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日蓮大聖人・池田大作

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秋霜  

小説「人間革命」3-4巻 (池田大作全集第145巻)

前後
2  あくる朝、戸田は、伸一の体を心配し、伸一もまた、戸田の体を心配して、昨夜のことを思いながら、あいさつを交わした。
 「伸、よく休めたか。これ以上、痩せてはいかんよ」
 「はい、ありがとうございます。どうか、先生こそ少しお休みになってください。お願いいたします」
 伸一は、胸のポケットから歌の紙片を取り出して、戸田の前に差し出した。
 戸田は、近視の目を、紙にすりつけんばかりにして、それを見た。
 「うん、わかっている」
 一瞬、戸田の表情は厳しくなり、また、すぐ笑顔になって伸一を見た。
 四面に楚歌を聞き続けていた戸田には、今、この健気な一首の歌が、言い知れぬ喜悦をもたらしたのであろう。彼は、何度も読み返しながら、瞬間、四面の楚歌を忘れていた。
 「よし、ぼくも歌をあげよう。返し歌だ。紙はないか……。さて……」
 戸田は、ぺンを手にすると、しばらく思いをめぐらしていたが、さっと、勢いよく認めた。
  幾度いくたび
     戦の庭に
       起てる身の
     捨てず持つは
       君の太刀ぞよ
 「これをあげよう」
 伸一は、両手を差し出して、その紙片を受け取ろうとした。だが戸田は、その紙片を渡そうとしなかった。
 「待て、待て、もう一首あるんだ」
 戸田はぺンを握ったまま、しばし動かなかった。やがて手を動かしたと思うと、さらさらと、もう一首の歌を書いた。
  色は褪せ
    力は抜けし
      吾が王者
    死すとも残すは
      君が冠
 「さあ、これで、いいだろう」
 戸田の顔は、喜んでいるようにも見え、寂しそうにも見えた。そして、二首の歌を、さりげなく伸一に与えたのである。伸一は、それを読むと、わななくような深い感動が、全身に走るのを覚えた。
 ″この私が、果たして先生の太刀なのであろうか。この私が、先生の冠に値するのだろうか。先生は、ご自分のことも、私の何から何までも、わかっていてくださるのだ……″
 伸一は眉を上げた。戸田の深い慈愛は、この時、伸一の生命を永遠に貫いたのである。異体は同心となり、一つの偉大な生命に溶けて、久遠からの実在の姿を現したのである。
 戸田は、にっこり笑って無言であった。
 「ありがとうございます」
 伸一は、礼儀正しく、これだけ言うのが精いっぱいだった。必死の決意で、戸田のメガネの奥の瞳を、はっきりと見た。瞳は鋭く、また温かく、澄みきって輝いている。
3  創価学会の活動は、戸田が理事長を辞任しても、表面的には、さほど鈍りもせず、進んでいるように見えた。月、水、金の講義も、代理の幹部によって続いていた。
 座談会も、日程にしたがって、いつものように開催されていた。戸田も、わずかな時間を見つけては、それらの座談会に姿を現した。折伏も、一応は、着実に進んでいた。
 だが、近年、急激に増加した、数千人の学会員には、さまざまな人がいた。なかには、信用組合となんらかの関係をもっていて、いざ自分の利害がからんでくると、公私を混同して、学会の組織を乱す行動に出る者もいた。
 彼らは、周囲の学会員を扇動し、組織を利用し、逆に学会に対して、脅迫がましい態度までとるようになった。担当の幹部たちは、信心の純粋性を強く訴え、それらの扇動者と戦って、組織を守り抜かねばならなかった。
 伊豆のある町に、一人の学会員がいた。彼は、東光建設信用組合の出資者の一人であったが、出資したあとに学会を知り、入会した初信者であった。
 彼は、信用組合の業務停止を知ると、強硬な態度をとり、弁護士まで差し向けてきた。そして、埒が明かないとみると、その地方の学会員を誘い込み、戸田攻撃の火の手を上げたのである。
 その町の六十世帯ばかりの素朴な会員は、「学会に騙されるな」という扇動に、わけもなくのってしまった。いつしか彼らは、皆、脱会に傾いていった。その町の組織の中心者であった、飯田うめと、山西きよは、困り果てて学会本部に報告してきた。
 報告を受けると、担当幹部の清原かつは、即座に現地に飛んで行った。素早い行動力である。清原は、まず座談会を開いた。
 飯田うめと、姪の山西きよは、その町で小さな居酒屋を営んでいた。
 この方面には、ほかに適当な会場もなかったので、会合というと、喜んで店を会場に提供していた。
