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日蓮大聖人・池田大作

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余燼  

小説「人間革命」5-6巻 (池田大作全集第146巻)

前後
2  この時、十一番の議員が発言した。
 「創価学会提出の始末書を、発表していただきたい」
 「では、主事をして朗読いたさせます」
 議長の指名で、主事は立ち上がった。議場は、一緊迫した空気につつまれ、粛然となった。
 「始末書
   昭和二十七年六月二十五日
         創価学会会長 戸田城聖
  日蓮正宗宗務院 御中
 宗旨建立七百年慶祝記念法要中に、当学会青年部員と笠原慈行氏との間に於て行われた神本仏迹論の決定的な法論について、始末書提出の御命を受けましたので、左の通り始末書を提出致します」
 戸田城聖が、総本山に提出した始末書は、冷静な書きだしで綴られていた。
 笠原事件は、宗門の浄化のために、ぜひとも経なければならぬ問題である。しかし、戸田は、そのことで総本山に、少しでも迷惑をかけた事実については、どこまでも謙虚に陳謝の意を表したのである。
 しわぶき一つない議場で、主事は、始末書の朗読を続けた。
 「私始め学会員一同は、当日まで、笠原慈行氏は僧侶に非ずと信じて居りました。それは昨年五月三日、常泉寺に於ける会長推戴式に於て、愚生の講演の中に『戦時中、神本仏迹論を主張して時の法主上人を悩まし奉り、また学会弾圧の因をなした笠原慈行という悪僧が、今以って僧籍にあり云々』とありましたところ、臨席されて居りました細井尊師より『現在、宗門にはかかる僧侶は絶対に居りません』と断言され、その発言の裏付けは、五月十六日付『大日蓮』誌第六十三号を以って、『お断り』として宗務院の庶務部より発表されました。
 笠原氏の悪行は……」
 始末書は、最近の笠原の挙動から、四月二十七日の事件に及び、戸田が寂日坊を去るまでの概略を述べて、次のように続いていた。
 「慶祝記念日を御騒がせする心は毛頭ありませんでしたが、青年は血気に逸るものであります。とうとうあの事態になりました。今尚私の胸を痛めている事は、御法主上人猊下の御目を汚し、登山の各位を驚かせ申した事であります。只々申し訳ないとお詫び申し上げて居ります。
 尚、笠原慈行氏は、事件直後に聞きましたところでは、慶祝記念に当り、特赦され僧籍に復帰を許されたとの事でありますので、宗務院よりの発令の有無と理由の示達を糾して居りましたところ、四月三十日付印刷発行になる『大日蓮』誌第七十四号に発表されたものが、五月中旬に配布されましたが、今尚かかる主張をなす僧侶として本山に居る事は、了解に苦しむのであります。
 その故に、私共と笠原慈行氏との関係は、未だ『まつ』は決して居りませんので、全体の始末書とは申しかねますが、当日の始末を、あらあら御命によって、始末書にしたためました」
 始末書の朗読が終わると、秘密会議に入り、傍聴人は退席しなければならなかった。その秘密会議は、丸一日、続いたのである。
 清原ら三人は、理境坊の一室で、じっと待機していた。審議が、いかにして行われているものか見当もつかないままに、不安と焦慮のなかで、東京にいる戸田城聖のことを、しきりに思い浮かべていた。
 戸田は、彼らの出発の時、始末書と請願書を渡しながら、子どもに対するように、こまごまとした注意を与えていた。
 「喧嘩をしに行くのではない。決して言い争いをしではなりません。冷静な傍聴人として行って、宗会の動静や、議員たちの言動を、よく見極めてくればいい。不愉快なことばかりだろうが、あくまでも冷静に身を処することを忘れてはいけない。ご苦労だが、忍耐強くやってほしい」
 戸田は、重要なポイントだけは、いつも外さなかった。ここに、彼の、生きた教育があった。基礎、基本を教えて、あとは一人ひとりの責任に委ねたのである。
 若い彼ら三人は、まさに戸田の予見した通り、辛抱に辛抱を重ねなければならなかった。
3  翌三日目の二十八日も、朝から宗規を審議する委員会や、秘密会議が続き、やっと本会議が始まったのは、夜の七時三十分ごろであった。ガランとした議場の、天井からぶら下がっている二個の裸電球が、議員たちの姿を浮かび上がらせていた。
 最初に、委員付託となっていた宗制、寺院規則に関する議案が一括上程され、委員長の報告、説明のあと、それぞれ審議、可決された。
 次いで、宗規に関する議案を可決。そのあと七百年慶祝記念局の収支決算の中間報告があり、議案は慌ただしく通過して、終わった。
 この直後、突然、四番議員が席を立ち、黙々として議長席に歩み寄り、議長に一礼すると、一書をテーブルに置き、自席に戻ったのである。
 この一書は、笠原事件に関する宗会の決議文であった。丸二日の秘密会議で、作成したものであった。
 場内は、夜気のなかに、しんと静まり返った。
 「ただ今、宗会議員全員の署名、捺印による決議文が提出されました。よって、主事をして朗読せしめます」
 議長の発言に応えて、主事が演台に歩み寄り、決議文を広げた。
 傍聴席には、総本山内の僧侶が大勢いた。もちろん創価学会の三人もいた。
 場内には、いささか震えを帯びた主事の声だけが響いていた。
 「決議文
 昭和二十七年四月二十七日、総本山に於ける立宗七百年大法会執行中、惹起せる事件は、開山上人以来、未曾有の不祥事にして、霊域を汚し参拝の僧侶にすくなからざる不安を与えたるは、まことに遺憾とする処である。よって左の如く決議する。
 一、笠原慈行師は、本宗の教義に背反する異説を放棄し、特赦復帰になっていたにも拘らず、不祥事件以来調査の結果、宗門を欺瞞し、言を左右にして該説を放棄せるものと認められず、依って宗制宗規に照し適切な処置を望む。
 一、大講頭戸田城聖氏は、本宗宗制第三十条を無視し、本年四月二十七日、本宗僧侶笠原慈行師に対し、計画的と見做みなされる加害暴行をし、記念法要中の法主上人を悩まし奉るのみならず、全国より登山せる檀信徒に信仰的動揺を与えたる事件は、開山以来、未曾有の不祥事である。依って今後、集団、個人を問わず、かかる事件を絶対に起さざる事を条件とし、左の如き処分を望む。
 一、所属寺院住職を経て謝罪文を出すこと
 一、大講頭を罷免す
 一、戸田城聖氏の登山を停止す」
 決議文は、笠原慈行に対しては「適切な処置」と述べるにとどまり、戸田城聖に対してのみ、三項目にわたる厳しい処分を定めていた。
 決議文の朗読を終わると、四番議員が、趣旨説明の演説を行った。それは、笠原慈行については厳重なる調査をして、そのうえで宗制・宗規に照らし、断固たる処置を取ることを要求したにとどまったが、戸田城聖に対しては、激越な言辞を弄して攻撃したものであった。
 「……一方、戸田城聖氏は、宗制第三十条に、『管長ハ教義ニ関スル正否ヲ裁定ス』とある条文に訴えずして、計画的と推理される暴行をもってし、開山以来七百年のこの霊域を汚し、あまつさえ大法要の儀式執行を妨害したことは、天人ともに許さざる行為である」
4  傍聴席にいた、清原ら三人は、決議文を聞きながら詳細なメモを取っていたが、四番議員の演説の時には、憤激のあまり、メモを取ることも忘れてしまった。
 傍聴席の三人は、残念なことに、一言も発することができない。ただ六つの目が、四番議員の顔を鋭く睨むばかりであった。
 議長は、この決議文を議場にかけて議決すると、効力を生じたとして、当局に手渡すために休会を宣した。
 世は更けていった。小憩が終わり、会議は、また再会された。
 その時、議場は緊迫した空気につつまれ、議長の顔は異常なまでに青ざめていた。
 「ただ今、宗務当局より通牒がまいりましたので、主事をして朗読せしめます」
 それは、笠原事件の責任を取って、宗務総監以下全役員の辞職を告げる通牒であった。
 笠原事件は、宗務院をして総辞職に追い込んでしまったのだ。
 事の意外さに、議場は、一瞬、静寂につつまれたが、動揺は隠せなかった。議員たちは、事件の予期せぬ展開に困惑の表情を浮かべながら、議長席横の役員の顔に、一斉に視線を注いでいる。
 「辞職の件につき、番外一番の釈明を求めます」
 議長の発言を受けて、番外一番の宗務総監・高野日深は立った。
 「私は、大法要中の事件については、宗務総監として、全く自責の念に堪えず、事件当夜、直ちに法主上人のもとに、進退をお伺いいたしたのであります。
