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日蓮大聖人・池田大作

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小説「人間革命」5-6巻 (池田大作全集第146巻)

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2  その直後、事態は一変した。
 午後二時半を過ぎたころであった。膨れ上がったデモ隊の一部が、警官隊との距離を縮め、緊迫した空気になった。怒声がし、一部で小競り合いが始まった。その時、警官隊の副隊長の号令が響いた。
 「かかれ!」
 デモ隊に向かって、警官隊は、一斉に警棒を振りかざして殴りかかり、間もなく催涙ガス弾が打ち込まれ、その後、銃声が響いた。皇居前広場は大混乱となり、デモ隊の一部も、プラカードや旗竿で立ち向かったが、すぐに警官隊に追い詰められていった。広場は修羅場と化した。
 この時、一人の大学生が重傷を負って倒れ、後に病院で死亡している。
 デモ隊と行動を共にしていたある雑誌社のカメラマンは、この時の衝突の最初の模様を次のように報告している。
 「二重橋前は、柵の内に皇宮警官が一人いるだけで、デモ隊は柵際まで到着し、隊伍も解け、緊張をゆるめた様子で、旗を振ったり歌ったりスローガンを唱えたりしていた。十分間くらいそんなふうにしていると、南側の方からヘルメットを被った警官隊が出て来て道の左端を通って柵際へ進んだ。と、いきなりデモ隊に襲いかかった。アッという間もない出来事で、私はビックリしたが、もう目の前は乱闘で、催涙弾が投げられ、デモ隊側は次第に押されて行った。塵と催涙ガスの濠々たる中でピストルが鳴り、交番がひっくり返った」
 最初の衝突から、二、三十分後の午後三時ごろ、南部コースを含むデモ隊の約三千人が、祝田橋を渡った。このデモ隊も、警官隊による特別な妨害も受けずに、混乱状態の広場に入った。そして、二重橋前から追われて楠木正成像の周辺に来ていたデモ隊と合流した。
 合流したデモ隊の人数は、七千人ほどに上っていた。
 三時半ごろ、そのデモ隊に、増強されていた警官隊が再び近づいていった。また多数の催涙ガス弾が打ち込まれ、拳銃も発射された。
 デモ隊も、投石やプラカードの角棒で応戦したが、警官隊に蹴散らされ、多くのデモ隊が広場から追い出された。
 逃げ出したデモ隊のなかに、路上の乗用車に火を放った者がいた。米軍の自動車である。
 前述のカメラマンは、次のように述べている。
 「そのうちに日比谷の方で黒い煙が上ったので、私はそっちへ駆け出し、祝田橋を渡った。自動車が一台仰向けにひっくり返って燃えている。デモ隊は乱れて逃げ、警官隊が追っている。逃げながら次々と自動車を横倒しにしている。その車軸の辺に紙で火をつけているカーキ色のズボンをはいた若者があったが、学生風には見えなかった。私はそれを写そうとしたが、怒鳴りつけられて、写せなかった」
 デモ隊のなかに、人びとを扇動した者、過激な行動をとった者がいたことは事実のようである。しかし、デモ隊の多くは、一般市民であったろう。その市民にも、警官隊は襲いかかった。
 朝日新聞の社会部記者は、目撃談を語っている。
 「午後三時半ごろ、いよいよ最後の段階にきた。警官隊側は各方面本部管下の予備隊の全人容を動員、約四千名が集まった。桜田門で二重橋を背景にした輪陣をジリジリと左旋回、芝生の上に二重の陣立をとった。これは風上を利用するためらしい。最前列の警官から、いきなり催涙弾が投げつけられ、同時に『つっこめ』の号令一下、一せいに警官隊は進撃を開始した。警官隊の猛撃に二十分ぐらいデモ隊側も抵抗を続けたが、ついに勝敗はきまった。デモ隊は総くずれとなって、日比谷公園方面へ退却を始めた。催涙弾で、目があけられないため隊列から落伍するものが、警官隊にひっ捕えられて、桜田門口まで数百メートルも、血だらけになって引きずられていった」
 広場に残ったデモ隊を一掃するために、警官隊の最後の攻撃が行われたのは午後四時ごろだったようだ。この時も拳銃が発射された。
 当日、メーデーの参加者としてではなく、見物人の一人として、これを目撃した作家の梅崎春生は、その時の情景を次のように語っている。
 「私たちは初め、あれが実弾発射の音だとは、夢にも思わなかった。発煙筒(催涙ガス筒を、私は最初、ただの発煙筒だと思っていたのだ)の栓か何かを抜く音だろうと思っていた。日本人が同じ日本人を撃つなんて、とても信じられなかった。
 私が聞いた音だけでも、百発は優に越えていたように思う。
 催涙ガスにしても、威嚇のためか気勢を上げるための発煙筒だと思っていたので、その煙にいきなり取り巻かれた時は、大いに狼狽した。涙がむちゃくちゃに流れ、眼なんかほとんどあいていられない。鼻や口腔が、ヒリヒリと痛む。その煙の彼方から、警官隊が追って来るのが見える」
 警官隊の総攻撃の時に発射された拳銃の弾が、一人の若い東京都職員の命を奪った。即死であった。
 五月の緑に囲まれた皇居前広場は、晴天のもと、平和で穏やかなはずであったが、この日の午後は、完全に修羅場と化してしまった。
 デモ隊側の被害は、死者二人、負傷者は重軽傷合わせて約千五百人。警官隊に死者は出なかったが、負傷者は重軽傷者合わせて約八百人に上った。そのほか、放火されて炎上した濠端の米軍自動車は十三台を数え、二十九台が大破したり、ガラスを破られたりしている。警察の白バイも一台が炎上した。
3  午後六時ごろ、混乱は収まった。
 当時の新聞報道の多くは、この日のデモ隊の行動を、あらかじめ計画された行為としてとらえ、デモ隊が警官隊を襲ったとしている。
 確かに、ごく一部の人びとの間では、事前に、騒乱状態を引き起こそうとの計画が立てられていたかもしれない。しかし、多くの人は、彼らの扇動に乗せられて、皇居前広場へと向かったにすぎなかったのが、そこで警官隊と小競り合いが生じ、異常な興奮状態に陥っていったのではないか。
 一方、このような激しい行動をとった警官隊の意図というものが、どこにあったかも不明である。だが、無届けデモの規制にあったとするには、いささか激越すぎる行動であったといわなければならない。
 警察側には、労働者が集まるメーデーを格好の機会ととらえ、過激化する労働運動に一撃を加えようとする意図があったのかもしれない。
 また、動員されていた個々の警察官も、このころ、過激派による警察署などに対する火炎瓶襲撃事件が、各地で相次いでいたことから、デモ隊に対し、強い警戒心と不安をいだいていたのではなかろうか。
 この双方の異常な心理が、異常な事態を招き、その異常な状況が、さらに人間の正常な理性を麻痺させて獣性を刺激し、救いがたい混乱状態をつくりだし、あの惨事をもたらしたとは、いえないだろうか。
 この日、一斉に検挙が始まり、検挙者数は、最終的に千二百三十二人にも上った。
 ともあれ痛ましい事件であった。独立日本の歴史の第一ページは、悲惨な流血の惨事によって記録されることになったのである。
 当然、その背景には、東西冷戦という複雑な世界情勢があり、国際間の緊張もあったであろう。「血のメーデー事件」は、その意味で、日本の置かれた困難な立場を、あらためて示唆したものともいえる。
 独立を回復したとはいえ、日本を取り巻く周囲の状況は、決して安穏なものではなかった。対岸の韓・朝鮮半島には、二つの大きな勢力が対峙していた。日本は、第三次大戦の火が、いつ燃え上がるかもしれない冷戦の、険しい谷間に位置していたのである。
 GHQが廃止されても、米軍は、そのまま残り、日本列島が、巨大な反共の防波堤とされている事実には、いささかも変わりはなかった。
 国民の生活も、依然として苦しく、国内には欝屈した不満が充満していた。
 GHQのもとで、戦後日本の政治を動かしてきた吉田内閣は、日本は西側諸国の一員となり、アメリカの力を利用しつつ、アメリカとともに進むという道を選択していた。