 清原かつが行った夜の座談会も、この会場で行われた。急な連絡であったが、ほとんどの学会員が集まってきた。清原が見たこともない顔も、数多くあった。不信からくる、沈滞した、よどんだ空気を、清原は、早くも察知した。
 猜疑の眼差しが、あちとちに光っていた。
 清原は、意気込んで、歯切れのいい口調で言い始めた。
 「皆さん、今、皆さんが何を考えているか、よくわかっています。しかし、今、考えていることが、大聖人様の仏法から見て、間違っていたとしたら、どうなるでしょう。私は、それが、いちばん心配なんです。仏法は厳しいがゆえに、信心の根本を誤ったとしたら、その人は幸福になれる権利を、むざむざ捨ててしまうことになるんです」
 人びとは、じっと口をつぐんで聞いている。清原が呼びかけても、いつもと違って、応える者もない。清原の話は、激越になってきた。
 そのうちに、腹を立てたジャンパー姿の一人の男が、しゃべりだした。
 「私らは、信心をやめるというんじゃない。信心なんだから、そりゃ、やりますさ。ただ、創価学会の世話になりたくないというだけだ。誰だって、騙されたくないからね」
 「何を言うんです。いつ、創価学会が、あなた方を騙しました。言ってごらんなさい!」
 清原は、小さい体を伸び上がらせて、声を高めて言った。
 そこでまた、信用組合の話になり、組合の専務理事である戸田城聖に対する非難が、そのまま創価学会批判として蒸し返された。事業の問題と信仰との混同は、頑なになった彼らの頭から、なかなか抜けなかった。
 表面上の常識から見ると、これらの曲解もやむを得なかったかもしれない。だが、清原は条理を尽くして語っていった。
 営利事業の成否と信仰の正邪とは、全然、別の次元のことである。大聖人の仏法を、最も純粋に実践している唯一の教団を、誤って批判することは、仏法上の誹謗となってしまう。
 さらに、彼女は、切々として、戸田城聖の人格を説き、こう訴えた。
 「戸田先生の事業上の失敗は、決して創価学会を傷つけてはいません。組合に関係のある人が、強硬な交渉をするのは勝手ですし、謗法ではありませんが、組合にはなんの関係もない皆さんが、学会から離れるということは、唯一の正しい信心実践の軌道から脱線することです。ひとたび脱線したとしたら、幸福街道を驀進できないではありませんか」
 彼女はまた、さまざまな実例をあげて、質問の一つ一つに、懇切な、真剣な指導をしたが、″信心はやめない。自分たちだけで、また新しい講をつくって信心をやっていく″という、彼らの頑迷な決心を翻すまでにはいたらなかった。
 孤軍奮闘した清原かつは、情けない思いに駆られた。彼女は、最後に、こう言い切った。
 「仏法は勝負と言います。私の、今、申し上げたことが正しいかどうか、あなた方の考えが正しいかどうか、いずれ必ず、はっきりとした現証として現れるでしょう。もし、私の考えが間違っていたということになったら、私と飯田さんは、この町を逆立ちして歩いてみせます!」
 それでもなお、人びとの顔から冷笑は消えなかった。
 当然のことながら、清原かつが逆立ちして歩く必要は、全くなかった。しかし、この時、飯田うめと、山西きよの二人を除いて、残念なことに、この町のすべての会員は、学会と決別してしまった。
 一年、二年、三年、……残った二人の婦人は、またも第一歩から弘教を開始した。いや、始めざるを得なかったのである。そして、この地方の学会の大発展の礎となっていった。
 この「逆立ち発言」から十年余りたったころ、ある日、飯田うめは、近くの駅で、脱会の首謀者に、偶然、会った。彼は、すっかり老い衰え、体も不自由なようであった。二人は、電車を待つ間、駅のベンチに並んで腰かけ、昔の話をし合った。老人の話は、愚痴に終始し、身の不運を嘆くばかりであった。
 やがて飯田が、この一九五〇年(昭和二十五年)秋の夜のことを話しだすと、彼の頭にも、当時の記憶は歴然と残っていた。そして、わびしく杖をもてあそびながら言うのだった。
 「あれは、やっぱりわしらが悪かった。完全に負けてしまったよ」
 飯田は、その人の人生の顛末を知り、仏法の厳粛な因果を、あらためて痛感するのであった。
 これは、一地方の極めてまれな出来事であったが、東京でも、またこれと似た動きが、一部にはあったのである。
4  東京の木場で名の通った、堀部十郎という材木商がいた。戦前から、ある教団の大幹部として、なかなか幅をきかしていたのだが、戦後の折伏で、四七年(同二十二年)に入会した。恰幅がよく、愛想のよい、世故にたけた男であった。
 堀部は、初めは内心の慢心と、少々の財力を鼻にかけて、学会の指導に反発していた。その結果が、功徳ではなく、営業の不振であったのは当然のことであった。
 彼は、いつも担当の幹部に食ってかかっていた。