 法主上人におかれては、『お前の気持ちはよくわかるが、記念事業も未完成であり、かつ宗教法人も申請中であるから、いま少し御奉公せよ』と言われました。
 そのお言葉に従って、現在まで、そのままでやってまいりました。しかるに、法人の認証も近づき、今回の臨時宗会において、宗制・宗規・一般寺院規則も可決され、記念事業も先刻の中間報告をするまでに立ち至りましたので、私の意のあるところを汲んで、よろしく辞職をお聞き届け願いたい。ここにおいて、有能の士を選んでいただきたいと、念願するものであります」
 宗務当局役員の辞意を告げる宗務総監の発言が終わった時、番外三番が発言を求めた。議長の許可があって、教学部長兼内事部長の早瀬道応が、自席で深々と頭を垂れてから、口ごもりながら語った。
 「四月二十七日の事件の当面の責任者として、私はここに、日蓮大聖人はじめ、全国の信任を担って参集された宗会議員の皆様を通じて、全国の僧俗各位に、深くお詫び申し上げるものであります」
 議員一同は無言のまま、うなだれていた。
 次いで、番外二番の細井庶務部長が、自らの立場と辞任の理由とを述べた。
 「笠原師から、本宗僧侶として死にたいという願い出があり、それで復帰の手続きをとったのは私であります。今となっては、私は、笠原師に欺かれたというべきでありましょう。また、私は、戸田城聖氏の所属寺院の住職でもあります。それで私が、学会に一方的に味方をしているように誤解されてもおりますので、たとえ公平な処置をとったとしても、公平と思われない立場に立っております。それゆえに、この際、私は辞職して、各位の信任ある方によって、公平な処置を決していただきたいと思うのであります……」
 宗務当局の三役の辞意の固いことを知ると、議員たちは、この突発事に、いささか慌てた。あちこちで額を寄せて、ささやき合ったりしている。
 やがて、一人の議員が立って提議した。
 「問題は極めて重大であるので、議員会をもって、自由に討議する時間を与えられたい」
 議長は、ここで休会を宣して、宗会は議員会に移った。
 時刻は、既に午後十時十分を回っていた。
5  本会議が再開されたのは、三十分後の十時四十分である。議長は、議員を見渡しながら口を開いた。興奮した面持ちである。
 「ただ今の議員会の結果、議長、副議長、各委員長をもって、交渉委員を構成し、これより宗務当局と折衝することに決定をみたことを、ここに報告いたします」
 そして、会期をさらに一日延長するとの通達が、主事によって朗読され、この日は散会した。
 夜は、もう十一時を過ぎていた。慌ただしい一日が過ぎたが、議員は、まだ夕食もとっていなかった。
 静寂な杉木立につつまれた総本山の夜は、刻々と更けていったが、時折、参道の石畳を踏んで往来する僧たちの足音は、深更まで絶えなかった。
 折衝工作は午前二時まで続き、翌日は、また早朝から続けられた。ほとんど夜を徹しての交渉であった。
 四日目の二十九日の宗会本会議は、やっと午後一時半になって開かれたが、宗務当局役員の留任を願う決議文の起草を決定して、直ちに休会となり、午後二時十五分に再開となった。
 議員がそれぞれ席に着くと、議長は、十五人の議員が署名・捺印した決議文を、主事に朗読させた。
 主事の決議文朗読の直後に、起草委員の一人である十一番議員が意見を述べた。
 「事件そのものに対する本員の意見は、議員一同提出の決議文によって尽きるもので、ここに省略いたしますが、この際、当局に与える言葉としては、全国からの世論を冷静に聞いていただきたい。
 引責辞職を求める世論よりは、『正当に処置して、明朗なる宗門を建設せよ』との意見の方が、はるかに比重が重いのである……禍をもって福となし、明朗公正な宗門建設のために議員は一致団結して、当局のご留任を願うものである。……いわゆる僧侶としての品位の欠如が、実はこの不祥事件の原因であると、われと我が身を鞭打つのである」
 宗会は、わずかに反省の色を示しただけで、結局、いともあっさり二つの決議文を可決してしまったのである。一つは戸田城聖への弾劾の決議、もう一つは当局の留任を希望する決議である。
 本会議は、留任希望の決議文を宗務当局に手渡すために、いったん休会し、午後四時には再開されたが、直ちに議員会となり、またまた休会が宣せられた。
 四時三十分になって、ようやく宗務当局の役員も出席し、宗会の本会議は再び開かれた。
 ここでは、前日の戸田城聖に対する決議文の付帯事項が、若干の字句の修正を加えられ可決された。当初は、戸田に対する三箇条の処分を、必ず実行するようにという強硬な内容であったが、宗務院から異義を申し立てられると、宗会は、この付帯事項を引っ込め、次のように変更した付帯事項を提出したのである。
 「附帯事項
  本決議の実施にあたっては、実情を速やかに調査して此の趣旨に則って処置せられたい」
 この件に関し、番外二番の細井庶務部長が発言した。
 「事件に関する宗会の決議文は、その意のあるところは了承しますが、元来、信徒は、宗制条文については、はなはだ暗いところがあります。したがって、この点については、しかるべく温情があってほしいと思います。ただ、罰するについても、別の一般の見方のあることも考えないわけにはまいりません。御法主上人の御心も拝さなければなりません。それ故に、寛大、なる処置を望むものであります」
 細井は、公平な態度を堅持しようとしていたことがうかがえる。
 細井の発言があったあと、宗務当局の留任を求めた決議文に関して、番外一番の高野宗務総監から発言があった。
 「事件以来、自責の念に耐えがたく、昨日、辞表を出しましたが、今回、決議文をもって、宗会議員一同から留任を促されました。これ以上固辞することは、宗門の諸機関に累を及ぼし、宗門行政の混乱を増すばかりであることを知り、皆様の所存を諒として、ここに留任を受諾するものであります」
 波瀾のうえに波瀾を呼んだ、この第四十七臨時宗会は、戸田城聖に対する一方的な処断を際立たせて閉会の時を迎えた。議長が閉会を宣したのは、午後五時であった。
 これで問題は、一応、表面上、落着したかの見えた。しかし、問題は後に見るように、さらに深刻に拡大の一途をたどったのである。
 先に決議した、戸田城聖を処分せよとの決議文は、ある一種の効力をもって残った。禍根は消えるどころか、さらに深く根を張り始めたのである。
 笠原のパンフレットに、宗会は紛動されていたのだろうか。この動揺の現れが、あのような決議文の内容になってしまったのであろうか。笠原の策動は、奇妙な成果をもたらしたのである。
 笠原の策略は、人間の盲点に巧みに取り入って、人びとの正常な判断を狂わせてしまっていた。そのために、冷静であるべき人まで乗ぜられ、思いもよらぬ異常な行動に走ってしまったのである。そこに、策略というものの恐ろしさがあった。
6  六月二十九日の夜遅く、四日間の傍聴を終えた清原ら三人は、帰京すると、その足で戸田の家を訪れた。雨は降っていなかったが、梅雨時の蒸し暑い夜であった。
 戸田は、浴衣にくつろいで、三人を待っていた。
 「どうだ、暑かったろう。風呂にでも入るか」
 戸田は、扇子であおぎながら、訪れた三人を、いたわるように言った。
 「いいえ、先生、宗会は、結局、あの決議を可決してしまいました」
 清原かつは、無念そうに、激しく戸田に訴えた。
 三人は、前夜遅く、東京に電話していたのである。
 戸田は、すべてを、あらかじめ察していたように、大きく頷いて、三人が、こもごも語る四日間のいきさつを、注意深く聴いていた。
 三人の報告は、時々、あの異常だった四日間の情景が思い浮かんでくるのであろう、言葉の端々に、込み上げる無念さがうかがわれた。
 「宗会は、完全に踊らされております。首謀者は誰かといえば、一人二人ではないようです。笠原への同情というよりも、事あれば自分たちも危ういという、いわれなき恐怖感から、あのような決議文に持ち込んだものと思われます」
 一人がこう言うと、もう一人が、そのあとを受けて言った。
 「宗会の議員は、先生一人を、寄ってたかつて袋叩きにしようとしているというよりほかに、考えられません」
 「袋叩きか。私を袋叩きにして、それで宗門はどういうことになるのだ。宗門の未来が開けるのならいい。しかし、学会の存在なくして、広宣流布の伸展は断じてない。今、いちばん肝心なことは、いったい誰が広宣流布のために、本当に骨身を削っているかを見極めることではないか。それは、いったい誰なんだ!」
