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小説「人間革命」7-8巻 (池田大作全集第147巻)

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2  立宗百年祭を終えたあとの創価学会の急速な発展も、まさしく、その本格的な実践の賜といってよい。一九五三年(昭和二十八年)の足跡をたどってみる時、この年ほど飛躍的に伸展した年もなかったことがわかる。それは、世帯数の急激な増加に見ることができる。年頭には、わずか二万世帯であったが、この年、新たに五万世帯の入会を数え、実に七万世帯となったのである。
 この年の、年頭における戸田城聖の決意も、並々ならぬ厳しいものがあった。彼の胸中には、幾多の画期的な計画が秘められていた。
 正月二日――初登山の夜、総本山理境坊の二階には、首脳幹部が集っていた。この一年間の行事大綱を検討するための会議である。二間続きの部屋は、緊迫した熱気に満ちていた。
 戸田を取り囲んで、自然に半円がつくられている。最高首脳陣は、行事大綱を説明する企画部長の小西武雄に視線を集中していた。
 ――四月十九日、男子青年部第一回総会。四月二十八日、五重塔修復記念法要。五月三日、第八回総会。六月二十八日、第二期教学部員任用試験。七月三十一日から八月四日まで夏季講習会。引き続いて八月五日から十日間、夏季地方指導。
 ここまで企画部長の話が進んだ時、戸田は言つた。
 「今年の夏季地方指導は、昨年よりも、さらに大勢の幹部を繰り出すことになるだろう。大阪、名古屋、九州のほかに、今年は北海道にも幹部を送りたい。広範な全国作戦だ。費用も莫大なものになるだろうが、そんなことに、こだわってはいられない時期になっている。学会の組織も整ってきた。戦後の新興教団が伸びたのは、都会よりも地方に伸びたからだと思う。いよいよ、それらの教団を追い越す基盤をつくるのに、今年ほど大切な時期はない。今年の最大行事の一つであることを銘記してほしい。昨年、伸びた支部は、いずれも地方で大きく伸びている。蒲田も、鶴見も、杉並も、足立も、皆、そうではないか。今から目を大きく開けて、各支部の地方拠点に、じっと眼を注いでもらいたい。地方統監部長、よく点検して、今から計画をしっかり頼む」
 地方統監部は、戸田の遠大な構想に基づく、全国的な広宣流布の新展開に備え、前年の十二月二十二日に、新たに設置され、部長には、原山幸一が就いていた。
 戸田は、原山を握り返って、念を押すことを忘れなかった。
 「いいかい、緻密な頭脳の発露によって、人は生かされ、組織は潤滑に回転していくんだ。統監部は組織体の要です。いうなれば、組織科学研究機関ともいうべきものなんだよ」
 「はい、よくわかっております」
 視線は、一斉に原山に移った。
 原山は、大きく頷き、居並ぶ各支部長に向かって言った。
 「統監部の仕事は、今後、ますます複雑多岐になってくると思います。なんといっても、皆さんのご協力がないことには、本部として、なんの計画も立ちません。そこで、この地方指導の計画のために、まず、各支部から正確な、全国の県市町村別世帯数を提出していただきたいと思います」
 理境坊の玄関には、華やいだ話し声が響いていた。新年のあいさつに訪ねてきた人であろうか。
 原山は、落ち着いた様子で話を進めた。
 「組織は、隅々まで生かさなければなりません。これまでの各支部の統監作業には、かなり杜撰ずさんな面があって弱りました。大変だ、やっかいだと思うような、地道な活動の積み重ねのうえにこそ、偉大な城は構築されていくんです。広宣流布の邪魔をしているような、各支部の統監であってはなりません。今年からは、万事、正確に、明確に、お願いいたします」
 全国的発展の構想は、戸田の胸中に、年来、秘められてきたものであった。これまでにも、仙台、大阪と強力な手を打つてはきたが、全国的という規模からすれば、いまだ微弱という以外になかった。彼の構想のなかには、全国津々浦々の都市に、支部旗が、翩翻と翻る時の情景が、まざまざと描かれていた。しかし、それは五三年(同二十八年)当時には、ただ一人、戸田の脳裏にしかないことであった。
 小西企画部長は、再び主要行事の説明を続けた。
 ――七月二十六日、女子青年部第一回総会。十一月二十三日、第九回本部総会。十二月二十日、男子青年部第二回総会。
 説明が終わると、彼は、最後にこう言った。
 「以上は、あくまでも大綱であって、これに合わせて、さらに支部の一年の行事を企画していただきたい。今年は忙しい年になりそうです。それだけに企画性に富んだ予定を立ててください。そして、座談会や教学にいたるまで、あらゆる行事を完壁に推進していかねばならぬと思います。
 安易な企画で、要領よく、その日を送ることは、もはや許されぬ時代に入りました。効果のない行事は、一つでもあってはならない。効果のある実践の時代です。
 なお、数年来の懸案であった、学会本部の建物の購入も、本年こそ、ぜひとも実現いたしたいと考えている次第です」
 一段と進みゆく展望に、首脳幹部は心を新たにした。広宣流布は、もはや単なる観念ではない。激しい実践段階に入ったことを、悟らねばならなかった。年頭における緊張と決意が、誰の胸にも湧き、逡巡の雲を払った。
3  時計は、午後八時を過ぎている。
 戸田は、笑みを浮かべながら、一同の顔を見渡していた。会議は、これで終わったかに思われた。ささやかな新年の祝宴が続くものと、誰しもが思ったのである。ところが、戸田は、急に厳しい表情になって、清原かつに向かって言った。
 「本部辞令を発表しなさい」
 一同は固唾をのんだ。何事だろうと身構えるなかに、清原は、すっくと立ち上がった。
  石川 幸夫  小岩支部長に任ず
  石川 英子  小岩支部婦人部長に任ず
  入江千佐子  青年部女子部長に任ず
  山本 伸一  青年部男子第一部隊長に任ず
  石村 久子  青年部女子第二部隊長に任ず
  …………   …………………………………
 簡潔な伝達であった。しかし、そのなかに新しい前進の一切が秘められていた。
 清原の高い声は消えた。居並ぶ幹部にも咳ひとつなかった。
 小岩支部を中心とした異動である。これまでの支部長・富山一作は、幹事になり、青年部男子第一部隊長であった石川幸男と交代した。新しい女子部長には入江千佐子が、男子第一部隊長には山本伸一が、それぞれ抜擢されて任命をみたのである。
 実に、突然の任命であった。
 前日の元日一、西神田の本部ですがすがしい勤行をした時、戸田は、人事について一言も言わなかった。彼は、ただ、こう発言しただけである。
 「昨年中は、まことにご苦労さまでした。今年もまた、よろしく奮闘願います。
 諸君は、学会の大黒柱として、実に重要な任にあたっている方々であります。戸田は、広宣流布に命を捧げ、この体を既に投げ出しております。
 今年は、地方も大々的に開拓していかなければならないし、やり始めた仕事もたくさんあります。思えば大変であるが、どうか、広宣流布のために、しっかり働いていただきたい」
