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日蓮大聖人・池田大作

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離陸  

小説「人間革命」5-6巻 (池田大作全集第146巻)

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1  鳳は、大地を蹴って飛び立とうとする瞬間、最大の力を出す。
 飛躍的な成長の過程は、幾つかの苦悩の壁を破る道程でもある。苦しみを乗り越えたあとには、見違えるような、広々とした戦野が開けてくるものだ。
 三カ月にわたった笠原事件は、宗門にとっても、また学会にとっても、長く苦しい戦いではあったが、それは、広宣流布の途上における重要な試金石でもあった。
 そして、そのあとには、総本山大石寺での五日間にわたる夏季講習会が、晴れやかに待っていた。八月一日から五日まで、五日間を二つに分けて、前半、後半の、それぞれに参加する人、一日だけ参加する当日グループ、そして全期を通しての参加者と、四つのグループに分かれて講習会に臨んだ。その総人数は、千五百人にのぼり、一年前の一九五一年(昭和二十六年)の夏季講習会参加者九百人に比べて、約七割の増加であった。
 多事多難であった数カ月の間にも、学会は、力強い滑走を続けていたのである。そして、今、轟音を響かせて、滑走から離陸の体勢に移ろうとする寸前であった。
 八月二日、戸田城聖は、宗務院に出向いた。そして、誠告文に対する書状を、宗務院の庶務・教学・財務の三部長列席のもとに、法主の日昇に提出した。戸田が、書状に認めた五重塔の修復を、あらためて願い出た時、日昇は、その志を喜び、こう述ベた。
 「このたびの事件を機会に、ますます折伏の本領を発揮されんことを望みます。なお、五重塔の修復の件は、まことに結構なことで、心してその任にあたっていただきたい」
 戸田は、決意を新たにして、日昇の前を退出した。台風一過、夏の燦たる太陽を仰ぐ思いであった。
 この夜、戸田は、直ちに宗務院の三部長、ならびに総本山の僧侶全員を寂日坊に招待し、一夜の宴を張って言った。
 「四月の記念祭での神本仏迹論をめぐる事件について、先日、御法主上人より、ありがたい誠告文を賜り、本日、その御詫状を奉呈いたしました。なお、願い出の五重塔の修復の儀についても、お許しをいただきました。これで、すべて明確な結末がついたわけであります。
 思うに、宗門興隆の基礎は、僧俗一体となっての本尊流布の活動にあると存じます。今日まで、僧俗、おのおの、その分野において精進してまいりましたが、一体の実がなかったうらみがありました。
 このたびの事件から得た最大の教訓は、僧俗互いにその理解を深め、宗開両祖が機会あるごとに力説なさった僧俗一体ということについて、深く思いをいたすことができたことであります。
 今後、広宣流布達成の日まで、願わくは、このたびのごとき事件を再び惹起することなく、僧俗一体の強い絆を堅持してまいりたいと思うばかりであります。
 今夕は、その第一歩として、ご参集願った次第であります」
 居並ぶ僧侶も、学会の理事、支部長たちも、共に戸田の言葉をかみしめる思いで聞いていた。
 宴は盛会のうちに終わり、今後の一体の精進を、互いに誓い合ったのである。
 夏季講習会は、連日、日昇からの法話と、戸田の御書講義と、清原理事による『折伏教典』の講義の三つを軸として行われた。
 また、それぞれの宿坊では、座談会が活発に開かれた。生き生きとした人間の対話であり、実像であった。なかでも体験談は、どの会場でも引きも切らず続出した。特に、仙台や大阪の、信心してまだ日の浅い学会員の体験談には、目を見張るものがあって、感動の渦を巻き起こした。
 戸田は、この新鮮な感動を貴いものとした。百万言を費やした指導も、心の底からの感動をもって受け止められなければ、いたずらに空転ある。所詮、信心といっても、人びとの生命の新鮮な感動にほかならないからだ。
 その意味から言えば、学会首脳幹部の方は、ここ数カ月にわたる活躍の疲労の影が、さすがに残っていて、指導は十分に打ち込まれたとはいえなかった。
 戸田は、いち早く、これを察知していた。五日間の夏季講習会が終わって、それぞれ総本山を後に故郷に向かった時、彼は、三門に立って、側にいた幹部に、その感想を語った。
 「残念に思ったことは、今年は思いがけない多人数になったために、学会再建当時に見られた厳しい教育、訓練ができなかったことだ。
 夏季講習会は、まだ工夫の余地がある。来年は、もっと教学を中心として、一騎当千の闘士養成のために、徹底的な訓練の講習会にしたいと思うが、どうだろう?」
 戸田の真骨頂は、この鋭さにあった。誰もが講習会の感激に酔いしれている時に、一人、彼だけは急所を外さなかった。そして、その鋭い信心のレーダーで、的確な指標を与えることを忘れなかったのである。
2  講習会が終わると、この年の夏には、もう一つの大きな戦いが待っていた。それは、最初の本格的な弘教の全国的展開である。そのため、講習会を終わって、ほっとする暇もなく、幹部は総出で各地に飛んだ。
 大阪、名古屋、福岡と、三方面における、八月八日から二十五日まで、半月余りの長期間の戦いであった。
 いずれも日本の主要都市で、人口密集地帯であったが、東京方面とは違って、学会員は、驚くほど、まだ少なかった。大阪は四十数人、名古屋は数人、福岡は八女地方に三十人余りが点在するにすぎなった。
 戸田は、全国作戦の構想を、久しくあたためていた。そして笠原事件で、首脳幹部が全国の各地の寺院に率先して飛んで行ったのを見て、いよいよ、その機が熟していることを知り、直ちに実行に移したのである。
 この夏季地方指導で、福岡方面を担当したのは、清原理事、関青年部長はじめ、男女青年部の幹部ら七人であった。
 唯一の拠点は、福岡県八女郡福島町の田山一家である。田山は、牧口時代からの古い学会員であったが、遠隔地のため、本部からの指導の手も十分でなく、三十人そとそこの学会員を維持することが精いっぱいの状態であった。
 このような地に、七人が派遣されたのである。
 派遣隊は、到着すると即座に作戦会議を開いたが、意見は二つに分かれた。八女地方の福島町を拠点とするか、縁故は全くないが、福岡、久留米の都市を中心として折伏の駒を進めるべきか、と迷ったのである。
 結局、前半は久留米に全力を集中して開拓し、後半は福島町の拠点で戦うことに意見の一致をみた。
 炎天のもと、汗にまみれて、見知らぬ久留米の町を軒並みに、「聖教新聞」の特集号と講演会のビラを配って歩いた。あるいは、トラックの上から、「仏教大講演会! 仏教大講演会!」とマイクで叫びながら、ビラを撒いたりもした。文字通り新天地の開拓であった。建設の意気に燃えた勇気ある人びとにとって、むしろ戦いの苦難は、希望と歓喜を呼び起こしていくものであった。
 このような準備活動の末、当日の講演会には、二百五十人余りの人びとが訪れ、会場の講堂を埋めた。講師は派遣隊のメンバーである。
 全力投球の講演が終了すると、講演会場は座談会場に変わり、各グループに分かれて活発な折伏が展開された。そして、十七人が入会を決意したのであるが、そのうち御本尊を受辞した人は十人であった。