 戸田は、激しく感情を込めて、強く言い放った。
 「私一人を指名して、登山禁止とし、創価学会員の登山は差し支えないということなのか。これは、会長と会員との離間策だ。私の大講頭を罷免するということも同じだ。広宣流布をしようとする和合僧を破ろうとすることは、要するに、広宣流布を妨害することではないか!」
 「そうだと思います。先生が登山禁止になっているのに、私たちが、おめおめと登山できますか。考えなくてもわかることです。ひどい仕打ちだと思います」
 清原かつは、目に涙さえ浮かべていた。激情と悲憤が、若い三人の胸の内に渦を巻いていた。
 戸田は結論を下すように、三人に語りかけた。
 「ただ一つ、今度の事件で残念に思うことは、猊下にご心配をかけてしまったことだ。これだけは、私としても、なんといっても心苦しい限りだ。
 しかし、令法久住のためには、あくまでも戦わねばならない。御本尊様が、それをお許しにならないわけがない」
 戸田の苦衷と確信が、ここにあった。宗会と戦わねばならないことに立ち至った無念さは、骨身を削る苦しさというより、心臓をえぐり取られる苦しさにも似ていたであろう。
 彼は、翌朝、緊急の首脳会議の開催を呼びかけたのである。会議は、戸田を囲んで、清原ら三人の詳細な報告をもとにして進められた。議論は、悲痛なまでに沸騰した。そして、基本的な対策として、三つの方向に固まっていった。
 一つは、臨時幹部会を、緊急に開催すること。
 二つは、青年部として、宗会に決議取り消しの要求を提出すること。
 三つ目は、宗会議員の一人ひとりと面談し、直接、考えをただし、学会の真意を理解せしめること。
 直ちに青年部は、まず決議文を徹底的に分析し、十三項目にわたり、その不当なことを立証して、七月六日付で、宗会に決議文取り消しの要求書を提出すると同時に、宗内の各寺院にも発送した。
 青年部の提出した要求書は、次のように結ばれていた。
 「宗会の決議は、醜怪きわまるものであり、我等は全男子青年部の責任において、宗会に決議取消しを要求する。
 戸田会長に対しては、絶対に謝罪状を御出しにならぬよう、御願い申し上げた。
 又、会長登山停止に対しては、あく迄も闘争する事を決定した。
 以上、発表と共に、広く宗内一般の忌憚なき批判を乞うものである。
  昭和二十七年七月六日
          創価学会男子青年部」
7  この要求書の出された六日夜、池袋の常在寺で、男子青年部会が開かれた。
 臨時宗会を傍聴した二人の青年が、相次ぎ立ち、宗会のありのままの様子を報告した。そして、「謝罪文の提出」「大講頭罷免」「登山停止」という三項目の迫害が、戸田城聖の身に降りかかろうとしていることを訴え、青年部の奮起を促したのである。男子青年部会の参加者たちは、事の意外な重大さを悟り、緊迫した表情で、登壇者を凝視していた。
 関青年部長は、時に涙ながらに、怒りを叩きつけるように訴えた。
 「私は、青年部長として、断固たる態度に出ます。僧侶に一人ひとり会って、その真意を確かめなければならぬと思います。
 今回の、宗会の決定は、大難でなくしてなんであろう。われわれは、身をもって会長を擁護すべきであります。これに異議のある人は、退部を申し出てもらいたい。心ある同志は、一人残らず馳せ参じていただきたい。
 今後の闘争は、ますます苛烈を極めるであろう。これだけの青年がいて、会長の大難を、ただ黙って見ていることは、断じて、できない。ここが、退転するか、難を乗り切って、偉大なる境涯になるかの分かれ目であります。今こそ、わが青年部の力を示そうではないか!」
 常在寺の本堂の雰囲気は、場内に詰めかけていた青年たちの高潮した熱気で、燃え上がらんばかりになっていった。
 最後に、山本伸一が閉会の辞を述べた。彼は、この年の五月に、第四部隊の幹部長になっていた。幹部長は、各部隊にあって、教育、企画などを担当する幹部室の中心者である。
 「今日の会合が、いかに重要であったかは、これまでの話で、よくおわかりのことと思います。わが創価学会の目的は何かといえば、日蓮大聖人の御言葉を虚妄にしないことに尽きる。
 先般、青年部が、仏敵たる悪侶を放逐しました。その結果が、戸田先生の登山停止等ということになったのであります。これは、どういうことなのか。何かが狂い、どこかが間違っているのであります。
 ここに、一つの大難が現れた。戸田先生の真の弟子として、私たちは、先生を、しっかり擁護しなければならぬと腹に決め、明日からの実践に、決然と立ち上がろうではないか!」
 伸一の話は、決して感情論ではなかった。仏の金言を、断じて虚妄にしてはならないという正法厳護の本義に基づき、あくまで正論をもって参加者に訴えていったのである。
 青年たちの心には、清冽な使命感がたたえられていった。一人ひとりの目には、使命に生きる純粋な決意が光っていた。
 男子青年部会が、宗会との対決を決定した翌日の七月七日夕刻には、品川の妙光寺を、数人の学会首脳幹部が訪問していた。
 住職は、宗会議員の有力者の一人であった。学会幹部は、小西武雄、清原かつ、春木洋次ら六人に、記録係の青年三人が同道していた。
 ものものしい人数であったが、会見は、最初、穏やかな物腰で始まった。小西武雄が、会見の趣旨を、栃木なまりの訥々とした口調で説明しだした。
 「実は、今度の宗会決議の問題について、ここではっきりさせないと、思わぬ動揺が起きますので、今夜はひとつ、先生と共に、どこまでも語り合い、先生の意のあるところをお聞きしたいと思い、参上した次第です。幸い、宗会を傍聴した、清原たちも来ておりますので、ちょうどよい折だと思うのです」
 住職は、初め非常に緊張しているようすであったが、この小西の、親しみゃすい口調に、当初の警戒心は、ぐっとほぐれたようであった。
 話は、笠原慈行の過去に触れ、彼が持論とする神本仏迹論で宗門を脅かし、汚したのは、これで三度目であり、常習犯であるというようなことから入った。しかし、問題の核心である、戸田城聖に対する宗会の決議に話題が移ると、会見は、にわかに硬化してきた。
 笠原を悪侶とすることには、意見の一致をみたものの、戸田城聖に関しては、意見は真っ向から対立したのである。
 「笠原が悪いということは、明らかだと思いますが、どうですか」
 「そうです」
 「学会が、その謗法を責めたのは、評価されますね」
 「そうです」
 「しかし、先生は、暴力が悪いと、おっしゃるのですね」
 「その通りです。暴力はよろしくない。それを宗会で決議したのです」
 「待ってください。誰が暴力を振るったのですか」
 「…………」
 「仮に、暴力を振るったとしたら、それは青年部のわれわれですよ。戸田会長は、全く関係がないではありませんか」
 「でも、私たちは、戸田会長がやったと感じていた」
 「感じた? 『感じ』だけで、あのような重大な決議をするのですか。あの時、戸田会長は止めたんですよ」
 「…………」
 「なんの調査もしないで、なんの証拠もないのに、『感じた』ぐらいで、あのような決議をしていいものでしょうか。われわれは、その点、どうしても納得がいかないんです」
 「宗会は、決議できるが、調査の資格がない。だから付帯事項で、よく調査するように言ってあるのです」
 これでは、まるで話が逆である。調査のうえで決議するのが、当然の筋道であるはずだ。この当然の順序が踏めなかったのは、やはり感情論が先走っていたからと見られでも、やむを得まい。
 住職との話が平行線をたどるうちに、学会側の青年たちは、ジリジリし始めてきた。
 「何を言うのです。決議をしておいてから、あとで調査しろとは、何事ですか。そんな無責任な話がありますか。あの付帯事項も、宗務役員総辞職などの騒ぎがあって、宗務院の申し入れで、ああなったのではないですか。最初の付帯事項は、三条件を必ず実行させよという、厳しいものであったはずです。それが変わったのではないですか。
 要するに宗会は、この際、なんとかして学会を抑えつけようという意思で動いているとしか、われわれには受け取れない。ともかく、調査しなかったことは認めるのですね?」
 「認めます」
 会談は、時に激論になり、時に話のかみ合わぬコンニャク問答になりながらも、住職を納得させていった。
 そして、延々、四時間半にわたり、午後十一時四十分に、ひとまず終わった。その時、住職は、最後にこう言ったのである。