 それから直ちに、東京駅を発って総本山に向かっている。多くの幹部と一緒の車中でも、人事のことは、何も言わなかった。いつものように、泉田ために御書を読ませながら、じっと、それに聴き入っている戸田だった。総本山に着いてからも、いつ、清原かつに本部辞令を書き取らせたのか、誰一人、気づかなかった。
4  小岩支部の大黒柱の異動である。自分の名前を呼ばれた人びとは、わが耳を疑うような様子で、呆然としていた。
 戸田は、富山に鋭く声をかけた。
 「小岩支部長としての任、ご苦労でした。学会は、急速に前進せざるを得ない時期に入った。富山君、これで安心などしないで、心機一転してもらいたい。先輩として、大支部幹事となって、新支部長の石川を補佐してもらいたい。これができないようでは、君の信心は、もはや将来性がないことになるだろう。勇気ある信心で、人生を開きたまえ」
 厳しい指摘である。
 富山は、一九五一年(昭和二十六年)八月、泉田筆頭理事の後を受けて支部長に就任している。当時、小岩支部はA級の大支部として華々しい活躍をしていた。ところが、一年半たった現在、支部順位で七位に転落。その行き詰まりは、日を追って深刻化していたのである。
 富山は、生真面目であるだけに、責任を感じて、あがいていたにちがいない。彼が、一人悩んでいる間に、事態はずるずると悪化した。戸田は、憂慮しながら、叱咤と激励を忘れなかった。
 しかし、懊悩に埋没してしまった富山は、それに応える術を失っていたのであろう。彼は、再起の発心をするよりも、支部長辞任をもらし始めたのである。
 戸田の憂慮は、深くなった。富山も愛すべき男であったが、戸田にとっては、小岩支部の二千数百世帯の支部員全員が、さらに大切であった。その支部員たちが、もはや富山についていかなくなってしまった。「魅力がない」「生気がない」「包容力がない」と、支部員の声は厳しかった。
 組織は、すべて人間にかかっている。中心者に力がなく、信頼と尊敬とを失った時、組織は沈滞し、壊滅する以外にない。戸田は、逝去の日まで、「人事ほど大切なことはない」と、よく述懐していた。彼は、この小岩支部の問題について、昨秋から決断を迫られる思いでいたのである。
 戸田は、思索していた。いな、熟慮しているうちに、いつしか年も越してしまった。人情の厚い彼は、区役所の真面目な役人である富山を、簡単に解任することには一種の抵抗を感じ、一日延ばしにしてきたのである。
 しかし、五三年(同二十八年)の正月を迎え、創価学会躍進の展望を胸に描いていった時、戸田は、この人事を断行せざるを得なかったのである。
 若い石川幸男には、荷が重すぎるとも思えた。戸田は、これは一つの賭けにも似ていると考えた。
 ″青年部の幹部であった石川も、間もなく二十八歳を迎えるし、そろそろ苦労させてもよいまでに成長した。鉄は熱いうちに鍛えなければならない。婦人部長に、妻の石川英子を任命することで、若い二人が力を合わせて新風を吹き込めば、小岩支部も新たな躍進があるだろう″――戸田は、こう期待したのである。
 いずれにしても、男女青年部出身の二人が、支部の最高責任者となって指揮を執る時、どのような働きをするか、一つの試金石とも思われた。
 第一部隊長の後任に、山本伸一を任命したのは、伸一を、そろそろ第一線に出す時が来ていることを、痛感していたからである。伸一には、特に訓練に訓練を重ね、機も、もはや十分に熟しきっている以上、それは当然の決断であった。
 一月二日は、山本伸一の二十五歳の誕生日であった。その夜、彼は任命を受けたのだ。
 伸一は、凛然として、この年を戦い切る覚悟を新たにした。批判力と探究心に燃える青年を率いて、果たして、どこまで戦えるか、徹底的な闘争を、わが心に強く誓ったのである。
 彼には、なんの不安もなかった。困惑もなかった。未来への若々しい挑戦だけがあった。待機の姿勢は完壁であったのである。彼は、既に飛翔しつつあった。
 戸田は、人事の発表の直後、小岩支部の新旧支部長交代式と、第一部隊の新部隊長の就任式とを、早急に開催することを命じた。
 「今夜、こうした決定をみた以上、即座に態勢を整えたい。いつにするか?」
 戸田の性急な話に、石川は答えた。
 「東京に帰って、全支部員に通達しなければなりませんから、十日ごろにいたしたいと思います」
 「十日? 遅いな。一日一日が真剣勝負だ。できるだけ早い日に決めなさい。支部員への通達に一週間もかかるようでは、組織は死んでいる。五日はどうだ。五日にしたまえ。伸一の方は六日にしなさい」
 厳命である。
 二日夜の発表は、まだ、居合わせた幹部だけしか知らないことであった。それが五日に交代式を挙行しなければならぬというのだ。石川が戸惑うのも、無理からぬことであった。
 だが、考えてみると、今、総本山には、ほとんどの地区部長や班長が来ているわけであった。その夜、直ちに小岩支部の登山者に、人事の発令と、五日の交代式が伝えられたのである。新しい動きを察知した同志が、夜半まで準備に動き回ったことは言うまでもない。
 戸田城聖は、四日、快晴の総本山を後にして帰京した。
5  その翌日の正午には、戸田は、東京・千代田区の中華料理店に、支部長や部隊長の首脳幹部を招いて、新年会を聞いた。一同の旺盛な食欲は、並ぶ大皿を、さっさと平らげていく。そして、会の半ばに歌が始まった。「さんさ時雨」を歌う人もあり、「稗搗ひえつき節」「田原坂」と名人が多い。なかには、流行歌を歌う人もあった。
 やがて、青年部の中道秋雄が一人立って、耳なれぬ歌を、よく通る声で歌いだした。
 歌は、男性的な強さとともに、悲哀のこもった格調のある調べであった。
  祁山きあzん悲秋の風更けて
  陣雲暗し五丈原
  零露れいろあやは繁くして
  草枯れ馬は肥ゆれども
  蜀軍の旗光無く
  鼓角こかくの音も今しづか
  丞相病あつかりき
  丞相病あつかりき
 言うまでもなく、土井晩翠の「星落秋風五丈原」の詩で、諸葛孔明の晩年の苦衷を歌った名作である。
6  山本伸一は、前日の四日の夕刻、土井晩翠の詩集を独りひもといていた。
 その時、かつて好きであった、この″五丈原″が、光るように目にとまった。彼は、悲しみをはらんだ高い格調に魅せられて、数回繰り返して読んだ。
 その夜、七人の同志が、彼のところに押しかけてきた。第四部隊の幹部長であった彼が、第一部隊長に就任したことを知って、祝いに駆けつけたのである。彼は一同に、すき焼きを振る舞いながら、″五丈原″を思い出し、朗読した。
 この時、中道秋雄が、″五丈原″の曲を知っていることを告げた。歌う中道について、一同は和し、何回も繰り返したのである。
 「詩もいいが、節もいい」
 誰かが感嘆して言った。
 伸一は、詩の意味を、彼なりに解説して聞かせた。
 「諸葛孔明という英雄の心情が、実によく表現されていると思わないか。
 彼は病んでいた。病は重かった。味方は負け戦だ。彼の病気を敵に知られではならない。病んでいる彼の胸に去来するものは、思わしくない戦況と、先王の深い信頼と、国の命運であったと思う。