 一方、左右両派の社会党や、共産党などの野党は、世界の強国となった社会主義国ソ連や、ソ連の影響下で成立していった東欧の社会主義諸国、そして革命政権を樹立した中国共産党に近い考え方で、対立は深まる一方であった。
 政府・与党の為政者や、それに対峙する野党の為政者や、労働運動の指導者たちと、日々の生活に悩んでいる民衆の心との間には、明らかにギャップがあった。大切なのは、時の推移を冷静に見極めることだ。
 時の推移の底流にあるもの――それは民衆の声であり、叫びである。それを見誤るところに、すべての破綻の因がある。
 指導者は、その民衆の声、叫びを、鋭く察知できる具眼の土でなくてはならぬ。具眼の指導者をもたない民衆は不幸である。
 日本は、その不幸な運命のなかにあった。民衆は、不満のはけ口を求めていたともいえる。当時、各地のデモが、大きなエネルギーを爆発させていた背景には、長い間、抑圧され続け、先行きが見えない民衆の焦燥感があった。
 この不満は、東京に限らず、メーデー行事が行われた全国各地で、激しい行動となって現れていた。
 関西方面でも、警官隊とデモ隊との衝突があり、負傷者が多く出た。京都では七万人がデモに参加し、衝突した警官隊は催涙ガス弾を使用した。この衝突によって、警官隊の重軽傷者は、二百十一人と報道されており、デモ隊側も相当数の負傷者を出した。しかし、警官隊がピストルを発射したのは、東京だけであった。
4  これらの事件は、当時の社会情勢のなかにあって、大きな影響をもたらした。それは、破壊活動防止法案――いわゆる「破防法」成立への大きなバネとなったからである。
 政府は、独立後の治安維持のためとして、一九五二年(昭和二十七年)四月十七日、この破防法を国会に提出していたのである。
 日本は、終戦を迎えるにあたり、ポツダム宣言を受諾した。それによってGHQの支配下に置かれ、国内の治安は、GHQに委ねられた。そして、それまで人権侵害の悪法として猛威を振るった治安維持法は、四五年(同二十年)十月に、GHQの指令、いわゆるポツダム命令によって廃止された。さらに、四九年(同二十四年)には、同じくポツダム命令によって、共産主義勢力など反政府的団体を取り締まる団体等規正令が制定された。
 ところが、対日講和条約の発効によって、ポツダム命令は、原則として、すべてが廃止され、団体等規正令も効力を失うことになる。
 そこで政府は、独立後の治安対策のためとして、五一年(同二十六年)春から、新憲法のもとでの新たな法律を検討していた。新法案の名称は、公安保障法、団体規正法、特別保安法と何度も変わり、最終的に破壊活動防止法となった。それが五二年(同二十七年)四月十七日に、国会に提出されたのであう。
 この法案の内容は、多くの人びとに、往時の治安維持法の再現を思わせるものとして受け止められた。
 たとえば、公安審査委員会が、「団体の活動として暴力主義的破壊活動を行った団体」に対して、将来においても、そのような活動を行う恐れがあると認めた場合は、集会やデモの禁止、機関紙誌の発刊禁止、さらには解散の指定を行うことができると規定されていた。
 「暴力主義的破壊活動」とは、内乱および、そのための予備、陰謀、教唆、扇動、そのような文書の印刷・頒布など、また、「政治上の主義若しくは施策」を推進、支持、あるいは反対する目的で、刑法に定められるさまざまな違反行為、その予備、陰謀、教唆、扇動などを行うこと、とされていた。
 公安審査委員会が、これらに関連する文書、言動であると解釈すれば、そのような行為を行った組織は、活動を停止させられ、組織の役職員・構成員は、活動を禁止される。また、こうした活動を行った個人は、「七年以下の懲役文は禁固」に処せられる、と規定されていた。
 解釈の仕方によっては、対象となる団体・個人を、どこまでも拡大することができる、不確定な要素をはらんでいる法案であることは確かであった。
 希代の悪法といわれる治安維持法は、一九二五年(大正十四年)の立法当初は、取り締まりの対象として「国体ヲ変革シ又ハ私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シ……」と、共産主義者や無政府主義者を対象としていた。その後、対象は拡大され、「国体ヲ否定シ又ハ神宮若ハ皇室ノ尊厳ヲ冒漬スベキ事項ヲ流布スル事ヲ目的トシテ結社ヲ組織シタル者……」なども追加されていった。そして違反行為の範囲も拡大され、罰則も強化され、最高は死刑も科すことができるように改悪されていった。
 取り締まりの対象は、どこまでも拡大解釈され、あらゆる宗教団体、思想団体、マスコミ、個人に適用されて、思想・信教・学問・報道の自由が完全に否定されていったことは、戦前・戦中の歴史が示す通りである。
 新たに国会に提出された破壊活動防止法案は、直接的には、当時、過激化しつつあった共産主義勢力の抑圧、排除を目的としていた。かつて治安維持法が拡大解釈されて、反政府的言動をなす組織、個人が、徹底的に弾圧されていった悪夢を知る者は、この法律が、国民の思想・信教の自由を脅かすものとなることを恐れていた。
 破防法に対して、国民の間に強い批判の声が湧き起こっていった。
 五二年(昭和二十七年)の春闘は、賃上げ闘争のほかに、この破防法に対する反対闘争も含んでいた。三月一日には、「弾圧法粉砕総決起大会」が、全国各地で開かれ、労働者、学生、知識人などが参加し、広範な活動が展開されていった。東京・墨田区の錦糸公園で開かれた大会には、約六万人が参加したと報じられた。
 広範な世論の批判を考慮した政府は、破壊活動の範囲を縮小させるなどの修正を加えた法案を作成し、三月二十七日に最終法案を破壊活動防止法として発表した。
 この法案に反対する労働組合は、三月三十一日に会議を聞き、ゼネストで対抗することを決定した。そして四月十二日に、その第一波を、十八日には第二波を決行すると発表した。しかし、すべての労働組合が共同歩調を取ったわけではなく、私鉄総連(日本私鉄労働組合総連合会)などは、破防法反対闘争とは切り離した賃上げ闘争を、期日もずらして行うことを決定した。
 混乱を恐れた政府は、破防法案の一部修正を決めて、労組側に働きかけた。
 政府の工作が功を奏し、ストの中核であった炭労(日本炭鉱労働組合)が、態度を軟化させた。炭労は、政府の動向を見極めてから結論を出すとして、ストの延期を決定した。
 ストの足並みは乱れ、結局、第一波の十二日のストライキは、当初、予測された七十万人を大幅に下回るものとなった。二十四時間ストの参加人員は約二十万人に終わり、時限ストの参加人員を加えても、総参加人員は、約三十万人であった。
 このように、第一波のストが、比較的小規模となり平穏であったため、続いて行われる予定の、十八日の第二波ストも、腰砕けに終わるのではないかと予想された。
5  しかし、様相は一変した。破壊活動防止法案は、十五日の閣議で、幾つかの修正は決定されたものの、労組側が強く要求していた暴力的破壊活動の定義のなかから、「煽動」という字句を削除するという要求は実現しなかった。これによって、労組側が態度を硬化させたのである。
 政府の動向を見極めたいとしていた炭労も参加し、全鉱連(全国金属鉱山労働組合連合会)、電産(日本電気産業労働組合)、全国金属(全国金属労働組合)、鉄鋼労連(日本鉄鋼産業労働組合連合会)、全自動車(全日本自動車産業労働組合)など、スト参加人員は約百万人となった。このほか、職場大会などでストに呼応した官公労組(日本官公庁労働組合協議会)などでは、二百四十万人が参加したと報道された。
 この時期、破防法反対闘争が盛り上がり、労組だけではなく、言論界や学術界、文化団体、学生たちにも波及した。四月に入ってから、日本著作家組合、日本新聞協会、日本文化人会議などが、相次いで反対アピールを出し、日本学術会議も、破防法は、学問・思想の自由を圧迫するものであると、深い憂慮の念を訴えて反対声明を出した。学生も、都学連の破防法反対請願デモ、名古屋大学の有志による労組のスト支持決議など、相次いで行動を起こした。
