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日蓮大聖人・池田大作

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驀 進  

小説「人間革命」5-6巻 (池田大作全集第146巻)

前後
2  一月五日には、都内の中華料理店で、各部の部長も参加して、支部長会が開かれた。戸田は、この時、立宗七百年を迎えるにあたって、創価学会の新しい組織体制を発表した。
 各支部には地区があり、その中心者は「地区委員」であったが、地区委員制が廃止されて、新たに「地区部長」が任命されたのだ。そして、「地区」のもとに「班」組織が設けられた。「班」の中心者は、「班長」である。班長を中心に、班単位で折伏などの活動を行い、その班のもとに幾つかの「組」が設けられた。「組」は、会員が「組長」と共々、学会活動の第一線で活躍できるようにするための組織であった。
 前年の秋から手がけた組織の整備は、これをもって完壁な布陣となり、学会は、全く面目を一新し、未来に備える骨格が出来上がったのである。
 この時に築かれた組織体制は、その後の学会発展の基盤となった。
 信心の極理は、御書に明確に説かれている。学会の組織は、その本義と実践を、速やかに後輩に指導徹底していくために、つくられたものであり、あくまでも実質主義を原理とすることを、戸田は指摘したのである。
 この組織の変更について、質疑が終わったあと、戸田は、この年の意義を強調し、支部長たちの脱皮を促した。
 「今後の支部長は、今までと違って、頭もよく貫禄と風格がなければならんだろう。支部長は、責任をもって、どんな問題でも解決できなければならない。支部員が支部長を見ると、心から安心して信心に励めるといった、信望のある幹部であってほしい。しかし、貫禄と威張るこことは全然違うのだ。威張るようなことがあったら、戸田は許しませんぞ」
 戸田は、幹部に対しては、実に厳しかった。食卓を前にして、幹部たちは、かしこまっている。それを見て、戸田は、急に表情を崩し、にこやかに言った。
 「しかし、まぁ、悪と戦えないような、弱々しい幹部でも困るんだよ。正義のために毅然と戦う頼もしさがなければ、誰もついてこなくなる。そんな支部長だったら、まず支部長の資格はない。
 これからの幹部は、実力が本当になければならなくなってくる。入会が古いだけでは骨董品だ。骨董品を、支部長や、幹部にしておくわけにはいかないではないか。仏法は厳しい。この厳しさが学会の組織の骨髄ということになるんです」
 支部長たちは、″今年は厳しいぞ″と、覚悟を新たにした。
 「まぁ、今年も忙しい年になるだろうが、今日は、正月だ。ひとつ、ゆっくり、くつろいで飲もうじゃないか」
 戸田が盃を取った。新春の乾杯から始まり、宴はにぎやかに盛り上がり、余興も交えて、学会歌で意気軒昂のうちに終わった。
 この日の戸田の発表は、直ちに実行に移されている。学会の最大の強みと、飛躍的な伸展の理由の一つは、このように迅速に連携を取りつつ、直ちに全力をあげて実行に移し、決して堂々巡りすることなく、すべて事実のうえに厳然たる実証を示していくところにある。この見事な組織の布石が続く限り、さらに学会は無限に伸びていく要素をいだいているといえよう。
 一月三十一日には、西神田の本部で支部長会が開かれている。このころには、組織の整備は完全に終わっていた。
 一月の入会世帯数は、六百三十五世帯であった。足踏み状態である。発表を聞いて、心ある人は、その低調さを反省し始めていた。
3  この時、戸田は、即座に立って、やや激昂した面持ちで言い放った。
 「『かりがね行進』は、今月をもって、一切、打ち切りとする!」
 厳しい口調であった。人びとは呆気にとられて、場内は静まり返り、皆、戸田に視線を集中した。
 戸田は、集った幹部を前にして、前年秋からの組織の整備は、ひとまず終わったと思ったのであろう。訓練してきた、これらの幹部を、思う存分、活躍させる時が、今こそ来ていると判断した。