 派遣隊の一行は、福島町に戻ると、直ちに激しい闘志を燃やして、次の戦いへの準備活動を開始した。二十日の講演会をめざし、来る日も、来る日も、学会員の縁故者をたどって、歩きに歩いたのである。
 十九日朝、戸田城聖が、飛行機で福岡に到着した。彼は、名古屋、大阪と転戦し、最後に福岡へ来たのである。それを聞いて派遣隊が、どんなに勇躍したかは言うまでもない。
 翌二十日夜の八女公会堂の講演会には、約三百人が集まった。講演会の時間は短縮し、その後の座談会に多くの時間を割いた。一人ひとりとの生命の触れ合いによって、折伏の対話を進めたのである。
 会場での対話から、三十七人が入会を決意し、そのうち二十七人の人が御本尊を受持した。この大勢の入会は、三十数世帯の八女支部にとって、夢想だにもしないことであった。
 まことに信心の躍動は、折伏から始まるといってよい。さらに折伏は進み、久しく、くすぶり続けていた八女支部は、ここで一挙に花咲くように蘇生したのである。その後、組織の整備をしてみると、福岡地方は八十四世帯の陣容となり、七地区が結成された。
 散在する学会員が、派遣隊との別れの二十五日に集合した時、どの顔も元気で笑顔に輝き、来年の夏には、福岡市へも進出しようと、口々に誓い合っていた。
 中野支部の神田丈治をはじめ、七人が派遣された名古屋は、広宣流布の未開拓地で、数人の学会員の住所がわかっているだけであった。もとより派遣隊は苦戦を覚悟してはいたが、焦熱のもと、昼間の苦闘は言語を絶したといってもよい。
 彼らには、頼るべきものは何もなかった。″徳川時代末期、永瀬清十郎が、尾張方面で果敢な折伏活動を展開したので、その時に入信した人びとの子孫が、必ずいるにちがいない。その子孫がわかれば、何かの足がかりになるかもしれぬ″と、かすかな期待をいだく人までいた。ともかく、「落下傘部隊」の覚悟を要したのである。
 講演会の準備活動として、見知らぬ家を一軒一軒訪ねた時、「聖教新聞」の束を小脇に抱えた派遣隊の姿を見て、ある家の主人は、いきなり怒鳴った。
 「うちは、新聞はもう、たくさんだよ!」
 また、ある家では丁重に応対されたが、これも実は、税務署員と間違えられてのことだった。
 八月十二日、商工会議所で、「仏教大講演会」と題して講演会をもったところ、聴衆は約百人を数えた。しかし、講演会に熱が入りすぎて、座談会に移行する時間的余裕を失ったので、座談会は、明くる晩に行うことにして散会した。
 翌十三日夜は、戸田城聖も名古屋を訪れ、派遣隊の宿舎で行われた座談会に出席したが、参加した人は、わずか六人にすぎなかった。
 入会を決意したのは四人で、そのうち御本尊を受持したのは、一人という成果であった。
 苦戦は続いた。神田たちは、炎熱に焼けながら町を歩き続けた。講演会の出席者を、一人ひとり訪ねていったのである。また、縁故者の糸をたどって、ある保険会社の支社長を折伏した。
 こうして二十日までに、ともかく貴重な十一世帯の入会者をみたのである。
 二十日夜の新入会者座談会では、「同志の歌」が歌われ、いささか悲壮な空気が漂った。開拓者の道は厳しかった。どんなに力を込めても、なかなか最初は軌道に乗らない。彼らは、さまざまに試行錯誤し、体当たりの実践をもって、厚い壁を地道に打ち破っていく以外になかった。
 この時の戦いは、華々しい成果をみなかったが、その努力は、決して空転ではなかった。十一世帯という少ない数ではあるが、ともかく後の発展への第一歩を築いたからである。
 二十一日、名古屋派遣隊は、真っ黒に日焼けした顔で東京に戻ってきた。
3  一方、大阪へ向かった原山、小西両理事の一行六人は、広漠とした大阪市のなかに没入した。
 ここには、四十数人の学会員が散在していた。春木支部長をはじめ、入会して日は浅いが、何人かの幹部も育っており、率先して協力を惜しまなかった。
 大阪では、昼間は、それぞれが折伏を行い、夜は数カ所で座談会を開くという方法を、基調としていた。これを実行できる体制が、大阪には、できていたのである。また、講演会も行われた。
 この時の折伏で使われた講演会のビラが一枚、こにある。
 粗末なワラ半紙に謄写版で印刷され、その裏面には、座談会の日時と会場とが列記されている。多い日には、一日四カ所もの会場が載っている。
 どんな文句で講演会をうたいあげていたか、今は懐かしい歴史的な思い出となったこのビラを、ここに写してみよう。
 「仏教大講演会
 第一日 昭和二十七年八月十三日 午後六時
     場所 於天六・北市民館
 第二日 八月十五日
     場所 大阪市大阪城前 於大手前会館中講堂
     主催 創価学会
 来たれ! 病苦に悩む人々よ。生活苦に悩む人々よ。人生問題に迷う人々よ。宿命に泣く人々よ。
 知れ! 百発百中の実験証明あり。科学を指導する大哲学である。一切の宗教にメスを入れる批判の原理である。
 掴め! 祈りとして叶わざるなく、福として来たらざるなく、罪として滅せざるなく、理として顕れざるなきなり」
 そして最後に、「偉大なる大宗教あり」と記されていた。
 裏面の座談会場を見ると、大阪全市から、堺、神戸までの広範囲にわたっている。
 今日から見れば、実に微笑ましいビラである。表現も、いささか素朴ではあるが、まことに簡にして要を得ていた。しかも、文章に勢いがある。それは、まさに大空へ離陸せんとしていた、当時の学の、みずみずしい息吹を、実によく表していたといえよう。
 創価学会という耳なれぬ文字を見て、当時の大阪の人たちは、なんと思ったことであろう。おそらく、″新宗教″の変わり種と考えたにちがいない。
 それでも、人口調密な大阪のことである。十三日夜の北市民館には、七十五人の参加者があった。このうち学会員以外の参加者は四十人であったが、講演に力が入りすぎて、座談的な折伏の機会を逸してしまった。
 しかし、既に、毎夜、各地で聞かれた座談会で、折伏の成果は、かなり上がっていた。たとえば京都の座談会などでは、ある教団の信者十一人が参加し、そのうち九人が入会を決意したのである。
 これは、その教団幹部の長男が、積極的に協力した結果だった。彼は東京で創価学会に入会して、親を手紙で折伏していたが、埒が明かなかった。そこで、今回の夏季地方指導で、原山理事と打ち合わせて、親の家に、その教団の会員を集めていたのである。縁故というものは、不思議なものである。彼の折伏の熱意によって、たちまち仏縁と化していったのである。
 大阪での弘教が盛り上がりをみせていた八月十五日、戸田城聖が、大手前会館の講演会場に姿を現した。
 彼は、予定されていた演題のなかから価値論を中止させ、全体的に時間を短縮して、その代わり、閉会のあとに質疑応答の時間を多くもたせた。そして、その夜は、幾つものグループに分かれて語り合い、折伏を行った。
 臨機応変の、的を射た処置である。戸田の狙いは、常に、一人ひとりの人間を、いかに納得させるかに置かれていた。一人の人間の心の奥の襞までつかむことなくして、民衆救済はあり得ないからだ。人間味丸出しの裸の対話――このなんの虚栄も見栄もない地道な実践こそ、学会精神の骨髄といえよう。
4  この夜の会合では、参集した百余人のなかで、入会決意をした人は九人であった。しかし、戸田を迎えて、派遣幹部や大阪の会員の意気は、いやがうえにも高まっていった。