 破防法反対闘争は、こうして組織労働者、学生、知識人を巻き込んでいったが、政府に対して、決定的な影響力を及ぼすことはできかった。その大きな原因の一つは、こうした時流を効果的に生かしていく指導力も、未来構想も、野党の左右両派社会党には、なかったということである。日本共産党は、五一年(同二十六年)二月の、第四回全国協議会(四全協)で武装闘争方針を決定し、十月の五全協で暴力革命をめざす新綱領を採択して以来、内部の権力抗争を繰り返す一方で、火炎瓶闘争などを展開し、むしろ地下活動に専念していた。
 第二波のストライキで、せっかく高揚し始めた破防法反対闘争も、さらに大きく発展することができず、運動は足踏み状態に陥ってしまった。
 こうした状況のなかで、メーデー事件が突発したのである。
 多くの死傷者を出したメーデー事件は、政府にとっては、破防法を成立させるための絶好の支援材料となった。
 世論は、破防法には批判的であったが、一方で、今後、左翼がどんな事件を起こすかわからないという危慎を、社会がいだいたことも事実であろう。各新聞の報道が、メーデー事件におけるデモ隊を、一様に暴徒として扱ったことも、政府にとっては有利に働いた。
 このメーデー事件に関連して、ロンドン・タイムスが、「日本政府の破壊活動防止法は、この事件のため大した困難もなく成立するに違いない」と報じたように、事件から二週間後の五月十五日、破防法は、賛成百四十九、反対百三で衆議院を通過した。そして七月二十一日に、公布施行された。
 時代は、曲折の波をくぐりながら、いつか推移していくものである。
 当時の創価学会は、ささやかな存在ではあったが、この激動する時代のなかで、民衆一人ひとりの、そして一国の宿命の転換を使命とし、新しい人類の展望を描きつつ、まっしぐらに進み始めていたのである。
6  戸田城聖が、第二代会長に就任して、ちょうど一年後の一九五二年(昭和二十七年)五月三日、「中野の歓喜寮」と呼ばれていた日蓮正宗寺院の本堂で、一組の結婚式が営まれていた。新郎は、二十四歳の山本伸一であった。新婦は、蒲田の春木洋次の次女で、二十歳になったばかりの峯子であった。
 簡素な本堂で、簡素な式であった。余計なものは、何一つ混じらないで、必要なものは、ことごとく調えられているといった感じであった。近しい親類が相寄り、新郎、新婦それぞれの側に居並んだ。戸田城聖も、この日、伸一の側に座っていた。
 堀米日淳を導師とする読経に、一同は唱和し、唱題が続けられた。続いて、三三九度の儀式が行われた。
 列席者の目は、一斉に盃の動きに注がれている。しわぶき一つない、静まり返った、厳粛な瞬間である。
 盃の儀式が終わると、堀米は、にこやかな風情で、御書の一節を読み上げた。
 「さてはをとこはしらのごとし女はなかわのごとし、をとこは足のごとし・女人は身のごとし、をとこは羽のごとし・女はのごとし、羽とみと・べちべちに・なりなば・なにを・もつてか・とぶべき、はしらたうれなばなかは地に堕ちなん……」
 堀米は、ちょっとメガネを上へずらし、新郎新婦を交互に見ながら、一同に向かって言った。
 「ただ今の御書にもありますように、夫婦の道というものは、共々に自覚を新たにして、心から助け合ってこそ、全うさるべきものと存ずるのでありまする。大聖人の御言葉によれば、まことに男女の同権は明らかなところであります。
 戦後、男女、おのおのその権利を主張して、やかましい世の中とはなりましたが、もともと『をとこは羽のごとし・女はみのごとし』でありまする。『羽とみと・べちべちに・なりなば・なにを・もってか・とぶべき』であります。『とぶ』とは、この世を自在に渡ることであり、人それぞれの使命を果たすことにほかなりませぬ。この自覚を忘れては、夫婦の道は全うされませぬ。
 どうか、若いお二人の前途が晴れやかに、健やかに、大聖人の仰せ通りの人生を進まれんことを、心より期待するものであります。されば、お二人の前途洋々たるを信じて疑いません」
 一同は、堀米に深々と頭を下げた。
 題目三唱が終わり、そのあと、引き続いて座を別室に移し、披露宴に入った。全部で、四、五十人の近しい人びとだけの披露宴である。当時の学会の首脳部も、ほとんどが出席していた。
 新郎新婦は、親族や多くの先輩・同輩の祝福を浴びて、宴は賑やかに進んだ。
 まず、仲人の小西武雄から、新郎新婦の経歴、人柄について紹介があり、各人各様の祝辞が続いた。
 幾つかの祝辞のあとに、戸田城聖が立ち上がった。喜色満面にあふれ、口は、おのずからほころびたように話しだした。
7  「皆さん、私は、今日は嬉しいのです。嬉しくて仕方がないのであります。伸一君が、このように立派な、美しい花嫁を見つけて結婚するこの日が、私には無上に嬉しいのです。
 今日からは、いよいよ、伸一は峯子さんに任せる。もし、伸一が悪くなるようなことがあったら、峯子さんの責任ですぞ。よろしいか。私の願うことは、ただ一つ、これからの長い人生を、広宣流布のために、二人で力を合わせて戦い切ってもらいたいということであります」
 戸田は、厳しい表情になって言い放った。
 「伸一は、私の子です。主人を駄目にするような女房だったら、その時は、女房を追い出す。私は、二人をどこまでも守っていきます。二人とも、また、この覚悟でいってほしい」
 戸田のこの一言には、厳然とした愛情が込められていた。宿命的な彼の弟子、山本伸一の人生の門出にあたって、最愛の一言は、伸一と峯子の胸に、真っすぐに深く突き刺さった。
 伸一は、目を上げて、戸田を直視した。峯子は、一瞬、かすかに体を震わせて、硬くうつむいていた。その瞬間、二人の胸に高鳴ったものは、容易ならぬ使命を、一体となって担ったという、未来への責任の連帯であった。
 このあと、歌などが歌われた。その時、戸田は、なぜか″大楠公″(「青葉茂れる桜井の」)の歌を歌うことを提案した。
 それは、十四世紀、南北朝時代の武将・楠木正成と、長子・正行の、桜井(大阪府北東部)での別れの情景をうたった歌である。
 父・正成は、都に攻め来る敵を迎え討つため、死を覚悟の戦に赴かんとしていた。その正成と運命を共にしようとする子・正行に、父は告げる。今、ここから故郷に引き返し、断じて生き抜き、生い立って、父が死をもって守り貫かんとする大義を果たしていくのだ――と。
 戸田は、この生死を超えた父子の誓いの別れに託し、広宣流布に生きゆく師弟の絆を、確かめておきたかったのであろう。
 彼は、この歌の合唱に耳を傾けながら、じっと感情を抑えるように、体を動かさなかった。最後に、両家の代表から、それぞれの親族の紹介があって、披露宴はめでたく終わった。
 この日も、晴天の五月三日であった。こうして、五二年(同二十七年)の五月三日は、山本伸一・峯子の、新生の日となったのである。
 一年前のこの日、戸田城聖は、隅田河畔の常泉寺で、第二代会長に就任したのである。伸一たちの結婚式に、この日を選んだのも、戸田の思いやりであった。立宗七百年祭の直後に華燭の典を設けたのも、伸一の新しい門出を祝したかったからにほかならなかった。
8  伸一も峯子も二戸田会長就任式には、同じ支部の男女青年部の一員として参加した。それから満一年後に、結婚にいたることは、その当時、夢にも考えていないことであった。
 伸一は、戦時中、ある軍需工場に勤めていた。そこへ、たまたま峯子の兄の義郎が、学徒動員で働きに来ていたのである。
 義郎は、伸一より一つ年下であったが、何回となく職場で顔を合わすうちに、二人は自然に親しくなっていった。
 やがて終戦となり、二人の間は、いつしか疎遠となっていたが、戦後、数年を経て、思いがけない再会の機会が訪れたのである。
