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日蓮大聖人・池田大作

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布石  

小説「人間革命」5-6巻 (池田大作全集第146巻)

前後
1  一九五二年(昭和二十七年)三月二十一日――戸田城聖は、東北の地、仙台市の仏眼寺にいた。この日の、仙台支部第一回総会に出席するためである。
 このころの仙台支部は、一地方支部とはいえ、東京の十二支部に伍して、少しも遜色のないまでに成長していた。
 総会の会場となった仏眼寺には、既に三百人を超す支部員が結集している。開会に先立って、勤行が行われていた。
 戸田の後ろには、仙台支部長の白谷邦男が控えていた。彼は、二十代後半の青年であったが、入会は古く、四二年(同十七年)に遡る。
 そのころ、彼は上京して、ある大学に通っていた。同級に山平忠平がいて、初代会長・牧口常三郎の時代に座談会に誘われた。いろいろ理屈を並べているうちに、論破されて、遂に入会したのである。
 時は、既に戦時中であった。両親は上海に移っていた。白谷邦男も、四四年(同十九年)春、上海に渡り、程なく日本に帰るつもりであったが、いつか帰国の船便がなくなってしまった。
 彼は、上海にいても、朝晩の勤行だけは欠かさなかった。勤行をサボると、罰を受けるのではないかという考えが、頭に染み込んでいたのである。白谷は、そのまま上海で終戦を迎えた。
 帰国できたのは、四六年(同二十一年)二月のことであった。白谷の一家は、郷里の仙台に戻ったが、街は戦災に遭っていて、彼の父も、職と家とを探すことから始めなければならなかった。彼も働かなければならなかった。
 翌年五月、駅前のバラック街に海産物店を開店した。しばらく商品は、面白いように売れたが、インフレの余波と商売下手から、いつか倒産の憂き目にあった。
 このころ、彼が仏眼寺に行ってみると、数人の学会員に会った。いずれも、戦前に東京で入会したという人たちであった。
 彼は、山平忠平に連絡した。山平は、さっそく、数人の青年部員と共に仙台にやって来て、ともかく会うだけ会って帰って行った。この時、初めて白谷は、東京で戸田城聖が学会再建に全力をあげ、活動し始めたことを聞いたのである。
 その後、白谷は、たまに上京しては、山平と会つた。酒好きの二人は、酒瓶を挟んで語り、最後は学会の前途について意見を交換して、決意を新たにするのであった。白谷は、山平から強い刺激を受け、仙台の数人の同志と、ようやく活動を開始した。座談会をもったり、『大白蓮華』をテキストとして、御書の読み合わせをしたり、折伏活動の第一歩を踏み出した。
 こうなると、それまで信心を黙認していた両親が、猛烈に反対しだした。帰宅が、しばしば深夜になる彼は、締め出され、時に納屋で夜を明かさねばならなかった。
 白谷は、就職問題と信心の行き詰まりから、五〇年(同二十五年)秋、上京して戸田城聖を訪ね、指導を仰いだ。戸田の最も辛い、苦難の日が続いていたころである。
 戸田は、遠来の青年に、懇切な指導をしてから、最後に言った。
 「泊まるところはあるか?」
 「いいえ、決まっておりません」
 戸田は、失業中の青年に言った。
 「ぼくの信頼している青年がいる。話しておくから、決して心配しなくてよい。そこへ泊めてもらいなさい」
 戸田が紹介したのは、山本伸一であった。
 白谷邦男は、東京での五日間の滞在のあと、仙台へ舞い戻った。就職運動が思うに任せなかったからである。彼は、やがて仙台で、ある保険会社に入社することができた。戦後の青年の一人として、彼も、まごついてしまった青春を、取り戻そうとするかのように、ようやく学会活動に全力で取り組み始めたのである。
2  彼は、数人の同志と、本格的に折伏を始めた。彼の周辺には、若い青年が集まるようになった。御書を中心にして、真の仏法のなんたるかを語り、社会のさまざまな現象から、広宣流布が絶対に必要であることを叫んだ。
 五一年(同二十六年)五月、戸田の会長就任のころを境として、学会本部との連絡は一段と深まり、仙台支部は目覚ましい胎動期に入っていった。