 この夜、大阪在住の会員は、講演会場から、直ちに派遣隊の宿舎の南区日本橋北詰の京屋旅館に集合した。突然の会合であったが、ここで戸田は、六人の地区部長をいきなり任命した。これで大阪は、一挙に六地区増加し、九地区の編成となった。
 驚いたのは、任命された六人の新地区部長である。全くの寝耳に水であったため、いささか当惑気味の新地区部長もいた。しかし、これまで一粒種で、文字通り孤軍奮闘してきた春木支部長は心から喜んだ。
 戸田は、既に大阪が、極めて大切な拠点であると悟って、思い切った布石をしたのである。
 翌八月十六日は、大阪支部合同座談会が、戸田の出席のもとに開かれ、六人が入会を決意した。また十七日には、四カ所の座談会で十二人の入会が決定した。さらに、この夜は六時半から、大阪では初めての、戸田の御書講義が宿舎の京屋旅館で行われた。
 その場限りの戦いではない。戸田は、慌ただしいなかにも、教学の浸透を忘れなかった。今後の大発展のためには、教学の研鑽が、信心の鉄骨となっていくことを知っていたからである。
 こうして大阪の地は、戸田を中心として、力強い折伏の機運が盛り上がった。派遣隊は、真夏の暑さも忘れ、連日の強行スケジュールを精力的に消化していった。派遣隊の一行は、俗に「パタパタ」といわれたオート三輪に乗り込み、座談会場を飛び回った。
 十九日と二十日の両日は、大阪市内はもちろん、京都や神戸の各地で座談会を開き、十三人が入会を決意した。
 連日の集計をしてみると、実に百一世帯となった。ところが二十一日夜、派遣隊が東京に帰ったあと、大阪からの報告によると、実際の本尊流布は三十三世帯にとどまっていたのである。帰京してから、このことを知った派遣隊は、大いに落胆し、あらためて弘教の厳しさを学んだ。
 初めての派遣隊による弘教の報告は、八月三十日の本部幹部会で行われ、多くの参加者の胸を躍らせた。この弘教での戦いでは、名古屋十一世帯、大阪三十三世帯、九州七十二世帯、合計百十六世帯の成果であったが、これと各支部の成果を合わせると、千四百八十八世帯となった。蒲田、鶴見の二支部が二百世帯を超え、杉並、足立、築地、向島、仙台の各支部が、いずれも百世帯を超えていた。
 ところで、帰京後に夏季地方指導の成果を検討した結果、各地で行った講演会は、ほとんどが失敗であったことが判明した。講演会は、なにぶん縁故者が少ないため、いきおい多くの人を参加させようとして企画されたもので、当時としては、やむを得ない方法であったろう。しかし、やはり折伏は、一対一が基本であり、その堅実な積み重ねのなかに仏道修行があり、広宣流布の道がある。幹部たちは、一見、華々しく思われた講演会が失敗したことを知り、あらためて学会伝統の座談会の重要性をかみしめたのであった
 しかし、派遣隊による夏季地方指導という初めての試みが、各地の学会員に活気を与え、奮起させる強い刺激となり、折伏精神を旺盛にしたことは、まことに貴重な成果であった。そして、全国作戦の機運が、この幹部会の席上、一段とみなぎったことは言うまでもない。
 戸田は、元気に集まった幹部たちを前にして、にこやかに笑いながら、最後に言った。
 「今度の全国的な弘教は、成功とは言えない。失敗です。講演会を頼りにしないで、折伏の締めくくりに講演会をしておれば、必ず生きていたであろう。
 しかし、ともかく、ご苦労さまでした。結果は別として、私としては、はなはだ愉快だった。また来年は、今年より一層、華々しくやろうではありませんか」
 この夏を転戦した戸田は、すこぶる健康で、元気であった。折伏戦の展開が、全国的規模となってきたことは、彼の構想の実現の端緒でもあったからである。
5  五月から学会を覆っていた暗雲は、ひとたび消えたかに見えた。しかし、事件のなかには、その根が断ち切れているようで、なかなか切れていない場合があるものだ。笠原事件も、その例に漏れなかった。
 幹部会のあった日から二日後の九月一日に、静岡の警察から西神田の学会本部へ四人、市ヶ谷の分室へ四人、計八人の刑事が来訪するという事態が突発したのである。分室というのは、学会本部分室のことで、戸田が最高顧問を務める大東商工の事務所が入っていた市ヶ谷ビルの、同じフロアにあった。
 ここで戸田は、会員の個人指導にあたっていたのである。
 刑事は、笠原慈行に関する、四月二十七日の事件について、集団暴行傷害容疑で、戸田会長、泉田筆頭理事ら十一人の出頭を求めてきたのである。
 分室と同じ建物内の大東商工に居合わせた泉田が、刑事に応対した。
 戸田は、その時、目黒の自宅を出て市ヶ谷に向かっている途中であった。泉田は動ずることなく、「戸田会長は、明日、必ず出頭します」と刑事に約束した。そして、一切の手配をすませると、彼は、そのまま静岡に向かったのである。
 泉田に対する取り調べは、九月一日の夜まで続き、留置されてしまった。
 一方、戸田は、翌二日、同じく出頭を求められた青年部の幹部数人と、二、三の学会首脳幹部と共に、悠然と出頭した。警察は、暴行傷害の有無を厳しく追及したが、戸田は、いささかも動ずることなく、堂々とそれを否定した。
 「暴力の事実は全くない。ただ、騒ぎがあったことは確かだ。しかし、その責任は、学会の誰にもありません。一切は私の責任です」
 戸田は、決して責任を回避しなかった。いな、青年たちをかばい、自ら進んで責任を負おうとしたのである。
 その結果、この日、出頭したなかで、彼だけが留置され、一夜を留置場で送らなければならなかった。同行の幹部は、それぞれ簡単に訊問されて、取り調べが終わると、すぐ帰された。そして、戸田と泉田が釈放されたのは、翌三日の午後八時であった。
 総本山対学会の関係は、既に、すべてきれいに解決をみていた。しかし、総本山対笠原の関係は、依然として、くすぶり続けていたのである。
 総本山と学会との関係の解決は、笠原にとっては、はなはだ面白くないことであった。彼は、四月二十七日の事件を、なんとか集団暴行傷害事件にデッチ上げようとして、とうとう警察に告訴したのである。警察としては、告訴があった以上、取り調べに踏み切らざるを得なかった。そこで、事実認定の必要のため、学会幹部を出頭させたのである。
 この四カ月の間、宗門、学会に吹き荒れた笠原事件は、遂に法律に委ねられることになった。
 それにしても、既に事件は落着したと思われていた時に、告訴の事態にまでエスカレートするとは、全く予想外であった。この新しい事態には、宗務当局も戸惑い、笠原の処置に手を焼いた。
 しかし、元をただせば、笠原の処置についてのあいまいさが、彼の妄動を野放しにし、遂に事態をここまで、いたらしめてしまったともいえよう。正法を護持する者として、真っ向から対決すべき相手は、あくまでも仏法を歪める邪義であるはずだ。その本質を見失った、急所を外した解決策は、かえって事態を紛糾させることにしかならなかった。
6  この事件が、学会員の耳に届くと、激しい憤激の渦を巻き起こした。今さらながら、笠原という奸智にたけた悪侶が、宗門、学会の前途に、どれほど大きな魔となっているかを、思い知らなければならなかった。
 法主の日昇は、九月九日付で、笠原に対する誠告文を発した。全文は、六十年にわたる笠原の信心を論じ、彼の責任を問うたものである。そして、彼の神本仏迹論を厳しく戒めていた。