 戸田のもとで、法華経講義に通うようになっていた伸一は、ある晩、その会場で、ばったり義郎に巡り会った。幾年ぶりかの再会である。
 以来、二人は、戸田の講義が終わると、それぞれ自宅が蒲田にあった関係から帰路を共にし、過ぎし日の思い出や、未来の夢を語り合っていた。その義郎の傍らに、いつも静かに寄り添っていたのが、色白な、かわいらしい高校生の峯子だった。
 戸田の会長就任以来、創価学会の活動は、数倍の激しさを加えていた。同じ蒲田支部のなかにあって、二人が顔を合わせる機会も、次第に増えていった。会合のあとなどに、皆で同じ道を歩いて帰ることもあったし、支部行事の運営などで話し合う時もあった。
 伸一は、戸田の事業の再建で、目まぐるしい毎日を送りながら、にわかに活発になった学会の日常活動の渦のなかにも、時間の許す限り、身を挺して活躍し始めていた。蘇生したばかりの還しい生命力が、彼の全身にみなぎっていたのである。
 伸一は、誰に対しても、学会の、また彼自身の未来について、情熱的に語った。
 こういう時の伸一は、人なつっこい、せっかちなまでの若々しさにあふれでいた。このような純粋な青年のパッションが、若い峯子の胸に映らぬはずがない。いつしか彼女は、自分でも気づかないうちに、伸一に好意をいだくようになっていたようである。
 純情な二つの心が、一つのハーモニーを生み、青春の新しい開花をみょうとしていた。心と心の触れ合いは、いささかの虚飾や作為もない、生命の奥深く流れる旋律の共鳴でもあろうか。
 二人の親しさは、彼らが自覚するよりも前に、周囲の人びとが、早くも感づいていた。伸一が、ふと自らわが身に感づいた時、彼は、それを詩に書き始めていた。
 七月の、ある夕暮れ――町は、驟雨のさなかにあった。この夜の会合のため、定刻前に、峯子は会場の学会員の家に到着していた。
 伸一が着いたのは、それから間もなくのことである。
 会場は、しばらく二人だけであった。人びとは、どこかで雨宿りでもしているのか、誰も姿を見せなかった。
 二人は、沈黙したまま、手持ち無沙汰に、沛然たる雨脚を眺めながら、雷鳴の近く遠く鳴るのに耳を澄ましていた。
 二人だけの沈黙が、しばらく続いた。
 雷雨は、むしろ、その場の静寂を深めていた。
 静寂のなかに、高鳴る人間の鼓動がある。
 沈黙は、二人にとって、単なる静寂ではなかった。それは激動であったかもしれない。
 伸一は、自己の胸中にあるものを、しかと確かめていた。そして、そこに新しい「自分」を見いだしていたのである。
 それは、やがて確たる決意につながっていった。
 この時、伸一はワラ半紙を手に取ると、木机の上に広げて、何やら書き始めた。伸一は、書き終わると、それを折って峯子に渡したのである。
 峯子は、それを広げようとした。すると伸一は、それを押しとどめて言った。
 「あとで……」
 この時、数人の足音が、会場に近づいてきた。いつか雨も小降りになっていた。
 峯子は、さりげなく、その紙片をハンドバッグに入れた。やがて、会合は始まった。
 峯子は、その夜、家に帰り、ハンドバッグを開け、その紙片を広げた。
  吾が心 嵐に向かいつつ
  吾が心 高鳴りぬ
  嵐に高鳴るか 吾が心よ
  あらず 秘めやかに高鳴るを知りぬ
  ああ 吾が心
  汝の胸 泉を見たり
  汝の胸 花咲くを願いたり
  ……………………
9  峯子は、さっと一読すると、動悸が波打つのを感じた。
 相聞の詩ではないか――。
 動悸は彼女の心に、一つの問いを発していた。
 「汝、いかに答うべきか」
 彼女は、来るべきものが、早くも来たと思った。早過ぎるとも思った。
 詩に託された伸一の決意は、唐突ではあったが、彼女は、心のどこかで、それを待っていたのかもしれない。彼女には衝撃であったものの、慌てることはなかった。
 この時を境として、手紙の往復が始まったのである。
 戸田城聖が、このような二人の変化に気づかぬはずはない。彼は、わが子を案ずるように心を配りながら、それを、じっと見守っていた。
 夏も過ぎ、秋となり、秋が深くなったころ、戸田は、伸一を呼んだ。そして、彼の心中を尋ねた。
 「よしわかった。それなら、結婚は早い方がいい」
 戸田は、こう言ったが、伸一はまだ、両親をはじめ家族には、何一つ打ち明けていなかった。
 峯子もまた、両親の了解を求めるところまでは、いたっていなかった。二人は、時を待つより仕方がないと思っていたのである。
 戸田は、それらの事情を聞くと、慈しみ深い笑いを浮かべて、伸一に言った。
 「私に任せておけ、心配するな」
 そのころ、伸一の心境は、もはや確定的になっていた。
  おお 戦さの庭に咲いた恋
  ああ 苦難の道に輝く恋
  新たなる船出となろう
  激浪の上に結ぶ 吾が恋か
  さすれば 尊くも 強き恋か
 伸一は、詩に託して、恋愛の結実を疑わなかった。
10  戸田城聖は、十二月に入ると、伸一のために、まず峯子の家を訪ねた。春木夫妻は、突然の訪問に驚いた。
 「今日は、すばらしい一世一代の話を持って来たぞ」
 戸田は、上機嫌で話し始めた。
 春木夫妻は、せっかちとも思える話の急展開に戸惑ったが、洋次はほかならぬ戸田の話と知って即答した。
 「よろしく、お願いいたします」
 ところが、妻の明子は、なぜか返事を渋っていた。
 明子は、娘の峯子の様子から、伸一とのことに気づいていたが、戸田の口から、せっかちに切り出されてみると、心の準備が、まるでなかった。二十年近く手塩にかけた次女を、今、手放さねばならぬとなると、思いがけぬ感傷が湧いてきたのである。それは、母親の本能的なものであった。
 「どうした。反対か」
 戸田は、意外な面持ちで、明子に尋ねた。
 明子には、長女があった。今は、遠く北海道に嫁して、数年経っている。明子は、娘を他家に嫁がせることの寂しさが、その時から身に染みていた。今また、次女までも手放さねばならぬと考えた時、果たして倍加する寂しさに耐え得るかどうかを、思いやって怯えていたのである。
 親のわがままといえば、それまでであったが、明子は、戸田に甘えていた。明子の切なる心中を聞いて、戸田は、叱る代わりに、大声で笑いだした。
 「私には、娘はないが、親心というものは、そんなものかもしれぬ。あなたは正直だね。娘が嫁に行くと思えば、そうかもしれないが、反対に、婿を迎えると思えば、どうなるかな。娘が嫁に行くのではなく、婿を迎えるんだ。それには、確かな、いい方法が一つある。
 いずれ、子どもが生まれるだろう。生まれたその孫を、うんと、かわいがりなさい。そうなると、孫ぐるみで、こちらになついてくるものだ。娘が嫁に行ったようでも、実は婿を迎えたと同じことになる。そうすれば、決して心配しなくてもよい」
 戸田は、人心の機微をうがつ知恵者であった。明子も納得せざるを得なくなって、頷いた。
 戸田は、機嫌よく盃を傾けて談笑し、その夜遅く、春木の家を辞した。
11  春木夫妻を訪れてから数日後、戸田は、蒲田に、伸一の父を訪問した。冬の寒い日であった。
 初対面の二人は、机を挟んで語り合った。戸田の磊落さに、父親は寡黙のまま、世間話から伸一の話などに移った。
 すると、突然、戸田は、居ずまいを改めて言いだした。
 「伸一君を、私に下さらんか」
 父親の宗一は、戸田の単万直入な申し出の意味を、とっさに測りかねて、しばらくは無言であった。そのうち、短い問いかけが、つぶやくように口から出た。
 「伸一を、ですか」
 「そうです。伸一君を私に下さい」
 戸田の言葉は、はっきりしていた。宗一は、再び深い沈黙に沈んでしまった。
 「…………」
 寡黙な宗一は、思いをめぐらしながら、困ったように腕を組んでいた。彼の脳裏には、ビルマ(現ミャンマー)で戦死した長男の思い出が蘇った。そして、幾人かの子どものことを考えたりしていた。特に五男の伸一は、幼いころから病弱で、宗一が、その将来を心配し通してきた子である。今は、家を出て、宗教に凝って、なかなか家に寄りつかなくなったが、わが子は、わが子であった。
