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日蓮大聖人・池田大作

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烈 日  

小説「人間革命」5-6巻 (池田大作全集第146巻)

前後
1   瞬間瞬間、時は流れる
  過去、現在、未来へと――
  創造と建設
  敗退と惰性
  その人、その国に
  さまざまな運命、歴史を刻み
  渦巻きながら――
2  一九二八年(昭和三年)六月、牧口常三郎は、教育者の三谷素啓によって日蓮大聖人の仏法を知り、正法に帰依した。それから程なく、戸田城聖も、また師に続いた。以来、二十三年の歳月が、波瀾を巻き起こしながら流れていった。
 この間、三〇年(同五年)十一月十八日には、創価教育学会を創立し、牧口の『創価教育学体系』第一巻を発刊して世に問いながら、一人の会長と一人の理事長だけで、船出したのである。それから七年が過ぎ、三七年(同十二年)には、創価教育学会が本格的に発足し、会員も約百人を数えるにいたった。その社会的な活動は、徐々に注目を浴び、日蓮大聖人の仏法の真髄を理念として、戦時体制の重圧のなかを、地道に発展してきたのであった。
 そして、さらに七年たった、四四年(同十九年)十一月十八日、牧口常三郎会長は、時の軍部政府の暴虐のために、巣鴨の東京拘置所の病棟の一室で、この世を去らなければならなかった。七十三歳の彼は、国家諌暁の崇高な実践の途上に倒れたのである。
 その日から、また七年の月日がたつていた。そして、今、戸田城聖は、遂に創価学会会長として立つにいたったのである。創価教育学会の創設から数えて、二十一年のことであった。
3  戸田城聖が、第二代会長に推戴され、就任式が行われたのは、永遠の未来にわたって記念すべき佳日、五一年(同二十六年)五月三日のことである。
 さわやかな晴天のこの日、式の会場は、墨田川の言問橋近くにある、日蓮正宗の常泉寺であった。
 朝から大勢の人びとが、気ぜわしく出入りしていた。誰もが笑顔であいさつを交わし、話をすれば笑い声があがっていた。いそいそと会場を清掃する美しい娘がいる。そのあとに水を打つ、たくましい青年がいる。廊下を拭き清める婦人がいる。筆に墨を含ませて、式次第を懸命に書いている壮年がいる。どの顔にも、どの姿にも、晴れ晴れとした喜びが、自然とあふれでいた。
 正午を過ぎると、辺りは急に騒がしく、生き生きとしてきた。
 敗戦七年目の人びとの服装は、まだ貧しく、晴れ着を着た人はいなかったが、陸続と集う人びとの表情は、明るく弾んでいた。
 受付の青年たちは、来る人びとに呼びかけていた。
 「おめでとうございます!」
 「こんにちは! ご苦労さまです」
 人びとは、顔をほころばせ、軽く会釈したり、ちょっと手をかざしたりして応えていく。
 「おめでとう!」
 会場の華やいだ空気とは違って、周辺には、まだ戦災の傷跡が生々しく残っていた。焼け跡には、急造した粗末な小屋が、ここかしこに散らばっている。焼けた大きな樹木や、石塀などが、そのまま残り、空き地には、雑草だらけの野菜畑などが目についた。
 大空襲を受けた東京の江東地区にあって、常泉寺は、戦災を免れていたのである。
 戸田城聖は、この晴れの日のために、常泉寺以外の場所は思いつかなかった。僧侶のなかで、創価学会を最もよく理解していた堀米日淳が、前年の秋に中野の歓喜寮から常泉寺に移り、この寺の住職となっていたからである。
 この就任式当日の本堂は、学会員によって、ぎっしりと埋め尽くされ、外にも人があふれでいた。寺にとっては、戦後、初めての大集会であったろう。その数は、約千五百人であった。皆、いささか興奮した面持ちで開会を待っていた。あふれた人びとは、庭のここかしこにたたずみ、伸び上がりながら、本堂の内部に目を注いだりしている。
 定刻の午後二時――式は、まず勤行から始まった。唱題の声は、強く、軽く、清朗なリズムに乗って、晴れ渡った天空へと吸い込まれるように消えていった。
 やがて、唱題は終わった。
4  粛然とした場内に、司会の原山理事の緊張した声が響き渡った。
 「推戴の辞! 三島理事長」
 三島由造は、静かに演台へ進んだ。顔は、心なしか、青ざめて見える。極度の緊張のためか、姿勢は、ぎごちないまでに硬い。
 絶大な拍手に促されたように、三島は興奮して口を開いた。
 「本日、ここに、光輝ある創価学会の全会員を代表いたしまして、戸田城聖先生を、第二代会長に推戴申し上げることは、私の生涯における、無上の光栄とするところであります」
 三島の声は、高い調子でかすれてしまった。彼は息をつぎ、目を閉じ、そして、天井を仰いで、また机上の原稿に目を落とした。
 「今や五濁乱漫、恐怖悪世の現代において、仏法の指導者の出現こそ、われわれの等しく渇仰するところであります。この人、いずこにありや、また誰人なるかを切に求めてまいりました。
 今を去ること七年前、昭和十九年(一九四四年)の秋、広宣流布の暁の空をはるかに望みつつ、死身弘法の壮烈な戦いの果てに、従容として霊山にお帰りになった、初代会長・牧口常三郎先生は、まさしく学会の父ともいうべき方でありました。
 以来七星霜、会長は空席のまま、虚しく過ぎてまいったのであります。
 今日ほど、仏法の教えに照らし、その使命ある人の出現を、焦眉の急とする時代はありません。その人、いずこにありや、凡眼は見れども見えず。ただ、牧口先生を思う時、その使命あるは、戸田城聖先生をおいて他にあるわけはないと、確信するものであります」
 激しい拍手が続いた。三島の言葉は、途切れてしまった。
 「日蓮大聖人御出現の当時と思い比べて見るに、今日の、わが国の不幸、また人類の災害の根源が、いずこにあるかは容易に理解されるところであります。すなわち、大聖人御在世の時代は、数々の誤った新興の宗教が氾濫していた時代でありました。
 今日の、私どもの眼前にする社会も、また同じく、民衆を不幸に追いやる、誤った宗教が氾濫しております。厳然たるこの事実を、厳粛に直視する時、わが学会の使命の重大さを、ひしひしと痛感せざるを得ないのであります。
 私たちが、地涌の菩薩の末輩としての自覚に、今日、立つならば、広宣流布の総帥の出現、わが学会の会長の出現を、心から希求してやまないのは、久遠からの要請でなくてなんでありましょう。
 創価学会再建以来、ことに七年、『戸田会長推戴賛意署名簿』に署名した、三千余人の同志の衷心からなる歓喜と祈願を込めて、ここに、戸田城聖先生を第二代会長に推戴いたすものであります」
 堂宇を揺るがすような拍手である。その嵐は、しばし、やまない。待望久しかった第二代会長の誕生に、歓喜の興奮は、今、初めて場内を圧したのである。烈日の輝くがごとき歓喜であった。
 「新しき大指導者、会長・戸田先生の指揮のもとに、私ども全学会員は、打って一丸となり、勇躍歓喜、いよいよ大折伏の敢行と、国家諌暁への邁進を誓い、本日より、力強い、新たなる第一歩を踏み出そうではありませんか!