 「抑も神本仏迹の説の如きは例え布教手段と云うも、本宗に於ては為人悉檀なりとも之を説かず、先師の正法弘通の内にその片鱗すら無い。若し貴師が神本仏迹の説を今尚執するなら、二祖日興上人御遺誠置文に『富士の立義はいささかも先師の御弘通に違せざる事』に背くことになる。猶日有上人は『門徒の僧俗の中に人を教えて仏法の義理を背せらるる事は謗法の義なり、五戒の中には破和合僧の失なり、自身の謗法より堅く誠むべきなり』と誠められていることを拝しても、他を訴える前に先ず自らの謗法ありやなきやと堅く誠慎すべきではないか」
 日蓮大聖人から日興上人に受け継がれた本義を忘れたならば、富士門流の清流も濁流に転じてしまい、もはや名聞名利が渦巻くだけとなる。
 日昇の誠告文には、さらに、こう記されていた。
 「貴師よ、賢明ならば速に神本仏迹の説を放棄し、直ちに告訴を取り下げ、虚心坦懐、仏祖三宝に懺悔せよ。然らざれば予は今日以後貴師を義絶するであろう。
 貴師よ、宗門に於て身を長養すること既に六十年、若し聊かたりとも菩提心あるならば三省せよ」
 この誠告文は、笠原に通達された。もし笠原に、いささかでも信心があるならば、たとえ過去にどのような事情があっても、開祖の遺誠置文を引用したこの誠告文には、心が動かぬはずがないと誰もが思った。しかし笠原は、貝のように固く口を閉ざして、なんの反応も示さなかった。
 一方、宗会も、なんの動きも示さなかった。先に約束したはずの決議文の取り消しについても、すっかり忘れられたままになっていた。青年部の憤激は、またも燃え上がろうとする気配が、またも宗会議員へ向けられたのは、むしろ当然の成り行きといえよう。
 九月十二日、山本伸一は、数人の青年部員と共に、東京の妙光寺の住職に面会を求めた。
 住職は、最初、面談を避け、文書をもって意見を交換したいと言ったが、それでも最後に会うことは会った。
 伸一は、詰問するように、住職に言った。
 「猊下は、八月の講習会で、『学会の信心は正しい。一生懸命折伏せよ』と仰せられた。それにもかかわらず、先日、学会の会長が、警察に留置されました。これは、宗門としても大問題であると思います。この問題について、先生は、どうお考えになりますか」
 これに対し住職は、極めて冷淡に答えた。
 「それは申し上げられません。申し上げられるのは、私の行動に関してだけです」
 伸一は、さらに鋭く質問した。
 「先生はよく、学会のためには尽くしていると言われる。それなのに、今度の問題は知らないというのですか」
 「この問題について、宗務院の通達が出ている以上、私からは何も言えないのです」
 「では先生は、学会がどうなろうと、自分とは関係がないと言われるのですね」
 「関係ないというよりも、私は学会から何も頼まれたことはない」
 「ちょっと待ってください。この重大な問題を、先生は頼まれなければできないことと考えているのですか」
 「いや、たとえ頼まれたとしても、私にはなんともできない」
 住職は、前回の宗会決議での面談の時と違って、非常に態度を硬化させていた。戸田の留置が、宗会議員の有力者の一人であるこの住職の態度を変化させていることは、明らかであった。
 こうした態度は、この住職だけではなかった。大部分の僧侶の学会に関する考え方も、極めて浅薄で、以前と比べ、大きく敵対的に変わっていたのである。
 日は、いたずらに過ぎた。学会員の憤激は高まっていった。青年部員や、壮年たちのなかには、宗務総監に宛てて、「笠原のような悪侶に僧侶の資格があるのか」といった御伺書を提出した人もあった。
 笠原慈行に対する誠告文が出されてから二週間も過ぎた九月末、一通の内容証明の文書が総本山に送付されてきた。
 笠原が、総本山に送付してきた文書は、全く常軌を逸した、驚くべき内容で、不届きを極めたものであった。
 ――誠告文は脅迫罪を構成するものであるから、法主を告訴する、というのである。そして、かかる悪管長の存在を許さぬ、という威嚇めいた文句まで書き連ねられていた。
 この告訴の背後には、一人の弁護士がついていて、この文書の作成も、その弁護士によるものとみられた。この弁護士は、戦時中の水魚会員の一人であり、そのころから笠原慈行との腐れ縁が続いていた人物である。
 笠原は、戦時中、時の法主に対しても、公然と辞職を迫る文書を送り、告訴さえしたことがある。それから十年を経た今、また同じ手口で攻撃してきたのである。
 仏法で敗れた怨恨を、国法に拠って晴らそうとして、学会だけでなく、宗門をも告訴しようとしたのである。笠原の行為は、本心を失った者の狂態という以外にない。今や、彼は、理性のタガが外れ、野獣のような本性をあらわにし、ひたすら暴走して、いよいよ自らの墓穴を掘り始めたのである。
 宗門からの擯斥処分は、もはや時間の問題と思われてきた。
7  戸田は、このころになると、いちいち笠原のことなどに心を煩わすことなく、総本山の五重塔の修復に心を砕いていた。
 九月二十六日、戸田は市ヶ谷の東京家政学院で御書講義を行い、引き続き臨時幹部会を開いた。
 そして、総本山五重塔修復資金百万円調達の件と、仙台・仏眼寺の納骨堂建築のための二十万円調達の件と、笠原慈行の告訴にかかわる裁判闘争の資金調達の件を、参加者に諮った。
 全幹部は、喜んでこれらの調達に賛成した。
 戸田は、心から感謝しつつ、全員に呼びかけた。
 「今までも、幾たびか皆さんにお願いしているので、心苦しいのでありますが、真心の応援をお願いしたい。皆さんからの資金が集まりましたならば、私は御本尊様へ、この浄財を供えて、自分の生命を捧げる御祈念をいたす所存であります。幹部の皆さんは、ぜひ、お骨折りを願いたい」
 戸田の謙虚な誠心は、全員の胸に強く響いた。参加者も、心からの供養ができることを、何よりの喜びとしたのである。
 戸田は、金銭に対しては、あらゆる不純を拒否して、異常なまでの潔癖な姿勢を堅持した。とはいえ、現代の社会においては、どんな崇高な活動も、資金なくして成立しないことは事実だ。そのための必要経費は、会員の真心の自由意思に任せ、浄財を募ることによって賄うというのが、戸田の考えであった。彼は、いつも学会員に、その内容のすべてを提示して、必要な経費を確保した。
 まず計画があり、それを遂行するために使用する資金が募られた。金があって、それから計画を立てるのではない。彼は、いつも事をなすにあたって、大胆に金を使ったが、金に仕えることは一度もなかったのである。
 十月に入ると、第一回の月例登山会が行われた。四日、五日の第一土曜、日曜にかけての登山である。
 四日午後一時三十分、東京駅を発車した総本山参詣の登山列車に乗った一行三百八十余人は、午後六時三十分に大石寺に到着した。
 理境坊、久成坊、寂日坊、観行坊など、それぞれ指定された宿坊に落ち着くと、夜の勤行を終え、タ食をとった。
 小憩の後、午後八時から、久成坊で、戸田城聖を囲む質問会がもたれた。本堂を埋めた三百八十余人の目は、机を前にしてイスに座った戸田に注がれている。
 質問会に入る前に、司会役の泉田筆頭理事が立ち上がって言った。
 「今日は、意義ある第一回の登山会であります。戸田先生が、昭和二十一年(一九四六年)一月、出獄後、最初に登山した時は、わずか六人の同志にすぎませんでした。それから六年半後の今日、三百八十人の参加による月例の登山会が開かれたのであります。まことに感慨深いものがあります。
