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日蓮大聖人・池田大作

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原点  

小説「人間革命」7-8巻 (池田大作全集第147巻)

前後
2  しかし、ここで注意しなくてはならないことは、この折の釈尊の法華経二十八品の熟読は、あくまでも、彼にとって助縁にすぎなかったということである。確かに、重大な助縁ではあった。だが、彼が、そこで悟達したところのものは、まさに、「南無妙法蓮華経」の極理そのものであった。ゆえに彼は、日蓮大聖人の「御義口伝」に肉薄し、やすやすと、その難解な法門に踏み入ることができた、と私は信じる。
 これは、彼の苦渋に満ちた前半生の総決算ともいうべき不動の開眼であった。その生々とした、はつらつたる眼には、後半生の自覚と使命が、くっきりと鋭く映った。彼の、「われ地涌の菩薩なり」との自覚は大歓喜を生み、全く斬新な進路と展望をもたらしたのである。
 それは、人類未聞の広宣流布ということである。しかも、彼の体得したものは、現代の救世の最高原理となって現れたといえるのだ。
 出獄後の第一歩は、獄中の辛酸のなかで得た彼の地涌の自覚を、なんとかして人びとに分かち与える努力から始まった。創価学会再建の活動が、わずか四人を相手としての法華経講義から始まったのも、偶然ではないと、私は思っている。
 戸田城聖は、その伝えがたい秘奥を、人びとに分かち与えるためには、どうしても法華経を媒体としなければ不可能であると考えていたのである。
 この迫真の法華経講義は、第一期、第二期と繰り返されて、やがて彼の事業上の挫折から、一時、中断のやむなきにいたったことは、既に書いた通りである。
 彼は、法華経を媒体として、彼の悟達の原点を伝えようとした。しかし、未熟な受講者の理解を促そうとするあまり、天台宗学の解釈を借り、いつか、その臭味を帯びていった。そのため、わずかながらも、日蓮仏法への誤解を生じさせる結果になってしまったのである。そして、彼の事業も、破綻の苦しみを味わわねばならなかったのである。
 しかし、この破綻をバネとして、彼の法華経講義は、さらに透徹していった。そして、受講者に語る内容も、一段と平明純粋となり、光彩と確信に満ち満ちたものになったことは、一九五一年(昭和二十六年)の、会長就任後の彼の講義が示している。
 彼は、常に原点に戻って、熱烈渾身の新たな決意で臨んだ。法華経二十八品の講義は廃したが、一級講義として、法華経の「方便品第二」と「如来寿量品第十六」に限って講義した。
 しかも、新入会者を対象として、最初から彼の原点を惜しみ、なく与えようとしたのである。一見、経典の講義は難解であり、初信者には無謀とさえ思われるが、彼は、あえて、これを行ったのである。
 彼は、獄中で体得した原点を、つまり南無妙法蓮華経を根本にして法華経を身で読んだ原点を、一瞬も忘れることはできなかった。
 彼の独創性は、この原点の独創性にあったといってよい。それがまた、そのまま救世の原理となっていたのである。
 現代においてこのような確固たる救世の原理を、己が生涯の原点とした者は、まことにまれである。戸田城聖という一人物の存在が、今日にあって千鈎の重みをもっていることの秘密は、ここにあるといえよう。
 彼の一級講義は、会長就任後、毎週一回、西神田の学会本部で行われていた。やがて、受講者の激増から、二階の八畳と続きの二間の会場は、たちまち狭くなってしまった。
 階段にまで、はみ出すようになると、西神田の本部から程近い教育会館に移った。しかし、そこも間もなく受講者であふれ、五三年(同二十八年)秋には、千数百人を収容できる池袋の豊島公会堂に移して講義が行われることになるのである。
3  戸田城聖は、講義会場に入り、演壇のイスに座ると、軽い咳払いをした。卓上にはマイクと水差しが置かれであったが、ノートや本らしいものは、何一つなかった。秀でた額にライトが当たり、血色のよい彼の顔は、多くの聴衆に微笑んでいるようであった。
 彼は、いかにも楽しそうに、伝えがたいものを伝える喜びに浸っているように見えた。そして、いきなり、この日蓮仏法の要諦から説き始めたのである。
 「日蓮大聖人の仏法と、釈尊の仏法との相違は、厳然たるものであります」
 仏法といえば、釈尊が説いたものとしか考えていなかった新入会者に対して、彼は熱烈に、末法の仏法の存在を明らかにしたのである。
 現代の知識人が陥る最大の弱点は、仏法を求めたとしても、釈尊の仏法の範疇を出ないことである。釈尊の仏法は、末法の衆生の救済には全く無力である。
 ところが、彼らは、それを知らず、日蓮大聖人の仏法の、真正厳然たる存在すら疑っているのである。戸田は、まず、それを破折したのだ。
 「その要は、どこに示されているかと申しますれば、『御義口伝』が、いちばん明らかであり、肝要であると思います。
 御書の七百五十二ページを開いてください」
 御書を持っている人は、まだ少ない。たとえ持っていても、指定されたページを開けるのに手間取っていた。
 戸田は、それを見ていた。
 「御書も高いから、なかなか買えないであろうと思いますけれども、買ってしまえば一生涯のものです。これは法律の本と違いまして、内容は変わりませんから、たとえ貧之しても、一冊くらい買う決心で求めておきなさい。教学をやろうという人が、御書も持たないなんて、ずいぶん厚かましすぎるでしような。武士が刀を持っていないのと同じだね!」
 会場に、どっと大きな笑い声が広がった。和気あいあいの風が、さっと流れた。
 演壇の傍らに立っている泉田ためが、よく通る声で御書を読んでいった。戸田は、じっと耳を傾けているだけである。
 「 第一 南無妙法蓮華経如来寿量品第十六の
 文句の九に云く如来とは十方三世の諸仏・二仏・三仏・本仏・迹仏の通号なり別しては本地三仏の別号なり、寿量とは詮量なり、十方三世・二仏・三仏の諸仏の功徳を詮量す故に寿量品と云うと
 御義口伝に云く此の品の題目は日蓮が身に当る大事なり神力品の付属是なり、如来とは釈尊・惣じては十方三世の諸仏なり別しては本地無作の三身なり、今日蓮等の類いの意は惣じては如来とは一切衆生なり別しては日蓮の弟子檀那なり、されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり、寿量品の事の三大事とは是なり……」
 聴講者は、キツネにつままれたような顔をして困惑していた。いきなり日蓮大聖人の極説中の極説を耳にして、何がなんだか、わからなかったのである。
 戸田は、それを察したかのように、平然として言った
 「これは、実に不思議なのです」
 わからないのが当然だといった口調である。聴講者の困惑は消えた。そして、戸田に、じっと視線を注ぎ、耳を研ぎ澄ました。
4  「『御義口伝』といいまして、大聖人様の口伝書なんです。今まで、法華経の講義は山ほどあります。本多日生氏にしても、織田得能氏にしても、小林一郎氏にしても、法華経の講義はしている。しかし、全部、大聖人様の奥義が明かされた『御義口伝』を知らない講義だから、だめです。この私が、ひどい目にあった体験をもっている。彼らの講義は、みんな天台流なのです。あんなものに感心してしまうと、身は大聖人の門下でありながら、心は天台の弟子になる恐れが十分にある。根本を誤れば、すべてが間違った方向にいってしまう」
 戸田は、獄中に体得した彼の原点を、瞬時、思い浮かべるのであった。
 「だから、御書のわからない間は、天台の学問をしてはいかんといって、御開山日興上人が、二十六箇条の遺誠置文のなかでおっしゃっております。
