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日蓮大聖人・池田大作

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前三後一  

小説「人間革命」5-6巻 (池田大作全集第146巻)

前後
1  戸田城聖は、何かを凝視して静かであった。一九五一年(昭和二十六年)七月、朝鮮戦争(韓国戦争)の休戦会談が始まり、九月には、サンフランシスコの講和会議があった。
 このころ、このように幾重にも重なった出来事に、戸田は、思いをいたさないわけではなかったが、周囲の人びとには、ほとんど無関心のように見えた。日本の国の本質的なものは、結局、何一つ変化をきたしていないからである。
 韓・朝鮮半島での戦争は、相変わらず続いていたし、日本は、講和条約で、いずれ独立国になることは決まったが、アメリカに、何から何まで依存しなければならない独立であった。本質的な変化は、何も認めることはできなかった。
 彼は、皮相的な現象の数々の変化には、生涯、ほとんど心を動かすことはなかった。彼が、あくまでも本質的と見たのは、日本そのものの宿命の問題であったからである。そして、この問題に関連する民衆の幸・不幸が問題であった。
 彼の言う本質的な変革とは、言うまでもなく、まず一国の広宣流布である。この未聞の難事業からするならば、戦争の後始末などは、はるかに楽な仕事に思えた。すなわち、彼の志向する次元が、人びとと違っていたのだ。
 彼は、この激動の時代にあって、着々と広宣流布の基盤づくりに、精魂を注いでいたのである。
 夏には、第六回夏季講習会に全力を傾けていた。その意中は、第二期の広宣流布の第一歩を踏み出すにあたり、宗教改革の骨組みとなるべき人材を養成することにあった。
 五月の会長就任以来の躍進は、ここにも見られ、八月三日から七日までの五日間、総本山で、前期、後期に分かれ、合計九百十四人に上る参加者をみた。戦後六年にして、過去の記録を飛躍的に破ったのである。
 戸田は、まことに元気であった。行事日程は、ぎっしり詰まり、寸暇も残さないほどの内容である。勤行、座談会、講義……と、次々と続いていった。戸田を中心とした、これらの行事は、一切、円滑に運営されて、総本山は、時ならぬ活気を呈した。誰もが求道心にあふれでいた。
 この夏季講習会の期間中、戸田は、多くの学会員を前にして、親しく話しかけ、指導した。さらに、質問に答え、彼の胸中に広がる広宣流布の構想と、その実践とを、全精魂を傾けて訴えたのである。
 「広宣流布の推進こそが、あくまでも、われわれの目的なのであります。日蓮大聖人の御化導の次第を考えますと、まず立宗宣言において題目を唱えられ、念仏の充満した社会に題目を流布する戦いを開始されました。次に竜の口の法難で発迹顕本されてからは、末法の御本仏としての御境界から、一切衆生の幸福の根源である御本尊を御図顕されたのであります。
 他宗でも題目を唱えており、題目の流布は、もはや日本国中にできております。残念ながら、彼らは、拝む対象を間違っている。本尊雑乱の時代です。だから今は、正しい本尊の流布に励む時なんです。目的は広宣流布です。御金言の通り、この正法は、必ず東洋に、全世界に広まっていくんです。もし、そうならなければ、大聖人は大嘘つきになってしまう。必ず、必ず、広まっていくことを自覚しなさい。
 ここに、われわれの使命があるんです。われわれには、本尊流布以外には何ものもないのであります」
 さらに彼は、夜の客殿の座談会で語った。
 「歓喜に満ちて、総本山に登山した人もあるでしよう。また、悩みをもって登山した人もあるでしょう。いずれにせよ、今日を出発点として、二、三年たった時、振り返ってみなさい。必ず、木が自然に伸びゆくように、幸福になっている。これは、絶対の確信をもって申し上げる。だから、安心して折伏しなさい。誰がなんと言おうと、大聖人の仰せには間違いはない。今、折伏しなかったら、後悔するでありましょう。この実践以外に、宿命の打開も、真の幸福も実証はできない。
 昔と違って、今の時代は、折伏は、実にしやすくなっている。条件がそろっているんです。時が来ているんです。大聖人様の最高の法理によって、年間研鑽してきた創価学会は、もはや理論の面でも、絶対に敗れないものをもっております。
 共に勇敢に戦おう。もし、広宣流布の途上で君たちが倒れることがあったならば、骨は私が必ず拾おう」
 このあと、学会歌が、客殿の中で、ひときわ力強く響き渡り、夏の夜空に広がっていった。
2  夏季講習会を成功裏に終わって、八月三十一日に支部長会を開いてみると、本尊流布は、六百四十六世帯という数字が出た。六月の四百四十より多かったものの、七月の成果、七百三十五に比べると少ない。戸田は、ここで手綱を引き締めて言った。
 「新入会者の数から見た場合、われわれの目的地は、あまりにも遠すぎる感がある。二十年、三十年後をめざす大業であってみれば、短期間の成績によって、うんぬんはできないことであるが、世界の情勢とにらみ合わせた時、これではならない。来月は、しっかり頑張ってもらいたい。
 各支部の報告からみて、支部長の熱と確信が、いかに支部活動の成績に響くかが、明瞭であります」
 広宣流布の指揮官たちは、張り出された成果をじっと見た。そして、各支部の同志が、夏季休暇などを利用して、それぞれ縁故のある地方へ、熱意をもって進出したことを知った。
 ちなみに、当時の懐かしい弘教の状況を、ここに記載しておく。
  支 部  入会世帯数   縁故のある地方
  蒲 田     八四    栃木、神奈川
  鶴 見     八八   
  小 岩     八五    群馬、栃木
  杉 並    一〇九    伊豆大島
  足 立     三九    千葉、栃木、群馬
  本 郷     五四    秩父、軽井沢、上田
  志 木     二五
  文 京     四六    保土ヶ谷
  中 野     三二    甲府
  築 地     四〇    静岡、高崎
  向 島     二六    福島
  城 東     一八
3  戸田は、地方への進出を心で喜んだが、口には出さなかった。
 彼は、厳しい表情で、毎月の目標を、A級支部は百五十、B級支部は百に置くことを支部長たちにはかり、奮起を促した。
 「広宣流布は、全東洋へ、全世界へなさねばならぬ大事業です。その盤石な基礎の建設を、今、日本において行っているのが、われわれなんです。それは地道な作業であり、派手に報道されている売名の戦いや、遊戯のような運動とは、全然、違う大偉業なんだ。
 大聖人は『日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるべし』と仰せです。この御聖訓を、諸君は、がっちり腹にすえて立つべきです。必ず将来、人びとは、この法戦の偉大さに驚くだろう。また、必ず成る大業なんです。これは、戸田の主観ではない」