 仙台支部の幹部には、知識人が多く、年配者が、元放送局員の井鈴健で、ほかに三十歳前後の歯科医や教員などがいた。集まれば理屈に走る会合になることもあったが、若さにあふれ、何よりも実践的であった。仙台市内はもちろん、飯野川、石巻、盛岡と、折伏の手は伸び、やがて青森、福島にまで出かけて行ったのである。
 本部派遣のメンバーによる指導も、このころから、しばしば行われるようになっていた。また、仙台の幹部も交代で、「仕入れに行ってくる」いながら、機会あるごとに上京したのである。そして、東京の幹部会や座談会に出席し、学会躍進の空気を持ち帰ったのであった。
 皆、真面目であり、強い求道心にあふれでいた。近くにいる人より、遠くの人の方が、吸収力の強い場合があるものだ。
 五一年(同二十六年)十一月には、仙台支部は組織の編成を強化し、五地区から八地区へと拡大している。
 十一月二十二日から三日間、清原かつ理事と青年部の幹部二人が、本部から派遣された。清原たちは、インクの香の漂う、発刊されたばかりの『折伏教典』を持参したのである。
 清原は、幹部十三人を相手に、一日十三時間、三日間ぶっ通しで、『折伏教典』の講義を行った。全力投球である。人材育成の特訓の模範であった。
 仙台の幹部たちは、三百六十ページの教典を、日ごろの折伏実践と照らし合わせて、失敗談や成功談を語り合いながら、楽しい雰囲気のうちに読み進んでいった。時間のたつのも忘れるほどであった。
 この時、御書や六巻抄の講義も行われた。全力を尽くしたところには、必ず人材の花も咲き、栄えていくものだ。いつしか仙台は、東京のA級支部以上の実力を、認められるようにまでなった。
 また、同行の青年部幹部は、一般会員のための講義を担当した。一回五十人を対象に、三日間に八回の講義を行い、東京の六カ月分の講義を一気に終えた。講師も受講者も、一種の張りをもっていた。
 こうして、何よりも学会精神の浸透が、短日月のうちに、談笑のうちに達せられたのである。派遣の幹部たちは、「仙台へ勉強しに来たようなものだ」と笑い合った。
 仙台支部第一回総会を、戸田城聖を迎えて開催するまでの半年間、折伏と教学の実践に、不断の精進があったのである。
 精進は、支部を見る見る拡大発展させた。この年の十一月末の世帯数は、二百十九であったが、翌五二年(同二十七年)四月の七百年祭ごろには、実に六百十一世帯となっていた。その七百年祭の総本山登山の参加者は百四十六人で、地方支部として誇り得るものであったといえよう。
 戸田は、彼の会長就任に呼応して立ち上がった地方支部が、ことのほか、かわいかった。そして、仙台支部が、東北広布の使命を自覚して、躍進する姿を見守っていた。彼が仙台という地方支部の総会に臨んだのは、いよいよ全国的布石の時期の到来を、そこに感知したからである。
 九州の八女地方は、牧口時代からの拠点であり、戸田が会長に就任した直後に、仙台支部とともに新しい支部として発足した。しかし、幹部間の団結が図れずに、今もって燃え上がらず、活動の本格的な始動には、いたっていなかった。大阪支部は、五二年の一月十五日に発足し、その活動も、やっと緒についたばかりである。彼の全国的構想からすれば、力をもった大支部が、今後、続々と、各地に誕生しなければならない。その先駆けを仙台に見たといえよう。
 戸田は、全国的布石の先駆の総会を祝す思いで、清原、小西の両理事、青年部の森川、秘書部長の泉田ための四人を伴って、仙台に赴いたのである。
3  三月下句の東北の春は、まだ浅かった。
 戸田は、総会のあと、仙台の幹部の一人ひとりとの懇談と指導に重点を置いていった。寒い宿屋の一室を火鉢で暖め、矩健に入って数多くの幹部と面接しながら、生活のことから、家庭の、こまごまとした問題にいたるまで、懇切に指導するのであった。個々に対する指導こそ、人間主義の自然な発露である。広宣流布という未聞の大事業は、幾千万の人びとの、血の通った団結によって、初めて達成できるからだ。
 初めて戸田に会う幹部が大部分であった。冗談を飛ばしながら、時に鋭い警句を吐き、率直にして磊落に語る戸田に、彼らは面食らった。しかし、誰もが、温かくつつみ込む戸田の慈愛を知って感激した。
