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日蓮大聖人・池田大作

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七百年祭  

小説「人間革命」5-6巻 (池田大作全集第146巻)

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2  式典は、四月二十四日、二十五日の第一会と、四月二十七日、二十八日の第二会にわたって行われた。
 創価学会員は、二十七、二十八日の両日、戸田会長を先頭に、雀躍として慶祝の盛儀に参加したのである。晴天のもと、一万世帯のなかから集ったのは、四千三百余人の精鋭たちであった。
 これらの会員は、二十六日の夕刻から二十七日の早朝にかけて、八本の列車に分乗して、東京駅を出発した。そして、富士宮駅から、専用バスがピストン輸送を続けた。
 総本山に集った学会員は、宿舎にあてられた各坊にあふれ、客殿までも占領してしまった。休息の時間にも、歓声は響き、学会歌が湧き起こる。どの顔も、この七百年祭への参加の喜びにあふれでいた。長い旅にもかかわらず、体を横にする人も、じっとしている人もいない。総本山は、歓喜の旋風につつまれていた。
 二十七日午後二時、三門内の広場に全員が整列した。男子部四部隊、女子部五部隊、さらに各支部の同志が、参道に向かって整然と並んだ。それは、健気にも立ち上がった民衆の、平和行進の開始を象徴するかのようであった。
 程なく、参加者の頭越しに、学会本部旗が見えた。全員の大拍手が湧き起こるなか、本部旗とともに、戸田城聖が、参道の石段の上に姿を現したのである。
 それは、まさに、式典の序曲であった。
 まず、清原理事の指揮で、富士の高嶺に響けとばかりに、学会歌が声高らかに歌われた。
 続いて、泉田筆頭理事が、勢い込んで、叫ぶようにあいさっした。
 「慶祝の四月二十八日は、まことに意義深き立宗七百年の佳節であります。と同時に、太平洋戦争に敗れた日本が、ともかく独立国家として認められ、その講和条約が発効するのも、同じ明日、四月二十八日であります」
 かつて軍人であった彼は、終戦八年目の講和条約の発効に、深い感慨を覚えていたのであろう。
 「この奇しき四月二十八日を前にして、われわれ創価学会の会員が、この広場を埋め尽くしたのも、歴史的事実であります。われわれに課せられた責務は、実に深く、重いものがあります。戸田先生を折伏の師として、いよいよ大目標に向かって、邁進することを誓うものであります」
 泉田は、額の汗をぬぐって、マイクを離れた。
 次の瞬間、ひときわ熱烈な拍手が湧き上がった。戸田会長が、前に進み出たのである。メガネがキラリと光った。緊張した面持ちが、かすかにうかがえる。戸田の、凛とした声が響いた。
 「日蓮大聖人が、この日、末法の、われわれのことを深くお思いになり、題目を唱えあそばされてより七百年の間に、題目の流布は、なされたのであります。そして、七百年後の今日、御本尊の流布がなされんとしているのであります。時は、今であります。
 私は、出獄以来、まず七年間にわたり、責務を遂行し、今日、諸君と共に登山できましたことを、われわれの誇りとしたいのであります。
 広宣流布実現の使命を担ったわれわれは、輝かしい任務を肝に銘じつつ、御本尊様を主と仰ぎ、師と尊び、親と思い、しっかり戦っていこうではありませんか。この光栄ある日を、皆さんと共に喜び、いよいよ確信をもって、折伏に励むことを望むものであります」
 戸田のあいさつは短かった。だが、万感を胸に秘めていた。
 再び、力強い学会歌を、全員が高らかに歌って、戸田の指導に応えた。合唱が終わるとともに、本部旗を先頭に隊伍を組みながら、御影堂へ向かっての行進が始まった。
 男子部、女子部、各支部と、おのおのの先頭に部隊旗、支部旗を掲げ持ち、地涌の菩薩の誇りも高く、参道の石畳を踏みしめていった。
 参道に沿って並ぶ宿坊の石垣越しに、年を経た八重のしだれ桜が枝を垂れ、参道の石畳の上に影を落としている。花は既に散っていた。光沢のつややかな若葉が伸び始めているのが、印象的であった。
 戸田は、石畳を踏みながら、時折、大空遠く目を放った。今、しきりに、七百年前、日蓮大聖人が立宗宣言し、末法における妙法流布の戦いを開始された時のことが偲ばれるのだった。
3  七百年前の立宗の日――建長五年四月二十八日は、西暦一二五三年にあたる。
 日本に仏教が伝来してから、約七百年のことである。
 旧暦四月二十八日は、太陽暦(グレゴリオ暦)に直してみると、六月二日となる。入梅直前の初夏のころである。
 日蓮は、数え年三十二歳。十二年間の、叡山をはじめとする諸国の遊学から、安房国(現在の千葉県南部)の清澄寺に帰って来て、間もなくのことであった。
 幼名を善日麿といった彼は、十二歳の時、清澄寺に登った。その彼にとって、清澄寺は、懐かしい故郷である。
 清澄寺に入り、やや勉学が進んだ時、虚空蔵菩薩に願を立てた。
 ――日本第一の智者となし給え、と。
 みずみずしい五体のなかには、虚空にも響けとばかり祈り、自らを磨き高めんとする一念の脈動があった。
 虚空蔵とは、″虚空のように広大無辺な無量の智慧″という意味である。してみれば、善日麿の願いは、宇宙の本源の法に到達した仏の無量の智慧を、自らも成就したいとの願いであったのかもしれない。
 それは、自分を育んでくれた父母をはじめとする、恩ある人びとへの報恩のために、現実に生きでいる一人ひとりの人間の、生死の苦を救いきる仏の本当の智慧を、なんとしても得たいとの熱願であったにちがいない。
 善日麿は、清澄寺入山後、修学と見識を深めるにつれて、数々の疑問をいだくにいたった。
 ――仏教とは、釈尊一人の教えから出発したものであるのに、その教えが、今日、さまざまな宗派に分かれ、対立しているのは、いったい、どうしたことであろうか。一人の聖者の説いた真理は、一つのはずだ。とすれば、その真理を伝えている教えは、今、どこにあるのだろうか。
 また、寺々は隆盛を誇り、仏教は栄えているはずなのに、なぜ、世の中は、争いに次ぐ争いを繰り返し、国は乱れているのであろうか。仏の教えは、どこへ行ってしまったのだろうか。
 たとえば、天台宗の座主・明雲みょううんを頼んで源氏の調伏を願った安徳天皇は、逆に源頼朝に攻められ、海中に沈まなければならなかった。そして、明雲座主は源義仲に殺された。
 さらに、承久三年(二三一年)に起きた朝廷と幕府との騒乱の時にも、仏法の秘法を尽くして祈った朝廷方が、北条義時に攻められて敗れ、後鳥羽上皇は隠岐に、順徳上皇は佐渡に、また土御門上皇は阿波にと、三上皇は、そろって流されてしまった。
 仏法をもって祈った国主が、臣下に亡ぼされるというのは、どうしたわけであろう――。
 一見、素朴ではあったが、極めて重大な、これらの疑問は、善日麿の頭を満たしてしまった。清澄寺一山の衆僧は、誰も明快に答えてくれない。
 彼は真正面から、この疑問にぶつかっていった。大疑は大悟に通ずる道理のごとく、彼の大疑は、仏法の根源に向けられていった。
4  鎌倉に大雨が降り、大洪水のあった年――嘉禎三年(一二三七年)、十六歳の善日麿は、師の道善房により剃髪の儀式をすまし、一人立ちの僧侶となった。彼は、清澄山を下り、鎌倉研学の旅に出た。
 しかし、当時の政都・鎌倉は、政治の中心地ではあったが、幕府が開かれて、まだ四十五年の新開地で、文化の中心地ではなかった。彼は、四年の歳月を鎌倉で送り、主に新興の浄土宗、禅宗についての知識を吸収し、清澄寺に舞い戻っている。
 だが、向学の志は固かった。彼の、やみがたい求道心は、遥かに京都の地を望み、それほどの間を置くことなく、再び清澄寺を後にしたのである。
 まず、比叡山に登った。そして、天台真言の奥義を究めることから始めた。さらに、京都、奈良の寺院をはじめとして、園城寺、四天王寺、高野山に逗留し、それぞれの宗派の奥義を究め尽くそうとしたのである。
 今日から見れば、このように宗派の異なる寺院を歴訪して修学することは、奇異に思われるかもしれない。だが、当時、学問の道を志す者は、評判の名刹、名僧を訪ねるより仕方がなかった。それは古刹に、学問と、文献と、教説があったからである。いわば、各宗の総本山は、今日の大学のような役目を果たしていた。
 また、当時は、属する宗派がどこであれ、求道心のある者は、どの寺でも拒まない慣例があった。禅宗の僧が、真言の寺で修行することもあったし、念仏の僧が、律宗の寺に寄宿し、修行することもあった。各宗が、それぞれの学説を掲げ、京都を中心として集まっていたのである。
 若き日蓮は、畿内の地で、十二年間という長い歳月を過ごしている。当時の、碩学という碩学の門を叩き、文献という文献を、貪欲なまでにあさったことは、想像にかたくない。
 そして今、「日本第一の智者」たらんとした誓願は、ようやく果たされようとしていた。三十二歳の彼は、永遠不変の確信を胸に秘めていたのである。
 仏法は、釈尊が入滅したあと、しばらくは正法がたもたれ、正しく実践されるが、時代が下るにつれて次第に形骸化し、遂には、法滅の「末法」に至る――というのが、当時の日本仏教界の共通の認識であった。
 しかし、日蓮の末法観は、「法滅」の時というような、単なる現象論にとどまるものではなく、一重深いものであった。すなわち、彼は、法滅の根本原因を突き止めていたのである。その根本原因とは、一切衆生を成仏に導かんとする仏意を示した法華経への、諸宗の違背という恐るべき事態であった。
 それこそが、末法という「時」の、根底に横たわっている根本問題であったのだ。末法とは、仏法の中に「正法に背く教え」が出現し、それが支配的になる時代にほかならなかった。
 日蓮は、長期の研学を通して、八宗、十宗といわれる、当時の仏教諸宗派の肝要を、完全に把握するにいたった。
 諸宗派の並立は、一見すると、仏法が日本中の人びとに信仰され、興隆している姿にも見えた。しかし、それとは裏腹に、研学中の若き日蓮の目に映っていたのは、日本の仏教界の「正法違背」が、間違いなく進行している姿であった。それは、大集経に説かれる「闘諍言訟・白法隠没」という、末法の実態を如実に示すものであった。
 まさに、日本仏教は、瀕死の病にかかっていた。正法違背の毒は、それと知らずに仏教を信ずる民衆の心を深く冒し、いつしか社会をむしばみ、思想的疫病となって、暗雲のように国土を覆っていたのだ。経文にある「毒気深入」の仏語の通りであった。
 この重病中の大重病を、治療できる妙薬は、法華経にしかないというのが、日蓮の結論であった。
 仏法における根本とは、「万人を成仏に導く」いうことであり、それが「仏意」、すなわち「仏がこの世に出現した目的」にほかならない。その仏意を実現するために説かれたのが法華経である。
 日蓮は、この法華経の肝心であり、地涌の菩薩が所持する南無妙法蓮華経こそが、万人成仏の道を成り立たせる根本法であることを覚知した。そして、自行化他にわたる唱題行を確立したのであった。
5  十二年間の遊学から帰って来る日蓮を、清澄寺の衆僧は、大きな関心をもって待ち受けていたにちがいない。師の道善房は、昔日の日蓮の面影を偲び、大成した彼を、出藍の弟子として、人びとに自慢もしたかったであろう。かつての兄弟弟子たちも、彼の胸中にあるものを、一日も早く知りたかったにちがいない。
 いよいよ、その日、四月二十八日が来た。日蓮は説法開始の時刻を、午の刻(正午)とした。
 彼は、仏法の真髄に達した革新の所説が、いかに目前の人びとに伝えがたいかを覚悟していた。聴衆の驚愕は、もしかすると罵詈に変わることをも、予想しなければならなかったのである。
 日蓮は、日の出の直前に部屋を出た。
 閑静な初夏の山気が、衣をつつんでいく。人影一つない。あるのは、闇のなかに消えていく一条の山道と、それを取り囲んだ巨木の幹と枝である。
 小鳥のさえずりが、耳を新鮮に洗った。未明の道を、一人、嵩が森へと登っていった。
 森の頂に立っと、眼下に山並みが見え、その向こうに、広漠とした太平洋が黒く沈んでいる。
 やがて東の空が、にわかに変色し始めた。見る見る濃い紫は薄くなり、黄色へと移り始めていく。
 さわやかな夜明けである。真新しい黎明である。
 黄色は徐々に赤みを増して、茜色となり、茜色は、いつか光彩を増して、さらに赤らみ、長い水平線が、くっきりと見え始めた。
 日蓮は、じっと、たたずんでいる。そして、東の空に目を凝らした。
 東の水平線の一点に、金色の光が走った。そして真っ赤な太陽の頭が、蒼い水の中から昇ってきた。水も、はや金色に染まりつつあった。
 真っ赤な太陽の頭は、強烈な金色の光彩をともなって、見る見る水平線上に、円形の巨大な全容をを現した。
 日蓮は、太陽に向かい、数珠をかけた手を合わせた。
 「南無妙法蓮華経」
 彼は、朗々たる声を天地に響かせながら、題目を繰り返した。
 彼は、旭日を拝したのではない。胸中にあるものを音声として、太陽という、この宇宙の一つの中心体に、遙かなるあいさつを送ったのである。それは、人間生命の根源と大宇宙との、大いなる交響であった。
 旭日は、日蓮の顔を赤く染めた。長い睫毛、濃い瞳、若々しい豊頬、厚い胸、たくましい肩……素絹五条に包まれた五体は、金色の光のなかにあった。
 彼の胸中にも、太陽が昇ったのであろう。
 絢爛たる天地、豊潤なる胸中。一人の人間と自然とが、いな、全宇宙生命とが、一体となって溶け合っていた。両眼の瞳は鋭く、また温かく見開かれ、久遠の過去と永劫の未来とを望んでいた。
 彼は、彫刻のように、そのまま動かなかった。背後から見るその姿は、逆光線のなかに浮かんだ、僧形の黒い影絵であった。それを取り巻くすべてのものも、木々の幹も、枝も、黒い影絵でしかない。その瞬間の実像は、永遠に記念すべき一幅の尊貴なる絵であった。
 日蓮は、旭日に向かって、じっとしたままだった。
 やがて広漠とした水平線から、ふと目を移した。
 山頂から数キロの距離である。山の木々に隠れて、岸に打ち寄せる白い波頭は全く見えなかったが、彼は、砕け散る波の音を、まざまざと聞く思いがしていた。
 その浜辺の近くに、彼が生まれた家がある。
 つかの間、彼は、自分を生み、育んでくれた、父母の恩を思った。
 日蓮は、われに返った。身を翻し、嵩が森を後にした。
 いつか太陽は水平線を離れ、燦々と輝きながら、ぐいぐいと空に昇っていく。
 彼は、小鳥の盛んなさえずりを耳にしながら、すたすたと道を下りていった。
 はや、末法の世に命を捨てたわが身を思うと、自然と足取りも力強くなっていた。
6  初夏の清澄山――。
 この朝は、ことのほか明るかった。
 清澄山は、房総半島を横断する房総丘陵の東端にあたり、半島のなかでも指折りの雄峰である。標高三七七メートルという。
 房総半島も、ここまで南下してくると、景観も変わり、太陽の光も、ひとしお、まぶしく感じられる。黒潮の影響で、清澄山に連なる房総丘陵の南側、すなわち安房は、気候も温暖で、海岸付近には、亜熱帯性の植物も見られる。
 時は、刻々と正午に近づいていく。
 道善房をはじめとする僧たちが、威儀を正して姿を現し、諸仏坊の持仏堂に集っていた。
 軒端に伸びた木々の影が短くなり、太陽が中天にさしかかった。時折、一陣の涼しい山風が流れていた。
 やがて、姿を現した日蓮は、人びとに軽く会釈をすると、持仏堂の正面にすえられた机の前に、南面して座った。
 僧たちは、日蓮に、尊貴な、冒しがたい威厳を直感したにちがいない。好奇心と期待に満ちた視線が、彼の一身に集まった。
 彼は数珠を手にかけると、いきなり「南無妙法蓮華経」と三遍、唱題を繰り返した。活力にみなぎった、すがすがしい音声である。
 しかし、誰一人、この唱題に和する者はいない。
 好奇心に満ちた目は、一瞬、奇異な眼差しに変わった。そして、左右の人と互いに顔を見合わせている。彼らは、初めて題目を聞いたのである。
 「日蓮、今日、ここに、幼少より縁の地において、仏法の極説を放たんとする」
 彼の心中の眼は、そこに集った人びとの背後に、はるかなる天地に生きる無量の民衆を、計り知れない慈愛をもって見つめていた。今、彼の口をついてほとばしる言々句々もまた、眼前の聴衆に向かって説くというより、末法万年尽未来際の、無量無の民衆に向かって説き出したものというべきであった。
 彼は、末法という「時」について説かねばならぬと思った。
 日蓮は、仏説である大集経を通して、釈尊滅後の最初の千年間である正法時代の様相、次の千年間である像法時代の様相を語っていった。そして、正法、像法に続く末法という時代が、「次の五百歳は、わが法の中において闘諍言訟して白法隠没せん」と予言されていることをあげた。さらに、現在は、既に末法に入り、釈尊の教えが隠没していることを、さまざまな様相との符合から、子細に語っていったのである。
7  末法という言葉が、当時の仏教徒に与えていた衝撃は、並々ならぬものがあった。それは、釈尊の説いた一切の教えが、もはや人びとを救う力を失うことを意味した。
 ″末法となり、釈尊の仏法が滅尽したことが事実なら、いったい何を信ずればよいのか!
