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日蓮大聖人・池田大作

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戦争と講和  

小説「人間革命」5-6巻 (池田大作全集第146巻)

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2  一九五〇年(昭和二十五年)六月二十五日、日曜日の午前四時過ぎ、韓・朝鮮半島では、北朝鮮軍七個師団、約十一万人が、ソ連製戦車約二百五十台を先頭にして、三八度線の全域で、一斉に南への攻撃を開始した。これに対して韓国軍は、三八度線には四個師団、約三万五千人を配備していた。しかし、装備も優れていた北朝鮮軍は、たちまち韓国軍を圧して南下し、三日後の六月二十八日には、首都ソウルを占領した。
 国連では、緊急に安全保障理事会が開かれ、北朝鮮に対して、侵略行為の即時停止と、三八度線以北への撤退を要求するという、アメリカが提出した決議案が採択された。
 ソ連は、台湾の国民政府に替えて中華人民共和国を安全保障理事会のメンバーにすべきだという提案が拒否されたことに抗議してボイコットしていたのである。そして、国連加盟国は、ソ連欠席のまま、韓国時間の二十八日には、北朝鮮軍の侵攻を阻止するために、韓国に軍事援助を与えるという決議を採択した。
 現地で戦況を視察したマッカーサーは、三十日、アメリカ地上軍の派遣が不可欠であることを、トルーマン大統領に報告し、大統領は、マッカーサーの指揮下にある地上軍の派遣を直ちに許可した。既に海・空軍は二十八日から出動していた。
 七月二日には、陸軍部隊の先遣隊が前線に到着し、ここにアメリカ軍の全面的な介入が始まったのである。しかし、士気も高く、圧倒的な戦力で攻撃してくる北朝鮮軍の前に、アメリカ軍も惨敗し、戦線は総崩れとなった。スターリンの支持を得て、万全の準備を整えていた北朝鮮軍の軍備は、アメリカ軍を圧倒していたのである。
 国連安保理は、七月七日に国連軍創設を決議し、翌八日、司令官任命を委ねられたトルーマン米大統領がマッカーサーを国連軍最高司令官に任命した。
 これによって米韓両軍は国連軍として戦うことになり、この後、イギリス、オーストラリア、フランス、カナダ、フィリピン、タイなど十五カ国が地上軍部隊を国連軍に派遣していった。
 北朝鮮軍に追撃された米韓両軍は、後退を続け、七月中旬にはソウルと釜山プサンのほほ中央にある戦略上の重要地点・大田テジョンも占領された。国連軍は半島の南東部に追い詰められていき、八月に入ったころには、釜山を扇の要とする洛東江ナクトンガン沿いの半径約五十キロから百キロの地域に最後の防衛線を張った。いわゆる釜山橋頭壁である。
3  かくして、韓・朝鮮半島における半島統一の主導権を争う内戦は、アメリカ軍を主力とする国連軍の介入で、最初から国際戦争の性格を帯びるにいたったのである。
 朝鮮戦争は、民族の統一をめざす二つの勢力、すなわち自由主義陣営についた韓国(大韓民国)と、共産主義を掲げる北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の対立が原因であったが、東西冷戦構造のもとで、それは、両勢力の激突となって展開されていったのだ。要するに大国は、その勢力の確保と威信をかけて、小国の国土で、小国の住民の犠牲において戦争を行ったのである。朝鮮戦争だけではなく、ベトナム戦争もそうである。そして、大国の狡猾さは、それを限定戦争というのである。戦争を限定するなどという、もっともらしい理屈で、小国を戦場化し、大国同士の直接的な戦争になることを避けたのである。
 これは、大国が掲げるイデオロギーには関係なく、自由主義側の大国・アメリカも、共産圏の大国・ソ連も、小国を支配下に置いて、影響力を行使していることにおいては同じである。
 韓国軍と増援の国連軍は、釜山を要とする半島の南東部の一角に押し込められたものの、依然として北朝鮮軍に対し制空権と制海権は握っていた。この空と海からの膨大な物量の投入で、一カ月半の間、戦い抜いた国連軍は、徐々に退勢を挽回し、遂に反転攻勢の作戦を実行した。仁川インチョン上陸作戦である。
 九月十五日未明、マッカーサーの指揮のもと、アメリカ軍は、七万人の兵と艦船二百六十余隻をもって、半島中部の仁川への攻撃を開始した。戦況は、ここに一変した。北朝鮮軍は分断され、北と南からの国連軍の挟撃で総崩れとなって退却した。国連軍は攻撃を続け、九月二十八日には、頑強な抵抗を排除して、ソウルを完全に奪還した。そして十月一日には、ほぼ開戦時のラインまで、北朝鮮軍を押し戻している。
 さて、この段階で、もしも戦争の不拡大を望むなら、和平交渉も十分に進めることができたであろう。国連も、その創設の趣旨からいって、そのような方向に向けての提議があれば、衆知を集めて平和の討議を行ったのではなかろうか。実際、国連安保理は、国連軍の目的は、北朝鮮軍を北緯三八度線以北に撤退させることにある――と決議していたのである。
 しかし、アメリカは、既に九月二十七日の時点で、マッカーサーの軍事目的は、「北朝鮮軍の撃滅にある」との指令を出していたのである。″撃滅″となれば、北朝鮮軍を、どこまでも追撃せよということになる。
 北朝鮮軍を、ほぼ三八度線まで追い込んだマッカーサーは、十月一日、北朝鮮に無条件降伏を要求した。
 マッカーサーは、北朝鮮軍総司令官・金日成宛に、次のような即時降伏の要求をラジオ放送で呼びかけた。
 「貴下の軍隊と戦争潜在力の早急にして全面的な敗北と完全なる破壊は今や不可避となっている。これ以上の人命の喪失と財産の破壊を最小限にとどめて国連の決定を実行することが出来るようにするために、余は国連軍最高司令官の資格において、貴下と朝鮮のいかなる地にあろうとも貴下の指揮下にある軍隊に対して、余が指令する軍事的監視の下に直ちに武器を放棄して、敵対行為を中止するよう要求する」
4  この日、一部の韓国軍は、三八度線を越えて進撃を開始した。
 翌二日、マッカーサーは、国連軍に対して、北朝鮮軍を壊滅させるために、三八度線を越えて、北へ進撃する許可を与えた。
 その五日後に聞かれた国連総会では、イギリス、オーストラリアなどによる八カ国提案を可決した。すなわち、韓国を合法的な政権であると認め、国連軍の目的は、韓国への武装攻撃を撃退し、韓・朝鮮半島に平和と安全を再建することにあるとした。国連は、国連軍の目的を、韓・朝鮮半島における国家統一にあるとして、三八度線を越えての北進を追認したのである。
 国連は、重大な方針転換をしたことになる。朝鮮戦争の泥沼化の大きな要因の一つは、ここにあったといえるであろう。
 十月九日、マッカーサーは、北朝鮮政府首相・金日成に対し、国連総会での決議内容を伝えるとともに、最後の降伏勧告を行った。
 「この国連総会の決議が、これ以上人命の損失と財産の破壊を招くことなしに実行されるよう私は国連軍総司令官として貴下ならびに朝鮮のどこにいるにせよ貴下の指揮下にある軍隊にたいし、ただちに武器を捨て敵対行動を中止するよう最後的に要求する。(中略)もし北鮮政府の名において貴下から即答がないならば、私は国連の命令を実施するのに必要な軍事的措置に、ただちに着手するであろう」
 この日から国連軍は、次々に三八度線を越えて北進したが、既に北進していた韓国軍は、早くも北朝鮮の重要港湾都市である元山ウオンサンを占領した。
 金日成は、ラジオ放送で演説し、降伏勧告を拒否することを明確にした。