 「四月の七百年祭を目前に控え、今月のようなだらしない低調さで、いったい、いつの日に目的を達することができるか、まことに心もとない次第です。支部長の確信のほどが、どんなものか、思いやられる。もしも、ここ二、三カ月、このままの状況が続いたとしたら、その支部の支部長は進退を明らかにしてもらいたい。
 『かりがね行進』を、今月で打ち切りとする以上、来月からは、どのような態勢で進んだらよいかといえば、『驀進あるのみ』と私は答えよう。そのために、新組織の決定をもみたのです。
 活動の重点は、各支部内の組織に置かれたのであるから、今後は、『組本位』の、緻密にして強靭な活動に入るべきです。具体的に言うならば、『組』は、月に必ず一人以上の折伏入会を敢行すべきであり、今日の学会は、その程度の実力は十分備わってきたと、私は思う。
 なすべき時に、なすべき事を、率先して着々と勇敢に実践するのが、広宣流布の道でなければならない。臆病者は去れ、と私は言いたい!」
 この叱時激励に、参加者は緊迫した顔で戸田を見ていた。
 支部長のなかには、「かりがね行進」という微温的な、家族的な雰囲気の進軍では、勇猛果敢な闘争はできないと、考えている人もいた。そうした幹部たちは、「驀進!」と聞いて、はたと膝を打つ思いであった。
 戦いの勝利のためには、時に応じ、機に応じて、最も有効な手を打つのが指揮官の任務である。厳しい情勢を一変させるために、絶えず価値的な先手を打つことができなければ、多くの人びとは戸惑ってしまい、苦しむ場合が多い。
 戸田は、指導者として、常にそう肝に銘じていかなければならなかった。
 戸田の心の動きを、いつも速やかに察知して実践する山本伸一は、当時、男子部の班長とともに、蒲田支部の支部幹事を兼任したばかりであった。支部幹事は、支部長と一緒に支部の活動の責任を担っていく立場である。
 戸田は、彼の本命ともいうべき大折伏戦を宣言するにあたって、その闘争の一大推進者として、「そろそろ『伸』を出すか」と言って任命したのである。
 伸一は、組単位の闘争ということを信条として、支部内の組織活動を緻密に立案し、直ちに実践していった。そして、自ら東奔西走して、支部内の空気を一変させてしまったのである。
 その結果、遂に二月の折伏成果、二百一世帯を達成して、支部の面目を新たにしたのであった。当時、一カ月で百世帯前後の成果が、A級支部の限界であった。一支部で二百世帯を超える成果を出すなどということは、夢のようにさえ考えられていた。
 多くの同志たちは目を見張った。そして、戸田の言う通り、必ずできるという確信をもつにいたったのである。その後、「二月闘争」という学会の伝統ができたが、その淵源は、実は、この時にあった。
 一人の勇気ある先駆者があれば、それは見事な模範となって、多くの人びとを、無言のうちに率いていくものだ。蒲田支部で、山本伸一が、二百世帯を超える折伏成果を上げたことによって、各支部も負けじと自信をもち、活発な動きを見せ始めた。
 二月の折伏成果は、学会全体で八百三十六世帯と跳ね上がり、もう一息で千世帯の目標に迫りつつあった。
4  戸田が、組織の整備に着手し、未来への発展の構想を練っていた時、春木征一郎という蒲田支部の一幹部が、大阪に転任となった。
 彼は、プロ野球の投手として、東京の球団で活躍していたが、この年に入って所属の球団が変わり、大阪へ移らねばならなくなったのである。戸田は、この春木を、大胆にも、「大阪支部長心得」に任命したのである。文字通りの人材の抜擢であった。
 関西には、学会員は、いまだ少ない。春木は、単身、まず自らが先頭に立って、最初の一世帯を折伏せねばとの決心で、大阪という広漠たる都会を相手に、活動を開始しなければならなかった。彼の肩には、「支部長心得」が、のしかかっていたからである。
 春木征一郎は、戦時中の古い入会である。蒲田の大地区部長である春木洋次の甥で、この叔父夫妻に折伏され、入会したものの、退転の深い眠りを続けていた。戦後、プロ野球の選手として、波に乗っていた彼は、幸福の絶頂にあった。一九四八年(昭和二十三年)ごろ、彼は、退転を叔母に責められると、こう宣言するのであった。