 彼は、現在は、いかなる教えが人びとを幸福にするのか、宗教を峻別していくことが大切なゆえんを説いた。そして、「御本尊に対しての確信なくしては信仰なく、信力、行力なくしては、功徳は現れない」と、信心の要諦を述べた。
 続いて、自分に信心を教えてくれた人に対して、「教化親」などという他宗の言葉が使われていることに触れ、厳しく警告した。
 「学会は組織体であるから、支部長などの役職があり、その指導や指示に従って行動することは当然であるが、他宗教でいう教化親とは、全然、違ったものです。断じて混同することの、ないようにしてもらいたい。自分を折伏してくれた恩人は、『教化親』ではなく、御書に説く『善知識』というのであって、『一向・師にもあらず一向・弟子にもあらず』という立場です。真実の仏法の世界は、あくまで納得のいく合理性で貴かれているんです。
 学会において、『教化親』などという言葉を、もし使い、折伏した人を、あたかも自分の意思通りに動かしてよいのだ、という誤った考えをもっ者は、断固として処分する。このことを、この際、はっきり認識しておいていただきたい」
 彼は、学会の純粋な組織が、誤った考え方によって汚されるのを、厳しく戒めたのである。
 「『教化親』と呼ぼうが、『善知識』と言おうが、それは小さな問題であると思うかもしれない。しかし、学会が、広宣流布の大目的を敢行するための未聞の組織である以上、細かな配慮も必要なんです。
 諸君の腕にある時計を見たらいい。一個の時計にも、短針と、長針と、秒針とがあるではないか。三つの針が一体となって、時を刻んでいるんです。どんなに小さな動きでも、決してゆるがせにはできないことを、知るべきです。
 支部長のなかには、なんでも他人に任せて、いかにも大物ぶって、超然としている者もいる。それでは、動かない針と一緒です。細かな問題にも気がつくようでなければ、本物の指導者とはいえません。
 諸君は、広宣流布の伸展に遅れをとってはなりませんぞ」
4  戸田の頭脳は、激しく回転した。レーダーのごとく、常に全組織を点検していた。そして、一人ひとりの人材にスポットを当てて、それぞれに広宣流布の大目的を自覚させることに余念がなかった。
 彼は、まず教学面に大改革を加えた。九月一日から、「講義部」の名称を「教学部」と改め、将来に備えて、教学の課程を一新したのである。
 御書講義受講者の資格を五段階とし、一級を初歩、五級を最高とするというものであった。
 一級は、法華経講義で、戸田自身が講義を担当した。毎週水曜日の夜、本部で法華経の方便品と如来寿量品の講義を行い、一カ月で修了する。つまり受講者は、月々、新しくなるわけである。第一回は、各支部から希望者を募り、そのなかから、支部長が責任をもって推薦する百五十六人を受講者とした。
 一級を修了した者は、二級に進む。二級の教材は『折伏教典』である。支部長が講師になり、時に教学部員が担当することもあるが、受講者は、その支部の地区委員である。受講した地区委員は、自分の地区員に、『折伏教典』の講義をする。その『折伏教典』の発刊準備は着々と進んでいた。
 二級修了者は、三級に進むが、この級はA・Bに分かれていた。三級Aの講義は教学部員が担当する御書五十編以上の聴講で修了となり、B級に進む。三級Bは、研修科で、「観心本尊抄」などの五大部を受講する。
 四級は、日寛上人の「六巻抄」を教材とし、教学部員並びに教学部員志望者が、毎月、第二・第四月曜日に本部で、戸田会長から講義を受ける。
 五級は、「観心本尊抄」「開目抄」「当体義抄」の日寛上人の文段を、会長認定の者だけが受講する。
 創価学会の誇りとする教学の研鎖は、このような段階を設け、厳しい修練のうちに、全学会員に浸透することが図られたのである。
 戸田はまた、教学に偏する信心にも、注意を促さなければならなかった。
5  彼が執筆した、一九五一年(昭和二十六年)一日付「聖教新聞」の「寸鉄」欄では、さまざまな教学部員を風刺して警告している。
 「一、御書を読めない信者が多い。教学の衰えていることがわかる。広宣流布どころの騒ぎじゃないぞ。気をつけろ。
 二、御書を読める者もいる。そして大聖人の口まねだけしている。かかる者を桜夢おうむ居士と名づけ奉る。
 三、小説を読むひまがあっても、御書を読まん。こんなのは阿羅漢の弟で、陀羅漢というんだ。
 四、若い者で、御書を知ったかぶりしている者がいる。こんなのは釈迦の孫で悉多羅振しったらぶり太子と名づけ奉る。
 五、御書を読まないのを自慢の奥様がいる。こんなのは世迷よまよい夫人という。」
 その後の創価学会の、教学に対する基本的姿勢は、このころから確立されたといってよい。教学即実践であり、実践が教学の正しさを実証してきたのである。
 戸田は、会長就任の時、宣言した七十五万世帯の達成を、瞬時といえども忘れず、深く胸に秘めていた。そして、その目標と現実との間には、はるかな隔たりがあることも承知していた。彼の発想は、すべて、ここから出発していたのであったが、なすべき基礎固めが、今は、あまりにも多すぎた。
 偉大なる建設の基礎工事のために、彼の一日は、人びとの一カ月にも勝る真剣勝負が必要であった。しかし、彼は、はやる心を抑えつつ、御書に示された「前三後一」の原理に徹したのである。
 ――師子は、猛獣に立ち向かっても、蟻の子一匹に向かっても、変わることなく、慎重に低い姿勢で油断なく身構え、しかる後に猛然と満身の力で獲物に襲いかかっていく。いわゆる「前三後一」といわれる、絶対に過つことのない動作だ。
 戸田は、師子の力をもたぬことには、広宣流布の使命は、とうてい達成することはできないことを自覚していた。
 ″師子の力の秘密は、「前三後一」にある。今は、次の飛躍のため力を蓄え、陣列を見事に整備する時だ″
 彼が、こんなことを考えていた時、誰言うとなく、「かりがね」行進という言葉が、学会員のなかで言われだした。秋空の雁行は、一羽の先達に続いて、整然とした陣列で飛朔する。一羽の落後者をも出さないためである。どの地区も、仲よく「かりがね」行進をするならば、全学会の行進は、盤石なはずである。それはまた、戸田が、「前三後一」の鉄則に照らして企画した陣列の整然たる行進、一人の落後者もない行進の姿にも適ったものであった。
6  戸田は、未来を託す青年部に、今こそ明確な指針と、希望と、精神とを与えようと心を砕いた。それは、彼の心からの曇りない叫びで、なければならない。彼は、その草案を練りに練っていた。一語の無駄もなく、彼の精神が、そのまま青年たちの心に、永遠に生きねばならぬ。彼は、憔悴するほどの熱意で、文章にしていった。