 しかし、北朝鮮軍は全戦線で崩壊していた。釜山橋頭壁での国連軍との戦いで、北朝鮮軍は、相当な戦力の消耗を強いられていたのだ。国連軍の空爆によって大量の兵器を失い、補給路も延びて、兵力は急速に低減していたのである。
 特に、仁川上陸作戦によって、国連軍が反撃に移ってからは、北朝鮮軍は崩壊の度を早めた。兵員も歴戦の兵士は減少し、韓国内で強制徴募された新兵も多く、敗走が始まると脱走、投降する者が続出した。また、多くの兵士が、ゲリラ化して山中に潜んだ。要するに、北朝鮮軍は随所で姿を消していったのである。
 国連軍は、快進撃を続け、十月二十日には、韓国軍とアメリカ軍が平壌ピョンヤンを占領し、二十六日には、一部の韓国軍が中国との国境を流れる鴨緑江おうりょっこう(アムノクカン)に到達している。
 このころから、マッカーサーの独断専行が見られるようになってきた。二十四日、彼は、ワシントン政府の了解を得ることもなく、韓国軍以外の国連軍にも、中国国境をめざして全力で進軍するように命じたのである。
 マッカーサーは、半島における戦争の終結は間近であると判断していた。
 クリスマスまでには、アメリカ軍は帰国できるとさえ楽観していたのである。しかし、事態は彼の予想外の方向に向かって展開していった。中国軍が参戦してきたのである。
 マッカーサーも、旧満州、いわゆる中国東北地方に三十万ほどの中国軍がいるとの情報は得ていたが、鴨緑江を越えて進軍してくるとは考えていなかった。十月十五日、アメリカ軍の基地がある、太平洋北西部のウェーク島で、トルーマン大統領と会談した際も、中国の参戦に危慎を示した大統領に対し、マッカーサーは、その可能性を否定した。彼は、仮に中国軍が鴨緑江を渡ってくるとしても、数万に過ぎないとの観測を述べ、中国軍が南下すれば、アメリカ空軍によって撃滅できると考えていた。
5  中国は、朝鮮戦争の勃発当初、この戦争に関わることには消極的であった。前年の十月一日に中華人民共和国の成立が宣言され、革命が成功したとはいうものの、まだ革命の完成にはいたっておらず、課題は山積していた。韓・朝鮮半島に援軍を送るほどの体制は、整っていなかったのである。
 ソ連も、ヨーロッパでの戦後処理の対応に追われて、もともと韓・朝鮮半島には関心が薄かった。
 しかし、共産主義の中国の誕生が、スターリンの考えを変えたようだ。彼は、金日成の南進武力統一の方針を容認し、必要な兵器の援助、軍事顧問団の派遣を承認した。朝鮮戦争勃発時に、北朝鮮軍が圧倒的兵力によって、米韓両軍を打ち破ることができたのは、このソ連の兵器援助があったからである。そして、スターリンは、戦況が悪化した一九五〇年(昭和二十五年)十月、中国に対して、金日成への援軍派遣を要請した。
 中国の内部では、金日成に対して支援すべきか否かで意見が分かれた。毛沢東(マオ・ツォートン)は援軍の派遣を決意するが、強い慎重論に抵抗されて、何度も実施を延期した。中国軍の装備は貧弱であり、また、アメリカとの全面対決に発展することも危惧されたからである。
 結局、国連軍が三八度線を越えて北上し始めたことから、十月中旬に、援軍を北朝鮮に出動させる決定を下した。
 中国が援軍派遣を決定したのは、北朝鮮への支援というよりも、その真意は自国防衛にあった。アメリカは、共産勢力の伸張を阻むために、韓・朝鮮半島に軍隊を送ったのである。
 中国は、自国の軍隊を中国軍として参戦させるとを避け、義勇軍という形式をとった。これが中国中国人民志願軍が、初めて鴨緑江を越えたのは、国連軍が平壌を占領した十月十九日であり、同月二十五日に韓国軍と最初の交戦が始まった。いわゆる第一次攻勢の開始である。中国人民志願軍は、二十六万人の大兵力になっていた。
 マッカーサーは、中国の参戦はあり得ないと確信していたが、十月下旬、アメリカ軍が鴨緑江近くに達した時、そこには、中国人民志願軍がいた。中国人民志願軍は、厳しい軍律のもと、秘密裏に夜間移動をしていたため、国連軍は、その動静に全く気づいていなかった。予想外の大軍に遭遇したアメリカ軍は、韓国軍とともに、急遽、後退した。
 国連軍は、大きな打撃を受けながら、清川江チョンチョンガンまで南下して防戦に努めたが、十一月五日を過ぎると、中国人民志願軍の攻撃はぴたりとやんで、志願軍そのものが姿を消した。志願軍は、深追いを避けて後方に引き、次の攻勢への準備に取りかかったのである。そして、志願軍の兵力は、さらに増強された。
 このころ、空には、ソ連の援助による最新鋭ジェット戦闘機ミグ15が現れ、国連軍の戦闘機を次々に撃墜していった。こうした状況のもとで、地上戦は新たな段階に入っていくのである。
6  十一月五日、マッカーサーは、国連軍が中国軍部隊と交戦していることを国連に報告し、翌六日には、中国の介入を非難する声明を発表した。
 十一月二十四日、マッカーサーは、戦闘の決着をつけ、アメリカ兵をクリスマスまでに帰国させるという、いわゆる「クリスマス攻勢」なる総攻撃を開始した。これに対して、アメリカ軍を待ち伏せていた中国人民志願軍は、十一月二十五日、総反撃を開始し、激しい戦闘が展開された。第二次攻勢である。
 圧倒的な兵力で総反撃に出た中国人民志願軍の勢いに、国連軍は総崩れとなって敗走した。各地で国連軍は撃破され、全滅の危機に陥る部隊すらあった。
 損害という点では、国連軍よりも中国人民志願軍の方が甚大だったであろう。しかし、犠牲をものともせずに攻め寄せてくる、人民志願軍の前に、国連軍は、潰走ともいうべき、総崩れの退却をせざるを得なかったのである。
 この事態に、マッカーサーのみならず、アメリカも国連も衝撃を受けた。マッカーサーは、十一月二十八日、「新しい戦争に直面している」と統合参謀本部に報告した。
 その渦中、トルーマン大統領は、十一月三十日の記者会見で、朝鮮戦線で原爆使用をも考慮していると発言したのである。
 この発言に、イギリスのアトリー首相は驚き、直ちにワシントンへ飛んで、十二月四日、トルーマンと会談した。トルーマンは、原爆を使用する場合は、事前にイギリス、カナダと協議することを約束した。
 韓・朝鮮半島では、十二月五日、追撃されていた国連軍が、平壌を完壁に破壊して放棄し、翌六日、中国人民志願軍と北朝鮮軍が、廃墟となった平壌に入った。毛沢東は、三八度線を越えて、すぐ南の開城ケソン地区まで進むよう指示した。中国人民志願軍は、さらに進んでソウルをめざした。
 マッカーサーは、戦況を好転させるために、中国に対する全面的な攻撃を企図していた。しかし、対中国全面戦争の回避を望んでいたトルーマンは、マッカーサーの要請に対しては、断固として拒否した。中国と全面対決するくらいなら、韓国から撤退した方がましだというのが、トルーマンの方針であった。
 泥沼化が危慎される戦況に、国連では、休戦が話題として上るようになり、トルーマンは、この動きに同調した。しかし、一方で、十二月十六日に、「国家非常事態宣言」を出している。彼は、半島での戦争は終わらせたかったが、簡単に決着のつく問題ではないと考えたのであろう。
 中国人民志願軍と北朝鮮軍の猛攻は続き、半島の北東部に展開していた国連軍は、興南フンナムの港から船舶で撤退した。また、中部、西部の戦線にいた国連軍は、すべて三八度線の南に退いた。これを追うようにして南進した中国人民志願軍は、十二月二十五日には三八度線を越え、開城に進出してソウル攻撃の時を待った。
 十二月三十一日、中国人民志願軍の第三次攻勢が始まり、大軍がソウルに向かって攻め寄せた。