 王道を旨とする諸葛孔明にとって、戦乱に苦しむ民衆のことを思うのは辛かった。そして、二十数年前、先王に仕える以前の、あの平和な日々が、懐かしく思い出されるのだ。
 彼は、今、秋風吹く五丈原に病んで、胸一つに壮烈な孤忠苦心の思いをいだいていた。そして、天地は悠久である……」
 一同は、しんと静まり返って聴いていた。
 部屋には、何か深いものが流れていくのが感じられた。伸一は、この名詩を、あふれる思いで語っているうちに、ふと、ある思いに立ち至った。
 ″これは、広宣流布に一人立ち向かう、毅然たる戸田先生の心情に、どこか通じるところがあるではないか″
 伸一の思いは、居合わせた全員の心にも伝わった。真の同志の心は、直ちに心底から響き合うものだ。今、青年たちの胸が、思いもかけず激しく揺さぶられたのは、伸一の心情に、知らず知らず感応したからであろう。
 伸一は、中道に向かって言った。
 「この歌をひとつ、戸田先生に、ぜひ、お聞かせしようではないか。中道君、君が歌うんだ。頼むよ。ところで君、よく知っていたね」
 「陸軍幼年学校にいた時に教わったものですが、今の話のように、そんな深い意味があるとは、ちっとも気がつかなかった。ただ、なんとなく好きな歌だったので、今も覚えていたんです」
 今も、どこか幼顔の残っている中道は、こう言って、はにかんだ。
 伸一は、さらに言葉をついで、皆に言った。
 「ともかく、諸葛孔明の一念は、恐るべき崇高さと、純粋さを保っていたにちがいない。彼が死して後なお、いわゆる『死せる孔明、生ける仲達を走らす』などという、歴史に名高い逸話が残っているのも、彼の一念の強靭さにあったと思う」
 青年たちは、また歌いだした。
 夜は、静かに更けていく。一同は、満ち足りた一夜を感謝する思いで席を立った。別れ際に、伸一は、中道にひとこと言った。
 「明日の新年会で、先生にこの歌を、必ずご披露しよう。それまでは、秘密だよ」
7  こうして、中道秋雄が、新年会で、この″の五丈原″を歌いだした時、山本伸一は、聴き入る戸田の顔を、じっと見つめていた。
  夢寐むびに忘れぬ君王の
  いまわの御ことかしこみて
  心を焦がし身をつくす
  暴露のつとめ幾とせか
  今落葉の雨の音
  大樹ひとたび倒れなば
  漢室の運はたいかに
  丞相病あつかりき
 数十人の首脳幹部は、この音律に魅かれていった。だが、漢語の多いのに戸惑っているようでもあった。″なんの歌であろう″と、顔を見合わせている人もある。
 ところが、戸田城聖だけは、「今落葉の雨の音 大樹ひとたび倒れなば……」の箇所になると、見る見る表情は険しくなり、憂いに満ちた顔になった。そして、彼は、涙さえ浮かべたように恩われたのである。
  四海の波瀾收まらで
  民は苦み天は泣き
  いつかは見なん太平の
  心のどけき春の夢
  群雄立ちてことごとく
  中原鹿を爭ふも
  たれか王者の師を學ぶ
  丞相病あつかりき
  
  嗚呼南陽の旧草廬
  二十餘年のいにしえの
  夢はたいかに安かりし
  光を包み香をかくし
  隴畝ろうほに民と交われば
  王佐の才に富める身も
  たゞ一曲の梁歩吟りょうほぎん
  丞相病あつかりき
 戸田は、じっと聴いていた。耳を澄まして聴いていた。今まで多く歌われた歌のなかで、これほど激しく彼の胸を打ったものはない。時に、うつむきかげんになり、時に天井を仰いだりしていた。
  成否をたれかあげつらふ
  一死盡くしゝ身の誠
  仰げば銀河影冴えて
  無數の星斗光濃し
  照すやいなや英雄の
  苦心孤忠の胸ひとつ
  其壯烈に感じては
  鬼神もかむ秋の風
 いつしか、厳粛な空気が漂っていた。座は、なぜか荘厳ともいえる雰囲気につつまれていった。やがて一同は、戸田の、ただならぬ様子に気づいた。戸田は、メガネを外した。そして、白いハンカチを目に当てた。
  嗚呼五丈原秋の夜半
  あらしは叫び露は泣き
  銀漢清く星高く
  神祕の色につゝまれて
  天地微かに光るとき
  無量の思もたらして
  千載の末今も尚
  名はかんばしき諸葛亮
8  中道は、歌い終わった。一人、戸田は、慟哭せんばかりの姿で動かない。余情が、寒い正月の静まり返った街々へ、流れていくようであった。
 皆は、拍手も忘れて、ただ呆然としていた。戸田の姿に感動はしたが、歌には、なんの感動も示さなかった。
 戸田は、何かを連想しながら、中道に言った。
 「いい歌だ。もう一度、歌って聴かせてくれないか」
 この時、山本伸一も、すっくと立ち上がった。二人は、高く、低く、合唱し始めた。歌は、朗々と響いて終わった。
 戸田は、二人に促した。
 「もう一度、歌いなさい」
 二人は、さらに声を励まして歌い始めた。戸田も、口ずさんでいる。
 いつか手拍子が入った。歌声は、さらに大きくなっていった。強い芳香が漂うような、感動の劇となった。
 戸田は涙を浮かべ、時に一筋、二筋流れる涙を抑えようともしなかった。そして、歌が終わると、また、「もう一度!」と言って繰り返させるのである。結局、歌は六回も繰り返された。
 こうして一同が、歌調の意味がわかりかけた時、一人、その心を知り尽くしていた戸田は、広い額を上げて語り始めた。
 「君たちに、この歌の本当の精神がわかるか。決して単純なものではない。ぼくには、天に叫び、地に悲しむ、孔明の痛烈な声が聞こえてきてならないんだ。誰でもよい、感想を言ってごらん」
 厳しい口調である。
 一同は複雑な雰囲気に押されて、発言する人もいなかった。
 「わからんか? わからんだろうなぁ」
 戸田は、嘆くようにつぶやいた。
 「歌は、心で聴くものだ。そうすれば、その歌の精神が明瞭にわかるだろう。聴く心がなければ、言葉はわかっても、その歌の精神は、わかるはずがない。詩は、諸葛孔明の死に瀕した時の苦哀を歌つてはいる。さぞかし辛かったであろう――と思えば、それまでの世界の歌である。
 諸葛孔明の心情が、私の心底深く訴えるところのものは、そんな感傷のみではない。使命に立ち、使命を自覚した人間の責務と辛さです。諸葛孔明には、ぜひとも成し遂げなければならぬ使命があった」
 粛として、辺りは声もない。戸田は次第に、自己の世界に近づいていった。
 「しかも、孔明は、明日をも知れぬ断崖絶壁の命となっている。味方の軍勢は負け戦の最中だ。このような瀬戸際に立った時、人は、何をどう考えるか。悔恨などという生やさしいものではない。まして、あきらめることができるものではない。しかし、このままで、今、死ななくてはならない。黙然とて、頭を独り垂れる時、諸君ならどうするか?」
 戸田は、孔明の心にわが心中を重ねて語ると、しばらく口をつぐんだ。
 「この時の孔明の一念が、今日も歴史に生き続けているんです。私が、今、不覚にも涙を流したのは、この鋭い一念が、私に感応を呼び起こしたからだ。
 これだけ言っても、まだ諸君は、わからないと思うから――あえて言うならば、まず最初の一節は、疲弊の極みにあった宗門の姿ではないだろうか。誰が、それを心から憂えたか。丞相は、いったい誰だ!