 それは初め、班長への告示として発表され、後に「青年訓」として、多くの青年部員たちが常に朗唱し、支えとしていった一文である。
7  「新しき世紀を創るものは、青年の熱と力である。吾人らは、政治を論じ、教育を勘うる者ではないが、世界の大哲・東洋の救世主・日本出世の末法御本仏たる日蓮大聖人の教えを奉じ、最高唯一の宗教の力によって、人間革命を行い、人世の苦を救って、各個人の幸福境涯を建設し、楽土日本を現出せしめんことを願う者である。
 この事業は、過去に、おいては、釈迦の教団が実行し、近くは、日蓮大聖人の教団が、勇ましく戦ったのである。釈迦教団の中心人物たる舎利弗にせよ、阿難にせよ、みな若き学徒であった。日蓮大聖人の門下も、また、みな若き学徒によって、固められていたのである。日興上人は、大聖人より二十四歳も若く、日朗もまた、二十一歳の年のひらきをもっていた。西より東に向かった仏教も、青年によって伝承せられ、東より西に向かう大聖人の仏法も、青年によって基礎づけられたのである。
 吾人らは、この偉大なる青年学徒の教団を尊仰し、同じく最高唯一の宗教に従って、人間苦の解決・真の幸福生活確立・日本民族の真の平和・苦に没在せる東洋の浄土化を、弘宣せんとする者である。
 諸兄らは、この偉大なる過去の青年学徒群と、同じ目的、同じ道程にあることを自覚し、これに劣らぬ覚悟が、なくてはならぬ。霊鷲山会に、共々座を同じうしたとき、『末法の青年は、だらしがないな』と、舎利弗尊者や、大聖人門下の上人方に笑われては、地涌の菩薩の肩書きが泣くことを知らなくてはならない。
 奮起せよ! 青年諸氏よ。
 闘おうではないか! 青年諸氏よ。
 しからば、だれ人と、いかなるいくさを、吾人らは、なすものであろうか。
 第一は、無智の者に永遠の生命を教え、御本尊の絶対無二なる尊貴を知らしめて、功徳の大海に思うがままに遊戯する、自在の境涯を会得せしむるために、忍辱のよろいを著、慈悲の利剣をひっさげて戦うのである。
 第二は、邪智、邪宗の者に、立正安国論の根本義たる、邪宗、邪義は一切この世のなかの不幸の原因であり、それがために、諸天善神は国を捨て去り、聖人は所を去って、世はみな乱るるなりと教え、邪智、邪宗をひるがえすよう、智慧の鎧を身にまとい、かれらが執着の片意地を、精進勇気の利剣をもって、断ち切るの戦いである。
 第三に、衆生を愛さなくてはならぬ戦いである。しかるに、青年は、親をも愛さぬような者も多いのに、どうして他人を愛せようか。その無慈悲の自分を乗り越えて、仏の慈悲の境地を会得する、人間革命の戦いである。
 しこうして、吾人はさらに、諸兄らの行動について、望むところをもつものである。
 第一に、絶対的確信にみちたる信仰の境地に立脚し、信行において微動だにすることなく、唯一無二の御本尊を、主・師・親と仰ぎ、日蓮大聖人と共にいますのありがたさにあふれ、地涌の菩薩の後身を確信することである。
 第二には、行学に励み、御書を心肝にそめ、大聖人の仏法に通達して迷いなく、今はいかなる時かを凝視して、大聖人のみ心を心とし、日興上人のご遺誠をわが命として、努むべきである。
 第三に、その行動の態度たるや、真摯にして暴言を用いず、理をつくして指導の任に当たり、威厳と寛容の姿のなかに、邪義、邪宗、邪師に対しては、一歩も退かぬ勇気あるべきことである。
 第四には、部隊長および班長の命を奉じて、学会精神を会得して、同志の士気を鼓舞し、広宣流布大願の中心人物たることを、自覚せられたきことである。
 しかも、広宣流布の時は近く、御本尊流布の機は、今まさにこのときである。ゆえに、三類の強敵は、まさに現れんとし、三障四魔は勢いを増し、外には邪宗、邪義に憎まれ、内には誹謗の声ようやく高し。驚くことなかれ、この世相を。こは、これ、聖師しょうしの金言なり。
 されば諸君よ、心を一にして難を乗り越え、同信退転の徒の屍を踏み越えて、末法濁世の法戦に、若き花の若武者として、大聖人の御おぼえにめでたからんと願うべきである。愚人にほむらるるは、智者の恥辱なり。大聖にほむらるるは、一生の名誉なり。心して御本尊の馬前に、屍をさらさんことを」
8  この戸田の、四百字詰めで約四枚半の原稿は、直ちにガリ版刷りにされ、男女の青年部員の手に渡った。たちまち一陣の風が、青年部のなかに起き、衝撃的な感動を呼んでいった。
 ある人は感激し、ある人は、わが身の使命に深く思いを致し、僚友と夜を徹して語り合った。また、ある人は、朗読し、ひそかに生涯の誓いを立てた。
 この文章ほど、戸田城聖の精神が脈打っているものはない。今日から見れば、やや大時代な言語表現のきらいはあるが、それは、彼の人間形成の時期が明治・大正の代であり、その名残をいささか留めているがためである。そこに秘められた、崇高にして純粋な彼の精神そのものは、誰人も及ぶものではなかろう。
 ともかく、彼は、誰よりも青年であった。青年をこよなく愛した彼は、終生、青年であった。その青年の心が訴えた一文ゆえに、多くの青年に、かくまでの感動を呼び起こしたのである。
 創価学会青年部の精神的基礎は、この時、強固に確立され、今日も、なお生きている。青年部の、はつらったる行動規範は、この一文に込められていた。「青年訓」を読み、熱い血潮をたぎらせた青年が、やがて学会中枢の人材に育っていったのである。
 十月四日は、女子青年部会であった。十月六日は、男子青年部会であった。二つの部会とも、戸田から、新しい、曇りない鏡を与えられ、自ら襟を正す思いで開催したのである。戦後六年にして、創価学会の青年たちは、狂いなき見事な羅針盤を得て、新たな勇気がふつふつと、身のうちにたぎるのを感じた。青年部の進路が明確にされた以上、後は、広宣流布に一路邁進あるのみだったのである。
 当時の男子青年部の各部隊は、それぞれ特色をもっていた。
 たとえば、男子部の第一部隊は、他宗団との法論を得意とした。そして、各所に派手に転戦したが、座談会その他は、軽視するきらいがあり、部員増加は、遅々として進まなかった。
 第二部隊は、所属支部の座談会では活躍する部員がいたが、男子部本来の力は発揮できていなかった。団結の弱さと、着実な努力に欠けていたのである。
 第三部隊は、部員の年齢が若く、信仰年数も浅くて、人材の少ないことに悩んでいた。部隊長は、個々に、実際の活動を通して訓練にあたり、将来の大成を望んでいた。
 第四部隊は、九月に三十人の部員増加を成し、活発な座談会を、各班、競争で開催していった。そして、他宗との法論は最小限度にとどめていた。
 「青年訓」の強烈な鏡は、それぞれの部隊の長所、短所を、くまなく映し出した。果たして第二部隊は、十月二十五日付で部隊長が代わり、十条潔が新たに部隊長の任命を受けた。
 周囲の先輩たちは、十条の前任者についてこう語る。「彼は、やる時は猛然とやるが、気まぐれで、わがままであった。また、真の知性にかけていた。彼は、自己との戦いに勝てなかった。そして、異性関係が、彼の信心を全く狂わせてしまった」