 だが、だんだんに仏法の厳しさを教えられ、翻然として素直に実践し始めた。果たして彼の事業も、その後、隆盛に向かった。
 堀部は、それを喜んではいたものの、かつて他教団の幹部であったことが忘れられなかった。周囲の貧しい学会員を軽蔑し、慢心と不遜の念をいだいていた。
 戸田城聖の厳愛は、それを見抜き、堀部に対しては、ことに厳しくならざるを得なかった。ある時、戸田は、彼を激しい口調で叱った。
 「君のような者に、この大切な御本尊をお守りする資格はない。さっさと、お返ししなさい」
 堀部は、戸田の叱時が身にこたえ、表面は従順さを装い続けた。そして、幹部への登用を望みつつ、その野心を隠していたらしい。信心は、いつしか堕落してしまった。
 五〇年(同二十五年)秋、戸田に対する一部の批判は、堀部の野心をあおった。彼は、不平分子と語らい、数十世帯をまとめて、戸田と対決しようと、講を結成し、その講頭に収まった。
 堀部は、思った。
 ″この信心は立派だから、信心は絶対にやめない。創価学会も日蓮正宗の一つの講ではないか。ならば、われわれの講も同等の講ではないか。もっと自由に、気楽に、楽しく信心をやっていこうではないか″
 彼の屁理屈と、さまざまな策動は、すべて戸田城聖への反逆心から出た、対抗意識以外の何ものでもなかった。
 創価学会の、広宣流布への尊い使命を知る由もなかった、この堀部の行動は、取りも直さず、日蓮大聖人への反逆であった。そのことは、わずか数年で明確になったのである。
 三年もたたないうちに、堀部の材木屋は倒産したのだ。倒産ということだけならば、さほど珍しいことでもないのだが、木場の伝統から見る時、それまでにない倒産の仕方であった。
 木材業者の激しい浮沈は、木場では珍しいことではなく、七転び八起きが当然のこととされている。そのためか、江戸時代から、木場では一人が倒産すると、大勢の同業者が、力を合わせて守り立て、なんとかして再起させようとする相互扶助の知恵が生んだ伝統が、戦後も残っていた。
 ところが、堀部の倒産は、木場の人びとが不思議がるほど、こうした伝統から全く見放された、悲惨な結末であったようだ。堀部の窮状を見ても、誰一人、木場の仲間で、救援の手を差し伸べる者はなかった。これこそ伝統にない、冷酷な倒産といわなければならない。仏法でいえば、謗法のゆえに、諸天善神が全く見捨てた姿ではなかろうか。
 堀部は、やがて木場を引き払わざるを得なくなった。そして、講の仲間たちからも締め出された。かっての木場の名門の主人は、失意のうちに、この世を去っていったのである。
 当時、彼に勧誘されて、危うく堀部の講に入るところを、やっと踏みとどまった一部の学会員は、後々まで、冷や汗をかく思いで、この事件を語り草にした。
5  戸田城聖は、一九五〇年(昭和二十五年)の十月末、総本山大石寺を訪れた。彼は宿坊で、多くの学会員と懇談しながら、丑寅勤行を待っていた。
 定刻、客殿で丑寅勤行が終了すると、彼は、一同から離れて宝蔵の前に向かった。
 深夜の宝蔵は、杉木立の老樹にすっぽり包まれ、秋の冷気が漂い、静まり返っている。戸田の姿には、荘厳な峻烈さがみなぎっていた。
 戸田は、つかつかと石畳を踏んで進んだ。そして、石畳の上に端座した。目を上げると、数段の石段の上に、土蔵造りの宝蔵の、厚い扉が見える。
 大御本尊が安置された宝蔵の前で、戸田は、静かに唱題を始めた。唱題の声は高くも低くもなく、極めて平静でありながら、一つ一つの題目には、鋼のような気迫が込められて、静寂に沈んだ深夜の空気を刻むように響いた。
 富士の山は、雪を冠り、冬の近いことを思わせる山の冷気である。憔悴した戸田の体には、石畳の冷たい硬さとともに、耐えがたいものであったにちがいない。
 しかし、彼は、足のしびれも、皮膚を刺すような寒さも、何も感じなかった。今、彼は、ひたすらに「大荘厳懺悔」の唱題を続けていた。彼は、額にうっすらと汗さえかいていた。
 彼の脳裏には、終戦後の一切の事件が、次々と映っては消えていった。さらに、彼の現在の姿も、鮮明に、如実に浮かび上がった。彼は、わが身の謗法を自ら断罪したのである。
6  ″戦後五年の月日が流れてしまった。学会は、まだ盤石の基礎から、程遠いところにある。なぜであろう。
 私は、昭和二十一年(一九四六年)正月、総本山の坊で四人の幹部を相手に、法華経の講義から始めた。
 それというのも、戦時中の、あの弾圧で、教学の未熟さから、同志の退転という煮え湯をのまされたからだ。法華経の講義をもって、強い信心の骨格をつくろうという、私の方針が間違っていたとは、どうしても思えない。方針は正しかったが、大聖人の仏法を理解させることにおいて、私は誤りを犯したようだ。