 人びとの戸惑いは、大きかった。
 平安時代の歴史書である『扶桑略記』によれば、後冷泉天皇の永承七年(一〇五二年)に、「今年始めて末法に入る」と記されている。
 そして、このころ災厄が急激に増え、世はにわかに末法的な様相を呈していたことも事実である。
 試みに歴史の年表を繰ってみると、列記されている宮殿や社寺の焼亡、倒壊だけでも、おびただしい数に上っており、大きな災厄も、しばしば起きている。
8  永承七年(一〇五二年)香椎宮焼失 長谷寺焼失 この年、疫病流行
 天喜元年(一〇五三年)住吉社焼失 東大寺天地院焼失
 天喜二年(一〇五四年)高陽院内裏焼失 京極院内裏焼失
 天喜三年(一〇五五年)興福寺講堂・僧坊焼失 東寺の塔焼失 法成寺僧坊焼失
 天喜五年(一〇五七年)東大寺塔に落雷
 康平元年(一〇五八年)法成寺全焼内裏焼失
 康平二年(一〇五九年)一条院内裏焼失 大雨で京都に洪水、また放火頻発
 康平三年(一〇六〇年)興福寺焼失
 康平四年(一〇六一年)備中吉備津彦社焼失 出雲大社倒壊
 康平六年(一〇六三年)清水寺焼失
 康平七年(一〇六四年)太宰府観世音寺焼失
 その後の三十年ほどの京都の記録を見ても、大火、洪水、地震、疫病などが頻発している。そして、この間、富士の噴火や、たび重なる近畿の大地震などが記録されている。
 像法時代の後半の五百年である、多造塔寺堅固の時代が完全に終わって、末法に入ったことを象徴するかのように、寺院の焼亡が相次ぐ時代となってしまったのである。
 まさに、末法に入ってからの日本仏教界の様相は、物情騒然たるものがあった。
9  十世紀の末ごろには、国司と大寺社との間で争いなどが起きると、法師武者や、神人と呼ばれる下級の神職者などの動きが、目立つようになった。
 法師武者は、寺院に所属しており、悪僧とか山法師などとも呼ばれた。いわゆる僧兵である。彼らは、武装して、中央政権に対する示威行動や、勢力争いを繰り広げていった。
 僧兵といえば、延暦寺、園域寺、興福寺などが、よく知られているが、京都、奈良だけでなく、地方の諸大寺でも、僧兵が大手を振っていたのだ。そして、十一世紀から十二世紀にかけて、彼らの行動は激しさを増している。
 仏教界が、自己保身のために、巨大な武力をもつにいたったことほど、仏法隠没を端的に象徴する事実は、ないといってよい。絶対の慈悲と平和の哲理を説いている仏法を奉じる者たちが、武力によって、彼らの要求を押し通し始めたのである。
 しかも、武力というものは、一定の力をもつと、それ自身、ひとりでにエスカレートしていくものである。これは、今も昔も変わりがないようだ。
 僧兵は、僧侶の衣を着ていたが、内実は兵士だったのである。僧兵という、この新種の集団は、やがて強大になるにつれて、寺の宗教的権威を錦の御旗に、その由緒ある伽藍を根城としながら、傲慢と横暴を重ねていった。
 仏法実践の本来の姿は、その教えによって、不幸な人びとを救い、社会の改革を志向するものでなくてはならない。その精神と姿勢が失われ、特権の壁を厚く巡らすこと自体、仏法への反逆といわねばなるまい。宗教は、どこまでも民衆とともに生きるところに、その生命があるからである。
 僧兵は、その宗門の内部にあっても、絶大な勢力を誇って競い合うようになり、時には、宗内、または寺内での立場を逆転させ、座主を追放することさえあった。寺と寺との間に、領地や縄張りの悶着が起きると、彼らは、互いに武力に訴えて戦った。そして、相手の寺を焼き打ちすることも、しばしばであった。まさに、暴徒としての振る舞いである。
 時の政権の方針に気にくわぬことがあると、僧兵たちは、寺の権威と武力を背景として、大挙、入京して朝廷へ押しかけ、デモンストレーションの末、強訴に及んだ。たび重なる強訴に、朝廷は、ほとほと手を焼き、その対抗策として、北面の武士の強化を急ぐよりほかに手段はなかった。
 ここに、武士階級の台頭の土壌があり、中世・武家政治の時代へと移行する、必然的な萌芽があったといえる。つまり、新興階級としての武士の台頭は、末法に入って生じた現象といってよい。まさに、「闘諍言訟」の時代的産物であったわけである。
 それ以来の、血なまぐさい武力闘争の歴史は、人間生命の醜悪な一面を露骨に示していった。
 寺院ばかりではない。大きな神社も、それぞれ広大な荘園を背景に、同様に強大な武力を備えていた。
 僧兵や神人らは、自分たちの意に沿わないことがあったり、要求が認められ、なかったりすると、神輿しんよや神木を担ぎ出して、京洛の地に押しかけて強訴に及んだ。朝廷は、神輿や神木を持ち出されると、神威を恐れて手が出せず、要求をのむ以外に、なす術がなかった。
 この時代の寺社の勢威が、いかに強大であったかは、久安三年(一一四七年)六月に起きた、平忠盛・清盛と、僧兵らの衝突の結末にもよく現れている。
 祇園祭の際、平忠盛・清盛の配下の兵士と、祇園社の神人との間で争いが起こった。
 比叡山の僧兵と神人らは、忠盛・清盛父子を流罪に処すよう要求し、神輿を担いで強訴した。結局、清盛は、流罪は免れたが、贖銅しょくどう三十斤を支払わなければならなかったのである。
 大きな寺や神社の武力的実力も、その圧力も、ますます強大になっていった。こうした力の背景には、荘園という広大な土地から得る、莫大な富があった。
 一方、寺社の勢力に対抗するものとして、朝廷や上流貴族によって重用された武士たちも、いつか次第に統合されていった。そして、源平の、天下を分ける激しい争覇となっていったのである。
 たび重なる争覇は、内乱となって続いた。朝廷も、寺社も、この争覇にからんで、それぞれ利害を被ったが、なんといっても、最も苦しめられたのは、庶民であった。自己保身に血眼になっていた朝廷や上流貴族、高僧などの耳に、民衆の苦悩と懊悩のうめき声が、果たして、どれほど響いていただろうか。残念な現実だが、結局、指導者の私利私欲の葛藤は、いつも庶民の犠牲のうえに行われている。
 「闘諍」は、まことに、とどまるところを知らなかった。源平争覇の時代が、やっと終わって、鎌倉幕府が創設されると、やがて北条執権の時代に入り、同族間の抗争が続いていった。そして、蒙古の襲来に対抗して、国を挙げて戦う時代がやって来た。この蒙古襲来が、鎌倉幕府の滅亡の遠因となった。
 さらに、その後、南北朝の対立を経て、室町幕府が創設されるが、これも衰亡、瓦解し、時代は戦国時代へと突入する。
 こうした時代経過をさかのぼっていくと、社会を混乱に導いた大きな要因の一つとして、僧兵の登場を考えざるを得ない。白法が隠没しようとする時代に、宗教の威を借りた僧兵という武装集団が興り、法を根本とするより、武力を頼んで自らの要求を貫くという横暴を繰り返した。僧兵が登場したころから、物情騒然とした世になり、まさに末法の闘諍堅固の様相を濃くしていったことを、歴史は示している。
10  ところで、中世の思想を考える場合、その底流を根強く貫いた厭世思想を見逃すことはできない。その兆しは、既に平安時代の中ごろから始まっていた。
 荘園が拡大されるにつれて、権力の座にある藤原一門のみが、富み、栄えていった。そして反対に、中・下流の貴族や、一般庶民の生活は、はなはだしい没落の様相を呈していた。
 人びとは、それを、定められた宿命として受け止める以外になかった。わが身の行く末を、自らの力では、どうすることもできないものとして、人びとは観念したのである。
 厭世思想に覆われた社会において、人びとは、宿命的な必然が人生を支配していることを、強く感じないわけにはいかなかった。
 平安朝の中期に芽生え始めた厭世思想は、末法の到来が言われるようになってからは、輪をかけて深刻な影響力を与えるようになっていったのである。
 人びとの目には、末法思想が告げる通り、釈尊の教えの功力は失われ、いかなる修法も効き目をなくしてしまったと映った。天変地夭は絶えず、巷は戦乱に覆われている。悲惨と破壊に満ちた世相を目撃するにつれ、人びとの心には、厭世思想が末法思想と重なって広がっていった。
 このころ、日本の浄土宗の開祖・法然(一一三三年〜一二一二年)が出て、その教えは、瞬く間に全土に広まっていった。既成仏教が、ことごとく形骸化し、厭世観が蔓延するなかで、人びとは、頼るべき精神の支柱を失い、ただ一つの希望を、「来世の往生」を説く念仏思想に、託さざるを得なかったのである。
 法然は、他宗派を排斥して独走し、念仏さえ称えれば極楽に往生できると説いていった。
 この動きに対し、仏教界の既成勢力は、時の政治権力を動かし、たびたび弾圧を加えている。だが、念仏の教えは、世を、はかなんだ庶民の心をとらえて広まっていった。社会の厭世的な動向は、根本的に、いかんともなし得なかったからである。
 法然は、日蓮大聖人の生誕十年前に没しているが、その死後も、念仏信仰は、法然の直弟子・孫弟子たちによって、形を変えながら広まり、庶民だけでなく、武士、貴族階級のなかにも深く浸透していった。しかし、念仏思想は、現実の苦悩に背を向けさせようとするものであり、広まれば広まるほど、その結果は、社会に無気力の風潮を強めさせていったのである。
 民衆自体に、思想や宗教についての正しい判断基準がないことは、まことに恐ろしいことだ。
 厭世思想がはびこり、秩序も混乱したなかで、人びとは、人生を拓き、社会の精神的基盤となる力強い宗教を、心の奥底では熱望していたといってよい。しかしながら、そこに出現した浄土宗は、むしろ、人びとの厭世観を助長し、更に広げていったのであった。
11  建長五年(一二五三年)四月二十八日の日蓮の説法は、法華経に明かされた仏意を実現すべく、末法法滅の今こそ、南無妙法蓮華経の大法が流布されなければならない時であると、訴えたものであった。
 彼は、末法今時の日本にあっては、釈尊に始まると称する諸宗派が、既に衆生を救う力を全く失ってしまっていることを宣言した。
 その明快な言説に、持仏堂に集った僧たちの表情には、次第に動揺の色が浮かんでいった。
 日蓮は、まず、釈尊の真意を説く唯一の経典である法華経に、末法広宣流布の仏意が明確に定められていることを、文証をあげて説いていった。
 ――末法には、末法の正法がなければならぬ。それは、日蓮の独断ではない。釈尊は、このことを明確に説き、天台大師も、伝教大師も、その仏意を熟知していた。
 たとえば釈尊は、法華経の薬王品に、「我が減度の後、後の五百歳の中、閻浮提に広宣流布して、断絶して悪魔・魔民・諸天・竜・夜叉・鳩槃荼等に其の便を得しむること無かれ」(法華経六〇一ページ)と末法においては、世界に妙法が流布すべきことを、明確に説いている。
 天台大師は、「後の五百歳遠く妙道に沾わん」と言い、伝教大師も生前において、末法の時代を思慕し、「正像稍過ぎ已つて末法太だ近きに有り法華一乗の機今正しく是れ其の時なり、何を以て知ることを得る、安楽行品に云く末世法滅の時なり」と言い、また、「代を語れば則ち像の終り末の初め地を尋ぬれば唐の東・羯の西・人を原ぬれば五濁の生・闘諍の時なり」と、正法が説かれる時と、地と、教えを受ける人々とを予言している。
 このように、釈尊、天台、伝教等と、あたかも大河が大海に注いでいくかのように、一貫して末法の仏法へ、その法を流れ通わしめたのである。末法に大白法が出現しなければ、これら先哲の言は、ことごとく虚妄となったであろう。
 その末法の大法こそが、南無妙法蓮華経である――日蓮は、こう宣言したのである。
 彼の明快な言説は、おそるべき説得力をもっていた。それだけに、衆僧たちは愕然とした。かつての彼とは隔絶してしまった姿に、ある者は魅せられ、ある者は軽い嫉みさえ感じたようだ。また、ある者は、頑強に彼の所説を心に拒んで、憤然として聞いていた。