9  十条潔は、第四部隊所属の一班長であった。その彼が、第二部隊の部隊長になったことは、奇異の感をいだかせた。それに、十条自身が、青年部では、まだあまり知られていなかった。それもそのはずで、創価学会に入会したのは、わずか四カ月前の六月十五日のことだったのである。思いもかけぬ抜擢であり、人材の登用であった。
 彼の家は、もともと日蓮正宗の檀家であった。海軍軍人を父とし、彼もまた、志した海軍兵学校へ進み、戦時中に卒業して、戦争の末期には、若き愛国の海軍士官であった。夏季休暇の折など、たまに大石寺に詣でていたが、特に大聖人の教えを研鎖するのでもなく、まして折伏するのでもなかった。ただ、一、二人の友人を誘って、共に参詣したこともあったという。
 軍人として、生死の問題に直面したころ、彼は、初めて心から真剣な題目を唱えるようになった。ところが、終戦と同時に、彼の人生は、ぷっつりと断絶したのである。人生行路は、百八十度、転換しなければならなかった。
 家は、戦災に遭っていた。一家は離れ離れとなり、彼は、あるセメント会社に職を得て神戸に住んだ。その後、焦土と化した東京の工場に移り、日々の生活のために奮闘しなければならなかった。
 そのなかで、さまざまな社会の矛盾に突き当たったり、思想上の混迷に思いあぐねたりもした。真面目な誇り高き元海軍士官は、険しい世相のなかで、浮沈の生活を送らねばならなかったのである。激流のような時代を、努力と誠意で越えようとしたが、憤激と慨嘆に終わるのが常であった。
 彼は、強信な伯母に連れられ、創価学会の座談会に、折々、顔を出した。しかし、いたずらに批判的な、この元海軍士官は、「あの高飛車な態度が、どうも気に食わぬ」などと言って、入会に踏み切ることを避けていた。
 そのころ彼は、弟の酒癖の悪さに、ほとほと手を焼いていた。そして、彼の説諭など、なんの効果もないと知った時、はからずも座談会を思い出したのである。
 ″これはひとつ、弟を連れて行って、他人からきつく叱咤してもらおう。そしたら、さすがの弟も目覚めて、更生するかもしれぬ″
 彼は、弟を連れて、ある夜、座談会に臨んだ。
 その夜の座談会の担当者は、理事の清原かつであった。
 十条潔は弟を紹介した。そして、弟の酒癖のために、弟自身はもちろん、一家が、どんなに辛い思いをしているかを子細に語った。清原は、黙って聞いていた。部屋にいた十数人の会員は、弟思いの兄の話に、同情して聞いているようであった。
 彼は、長い話を終わって、うなだれた弟をじっと見た。その時、清原の口から、甲高い声で、いきなり意外な言葉が飛び出した。
10  「まあ、なんて、だらしのない、お兄さんでしょう! 弟一人、救えないくせに、なんのかんのと言い訳ばかり言って、さっぱり信心をしようとしない。悪いのは弟さんじゃない。あなたですよ。見かけは立派な青年のようでも、実に、だらしないお兄さんじゃありませんか」
 十条は驚いた。怪訝な顔で清原を見つめていた。
 「あなたが、弟さんを救いたいのなら、御本尊様にぶつかっていって、それを、お願いしたらいいじゃないの。願いは必ず叶う御本尊様だということは、知っているんでしょう。あとは、あなたの勇気ある実践よ。願いが叶うような信心を、真剣にやることです!」
 十条は、なんと気の強い女性もいるものかと思った。頭ごなしとは、このことである。いささか、むっとして、抵抗を感じながら言った。
 「私が悪いと言いますけれど、では、弟は悪くないわけですか。弟が勝手に酒を飲んで始末に困るというのは、私が悪いからですか」
 「何を言っているの! あなたは弟さんを救いたいんでしょう。救いたいから、その相談に来たんでしょう。だから私は、言っているんです。救いたかったら、あなたがまず、本当の信心をやりなさい。折伏もし、御書も勉強するんですよ。御本尊様のお役に立つことを、何一つしないで、弟を救おうなんて、なんて虫のよい、だらしのないお兄さんかと言っているんです!」
 畳み込むような、清原の痛烈な言葉である。十条は叱られているのが自分であって、弟でないことがしゃくにさわった。弟は、キョトンとして清原を見ている。
 十条は、腹立ちまぎれに言った。
 「折伏を、すればいいんでしょう!」
 「そうです。やってごらんなさい。あなた、できる?」
 万事休すである。見事な切り返しであった。
 十条は、口をつぐんだ。女性から、このような侮辱を受けたことは、かってない。堂々たる帝国海軍の士官であった彼は、心で憤慨した。
 清原は、さらに追い打ちをかけるように、しゃべっていく。
 「折伏一つやったこともなくて、弟さんを救いたいというのは、御本尊様をなんと考えているんですか。皆さん、意気地なしの青年と思いませんか」と、彼女は参加者に呼びかけるのであった。
 めちゃくちゃである。十条の怒りは心頭に発した。その時である
 「あなたみたいな、だらしのない人が軍人だったから、日本は、戦争に負けたんです!」
 清原の、最後の言葉である。
 ″自分が侮辱されるのはまだよい。しかし、帝国海軍を侮辱するとは、何事であるか。海軍魂が泣くというものだ。俺は、終戦間際には、爆撃機「銀河」で編成された攻撃隊の一員であったはずだ。戦いに敗れたとはいえ、なぜ、このように、一女性から侮辱を受けなければならないのか……″
 彼は、心ひそかに涙をのんだ。
 そして、思った。
 ″あの時、海軍の攻撃隊員として、身命を捨てようとした思いに比べれば、折伏など、なんでもないことだ。俺も男だ。侮辱されたままで、黙っていることはできぬ″
 彼は、遂に決意した。
 「折伏でもなんでも、やりますとも。まぁ、見ていてください」
 彼は、思わずこう言ってしまったのである。そして、清原を見た。
 清原は、笑いながら平然と言った。
 「ええ、見ていますよ。応援もしますよ」
 「いや、私一人でやって見せます」
11  翌日の夜から、十条潔の折伏が始まった。まず、海兵時代の親友から始めたが、戦果は思わしくなかった。座談会にも、二、三の友人を連れ出したが、なかなか入会決定にはいたらない。しかし、彼は律儀に続行したのである。あちこちの座談会へと、よく通った。
 ある夜の帰り道、中年の学会員と連れ立って歩いでいた。その壮年は、思い出したように言うのであった。
 「お勤めは、もうすんだんですか」
 十条は、何げなく、会社のことと思って答えた。
 「ええ、もう夕方終わりました」
 「いいな、私は、これから帰って、お勤めしなくちゃならないんです。女房がうるさくってね」
 中年の男の言葉に、十条は、さも同情したように言った。
 「これからお勤めに出るのは、本当に大変ですね。お疲れでしょう。何時からの夜勤ですか」
 「えっ?」
 男は、ふと気がついて、笑いだした。
 「あなた、夜勤じゃないですよ。夜の勤行ですよ」