 この支部の発展の特長の一つは、東京から送られてくる「聖教新聞」や、『大白蓮華』の配布が、極めてスムーズに行われているところにあった。すなわち、これらの印刷物は、求道心の強い地方の学会員にとっては、広宣流布の実弾であったのである。
 夜にかけて、戸田は、仙台支部の、ほとんどの幹部と面接した。未来への飛躍を期すために、彼は、一人ひとりに、全生命を注ぎ込む思いで、激励、指導を重ねたのである。
4  仙台支部の総会をもって、各支部の総会は、ひとまず終わった。各支部の勢ぞろいの波が、春季総会への大波となって、四月七日を迎えたのである。
 会場は、神田駿河台の中央大学の大講堂に変わっていた。総会といえば、牧口時代から、いつも神田の教育会館であった。それが、前年の戸田の会長就任以後は、市ヶ谷の東京家政学院講堂へと躍進し、一年たたぬうちに、そこも手狭となり、さらに会場の変更を余儀なくされたのである。今回の会場は、中央大学講堂であり、イス席だけでも二千数百あった。
 例によって、午前、午後の二部に分かれ、午前九時半開会、午後四時半終了という、一日がかりの総会であった。集まる学会員二千六百余人、全国から集い寄った一騎当千の精鋭である。
 場内の空気は、開会前から異常な熱気をはらんでいた。「立宗七百年記念創価学会春季総会」という立て看板が象徴しているように、二十日後に迫った七百年祭総登山の前夜祭の活気を呈していた。
 集まる人びとの顔には、日ごろの悩みなど、すっかり忘れたかのように、自己の人生の前途を確信する喜びと、闘志がみなぎっていた。交わすあいさつにも、活気があふれでいた。各方面から参加した会員も多く、名実ともに、全国的規模に発展した総会となった。
 桜花爛漫の四月である。満開の華やかさが、場内をつつんでいた。
 モーニング姿の戸田の胸には、大輪の胸章が目立った。
 彼は、まず何よりも、恩師・牧口常三郎のことを、しきりと思い出していた。
 ″今、この盛会の会場に、もし牧口先生がおられたら、どんなに喜ばれることだろうか。思師は逝ってしまった。官憲の手によって獄死せられたのであるから、詮ないことではあるが、口惜しい限りである……″
 彼は、一瞬、胸を締めつけられる思いであった。
5  「ただ今より、立宗七百年記念、春季総会を開会いたします!」
 開会の宣言に、戸田は、われに返った。そして、この総会が、牧口への、何よりの報告でもあると、悟ったのである。
 総会を担当した小岩支部の、富山支部長が開会の辞を述べ、七百年祭への決意を語った。
 次いで、牧口常三郎初代会長への報恩の一端として、遺族に記念品を贈呈することになった。牧口初代会長逝去の折、彼の孫で戦争遺児であった蓉子は、八年を過ぎた今、中学一年となるまでに成長していた。セーラー服姿の可憐な彼女を挟んで、その祖母となる牧口の妻・クマ、戦争で夫を失った蓉子の母、また、牧口の遺骸を巣鴨から背負って運んだ小林が、戸田から紹介された。
 戸田は、記念品を贈呈すると、あいさつに立った。
 「私は、総会のたびに、胸のうちに初代会長の故・牧口常三郎先生のことが浮かんできて、深い感慨を覚えるのであります。ただ今も、名前を呼ばれた時、泣くまいとして、泣かずにはおられ、なかったのであります。
 思えば、私が十九歳の時に、四十九歳の先生とお会いし、その後、師弟の関係が結ばれたのであります。そして、創価教育学会を創立してからは、私が理事長を務め、影の形に添うごとく先生にお供し、牢獄にもお供したのであります。
 『私は若い。ご高齢の先生を、一日も早くお帰ししたい』と思っていた昭和二十年(一九四五年)一月八日に、前年十一月の先生の死をお聞きしました。その時、私は、″誰が先生を殺したんだ″と叫び、先生の遺志を継いで、絶対に日本中を折伏して、南無妙法蓮華経のために命を捨てようと決心したのであります。
 命を捨てようとした者に、なんで他人の悪口、難が恐ろしいものか」
 戸田の口調は厳しかった。牧口のことを語る時には、いつも激昂していく。いつになっても悔しくてたまらぬのであろう。
 皆は、師弟の絆の強さに胸をえぐられる思いであった。