 すなわち『一、義道の落居無くして天台の学文す可からざる事 一、当門流に於ては御書を心肝に染め極理を師伝して若し間有らば台家を聞く可き事』――本当に御書がわかるようになったならば、暇があったら天台を勉強しなさいと、こうあるんです」
 戸田の言語には、いささかのためらいもない。彼には、強く、深い確信があったからである。
 「ですから、天台のものは、読まない方がよい。私は、これで大失敗をしました。こりごりですよ。しかし、皆さんに″読め″と言ったって読めないだろうし、どうせ読まないだろうから、まあ、安心ですがね。戸田が″読むな″と言ったから、俺は研究しないんだと威張っておれば、それですむことなんです」
 ここでまた、どっと笑いが起きた。一人ひとりに語りかけるような、戸田の確信に満ちた講義を聴くことの楽しさが、誰の胸にも湧いてきた。
 「法華経を、本当に研究しようと思うならば、この『御義口伝』を読まなければなりません。
 不肖、戸田は、誰もやったことのない、日蓮大聖人様の仏法による法華経の講義をしているんです。こう言うと、いかにも法螺を吹くようだが、現代において、真に過つことなく法華経の講義をできる者が、いったい、いずこにいるか――どうか、よく考えていただきたい。この戸田城聖、ただ一人なんです」
 場内からは、激しい拍手が沸き起こった。戸田は真摯な表情となって、気高く硬く口を結んでいた。彼の、この大確信は、豁然と使命を体得し、自覚したところにあったのである。
 「これから方便品と、寿量品の講義をするわけですが、講義の根本とするところが、今、読んだところにある。
 『南無妙法蓮華経如来寿量品第十六』とある。これをなんの気なしに読んでいますが、釈尊の説いたものは、『南無』の字が、なくて『妙法蓮華経如来寿量品第十六』です。それでは、なぜ大聖人様が、わざわざ、ここに『南無』を、おつけになったのか。これが、大聖人様が″大事だぞ″と言わんばかりの肝要なところなんです。
 『南無妙法蓮華経……』ときた時には、この『如来』は、南無妙法蓮華経の如来になるんです。するとこれは、文底の仏になるんです。妙法蓮華経如来寿量品では、『如来』は文上の仏となる。これで、大聖人のお読みになっている如来は、釈尊の言う文上の如来ではないことが、はっきりするわけです。
 南無という二字を、おつけになっただけで、如来という二文字を読む読み方が、全く変わってくるわけであります。
 面倒だといえば面倒ですが、本当の真実を知るためには、このくらいの面倒を避けてはなりません。この根本のところが、はっきりわかりさえすれば、大聖人の仏法は、さーっと、展開されてくるんです。
 『寿量』ということは、その如来の功徳を量ることですから、文底の仏の功徳の意義であります。このように方便品と寿量品を読んでいけば、どんなに偉大で、どんなにありがたいものか、明々白々となってくるんです。『御義口伝』のことを、まず読み切れれば、他宗の連中であろうと、誰であろうと、大聖人の仏法と釈尊の仏法との違いが、はっきりわかるはずです。ところが、わからない。なぜか――御本尊がないからわからない。ですから、この『南無妙法蓮華経……』の題号ひとつが、他宗との重大なる相違をきたすところであります」
5  戸田は、言々句々を丁寧に解説しながら、その結論に移っていった。
 「『されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり』
 これはすごいところです。無作三身というのは、誰がつくったものでもない。生まれてきた凡夫そのままの、末法の法華経の行者その人が、無作三身である。御本仏である。ここで明らかに、大聖人は、御自身のことを言っておられる。実に明確な、一点の疑いもない断定ではないですか。
 『無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり』
 無作の三身である仏の宝の名前を、南無妙法蓮華経というのである、と。すると、前に言った南無妙法蓮華経如来寿量品の如来に、きちっとかかってきます。この如来は大聖人様をおいてはないのです。
 『寿量品の事の三大事とは是なり』
 これが三大秘法の根幹であるというんです。このように、如来寿量品の如来をば、文底の仏であると、しっかり胸に刻んで、私の講義を受けてもらいたいと思います」
 戸田は、これだけのことを言い終わると、ひと息ついた。そしてコップの水を飲むと、さっさと方便品の講義に入った。
 「方便品の方便ということは、世間ではよく、嘘も方便と言いますが、あの方便とは、全然、違うんです。仏法上では、そんな方便はありません。仏法用語を、皆、でたらめに使うようになってきていますから、実に危なくてしょうがない。
 方便といいますと、仏法には三つの方便がある。法用方便、能通方便、秘妙方便の三つです。
 法用方便というのは誘引、誘いのことで、能通方便とは弾呵、叱りで、いずれも法華経以前の方便をいうのです。法用というのは、仏法を何も知らない人を誘うことです。いよいよ仏法へ誘い込んだら、『お前の、今、覚えた仏法は、本当の仏法ではない』と弾呵して、『では、本当のはなんですか』というところへきてから、初めて法華経を説くことになる。この時の方便を秘妙方便という。方便の方は秘と訳し、仏だけが知っていることで、便を妙といい、凡夫の頭脳では計り知れない不思議な仏の境涯をいいます。
 では、いかなるものが秘妙方便であるか。それは、凡夫が、すなわち仏である、これが秘妙であるという。法華経以前の経文では、仏と衆生が別々とされていた。それから見ると、確かに革命的な教えであります。大聖人様が、『御義口伝』において、これを説かれているのは、こういった話が法華経のなかに、秘妙の譬えとしてあるからであります」
 戸田は、ここで、法華経信解品第四に出てくる「長者窮子」と、同じく五百弟子受記品第八に出てくる「衣裏珠」の説話を、実に面白く語って聞かせた。そして、一人の人間の人生というものは、本当のところは仏だけしか知らず、同じ人間でありながら、正しい、強い信仰をもった人は、それによって人間革命して、大きく境涯を変えていく不思議さを、この譬えの説話から、まざまざと語った。
 受講者は、そのような事実が、わが身に起こりつつあることを、日常の体験を思いながら、いやでも悟らざるを得なかった。とともに、未来への大きな可能性が、自然に信じられるように思えたのである。
6  やがて、方便品の本文に入った。
 泉田ためが、冒頭の部分を、音読し、さらに読み下していった。
 「『爾時世尊従三昧安詳而起、告舎利弗、諸仏智慧甚深無量』――爾の時、世尊は三昧従り安詳として起ちて、舎利弗に告げたまわく、『諸仏の智慧は甚深無量なり』」
 朝晩の勤行の時の、親しい冒頭の句である。場内は、しんと静まり返っていた。戸田の軽い咳払いが、意外に大きく響いた。
 「さて、やかましいことを言いますと、この『時』という字の読み方で、経文の意味が全部変わってくるんです。
 われわれが″時″と言うと、今日の十二時であるとか、春だとか、秋だとか言いますが、仏法でいう″時″は、そういう意味ではないんです。
 『爾時世尊』の『時』とは、いつの時か。――経文には、よく『一時』仏が、どこそとにいまして、経文を説いたとある。この『一時』を、ある時と読ませている。われわれが聞くと、『ある時、ウサギとカメがおりました』などと、御伽噺の″時″みたいに思いますが、仏法ではそうではないんです。
 衆生がおって、仏を感じるのであります。説法してもらいたいと感じるのです。感じた時に、それに応じて、仏が現れて説法した『時』と読むわけであります。
