しくうかがっていた。一九五二年(昭和二十七年)一月十五日、春木征一郎の単身赴任の機会をとらえ、戸田は、彼を大阪支部長心得に任命したのである。
 たった一人の春木の前途に、苦闘が待っていたことは言うまでもない。長身の彼は、黙々として、人口密度の高い広漠たる戦野に、果敢に挑戦していったのである。
 戸田は、この年の八月には、大阪を訪れ、教学の講義と指導会を行った。春木征一郎も、東京と大阪との間を、数えきれぬほど往復し、戸田の指導を一つ一つ受けつつ、的確な運営に心を砕きながら、新天地で活躍した。
 入り組んだ家並みの一角での座談会も多かった。参加者の便宜を思って、座談会場の家の前に、大きな提灯を下げるようになっていった。それも、大阪らしい工夫であった。
 月ごとに、この提灯は増えていった。班長になることは、この提灯を持つことであった。提灯には「創価学会座談会会場」などと誇らかに書かれていた。
 このようにして、春木征一郎の赴任から満一年の二月一日を迎えた時、戸田は、大関西の広宣流布を聞く旗印となる大阪支部旗を、春木に授与している。
 戸田は、春木を最も信頼していた。それから四カ月、大阪では、月々、二百世帯を超える入会者を見るようになったのである。
 この日の支部総会では、初めて戸田城聖を見る人びとが大多数であった。戸田は、これらの人びとを心から激励したのである。
 「入会して、三カ月や半年では駄目です。三年もすれば、すごい功徳を感じるようになります。それまでは忍耐強い信仰であってもらいたい。大阪も、今日のような総会が、二回、三回と重なった時、本当の仏法の力がわかつてくるでありましょう」
 彼は、続けて、利益と罰について語った。
 「この利益と罰というのは、創価学会が決めたのでもなく、まして会長が決めたのでもありません。御本尊にあるのです。御本尊の向かって右には『若し悩乱せん者は頭七分に破れん』、左には『供養すること有らん者は福十号に過ぐ』とあるように、日蓮大聖人が決定されているのであります。
 大阪の皆さんは、まだ、ほとんどが金に困っている。学会員として、これではなりません。本当の功徳が欲しかったら、本当の信心をすることです。そのためには、夜、眠る時間を割き、身をもって折伏を行じ、仏に供養しなさい。しかし、商売をほったらかして折伏するようでは謗法になります。この点を、はき違えぬようにしていただきたい。
 いろいろ話したいことが山ほどあるが、今日は、罰と利益が、御本尊の右と左に書かれていることについてお話ししておきます。私は、皆さんに幸福になってほしい。三年後を楽しみにしています。それでは、一切が自身のためと思って頑張ってください」
 戸田の慈愛は、初信者たちの胸を揺さぶったにちがいない。
29  一週間後の六月二十一日には、蒲田支部第三回総会が、東京・品川区の星薬科大学の講堂で開かれた。この大支部の総会では、参加者が、講堂の一階、二階、三階をとこごとく埋めている。あふれる熱気のなかで、支部員たちは、最後の戸田の話に耳を澄ましていた。
 「大御本尊の威力は絶対です。『そんな立派なものなら、なぜ、今まで広まらなかったか』と、よく言われるが、これは大問題です。それを今日は、はっきりさせたいと思う。
 太陽は、いつも変わることなく熱いのです。しかし、朝早く、洗濯物を干してもなかなか乾かない。
 ところが、太陽が真上に来た時は、たちまち乾きます。日蓮大聖人が御本尊を建立されて七百年。今、不幸に沈む人びとの上に、大御本尊という太陽が輝き渡っているのであります。まさに、時が来ているんです。とにかくすごい功徳です。今、信心をしない人は、まったく大きな損をすることになります。
 その、末法の仏法流布をしているのだ。いかなる諸天善神も仏菩薩も、この労をねぎらい、礼を言うにちがいありません。あなた方の地位は絶対なものがある。功徳は絶対にある。しかし、信力、行力がなければ、御本尊から仏力、法力は与えられません。先ほどの体験にあるような功徳は、功徳のうちには入りません。私の受けた功徳を、この講堂いっぱいとすれば、ほんの指一本ぐらいにしか当たりません。
 私の最も怖いもの、また最も懐かしいものは、御本尊様だけです。私は、やるべきことはやっていきます。それは、貧之人と、病人と、悩み苦しんでいる人びとを救うことです。そのために、声を大にして叫ぶのです。そのために、いくら批判されようが、そんなことは、低い低い次元のことです」
 総会が閉会になると、別室で懇親会が開かれた。
 元気はつらつと、喜びの歌や、決意の舞が次々に飛び出した。それは、この支部の躍進と団結の強さを、遺憾なく示すものであった。まさに、希望の世界に向かい、戦い進む友どちの出発である。