 涙声の彼は、しばらく口をつぐむ。場内は静寂に沈んだ。
 彼は、遺族の方を顧みて、また言葉を続けた。
 「ここに、皆様が、こうして集まられるようになったのも、牧口先生のおかげであります。ここに、ただ一粒のお孫さんたる蓉子さんが、中学にお入りになるまでに成長されました。そのお祝いを申し上げ、七十四歳の奥様を、お慰め申し上げたいと思います。また、小林君は、亡き先生の遺骸を背負って帰られた方であり、先生を思うと同時に、小林君が思われるのであります」
 戸田は、遺族に向かって一礼した。人びとは、牧口を戸田と共に偲び、戸田の人情のとまやかな報恩の誠を知って、惜しみない拍手を送るのであった。
 総会は、支部旗、青年部旗の授与式に移っていく。
 学会にとって、初めての支部旗であり、部隊旗である。その数、十三本の支部旗、四本の男子部隊旗、五本の女子部隊旗であった。支部旗は紫紺、部隊旗は臙脂の羽二重地に鶴丸を染め抜いたものである。参加者から見て壇上の右には、学会本部旗が立てられていた。大きさは同じであるが、真ん中の鶴丸は金糸で刺繍されていた。遠く海を渡り、国境を越えて飛来する鶴は、世界を結ぶ平和の象徴ともいえよう。
 まず、八女、大阪の両支部を除く十三人の支部長に、それぞれの支部旗が、戸田から手渡されていく。
 戸田は、支部長たちに言った。
 「しっかり、支部旗を守るように!」
 また、ある支部長には、力強く語りかけた。
 「広宣流布の先駆を頼む!」
 厳粛な一瞬である。
6  続いて、部隊旗の授与に移った。九人の男女部隊長は、順々に進み、それぞれの部隊旗をしっかりと握った。
 場内の空気は、にわかに高潮していく。本部旗を中心に、二十三本の鮮かな旗が、壇上にずらりと並んだのである。それは、広宣流布の平和大行進の旗、大折伏の旗、団結の旗印であった。かつての総会には見られない光景である。この景観は、そのまま、勢ぞろいした学会の姿ともいうべきものであった。
 戸田は、聴衆に呼びかけた。
 「ただ今、各支部の旗、男子、女子の青年部隊旗が、ここに立てられたのであります。四月二十七日、二十八日には、この旗のもとに集まり、登山しようではありませんか。しかも、この旗のもとに、大折伏の行をいたそうではありませんか」
 式は、清原指導部長の話に移った。
 彼女は、小柄な体に闘志をみなぎらせ、「年内折伏二万世帯達成」という闘争方針を訴えたのである。
 三月末の世帯数は九千五百六十世帯になっていた。この一万世帯に近い達成は、前年の会長推戴の署名数、約三千人から見る時、偉大な躍進といわなければならない。それをさらに、一九五二年(昭和二十七年)のうちに二万世帯にまで、折伏しようというのである。まさに驀進の折伏の敢行である。
 場内は緊迫し、その決意が、見る見るみなぎっていった。参加者は、力強い拍手をもって、清原の訴えに応えたのである。
 指導部長の真剣そのものの、「二万世帯達成」という提案に応えて、各部の代表が、それぞれの決意を披瀝した。
 この春季総会は、冒頭から折伏の旋風が舞い上がった観があった。皆、自己の今世の使命に、決意するところがあったのであろう。
 午前の部の最後は、戸田の講演である。長身の戸田が壇上に立ち、秀でた額が輝いていた。
 彼は、「開目抄」の文証を引いて、日蓮大聖人の仰せのままに、末法において折伏することが、いかに困難であるか、また、いかなる困難も顧みず、折伏を行ずることが、いかに仏意に適うことかを説いた。
 「大聖人様は『此れをしれる者は但日蓮一人なり』と仰せであります。当時の誰も知らなかった、人間の不幸の原因を、ただ御一人、大聖人様だけがご存じであった。
 一切の不幸の根本原因とは、誤った宗教にほかならない。これが大聖人様の一生を貫いた大確信であったのであります。しかし、それを誰も信じようとしない。むしろ、大聖人様を言語に絶する迫害をもって邪魔をしたのです。大聖人様の御難というものは、ただこの一事に原因があった。大聖人様は、身命を賭して戦われたのであります。末法において、折伏が、いかなる難を呼び起こすか、この事実をもって知ることができるのであります。