 これは、よく考えてみれば、人生の普通のことで、商売でも同じことです。衆生世間、すなわち人びとが、こういうものを欲しいと思う時に、その品物を作って売り出せばよく売れる。
 思想だって同じことだ。民衆が困って、こういうことを言ってくれる人が現れてくるといいな――と思っている時に出てくるから、法が広まってしまうわけです。これが、仏法の『一時』の意義であります。
 先に読んだ、冒頭の『時』というのは、文上でいうと、法華経迹門を説く時という意味になります」
 戸田は、ここで、文上――つまり釈尊の仏法の読み方と、文底――日蓮大聖人の仏法の読み方について説明した。そして、世間の通説の限界を教え、真の仏法が大聖人によって確立されていることに関して、現代は全くの無知であることを説いていった。
 「これを文上で論ずる時には、声聞・縁覚を仏にする時が、『爾の時』であり、これをまた、文底から論じ、読む時は、末法の時となるのであります。つまり、われわれ貧乏人が、凡夫が、即仏である。凡夫即極の境涯である、ということをお教えになる時が、末法であります。
7  『爾時世尊従三昧安詳而起、告舎利弗』
 これを文上と文底に分けて読んでみます。
 『爾の時、世尊は三昧従り安詳として起ちて、舎利弗に告げたまわく』
 その時というのは、二乗を仏にする法華迹門の時、世尊も迹門の世尊、その世尊は無量義処三昧という三昧から、安詳として起った。
 釈尊には、二十一大弟子、あるいは十大弟子といいまして、偉いお弟子がいた。そのなかで一番の大将が舎利弗である。智慧第一といわれた、その舎利弗です」
 彼は、思索の時間を与えるようにしながら、講義を進めた。
 「さて、これを文底で読みますと、大聖人様は、こうおっしゃっていることになります。末法の時、文底秘沈の大法の世尊、つまり日蓮大聖人が、法華三昧、すなわち無始無終の大宇宙の生命の本源より、安詳として起って、舎利弗に告げる。末法の智慧第一の者に告げる。それは誰か。われわれですよ。
 われわれは、それほど智慧もないのに、宇宙の本源の哲理をもつゆえに、智慧第一の舎利弗以上なんですよ。舎利弗より智慧があることになっているんです。
 これは、以信代慧と申しまして、御本尊を信ずる者の智慧というものは、御本尊の智慧と同じですから、舎利弗以上になってくるんです。そこで、御本尊を信ずる深さが問題となってくるわけです。安心しなさい。頭は悪くないのだから」
 戸田の講義は、経文の説明のみに終わらず、常に眼前の聴衆の胸のなかに飛び込んだ講義だった。法華経を、わがものとしていた彼の確信は、聴く人びとの胸奥に迫り、新しい境地を開かしめたのである。
 「舎利弗に告げて言うには、『諸仏智慧甚深無量……』。
 この言い方はね、無問自説という形式です。釈尊一代の経文を、説法の仕方や内容によりまして、九部の経、十二部の経と分けているが、そのなかの、無問自説という説法の仕方なんです。
 説法の場には、いつも発起衆という者がいて、問いを起こすことになっている。それについて仏が答える。誰も質問しないのに説きだすということは、絶対にないことになっているんです。
 ところが、このところだけは、誰も質問しないのに『諸仏の智慧は甚深無量なり。其の智慧の門は難解難入なり』と冒頭から、仏の智慧を褒めだしたのです。聴いている連中も驚いたにちがいない。後の方で舎利弗が『仏は問い奉らざるに、なぜ仏の智慧を讃嘆されるのですか』と、質問しているくらいです。
 諸仏の智慧は甚深無量――文上からいけばですよ、あらゆる仏の智慧、これを実智といいます。甚深で無量というのは、縦に如理にょりの底に徹すること甚深、横に法界を窮めること無量であるという。これを哲学的に言いましでも、哲学というものは、時間、空間をもって論ずるのですが、無始無終にして無量無辺、つまり永遠にして無限の、この大宇宙を貫く本源の法に、諸仏の智慧というものは通達している。その透徹した智慧を甚深無量と言っているのです。
 その時間、空間において透徹した智慧とは何か。すなわち、文底から言いますならば、南無妙法蓮華経という智慧である。南無妙法蓮華経という智慧こそ、初めて甚深無量ということが言えるのです」
 ここで戸田は、コップの水を飲み、悠然とひと息入れながら、次の朗読を聴いていた。
 「『其智慧門難解難入。一切声聞・辟支仏所不能知』――其の智慧の門は難解難入なり。一切の声聞・辟支仏の知ること能わざる所なり」
 難解な仏教語に、それまでつまずいていた人びとは、雲の晴れる思いをしたことであろう。戸田の説明の巧みさが、そうしたのではない。彼の獄中で得た悟達から発する、生命の鮮明な輝きが、聴衆の胸の奥底まで照らしていたのである。
 そして、聴衆の生命の内奥に眠っていた仏性、すなわち南無妙法蓮華経を、いつか呼び覚ましていた。
 この厳粛な作業は、彼にして初めて可能なことであった。しかも、彼は、それをやすやすと行うことができたのである。
8  「ところで、その仏になるための門というのは、難解難入である。天台によりますと、難解難入の『解』は、初住の位となり、『入』は十地の位である、などとやかましいことを言っておりますが、ともかく、この門が難解難入だと言っています。だが、これでは民衆を救えないし、一部の人たちの仏法になってしまうことも当然でありましょう。
 大聖人様の教えからいくと、この智慧の門というのは、信心の門である。これが解し難く入り難い。折伏したって、なかなか聞かないのですから、難解難入ですね。しかし、ひとたび信心できれば、信をもって慧に代えるゆえに智慧の門であります。
 『一切の声聞・辟支仏の知ること能わざる所……』
 辟支仏というのは縁覚のことです。声聞、縁覚では理解できない。智慧第一の舎利弗といえども、お前たちの知るところではないと、釈尊に、はねつけられたところであります。
 文底からいけば、信心のない者には絶対にわからない。信心して初めてわかる。声聞、縁覚などの二乗というのは、今でいえば、浅い哲学や科学で悟ったと思い込み、自分のことしか考えられない人たちをいうのであります。えてして知識階級は、そうなりやすい。こういう人たちは、最も難解難入の人たちであると、仏様が喝破していらっしゃる」
 戸田は、末法の現代に、おいて、知識人たちが仏法を解しない理由を語った。
 話は、経文の一章句の解説から、さらに日常の茶飯事にまで及んで、尽きることはなかった。
 「今の学者で、科学ですべてが解決すると思っている人には、さっぱり仏法がわからないでしょう。困ったものです。日本の国は、徳川幕府の崩壊以来約九十年、科学にかけては非常に遅れていたために、もう、一生懸命に、科学、科学で進んできた。世界全体もそうですが、それで科学万能ということになって、この大事な東洋の哲学、われわれの生命哲学を忘れてしまった。
 たとえば電気です。こういうマイクや、スピーカーにも利用されている。電気洗濯機も便利でしょう。テレビも便利だ。実に、至れり尽くせりです。もうこれ以上、何も発明してもらいたくないくらいです。
 理屈では、文明は幸福をもたらすというが、そういう利器を買えなければ、反対に不幸を感じますよ。友だちが買って、自分が買えなかったとなると、惨めな気持ちになってきます。しかも、原水爆などという迷惑なものまで発明しているのは、人類の不幸を、せっせと増大させていることになる。
 私だって、科学を否定するわけではありません。いいとは思うが、なんでも科学さえ発達すれば、直ちに人類の幸福が増すという考え方を否定するんです。