 「これからは、自己の信念に立脚し、正義の強さ、愛情、金銭を土台にして、今まで以上に頑張るつもりです。叔母さんの言うように罰があるとは、とうてい考えられない。もし、そうであっても、この信心を、一応、捨てます。罰があるものなら、当たってもかまいません」
 得意満面の当時の彼にとって、この宣言は、うるさい叔母に対する溜飲の下がる啖呵であった。しかし、彼の自信は、三年とは続かなかったのである。
 まず、離婚に直面した。その後、再婚したが、妻は病弱であった。正義感と努力にもかかわらず、球団における彼の成績は下降線をたどった。内外ともに面白くない最中に、住み込みで働いていたお手伝いさんが、心の病になり、彼女との対応に、体力に自信のあった彼も、疲労困憊してしまった。
 遂に彼の妻が、叔父夫妻に実情を訴えた。叔母は、直ちに、嫌がる春木を連れて、戸田の指導を仰いだ。
 「三年で気がついてよかった」と、戸田は、退転の恐ろしさを諄々と諭した。
 「春木君、早く気がついてよかったんだよ。人生は、君の努力や金の力では、解決できないことの方が多い。こんな簡単なことが、みんなわからないでいる。だから、人生不幸なんだ。わかってしまえば、正しい信心が絶対に必要となる。
 君は、今、八方ふさがりの地獄にいると気がついたところだ。だが、それが、君の信心いかんで、全部、解決するんだよ。退転は、人生の正しい軌道から、自ら外れてしまうことだ。その結果が、実に厳しく苦しいということが、いやというほど、わかったろう。これを罰というのだ。今後は、自身の将来のために、一家の本当の繁栄のために、覚悟して、一生涯、信心をしてみたまえ。必ず、心の底から″よかった″と言う日が来る」
 巨体の春木は、小さくなって、戸田の前を引き下がった。
 彼が、信心根本に立ち上がった時、いちばんの悩みであったお手伝いさんの病状も快方に向かっていった。そして、やがて彼女は、もとの健康な姿に戻っていったのである。
 こうして五二年(同二十七年)一月、大阪支部長心得となった春木征一郎は、大勢の同志に送られて、大阪へ一人旅立った。
5  このころ、組織発展への、もう一つの試みがなされた。二月十日の江東総支部の結成である。この、学会最初の総支部の総支部長には、泉田弘が任命された。
 彼は、五〇年(同二十五年)八月、会社の勤務の都合で群馬県に赴任した。山間の地で活動に励んでいたことから、東京の会員たちは、泉田を、「熊のおじさん」と親しみを込めて呼んでいた。その彼が、一年半で群馬県での生活を終え、元気に東京へ帰って来たのが、この年(昭和二十七年)の一月十日であった。
 戸田は、未来のために、総支部設置の構想を実行に移した。下町を中心とした小岩、本郷、向島、城東の四支部で、江東総支部を結成したのである。
 二月十日の結成式は、常泉寺で行われ、参加人数は千人を超えている。戸田の会長就任式以来、わずか九カ月で、四支部で常泉寺の本堂を埋めるまでになっていたのである。急テンポの組織の拡大は、まさに驀進といえるであろう。
 戸田は、江東総支部の結成式で訴えた。
 「泉田君の総支部長就任は、学会の大きな試みであります。泉田君を中心に、一致団結して、立宗七百年の時期を逃さず、一生成仏という大功徳を受けてください。
 入会して信心に励めば、御金言に照らして明らかなごとく、過去世の謗法の罪が出ます。これと戦い尽くして、本当の成仏の功徳をつかみ取ってください」
 彼は、簡潔に、″宿業転換の原理″と″信心の功徳とは、いかなるものか″を、身近な例をあげて説いた。
 「二十数年前に、私が折伏した長屋のおかみさんが、真面目に信心を貫き、仕事に生活に励んできた結果、今、一億の大財産家になっております。実は、これも、宿業転換の一つの証拠なんです。功徳には、さまざまな形がありますが、このおかみさんのように、死ぬまでに、生活のうえに大きな功徳を受ける人もいる。それは、信心を貫いていけば、必ず成仏できるということの証明でもあります。
 末法の信心といえば、折伏であるが、実に骨が折れて、そのたびに文句を言われる。しかし、それで罪障を消し、成仏の功徳をつかむことができるんで」
 彼が折伏の総帥であることを、師子吼したのである。