 アメリカ空軍は、連日、猛攻撃を加えたが、その勢いを限止することはできなかった。明けて一九五一年(昭和二十六年)一月四日、遂に国連軍はソウルを放棄し、その日の午後には、中国人民志願軍と北朝鮮軍がソウルを占拠した。国連軍は大きく後退し、ほぼ三十七度線の地点で陣を敷いた。
 地獄の戦場と化した半島では、何百万という人びとが戦火に巻き込まれて、家を失い、家族を奪われ、故郷を追われて逃げまどい、さまよっていた。
 国連は、半島における戦争が、予想外の展開を見せたことに困惑し、戦争終結を望んで、中国に休戦を呼びかけたが、中国は拒否した。この戦争に勝利の手応えを感じていた中国首脳部には、停戦するつもりなど、全くなかったのである。しかし、前線の中国人民志願軍は、相当の被害に遭っていた。
7  国際的には、国連軍を支持する国が多かったが、軍事的には、この時点で追い詰められていたのはアメリカであり、国連であった。し、中国が国連からの休戦の呼びかけに応じていたら、中国は有利な条件で交渉できたであろうし、その後に展開された悲惨な戦争を見ることもなかったはずであった。
 アメリカは、中国を侵略者とする決議案を国連総会に提出した。総会は紛糾したが、二月一日に、この決議案は採択された。これで休戦の機会は失われ、さらに新たな段階に突入することになったのである。
 確かに、中国人民志願軍は、圧倒的な兵力で国連軍を圧迫した。倒されても倒されても、攻撃してくる人民志願軍に、アメリカ軍は恐怖さえいだいた。夜襲に継ぐ夜襲に、疲れきってもいた。
 しかし、それは人民志願軍においても同様だった。彼らも、アメリカ軍の圧倒的な火力、機動力に驚き、また、多くの兵士を失って弱体化していた。補給路も長くなり、戦闘を続けるには、幾つもの困難な課題をかかえ込んでいたのである。
 一月二十五日に、国連軍が攻勢に転じた時、人民志願軍の主力は漢江ハンガンまで退いて休養を取り、次の戦いへの準備に入っていた。彼らが作戦会議を開いていた、まさに、その時、アメリカ軍の反撃が始まったのである。
 国連軍は、抵抗を排除しながら北上し、二月十一日には漢江に到達した。ソウルは目前である。
 この日、中国人民志願軍は、第四次攻勢を開始した。国連軍は、甚大な被害を受けたが、この攻勢は一週間で終わった。今度は、国連軍が反撃作戦に移った。国連軍は、各戦線で敵を圧迫しながら進軍し、三月十五日には、再びソウルを奪還した。中国人民志願軍と北朝鮮軍は、三八度線の北に後退していった。
 トルーマン大統領は、三八度線を回復したことによって、国連軍は、その使命を果たしたと考えた。言い換えれば、再び三八度線を越えて鴨緑江に接近することは、中国との泥沼の戦いに陥る危険性が大きく、また、ソ連の反発を招き、ひいては第三次世界大戦に突入する恐れさえあることから、一つの政治判断を下したのである。
 確かに、韓・朝鮮半島に戦火が上がった時に創設された国連軍の使命は、南進して韓国に侵入した北朝鮮軍を、三八度線以北に撃退するということであった。したがって、これまでの経緯はともかく、この時点で、トルーマンは休戦を呼びかけようとしたのである。
 ところが、まさにその時、マッカーサーは、ワシントンとなんの相談もせず、中国に対する威嚇的声明を発表したのである。
 三月二十四日、空からの前線視察のために羽田を発つ際、マッカーサーは、次のように述べた。
 「国連軍がその戦闘を朝鮮地域だけにとどめようとする忍耐強い努力を放棄し、敵の沿岸地域やその領土内の軍事基地にまで軍事作戦を拡大することを決定したならば、中共は即刻軍事的な崩壊の危機に追いこまれるであろうということを骨身に徹して知らねばならない。(中略)私は軍司令官としての権限において、各国の間で意見の対立があり得ない朝鮮における国連の政治的目的を、これ以上の流血を見ることなしに達成する軍事的手段を発見するために心からの努力を続けるものであって、このためいつ何時でも、戦場において共産軍総司令官と会談する用意があることは重ねて言う必要もない」
8  表現は腕曲であるが、実質的な降伏勧告である。トルーマンは、マッカーサーの解任を決意した。
 トルーマンも、この戦争によって、韓・朝鮮半島に親米の統一国家ができるならば、それに越したことはないと考えていたであろう。
 しかし、中国の参戦という計算外の重大な事態が生じた。トルーマンは、戦争を半島に限定して政治的解決を図ろうとした。これに対し、マッカーサーにとっては、中国の参戦は、中国攻撃のまたとない機会に映ったといえよう。おそらく彼は、アメリカの軍事力をもって、今のうちに、アジアにおける共産主義勢力を、叩きつぶしておかねばならないと判断したにちがいない。
 特に一九四九年(昭和二十四年)、中華人民共和国の成立は、アメリカのアジア政策にとって脅威となった。マッカーサーは、朝鮮戦争の拡大によって、アジアにおける共産主義との決戦に挑もうとしたのである。彼は、共産主義勢力に鉄槌を加え、世界的なその伸張を打ち砕くことを考えていたようである。
 トルーマンとマッカーサーの対立は、決定的なものとなった。
 マッカーサーは、北進作戦を計画し、五一年(同二十六年)四月九日に実施命令を下した。国連軍が三八度線を越えて進撃を始めた二日後の十一日、トルーマンは、マッカーサーを、すべての職務から解任することを発表した。
 解任通告が、トルーマンからマッカーサーに伝えられる前に、ラジオ放送で国連軍最高司令官の解任が発表されたのである。マッカーサーは、ラジオ報道を通して自分が解任されたことを知った。彼にとっては、屈辱的なことであった。
 マッカーサーの後任は、リッジウェー将軍であった。
 マッカーサーは、陸軍で五十二年間勤務し、最高の立場にまで上りつめたといってよい。しかし、その地位から、一瞬にして去らねばならなかった。武勲赫々たる将軍は、日本における史上最大の権力をも失ったのである。
9  六年前の一九四五年(昭和二十年)八月、敗戦国に理想的な民主主義国家を建設しようと、丸腰でパターン号から降り立った理想主義者の将軍。彼は、飢餓に瀕した八千万の国民に、惜しみなく食糧を放出した。さらにDDT(防疫用殺虫剤)を撒き、予防注射を実施し、民衆を救った将軍――その解任いったいどういうことであろう。
 マッカーサーは、複雑な人物であった。理想主義者でもあったが、半面、極めて現実主義的な一面も併せもっていた。有能・な軍人であったが、同時に野心に満ちた政治家でもあった。自尊心の強い将軍は、強い自己顕示欲の持ち主でもあり、気さくに見えたが、計算高い策略家でもあったようだ。
 彼の日本における六年間の足跡を見る時、功罪半ばすると分析することもできるだろう。だが、軍国主義国・日本を解体し、民主的国家への道筋をつくったのは、まぎれもなくマッカーサーであった。
 彼が、自分をどのように位置づけていたかはともかく、民主化を進め、思想、信教の自由を保障する憲法が制定されるように導いたことは間違いない。
 戸田が、マッカーサーを梵天の働きととらえたのは、コーンパイプをくわえたこの将軍が、新たな民主の時代をつくる役割を果たしていたからである。
 彼が、アメリカ政府内において、どう評価されたにせよ、それは日本人にとってはあずかり知らぬことであった。マスコミ操作術が巧みであったという面はあったにしても、多くの日本人は、彼に親近感をもち、頼りがいのある権力者として、畏敬の念をいだいていたのは、否定できない事実である。
 日本の国民にとっては、彼の解任は寝耳に水であった。
 四月十六日、彼の離日の際、羽田への沿道には、別れを惜しむ二十万の都民が、感謝を込めて彼を送ったという事実が、当時の日本人の心情を物語っている。