 その伸一を、戸田城聖という、息子が普段から「先生」と敬愛する当の人物から、突然、「くれ」と言われたのである。
 宗一にしてみれば、病弱な伸一が、曲がりなりにも生き延びられたのは、やはり自分が、わが子のことを、これまで心配してきたからだと思えたのであろう。
 宗一は、戸田の唐突な申し出に、即答できるはずもなかった。彼は、ためらいながら、戸田という人物を考えていた。伸一が、戸田のことを語った時の心酔の様子が、彼の頭には残っていた。今、その人物と対面してみて、彼は、伸一の心酔も無理からぬことに気づき始めていた。
 彼の想像では、戸田は宗教人であり、いかめしく、世間離れして、彼などとは無縁の人物だと思っていた。今、その人を眼前にしてみて、宗一は先入観念を払わねばならなかった。
 戸田は、まさしく、ひとかどの人物であるようだ。率直で、嘘がない。しかも、十年の知己のように、磊落で、人なつっこい、まれな人格者である。まことに信頼するに足る人物だと、宗一には思えてきた。
 そう気がついた時、宗一は、自然に、自分でも思いがけぬ言葉が出てしまった。
 「差し上げましょう」
 「下さるか。伸一君のことは、今後、一切、戸田が責任をもって引き受けましょう。ご安心願います」
 戸田は、笑みを浮かべ、軽く会釈した。
 「よろしく、お願いいたします」
 宗一は、居ずまいを正して頭を下げた。
 顔を上げた時、戸田は、ひたと宗一を見つめながら言った。
 「ところで、実は、伸一君に、縁談が、今、起きたところなんです」
 戸田は、峯子のことを詳細に話してから、宗一の決断を促した。
 「私の見るところでは、しごく良縁と思われますが、いかがなものでしょうか」
 戸田は、宗一の沈黙を予期していた。ところが宗一は、意外にも簡単に答えた。
 「伸一は、今、あなたに差し上げたばかりです。どうなりと、いいようになさってください」
 即答が返ってきて、これには戸田も面食らった。
 彼は、破顔一笑して言った。
 「いや、まいった!」
 二人は、互いに声を立てて笑い合った。意志の強い戸田と、強情一徹の宗一とが、伸一の結婚について、完全な合意に達したのである。「案ずるより産むが易し」と、戸田は喜んだ。
 年を越して、翌五二年(同二十七年)の一月になると、蒲田支部長の小西武雄夫妻を仲人として、結納の儀式が行われた。そして戸田は、五月三日を、結婚の吉日として選んだのである。
12  二人は、挙式の翌日、新婚の旅に立った。
 道々、彼ら二人の語り合ったことは――生涯、戸田城聖に師事すること、創価学会から離れないこと、そして、社会のためにプラスになることをすること、人のために尽くすことを厭わない……などであった。
 前途に、想像を絶する苦難や、嵐が待ち受けているかもしれない。時には権力の弾圧もあろう。しかし、若い二人は、広宣流布という将来の夢を、ひたすら実現することに焦点を置いていた。
 二人にとって、それは壮大な夢であり、彼らの人生の唯一の目的となった。それが、新しい二人の人生のすべてであった。
 人生は夢ではない。一日一日の着実な活動にこそ、真実の姿が形成されるといってよい。
 戸田は、披露宴の時、傍らに峯子を呼んで、いかにして過つことのない日常を送るかについて、厳しい方針を教えた。
 「さぁ、これからが大切なんだ。峯子に、二つのことを私は頼みたい。一つは、必ず家計簿をつけること。家計簿をつけることのできない女房などは、家庭をもっ資格はない。
 第二に、主人を、朝晩、送り出し、迎えたりする時には、たとえ、どんなに不愉快なことがあっても、笑顔で送り、笑顔で迎えなければいけない。この二つだけは、守ってほしい。
 男というものは、単純なもので、女房が立派で、後顧の憂いがないとなると、夢中になって働くものだ。それもこれも、二つのことを守れるか、守れないかに、かかっている。伸一を頼むよ」
 戸田の、こまごまとした心遣いによって、伸一の新家庭の堅固な基盤が築かれていったのである。
 結婚は、新しい人生の門出である。それは同時に、建設の日々の始まりでなくてはならぬ。
 戸田は、広宣流布を使命とするものの人生が、どのような家庭を基調としていくべきかを、峯子に教えたのである。それは、極めて平凡な、当然至極な指針に思われたが、その実践となると、一変して、まことに困難なことと思われてくる。あえて、この困難を実践することを厳しく教えたところに、戸田の非凡さと愛情の深さがあった。
13  四月二十七日、二十八日の立宗七百年祭が終わってから、正法を身をもって護持するという青年の自覚は、一人ひとりの胸中に、広宣流布の第一線に立つ気概となって燃え上がった。男子青年部は、頭を上げ、決然と立ち上がったのである。
 五月十八日、男子部の組織の拡大と、その人事発表が、西神田の本部で行われた。山際男子部長のもとに、参謀部が設置された。そして、各部隊にあっても、部隊長のもとに、幹部室が新たに組織されたのである。
 一切の企画が参謀部で立てられ、その方針のもとに、各部隊の自主的な実践活動を強力に推し進めていく。つまり、参謀機能を強化して、増大する部員を統率し、各人の能力を有効に発揮させようというところに狙いがあった。
 各部隊は班に分かれ、班のもとに隊があり、隊のもとに分隊を新たに設け、実践機能が組織の隅々にまで及ぶようにしたのである。なお、このうち隊は、一九五四年(昭和二十九年)一月に、一旦、廃止されるが、五五年(同三十年)八月に、組織の編成が変わり、再び設置される。その時、隊のもとに班が、班のもとに分隊が置かれることになるのである。
 各部隊でも、幹部長、教育幹部、作戦幹部、内務幹部が、それぞれ任命をみた。
 これで、山際男子部長のもとに、四部隊、二十六班、三十隊、百二十四分隊、実質八百十一人の陣容を整えたのである。
 新たな活力は、新たな組織を生んだ。新たな組織は、さらに新たな活力を生むように思われた。
 この日の閉会の辞で、参謀になった山本伸一は訴えた。
 「諸君が、今日のことを、どのように考え、明日よりの生活に、どのように表すかが大切であります。今日、このようにして戦っている事実、この事実は、わが身に、はっきり刻み込まねばならない。それを、明日からの成長への源泉としていかねばならない。
 思うに、われわれは学会の旗手であります。広宣流布を、いかに戦い取るか、その手段としての組織である。組織を生かすのも、殺すのも、われわれの責任にある。旗手たるわれわれは、方向を少しも誤らせることなくもっていくことが、何よりも肝要でなければならないと思います。ここに旗手の旗手たるゆえんがある。新たな出発にあたって、この一事を肝に銘じようではないか!」
 新しい組織と実践は、参謀の活躍から始まっていた。
 青年部の組織の拡充と並行して、教学部の大幅な人事も行われ、五月二十七日に発表された。
 当時、教学部員は、四十四人であった。そのなかで、新たに七人が教授に、六人が助教授に、二人が講師に、一人が助師に任命されたのである。さらに、後続する教学部員の養成のために、教学部員候補生五十人の選考が進められていた。
 東京の支部も、地方の支部も、新しい段階を迎えて、躍進の姿勢が、期せずしてうかがわれた。
 ことに仙台支部は、若い支部長・白谷邦男を中心に団結が強く、七百年祭にも百四十六人という多数の参加者をみたが、それだけに五月の新入会者は、早くも百六十七人に達していた。
 大阪では、春木征一郎が、一月、単身、関西に移って奮闘したことが、急速に結果となって現れ、五月には数カ所で座談会が開催されるまでになった。五月二十二日の市内の座談会場などは、出席者二十四人のうち、未入会の参加者が九人も含まれていて、そのうち五人が入会している。
 人びとの心に芽生えた新生の息吹は、全国にたくましく躍動していった。みずみずしい生気のあるところに停滞はない。組織の生気あふれる新生も、人間の絶えざる自己変革によって決まるものだ。組織は、人によってつくられ、人によって運営されていくからである。