 もって推戴の辞といたします」
 三島由造は、かつてない拍手を浴び、喜び、そして、驚きながら、席に戻った。
 その途端、司会の原山理事の声が、濠として追いかけてきた。
 「宣誓!」
 三島は直ちに立ち上がり、演台に向かって直立した。この時、長身の戸田城聖は、演台を前にして立っていた。
 かすかに、米軍の飛行機の爆音が聞こえてくる。
 二人は、演台を挟んで向かい合った
 三島は静かに、和紙に清書した宣誓文を取り出した。戸田は、メガネの奥の瞳を光らせ、じっと、それを見ている。
 三島は、両手を伸ばし、目の高さに和紙を広げていった。手は、かすかに震えているようである。
 場内は、しんと静まり返って、固唾をのむような瞬間がきた。
 「広宣流布の大業、いよいよ烈日に向かわんとするの日にあたり、われら全創価学会員は、会長・戸田城聖先生の指揮のもと、ここに身命をなげうって戦うことを誓うものであります!」
 厳とした声である。即座に、激烈な拍手がこだました。そのなかで戸田は、少しも表情を変えず、悠然と立ちながら身動きもしない。
 三島は、硬い姿勢のまま席に戻った。
5  戸田城聖は、演台の縁に軽く手を置き、歓呼を託した拍手に一礼して、決意に満ちた厳しい表情で場内を見渡した。
 「牧口先生の後を継いで、会長に就任いたすことは、不肖、私の任に堪えるところではないが、ここに不思議のことあって、会長就任の決意を固めた次第である。大聖人が、『立正安国論』をお認めになって、七百年を迎えようとする今日、中国大陸では、いまだ混迷の様相を呈し、また、朝鮮半島にあっては、世界の兵力集まっての戦乱であります。
 かかる時に際会し、手をこまぬいて見過ごすならば、霊鷲山会において、いかなるお叱りを被らなければならないか――無間地獄疑いないところであります。
 今、私は、不肖の弟子なりといえども、大聖人御出現の御姿をつくづくと拝したてまつり、一大信心に立って、この愚鈍の身を、ただ御本尊に捧げたてまつるという一心によって、会長の位置に、初めて就かんと決意するものであります」
 戸田は、言々句々を選びながら、話を進めるのであった。そして、万感胸に迫る、伝えがたい決意を披瀝していったのである。彼のその後も、また晩年の生活と行動も、一切は、この時の決意に込められていたといえよう。
 聞き入る人びとは、知らず知らずに、いつか拳を握っていた。戸田を凝視する眼差しは、彼の分厚いメガネから焦点を外すことはできなかった。
 「牧口会長は、昭和十八年(一九四三年)の春ごろから、『学会は発迹顕本しなければならぬ』と、私どもを責めるように言うのが口癖になっていました。不肖の弟子どもは、それがどんなことなのか、私はじめ、戸惑うだけで、どうすることもできなかったのであります。
 昭和二十年(一九四五年)七月――私は、『われ地涌の菩薩である』との確信をいだいて、名誉の出獄をいたしました。以来、この自覚は、会員諸氏の、なかに、徐々に浸透してまいったものの、ただ各人の自覚に属する問題にすぎず、いまだ学会自体の発迹顕本とは、おのずから異なるものでありました」
6  彼の話は、大河の流れるように深く、力強く、また、ある時は清流のように静かに、気高く、続けられていった。
 「しかるに、今、やっと学会総体に、偉大な自覚が生じ、偉大な確信のもとに活動を開始するにいたったのであります。
 経文のうえから、われわれの存在をとらえるならば、地涌の菩薩でありますが、その信心においては、日蓮大聖人の眷属であり、末弟子である。三世十方の仏菩薩の前であろうと、地獄の底に暮らそうと、声高らかに大御本尊の七文字の法華経を読誦したてまつり、胸にかけたる大御本尊を唯一の誇りとするものであります。
 しこうして、日蓮大聖人の御教えを身をもってうけたまわり、忠順に自行化他にわたる七文字の法華経を身をもって読みたてまつり、一切の誤れる宗教を破って、必ずや東洋へ、世界への広宣流布の使徒として、私どもは牧口会長の遺志を継いで、御本尊の御前において死なんのみであります。
 かくのごとく確信するにいたった以上、これこそ創価学会の発迹顕本でなくして、なんでありましょう。
 もはや、抑えがたい感動が会場を圧した。集った人びとは、涙を浮かべ、嵐のような拍手をもって戸田に応えるしかなかった。
 彼らのなかには、病弱に苦しむ人、貧にやつれ、苦悩の底に暮らし、悲しみに沈んでいる人もいたであろう。だが、この瞬間、それらの苦境を乗り越え、信心一筋に生き抜くことが、一切の宿命打開の直道であることを、彼らは直覚し、ないではいられなかった。
 「日蓮大聖人立教開宗七百年を間近に控え、一国大折伏の時機到来せりと強く確信するものであります。私ども、謹んで仏勅を奉じ、広宣流布の実現のために、身命を賭せんとの自覚に目覚めた今日、創価学会の総意をもって、当学会に、広宣流布大願成就の大御本尊を賜らんことを、水谷日昇猊下に、お願い申し上げようと存ずる次第であります」
 戸田城聖は、この日、創価学会の未来にわたる本質と性格を明確にしたが、彼自身にとっても、同時に地涌の使命に立った本格的な出発の日であったといって差し支えない。しかし、ここに至る道程は、峻厳な山の尾根を歩むがごとく険しかった。
7  わずか数カ月前の彼は、苦悩の激動のなかで、じっと耐え忍び、この日の到来を念じて待っていた。
 彼は、あらゆる万が一の突発の変事に備えて、人知れず、さまざまな手を打っていたのである。理事長を辞任したのも、その一つであったし、山本伸一の薫育に、ひときわ力を入れだしたのも、その一つの備えであったろう。
 そればかりではない。学会の存在を永遠ならしめるために、伸一をはじめとする、最も信頼すべき数人の弟子を選んで、一九五〇年(昭和二十五年)の晩秋から、時間の許す限り、日曜には丸一日費やして、自宅で、ひそかに特別訓練を始めてしたのである。それは、御書の講義を中心としながら、学会の未来の多方面にわたる構想と実践について教授し、各人に広宣流布への使命を自覚させるためであった。
 「草木成仏口決」「一生成仏抄」「三世諸仏総勘文教相廃立」「諌暁八幡抄」など、日蓮仏法の奥義を明かした御書の研績を通して、厳しい訓練を続けたのである。
 そしてまた、夕刻ともなると、戸田は台所に立ち、愛すべき弟子たちのために、手ずから栄養価の高い料理までこしらえるのであった。怒濤のなかに身を処しながら、彼は、厳しく、また温かく、楽しく、弟子たちの成長を図るのに懸命であったのだ。
 戸田は、また、もう一つの備えも忘れなかった。将来を託すべく、男子部の核をつくろうと考えたのである。多忙のなか、時間をつくり、青年の代表を膝下に置いて訓練したのである。
 彼は、これらの青年に対しては、広宣流布という未聞の大革命を遂行する革命児として、育てなければならぬと痛感していた。
 ″革命は、観念の遊戯ではない。生やさしい考えで、断じて成就するはずもない″
 そこで、革命家の生涯というものが、どのようなものであるべきかを理解させるために、一つの小説をテキストとして用いたのである。それは、イギリスの作家、ホール・ケインの書いた『永遠の都』であった。
 戸田は、この本を、まず伸一に与え、伸一の選ぶ十三人に回し読みを勧めたのである。
8  ――二人の青年革命家、ロッシとブルーノは、ローマを舞台に、腐敗の極に達した当時の権力者に、勇敢に挑戦する。議会でのロッシの政府弾劾演説は、重税と飢餓に苦しむ声なき民衆のためであった。議会は、こぞって彼の提案を否決する。ロッシを支持する民衆は、コロシアムで国民大会を開いて反抗していった。
 軍隊の出動による弾圧、ロッシの国外への逃亡、そしてブルーノは捕らえられた。ブルーノは、過酷な拷問と陰険な偽手紙などの謀略に屈せず、国家権力との壮絶な戦闘のなかに、「ロッシ万歳!」と叫んで遂に死んだ。死をもってしても、彼は同志を裏切ることはなかったのである。
 そして、時は流れ、やがて悪逆の独裁政権は打倒され、苦難の革命の道は、晴れやかに成就の日を迎えるのである。
9  戸田は、小説を通して、純粋な使命を自覚しながら、時の権力と戦う、革命に生きる者の情熱と執念を、そして同志愛、友情、正義、言論の力、団結の大切さを、叩き込むように教えたのである。
 しかし、それらの訓練の根底には、あくまで仏法哲理があったことは言うまでもない。戸田は、御書の「三大秘法抄」や「諸法実相抄」「佐渡御書」「波木井三郎殿御返事」などを講義した。そして、激しいまでの気迫で、彼の魂魄を、なんとかして青年たちの胸にとどめておこうとした。
 戸田の訓練の場所も、ある時は新宿区百人町の事務所で、またある時は小岩の一青年の家でと変わったが、まず時間を厳しく守ることから始められた。