 「学会の方々と宗会議員とが、もっと早く話し合えばよかったですね。私も、よく了解しました。これ以上、騒ぎを大きくしたくありません。明朗宗門にするうえで、この問題は重大問題ですから、善処いたします」
 「われわれは、どこまでも総本山を守っていきます。ですから宗会も、われわれの心を、よく汲み取っていただきたいのです」
 小西らは、この夜、言うべきことを最後にキッパリ言って、引き揚げた。
8  翌七月八日には、教育会館で臨時幹部会が開催された。
 急な連絡であったにもかかわらず、幹部という幹部が、ほとんど顔をそろえていた。
 泉田筆頭理事から、笠原事件について、その後の経過が詳細に語られ、宗会が、戸田会長に対する三項目の処分を決議して、宗務院に要求するにいたった最近の状況が説明された。
 そして、根本の問題は、神本仏迹論という邪義にあり、日蓮大聖人の御精神を踏みにじってしまった、この誤った思想の流れが、今もなお、宗門を汚している事実、それを清浄にしようとした戸田会長が、処分されようとしている矛盾、さらには全学会員は、これを黙視することはできず、既に宗会に対して、戦いを開始したことなどを明らかにした。
 これを受けて小西武雄理事が、前夜の妙光寺における、四時間半にわたった会見の模様を述べ、遂に、住職も決議文の非を全面的に認めざるを得なくなり、決議文の取り消しに努力する旨を約束したと報告した。
 昨日の今日の話である。緊張のうちに沈んでいた会場は、ようやく爆発的な拍手に沸いた。
 「このような会見は、早急に、宗会議員の一人ひとりを相手として、もたれるでありましょう」と小西が結んだ時、幹部会の雰囲気は最高潮に達したのである。
 幹部会では、このあと、宗会の四日聞にわたる傍聴の様子が、こまごまと報告された。
 その後、清原かつが、小柄な体を演台に乗り出すようにして、「この事件に関しては、学会として最後の解決を見るまで、総力をあげて戦おうではありませんか!」と熱烈に訴えた。既に全員は、その覚悟を固めていたのである。
 最後に、戸田城聖が、拍手と歓呼に迎えられ、演台に向かった
 「すべて、お聞きの通りであります。広宣流布の道は険しい。険阻けんそな道に、今また、さしかかったことを自覚していただきたい。
 私が、今、願うことは、何がどうあろうと、何がどう起きようと、この信心だけは、絶対に疑ってはならぬということであります。私が、どんな立場に立とうと、また学会が、どんな危機に見舞われようと、日蓮大聖人の教えだけは絶対に間違いない。いささかも疑いを起こしてはなりません。
 私が、今、皆さんに願うことは、この一事であります」
 戸田の沈痛な語気は、場内を圧した。
 千数百の目は、戸田を凝視して動かなかった。皆は息をのむ思いで、聞いていたのである。そして、戸田の信心の奥底と、鋼のような決意のすべてを、聴衆は読み取っていった。
 「戦時中、時の国家権力による弾圧で、創価教育学会は潰滅しましたが、幸いにして私は、信心にいささかも疑いをもったことはなかった。そのおかげで、今日の私があり、戦後の混乱の不幸のさなかで、数万の民衆の蘇生があったのであります。そして、広宣流布の大業の端緒を、つかむことができたのであります。
 広布の道は、実に厳しい。魔は、思いもかけぬ、さまざまな姿をとって、今後も襲いかかって来るものと覚悟していただきたい。
 しかし、私たちは、金剛不壊の御本尊様を護持している。何を恐れることがありましょう。台風は、いつか必ず過ぎ去るものであります。ただ、魔の挑戦には、身命を賭して戦うところに、創価学会の使命があることを知らなくてはなりません。それでこそ、創価学会の存在が偉大なのであります。
 このたびの事件に関して、私たちは、偉大な教訓を得ました。それは、令法久住のためには、ご僧侶と悪侶とを、はっきり区別しなければならぬということであります。今後の方針として、ご僧侶は絶対に守り切る。ただし悪侶は、その非を責めるべきであるということを、今日、ここで決定いたしたいと思うのですが、いかがでしょうか」
 待ち構えていたように、万雷の拍手が、しばし鳴りやまなかった。
 笠原事件といい、今度の宗会事件といい、そこに横たわる問題は一つである。戸田は、臨時幹部会の話の最後に、その本質に触れることを忘れなかった。
 「事件は、次々と重なりましたが、要するに問題は、神本仏迹論が正しいか否かにあります。これは、単に一宗の教義の問題にとどまらず、日本の宗教全体にとって、歴史的にも重要な問題であります。神道についての正当な理解と認識がないところから、これまで奇怪な現象が繰り返されてきた。
 歴史は、そのために、国家の進路を、時に誤らしめたことを物語っているのであります。
 今度の問題の根も、また、ここにあるといって差し支えない。その根は、極めて深いことを忘れてはなりません」
 戸田は、一片の示唆を与えただけで、この時の話を終わった。しかし、笠原事件に対する学会の態度は、この夜の幹部会で明確にされたのであった。
9  戸田の指摘するように、神と仏、すなわち神道と仏教、さらに神道と国家の関係は、日本の宗教史、思想史において、重大テーマといわなければならない。日本人の精神的土壌とも、深くかかわる問題だからである。特に、明治以降のいわゆる国家神道と軍部政府が結びついていった時代と、この問題を切り離すことはできない。
 さまざまな事物の背後に、何ものかが宿っていると信じて、崇め、祭る儀式は、歴史をさかのぼると、日本列島各地に存在していた。この古代社会の風習は、有史以来、日本列島にやって来た人びとの習俗が、混交して成立したとされる。アジア各地の民族の間に伝わる、神話や宗教儀式などに、類似性が見られることも、それを裏付けていよう。
 なかでも、稲作文化の到来とともに広がった農耕儀礼の背景には、アニミズム(自然崇拝)があり、それは、アジア各地の諸民族にも共通している。
 古代社会では、農作物の豊作、凶作をはじめ、人間の営みが、何か不可思議な、天地自然の力によって左右されていると信じられていた。人びとにとって、太陽や星辰の運行はもとより、雨や、風や、川の流れなどの自然現象、そして、山や、森や、木や、岩など、あらゆる自然物の存在が、畏敬の対象であった。
 共同生活を営む部族集団では、一族の守護と繁栄を願い、それら自然の背後に宿っていると信じた何ものかを畏れて祭る、宗教的な儀式があった。同時に、そうした集団には、祖先を氏族の神として祭る祖霊崇拝の祭祀もあった。
 さらに、三世紀中ごろの、わが国の風俗を伝えている、中国の史書『三国志』の「競志倭人伝」には、女王・卑弥呼について、次のように記述している。
 「鬼道につかえ、能く衆を惑わす」
 「鬼道」とは、実際に、どのようなものであったのかは明らかではないが、中国の道教では、巫術ふじゅつ(シャーマニズム)といった意味もある。つまり、シャーマンと呼ばれる霊能者を媒介として、霊的存在との交流を図るという宗教的様式である。このシャーマニズムもまた、さまざまな形で、アジア各地に見られ、今日も民間信仰に残っている。
 古代の日本列島には、こうしたアニミズム的な農耕儀礼、部族繁栄を祈る祖霊崇拝、そして、″神がかり″のシャーマニズムなどが結びついて、それぞれの氏族の神を祭る宗教儀式や習俗が形成されてきたといえる。ここに、後に神道と総称されるものの原型がある。
 やがて、日本を統一していったヤマト王権も、これら自然崇拝、祖霊崇拝、シャーマニズムの要素を、祭政一致の形で併せもっていた。古代国家で、王の行う祭祀は、同時に政治でもあった。つまり、「まつりごと」とは、神々を祭る宗教儀式を意味するとともに、神々を祭って国をまとめ治める「政治」を意味した。古代社会の王は、政治的権力者であると同時に、神々への祭祀を司る宗教的存在でもあったのである。
 ところで、六世紀以後、大陸の文化とともに渡来してきた仏教は、その哲学体系の壮大さにおいて、また、政治、文化に対する指導理念の深さにおいて、土着の宗教であった神々への祭祀を、はるかに圧倒するものがあった。
 当初、仏教は、渡来人や一部の豪族が信奉するのみであった。その後、聖徳太子(五七四年〜六二二年)の帰依や、孝徳天皇(在位六四五
 〜六五四年)以降の国家的な仏教尊重政策によって、古代国家で重い位置を占めるようになっていった。そして、仏像や寺院建築をはじめ、経典とともにもたらされた漢字文化や、宗教儀式の形態など、宗教、思想、文化のあらゆる面にわたって、仏教の影響が深く浸透していった。それは、飛鳥、天平の文化に如実に見られる通りである。