 このことには、心ある一部の人たちは気づいてきた。気づいたものの、さて、どうしたらよいのか、さっぱりわからないのが現状なんです。
 考えてもごらんなさい。今から二百年前の人びとの幸福と、今の、われわれの幸福と、どっちが、いったい幸福か。タクシーに乗ったって、あのカチ、カチというメーターの音を聞くたびに、料金を考えて心穏やかならず、飛行機に乗ると墜落しやしないかと気をもんでいる。ビクビクしているのなら、乗らなければいいではないか。電話だって便利であろうが、遠方へかけたら、千円も二千円も取られてびっくりする」
 受講者たちは、どっと声をたてて笑いだした。人びとは、笑いのうちに、心の底から納得できるものをもった。人心の機微をよく知っていた戸田は、笑いのうちに、心の底から納得できるものをもった。人心の機微をよく知っていた戸田は、笑いを誘発する楽しい講義のなかに、すべてを理解させるのであった。
 「われわれの幸福というものは、本当の生命の哲学が、はっきりしてこそ、初めて得られるのです。
 その哲学の実践的な縮図が御本尊である。ゆえに、御本尊と境智冥合する時に、本当の幸福境涯が涌現するのであります。それを忘れて、ただ、学問だなんて言っているのは、『一切声聞・辟支仏所不能知』にあたるわけです。
 結局、これらの人は、科学や学問を本尊としているわけです。しかし、それは生命の根本を明かしているわけではない。だから、いつも何かしら不幸を感じていることになる。
 こういう人たちは、『信心なんて、おかしくてできない』なんて言うでしょう。『南無妙法蓮華経なんて、恥ずかしくて言えない』なんて言うでしょう。このなかにも、そういう人が、いなかったですか。
 私の友だちに、ある大衆小説家がおります。この方が、子どもさんが死ぬか生きるかという時に訪ねて来た。私は、その時、『本気になって、御本尊を拝みなさい』と言った。ところが恥ずかしいものだから、書斎に鍵をかけて、その中でお経をあげたというのです。
 こんなわけで、声聞、縁覚というのは、なかなか南無妙法蓮華経の境涯を知ることあたわざる人なんです。
 理屈を言う者ほど、わからない。このことをよく、あなた方も心得ていて、そういう人に出会ったら、″この人は経文の、ここのところに、あたる人だな″と、落ち着いてよく教えてあげなければいけません。『やらないのか、罰が当たるぞ』なんて、そんな非常識なことを感情的になって言っては、決してなりませんよ」
 戸田は、方便品の講義を、こんなふうに進めながら、日蓮大聖人の仏法を、一人ひとりの胸に叩き込んでいくのであった。
 閥達自在ともいうべき講義は、極めて難解な奥義を、現代の日常のなかに、はつらつと生かすことに努力が払われていた。戸田にあっては、仏法と、人生の営み、つまり生活そのものとが、見事在一致をみていたのである。彼の説く日蓮大聖人の仏法は、現代における最高の力となることが約束されていた。彼の原点は、いよいよ、社会における無限の力となり始めたのである。
 方便品の講義は、二回で終わった。一回、一時間半を要したのであったが、受講者にとっては、一瞬のうちに過ぎたといってよい。聴き終わったあと、彼らの心身は、さわやかで、軽かった。
9  朝夕、読誦する経文に、にわかに力と情熱が加わったことは、言うまでもない。加えて、教学というものが遠くにあるのではなく、極めて身近にあることを知ったのであった。そして、次の週の一級講義に、いそいそと豊島公会堂に、御書と経本とを抱えて集まるのであった。
 寿量品の講義は、四回にわたった。戸田は、自己の原点を、彼独特のユーモアを交えながら、法華経の言々句々を媒体として、余すところなく説いていった。究極の生命哲学は、彼の自在の境地に乗って、的確に受講者の胸に染み通っていったのである。彼のユーモアは、単なる冗談ではなかった。いわば極理の果てに、忽然と現れる天衣無縫の笑いである。
 戸田城聖が、伝えがたい不動の原点を、なんとかして悩める民衆に分かとうと決意して講義する時、彼の心を砕く努カの果ては、人生の救いともいうべき、大確信にあふれた宇宙的なユーモアとなって奔出したのである。
 受講者は、類いまれな温かい彼のユーモアにつつまれて、一切の日常の労苦を、一瞬、忘れ、思わず仏法の極理に、直々に対面した思いをするのであった。経典の一文一句が、すなわち、生活に活力を与える魅力あるものへと変わっていったのである。
 彼は、救世の原理を、なんのよどみもなく説くことができた。まことに、不世出の彼の独壇場であったのである。
 寿量品の自我偈の講義に移るころには、受講者の耳は、文上と文底との相違を、明確に聞き分けることができるようになっていた。
 「『自我得仏来』――これを、『我れは仏を得て自りこのかた』と読むのは、天台の流儀の読み方でありまして、これは、文上です。
 大聖人様が、観心の本尊とおっしゃているように、観心の本尊は今の本尊です。釈尊の仏像とか、阿弥陀の仏像とか、一般に見られる、ああいう本尊は、末法今時においては、もう役に立たないのであります。
 観心の本尊でなければ、旺盛なる生命力の源泉にはならないし、宿命打破の本源力にはならない、というのが大聖人の仏法なのであります。
 ゆえに、この『自我得仏来』というのも、大聖人の読み方と天台の読み方とでは、大いに違うんです。『我れは仏を得て自り来』というのを、釈尊が仏になってからだと、一往、読むのは文上の読み方です。
 ところで、日蓮大聖人の読み方は、こうだというのです。『自我得仏来』の、『自』と『得』とに、丸をつけてもらえばよい。すると『自得』となり、『我仏来』が残ります。『自我得仏来』の『我』は法身如来、『仏』は報身如来、『来』は応身如来、この三身如来を、自ずから得たものなり、自得なりと読むのが、大聖人の読み方なのであります。
 法身、報身、応身という三身即一身の読み方は、何を意味するかというと、法身というのは、仏としての根本の生命をいうのです。報身というのは、その根本の生命を語る仏の智慧をいうのです。この二つを具えて、この二つを民衆に授けるために日蓮大聖人と現れた姿を応身というのです。
 これを、私たちの生命に当てはめてみれば、仮に戸田城聖といっている私の生命体、戸田城聖の生命の根本となっているものが法身である。それから、私がわずかばかりの講義ができる、これが報身。また、こうしている自体、齢五十三になっている当体、これが応身となります。
 この三身即一の境涯というものは、自ら得たものである。つまり、仏の境涯は、誰人からも教わるものではない。いかに、あなた方が、私から法華経を教わり、また仏法の研究をして、『仏というものを教えてください』と言っても、それは教えられるものではありません。自得しなければならない。『我仏来を自ら得たり』、これが仏の境涯です。
 そこで、大聖人様の仰せには、あなた方が観心の御本尊に向かって、題目を唱えていけば、我仏来、三身即一の境涯を必ず自得できるぞ、とおっしゃっているのであります。それが『自我得仏来』です」
10  戸田は、仏の境涯というものの表現の不可能なことを知っていた。しかし彼は、仏の境涯が実在することを知らないわけではない。今は、ただ、それを感得し、自得する方法を教えることのみに、とどめなければならなかった。
 寿量品の難解さは、仏の生命の永遠を説いていることにある。この永遠の生命を、いかに悟るかが、信心の要諦といえるのである。
 講義は、次の章句に移っていった。
 「『所経諸劫数 無量百千万 億載阿僧祇 常説法教化 無数億衆生 令入於仏道 爾来無量劫 為度衆生故 方便現涅槃 而実不滅度 常住此説法』――経たる所の諸の劫数は 無量百千万 億載阿僧祇なり 常に法を説いて 無数億の衆生を教化して 仏道に入らしむ しかしより来無量劫なり 衆生を度せんが為めの故に 方便もて涅槃を現ず 而も実には滅度せず 方便もて涅槃を現ず 常に此に住して法を説く」