 「私は、明日で満五十二歳となる。その前夜に、こうして皆さんにお目にかかって、″折伏しろ″と言うのは、皆さんのためなんです。日蓮大聖人様に晴れてお目通りするには、これ以外にないからであります。
 折伏は、戸田が師匠であります。師弟の縁が決まった以上、罪は私が着る。皆さんは幸福になりなさい。私は、今まで日蓮大聖人様へのお約束を果たさなかったがために、万般の罪を受けました。今後、死ぬまで、この体を御法のために捧げます。皆さんは、信心を真っ当にして、功徳を受けなさい。折伏に励んで、日蓮大聖人様にお目通りしなさい。
 この総支部長のもと、信心と折伏をもって、戸田の一門として通しなさい」
 折伏の師匠の激励は、心温まるものであった。言い尽くせぬ感動のうちに、江東総支部は発足したのである。
6  行事は、後から後へと、戸田を追いかけた。轟音を響かせ、雲を破って上昇しなければ、安定飛行にならぬジェット機のように、彼は、離陸のための戦いに懸命であった。
 江東総支部の結成式から一週間後の二月十七日には、同じ常泉寺で青年部研究発表会があった。
 ここには、四百人の男女青年部員が参集し、二十人が設問に答えるという形式で進められた。
 設問は、「信心すると大善生活ができる理由」「宗教と科学の関係を述べよ」「誤った宗教を信ずると、なぜ生命が濁るか」「種脱相対について述べよ」……といった二十問であった。
 戸田は、審査員の一人として、終始、にこやかに採点していた。そして、若々しい青年たちの真剣な討議を、満足そうに見守っていた。一人ひとりが、彼の弟子として育っていくのが、こよなく嬉しかったのである。
 彼は、最後に講評しながら、この時、重大な指針を披瀝した。
 「点をつける役目になって、一生懸命にいたしました。二点、三点、……六点以上はつけられないと思っていましたが、九点の人もあります。零点の人もおりますが、問題の出し方も悪かったので気の毒でした。素直に、『わかりません』と頭を下げた女子部もいました。また、それがよいところです。
 皆、実によく勉強しております。今日は、意義深い立派な研究発表会になりました。また、やろうではありませんか。
 ここで、私自身の思想を述べますならば、私は、共産主義やアメリカ主義では絶対ありません。東洋民族、結局は地球民族主義であります」
 彼は、ここで、ぽつんと、「地球民族主義」という耳慣れぬ言葉を、初めて口にしたのである。この日の討論を、宗教ばかりでなく、現代思想に関する討論としたかったのかもしれない。だが、彼は、この時、地球民族主義について、一言の説明もしなかった。
 戸田が言いだした地球民族主義という概念は、その後、かなり理解されるようになってきたが、彼の発想の真意は、どこにあったかを考える必要があるように思われる。
 それは、現代のさまざまな国家観に対する否定にあった。否定といって当たらないならば、そのアウフへーベン(止揚)にあったといってよい。
 これまでの国家というものは、国民にとって至上の権威をもっていたが、そのような時代の終焉を、早くも戸田は洞察していたのではないかと思われるのである。つまり、これまでの国家が、もはや虚像となりつつあることを、彼は見抜いていたのであろう。それは、仏法の鏡に照らしてみても、人間社会の究極の帰結であったからである。
 歴史的に見ると、かつては小国家が分立していた。日本においても、古くは全国が六十余国に分けられており、中世から近世にかけて、各地の支配者は、領土の争奪のため対立抗争を繰り返した。江戸時代には幕藩体制が敷かれて、それぞれの藩は幕府の支配を受けながらも、一つの″国″として存在していた。しかし、領土の争奪戦はなくなった。
 近代になって、明治政府ができると、廃藩置県により、″国″としての藩は消え去り、″国境″も消滅して、日本全体が一つの国となった。そうなってみると、人びとの間にあった、藩同士の対立感情は徐々に希薄化し、かつての国境は、単なる行政区域の境界線となった。
 近代の戦争は、主として二十世紀においては、国家と国家との抗争といえる。したがって戦争となれば、人びとには、自分が属する国家への忠誠が求められたし、戦争協力が忠誠心の証ともなった。
