Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

随喜  

小説「人間革命」5-6巻 (池田大作全集第146巻)

前後
1  戸田城聖は、熟慮した。
 ″新時代の革命には、それにふさわしい、新しい組織が必要である。その組織が、一つの躍動する生命体として発展するために、いちばん大切な、不可欠の条件とは、いったい何であろうか″
 この問題が、五月三日の会長就任の日から、戸田の頭を離れなかった。それは、広宣流布という、想像を絶する壮大な展望に臨んだ時、執拗なまでに彼の心をとらえて離さない課題であった。誰かに相談できるような問題でもない。また、衆知を集めて解決できる問題でもなかった。
 その未来への偉大なる展望は、彼一人の己心のなかにしか存在しなかったからであろう。
 仮に、それを彼が語ったとしても、弟子たちが正しく理解するには、現状は未熟というより仕方がなかった。
 今、会長となって、険難な未来を望む時、彼は、重い、未聞の責任感から、いやでも心に孤独の濃い影を宿さずにはいられなかった。
 熱誠あふれる歓喜の推戴をした三千余の人びとも、彼の、この苦悩を微塵も知らなかった。
 彼は、会長として新出発するにあたり、これまでの弱体化した組織を一新させていった。新たに全部門の組織を再編成し、その新組織を躍動させるには、どうすべきかを、わが心に問うたのである。
 ″確かに俺は、出獄のその日から今日まで、師子奮迅の活動を敢行したことは事実である。だが、敗戦後、わずか数年の間に、多くの新教団が急速に勢力を伸ばしてきた。この現実を目にすると、全力で戦ってきたとはいえ、実は空転していたとさえ思えてならない″
2  彼の反省は、深かった。
 ″組織は、ことごとく生きていなければならぬ。人が集まれば、それで組織ができるという安易な考えから、今こそ脱却すべき時だ。組織の各部門が、それぞれ磨き上げられた強靭な歯車となって、互いに、ぴたりとかみ合って、回転し始めた時、初めて生き生きとした組織が、幸福と平和とのために動き始める。そして、うなりを生じて、巨大な生命体となることができよう。そのためには、何かが欠けている。いったい不可欠なのか……
 戸田は、いつまでも思いあぐねていた。
 会長という立場から、つぶさに支部、講義部、婦人部、青年部、男子部、女子部、機関紙と、幾つもの広布の歯車を、一つ一つ丹念に点検した。
 彼の未来にとって、これらの歯車は、いずれも等しく掌中の珠と思われた。だが、それらの珠は、今は粗雑な石ころのようにしか見えない。これらの石を、光彩陸離たる珠とするには、彼自らの懸命な努力によって、その一つ一つを、急速に磨き上げねばならない。
 ″しかし、そうした努力は、今さらのことではない。ここ六年、日々、続けてきたはずだ。だが、何かが欠けている。その欠けているものは、なんであろうか″
 彼は、反省の果はてに、一切の方法論を、ひとまず捨てた。そして、鋭い洞察のもとに、こう結論していった。
 ″人びとの心は、いつか形式面にとらわれ、現象面を追って右往左往してしまう。われわれの組織は、妙法のそれである。妙法流布の組織である以上、組織の中心軸は、言うまでもなく純粋無垢な信心しかない″
 そう思い至ると、彼は、これまでの学会に欠けていたものこそ、その信心の根本たる御本尊にほかならぬと悟ったのである。創価学会に、金剛不壊の大車軸としての御本尊なくして、妙法の組織としての生命をもつはずがない。
 そこで彼は、就任式の席上、既に提案していた学会常住の御本尊の請願書の作成を、心を込めて急いだ。
3  請願書
 顧みますれば、初代会長牧口常三郎、創価学会建設以来、大御本尊の慈悲をこうむる身となりました。私共同志は只々広宣流布を念願して参りまして、牧口会長、大御本尊に身を奉るの日には会いましたが、未だ広宣流布の大願は程遠く、思いをこがして七年になりました。
 ″大聖人宗旨御建立七百年を明年にひかえまして、去る五月三日に戸田城聖が第二代の会長の任をとり、不思議の因縁をもちまして、集う同志は五千を数うるに至りました。
 時は東洋をあげて大動乱の現実に当面し、つらつら私共愚かな心にて、宗祖日蓮大聖人の御予言を立正安国論等にて拝し奉るに、遂に一国大折伏の時機到来せりと考えざるを得ないので御座居ます。
 この時に当たり、私共謹んで仏勅を奉じ、広宣流布実現に身命を賭せんと深く期する処であります。
 御法主上人猊下におかれましては、右の真情を嘉せられ、大折伏大願成就の為の大御本尊を賜りまするよう、創価学会の総意を以て請願申し上げます。
           創価学会
             会長 戸田城聖
  日蓮正宗総本山
    法主上人猊下
      昭和二十六年五月十二日
4  ここに、創価学会創立二十一年にして、さまざまな苦闘の足跡を刻んで、ようやく広宣流布大願成就のための御本尊の請願となったのだ。すなわち、戸田城聖の「広宣流布は、俺がやる!」という固い決意と、もはや、一歩も退くことのできぬところまできた彼の使命の自覚が、如実に、この請願書に込められていたといえよう。
 この日、彼は、ある知人に歌を贈っている。
  春の花
    秋の紅葉も
      なにかせん
    広宣流布に
      われは征くなり
 五月十二日、戸田は、請願書を携え、十人ほどの学会幹部を同道して、常泉寺を訪れた。死身弘法の決意と総意を認めた、この請願書を、堀米日淳に託し、水谷日昇法主への提出を依頼したのである。堀米は、にっこりと笑みを浮かべて領き、請願書を受領すると、総本山へ急行した。日昇は、その請願の志を讃え、直ちに御本尊を認めたにちがいない。
 五月二十日、戸田は、四十人の幹部と共に登山した。そして、宗務院において、日昇から、広宣流布大願成就の御本尊が授与された。
 総本山を辞した戸田は、表装と厨子等の完成時期を考慮して、七月二十二日に、御本尊奉戴式を兼ねた臨時総会の開催を決定した。
 この御本尊こそ、創価学会本部に安置されてきた御本尊である。この御本尊の向かって右には、「大法弘通慈折広宣流布大願成就」とあり、左には、「創価学会常住」と認められている。
 戸田城聖は、″これでよし。後は、空転なく前進を続けるのみ″と思った。
 彼の、今後の人生の大切な一日一日に、空転があってはならない。たとえ大きく動いているように見えても、空転してしまったならば、そこには、なんの価値も生じないばかりではない。もはや滅び去る運命をはらんでいるものだ。
 すべての戦いという戦いを、勝利の連続をもって積み重ねていく以外にない。どんなに些細なことであっても、物事を軽視する態度は敗北につながる。安易な考え方に勝利はない。安直は、建設の敵であるからだ。
 彼は、一回の負け戦も断じであってはならぬと決意したのである。
 五月三十日は、月例の支部長会である。その折伏成果は、二百八十四世帯であった。三月、九十五世帯、四月、百五十世帯と、月々、一.六倍から一.九倍の飛躍ではある。
 戸田は、この増加率を少しも崩してはならぬと思った。
 ″七月の奉戴式を目標に、さらに確実な飛躍を敢行しなければならぬ。それには、各部門の信心の飛躍を図り、その総合結果として、月々の折伏成果を考えることだ″
 彼は、まず、婦人部の委員会の結成から着手していった。
5  戦後六年――敗戦の国土の庶民として、生き抜くために、再起のために、最も果敢な戦いを余儀なくされていたのは、婦人たちである。
 彼女たちは、まことに辛かったにちがいない。それだけに、妙法を持った婦人の信心は、捨て身であった。失意の夫の顔を見る辛さを乗り越えようと、折伏を行じた。
 米橿が空だと知ると、それだから折伏に夢中になった。乳飲み子を背負い、幼子の手を引き、題目を唱えながら、知人、友人の家へ行った。援助を請うためではなく、空腹をかかえて折伏のために歩いた。
 ある婦人は、いつも、四人の子どもを連れて、折伏に励んでいるという話が広まった。背中に一人、右手に一人、左手に一人、三人の子どもは誰の目にもわかった。だが、もう一人はどこにいるのかと不審げに首をかしげると、おなかのふくらみが目についた。やがて生まれてくるであろう子どもが、彼女の体内で、もう一人、胎動していたのである。