10  三八度線を挟んで、戦争は続いていた。マッカーサーが解任されてから十一日後の四月二十二日、中国人民志願軍と北朝鮮軍による総攻撃が始まった。第五次攻勢である。これは、アメリカ軍も予想していたことであった。三八度線を突破して南下してくる大軍に対して、アメリカ空軍は猛烈な攻撃を繰り返した。
 中朝軍は、ソウルへの侵攻を企図していたようだが、兵力は開戦当時に比べれば激減していた。戦車も、大砲その他の火器も不足していた。中朝軍は、歩兵による攻撃を繰り返したが、多大な犠牲を出した後、前進を停止した。
 五月に入って、中朝軍は再び大攻勢に出てきた。国連軍の戦線は崩壊しかけたが持ちこたえ、やがて反撃に転じた。このころ、遂に中朝軍の力は尽きたようで、後退を余儀なくされた。兵力を温存していた国連軍は、逆に三八度線のほとんどの部分で北進し、三八度線の北部一帯を占領した。
 こうした状況に、スターリンは、金日成のもとで韓・朝鮮半島を統一するという所期の目的を達成することは、もはや不可能であることを自覚したようだ。六月に入ると、ソ連は、和平へ向けてアメリカへの働きかけを始めてきた。
 六月二十三日、ソ連の国連大使マリクは、アメリカのラジオ放送に出演し、朝鮮停戦交渉を提案して世界を驚かせた。
 「ソ連は平和を強め新しい世界戦争を回避させるというその闘争をつづけて行く。(中略)今日の最も差迫った問題、すなわち朝鮮戦乱の問題は解決されうると考えている。このためには双方に朝鮮問題の平和解決に乗出す用意がなければならない。ソ連人民はその第一段階として交戦国間に双方の軍隊を三十八度線から撤退させるようにする停戦と休戦との討議が始められねばならないと考えている」
 アメリカでは、既に五月中旬に朝鮮戦争の停戦に向けての動きが始まっていた。そして五月末には、その意思はソ連に伝えられていたのである。しかし、中国の毛沢東も、北朝鮮の金日成も、ソ連の支援のもとで、まだ戦争を継続するつもりでいたし、韓国も、国連軍の支援のもとで、戦争を続行する決意であった。
 停戦交渉への動きが始まった事実を、スターリンは北京には伝えず、トルーマンも韓国に知らせなかった。大国同士は、半島で繰り広げられる悲惨な戦争の舞台裏で、停戦交渉に踏み切る時期を探っていたのである。
 この間にも、多くの兵士が激戦のなかで死んでいった。ここに権謀術数を事とする大国のエゴイズムを見ることができる。
 スターリンが、国連軍が停戦を提案してくるかも知れないことを中朝側に伝えたのは、六月中旬ごろだと考えられる。アメリカが韓国に伝えたのは、マリクの放送が終わってからであった。
 六月二十五日、トルーマンは、「朝鮮の平和的解決に参加する用意がある」と演説で述べ、中国の人民日報は、「朝鮮問題の平和的解決に関するマリク・ソ連代表の提案に全く同意する」と述べた。こうして、好余曲折を経ながらも、停戦に向けての動きが始まった。
 そして、七月十日、ソウルの北西にある三八度線の、すぐ南の開城で、一応、休戦会談が開かれるまでにこぎ着けたのである。
11  だが、外国軍隊の撤退、軍事境界線と非武装地帯の設定、監視機関の構成、捕虜交換など、両者の持ち出した条件は合わず、会談は何度も中断した。その間も、戦闘行為は、依然、継続したままで、前線では、凄惨な殺戮が続いていた。双方の指導者は、休戦会談を有利に導くために戦闘を継続させたのである。
 国連軍は、積極的な攻勢に出て高地を占領しようとした。その一帯は、特に激しい攻防戦が展開され、国連軍、中朝軍双方が、おびただしい銃弾、砲弾を撃ち合ったことから「鉄の三角地帯」と呼ばれた。三八度線から、北へ約二十キロ〜三十キロの地点、半島の中央部に広がる平康ピョンガン鉄原チョルウォン金化キムファを結ぶ地帯である。朝鮮戦争で最も激烈を極めたといわれる攻防戦は、山の形を変えるほどであった。これに対して中朝軍は、迷路のようなトンネルを掘り、洞窟をつくって陣地戦を展開し、頑強に抵抗して死守した。
 こうして、各戦線で互いに甚大な被害を出しながら、戦場は膠着状態に陥っていったのである。
 十月二十五日、休戦会談は、場所を板門店に移して再開された。しかし、捕虜問題や、その他、複雑な問題で会談は難航を続けた。その間も、最前線では高地の争奪戦が続けられていた。
 韓・朝鮮半島は、一九五二年(昭和二十七年)、開戦から二度目の冬を越し、春を迎えたが、人びとの生活には、春は、まだ遠い存在だった。
 中朝軍は、兵力の増強に努め、国連軍を上回るまでになった。中朝軍の陣地が地下に潜ると、アメリカ軍の空爆も効果が薄れた。アメリカ軍は、空爆の目標を切り替え、六月には、水力発電所を爆撃した。これによって北朝鮮は、電力の九割を失うことになった。七月には、平壌を目標に、朝鮮戦争で最大規模の空爆を行い、引き続いて、工場や発電所などへの攻撃を続行した。こうして北朝鮮の国力は、徹底的に破壊されていったのである。
 中国も、北朝鮮も、停戦を望むようになった。しかし、スターリンは、戦争の続行を指示したのである。スターリンは、停戦を考慮する一方で、戦争を長期化させて、アメリカの国力を弱め、同時に国際政治での優位な立場を得ょうと考えていたようだ。
 五三年(同二十八年)一月、アメリカの大統領は、トルーマンからアイゼンハワーに代わった。その二カ月後の三月に、ソ連では、スターリンが死去した。後任の首相には、マレンコフが就いた。スターリンの死によって、ソ連の朝鮮政策は一変し、休戦に向けて動きだした。
 七月二十七日、板門店パンムンジョムで休戦協定の調印が行われた。この日の夜十時、開戦から三年余、戦火は、韓・朝鮮半島の全土でやんだ。捕虜の扱いが最大のネックとなり、最初の会談から丸二年かかった休戦協定であったが、その二年聞に、捕虜の人数に倍する死傷者を出している。戦争の愚劣さと無意味さを物語って余りある事実である。
 三年余に及んだ戦争による物的被害は、計算のしょうもない。韓・朝鮮半島の全土が焦土となり、多くの都市は灰燼に帰したのである。人的被害も甚大であったが、いまだに明確な数字はわからない。
 北朝鮮においては、軍人と民間人を合わせた死者は、百五十万人とも二百五十万人ともいわれる。韓国側の死者は、百余万人とも百三十余万人ともいわれる。中国人民志願軍の死者については、百万人という推定がある。アメリカ軍の死者も、三万人から五万人に上っているという。
 少なくとも三百数十万人の命を犠牲にして、朝鮮戦争は一応の終結をみた。一応というのは、結ばれた協定は休戦協定であって、平和協定ではなかったからである。したがって法的には、その後も、韓・朝鮮半島は戦争状態が続き、多くの悲劇を生むことになった。
 休戦協定の後に残ったのは、幅四キロメートル、長さ二百四十八キロメートルの休戦ラインだった。
 この軍事境界線は、開戦時の境界線、つまり日本軍の武装解除のために引かれたアメリカとソ連の分担区分の境界線と、それほどの差はない。多くの犠牲を払い、憎悪と怨恨を残して、元の対立ラインに戻ったのである。
12  このころ、戸田城聖は、朝鮮戦争の本質というものを、さらに深く洞察していた。
 一九五一年(昭和二十六年)五月号の『大白蓮華』に掲載された彼の巻頭論文「朝鮮動乱と広宣流布」は、それを語って余すところがない。
 「朝鮮民族の生活は、このうえない悲惨な生活で、かれらの身の上におおいかぶさった世界は悪国悪時の世界である。だれが悪いのだろうか」
 彼は、世界中の十数カ国の軍隊が集まって戦争する、この小国の運命を思った。そして、その本源について、日蓮大聖人の仏法、なかんずく「立正安国論」の根本命題である「世皆正に背き人悉く悪に帰す」の御文や経典等、数多くの文献を引いて論じ、次のように結論している。