 ことに日本にあっては、「国家のため」を至上命令とし、同時に、それが人間倫理の最高規範とされ、人びとは、この規範のもとに、戦争行為を正義の発露と信じて戦場に赴いたのである。この「国家のため」の名のもとに、どれだけ多くの若者が戦場で命を失ったことであろうか。
 本来、「民衆のため」にあるべき国家が、その位置を逆転させ、「国家のため」に民衆に犠牲を強要した。「国家悪」ということが言われるのも、故なきことではない。
 さらに加えて、核兵器による大量殺裁は、破滅的な大惨事をもたらすであろう。その核兵器の所有者は、一握りの国家でしかない。
 現代のような国家の存在形態は、未来の戦争を回避し、阻止する保障を与えてくれない。むしろ、大きな障害になることさえ自明となっているのだ。
 戸田城聖の地球民族主義は、この意味において、極めて深い意義をもっといわねばならない。仏法は、人間の原理を根本的に説いたものであって、国家の原理は、いわば従となっている。しかし、これまでの世界の国家観は、国家を主として、人間を従に置いてきた。この倒錯を、戸田は看破したのである。
 この主従の倒錯の転換は、また、二十世紀から二十一世紀への、最大の課題と、必ずなるであろう。さもなければ、戦争の壊滅的災害は、不可避と思われるからだ。戦争という大量の殺し合いを行う国家は、「殺」を人間の最大の罪悪とする思想から見る時、悪の権化と映るはずである。
 国家の名において行われる「殺」の行為だけが、許されていいはずは絶対にない。まして、国家のために戦場で死ぬことが、「悠久の大義」などであるはずはない。「悠久の大義」とは、人類の平和のためにこそ、存在しなければならぬはずである。
 だからといって、現代の国家の形態を問い直すことが、無政府主義に向かうものであるなどと早合点されては困る。過去から現在に至り、さらに、未来の人間社会を展望するならば、現在の国家は、大雑把にいって、かつての封建時代の藩のごときものであるといえよう。
 それは、地域的あるいは民族的な自治体の機関として必要ではあろう。近未来的には、なかなか至難の業かもしれないが、地球民族主義、または、世界民族主義を根底とする、世界連邦政府ともいうべき機関が確立された時、現代の国家悪の増長はやみ、地球上の戦争は、大きく抑制されていくことは必然であろう。
 私たちの言う広宣流布とは、人間根本の絶対平和主義による、仏国土の出現を意味しているといえよう。そうであってみれば、戸田城聖の言うように、全人類を運命共同体とした地球民族主義が、旧来のさまざまな国家観に取って代わる時代を、当然、築くべきなのである
7  戸田は、この研究発表会で、地球民族主義という彼の立場を宣言したが、一言の説明も加えなかったのは、当時は、まだ、とうてい理解される機運になかったことを、承知していたからである。しかし、それがまことに偉大なる洞察であることには変わりない
 彼は、話を変えて、続けた。
 「現段階の学会幹部は、皆、牧口門下であります。
 青年部には、牧口門下はおりません。
 今は、牧口門下のみ、私を支えている。しかし、青年部は、ぼくの旗本であります。私は、十九歳の時、師に会い、そして仕え、四十三歳にして牢に入りました。その間の二十有余年、一度も師に心配をかけないでまいりました」
 彼は、自らの弟子の道を顧みながら、かわいい青年部の奮起を促して、こう語ったのである。
 「三代会長は、青年部に渡す。牧口門下には渡しません。なぜかと言えば、老人だからです。譲る会長は一人でありますが、その時に分裂があってはなりませんぞ。今の牧口門下が私を支えるように、三代会長を、戸田門下が支えていきなさい。私は広宣流布のために、身を捨てます。その屍が、品川の沖に、また、どこにさらされようとも、三代会長を支えていくならば、絶対に広宣流布はできます」
 これは、戸田の遺言ともいうべきものであった。
 彼の胸中には、広宣流布の達成と、その達成のための使命の実践が、そして、広宣流布の基盤となる七十五万世帯の達成と、彼の寿命が、また、後事を託すべき第三代会長が、いかにして彼の構想を実現していくか――が渦を巻いていたにちがいない。
 彼は、険しい表情で、最後に、こう結んだ。
 「この日本を、東洋、いな世界を救うのは、学会以外にありません。その時、諸君は勇敢に、驀進するか!」