 戸田は、こうした幾人もの婦人たちを慈しみ、激励していった。そして、指導の手を緩めることがなかった。
 婦人の共感を得て、彼女たちを納得させることができないようでは、いかなる哲理も、また信仰も、庶民に根差した力とはなり得ない。民主主義の理想も、目覚めた婦人の高い意識と行動によって、初めて盤石なものとなり得るのだ。それが、彼の持論であった。
 ともかく彼女たちは、生活に、信心に、勇敢に戦った。それぞれ言語に絶する苦境にあっても、徐々に苦悩を脱しつつあったのである。
 戸田は、これらの婦人のなかから、五十二人を選んだ。彼独特の精鋭主義だ。そして本部婦人部委員として遇したのである。
 六月十日、この委員会の結成を、新宿の、ある西洋料理店で行った。本部婦人部委員五十二人は、いそいそと参集し、戸田会長を囲んだ。このような、婦人だけの会合は、この時まで一度も開催されたことはなかったのである。
 こうして、一騎当千ともいうべき婦人部の闘士たちが勢ぞろいしてみると、五月三日の就任式の歓喜が、今また、狭い一室に充満していった。
 初めは、少々かしこまって、取り澄ましている人もいた。だが、次第に、皆、ニコニコと笑顔を浮かべ、戸田の、磊落に飛ばす、冗談を交えた鋭い指導に耳を傾け、一心に彼の顔を見つめていた。
 会食の会場には、真っ白な布をかけた幾つものテーブルが並んでいた。戸田のテーブルには、大輪の白ゆりが生けられ、強い香気を放っている。
 各自の目の前には、料理の皿が並べられていく。そして、フルコースのナイフ、フォーク、スプーンが何本も光っていた。
 時代が時代である。一九五一年(昭和二十六年)六月といえば、占領下にあって、まだ敗戦の余壊はくすぶっていた。そのなかでの、思い切っての会食である。
 戸田は、順々に、元気な婦人たちに目を移しながら言った。
6  「皆さん、今夜は、ご苦労さま! 今日は、ご馳走を食べながら、広宣流布のため、ゆっくり語り合いたいんです。
 元来、女性の力というものは、普通、考えられているよりも、はるかに偉大なものであります。古来、西洋では『酒は強い。王はさらに強い。女はなおさら強い』といわれております。
 学会の発展の姿、また活動する姿を見ても、いつも女性の方が、男性より一歩先んじて前進しているようである……しかし、また半面、まことにヤカマシヤが多くて、これでは、一日も早く男女同権になるように、私は、男性側に味方せざるを得ないのであります」
 どっと高い笑い声があがった。互いに顔を見合ったりし、たちまち饒舌が始まろうとしていた。戸田は、それを聞き流して話し続けた。
 「ほれ、この通り……。まことに、やかましい方たちだが、いよいよ学会も新しい出発をした以上、目的に向かって、前進のための組織を、一層、強固にせねばならない。
 そのためには、今日、ここにお集まりの皆さんの力を、ぜひとも必要とするのであります。
 お互いに、広宣流布の実現のために、力いっぱい働こうというからには、皆さんは、妙法流布の歴史に輝く女性の一人として、一人も漏れることなく、後世に名をとどめていただきたい。そのなかにこそ、夫や、子どもの一切の福運も、繁栄もあると確信してもらいたい。皆さんは、世間の、いわゆる名流婦人などとは、全然、違うんです」
 そして最後に、こう結論した。
 「妙法受持の女性は、最も尊貴な女性であることを自覚してもらいたい。妙法の実践の証明が、未来にどう開花していくか、今後、私と共に、どこまでも戦ってもらいたいんです。
 このことだけ、わかってくれれば、今日は、もう何も言うことはない。……さあ、ゆっくり食べようじゃないか」
 彼女たちは、一斉にスープの皿に向かった。明るいシャンデリアの下に、晴れがましい顔である。そこには、生活闘争の苦悩などは、少しも見えない。
 あちこちで、スープをすする音、皿とスプーンの接触する不器用な音が響く。だが、戸田は、そんなことには無頓着であった。ウイスキーを、うまそうに飲み干していた。そして、傍らの清原かつや泉田ためを相手に談笑している。
 彼の目は、しばしば鋭くなって話していく。今夜の会合には、出席するまでにいたらないものの、新進の婦人の誰彼の名をあげ、その人たちの一人ひとりを、いかに温かく、厳しく、育て守るかについて、次々と指示していた。
 彼は、表面に出られる人と、出られない人との調和を、いつも考えていたのである。
 にぎやかさが刻々と増していく。デザートが出るころには、笑いさざめく声が、あちこちで始まった。
7  ころ合いを見てか、清原かつは、すっくと立ち上がった。そして、一同に向かって、感想なり意見なり、希望なり決意なり、質問なり、なんでもよいから、先生に、ぜひ報告したいこと、聞きたいことがある人は、遠慮せずに発言するように促した。
 たちまち、四、五人の手があがる。やはり、生活の問題が真っ先であった。
 一人の婦人の質問は、主人がだらしないことを責めるような話になっていた。聞く人には、その婦人の生活と信心とが、鮮明に浮かんでくるのである。
 生活苦の責任を、全部、夫にかぶせ、強気になっての質問である。
 戸田は、質問者の長所も弱点も温かくつつんで、諭すように言った。
 「女性は、ほんとに強い。ぼくは男性の味方をするわけではないが、男一匹、生活力を失った時ほど、辛い惨めなことはない。全くどうしょうもない。それを側でガミガミやられたら、実にたまったものではない。ぼくも、その辛さは、よく知っている。
 ガミガミ言って、それで宿命が変わるものなら、こんな簡単なことはない。そうはいかんのです。結局のところ、貧乏運を福運に変えるのが、この信心です。仏法からすれば、実は、これは簡単なことになっている。ただ、少々時間がかかるだけなんです。信心を原動力に、粘り強く生活実践をやり抜くことだ。やるように方向づけることだ。
 ガミガミ言っても始まらんと悟ったら、真剣に御本尊様に願い切るんだな。この簡単な原理が、みんなわからない。これが、いちばん遠いようで、確実な早道になっていく――いつも、こう指導されて、理屈ではわかっているが、いざ、日常生活のなかでは、さっぱりわかつてないようだ。理屈でわかるだけでは、大聖人様の仏法ではない。実践です。弛まぬ実践です」
8  戸田の話は途切れた。婦人たちは、思い当たったのだろうか。深く頷き、考え込む人も大勢いた。
 子どもの重病について、姑との問題について、婦人部の、いつも変わらぬ質問が一段落すると、話は折伏のことに移った。彼女たちは、どうしても折伏が実らぬことについて、口惜しさを涙ながらに語るのである。そして、戸田の指導を待っていた。
 「わかった、わかった。泣くことなんかあるものか。折伏といい、布教といい、この世で人間のできる最も崇高な行動をして、どうして悲しくなるんですか。あなたは、何か意地になっている。意地を張る菩薩や仏様など、どこにもいないよ。
 折伏は、仏の行です。徹頭徹尾、慈悲の行です。あなたは、折伏した時、『そういう立派なことを言う、お前の現在はどうだ』と、口にはしないが、腹のなかで相手に軽んじられて、それが口惜しさとなり、癪にさわって悲しくなるのではないか。そこで意地になってしまう。
 こうなると、あなた自身、せっかくの仏の行を、凡夫の行に、いつか知らないうちにすり替えてしまっている。われわれ凡夫が、仏になれるのは、わずかながらも忍辱の鎧を着て、末法の人びとを救おうと一生懸命に折伏する時なんです。
 大聖人様も、末法で折伏を行ずることは、難事中の難事だとおっしゃっている。この難事を、今、悪世末法において実践しているのは、われわれ創価学会だけではないか。
 今、世間が、どんなに悪口を言おうが、どんなに軽蔑しようが、そんなことが気になるような弱虫では、とうてい大聖人様の弟子とはいえません。
 世間が″しまった″と後悔する時が必ず来ます。その時こそ、広宣流布の時だ。『広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるべし』です。
 今、われわれがやっていることは、未来の社会にとっても、日本にとっても、世界にとっても、実に大したことをやっているんだよ。もっと、もっと、自信をもちなさい。生涯の自分自身の偉大なる人間革命のためにも……。
 私は、誰がなんと言おうと、必ず大折伏をやってみせます!