 戸田は、広宣流布遂行の使命について、未来の偉大な展望を、疲れも忘れ、熱情を込めて語るのであった。これは、後に結成される、男子部の水滸会の先駆けともいうべき会合であったが、戸田の身の安危の定まらぬ時期であっただけに、すさまじい勢いであった。
 戸田の肩には、いまだ二つの会社の問題が、相も変わらず重くのしかかっていた。一つは信用組合の清算対策であり、つは新設の大東商工を軌道に乗せるための、困難極まりない運営であった。
 信用組合の清算は、牧口門下の実業家グループの一人が事務局長として、その任にあたっていた。彼は、学会の古くからの理事で、法華経講義の第一回の修了者の一人であったが、学会活動からは、いっともなく離れていった。だが、利にさとい彼は、戸田とは事業の面で接触を保っていたのである。
 彼は、組合存亡の時、清算人を買って出た。ところが、いざ清算対策が絶望的になってくると、戸田に法外な手当てを要求したり、組合の弱点を種に、逆に敵に回りかねない姿勢をほのめかした。困窮に陥っていた戸田を、さんざん苦しめていたのである。
 大東商工の方は、新宿区百人町にある、土間に机を並べただけの、わびしい事務所で、いまだに数人の社員が苦闘を続けていた。彼らは、さすがに愚痴は我慢して言わなかったが、既に一年余りになる退勢の連続に、疲れ果てているようであった。気の張りを失って、時には暗い顔で机に向かっている者さえいる。
 戸田は、彼らの心中が、わかりすぎるほど、わかっていたが、事態を好転させる方法がない現在、彼らの焦慮を、どうすることもできなかった。
10  こうした二月の初旬のある日、戸田は、事務所の窓から、荒れ果てた敷地の片隅を、じっと見つめていた。
 「ごらん、あの枯れ草を、よくごらん」
 戸田の指さす草むらを、不審げに社員たちは見た。枯れたままになっている草むらは、誰一人、掃除する者もなかった。彼らは、掃除の行き届かぬことを責められたのかと思った。
 「あの枯れ草だって、よく見てごらん。もう青い芽を出しているではないか。
 冬は必ず春となる――これは、どうしょうもない生命自体の不思議な力だ。この力を、宇宙に遍満する南無妙法蓮華経といってもよい。あの死んだ枯れ草に、どうして青い芽を出す力があるんだろう。しかし、事実は厳然としてあるのだ」
 女子社員の一人は、事務所を出て、その枯れ草を分けてみた。草むらの根元には、ほとんど目立たぬ、幾つもの小さな青い芽が見られた。
 彼女は、驚きの声をあげた。
 「まあ、かわいい!」
 戸田は、笑いながら、みんなに向かって語りかけた。
 「ぼくらの会社だって、世間の目から見れば、全く枯れ草のように映っているだろう。だいいち、君たちでさえ、そう思い込んでいるんじゃないか。
 しかし、それは違うよ。確かに長い冬だった。だが、もう間もなく春が来る。間違いなく、春が来るに決まっている。ぼくらには本物の南無妙法蓮華経があり、純粋な信心があるからだ。世間で、いくら枯れ草のような会社だと言われたって、新芽の吹く時が、必ず来るに決まっているよ。
 もし、大聖人の仏法が信じられるなら、ぼくの言うことを信じなさい。もうしばらくの辛抱だ。こういう苦しい状態が、いつまでも続くように見えるかも知れないが、そんなことは絶対にない。頑張っていこうじゃないか」
 戸田は、何げなく祈るように語ったが、社員たちには深い感銘を与えたのである。
 確かに草の芽は、南側の草むらから萌え出している。戸田に言われるまで、誰一人、気づかなかっただけである。
 ――「法華経を信ずる人は冬のごとし冬は必ず春となる、いまだ昔よりきかず・みず冬の秋とかへれる事を、いまだきかず法華経を信ずる人の凡夫となる事を」という御書の一節を、しきりと思い出している社員もいた。
 一同の顔には、次第に、沈着な闘志とでもいってよい不動の信念が、よみがえるようになっていった。彼らは、戸田の確信にあふれた行動が、見る見る周辺に波動を広げていった事例を、これまでにも目にしていたからである。
 日ごろから部下思いの彼が、今の難局を見るに見かねて、自ら陣頭に立って、指導力を発揮しようとしている以上、もはや社員たちは、大船に乗った気持ちだった。
11  戸田は、このころ、御仏意というよりほかにない、不思議な瞬間をもった。
 ――二月初旬の厳寒の日である。風はなかったが、凍りつくような寒さが、吐く白い息に見られた。
 日暮れ近く、戸田は一人、西神田の学会本部を出て、すたすたと駅の方へ足を運んでいった。空は妙に赤らんで明るく、美しい夕焼けである。吐く息は白いのに、彼は、なぜか寒さを感じない。空は、あくまでも、異様に明るく思われるのであった。
 彼は、奇異な思いに駆られ、空の遠くへ目を放った。
 その時、彼の胸は、急に大きな広がりをもったように、それがそのまま、空へ空へと、見る見る広がっていくような思いがした。その途端、燦爛たる世界が、にわかに彼をつつんだのである。彼の足は、平静に地上を踏んでいて、なんの変化もなかったが、彼は見た。そして、瞬間に思い出した――あの牢獄で知った喜悦の瞬間を、今また、彼は体験したのである。
 彼の生命は、虚空に宇宙的な広がりをもち、無限の宇宙は、彼の胸の内に納まっていた。彼は、心で唱題し、抑えがたい歓喜に身を震わせた。輝くばかりの充実感を自覚したまま、大宇宙に遍満するわが生命と、永遠をはらんだ一瞬を、苦もなく感得したのである。
 彼は、ふと立ち止まり、辺りを見渡した時、灰色の街路と、わびしい家並みと、背を丸くして道行く人びとが目についた。彼は、われに返ったものの、今、全生命に知った実感は消えることなく、彼の胸の奥深くで燃焼していたのである。そして、一切の束縛が、洗い流されたように、彼の頭から消えていった。彼は、口には出さなかったが、心で幾たびも繰り返して言った。
 ″ありがたい。なんと、ありがたいことか! 俺は厳然と守られている、俺の生涯は、大御本尊様を離れては存在しないのだ″
 黄昏に近い、慌ただしい路上である。夜学に急ぐ学生たちが、次々と群れをなして、彼とすれ違っていった。
 この日から数日後のことである。大蔵省の意向が、清算中の信用組合に通達されてきた。組合員の総意がまとまるものならば、組合を解散しても差し支えないというのである。ということは、専務理事としての戸田への責任追及は、ひとまず終わったと見てよい。組合の解散が可能ならば、法律的責任も、自然解消ということになるのではないか。
 事態は、大きな変化を示し始めた。暗雲のなかに、一条の力強い光線が見え始めたのであった。
 前年の八月下旬以来、疾風怒濤と秋霜の真っただ中にあった、あの苦しい月日は、悪夢であったのだろうか。国法による法律的制裁が、全く不可避のものとして、あれほど絶望的な様相を帯び、戸田城聖の一身に振りかかろうとしていたのだ。
 国家は、法律の適用を曲げることはできない。戸田よりも、顧問弁護士たちが匙を投げていた事態である。
 では、何が、そのような幸運な決定をもたらしたのか――戸田には、今、それが、はっきりとわかっていた。
 無量義は一法より生ずる。仏法とは、一切の因果の法則を貫く根本法にほかならない。ゆえに、仏法を根本とするならば、すべてを乗り越えていくことができる。
 戸田は、信用組合問題の帰結から、″仏法、必ず王法に勝れり″ということの確かな実証を、身をもって知ったといってよい。仏法の無量の力用は、戸田を救ったが、また、同時に、彼の使命の重大さを警告したものとも思えた。
 彼は、後顧の憂いが消滅したことを知ると、残された生涯における使命達成への決意を強く固めたのである。はや、逡巡とも、臆病とも、安逸とも、訣別しなければならなかった。
 ここに、彼の最期の日に至るまでの道程は、決定されたのである。
12  二月十一日――戸田城聖の満五十一歳の誕生日であった。戸田は、この日午後、西神田の事務所の二階で、最高幹部たちに、「御義口伝」の講義をしていた。その講義は信解品の「第六世尊大恩の事」の段に入った。彼は、異様なまでの熱烈さをもって、御本尊の大恩を語っていった。そして、宣言でもするように、講義をこう結んだのである。
 「諸君は、あるいは信じないかもしれない。しかし、ぼくは、″仏法、必ず王法に勝れり″という確証をつかむことができたんです。かかる大恩をいただいた戸田城聖のこの身は、はや妙法のために、この命を捧げたてまつる以外に、報恩の道はないことを知りました。
 よって、いかなる難事も遂行しなければならないし、また、どんなことでも遂行できる資格を頂いたものと確信したんです。