 「ゴンギヨウ?」
 「そう、夜の三座です。あの長行は長くて閉口ですな」
 「毎晩、するんですか」
 「これで三月、一日も欠かさずやっていますがね。なにしろ、女房と娘がうるさくて……。今夜も、一緒にやろうと待っているんですよ」
 十条潔は、「お勤め」が勤行のことであることを、初めて知ったのである。唱題は時に応じてしていたが、勤行をしたことはなかった。彼は、折伏を先に行じてしまって、それから勤行をする羽目になったようである。
 朝夕、勤行するようになってから、彼の折伏で、ぼつぼつ入会する人も出てきた。彼は、自ら進んで、戸田城聖に接近するようにもなった。そして、会社における仕事と折伏について、また、教学のことなどについて指導を求め、次第に、仏法とその実践とに、確信をもつようになったのである。
12  彼は、せっかちに、真剣に実践することで、信心のなんたるかを悟っていった。彼は、観念論者を嫌っていたのである。まず、体当たりして一切を習得しようとした、実践論者の一人であった。
 また、十条は、この夏の第六回夏季講習会にも、進んで参加した。
 感激の三日間を送り、帰途に就く最後の日である。この日、行われた座談会で、彼は、進んで感想発表をしたのである。
 「私の、これまでの信心は、同じ御本尊様を戴きながら、全く間違っておりました。最近、学会員となった私は、信心の核心に、やっと触れることができました。私自身、以前との、あまりの差異に驚き、自分というものの、はなはだしい変化に目を見張る思いであります。大聖人様の仏法は、実に、学会に厳然と生きていると確信いたします。
 このうえは、これを知らずして批判している多くの人たちに、『旧殻きゅうかくを脱せよ』と心から叫びたいのであります。どうか、今後とも、よろしく、お願いいたします」
 彼は、拍手に送られて、演台を離れた。
 この日、青年部の人事の発令があり、彼は、即座に班長に任命された。清原からの報告を聞いた戸田は、なるべく早く、立派な幹部に成長させるように、青年部の首脳に指示を与えていたのである。
 「十条潔! 第四部隊班長に任ず」
 十条は、「はい!」と言って立ち上がったものの、部隊長の滝本欣也を見て、口ごもった。
 「とんでもない、私が班長なんて、とてもできません」
 皆は、どっと笑った。滝本は、表情を崩さず、十条に呼びかけた。
 「では、さっきの感想発表の確信は嘘か!」
 「嘘ではありません」
 「嘘でないなら、今日から班長をやってもらおう」
 「はい!」
 十条は、こう答えざるを得なかった。拍手と笑い声が、彼を温かくつつんだ。
 十条班長は、誰よりも真剣であった。だが、班長の任命を受けて以来、疑問は、雲のごとく湧いて、彼を苦しめていた。
 ある日の会合で、彼は、勇気を奮って滝本に質問した。
 「座談会に出ると、みんな元気に、どんなことでも賛成しますが、私には、納得しないまま賛成しているように思えることもあります。こういう場合も、信心ととらえるのでしょうか」
 彼は、遠慮がちに言ったのである。だが、滝本の顔が、見る見る険悪になった。彼が、″しまった″と思った時、滝本の傍らにいた山本伸一が、それを察したかのように、急に口を開いた。
 「十条君、入会間もない君に、納得できないことが、いろいろあるのは当然です。わかるはずがない。しかし、心配しなくていいよ。ただ、これだけは信じなさい。御本尊は絶対である。そして、戸田城聖先生は、世界第一の英傑です。先生についていらっしゃい。そうすれば、必ず、学会のどんなことも、″そうか″と納得できる時が来る!」
 十条は、たちまち安心したかのように答えた。
 「はい、わかりました」
13  十条は、日増しに戸田城聖に指導を受けるようになった。
 天台大師の言葉に、「行解既に勤めぬれば三障四魔紛然として競い起る」とあり、「行解」とは、仏道修行のことである。十条の「行解」が深まっていった時、彼は、セメント会社の担当重役から、とんでもない難題を命じられた。
 十条は、資材購入の責任者として働いていた。ところが、彼をよく思っていない、その重役に、いきなり、″今月から購入価格を二割減で賄え″と命ぜられたのである。
 ″このインフレの収まらぬ時勢に、二割減とは何事か″と元海軍士官は憤激した。
 ″いったい、どうしろというのだ。資材ばかりではなく、事務から営業面まで、入手不足を理由にコキ使って、そのうえ、こんな難題を押し付けられた。なんという会社だ!″
 彼は、激怒したまま、戸田のところに駆け込んだのである。
 戸田は、興奮した彼を制しながら言った。
 「まあ、そこに座りなさい。……君は、会社でどういう地位にいるのかね」
 「まだ、社員です」
 「平社員か」
 「そうです」
 「重役と平社員じゃ、どうも喧嘩にもならんな」
 戸田は、大声で笑い、目を細めて十条を見た。
 「実に、いやなやつです。重役面をして、鼻もちならん、わからず屋です」
 「そうだろう。しかし君、喧嘩したら負けるに決まっている。喧嘩もできんとすると、ここは一つ、精いっぱい、やってみるより仕方がないな。二割減などとはいくまいが、多少は安くなるだろう。そのために君が苦労したら、その苦労は、君の財産となるんだよ。やってみたまえ」
 十条は、戸田の言葉にハッとした。そして、心で繰り返した。
 ″俺の苦労が、俺の財産となる……″
 わかるような気もしたが、まだ、よくのみ込めなかった。だが、彼は、戸田の言に従った。結局、価格は数パーセントの減に終わった。
 しかし、後年、ある倒産に瀕した会社の経営を、彼が任された時、資材の購入価格のダウンから始めて、遂に立て直しに成功したのである。その時、セメント会社での苦労が、彼の大きな財産となっていたことに、初めて気がついたのである。
 十条は、一つ一つ、戸田の慈愛の指導を受けつつ、その通り忠実に実践していった。このような実践ほど、信心を急速に伸ばすものはない。入会四カ月余りで、十条は部隊長に育ったのである。
14  前三後一の組織の整備は、男子部から始まって、地区の隅々にいたるまで及んだ。一人の学会員といえども、絶対に落後者を出してはならぬ行進である。いわば陣列の整備が、将来の発展のために、この時期に行われていたといってよい。戸田の、目に見えない先手であり、布石であった。
 折伏戦も、勇敢に進められていった。地涌の戦士たちは、ただ真剣そのもので突進したのである。その結果、八月の六百四十六世帯に続いて、九月は七百九十八世帯、十月は七百五十世帯を記録することができた。ただ、皆にとって残念なことは、目標の千世が帯達成できないことであった。
 戸田は、このころ、常に訴えていた。
 「創価学会は、折伏の団体である。悪世末法において、仏の金言通り、折伏行を実践できるのは、学会をおいてない」と。