 古代インドを源流とする仏教は、その流伝の途上で、それぞれに異なる言語、文化、宗教をもっ、アジア各地の民族の間に根を下ろしてきた。そのこと自体、仏教には、土着の精神文化、宗教を包含していく、寛容性、世界性が、はらまれていたことを示すものといえる。
 仏教は、発祥の時点から、梵天(ブラフマン)、帝釈(インドラ)など、古代インドの神々に、仏の化導や、仏道を修行する者を守護する働きとして、しかるべき位置を与え、取り入れている。民族土着の神を否定したり排斥するのではなく、それらの神々を、自然や宇宙が本然的に有している「働き」ととらえ、仏教の哲学体系のなかに包摂してきたのである。
 そこには、土着の神々の「働き」を、善なる力として生かしていこうとする、調和と寛容の思想が貴かれているといってよい。
 こうして日本では、仏教が国内に浸透するのにともなって、さまざまな摩擦を生じながらも、やがて、五穀豊穣、一族繁栄を祈る祭祀であった神道と混交していった。そして、神々への祭祀と、仏への信仰とを折衷し、融合させた、いわゆる「神仏習合」という形をとっていったのである。
10  八世紀の奈良時代にあっては、敬神と崇仏は、相並んで国家鎮護の要件とされた。神を祭る大社の中や、その周辺に、付属の寺院を設け、僧侶を定住させたりした。これを神宮寺といった。仏が神を守り、助けるという考えに基づいたものである。
 この時代、伊勢神宮にも神宮寺が置かれていたことが、記録に残っている。
 一方、日本土着の神が、仏教の寺院を守るという考えも導入された。九世紀の平安時代、最澄(伝教)は、神域とされた近江の日枝山に延暦寺を建立し、空海(弘法)は、紀伊の高野山に金剛峯寺を創建している。寺々では、仏教守護のために、その地に宿るとされた神を、寺院の境内に祭った。大寺院では、神を祭る神社が設けられていった。それらは、鎮守社と呼ばれた。さらに、神々には、菩薩号や権現号が贈られた。
 これら神宮寺、鎮守社の広がりとともに、神仏習合の流れのなかで持ち込まれたのが、いわゆる「本地垂迹」思想である。
 もともと、「本地垂迹」という考え方の原型は、法華経にある。法華経寿量品に説かれた久遠の仏を「本地」とし、インドに生まれた釈尊を、その「垂迹」とするのが、それである。この説を借り、土着の神と仏教を結びつける思想が生まれた。
 仏教が中国に伝わると、中国の神々は、仏の垂迹となった。日本でも、仏や菩薩は、日本の神々に姿を変えたとされていったのである。
 この本地垂迹説は、仏教主導の形で唱えられ、神の本地を特定することが行われるようになる。代表的なものとしては、平安末期から鎌倉時代にかけて形成された山王神道、両部神道がある。山王神道は、比叡山の祭神とされた日吉神が、釈迦仏の垂迹であるとした。両部神道の方は、伊勢の天照大神を、真言密教の大日如来と結びつけて権威づけていた。
 とりわけ、神道の伝統的な祭祀を重視していた伊勢神宮では、両部神道書の影響もあって、「神道五部書」がつくられ、伊勢の内宮の祭神である天照大神に対し、外宮の祭神を、天地開闢以来の神(始元神)に格上げする神話が登場する。
 ここで触れておかねばならないのは、八世紀初めに編纂された史書、『古事記』と『日本書紀』、すなわち「記紀」両書の存在である。なかでも、天地開闢から国の始まりまでの神話時代を述べたくだりでは、天皇は、日本の国土を産みつくった神の子孫であると、両書ともにうたっている。特に、『古事記』では、天照大神が、孫のニニギをこの世界に降臨させ、それが天皇の祖先ということになっている。天孫降臨神話である。
 そこには、日本は神々の産んだ国であり、神々を祭る国であるとする「神国思想」が、強く塗り込められている。「神国」という言葉も、『日本書紀』で、初めて使われたものである。
 神国思想は、以後、たびたび、歴史の表舞台に浮上した。十三世紀の鎌倉時代には、文永・弘安の蒙古襲来という国家存亡の危機に際して、神国思想の高揚があったことは、歴史の示すところである。
 この神国論者の代表的存在が、十四世紀の南北朝時代、武家の支配に対抗して、天皇親政を復活しょうとした南朝側の北畠親房であろう。親房は、その著『神皇正統記』に、「大日本は神固なり」と冒頭にうたい、同時に、「上古は神ときみひとつにましまししかば、祭をつかさどるは即まつりことをとれるなり」と、古代の祭政一致への回帰を理想として、大きく掲げた。
 この神国思想のもと、日本の神道こそ一切の根本であり、中国の儒教やインドの仏教は、枝葉、果実であると唱える天台僧が登場するにいたる。その根拠にされたのも、「記紀き き」の天地開闢神話であった。
 すなわち、日本は、仏教や儒教が起こる以前に、神々が産み出した国であるとする考えである。神を仏より上位に位置づけようとした、いわゆる「神本仏迹」思想である。
 十五世紀、室町時代には、この神本仏迹説を借用して、世界の根源の神を祭るとする吉田神道が、神道界に勢力を拡大している。
 時代は下って、十七世紀の江戸時代に入ると、今度は、儒教と結びつけて解釈する神道説が出てくる。儒家神道である。
 徳川幕府お抱えの儒学者・林羅山は、「我が朝は神国なり。神道はすなわち王道なり」と説き、「王道一変して神道に至り、神道一変して道に至る。道は吾が所謂儒道なり」と、神儒合一を唱えた。
 儒教、特に朱子学を封建道徳の根幹にすえようとした幕藩体制のもと、儒家神道は漢学者の間に広まった。この時期、禅僧出身の朱子学者であった山崎闇斎は、伊勢神道、吉田神道とも結びつけ、朱子学の説く「君臣の道」こそ、最高の人倫道徳であるとして、天皇を絶対視する垂加神道を掲げた。
 この君臣道徳に重きを置く儒家神道の影響下で興ったのが、荷田春満あずままろ、賀茂真淵、本居もとおり宣長らが説いた神道であった。外来の宗教、思想である仏教や儒教を排除し、日本には、仏教、儒教が伝わってくる以前から、古来の神道があるとする立場である。いわゆる復古神道といわれるものである。
 特に、その後の神道思想に大きな影響を与えたのは、十八世紀末の国学者・本居宣長であった。彼は、儒教など異国の思想の影響を排除し、日本最古の古典とされる『古事記』を絶対視する神道論を展開した。宣長は、日本は天照大神の生まれた国であるから万国の根元の国であると唱えた。そして、天照大神の子孫たる天皇を敬い、仕えることが、神意に適う正しい君臣の道であると説いた。その教説は、古来、国の中心は天皇であったとする、いわゆる皇国史観に立つものであった。
 復古神道は、国学者であった平田篤胤あつたねによって集大成を見るのであるが、彼は、老子や、キリスト教、西洋科学まで案配し、一つの神学大系をかたちづくっている。その平田も、皇国史観を掲げ、祭事(神事)と政事はは「元より一ツ」であるとして、これまた、祭政一致を理想とした。
 ロシアや米英など異国の船が、日本近海に出没し、にわかに民族意識、排外意識が高まっていく時代でもあった。
 こうした江戸期の復古神道が重視した君臣道徳、祭政一致の思想は、尊皇を掲げた水戸学とも結びつき、外圧の危機感のなかで、国粋的ナショナリズムを高揚させ、幕末の尊皇棲夷運動を沸騰させるエネルギー源となったのである。
11  さらに、明治政府は、国粋的な復古神道に、国家統治の教義として国教的な位置を与えた。天皇を、「神聖にして侵すべからず」と権威づけ、神国思想によって国をまとめ治めるという、古代の祭政一致を復活させようとしたのである。いわゆる「国家神道」である。
 全国の主要な神社は、伊勢神宮を頂点として、古代の律令制の時代さながらに社格が定められ、国家の管理下に置かれた。天皇を中心とする祭政一致の神国思想が、維新政府の描いた国家の形に、強く反映されていったのである。
 維新政府は、一八六八年(慶応四年)三月十四日、京都御所の紫宸殿で、有名な「五箇条の誓文」を発表した。この発表も、神祭の儀式に則って行われている。翌年三月の東京遷都の直後から、皇居には、天照大神をはじめ八百万の神々を祭る宮中三殿が整えられていった。
 同時に、明治維新は、宗教政策の面で、千余年にわたった神仏習合を清算しようとした時期でもあった。明治政府は、復古神道家や国学者たちの意見を重視して神仏分離令を出した。神道を仏教から切り離して、宗教的に特別な存在にしようとしたのである。各地で廃仏毀釈の騒動が起こり、仏像などが、破壊、廃棄され、神社では菩薩号や、権現号が排除された。