 その次は、夢にも忘れぬ大聖人様の御遺命を、わが使命として身命を賭している者のことだ。すなわち、大樹がひとたび倒れたら、日蓮大聖人の仏法の命運は、いったいどうなることだろう。私も、今や病気だらけの生身の体だ。私が、ひとたび倒れたら、広宣流布はどうなるか。私は、尊い偉大な使命を自覚するがゆえに、ほかは誰一人、それを自覚しないがゆえに、涙なくしては考えることができないのです。私は、今、倒れるわけにはいかないのだ。死にたくも死ねないのだ」
 切々たる言葉であった。至極の叫びであった。この一言は、等しく一同の胸を突いた。そして彼らは、自らの歌の理解が、いかに浅かったかを恥じて聴いていた。電撃に打たれたように、真剣に聴き入った。
 「次に、『四海の波瀾収まらで……』とあるが、今も昔に変わらぬ乱世である。民衆は、神も仏もあるものかと、苦しみあえいでいるではないか。広宣流布の実現した平和世界も、われわれは想像のなかでは描くことができるが、現状の社会では、それも一片の春の夢にすぎない。野心と陰謀をたくましくした、多くの指導者たちは、見苦しくも中原に鹿をって争っている。そのなかで、真の平和楽土を築こうなどという、崇高なる決意で立っている者は、誰一人いない。残酷非情な戦いが、乱世の原理というものだ。
 次の『鳴呼南陽の旧草廬……』――これは、諸葛が、何を好んで、蜀の宰相になって、苦しまねばならなかったのか。彼は、二十数年前のように、南陽の地で、農民と親しく交わり、冗談を言い、笛を吹いていようと思えば、それもできたはずであった。しかし、民の苦しみを救うためには、それも許されなくなってしまった。
 私も、広宣流布の使命を自覚するまでは、思う存分、働いて、酒でも飲みながら、この世を面白おかしく送ろうと思えば、できないことでもなかった。何を好んで、寝ても覚めても、厳しい使命の実現に骨身を削らねばならんのか。こうして、諸君と共に戦っているというのは、不思議といえば、不思議なことだ」
9  戸田は、弟子をかばいながら、自身の深い心境を語り続けるのであった。
 歌詞の説明は、「成否を誰れかあげつらふ 一死盡くしゝ身の誠 仰げば銀河影冴えて……」の段に入った。
 その背後に去来するものは、まさに彼自身の姿でもあった。
 「ここは、世間的な野心などというものでは全くない。時代を、苦しんでいる民衆を、全衆生を、永遠に根本から救済するということは、平凡な動機などでは考えられない大事業だ。これ以上の大事業が、どこにあるかと私は言いたい。その成否については、人は勝手なことを言うだろう。どんなことを言われようとも、身を賭して、広宣流布への誠を尽くす以外に、なんの方法があろうか。
 今の私の心中を、誰が、いったい理解しているだろう。私の孤独は、ここにある。私は、凡夫だ。大聖人様だけが、御本尊様だけが、ご存じだろう。そう思えば、初めて大勇が湧いてくる。私には、それしかないのだ」
 平常の戸田とは、違っていた。彼の胸奥の吐露は、言語となって空間に響き、一座の人びとの内面を深く統一していった。それはまた、自らの心をも凝視するかのようであった。
 「『鳴呼五丈原秋の夜半 あらしは叫び露は泣き』の最後の段にいたって、諸葛孔明は、遂に死ぬのだが、悲しいことに、使命の挫折を歌っている。孔明の名は、確かに千載の後まで残るには残ったが、挫折は挫折です。孔明には、挫折も許されるかもしれないが、私には、挫折は許されぬ。広宣流布の大業が挫折したら、人類の前途は真っ暗闇だからです。
 誰かが、この大業を遂行してくれるなら、私は、いつどうなってもかまわない。しかし、今が今は、誰一人いない。諸君をいくら信頼しても、どうにもならないのが現状なんだよ。どんなに辛くても、いやでも、誰がなんと言おうと、今の私は、重い使命に、一人生きる以外、仕方がない。誰も知らぬ、誰も気もつかぬところで、私は、体を張ってやるより仕方がないのだ。私を支えているのは、ただ大聖人様の、御照覧への確信だけです。
 このことを思う時、初めて随喜の涙も流れてくる。今夜の″五丈原″の歌が、私の心中を極めて近く表現してくれているから泣けるんです。
 少しは、わかってくれたかね。もう一度、歌おうではないか」
 率直であった。誇張もなければ、偽善もない。澄んだ感情は、人びとを揺り動かさずにはおかなかっ
  祁山悲秋の風更けて
  陣雲暗し五丈原
  零露の文は繁くして
  ……………………
 またも、″五丈原″の歌声が響いた。
 歌の心と、戸田の心とを知った人びとは、深い感慨をもって、その歌声に耳を澄ましていた。そっと目頭を押さえている人もいた。
 戸田は、じっと瞑想しながら、彼らの歌声に耳を澄ましていた。そして、歌をかみしめるかのように、身動きもしなかった。
 この後には、もはや、なんの歌も続かない。続く必要もなかった。新年会は、こうして、″五丈原″の歌で、午後四時半に終わったのである。いや、まさに新年は、この歌で始まったといってよい。
10  この日は、次の会合が待っていた。夕方から、常泉寺で、小岩支部長の交代式が予定されていたのである。戸田は、北風のなかを向島に向かった。
 定刻午後五時三十分、集って来た小岩支部員は、既に本堂を埋め尽くしていた。突然の支部長の交代に、彼らは、不安と期待をもって、戸田を迎えたのである。
 交代式は、支部旗の返還に始まり、拍手のなか、新支部長・石川幸男への授与に移った。
 「この支部旗を辱しめないように、奮闘しなさい」
 厳とした戸田の声が響いた。
 前支部長・富山一作の、感慨を込めたあいさつ、新支部長・石川の就任の決意や、泉田江東総支部長ら幹部のあいさつに続いて、最後に戸田が、演台の前に立った。
 戸田は、支部員の一人ひとりに語りかけるように、穏やかな口調で話しだした。
 「富山君も、よく頑張ってくれた。それは、私が、いちばんよく知っている。実際、見ていて涙ぐましいほど働き続けたが、誰も、これについていかない。地区部長も、班長も、誰も、一緒にやろうという者がいなかった。これを見ていた私は、辛かった。それで、考えに考え抜いて、今度、はっきり腹に決めて実行に移したんです。
 私は、昔から、小岩をこよなく愛してきた。今も、そうです。愛するがゆえに、今度の人事を断行したことを知ってもらいたい」
 戸田の穏やかな口調は、いつか急変して、激越な調子に移っていくのが感じられた。
 「今、小岩は低迷しているが、反対に隆々と栄えているのは蒲田支部です。陸続と人材が育ち、いくら本部へ引き抜いても、まだ満ちあふれでいる。こうなると、功徳は支部内に充満してくる。それに対して、小岩は不景気な人たちばかりではないか。地区部長、班長諸君は、これを機会に大いに頑張って、生活を革命し、早く幸せになりなさい。