 私は、会長でもなんでも、広宣流布のためにすべきことは、しなくてはならぬ、と考えるようになった。もはや逃げも隠れもしない。諸君も、宿縁あって戸田の弟子となったからには、今日からは、そのつもりでいてもらいたい」
 みんな、戸田の突然の発言にとまどったが、「会長」という一言だけが、誰の胸にも雷鳴のように響いたのである。
 ″戸田先生は、そのつもりでいろと言われた。時が遂に来たようだ。待ちに待った会長推戴の時が、今、やっと来たのだ。先生は、承諾の意を示してくださったのではないか……″
 彼らは、喜びに弾みながら、講義終了後、いつまでも語り合っていた。
 この日から、ちょうど一カ月後の三月十一日の日曜日に、臨時総会が、東京・神田の教育会館で開催された。主として東京の会員が集まったが、数百人の参集である。
 壇上の戸田は、実に美しい血色をしていた。前秋の総会とは変わって、元気にあふれた姿であった。
 彼の、確信に満ち満ちた講演は、当時、戦乱の巷と化していた朝鮮戦争(韓国戦争)に言及したが、その勝敗や政治的解決に、彼の関心があったのではない。数日前から、国連軍は、北朝鮮軍を圧倒し、再びソウルを奪還しようと迫っていた。罪もない多くの民衆が、どれほど痛ましい苦悩に打ち砕かれているか、その現実に深く思いを馳せていたのである。
 「戦争の勝敗、政策、思想の是非を、今、ここで私は論ずるものではありませんが、この戦争によって、夫を失い、妻を亡くし、子を求め、親を捜す民衆が、どれほど多くなっているか、それを嘆くものであります。
 昨日までの財産を失って、路頭に迷い、悲しみ苦しんで死んでいった人もいるでありましょう。″なんのために死ななければならないのかと憤りつつ、死んでいった若者もいるにちがいない。『私は、何も、悪いことはしなかった』と叫んで殺されていく老人もいるでありましょう。
13  また、肉親をすべて失い、親とか兄弟とかが、この世にいることを不思議がる子どもの群れも、あるいはできているかもしれない。
 彼らのほとんどは、共産思想とは何か、国連軍がなぜやって来たのか、何も知らないにちがいない。
 『お前は、どっちの味方だ』と聞かれて、びっくりしながら、『ご飯が味方で、家のある方へつきます』と、平気な顔で答える情景もあるにちがいない」
 聴衆のなかには、くすくすと笑いだす人もいた。
 だが、戸田は笑わなかった。
 この日、山本伸一は、一般の会員に交じって、会場の一隅から戸田をじっと見ていたが、彼も笑わなかった。不死鳥のごとくよみがえり、今、壇上に立つ戸田の姿を目の当たりにして、彼は人知れず、随喜の涙を流していたのである。
 ″誰も知らなくてもいい。陰で先生をお守りしてきた、この年月、今日の日の来るのを、どんなに待ちこがれてきたことか。あの通り、先生は、元気に闊達自在になられたではないか。今の自分の歓びが、どういうものか、誰も知らないであろう。知らなくていいのだ……″
 戸田城聖は、諄々と「立正安国論」の御文を引き、かかる悲惨な現実が、何に由来するかを述べていった。そして、その抜本的な解決策を求めるとするならば、生命の大法である日蓮大聖人の仏法によるほかはないとして、「諌暁八幡抄」の一節を拝読しながら、次のように結論した。
 「朝鮮半島の民衆の身の上を、仏法の鏡に照らして見るならば、昨日は日本の身の上、今日は朝鮮の身の上、明日はまた、いずこの国の身の運命となるでありましょうか。世界の民衆を憂えるとともに、仏の金言むなしからざるを思えば、この騒乱の姿こそ、大聖人の仏法が、今こそ日本に興隆し、やがて、東洋へ、世界へと広宣流布しゆく瑞相であると確信するものであります。
 どうか、われら一門、東洋の、世界の平和を願って、心を合わせ、日蓮大聖人の七文字の法華経を信じ、この尊い仏法を讃嘆し、流布していこうではありませんか。
 一国広宣流布の秋は今であります。既に、東洋広宣流布の兆しも現れた。仏勅を被った創価学会の闘士こそ、先陣を切って進むべき時が、遂に来たのであります」
 戸田は、まず、この臨時総会で、彼の確信に満ちた健在の姿を示したのであった。
 そして、その反応を知り、新しい組織を編成する準備に、いよいよ着手しようとしたにちがいない。
14  また、この三月十一日は、東光建設信用組合が、組合員の決議によって解散した、その登記面の日付になっている。戸田を苦しめた、さしもの組合も、この日をもって、この地上から消滅したわけである。幾多の債務は、戸田個人の負債として整理され、信用組合としての法律上の義務は、すべて解消するにいたった。彼は、見事に、憂いなき一線を画することに成功したのである。まことに、忍耐と前進によってのみ、人の道は聞かれていくものである。
 高揚した迫力で、戸田は、次から次へと新分野の開拓に手を打っていった。まず、一月以来、休刊の状態に陥っていた『大白蓮華』の復刊を促したのである。さらに機関紙として″新聞″の発刊に踏み切った。充当すべき資金など、あろうはずはなかったが、広宣流布の未来を思えば、その絶対の必要性を痛感していたからにほかならない。
 三月十七日には、戸田は、自宅に、山本伸一、森川一正ら四人を招き、最初の企画会をもった。
 戸田は、根本指針を示しながら、遠大な構想を語った。
 「この新聞をもって、広宣流布の火蓋を切っていくんだ。これこそ学会の先兵だ。あらゆる意味で、言論戦の雄とならなければならぬ。まず、日本の言論界を左右するだけの、自負と迫力をもったものにしなければならない。
 素人の集まりだから、最初は不器用なものが出来上がるだろうが、広宣流布の新聞であるからには、類例のない正確な新聞であるべきだ。大いに独創性を発揮して、すべての庶民に対して、説得力のあるものにしてもらいたい。正直で、嘘がなく、正確でありさえすれば、読者は必ず信頼するようになる。
 もう一つ、読んですてきな、面白いものになるといいのだがな。誰か、漫画のうまい人でもいるといいがなあ。ハ、ハ、ハッ」
 彼の構想は、新聞ひとつにしても、とどまるところを知らなかった。
 「まぁ、見ていてごらん。やがて日本一の立派な新聞だといわれる時も来るよ。それには、それだけの努力と、研究が必要だし、腕も、もたなければならない。力は御本尊様から幾らでも頂けよう。力ばかりあったって、腕がなかったら惨めなことだ。
 今日は十七日か。二、三日、真剣に考えて、編集プランを持って来てくれたまえ。そして、二十一日に第一回の編集会議を開くことにしよう。さあ、今夜はゆっくり、酒でも飲ましてもらおうか……」
15  戸田は、大変なご機嫌であったが、四人の速成編集スタッフは面食らってしまった。
 彼らは、急に、毎日の新聞を、隅から隅まで読みだした。さまざまな報道記事のほかに、社説があり、小説があり、写真があり、コラムがある。子細に見れば、狭い紙面にも、工夫して幾つもの変化があった。広告欄も忘れることはできない。
 彼らは、数日、それぞれ想像をたくましくして、第一回の編集会議に臨んだ。そして、互いに夢のような案を持ち寄ったが、具体性をもつものは之しかった。ただ、一般紙の社会面の代わりに、いい信仰体験をどしどし掲載すべきだという案が、かろうじて現実性のある独創的プランとして取り上げられた。
 戸田は、頷きながら言った。
 「体験談は大いにいい。しかし、よほど正確な記述をしないと嘘になる。嘘になるばかりではない。いいかげんなことを書くと、妄想的で神がかりめいた、いかがわしい記事になりかねない。体験談は、やさしいようで、なかなか難しいぞ。……ほかに、『あっ』と言わせるような案はないか。……まず案を立てて、それを幹部に書かせるのだ」
 素人も、三年、五年たてば、立派な玄人になることを、彼は、十分、知っていたのだ。
 「これから新しい事業を起こすようなものだから、諸君は希望に胸をふくらませているかもしれない。それが素人の、いいところだ。
 しかし世の中は、そんなに甘いものではない。誰からも、立派な日本一の新聞だといわれるようになるためには、絶えざる努力と、研究と、それから忍耐がなければなるまい。
 今の諸君の話を聞いていると、なんだか遠い未来の夢想を語っているように聞こえるね。それでは、創刊号は出ても、たちまち後が続かなくなってしまうぞ」
 確かに、いざ新開発刊となると、勝手な夢想は許されなかった
 話は具体的に、なっていく。紙名は″文化新聞″″創価新聞″″公正聞″などの名前も出ていたが、結局「聖教新聞」と決定されたのである。そして、当分は、月三回の旬刊、ブランケット判二ページで始めることに決まった。だが、紙面構成の問題が、なお残ってしまった。