 誰もが、いまだ耳にしたことのない斬新な所説に対して、感情的に受け止めるほかはなかったのだ。彼らには、今、日蓮の所説を冷静に理解する、なんの修練もなかったからである。旧態依然たる牢固とした精神は、強い拒絶反応さえ示していった。新しい哲理は、常に古い体質と激突し、そこに嵐を巻き起こしていくのである。
 日蓮は、これまでに説いた言説を総括するように、声を励まして言った。
 「人間の営みは多様である。それに応じて、仏の教えもまた多様である。その多様な教えのなかから、いかなる教えを弘めるべきか。それを知るのは難事である。ゆえに、仏法を学び、弘めんとする者は、謙虚に仏意を探求し、必ず仏意を知って後に、仏意に従って法を弘めるべきである。
 仏意を知らずして、自見に任せて諸義を立てるゆえに、八宗はおろか十宗となって対立し、大集経に警告されたごとく、闘諍言訟の様相を深めて、末法の衆生を迷わしめている」
 学僧たちは、虚脱したように、目を見張っている。心底の動揺は隠すべくもなかった。まさに、空前の「動執生疑」であったといってよい。
12  日蓮は、ここで、人びとの心に浸透していた浄土宗に言及していった。
 ――日本の仏教は、総じて迷走している。八宗は、国家の祈祷を盛んに行うが、悲しいかな、仏意に反して、民衆を忘れている。そのために、日本の社会に恐るべき精神的空白を生んでしまっている。しかも、そのことを、各宗の碩学すらも知らない。
 その間隙を埋めるようにして、近年、浄土宗が諸国に教線を伸ばしてきた。彼らは、死後の救いを説いて、民衆に慰めを与えはしている。しかし、それは真の救済ではない。
 仏意は、民衆の現実生活の変革、現世における幸福の実現にある。それを見失っている彼らは、釈尊に違背していると、いわなければならない。ましてや、阿弥陀仏の絶対化を通して、自宗の義を絶対化しているのは、釈尊を排除するものにほかならない。
 浄土宗の開祖たちは、たとえば中国の善導は、「千中無一」(諸経によって成仏する者は千人に一人もいない)と説き、日本の法然は、「捨閉閣抛」と説いている。すなわち、浄土三部経以外の諸経は、「捨てよ」「閉じよ」「さしおけ」「なげうて」と主張したのである。
 法然は、中国伝来の浄土教思想を独自に展開し、浄土教の祖師の一人である道綽(五六二年〜六四五年)が説いた、「理深解微」の教義を用いて諸経を排斥した。
 「理深解微」とは、「諸経の教えは、道理は深いが、愚鈍な衆生は微少な理解しかできないから、それらの教えでは悟りを得ることはできない」ということである。法然は、この「理深解徴」の教義をもとに、浄土教が説く、阿弥陀仏の本願力による死後の極楽往生のみが、すべての末世の衆生に、等しく可能な救済であると説いた。
 そして、浄土三部経によって修行することを正行とし、法華経を含め、それ以外の諸経によるものは雑修・雑行とし、捨て去るべきだというのだ。
 法華経譬喩品には、法華経を誹謗する者は、「其の人は命終して、阿鼻獄に入らん」(法華経一九九ページ)と説かれている。釈尊の所説が真実ならば、念仏を行じる者は、阿鼻地獄、すなわち間断なく大苦を受け続ける無間地獄に堕ちることは明らかではないか。
 日蓮は、静かに、しかし、鋭く言い放った。
 「ゆえに念仏は、極楽往生の因にあらず。かえって無間地獄の業なり!」
 愕然としたのは学僧たちである。日蓮の論理のあとをたどることのできない者も、結論を耳にして驚愕した。
 念仏信仰が、一世を風靡していた時代である。しかも、この清澄寺がある東条の地の地頭・東条景信は、熱心な念仏信者であり、中央政界での念仏の擁護者・北条重時の息がかかっていた。
 日蓮の師・道善房は、首を前に伸ばし、ゴクリと唾をのみ込んで、激しく瞬きながら日蓮を見つめた。
 ″皆の前で、ここまで言い切ってしまうとは……。後は何を言いだすことか、わかったものではない″
 日蓮の引用した文証は、言われてみれば、ことごとく学僧たちも知るところである。しかも、整然とした論理であるだけに、道善房は、この時、ただ恐怖を感じた。彼もまた、この先覚者の胸中を測ることは、できなかったのである。
 道善は思った。
 ″なんという修行をしてきたことか。愛すべく、利発であったあの善日麿を、修行に出すのではなかった……″
13  日蓮の論旨は、その宗教が、「仏意に背く邪法になっていないか」、そして「民衆の幸福を妨げる悪法になっていないか」の二点が基準になっていた。
 この基準があってこそ、末法の法滅を打ち返すための宗教批判となり得るのであり、民衆を救うための宗教革命をなし得るのである。
 この後、日蓮におけるこの宗教批判の姿勢は、幕府の要人の宗教意識と宗教政策の変革を迫る国主諌暁の実践、すなわち「立正安国論」の提出に始まる、生涯をかけた宗教闘争へと展開されていくのである。そして、仏意に背き、民衆の幸福を妨げる諸義・諸僧・諸宗に対して、後に、「四箇の格言」と称されることになる鋭い批判の矢を放ち続けていった。それは、悲嘆に暮れる民衆から遊離し、ひたすら権力に取り入り、権勢をはった既成仏教に対する痛烈な指弾でもあった。
14  ともあれ、一国の興亡盛衰に、深く思いをいたしてみると、底流には常に宗教があった。宗教の流れが濁れば、人間の智水も、文化の花も、必然的に頽廃を余儀なくされてしまう。やがては民族の生命力も、いつしか衰え、弱まっていくのである。
 宗教は、単に個人の「心」の枠の中にとどまっているものではない。広く社会に流布した宗教は、それ自体、既に社会の基盤を形成しているのだ。優れた宗教が、社会の土壌にあれば、おのずと見事な、絢爛たる文化の花が咲くであろう。逆に、信仰が非現実的な、閉じた世界に押し込められてしまうと、人間精神の自由な活動が抑えられ、民衆の生生きとした鼓動も、社会の健全な発展も止まってしまう。
15  日蓮は、いまだかつて誰も口にしなかったことを、四月二十八日の白昼、堂々と、末法の空に向かって師子吼したのである。
 そして、釈尊や、天台や、伝教が予見した、末法に広まるべき正法こそ、「南無妙法蓮華経」であり、この大白法に帰命する以外、末法の衆生の救済は、どこにもないことを説いたのである。
 まさに、宗教革命の一石が投じられたのだ。清澄寺という静閑な池に、大石が投げ込まれたのである。小さな池に、凄まじい水柱が立ったような騒ぎとなったのも、当然であろう。
 日蓮は、一山の衆僧に、激しく改宗を迫ったも同然といってよい。それはまた、末法における広宣流布実現への第一声でもあった。
 三十二歳の青年は、既に末法における自己の使命を悟り、今や金剛石のごとく結晶した確信と剛勇とをもって、末法万年尽未来際への弘通の第一歩を踏み出したのである。真実に勝る強いものはない。日蓮の胸中よりほとばしる叫びは、清澄寺の大衆を通して、日本国全体、いな全世界に発せられたのであった。
 日蓮の熱烈な所説に感動した人は、わずかであったろう。むしろ、大部分の人は、反発し、怒り、憎んだにちがいない。
 日蓮が、当時の、わが国を覆っていた浄土宗の誤りを論破した時、それによって襲い来る、あらゆる迫害も覚悟のうえであった。彼の所説は、既成の宗教観をはるかに超えていたからである。
 彼は、清澄寺の僧たちに理解されることを求めたのではない。彼の心中には、常に民衆の悲痛な声が聞こえて、離れなかった。自己の悟達した仏法の真髄による、民衆救済への広大な慈悲以外、何ものもなかったのである。宗教革命に徹する青年僧の峻厳な姿が、そこにはあった。
 先覚者の道は、一人立っことから始まる。そして、胸中に刻印された真理をもとに、時代をリードしていかねばならない。そのためには、これまで親しかった人びとが、百八十度転じて、非難、嘲笑浴びせようとも、いささかの逡巡も許されなかった。
 青年僧の、人類救済への船出は孤高でさえあった。そして彼は、限りない未来を展望していた。やがて、その所説が万人の心をとらえ、時代の真理として輝き渡ることを、強く確信していたにちがいない。
 この日を「立宗」と名づけたのは、後世の門下である。日蓮が、この日、南無妙法蓮華経の弘通を宣言したのは、法華経に示された、万人の成仏という「仏意」を鮮明にして、諸宗を覚醒させることにあった。
 そして、闘諍言訟という分裂状況を解消し、法滅の危機に瀕している日本の仏教を、蘇生させようとしたのである。それはまさに、一切衆生を救済せんとする、真の意味での民衆仏法の確立といってよかった。
16  日蓮の投じた一石は、大きな水柱をあげたあと、もとの静謐に戻ってしまったかと思われた。ところが、波動は潜行して、意外なところに大きな波紋を起こしたのである。
 東条郷の地頭・東条景信が動きだしたのだ。
 日蓮の言説は、当然、景信にも伝わったであろう。
 彼は、熱心な念仏の信者であった。「念仏は無間地獄」との、日蓮の主張を伝え聞いた景信が、強い不快の念をいだいたことは想像にかたくない。
 清澄寺で、しかるべき立場にいたと思われる円智房と実成房は、共に念仏を信じ、東条景信とは通じ合っていた。二人は、日蓮の師匠である道善房に圧力をかけたのである。
 内からは円智房、実成房などに責められ、外からは地頭に圧迫を加えられた道善房は、遂に弟子の日蓮を勘当した。師弟の縁を切ったのである。
 日蓮は、清澄寺を離れる覚悟を決めた。清澄寺の学僧にも、日蓮の教えに共鳴する者がいた。かつての兄弟子である義浄房、浄顕房などもそうであった。彼らは、日蓮の弟子となって行動を共にする決意さえ固めていた。
 清澄寺を後にした日蓮は、やがて政都・鎌倉に赴き、権力と真っ向から対決して、広宣流布への大きな戦いの歩みを踏み出すのである。
17  戸田城聖は、四千余人の先頭に立って、御影堂への参道の石畳を踏みながら、七百年前の四月二十八日を思い描き、ふと一瞬、思いにふけった。
 ″釈尊が生命の部分観を説いたにすぎない経典をもととした諸宗は、日蓮大聖人によって、七百年前に本源から破折されている。いうなれば、それらの宗教は、もはや根無し草となっているのも同然であろう。
 事実、既成仏教は形骸化し、現代人は見向きもしなくなっている。ただ、墓を守り、法事のためにのみ存在しているにすぎぬと社会の人びとは見ている。この現状を指して、「死の宗教」と言った人がいる。
 しからば、これから越えなければならないものとは、いったい、なんであろうか″
 彼は、それが現代のもろもろの思想であることに思い至った。
 現代人を支えているものは、旧来の宗教よりは、現代のさまざまな、千差万別の思想である。したがって今日では、現代思想の高低浅深を明らかにすることこそ、新たなテーマとなろう。
 ″一切の人間の営みは、その基盤となる思想によって、刻々と動かされていく。轟音を立て、瞬時の停滞もない時の流れも、社会を覆う思想に導かれ、転回している。まことに、思想のもつ影響力は、極めて甚大である。時には、一種の恐ろしささえ感じさせるものだ。
 新しい時代には、新しい哲学が待望されよう。より広大な人間観と社会観に、一人ひとりが目を開かなければ、社会の混迷を解決することは、絶対に不可能といわねばならない。
 それには、まず、日蓮大聖人の仏法が、人類の未来を照らす人間主義の思想・哲学として、現代に見事に生きていることを実証することが、何よりも先決の問題ではないか……″
 戸田の思索は、御影堂への参道の石畳を踏んで、堂の前の階段を上るころまで続いた。清掃されて、水を打った広場に出ると、ふと、われに帰り、後ろを振り向いて、後続の隊列を見渡した。