 「吾人の朝鮮民衆の身の上を仏教に照らしてこれを論ずるのは、きのうは日本の身の上、きょうは朝鮮の身の上、あすはまたいずこの国の運命とやせんと、世界民衆を憂えるとともに、仏の金言むなしからざるを思い、かつはこの騒乱のすがたこそ、日蓮大聖人の仏法が東洋に広宣流布する兆なりと確信するがゆえである」
 ここに、戸田城聖の警世の熱い涙があった。そして、彼は、大聖人が全人類救済のために顕された御本尊に、思いをいたすのであった。
 「仏法日本に厳然と建立せり。日本国民いまだ目ざめずといえど、この仏法の日本に弘まることは永い先のことではないと確信するからである」
 さらに、戸田は、かつては仏法をわが国に伝来させた朝鮮に、大聖人の仏法を渡そうではないかと、熱く呼びかけるのであった。
 最後に彼は、この論文の結尾を、「秋元御書」(筒御器抄)の御金言を引いて、謗法の国に生まれた者の心得として、一国救済とは一国折伏のことだと、強く結んだ。
 「いま日蓮正宗の信者をみるに、流罪、死罪をおそれず、一国の謗法を責めんとするものがあるか。
 いま、もし強く一国の謗法を責めなば、ことを世法によせて、かならず国王の難があるであろう。
 しかし、この難をおそれて身の安きをはかつては、仏勅に背くことになり、仏勅にかしこみて法戦を挑まば、この難がある。いかんがはせんである。
 しかし、吾人は仏の子であり、弟子であり、臣下である以上、たとい身命におよぶとも、仏の御心にかなわんために、一国折伏の大旗を立てなくてはならない。これが末法今時の信者の決意でなくてはならない」
 秋霜烈日たる、戸田城聖のこの精神――これこそ、今日の学会を生んだものであり、われら弟子たちが、さらに未来へと受け継ぐべき大精神でなくてはならぬ。
13  さて、ここまで朝鮮戦争について語りながら、同時に並行して進んでいた「対日平和条約」について触れなかったのは、朝鮮戦争の処理方式の発想基盤が、そのまま「平和条約」の成立方式の発想基盤でもあったからだ。前者は軍事戦争の収拾であり、後者は国際間の将来の利害をにらんで用意された講和条約である。
 この発想基盤とは何か――アメリカの世界政策、なかんずく極東アジア政策が、その基盤になっていたことは、これまでの朝鮮戦争の推移からも、容易に理解されるであろう。
 一九五一年(昭和二十六年)九月に結ばれた、日本に対する平和条約ならびに日米安全保障条約と、アメリカの朝鮮戦争への対応は、全く一つの根に基づく発想にあった。すなわち、東西両陣営の冷戦構造であり、アメリカの側からいえば、共産主義勢力の封じ込めにあったといってよい。
14  対日講和条約のことが、初めてニュースとして日本に報道されたのは、四六年(同二十一年)二月のことである。アメリカのバーンズ国務長官は、「日独との講和条約は今から一年半以内に完了するものと期待される」と、早期締結の見通しを明らかにした。
 翌四七年(同二十二年)の一月六日、トルーマン大統領は、年頭教書のなかで講和条約に言及し、条約締結を促進する意向を表明した。しかし、同時に、対ソ強硬政策は変わらないとして、ソ連を牽制する方針を明言している。
 それから二カ月ほど過ぎた三月十七日、マッカーサーは記者会見で、対日講和の機は熟していると、次のように述べた。
 「日本の軍事占領は早く終らせ、正式の対日講和条約を結んで総司令部を解消すべきである。講和条約交渉はできるかぎり早く始めるべきであり、余の確信では、遅くとも一年とたたないうちに始めるべきだと思う」
 「総司令部の軍事占領の時期は、講和条約の締結をもって完全に終るべきである。なぜならば今や講和条約締結のための諸条件は熟しているからである。米軍による占領の建設的な段階はほとんど終了した」
 「日本人は強制されずに、戦争放棄の新憲法をつくり、ポツダム宣言にしたがって、軍事施設を廃止した。したがって、われわれが撤退すると日本人は無防備状態に陥るであろう」
 「日本を保護する上に、おいてこのような欠点を補うためには二つの方法しかない。一はわずかの軍事施設を許可することである。しかし日本人は世界の進歩的精神にたよることによって、自分を不当な侵略から守ろうとしている。もし国連がこれに成功するならば、それは国連にとって最もすばらしい成功であろう」
 このマッカーサーの発言を、アメリカの新聞は、「マッカーサー元帥が米軍撤退を要望」という内容で大きく取り上げ、報道した。
 国務省筋も、「トルーマン大統領とマーシャル国務長官がこの問題を推進しようとすれば、米政府としては対日講和条約の交渉を今秋までに開始する用意がある」との非公式見解を出し、イギリスも講和条約の早期締結に賛意を表明していた。戦後二年たたずして、対日講和条約締結への動きは大きく進展するかに思われた。
 アメリカの対日講和の方針は、国務省による講和条約案の作成などの具体的な動きとなっていったが、予備会議のもち方など手続き面で、ソ連や中国国民党政府の合意が得られず、結局、暗礁に乗り上連げてしまった。
15  不安定な国際情勢は、急速に暗雲を広げていた。
 四八年(同二十三年)に入ると、ソ連によるベルリン封鎖、韓・朝鮮半島の南北冷戦の深い亀裂が、地球上のあちこちに、その姿を現していた。
 アメリカとしては、ソ連と相容れることのない対立関係が、もはや避けられない以上、今、自国の占領下にある日本を、是が非でも自らの陣営に取り込んでおかねばならない。あの第二次世界大戦を敵国として戦った日本の、人的資源、工業力、そして数多くの基地機能を確保することは、ソ連との対決を考えれば、絶対の要請となってくる――アジア大陸の東端に沿って南北に延びる長い日本列島は、防共の″防波堤″に、また巨大な不沈航空母艦に、アメリカには見えたにちがいない。
 しかし、アメリカが望む日本との関係を結ぶには、極東委員会でのソ連の影響が邪魔になる。それにはまず、日本占領にソ連の影響力が及ばないように政策を転換するとともに、日本国内政治の安定と、経済的な復興、自立を図る必要がある――アメリカは、四八年(同二十三年)秋、講和条約の延期と米軍駐留の継続へ、対日政策を転換していった。
 この時期、ソ連側からも対日講和の方策が提案されたが、今度は、アメリカが、それを拒否した。アメリカの日本占領政策は、日本を、再び戦争をしない民主主義的な平和国家へと生まれ変わらせるという当初の目的から、一転、東側陣営への″防波堤″としての役割を担う親米国にすることへと、変化していった。
 戦後、たちまち始まった「二つの世界」の対立、いわゆる東西の冷戦は、各国の外交政策を根底から転換させてしまった。東西の対立は、そのまま対日講和方式の対立となり、戦後六年もたって、いわゆる単独講和というかたちで、条約を締結せざるを得なくさせていったのである。
16  言うまでもないことだが、一日も早く占領状態を終わらせ、独立した平和国家として国際社会に復帰するための、講和条約の早期成立は、多くの日本国民の悲願でもあった。
 日本国内でも、講和方式が、さまざまに模索され論議されていた。独立後の日本が、平和憲法の精神に照らし、国際社会の信義を信頼して、非武装、中立を貫くことができるのか。それとも、東西対立の構図が、もはや否定しようのない国際環境では、まず西側陣営に入って国の再建を図ることがよいのか――。
 前者の立場に立つ人は、すべての国々との講和を結ぶ、いわゆる全面講和方式の主張となり、後者に立つ人は、アメリカを中心とした国々との講和を先行させる単独講和方式の主張となって、互いに対立していった。