 大聖人の仏法の根本義を明かした「御義口伝」をもとにして講義したつもりであったが、受講者は、なかなか理解しなかった。そこで天台の『摩訶止観』の精密な論理を借りて話すと、よくわかる。いきおい受講者が理解したものは、大聖人の法華経ではなくて、いつの間にか天台流の臭味のある法華経になってしまったのだ。
 では、理解力の浅い弟子たちの罪なのであろうか。いや、教えた者、私の罪にほかならない。私が、大聖人のお叱りを受けるのは、当然すぎるほどの道理だ。なんということを、してしまったのだろう……。
 戸田は、唱題しながら、ひれ伏して、お詫びしなければならなかった。
 初代会長・牧口常三郎は、大聖人の仏法を、現代の人びとに理解させるために、価値論から誘引した。価値論の哲学的限界は、無量無辺の大聖人の仏法を最高価値として位置づけたものの、結果として、一つの枠をはめることになったところにあった。大聖人の仏法は、価値論の有無に関係なく、厳然として、無始無終の宇宙に遍満するところの妙法を、説き明かしたものであるからだ。
 その後を継いだ戸田城聖は、ひとまず価値論を捨てて、大聖人の仏法それ自体を理解させようと願った。しかし、現代の科学的知識を学問の基礎とすることに慣らされてきた学会員たちにとっては、大聖人の仏法が、超論理的なものであることを、なかなか理解できなかったのである。
 戸田は、そのために、法華経の優れた解説書であった『摩訶止観』の精密な論理的追究を借りて捕足しようとした。ところが、人びとは、この補足部分を理解するのが精いっぱいであった。ひとえに機根の未熟のためである。戸田が、一身にその罰を受けて、今、翻然と悟ったものは、久遠の法理に基づく「御義口伝」に回帰することであった。
 戸田城聖は、唱題しながら、なお厳しく自らを断罪し続けた。
 ″この五年間、私は、何をしたのだろうか。敗戦直後、占領軍とともに、キリスト教が怒濤のように日本列島に上陸したが、深く根を下ろすことがなかった。既成宗教は、農地改革によって広大な寺領を失い、息も絶え絶えである。一方、新宗教は、戦後社会の混乱と、人びとの不安に乗じて、勢力を伸ばしてきた。
 許しがたいことは、誤った教えを弘め、多くの人びとを、人生の迷路に追いやっている現実があることだ。こうした教団は、根拠のない病気治しをうたい文句にして信者を集めたり、道理も何もない因縁話を持ち出し、不幸に悩む人びとの心に、追い打ちをかけるように不安感を増幅させ、布施を募ったりしている。
 いずれの教団も、結局は、信者からの金集めに狂奔し、人びとの苦しみを解決しようとするものではない。そのような宗教が、得意顔で横行している。これは果たして誰の罪であろうか″
 戸田城聖は、わが心に問うた時、宝蔵の前で慙愧の思いに身を震わせた。
 ″敗戦後の不幸のどん底にいる民衆を、誤った宗教の手に、かくも多く委ねてしまったのは、誰の罪でもない。私の罪だ!″
 戸田は、創価学会の、この五年間の活動が、まことに不十分であったことを認めなければならなかった。そして、組織体として弱体であったことを思った時、会長不在のまま、六年の歳月が流れてしまったことを、彼の責任として、考えないわけにはいかなかった。
 ″恩師・牧口先生の七回忌が目前に来ている。しかも、現在の自分は、苦悩の底に沈んでしまった。
 先生亡き後、会長就任を、心のどこかで避けようとしてきた自分、それでいて大使命だけは自覚してきた自分、なんという矛盾に満ちた姿であったことだろう。一寸延ばしに延ばしてきたのは、会長就任という容易ならぬ重責を予見してのことであったが、その臆する心のゆえに、かくも多くの不幸な民衆を、誤った宗教に委ねてしまった。まさに、その罪、万死に値するかもしれぬ……″
 戸田城聖は、唱題を時に途切らせながら、底知れぬ深い思索のなかで、われとわが身を断罪したのである。
 戸田が、会長就任を避けたのは、もう一つの具体的な理由があった。
 牧口会長時代から、創価学会の経済的負担は、ことごとく彼一人で引き受けてきた。戦後の再建に身を挺した時も、彼はまず、経済的基礎の確立を急ぎ、組織体としての躍進を第二として考えていた。
 彼は、事業家としての経験から、資本主義社会においては、経済力の充実がない限り、広宣流布という大業も、途中で破綻することを恐れたのである。
 今、彼は、一手段、方法にすぎない経済の問題を、宗教革命という一切の根本問題よりも先行させて考えていた錯誤を、感じ始めていた。つまり経済的成功を左右するものもまた、広宣流布という使命感の自覚いかんによることを悟ったのである。
 彼の己心の戦いは、この時、壮烈を極めた。そして彼は、決意したのである。