 戸田は、経文の拝読を受けて、悠揚とした口調で語った。
 「ここのところは、大聖人は三身即一身、自我得仏來の境涯なるものは、この大宇宙とともにあったのだ――と、読み切らねばならない。決して、大聖人様は、今から七百年前に生まれてきて仏になったのではありません。比叡山で修行して、仏の境涯を得たなどというのではない。大宇宙とともに在って、無始より仏であり、常に説法教化していたのである、というのであります。
 こうなると、今度は問題が起こってくる。われわれの問題にもなってくるんです。永遠の生命だというなら、死ぬ必要はないではないか、ということになる。これは涅槃経でも、迦葉菩薩が釈迦に問い奉っているところのなかにもあるんですが、『仏の生命は永遠で、死なないものだと言っているのに、今、あなたが死ぬとはどういうわけですか。インチキなことを教えたのではないか』と、聞いています。
 生命は永遠でありますが、『方便現涅槃』、方便のために涅槃を現ずるのである。天台は、衆生に涅槃ということを教えなければ、衆生を利益することができないから、涅槃を説くのだと言っていますが、それだけでは、私たちには合点がいきません。
 生命が永遠ならば、長生きをさせておけばいいではないか、ということになります。しかし、われわれが死ななかったとしたら大変です。非常に困ることになる。だから死ぬというんです。しかも、死ぬ時が、わからないようになっているところが、面白い。これが妙法です。
 大聖人様は、生死の理を示さんがために、死を現ずるとおっしゃっています。確かに、われわれの生命は永遠だが、年を取ればおじいさんや、おばあさんになってしまいます。どういう薬を飲んだら若くなるか。そういう薬が発明されたら、大したものだ。一粒でも飲むと赤ん坊になるなんてね。そんな薬は、できっこありません。年を取って、もうこの世の中の仕事は終わったとなると、死ぬんです。そして、若々しい生命をもって、また赤ん坊になって生まれて来るんです。ただし、生まれ変わるのでは、絶対にありませんよ」
11  戸田は、ここで、コップの水を一口飲むと、徴笑みながら話を続けた。
 「″生まれ変わる″という言葉は、非常に誤解を招きます。皆さんは、毎日、お線香に火をつけて、勤行をしているでしょう。お線香は、すぐに燃えて灰になっていく。その線香の火が、次々と燃え進んでいく時、″生まれ変わった″などとは言わないでしよう。生まれ変わったのではなく、ただ続いただけでしょう。
 われわれの生命も、このように現世から来世へ続くだけなんです。決して、生まれ変わるのではない。大宇宙と、われわれの生命は、即一体なんです。
 宇宙というものは、始まった時がない。また、終わりもない。われわれの生命も、始めもなければ終わりもない、永遠に生きていくんです。
 ところが、年々、年を取るばかりで若くなる手はない。そこで涅槃を現ずる――つまり死ぬんです。死んで、若々しい生命になって生まれてくるんです。
 さて、その時に、過去世の行状というものが、自分の生命のなかに全部含まれてくるんです。これを宿命といい、宿習という。命に宿っているんです。ここに仏法という、生命の法の大事さがあるんです。
 『前にやったことだから関係はない。俺は、新しく生まれて来たんだから』と、こう言いたいのが、人情ですけれども、そういうわけにはいかないのが、人生の真実であります。
 ″なぜ、貧之人に生まれたんだ″
 ″なぜ、俺は、頭が悪く生まれたんだ″
 ″なぜ、俺は、こんなに商売を一生懸命にやっているのに、うまくいかないんだ″
 深く探究してみれば、これらは、みんな過去世に原因があるんです。しかし、過去世にあると知るだけでは意味がない。それを、どう打開するかということが、大聖人様の仏法なんです。いずれにしても、死んで、そして再び若く生まれて来なければならないのが、『方便現涅槃』です。涅槃とは、死のことであります。生命が大宇宙に溶け込むことを涅槃というんです」
 受講者たちは、知らず知らずのうちに、いつしか哲学者になっていた。人生の最大の問題である死について、こう明らかにされてみると、深い思索をめぐらさざるを得なかった。場内は、咳ひとつ聞こえない。しんと静まり返って、すがすがしい緊迫感だけが漂っていた。
 「前世のことなんか関係ないと、いくら知らん顔していても、人生の根本問題は解決できない。前の世のことにも責任があります。生命は、どこまでも継続しているんですから。しかしまた、過去世に泥棒したから、今、貧之なんだとわかったところで、貧之していたんではどうしょうもない。
 いつも言うのですが、生理学上、われわれの生命は、数年たつと、ほとんどの細胞が新しい細胞と入れ替わってしまい、目の玉から骨の髄まで変わってしまう。これは医学でも認めているところです。それなら、数年前に借金したのは、払わなくてもいいことになる。全部、変わってしまったんだから。それで勘弁してくれるといいけれど、借金取りはちゃんと取りに来る。それと同じように、過去の、われわれの行動は、未来において責任を負わなければならんのです」
12  時間は、静かに流れていった。会場の間から隅から隅まで、戸田の声が響いていた。
 「これは理屈のうえではわかるが、実際問題としては困る問題です。そこで、大聖人様は仰せになっている。『お前たちは薄徳の人だ。徳薄垢重の者である。だが、この御本尊を拝めば、過去世に、どんな悪いことをしていたとしても、全部、許される。そして、善いことをしたと同じ結果が現れる』と。だから、生命の奥底からの変革を成し遂げていく信心が大事なんです。
 このなかにも、貧之している人が、ずいぶん、いると思います。仏法の鏡に照らせば、前世は泥棒かもしれない。そうなると、ずいぶん、いるらしいね、泥棒が。それが、大聖人様の教えの力で、この観心の本尊を拝む時には、過去世の罪は消えて、人に、お金をうんとやったと同じ結果が現れるというんです。
 ただし、大聖人様は、それは、『信心の厚薄』によると、おっしゃっています。
 われわれの生命は、永遠であるというが、やがて死ななければならない。これはどういうわけだ、ということになるが、『方便現涅槃 而実不滅度 常住此説法』とあります。本当は死ぬのではないのです。絶えず、この娑婆世界で、仏は説法教化してきた。『常住此説法』の『此』という字は、裟婆世界、つまり堪忍の世界、堪え忍ばねば生きていけない世界です。
 われわれの立場からいうと、説法教化ということは、活動ということです。妙法蓮華経の経の字にあたる。絶えず、広宣流布のための布教に活動していることであります。一般衆生に当てはめれば、ネズミが鳴くのも、犬が吠えるのも、みんな経で、私や皆さんが、しゃべるのも経である。
 ただ、皆が、『お経』がありがたいとか、偉大であるとか言っているのは、仏様のしゃべっているのが、いちばん最高であるから、そう言っているのであります」
 戸田の講義には、いささかの迷いもなかった。彼が確信する原点に、一点の曇りもなかったからである。難解を極める仏法用語も、彼の口にかかると、難解さは霧消した。すべてが日常の生活用語に変えられてしまうからである。
 仏法の深い哲理を秘めながら、なおかつ平易な言葉のなかに人生の真実を語る講義は、いまだかって、なかったことである。むろん彼は、ことさらに仏法を日常生活に応用して展開したのではない。ただ、彼が身をもって悟った仏法の精髄が、そのまま人生の真実を難なく語らせることになったのである。