 七百年後の今日、この事情は少しも変わりません。われわれが、いよいよ広宣流布に立ち上がった以上、さまざまな難の起きるのも当然のことであります。われわれの戦いが、正しいということの証明であります。大聖人様は、『難来るを以て安楽と意得可きなり』とおっしゃっている。大聖人様は、われわれをお守りくださっているんです。
 私と共に、あらゆる難に打ち勝って、一人も漏れることなく、本懐を遂げようではありませんか」
 活気に満ちた午前の部は終わった。休息・昼食の間には、少年部歌の発表と、女子青年音楽部のコーラスで、総会に和やかな親しさを加えていった。
7  午後の部が、開始された。
 関青年部長が立って、「七百年祭の意義」について、これこそ、千載一遇となることを訴え、総登山の計画をこまごまと語った。
 続いて体験発表である。この時も、目を見張るべき多くの体験が語られたのである。
 次に、原山教学部長から、「御書編纂の意義と経過」が発表された。
 「御書は、ただ今、夜を日に継いで、最後の校正と取り組んでおります。必ず、七百年祭の前に、皆さんのお手もとに届く運びとなったことを、ここに謹んでご報告いたします。
 待望の、完全な御書の出現は、立宗から七百年を迎える今、創価学会の手によって、初めて完成されようとしております。
 思えば、昨年春、会長・戸田城聖先生の発願により、この計画を直ちに堀日亨猊下に申し上げ、その編纂を懇請いたしたところ、六十年間、教学研鎖に尽くされた現下は、あたかも待ち構えておられたように、ご快諾くださいました。これが昨年の六月のことであります。
 教学部員は、しばしば雪山荘を訪れ、猊下より、種々、編纂の方針を伺い、また門外不出の資料が納められた書庫を拝見し、その資料の豊富なることに驚嘆するとともに、猊下のご造詣の深さに、『御書、既に成れり』の感を深くいたしました。
 しかしながら、紙、その他の資材の購入、印刷所の選定の困難、莫大なる費用の調達、人手不足など、幾多の障害に突き当たりながらも、それを一つ一つ乗り越えて、今日に至ったのであります。
 大御本尊の御慈悲は、私ども会員一同の頭上に雨と注がれ、御遺文編纂の三大難関であった、長年月の編纂、多数の人手、資金問題の三つが、今、顧みる時、極めて簡単に解決されたのは、御仏智というよりほかはありません。不可能と思えた難事業を、ここに可能としたのであります。
 会員諸氏の、心からなるご支援を感謝するとともに、今後、全く新しい御書を互いに心肝に染め、大いに広宣流布に邁進いたそうではありませんか」
 参加者は、待望の御書の完成が間近に迫ったことを知り、歓呼の声をあげた。
 続いて、水谷日昇の特別講演に移った。
 日昇は「開目抄」「法華取要抄」「報恩抄」「観心本尊抄」などを拝し、最後に力を込めて訴えた。
 「立宗七百年、四月二十七日、二十八日の記念日には、一人も漏れなく総本山に登られるように願うものであります。さらに今後、折伏教化に励まれるよう、この事なくして世界平和は絶対に招来することはできませぬ。広宣流布の暁には、必ず仏土が建立され、かつて夢に見た世界平和が実現するのであります」
 日昇の講演に次いで、また体験発表があった。大酒飲みが入会によってとまった、とび職一家の奇抜な体験や、必死の金策苦から救われた、涙と笑いの体験が語られていく。
 ――政治でも、科学でも、どうしても解決のつかぬ人間葛藤の問題に、誰もが悩んでいる。人びとは、それぞれの生活のなかに、最も始末の悪い難問をかかえ、生命の奥底で苦悶しているのが、厳しい現実の姿なのである。それを、見事に転換し、確信をもって語る真実の声が、この日の体験発表には、あふれでいた。
8  午後の部は、戸田の講演が最後である。ここでも、「開目抄」の文証を引き、大聖人の確信を、誰にでもわかるように解説しつつ、われわれの信心の気迫が、どうあるべきかを訴えたのである。
 「釈尊が、仏法流布に立たれた三千年前の事実を見ますれば、実に荘厳な御姿であったと思う。その後、竜樹菩薩は、釈尊に劣ること数十倍であり、天台智者を拝すると、すこぶる低きものに思われます。
 しかも、辺土日本において、伝教大師は、天台大師より、なお貧しく見えたといわれますが、彼は、時の宮中の寵愛を受けられました。