 共に将来の思い出となるよう、本日の質問会を有意義なものとしようではありませんか。
 では、これから質問会に移ります。どなたでも、常日ごろから聞きたいと考えていたことを、どんどん率直に質問して、戸田先生の指導をよく胸に刻み、明日からの信心の糧にしていきましょう」
8  泉田がこう言うと、さっそく、二十人ばかりが、「ハイ!」「ハイ!」と、威勢よく手をあげた。
 学会の質問会では、さまざまな人が、各人各様の問題を提起する。信心のこと、生活の悩み、活動上の問題等々、それこそ万般に及ぶのである。そこには、庶民の生きた声が凝集されていた。それだけに、答える方も大変である。あるジャーナリストが、このような学会の会合に出席して、参加者から出される多様な質問に、次々と歯切れよく回答する幹部の姿に驚嘆していたことがある。
 戸田は、この点、当代随一の指導者だった。彼は、質問の奥の奥まで瞬時に読み取り、卓抜した視点から方向性を与えるのである。その切れ味は、まさに快刀乱麻、名刀の冴えがあった。
 泉田から指名された、最初の男性が質問した。
 「私は、仕事の関係で、朝、勤行が十分にできません。しかし、漫然と長い時間をかけてするより、真剣ならば短くてもよいと思うのですが、どうでしようか」
 要するに、勤行を合理化しては、という質問である。
 これに対して戸田は、軽い咳払いをして頷きながら、どうしてか、その男を座らせた。
 「座りなさい。その質問には、あとで答えることにしよう」
 彼は、こう言うと、まず質問会の仏法上の意義から語り始めた。その場の参加者の大半は、信心して、まだ日の浅い会員である。それゆえに彼は、基礎となる前提から説き起こしたのである。
 「こういう大勢の質問会になると、質問する人が、大きくいって二色ふたいろに分かれる。真実に求めて聞こうとする人と、やっつけてやろうと思って聞く人がいる。仏法のうえでは、たいてい自分のわからんことを聞きたいと願っているのが普通だ。
 しかし私は、そのどちらでもいいと思う。なぜなら、仏法のうえで質問したということは、全部、一つの原理に含まれているからだ。
 仏教には、『四衆』という言葉がある。これは、四つの種類の人ということであり、仏法の会座につらなる人は、すべて必ず、このどれかに属しているのです」
 戸田が説明し始めた四衆というのは、経典のなかで展開される質問会の大衆のなかに、影響衆、当機衆、結縁衆、発起衆という四種類の人がいるということだ。
 彼が、一度、仏教用語を解説しだすと、それまで観念の彼方にあった種々の教説が、具体的に、鮮明に、目に見えるようになるから不思議だ。まさに、実践、生活に根ざした教学である。
 仏教は、ほとんど、どの経典も、最初に質問者がいて問いを発し、仏がそれに答える形式になっている。いわば、経典全体が、一つの質問会になっているわけである。なかには、方便品のように、質問のない経文もあるが、これは無問自説といって、特殊な場合である。
 日蓮大聖人の御書も、「立正安国論」「観心本尊抄」など、多くの重要御書が質問形式を踏んでいる。
 四衆のうち、影響衆とは、釈尊の説法を助ける人をいう。
 当機衆とは、その説法を聞いて悟る人であり、悟るまではいかないが、そこで縁を結ぶ衆生を結縁衆という。
 しかし、最も大事なのは発起衆で、これは質問を起こす人である。この人が、その場に集まった人たちの聞こうとすることを、代弁して問うのである。
 発起衆は、自分のことだけでなく、みんなの気持ちを代表している。
 戸田は、ここで、質問者が、いかに大事かを説明したのである。そして、さらに具体的に話を進めた。
 「ところが、実際に質問会を進めていくと、すぐ自分勝手なことを言いだす。たとえば、病気なら病気のことを聞いてくる。それもいい。このなかにも、病気に悩んでいる人はいるだろうし、そのことで質問したいのも当然だろう。
 しかし、同じことを重ねて聞かないようにしてほしい。それだけは心得てもらいたい。あの人は、あの程度で病魔を克服できると言われたのだから、私の病気も大丈夫であろうと承知したらどうかと思う。これを当機衆というのです。
 また病気でなくても、『ああ、そういうものかな、もっと信心してわかっていこう』と感じていけばよい。これが結縁衆です。『その通りです。私もそういう体験をもっている』と確信をもって語れる人もいるはずです。この人は影響衆です。
 今、ここに集まった皆さんも、この四衆のなかの、どれかの衆に入るわけです。
 わかりやすい例を引いて、このような本質を明らかにしていく戸田の話は、まさに絶妙だった。参加者は、かみ砕いて話す彼の指導を通し、仏法における質問会の本義を納得したのである。
 「この原理は、座談会においても同じです。座談会もまた、四衆の集まりであって、如来の使いとしての担当者の責任は、実に重いといわなくてはなりません」
 戸田は、側にいた幹部にも諭したあと、さらに続けて言った。
 「借金の話なら借金の話で、これも仕方がない。仏法のことなら仏法のことで、これもいいことです。また、学会の話を聞くこともいいでしょう。
 しかし、大事なことは、一つの話が出ると、それと同じ悩みをもつ人の問題は、全部そこに含まれているということです。それを忘れて、ここで小児まひの話があると、あっちでも、こっちでも、同じことを言いだす。とうなると堂々巡りで、もっといろんなことを聞きたいと思っている多くの人の迷惑になります。
 まるで、ここが質問会だか、小児病院に来たのだか、わからなくなってしまう。借金のことでも同じです。借金の話ばかり出ると、なんだか裁判所へ来たみたいになってしまうではないか。そうならないよう質問してください」
 あけっぴろげな戸田の話に、どっと爆笑が沸いた。
9  戸田は、冒頭で質問会に臨む心構えを述べたあと、最初の質問者の方に視線を向けた。
 「さて、そこで、さっきの発起衆の質問だが、勤行を短くしたいという話ですね。信心は仏道修行です。譬えて言うと、剣道の道場に弟子入りしたと同じだ。師範から朝百回、夜五十回、毎日欠かさず素振りをやれば上達すると教えられたとする。
 ところが、掃除、雑巾がけ、その他の雑用があって、朝は三十、夜はまた用事があるので、十遍ぐらいしか振れない。しかし、できないから仕方がないと諦めている人と、たとえ睡眠時間を短くしても、言われた通りやろうという人と、どちらが上達するか。今のあなたの質問は、これと同じことです。決意、忍耐強さが大事なのです。
 勤行は、たとえ十五分でも、真剣勝負の意気でやれば、功徳はあります。あなたのように、本当に仕事が忙しかったら、仕事の合間をみて、また電車の中にいても、心のなかで勤行し、お題目を唱えなさい。ただし、奇異な感じを人に与えてはいけない。
 経文を読む場合に、『読』『誦』という二つの形があります。経文を見ながら声を出して読むのを『読』といい、経文を見ないで暗唱するのを『誦』といいます。唱題の場合は、御本尊に向かって唱えるのが『読』にあたり、御本尊に向かわないで唱えるのが『誦』にあたりますが、どちらの形式でも功徳は同じです。ただし、真剣にやることです。
 そうすれば、自然のうちに、あなた自身が、朝は、いつもより三十分早く起きて、勤行を完全にやろうという気が起きてくるはずです。