 会長に応えんとするならば、蒲田のように、広宣流布を担う、たくさんの人材を育てなさい。王者の気持ちをもって戦いなさい。『小岩よ、立て!』――この覚悟、決意、情熱が、皆さんの胸に伝わらなかったならば、もはや、私の弟子ではない。また、支部長に愚痴なんかこぼすようでは成長しませんぞ」
 鋭い視線で場内を見渡して、戸田は、口をつぐんだ。
 居並ぶ幹部たちは、滝に打たれるような思いで聴いていた。
 一九五三年(昭和二十八年)という年のスタートにあたって、戸田は、停滞していた一支部の飛躍のために、全精魂を注いで、新たな布石をしたのである。時間は短かった。午後六時三十分には散会となった。外は雨であった。
11  翌一月六日夜――青年部の新人事にともなう就任式が、池袋の常在寺で行われた。青年部員五百余人が出席した。定刻の午後六時三十分には本堂を埋め、式の開始を待っていた。
 前日とは打って変わって、今日は快晴である。
 戸田は上機嫌で、笑みを含みながら会場に姿を現した。
 山際男子部長の開会の辞が終わると、清原指導部長が辞令を読み上げ、部隊旗の返還・授与が始まった。戸田の手から、男子第一部隊旗を、山本伸一が受け取った。女子第二部隊旗は、石村久子に授与された。部隊旗を掲げゆく誇りと、責任の重さが、会場の一人ひとりの胸に染み通るような授与式であった。青年たちの情熱は、この部隊旗を、敢闘の歴史のなかで燦然と輝かせていくにちがいない。
 この日、あいさつに立った山本伸一は叫んだ。
 「いかなる困難があろうとも、微動だにせぬ強固な信心と実行力とをもって立ち、戸田先生の大勝利の日まで、全力で戦い抜く決意であります!」
 それは、師を守り抜かんとする、若々しき弟子の師子吼であった。
 伸一が話をしている時、瞬間、戸田は目を落とし、物思いに沈んでいるように見えた。彼は、掌中の珠を、いよいよ表舞台に出す誇りとともに、その一方、心の隅では、一抹の寂しさを感じていたのである。
 ″伸一も、いよいよ部隊長か。手もとに引きとめておく時期は終わった。大東商工の業績も、順調に伸びているし、伸一を学会で思う存分に暴れさす時期が、熟してきた。何よりも、広宣流布の勝敗を決定づける年だ。やむを得ない。ずいぶん、事業面でも苦労をさせてしまったが、その苦労に耐えた次に、今度は、広宣流布の第一線で苦労してもらおう。今日は、晴れ晴れとした飛翔の日のはずだが、巣立つ子どもは、やはり親に寂しさを残していくもなのだろうか……″
 事実、伸一は、一九四九年(昭和二十四年)のころから始まった、戸田の事業のたび重なる挫折によって、大部分の社員が去っていくなかを、一人、踏みとどまり孤軍奮闘したのである。文字通り、八面六臂の活動を続けなければならなかった。病弱な彼であっただけに、その戦いは、二重の苦しさをともなった。そのため、学会活動から遠ざからざるを得なければならない日々であった。しかし、人びとのなかには、活動に参加できない伸一を、一種の退転と決めつけ、非難を浴びせる者さえいた。
 ともあれ伸一は、戸田の事業を渾身の力を出して守ることが、今、広宣流布という偉業のために、ぜひともなさねばならぬことと信じていた。そして、それを実践できる者は、自分以外に、誰一人、いないことを確信していたのである。辛い確信であった。生きるか、死ぬかの危機の連続であった。
 こうした辛苦の累積は、いつか戸田の一切の事業の基礎を、見事に盤石ならしめたのである。戸田は、やっと山本伸一を、最前線へ手放す決心をした。
 五三年(同二十八年)の飛翔は、伸一にとっても、無限の空へ向かっての羽ばたきであった。
12  夜の戸外の厳寒に対して、場内には、いつか熱気がこもり、汗ばむ人もいる。青年部を代表して、十条男子第二部隊長、咲山女子第三部隊長、関青年部長が祝辞を述べ、泉田筆頭理事も、青年部の前途を祝してあいさつした。
 最後に、戸田城聖は、意外に厳しい表情で腕を後ろに組み、演台から、やや離れて語り始めた。その夜、彼は、新任の人事については、一言も触れなかった。
 「学会が発展しているとはいうものの、いまだ二万世帯にしかいたっていない。私の生涯の目標としている七十五万世帯達成を考える時、道は、はるかに遠く思えるのです。しかし、広宣流布は、断じてなさねばならない。この目標達成ができなかったならば、私の葬式はしてくださるな」
 五一年(同二十六年)五月三日――全会員の心に衝撃を与えた、会長就任式での、あの発言が、一年半後の、この夜、突如として、また、彼の口から発せられたのである。
 現在までの学会幹部の陣容では、この目標の実現は、とうていできないことを、彼は、苦慮していたにちがいない。一年半という過去の実態から見ても、それは、あまりにも空想に近かった。彼は、一人、悩む日々が続いたのである。
 戸田は、山本伸一に視線を注ぎ、言葉をついだ。彼は、この就任式で、伸一の使命を再び確認しておきたかったのである。
 青年部員たちは、息をのんで聴いていた。
 「かく考える時、今後の熾烈な闘争において、さぞや大難もやって来よう。その時、願わくは支部旗、部隊旗を立てて、広宣流布達成の道を勇敢に進んでもらいたい。そのためには人材が必要であり、このたびの新編成にあたっては、今後の大作戦が絶えず私の胸中にあるんです。いつでも必要に応じて、私の手駒となる人材が輩出してほしいのだ。青年部員は、一人残らず、私の手駒になってもらいたい。
 青年部の幹部から、今度、支部長を出したが、そのように今後の全国闘争には、ぜひ青年を出したいと思う。諸君も、いつ、いかなる大任を受けても、悠然と引き受けてもらいたい。それには、一層、信心に励み、教学を身につけておかなくてはなりません。
 今年あたりから、学会も、ひどく忙しくなるものと思う。『今でも忙しいのに、これ以上忙しくなってはたまらない』などと、弱音を吐いてはいけません。いかに忙しくなっても、『よしきた』と、大きく羽ばたく諸君であることを、私は期待し、信頼するものであります」
 彼はまた、最後に念を押して言った。
 「伝持の人がなければ、木石が衣鉢を持っているに等しく、法が広まることはない。広宣流布の時といっても、いつの日か来るであろうというのではない。因果倶時の原理からしても、今のこの瞬間の一念によって決まるんです」
 戸田の、青年たちに対する期待と信頼は、彼らの心を奥底から揺さぶった。彼らは若々しく澄んだ瞳を輝かせ、重大な使命を感じて求道心を燃やしていった。
 この夜、司会の森川一正は、感動して閉会の辞を述べた。
 「青年部員全員は、一人も漏れることなく、ただ今の先生のお言葉を肝に銘じ、断じて先生の大業を虚妄にしないことを、ここに誓おうではありませんか!