 神道の祭祀を、国家の祭祀として特別扱いする明治政府の政策は、制度面でも明確である。一八八九年(明治二十二年)二月十一日、帝国憲法の発布があり、一応、信教の自由が認められた。しかし、神道は宗教に非ずとして、特別な位置に置かれることになった。
 敗戦後の一九四五年(昭和二十年)十二月十五日、日本を占領統治したGHQ(連合国軍総司令部)は、国教を禁止し、政教分離を命じる神道指令を出した。これによって、ようやく神道も他の宗教と同じように扱われることになった。
 明治政府の成立から敗戦に至るまで、わずか七十七年にすぎない。その間、国家神道は、″忠君愛国を国民に植え付ける宗教″としての役割を担ったのである。
 この時流に便乗して、国家神道に迎合し、宣揚した宗教家も多く現れた。日蓮仏法を、国家主義礼讃の教理に歪めた田中智学などは、その典型というべきであろう。
 軍部が政治の実権を握っていった昭和の時代、日本は偏狭な国家主義に染められ、武力を全面に押し出して、世界を相手の無謀な戦争に突き進んでいった。その背景に、絶対不可侵とされる天皇の統帥権を笠に着て、戦争政策を左右していった軍部の暴走があったことも、歴史が示す通りである。そして、神国日本をアジアの盟主とうたい上げる「八紘一宇」のスローガンや、「聖戦」の名のもとにアジアに戦火を拡大した指導方針の精神的支柱には、国家神道の国粋思想があったのである。
 三七年(同十二年)の日中戦争、四一年(同十六年)の太平洋戦争へと、日本は、一国挙げての戦いに突入していった。戦場は次々と拡大し、政府は、国家総動員法、治安維持法で、国民を戦時体制の管理統制下に置き、思想統一を強化していった。神道を支柱とする国家主義と相容れない宗教や思想運動に対し、容赦のない弾圧が、次々と加えられた。従わない人びとは、非国民、売国奴のレッテルを貼られ、思想弾圧、人権弾圧の対象となっていった。その圧迫に怯え、多くの宗教者は国家権力に屈服して軍部主導による、やみくもな戦争拡大方針とともに、戦局は悪化の一途をたどっていった。国を挙げての空しい神頼みにすがる思考と神国思想で、国民に、「忠君愛国」「滅私奉公」を強制する国家方針が、破局をもたらしていくことになるのは、当然の帰結といわねばなるまい。
 牧口常三郎は、そうした権力の魔性が荒れ狂う軍部政府の在り方に対して、国家、社会を誤らせる根本的在問題があるとして、信教の自由を貫き、真っ向から対決した。
 ところが宗門は、権力の弾圧を恐れて、大聖人の教えに背き、権力が強制する天照大神の神札を受け入れたのであった。そして、創価学会も神札を受けるようにと迫る宗門に対し、牧口は毅然として、それを拒否した。烈々たる信念を貫いて、敢然と正義を叫び、獄中に殉教した。この牧口の闘争にこそ、日蓮大聖人門下の誉れある命脈が受け継がれているのである。
 後に戸田城聖は、『大白蓮華』に寄稿した論文「創価学会の歴史と確信」のなかで、こうつづっている。
 「牧口会長のあの確信を想起せよ。絶対の確信に立たれていたではないか。あの太平洋戦争のころ、腰抜け坊主が国家に迎合しようとしているとき、一国の隆昌のためには国家諌暁よりないとして、『日蓮正宗をつぶしても国家諌暁をなして日本民衆を救い、宗祖の志をつがなくてはならぬ』と厳然たる命令をくだされたことを思い出すなら、先生の確信のほどがしのばれるのである」と。
12  ここまで、神道について長々と述べてきたのも、国家神道形成の歴史と、その果たした功罪を明らかにする必要があったからにほかならない。
 明治維新という改革期にあって、国家神道の復古的な国粋主義思想は、一時的に、国民を統一するのに都合のよい思想であったかもしれない。しかし、人類社会への真の跳躍の力とは、なり得るものではなかった。それどころか、国家神道を精神的支柱とした軍国主義は、国民を戦争に追い立て、アジアの人びとを蹂躙し、遂には、国を破滅の悲劇へといたらしめたのである。
 戸田城聖は、国家神道に膝を屈して仏法を歪め、権力による学会弾圧をも招いた笠原の神本仏迹論を、実に根の深いものとして、徹底的にこれを排除し、糾弾しようとした。
 宗教や思想の誤りは、権力の魔性を増長させ、遂には、社会の破滅と民衆の不幸を招く――戸田は、立正安国の原理からも、そのことを深く洞察していた。
 ところが宗会は、笠原事件に際し、大聖人の正義を曲げた笠原の神本仏迹論を重大視するよりも、宗門の体面にとらわれた裁定に終始するのみであった。そこにまた、僧俗一体で広宣流布に進まんとした、戸田の深い苦衷があったといわねばなら、
13  さて、七月八日の臨時幹部会以降、宗会との対決は、宗会議員一人ひとりとの対話に移されていった。
 学会首脳部は、幾つかのグループに分かれて、全国の宗会議員たちと会っていった。
 まず、七月十一日夜、山本伸一、春木洋次らの一隊は、東京・文京区の白蓮院の門を叩いた。
 住職が三人を迎えた。彼らの一人が、穏やかな口調で話を切りだした。
 「夜分遅く、おじゃまいたしましたのは、笠原慈行の問題についての宗会決議に対し、私たちは、正宗信者として、また、創価学会員として、非常に不満であり、これをはっきりしないことには、今後の折伏活動に重大な支障をきたすと思われるからです。
 私たちは、戸田会長の代理として伺いました。どうか、日蓮正宗の尊師という責任あるお立場から、先生のご真意を伺わせていただきたいのです」
 山本伸一は、この時、重ねて住職に言った。
 「私は、今度の事件に責任のある青年部の一員として伺いました。日蓮大聖人の御遺命通りに、広宣流布を成し遂げたい意気と熱意をもって、先生のご真意を伺いにまいったのです」
 「謗法を責めるのは悪くはないが、集団で、あのようなことをしたのは、よくないと思う」
 住職の言い分は、他の僧侶たちのそれと、判で押したように同じであった。山本伸一は、そこに含まれている重大な誤りを見逃さなかった。
 「集団でとおっしゃいますが、その前に、問題の本質を整理しましょう。今、いちばん大事なことは、仏法と宗制・宗規との軽重を、はっきりさせることではありませんか。私たちは、もちろん仏法の方が根本だと思いますが、いかがでしょう?」
 言葉は穏やかであったが、真っ正面から正論を提示したわけである。対談の議題は、問題の核心に鋭く迫るものとなっていった。
 「そうです」
 「宗制・宗規は、仏法を守るためのものですね」
 「そうです」
 「では次に、聖域を汚したという問題ですが、日興上人は『謗法を呵責せよ』と、遺誠置文におっしゃっておりますね」
 「そうです」
 「この精神は、日蓮大聖人の弟子にとっては、まず謗法を対治することが、他の一切に優先するということですね」
 「まったく、その通りです」
 「われわれが追及した神本仏迹論は謗法ですね」
 「謗法です」
 「それなら、まず何よりも、謗法を対治したという学会の行動に対する正しい認識が、宗会議員に必要ではなかったでしょうか」
 「…………」
 住職は、しばらく沈黙してしまった。伸一は、さらに話を続けた。
 「謗法を責めよとは、『立正安国論』の根本義です。私たちが謗法を責めたことは、正しいですね」
 「そう。謗法を責めたことは、よいことです」
 「それでは、結局、われわれの行動により、聖域が逆に浄められたということになるのではないですか」
 「そう。確かに浄めたといえます」
 紛糾していた話し合いも、いつしか第一の合意に達していた。
 冷静に話し合えば、このように解決できる問題も、いたずらに感情的になっては、かえって問題解決を阻んでしまう。そこで伸一は、この複雑にからみあった問題の糸を、よく見極めて、根気よく解きほぐす以外にないと思った。
 対談は、さらに決議文そのものに移っていった。
 「決議文の問題に入ります。今度の決議文は、全部、資料を整えたうえの結論でしょうか」
 「あの決議は、付帯事項で幅をもたせてあります」
 「しかし、あの決議は、検事の論告みたいですね」
 「あれはまだ、そう決まったわけではありません。宗会のことは、私として返答の限りではない」
 「罪名をつけるからには、それだけの裏付けがなくてはならないはずです。調査のうえの決議かどうかを、先生に伺いたいんです」
 「笠原師は、謗法だという断が下っている」
 「それは、学会が動いたから、彼は謗法だったと、明白になったんですね。それなのに、喧嘩両成敗みたいな決議は、おかしくはないですか。謗法を責めた学会が、さも悪いように、全国に悪印象を与えてしまった。これでは、全く話が逆ではありませんか」