 あなたが真心込めて折伏し、これ以上説得することができないところまでいったら、それが立派な折伏ではないか。必ず、必ず、大功徳が積まれましょう。
 入会する、しないは、相手の都合であって、あなたが悪いのではない。意地になる必要はありません。聞法下種も、発心下種も、ともに功徳に変わりはないと、大聖人様は保証なさっている。
 もっと、もっと、折伏という、現代において崇高極まりない実践に、自信と確信をもちなさい。われわれのような、どうしょうもない凡夫が、仏になる道は、末法万年の現代と未来においては、これしかないんです」
 五十二人の婦人は、静まり返っていた。何か室内に清浄な空気が流れ、一人ひとりの心のわだかまりが、洗い流されるような思いであった。
9  すると、一人の婦人が手をあげて、立ち上がった。健気そうな、そして、聡明そうな顔の彼女は、折伏の実践と歓喜を語り始めたのである。
 ――入会三年の彼女の来し方は、すべて折伏の体験の累積であった。幾十人を入会させたという折伏への情熱に、その生命は躍動し、美しい瞳は、さらに輝いていた。そして、生活革命をも成し遂げ、満ち足りた人生と生活に、いつか変わっていることを、戸田に深い感謝を込めて報告したのである。
 会合の雰囲気は、さらに高潮した。一人の婦人が立ち上がった。戸田の会長就任式で、涙ながらに決意を語った柳沢礼子である。彼女の顔は輝き、元気はつらつとしていた。
 「私は釜山プサンに生まれました。先日、戸田先生に、故国の不幸が、何に原因しているかを、初めて教えていただきました。それは、先日の会長就任式の時です。先生が、今、動乱のさなかにあって、南北朝鮮の骨肉相食む現状に触れ、『この現状を根本的に救うのは大聖人様の仏法しかない。しかも、大聖人様は東洋広布を御予言になっている』と話された時、私は、一生一度の感激にむせびました。
 私は、これまで、ありとあらゆる宗教を遍歴してきました。しかし、悩みが尽きず、幾度か死のうと決心しました。橋の上にたたずんでいるところを、交番の巡査に救われたこともあります。
 そんなある日、隣家の山田様の題目を聞き、私の題目と違うようなので、お訪ねしますと、座談会に連れて行ってくださいました。
 私は、宗教にも、正しいもの、間違ったものがあることを初めて知り、入会いたしました。入会してから、私が、生き生きとした姿に変わっていくのを見て、誰よりも主人が驚きました。さっそく、親子共々、お題目を唱えるようになりました。
 嬉しくて人に話さずには、いられません。真っ先に、交番の、お巡りさんに、報告かたがた折伏に行きました。お巡りさんは、すっかり変わった私の姿に驚き、喜んでくれました。それから、毎日毎日の折伏が、何よりも楽しく、家族みんなでしております。
 大功徳の歓喜にあふれでいる私は、いずれ準備のでき次第、故国へ帰って、同胞に、この御本尊様の偉大さと、故国救済の根本の道を知らせなければと、それのみ念願しているのでございます。
 どうか先生、私たちの同胞も救ってあげてください。お願いいたします。そのためなら、この私に、どんなことでもお命じください。同志の皆様も、どうかよろしくお願いいたします」
 この切々とした婦人の訴えは、並みいる人びとの胸に惻々と迫った。
10  戸田は、柳沢を側に招いた。そして、涙ながらの彼女の手をとって握手した。
 朝鮮戦争(韓国戦争)は、一九五〇年(昭和二十五年)の六月二十五日の勃発以来、既に一年近く経過し、戦場は、半島を南北に縦断して三回にわたり移動していた。そのたびに半島は、近代戦の無残な破壊を受け、その荒廃は恐るべきものであった。
 韓国側には、国連軍の名において、アメリカをはじめ十六カ国の軍隊が参加していた。北朝鮮の背後では、中国の義勇軍とソ連の膨大な軍事援助が支えていた。自由主義国と共産圏諸国との激突が、その接点である韓・朝鮮半島の民衆の犠牲のうえで行われていたわけだ。
 五一年(同二十六年)四月下旬に入ると、三八度線をめぐって戦線は謬着状態に陥り、連日、一進一退の激戦が展開されていた。
 そして、ようやく米ソは停戦交渉を決意し、戦争終結への努力が始まろうとしていたところであった。
 日本の産業人は、この戦争による受注で、思いもかけぬ特需景気に酔っていた。
 だが、今、柳沢礼子の胸には、慣りがあった。
 ″この戦争で祖国の民は苦しみ、国土は荒廃している。そして、人が殺し合っている。それなのに、その陰で裕福になっていく国があり、人びとがいる。なんとあさましい現実ではないか″
 ともあれ、戦後、初めての上昇景気には違いない。沈滞した産業界に活を入れ、経済復興の刺激とはなったものの、占領下のプレス・コード(報道管制)は、韓・朝鮮半島の民衆の悲惨さをつぶさには伝えなかった。
 柳沢礼子の直観は、同胞の悲惨さに耐えられなくなったのである。彼女の念願は、ここで東洋広布の原理と自然に結びついていった。戸田は、朝鮮戦争の無慈悲な残酷さを知り、東洋広布の必然性を一人、叫んでいたのである。その実践の第一歩ともいうべき萌芽が、目立たぬ婦人部の一角から兆し始めていることを知った。
 当時の婦人部の会合にしては、珍しく話は国際的視野に広がったといえよう。その感動の波動は、まず、日本の広宣流布が急務であるとの自覚を促していったのである。婦人たちは、どしどし地方折伏に邁進すべき時が熟していることを強調したり、提案したりするのであった。会合は熱気をはらんできた。
11  戸田は、今夜の会合が、婦人部の成長にとって記念すべき集いとなったことを嬉しく思った。卓上の白ゆりの花が鮮やかである。人びとは、その花を忘れているようであった。
 戸田は、しばらくその花に目を移し、笑いながら口を開いた。
 「大した勢いになったじゃないか……。戸田は、婦人部のために、皆さん方の人生のために、心から喜びたい。今夜を記念して、婦人部に一首、差し上げよう。こういう歌だ」
  白ゆりの
    香も高き
      集いかな
    心の清き
      友どちなれば
 記念の和歌は、清原によって幾たびも繰り返し詠まれていった。
 五十二の白ゆりたちは、紅潮した顔で、拍手を惜しまなかった。
 時間は、はるかに予定を過ぎている。一同は、はつらつとして学会歌を高唱し、散会していった。
12  戸田城聖は、会長就任の折、内外に宣言した七十五万世帯の達成という、不可能とさえ思われる難事を、夢にも忘れることはできなかった。それは、彼の畢生の願業であり、全生命を賭しても実現すべきことを、自らに課したのである。
 六月末の支部長会である。
 六月の折伏成果は、四百四十世帯であった。前月の二百八十四世帯と比較すると、五五パーセントの増加である。五月三日以来の歓喜が、全員の活動と前進の活力となっていることを知った。彼は、一定のリズムを保ちつつ、徐々に加速度をつけていったのである。そのためにも、月々の、この増加率の堅持に、誰も気づかないところで心を配っていた。
 当時のA級支部の折伏の記録は、こうなっている。蒲田――目標六十で七十八を達成。小岩――六十で七十二。鶴見――目標五十で七十。
 これでは、七十五万の願業の達成は、はるか先のことである。
 今、戸田の胸中を悩ましている重大な難事が、もう一つあった。それは、明一九五二年(昭和二十七年)四月の立宗七百年の祝典までに、日蓮大聖人の御書全集の発刊を敢行することであった。
 おそらく、千数百ページになるであろう御書の編纂は、容易ならぬ大事業といってよい。
 その編纂よりも、さらに困難に思われることは、刊行に要する経済的基盤が全くないことであった。
 まず、今のうちに特殊な薄い紙、インディアぺーパーを発注しておかなければ間に合わない。それには、発注の裏付けとして、莫大な前渡し金が、どうしでも必要であった。特殊な紙の製造は、それが、もし不要になった場合、他の使用に向けることは不可能であったからである。
 その他、印刷、製本と考えていくと、経済上の目算は、どうにも立てようがない。当時、五千人に満たぬ学会の勢力である。
 この御書の刊行は、意気盛んなるものがあるとしても、どこを押しても、現実には全くの無謀と思えた。
 しかし、戸田にとっては、翌年四月までに、絶対に成し遂げねばならぬ課題であった。刊行の準備は、既に遅すぎるともいえた。
 しかも、戸田にとって許せぬことは、御書刊行のほとんどは、日蓮系他宗派の手になるものであったことである。
 昭和初期に、宗門から御書が発刊されたことがあるにあるが、「一生成仏抄」「生死一大事血脈抄」「諸法実相抄」などの重要な御抄が、落ちていただけでなく、他宗の誤った読み方を踏襲していたのである。
 戸田は、広宣流布の本格的な前進を開始するにあたり、完壁な御書の刊行を急がなければならないことを痛感していた。
13  やや確実な情報によれば、身延の日蓮宗は、立宗七百年を期して、御書の決定版の刊行を企画しているという。その予算、数千万円にもなる、と。おそらくまた、大聖人の御意思を歪曲した御書になるであろうことを、彼は悲しんだのである。
 戸田は、日蓮大聖人の重要な御遺文のすべてを編纂し、発刊することによって、大聖人の深秘の法門を、正しく永遠に伝えようと決意していた。広宣流布の軌道を走りだした今、それは、もはや絶対の要請となっていることを自覚していたのである。