 しかるに、日蓮大聖人様は、このうえもなく貧乏で、時の執権に憎まれ、平左衛門尉に捕らえられ、三類の強敵のなかに、正法流布の大願を立てられ、身命を惜しまず戦われたのであります」
 彼は、まず三国四師の比較から始めて、次に末法の衆生と、その衆生を救う仏の姿を映し出した。
 「われわれは、大聖人様には、とうてい及ばず、卑しく、貧しく、くだらない者にすぎない。そのわれわれが、立派そうに見える相手を折伏する。しかし、いくら立派そうに見えても、その実、いちばん欲張りで、仏法に無知な連中が、末法の衆生なんです。だから、ものすごい反発を招くのは当然です。われわれが折伏した時の相手の顔を思い起こしてごらんなさい。
 釈尊は、末法の衆生は、『欲張りで、怒りっぽく、法華経のなんたるか、仏教のなんたるかも知らずに、自慢し、批判する』と言われている。
 しかし、それは、つい最近までの、あなたたちの姿でもあったではありませんか?」
 どっと場内に笑いが湧いた。戸田は、素知らぬ顔で、続けていく。
 「この悪人どもが集まった世の中に、かかる不肖の私が、皆様の先頭に立つ名誉を担ったのであります」
 彼は、わが使命を直視するかのように、また先に進んだ。
 仰せになっておりますが、三類の強敵、すなわち、第一の俗衆増上慢、これは学問もなければ、仏法も研究しないで、わがままばかり言って、法華経の行者を迫害する者たちであります。
 第二に道門増上慢、これは仏法がわかったつもりで、偉く見せかけ、人びとを騙す法盗人であり、大悪人であります。
 そして第三に、まだ現れない僣聖増上慢。これが最も悪辣で手強い相手です。表面は聖者のごとく装い、世の尊敬を集め、内面は強欲で悪心を懐き、権力を動かして法華経の行者を弾圧するんです。
 この三つ、つまり三類の強敵が充満するならば、ここに法華経の行者が、いなければならない。
 『開目抄』の結論に、『汝を法華経の行者といはんとすれば大なる相違あり』とある通り、大聖人は、法華経の行者と称するには、表面的には、あまりにもかけ離れた姿に見えた。伊豆流罪、佐渡流罪に遭われ、寺もない。常に、折伏行に邁進された。弟子たちのなかには、『御利益がない』『末法の行者とはいえない』と言う者もいたが、法華経の行者とは、日蓮大聖人様のことであります。
 では、大聖人は、末法の法華経の行者でありながら、なぜ留難に遭い、貧之をなされるか。これは、わが身の過去世の宿習であると仰せです。そのうえで御自身、法華経の行者たる偉大な覚悟を、お示しになっているのです。
 御書の、そこのところを、読んでもらいます」
 泉田ためが、よく通る声で拝読した。
 「詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん、身子が六十劫の菩薩の行を退せし乞眼の婆羅門の責を堪えざるゆへ、久遠大通の者の三五の塵をふる悪知識に値うゆへなり、善に付け悪につけ法華経をすつるは地獄の業なるべし、大願を立てん日本国の位をゆづらむ、法華経をすてて観経等について後生をせよ、父母の頸を刎ん念仏申さずば、なんどの種種の大難・出来すとも智者に我義やぶられずば用いじとなり、其の外の大難・風の前の塵なるべし、我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ等とちかいし願やぶるべからず
 人びとは、この日蓮大聖人の御金言を聞いたものの、その文意にいたっては、理解する人は、はなはだ少なかったことであろう。
 戸田は、これを解説しつつ、大聖人の確信が、七百年後の今日、そのまま、わが創価学会の確信として、生き生きと脈打つことを念願しながら、話を続けた。
 「大聖人は、さまざまな大難に遭うのは、わが宿習なりと定め、『諸天が見捨ててもいい。法難には何度でも立ち向かおう。私は、命をかけて法華経流布に邁進するのみだ』との覚悟に立たれたのです。不肖戸田も、大聖人の門下として、広宣流布のために命を捨てる覚倍はできております。南無妙法蓮華経のために、いつでも、わが身を御供養申し上げたいと思う。