30  六月二十八日、教学部の任用試験が行われた。これは第二期教学部員候補生に対する筆記試験である。受験者九十一人のうち、合格者は四十一人で、さらに第二次の口頭試問と講義実習が、七月十二日に行われた。そして、最終の合格者は、二十一人となっている。なかなかの厳選である。
 合格者のなかから、二人の助教授、一人の講師が抜擢された。
 学会の世帯数の増加にともない、教学部の陣容も着々と整えられてはいたが、その比率は、とうてい世帯数の増加に追いつけなかった。教学は、速成できなかったからである。
 このような前進する機運に乗って、六月三十日、東京・神田の教育会館で本部幹部会が開催された。
 六月度の入会世帯は、三千九百三十一千と、四千世帯に近づいている。
 一月から六月までの、上半期の入会世帯を合計してみると、二万八百九十一世帯という数字である。わずか半年のこの期間に、学会世帯数は、まさに倍増していたのである。
 一九五三年(昭和二十八年)度の目標五万世帯は、これで下半期に三万世帯を残すこことなった。月々の増加率を考えるならば、この目標は堅実に達成されるにちがいないと幹部たちは安堵した。そして、戸田城聖の目標設定の確かさに、彼らは、あらためて驚かざるを得なかったのである。
 その幹部たちの偉大さは、「師と決めた戸田先生の一言を、絶対に虚妄にするな!」と、自らに言い聞かせながら、勇敢に戦ったことにあるといってよい。そこに躍進と勝利があった。希望が湧いた。
 純粋で一途な彼らの戦いは、輝く未聞の成果を示していったのである。
 戸田は、この宗教革命運動は、彼一人の力によってできるものではなく、多くの弟子が、彼と同じ決意で、共に戦わねばならぬことを知っていた。そのため、彼は、幹部会の席上、幹部としての立場がいかにあるべきかを説いた。
 「組長、班長、地区部長、支部長諸君の『長』ということについて、私には意見があるんです。
 仏法に『人法一箇』ということがあるが、広く社会に当てはめても、人法がそろわなければ大問題です。つまり、『長』にも『人法一箇』がある。長たるものは資格が必要である。長という立場は、『法』であり、同時に、それに見合った力がなければならない。この力が、『人』です。
 地区部長、支部長だからといって、赤の他人の学会員が、自分の思うように働くわけがない。ここに、『長』としての悩みがあると思います。
 『長』だからといって、絶対に威張ってはいけない。仏の慈悲を胸に秘め、自分の子を愛するごとく、情熱を込めて指導しなさい。ただ、『長』と名がついているだけで、人に尊敬される資格はない。
 もし、尊敬されるとしたら、それは御本尊の功徳であり、もったいないことであります。
 自分の姿をよく見つめ、『長』の立場にある人は、喜んで、真剣に仏道修行に励みなさい。必ず、それだけの功徳がある。
 私が、会長として、こうして皆さんと共に立つのは、一切の人を幸福にしたいためであり、これが私の唯一の願いなのであります」
 彼は、組織の拡大にともない、それが官僚化することを早くも警戒して、妙法の組織は、信心を根幹にした「人」の成長がなければ、崩壊してしまうことを教えたのである。
31  当時、国内は、一九五二年(昭和二十七年)四月二十八日の講和条約の発効から一年を経過していた。独立国とはなったものの、米軍基地は、全国に散在していた。五三年(同二十八年)六月二十五日には、東京で軍事基地反対の大会が開催され、その他の地でも、激しい基地反対闘争が起こっていた。
 玄界灘を越えた韓・朝鮮半島では、南北の対立で戦闘が繰り返されていたが、四月二十六日には休戦会談が再開され、六月八日になって捕虜交換協定が調印されている。そして、七月二十七日に至って、初めて朝鮮休戦協定の調印をみた。
 朝鮮戦争(韓国戦争)の勃発したのは、五〇年(同二十五年)六月二十五日である。それから一年後の五一年(同二十六年)七月十日から休戦会談が始まったものの、その後も戦闘はやまず、さらに二年を経過して、やっと休戦協定締結となったのである。
 朝鮮戦争は、約三年の長きにわたり、狭い半島で近代戦の殺戮が続いたわけである。しかも、それは、南北統一の悲願を無視した国際戦争であった。朝鮮戦争は、二重の意味において、半島の民衆を苦しめていたのである。
 戸田城聖は、これらの国内、国外の情勢を思うたびに、広宣流布の急務を痛感していた。しかし、彼は、確固たる民衆救済の軌道を、一喜一憂することなく、世間の気づかぬ深い淵底で着実に切り開いていたのだ。そして、精いっぱい広げた翼の下で、多くの弟子たちの育成に余念がなかった。

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