 御影堂に入ると、内陣は、既に法華講の人びとで埋まっている。戸田は、正面の外陣の真ん中に端座した。
 間もなく、法主の水谷日昇が入場した。
 読経が始まる。参列者は、心を込めて日昇の声に唱和していった。
 やがて唱題が終わった。
 御影堂での儀式を終えた戸田の一行は、本部旗を先頭に隊伍を組んだまま、先師・牧口常三郎の墓前へと行進していった。
 戸田は、墓の前に立っと、深く頭を垂れ、一同と唱題しながら、しばらくは身動きもしなかった。
 ″思えば、恩師は獄中に一人死んでいった。しかし、その一人の死は、数千の地涌の菩薩を誕生せしめたのだ。そして、未来には数十万、数百万の同志が集うことであろう。偉大な信心の法則は、決して、その死とともに終わるものではない。それを実証していくのは、私しかいない″
 彼の胸中は、報告というよりも、″新たな同志数千人の精鋭を、一目、牧口先生にご覧いただきたい″との思いにあふれでいた。
 戸田の凝視は、過去ではなく、未来にあった。彼にとって、立宗七百年とは、壮大な未来に向かっての船出であったのである。
18  辺りが暮色につつまれたころ、創価学会指揮本部のある理境坊から、十数人の青年部員が、各坊をはじめ、総本山各所へ慌ただしく飛んでいた。
 そして、石畳の上で顔を合わせると、何やら互いに尋ね合っている。
 「いたか?」
 「いない」
 「本住坊は?」
 「いないよ」
 「どこに隠れているのか?」
 彼らは、笠原慈行という、破門されたことになっている一人の僧を捜していたのである。
 昼間、彼の姿を見たという情報は、確かにあった。その後、本住坊にいるという報告も、続いてあった。
 牧口前会長の墓参が終わってから、いよいよ笠原慈行に対面し、彼の神本仏迹論について詰問する手筈を、青年部は整えていたのである。
 それが、今となってみると、どの坊を探索しても、彼の姿が見えないのである。
 青年たちは、自問自答していた。
 ″笠原を逃してしまったのではないだろうか。いや、そんなはずはない。どこかにいるはずだ″
 理境坊の連絡本部では、焦慮の色さえ見え始めていた。
 戸田城聖は、七百年祭の登山にあたって、青年部の幹部に、一つの訓辞を与えていたのである。
 「笠原慈行は、七百年祭に、必ず登山してくるであろう。諸君は、いつ、いかなるところにあっても、笠原慈行と遭遇した時には、必ず一戦を交えなさい! そして、彼の神本仏迹論を、徹底的に破折しなさい」
 戸田は、徹底的な法論を、堂々と展開するよう、青年部に諭したのである。
 彼は、立宗七百年の慶事を、単なる形式だけの儀式に終わらせたくなかった。日蓮大聖人の立宗が、末法万年の未来へ向けての一大宣言であったと同じく、七百年後の今日も、未来に向けての門出でなくてはならぬ、と考えたからにちがいない。「源遠ければ流長し」である。――もし、この祭典で、盤石の基盤をつくっておかなかったらならば、正法の清流はたもてない。
 戸田は、今度こそ、令法久住のために笠原と対決して、宗門を浄化し、一点の汚辱たりとも残してはならぬと、決意していたのである。
 青年部の幹部四十七人は、登山の数日前から、周到に、笠原慈行との法論の順序を定めていた。
 その彼の姿が、いよいよという時に、発見できずにいるのである。焦慮は、ますます強まりつつあった。
19  戸田は、出獄以来、先師・牧口常三郎のことを考えない日は、一日としてなかった。そして、牧口のことを考える時、いつも決まって笠原慈行のことを思い浮かべるのである。
 ″戦時中、時局に便乗して、日蓮大聖人の正義を平然として歪め、神本仏迹論を得意然と唱えた彼。
 軍部政府の宗教政策に迎合し、日蓮宗各派の統合を進んで策し、日蓮正宗を危殆に瀕せしめた彼。
 宗務院は、笠原を僧籍剥奪の処分に付して宗門を守ったものの、彼は、それによって、いよいよ軍部との結びつきを深め、創価学会弾圧の起因をつくった。そのために、牧口先生も、私も捕らえられ、幹部二十一人の投獄という事態となったのだ″
 牢死した牧口を偲ぶ時、いつかは、笠原と対決しなければならないことを、戸田は一瞬も忘れることはなかった。
 仏法の世界は、外からは絶対に壊されない。最も恐るべき破壊は、必ず内より起こる。仏法の本義を歪め、その精神をないがしろにする人物が内部にいる時こそ、最も恐れなければならない。だが、仏法は「人」を排斥するのでなく、その思想を改めさせるのである。
 思想、つまり「法」に対する厳格さと、「人」に対する寛容と慈悲を、はき違えてはならぬ――このことを、戸田は、指導者の深く留意すべき鉄則として、後世を託する青年に教えようとした。
 戸田は、出獄以来、笠原の動静を鋭く凝視していた。戦後、笠原は岐阜の寺に潜んでいた。だが、数年前から、北海道の、ある正宗寺院で、講演会を開いたという情報も流れてきていた。九州方面での動静も伝わり、仙台地方に手を伸ばしているということも、わかってきた。最近になると、戦時中のように、東京へ進出の根拠地をつくろうと蠢動している事実も、判明してきた。
 こうした動きは、広宣流布の前進に混乱をもたらしかねない。そのために戸田は、彼の会長就任の日にも、笠原のことを宗務院側に質問していたのである。
 「戦時中、神本仏迹論という学説をデッチあげ、時の御本山を悩ませ、政府当局による学会大弾圧の発端をなした、笠原慈行という悪僧が、今もって宗門に籍を置いているということですが、どうなんでしようか。
 今、学会は、全国折伏に、死身弘法の自覚をもって立ったのであります。どうか、御本山においても、かかる徒輩が、再び宗門をかき乱すことなきよう、真に学会の前途を理解されて、守っていただきたいと望むところであります」
 戸田のこの要望は、実は、そのころの笠原の動きを知り、またも蠢動し始めたらしいという懸念から出たものであった。
 この折、宗務院側は、はっきりと次のように答えていたのである。
 「現在、宗門には、かかる僧侶は絶対におりません。笠原は宗門を追放されております」
 ところが、戸田がつかんだ確かな情報によれば、笠原が、七百年祭にも平然と登山してくることは必至だったのである。それは、戦時中の悪行に対して、笠原が自ら、なんの反省もしていないことにほかならない。今、彼の所説を糾弾しておかなかったならば、広宣流布のためにも、宗門のためにも、悔いを千載に残すことになる。
20  青年たちによる総力をあげての探索も、ひとまず無為に終わるかに見えた。ところが、偶然のきっかけから、笠原の所在が判明したのである。
 清原かつが、本住坊前の参道で、大阪の法華講信徒で顔見知りの、ある婦人と、ばったり出会った。
 婦人は、懐かしそうに、清原に話しかけた。
 「まあ、清原さん! 今日は、ずいぶん懐かしいお方にばかり、お目にかかれて、本当に嬉しい日でございますわ。たった今も、あの笠原慈行先生に、お目にかかってまいったところでございます。何年ぶりのことでしょうか。お年をお取りになりましたけれど、それは、お元気で……」
 清原は、この瞬間、はっとした。後の話は聞き流して、婦人に言った。
 「笠原先生に? どちらで?」
 「今、寂日坊においでになります」
 「あら、そう。私もまだ、お目にかかったことはありませんが、一度お会いして、お話を伺いたいと思っていたところです。戦時中、ずいぶん活躍なさった先生ですもの。私もぜひ、お目にかかりたいわ。ご紹介してくださいません?」
 「ええ、お安いことですとも。談論風発といった、気さくな先生ですから、きっと喜ばれることでしょう。今すぐ、まいりましょうか」
 婦人は、いそいそと先に立って寂日坊の門をくぐった。
 清原は、この時、近くにいた青年部の幹部の一人に、小声でささやいた。
 「笠原は寂日坊にいるらしい。今、確かめてきますから、指揮本部へ連絡しておいてください」
 連絡は、直ちに理境坊に入った。指揮本部の焦燥の色は、見る見る喜びの色に変わった。即座に代表が寂日坊に向かった。石畳を踏む足取りも、自然と力強い。青年たちの純粋な心は、邪悪との対決に燃えていたのである。青年の心は、決して卑劣な妥協を許さなかった。
 清原と婦人の二人は、寂日坊の内玄関から庫裏に通された。清原が部屋をのぞくと、なるほど笠原慈行がいる。数人の僧侶と談笑中であった。
 大阪の婦人は、無邪気に言った。
 「笠原先生、また、まいりました。こちらは創価学会の清原さんです。先生のお話をお聞きしたいと、しきりに、おっしゃるものですから、お連れしました」
 清原は、丁寧にあいさっした。心では、″しめた″と思った。
 笠原は、傲然として、軽く会釈をしながら清原を見たが、また僧侶たちと話を続けている。
 しばらくすると、清原は居ても立ってもいられなくなった。彼女は、そっと立ち上がって廊下に出ると、急ぎ足で玄関に向かった。
 玄関の外には、早くも十人近い青年部の幹部が待機していた。清原が手で招くと、彼らは玄関に入り込んだ。
 清原の案内で、十人ほどの青年たちは、どやどやと廊下を渡って、笠原のいる部屋に入った。そして、口々に、「こんばんは」と、あいさつしながら並んで座った。
 笠原は、怪訝な面持ちで一同を見回したが、脅えるふうもなく、むしろ傲然としていた。清原は、すかさず言った。
 「笠原先生、『世界之日蓮』の主幹であった先生に、青年部の幹部たちが、一度、お話を伺いたいと言っておりましたので、一同で、まいったわけです。夜分、遅くまいりましたが、よろしくお願いします」
 清原の言葉は、穏やかであった。だが、トゲがないわけではない。今さら、『世界之日蓮』という、笠原が戦時中に神本仏迹論を展開した雑誌の名をあげたことは、既に話の方向を指していた。
 だが、笠原は、若い青年たちを甘く見たにちがいない。清原の言葉に頷きながら、事もなげに言った。
 「それはそれは……。遠くから来て疲れたので、ちょっと奥で休んでいたところじゃ。まあ、ゆっくり話そう。ゆっくりしたまえ。わしも、今年は宗門の改革を大いにやろうと考えているところじゃ。お互いに、ひとつ踏んばろうじゃないか、のう」
 笠原も好々爺然と話しだしたが、その言葉には、やはりトゲがあった。
 今もって宗門の改革を口にしている。彼の戦時中の「宗門の改革」は、軍部政府を後ろ盾にして、総本山の最高責任者たちに総辞職を迫ったものであった。
 過去の事実に、彼は、なんの後悔もしていないことが、これで判然とした。七十にはまだ手が届かなかったが、既に老獪極まる老人となっていた。一身の栄達のみを追う醜い野望は、その本質にいささかの変化もなかった。
 清原は、まず関久男を紹介した。
 「こちらが、青年部長の関さんです」
 関は、一礼すると、いきなり切りだした。
 「関です。笠原さん、あなたの神本仏迹論は、いったい、当宗の教義ですか?」
 「そういうことはある。今でも、そういうことは、あるのじゃ」
 笠原は、うつむきながら、あいまいに答えた。
 「今でもある」と聞いて、関は、思わず語調がとがった。
 「では、神本仏迹論は正しいというわけですか?」
 「確かに、そういうことはあるのじゃ」
 「では、お聞きしますが、日蓮大聖人の教義のなかに、確かにあるんですか!
 ……あるんですね! 神本仏迹論は正しいんですね!」
 関に念を押されて、笠原は、早くも怒気を顔に表して、傲然と言い放った。
 「君たちは、何しに来たのじゃ! 教えを聞きに来たんじゃないのか?
 ……人に教えを請うなら、それらしい態度というものがあるはずじゃ。今の態度は、なんじゃ。わしを詰問する気か! 君らは、教えを聞く振りをして、法論をしかける気か!