 ″いかなる苦難が、いよいよ重なろうと、これを乗り切らねばならぬ。もはや、わが身一つのためではない。わが使命達成のためである。日蓮大聖人の金言のことごとくを、断じて虚妄にしてはならないのだ。
 大御本尊様、万死に値する、この戸田城聖に、もしも、その資格があるならば、何とぞお許しください″
 彼は、宝蔵の扉に向かって、渾身の祈りを込めて唱題を続けていた。ふと、彼の耳には、小鳥のさえずりが聞こえ始めた。冷気のなかで、東の空は白みかけていた。
7  戸田城聖には、多くの敵もあったが、また、それ以上に多くの知己があった。信仰の面を別にしても、この人間的魅力にあふれた人物を信頼し、傾倒する人びとは多かった。
 彼は、少年時代、青年時代、戦前の事業家時代と、そのどの時代にも、深い友情で結ばれた友人をつくってきた。彼ほど友愛の絆を結んだ人も、まれである。
 このような多くの知己のなかで、彼の事業の致命的挫折を伝え聞いて、心を痛めながら気遣う人びとがいた。そして、秋も半ばのころ、彼の再起のために、戦前からの一、二の知己が、信用組合とは全然別の新会社の設立を、戸田に勧めた。
 戸田は、既に事業の第一線に立つことを断念し、信心一筋に生きる決意は固かったものの、経済的基盤である事業を断念するわけにはいかなかった。
 彼は、新会社の最高顧問となり、対世間の交渉のためには、知己の一人、元官庁勤めの入江が代表者となる下相談も進めていた。しかし、それも時が時である。当然のことに、これも難航しつつ進めなければならなかった。
 創価学会の活動は、依然として弛むことなく続けられていたが、一般の会員が、戸田の一身上の変化に気づき始めたのは、しばらくたってからであった。
 あの″ピストル事件″の時の千谷ハツも、その一人である。彼女は、座談会に時たま姿を見せる戸田が、いつものように磊落で元気な様子でいるものの、少し、痩せてきていることに気づいた。彼女は初め、それが健康上の理由によるものと思った。
 千谷は、戸田の健康が気になって、婦人部のある幹部に、こっそり尋ねた。その幹部は、今、戸田が、どんなに事業上の打撃で苦しんでいるかを、詳細に話してくれたのだった。それを聞いた千谷は、思わず泣き伏してしまった。
 彼女は、帰る夜道で、一人考えた。
 ″今の今まで気がつかなかった私は、なんと、うかつだったのだろう。先生がそんなに苦労しておられるのに、誰一人、教えてくれなかったとは、なんと情けないことだろう。あんなに先生に、お世話になった私だというのに……″
 彼女は、まず幹部を恨んだ。それから、居ても立ってもいられなくなった。
 ″せめて私にできることは……。そうだ!″
 彼女は、急いで家に帰った。そして、貯金通帳を探した。翌朝、数千円の金を婦人部の幹部に託し、戸田に渡してほしい、と頼んできかなかった。
 千谷ハツの熱心さに、幹部は困り果て、戸田の叱声を覚悟しながらも、恐る恐る千谷の依頼を伝えた。
 「そりゃ、困るなぁ」
 戸田は、つぶやくように言った。
 だが、彼女が悩み、考えた末の純粋な好意を、戸田は、無にすることができなかった。千谷の、誰に言われたのでもない、やむにやまれぬ誠心は、戸田には、痛いほどよくわかっていたからである。
 「もらうわけにはいかん。少しの間、借りておこう」
 戸田は、それを記帳させ、千谷の零細な寄金も、新会社の資金に繰り入れられた。
 「よく言っておきなさい。好意はありがたい。しかし、千谷さんの心配することではないのだ。信心のことだけ心配していればいいのだ、と」
 うわさは、いったん人の口に乗ると、とどまるところを知らぬものだ。
 築地の魚河岸に店をもっ、大馬勝三の妻も、ある会合で、戸田の窮迫を知った。この夫妻は、小児まひの子に悩んで入会し、純真な信心を続けながら、再三に渡り、戸田の指導を受けていた。
 戸田は、その子に絵本を買って与えたり、時には不自由な手を持ってあげて、字を書くことまで教えた。不自由な子は、戸田を見て、いつかキャッキャッと笑いだすまでになっていった。まず、知能の発育がみえ始めたのである。
 わが子に絶望していた親には、どんな名医よりも、戸田の存在が唯一の心の支えであったのだ。夫妻が、戸田の近況を、初めて知った時のショックは強烈であった。彼ら一家の前途が、暗渚たるものにさえ見えたのである。
 わが子の無心な寝顔を見て、大馬夫妻は涙を流した。そして、夫妻は、今さらながら、戸田の慈愛の深さを思い、なんとか応援したくなった。彼は、多少の有価証券をもっていた。大馬勝三は、これを売り払って、戸田への見舞金として、恐る恐る幹部に託した。
 戸田は、大馬夫妻の好意が、誰の強制でもなく、夫妻だけの発意によることを知ると、その見舞金を記帳させ、新会社の運営資金に繰り入れた。
