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日蓮大聖人・池田大作

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小説「人間革命」5-6巻 (池田大作全集第146巻)

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18  同じころ、創価学会初代会長の牧口常三郎は、宗門に対して、今こそ国家諌暁の秋であると叫んで、国家の滅亡を憂えつつ、国家権力と対決して獄につながれる身となった。そして、高齢の一身を妙法に捧げて、獄死したのである。
 この二つの歴史的事実を、戸田城聖は、夢にも忘れることはできなかった。
 七百年祭の折、笠原慈行をあくまで追及したのも、このためでもあったし、謝罪状を書かせるまで徹底して、その悪を明らかにしたのも、このためであった。
 しかし、笠原は、謝罪状を取り消し、宗門の内外に向かってパンフレットを配布し、創価学会に挑戦してきたのである。
 五月下旬、このパンフレットを入手した戸田城聖が激怒したことは、言うまでもない。宗内の汚濁、これに過ぎたるものはなかったからである。
 彼は、さっそく、各方面の情報を集めた。すると、大阪地方を中心とする第八布教区の僧侶たちが、事件を起こした創価学会を責めて、宗門の僧侶および檀信徒に対する侮辱行為と断定して抗議する決議文を作成し、それを全国の関係者に送付したことがわかった。そして、数多くの教区のなかには、第八布教区にならう動きのあることも察知された。
 戸田城聖は、深い憂慮に沈んだ。これを知った青年部員たちは、憤激して、戸田のもとに集まってきた。
 戸田は、はやる青年たちをなだめながら、笠原の戦時中の言動について語り始めた。それは、一九四三年(昭和十八年)六月に、総本山からの呼び出しがあって、学会の理事たちと共に、牧口に連れられて登山した時のことである。
 「問題は、神札の扱いのことであった。客殿の対面所で、当時の庶務部長の言うには、政府が神札について非常にやかましいことを言ってきたので、寺の方では、一応、受け取ることにしたから、学会方も、そのように心得てほしい、ということであった。
 牧口先生は、粛然として、神札に関する所信を述べてから、こう言ったのです。
 『いまだかつて、学会は、御本山にご迷惑を及ぼしたことはありません。今後も、また変わらぬでありましょう』
 ところが、この時、庶務部長は困惑した表情で言うのです。
 『いや、笠原慈行一派が、不敬罪で大石寺を警視庁へ訴え出ている。これは、学会の謗法払いの活動が、根本の原因をなしているのです。実に憂慮に耐えない』
 牧口先生は、『承服いたしかねます。神札は絶対に受けません』と主張し、退出した。そして、牧口先生、私を含め、幹部二十一人が逮捕されることになる。
 警視庁の取り調べの時にも、大石寺に対する告訴状が出ているということを、私は聞かされている。
 誰が告訴したのか。そのころ、宗門から擯斥されていた笠原の仕業が、弾圧・投獄の発端となったことは明らかです。牧口先生は、このために獄死された。誰が先生を殺したかと、私は言いたいのです」
 戸田は、沈痛なまでに、語気を押し殺しながら言った。
 青年たちは、胸をえぐられる思いであった。彼らは、六月一日に、「神本仏迹論を破す」という、笠原のパンフレットに対する反論を、男子青年部の名で発表し、六月三日になると、笠原に対する徹底的な闘争を、宣言に認めて発表したのである。
 戸田城聖は、六月十日、決然として、会長名による宣言を内外に表明し、笠原への追及の手を緩めないことを明白にした。
 「去る四月二十七日、当学会青年部が笠原慈行を徹底的に責めたのは、神本仏迹論の悪義を以って日蓮正宗の清純なる法燈を乱したが為であった。そして、ひとたび謝罪の意を表したにもかかわらず前言をひるがえし、五月下旬に文書を以って再び公然と神本仏迹論の正当を主張するに至ったのは、実にこれ天魔の所為と断ずべきものである。(中略)
 依って私は全学会員に対し、今後笠原慈行に遇うならば、いついかなる時、及び処を問わず、これと闘争し徹底的に追及すべき事を指示したのである。吾人は、笠原慈行は僧侶と思わず、天魔の眷属と信ずるが故に、世の批判及び全国信徒の毀誉褒貶はあえてかえりみず、ひたすら宗祖大聖人、御本尊の御仏意をかしこむが故に、以上を宣言するものである。(中略)
 笠原慈行が手記を以て神本仏迹論の正当を主張するに至った五月中旬以来、吾人は清純なる日蓮正宗守護の為に、御本尊の御本意及び御開山日興上人御遺誠を遵守して、仏法破壊の天魔笠原慈行に対し、彼の魔力を破り去る日迄勝負決定の大闘争を行うものである。
  右、仏法守護の為、これを宣言す。
   昭和二十七年六月十日
         創価学会会長戸田城聖」
 なお、戸田は、六月一日、総本山に対し、「御伺書」を提出していた。笠原事件について、総本山から始末書を提出するよう求められていたのに対し、始末書の作成にあたっての必要な教示を、願い出たものである。
 笠原事件によって、総本山、創価学会、笠原慈行が、三つ巴の関係になり、さらに全国の正宗寺院までも、この混乱に巻き込まれていくのである。
 戸田城聖は、この問題の処理に心を砕いていた。学会幹部のある者は、笠原が、今も神本仏迹論を主張している事実が明らかであるからには、総本山が、笠原を処分するであろうから、問題は早急に解決するはずだと楽観していた。
 しかし、戸田は、その楽観論を戒めて、硬い表情で言った。
 「これは根が深い。戦前に、とうに解決されていなければならないはずの問題が、実は解決していななかったのだ。四月二十七日の事件をもって、解決の端緒についただけだ。これは、日蓮正宗全僧侶の動向がかかっている問題なんだ。早急に解決するものとは思えない。
 創価学会としては、日蓮大聖人の正義だけは、断じて貫かなくてはならない。今は、ただ邪悪と戦い抜く覚悟だけは、してもらいたい」
 まさに、彼が指摘したように、事件の根は深かった。事態の推移は、さまざまな波瀾をはらみつつ、遂に秋半ばに至るまで解決をみることがなく、くすぶり続けねばならなかった。

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