 ……法論なら法論で結構じゃが、それなら、あらためて来たらいいじゃないか。わしは、今、君らと話したくない」
 関青年部長の鋭い追及に、笠原慈行は、戸惑いを隠せなかった。笠原は、同座の僧侶を振り返った。そして、寂しい歪んだ苦笑を、口の辺りに漂わせた。
 室内は、緊迫した空気に一変し、一瞬、しんと静まり返ってしまった。
 関は、頬を紅潮させ、沈黙を破った。
 「初めから法論などと言ったら、きっと逃げ出していたでしょう。神本仏迹論についての法論だと言ったら、なんのかんのとごまかして、とても会ってはくださらないということは、わかっていたんです」
 「なに! わしが逃げ出すって。この通り、逃げも隠れもしないじゃないか」
 傲慢な笠原は、自尊心を傷つけられ、躍起となった。
21  関は、すかさず言った。
 「では、お聞きしますが、神本仏迹論は、いったい何を根拠としているんですか!」
 「『御義口伝』の、なかに、ちゃんとある。君らは神力品を読んだことがあるか」
 笠原は、例の調子で、青年たちを煙に巻くつもりだったのであろう。おのずから挑戦的な態度になってきた。
 関は、それを受けて立った。
 「『御義口伝』にあるというなら、どこにあるか、はっきり示してごらんなさい」
 「神力品の神力がそうじゃ。相伝のなかにもある」
 「何をおっしゃるんですか! 子どもだましのようなことを言わないでください。神力品の神力が、どうして神本仏迹なんですか。冗談じゃありません」
 「神力品を、よく読めばわかる」
 「ですから、神力品のどこにあるかというんです。根拠を出してごらんなさい」
 「では教えよう。『御義口伝』の神力品八箇のお大事のなかに、こうある。『所詮しょせん妙法蓮華経の五字は神と力となり』――神と力とは、妙法の五字となるのじゃ」
 笠原は、やや得意然として、一同を見渡した。
 関は、吐き出すように言った。
 「とんでもない。今のは、単なる切り文ではありませんか。その続きはなんとあるか、知らないわけはないでしょう。その続きは、こうなっています。『神力とは上の寿量品の時の如来秘密神通之力の文と同じきなり』――仏の力の不可思議さを、神力といっているんですよ。
 ちゃんとこうあります。『諸仏の神力は、是の如く無量無辺、不可思議なり』(法華経五七一ページ)――ちゃんと『諸仏の……』とある。それがどうして、神力という名称から神の力になり、神本仏迹になるんですか」
 「………………」
 笠原は、ちょっと意外な顔をして、黙ってしまった。はや、屁理屈では、青年たちを煙に巻くことは、不可能と悟らざるを得なかった。
 彼は、青年たちを見下していたのである。誤った考えにとらわれた頑迷な心と、邪義を決して許さぬ純粋な精神との鋭い対決が、いよいよ鮮明となっていった。権威をもてあそぶ、年老いた悪僧の化けの皮は、たちまち、はがれ始めたのである。
 笠原慈行は、関青年部長に御書の文証を求められて、いささか狼狽したようである。そして、とっさに思いついたのが、「御義口伝」の「神力」に関する文であった。
 「御義口伝」といえば、宗門の奥義の書である。
 おそらく、この文を出せば、学会青年の追及を容易にかわせると思ったにちがいない。そこに、彼の仏法に対する不遜な姿勢があったといえる。
 しかし、彼の得意然とした態度は、ほんのしばらくも続かなかった。学会青年部の教学の力は、既に彼の想像の範囲をはるかに超えていたのである。
22  笠原は、次第に押され気味となった。そして、関の理路整然とした追及に、何一つ答える言葉が見つからなかった。
 関は、矢継ぎ早に尋ねた。
 「どうして久遠元初の御本仏が迹で、神が本なんですか。笠原さん、さあ、答えてもらいましょう」
 「神と力とが、妙法の五字になるのじゃ」
 笠原は、同じことを頑として繰り返すだけであった。それが精いっぱいの、彼の抵抗だったようである。
 関は、思わず語気に力が入った。
 「御本仏が迹で、神が本だなどと、いったい仏法のどこにあるのですか。神本仏迹は、本末転倒の大変な過ちです。笠原さん、率直に非を認めて、御本尊に謝りなさい。それが、仏弟子としての、堂々たる態度です」
 「君らには、とうてい、わからぬことかもしれん。
 仏法は、要するに悟りじゃないか。人それぞれに悟りがあって、どうしていけないんだ」
 人それぞれに悟りがある――それは、よく逃げ口上に使われる、巧妙な論法である。
 「人それぞれの悟り」ということを理由に、ここまで法を曲げるならば、それは仏法ではない。仏法の悟りとは、まず法に基づかなくてはならぬ。
 関は、すかさず彼の欺瞞を突いていった。
 「あなたのその悟りが、問題なんです。いいかげんなことを、言わないでいただきたい!」
 「わしは、正直に言ったまでだ」
 「神本仏迹は正しいのか、間違っているのか、それを、正直に言ってもらいましょう」
 「そういうことはあるのじゃ。今でもあるのじゃ」
 話は、また振り出しに戻ってしまった。
 この席に、山本伸一も、青年部の一人として加わっていた。彼は、これでは、埒が明かないと判断すると、部屋を出て理境坊に向かい、戸田に、逐一、中間報告をした。
 戸田は、話を聞きながら、眉をしかめて悲しい顔になった。そして、聞き終わると、すっくと立ち上がった。
 「よし、わかった。行こう」
 寂日坊の庫裏では、同じ問答が繰り返されていた。空気は、ますます険悪になっていた。僧侶という権威にしがみついた老人の心は、自らの非を頑なに否認して、いたずらに感情的になってしまっていた。
 平常、穏和な男子部長の山際洋でさえ、忍耐の限度に達した模様である。珍しく言葉を荒げて、言い放った。
 「これでは、笠原さん、話になりませんよ。神本仏迹なんて、なんの根拠もないではありませんか。あなたも、これ以上、我を張らないで、良心があるなら、牧口先生に謝りなさい。牧口先生は、あなたのせいで、牢獄で亡くなったんだ。御本尊様と牧口先生に、素直に謝ったらどうですか?」
 笠原は、興奮しきっていた。こめかみに青い筋を立てて、わめくように言った。
 「どうなりと、勝手にしたらどうだ!」
23  大阪の婦人は、いつか逃げ出してしまって、姿はない。三人の僧侶は、なお同座していたが、仲裁の労も甲斐なしとみたのか、呆然と、ただ見守っている。
 ふてくされた笠原の言葉に、おとなしい山際が、皆に向かって叫んだ。
 「法衣は、僧侶にとって、最も大切なものだ。法衣を脱いでいただいて、牧口先生のところへ、一緒に行っていただこう」
 四人の青年が、さっと部屋に入ってきたと思うと、一瞬のうちに笠原を担ぎ上げていた。あまりにも素早い行動に、笠原も面食らったらしい。
 笠原は、もがきながら叫んだ。
 しかし、彼は、いかんともしがたく、青年たちのなすがままになっていった。
 皆は、笠原を軽々と肩に担ぎ上げて、部屋を出て行とうとした。この時、戸田城聖が姿を見せたのである。思いがけないことであった。
 「待て!」
 彼は、手を軽く上げて青年たちを制しながら、落ち着きはらった身のこなしで、とげとげしい空気の漂っている部屋の中に乗り込んだ。
 「騒ぐことはない。元へ戻しなさい」
 立ち往生していた四人の青年は、すぐさま笠原を畳の上に下ろした。笠原は、キョロキョロと、辺りを見回している。
 戸田は、部屋の一隅に端座し、笠原に鋭い眼差しを送りながら、沈痛な語調で、刺すように言った。
 「笠原さん、あなたの神本仏迹論を、潔く謝罪しなさい。私に謝れとは言わん。御本尊様にお詫び申し上げるのです。そして、今は亡き牧口先生に謝るのです。……わかりますか?」
 戸田の、肺腑をえぐるような説得を聞いても、笠原は、いたずらに興奮するばかりだった。あぐらをかき、口の端に唾をためて、戸田に向かって、うそぶいた。
 「お前らは、いったい何をするんじゃ?……話なら話を聞くようにしたらよかろう。それを、大勢で押しかけて来て……まったく、何をするんじゃ?……まったく、こんな大勢で……」
 笠原慈行は、言葉にならぬ言葉で、わめき続けた。毅然とした戸田の態度に、気圧されたのであろうか。今は、ただヒステリックにわめく以外に、この場を逃れる術を知らなかったのかもしれない。
 戸田は、そんな笠原を、厳然と制しながら言った。
 「静まりなさい。わめくことは、ありません。神本仏迹論の誤りを認めればいいんです」
 「わしの信念だ。わしの信念を、謝る必要はない!」
 「では、今も神本仏迹論は正しいと考えておるのですか」
 「正しい、正しくないではない。今も、そういうことはあるのじゃ、と言っておるのじゃ」
 笠原は、筋の通らぬ理屈をこねて、微塵も謝罪の気色はなかった
 僧侶という「位」の見栄にしがみついている笠原を、戸田は見て取った。
 僧籍を剥奪されているはずの笠原の、最後の見栄である。見栄が、いたずらに啖呵を切っているだけだ――戸田は、そう気がつくと、笠原が哀れに思えてきた。
 彼は、今、戦時中に恩師・牧口常三郎を獄死させ、彼自身の二年間の獄中生活の近因をなした笠原に対して、なんの憎しみも感じているわけではなかった。
 戸田にとって過去は、今さら問題ではなかった。目前の笠原の惨めな姿を見て、今もなお、神本仏迹論などという妄論に固執する、頑迷なその心に、むしろ哀れさを感じるばかりであった。
 仏法は、あくまで道理を重んじる。法の正邪は、僧俗の違いや位階等の立場とは無関係に、対等に、納得がいくまで論議されるべきものだ。形式に流され、真剣な対話を忘れたところに、真の建設も、前進もないからである。
 考えてみると、僧籍こそ剥奪されているが、笠原もまた、日蓮大聖人の弟子であることに変わりはない。その同じ立場に立って、心を打ち明けて話し合えば、誤りを誤りとして、必ず認めさせることができるはずだ。
 それには、まず、笠原の虚栄を支えているものを取り除けば、少しは気持ちも変わるにちがいない。結局、仮構の見栄が災いしているのであろう――戸田は、互いに信徒として話し合う必要を感じていた。
24  「僧籍はないんですから、法衣を脱いでもいいんじゃないですか」
 それを聞くと笠原は、なおもわけのわからぬことを口走って、極度の興奮状態に陥ってしまった。
 「法衣など、勝手に脱ぐわ!」
 笠原は、そう言い放つと、いきなり、やけになったように、法衣を荒々しく脱ぎ始めた。そればかりではない。何を思ったのか、法衣の下の着物まで脱いでしまったのである。周りの人びとが、止めるいとまもなく、笠原は、シャツと股引き姿の、貧相な格好になっていた。
 「さあ、なんとでも好き勝手にしろ!」
 笠原は、ふてくされて、まだ、わめきちらしている。
 側にいた清原かつは、両手で笠原が大事そうに押さえている懐中物が、気にかかった。お守り御本尊と察して、粗末のないようにと思ったのであろう。
 「それは、お預かりしましょうか? お渡しください。ご僧侶に保管していただきますから」
 清原は、こう言って手を伸ばしたが、笠原は、しっかりと握り締めたまま、渡そうともしない。
 見かねた青年の一人が、手を出しかけた。笠原は、その手をさっと払いのけた。なかなかの剛力である。
 手をあけた隙に、大事な懐中物が姿を現した。人びとの視線は、一瞬、それに集まる。それはお守り御本尊ではなく、大きな黒いガマ口と、包みであった。緊迫した部屋の中に、失笑が起こった。
 「いやはや、あきれた人だ!」
 部屋の一隅から、つぶやきが聞こえた。
 残った三人の僧侶に向かって、関久男が静かに言った。
 「非常に大事な物のようですから、それを、お三方で保管願ったら、いかがでしょうか? お預かり願えますか?」
 僧侶たちは、無言で頷いた。
 青年部の一人が笠原の側に行くと、笠原は、あきらめたように、首からガマ口の紐を自ら外して渡した。それを青年は、僧侶の手に渡した。僧侶たちは、かすかに笑いながら立ち上がった。ちょうど席を外す潮時と思ったのであろう。
 戸田は、この時、三人の僧侶に向かって言った。
 「お待ちください。お三方とも、この場の証人として、ぜひ残っていただきたいんです。後日のこともありますし、真相が誤り伝えられではなりません。われわれの行動は、総本山を厳護申し上げるためであります。そのほかに、なんの他意もありません。笠原個人を責めているのではないんです。彼のいだく神本仏迹論の誤り、それによって多くの正信の人びとを苦しめた、その罪を責めているんです。お三人の証人の前で、堂々と是非善悪を明らかにしておきたいんです」
 戸田は、あくまでも沈着に、極度の混乱のなかにあっても、用意周到であった。いきり立つ青年たちを抑え、居合わせた三人の僧侶たちを証人として、いよいよ最後の対決に入ったのである。
 「笠原さん、なんとか答えたら、どうですか」
 戸田の語調は、静かだが厳しい。
 「お前らに答える必要はない! さあ、なんとでもしろ! 勝手にすればいいじゃないか!」
 笠原は、もはや無頼の徒のようなありさまになっていた。そして、畳の上で、わけのわからぬことを、わめき続けている。かつて、権力を背景に横暴を極めた当時の、自信に満ちた姿は、見るべくもなかった。かつての、権力によって自らを飾った粉飾は剥げて、今は醜い姿をさらしていた。
25  一人の青年が、憤慨したような口調で言った。
 「まったく、あきれた人だ。あなたは、なぜ、事実を認めようとしないのですか。まるで、狸坊主ではないか!」
 そして、青年は、背広の内ポケットから、古い新聞の紙片を取り出して、断片的に読み始めた。
 それは、昭和一七年(一九四二年)八月十二日付の記事である。見出しは、大きな活字で、こう出ていた。
 「神本仏迹か仏本神迹かの 教義信条問題を公開せん」
 「日蓮正宗の維新断行に 護国憂宗の士ら遂に起つ」
 笠原の策謀が、このような記事として取り上げられたのだ。その記事のなかには、笠原が、日蓮正宗の住職、教師、壇信徒に向けて飛ばした、檄も掲載されていた。
 「前略、去る七月五日付、野本宗務総監の名を以て振興事業募財の件、其筋の注意により停止する旨、住職、教師に宛て通達有之候、
 是れ実に由々敷問題にして一片の通達を以て消解にあらず、蓋し宗務当局は此の時局の重大性を認識せず、五年有余に渉る戦時に於て何等報国の方途を講ぜず、唯宗門独善事業を企て、さきに不用の富士学林を建築し今又法外の中学校建築に全力を注ぎ搾取訣求至らざるなし、其筋の中止命令や実に当然にして、寧ろ遅かりしを遺憾とす、宗門の不面目是に過ぎたるはなし、
 然に風聞によれば彼等は陽に中止の通達を出し、陰に信徒を督促して寄附徴集に狂奔しつつある由、斯くては宗門弥々壊滅に導く行為にして断じて許すべきにあらず、吾人つとに此を憂い忠言警告すと雖も敢えて用いず事遂に茲所ここに至る、
 宗局は、直に引責辞職以て罪を国家に謝すべし、是を管長に上申せり、而も何等の返報在し、茲に於て吾人敢えて護国憂宗の諸氏にうったえ宗門更生の大途を講ぜんとす、委曲後便に尽す」