 「いたします!」
 雷のどとく、一斉に声があがった。
 戸田は、その響きに真実を感じ取ったのであろう。軽く頷き、穏やかな表情に戻って言った。
 「次回は、後ろの方の人も、全員が発表できるようにしたらいいと思う。また、飛び入り、特別指名などの方法もどうだろう」
 青年の心情を知っている彼である。会合に変化をもたせることを忘れなかった。
 この日の会合は、まことに記念すべき集会であった。青年部の研究発表会が、記念すべき会合であったというのではない。この時の戸田の発言が、青年たちの未来と、学会の前進に記念すべき道標を打ち立てたからである。
8  立宗七百年祭は、刻一刻と近づいていた。その日までに、是が非でも、御書を発刊せねばならなかっ
 戸田は、多くの学会行事が重なるなかで、御書発刊の万端の指揮を執っていた。七百年祭に間に合わせるためには、大車輪で校正作業に没頭しなければならなかったのだ。
 彼の指揮する宗教革命には、年末も休日もなかった。広宣流布という思想革命には、いささかの停滞も許され、なかったからである。
 彼は、闘争と開拓と前進のなかに、最高の生きがいを見いだしていた。彼は、広布の戦いのなかにこそ、休息を感じ、偉大な人生の巨歩が印されていくことを、自然に会得していたのである。
 前年の十二月二十八日から三日間、静岡・畑毛での初校が始まったころ、奇しくも押収されていた牧口初代会長の霊艮閣りょうごんかく版の御書が、警視庁から戻ってきた。
 一九四三年(昭和十八年)七月六日――牧口が下田で逮捕された折、自宅に向かった刑事は、家宅捜索をしている。そして、この御書をはじめ、数々の書類を押収していったのである。それが、八年過ぎた今、やっと返却されてきたのであった。
 戸田は、懐かしそうに、恩師の御書をなでながら言った。
 「牧口先生も、御書発刊と聞いて、この御書校正の席においでになったんだよ。われわれと一緒に、校正をやってくださるのと同じことではないか」
 牧口の御書をひもとくと、多くのぺージに朱の傍線が引かれている。そして、余白は、たくさんの書き込みで、いっぱいであった。
 第二回の畑毛行きは、二月一日から三日にかけて行われている。教学部の教授、助教授、それに青年部の幹部を加え、二十人で、約一千ページの再校を行っている。第三回は、二月二十二日から二十四日にかけて、再校、三校、合わせて約九百ページの校正作業に全力を注いだ。世界の最高峰に位置する日蓮仏法の哲理は、無名の学者の手によって、全民衆の前に鮮明にされ、永遠の未来に向かって、その光彩を放っていったのである。
 校正刷りは、出始めると、印刷所から洪水のごとく回されてくるものである。金曜日から日曜日にかけての畑毛行きでは、間に合わなくなった。三月に入ると、毎日、市ヶ谷の事務所や、学会員宅の一室を借りて校正にあたり、疑問の箇所は、代表者が畑毛の堀日亨のもとに行って確認した。校正担当者たちは、数日続けて徹夜しなければ追いつけぬ時もあった。しかも、それを喜んで引き受けたのである。
 春が来た。名もない学者たちは、真剣に、そして希望に胸をふくらませて、完成に努めた。
 四月三日から十五日まで、連日、午後から深夜まで、全員が印刷所に出張し、三校、四校と念を入れていった。この間も、幾たびとなく畑毛の日亨のもとを訪ね、筆を煩わせなければならなかった。戸田の指揮下、全員の団結は見事なもので、ほとんど徹夜に近い作業を続行し抜いたのである。
 学会の伝統は、幹部が泥まみれになって、先頭を行くところにある。そして、後輩が安心して、信心と生活とに邁進できるように、道を切り開いていく。他の組織や団体とは、見事な一線を画した実践の姿が、そこにあった。未来への、未聞の栄光の道を開拓していくためには、それ以外にあり得ないと信じていたからである。
9  御書発刊と同時に、学会員は、すさまじい勢いで、立宗七百年祭の日をめざして活動に邁進し続けた。前年秋からの会員の激増によって、これまでの総会の会場では、全会員を収容することができなくなっていた。いきおい各支部単位の総会を行い、そのうえで、四月七日の春季本部総会は、会場を千代田区神田駿河台の中央大学講堂に移して挙行する方針が決定された。