 ″これこそ令法久住のための第一の布石でなければならない。そして、やがて開始される本格的な宗教革命のためにも、また、思想革命、あるいは理念の闘争のためにも、この刊行は決定事項としなくてはならぬ″と、日夜、思索にふけったのである。
 だが現実は、彼の決意を拒絶しているように思われた。
 六月末の支部長会で、戸田は、ただ不安顔の幹部を前にして、自らに鞭打ち、こう宣言するより仕方がなかった。
 「私としては、既に決定した問題です。たとえ会員諸君が、不可能な難事業なるがゆえに、反対しようとも、決行すべき事業であることには変わりない。せめて、心ある諸君のご協力をお願いするだけです」
 戸田は、大理念のうえに立った折伏行の実践にあたり、今、実践の裏付けともいうべき大思想の原典の完成をめざしたのである。戸田の悲壮なまでに高揚した心中には、崇高な大勇が、いだかれているように見えた。
 彼は、まず編纂の着手を急いだ。臨時総会まで、あと旬日である。それを前に、七月八日、戸田は、最高幹部二十数人を連れ、静岡県・畑毛の雪山荘に、第五十九世の法主であった堀日亨を訪ねた。
 ここ畑毛は、第三祖日目上人出生の由縁の地である。今、その雪山荘に八十四歳の堀日亨が住んでいた。濃い眉毛は真っ白になっていたが、仏法哲学の一切に関して、当代並ぶ者もないと、内外の識者に知られていた。この大碩学は、すべての宗内の役職を早くから放棄し、矍鑠かくしゃくとして、研究に全生涯をかけてきたのであった。
 この年の梅雨は、まだ明けていなかった。戸田の一行は、午前十一時に東京駅を出発した。函南かんなみ駅という閑散とした駅で下車。バスに乗り換え、二十分ほどで畑毛に到着。坂を上って雪山荘に着いた時には、雨が盛んに降っていた。
14  日亨は、軽杉カルサン姿で、笑い、ながら一行を玄関で迎えた。
 「わしは、手紙を読み違えてのう、十一時発を十一時着と読んだから、だいぶ、待ったよ」
 書院に通された一行は、あらためて、あいさつをした。戸田は、創価学会会長として、このたびの御書発刊に関する編纂の根本方針の決定と、それについての指示を受けるために訪問したことを告げた。さっそく、日亨、戸田を中心として会議は開催された。
 堀日亨は、今日あることを、はるか昔に予見してでもいたように、すべての難題について明快に回答した。
 一つの疑問について質問を受けると、古今の数多くの文証を直ちにそらんじるのであった。
 さらに、幾つもの例証をあげ、また、多くの傍証まで示しての徹底的な説明は、とどまるところを知らなかった。一同は、日亨が、世にもまれな碩学であることを目の当たりにして、驚いたのである。
 「まぁ、一度、参考文献を、一通り見ておいていただこうか」
 日亨は先に立ち、一同を書庫に案内した。独特の設計による書棚には、おびただしい書籍が整然と分類され、所狭しと積み重ねられていた。
 日亨は、古文書読みにかけては当代随一との世評が高かった。仏教に関する古今の典籍は、すべて整っているように思われた。また門外不出の秘伝書も多く、当代随一の書庫といってよかった。これらすべてを基にして執筆した『富士宗学全集』百三十四巻も置かれていた。
 一同は、これらの膨大な文献を目にするだけで、仏法の深遠な理念に思いを馳せ、そして、御書編纂に従事する自信さえも湧いてきた。
 書庫を出しなに、戸田は感嘆しながら言った。
 「猊下。現下の六十年にわたる人知れぬど研鑽は、立宗から七百年後の今日、大聖人の完壁な御書が初めて発刊されるためにあったように、私には思えます」
 日亨は、にっこり笑って答えた。
 「そんなものかも知れんのう」
 このたびの企画に、誰よりも積極的だったのは、日亨であったかもしれない
15  一同は、再び書院に戻った。
 日亨は、御書には、後世の偽作もあるということから語り始めた。そして、これまで刊行された御書の重大箇所の誤読が、どんなに大聖人の御正意を曲げて流布してしまっているかについて、例証をあげつつ、淡々として、その蘊蓄うんちくの一端を語っていった。
 一同は、正法の令法久住の至難さが、どのようなものか、初めて、その実態を知ったのである。そして、完壁な御書の完成こそ、広宣流布の活動に最優先すべきことを悟った。
 雨は、しとしとと降り続いている。懇談は、いつまでも尽きない。日亨と戸田との間には、いつもの「わがまま問答」が始まった。希有の碩学と実践家とは、言いたい放題のことを言いながら談笑していた。時には丁々発止と火花を散らすような瞬間もある。また時には、万朶ばんだの花が一時に満開になったような閲達さであった。
 並みいる一同には、いくら耳を澄ましても、これらの問答のすべては理解できなかった。しかし、類いまれな、学問の最高の境地というべきものは、十分に感得することができたにちがいない。
 時を忘れてしまった。
 バスの最終便を逃してしまったことに気づいた。皆は慌てたが、戸田は落ち着いて言った。
 「今夜の汽車に間に合いさえすればいいじゃないか。これも思い出だ。函南まで、皆で歩とうよ。さぁ、それでは、そろそろ、おいとま申し上げよう」
 玄関に出た。辺りは暗闇である。降り続いていた雨は、いつしか、やんでいた。
 すがすがしい大気、すがすがしい心境である。だが、暗い夜道は長かった。明かりもない泥道である。足を滑らせて頓狂な声をあげる人もいる。息を切らしている人もいた。ぬかるみに靴を取られそうになり、助けを呼ぶ人もいた。一時間半もの強行軍で、やっと函南駅にたどり着いた。
 午後八時四十分発の東京行に間に合った。雨はまた、こらえかねたように山間に降り注いできた。
16  戸田城聖は、前年の秋、彼の事業の崩壊から、生涯のなかで最も苦闘の底にあった時、未来のために、今こそ、次代を託す青年を訓練しなければならないと思った。そして、青年部のなかから十四人を選んで、この年の年頭から、本格的な特別訓練を開始していた。ほぼ毎週の会合である。当時の、彼の一身は、いつ、どこで、どうなるかわからない状態であったのだ。心身ともに疲労困憊の極に達していたが、この訓練の会合だけは、決して怠らなかった。
 世の多くの為政者たちは、青年を利用し、犠牲にして、そのうえに己の名声を保つものだ。だが、真の指導者は、青年の未来の栄光のために犠牲となり、彼らを陰で見守っていくものだ。
 ともかく、この会合では、厳しい訓練が続いていった。どんな理由があっても、定刻に一分遅れることさえ、許されなかった。
 後事を託す十四人の青年である。戸田は、並々ならぬ気迫を込め、御書を通し、小説を通して指導した。訓練は、真剣そのものであった。その内容は、広宣流布という大目的についての、彼の遺言の観を呈しさえしたのである。
 彼は、心中、もはや中年の男たちを当てにすることはできなかった。戦時中の弾圧の時、年配者の恐るべき退転、また戦後の再建から今日までの間に、長い年月、苦楽を共にしてきた同志たちの、足並みそろえての脱落。人のよい彼も、大人たちには煮え湯を飲まされた思いで、ほとほと懲りに懲りていたのであろう。
 ″大人は駄目だ。頼みとすべきは、青年しかない″
 彼は、青年を頼みの綱としたのである。
 戸田は、死闘の末、″仏法、王法に勝つ″という現証を身をもって現じ、会長就任にいたったが、この十四人の特別訓練は、依然として続けていた。
 そして、この十四人を厳しく訓練した末、全く新しい面目のもとに、男子部の部隊結成を、七月十一日に挙行したのである。
 この日もまた、雨が降り続いていた。午後六時少々前には、百数十人の男子部員が馳せ参じたのである。西神田の本部の二階は、人でいっぱいであった。梅雨の蒸し暑さと人いきれで、場内はむせ返っている。だが、活気は部屋いっぱいに、みなぎっていた。
 多くの青年は、職場から急いで駆けつけたのであろう。仕事着のままであった。ポマードで髪を整えた青年はまれである。下足箱にも、よい靴はめったになく、ほとんどが傷んだ靴や下駄であって、辺りには破れ傘が散乱していた。
17  定刻六時――青年部新部隊結成式の宣言。
 最初に、関青年部長が演台に向かった。集まった青年たちの目は、生き生きとしている。咳払い一つする者もない
 この時、一同の耳を打ったのは、急に土砂降りに変わった戸外の激しい音であった。それは豪雨といってよいほどである。この永遠の歴史に残る男子部の結成式は、まさしく沛然たる豪雨のなかで行われた。
 関は、緊迫した空気のなかで口を開いた。
 「本日、男子青年部の全く新しい出発に際し、広宣流布の大業を完遂せんとする創価学会の前途の興廃を決するものは、実にわれら青年部、なかんずく男子青年部にあると、私は深く信ずるものであります。
 戸田先生は、学会再建以来、私たち一人ひとりを慈しみ、厳しくも温かく、全精魂を込めて薫育してくださいました。私たちは、先生の深いお心に、いよいよお応えすべき時が到来したのであります。
 過去幾千年の人類の歴史が示すように、時代を革命する者は、いつも青年であった。私たちの偉大な宗教改革も、また青年の戦いによってなさるべきは、必定であります。
 では、その青年とは誰か――。
 今、ここに結集した戸田先生の真の弟子たち、私たち青年をおいて、いずこにあるでありましょう。してみれば、この宗教革命を断行するのは、私たち青年の確信と情熱であります。私たちは、使命の重大さを目覚しようではないか!