 この驚くべき檄文のほかに、妙光寺檀徒総代による建白書まで、公開されて載っている。いずれも、宗務役員の総辞職を迫ったものであった。
 笠原の「宗門更生の大途」とは、日蓮正宗を掌中に収めることにほかならない。その悪意の企図が、もっともらしい大義名分の言辞で飾られていたのである。彼は、自己の醜い野望をカモフラージュして、あたかも正義であるかのような錯覚を起こさせるために、このような悪知恵を働かせたにちがいない。
 「報国の方途」「罪を国家に謝すべし」「護国憂宗」等の言葉に、彼が、どれほど権力に取り入ろうとしていたかがうかがわれる。そして、さらに、仏法を権力に屈服せしめようと、必死に画策したのだ。
 戸田城聖は、戦後、機会あるごとに、側近の幹部にだけ語っていた。
 ――それは、戦時中の笠原の、好智にたけた悪辣な策謀についてである。彼は、時の政府の宗教統制策を利用し、宗門の独立を危殆に瀕せしめようとしたのだ。
 それに対し、宗門の中枢は、正宗を護るために苦心を払ったが、結局は、その余波のすべてを、創価学会が犠牲となって被ったのである。戦時中の学会弾圧の直接的な原因は、笠原という「師子身中の虫」にあった。笠原によって、牧口初代会長の牢死にまで発展したのである。
 その詳細を、戸田は語っていたのだ。
26  折も折、一九五二年(昭和二十七年)三月のある夜、七百年祭登山の打ち合わせが、青年部の幹部によって催された。
 その時、森川一正が、笠原の策謀になる「中外日報」の十年前の記事を、ある学会員の先輩のところから入手して、持参したのである。
 七百年祭を前にして、かっての笠原の活動が、いあかに悪辣であったかを、この記事は決定的に証拠づけられていたといってよい。笠原を宣揚する記事が、はからずも笠原の罪状を、そのまま語ってしまっている。
 戸田は、この新聞の切り抜きを手にすると、メガネを額の上にずらし、顔を紙面にすりつけるようにして読んでいった。
 彼の口は、固く結ばれている。そして、食いつくような目を紙面から離すと、沈痛な声で言った。
 「よく手に入れたものだ。笠原の恐るべきデマゴーグの見本です。これは、ほんの表面に現れた彼の策謀だが、これだけでも大変な罪悪であろう。君らには、ここに書かれていることが何を意味するか、よくのみ込めないと思うから、少し説明してあげよう」
 戸田は、当時を思い出すように語り始めた。
 「この振興局の募財の件は、わざとする誇大宣伝にすぎない。当時、国家総動員法という厄介な法律があって、なんでもかんでも、それに結びつけて、法律的な威圧を加えていたんです。
 妙光寺檀徒総代の建白書も、笠原一派の手になるもので、神本仏迹論を正当化するために、神道絶対を利用したものにすぎない。しかも、不敬罪を種に、時の管長に迫り、前後五回も教義信条の文書を取り交わしたというが、もし、それが本当なら、実に重大な事件です。
 笠原慈行の檄文は、総本山への脅迫書なんです。宗務役員に総辞職を迫ったのは、一宗乗っ取りの意図露骨なもので、国法をもって仏法を売らんとする大逆というべきであろうと思う。まことに、なんとも言いようのない、驚いたことです。
 笠原は、戦時中、神本仏迹論を振りかざして、軍部政府に娼びへつらい、軍人たちと組んで、『水魚会』という団体をつくり、それを利用して、猊下を、さんざん悩ませた。
 そんな彼が、また昨今、蠢動し始めてきた。また宗門内で、何かやろうとしているらしい。今度の記念祭には、おそらく登山して来ると考えられる。
 諸君が、もし彼と出会ったならば、令法久住のため、徹底的に神本仏迹論を糾明する必要がある」
 戸田の、諄々と説く言葉の底には、激しい怒りが感じられた。
 青年たちは、戸田の話を聞いてから、その後の幾度かの打ち合わせのたびに、決まって最後は、笠原慈行と、どのように対決するか――その手筈をめぐって、活発な議論を戦わせていくのであった。
 要するに、法論の末、笠原から神本仏迹論についての謝罪状を取りたい――そこまで運ばねばならぬ。
 そして、今後、同じことが生じた場合、その謝罪状を突きつけて、そうした動きを封ずべきである――ということに、青年たちの意見は次第に固まっていったのである。
 やがて、青年部幹部は、彼らの決意を戸田に具申した。戸田は、青年たちの血気を戒めて言った。
 「最近、笠原が東京に出て来るという噂も聞いている。北海道や九州での行動は、もはや周知の事実だし、これらを総合判断してみると、彼が神本仏迹論を捨てたとは、どうしても思えない。
 もし、彼が、戦時中の大謗法を心から悔い改めたとするならば、当然、一生涯、謹慎して、唱題三昧の日を送っているべきです。彼には、その悔悟の姿が少しも見られない。
 諸君が謝罪状を取ることは許すが、ただ血気にはやっての行動であっては、断じてなりません。
 学会精神は、あくまでも謗法は断じて許さないということにあるんです。また、信心なくして、法衣の威光で横暴を働く者には、決して屈してはならない、ということです。その横暴な心こそ敵であって、それを打ち破ればいいんです。
 このことを常に念頭に置いて、絶対に行動を誤ってはなりません。……いいかな?」
 「はい!」
 青年部幹部は、口々に決意を込めて返事をした。
 戸田は、にっこり笑いながら言った。
 「笠原も、なかなか、しぶとい男だぞ。断行する決心をした以上は、大胆に、そして細心に、堂々とやりなさい。不慮のことも、考えておかなくてはなりません」
 青年部の最高幹部は、緻密な計画を立て始めた。その計画によれば、青年部長を中心に、数人が笠原と会って、神本仏迹について法論を徹底的に行い、謝罪状を書かせて決着をつけようというのである。
27  そう決定したものの、戸田の言う「しぶとい男」ということが気にかかった。もしも笠原が、言を左右にして最後まで謝罪を拒んだ時は、平行線をたどってしまうことになる。
 その場合は、どうするか――という疑問が出てきた。
 「その時は、その時さ。その場で、臨機応変に処していけばいいじゃないか」
 一人の幹部は、そう答えたものの、それ以上、誰にも名案が浮かんでこない。その時は、そのまま解散してしまったが、次の会合で、この問題に、また引っかかった。
 「その時、どう臨機応変にやるのだ?」
 誰も答える者がいない。
 笠原を法論で追い詰めたとしても、もし、頑固に謝罪を拒絶し、平行線をたどってしまった時は、どうするか。どうやって、最後の決着をつけるか――青年部幹部は、それぞれ真剣に考えた。考えあぐんだころ、一人がポツンと言った。
 「ぼくらに謝ろうとしないのは、わかる。だが、御宝蔵の前に行ってもらって、大御本尊様に対してなら、いくらなんでも謝るのではないだろうか」
 「それは名案だ!」
 誰かが叫んだ。
 「しかし、御宝蔵の前で騒ぎを起こすというのは、どうだろうか? 畏れ多いことではないか」
 「それも、そうだ」
 「うーん、まずいね」
 「まずいな」
 青年たちは、ここでまた沈黙してしまった。
 しばらくして別の一人が、こんな案はどうだろうかと提案した。
 「牧口先生のお墓の前へ連れて行こうよ。笠原も、少しは良心があるだろうから、牧口先生の墓前でなら、きっと正気になってくれるだろう。彼が、先生を牢死させてしまったんだもの、良心の阿責から、そこでなら、きっと謝罪する気になると思う」
 「なるほど、それはいい!……そういうことに、しようじゃないか」
 青年たちは、第二段の計画を立てていった。だが、墓前に連れて行くとなると、騒ぎは総本山全体に波及する恐れもある。それは、よくない。皆に迷惑をかけてはいけない。そのためには、よくよく計画を練って、事を慎重に運ぶ必要がある。
 彼らは、この計画については、戸田会長に許しを願っても、とうてい許されそうもないことは、わかっていた。戸田は、あくまで仏法の教義のうえから、正々堂々と論争を展開するよう、かんで含めるように教えていたからである。それが、学会精神である――と。
 だから、今、青年たちが考えていることは、法論の末、勝敗が明白になっても、なおかつ笠原が我を張って譲らなかった時に、どうするかということで、それは、万が一の場合であった。
 それにしても、戸田の気性からは、この計画に対する承諾は、まず、得られないと見なければならない。彼らは覚悟した。
 「事後承諾ということにしようじゃないか。それ以外にないよ」
 こう決着し、覚悟を決めると、後は名案が次から次へと浮かんできた。彼らは意気軒昂となり、七百年祭を一週間後にして、笠原の神本仏迹論を糾弾するプラカードの作成など、万端の手筈を整えたのである。
 だが、それが、まさか本当になろうとは、誰一人、考える者はいなかった。彼らは若かったのである。この世の波を巧みに泳いできた老獪な人間の心が、どれほど不遜で醜いかということには、思いも及ばなかった。青年たちは、正義の法論で必ず決着がつくものと、心底から思い込んでいたのである。
28  寂日房で、戸田城聖は、「中外日報」の記事が読み上げられる合間合間に、数回、笠原に詰問した。
 だが、笠原は、畳の上に寝転がって、答えようともしない。そして、時たま手足を動かして、畳を打った。老醜の無残な姿が、そこにあった。
 「わしは狸じゃ。……いいように、勝手にせい」
 卑屈な言葉を、一人うめくように放つ、ばかりである。傲慢と卑屈とが同居したような、醜い心をのぞかせていた。
 戸田は、最後に断を下すように、笠原に向かって言った。
 「最後に一言する。事ここに至って、なおかつ神本仏迹論を、あくまで主張するなら、もはやこれ以上の論議は無用です。
 私は、君の思想の自由をどうするつもりもないが、神本仏迹は大聖人様の教えに反した思想であることに変わりはない。それを指摘しておくだけです。
 したがって、仏法の厳しさだけは忘れてもらいたくない。神本仏迹論が誤っていたと気づくなら、今が謝罪する機会だと、私は思う。
 笠原さん。心から御本尊様に、お詫び申し上げなさい。これが最後の機会ですぞ」
 戸田は、厳しい表情を崩さなかったが、そこには、なおも相手を謗法から救おうとする、厳愛の温かささえ感じられた。いかなる極悪非道の人であっても、目覚めさせ、蘇生させていく――それが、戸田の精神であった。
 笠原は、相変わらず押し黙っていたが、この時、いきなり足を、ぐんと伸ばして、戸田の膝を、したたか蹴りつけたのである。
 それを見た数人の青年は、大声で叫んだ。
 「何をするんだ! やめなさい!」
 そして、笠原に、つかみかからんばかりの姿勢になっていた。
 途端に、戸田の叱声が響き渡った。
 「よせ! 絶対に傷をつけてはならん! こんな男は、殴るにも値しない。放っておきなさい」
 戸田は、立ち上がって言った。
 「私は帰る!」
 笠原は、絞滑な目を開けて、戸田の姿を見上げながら、罵声を投げつけた。
 「勝手にしやがれ! 貴様なんかに用はないわ!」
 戸田は、立ったまま、笠原を見下ろして、厳しい表情で言った。
 「なんという情けない男だろう。……それほどまでに強情を張るなら、後のことは、私は関知できない。青年部がどうしようと、私の手には負えなくなる。もう一度だけ、はっきり言おう。今のうちに、御本尊様に謝りなさい」
 笠原は、無言のまま、冷笑さえ浮かべている。そして、またも立っている戸田の足を、蹴ったのである。
 「貴様、なんかに用はない!」
 年老いた、か細い足には、さほどの力はない。ただ、正しい判断を失った狂乱の形相が、そこにあった。
 「私は帰る!」
 戸田は、部屋を出ていった。
 関青年部長が、その後を追って廊下に出た。戸田は、玄関に向かいながら、関を振り返って、念を押すように言った。
 「関君。笠原に、絶対に傷をつけてはならん。青年たちに、よく指示して、決して過ちを起こさないようにしなさい」
 戸田は、寂日坊を出ると、理境坊の指揮本部に帰っていった。
 笠原は、これで青年たちの掌中に落ちてしまったわけである。万一の場合を想定した、青年部の「臨機応変」の処置は、心ならずも実現する運びとなってしまった。
 先ほど笠原を担ぎかけて、戸田に制止された青年たちが、またも彼を担ぎ上げた。ちょうど運動会などの騎馬戦のように、組み合わせた肩の上に笠原を乗せた。
 笠原を青年が、笠原に言った。
 「狸などとうそぶいていないで、恥を知りなさい!」
 「狸で何が悪い!」
 笠原は、傲然と言い放った。
 怒りを抑えきれず、青年が叫んだ・
 「では、狸祭りをやろう!」
29  青年たちは、騎馬の上に笠原を乗せ、寂日坊を出て参道を下り、三門に最も近い坊のところまで行った。そして、メガホンを口に当てて、大声で叫んだ。
 「神本仏迹論の張本人、笠原慈行! 宗門に巣くう師子身中の虫、牧口先生を殺した笠原慈行! 牧口先生を殺した悪坊主!」
 青年たちは、叫ばずにはいられなかったのだ。
 折しも、慶祝の花火が、夜空にポンポンと打ち上げられ、暗闇の空を美しく彩っていた。
 青年たちの肩に担ぎ上げられた笠原は、その花火を見て、せせら笑いながら、傲然として言った。
 「たいそうな『狸祭り』じゃのう」
 花火は、そのまばゆいばかりの光を放って、瞬間、人びとのさまざまな表情を浮かび上がらせつつ、散っていった。
 その同じ時刻、参道を上りきったところにある御影堂では、法主の日昇が出席し、多くの僧侶・檀徒が参集して、慶祝大講演会が開催されていた。
 青年たちは、担ぎ上げた笠原を中心に、プラカードを持って先頭に立つ者、前後左右を警護する者と、おのおのその部署について、整然と参道を上り、牧口初代会長の墓に向かって進んで行った。外部の者が邪魔をしないように、また突発の事故を起こさないように、との配慮から組んだ隊列である。
 「道を開けてください……」
 「立ち止まらないように願います」
 観行坊の前辺りに来た時、泉田筆頭理事が体を弾ませるようにして、列の前に現れた。
 「先生の厳命だ。絶対に、私の指示に従うようにしてほしい。
 笠原を、絶対に傷つけてはならん。しっかり担いで、落とさないように。……いいか。皆、聞こえたか?」
 泉田の声には、威勢があった。
 「はい! わかっています」
 数人の声が、闇のなかにあがった。
 戸田は、「責任は負わん」と言って、理境坊に帰ったものの、次々ともたらされる報告を聞きながら、青年たちの行動に不安を覚えたのであろう。彼は、泉田に向かって厳命したのである。
 「泉田君。君が行って、一切の指揮を執ってくれ。間違いを起こさないように。笠原には、絶対に傷をつけてはならん。いいか! 頼むぞ」
 泉田は、指揮本部を飛び出すと、暗い参道を一気に駆け通し、息を弾ませて青年たちの隊列に飛び込んだのである。
 「よし、わかった。諸君が、牧口先生の墓前に行くというなら、私が先頭に立とう!」
 青年たちの計画を初めて聞いて、その決意が、もはや動かしがたいと知ると、泉田は、せめて不慮の事故を防ぐためには、自らこれを賢明にリードする以外に方法はないと悟った。