 戸田は、この当時の人びとの純粋な好意を、生涯忘れることが、なかった。彼は、数年たたぬうちに、記帳された金は、すべて元利合計で返済している。
 戸田は、すべての人の好意を受け入れたわけではなかった。金額の高低を問題にしていたのではない。その人たちの心の、純・不純だけを見ていたのである。戸田の心は、そうした人びとの好意に、絶対に甘んじていたわけではない。むしろ、悩んでいたのである。
 彼は、彼の一身の苦難が、学会の組織を傷つけることのないよう、自ら厳しい一線を画していた。まざまな非難には、一瞥もくれなかったが、彼に寄せる好意には、さらに厳しく、わが身を律したのである。
 原山幸一、清原かつ、関久男などの幹部も、戸田の苦境を目にするにつけ、弟子として、心を痛めていた。しかし、彼らは、敗戦後の俸給生活者である。たけのこ生活は底をついていた。
 ところが、戸田の妻が、生活のために働きだしたということを耳にした時、彼らの心痛は、極点に達してしまった。相談の結果、彼らの乏しい収入の一部をそれぞれ割いて、月に一定の額を、戸田の生活費の一部にしていただこうと、一決したのであった。そして彼らは、それを戸田に申し出た。
 その日、戸田は、疲労が重なり、自宅の二階で寝ていた。見舞いの三人の申し出を聞くと、彼は、がばっと布団をはいで、跳ね起きて言った。
 「何を君たちは言うのだ! ぼくが、いつ、そんなことを君たちに教えた。生意気に何を言うか!」
 三人は、いきなり、戸田の激怒にあって、呆気にとられてしまった。
 「君たちが、これほどの愚か者とは思わなかった。ぼくが、どんな苦しい生活になろうと、君たちになんの関係がある。君たちに面倒などみてもらう必要は全くない。一切は御本尊様のなさることだ。それがまだわからんのか。帰れ!」
 戸田は体を横たえると、くるりと背を向けてしまった。
 取り付く島もないとは、このことであろう。うなだれていた三人は、ただ驚いて、顔を見合わせるだけであった。しばらくして彼らは、ひっそりと階段を下りかけた。その時、戸田の声が追いかけてきた。
 「会員たちの面倒は、しっかり頼むぞ。ぼくのことは心配するな。いいな」
 「はい」
 戸田の声には、既に怒気が消えていた。三人は、何がなんだか、わからなかったが、ほっとして帰路に就いた。
 戸田が、原山たちの申し出を断固として拒絶したのは、三人の好意が気に入らなかったためでは決してない。それは、三人でも組織である。三人の発意であったとしても、その発意は人それぞれ度合いが違うのが当然である。一人の発意に、二人が義理で同調する場合もある。あるいは、二人の発意が、もう一人の仲間に強制として働く場合もあろう。
 もしも、三人の提唱から、組織につながる人びとが同調して、戸田個人のために義援金などを募ることにでも発展したら、まさに組織の乱用になってしまう。戸田が恐れたのは、大聖人の仏法を根底とした清浄な組織が、世間的な目的に利用されることであり、破壊されることであった。
 仏法の厳しさを知る戸田は、私情を殺し、一線を画し、組織の厳正を守り通した。彼は、学会という広宣流布のための組織が、彼の命よりも大切なゆえんを知っていた。
 戸田が、千谷や大馬の申し出を受け、三人の申し出を断った理由も、ここにあったともいえよう。所詮、地によって倒れた者は、地によって起つ以外に道はなく、戸田は、彼の信心以外に起つ道のないことを、一瞬も忘れてはいなかった。
8  八月二十三日に始まった戸田の事業の緊急事態は、さまざまな人びとに、実に、いろいろな反応を引き起こしていた。
 戸田に反逆したり、離反したりする者もいれば、遠くで心を痛めている者もいた。また、不即不離の位置を保とうとする者があれば、批判することによって賢しらな顔をする者もあった。あるいは、野心の炎を燃やす者もいたし、落胆して考え込む者や、信心がいやになった者もいた。こうして、普段は全く隠れていた人間模様が、いやでも鮮明に浮かび上がってしまった。
 その反応はすべて、それぞれの信心の厚薄と真贋とを、余すところなく語っていたともいえるであろう。信心は縁に触れて、正直に、そのまま形となって現れざるを得ないからである。
 もちろん、戸田の再起の速やかならんことを願う人も数多くいたが、一切をなげうって献身する人は、幾人もいなかった。
 山本伸一は、入会三年を過ぎていた。苦境に陥った戸田の事業が、戸田と彼との宿命的な絆を、いよいよ日に日に鮮明にしつつ、極めて自然に強靭なものにしていった。
 このような明暗の状態のさなかに、第五固定期総会が、十一月十二日、神田の教育会館で開催されたのである。
 同時に、牧口会長の七回忌の年にもあたるので、この日、午前十時からは、総会に先立って法要が営まれた。法主の水谷日昇を導師として、厳粛に読経・焼香が行われ、牧口門下の代表らの追憶談が続いた。
