Nichiren・Ikeda
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日蓮大聖人・池田大作
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驀 進
小説「人間革命」5-6巻 (池田大作全集第146巻)
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一月末から始まった驀進の行動は、蒲田支部での二月闘争が突破口となって、三月には、はっきりと新時代の到来を思わせる実態となった。
三月三十一日の幹部会の発表によると、折伏成果は次の通りであった。
蒲 田 二一二 鶴 見 一六九
足 立 一五四 小 岩 一二七
杉 並 八三 築 地 八二
向 島 五一 本 郷 五〇
中 野 四三 文 京 四〇
城 東 三四 志 木 二八
計一〇七三世帯
二月に引き続いて、蒲田は二百世帯を突破した。また、各支部も競って、これに続こうと努力し、前年秋の十月からの目標である一カ月千世帯を、七十三世帯超えることができたのである。
驀進は、かけ声だけの闘争ではなかった。決めたことを断じて達成することが、学会精神である。
皆、戦い切った表情であった。どの幹部の顔にも、微塵の悔いもなく、暗い影もなかった。四月の立宗七百年祭の祝典に、名実ともに地涌の戦土として参加しようとする、晴れ晴れとした法戦だった。
こうして、七百年祭をめざす戦いの火は、暗黒の末法に、本格的な広宣流布の火となって、赤々と燃えていった。
戸田城聖にとっては、会長就住後の第一楽章ともいうべき、全人類の救済に向けての指揮であった。当然、一切の力を、ここに集中せねばならなかったのである。
まさしく七百年祭は、世界の救世主・日蓮大聖人が、末法万年尽未来際までも救済せんと宣言なされてから、七百年という記念すべき節である。戸田にとっては、広宣流布達成という無血革命の悲願に立ち向かう、重要な跳躍台でもあった。
一念ほど強いものはない。一人の人間の、不動の鉄のごとき一念が、やがて世界をも動かしていくのである。
戸田の、消えることのない一念の火は、点々と弟子たちの心に燃え移っていった。そして、ここに、仏教史上の新しい黎明期を迎えようとしていたのである。
一九五二年(昭和二十七年)といえば、創価学会の名前すら知る人も少なかった。荒んだ世間のなかで、人びとは、容易に耳を傾けようとはしなかった。いな、鋭い理念と信念より発する、既成の宗教観念を根底から覆す折伏という布教に、多くの反発の波が重なっていったのである。他教団からの攻撃の火の手が上がり始めたのも、このころからであった。
七十五万世帯の達成に向かう前進は、敢えて困難の壁に向かう戦いであった。数百年来の宗教風土のうえに、牢固として築かれた旧習の壁への挑戦である。固い岩盤を砕いて進むがごとき日々であった。だが、弟子たちは、戸田の一念に見事に応えたといえよう。真剣な戦いと、責任感にあふれた戦士の固い団結で、魔の壁を崩しつつ驀進していった。
青年部が急速に発展したのも、この時期であった。総数三百六十余人のうち、二百人の総本山への登山で立宗七百年の元旦を飾った男子部は二月には百九十人、三月には二百六十余人の部員増加をみた。
これで、四部隊総計八百人を超える陣容にと飛躍していった。わずか三カ月の驀進の足跡である。短期の決戦がなければ、長期戦の盤石の基礎ができぬこともある。今、戸田の軍勢には、それが必要であった。
この驀進には、一つの推進力があった。二月九日、青年部会で発表になった、参謀部の設置がそれである。これは、後にできた参謀室の前身でもあった。すなわち、あらゆる企画は、ここに統一され、強い一本の指導の線が貫かれたことである。
「
謀を帷帳の中に回らし
」とある如く、企画・立案に取り組む参謀部が、常に戸田に直結していたことは無論である。この戸田との強靭な師弟の結合が、短日月に青年部を大成長させていく力となったと見てよいであろう。
七百年祭を目前にし、それをどう迎え、また、どう送ったかは、後日の話となるが、ともかく五二年(同二十七年)という年は、青年部の存在を、永遠に輝かしい不動のものとした、驀進の年であったことは間違いない。
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