 今日より決意を新たにし、先生のご期待に応えることを、ここに固く誓うものであります」
 一人ひとりの広布断行の決意は、激しい拍手となって鳴り響いた。皆の目は、燃えるように輝いていく。
 わずか百数十人の、ささやかに見えるこの会合が、やがて幾百万の青年の大河となろうとは、いったい誰が想像したであろうか。
 次に、山際男子部長が、新組織の発表を行った。
18  編成は次の通りである。
  第一部隊  小岩、向島、城東の各支部
  第二部隊  足立、文京、志木、本郷、築地の各支部
  第三部隊  鶴見支部
  第四部隊  蒲田、杉並、中野の各支部
 四個部隊の編成であった。
 次いで、四人の新部隊長が順に立ち、それぞれ抱負と決意を絶叫した。
 豪雨は、なおも降りやまない。いずれも、二十代の若武者である。ある人は頬を紅潮させ、ある人は身を震わせながら、「われらの五体を大地に投げよう」と、意気込んだ。
 さらに続いて、各部隊から一人ずつ、班長が代表として決意を発表した。ある班長は、自ら感動のあまり、絶句してしまった。ある青年は、四個部隊のなかで常に先頭を切ることを誓い、またある青年は、日本はもとより東洋広布、いな世界広布への道を、生涯にわたって驀進すると決意を語った。一つの決意は、次々と呼応し、熱血の意気が、いつか場内を圧するまでにいたったのである。
 来賓の祝辞に移っていく。小柄な清原理事が、身を演台に乗り出し、青年たちに呼びかけた。
 「今日の佳き日に、男子青年部の結成にあたり、今も、このように激しい雨が降るということは、私には、むしろ一つの瑞兆と思えてなりません。すなわち、学会を背負う男子青年部の前途に、いかに難多きかを示すものであり、これぞ、誉れある青年部の深き使命を示すものと、私は確信するものであります」
 青年たちは、拳を握り締めた。彼らは、心中ひそかに多難を望み、広宣流布への険しい道程に、生きがいを感じたからであろう。
 続いて原山理事が、穏やかな口調で激励した。
 「会長就任の日から、各部の整備充実の会合が、今日まで続きました。そして、学会組織部門のなかで、青年部の結成が、いちばん最後になったということは、この結成とそ、学会組織のなかで最も重要であって、また広宣流布の最後の責任を負う者が、青年部であるがためでありましょう」
19  原山のあいさつが終わると、青年たちは、固唾をのんで待っていた。最後が、戸田会長の話であるからだ。
 青年たちは、この日、戸田からの大号令を期待していたことであろう。場内の雰囲気も、当然、そうでなくてはならない。しばし、場内は静まり返った。熱い視線が、戸田に注がれている。
 いよいよ、戸田が演台に向かった。激しい拍手が彼を迎えた。期待する大号令を待っているのである。
 ところが、戸田が、真っ先に淡々と言いだしたのは、全然、別のことであった。
 「今日、ここに集まられた諸君のなかから、必ずや、次の創価学会会長が現れるであろう。必ず、このなかにおられることを、私は信ずるのです。その方に、心からお祝いを申し上げておきたいのであります」
 戸田の言葉は、低くあり、高くあり、真情あふれんばかりの声であった。意外な言葉に、青年たちは、思わず体を硬直させたにちがいない。
 ″第三代会長が、このなかにいるという。いったい、誰のことなのであろうか″
 それは、彼らの思念を、はるかに超えた問題であった。
 戸田は、場内の中央辺りに山本伸一班長を見かけると、ふと目をそらした。
 この瞬間、山本伸一は、半年前の、あの日のことを、とっさに思い出さずにはいられなかった。
 今は、全く健康を取り戻した師の姿。つややかな、元気な戸田の顔を仰ぎ、嬉しさが込み上げてくるのであった。だが、あの日の戸田は、頬骨がとがり、心身ともに苦渋の底にあっての戦いであったのだ。伸一には、それが遠い昔のように思えたが、わずか半年余りしかたっていない。
20  あの日――それは、この年の一月六日のことであった。
 戸田の自宅に、伸一は呼ばれたのである。
 正午近くのことであった。誰も来ていなかった。ことのほか静かに感じられる。戸田は、一切の書類の整理をするのであろうか、彼の部屋だけは、慌ただしい空気がみなぎっていた。
 前年の夏から始まった東光建設信用組合の至難な整理は、年を越したというものの、最悪の事態に追い詰められていた。閉鎖された組合の一切の書類は、戸田の自宅に運ばれていたのである。
 大蔵省当局の心証は、まだ悪く、一部の債権者は、戸田を告訴さえしていた。戸田は、苦境の真っただ中にいた。寒い、暗い正月であった。
 伸一は、呼ばれて戸田の部屋に入った。机を挟んで戸田と向かい合った。相対する机の片側には、妻の幾枝がうなだれていた。戸田の憔悴した顔は、いつになく厳しい表情であった。
 「この部屋に、誰も入れるでないぞ」
 戸田は、幾枝にこう言って、伸一に呼びかけた。
 「伸一。今日は、よく聞いてもらいたいことがある。私も、最後の覚悟をしておかねばならぬ時が来た。それで、一切の書類を整理しているわけだが、当局に、こちらから出頭しようかと思っている。一つの非常手段だ。しかし、そうなると、相手のあることだ。私の身柄は、どういうことになるやも知れぬ。後のことを、今、ここで明確にしておきたい。そこで……」
 と、戸田が言いかけた時、幾枝は、わっと泣きだした。そして、声を抑えるように、肩を震わせて泣き伏した。
 戸田は、険しい顔で幾枝を見ていたが、急に声を荒げて怒りだした。
 「なんということだ! 将軍が追い詰められて、最後の非常手段に出ようとしている大切な時に泣くとは、いったい何事だ!」
 しかし、戸田の悲愁は、伸一と幾枝の二人には、痛いほど胸に刺さった。
21  戸田は、怒りを鎮めながら、伸一を見すえて言った。
 「考え違いをしてくれでは困る。今、大事なのは後のことだ。そこで、伸一、私に、もし万一のことがあったら、学会のことも、組合のことも、また、大東商工のことも、一切、君に任せるから、引き受けてくれまいか。そして、できることなら、私の家族のこともだ。幾枝、よく聞きなさい」
 瞬間、伸一の体に戦標が走った。そして、異様な感動に身を震わせた。二十三歳の青年は、驚愕と混乱に陥った。そして、しばらく、無言でいた。
 「伸一、君に、とんでもないお土産を残すと思うかもしれないが、私の、この世に生まれた使命は、また君の使命なんだよ。わかっているね。何が起きたとしても、しっかりするんだぞ。
 私と君とが、使命に生きるならば、きっと大聖人様の御遺命も達成する時が来るだろう。誰がなんと言おうと、強く、強く、一緒に前へ進むのだ!」
 伸一は、厳粛な時が流れているのを感じた。
 彼は、ふと思った。湊川へ向かう楠木正成は、その子・正行に諭したが、今の自分は、その正行の立場にあることを、忽然と理解した。
 伸一は、潤んだ瞳を上げ、戸田を見つめて言った。
 「先生、決して、ご心配なさらないでください。私の一生は、先生に捧げて、悔いのない覚悟だけは、とうにできております。この覚悟は、また、将来にわたって、永遠に変わることはありません」
 「そうか。そうか。よろしく頼みます」
 戸田は、あらたまって頭さえ下げるのであった。
 幾枝は、あふれ出る涙を拭きながら無言であった。
22  伸一は、この夜、戸田の家に泊まった。翌日も朝から、さまざまな書類の整理に費やした。今、戸田の心事を知る者は、伸一と幾枝だけであった。このような切迫した危機にあって、戸田は、実に悠然として勤行し、泰然として、こまごまと指示を与え、自若として平常と変わらぬ冗談さえ飛ばしていた。
 伸一は、この時、師の大きな境涯を仰ぎ見る思いであった。
 夜十一時、伸一は帰宅した。そして、この二日間の心労と疲労の深さを、横になりながら深く知ったのである。そのなかで、六日の夜からの感動は、なおも生き生きと、彼の心魂に脈打っていた。その翌朝になっても、感動は続いていた。
 彼は、厳粛に、また悲しく、師の偉大な使命を思った。そして、その使命の、ただ一人の後継者たるわが宿命の孤独を痛感しながら、いかなる苦難にも、たじろぐことなく、堂々と克服する自分でありたいと願い、唱題を続けるのであった。
 この夜、八日の日記に、彼は、彼の孤独を書きとどめた。
  汝よ、汝は、いかにして、
     そんなに、苦しむのか。
  汝よ、汝は、いかにして、
     そんなに泣くのか。
  汝よ、汝は、いかにして、
     そんなに、悩むのか。
  苦しむがよい。
     若芽が、大地の香りを打ち破って、
     伸びゆくために。
  泣くがよい。
     梅雨の、彼方の、太陽を仰ぎ見る日まで、
     己むを得まい。
  悩むがよい。
     暗き、深夜を過ぎずして、
     尊厳なる、曙を見ることが出来ぬ故に。
23  伸一の、それからの活動は、全く人知れぬところで行われた。まさしく奮迅の苦闘の連目だったのである。
 彼が、いちばん苦慮したのは、戸田の健康状態であった。疲労困憊し、重病に近い戸田を案じつつ、伸一自身も高熱を発し、寒いアパートの一室で、食事をとることもできず、一日、呻吟していなければならぬ日もあった。
 しかし、彼は、たじろぐことはなかった。深い使命を、真に体得した者の強さであろうか。
 二月に入った。すると不思議なことに、大蔵省当局の、戸田に対する心証は、百八十度の転換をしたのである。苦闘の結果であったかもしれない。そして、三月に入ると、東光建設信用組合は、組合員全員の決議によって解散にまでこぎ着けた。三月十一日付をもって解散の登記をし、信用組合としての法律的責任は解消したのである。同時に、戸田専務理事への法律上の追及も消滅したのであった。この日、創価学会の臨時総会が、神田の教育会館で開催された。
 戸田を苦しめ、悪夢をもたらした東光建設信用組合は、この地上から永久に消滅した。だが、債務を肩代わりした戸田個人の莫大在負債の返済と、新たに創設した大東商工を軌道に乗せるための苦闘が、若き二十三歳の山本伸一の双肩に重くのしかかっていた。