 既に開催された、二月十日の江東総支部総会に始まり、三月には、一日の中野、二日の杉並、九日の足立と築地、十六日の蒲田と、それぞれの支部が、第一回の総会を行ったのである。
 それは、七百年祭を目前に、各支部が躍進の姿を鮮明にあらわすものとなった。つまり、これまでの学会本部の努力が実り、各支部が着実に力をつけ始めた結果であるといってよい。戸田が、第二代会長に就任して以来、わずか十カ月での成長であった。
 各支部の伝統は、この苦闘と建設の時期に築かれたのである。
 戸田は、どの支部総会の壇上にも姿を見せた。そして、戸田の顔を知らぬ新入会の支部員たちに、親しく語りかけた。
 三月一日の中野支部総会では、七十七歳の一婦人の体験発表に、彼は、深い同情を寄せて聞いていた。
 ――天涯孤独で病身の婦人が、老人養護施設で、四面楚歌の冷酷な迫害のなかを戦いつつ、遂にその境遇から脱して、歓喜に満ちた生活と信心にたどり着くまでの信仰体験であった。赤裸々な話のなかにこそ、深い真実があるものである。
 戸田は、心を動かされて立った。
 「ただ今の体験談をお聞きになったと思いますが、多くの皆さんは、このご婦人より、はるかに若い。したがって、これからがっちり信心に励めば、いかに多くの功徳を受けることができるか。皆さんも、五欲をほしいままにし、たくさんの功徳を受けてください。祈りとして叶わざるはなし――いかなる願いも、叶うのであります」
 彼は、ここで、さらに新入会者の多いことを見て取って、話を続けた。
 「初信の功徳の次に起こってくるものが、魔であります。御聖訓には『此の法門を申すには必ず魔出来すべし』と仰せです。三障四魔が紛然として起こり来るのであります。仏と魔は一緒であり、善と悪とは左右の関係であり、幸福、不幸は隣同士であります。
 魔に四つあり、病魔、死魔、煩悩魔、天子魔であります。信心をさせまいとし、疑いを起こさせるものが来るのであります。″さあ来い、魔などに負けてたまるか″との大覚悟で向かう時は、魔は退散するのであります。
 『詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん』とは、『開目抄』にある大聖人の御言葉であります。大覚悟がなければなりません。疑いを起こす人は、たいてい横着な信心の人であります。
 そうした山を越え抜いた時、成仏の境涯といって、崩すことのできない境涯となるのであります。この山を越せるか越せないかは、その人の信心によるのであります」
 戸田の話は、観念ではなく、生命の奥底からの確信として響いた。
 「大聖人は、『つたなき者のならひは約束せし事を・まことの時はわするるなるべし』と戒められておりますが、怯みそうになる時こそ、御本尊様にすがるように、ひたすら祈り抜いていくならば、必ず願いは叶うのであります。
 今日からは、このことをしっかり胸に抱き締めて、死ぬまで忘れぬようにしていただきたいと思います」
 戸田が、生涯に行った講演は、通算すると、実に多い。だが、同じことを二度繰り返すことは、まことにまれであった。その時、その場において、聴衆が求めているところを察知し、人びとに必ず満足を与えていった。ある時の、ある場所の聴衆は、それなりの特殊性をもつように、彼の講演も、その時、その場所にしたがって、それなりの特殊性をもっているのである。
 今日、残っている彼の『講演集』を読む時、その言葉のみを追って読むとしたら、時に、その真意を読み違えてしまうこともあろう。その時々の背景と、環境を考慮に入れる必要がある。すると、彼が何ゆえに、そう言わなければならなかったか、その必然性を知ることができる。
 その時、彼の講演は、いかに生き生きとした熱気を帯びていたかが、にわかに、よみがえってくるであろう。これは、単なる雄弁術の演説家などの、まねのできることではない。
 戸田の講演には、常に、彼の生涯を通してつかんだ真実が、凝縮されていた。彼の悟達の智慧の泉から、滾々こんこんと湧き出る確信を、惜しげもなく民衆に与えていったのである。戸田の確信に触れた人たちは、忘れがたい歓喜を、生涯、胸中にもつにいたった。彼の話す抑揚や物腰、聴衆をわが身内のように思いつつ語る姿は、まことに抜苦与楽の実践であったのである。