 まず、人間生命の内なる革新に、新生の起点を置かなければなるまい。内なる理念や思想の発露が、外形の組織や機構に反映していくように、生命の内なる新生が、すべての組織の新生をもたらすのである。
 組織のさらに新たな発展も、また、体質の改善も、この自明の原理による以外にない。学会の、たゆまざる前進と発展も、常に、この一点にかかっている。
 戸田のもとにあった青年たちの新生の炎が、草創の学会を動かし、苦難の道をたくましく切り拓いていったのである。そして全国に、澎湃として折伏意欲はみなぎり始め、急激な発展に向かっていった。
 創価学会は、一九五一年(昭和二十六年)五月、戸田城聖の第二代会長就任とともに、本格的な活動を開始し、翌年の四月、七百年祭をスプリングボード(跳躍台)として、怒濤の奔流に身を投じたのである。
14  時の推移――それは、川の流れに似ている。時に巌が水流に逆らうように立ちふさがる。水は打ち砕かれ、飛沫となるが、流れをとどめることはできない。
 戸田は、戦後七年、さまざまな大小の巌に行く手をさえぎられたが、彼の使命の自覚は、時の経過につれ、広宣流布の水嵩をますます増大させ、壮大な奔流を生み出していったのである。
 立宗七百年祭が過ぎ、学会が怒濤の前進を開始したころ、一つの事件が起きた。それは、例の笠原慈行の策謀によるものであった。きれいに流れ去ったかに思えた、あの事件が、意外な裏面工作をともなって行く手に立ちふさがり、宗門の内外に、またも毒流を注ぎ始めたのである。
 笠原は、「創価学会長戸田城聖己下団員暴行事件の顛末」という大げさなパンフレットを、全国の関係者に送り付けていた。このワラ半紙十一ページに及ぶ謄写版刷りのパンフレットは、笠原が牧口の墓前で書いた謝罪状を、全く否定する卑劣なものであった。
 彼は、墓地に行くまでの顛末を脅迫によるものとし、彼が書いた謝罪状もまた、学会青年による暴行・脅迫によるものとしたのである。
 ちっぽけな、自分一個の策謀と悪知恵によって、彼は、些細ないざこざを、あたかも大事件であるかのように騒ぎだした。非は自分にありながら、それを正当化して、自らの虚栄心を満足させようとしたのである。
 笠原は、このパンフレットで、例の狸祭り事件発生後十日を経る五月六日に至っても、誰からも相手にされないことに憤慨していた。そして、このまま黙していたのでは、学会に反省を与えることができないと述べて、次のように結論していた。
 「今、私にして、彼等の鼻柱を折り、彼等の盲を開眼しなかったらば、彼等を無間地獄に堕すのであります。宗門の悪気流を廓清かくせいするは、此のときにあります」
 まったく救いがたい人間というほかはない。宗門に悪気流を流したのは、誰であったか。彼には、もはや物事を正常に判断する理性がなくなっていた。ただ、感情と偏見に凝り固まった、哀れな存在と化していたのである。
 笠原には、自らの大謗法への反省の色は、全くなかった。彼は、自分を被害者に仕立てて、宗門のなかに同情を求め、それをもって学会に挑戦しようと企んだのである。
 この事件の発端には、彼の神本仏迹論があった。彼は、このパンフレットで、またも神本仏迹という邪義を正当化しようとして、戦時中からの彼の持論を、笑止にも繰り返している。
 人間である以上、誰にでも過ちはあろう。間違った見解に陥ることもある。しかし、過ちを指摘された時に、率直に非を認め、大胆に改めるかどうかで、進歩の人か、保守の人か、また善意の人か、悪意の人かが決まってくる。
 しかし、この時の笠原は、虚栄と我見に執着して、ひたすら居直りに終始したのであった。しかも、彼が、そのような居直りを続ければ続けるほど、四月二十七日の学会青年部の行動が、宗門の浄化と令法久住のために、どれほど必要であったかを、皮肉にも示すだけであったといえよう。
 「……戦時中に、私が此の神本仏迹論を取り上げたのは、この理論を楯に、日蓮宗各派を取っちめるに、実に恰好の資料となると考えたからであります。然るに、この本意を知らないで、本宗内から小股を取られたのは、遺憾千万であった」
 彼は、生まれながらの策謀家であったらしい。策略に乗ぜられた宗教は、もはや、その命脈を断たれたに等しい。笠原の戦時中の所業は、結果として大聖人の仏法の正義を葬ろうとしたものであった。
 笠原は、戦時中、軍部政府の威を借りて、横暴を極めた。そして、恐喝にも等しいその言動が、宗門をどれほど震骸せしめたかは、想像にかたくない。
 彼の策動は、敗戦の色が兆しだした四二、三年(同十七、八年)のころに始まったのではない。既に三四年(同九年)ごろから、彼は、軍部にへつらい、神本仏迹の邪義を掲げていたのである。
 笠原は、この年の二月から、『世界之日蓮』という月刊雑誌を発刊し、その三月号の巻頭に、「日本精神」と題する一文を掲載している。
 そこで彼は、神道で説く三種の神器を、大聖人の三大秘法に当てはめ、それを把握することが日本精神を鼓吹する要術であり、立正安国の要道である、などと言っている。それは明らかに日蓮大聖人の教義を歪曲し、当時の軍国主義の時流に乗ろうとしたものであった。
 笠原慈行が、どんな日本精神を鼓吹しようとも、それは自由である。しかし、日蓮大聖人の嫡流を名乗る僧侶が、その根本教義を勝手に歪曲することは許されることではない。この許されざることを、彼は、早くから敢えて行っていた。
 笠原の蠢動は、当時、まだ目立たない「師子身中の虫」の感があったが、時がたつにつれ、第二次世界大戦の勃発するころになると、この虫は、恐るべき害毒を、宗門の内外に流し始めるようになるのである。
 彼は、『世界之日蓮』を機関誌として、「大聖会」「日蓮正義同心倶楽部」などを組織していた。その会員には、陸海軍の将官多数を擁し、各号に、それぞれ執筆させていた。そのほか、毎月、法談会、御遺文講義や、講演会を開催したりしている。
 また彼は、富士学林教頭という肩書で、三五年(同十年)の五月、JOAKのマイクの前に立ち、「伊豆に於ける日蓮上人」とのタイトルで、三十分にわたる講演もしていた。
 翌年十月、笠原は、日蓮正宗布教監に任命されると、自分が日蓮正宗を代表する僧侶であるかのごとく、国技館(後の日大講堂)で行われた国民大会などでも、壇上から万余の聴衆に、国難についての所信を叫んでいた。
 こうした時代的背景の前に立ち、時の軍部政府の権力に阿諛追従しつつ、彼は社会的な野望を追った。そのためには、当時の軍国主義思想の高潮期にあたって、仏法守護を神の本義とする日蓮大聖人の教義が、何よりも邪魔であった。
 国家神道と日蓮大聖人の教義を、なんとか融合させようと企て、神本仏迹論を展開し、公然と徒党を組んで、宗門に対して活発な策動を推し進めていったのである。
15  では、笠原の立てた神本仏迹論とは、いかなるものであったか。ここで簡単に触れておこう。
 三七年(同十二年)の『世界之日蓮』六月号によると、彼は「日蓮正義おいては……天照太神は本地、釈迦如来は垂迹と称しているのである。それは、天照太神は遠く旧く、釈尊は近く新らしいのが、何よりの証拠である。新らしい釈尊が、古い、皇太神の本地とは、ちと受取難いことであるまいか」などと述べている。
 ここでいう釈迦如来とは、インド出現の釈尊のことであるらしい。出現の時代の比較に、おいて、神本仏迹ではないかと、極めて小児的な思考で、単純な結論を下している。
 仏を本とし、神はそれを守る働きであるとする、仏教本来の考え方を覆す新説の論拠としては、あまりにも貧弱な発想である。しかし彼は、この結論のために、さまざまな文証を切り文にし、勝手に用いて合理化することを懸命に行った。
 彼は、曲がりなりにも日蓮正宗の僧侶であったので、釈尊を本尊と立てないことは知っている。本尊は、あくまでも南無妙法蓮華経の曼荼羅である。
 そとで彼は、御本尊には天照太神が中央の南無妙法蓮華経の下に認められていることをもって、なんとか天照太神を、釈尊よりも上位に置とうとしたのである。