 そのなかで、戸田会長推戴の機運は、日に日に高まっていった。そして、「聖教新聞」の発刊と、学会躍進の胎動は激しくなっていったが、これらの財政的基盤は、どうしても、大東商工の健全な運営に求める以外になかった。
 伸一は、一日の大部分の時間と精力とを、この東商工の信用の確保と、新しい営業分野の開拓に費やさなければならなかった。そのため、学会活動の時間は、皆無に等しかった。多くの青年部の幹部のなかで、彼一人、人知れぬ分野で孤軍奮闘していたのである。
24  山本伸一は、五月三日、会長就任式で、蘇生した戸田城聖の元気な姿を見て、参加者のなかに交じり、ひそかに随喜の涙を流したのであった。そしてまた、この七月十一日の男子青年部の結成式にあって、多くの青年部員のなかに交じり、さっそうたる戸田の風貌を目にして、戸田と彼との間にしか理解されぬ言葉――「今日、ここに集まられた諸君のなかから、必ずや、次の創価学会会長が現れるであろう……」という言葉を聞いたのである。
 戸田はあえて、その名前は口に出さなかった。「苦しんで強くなることが、いかに崇高なことであるかを知れ」と言わんばかりであった。彼は、伸一を甘やかすことは、なかった。
 戸田は、一語一語に力を込めて語り続けていった。
 「広宣流布は、私の絶対にやり遂げねばならぬ使命であります。青年部の諸君も、各自が、その尊い地位にあることを、よくよく自覚してもらいたいのです。近くは明治の革命をみても、その原動力となったのは、当時の青年であり、はるか日蓮大聖人御在世の時も、活躍したお弟子の方々は、皆、青年であった。常に、青年が時代を動かし、新しい時代を創っているのです。
 どうか、諸君の手で、この尊い大使命を、必ず達成していただきたいというのが、私の唯一の念願であります。われわれの目的は、日本一国を目標とするような小さなものではなく、日蓮大聖人は、朝鮮半島、中国、インド、そして全世界の果てまで、大白法を伝えよ、との御命令であります。
 なぜかならば、大聖人様の説かれた南無妙法蓮華経は、実に宇宙に遍満し、宇宙をも動かす、生命の大法則であるからであります。
 今日は、この席から、次の会長たるべき方にごあいさつ申し上げる」
 戸田は、こう言って、深々と頭を下げた。青年たちは、大号令は聞かなかったが、それ以上の、使命と進路と展望とを、短い言葉のなかに自覚せざるを得なかった。
 このあと、ささやかな祝賀会が始まった。酒はなかったが、意気軒昂に歌い、踊った。余興なども飛び出し、皆、腹をかかえて笑った。やがて、意気洋々たる雰囲気のうちに、新しい青年部歌「悪鬼のすさぶ殿堂も……」の合唱があり、会合も終わりに近づいた。
 戸田が、最後に自ら、学会歌「花が一夜に散るごとく……」の指揮をはつらつと執って、結成式は終了した。
 豪雨は、いつかやんでいた。
25  五月三日の会長就任以来、創価学会の躍進の姿は、まず座談会に現れた。それは、七月二十二日に予定されている臨時総会が迫るにつれ、ますます高まりを見せてきたのである。六月下旬から、″臨時総会までに一世帯が一世帯の折伏を遂行しょう″という申し合わせが、合言葉のように交わされていた。
 これまでは、月一、二回の座談会であった。その回数が、まず激増した。そして支部座談会にも、二十人前後の未入会の人たちが集ってくるようになった。このほか、地区座談会、随時に聞かれる臨時座談会と、その様相は一変したのである。
 本部での講義や、支部・地区での講義への出席者も激増し、さらに広い会場への変更が課題となってきた。
 新入会者の増加で、寺院も、かつてない盛況を呈し、御本尊の用意が間に合わぬ時もあった。
 まさしく興隆である。
 七月三日には、財務部が結成された。戸田は、百人の財務部員の結集を決意していたが、第一段階として、この日、七十八人の部員が任命された。
 また、女子青年部の結成式も、七月十九日に西神田の本部で挙行された。
 編成は五個部隊である。
 五人の新部隊長は、若々しく新たな決意を語り、戸田会長のもとに、女子青年部の名を辱めないことを誓った。
 この日は、男子青年部の時と違って、豪雨もなく、酷暑に向かう暑い夜であった。先輩数人の祝辞のあとに、戸田は、女子部の未来のために、慈しみ深い言葉を残した。
 「学会の女子部員は、一人残らず幸福になるんですよ。これまでの女性史というものは、一口に言えば、宿命に泣く女性の歴史といってよかった。皆さんは、若くして妙法を持った女性です。もはや宿命に泣く必要はない。そのためには、純粋な、強い信心に生涯を生きるという条件がなければ叶いません。皆さんが、一人も残らず幸福になることを、戸田は念願しつつ、今日のあいさつとします。おめでとう」
 このように戸田は、学会の全組織の各部門を一つ一つ固めていった。そして、新しい希望と、明確な進路を与えつつ、七月二十二日、臨時総会を迎えたのである。
 会場は、市ヶ谷駅近くの東京家政学院の講堂であった。牧口時代から、総会といえば、決まって神田の教育会館であった。それが、五月三日以来の、わずか二カ月の躍進で、もはや教育会館では収容できないことが察知されたからである。
 この日は、夏の晴天で暑かった。この講堂に、定刻午前九時までに集まった数は、千七百人を超えていた。東京近郊はもとより、群馬から、栃木から、伊豆の伊東から、そして、遠く仙台からの参加者もいた。
 会場の壇上中央には、真新しい御厨子が置かれ、創価学会常住の御本尊が安置されている。
 午前九時半――法主の水谷日昇の導師で、奉戴式は開始された。その後ろには、堀日亨、そして、堀米日淳をはじめとする、多くの僧侶も列席していた。千七百余人の読経・唱題の声が厳かに響いた。
 その直後、戸田は、喜びを満面にたたえて、あいさっした。日昇への謝意を述べてから、参集した学会員に向かって言った。
 「今、まさに東洋に広宣流布せんとする時、これまで久しい間、広宣流布大願成就の御本尊を戴けなかったのは、ひとえに私の罪であります。今、願い叶って、ここに奉戴いたすことのできたのは、それだけに、私の最も喜びとするところであり、全学会員と共々、この喜びを、本日、存分に分かち合いたいと思うのであります」
26  そのまま引き続いて、臨時総会に入った。
 まず、清原理事の開会の辞である。清原は、そのなかで、「この力強い団結をもって、年来の大願である広宣流布を、日本、東洋、それから世界の果てまでも、死身弘法の精神で進めようではありませんか」と強調した。
 このたびの総会も、午前、午後にわたって行われた。講義部、財務部、婦人部、青年部など、新編成の各部部長が、それぞれ代表として決意や抱負を述ベた。また、水谷日昇、堀日亨、堀米旦揮の特別講演のほか、数多くの体験発表もあった。
 体験発表には、目を見張るべきものが多くあり、聴衆に深い感動を与えたことは言うまでもない。また、地方支部の活動の状況も詳細に語られ、五月三日から、わずか二カ月半の躍進の跡を、参加者は、まざまざと知ったのである。
 総じていうならば、かつて、これほど拡大を見た、活動が地に着いた総会は、なかったといってよい。折伏活動が燃え広がるならば、いかに創価学会の姿が一変するかを物語る証左でもあった。
 また、水谷日昇は、特別講演で、朝鮮戦争に触れた後、講和条約に言及した。
 「講和条約が成立したとしても、一朝一夕で国内事情が好転し、国民の生活が明るくなると考えるのは、はなはだ軽佻けいちょうでありまして、講和成立後も、依然として前途に幾多の困難が横たわっているというのが、真実であります」
 そして、その困難を乗り越えるためには、「国内全般に対する宗教の是正が最も欠くべからざる重大問題」であるとし、「国民一同に真剣にこれについて考えるべきであります」と述べた。
 日昇は、国民の生活を左右するものが、実は宗教であると指摘し、生活即信仰の根本原理を述べたのである。そして、さらに日蓮大聖人の御金言の数々を引き、創価学会員だけがこれを知り、折伏精進の真の実践をしていることを喜び、ますます精進されるようにと激励した。
 清原理事は、「御書編纂について」と題し、難事業の懸案が実行に移されたことを発表した。
 「明年に迫る立宗七百年を一記念し、御書出版の大業を決意して、大聖人様の真の仏法を普及し、広宣流布への進展を期せんとするものであります。
 宗門に、おいても、たびたびこの事業が計画されたのでありますが、いまだ結果を得ず、『百年の宿題』として今日に至ったのであります。したがって、私どもが、現在、手にしている御遺文集は、田中智学による『類纂高祖遺文録』などであります。編纂者の信心の狂いが、大聖人様の純粋な教えを、どんなに濁らしているかは、多くの例証をあげるまでもなく、自明のことであります。まして相伝の御抄は皆無であり、私どもにとっては、これほどの痛恨事はございません。
 しかも身延は、明年、再び御遺文の出版を計画し、立正大学の組織を動員して編纂にあたらせ、膨大な資金を費やして、既に昨年から着手実行しつつあるとのことであります。前に刊行された『日蓮聖人遺文全集』の時ですら、莫大な費用とともに、延べ人員二千五百人の手を煩わしたものと聞きました。今度の企画は、さらに完全を期し、身延の全勢力をあげであたると豪語しております。
 日蓮大聖人の嫡流たる私どもが、これを黙視していることができましょうか。今は微力たりといえども、真の仏法の令法久住のために、私どもは一切を顧みず、断固として身延に対抗し、真に大衆救済の理念のもとに、御書出版の事業を決意した次第であります」
27  この鋭い信心の雄弁は、場内の千七百余人の胸から胸へと通っていった。期せずして万雷の拍手が起こり、清原は、しばし言葉を途切らせなければならなかった。
 「幸いにして、当門には不世出の大学匠・堀日亨上人あり、八十五歳の御老齢をも顧みず、これに呼応し、御書の監修に筆をもって立たれたのであります。
 私たちも、編集、印刷、用紙の手配、校正、装丁等、刊行にいたるまで、想像外の難事業たることを覚悟して、全勢力をあげて断行するものであります。