16  「体験談ばかり、ベタベタ並べても新聞にはならない。まず、背骨となる社説がなければならん。これは、山平君や石川君など、信心より理屈の好きな連中に、どしどし書かせるのだ」
 スタッフの一人が、口をはさんだ。
 「社説は、先生に書いていただかないことには……」
 「うん、書くさ。誰も書かなければ、ぼくが書くより仕方ない。しかし、ぼくは気取った社説などより、ピリッと寸鉄人を刺すといったような、短い、しゃれたものを書きたいな。読者は、他の記事は読まなくても、そういう短い記事は、意外に読むものだ。自分に当てはめて考えてごらん……。
 そうだ、『寸鉄』というカコミをつくろう。最初は練習のために、森川君、書いてみたまえよ。それから、今、考えているのだが、小説の一つも書かなければならんだろう」
 「小説?」
 速成編集員たちは、意外な顔をした。小説の掲載までは、誰一人、考えていなかったのである。
 「小説だよ。長編小説だ。新聞をつくるからには、小説ぐらいなければ格好がつかないじゃないか」
 「でも、誰が書くんでしょうか。先生がですか?」
 「そうさ、ぼくが書く。書いては悪いような顔をするなよ。もう題名だけは決まっている。――『人間革命』というのだ」
 「へえっ、すごいな!」
 「作者の名前もつくった。妙悟空というのだ」
 「へえ、変な名前ですね」
 「うん、ちょっとわからんだろうな。あの孫悟空の兄弟じゃないぞ。ハ、ハ、ハッ……。悟空というのは、空観を悟るという意味だ。『西遊記』の作者は、かなり仏法に精通した人であったようだね。ぼくのは妙悟空、妙法の空観を悟ったという意味なんだ。どうだ、いい名前だろう」
 戸田は、実に楽しそうであった。
 後の話になるが、との連載小説は、妙悟空著『人間革命』として、戸田が亡くなる一年前に出版され、当時のベストセラーとして評判になった。
 「どんな小説なんですか?」
 にわか記者たちは、好奇の目を輝かせて尋ねた。もはや、編集会議を忘れているようであった。
 「小説は小説だよ。どんなも、こんなも、あるものか。見当もつかないが、まあ読んでくれよ。面白いぞ。今日は、″乞う、ご愛読″としておこうよ!」
 だが、にわか記者の一人は、すかさず言うのであった。
 「記者として、小説の粗筋だけでも聞いておかないと、泊券にかかわりますね」
 戸田は、笑いながら答えた。
 「では、わが大作家の結構を簡単に言おうか。
 まず、八軒長屋の住人が出てくる。主人公は、その住人の一人なんだが、印刷所の工員で怠け者のくせに、つまらぬ理屈を言うことは、なかなか達者だ。貧乏で女房に苦労ばかりかけている。こんな男が、信心して、いったいどんなに立派な人間になり得るか、という物語だ。
 小説というと、人間が堕落して不幸になる話が少なくないが、『人間革命』は、その逆、なんだよ。人間蘇生の物語だ……」
 彼は、仁丹をかみながら、意気込んで小説の粗筋を語って尽きなかった。
17  「聖教新聞」は、翌月の四月二十日に、第一号が発刊されたのである。その発行部数は、わずか五千部であった。
 ――面のトップには、三鷹事件のただ一人の有罪被告・竹内景助について、妙法を持つ者の信念と、左翼思想をもつ者の信念とを対比して、鋭い論陣を張っている。この記事も、戸田の執筆であった。
 寸鉄欄も、結局、森川一正ではうまくいかず、戸田が書き、小説『人間革命』も彼の筆によるものである。
 戸田の活躍は、創刊号から編集長であり、論説記者であり、また小説作家であったわけだ。
 さりとて戸田は、新聞人になったわけではない。あくまで広宣流布に挺身する指導者であった。
18  彼は、三月二十八日の支部長会に、久しぶりに現れた。既に不動の決意にみなぎっていた彼は、三月の総折伏成果が九十五世帯と聞くと、情けないような、険しい表情になっていった。彼が心に期している未来の青写真と、学会の現状との間には、はるかなる距離があることを、考えないではいられなかったのであろう。
 彼は、重い口を聞いた。
 「誰か算術の得意な人はいないか。今の数字で、いったい何年たったら広宣流布ができるか、試しに計算してごらん。こんな割合でいったら、広宣流布は一万年ぐらいかかることになってしまうよ。どうだ?」
 支部長たちは、そろって下を向いてしまった。戸田には、それが、いら立たしかったのであろう。彼は、立ち上がり、思わず叱咤激励しないではいられなくなった。
 「朝鮮半島の動乱ひとつを見てもいい。世界の現状に目を開いてもらいたい。明日の日も知らぬ東洋の民族、いや世界の人類に、光明を与える力は、いったい何か。日蓮大聖人の御慈悲を被らせるほかに、何ものもない。すなわち広宣流布以外に、断じて手はない。
 しからば、この大偉業は、誰人の手によるか。仏意測り難いことだが、創価学会を除いてほかにない。これこそ、恩師・牧口先生以来の宿命です。不肖戸田、昨年来、一つは法華経の講義により大罪を受け、一つは″王法、遂に仏法に勝たず″の二大現証により、さらに深い、固い確信を得たのです。
 今は、ぼくは、前進あるのみだ。闘争あるのみだ。前にあるものすべてに向かって!
 もたもたしているような弱卒に、かかわっている時ではない。弱卒は、さっさと去っていくべきだ!」
 戸田の激しい叱咤に、支部長たちは度胆を抜かれた。
 戸田の秘めた未来図と、学会の現状との空漠たる距離は、実は、戸田の考えと、支部長たちの考えとの隔たりにあった。彼は、それを悟ると、この差を急速に埋めることに着手した。つまり、精鋭主義でいくことを決意したのである。そして、組織の整備を急ぐことに、心を砕いていった。
 それから十日とたたない四月六日、戸田は、講義が終了した直後、引き続いて臨時支部長会を開いた。席上、清原理事から、突如、支部改廃の議案が提出され、現在の二十数支部を整理統合して、十二支部にすることが諮られた。
 その趣旨は次のようなものであった。
 一、大支部制として、幾つかの地区が所属する。
 一、支部役員は、支部長のほかに、幹事と地区委員で構成する。
 一、支部を、A、B、Cの三段階に分ける。
 一、今後も、状況により、逐次改廃を行う。
 これまでの支部は、拠点がそのまま支部として、自然発生的に生まれたものである。したがって、非常に力のある支部もあれば、連絡さえ不十分な、脆弱な支部も多くあった。支部とはいっても、はなはだしい格差ができてしまっていたのである。いわば駿馬と駄馬とが、同じ戦列に並んでいるようなもので、足並みはそろわず、このまま驀進すれば、将来に禍根を残すことは、おのずから明らかであった。
 戸田は、斬新なスタートのために、先駆は精鋭をもってし、前進に次ぐ前進を敢行する態勢を整える必要があったのである。
 それをさらに、A、B、Cのの三つのグループに分けたのは、世帯数や実績を考慮し、それぞれのランクのなかで相競いつつ、支部の実力の向上を図るためであった。
 十二支部の支部長名は、次の通りである。
19  A級 鶴見支部 森川 幸二
    蒲田支部 小西 武雄
    小岩支部 泉田  弘
    杉並支部 清原 かつ
 B級 文京支部 原山 幸一
    中野支部 神田 丈治
    築地支部 大場 勝三
    足立支部 藤川 秀吉
    志木支部 伊田 幸次郎
 C級 本郷支部 佐木 一信
    向島支部 星山 恒蔵
    城東支部 臼田 政雄
 このほか、五月三日直後に、東北の仙台支部と九州の八女支部の発令がなされている。これら十四支部の時代は相当長く続き、十万世帯を超えるまでに発展する支部もあった。
20  このような組織の整備と同時に、戸田城聖を会長に推戴する署名運動が、全学会員のなかに旋風のように巻き起こっていた。
 「署名だ、署名だ!」
 座談会でも、その声は繰り返され、また、せっせと会員の家へと行く人もいた。そこには喜びがあり、真剣さがあり、高い誇りがあった。なかには署名を拒否する人もいたが、その多くは、戦前からの古い会員たちであった。
 たとえば、戦前からの理事であった実業家グループや、自ら牧口門下の第一人者と任じていた寺川や宮島などの仲間の名は、この署名簿のなかに、一人として見当たらないのである。
 今日、分厚い「戸田会長推戴賛意署名簿」を開いてみると、まず、ワラ半紙に謄写版で刷った粗末な趣意書が載っている。
 この趣意書は、清原かつが記したものである。それは、いささか、ぎごちない表現となっていた。異常な感激と興奮と、あふれる感涙とを、もてあましたからにちがいない。
 「我等つくづく考うるに、『生』を濁悪の現世に受くるは広宣流布のためなり。