 その対立の決定的在立場の違いが、独立後の国の安全を、軍事力に頼るのかどうかという点にあったことは間違いない。日本の防衛問題であり、平和憲法の問題である。
 一九四九年(昭和二十四年)五月、外国通信社の取材に応じた首相の吉田茂は、「対日講和条約の可能性は世界情勢の成行次第にかかっている。私は日本は軍隊を持ち得ないから、講和条約が調印されたのちも米占領軍が日本に残ることを希望する」との、展望を早くも語っていた。
 かくして、アメリカが再び、対日講和推進に動きだした四九年(同二十四年)秋ごろから、日本国内で講和方式をめぐる議論が沸騰していった。
 ソ連の原爆保有の公表、中国共産党による中華人民共和国(中国)の建国宣言など、東西対立の緊張は高まっていた。ここに来て、遂にアメリカは、イギリスとの間で、ソ連抜きの対日講和方針に踏み出した。十一月一日には、米国務省が、対日講和条約の起草準備中と発表した。
 直後の十一月十一日、日米関係を重視する吉田首相は、国会での答弁で″単独講和か、全面講和かは、外交の国際関係によって決まるわけで、われわれに選択の自由はない″と述べ、アメリカが主張する講和方式へと舵を切っていった。
 こうした動きに対抗して、日本国内では、知識人や、労働組合の側から、全面講和を主張する声が、澎湃として湧き起こっていった。五〇年(同二十五年)一月十五日には、三十五人の著名な学者、文化人による「平和問題懇話会」が、永世中立を掲げて全面講和への声明を発表した。
 現実主義の政治家たちは、これを理想論として批判した。後に、吉田は、この「平和問題懇話会」の主催者である学者を、「曲学阿世の徒」と呼んで非難するのである。
17  対日講和には、ソ連、中国も、必ずしも反対ではなかった。しかし、一九五〇年(昭和二十五年)二月、中国政府は、ソ連と「中ソ友好同盟相互援助条約を結んで、アメリカの極東政策に対抗するにいたった。条約の第一条には「締結国の一方が日本あるいは日本と同盟するその他の国家の侵略を受け戦争状態になった時は、締結国の一方は、全力を尽くして軍事その他の援助を与える」と定め、日米の軍事同盟を警戒し、牽制していた。
 日本の再軍備化への懸念は、日本軍によって蹂躙され、または交戦国となった、アジアの国々や、オーストラリア、ニュージーランドにも、強い不信の霧となってかかっていた。さらに単独講和に踏み切るにしても、戦争の被害に遭った国々から、講和の条件として、日本に賠償問題が突きつけられるのを、避けることはできない。
 しかし、既に占領下で五年を迎えようとしていた日本にとって、一日も早く講和への道筋をつけることは、戦後処理の最後の課題となっていたといってよい。講和――占領解除――独立という日本の戦後処理のコースは、これ以上は待てない国民の悲願でもあったのである。
18  ここに登場したのが、一九五〇年(昭和二十五年)四月、トルーマン米大統領から国務長官政策顧問に任命されたジョン・フォスター・ダレスである。一カ月後の五月十八日、トルーマンは、ダレスが対日交渉の任にあたることを発表した。その直前の五月初旬には、日本から訪米した使節団が、講和方式に対する吉田の基本的な考えを携え、早期講和を米当局者に内密に打診していた。
 事態は、急速に動きだした。対日講和の実現へ行動を開始したダレスは、六月には早くも来日し、マッカーサーや吉田らと会談して、独立後の日本の安全保障問題などを、精力的に語り合った。
 この時、ダレスは、講和独立の条件として、日本の再軍備の必要性を説いた。
 これに対して、吉田は、どのように応じたのかを、後に、こう述べている。
 「現代の軍備はひどく金がかかるものである。だから、実際に役に立つような軍備をつくれば、日本の経済がだめになるし、そうでなければ役に立たないものしかつくれない。それに、再軍備の背景となるべき心理的基盤も失われたままだった。理由なき戦争に駆りたてられた国民にとって、敗戦の傷跡はまだ残っていた。さらに、日本が再軍備すればアジアの近隣諸国を刺激するかもしれない。こうした理由から、私は再軍備に反対した」と。
 海峡を隔てた韓・朝鮮半島で、戦争が勃発したのは、まさに、ダレス来日中の、六月二十五日のことである。この朝鮮戦争によって、アジアの情勢は一変した。日本に駐留中であったアメリカ軍は、国連軍として朝鮮戦争へと送り込まれていった。日本は、文字通り米軍の前線基地と化してしまったのである。
 軍需物資の供給、いわゆる朝鮮特需で、アメリカへの経済的な依存も強まっていった。そして、何よりも、アメリカの方針を受けたマッカーサーは、それまでの占領政策を一変させ、占領軍不在で手薄となった日本に、国家警察予備隊の創設を命じたのだ。それまでとは一転して、日本全土の基地化へ、方針を転換していったのである。
 朝鮮戦争は、五〇年(同二十五年)十月二十五日の中国人民志願軍の参戦から、さらに東西対立の様相を深めていった。対峙する双方に多くの犠牲を強いる、一進一退の泥沼状態に陥っていった。
 共産勢力の伸張を食い止めるというアメリカの方針は、講和条約へのソ連の参加・不参加にかかわらず、対日講和を進めることで固まっていた。アメリカは、対日講和七原則をまとめ、ソ連、中国からの反対があるのは承知のうえで、手続き上の必要から、極東委員会の十一カ国に回付した。果たしてソ連は、激しくアメリカのやり方に反発した。
 それにはお構いなしに、アメリカは、十一月二十五日、対日講和七原則の全文を公表したのである。そこには、講和の当事国を、日本との条約締結の意思をもつ国とすることをはじめ、沖縄や北方領土の帰属問題、賠償請求権の原則的放棄などとともに、安全保障における日米の協力関係が明確に盛り込まれていた。
 なかでも安全保障問題は、日米の講和に関わる重大なテーマであった。その内容が、防衛問題、再軍備問題に対する、日本側の態度決定を迫っていたことはいうまでもない。
19  当然のことながら、日本政府としても、この七原則をもとに、アメリカとの交渉に臨むべく、講和の具体的方式について、有識者や専門家の会議を招集し、検討を重ねていた。
 年が明け、五一年(同二十六年)一月二十五日、ダレスが再び来日した。彼は、予想通り、日本の再軍備を吉田に強く迫った。
 しかし、吉田は、再軍備には応じられないとの立場を貫いた。
 そして、それに代えて、日本は、当面、再軍備はできないが、安全保障のために、引き続き米軍が、日本に駐留する方式を考えることにしたのである。
 つまり、さまざまな制約から固有の軍隊をもてない日本としては、国連憲章にも矛盾しないかたちで、独立後も引き続き米軍に駐留してもらう。そのため、日本側から希望するかたちで、基地供与をアメリカに申し出るというものである。
 複雑な議論のやりとりは省略するが、この時点で、日米安保条約の骨子は、ほぼ両者の間で合意されたのである。
 十七日聞にもわたった滞日中、ダレスは、吉田と重ねた三回の会談をはじめ、野党、財界、労働組合関係者にいたるまで、精力的に意見を交わした。
 そして、日本を発った彼は、フィリピン、オーストラリアを回り、両国およびニュージーランドと詰めの議論を行った。すなわち、日本への米軍駐留問題、日本の再軍備問題や、賠償問題について、各国との調整を図ったあと、ようやく帰国したのであった。
 こうして、講和条約草案は、関係国の予備会議も開くことなく、中園、ソ連を除外した関係諸国へ、ダレスが、直接、赴いての個別交渉という、異例の方法で作成されていった。
 この講和交渉のため、ダレスは、三度の来日も含めて、一年間で十二万五千マイル(約二十万キロ)を飛行したといわれる。実に、地球を五周もする旅である。