 このような難事業が成就するか否かは、広宣流布の大業を達成するか否かに、直接かかわるものといっても過言ではありません。私たちの総意と熱意と全勢力の結集によってのみ、成就すると考えるものであります。
 会長は、死力を尽くして、これにあたると宣言されております。全会員、全幹部も、総力をあげて、御書の完成に尽くしていただきたいことを、切に熱願するものであります」
 またしても拍手が起こり、たちまち会場全体に波及して、しばし鳴りやみそうもない。紅潮した、彼女の頬は、ぴくぴくと、かすかに震えていた。幾百人の男子の雄弁にも勝る、信心と至誠の女性の叫びの強さ――これが彼女の宝であった。その堂々として確信に満ち満ちた姿を見て、入会前の彼女が、気も弱く、いつも静かに人生を悩み苦しんでいたことを、誰人が信じられたであろうか。
 清原は、一瞬、目を閉じ、感動を抑えていた。
 「どういう御書ができるか、それを申し上げます。内容の厳正なることはもちろん、大聖人様立宗七百年にして、初めての正統な信心と理解による正鵠せいこくを射た唯一の御書であり、御相伝書をも初めて加えた、特色ある編集をめざしております。
 また、その体裁はと申しますと、黒の革表紙の装丁、紙はインディアペーパーの上質を用い、二千ページに近い大部の書であります。皆さん一代のものではなく、子孫末代までも残すに足る、誇るべき御書であります。
 もとより莫大な費用を要する事業であります。たとえば、印刷ひとつにしても、一流印刷会社ですら、特殊活字の不足から組み版に困難を感じ、二の足を踏んでいるのであります。全学会員の総力をあげたとしても、一部千二百円は、どうしても必要となるのであります。、どうか、このたびの、この大事業をよくご了承くださり、全会員奮ってご賛同あらんことを、お願いいたします。
 なお、ご賛同くださる方は、予約金として、全額の払い込みをお願いできればと思います。都合によって、二回の分割払いでも差し支えございません。よろしくお願いいたします」
 清原は、やや早口になって、話を終わらせた。
28  聴衆は、すべて賛同したが、千二百円と聞いて驚く人が多かった。一九五一年(昭和二十六年)当時の物価からすると、思いがけぬ高額であったからである。
 当時の月刊雑誌は定価が百円ぐらいで、普通の単行本でも百五十円から三百円前後のところであった。
 このころ、日蓮大聖人の御遺文集の古本は、学会発展のためか、高値を呼んで急騰していった。神田の古本屋街では千五百円から二千円が相場となっていたのである。
 清原理事の御書刊行の発言を最後に、総会の午前の部は終了した。そして、休憩・昼食となった。
 暑い真夏の総会である。参加者は、ほとんどがシャツ姿であり、会場は白一色であった。当時のことであるから、講堂に、扇風機の設備や冷房装置など、あろうはずがない。窓という窓は開け放してあるが、場内は蒸されるような暑さであった。しかし、暑さのために途中から退場するような人はいなかった。
29  午後一時再開。
 原山講義部長は、講義部の現況に交えて、今後の実践方針を簡単に述べていった。泉田婦人部長のあいさつ、体験発表に続いて、財務部長の泉田弘が演台に進んだ。
 泉田は、いつになく熱情を現して、早口で語った。
 ――これまでの学会の財政は、長い間、ほとんど戸田会長一人の負担で賄われてきた。しかし、今は、そのような時代ではない。財務の基礎は、すべて会員が喜んで引き受けるべきであり、さもなければ、今後の学会の思う存分の飛躍は期しがたいと訴えた。
 「まず、広宣流布という一大闘争のためには、資力を貯えて立たねばならない。また、立宗七百年記念事業としての、御書の刊行も目前に控えております。皆さんの理解と熱意によって、それは、必ず達成されると確信していますが、今後、学会が東洋、いや世界広布に向かって邁進する、との一大目的のためには、今までの財務の方針を一変し、会員の協力と応援によって財務部の力を確立し、すべての活動に後顧の憂いをなくさんとするものであります」
 聴衆のなかには、この時、初めて財務の協力を許されたと思う人が多かった。
 次に、大馬地方折伏部長が壇上に立った。そして、地方折伏の活動が端緒についたことを述べ、一層の奮起を促した。
 ここで、また体験発表があり、続いて特別講演として堀日亨が立った。
 「ここから皆様のご様子を見ますと、一昨年、出て来た時から見て、何倍も増えているようで、まことにめでたいことです。
 こうして会員が何倍にも増えているということは、皆さんが布教に励んでいられる証拠でありまして、大変、結構であります」
 日亨は、いつもと変わりない、瓢々とした口調で話を進めた。
 「私は、このたび、学会で御書を編纂するとうけたまわりましたので、この用件がなければ、出てくるつもりはなかったのであります」
 会場から、どっと笑い声が起きた。
 彼は、会場に集った多くの会員を見渡しながら、広宣流布に向かって折伏に励む会員の努力を、心から賞讃した。そして、″大聖人の御真意は、世界中の人びとに妙法を教えていくことである″と述べ、次のように話を結んだ。
 「一身上のことばかりを目当てとした信仰を突き抜けて、世界一同に広宣流布せんとの大きな考えで、ご信心を願いたいと申し上げるのであります」
 日亨も、この時、世界広布を叫んでいたのである。
 代わって、堀米日淳が演台に向かった。そしてまず、この日の奉戴式を祝した。
 「今日は、学会の臨時総会にあたり、まことに感激に堪えません。今般、学会として御本尊を奉戴されたことは、まことに尊いことでありまして、大聖人様は、この御本尊を身に帯すれば、鬼に鉄棒なるべしと仰せられており、折伏祈願の大御本尊を頂いたことは、勇猛精進する学会が、まさに鬼に鉄棒を得たことと深く感銘するものであります。今後、この御本尊のもと、皆様が異体同心、堂々と折伏に精進されんことを望んでやみません」
 そして日淳は、民主主義の真の自由、平等、尊厳の三原則は、仏教、そのなかでも法華経のなかにしかないと説き、本当の民主主義世界の実現のためには、大聖人の仏法によらねば不可能であると結論した。
 さて、総会は終盤に入った。
30  関青年部長が、男女青年部の新たなる結成式を報告しつつ、戸田会長のもとに、今、総進軍が開始されたと訴えた。
 さらに、指導部長として清原かつが演台に向かい、折伏一途の信心が、いかに強力に生活を変えるかを説いた。
 「大聖人様の仰せに従って折伏に励む私たちは、他人の悪口も、地獄のような苦難が待ち受けていることも、覚悟のうえであります。
 先日、戸田先生から、次のような歌を頂きました。
  往くならば
    地獄の果も
      恐るまじ
    大白牛車に
      旗立つ身には
 この歌そのままに、一段と折伏に励もうではありませんか」
 これに続いて、体験発表が終わったところで、三十人ほどの人びとが、ドカドカと壇上に上がった。
 老若男女の一群である。日焼けした顔が、はつらっと輝いていた。
 戸田は、この月、折伏に敢闘した三十五人を壇上に上げたのである。彼は、一列に並んだ一騎当千の顔を見ながら、全聴衆の前で表彰した。
 「ここに並ばれた方々は、私が褒めるよりも先に、大聖人様がお褒めになっているに間違いありません。私は、この方々に何も差し上げられないが、大聖人様は、すごいと褒美をくださるでありましょうから、なんの心配もいたしません。もう頂いているかもしれない。
 学会育ちの強みは、結局、信心から出た折伏のうえに現れてくる。どうか皆さん、この方々に拍手を送ろうではありませんか
 まさしく信心の英雄であり、庶民の英雄であった。
 蒸されるような午後の会場。そのなかを一陣の涼風が過ぎ去るように、激しい拍手が鳴り響いた。
 代表の一人が謝辞を述べ、表彰式は終わった。
31  戸田は、開襟シャツ一枚の身軽な姿で、無造作に演台へ進んだ。
 掲示されていた題名は、「創価学会の歴史と確信」である。
 彼はそのころ、『大白蓮華』の誌上に「創価学会の歴史と確信」という同名の論文を連載中であった。これは、『大白蓮華』創刊号の「生命論」に次いで、彼が最も力を込めて書いた論文であり、彼の著作中、白眉はくびをなすものである。
 会長就任によって、もはや退くことのできぬ会長という立場から、創価学会の歴史を深く顧み、その本質とするところを、未来の壮大な広宣流布の展望に託して、彼の不動の確信を発表したものである。
 この日の講演は、その確信を要約して、端的に力説したものといってよい。
 戸田は、やや緊迫した面持ちで、語調静かに話し始めた。
 「私は、創価学会の理事長を、学会創立以来務め、故・牧口会長とは、影の形に添うごとく、生死を共にするために生まれてきたのであります。
 牧口会長の、あの確信を想起せよ。
 腰抜け坊主が国家に迎合せんとした時、『日蓮正宗をつぶしても、国家諌暁をなさん』との厳然たる命令には、絶対の確信のほどが、偲ばれるではないか」
 彼の語調は、たちまち激しくなっていった。彼は、いつも牧口を語る時、いつか激していくのが常であった。
 わが恩師を、無残に牢死せしめた国家権力が憎かったのであろうか。慈しみ、守られ、育てられてきた弟子たちの、いざという時の裏切りを悲しんでのことか。大聖人の御精神を受け継ぐべき正宗僧侶の無関心を思い起こしてのことか。
 彼の目が、輝いた。
 「私は、五月三日、会長に就任し、学会は、『生命は永遠であり、われわれこそ、末法に七文字の法華経を流布すべき御本仏の眷属なり』との自覚を生じて、牧口会長が口癖に言われていた発迹顕本をなしたのであります。この確信において、広宣流布大願の曼荼羅を、お願い申し上げ、精鋭集い寄って、本日、壮大な奉戴の式が営まれた次第です」
 彼は、続いて、学会員の自覚と、学会の目的と、広宣流布の方途とに言及し、彼の確信が、すなわち創価学会の確信であることを述べた。そして、広宣流布に生き抜く、われわれ学会員こそ、日蓮大聖人の仰せに照らして、最高の大菩薩であると明言したのである。
 「その自覚に立ち、勇気をもって、一糸乱れぬ団結で、足並みそろえて大折伏に行進する団体が、七百年間、いずこにあったでありましょうか。今や私どもは、講義に、折伏に、火の玉のごとき状態であります。