 いよいよ青年部は、重大なる使命を自覚すべき時を迎えたと思います。その自覚において、全員、広宣流布の最前線に躍り出で、思う存分、働こうではありませんか!」
 熱烈な拍手が、会場を揺るがした。
 最後に、山本伸一が立って、戸田に応えるように、″五丈原″の歌の指揮を執った。
 若々しい歌声は、力強く、おのおのの決意を表現するかのように、狂いなく一致したリズムを刻んでいく。またも戸田は、ひとり涙を流していた。彼は、歌の心に泣き、青年を愛する指導者であった。″五丈原″は、数回、繰り返された。
13  新しい人事の布陣は続いた。
 十日、男子青年部会では、各部隊の幹部室クラスの異動をみた。十八日には、女子第五部隊長であった森川ヒデ代が、鶴見支部の婦人部長に任命されている。その後任に大島富子が任じられた。
 このほか、大阪支部と仙台支部の発展に備えて、支部幹事が支部長待遇に昇格。中野支部では、青年部から、支部幹事や地区部長にと巣立っていった人もいる。新しい人材群の台頭を物語るものであった。
 聡明な人事は、組織を潤沢にさせ、人材を伸ばす。愚かな人事は、組織を壊し、人材を殺してまうものである。
 新年初頭から続いた、これらの新人事は、すべて一九五三年(昭和二十八年)の飛翔に備えての布石であったことは、言うまでもない。この思い切った人事は、これまでには見られないことであった。それは、遂に、この年、筆頭理事にまで及ぶのである。
 一月二十七日になると、戸田を囲んで、第一回の地区部長会が開かれた。彼は、これまで最高幹部を手塩にかけて育ててきたのだが、いよいよ指導訓練の対象を地区部長に移したのである。
 戸田は、この会合の初めにこう語った。
 「いよいよ今年は、五万世帯の折伏に立つ時です。私としては、どうしても今の地区部長諸君を、支部長級までに育て上げねばならぬと決心したんです。そこで今日は、全地区部長に集まってもらったわけです」
 全国の地区数は、当時、九十三である。
 この夜、西神田の本部は、支部長も参加し賑やかであった。馳せ参じた人びとには、学会を支える自負と誇りがあった。
 「これからの支部長は、総支部長の自覚で、身も心も立派な貫禄をつけてほしい。リーダーとしての実力をつけてほしいんです。今年から、本部も、そのような方針で臨み、事務的な連絡も、本部から、直接、地区部長宛てに、どしどしすることとする。地区部長諸君は、大地区部長として、支部長のもとに、思う存分に働いていただきたいと思います。
 地区部長のなかには、班長や組長を抑えつける者もいるが、それは、断じていけません。力ある地区部長として、地区員から信頼され、尊敬されるようでなければ駄目です。
 支部長も、少なくとも組長までは細かく心を配り、その地区の人たちの信心や生活状態をちゃんと見なかったら、創価学会の支部長の資格はありません。
 今年は、どんどん幹部の人事の刷新を断行します。広宣流布の前進のために、やむを得ないのだ。怨嫉するようなことが、あってはなりませんぞ。いよいよ決起の時が来たのだ。どこまでも広宣流布に徹していただきたいのであります」
 あいさつは簡単であったが、彼の意気込みは、地区部長たちの胸に深く伝わった。
 地区部長数人が、決意を発表した。いずれも、待っていたと言わんばかりの、元気はつらつたるものがあった。
 上昇気流は、既に各地区に流れていたことを、戸田は知った。彼は、満面に笑みをたたえ、これら地区部長の、これからの訓育を、切実に考え始めたのである。
14  質疑応答に移った。学会伝統の対話である。何人もの手が一斉にあがり、活発な質問が展開された。
 ――指導者としての心構えは?
 「指導者たる者は、極力、本部に接近し、本部と呼吸を合わせてもらいたいし、私の一念に触れるよう心がけてもらいたい。信心や、折伏や、人材としての訓練、指導を、きちんと受けた人は、皆、立派に伸びています」
 ――地区を盛り上げる要諦は?
 「御本尊様を、まず、しっかり拝むことです。勤行を、しっかりやることです。地区員に対しては、慈悲の目をもって見、そのなかにも信心においては、毅然たる確信がなければならない。基本的には、ありのままの自分でいいんです。
 つまり、相手と同苦し、しかも確信をもって、正しい信心の姿勢を教えていけるようになりなさい。学会幹部は、人のため、法のため、広宣流布のためにあるのです。あくまでも相手のためを思って、包容していくことを忘れずに」
 ――退転状態の人を、再び信心に奮い立たせるためには、まず、何をなすべきか?