 『身子』というのは、インド第一の智者・舎利弗のことで、清らかな目をしていたと言われています。舎利弗は、過去世において、六十劫という長い間、菩薩の修行を積みながらも退転してしまう。なぜかというと、魔を魔と見破れなかったからです。
 舎利弗の修行が進んでいるのを見た第六天の魔王が、それを妨げようとした。バラモンの姿に身を変えて現れた魔王は、舎利弗に、″あなたの目が欲しい″と要求したんです。舎利弗は、布施行の実践だと考えて、自分の目をくり抜いてバラモンに与えた。ところが、バラモンは、その目のにおいが臭いと言って道に捨て、足で踏みにじってしまった。
 そこで、舎利弗の決意は揺らいでしまった。″こんな衆生を救うことなど無理だ。自分だけの悟りを求めよう″と、菩薩道の修行を捨てて、二乗の修行に堕ちてしまったんです。
 しかし、成仏への菩薩道の修行を退転してしまったのは、舎利弗だけではありません。五百塵点劫という久遠の昔に法華経に巡り合った人びと、あるいは、三千塵点劫という昔に、大通智勝仏の世に法華経に縁した人びとも、法華経から離れてしまって、長い間、悪道に堕ちて苦しんだと仰せです。
 その原因は何か。それは、舎利弗が、第六天の魔王に惑わされたのと同じように、悪知識にあったからです。悪知識とは、信仰を退転させる″悪い友人″″悪坊主″ということです。
 いかなる事態になろうが、善かろうと悪かろうと、御本尊を捨てるというのは、地獄の苦しみに陥る。反対に、何があろうと、歯を食いしばって御本尊を受持し抜くならば、必ず幸福になる。覚悟を決めて信仰し抜いてごらんなさい。これは、私が命をかけて言うのです」
9  人びとは、瞬きもせずに、耳をそばだてていた。戸田の、体当たりともいうべき話に、奥底の迷いまで消えていく思いであったにちがいない。数千の眼は、戸田の一身に注がれていた。
 「大聖人は、『私は大願を立てる!』とお叫びになっている。それは、どんな誘惑にも負けず、どんな脅迫にも退かず、広宣流布一筋に生き抜き、この御本尊をもって全民衆を救い切っていくのだとの大誓願です。
 『法華経を捨てて、浄土教の観経等を信仰して来世の極楽往生を願うならば、日本国を支配する位を譲ろう』という大誘惑があろうとも、そのような誘惑には負けないというんです。皆さんはどうですか。私のところへ、『生活の面をよくしてやるから、信心をやめろ』と周りの人から言われて、『どうしたらよいでしょうか』と相談に来る人がいる。そんな弱い心では、幸福な境涯は絶対に築けません。
 また『念仏を称えなければ、お前の父母の首を切るぞ!』というような、脅迫や大難が起ころうとも、大聖人は、そんなものには、絶対に屈しない、従わないと断言なされているんです。
 そして、自分の教えの正義が破られない限り、ほかの教えに屈することはない。『そのほかの大難などは、すべて風の前の塵のようなものである』――こう仰せになっているんです。この大精神が学会の精神であります」
 参加者は、大聖人の大確信に触れ、それがまた戸田の確信となっていることを知った。そして、学会の使命を深く胸に刻んだ。輝いた目、熱い息吹が、それを物語っていた。
 戸田は、力強い声で言葉をついだ。
 「大聖人は宣言されている。
 われ日本の柱となろう――これは主の位、すなわち人びとを守る力です。
 日本の国の眼目となろう――これは師の位、精神の指導者です。
 われ日本の大船とならん――これは親の位、生命を慈愛する力です。
 主・師・親の三徳としての、日蓮大聖人のこの気迫を深く拝して、いな世界の民衆を救おうではありませんか!」
 戸田の講演は、ここで終わった。いつまでも激しい拍手がやまない。
 この時、司会者は、泉田筆頭理事から、緊急動議が出されたことを告げた。
 泉田は、演台に進み、急き込んだ早口で、動議の趣旨を説明した。
 「今日、支部旗、青年部隊旗を会長は授与されました。これは、単なるシンボルとしてもらった、いや、戴いたものではない。これは、『折伏の旗』であります。われわれは広宣流布の大風を起こして、この『折伏の旗』を持ちゆこうではありませんか。
 ここに私たちの決意を披露すべく、戸田先生に対して、全会員が起立して、誓い申し上げたいと思うのであります」