 最後に、戸田城聖が演台につかつかと進んだ。
 戸田は、この年の夏季講習会にも姿を見せなかったので、地方の会員たちが、その健在を知って、激しい拍手が会場の一角から起こったほどである。
 戸田は、回想にふけるような様子で、話しだした。
 「思い返せば三十年前、私が十九歳、先生が四十八歳の御年の時、先生に初めてお目にかかりました。その後、先生とは、師弟とも親子とも、主従ともつかぬ仲でした。
 四回の先生のご難にお供しました。
 第一回は西町小学校より左遷の時、第二回は三笠小学校より左遷せられた時、第三回は芝の白金小学校より、校長として退職を余儀なくせられた時であります。第四回は昭和十八年(一九四三年)、軍部の圧力により、法のため、巣鴨の拘置所にお供した時であります」
 戸田は、牧口の四回の受難を共に耐え抜いたことを語り、今の彼の受難を考えているかのようであった。
 しかし、語るべき師は、世を去ってしまっている。懐かしさのなかに、今、彼は孤独の受難が身に染みるのであった。
 彼は、語をついで、牧口の畢生の著作『創価教育学体系』全四巻の成立と、その出版について語り、さらに弾圧の嵐の時、警視庁から拘置所へ移る時の師弟の情景を述べていった。そして、受難の生涯を終えた、牧口の最期に話が及んだ時には、場内は静まり返って、厳粛そのものの雰囲気につつまれていた。
 「『牧口は死んだよ』と知らされた時の私の無念さ。一晩中、私は獄舎で泣き明かしましたした」
 憤激の声の響きに、人びとの胸は、鋭い刃物でえぐられる思いであった。
 戸田は、さらに男泣きに泣きながら、厳しい決意を話していった。
 「先生のお葬式はと聞けば、駆けつけたのは、学会の同志四、五人、しかも先生の遺体は、親戚の店で働いていた小林君が巣鴨から背負って帰ったとか……。その時の情けなさ、悔しさ、世が世とはいえ、恩師の死を知って来ぬのか、知らないで来ないのか。
 『よし! この身で、必ず、必ず法要をしてみせるぞ!』と誓った時からの私は、心の底から生きがいを感じました。
 先生の生命は永遠です。先生が今、どこにおられるか。門弟らが、ともどもに唱える題目、先生は、この仏事につながっております。ここは寂光土です。先生の生命は、忽然として、ここに現れております。
 たとえ、仮にも、仮にも先生が地獄の業火を浴びていようとも、今日、必ず、必ず、仏果を得られたものと確信いたします」
 人びとは深い感動を覚えずにはいられなかった。
 正午に、法要は終わった。
 四十分の休憩の後、総会が開始された。会場は、全国から集った会員の熱気につつまれ、盛会である。そして、充実感がみなぎっていた。
 森川理事の開会の辞、原山理事の経過報告と移ったが、そのなかで理事長更迭の報告がなされた時に、場内は一瞬ざわめいた。泉田理事の会計報告のあと、新旧理事長のあいさつとなった。
 戸田は、前理事長としてのあいさつを、平静のなかに、極めて簡明に述べたが、一語一語は感動を呼び、聴衆は万感を胸に秘めて、固唾をのむ思いで聞いていた。
 「当学会は、牧口先生を初代会長として、それ以来、私は初代理事長として、二十年間、この席にあり、ようやくこの会場が、会員によって満ちあふれるにいたりましたことを、深く感謝しております。
 つきましては、牧口先生亡き後、第二代会長も、いまだ空席の折に、私は釈尊の教法たる法華経を、当学会の指導理念としたことが、私の重大なる誤りであったことに気がつきました。
 よって、学会の遠き将来を考え、より偉大なる前進を思い、身の謗法を深く感じて、理事長の席を、二代目の三島君に譲ることを決心いたしました。
 それでは、お前は何をするのかと、お思いになるかもしれませんが、私は自ら深く期するところがあります。
 私は、偉大なる御本尊様をいただき、宗祖・日蓮大聖人様を絶対に信じ奉って、学会の前途をあくまで見守って、命のあらん限り、妙法流布のため、当学会の発展のために、身を俸げる覚悟であります」
 席に戻る戸田の姿を一斉に追った。
 「私は自ら深く期するところがあります」という戸田の言葉を、限りない期待と祈りを込めて胸に納めたのであろう。いや、なんの意味か、さっぱりわからずにいた人も多かったといえるかもしれない。
 続いて、三島新理事長のあいさつ、新理事紹介、体験発表と進み、特別講演として水谷日昇ら、四人の僧侶が壇上に立った。
 総会は、既に午後三時になろうとしていた。
 ここでまた体験発表に移り、清原理事の「折伏法に就いて」と題する熱弁をはさみ、再び五人の体験発表が続いた。百の観念の理論より、一つの事実の生活体験を、どれほど重要視していたかがうかがえるであろう。