 それを、『誦』の題目とは、いいことを聞いたと思って、普段の勤行を怠けてもよいと考えるようでは、功徳がないのは当然です」
 「わかりました。ありがとうございました」
 戸田の明快な答えに、質問者は心から納得した。質問会は、ぐっと熱気がこもってきた。
 さらに、質問者の手は、幾つもあがった。次の質問は、黒メガネをかけた壮年である。
 「この六月に目を患い、左の目が、かすかにしか見えないようになってしまいました。今度、登山して絶対治して帰ると、妻子に断言して出てきました。どうか、治していただきたいと思っています」
 この壮年の質問は、すべてが逆であった。妻子に治ると断言した以上、治してほしいというのである。まるで学会に、″インチキ宗教″まがいの呪術を期待するかのような言い方である。仏法は、″おすがり信仰″ではない。最も強い主体性を築く原理を説いているのだ。自らの宿命を冷厳に見極め、己の生命の姿勢を転換することによって、人間革命を実現しようとする戦いの哲学なのだ。
 果たして戸田は、この質問を聞くと、急に顔色を変え、厳しい口調で言った。
 「あなたの考えは、ごろつきの言い分と同じではないか。いったい、御本尊様に真剣に唱題し、広宣流布のために戦ったことがあるんですか。どれだけ折伏し、支部を盛り上げたか、よく反省しなさい。
 何もしないで、ただ願うのは横着だ。仏には、治してやらなければならぬという義務はない」
 壮年は、驚いたような顔で戸田を見つめていた。
 戸田は、それから、この壮年をつつみ込むように視線を注ぐと、静かだが、力強い声で語っていった。
 「今日から、心を入れ替えて信心していきなさい。そうすれば、御本尊の偉大なお力が、あなたのうえに現れぬわけはない。私も命をかけて、あなたの病魔の克服に全力をあげ、ご祈念もします」
 質問者は、厳しい指導の奥に脈打つ戸田の厳愛を全身に感じ取り、鳴咽をこらえ、体を震わせていた。
 参加者は、戸田の生命から奔流のように流れ出る指導に、すっかり心洗われ、頬を紅潮させている。
10  次は、四十歳ぐらいの婦人が立った。
 「小学三年生の子どもが、最近、人の家へ入って、盗みを働いて困るのですが、どうしたらよいでしょうか」
 今度は、子どもの盗癖の問題である。このような質問が、なんの見栄も、偽りもなく飛び出してくるのが、学会の質問会である。また、これに真っ向から取り組み、人生の指針と希望を与える指導者がいるのも、民衆救済をめざす学会ならではの光景であった。
 戸田は、即座に答えた。
 「これは難問だ。難病の子どもを抱えた悩み以上に難問だ。子どもにやかましく言って、題目をひたすら唱えなさい。一家で、泣いて御本尊様に祈っていく以外にない……」
 指導は短かったが、言葉の端々には、力強い確信と指針が示されていた。母親は、涙で潤んだ瞳のなかで、再起への強い決意を浮かべている。
 次から次へと移る質問は、庶民の苦悩の縮図であった。しかも、政治家や、学者や、どんな文化人でも、相談に乗れない現実の問題である。
 さまざまな難問に対し、戸田は、持ち前の天衣無縫のユーモアを交えながら、諄々と指導していった。その悠々たる姿は、まさに師子王を思わせるものがあった。
 だが、彼の豪胆、奔放とも見える指導の言々句々の底には、真剣勝負の戦いがあった。悩みに打ち沈む一人の人間と、体当たりでぶつかり、その人を救わずにおくものかという大慈悲が、胸中に火を放っていたのである。その生命の完全燃焼のうえに、芸術的ともいえる数々の珠玉の指導が花開いた。しかも、一人の質問者に対する回答のなかにも、万人に、信心のなんたるかを考えさせ、開悟させる泉があった。
 質問会は、戸田の大生命の動くがままに、自在に変化した。彼の巧まざるウイットに、どっと爆笑が沸くかと思えば、次の瞬間、肺腑をえぐる信心の真髄の指導に、一転して水を打ったように、シンと静まり返った。
 あっという間に、時間は過ぎていった。はや二時間を超え、夜は、しんしんと更けていたのである。
 総本山は、夜のとばりに、すっぽり、つつまれている。しかし、戸田を囲むこの場だけは、人びとの熱気と歓喜の渦で、いつまでも明るかった。
 翌日、第一回の月例登山会は、感動のうちに終わった。初めて登山した参加者も、戸田と共に語り合った、あの二時間余の質問会の感激を胸に、見違えるばかりの元気な姿で各地に散っていった。
 この時以来、質問会は、月例登山会の重要行事の一つとして、必ず行われることになった。そして、学会の発展とともに、その規模も大きくなり、やがて登山者が客殿にぎっしり詰めかけるまでになった。そのつど、戸田の生命にほとばしる、御本尊への大確信が、満場の聞く者を目覚めさせ、その心を洗い、彼らに無限の勇気を与えたことは言うまでもない。
11  十月十二日――すべての支部の先陣を切って、蒲田支部の総会が、品川の妙光寺で開催された。
 この日は雨天であった。しかし、千五百余人の学会員が集い、本堂も控室も、人、人、人であふれていた。入りきれないで、庭先に立つ人も、少なくなかった。
 午後二時、総会は始まった。各地区の多彩な体験談が、競い合うように、ぽんぽん飛び出る。偉大な信心の実証だ。
 午後四時半、閉会のころには、空は晴れ上がり、歓喜に満ちた会員は、それぞれ感動を胸に秘めて解散した。
 十月二十四日から、二十七日までの四日間、戸田城聖は、仙台に滞在していた。地方支部として結成以来一年半、たくましく成長して、千三百十七世帯にまでなった仙台支部の指導のためである。
 戸田が到着した二十四日夜の仙台の駅頭には、期せずして多くの学会員が迎えに出て、時ならぬ賑わいを見せていた。
 翌二十五日、戸田は、朝から個人面接にあたった。そして午後には、拠点の学会員宅で質疑応答の機会を設け、夜は、「太田左衛門尉御返事」の御書講義を行った。
 一瞬の休む暇もない。十月末とはいえ、仙台は、既に肌寒く、冬空に近い空模様であった。そのなかを、意気軒昂の仙台支部員千人は、二十六日、三島学園講堂に戸田会長を迎えて、第二回総会を開催した。
 会場は、午前九時に早くも満員となり、定刻十時きっかりに開会。盛りだくさんの式次第は、実に、延々七時間にわたった。閉会したのは、夕方五時ちょっと前である。本部総会並みの規模の、充実した総会だった。
 戸田は、午前と午後の二回にわたって講演し、特に午後の講演では、永遠の生命について語り、仏法の真髄の、なんたるかを鮮明に述べていった。その深遠な内容は、満場の聴衆に強い感銘を与えたのである。
 戸田の出席した会合は、いつも驚くほど密度の濃いものとなった。彼の幅広い人生体験と、信仰に対する絶対の確信、さらに、深い教養に裏打ちされた講演には、人びとの心を揺さぶり、目を開かせるものがあった。その夜、戸田は、総会での疲れも見せず、懇談会にも姿を現し、仙台の会員に、心からの激励を与えていった。まさに縦横無尽の活躍である。
 彼は、四日間の指導で、仙台支部の飛躍的な発展の基礎は盤石になったと確信し、二十七日、帰途に就いた。
 この仙台の同志の著しい成長ぶりは、当時の全国の学会員の励みとなった。この総会のあと、しばらくすると、「胸に義憤の波たたえ……」の仙台支部歌が、全国の学会員の間で歌われるようになった。
 十月三十日の本部幹部会の席上で、戸田は、仙台支部の発展に触れ、賞讃の言葉を惜しまなかった。