 居合わせた地区部長の、誰もが聞きたい問題だった。
 「退転していった人は、必ず退転する理由をもっている。その人にとっては十分な理由です。それがつまらない、取るに足りない理由であっても、ともかく理由をもっている。それが、こちらでは、さっぱり気がつかない。そんな、ちょっとした理由が多いものです。
 その理由と動機を、話し合っているうちに、相手がしゃべるようになれば、後は簡単だ。その理由の誤っていることを、仏法上から、信心のうえから納得させればいいだろう。それが退転の理由にならないことがわかれば、また信心の世界に戻って来ます。
 要するに、理由を語るようになるまでの、辛抱強い対話が大切になってくる。どうか時間を惜しまず、相手の立場を理解して、誤った考えをもつにいたった急所を、納得のいくまで教えてあげてほしい」
 質問は、次から次へと続いていった。個人的な身の上相談的な質問は、ほんのわずかしか出なかった。指導者としての責任感と目的があったからである。また、吸収力の旺盛なところは成長も早い。
 戸田は、地区部長としての彼らの自覚が、いよいよ高揚してきたことを、この夜、肌で感じたにちがいない。彼は、心で喜んで、居並ぶ支部長たちに向かい、″どうだ、地区部長たちは、こんなにも育ってきているではないか″と言わんばかりに、最後にこう語った。
 「支部長諸君は、絶えず人材を見つけるようにしてもらいたい。地区部長級の人材が、いつでも最高幹部となって指揮を執れるように、心にかけていなければなりません。
 今年の暮れには、学会は、どうなっていると思う。増大する世帯数を、しっかり支えていくためには、それに比例する以上の人材が育成されなければならない。それがなされなければ、組織は崩壊してしまう。これは恐ろしいことだ。
 今は、いい。今の学会は、これだけの地区部長で盤石に支えている。しかし、一年先、三年先、五年先、十年先のことを考えると、今の幹部諸君も、大いに成長しなければならないし、人材も陸続と輩出しなければならぬ。私たちが、常に心すべきは、この点です。これが最大の責務です。毎日、折伏だけに追われているようでは、とうてい、一軍の将となることはできないだろう」
 遠大な人材育成の構想を、戸田は、支部長たちに悟らせるつもりであった。そして、全員に向かって、こう話を結んだのである。
 「支部内の人事刷新を行う場合、独断で勝手に行つてはなりません。それでは、いつしか偏見に陥ったり、独善になっていく。必ず本部と相談し、みんなで適正な案を練ることだ。本部も、人材本位の考えを深くもっています。
 さて、地区部長諸君は、一年後の地区部長会に、また出席できる確信をもって、前進し、闘争されんことを願うものであります。ともかく支部長は、誰が見ても立派な地区部長を選んでもらいたいものです」
 この時から、創価学会は、活動の機軸を、支部単位から地区単位に広げていったのである。
 戸田の指導は、単なる言葉だけの観念論ではなかった。指導がそのまま実践に移され、具体的な目標が定められるように工夫されていた。
 ともあれ、地区部長たちは、今までのように、支部長の陰に隠れていることは、許されなくなってきた。責任と自覚をもった時、彼らは一段と成長した。いやでも、広宣流布の第一線に躍り出る覚悟を、新たにしなければならなくなった。
15  新しい大道をつくるためには、再び道を掘り返さねばならない。
 一月三十日の幹部会では、地区単位の折伏成果が、華々しく発表された。布教世帯数は、二千六百と報告されたのである。一年前の一月の、わずか六百三十五世帯と比較する時、既に四倍強の実力を備えるにいたったわけである。
 本部や支部の人事も、なお続いていた。二月十七日付で、理事の森川幸二が、泉田弘に代わって財務部長に任命された。また、文京支部、志木支部の婦人部長に、それぞれ新しい人が抜擢されている。その他、地区幹部の人事は、小岩支部をはじめとして、大阪、仙台、中野、志木と続いた。班の幹部にいたっては、各支部とも、全国的に数多くの人事が発表された。
 こうした躍進の態勢を、全国的な規模で整えるために、戸田城聖は、一月三十一日、大阪へ赴いた。真新しい支部旗の授与のためである。大阪支部は、ここ半年で、五百世帯の新会員が誕生していた。
 大阪の戦野は広い。だが、この関西も、既に離陸するばかりの態勢に入り、いよいよ飛翔の瞬間を迎えていたのである。
 戸田の大阪滞在は、二日間であった。だが、座談会、御書講義、個人面接など、分刻みの指導が真剣に続けられた。わずか一日か二日の指導であっても、彼は、幾十日にも相当する、全精魂を注いでの戦いを展開した。
 「大阪は、必ず発展するよ。こんなに人がいるもの」
 彼は、ニコニコ笑いながら、街行く人びとを眺め、支部員たちを激励するのだった。
 「大阪から、貧乏と病気を追放しよう。そのために、私は大阪に来る。共に戦ってくれたまえ。大阪支部も、東京と並んで発展する時が、必ず来るだろう。頑張れば、頑張るだけの値打ちのあるところだ。しっかり信心して、一人残らず幸せ者になってもらいたいのだ」
 二日目の夕方、支部旗の授与が終わると、戸田は、方便品の講義を一時間半にわたって行った。初めて聞く、明快にして深遠な講義に接し、大阪の学会員は、目を見張る思いだった。庶民のなかに初めて入った、生きた仏法哲学の講義である。感動は決意を刻み、人びとの胸のなかに残った。
 その夜、戸田の一行は、夜行列車で大阪を後にした。歓喜した支部員たちは、一行を見送ろうと、プラットホームにまで殺到した。発車間際まで、戸田を囲んで学会歌を歌い続ける元気な光景が続くのであった。
 三月に入ると、二十六日、二十七日と、戸田は、もう一つの地方拠点、仙台に赴いている。大阪より布石の早かった仙台支部は、実質的な成長過程に入っていた。彼は、仙台の成長を喜び、「三大秘法禀承事」の講義を通し、地涌の菩薩の自覚を強く訴えた。さらに質問も受け、その一つ一つに対し、生命を振り絞るように、真剣に指導した。参加者は、仏法の深さに目を輝かせるのであった。
 寸時も休みのない指導の合聞に、戸田は、仙台の若き地区部長と、女子部の幹部であった浜澄子の結婚式にも出席し、二人の門出を祝福している。
 こうした、一九五三一年(昭和二十八年)に入っての忙しさは、まさに飛翔の操作の忙しさであった。
 三月三十日、三十一日には、戸田は、九州の八女支部に飛んでいる。同じく支部旗を授与するためであった。
 福岡県八女郡福島町の田山一家は、初代会長・牧口常三郎時代からの学会員であった。牧口は、生前、しばしば九州指導に赴いたが、その時の会員の中心が、この一家であった。
 前年の夏季地方指導以来、この一家を中心として、北九州に広宣流布の布石が始まっていたのである。約二百世帯にまでなっていた。
 戸田は、八女支部旗を、女性支部長・田山光代に手渡した。会場は、授与式が終わると、そのまま指導会に変わった。
 支部旗とともに、古い八女支部も、新しい広宣流布の拠点として蘇生したのである。
 戸田は、引き続いて、八女から、また大阪に飛んだ。牙城の構築を、一段と固めておきたかったのであろう。ここで、四月一日から三日まで、渾身の指導を行った。
 活気のある広い大阪の街では、生き生きとした座談会が、各所で開かれていた。合間には、個人面接の指導が活発に行われた。初めての支部幹部会は、支部始まって以来の大結集となった。大阪は、目覚ましい変貌を遂げつつあったのである。