10  一月末から始まった驀進の行動は、蒲田支部での二月闘争が突破口となって、三月には、はっきりと新時代の到来を思わせる実態となった。
 三月三十一日の幹部会の発表によると、折伏成果は次の通りであった。
  蒲 田   二一二    鶴 見   一六九
  足 立   一五四    小 岩   一二七
  杉 並    八三    築 地    八二
  向 島    五一    本 郷    五〇
  中 野    四三    文 京    四〇
  城 東    三四    志 木    二八
   計一〇七三世帯
 二月に引き続いて、蒲田は二百世帯を突破した。また、各支部も競って、これに続こうと努力し、前年秋の十月からの目標である一カ月千世帯を、七十三世帯超えることができたのである。
 驀進は、かけ声だけの闘争ではなかった。決めたことを断じて達成することが、学会精神である。
 皆、戦い切った表情であった。どの幹部の顔にも、微塵の悔いもなく、暗い影もなかった。四月の立宗七百年祭の祝典に、名実ともに地涌の戦土として参加しようとする、晴れ晴れとした法戦だった。
 こうして、七百年祭をめざす戦いの火は、暗黒の末法に、本格的な広宣流布の火となって、赤々と燃えていった。
 戸田城聖にとっては、会長就住後の第一楽章ともいうべき、全人類の救済に向けての指揮であった。当然、一切の力を、ここに集中せねばならなかったのである。
 まさしく七百年祭は、世界の救世主・日蓮大聖人が、末法万年尽未来際までも救済せんと宣言なされてから、七百年という記念すべき節である。戸田にとっては、広宣流布達成という無血革命の悲願に立ち向かう、重要な跳躍台でもあった。
 一念ほど強いものはない。一人の人間の、不動の鉄のごとき一念が、やがて世界をも動かしていくのである。
 戸田の、消えることのない一念の火は、点々と弟子たちの心に燃え移っていった。そして、ここに、仏教史上の新しい黎明期を迎えようとしていたのである。
 一九五二年(昭和二十七年)といえば、創価学会の名前すら知る人も少なかった。荒んだ世間のなかで、人びとは、容易に耳を傾けようとはしなかった。いな、鋭い理念と信念より発する、既成の宗教観念を根底から覆す折伏という布教に、多くの反発の波が重なっていったのである。他教団からの攻撃の火の手が上がり始めたのも、このころからであった。
 七十五万世帯の達成に向かう前進は、敢えて困難の壁に向かう戦いであった。数百年来の宗教風土のうえに、牢固として築かれた旧習の壁への挑戦である。固い岩盤を砕いて進むがごとき日々であった。だが、弟子たちは、戸田の一念に見事に応えたといえよう。真剣な戦いと、責任感にあふれた戦士の固い団結で、魔の壁を崩しつつ驀進していった。
 青年部が急速に発展したのも、この時期であった。総数三百六十余人のうち、二百人の総本山への登山で立宗七百年の元旦を飾った男子部は二月には百九十人、三月には二百六十余人の部員増加をみた。
 これで、四部隊総計八百人を超える陣容にと飛躍していった。わずか三カ月の驀進の足跡である。短期の決戦がなければ、長期戦の盤石の基礎ができぬこともある。今、戸田の軍勢には、それが必要であった。
 この驀進には、一つの推進力があった。二月九日、青年部会で発表になった、参謀部の設置がそれである。これは、後にできた参謀室の前身でもあった。すなわち、あらゆる企画は、ここに統一され、強い一本の指導の線が貫かれたことである。
 「謀を帷帳の中に回らし」とある如く、企画・立案に取り組む参謀部が、常に戸田に直結していたことは無論である。この戸田との強靭な師弟の結合が、短日月に青年部を大成長させていく力となったと見てよいであろう。
 七百年祭を目前にし、それをどう迎え、また、どう送ったかは、後日の話となるが、ともかく五二年(同二十七年)という年は、青年部の存在を、永遠に輝かしい不動のものとした、驀進の年であったことは間違いない。

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