 このことは、先のパンフレットでも明らかに出ている。
 「大曼荼羅は、南無妙法蓮華経、天照太神、八幡大菩薩、日蓮と中央にあって、印度臭味はない。妙法は宇宙の真理、天地の生命である」
 そこから彼は――五重の相対のうち、内外、大小、権実の三種は仏本神迹であるが、本迹、種脱の両判は神本仏迹である。日蓮正宗が、仏本神迹である間は、広宣流布は夢である――とまで、議論を発展させている。さらに、『世界之日蓮』では、天照太神とは、南無妙法蓮華経を世法的に日本に具現した至尊である、などと述べている。
 日蓮大聖人の教え、仏法哲学を少しでも学んだ人であれば、神を本とし、仏を迹とする論議の誤りは、あまりにも明瞭である。だが、笠原の場合は、国家権力を後ろ盾として、当時の神国思想の時流に乗っていただけに、始末が悪かった。
 明らかに邪義とわかっていても、笠原の妄説を破折することは、そのころの国情下では難しかった。天照大神を諸天善神の系列に入れて、垂迹の一種にでもしようものなら、直ちに不敬罪で訴えられるに決まっていたのである。
 狂気の時代ほど、恐ろしいものはない。不条理が条理を駆逐する社会は、救いようのない暗黒の世界だ。
 事実、三七年(同十二年)には、十界互具の曼荼羅を、不敬罪をもって告訴した人物が兵庫にいたほどである。曼荼羅のなかで、天照太神が鬼子母神や第六天の魔王などの下の段に認めてあることは、不敬の極みであるというのである。
 今日においては、考えられない事件であるが、当時の宗教界で、これが大真面目に論議されたことは、時代の病根の深さを象徴していたといえよう。
 日蓮大聖人の御書には、「三沢抄」に、「神は所従なり法華経は主君なり」と述べられている。法華経というのは南無妙法蓮華経であり、これを本とし、神は迹であることが決定づけられているのである。
 また、釈尊と八幡との対比についても、「諌暁八幡抄」に、「今日本国の一切衆生は八幡をたのみ奉るやうにもてなし釈迦仏をすて奉るは影をうやまつて体をあなづり子に向いて親をるがごとし、本地は釈迦如来にして月氏国に出でて正直捨方便の法華経を説き給い、垂迹は日本国に生れては正直の頂きにすみ給う」と、明確に示されている。
 笠原慈行は、これら多くの文証を無視し、御書のなかの一部の金言など、曲解に都合のよい文証のみを引いて、歪曲していった。そして、釈尊は迹仏であるがゆえに、仏本神迹ではないと言ったのである。
 確かに、釈尊が迹仏であることは、言うまでもない。だが、それは久遠元初の自受用身を本仏とするがゆえであって、神を本とするからではない。
 おそらく笠原自身の心中にも、ある種の後ろめたさがあったはずだ。だが、策謀家であり、野心家であった彼は、独特の詐術をもって自己の心を偽り、時局に便乗していった。そして、神本仏迹論を得意然と唱えながら、四〇年(同十五年)ごろから、宗門の維新を断行する秋であるとして、宗門の一元化、つまり日蓮宗各派の統合を策し始めたのである。
 曇った心の鏡には、思想を守る尊さや、偉大な哲理のもつ重さが映るはずはない。彼にとっての主義主張は、自らを飾るアクセサリーか、さもなくば自己保身のための道具にしかすぎなくなった。
 このころになると、日蓮門下僧俗有識者なるものをもって組織した「水魚会」という団体があって、笠原慈行は、この会の有力メンバーとなっていた。
 会員は、陸海軍人、宗教学者、実業家、日蓮宗派を、各派の首脳部などで、国家の新体制を標携し、新体制とは、「御維新」であるとして各派を統合し、一元化することを画策していた。この統合策は、時の軍部政府が、その無謀在施政方針を貫くために、全宗教界に強要していた政策の一環であった。特に仏教については、当時の仏教界、十五宗五十六派を、八宗に統合しようとしたのである。
 その目的は、各宗各派の対立を消散して、国家総動員の新体制に順応させることにある。戦争遂行の必要上、教義や歴史的伝統の一切を無視して、国民精神総動員の一翼としようとする、戦時下の思想運動であった。そのなかで、日蓮を宗祖とする各宗派を、一つに統合するという国家的要請を具体化するために、水魚会の存在があったのである。
16  四〇年(同十五年)九月二十四日、水魚会の幹部会員は、日比谷の東京会舘に参会し、次のような決議をしている。
 「一、立正大師日蓮聖人唱導シ給フ所ノ日本仏教一元化ニ邁進スベシ
  一、五十六派各派対立ヲ解消シ、凡テ白紙ニ帰リ、皇運扶翼ノ一体体制ノ下、再組織セラルベシ
  一、以上ノ方針ニ従ヒ、日蓮門下ハ率先一丸トナリテ挺身スベシ
                 日蓮門下水魚会」
 水魚会は、軍部政府の意向を受けた、極めて特異な圧力団体であった。民間団体に名を借りた、権力の代弁者にほかならなかった。
 笠原慈行は、一方では日蓮正宗布教監の肩書で、あたかも日蓮正宗を代表するかのごとく振る舞い、他方、総本山に対しては、政府の代弁者のような顔をして合同問題を突きつけ、宗門の維新を叫びながら、宗門を撹乱したのである。まさに宗教に対する、政治権力の介入であった。
 総本山の苦慮は深かった。日蓮宗各派の合同は現実問題となって、決断を迫られてきた。
 遂に四一年(同十六年)三月十日、合同問題に対する態度決定のために、僧俗護法会議が総本山で開催された。
 午前十時、参会するもの百四十余人、法主・日恭、並びに堀日亨、阿部日開の法主経験者も出席して、御影堂で会議は始められた。
 まず、宗務総監の水谷秀圓(後の第六十四世法主日昇)から、会議の議題、経過の説明があり、質問および意見の開陳に移ることになった。
 ところが、その時、真っ先に発言したのが、笠原慈行であった。彼は、総本山を優柔不断であると責めたてた。
 「事、遂に今日に至る。もはや駄弁は一切無用である。合同か不合同かを即決すべきである」
 彼の野心は、満々たるものがあった。日蓮正宗を牛耳るつもりで、居丈高に発言したが、大部分の僧俗は慎重であった。
 数多くの質問と意見の交換が重ねられた。その質問者のなかには、創価教育学会の会長・牧口常三郎も含まれていた。
 宗務院側の堀米泰栄執事(後の第六十五世法主・日淳)は、その矢面に立って奮闘した。
 正午、休会――。
 午後一時、再開。笠原は、またも激しく発言を求めたが、座長は、これを許さなかった。午後二時、各教区別に協議会が行われ、三十分後、それぞれ決議を認め終わって、本会議に戻った。
 決議文は、いずれの教区も、本宗は合同問題に参加せず、この態度を持していたのである。この決議に関し、座長は賛否を問うた。
 参加者のほとんどが、挙手、賛成し、可決された。
 この日は、引き続き時局対策についての協議に移ったが、水谷宗務総監、堀米執事より説明、ならびに質問に対する回答が繰り返されていくうちに、夕暮れが迫った。
 御影堂には、まだ電灯が、なかった。薄暗い御影堂の中で、読経・唱題の後に散会となって、会議は終わった。
 これで総本山は、ひとまず、その内部における危機を回避し、一宗の独立を保つことになったのである。
 だが、笠原慈行の策動は、軍部政府の権力の拡大に比例して、その後も執拗なまでに繰り返された。時の法主に対し、数回にわたる詰問状、また宗教新聞を利用しての、総本山に対する脅迫、身延との合同を策しての暗躍――このため、遂に総本山の宗務当局は、笠原慈行との決定的な対決を迫られていった。
17  四二年(同十七年)九月十四日、総本山は、笠原慈行を擯斥処分に付し、僧籍を剥奪することに決定した。そして翌十五日、宗務院役員は、総辞職したのである。一切が笠原一人のためであった。
 笠原は、日蓮正宗の僧籍を剥奪されたが、それで反省するような彼ではなかった。彼は野干となって、宗門の維新断行を叫び続け、法主の日恭に辞職を公然と迫り、いよいよ暗躍を重ねていった。
 そして、事態は、一年後の四三年(同十八年)七月六日、創価教育学会の会長・牧口常三郎、理事長・戸田城聖らが、官憲によって連行されるにいたり、最終的に、幹部二十一人が逮捕、投獄される弾圧事件へと発展したのである。