 彼は、日ごろから、「賢明な指導者は、常に民衆の心が何を願い、何をめざしているかを察知せねばならぬ」と戸田に教えられていた。特に、青年の心を無視し、彼らの意志を否定する時、そこに不信と断絶の深淵が生まれる。泉田は、この時、青年たちの純な心を抑えつけることは不可能であると知った。
 泉田と、その隊列は、宿坊が続く長い参道の緩やかな上り坂を通って、御影堂の石段の下に出た。
 当時、宗門の大きな行事があると、宿坊が切れる朝日門の辺りから御影堂への参道の両側の石垣に沿って、幾つもの夜店が立ち並んでいた。近在の露天商の人たちでもあったろう。プラカードを掲げ、老人を担いで通り過ぎていく奇妙な青年の隊列に、怪訝な面持ちで、首を伸ばして見つめている。
 御影堂への石段を上ると、堂の前の広場には、篝火が赤々と夜空を照らしていた。
 御影堂の横を通って、裏側にある墓地への道に出ると、もう真っ暗闇である。青年たちは、でこぼこ道につまずきながらも、意気軒昂に、笠原を、牧口の墓前にまで運んでいった。
 墓前を懐中電灯で照らすと、既に三枚の筵がきちんと敷かれている。
 「さぁ、ゆっくりと、気をつけて下ろしなさい」
 泉田の声に、四人の青年は、静かに笠原を筵の上に下ろした。
 牧口の墓に向かって、ちょうど対座した格好の笠原に、泉田は、その肩に手を置いて言った。
 「笠原さん。まだ神本仏迹が正しいと、強情を張るつもりですか? 牧口先生は、あなたに殺されたんですよ。もう一度、素直な気持ちになって、反省できませんか! あなたが、一言、謝っていれば、こんな騒ぎにはならなかったんです」
 それは、どこまでも人間の根底の心を信じていた、戸田の配慮でもあったろう。牧口を死に追いやった笠原であったが、自ら非を認めて、詫びれば許すつもりだった。
 笠原は、足を投げ出したまま、相変わらず無言である。
 「牧口先生の墓前です。さあ、謙虚な気持ちで、静かに自分のしたことを考えてごらんなさい」
 泉田に、こう言われて、笠原は何を思ったのか、にわかに居ずまいを正し、端座したのである。
30  この時、墓地の入り口の辺りから、闇に怒声が聞こえてきた。
 「青年部、五、六人、来てください!」
 叫んでいるのは、警備にあたっていた青年たちである。
 数人の青年が駆けつけてみると、近村の消防団の男たちが、五、六人、押しかけて来たらしい。警備の青年たちと、激しい問答を交わしていた。
 「乱暴するな!」
 「乱暴は、決してしてはいない。話し合っているだけだ」
 「一人を大勢でつかまえて、どうする気だ!」
 「宗門のために、これまで大変な悪いことをしてきたので、その決着をつけるため、今、法論をしていたところだ。心配するな」
 「いつまで、やっているんだ!」
 「もうすぐ終わる。……関係のない人は引き取ってください」
 「危害を加えるつもりではないのか!」
 「絶対に危害は加えない。安心してほしい。……ここは、穏やかに引き取ってくれたまえ。余計なことをして、これ以上、騒ぎを大きくしたくないのだ」
 近村の青年たちは、それでも何かつぶやいていたが、ともかく、ひとまずは了解したらしく、その場は引き揚げていった。
 墓前では、泉田が笠原に、何回も念を押していた。
 「笠原さん。御本尊様は迹ですか。……御本尊様は迹ですか! 神本仏迹論は正しいんですか!」
 さすがの笠原も、ここに至って正気に返ったのか、牧口の墓石を見ながら、つぶやくように言ったのである。
 「正しくはないよ」
 泉田は、手に持っていた数珠を、笠原の目の前に差し出した。
 笠原は、その数珠を取ると、手を合わせて揉んだ。そして、かなり高い声で、遂に詫びたのである。
 「私の神本仏迹論は、誤りでありました。……南無妙法蓮華経……」
 唱題は三度、繰り返された。
 青年の一人は、この時のために用意してきた筆と、墨と、和紙とを取り出して、笠原の前に置いた。
 「後日のために、謝罪状を、一筆、書いておいたらどうでしょう?」
 彼は、こう言うと、墨汁につけた筆を笠原の前に出した。
 笠原は、それを、さっと取ると、筆を手に持った。
 「謝罪状」
 第一行に、まずこう書くと、少し考えているようであったが、すぐ、また筆を走らせ始めた。
 「私の神本仏迹は妄説である……」
 この時、周囲が、にわかに騒々しくなってきた。墓地の周辺の闇のなかに、怒号が押し寄せてきたのである。しかも、先ほどより、はるかに大きいようだ。
 墓地の入り口を警護していた青年部を押しのけて、上野村の消防団員が、どやどやと踏み込んで来た。青年部は、それを途中で押しとどめようと、何人かが駆けつけていった。
 しかし、消防団員たちは、墓地の地形に明るかったようだ。何人かは、早くも裏手の方に回り、牧口の墓所のすぐ近くにまで迫っていた。学会の青年も、裏手に回った。そして、侵入を防ぐためにスクラムを組んだが、いささか押され気味で、墓所のすぐ側で対峙する形になった。
 笠原は、その間も筆を走らせていた。
 「……日蓮大聖人様の清浄なる法門を汚しました事は、誠に以て外道の極み、日蓮正宗内の獅子身虫なりし事を深く御詫び申し上げると共に、今後の言動を慎みます。
    昭和二十七年四月二十七日
                 笠原慈行
  日蓮大聖人様
 これで学会青年部は、やっと目的を遂行することができたのである。
 墓の周囲は、まだ騒ぎが収まらない。だが、提灯や懐中電灯の明かりで、どうやら人びとの輪郭はわかる。
 消防団の服を着た、中心者とおぼしき男が、前に出てきて叫んだ。
 「その坊さんを殺す気か!」
 「絶対、そんなことをするのではない。謝罪をしているところだ。もうすんだ」
 「では、早く釈放しろ」
 「消防団が、先に引き取っていただこう」
 「グズグズ言うな。坊さんをとちらへ渡せ」
 消防団と学会青年との聞に、激しいやりとりが始まった。
 この時、泉田筆頭理事が、懸命に叫んだのである。
 「学会側は黙れ! 学会側、黙れ!」
 泉田の命令は、騒音のなかを次々と伝達されていった。
 「消防団は、団長の命令に従ってもらいましょう。学会側は私の指揮に従う。
 さあ、学会側は静まった。団長、あなたの方も静めてください」
 水際だった処置である。まさに時を得た適切な勇断には、千鈎の重みがあった。
 「団長」と名指しされて、彼は、泉田の側に進み出ると、クルリと向きを変え、消防団の人びとに向かって手をあげながら、静まるように指示した。
 物音ひとつしない静寂が、闇のなかに不意に訪れた。荒っぽい息づかいだけが、この場の様相を伝えていた。
 泉田と団長は、この時、初めて顔を見合わせて、「あっ」と驚いた。提灯の明かりのなかで、互いの顔が同時にわかったのである。団長は、泉田の義弟にあたる、地元の醸造家、大野市松であった。
 二人は、″なーんだ″という顔をして向かい合った。この危急の場に直面して、まず最初に、ほっと安心したのは、二人であった。
 「私は、消防団長に、はっきり申し上げる。私は、責任者として出ろというのなら、どこへでも出ます。今、簡単に、いきさつを説明するならば、笠原慈行の戦時中から現在に至る行状が、いかに謗法の責めに値するものであるか。ここに原因があるんです」
 泉田は、早口にしゃべった。
 彼は、消防団長に向かって、笠原が、時の法主を苦しめ、牧口会長等を陥れた、そのあらましを語っていった。大野市松は、大石寺の檀家総代であったので、笠原の所業は十分に知っていた。
 反駁すべき点は一つもない。彼は、大きく頷きながら聞いていた。
 「……ですから学会は、このたび、笠原の誤りを認めさせるために、牧口先生の墓前まで運んで、ここで話し合っておりました。
 さすがに彼も、墓前で非を認め、今、謝罪状を書いたところです。悪いと認めて謝った以上、このうえ彼を責めて追及することは、絶対にしません」
 泉田は、こう言って、消防団長を見た。大野は、それを受けて発言した。
 「それならそうと、事前に連絡してくれれば、なんでもなかったのに……。消防団としては、警備の責任上、七百年祭を無事に終わらせることを願っているだけです。
 事情がわかつて、よかった。実は、どうなるかと思って来たところだ。今度、何かやる時は、われわれに事前に教えてくださいよ」
 大野の言葉は、軽い安堵感をもたらした。急転直下、険悪な空気は去った。
 「じゃあ、消防団は引き揚げよう」
 団長の声に、消防団は、全員、墓地から引き揚げていった。
 「学会側は、後片付けを、きちんとしていくように……」
 こう言って、泉田は額の汗をぬぐった。
 「笠原は、寂日坊に戻すように、森川君」
 笠原を担ぎ上げた青年たちと、それを警護する青年たちが一団となり、森川に引率されて、静かに帰っていった。
 これで、当座の緊急事態は、ひとまず無事に収まったわけである。
 笠原との対決は、「狸祭り」と呼称される事態を巻き起こし、とんだところでハプニングを呼んだが、混乱の事態は完全に避けることができたのである。
31  戸田城聖は、墓地での騒ぎが静まったとの報告を受けると、理境坊の一室で緊急理事会の開催を命じた。思いがけぬ青年部のハプニングにも、彼は強い責任を感じたからである。
 戸田は、直ちに事態収拾の手を打たなければならなかった。詳細な報告を、一人ひとりから受け、彼は、そのたびに、「よし!」と強く言いながら、皆に指示を与えていった。
 「青年たちは、総本山を厳護するために立ち上がったのだ。毫も恥じるところはない。大聖人様も、また、牧口先生も、正義を貫いたわれわれの行動を、よしとされているにちがいない。私は、その確信がある。
 しかし、この慶祝の夜に、総本山をお騒がせしたことは、なんとも申し訳ないことである。お詫びかたがた、ご報告申し上げようではないか。幹部は、それぞれ分担して、今から直ちに使者に立ちなさい」
 はや、午後十時近かった。使者の向かう先は、十カ所が指定された。法主の水谷日昇、宗務院、消防団、宗務総監の高野日深、慶祝委員長の堀米日淳、庶務部長の細井精道、教学部長の早瀬道応、寂日坊、本住坊、そして笠原慈行のもとへ、二人ないし三人の青年部の最高幹部などが派遣された。
 事件は、広い総本山のなかにも、千差万別の波紋を呼び起こしていた。
 人びとは、それぞれ顔立ちが違うように、考えも違うものだ。自分は正しいと信じたことでも、皆が、そう信じるとは限らない。社会は、一途な青年が考えるほど、甘いものではなかった。
 使者に立った幹部たちは、帰って来ると、さまざまな情報をもたらした。
 「消防団の人びとのなかには、一部、まだ興奮している気配がある」
 こんな報告もあった。
 「計画的な行動だったのではないか。それならそうと、事前に報告があってしかるべきだ。警備、治安のうえから、連絡すべきだった」
 また、ある人は、こうも言っていた。
 「宗教上の問題でなら、法論で責めるのも結構だ。しかし、相手が悪い坊主であったとしても、こんな事態を起こしたとなると、した方が、たとえ正しくとも、こんなことはしない方がよい」
 一方、僧侶たちのところへ向かった人びとの報告は、学会の誠意を納得した者が多かった。特に、戦時中、笠原の神本仏迹論に悩まされ、直接、その対応に苦慮してきた堀米は、言葉短に一言で感想を述べただけであった。
 「何も言うことなし」
 ところが、庶務部長の細井の話からは、この時、初めて意外な事実が明るみに出たのである。
 「大法会という慶祝の時に行われたことは好ましくない。笠原師からは、せめて正宗の僧侶として死にたいという念願を聞いていたので、先日、僧籍復帰を許したばかりである」
 笠原は、七百年祭を記念して、再び僧籍に復帰をしていたというのである。事実、宗門の機関誌である『大日蓮』四月号(昭和二十七年四月三十日発行)に「令第三十一号」として、笠原慈行の名を掲げ、こう記されている。
 「右者宗制第三百八拾六条及び第三百八拾七条二項に依り昭和二十七年四月附特赦復級せしめる。
 但し住職を認めその他の権利は保留する。
  昭和二十七年四月五日
        日蓮正宗管長 水谷日昇
        宗務総監   高野日深」
 そして、特赦理由として、次のように述べている。
 「右者昭和十七年九月十四日附にて擯斥処分を受けたるものであるが其の後改悛の情も認められ、尚本人も老齢のこと故、関係信徒の特別なる懇願等もあるので、情状を酌量し且つ本年は宗旨建立七百年の佳年に当り慶祝すべき時であるから、特別なる計らいを以て宗制第三百八拾六条及び第三百八拾七条に依り特赦復級せしめ住職権のみ認める。
  昭和二十七年四月五日
        日蓮正宗管長 水谷日昇」
 この『大日蓮』は四月末日の発行であったので、七百年祭当日のこの時まで、笠原復級の事実は、学会では誰一人、知ることはなかった。細井の言葉で、初めて知ったのである。
32  笠原は僧籍に復帰している――戸田は、この報告を聞いて、驚き、苦慮したが、口に出しては何も言わなかった。
 細井は、この時、続けて、学会の行動を次のように評していた、と使者は報告した。
 「学会のいき方は結構です。今回の件を、笠原が、身に染みて考えれば、本人のため今後のいい戒めになるだろう。ただ、時と場合を、もう少し考えてほしかった」
 一方、笠原のところへ行った使者の報告は、さらに期待を裏切るものであった。
 「笠原は、ひどく興奮していました。そして、学会を罵詈雑言しました。こちらの話を、てんで聞かないばかりか、先ほどの謝罪状を書いた時とは、全く打って変わった態度です。豹変してしまったと言うよりほかはありません。わめきちらして、取っつきようもありませんでした」
 笠原の「正気」は、一時的なものでしかなかったのだろうか。彼を改悛せしめたという青年たちの喜びは、一瞬にして裏切られてしまったわけだ。
 人間一人さえ、根底から変革することの、いかに困難なことか。いわんや全民衆の覚醒が、至難の茨の道であることは、むしろ必然としなければなるまい。
 青年たちは、いやでも、そのことを痛感せざるを得なかった。
 戸田は、この報告を聞いた時、なんともいえぬ沈痛な表情をして、一同を見渡した。そして、吐き出すように言った。
 性根の腐った者は、どこまでいっても始末の悪いものだ。実に、信心の腐った男です。これを見ても、笠原の戦時中からの行動が、総本山を、どんなに毒したかがわかるだろう。
 相手が相手だ。君らは、あの事件の渦中にいなかったから、とうてい理解できないだろうが、その対応に奔走した僧侶方の苦労というものが、いかに大変なものだったかは推測できるだろう。
 なにしろ、創価教育学会という、当時の微々たる存在が、権力の弾圧に対して一切の犠牲になり、歯止めの役を果たしたんです。それであるがゆえに、今日の創価学会の発展というものが約束されているんです」