 「…………」
 「会長の登山停止の宗会決議は、一種の弾圧にも等しい。学会の青年部は、全国の宗会議員に対して、断固、闘争を開始します。宗会の方で、はっきりした態度と責任を取ってくれなければ、われわれとしても断行せざるを得ません」
 「私としても責任を感じております。私は、学会が折伏をすることは、結構なことだと思っている。ただ、これ以上、摩擦を起こしてもらいたくありません」
 「それは、われわれも望んでおりません。これまでの私たちの話がわかっていただければ、それでよいのです」
 「わかりました」
 二時間半にわたる対談は、やっと結論として了解に達した。
 白蓮院の住職は、先日、学会が宗会へ提出した請願書を、取り次いでくれた僧侶であった。それだけに、まだ意思が通じる僧侶であったわけだ。しかし、こうした宗会議員の僧侶との対談が、了解をもって終わることは、困難な場合もあった。
 七月十三日の早朝に、富士市の寺院・奨信閣を訪れた学会幹部の一行は、総本山に向かい、その夜から理境坊、観行坊、久成坊と、それぞれの住職を訪ねて話し合ったのである。
14  また別のグループは、七月十三日、宗会議長が住職をしている横浜の久遠寺を訪れた。当初の子定では十日であったが、住職の希望によって十三日になったのである。この日は、寺の御講の日であり、訪ねて行った時には、多くの信徒が居残っていた。
 話し合いは、午後四時から庫裏の一室で始められた。住職は、七百年祭の折に、青年部が笠原の謗法を責めた行動を、聖域を汚したものとして、あくまでも固執していたが、これに対して学会側は強く批判した。
 「たとえば、泥棒と、泥棒を捕まえた者とを同等に断罪することは、おかしいと思いませんか。捕まえた場所がどこであるかによって、捕まえたことの意義が薄れるということがあってよいでしょうか。どうなんでしょう」
 この詰問に、住職は平然と答えた。
 「私の信念ですから、仕方がありません。私の考えは、決議文通りです。それを、学会の方が、どのように解釈しようと、私の考えは自分の信念によるのですから、どうでも勝手に考えたらよいでしょう」
 住職は、学会側の追及に対して、「決議文は自分の信念だ」と言明して返答を拒んだだけでなく、唖法の婆羅門のごとくに沈黙して、そっぽを向いていた。
 部屋には、住職の希望によって、居残っていた信徒の一部が、傍聴人として同席していたが、傍聴人というよりも、数を頼んでの示威とも言える言動を取ったのである。驚いたことには、寺には、棍棒やハンマーなどが、ひそかに用意され、暴力団まがいの者さえ待機していた。
 住職との話し合いに、これらの人びとがからんで、険悪な事態にまで陥った。遂に、同席していた信徒たちが立ち上がって、学会側の列席者に暴力を加えようとさえした。二人の警察官が駆けつけ、これをやっと鎮めた。
 このようにして、前後四時間に及んだ話し合いは、結局、なんの結論にも達することなく、不得要領のまま、終わらざるを得なかった。
 七月十四日、仙台支部長・白谷邦男は、支部幹部三人と共に、同市の古利・仏眼寺の住職を訪ねた。
 住職の佐藤覚仁は、宗会議員ではなかったが、宗会の決議について、強い不満を述べた。
 「私が、もし宗会議員であったら、決議文に捺印することを拒否し、名誉の孤立を選んだでしょう。笠原師は、私の先輩であるが、まことに不都合千万で、擯斥すべき人です。私は、全面的に学会の行動を支持します。
 青年部の行動は、時の勢いとして、やむを得ぬことです。宗会議員には、日興上人の精神が全くない。
 もし、この事件に点数をつけようとするならば、学会は満点であり、宗会は零点です。日浄寺の高橋君とも話し合ったが、私には、ある決意があります」
 全国寺院の僧侶のなかには、仏法を根本として、過つことなく事件を判断していた、このような僧侶もいたのである。
15  この会見から一週間ほど後、佐藤覚仁は、日浄寺住職の高橋信道と共に、両人署名による宗会議員一同に宛てた勧告文を発表して、決議の取り消しを要求し、全面的に学会擁護の立場を明らかにした。
 七月二十日に、青年部幹部の八人は、栃木県にある浄圓寺にまで足を伸ばした。住職は、宗会議員の一人である。寺は荒廃し、壁は破れ、本堂はやや傾いていた。
 そのなかで青年たちは、真情を述べながら、一つ一つの事項について決議文の不当を説明し、その撤回を要求した。
 住職は、最初、言を左右にしていたが、笠原の人格の話になると、ここで思いがけないことを言いだした。
 「私は、七年間、笠原師と同居していたことがあるので、彼の性格は、誰よりもよく知っています。今度の事件は、彼の一種の病気から起きたことです。たとえ誰がなんと言おうと、彼の神本仏迹論は誤りであり、それを考えると、宗会の決議は、軽はずみであったことを認めざるを得ません」
 住職は、笠原の性格論から今度の事件の本質を明かし、自ら進んで、今後は、学会に大いに協力することを約したのである。
 同じ七月二十日に大阪へ向かった清原、関、山際の一行は、二十一日、池田市の源立寺を訪れた。
 約四時間にわたっての懇談で、住職は、決議文については全面的に取り消すよう努力することを約束した。その後、話題は、同寺院が所属する関西の第八布教区の決議文に移っていった。この決議文は、笠原事件に関して、学会を強く非難したものであった。その話に入るや、住職の態度は、俄然、硬化して、前言を翻した。
 「六百年の伝統を守ってきたのは法華講であって、入信して二年や三年の学会の信者ではない。私は、断然、学会と対決して、あくまでも戦うつもりだ」
 住職は、食ってかかるように放言し、遂に会談は決裂して終わったのである。
 また別のグループは、この夜、京都の住本寺を訪れていた。
 会談は、午後五時から数時間にわたったが、住職は、話がわかってみると、学会側の主張はすべて容認し、第八布教区の決議文についても、布教区の幹事である自分の責任において謝罪状を発表することまで約し、和やかな懇談となって解決した。
 清原らの一行は、翌二十二日、愛知県瀬戸市の天晴寺を訪れた。話し合いは、午前九時から午後四時まで、七時間に及んだ。
 住職は、これまで学会と全く交渉がなかったので、学会に対する認識は浅かった。しかし、長時間にわたる話し合いのうちに、正法正義を守らんとする学会の誠意と熱意を初めて知って、感動した。そして、心から打ち解けて、今回の宗会の決議文取り消しに、善処することを約したのである。
 七月二十四日には、青年たちが、東京の法道院を訪れた。住職は、宗門の教学部長であった。宗会の時の宗務役員の一人で、辞表を提出して宗会と対立した僧侶である。
 しかし、彼が編集責任者を務める宗門の機関誌『大日蓮』では、笠原事件を不祥事件として扱ったことが問題となった。
 神本仏迹論の笠原を呵責し、聖域を清めたことが、何ゆえに不祥事であるか、むしろ、本質からみれば慶祝事ではないか――と青年部は指摘したのである。
 住職は、「謗法呵責は全面的に賛意を表するがゆえに、今度の事件は不祥事件ではない。さりとて、当夜、法主上人の身辺にいたものとして、猊下が、あれほど悩まれた事件を、慶祝事とは、どうしても言えない」という見解を取ったのである。
 この住職は、日昇が悩んでいたことを、傍らで見てきた。それだけに、こうした心境になったのでもあろう。実は、戸田の悩みも、そのことにあった。
 戸田は、他の誰よりも日昇の心情を思い知っていた。ほとんどそのことで、沈痛なまでの苦悩に沈んでいたのである。それは、責任者としての当然の心でもあった。
 彼は、もとより総本山に対して、いささかも外護の心を失うことはなかった。創価学会の会長として、また法華講の大講頭として、宗門の遙かな将来に思いをいたし、その行く末を案じていたのである。
 笠原事件は、広宣流布という遺業の達成のためには、どうしても避けることのできない試練であった。
16  戸田が、笠原事件に対して、思い切った決断を下したのも、純粋な信仰の確認によって、本源的な内部の団結を確立しようとする目的からであった。そこには、なんの私心もなかった。仏法に対する峻厳な姿勢が、終始、戸田を貫いていたのである。
 彼は、涅槃経の疏に説かれた一節を、しばしば鮮烈に思い起こした。
 「慈無くして詐り親しむは是れ彼が怨なり」