 ……当学会は仏縁深く、初代の会長牧口常三郎先生が身を法華経に奉って七年、その功徳は会内に満ち満ちて広宣流布の大願に燃ゆる闘士三千を数えるに至る。
 これ初代の理事長戸田城聖先生の恩師にまさる実践力と広宣流布の大願の至すところなりと雖も、大聖人の御目よりすれば、幼児の海辺の石を数えるものか。
 それにまた、三障四魔は戸田先生の身の上に競いかかり、学会の前途も如何と、心ある者一同は憂いしなり。
 ……しかし、戸田先生の大志を知る我々は、月にむら雲のたとえ、『一風吹き去る時』を今か今かと自らの陣営を護って、その人に応じた個別の教えを先生自身から受けながら、待つ甲斐あって、俄然、時が来た。
 戸田城聖先生は何物かを御つかみになったらしい。偉大な信仰の確信を得られたらしい。
 歩武堂々と『第一陣』に出られ、『やるぞ』と御叫びになった。はげしい叱咤と命令は、次々と矢つぎ早に下り、待っていた同志は喜び、怠けていた同志はあわてたが、喜びに満ちたあわてかたである。
 『万歳だ!!』
 将軍が出現した。会長なんだ。会長が出現したのだ。名誉ある二代の会長が。
 創価学会は進軍だ。第二代の会長を推戴するのだ。賛成と両手を上げよ。そして手を下ろせ。
 推戴に署名せよ。一人ももれてはならぬ。未来同志に恥を笑われるな。急げ署名せよ。
 進軍のラッパはもう鳴っているぞ」
 署名の合計は三千余人であった。総計の数字から推定して、当時の学会の全世帯数が、どれほどであったか、ほぼ見当がつくであろう。
 しかし、この三千余人は、一九五〇年(昭和二十五年)〜五一年(同二十六年)初頭にかけての、学会の激動期に、紛動されることなく、戸田城聖を敬愛して、信心を貫いてきた精鋭三千人であったことを考慮する必要がある。
 戸田城聖が、会長に就任した時、彼の胸中には、前進に次ぐ前進の、すさまじいばかりのエネルギーが秘められていた。その彼の一念は、堰を切ったように、戦後の日本社会に、おいて、未聞の組織力となって発揮されたといえよう。
 この三千余人の、それぞれの人生行路の歴史も、そのまま「人間革命」の歴史であるはずだ。それはまた、三千余編の小説資料を提供することも可能なのである。
 このように、幾千万の「人間革命」の実証を重ねつつ、広宣流布の一大絵巻は、美事に織り成されていくのだ。
21  一九五一年(昭和二十六年)五月三日の、戸田城聖の会長就任式に至る、この数ヵ月間の道程は険しかった。短期間に、さまざまな障害を克服しなければならなかったからである。そのために、彼は、一日一日、「周到な整備」と「精密な配慮」と「大胆な企画・実践」を積み重ねつつ、その悲願の実現に骨身を砕いたのである。
 今、常泉寺の本堂で、会長就任の決意を語る彼は、未来にわたる進路を展望しつつ、それを妨害する一切のものの除去をも、宣言しなければならなかった。
 彼は、広宣流布大願成就の御本尊の申請に続いて、僧俗が一体になっての広宣流布の推進を切願して語っている。
 「不幸にして、『めったやたらに御本尊はお下げしない』と言って、信徒の折伏の熱誠をそぐような御僧侶が、極めて一部にあることを伺いました。御本尊は、一切衆生のためにお下げくださるものである、一部の占有物であるはずはない。これは御仏意に背くものと考えざるを得ません。
 寺は建てたが、本尊は下げ渡さぬというのでは、寺は、なんの働きをするというのでしょう。これでは、ただ坊主の寝床をつくったにすぎないことになる。広宣流布とは、寺を建てるということにあるのではなく、結論して言えば、正法が流布して、中心となる法城の必要から寺が建つのであります。
 また、戦時中、神本仏迹論を主張して、時の御法主上人を悩ませ、また学会弾圧の因をなした笠原慈行という悪僧が、今なお僧籍にあるやに聞きますことは、われわれ信徒として、遺憾このうえもないここと存ずる次第であります」
 彼の声は、厳しく、攻撃に似た響きさえあった。
 彼は、すべてが激動し、変動する、怒濤逆巻く時代にあって、僧侶としての真の在り方を、自覚してもらいたかったのであろう。
 戸田は、言わざるを得なかったのである。
 僧侶が、もし、広宣流布に向かう熱誠をもたないならば、真面目な信徒は苦しみ、犠牲になる以外になくなってしまう。ゆえにこのことは、御聖訓に照らしでも言い切っていくべき道理である。
 その精神がなくなれば、封建社会の檀家制度のもとの既成宗教と、なんら変わることがない。また、時代に相応する、宗門の永遠性も、発展性も、なってしまうことになる。
22  彼は、話を続けた。
 「されば、御僧侶を尊び、悪侶は戒め、悪坊主を破り、宗団を外敵より守って、僧俗一体とならんことを切に願うものであります。
 願わくは、御僧侶におかせられでも、学会のこの確信をめでられ、僧俗一体の立場にあって、信者を愛し、また信者は僧侶を尊び、互いに嫉妬することなく、共々に大聖人の御教えを奉じ、日本から遠く東洋へ、世界へと、本尊の流布する日を、大御本尊に心から祈るものであります」
 戸田は、ここで宗門のことに触れたが、一年後の立宗七百年祭の四月、不幸にして「笠原事件」という残念な事件が起きている。彼は、既にこの時、宗門の存亡の危機を招いた禍根が、今なお断たれていないことに、深く思い悩んでいたにちがいない。
 さて、戸田は、ここまで、会長就任の決意から、創価学会の地涌の使命の自覚を説き、広宣流布大願成就の御本尊の申請、僧俗一体の祈願と話を進めてきた。後に残るのは、彼の生涯を賭しての広宣流布実現への闘争と、その方途を明らかにすることであった。
 彼は、一瞬、口をつぐんで立っていた。長身の体は、今、聴衆の渇仰の視線を一身に浴びて、輝いているように思われた。
 彼は、ここ数ヵ月、思索に思索を重ねてきたことのエッセンスを、今、言うべき時が来たと結論を下したのである。
 「現代において、仏と等しい境涯に立ち、この世界を心から愛する道に徹するならば、ただ折伏以外の方法は、すべて何ものもないのであります。
 これこそ各人の幸福への最高手段であり、世界平和への最短距離であり、一国隆昌の一大秘訣なのであります。ゆえに、私は、折伏行こそ、仏法の修行中、最高のものであると言うのであります。折伏行は、人類の幸福のためであり、仏法でいう衆生済度の問題であるので、仏の境涯と一致するのであります。
 したがって、折伏をなす者は、慈悲の境涯にあることを忘れてはなりませぬ。宗教論争でもなく、宗門の拡張のためでも決してない。御本仏・日蓮大聖人の慈悲を行ずるのであり、仏に代わって、仏の事を行ずるのであることを、夢にも忘れてはなりませんぞ。
 この一念に立って、私は、いよいよ大折伏を果敢に実践せんとするものであります。時は、既に熟しきっている。日蓮大聖人立宗宣言あって七百年――その時を間近にして考うるに、創価学会のごとき団体の出現が、過去七百年間に、いったい、どこに、どの時代に、あったでありましょうか。大いに誇りをもっていただきたいのであります。
 私の自覚にまかせて言うならば、私は、広宣流布のために、この身を捨てます!
 私が生きている聞に、七十五万世帯の折伏は、私の手でいたします。願わくは、それまでに宗門におかせられでも、七十五万だけやっていただきたいものである。もし、私のとの願いが、生きている間に達成できなかったならば、私の葬式は出してくださるな。遺骸は、品川の沖に投げ捨てなさい! よろしいか!」
 最後の言葉は短かった。だが、戸田の火を吐く烈日の気迫は、聞く者すべての肺腑を突かずにおかなかった。
23  聴衆は、激越な拍手を送っている。しかし、「七十五万」「品川沖」という鉄火のような言葉は、それぞれ胸のなかで反芻する以外になかった。
 ある幹部は、大変なことになったと思った。
 ″七万五千の間違いではなかろうか。いや、確かに七十五万と聞こえた。果たして、そのような大折伏が、本当にできるのであろうか。今、全力をあげても、一年に、せいぜい二、三千世帯である。広宣流布は「大地を的とするなるべし」と大聖人がおっしゃるからには、いずれ、その時代は来るにちがいない。
 しかし、今の自分たちの力では、逆立ちしても、どうしょうもないことだ。でも、戸田先生が、ああおっしゃるからには、何年、何十年かかろうと、われわれは、断じてやり遂げる以外にない。それにしても、これからは、ぼやぼやしておれないぞ。よし、壮烈な戦闘になるなら面白い、やるだけやるまでだ!″
 彼は、少々、ヤケになっていた。
 また、ある正直な青年は″なんと、先生は、すごいことを簡単に言うのだろう″と思い、ただ、ぼんやりしてしまった。
 それにしても、七十五万とは、夢のような数字だが、あの先生を、品川の沖などに捨てることはできないじゃないか!