 笠原慈行の神本仏迹論を、日蓮大聖人の教義をもって破折することは容易ではあったが、時勢が時勢であっただけに、その主張は、時の政治権力の弾圧を、免れがたかった。狡猾な笠原は、それをよく知っていた。だからこそ彼は、それをよいことにして利用し、国家権力を盾に、一宗乗っ取りの野望をいだいていたのである。
 笠原にとっても、僧籍剥奪は痛かったのであろう。そこで彼は、直ちに宗門の監正会に処分を不当として訴え、文部省にも訴願に及んでいる。
 この年、秋の『世界之日蓮』には、笠原は、次のような記事を書いている。
 「茲に我宗門も、大に目醒めねばならぬ。断じて宗門の維新を行うべきだ。(中略)天照大神の御堂を建立すべし、而して教義信条の立直しを実行する。然れば即ち広宣流布の大願も成就するであろう。さなくしては、一天広布は夢であるばかりでなく、日蓮正宗の如き小宗門は自滅の外はない。宗門は今既に噴火口上に立っている。それは宗門当路は既に感付てか、種々な足掻を見せている。併し今日は小刀細工ではダメ、速に大手術を施せ、目醒めよ正宗の諸君、今からでも遅くない。宗門独善の悪夢より醒よ。
  国亡び家減せば何処にか世を遁れん先ず国家を祈りて仏法を立つべし
 との金言を思え、今こそ宗門の維新断行の秋である」
 これは笑うべきことだが、彼にとって広宣流布とは、天照大神を祭り、国家権力に迎合することにあった。そして、自らが宗門の権限を握ろうとする策謀実現のために、宗門の維新を断行せよと、ただ国家権力を笠に着て、宗務当局弾劾の叫びをあげていたのである。
 日蓮大聖人の立正安国の戦いは、いかなる権力にも屈せず、正法を根底にして、理想的な平和社会を建設することだ。しかし、笠原は、醜い野心のままに、ひたすら策謀に狂奔し、宗祖の精神を踏みにじったのである。そこには、日蓮大聖人が、生命をかけて時の権力と対決しつつ断行した、宗教革命の峻厳な精神など、見るべくもなかった。
18  同じころ、創価学会初代会長の牧口常三郎は、宗門に対して、今こそ国家諌暁の秋であると叫んで、国家の滅亡を憂えつつ、国家権力と対決して獄につながれる身となった。そして、高齢の一身を妙法に捧げて、獄死したのである。
 この二つの歴史的事実を、戸田城聖は、夢にも忘れることはできなかった。
 七百年祭の折、笠原慈行をあくまで追及したのも、このためでもあったし、謝罪状を書かせるまで徹底して、その悪を明らかにしたのも、このためであった。
 しかし、笠原は、謝罪状を取り消し、宗門の内外に向かってパンフレットを配布し、創価学会に挑戦してきたのである。
 五月下旬、このパンフレットを入手した戸田城聖が激怒したことは、言うまでもない。宗内の汚濁、これに過ぎたるものはなかったからである。
 彼は、さっそく、各方面の情報を集めた。すると、大阪地方を中心とする第八布教区の僧侶たちが、事件を起こした創価学会を責めて、宗門の僧侶および檀信徒に対する侮辱行為と断定して抗議する決議文を作成し、それを全国の関係者に送付したことがわかった。そして、数多くの教区のなかには、第八布教区にならう動きのあることも察知された。
 戸田城聖は、深い憂慮に沈んだ。これを知った青年部員たちは、憤激して、戸田のもとに集まってきた。
 戸田は、はやる青年たちをなだめながら、笠原の戦時中の言動について語り始めた。それは、一九四三年(昭和十八年)六月に、総本山からの呼び出しがあって、学会の理事たちと共に、牧口に連れられて登山した時のことである。
 「問題は、神札の扱いのことであった。客殿の対面所で、当時の庶務部長の言うには、政府が神札について非常にやかましいことを言ってきたので、寺の方では、一応、受け取ることにしたから、学会方も、そのように心得てほしい、ということであった。
 牧口先生は、粛然として、神札に関する所信を述べてから、こう言ったのです。
 『いまだかつて、学会は、御本山にご迷惑を及ぼしたことはありません。今後も、また変わらぬでありましょう』
 ところが、この時、庶務部長は困惑した表情で言うのです。
 『いや、笠原慈行一派が、不敬罪で大石寺を警視庁へ訴え出ている。これは、学会の謗法払いの活動が、根本の原因をなしているのです。実に憂慮に耐えない』
 牧口先生は、『承服いたしかねます。神札は絶対に受けません』と主張し、退出した。そして、牧口先生、私を含め、幹部二十一人が逮捕されることになる。
 警視庁の取り調べの時にも、大石寺に対する告訴状が出ているということを、私は聞かされている。
 誰が告訴したのか。そのころ、宗門から擯斥されていた笠原の仕業が、弾圧・投獄の発端となったことは明らかです。牧口先生は、このために獄死された。誰が先生を殺したかと、私は言いたいのです」
 戸田は、沈痛なまでに、語気を押し殺しながら言った。
 青年たちは、胸をえぐられる思いであった。彼らは、六月一日に、「神本仏迹論を破す」という、笠原のパンフレットに対する反論を、男子青年部の名で発表し、六月三日になると、笠原に対する徹底的な闘争を、宣言に認めて発表したのである。
 戸田城聖は、六月十日、決然として、会長名による宣言を内外に表明し、笠原への追及の手を緩めないことを明白にした。
 「去る四月二十七日、当学会青年部が笠原慈行を徹底的に責めたのは、神本仏迹論の悪義を以って日蓮正宗の清純なる法燈を乱したが為であった。そして、ひとたび謝罪の意を表したにもかかわらず前言をひるがえし、五月下旬に文書を以って再び公然と神本仏迹論の正当を主張するに至ったのは、実にこれ天魔の所為と断ずべきものである。(中略)
 依って私は全学会員に対し、今後笠原慈行に遇うならば、いついかなる時、及び処を問わず、これと闘争し徹底的に追及すべき事を指示したのである。吾人は、笠原慈行は僧侶と思わず、天魔の眷属と信ずるが故に、世の批判及び全国信徒の毀誉褒貶はあえてかえりみず、ひたすら宗祖大聖人、御本尊の御仏意をかしこむが故に、以上を宣言するものである。(中略)
 笠原慈行が手記を以て神本仏迹論の正当を主張するに至った五月中旬以来、吾人は清純なる日蓮正宗守護の為に、御本尊の御本意及び御開山日興上人御遺誠を遵守して、仏法破壊の天魔笠原慈行に対し、彼の魔力を破り去る日迄勝負決定の大闘争を行うものである。
  右、仏法守護の為、これを宣言す。
   昭和二十七年六月十日
         創価学会会長戸田城聖」
 なお、戸田は、六月一日、総本山に対し、「御伺書」を提出していた。笠原事件について、総本山から始末書を提出するよう求められていたのに対し、始末書の作成にあたっての必要な教示を、願い出たものである。
 笠原事件によって、総本山、創価学会、笠原慈行が、三つ巴の関係になり、さらに全国の正宗寺院までも、この混乱に巻き込まれていくのである。
 戸田城聖は、この問題の処理に心を砕いていた。学会幹部のある者は、笠原が、今も神本仏迹論を主張している事実が明らかであるからには、総本山が、笠原を処分するであろうから、問題は早急に解決するはずだと楽観していた。
 しかし、戸田は、その楽観論を戒めて、硬い表情で言った。
 「これは根が深い。戦前に、とうに解決されていなければならないはずの問題が、実は解決していななかったのだ。四月二十七日の事件をもって、解決の端緒についただけだ。これは、日蓮正宗全僧侶の動向がかかっている問題なんだ。早急に解決するものとは思えない。
 創価学会としては、日蓮大聖人の正義だけは、断じて貫かなくてはならない。今は、ただ邪悪と戦い抜く覚悟だけは、してもらいたい」
 まさに、彼が指摘したように、事件の根は深かった。事態の推移は、さまざまな波瀾をはらみつつ、遂に秋半ばに至るまで解決をみることがなく、くすぶり続けねばならなかった。

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