 彼が、獄中の苦悩に耐えた後、法華経を、すらすらと理解できたのも偶然ではない。そして彼は、彼の悟った原点が、そのまま現代社会の救世の絶対の原理であることを発見した。この偉大な発見が、彼の後半生を貫く大河となっていったのである。
 この希有の事実を、人びとは見落としていた。彼の前半生を知る者は、彼の発見にほとんど気づくことはなかったし、たとえ、うすうす気づいたとしても、生命の革命ともいうべき、そのような悟達を信じることはできなかった。
 また、彼の後半生に初めて接した人びとは、信心の日浅く、未熟のゆえに、呆然として、彼の強烈な説得力に驚嘆するばかりで、その説得力の由来するところまでは、思い及ばなかった。それが多くの人に理解されるまでには、彼の死後、長い歳月を必要としたのである。
 彼の原点となった悟達は、彼のこの世に生まれた目的と使命を自覚させたが、同時に、客観的には、民衆救済の原理としての不動の確立をみた。以来、彼の言説と行動は、すべて有形無形の力となり、彼に接する苦悩に沈んだ民衆の一人ひとりを、蘇生の彼岸に、せっせと運んだのである。
 彼の講義は、言説と行動の重要な場であった。講義が快調に進んで終わり、多少の時間が残った時には、彼は、進んで多くの人びとの質問を受けた。そして、それに懇切に答えるのが常であった。
13  ある時、このような講義後の質問会で、彼は、一つの質問を受けた。質問者は、メガネをかけた三十代の壮年で、くたびれた背広を着ていたが、質問の口調には、求道の息吹があふれでいた。
 「お願いします。御書全集の『富士一跡門徒存知の事』のなかで、日興上人が五人と義絶する理由を述べられていますが、そのなかで五人が、人が死んだ場合、御本尊を曼荼羅といって、死んだ人にかけて埋めたり、非常にお粗末にしているという意味のことが述べてあります。
 これについて、他の御消息文を読みましでも、大聖人が、いかに御本尊を大事にされていたかが、よくわかります。しかし、五老僧とまでいわれる方が、どうしてそれがわからなかったか、不思議に思えてなりません。
 五老僧も、大聖人様の高弟として、常に相当の訓練を受けていたと思います。そのような方が、どうして大聖人様の御本尊を粗末に扱ったのか、それが私には、どうしてもわからないのですが」
 戸田は、この質問を聞いて、にっこりと微笑んだ。
 「実に、いい質問をしてくれました。ありがとう」
 片隅の質問者の方に体を向け、軽く頭を下げた。
 「この問題については、言わなければならないことが、二つ、三つ、四つとあります。第一に、五人は、大聖人様のお側での給仕が足りなかったのです。ゆえに師弟としての深い境地の一致に欠けるところがあった。みんな大聖人様に心服して、南無妙法蓮華経を弘めにかかりましたが、いつも、お側で本当のことを聞く時間が足りなかった。これが一つ。
 それから、大聖人様の仏法の行き方を、お側ですっかり見なかったからわからない。なぜかならば、第一番に、大聖人様が仰せになったのは、南無妙法蓮華経だけなんです。しかし、南無妙法蓮華経を言われる前に、法華経、法華経とおっしゃっておられた。これも教相と観心の問題ですが、五人は、教相の面において服していた。みんな、そのころの学者の通例なんです。法華経ということは知っていたが、南無妙法蓮華経の真実は、わかっていなかったんです。
 大聖人様は、まず南無妙法蓮華経ということを染み込ませようとなされた。それから佐渡へおいでになる時に、御本尊のご出現となる。それで、御本尊建立の深義については、五老僧は、さっぱりわからんでですよ。
 ですから、御本尊とはどういうものか、どれほどのものかということは、常随給仕と申しましてね、ずっと側について離れなかった、日興上人しかわからなかったのです」
 回答は明快であったが、問題は極めて微妙なところにさしかかった。彼は、しばらく口をつぐんで、思索をめぐらすように見えた。そして、現代と鎌倉時代とを思い比べながら話を続けていった。
 「あの当時は、今のように交通機関も発達していませんから、大聖人の指導というものも、伝えにくい時代であった。ともかく、南無妙法蓮華経なんて聞いたこともない時代です。そういう時代の人びとですから、南無妙法蓮華経とわかっただけでも感心と思いますね。
 それで、ともかく五人は、各方面在住の棟梁でした。ところが、ただ南無妙法蓮華経だけ覚えて、御本尊を覚えないでしまった。それだから、日興上人は、お叱りになったんです。
 『南無妙法蓮華経がわかったら、御本尊がわからない理由はないではないか』と。
 あのころの宗教の風習として、人が死んだら、阿弥陀とか大日如来の絵や像などを棺の中に入れてやるのです。それで、大聖人様の御本尊も、平気で棺の中に入れちゃったのでしょう。まったく愚かな、困った弟子たちです。
 そこで日興上人から、『もったいない、御本尊を全部集めなさい』という命令が出されて、御本尊を集めたのです。
 こんなわけで、五老僧というのは、題目論はわかったが、本尊論がわからなかったんです。ここに三重秘伝の奥義がある。今、学会で日寛上人の『三重秘伝抄』をやかましく勉強させているのは、このためなんです。五老僧は、御本尊のことがわからなかったので、日興上人に叱られたんです。
 どうです、納得しましたか。こういう機会は、めったにないんだから、納得がいかなかったら、もっと聞いてください」
14  一隅にいた質問者は、立ち上がった。ちょっと首をかしげている。聴衆の視線が、その男に集まっていく。聞こうか、聞くまいかと、迷っている様子であったが、笑顔を向けている戸田を見ると、思い切ったように発言した。
 「それについて、お伺いします。日蓮大聖人のことを書いた小説なんかを読むと、日昭にしろ、日朗にしろ、大聖人様と行動を共にして、相当、折伏などもしているように思われます。また、『新尼御前御返事』にあるように、大尼御前が御本尊を頂きたいと願い出た時、お前は持てないから駄目だと言われ、新尼には心配なさりながらもお与えになっています。大聖人様は、御本尊に関して慎重で、『観心本尊抄』にしても、『日女御前御返事』にしても、御本尊について、ずいぶん詳しく述べておられます。私みたいな者にも、それが相当わかるのに、なぜ五老僧といわれるほどの人たちが、わからなかったのでしょうか」
 受講者は、ほとんどが新入会者であったが、皆、実によく勉強していた。教学研鑽の息吹は、組織の隅々にまで、満ちあふれでいたのである。
 もっともな質問であった。戸田は、いちいち頷いて聞いていた。質問が終わると、会場の人びとを、ずっと見渡して言った。
 「さあ、ここです。これが大問題なのです。今、われわれが折伏しているでしょう。そして世間から、さんざん悪口を言われていましょう。こういう現在と、大聖人様の時代とは、似ているように見えますが、あの当時は、もっとひどかったと思う。大聖人様の御行動というものは、まるで危険思想の持ち主の行動みたいに見られていたんです。だから、あんな大難があった。大難があったけれども、大聖人様が厳然といらした時は、平左衛門尉も、執権も、手をつけられなかった。あまりにも偉大な仏様が、厳然としていらしたからです。
 ところが亡くなったとなると、彼らにとっては、もってこいです。その後、大弾圧の動きがあったんです。その時、五人は、みんな逃げ出してしまった。怖かったんですな。
 五人は、皆、急に、『われわれは天台沙門だ』と言いだしました。『日蓮の弟子ではない』と言いたかったのでしょう。この背景がわかれば、日興上人が、お怒りになった言葉の意味がわかるでしょう。
 今のわれわれに、少し弾圧が加えられたとしたら、どうします?