 彼は、胸中に秘めた崇高な理想を実現するために、今は、厳しく現実に挑戦する以外になかった。それにはまず、大衆のなかに生きて、しっかり根を張ることである。根が強靭でありさえすれば、枝も、葉も、花も、将来、いくらでも栄えていけることは、大自然の道理であるからだ。
 折伏の実践の道は、華々しい政治や経済、文化、芸術の世界と比べて、実に地味な活動ではある。しかし、堅固な土台がなければ、天をも衝く大建設は完成し得ない。地中に深く根を下ろさなければ、絢爛豪華な大文化の花を咲かせることもできない。人間文化の、あらゆる分野で活躍する数多くの人材を輩出していくためにも、今こそ、民衆の大地に、根を、より大きく、強く、伸ばし、張り巡らさなければならない。
 戸田は、こうして折伏戦に全生命を賭していったのである。
 さて、このような前進を開始したさなかの十一月四日、市ヶ谷駅近くの東京家政学院講堂で、第六回創価学会総会が開催された。参加者は、千七百八十人に達している。
 多くの幹部は、前年秋の総会を思い出していた。
 戸田城聖が、理事長を辞任した後の、あの辛い、悲しい総会である。
 ――あれから一年。今、戸田は、元気横溢して、晴れ晴れとした姿で総会に出席している。まさしく、広宣流布への蘇生である。彼が元気であれば、幹部もまた、皆、元気であった。そして参加者も、何よりも、それが嬉しかった。美しい、強い、師弟愛と同志愛と、皆の浮き浮きとした歓喜が、会場に満ち満ちているようであった。
15  この第六回総会の三日前、「聖教新聞」一九五一年(昭和二十六年)十一月一日付の一面下段に、「宗教法人『創価学会』設立公告」という記事が、大きく掲載された。代表役員は、戸田城聖であり、責任役員七人には、泉田弘、清原かつ、小西武雄、原山幸一、関久男、大馬勝三、森川幸二の各理事の名が連なっていた。
 戸田は、創価学会の会長に就任すると、学会を宗教法人とする検討を始めたのである。この年の四月には、宗教法人法が施行されていた。彼は、創価学会を宗門から独立した宗教法人とすることが、今後の広宣流布の活動の展開にとって、不可欠であると考えたのである。
 なぜかといえば、まず第一に、広範な活動に際して、総本山に直接の責任や迷惑を及ぼさないためであり、第二に、総本山を外護する団体として、思いきった折伏行を断行するためである。
 また第三に、現代の複雑化した社会にあって、また人びとの生活も多岐にわたる時となって、少数の僧侶をもって一切を運営するという方式のみでは、とうてい事をなすに不可能だからである。
 第四に、信者を基礎として宗教団体を構成するという考え方は、広くキリスト教の歴史や、戦後の民主主義の趨勢を冷静に分析して宗教団体の方向性を考察するとき、従来の形態に必ず付加していかなければならない重要な一視点であるからである。
 妙法を根底としつつ、そこから一切の社会の各分野にわたって広く活躍していったほうが、はるかに広宣流布の伸展も早まるにちがいない。また、それが自然な姿でもあったからだ。
 学会が、宗教法人法にもとづく宗教団体となるにあたっては、このようにあらゆる角度から検討が加えられ、総本山とも連携をとりつつ決定されたものである。今にして思えば、この時の戸田の決断は、学会の行き方が、正しかったことを実証したのである。その後、学会は「宗教界の王者」として、世界に飛期していった。
16  さて、第六回総会は、まず小西武雄の経過報告から始まった。
 彼は、前年の総会を振り返り、多事多難のなかにあって躍進してきた一年間の歩みを語った。
 「聖教新聞」の発刊、大小二十余支部を改廃して十二支部としての発足、会長就任式、学会本部常住の「慈折広宣流布大願成就」の御本尊奉戴式、男女青年部、婦人部の新しい出発、夏季講習会の盛況などを伝えた。
 「大進軍を開始した学会の原動力の一つは、なんといっても教学面にあります。従来、月、水、金と本部のみで行われていた講義を、講義部が担当し、支部、地区、計五十カ所近くで開講されることになり、さらに、講義部は教学部と改称され、教育課程が定められました。
 また、身のほど知らずと笑われるような、立宗七百年記念をめざした御書発行の大難事業も、堀猊下のご尽力と、戸田会長の不撓の決意と、会員諸氏の熱意とによって、着々と進行しております。また、学会の実弾たる『折伏教典』の完成も、間近に迫っていることは、ご承知の通りであります」
 実り多き一年である。小西は、さらに折伏成果の上昇の跡を振り返った。これらは、すべて、前三後一ともいうべき万全の構えが、全力の躍進を生んだことを裏付けていた。年々、成長して、社会に価値ある足跡を残し、常に前進する人生と団体には、必ずや勝利の栄光が待っているものだ。
 総会は、続いて各部代表の決意と抱負の発表に移っていった。
 最初に、男子部代表として演壇に立ったのは、二十三歳の山本伸一班長である。「青年の確信」と題して、伸一は、青年らしい張りのある声で語り始めたが、それは、直接、戸田城聖へ呼びかけたものであった。内容は、一カ月前に告示された「青年訓」に対する、彼の答えであった。
 彼は、師が立ち上がったゆえに、また自分も立ち上がったのである。師が指揮を執り始めたがゆえに、自分も先兵となって、折伏戦の最前線を切り開く決意を固めたのであった。
 「創価学会会長、戸田城聖先生!
 過日、先生より賜りました青年部班長告示(青年訓)によって、今や学会青年部は、明らかなる大目的に向かって、大闘争を展開しつつあります。一糸乱れざる鉄壁の組織のなかに、一人ひとりの位置をしっかりと自覚し、歓喜に燃えて、広宣流布への戦端の火ぶたを切っております。
 思うに、宇宙にただ一つしか、ない最高無二の大宗教、大哲学を奉持する創価学会の使命、存在のいかに重大であるかは、明確なる事実によって証明づけられております。ここに、夢ではなく、大風の前の孤島に震えている哀れな日本民族の興亡を決するのも、なんと学会の進退のいかんにかかっております。
 また、地獄界と修羅界に羊のようにあえぎ、おののいている東洋をはじめとする世界の民衆を救い出す力と、カギとをもって進んでいるのも、わが創価学会であります」
 山本伸一の気迫は、熱烈にたぎっていた。
 参加者は、息をのんで、彼を見つめた。
 「はたまた、一瞬にして幾十万の尊き生命を、阿鼻地獄に町き落とす原子爆弾の恐怖に苦しむ世界の人びとに、大警鐘をガンガン打ち鳴らし、眼目を開かせ、根本からの幸福と平和の確立を実現できるのは、この日蓮大聖人の仏法以外に絶対にあり得ないのであります。
 その事実を、一日も早く、一時も早く、知らせていかねばならぬ使命と義務に立って戦っているのが、わが学会であり、青年部なのであります」
 彼はさらに、「報恩抄」などの文証を引いて、大聖人の予言の偉大さを讃え、戦い抜く決意を語っていった。
 「この闘争力と、勇気に満ちたる青年が、学会青年の確信であります。
 創価学会会長、戸田城聖先生!