 最終日には、三百人を超す会員が集い、戸田は、二ケ月前の約束通り、寿量品の講義を行い、有終の美を飾った。
16  慌ただしい日程が続いたが、そのなかには、大きな行事も含まれていた。二月十五日には、埼玉県の川越会館で、五百人の参加をみて志木支部第二回総会があり、三月一日には、目黒の日出学園講堂で、鶴見支部の第二回総会があり、福島、群馬からも支部員が駆けつけ、約千人の結集となった。
 また、三月十五日には、小岩、本郷、向島、城東の四支部からなる江東総支部の第二回総会があり、豊島公会堂は、意気軒高な学会員によって埋め尽くされたのである。
 いずれも、一年前の総会と比較する時、折伏意欲の旺盛さと、組織の強化の成果が、歴然と見られた。総会での元気横溢した戸田の講演は、懇切適正な指導と激励で、余すところがなかった。それを受ける学会員たちも、一身をなげうって、広宣流布に邁進する決意を示した。
 ともあれ、広宣流布への道の、師弟にして不二の結合の歩みは、徐々に深まっていったのである。
 果たして、全国的に澎湃として起きた折伏意欲は目覚ましく、二月の新入会員は三千五百五十五世帯、三月は三千五百二十一世帯となり、はや確実に、毎月三千世帯を上回る成果を示していったのである。戸田城聖の、五三年(同二十八年)の構想は、現実となったのである。
 三月の本部幹部会で、教育会館にあふれる幹部たちを前にして、彼は言った。
 「こうして皆さんに会うと、非常に懐かしい。息子や娘のように思われてくる。
 私の方は、皆さんが好きだが、皆さんの方は、しっかり信心に励めと言っても、なかなか私の言うことを聞かぬことがある。末法の衆生は、貪・瞋・癡の三毒が強盛であるというが、皆さんも、欲張りで、怒りっぽく、頭が悪いようだ」
 戸田が、こう言うと、どっと笑いが起こった。
 彼は、さらに話を続けた。
 「しかし、近ごろ、皆さんは、奮闘してくださっている。私は、その真心には打たれます。いつも折伏のことが論じられているが、折伏をするのは、皆が功徳を受けるためであります。折伏しようが、しまいが、結局は自分の問題です。
 諸君は、民衆のための、また平和のための闘士であります。人が見ていようと、見ていまいと、日蓮大聖人だけは、ちゃんと御覧になっている。安心なさい。信仰の世界は、長い目で、長い時間をかけて、すべてを見ていくことです。
 今夜は、皆さんの折伏闘争に、厚くお礼を申し上げます」
 戸田は、地涌の菩薩の指導者として、並みいる数百の地涌の菩薩に、敬意を込めて感謝するのであった。
 離陸した創価学会は、一月、二月、三月と、はや確実に飛翔しつつあった。
17  このように、全国的な折伏活動の加速とともに、創価学会の社会的進出の勢いが兆し始めた時期、国内外では、新しい時代の流れが顕著になりつつあった。
 一九五三年(昭和二十八年)一月二十日、アメリカでは、アイゼンハワーが大統領に就任した。この名声高い第二次世界大戦の勇将は、トルーマンの″封じ込め政策″を批判して、朝鮮戦争(韓国戦争)の早期終結と、赤字財政を立て直すことを公約に掲げていた。
 前年十一月四日の大統領選挙に当選したアイゼンハワーは、十二月には朝鮮戦争の前線を訪ねて、休戦の方針を固めていた。だが、休戦会談が始まって一年半が経過しながら、捕虜交換の条件などをめぐって、話し合いは暗礁に乗り上げ、会談は行き詰まっていた。
 その事態を、再び休戦交渉へと動かしたのは、アメリカに続く、ソ連の首脳交代であった。三月五日、首相のスターリンが死去し、代わってマレンコフが首相に就任した。マレンコフは、異なる体制間の平和共存を打ち出し、朝鮮戦争の休戦を、より積極的に推進しようとした。
 三月二十八日には、アメリカ軍司令官のクラークが申し入れていた傷病捕虜交換の提案に対し、北朝鮮側がこれに応じ、四月二十六日、無期中断されていた休戦会談が半年ぶりに再開されたのである。米ソの指導者の交代は、時代の転換点となった。二大陣営が、互いに核兵器を向け合い、抑止力とする″恐怖の均衡″のなかにも、相互の共存を模索する″雪どけ″へと、徐々に向かい始めたのである。
 このころ、日本国内では、第四次吉田内閣が不安定な政局に揺れていた。そのさなかの五三年(同二十八年)二月二十八日、吉田首相の思わぬ失言問題から、政局は大混乱に陥っていった。
 この日、衆議院予算委員会で、右派社会党の西村栄一が、首相の吉田茂が、「国際情勢は、今、楽観すべき状態にある」と述べたことに対して、その根拠を問いただした。吉田が、
 「英米の首脳者が言われておるから、私もそう信じた」と答えると、西村は、外国首脳の言葉の翻訳ではなく、「日本の総理大臣としての国際情勢の見通し」を伺いたいと、痛烈な皮肉をもって追及した。
 この時、吉田が、やや憤然として、「日本の総理大臣としてご答弁いたした!」と言うと、西村は、「総理大臣は、興奮しない方がよろしい。別に、興奮する必要はないじゃないか!」と応じた。
 この発言にムッとした吉田は、総理席に戻る途中、思わず口走った。
 吉田「無礼なことを言うな!」
 ここから、西村と吉田のやり取りが始まった。
 西村「何が無礼だ!」
 吉田「無礼じゃないか!」
 西村「質問しているのに、何が無礼だ。君の言うことが無礼だ。国際情勢の見通しについて、イギリス、チャーチルの言説を引用しないで、翻訳した言葉を述べずに、日本の総理大臣として答弁しなさいということが、何が無礼だ。答弁できないのか、君は!」
 興奮した吉田は、思わず「バカヤロー」とつぶやいた。
 この一言が、マイクに入ってしまったのである。
 西村「何がバカヤローだ! バカヤローとは何事だ! これを取り消さない限りは、私は、お聞きしない。議員をつかまえて、国民の代表をつかまえて、バカヤローとは何事だ。取り消しなさい!」
 西村の強い抗議に、さすがの吉田も、われに返って、失言を取り消した。西村も追及の矛を収め、さらに質問を続けた。
 この事件は、これで一応、収まったかに見えたが、それまでくすぶっていた与野党の対立、そして、与党内の確執が激突する火種となって広がっていったのである。
 直後の三月二日、右派社会党が、吉田の失言に対して出した懲罰動議の採決が行われた。この時、与党である自由党の鳩山派三十七人と広川派三十人が、わざと欠席し、表決は、賛成百九十一、反対百六十二で、総理大臣への懲罰動議が可決されたのである。前代未聞のことであった。
 吉田は、対抗手段として、農相の広川弘禅ら三人を直ちに罷免し、鳩山派との対決姿勢を強めた。議会の運営は停止してしまった。ここにきて、さらに吉田を追い込むべく、三月十四日には、改進党、右派社会党、左派社会党の野党三党が、内閣不信任案を提出し、呼応するように、この日朝、鳩山派の二十二人が自由党を脱党した。
 そのため、不信任案は、二百九十二対二百十八で成立したのだ。これに対し吉田は、衆議院解散で応じたのである。
 発足わずか半年で、第四次吉田内閣は行き詰まり、いわゆる「バカヤロー解散」となって、四月十九日に、第二十六回総選挙が行われることとなった。年度代わりの時期でもあったが、予算案も法案も、あえなく犠牲にされてしまった。
 戸田城聖は、そうした国内外の動向を鋭く見すえつつも、それらには目もくれぬごとくに、ただひたすら、彼自身の大道を、まっしぐらに突き進んでいたのである。

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