 期せずして大拍手が起こった。そして、参加者全員が立ち上がり、泉田が誓いの言葉を述べた。
 所詮、学会の組織にあっては、上から指示を与えるのではなく、下から常に盛り上がっていく。本末究竟して一体の団結が、最高の強みとなっているのだ。場内の興奮は坩堝るつぼのようであった。
 戸田は、この時、ふと思った。
 ″これで、七百年祭登山の態勢は見事にできた。後は、事務的な連絡をスムーズにし、期日を違えず推進していけばよい。残るは御書の完成だ……″
10  このころ、御書発刊の作業は、五校から校了へと進み、印刷・製本の仕事が、これから始まるところであった。もう一日も、ゆるがせにできないところにきている。
 ″あと、もう一息だ″
 戸田は、目がくぼみ、憔悴してきた校正係を励ましながら、最後の指揮を執ったのである。
 表紙に使用する羊皮が、なかなか、そろわなかった。引き受けたK商事は、四方八方に手を尽くしたが、大量の羊皮がそろわない。期日は迫ってくる。一時は絶望と見えたが、この難関も危いところで切り抜け、間に合うにいたったのである。
 戸田は、K商事の、この時の労を謝し、後に、御書の奥付に「表紙羊皮 K商事株式会社」の名を特に加えさせた。
 四月十六日夜――こうして御書の編纂は、一切の校正作業を終え、最後の下版をもって完了。四台の大型印刷機が、轟音をあげて動きだしたのである。
 それを耳にした教学部員は、瞬時に、長い間の辛労を忘れた。そして、戸田を囲んで、どの顔も満足そうにそうに笑っていた。
 彼は、深い感慨にふけりつつ、一同をいたわった。「ご苦労でした。これで立派に七百年祭を迎えることができる。大御本尊様の御前に、御書を、お供えすることができる。私は嬉しいのです。
 容易ならぬ事業であったが、しかし、私たちの力を過信してはならない。帰するところは、御本尊様の御力です。また七百年という時の力であります。それに、創価学会の私たちが、お手伝いできた。これ以上の名誉はないだろう。
 畑毛の猊下が、老齢にもかかわらず、至極、お元気であったことが、実にありがたかった。さまざまな条件が、一つ欠けてもできない、難事業だった。諸君も、私の意のあるところを察して、よく頑張ってくれた。厚く礼を申します。
 聞くところによると、身延の方は、二、三冊に分割して出すとのことで、しかも、いまだに、できていない。完全に、われわれの勝利です。七百年祭に間に合ったことは、不思議です。
 それよりも、今になって不思議に思うことは、私が二十有余年、出版事業の経験を積んできたことだ。この過去の長い経験が、この御書一冊を作るためにあったのかと思い当たり、痛感するんです。私の生きてきた道を、実に不思議に思うばかりです」
 四月二十四日、遂に御書が出来上がった。
 ――B六判、インディアペーパー使用、約千七百ぺージ、黒革の表紙、ケース入りの美本である。総経費九百万円。
 分厚く、持ち応えのある御書を手にして、会員たちは、この御書を持つことを誇りに思った。日蓮大聖人の教えは、この一冊に、過つことなく、すべて込められているのだ。これを七百年過ぎた今、遂に手に入れることができたからである。
 戸田は、これで一切の布石は、ひとまず完了することができたと感じた。
 まず、教学における御書の発刊、ならびに『折伏教典』の刊行。次に、各部組織の充実、なかんずく青年部の確立。そして、全国的な広宣流布への布石として、その第一弾となる仙台支部、八女支部の育成と、大阪支部の誕生……。
 彼は、短日月に、あらゆる必要な一石一石を、的確に、パチリ、パチリと打ってきたのである。しかも、それを過たず打つことができた。そして、それらの布石は、七百年祭の直前に、見事、完了することができたのである。
 立宗七百年を境として、以後の鮮やかな大飛躍に備えての布石は、いよいよ、その力を現してくるであろう。彼は、深い疲労も覚えたが、それよりも、これから始まる未来の展望の壮大さに、身の緊張を覚えたにちがいない。
 果たして、七百年祭のその日から、新しい事件が惹起し、局面は思いがけぬ展開を迎えることとなった。
 (第五巻終了)

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