 彼は、直ちに講和条約草案の作成にかかった。アメリカの最終的な講和条約草案は、五一年(昭和二十六年)三月下旬、日本をはじめ関係一五カ国に提示された。
 これに対して、日本国内には、あくまでも全面講和、つまり、第二次世界大戦の連合国すべてと、講和を結ぶべきだと、強く主張している人たちもい
 全面講和を求める勢力は、およそ次のような主張を掲げて運動を展開していた。
 ――かつての全交戦国が調印する全面講和ならば、日本はどの国とも友好を結ぶこともできる。すなわち、各国の承認のもとに、永世中立の宣言をすることも可能である。それによって、新しい平和憲法を守り、二度と戦争をしない平和国家とすることもできよう。それが、一部の国を除外した講和であったら、偏った講和となり、わが国は、国際間の二大勢力の争覇に、身を任せていかなければならなくなる。戦争に巻き込まれる危険を避けるためには、この際、どうしても全面講和を要求すべきである――。
 そとには、無謀な戦争による塗炭の苦しみを、民衆に味わわせではならないとの切なる思いがあったともいえよう。
20  三度目にダレスが日本を訪れたのは、マッカーサー罷免直後の、一九五一年(昭和二十六年)四月十六日のことである。
 この来日で、彼は吉田に、フィリピン、オーストラリア、ニュージーランド等との交渉経過を伝えるとともに、イギリスが持ち出してきた中国代表権問題については調整中であり、日本に態度の保留をするよう要望した。
 中国代表権問題とは、イギリスが中華人民共和国を当事国とすべきであると主張していることである。しかし、アメリカにとって中華人民共和国は、現に韓・朝鮮半島で戦いつつある敵国である。イギリスの主張を、とても承認できるわけがない。
 そこで六月に、ダレスがロンドンを訪れ、イギリスとの間で″中華人民共和国、台湾の国民党政府ともに講和会議には呼ばない。条約発効後に、日本が、どちらかの政府を選択して条約を結ぶ″との妥協案で決着させた。
 これでアメリカは、米英共同提案というかたちで、講和条約案を提示するところへこぎ着けた。
 国際関係の利害を優先させる、現実政治の荒海の波間にもてあそばれるように、占領下の日本がたどり着いた先は、社会主義国などを除く国々との講和となったのである。
 米英共同提案の発表を受け、七月三十日、アメリカは、対日講和会議の招聘状を五十一カ国に送り、日本にも届いた。
 その十日前の七月十日には、開城で朝鮮休戦会談が始まった。もし、ここで半島の平和が戻っていたら、講和条約の内容にも変更が迫られていたかもしれない。だが、休戦会談は幾度も中断し、半島での戦闘がやむことはなかった。
 対日講和会議には、事前の申し合わせ通り、中華人民共和国は招待されなかった。また、インド、ビルマ(当時)、ユーゴスラビア(当時)の三カ国は、会議には招請されたが、参加しなかった。インドが参加しなかった理由は、日米軍事同盟、中国の講和会議不参加などに異議を唱えてのことであった。
21  かくして、九月四日(現地時間)から八日(同)までの五日間、アメリカ・サンフランシスコのオペラハウスを舞台に、講和会議が始まった。
 最終的に、参加国は、日本を含めて五十二カ国となった。日本からは、吉田首相を首席とする六人の全権委員、五人の全権代理のほか、講和会議派遣議員団、随行者合わせて総勢約五十人の代表団が訪米した。
 会場となったオペラハウスは、四五年(同二十年)六月、五十カ国の代表が参加して、国連憲章が調印された舞台でもあった。
 講和会議初日、開会のあいさつに立ったアメリカのトルーマン大統領は、日本占領の実績と経過を述べ、対日講和条約調印にこぎ着けたダレスの努力を讃えながら、穏やかに演説を進めた。
 「この条約は全参加国の主な希望と究極の利害を考慮しており、勝者にとっても、敗者にとっても公正な条約である。そればかりでなく、この条約は実行できる条約である。将来再び戦争を起す原因となるようなタネはなに一つ含まれていない。さらにまたとの条約は過去でなく、将来に目を向けた和解の条約である」
 さらに、トルーマンは、日本の安全保障の重要性を指摘し、新日本が、アジア、太平洋諸国と協力し、国際貢献していくよう期待しつつ、こう演説を結んだ。
 「われわれの前にあるこの講和条約草案は平和を語ること以上のもの、すなわち平和のための行動を要求するものである。したがってこの会議の進行につれ、だれが平和を求め、だれが平和を阻止しようとしているか、まただれが戦争を終結しようとしており、だれが戦争を継続しようと欲しているかがはっきりするであろう。
 われわれはこの条約が、現在世界をおおっている緊急状態の緩和を心から望んでいるすべての国々によって支持されるものと信じている。私は調和と理解を促進するためのこの一段階を、われわれが一致して進めることを祈ってやまない。
 われわれはいま講和の席につくにあたり、こんごわれわれの間に勝者と敗者の区別を一切なくして、お互いに平和を希求する仲間同志となるために、すべての敵意とにくしみをすて去ろうではないか」
 二日目の九月五日は、講和会議の正副議長選出、米英全権による対日講和条約草案の提出理由の説明に続き、各国代表演説に移った。その席上、ソ連首席全権のグロムイコが、十三項目にわたって修正案を提出した。しかし、「草案の修正は許さない」との議事規則で、あっさりと却下された。
 三日目の九月六日も、各国代表演説が続いた。セイロン(当時)のジャヤワルデネ蔵相の仏典を引いての演説は、日本の代表団の胸を打つものだった。
 「(セイロンは戦争中大きな損害を受けたので)わが国にはこれらの損害の賠償を要求する権利があります。しかし、わが国はそれを要求するつもりはありません。なぜならば、私たちは偉大なる師の言葉、アジアの無数の民衆の生命を気高きものにしてきた教えを信じているからです。それは『怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みのむことがない。怨みをすててこそ息む』との教えです」
 「私の得た印象では、一般の日本人は今でも偉大なる平和の師の影響を受けております。そしてその教えを奉ずることを願っています。私たちは、その機会を彼らに与えてあげなければなりません」
 四日目の九月七日も、各国全権の演説が続き、夜の会議の冒頭、日本全権の吉田が、四十九人目の発言者として受諾演説に立った。
 彼は、巻紙に認めた原稿を読んだ。そして、条約を、「和解と信頼」の文書であるとして、「この公平寛大なる平和条約を欣然受諾いたします」と述べた。
 その一方、択捉えとろふ国後くなしりの領土権を主張してソ連を非難し、アメリカ軍の駐屯を希望すると語った。
 最終日の九月八日、条約の調印式が行われ、四十九カ国九十八人の各国全権代表が、二十七条からなる平和条約に相次いで署名した。最後の署名者は、吉田をはじめとする六人の日本の全権委員であった。ソ連、ポーランド、チェコスロバキア(当時)の、共産圏三カ国の全権は、調印を拒否し、会場に姿を現さなかった。
22  ともかく、アメリカの主導で推し進められてきた講和条約は、ここに、締結をみたのである。
 調印をすませた吉田は、その足で、米国西部の陸軍司令部のある、サンフランシスコ郊外のプレシディオ基地に向かった。アメリカとの約束であった、日米安全保障条約の調印のためである。
 既に、その内容は、この数カ月間の日米の秘密会談を経て、両者の間で合意されたものであった。しかし、全文が報道陣に公表されたのは、調印式が始まる直前のことであった。
 アチソン国務長官と吉田首席全権で行われた調印のあと、両者の交換公文書が発表された。