 今は、この戸田が生きているので、『広宣流布だ、妙法流布だ』と、のんきに威張っているけれど、もし、今夜にでも戸田が目をつぶってしまい、その後で、『創価学会なんか潰してしまえ!』ということになって、権力で、ひどい圧迫を加えられた時、いったい何人の人が、『私は創価学会員だ』と、毅然と誇り高く言い切れるか、あやしいものです。
 『いや、私は創価学会ではありません』とか、『お寺の信者ですから、広宣流布なんて考えておりません』とか、『自分だけ信仰しているんです』とか、諸君たちは言わないとは限りませんぞ」
 戸田の眼光は、鋭くなっていた。彼のこの言葉は、誰一人、平常考えたこともないものであった。戸田一人の胸中にだけ、そのような危機感が、常に秘められていたのである。
 「五老僧も、大聖人様が生きていらした時には、南無妙法蓮華経を弘めなければならぬと思っていたにちがいないが、大聖人様滅後において、弾圧が加わると、もう、総大将がいないので怖くなってしまったのでしょう。そこで卑怯にも、われもわれもと、『天台沙門』などと言いだして、ごまかしたのです。
 ただ、たった一人、日興上人だけは、動じなかった。そこで、『けしからん。天台沙門とは、何事だ。真の日蓮門下は天台派では絶対にない。久遠元初の自受用報身如来、上行所伝の南無妙法蓮華経を、われわれは弘めんとしているのだ』と、五老僧を叱咤なさったのであると、私は思うんです」
 どうだろうか、と問いかけるように一息入れて、戸田は、さらに答えを続けた。
 「五人が、恥も外聞も捨てて天台沙門と名乗ったことは、古文書にちゃんとあります。
 これでは日興上人に叱られるのが、当たり前です。大聖人様が亡くなって、いくら幕府の弾圧があったからといって、天台沙門などと名乗る臆病者があるか! 『観心本尊抄』を見てごらんなさい。『本朝沙門』と明確に書かれている。天台の弟子などでは断じてない。その大聖人様の弟子でありながら、天台沙門なんでいう愚か者が、いったいどこにあるか!」
 戸田は、思わず激昂して声高に語った。後の日蓮宗各派の誤りは、既に大聖人入滅直後から、その正体を明白に現していたのだ。彼が、この歴史の事実を思わず強い調子で指摘したのは、今後の創価学会にとっての、重要な戒めとしたかったからであろう。
 戸田は、質問者に目を向けて、優しく言った。
 「これでわかりましたか」
 「はい、よくわかりました」
15  戸田の、初信者を対象とした、このような一級講義は、聴く人に深い理解を与えていったが、一般会員ならびに幹部に対しても、講義を通じて接触し、仏法の精髄を教え込むことを怠らなかった。
 毎週、金曜日になると、豊島公会堂では、御書を中心とした「一般講義」が行われていた。これには、志ある人は誰もが参加を許され、会員たちの間では、「金曜講義」の名で親しまれていた。
 この「金曜講義」でも、既に定刻前から座席の争奪は激しく、会場がいっぱいになるのが常であった。場内は、人いきれで蒸し暑かったが、求道心に燃える庶民の闘士たちは、なんの不平も言わず御書を手にして、スピーカーから流れる戸田の声に耳を澄ましているのであった。
 一九五二年(昭和二十七年)十二月には、講義録の第一巻として、『立正安国論』が発刊されていた。その講義録をテキストとして、戸田は、日蓮大聖人の警世の精神と、仏法による社会建設の原理を、現代に見事なまでに生かして訴えていった。聴衆の胸は高鳴り、広宣流布の絶対必要欠くべからざることを、人びとは知ったのである。また、立正安国の実現までには、どれほどの勇気と、忍耐と、実践が必要であるかも、よく納得して帰った。
 戸田城聖は、彼が、かつて体得した原点を救世の一念として、広宣流布への激しい実践を展開させ、飛躍的在発展の原動力としたのである。
16  一九五三年(昭和二十八年)四月十九日、男子育年部の第一回の総会が、東京・神田の教育会館で開かれた。
 五一年(同二十六年)の七月十一日、あの沛然たる豪雨のなか、西神田の本部で男子青年部の結成式が挙行されてから、はや一年半を過ぎていた。当時、百数十人で発足した青年部は、今、二千人と飛躍していたのである。
 皆、寝食を忘れての戦いであった。そして、そのなかの精鋭七百人が、この日の総会に勇んで参加したのである。
 総会は、正午に始まった。ぎっしり詰まった式次第である。研究発表という項目が三回あり、計十三人の青年部員が、それぞれ、日頃の研鑽の成果を標題に掲げて、懸命な発表をした。
 研究発表は、多彩なテーマが取り上げられていた。本尊論、神道論、キリスト教から共産主義、民族論、革命論と、あらゆる宗教、思想についての批判から、世界史における青年部の使命にいたるまで論及されたのである。
 総会といえば、いつも多数の体験談が発表されてきたが、この日の青年部総会では、多くの研究発表が、体験談に代わっていた。そこにも、社会を厳しく注視する青年の意気が、うかがえるのであった。
 戸田城聖は、この日の総会の姿勢を心から喜び、最後に、感激の面持ちを隠さず、青年たちに呼びかけた。
 「今日、これからお話しすることは、学会の根本の問題であります。
 まず第一に、今日の研究発表は、すこぶるよい。これでこそ、私は嬉しい。牧口先生が、この場におられたら、どんなに喜ばれたことであろうか。先生に一目、このありさまをお見せしたかった。本当に、私は泣けるんです。
 第二に、青年の意気というものは、いつでも大事なものです。人間の生命には、進歩性と保守性の二つがある。私のような歳、諸君の両親のような年齢になると、なんとなく保守的になるが、若いうちは、何かしら新しいものを求めていく進取的なものがある。この進取的なものが、人間の幸福を築くうえで、極めて大事なのです。この進取的なものは、若い生命にしかない」
 戸田は、こう語り始めながら、青年の本質を突いていった。そして、釈尊やキリストの教えを流布したのも、また共産主義を弘めたのも、青年の意気と力であり、これが世界の歴史を変革させた原動力であった、と強調した。
 さらに、敗戦日本の宿命を思い、これをどう変えていくかを考える時、今後は、仏法によって社会を建設する以外にないことを力説したのである。
 彼は、次に科学と宗教に論及し、仏法は、生命の因果の理法を説き示した大哲理であることを明らかにしていった。
 「科学と真の宗教は、決して相反するものではない。人間を幸福にするには、どうしたらよいか――それを探究した生命哲学の最高峰の大法理が、ここにあるんです。