 戸田の話は、創価学会の過去から現在、そして未来へと広がり、その純粋無垢で、強靱な護法の精神にまで及んだ。
 戸田は、笠原との対決が終わった今、彼の将来に果たすべき広宣流布の構想を語って尽きなかった。
 彼は、広布実現という、未曾有の事業を分かちもつ同志に対して、何事も、ざっくばらんであった。胸中にある一切を語り伝えることによって、一人の戸田が、十人、百人、千人の戸田となることを期待したのである。
 理境坊の一室は、戸田を囲んで、夜の更けるのも知らぬげに、煌々と、いつまでも明るかった。
 戸田は、大きな会合とともに、常に、このような小さなディスカッションの場を重視した。小さな指導の累積が、いつか時代の大きな潮流をつくっていくものだ。核は小さくとも、やがては最強の力をもつにいたる。彼は、ささやかな目に見えぬ力をも洞察していたのである。
 そうした、何げない戸田の談話が、その後、次々と新しい創造となって開花していった。彼と青年との談話は、いわば生命の対話ともいうべきものであった。
 既に、総本山の参道の闇のなかには、人影一つなく、時折、警備の青年たちの足音が、カツ、カツと、石畳を打って響くだけである。広大な境内は深い闇につつまれて、夜の底に静まり返っていた。
 午前一時――深夜の参道は、再び人の波で埋まった。丑寅勤行の参加者たちである。午前二時を期して、広宣流布祈願の丑寅勤行が行われるのである。
 それが終わると全山は、再び静寂につつまれていった。
33  翌二十八日は、早朝から晴天であった。午前六時三十分、朝靄がたなびくなかを、青年部の全員が、御影堂前の広場に結集した。
 部隊別に整列した青年たちを前に、関青年部長が、前夜の事件の真相を語った。
 「昨夜の笠原の事件は、偶然に起きた事件ではない。事件の根は実に深く、戦時中に遡るのです。彼、笠原は、当時の軍国主義に迎合し、軍部の有力者や、一部の宗教家と、『水魚会』という団体を結しました。
 そして、日本は神国のゆえに、神が本であって、仏は迹にすぎない。日蓮大聖人の御真意もそこにある――という邪義を構え、日蓮宗各派の統合を策し、盛んに軍部と提携して暗躍したのであります。
 しかも彼は、宗教統合策が成功した暁には、清澄寺の管長になるということさえ約束されていたんです。
 こんな邪義が、認められるわけはありません。笠原は、時の日蓮正宗管長に対し、実に五回にわたって詰問状を送り、総本山首脳部の総辞職を迫ったのであります。笠原の背後には、軍部政府が控えていました。それを背景に、総本山の首脳部を、『国賊』として糾弾したのであります。
 やむなく宗門は、遂に笠原を擯斥処分にいたしました。これが、昭和十七年(一九四二年)の秋のことであります。
 しかし笠原は、その後も策動を続け、それが創価学会大弾圧の起因となり、あの牧口先生を牢死せしめる淵源となったのであります」
 聞き入る青年たちの目は、笠原の悪辣さに対する激しい憤りの色をたたえていた。
 関青年部長は語をついで、笠原の戦後の動向に触れていった。
 「これほどの悪逆を働いた彼、僧籍を剥奪された彼が、またまた最近に至って、各地にわたって蠢動し始めたことが判明しました。そして、この七百年祭に、平然として総本山に姿を現したのであります。
 青年部は、彼の真意をただすべく、昨夜、寂日坊に、おいて面談したところ、笠原は、相も変わらず神本仏迹論を主張して、翻しませんでした。
 そのため青年部は、やむなく、彼を牧口先生の墓前に運び、牢死せる牧口先生を前にして追及したのであります。彼も、そこにおいて、ようやく非を悟り、遂に謝罪状を書いて、その罪を謝し、今後の行動を慎むことを誓ったのであります。
 学会青年部は、ひたすら清浄なる正法を守るために戦ったのです。われわれ青年部の昨夜の行動は、いささかも天地に恥じることのない、公明正大な行動であったことを、諸君は確信してほしい。これで、報告を終わります」
 拍手が湧き起こった。
 関が傍らに退くと、青年部の幹部の一人が、昨夜の謝罪状を広げて、読み上げた。
 「私の神木仏迹論は妄説である……」
 笠原が、自らの非を認めた、動かしがたい証拠であり、青年部の行動の戦果である。読み終わると、期せずして激しい拍手が広がった。
 青年部員一同は、それから墓地に向かった。昨夜の踏み荒らされた墓地を清掃するためである。彼らは、踏み荒らされた跡を、きれいにならした。牧口の墓の周辺を念入りに掃き清め、線香をたき、読経・唱題して、事件の顛末を報告したのである。
 これらのすべてを、四月の青空にそびえ立つ白雪の富士は、朝日のなかで見守っていた。
 このころ理境坊では、地元の警察署長と二人の刑事が、戸田城聖や泉田弘のもとに事情聴取に来ていた。
 泉田筆頭理事が、詳細な事情を懸命になって話した。しかし、警察署長らは、不可解な顔をするばかりである。信徒でもない彼らには、教義にかかわる深い事情は、わからなかったのであろう。彼らは、泉田の話のなかから、次々と質問を発してきた。
 「会長は、墓地には行かなかったんですか」
 「消防団と衝突は、なかったんですか」
 「暴力は、なかったんですか」
 「笠原は、酔っていなかったんですか」
 どの質問にも、泉田は事実をもって答えた。
 署長は、怪訝な面持ちになった。警察官が、昨夜、耳にした風聞と、今、聞く真実と、かなり相違があったからである。
 署長は、辺りを見回して言った。
 「青年の人たちにも、お伺いしたいのですが……」
 戸田は、この時、初めて口をはさんだ。
 「同じことですよ。この泉田が、私の言う通りに、一切の指揮を執ったんです。責任は青年部にはない。あるとしたら、一切の責任は、この私にある」
 署長は、戸田の決然とした言葉に返す言葉もなかった。
 「いや、おじやましました」
 警察署長らは、何事もなかったように、この時は、ひとまず帰っていった。
34  四月二十八日午前九時――創価学会員、四千三百余人は、再び三門内の広場に集合した。この日、御影堂で行われる、宗旨建立七百年慶祝記念大法会に参加するためである。
 支部旗、部隊旗のもとに集い合った全会員は、整然として威儀を正していた。
 人びとの眼は、歓喜に輝いているようである。七百年祭の大儀式に参列できる、晴れ晴れとした誇りに、胸を高鳴らせているのであろう。生々はつらつたる、地涌の隊列であった。
 彼らは、法華経の従地涌出品に、おいて、忽然と地より涌出した菩薩の群像を、いかにも彷彿させるものであった。この儀式に参列した人びとの表情には、それぞれ自覚によって得た信仰の確信が見られたからである。いかなる弾圧や迫害にも、決して屈することのない、広宣流布実現への決意と、生命の歓喜が、辺りにみなぎっていた。
 初めに、泉田筆頭理事が進み出て、昨夜の笠原事件の真相と、その由来するところを詳細に語った。
 そして、笠原から、遂に謝罪状を得たことを述べると、それを受けて青年部の幹部が、両手にその謝罪状を広げ、力強い声で朗読した。正義のために、なさねばならなかった、その行為に、期せずして拍手が広がり渡った。それは、参加したすべての人が、同じ創価学会員であることの誇りを味わいつつあることを、自然と表現していた。
 話は、再び泉田に戻った。
 「このよき日にあたり、私たちの最大の喜びとすべき事実を、ご報告申し上げます。それは、昨年来、今日の日のための記念事業として発願した、創価学会版の『日蓮大聖人御書全集』が、見事に完成し、総本山に、百冊の献上をいたすことができたことであります。
 立宗七百年、今、初めて、学会によって、全御遺文集が刊行されたのであります。まことに七百年祭にふさわしい、歓喜の結集と申しても過言ではありません。一言、ご報告いたす次第です」
 次いで戸田城聖が、万雷の拍手に迎えられて、中央のマイクの前に立った。
 モーニング姿の長身の彼は、微笑を浮かべながら、居並ぶ隊列に慈愛の眼差しを注いでいった。秀でた額が、朝日に輝いている。彼の左後方には、四月の紺碧の空に、雄大な富士の白雪が、まばゆく光っていた。
 戸田は、軽い咳払いのあと、親しみのあふれる声で話しだした。
 「ただ今、話のあった御書のことだが、身延は、三年前から計画しておりました。学会は、昨年春に発心し、ほぼ一年足らずで完成したわけです。身延の御書は、いまだにできておりません。
 今まで、なにかと押され気味だった日蓮正宗が、七百年祭を期して、御書の編纂に関してだけは、堂々と凱歌をあげることができた。初めてのここと言ってもいいのであります。これこそ、われわれ創価学会員一同が、一致団結して戦った賜であります。
 わが創価学会教学陣は、それぞれ寝食を忘れて、御書編纂にあたること一年、学会員の皆さんが、こぞって、この計画を援助された賜と、私は深く感謝している次第であります。
 本当に、よかった。これで、正しい御書全集が、立宗七百年にして、初めて刊行されたんです。大聖人様は、どんなにかお喜びであろう、と私は思う。
 ともかく、今日のよき日に、新しい御書を大御本尊様の御前に、お供えすることができた。私は、嬉しいのです」
 戸田は、昨夜の笠原事件には、一言も触れなかった。今日の慶祝大法会の喜びに、彼の胸中は満たされていたにちがいない。彼は、そのあと大法会に臨むにあたって、こまごまとした注意を与えつつ、信心の根本というものが、どうあらねばならないかを訴えていった。
 次いで関青年部長から、下山に際しての輸送計画と、注意事項の説明があり、午前九時四十分、男女青年部、各支部の代表が、学会本部旗を先頭に隊伍を組んで、御影堂へと出発した。
 降り注ぐ朝の陽光を浴びて、九本の男女部隊旗、十三本の支部旗が、美しく輝く。壮年も、婦人も、動作は青年のようにキビキビとして、大儀式に臨む緊張感と喜びにあふれて、厳粛な面持ちであった。
 今、新生の春である。
 人びとは参道を進み、御影堂への石段を上っていった。
 いよいよ、宗旨建立七百年慶祝記念大法会である。学会代表幹部は、御影堂に入って着席した。
 読経を終え、慶讃の儀式は進んでいった。
 やがて法主の日昇が、このよき日のための慶讃文を読み上げた。
 「生々の気、天下に満ち、瑞気地上に渡る時、大日蓮華山大石寺の満山を荘厳し奉り、本門寿量文底秘沈の大法……」
 読み終えると、日昇は慶讃文を、恭しく御本尊の前に奉呈した。
 このあと、僧侶の代表によるあいさつなどがあり、式典は滞りなく終わった。
35  ちょうどそのころ、客殿の付近に、数人の報道関係者が押しかけて来ていた。昨夜の笠原事件の取材であった。
 これには、青年部の幹部が応じ、昨夜のあらましを説明した。
 新聞記者としては、事件の発生とあれば、ともかく記事にして報道しなければならない。
 青年部の幹部は、笠原の宗門における叛逆を懸命になって説明したが、教義の理解という土台のない彼らには、短時間の説明では、さっぱりわからない。記者たちは、怪訝な面持ちで聞いていた。
 結局、慌ただしい客殿の外での取材は不得要領に終わって、彼らは夕刊の締め切り時間を気にして、退散していった。
 陽が西の山脈に近づくころ、七百年祭の参列者たちは、役員の指示に従って、名残を惜しみながら、次々と総本山を後にしていった。
 陽春四月――快晴に恵まれた、慶祝の行事であった。それはまた、立宗から七百年後における、新たなる広宣流布への出発の日でもあったといえよう。
 日蓮大聖人の御書全集を発刊し、「師子身中の虫」を断つ破邪顕正の戦いを開始したこの日を起点として、広宣流布の様相は色濃く一変していったのである。
 笠原慈行を謝罪させた一件は、その後、総本山との関係に、おいて、波瀾を呼んでいった。
 それは、逆にいえば、広宣流布は、まだ遥か先のこととしか考えられなかった人びとにとって、慈折広布の本格的在到来を告げる暁鐘であった。
 青年たちは、このことから、自らの行動を通して、日蓮大聖人以来の正法の清流を守ることが、いかに大事であるかを学び取っていった。彼らの意識と行動の奥には、日蓮大聖人の御在世の姿が、あたかも下絵のように、くっきりと浮かび上がっていたといってよい。そして、「大聖人の昔に還れ」「正法正義を守ろう!」と訴えずにはいられなかったのである。
 彼らは、その意識の底辺に浮かんだ下絵を、初めて見る思いであった。
 そして、その彼らの行動の規範となっていったのが、日蓮大聖人の正法正義を余すところなく網羅した御書全集であった。
 大聖人御在世と、今と、七百年の隔たりがあるとはいえ、その本質に、おいては、全く異なるところはない。いな、異なってはならぬ、と青年たちは決意したのである。
 日蓮大聖人は、広宣流布のために、ただ一人、末法の世に起ち上がられた。そして今、その達成には、志を同じくする無数の民衆の真心の結集がなければならない。
 男女青年部員たちは、この日、人びとが去って行ったあとも、最後まで総本山に残り、各宿坊をはじめ、境内の各所を清掃してから帰路に就いた。
 彼らが富士宮駅に着いた時は、既に夜となっていた。
 まる二昼夜にわたる活躍のあとである。若い彼らは、快い疲労のなかで、食事をとったり、土産物を買ったりしていた。駅の売店で、夕刊を買う人もいた。
 夕刊を広げた一人の青年は、地方ニュースのトップの活字を目にすると、周りの青年たちに呼びかけた。
 「おい! 出てるぞ、出てるぞ。案外、早いじゃないか」
 一同の顔がのぞき込んだ。
 「素裸にして吊し上げ、大石寺の若僧30名、前管長に暴行」
 これが見出しである。
 記事では、二十七日夜九時ごろ、開宗七百年祭に、「前管長」である笠原慈行師が、招かれないのにひそかに参列したところ、暴力事件が起こったとしていた。
 「……前管長に反感を持つ同寺若僧三十余名が発見、″宗門を汚した罪を償え″と寺の裏山に連出し素裸にして両足をしばり吊上げた上、わび状を書かした事件があった。
 このため全山は大騒ぎとなり、富士地区署で非常召集を行い暴行脅迫容疑で関係者の取調べを行っている。
 前管長が昭和十八年戦時の強制的な宗門合併で檀徒の意思を無視し犬猿の間柄である身延山に同寺を身売しようと印までおしたのを猛烈な反対によっで阻止したことがあり、それが原因と見られていいた。
 一読してもわかるように、恐るべき誤報といわなければならない。笠原は「前管長」になり、学会青年部は「若僧」になったばかりでなく、あたかも暴行事件が起こったかのように報道されていた。
 真相というものが、いかに伝えがたいか、この記事は、その典型的な一例と見ることもできよう。
 この記事は、笠原事件が、世間の目に、かくも歪んで映ったことを示している。宗門の多くの僧侶の目にも、さまざまな映り方をした。この事件が真実の姿をもって映るには、この後、なお絶大な努力と、若干の時の経過を必要としたのである。

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