 静かに、日蓮大聖人の立宗より、大御本尊建立までの東洋および日本の姿を注視するに、弘安二年(一二七九年)、宋が滅び、日本も元の国力をもってして討たれたなら、その行く末は風前の灯火でありました。
 当時の姿は、今日の日本民衆が、原子爆弾に怯えきっていると同様であり、この時、末法の御本仏は、南無妙法蓮華経の御本尊様を顕され、全世界の民衆を救う礎をたてられたのであります。そして、本尊流通、戒壇建立を後の末弟たる私どもに残されたのであります」
32  戸田は、最後に、全聴衆に向かって学会員としての覚悟を促した。
 「日興上人様仰せの『未だ広宣流布せざる間は身命を捨て随力弘通を致す可き事』のごとく、自己の位置を自覚した大菩薩は、まず御本尊の流布を、身命を捨ててなさねばならんのです。
 御書のなかに『仏法必ず東土の日本より出づべきなり』とは、世界の仏法であるとの御金言であります。
 また、『諌暁八幡抄』には『天竺国をば月氏国と申すは仏の出現し給うべき名なり、扶桑国ふそうこくをば日本国と申すあに聖人出で給わざらむ、月は西より東に向へり月氏の仏法の東へ流るべき相なり、日は東より出づ日本の仏法の月氏へかへるべき瑞相なり、月は光あきらかならず在世は但八年なり、日は光明・月にまされり五五百歳の長き闇を照すべき瑞相なり』と示されております。
 さらに『顕仏未来記』には『正像には西より東に向い末法には東より西に往く』との御言葉があります。
 これらの御聖訓に明らかなごとく、全東洋へ、そして全世界への広宣流布は、必ず成し遂げられることを確信するものであります」
 すさまじい気迫で講演は終わった。師子吼である。
 戸田が、拍手のなか席に戻ると、女子部員が、大勢、壇上に上がった。新しい女子部歌の発表である。この合唱が終わるか終わらないうちに、今度は、男子部員が勢いよく壇上に駆け上がった。
 壇上は、男女の青年部員で埋められ、山際男子部長の指揮で男子部歌の合唱となった。若さと情熱と闘魂が、会場中に奔流のように流れていった。
 最後は、「学会の歌」「同志の歌」の大合唱となった。
 歌が終わると、戸田は、つかつかと壇上の中央に進んだ。そして、背後に並ぶ男女青年部員を、さも頼もしそうに見返りながら、満面に微笑をたたえて言った。
 「皆さん、今、この壇上に立った青年諸君をご覧ください。釈尊の仏法も、若い弟子たちの手で弘められました。大聖人の弟子たちも、皆、青年であり、しかも、あれだけの大事業をなしております。
 今、学会に、これだけの若々しい闘士がそろっております以上、学会の前途は洋々たるものがあります。皆さん、この青年男女諸君に、どうか期待してください。この若者たちが、この大法戦をやり遂げる人びとです。これら青年がいる限り、学会は絶対に盤石であります」
 戸田は、若人たちを、こう言って紹介した。
 そして、新出発の誓いを込めて万歳を三唱し、一日がかりの総会は、終わったのである。午後四時半であった。
33  戸田城聖の、晩年わずか七年の、空転を知らぬ充実した活動は、この時、既に始まっていたといえよう。
 人生五十年といっても、多くは、その意義さえもつかめず、惰性のうちに終わってしまう。だが、戸田の、この七年の奮迅の戦いは、まさに幾百年にも相当する意義深い歴史を創造していった。してみれば、人の一生の重さを量る基準は、単に生きた年数の長短によって決まるのではなく、その人生の価値内容によるものとも思われる。
 総会の翌二十三日午後には、戸田は、数人の幹部と共に、御書編纂の打ち合わせのため、都内に宿泊していた堀日亨を訪ねている。
 日亨は非常に元気で、酷暑の宿の一室に、一行を迎えた。既に第一稿は、かなり出来上がっているとの話であった。
 「九月には、第一稿をお渡しできるじゃろう。そのつもりで、万全の準備を進めてもらいたい」
 一同は、日亨の精励のほどに驚いた。だが、日亨は淡々として事もなげに言った。
 「今まで、さんざん研究し尽くしたところを、吐き出せばいいのだから、そんなに手間はとらんよ」
 そして、項目の詳細を説明した。
 ――大聖人宗旨建立以前の著作で、宗義に関係ない御書、また参考までに抜き書きされた経釈集、天台その他の、他宗の法門に関する御書で、現在、全く必要でないもの、および偽書等は省く。そして、これまで他宗団が知らなかった相伝書を加えた、完璧な御書全集になるはずである。
 日亨は、こう語りながら、長い六十年の来し方を振り返るように、御書の研績に没頭するようになった機縁を、初めて明かした。
 「わしの師匠の日霑にちでん上人が、当宗の教学の確立に心を砕かれ、宗祖の御遺文の結集に大変な努力をされていた。まだ小僧であったわしにも、そのことを期待されたんじゃ。わしは本を読むのが何より好きでのう。暇さえあれば、読んでもわからんような本まで読んでおった。
 そこが師匠に気に入られて、『お前やれ』ということになり、御遺文の研究に入ったんだが、わからんことばかりじゃった。それでも一年、二年たつうちに、わからんことが謎の解けるように、はっきりわかってくる。もうこうなると、面白うて、面白うて、無我夢中になる。宗門のいろいろの事は、一切めんどうになってきて、そこで、いっそ還俗して、誰にも気兼ねなく、思うままに研究に徹底しようとも思った。何度、還俗を決心したかわからん」
 それからの日亨は、大聖人の御遺文の跡を追って、全国の遍歴を始めた。全国の数々の他宗の寺々にも滞在した。叡山にも、身延にも、長期滞在しなければならなかった。
 戦時中も、日亨は、沈着な研究を一日として怠ることはなかった。その生命力の続く限り、ひたすら広宣流布を祈り、令法久住の使命に生き抜く日常であった。
 総本山にも、「日蓮正宗報国団」が組織されるなど、戦時色の濃い真っただ中にあっても、日亨の誓願は微動だにすることがなかった。
34  一九四三年(昭和十八年)、宗門の機関誌『大日蓮』六月号誌上で、日亨は、次のような通知をしている。
   謹告
         堀 日亨
 昨年秋己来、東京市内に於いて雪山会を創立し、宗学書の編纂著述出版頒布の企画にかからんとせしも、各方面の関係上未だ実行の機運来らず、さりとも日暮れて道遠く徒に時日をむなしうする事は、極老の耐ゆる所にあらず、ここに於いて来る六月二十四日、恩師日霑上人の忌辰きしんぼくして、御本山内にある愚僧が隠寮雪仙窟せっせんくつに左の事務所を設け、本山在住諸師の助力にて開所することとなりたり。
 願くは今後この会よりお願いする事は、全く野僧の宿願業にして既に墓穴に近ける老躯の生命ある間に、満願せしめんとする緊急業なる事に同情せられ、百般の御助勢を切望するものなり。
     静岡県富士郡上野村
       大石寺雪仙窟内
            富士宗学書編輯へんしゅう支部
 支部内に事務・外交・会計・書記等を置き、畑毛雪山書房と東京の雪山会とを愚老が総管する事なれば、極老には分に過ぎたる難事なるが故に、左の大願を立てて急速の成就を祈る所、偏に真俗各位の御諒解を仰ぐ。
   誓 願
  一、本尊護符を書写せず
  一、法会の導師とならず
  一、説法の首席となら
  一、会合の首席とならず
  一、招かざる法席に列らず
  一、時により賎役を勤む
 日亨の誓願を伝えるこの通告は、出征僧侶の数多い戦地便りや、上野村の託児所開設のお知らせなどと並べて、雑報扱いで掲載されていた。
 時に、日亨、七十六歳であった。
35  その後のわが国は、一路、亡国の戦争に突入し、日々に物資は欠乏していった。そして、敗戦、戦後の荒廃である。それらが、いかに、御書の研究に没頭したいという日亨の宿願を妨げたかは想像に難くない。宿願の重大さを思い、また日一日と老境に進む日亨の焦慮は、いかばかりであったか。しかし、それでもなお、日々の研鎮を怠らず、ますます冴えきった境地を持続することに懸命であった。
 そこへ、学会の御書編纂事業が企画されたのである。どれほど喜んだことか。八十四歳の日亨は、直ちに、御書編纂に、誰よりも積極的に取り組んだのである。
 なおも、日亨と戸田たちとの歓談は続いた。
 「今まで、いろんな所をずいぶん回って歩いたもんじゃ。比叡山にも数年滞在したことがある。身延でも長いこと調べものをしたことがある。身延から帰った時など、『よくご無事でお帰りで……』と言ってくれた信者の方があったほどでな。とにかく、いろいろなことがあったよ。
 いくら研究のためとはいっても、他宗の寺に住むのは、こりゃ謗法だからな。今度の仕事が完成すれば、それで、わしの罪障も消滅するというものだ。この仕事は本山ではできん。とにかく、わしは強情だから、やると決めたら、必ずやるんじゃ」
 日亨は、意気軒昂としていた。ここでまた、戸田との「わがまま問答」「強情問答」が始まった。
 戸田は、人なつこく笑いながら言った。
 「猊下、猊下もずいぶん強情ですけれど、恩師・牧口先生も大した強情でした。私は、二十歳の時から牧口先生に仕えて、強情には、至極、慣れております。そこで、いかがでしょう。猊下は、今度、学会のおじい様になっていただけませんか」
 「そりゃ、かまわんがのう。そうなったら、時々、小言も言わんけりゃなるまい」
 日亨は、背を丸くして、笑いを浮かべた。
 戸田は、直ちに応答した。
 「どうぞ、ご遠慮なく小言もおっしゃってください。猊下は、本当に広宣流布のために、ご出生になったのですから、どうか、ひとつ、学会をかわいがってください」
 「よろしい。では、そういうことにしよう」
 「よし、これで決まった。公式の時は猊下、そうでない時は、おじいさん。今日から猊下は、学会のおじいさん、よろしゅうございますね」
 「ああ、いいとも、結構なことじゃ」
 戸田が、嬉しそうに破顔一笑すると、日亨の濃い白い眉毛の下の目も笑っていた。
 こうして、完壁な御書編纂の難事業は、堀日亨の畢生の研鑽の結晶と、戸田城聖の広宣流布への強き一念とが固い絆に結ばれて、すべての障害を越えつつ、着々と進行していったのである。

1
1