 今、先生は、大勢の内外の敵の真っただ中にあって、法旗を高らかに掲げ、末法広宣流布の大将軍として、大号令を発しております。われら青年は、そのお言葉を絶対虚妄にいたしません。
 断じて、先生と御共に、先生のお心を心として、この身を大法流布のために、莞爾として散らし、永遠に先生と、御共に生きゆかんことを願っているものであります」
 伸一にとっては、ここ数年、既に身をもって実践してきたことを、そのまま語れば、それが今後の青年部の実践方針となっていた。
 彼は、その実践のための文証として、「観心本尊抄」や「三大秘法抄」「諌暁八幡抄」「立正安国論」などの一節を引用しながら、青年部の実践と確信とを論じていった。
 「まことに青年部の実践は、宗教革命であります。人類を根底から救出しなければならぬ、大聖人様の御命令である、宗教革命であります。政治革命よりも、経済革命よりも、実に、実に宗教革命の道の、いかに苦難であるかは、覚悟のうえです。また、この革命を遂行することも、いな、革命は死であることも、自覚しております。
 しかし、その死こそ、永遠の生命の覚知であることを信じます。永遠に、戸田先生と御共にあることを信じます。私たちは、大聖人様の眷属であり、また、今ここに戸田先生の弟子であります」
 この時、戸田は軽く頷いているようであった。伸一は、過去の歴史における青年の偉大な役割を述べてから、最後にこう訴えた。
 「御書にいわく『とにかくに死は一定なり』と。またいわく『難来るを以て安楽と意得可きなり』と。
 創価学会会長、戸田城聖先生!
 学会青年は、大聖人様御在世の諸難、小松原の法難、熱原の法難、伊豆・佐渡の流難の何万分の一かもしれませんが、あらゆる強敵に打ち勝ち、世界の人びとの凝視の的となって、そして輝く闘争の完遂を期し、戸田先生のご期待に報いんことを固く、お誓いして、青年の確信といたします」
 場内から、期せずして、万雷の拍手が起こった。
 伸一は、一礼すると、素早く壇上から姿を消した。
17  この日の総会でも、何人かの体験発表が行われた。一つの体験を、親の側からと、子の側から語ったものもあった。それは、死の淵をさまよった子が、親たちの懸命な唱題のうちに蘇生した話である。臨場感あふれる話に、深い感動が場内を圧した。
 特別講演に立った法主の水谷日昇は、壮健な様子で、″異体同心をもってして、妙法広布の慈折を敢行する時が来た″と訴えた。
 堀日亨は、ひょこひょこと演台に向かったかと思うと、「今日は、のどを少し痛めているので、勘弁してください」と言って題目を三唱し、元の席に着いた。いつもながらの、瓢々とした振る舞いであった。
 理事の清原かつは、御書発刊の進行状況について、中間報告をした。
 「この事業は、膨大な費用と、編纂に対する強力な教学の組織を必要とするものであります。しかし、幸いにして二千人の方々の賛成を得まして、着々と進行しつつあることをご報告すると同時に、会員の皆様のご協力に厚く感謝いたします。
 畑毛の堀猊下は、この重大事業に、老齢の御身をいとわずご精進くださって、既に七十五抄、全体の三分の一の原稿を、教学部にお渡しになられております。刊行事業にあたるわが学会の教学部は、現会長たる戸田先生の厳しい教学振興の指導によって、訓練された優秀な教学部であります。そして、厳選された教学部員が、実力を十分に発揮し、校正に、今、全力をあげております。
 この御書発刊は、広宣流布の大業に、直接、通ずるものであり、学会が、広宣流布の行進の第一歩の事業として決定したものであります。今後、いかなる困難があろうとも、断行しなければなりません」
 御書の発刊にしろ、『折伏教典』の刊行にしろ、学会出版活動の重要性が認識されて実践に移されたのは、この時期であった。
 広宣流布の活動は、言論戦であるといってよい。そのことを考える時、この一九五一年(昭和二十六年)秋の出版活動の開始は、永久に記憶されてよい。まして、乏しい財政のなかの活動であったことを思う時、先駆者の労苦を偲ぶことができる。
 最後に、戸田城聖が演台に進み、「創価学会の大誓願」と題する講演を行った。先の、山本伸一の「青年の確信」は、戸田城聖に対する誓願であった。戸田は、弟子と共に、広宣流布に進みゆく自らの決意を、三つの大誓願として発表したのである。
18  「まず最初に、御書を拝読いたします」
 戸田は、こう言って、傍らの青年を促した。選ばれた青年は、朗々たる声で「北条時宗への御状」(御書一六九ページ)を拝読した。
 この御書は、文永五年(一二六八年)十月十一日、後に大聖人の門下になったと伝えられる幕臣・宿屋入道を通じて、時の執権・北条時宗に送ったものである。
 「国家の安危は政道の直否に在り仏法の邪正は経文の明鏡に依る」とし、誤った宗教への帰依を、まずやめるべきことを主張した国主諌暁の書である。
 八年前の著作、「立正安国論」の予言が的中して、この年の一月、蒙古から牒状が到着し、国内は物情騒然たる時であった。
 「ただ今、拝読の御書は、文永五年、蒙古より日本へ牒状ありし時、日蓮大聖人様が、断固として日本国を諌暁されたところの御書であります。
 大聖人様は、権勢を恐れず、富貴にこびず、万衆を哀れみ、末法一大利益の南無妙法蓮華経を授けられた大聖哲です。創価学会の魂とは、この日蓮大聖人の魂を魂とし、一乗妙法の力で、全民衆を救うのが、学会精神であります。
 次に、学会の目的について述べるならば、奇しくも、日本国に仏法渡来してより七百年、末法御本仏・日蓮大聖人様、御出現あそばされ、権実雑乱を正されて七百年、大聖人が立宗されてより七百年を明年に控える今日、日本国あげて本尊雑乱の時となっております。
 学会は、今、日蓮大聖人の命を受けて、一閣浮提総与の御本尊様を、日本に流布せんことを誓う。これ第一条であります。
 「かくのごとく、日蓮大聖人様は、釈尊の仏法にあらず、末法唯一の仏法の出現を予言せられ、しかも南無妙法蓮華経は、日本国より、朝鮮半島、中国、インドへと、必ず渡るとの御予言であります。
 立宗以来七百年、日本に仏法渡って千四百年、もし、この南無妙法蓮華経が東洋へ行かずば、日蓮大聖人様の仰せは妄語となり、大聖人様の仏法は虚妄となるのであります。大聖人様の御予言を果たす仏弟子として、東洋への広宣流布を誓う。これ第二の目的であります。
 第三に、日蓮正宗は、総本山をはじめとして、全国五十有余の末寺にいたるまで、まさに荒れ果てなんとしている現状であります。これは、今までの檀信徒が、題目のみ唱えて折伏をせず、本尊流布をしないゆえであります。
 しからば、学会はいかん。総本山との交流をはかり、『真実の仏法、日本にあり』と宗教界に示すこと、すなわち学会魂で、以上の三箇条を遂行するのが、私の目的であり、学会一同の願いなのであります。
 共に手を取り合っていこうではありませんか。簡単でありますが、確信を述べて、今日の言葉といたします」
 立宗七百年を翌年に控えた戸田城聖の感慨は、広宣流布による理想社会の実現に向けて、いよいよ深まらざるを得なかった。彼は、命を賭しても、使命を貫く決意であった。三つの誓願は、彼の誓願であるとともに、また、学会の誓願でもあったのである。