 「仙台支部が、なぜ偉大な成長を遂げるにいたったか。その原因は三つあります。
 第一に、本部の方針を行動の根本とし、支部長が学会の意思を体得し、入会者にも、くまなく学会精神を植え付けている。
 第二に、支部長の確信である。自分の行動は、学会精神そのものであるという強い自信と確信をもって、指導にあたっている。
 第三に、折伏・指導が徹底していて、幹部が、会員の面倒をよくみており、『折伏教典』や『聖教新聞』を使いこなしているからです」
 十月の折伏成果は、この仙台支部が、百九十五世帯と飛躍したのをはじめ、A級支部の蒲田、鶴見が、それぞれ三百四十世帯、三百十六世帯を達成。総計千七百七十八世帯と、月間二千世帯の目標に、あと一歩と迫っていた。
12  学会の各支部が総会を開き、活発な折伏への意欲を高めていたころ、それと呼応するかのように、宗門では、笠原事件収拾へ、最後の大詰めを迎えようとしていた。
 十月三日、総本山では、急速、参議会を開き、笠原慈行の処置に関する問題を討議した。宗門の最高首脳部の参議六人と、宗務院の役員との会議である。
 参議の意見としては、笠原を宗門追放に処することの最終決定に異議はないが、今一度、反省の機会を与えたい、ということであった。
 この意見は、その直後、能化会に報告された。これは、法主の日昇を囲む長老たちの会議である。日昇は、笠原という、この希代の悪僧に対して、次のような手を打ったのである。
 ――まず、名古屋方面の布教区幹事が、笠原が住職をしている岐阜・本玄寺の檀信徒たちとよく話し合い、事情を説明し、後に事件の尾を引くことのないようにする。同時に、宗務院からも出張して、笠原か、その代理者に会って、最後の反省を促す。もし、十日間のうちに反省の色がない時は、宗門から擯斥することもやむを得ない。
 こうした日昇の意を受けて、十月三十一日、宗務院の庶務部長・細井精道は、名古屋で、笠原慈行ならびに本玄寺の檀信徒総代などと面談した。笠原に最後の反省を促すためである。会見は、午後二時から夜九時ごろまで、約七時間にわたった。その間、笠原は、例によって泣いたり、わめきちらしたりして、細井を困らせた。
 しかし、細井は、かんで含めるように、懇切に指導、説得した。その結果、まず檀信徒総代たちが、今さらながら事件の意外な真相を知り、驚いたのである。
 彼らは、これまで、笠原の一方的な話だけで、事件を認識させられていたのだが、真相は全く逆だった。特に、笠原が日昇を告訴したことを知るに及んで、唖然として声をのみ、やがて彼を強く面責したのである。この檀徒の離反は、笠原にとって決定的な衝撃であったようだ。既に、宗門から全く孤立していた彼が、最後の頼りとしたものは、檀徒の同情であったからだ。彼らの心さえつかんでいれば、まだ、なんとでもできると計算していたのであろう。
 ところが、その檀徒たちが、逆に彼を責め始めたのである。事ここに至って、笠原は、自らの策謀と打算が、一瞬にして水泡に帰したことを知らねばならなかった。そして、ここで彼は、初めて陳謝の意を表したのである。
 結局、本玄寺の檀徒総代が、連帯責任で笠原の監督にあたることを申し入れ、日昇に誓約書を提出し、謝罪状に代えることに決定をみた。
 細井は、今後の笠原の行動について、次のような確約をとった。
 一、笠原は、ひたすら謹慎して、名古屋方面の法要などの他は出歩かず、教義説法のため、全国各寺院を回ることはしないで、滅罪懺悔の生活に入る。
 一、神本仏迹論はもちろん、今後、筆舌に絶する。今まで同論を主張したことを、深く謝罪する。
 一、一切の公職につく資格はないものとする。
 一、御法主上人および創価学会に対する告訴は取り下げ、御法主上人の誠告文に対し、本玄寺檀家総代連署の謗法謝罪の誓約書をもって奉答文に代える。
 十一月七日、日昇から宗門に出された訓諭には、この事件について、こう結ばれている。
 「……先師の御教示をんで寛恕の胸襟を開いて一切のわだかまりを呑み、日蓮正宗の和合僧団を大成して倶に共に謗法破折の大陣に後れを取らざるようにすべきである」
 一方、これに呼応して宗務院でも、宗務総監・高野日深の名において、事件のいきさつを詳細に説明し、論争停止を要請する文書を発表した。
 四月二十七日夜に端を発した笠原事件は、半年を経て、遂に解決をみた。この間の道程は、まことに険しく、さまざまな紆余曲折があった。
 時には、正論が、好智と策謀の前に、危うく屈服するかに見えたこともある。
 しかし、真実に勝るものはない。正義は最大の力である。創価学会が、この事件で示した正論は、時の流れとともに、名実ともに実証されたのである。学会の正義は厳として残り、令法久住の戦いは、勝利をもって飾ることができた。ここに、すべてが変毒為薬されたのである。
 嵐のあとには、澄みきった青空が、広がっていた。そして、この事件を通じて、急速に培われた破邪顕正への僧俗一体の絆は、事件が終わってみると、さらに強固となったのである。
13  仏法の戦いに、意味のない戦いはない。善かれ悪しかれ、すべて将来に、必ずや大きな前進の糧となる。罰即利益、変毒為薬の妙法が、偉大なゆえんである。
 果たして、暗雲が一掃された直後、広宣流布へのテンポが急速に早まっていった。
 十一月八、九日の両日には、秋晴れのもと、第二回の月例登山会が行われたが、前月の約二倍、六百余人の参加者をみた。また質問会も、求道の熱気にあふれて、教義の根本についての質問も多く、著しい成長の跡がうかがわれた。
 会合という会合に、参加者が急激に増大し始めたのも、このころのことである。
 十一月十八日夜、常在寺で行われた初代会長・牧口常三郎の九回忌法要には、かつてない千三百人という会員が集まり、故・牧口会長の遺徳を偲んだ。
 戸田は、恩師を懐かしんで、在りし日を偲びつつ語った。
 「私が先生のことを申し上げると、話が尽きなくなります。なぜなら、そのころ叱られていた連中の大将だったからであります。
 私と先生の仲は、親子と言おうか、師弟と言おうか、言い尽くせないものがある。私は、先生の本当のものを知っていた。
 私は、皆に、『今に、先生が亡くなった時、必ず牧口先生と会ったということが、自慢になる時期がくる。しっかり信心しなさい』と言っていた。
 それから十年たった今日、どうでしょうか。今や、私の言った通り、門下生の最大の誇りとなっているではありませんか」
 戸田は、続いて牧口の獄死のころを回想しながら、牧口門下が、馳せ参じなかったことを憤激し、さらにこう語った。
 「私は、先生とは全く違う。先生は、理論の面から御本尊を信じ切っていました。私は、実証の面、功徳の面で信じている。
 先生は謹厳実直だったが、私はルーズだ。先生は目白に、私は目黒に住んでいた。先生は非常に勉強家なのに、私はさっぱり勉強せぬ。また、先生は酒は飲まないが、私は大酒飲みだ。
 これだけ、全く正反対の性格でありながら、先生と私の境地は、ぴったり一致していた。私の思想内容は、先生から、たくさん頂いている。来年までに、『価値論』を校訂し、再版したい。そして、先生滅後十年を期して、世界の各大学へ、この『価値論』を送りたいと思っています」
 彼は、ここで牧口逝去後十年を記念して、『価値論』を再版することを発表した。