 真面目な彼は、前途を憂えたのである。
 また、ある理屈っぽい男は、はなはだ非現実的な数字に驚いた。
 ″はったりではなかろうか。しかし、先生の決意は、あのように固い。すると先生は、きっと、大変、長生きを、なさるにちがいない。妙法の力だ。「更賜寿命」という言葉が寿量品にある。先生は、おそろしく長生きして、七十五万を達成なさろうと考えているにちがいない″
 彼は、合理的な計算をして安心した。
24  山本伸一は、この時、本堂の真ん中の、聴衆の間にいた。そして、戸田の決意に、じっと耳を澄ましていたのである
 戸田の、かつてない迫力を感じさせる話が終わった時、彼も、ほっとして、急に肩が軽くなったような解放感を味わっていた。
 ″先生は、後顧の憂いなく、いよいよ真剣勝負に向かわれるのだ。ウオーミングアップは、ことごとく終わったところだ。しかし、思えば、なんと辛いウオーミングアップであったことだろう。
 前途に横たわるものは、未聞の広宣流布の本番だ。真剣勝負であるからには、絶対に勝たねばならぬ。負ければ、こちらが滅びるだけだ。生涯、一瞬の油断も許されぬ。はや、後へ退くこともできないところへ来たのだ。いよいよ、歴史的な怒濤の前進が始まる。私も、第二期の闘争に入るのだ。未来への舞台は、洋々と開けているぞ。
 それにしても、一つ気がかりなことがある。それは、「大東商工」の営業を、一日も早く、なんとしても軌道に乗せなければならないということだ。広宣流布の機関車は、今の今、少々、石炭が不足している。機関士の先生に、石炭の心配をかけてはならぬ″
 彼は、戸田の姿を、いたわるように見つめていたのである。
 人それぞれに、戸田城聖の宣言を聞いていた。しかし、大部分の人びとは、七十五万世帯の達成を、夢物語のように聞いたのである。
 戸田の生涯をかけての切実な問題は、彼らには、それほどの切実さをもたなかったのであろう。今の彼らに切実な問題は、彼ら自身の貧しさであり、病弱であり、それぞれの宿命の問題であったにちがいないからだ。
 しかし、人びとは、戸田に付いて、七十五万世帯の達成という広宣流布の旅に発つことが絶対の要請であり、一切の解決の根源であることを、直覚はしたのである。しかも、こうした自覚のすべては、ただ戸田の崇高な一念の力によるものであった。
 戸田城聖が、会長就任の、この時に宣言した、七十五万世帯の折伏達成という希有の確信は、いささかの狂いもなかった。しかし、当時の誰一人、それを信じることはできなかったようである。そもそも、「聖教新聞」第三号の、就任式を報道する記事のどこにも、「七十五万世帯」という数字は見当たらないのである。よもや失念したのでないとするならば、読者の誰もが信じがたい「七十五万世帯」という数字を、体よく省略することを得策と考えたのであろう。あるいは、戸田の確信が、誇大な放言ととられることを、世間に対し警戒したのかもしれない。
 だが、戸田の予言的確信が的中するには、わずか七年足らずの歳月で十分だったのである。一九五七年(昭和三十二年)十二月、学会の総世帯数は、七十六万五千を達成するにいたった。この日から三カ月後、翌五八年(同三十三年)四月二日、彼は霊山に旅立ったのである。
 戸田城聖の会長在任期間は、わずか七年にすぎない。この短期間に、彼のなした未曾有の偉業は、すべて、彼の確信に発するものであり、それが、ことごとく成就されていくのである。
25  戸田の姿が演台を離れると、就任式は、短い経過報告をはさんで祝辞に移っていった。
 常泉寺住職の堀米日淳は、戸田の会長就任を、どれほど心待ちに待っていたかを語り、学会の大いなる前途を、にこやかな笑顔を浮かべつつ、心から祝福した。
 そのあと、会員の代表が、こもごも立って熱弁を振るった。歓喜の祝辞は、時に拙劣な表現となり、いたずらに絶叫に流れたりした。
 皆、折伏への邁進を誓ったが、なかでも柳沢礼子が、戦乱の故国を偲びながら、「朝鮮半島の広宣流布は、戸田先生の指導によって、必ず私どもがいたします。皆さん、見ていてください。愛する祖国が妙法に輝く日を……」と、涙ながらに叫んだ時、場内には感動の波が起こり、一段と高い拍手が鳴り響いたのであった。
 就任式は、はるかに二時間を過ぎた。全役員の辞職に続いて、「新組織発表!」と司会者が叫んだ。
 戸田は、紙片を片手に、自ら新幹部を一人ひとり、任命した。
 この時の新組織を一覧表にすると、次のようになる。
 会長     戸田 城聖
 理事長    空席
 筆頭理事   泉田 弘
   理事   清原かつ 森川幸二 大場勝三 小西武雄 原山幸一 関 久男
 指導監査部長 三島由蔵
 財務部長   泉田 弘
 講義部長   原山幸一
 指導部長   清原かつ
 地方折伏部長 大場勝三
 婦人部長   泉田ため
 青年部長   関 久男
   男子部長 山際 洋
   女子部長 大島英子
 企画部長   原山幸一
26  新組織の発表が終わると、最後に、再び戸田の話となった。
 「会長講演!」
 司会者の、張りのある声が響く。
 戸田は、疲れも見せず、場内を見渡していった。かなりの長時間になってしまった。緊張の連続した会合である。みんなの疲労を心配した。
 彼は、思った。
 ″今日は、自然に緊迫した会合に終始したのは、やむを得ない。しかし、闊達さと、はつらつさを失った会合になってしまえば、聴衆は、さらに疲れ、飽きるだけだ″
 戸田は、用意してきた話の主題を、やめることにした。彼は、凝った肩でも探むように、座談的に話しだしたのである。
 「実を言うと、私が、今日、会長に就任できたことは、正直いって嬉しい。牧口先生時代から、初代理事長として、必ず次の会長になる宿命をもっと予見していたが、どうしても、それが、いやだった。
 広宣流布は大賛成で、絶対にやると決意したが、会長だけは、絶対やるまいと思っていた。一、二の人を後継者にとあげたが、いずれも失敗。それというのも、私は、牧口先生を、あまりにも知りすぎていたので、先生のようには、とてもできないと、私自身に対して、臆病にになっていたためです。
 ……牧口先生は、謹厳実直な方で、私とは性格が正反対、夜中まで先頭に立って折伏を続けられ、弟子は、後ろの方で″やぁやぁ″と、かけ声だけをかけていた」
 聴衆は、ここで、どっと笑った。
 「私は、先生とは反対に、後ろに立って皆さんを指揮し、広宣流布に邁進したいのです。
 ところで、広宣流布というのは、天皇に御本尊を持たせ、一日も早く御教書が出れば、それで、できると思っている者があるが、それは全く愚かな考えで、時代錯誤もはなはだしい。現代は主権在民の時代です。今日の広宣流布は、一人ひとりが、誤った宗教と取り組んで、国中の一人ひとりを折伏し、みんなに御本尊を持たせることです。
 そうなるころには、ここにいる皆さんは、どうなっているか。大したことになっているでしょうね。まぁ、ほんの一例をあげておくが、今、ここにいる青年たちは、まず社長とか、議員とか、博士といった立場になっている」
 笑いながら、いろいろの例を引いて語るのであった。みんなも、いつか愉快になって、ゲラゲラ大声で笑いだす人もいた。
 「これは、戸田が言うのではない。御書にちゃんとあるから間違いないのです。
 『天子の襁褓むつきまとわれ大竜の始めて生ずるが如し』です。おむつを当ててピイピイ泣いている皇位継承者は、将来の自分が何者であるか、そんなことは、まるで知らないであろう。今の皆さんは、ちょうど、これと同じだと思えばいい。
 御本尊様は、それをご存じなんです。だから大聖人様は、妙法を持つ仏の子である私どもを、前の御文のあとで、『蔑如すること勿れ蔑如すること勿れ』――世間の人は、われわれを『絶対に軽んじてはならん』――とおっしゃってくださるんです。ありがたい話ではないか」
 笑いながら語った戸田の言葉である。当時、この言葉を聞いた人たちには、不幸の壁は厚く、とうてい信じることはできなかったにちがいない。だが、その場にいた青年のなかで、意味はわからなくとも、疑わずに信心を貫いてきた人たちを見るがいい。この就任式に列席した青年は、この日の戸田の予言を、見事に実証していったのである。
27  戸田は、時間の経過を気にしていた。そして、最後の結論を急いだ。