 これを生活にどう活用し、いかに宿命を打破するか、それが宇宙の本源力の縮図である御本尊であります。ですから御本尊は、われわれを幸福にする″機械″といってよい」
 大胆な断定から、彼は、社会の二大思想の潮流に挑戦するかのように、こう言葉を結んでいった。
 「最後に、政治、経済と、諸君の立場について言っておこう。資本主義か、共産主義か、という問題があります。私の立場からすれば、どちらでも自由です。これらは一分科にすぎない。つまり、政治と経済の面からのみ人類に幸福を与えるだけです。
 幸福になるための、根本の哲学は生命哲学です。
 私たちは、これらの主義より一歩上の次元に立つ大哲学によって、世界を指導するのです。われわれの哲学は、共産主義や資本主義と相並ぶ同格の哲学ではありません。これら世界の一切の思想を指導する、最高の哲学であります。したがって諸君は、既にして世界的指導者なのであります。
 以上四項目について述べましたが、これが世界に対する私の第一回の発言です。どうか、しっかりやってもらいたい」
 男子青年部第一回総会は、創価学会青年部としての峰火を、天高く上げたといってよい。
 青年部員は、戸田城聖から、この日、「諸君は、世界的指導者なのだ」と、使命を胸中深く刻印されたのであった。青年の誇りが、ここに生まれたのである。この自覚と誇りにふさわしい自己の研磨と顕現こそ、その青年の生涯を崇高ならしめるものだ。
 だが、それには、純粋にして強盛な信心の持続が、欠くことのできぬ前提であることを、青年たちは、いやでも悟らざるを得なかった。また、これを戸田城聖から見るならば、広宣流布への戦いの弛みない持続のためには、彼の信頼する青年たちの情熱と、意気と、力とを、必要としたのである。
17  四月二十八日、二十九日の両日、三千五百人の学会員が、総本山大石寺に登山した。五重塔修復記念大法要に参列するためである。
 ちょうど一年前の、あの七百年祭のことを考えない人はなかった。半年にもわたった笠原慈行事件が、日昇の誠告文によって決着した時、戸田城聖は、時を移さず、老朽し、破損のままに放置されていた五重塔の修理を自ら願い出た。そして、心からなる浄財を募り、修復の資金にあてたのである。以来、半年、ようやく修理は完成し、今、朱と青の鮮やかな五重塔は、青葉の森に映えてそびえていた。
 戸田の広宣流布への一念は、ここに一つの結実を見たのである。
 二十八日夜には、一年前の、その日を偲ぶかのように、男子青年部員八百人は、妙蓮寺に宿泊し、戸田城聖を迎えて、「戸田先生を囲む会」を盛大に開催した。
 午後七時半、「星落秋風五丈原」の大合唱のなかに、戸田は、姿を現した。
 部隊長の森川一正の司会で、会は明るく進められていった。数々の質問が、次から次へと活発に続いた。戸田は、それらの質問に、甘えるわが子に答えるかのように、時に厳しく、時に冗談を飛ばしながら、政治、経済など、百般について、根本的な見解を披瀝するのであった。
 一時間の会合は、一瞬のうちに過ぎてしまった。
 青年たちは、戸田を即製の輿に乗せ、十六人の選抜者がそれを担いだ。
 大石寺まで、約一・五キロの夜道を、多くの青年は輿の前後に整列し、″五丈原″を合唱しながら行進した。淡い月夜であった。富士は夜空に威容を浮かべ、四辺の森は春宵に煙っていた。
 女子青年部員六百人は、この行進を三門で迎えた。ここでまた、″五丈原″の大合唱が始まった。戸田は輿から降りたが、再び輿に乗り、青年たちに担がれて参道を宝蔵に向かった。いつしか戸田の身体が弱り始めていたのを、誰人が知っていたことであろうか。戸田は、宝蔵の前で、しばし唱題した。そして、宝蔵前をぎっしり埋めた男女青年に向かって言った。
 「本日は、青年部諸君の好意により、私は、妙蓮寺から大石寺まで送ってもらいました。この真心のこもった行為が、私は実に嬉しいのです。
 今さら言うまでもないことだが、戸田の生命は、御本尊に捧げてあります。私は、必ず正法を日本に広宣流布し、さらに世界を救うために闘争いたします。このことを、今、諸君にお誓いするものです。諸君も、しっかり頼みます」
 戸田の言葉が終わった途端、一斉に、「はいっ、やります!」という力強い返事が返ってきた。その声は、夜の巨大な杉木立のなかに響いていった。
 この日、戸田は、山本伸一の長子が誕生したという報告を受けていた。男の子だという。
 彼は、心から祝いたかったのであろう。理境坊に戻ると、直ちに筆を用意させた。そして自ら持っていた扇子に、
 「子生まれて 嬉し 春の月」
 と認めて、伸一に贈った。
 翌二十九日の午後一時、五重塔前の広場で、修復記念の儀式が挙行された。参列者は、戸田をはじめとする三千五百人の創価学会員であった。
 晴天のもと、式典は読経・唱題のあと、日昇の慶讃文と続き、さらに戸田に感謝状が贈られた。
 この五重塔は、仏法西還の意義を込め、西向きに建てられている。
 未来を指さす塔は、今、飛期する創価学会の姿を祝すかのように、中天の太陽のもとに悠然とそびえていた。
 幾人かのあいさつに続いて、最後に戸田は、演壇に立った。
 「創価学会の目的とするところは、ただ広宣流布にあります。なんのためか。
 ――今、日本の民衆は悲惨な状態にあります。東洋の民衆も、どん底にあります。これを回復し、救わねばならないからです。このために、日夜、心を痛め、身を尽くしているのであります。
 今、五重塔を修復し、少しばかりの金銭の奉仕をしたからといって、これほどの感謝を受けるのは、私にとって汗顔のいたりであります。今後は、これに千倍、万倍する広宣流布へのご奉公をいたす決意であります。
 学会員諸君は、よろしく会長の旨を体して、大法弘通のために、戦われんことを願う次第であります」
 風の強い日であった。スピーカーを通して流れる戸田の至誠の言葉は、風に乗って総本山中に運ばれた。
 この時、戸田城聖の胸に去来したものは、丸一年前の七百年祭を発端とする創価学会の、ここ一年の戦いの経過であったろう。今、宗門の復興と、学会の大きな未来を望んだ確実な躍進とが、現実の姿となって眼前にあった
 戸田は、この一年の経過を、走馬灯のように胸に浮かべながら、彼の体得した、あの不動の原点に、いささかの狂いもなかったことを現実として知ったのである。

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