 滑走から離陸へ――広宣流布の上昇機運は、日増しにスピードを増していった。この一九五二年(昭和二十七年)の十一月、学会の折伏は、待望の月間二千世帯を超え、二千三十三世帯を達成、躍進の息吹を確実に示し始めた。
 なかでも蒲田支部は、四百五世帯と、支部として初めて四百台を超える成果をみた。各部署、各支部いずれもフル回転し始めた感じとなった。
14  十二月七日、第七回総会が、東京・神田駿河台の中央大学講堂で開催された。初冬の空は、さわやかに晴れ渡り、全国から五千人余の学会員が詰めかけた。
 午前九時半に開会し、午後三時五十分に閉会。六時間半にわたる総会だったが、参加者は、一人として席を立つ人はいない。この年、二万世帯を達成した精鋭たちは、午前の部も、午後の部も、次々と発表される各支部の代表抱負や体験談などに、身じろぎもせず耳を傾け、盛んな拍手を惜しみなく送った。そして、午後の最後に、戸田が演壇に立つころには、場内は、まるで一つの生命体のように溶け合っていた。
 戸田には、全参加者が、わが子のように思えたのであろう。人なつっこい微笑をたたえながら、懇談的に、人生の目的などについて語り始めた。
 「なぜ人間に生まれて来たのか。これは簡単なようで、なかなか難しい問題ですが、要するに、あなた方は、この世に遊びに来たんです。いつ、いかなるところにあっても、人生を楽しみきり、思うがままに遊戯していく。ここに人生の目的があります。
 それなのに実際は、遊ばないで、病気をしたり、夫婦喧嘩をしたりして、″忙しい、忙しい″と、毎日、目の色ばかり変えている。
 会社へ行くのも楽しいし、女房に叱られることも、また、反対に亭主に叱られることも、楽しくて仕方がないというのでなければいけない。
 しかし、遊ぶといっても、甘い汁粉には砂糖と塩がなければならないように、人生も、その塩ぐらいの苦労がなければ、真の幸せも感じられないわけです。ところが、あなた方の場合は、塩の方が多すぎるんです。しょっぱい汁粉なんて食べられたものではない」
 ここで聴衆は、どっと笑った。″全く塩の方が多すぎる″と、誰もが、わが身を振り返ったからにちがいない。爆笑は、しばらく続いた。
 戸田は、経典に説かれている「衆生所遊楽」の文に基づいて、人生の根本的な意義を平易に説いたのである。そして、その方法論としての折伏の問題に移っていった。
 「『折伏をしなさい。信心をしっかりやりなさい』ということは、学会、国家、世界のためのように聞こえるが、実は、あなた方自身のためです。折伏さえすれば、本当に功徳があるんです。
 だから、何か問題が起これば、すぐ御本尊様に向かって題目を唱えなさい。そして、折伏を勇敢にやりきりなさい。
 経文に、『若し懺悔せんと欲せば端坐して実相を思え 衆罪は霜露の如く慧日は能く消除す』(法華経七二四ページ)とある通りです。信心と折伏に純粋に励むなら、悪い、悲しまねばならぬ宿命をも楽しみに変え、この世に遊びに来たのだという境涯が、必ず開けてくるんです」
 塩気の多い生活に、顔をしかめていたはずの先ほどまでの聴衆も、もう、この戸田の話で、人生の醍醐味めざして戦う決意を固めていた。
 戸田は、講演の最後に、場内を見渡して、情熱のぼとぼしる声でこう言った。
 「悩みのある人は、一年間、真剣に信心し、折伏しなさい。もしも、来年の今日まで変わらなかったら、私の命をあげましょう。これだけの約束をするんですから、安心して、しっかり頑張ってほしいんです」
 彼の大確信は、人びとの身を一瞬、震わせた。それは、話の勢いで発せられた言葉ではない。断じて幸福にせずにはおくものかという、戸田の、生命をかけた叫びである。
 そう気づいた時、誰もが、期せずして歓呼の拍手を送っていた。総会は、文字通り爆発的な雰囲気のうちに、幕を閉じた。
15  立宗七百年の意義深い一九五二年(昭和二十七年)も、いよいよ十二月の歳末となった。思えば、多事多難の年であった。
 この年の正月、創価学会は、五千七百二十七世帯であったが、十二カ月を重ねてみると、今や二万二千三百二十四世帯となっていた。年間の
 目標であった二万世帯を超えたのである。妙法広布の潮は、人びとの気づかぬ社会の底流で、着々と流れ始めていた。
 忙しい師走の二十一日の日曜日、教学部の最初の試験が行われた。午前中に筆記試験、午後に講義実習のテストである。合格者は、即日、発表された。
 それによると、助師合格者二十三人、講師合格者八人で、また、新たに二人が助教授に任命された。これで、教学部は六十五人の陣容となった。
 また、翌二十二日には、全国構想に備えて、新たに地方統監部が設置された。初代地方統監部長には、原山幸一が任命された。それにともない、原山が、これまで務めてきた文京支部長の後任に、田岡治子が就任した。清原かつに次いで、二人目の女性支部長である。
 飛躍的な会員の増加に対応した組織、指導体制の強化は、こうして堅実に図られていった。そして十二月二十四日、この年最後の本部幹部会が開かれた。
 折伏成果は、短期間にもかかわらず、二千十世帯と、前月に続き二千台を突破した。
 特に、このころになると、各地区の活躍が目立ってきた。蒲田支部の矢口地区などは、数カ月前までは、一支部でも達成できなかった、百三十三世帯の成果であった。このほかにも五十世帯以上の地区が、全国で六地区も出るようになった。
 もはや戦いは、支部単位というよりも、地区単位に移っていた。全国の各地区が、互いに覇を競い合う態勢になったのである。
 この日、戸田は、すこぶる元気な姿で、壇上から幹部に一年の活動の労をねぎらい、感謝の言葉を述べながら、話を次のように結んだ。
 「本日の、この盛大な幹部会をもって、昭和二十七年(一九五二年)は終わります。さらに来年の大闘争に備えて、他の支部も、蒲田支部に劣らぬよう、十分の力量を発揮してもらいたい。願わくは、皆さんご自身のために、広宣流布への使命を果たして大功徳を受け、組長は班長に、班長は地区部長になってもらいたいものと、私は念願する次第であります」
 この時の戸田は、はっきりと、「時」の来たことを自覚していた。
 戦後七年――創価学会は、辛抱強く滑走を続けてきた。特に、この五二年(同二十七年)は、その真剣な力強い、最後の滑走であったといえよう。
 この間には、七百年祭の笠原事件などという不慮の障害が、行く手に立ちはだかったが、賢明な操縦士は、それを見事に乗り越えていった。そして、ますます速力を増した。
 障害を越えたあとは、全力走行が可能な、平坦で堅い滑走路に入ることができた。創価学会という機体は、エンジンを全開して浮上しようとしていた。離陸の瞬間である。
 戸田は、一人、手に汗を握っていた。離陸の瞬間は、最も墜落の危機を秘めた瞬間でもある。戸田の渾身の注意深さが、その瞬間を乗り越えた。
 彼は、今、操縦桿を握り締めながら、飛翔の体勢に入っていた。ひとたび飛翔する以上、広宣流布の達成まで、着陸は許されない。いや、飛翔が止まれば墜落する以外ないのだ。
 墜落――それは広宣流布の死である。
 戸田は、この時から、「追撃の手をゆるめるな!」と最後の遺言を残すまで、遂に一瞬といえども、その手から操縦桿を放すことはできなかった。
 (第六巻終了)

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