 「御本尊様の、このような真の功徳がわかる位を究竟即というのですが、この位の分真即、これが折伏をなすということなのです。一対一の膝詰め談判によって、広宣流布は成し遂げられるのであって、これは皆さんのためだから、広宣流布をやりなさいと言うのであります。
 勤行をして、御本尊に″あれくれ″″これくれ″と、功徳をねだるような、横着在信心ではなく、本当に折伏に身を入れて、人びとに悪口を言われ、軽んじられでも、ますます御本尊を護持した時、そこに厳然として功徳が現れるのです。
 初めから、御本尊様は、拝んでくれなどとは、決して言っておられません。われわれの方から、どうか拝ませてくださいと願ったのです。
 今、私たちは、広宣流布のために、一つ一つの土台石を運んでいるのです。そのために、今後、どしどし無理な注文を、皆さんに出すことと思うが、ぜひ通していただかなければなりません」
 戸田の話は、二十分ほどで終わった。皆、顔を上気させながら、微笑を浮かべないではいられなかった。
 だが、今日の就任式が、将来どういう深い意義をもつものか、誰も深くは理解できなかった。ただ、不動の安心感といったものが、それぞれの胸のうちに湧き上がって定着したことは事実である。戸田との師弟の真の絆は、戦後、初めて、この時に確たるものとなったといってよい。
 この日を期して、不純分子は、ことごとく自然に洗い流され、戸田を中心核とした、教団の独創的にして純粋な団結が、その姿となって現れたのである。つまり、かつて類例をみない妙法の教団の誕生であった。
 最後の閉会の辞は、新理事の大馬勝三である。人一倍、感激癖のある大馬は、怒鳴るように今日の感動を語り、折伏の躍進を誓って終わった。彼は、自分が、何をどう話しているのかも覚えていなかった。
28  「学会歌指揮、会長・戸田先生!」
 司会者・原山理事は、力を込めて叫んだ。
 幾たびも戸田が出てくる。戸田自身の陣頭指揮が、まさしく必要であった。それに皆も、戸田の元気な姿を、いつまでも見つめ、戸田の心と一体になりたかったにちがいない。
 戸田は、ニコニコ笑いながら、上衣を脱ぎ、太鼓のバチを取った。扇子の用意がなかったのである。
 「指揮は気迫です。われわれは戦いに臨み、何を持って指揮を執ってもかまわない。高杉晋作という維新の志士は愉快な男で、三味線を弾きながら奇兵隊を指揮した。三味線より、このバチの方が、なんぼいいかわからん」
 彼は、「さあ、始めるぞ!」と、右手を、ぐんと高く上げた。
  花が一夜に 散るごとく
  俺も散りたや 旗風に
  …………………………(作詞・奥野椰子夫)
 歌は、会場を揺るがさんばかりの大合唱となった。その民衆の歌声は、街の夕空へと、あふれていったのである。
 皆、声を限りに歌った。手が赤くなるまで手拍子を打ちながら――。
 司会者は、式の終了を宣した。長い時間の就任式であった。優に数時間にわたっていよう。次の祝賀会までは、暫時、休憩である。
 多くの人びとが、外へ出ていく。その出口で、それぞれの履物を履くのに手間取っている。そこには、チビた下駄がある。パクパクと、つま先の開いた靴もある。汚れたズック靴がある。足跡の濃い、わら草履まであった。履物が、一つの生活水準を語るとするならば、この日集まった人びとの生活状態は、はなはだ貧しかったといわなければならない。
 しかし、その人たちの喜びに輝いた顔は、巨万の富をもっ人よりも健気で、幸福を確信しているようにさえ見えるのであった。
 祝賀会の用意が整った。本堂から庫裏にかけて、折り詰めと、飲み物が置かれている。はや夕方になって、電灯がつき始めた。
 当初、祝賀会参加の有志は、三百五十人と予定されていた。それが、就任式が近づくにつれ、参加入員は膨張し、二日前には四百人分の折り詰めを追加注文しなければならなかった。仕出屋が面食らったのは当然である。嬉しい悲鳴をあげ、丸二日徹夜して、七百五十人分の注文をこなしたという。
 戸田は、嬉しかった。心から感謝したのである。多数の人びとが、喜んで自分の会長就任を祝ってくれている。その心情を思いつつ、これらの人びとが、にぎやかに談笑している光景を見て、彼は、実にうまそうに酒を飲んでいた。
 戸田は、いつか自然に思い浮かべていた。
 ――一九三七年(昭和十二年)に、創価教育学会が本格的に発足した当時、会員は百人ほどであり、ほとんどが教育関係者であった。
29  しかし、今、会長の牧口は既に亡く、その当時の門下生の生存者も四散してしまっている。戸田は、今、この席に誰かいないかと見回した時、一人、彼自身を発見するだけであった。わずか十四年を経ていたにすぎない。彼は、この間の激変を、今さらのように思い、戦時中の弾圧の深手を思った。
 今、創価学会は、この深手をものともせず、見事に、はつらつと蘇生したのだ。
 眼前にする、この大勢の会員は、あの当時の一握りの教育者たちではない。あらゆる階層の庶民たちである。何よりも、まず根本的に異なるところは、これらの人びとは、正真正銘の地涌の菩薩であるということだ。大折伏を敢行するであろう仏の軍勢である。
 戸田は、この盛大な祝賀会を、ひと目、思師・牧口常三郎に見てもらいたかった。その喜びの姿を思う時、口惜しさは、今さらのように胸に迫るのであった。
 会場では、歌が、次から次へと続いていく。やがて、戸田の周囲に元気な人びとが集まってきた。
 誰かが叫んだ。
 「それ!」
 歓声とともに、戸田の体は宙に舞い上がった。胴上げが始まったのである。
 山本伸一は、とっさに人の渦に飛び込んだ。戸田の体を案じたのである。彼は、戸田の胴体の中心部の下に、素早くもぐり込んでいた。そして、胴上げされて落ちてくる戸田の体を、そのたびに支えていたのである。
 とっさの劇が終わった。側に原山幸一がいる。二人の目が合った。原山は、にっこり笑って、伸一にささやいた。
 「後は、君が健在であってくれさえすれば、それでいいんだよ」
 会場は、怒濡のような歓喜に移っていった。
30  この五月三日は、また、憲法−記念日であった。一九四七年(昭和二十三年)五月三日、「平和憲法」が施行されて、五年目の記念日である。
 四月十一日に解任された連合国軍最高司令官マッカーサーの後任であるリッジウェーは、この日のために、五月一日に声明を発表している。
 彼は、声明のなかで、憲法が施行されてから四年間で、日本は「希望に満ちた平和な復興状態しを実現したと評価し、続いて次のように述べている。
 「このような状態からして日本は正式講和条約を結ぶ準備ができ上っていると一般に認められるようになり、米国政府が目下他の関係各国政府と打合せて、この目的のために積極的に話を進めているから、その結実は確約されている。その時に備えるため、つまり日本が国内問題処理の全権を回復する日に備えるため、現在の占領政策すなわち日本政府の責任遂行能力に比例しつつ、占領軍当局の管理を緩和してゆくという現在の政策は今後ますます推し進められるであろう」
 韓・朝鮮半島では、激戦が続いている。勝敗の帰趨は不明のまま、第三次世界大戦へと拡大しかねない危機を、不気味にはらんでいた。国連軍の、完全な前線補給基地となった日本――これに対して、一日も早く講和条約を結ぶ必要に迫られていたアメリカは、同時に日本占領の戦力のすべてを、半島の戦線にも向けなければならず、占領軍撤退後の善後策を推進していた。
 講和問題は、今や、「単独講和」か「全面講和」かに国論を二分し、政治的混乱が表面化し始めていたのである。
 この三日、皇居前広場では、天皇、皇后出席のもとに、約二万人の国民の参加によって、憲法記念日の式典が挙行されていた。
 総評系の組合員は、「全面講和」を叫び、五月一日のメーデーに皇居前広場の使用が禁止されたのを不満として、五千人の警官の前でデモを敢行し、総評幹部三十七人が検挙されている。
 同じ日、向島の常泉寺では、戸田城聖の創価学会第二代会長就任式の式典が、「霊山の一会」のごとき荘厳さと、歓喜とをもって行われ、未来へ広宣流布の実現が宣言されたのである。
 戸田は、後日、この日を記念して、幾人かの弟子に当日の写真を贈っている。伸一への写真の裏には、次のように記されてあった。
  現在も
    未来も共に
      苦楽をば
    分けあう縁
      不思議なるかな

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