 それによると、安保条約は、前文と五項目の条文からなる簡単極まるものであった。しかし、この条約は重大な意味をもち、日本の行方に大きな影響を与えていくことになる。
 その前文では、平和条約に言及し、日本は自衛のための有効な手段をもたないとして、「無責任な軍国主義がまだ世界から駆逐されていないので、前記の状態にある日本国には危険がある。よって、日本国は、平和条約が日本国とアメリカ合衆国の間に効力を生ずるのと同時に効力を生ずべきアメリカ合衆国との安全保障条約を希望する」と述べている。同時に、「直接及び間接の侵略に対する自国の防衛のため漸増的に自ら責任を負うことを期待する」として、日本が、自衛力をもつ責任を明示していた。
 この前文を踏まえ、第一条は、日本およびその付近への米軍の配備をうたい、その軍隊を、「日本国の安全に寄与するために使用することができる」と定めている。とともに、「この軍隊は、極東における国際の平和と安全の維持に寄与し」とも述べている。この条文の背景には、朝鮮戦争であらわになった東西の軍事的対立と、アメリカの極東政策があったことは、言うまでもなかろう。
 ともあれ、アメリカ主導で進められた、対日講和と日米安全保障条約が、東西対立の投影ともいうべき朝鮮戦争と、深く結びついていたことは、ここまでたどってきた経緯からも理解されるであろう。
 日本の国土を、韓・朝鮮半島まで迫った共産圏への″防波堤″として、軍事力を配置することにアメリカの主眼があったとすれば、ダレスの精力的な交渉術は、その目的を達したといってよい。
 以来、安保問題は、長く日本の国論を二分する重大問題となってきた。実に、このしこりは、東西対立の渦中で、社会主義国などを除いて成立した対日講和条約に始まっているのである。
23  ところで、真の安全保障とは、果たして「不信」の防壁を張り巡らせ、「対立」の銃口を向け合うことにあるのだろうか。いたずらに敵視し、睨み合っているだけでは、戦争の心配が、なくなるどころか、対立の溝は、深まるばかりであろう。
 そもそも、一国のみの平和はあり得ない。一国のみの繁栄もあり得ない。この地球上に住む全人類の平和なくしては、真の平和とはいえないであろう。そのためにも、あらゆる戦争の根を断つことこそが、人類の恒久的な平和への大道であるはずだ。
 そこに、日本が進むべき道がある。それには、日本が自ら、地球上のあらゆる国々と、平和と友好の絆を強めていくことである。やがて、その国々と、平和友好条約を結んでいくならば、日本を取り巻く環境も、当然、変わっていくにちがいない。
 まず第一に、中華人民共和国とは、万難を排しても友好の絆を結ぶことである。アメリカに気兼ねして、反対論を唱える人がいることも事実である。
 中国敵視政策をとる人も多い。その意中もわからないではない。だが、日本と中国は、文化的にも、歴史的にも深く結びついてきた。数千年来、交流してきた隣国との誼を結ぶのに、なんの遠慮がいるだろうか。過去の痛恨の歴史を、そのままにしておいてよいわけがない。
 ここで、身近な譬え話をしよう。
 昔、近しい親戚同士で、隣り合って住んできた二軒の家があった。先代同士が喧嘩してしまい、いつか、口もきかない絶交状態に陥って以来、長い年月が過ぎた。この間に、片方の一軒の家は、千里の向こうに新しい親戚ができて、親しく付き合うようになった。
 しかし、なんといっても隣同士のことである。俗に、遠くの親戚よりも近くの他人という。まして、もともと親戚ではないか。今は、先代の記憶も薄くなり、昨今、互いに心で誼を求め始めたが、一軒の家は、千里の向こうの親戚に気兼ねをして、どうしても友好の手を差し伸べることができない。もう一軒の家は、カンカンに腹を立ててしまっている。
 さてここで、隣家同士が、一切の行きがかりを捨てて、思い切って友好の手を握り合ったとしたらどうなるか。一切の環境は、ガラリと変わるのである。やがて千里の向こうの家も加えて、親戚として、三軒の家は平和な交際を始めるにいたるであろう。
 国家と国家の関係も、民族と民族の関係も、その根本をなすのは、人間の一念である。ある国家や民族に対して、人びとが、不信、反目、憎悪の念をいだき続けている限り、国家間や民族間の、本当の意味での友好も平和も、成り立つことはない。
 大事なことは、国家、民族、さらに、宗教、文化、言語等々は違っていても、地球を故郷とする、同じ「人間」であり、同胞であるとの認識に人びとが立ち、不信を信頼に、反目を協調に、憎悪を友愛に変えていくことである。つまり、人間の一念の転換こそが、平和建設の要諦といえよう。
24  法華経には、三変土田と説かれている。仏が、裟婆世界である国土(場所)を、三度、変じて、浄土にしたことをいう。すべての人に、仏の生命が具わっていると教えているのが仏法である。人間の一念を転じ、仏の生命を顕現していくならば、国土を変え、この地上に、恒久平和を実現することもできるのだ。三変土田は、その原理を示しているといえよう。
 はるか未来に思いを馳せるならば、隣人の中国と友好の手を結ぶことは、両国のみならず、アジアの安定と繁栄、世界の平和へと、深くつながっているにちがいない。その環境をどうつくるかにこそ、政治家たちは、勇気をもって取り組んでいくことだ。
 目先のことのみに目を奪われた政治家たちは、これを非現実的な空理空論と笑うかもしれない。しかし、いったい現実とは、何を指していうのであろうか。
 現実とは、庶民の生活のなかにこそあるはずだ。戦争にさんざん苦しめられ、原子爆弾にこの世の地獄を体験し、″もう、戦争は二度といやだ。戦争に負けても平和の方がいい″と悟った庶民の生活実感以上に、現実的なものがあるというのだろうか。
 そのような生活意識から生まれた政策であってこそ、現実的な政策というべきである。幾多の尊い犠牲を払った庶民の生活意識は、あらゆる国々との友好を求めているのだ。
 もちろん私は、共産主義を礼讃しているのでもなければ、自由主義を敵として論じているつもりもない。それらを包含しゆく仏法の人間主義に立った時、そのように結論せざるを得ないのである。
 やがて、新しき世紀の輝かしい歴史の舞台に躍り出るのは、前途洋々たる現在の青少年たちである。未来の無限の可能性を秘めた若い世代の前途は、断じて、ふさいではならないのだ。
 ともかく、日本が真の平和国家として立ちゆくためには、自らが、人類の平和を招来する環境をつくり、開いていくことこそ不可欠である。中国とも、ソ連とも、そして、地球上のあらゆる国々と、平和と友好の絆を結ぶことである。ここに、世界の恒久平和への大道はあると言いたい。
 世界の国々と友好平和の鮮が結ばれるならば、民衆と民衆の、平和と文化の友情の橋は、幾重にも懸かっていくであろう。そこにこそ、不信と対立の壁を取り払い、人類が共に栄えていく、新しき世紀も開かれていくのだ。平和主義の日本国憲法も、その時、初めて、この地球上に燦然として光を放つにちがいない。
 このように言えば、現実の世界は、それほど簡単至極なものではないと反論する人もいるだろう。しかしながら、誰かが、率先して平和と友好の絆を結ぶ努力を始めなければ、このアジアの民衆の安泰はあり得ないのだ。
 日本は、右顧左眄することなく、どこまでも平和主義を基調として外交方針を貫く、強靭な決意をもたねばならぬ。そのためには、まず、中華人民共和国との平和友好条約の締結を最優先すべきであり、これこそ、最も現実的な政策であると、重ねて訴えておきたい。

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