 聴衆には、まさに師子のごとき彼の気迫が、強く伝わったのであろう。人びとは、寂として声なく聞いていた。真剣な眼差しに、決意を反映させている人もいた。自分の臆病な心と、戦わねばならぬ人もいた。しかし、全員が嵐のような拍手をもって応え、前進を誓ったことは事実である。
 戸田は、総会後、興奮した面持ちで控室で休んでいた。
 そこに、山本伸一が入ってきた。
 戸田は、彼を見るなり、いきなり一言った。
 「伸ちゃん、今日の演説は、よかったよ。まあ、ここへ座れ。これからも、しっかり頑張りたまえ」
 戸田は、さも嬉しそうに顔をほころばせた。伸一は、めったに人を褒めない戸田から、意外にも褒められて、すっかり照れてしまった。
 ここまで育った伸一が、戸田には、よほど嬉しかったにちがいない。一日中、ご機嫌で、伸一を側から離さず、祝賀の宴でも、盛んに盃を傾けていた。
19  十一月十八日――この日は、初代会長・牧口常三郎の八回忌の祥月命日であった。娘婿の尾原君蔵が施主となり、法要が営まれた。戸田は、これを喜び、この日の夕刻、多くの学会員と共に参列した。
 戸田は立って、あいさっした。
 「本日の八回忌は嬉しいのです。と言いますのは、尾原君自身が、進んでやられたからであります。
 縁の不思議について、お話しいたしますれば、私が、北海道より東京へ出て苦学をしようと決心しましたのは、十八、九歳の時でした。当時、下宿料は十八円で、郵便局勤めではどうにもならず、教員になろうと思い、牧口先生にお目にかかりました。先生は、校長で、私は、そこの代用教員として、非常に迷惑をおかけしながらも、先生にかわいがっていただきました。
 牧口先生の学校で、教員を始めた時、先生は四十九、私は二十で、先生を、親であり、師であり、主人と思ってまいりました。
 その先生と、警視庁での取り調べの時に、廊下ですれ違い、顔を見合わせて別れたのが最後となりました。
 思えば、過去からの深い因縁があると思うのであります。私は、先生の財産を全部もらったのです。嘘だと思うなら、ご覧なさい。支部長諸君をはじめ、清原、泉田、および学会幹部は、皆、牧口門下生ではありませんか。今後、私の財産は、学会育ちの子に伝わっていくのであります。
 日蓮正宗が疲弊の極にある時に立った、皆様の福運は大きいのです。御本尊様を信じ、功徳を受けようではありませんか。
 晩秋の夜は、静かに更けていった。どこかで虫の鳴く声が聞こえる。矢のように早い一年であった。さらに激戦と開拓のなかに、夢のように過ぎ去った師亡きあとの七年でもあった。
 わずかに風が窓を鳴らしていた。
 最後に、遺族を代表して、尾原君蔵が、牧口夫人と共に立って、あいさつした。
 「故・牧口常三郎の八回忌法要に、お集まりくださったことを厚く御礼申し上げます。さぞかし父も喜んでいることと思います。
 私は、血族関係からは子どもでありますが、真の子どもは、戸田先生であります。私は、弟子としても、落第ばかりしておりますが、今後、よろしくお願いいたします」
 一九五一年(昭和二十六年)も、多事繁忙の秋を送り、暮れに近づいていた。
 十一月十八日に発刊された『折伏教典』は、十二月までに希望者の手に渡ることになっていた。
 御書の校正も進み、十二月も押し詰まった二十八日から三日間、戸田をはじめとして十人の教学部員が、静岡・畑毛に赴き、堀日亨の膝下で校正作業を行った。千ページにわたる初校で、短日月に、そのうち七百ページを仕上げることができたのは、堀日亨の精励と、戸田の率先と、一同への激励によるものであったろう。
 ――この年は、まことに一瞬の怠惰も許されず、暮れたのである。
20  十二月三十一日、大晦日の日に、男子青年部員二百人が、大挙して総本山に向かった。十一月末の部員総数は、三百六十二人であるから、二百人は、その約六割にあたる。
 夕刻、東京駅を発車するころは、豪雨であった。またまた、男子部の前途多難を思わせる天候である。午後九時、西富士宮駅に着いたころは、それでも雨は上がり、曇天の暗い夜空が広がっていた。
 男子部の精鋭は駅前に並び、午後九時二十分、雨上がりの悪路をついて大石寺へ向かった。足もとも悪いうえに、暗夜である。だが、彼らには誇りに満ちた行進であった。無為の若人の多いなかで、主義と目的と使命に生き、自ら苦難を求める青春の崇高さを、かみしめていた。
 ――彼らは無意義な青春、われらは有意義な青春、と。
 二時間余りの徒歩行程である。学会歌の歌声が、いつまでも続いていった。野原を過ぎ、ゆるい坂を上りつつ、午後十一時半には大石寺に到着した。夜空には、星が瞬き始めていた。
 一九五二年(昭和二十七年)元日、午前一時。立宗七百年の第一歩の日である。彼らは、客殿で討論会を開催した。
 主催者として提示した議題は、「広宣流布までに、どんな事態が起こってくるか」というものであった。
 最初は観念的な議論が多く、やや不活発な討論であったが、具体的な問題に移ってから、急に熱気がみなぎった。他宗の大反撃を予想する人もいた。最後は暴力革命主義との対決にあるとする人もいた。議論百出となっていった。
 最後に、関青年部長は総括して言った。
 「広宣流布は御仏意である。御仏意を十分感じて行動せねばならない。仏法は、時が大切である。
 今、世界は激動しているが、われわれは、これに動ずることなく、着実に同志を拡大し、揺るぎない広宣流布の基盤をつくらねばならない。
 この根底の全体観に立って、戦うべきであり、東京はもちろん、大阪にも、日本中に橋頭堡を築かねばならない。
 われわれの行く手は苦難の道であろう。しかし、恐れなく、仏法のために戦おう! 団結して進もうではないか!」
 睡魔の競う暇もなかった。午前三時には丑寅勤行である。各自が、真剣な祈りのなかに唱題を終えた。それから二百人の参加者は、法主の水谷日昇に新年のあいさつをした。そのあと、午前五時から七時近くまで休憩時間となった。
 立宗七百年の元旦が明けてくると、快晴の空、富士の真っ白い姿が、朝日に輝いている。それは、皆の生命の輝きのようにも思われた。
 午前七時――宝蔵の前で、元旦の勤行を行い、広宣流布の先駆者としての使命を成就するよう、深く祈念したのである。
 続いて、牧口初代会長の墓に詣で、関青年部長、山際男子部長、各部隊長、そして、山本班長……と、次々、故・牧口会長に誓いの言葉を述べた。男子部長の山際は、四月の七百年祭には、男子部六百人の精鋭をもって登山することを、墓前にて宣言したのである。
 一点の雲もない快晴である。元旦の富士は、未来に羽ばたく雄々しい革命の青春群像に、笑いかけているかのようだつた。
 ここで、初めて自由時間となり、参加者は、山内をあちこちと見学し、思い出をつくっていった。
 帰途に就いたのは、午後一時である。
 男子部の、大晦日に行われた総本山への登山は、立宗六百九十九年の最後の日から、立宗七百年の元旦を、喜び迎える、先駆の象徴の姿であったといってよい。その先駆者たちが、今日の学会を築いたことも事実である。ともあれ、青年部は急速な成長期にあった。

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