 外に向かって、宗教革命の未曾有の雄図を実現しようとする時、内部に潜む魔の蠢動こそ、まず駆逐せねばならぬ第一の敵であった。その敵に対する破折はもとで、笠原事件は宗内に多くの波瀾を巻き起こしたが、戸田の意を受けた学会青年部の折伏精神によって、かえって宗内は僧俗の一致に向かって進み始めたのである。
 七月七日から、学会首脳幹部の手によって始められた、宗会議員一人ひとりとの面談は、こうして、ほぼ全国的な規模で繰り広げられた。
 その間、学会青年部は、寺院を、一カ寺、一カ寺、訪れ、熱情と誠意でぶつかっていった。その戦いは、ある時は砂をかむような思いをしたり、激しい中傷と偏見に、厚い壁を感じる時もあった。
 しかし、青年の真心と情熱が、人を動かさないはずはない。青年たちの純粋な訴えが、次第に宗会議員を動かした。その成果を総合してみると、決議文に関しては、宗会議員十六人のうち、会見不能の者二人、態度不明の者二人、撤回反対の者二人はあったものの、撤回に賛成する者十人という結果を見るにいたった。
 あれほど、時には頑迷にすら思えた宗会議員のうち、過半数が撤回に同意したのである。これは、正論の勝利ともいってよい成果であった。事態は、ようやく落着する気配を見せ始めたのである。
 「いかなる大業も、地道な努力の積み重ねを無視しては達成されません。戦いにあって最も大事なことは、人の心をつかむことです。しかも、人の心を動かし、とらえるものは、策でも技術でもない。ただ誠実と熱意によるのです」
 事件以来、終始、青年たちの行動を見守っていた戸田城聖は、こう言って彼らを励ました。戸田は、事件の拡大を憂慮してはいたが、なすべきことを、あえてなしたことに納得していた。
 学会首脳部が、宗会議員一人ひとりと面談し、事態が、ようやく落着の方向に傾き始めたころ、突然、宗務院から戸田城聖に対し、登山するようにとの呼び出しがあった。これは、一連の事件に対し、宗務院が、学会に対する最終的な裁断を下すため、招請したものであった。
 七月二十四日午後一時、戸田は、清原かつ、泉田ための二人を伴い、宗務院に出向いた。
 宗務院側からは、細井庶務部長をはじめとする数人の僧侶が出席し、面談が始まった。
 まず細井庶務部長が、威儀を正し、粛然として戸田に言った。
 「先般、四月二十七日の不祥事件については、国内一般にも影響を与え、宗内の面白を失うことが多かった。宗会の決議文もあり、宗務院としては、一刻も早く、この処置を取らなければならぬ現状に立ち至っておりますが、幸い、既に提出された始末書をはじめとする、その他の調査も終わりましたので、学会の真意もよく了知することができました。
 笠原慈行については、行政上から処置しますから、心配には及びません。ご安心下さい。
 ただ、式典の際、あのような騒ぎになったことに対して、学会側から文書をもって謝罪の意を表明していただくだけで結構です。これは、全国の末寺に配布するつもりです。
 どうか今後は、このようなことは絶対ないことを望みます。また、宗会議員に対する行動を即座に中止していただきたい」
 この宗務院の処置は、宗会決議より大幅に緩和された内容であった。そこには、まず、戸田の処断を求めた宗会決議の三項目はなく、謝罪状の提出だけで事件の解決が図られていた。
17  戸田城聖は、この時、細井庶務部長に答えた。
 「宗務院のご命令とあれば、これに従います。謝罪状を書けとのことですが、猊下を悩まし奉ったことに対しての詫状でありますれば、なんの異存もありません。さっそく、これを認めて提出します。
 次に、公の場所でのお言葉のことでありますから申し上げますが、先ほどのお言葉のなかにありました『宗内の面目を失った』というお言葉と、『不祥事件』とのお言葉は、お取り消し願いたく存じます」
 彼は、特に言葉に固執したわけではなかったが、この場合、一つの言葉によって、事件の性質、本質が、全く違ったものとして受け取られてしまう恐れがある。令法久住という大目的のうえに、あえて行った学会の行動が、そうした言葉によって真実の姿を歪められることが、彼には忍びがたかったのである。
 細井庶務部長は、これを聞くと、伸びやかに笑って答えた。
 「わかりました。それらの言葉は、今度の事件が新聞などで誤って伝えられたり、各地の人びとが、くだらないデマを飛ばしたこと等を指しているのであって、あなたの行為を指すのではありません」
 細井は、こう言ってから居ずまいを正すと、傍らの書状を手に取った。
 細井が手にした書状は、四月二十七日以来の事件に関する日昇の誠告文であった。
 「今回のことについて、猊下より誠告文が下されましたので、これを拝読いたします」
 一同は、さっと緊張して聞いた。
 誠告文は、宗会決議には触れず、笠原事件を「遺憾の極み」と述べ、儀式を騒がせたことに強く反省を求めていた。しかし、その言葉には、戸田の護法の功績への評価と、宗門の外護を期待する心がにじみ出ていた。そして、戸田の処遇については、最後に次のように述べていた。
 「……法華講大講頭の職に於ては、大御本尊の宝前に於て自ら懺悔して、大講頭として恥ずるならば即座に辞職せよ。若し恥じないと信ずるならば、心を新たにして篤く護惜建立の思をいたし、総本山を護持し、益々身軽法重、死身弘法の行に精進するべきである」
 日昇の言葉を静かに聞いていた戸田は、四月末から続いた笠原事件も、これで終わったと思った。
 彼は、帰京すると、翌七月二十六日、僧侶との会見について、全面的に一切の行動を停止することを指示した。そして、そのための声明文を発表した。
 戸田は、日昇直筆の誠告文を、日に何回となく見返したが、「若し恥じないと信ずるならば、心を新たにして篤く護惜建立の思をいたし」という一節にくるたびに、不思議と総本山のたたずまいが目に浮かんでくるのであった。
 「護惜建立」とは何か、と思いをめぐらすうちに、老朽化が進んでいる五重塔に思い至った。
 ″護惜建立の実践の実を、いささかでも示して、猊下のお心に応えんとするならば、まず五重塔を修復することだ″
 数日たって、新たな決意がここに固まると、戸田は謝罪状の執筆を急いだ。
 謝罪状は、日昇を悩ましたことを詫びるとともに、総本山を厳護する創価学会の精神が、切々と肺腑をえぐる筆致でつづられていった。
 「不肖城聖は暗愚の者ではありますが、宗祖大聖人様の御威光を頂き、猊下の御徳にすがり、創価学会の折伏の精兵をひっさげて、身軽法重の御命に一身を折伏の戦陣にさらす決心であります」
 戸田は、何よりも信仰の人であった。
 謝罪状は、そのあと「護惜建立」の文を受けて、五重塔修復の誓願へと移っていく。
 「これが修復の儀を、我等創価学会に御下命下さらば、会員一同の喜び此れに過ぐるものなく、奮起勇躍して御奉公致す覚悟で御座居ます。
 謹んで我等の願望御推察せられて、御下命賜わらん事を御願い申し上げます。
  昭和二十七年七月三十日
          創価学会
            会長 戸田城聖」
18  七月三十日は、七月度の本部幹部会の日であった。八日の臨時幹部会から二十日余りしかたっていなかったが、場内の空気は、新しい出発の決意に変わっていた。
 日昇の誠告文が紹介され、その次に戸田会長の奉答文が読み上げられた。
 七月は、宗会議員との話し合いのために、多くの中心幹部が各地を訪れなければならなかったが、折伏成果は、千百六十五世帯と、千世帯を下回ることもなかった。
 八月の本部行事は、夏季講習会と、全国的規模の弘教を展開することが発表された。そして、二千世帯の達成を目標に掲げ、幹部会は力強い息吹に満ちて閉会したのである。
 なお、七月二十七日に、横浜市鶴見区市場町に白蓮院支院として、一寺が開設され、入仏式が厳かに挙行された。鶴見方面の学会員七百人が、喜々として参集した。学会の手によって誕生した第一号の寺院である。紛糾した事件のなかにあっても、広宣流布の潮は休むことなく、鶴見の岸辺に、ひたひたと寄せていたのである。
19  広宣流布への道程は、決して平坦な道ばかりではない。笠原事件は、学会を思いもかけない茨の道に踏み込ませたかに見えたが、首脳部の、心を一つにしての粘り強い話し合いの展開は、宗内を覚醒させ、見事に一つの試練を乗り越えたのである。
 立宗七百年祭に突如として燃え上がった火が、正法興隆への輝かしい門出の峰火となったといえよう。そして、そこに尾を引いた余燼は、かえって広宣流布への新たな闘争への炎となって、燃え広がっていったのである。

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