 次に、三島理事長の講演となり、最後に「戸田先生講演」として、戸田は三たび演壇に立った。極めて短い講演であったが、ここでは、彼の使命とする「仏勅」について語っている。
 「広宣流布は、仏意であり、仏勅であります。われわれ凡夫の力をもってして、これを左右することなど、絶対にできないのでありまして、仏意にあらずんば、絶対に不可能であります」
 彼は、広宣流布の実現が、末代のわれわれへの仏勅であることを明らかにし、これこそ重大使命であるとして、次のように結んで言った。
 「たとえ、いかなる大難に遭おうとも、ひとたび題目を唱えたならば、水を飲み、草の根を食み、そのために死ぬる日があろうとも、命のあらん限り、諸君と共々に、広宣流布をめざして邁進いたしたい。これこそ、私の唯一無上の願いであります」
 広宣流布という仏勅を、自らの使命とすることが、果たして仏意にかなうことであるかどうかが、今の彼の思い悩む問題であったのだろう。そのためには、動かすことのできない明らかな現証を、彼はひたすらに待ち望んでいたのである。
 曇天の秋の日曜、第五回総会は、ともかく成功裏に午後四時四十分に終わった。
9  総会は、確かに無事平穏に終わったが、戸田城聖の苦闘は、なおも続いた。また、山本伸一も東奔西走の連日であった。秋は急いで冬に向かっていく。内も外も木枯らしが吹いていたが、戸田は、伸一に向かうと、しばしば口にする言葉があった。
 「伸、仏法は勝負だ。男らしく、命のある限り、戦い切ってみようよ。生命は永遠だ。その証拠が、必ず何かの形で今世に現れるだろう」
 そして、わずかな暇にも、しみじみと学会の将来と針路を語り、万が一、彼の身に災難が襲ったとしても、その遺業は必ず伸一が継ぐべきであると、その実現を、懇々と訴えるのであった。
 十一月末の、みぞれの降る夕べ、戸田は大蔵省から帰ってくると、事務所のイスにどっかと腰を下ろし、それまで一人待っていた伸一に、笑いながら言うのであった。
 「世の中は、まったく寒いなぁ」
 一日一日が決戦の連続である。緊迫した日々のなかで、伸一が、いちばん困ったことは、着替えのシャツもなく、靴は破れ、洋服はほとろび、靴下も一足もなくなり、繕ってはかねばならなかったことである。不器用な彼の手にかかっては、糸の通った跡は大波のようにうねっている。
 それよりも、再び巡ってきたこの冬も、オーバーなしで過ごす覚悟をしなければならなかった。給料が、三カ月以上も遅配していたからである。
 しかし、伸一は、たじろぐことはなかった。戸田と苦闘を共に分かつ身の彼は、もはや一歩も退くことはできなかった。
 山本伸一を支えていたものは、この世で出会った戸田の特別の薫育と、日蓮大聖人の仏法だけしかなかった。彼は、そのことをギリギリのところで、繰り返し思った。
 ″仏法真実ならば、因果の理法、これまた厳しくあらねばならぬ。十年後の学会を見よ。二十年後の学会を見よ。そして、わが存在も!″
 時に一九五〇年(昭和二十五年)の晩秋であった。
 山本伸一は、一日一万遍の唱題を発心し、そして、実行しつつ、彼をめぐるすべての苦難に耐えたのである。
 新設の大東商工株式会社も、細々と回転し始めたが、社員は、伸一のほか二、三人にすぎなかった。二十二歳の伸一は、営業部長という重責に置かれた。信用組合の清算事務を急いでいたが、大蔵省の心証は、まだ、必ずしも芳しい状態ではなかった。
 十二月に入ると、戸田は、これらの仕事を二分して、大東商工は新宿区の百人町に移した。戦時中の町工場のレンズ製作所の跡で、がらんとした建物には、既に工作機械はなく、事務所は地肌のままの土間であった。
 山本伸一は、彼の責任において、新会社の建設と発展のために、大胆に、懸命に活動しだしたが、ゼロから始まった仕事である。そこには、新たな苦闘が待っていた。
 この年も終わろうとした時、彼は、この一年を初めて回顧した。日々を振り返ることさえ、忘れていたのである
 思えば、大悪の連続であった。彼は、ただ妙法だけが、この大悪を、やがて大善に変えるであろうことを信じた。
 伸一は、戸田のもとにあって、精いっぱい戦ったこの一年の苦闘を思い返した時、微塵の悔いもないことを発見して、今の自分が、最大の幸福のなかにさえあると深く思った。
 それは、戸田の意中の大使命を、最もよく理解しているのは、彼にほかならぬことを確信していたからである。
 今、その彼にとって最大の願いは、師である戸田が、この苦境を脱して、一日も早く広宣流布の大構想を実現するために、縦横無尽に指揮を執れるようになることであった。そのための苦労であるならば、いかなる苦労も厭うまいと、固く決心したのである。
 十二月の、寒い火の気のない部屋で、彼の心は熱く燃えていた。彼自身の、この一年の日常を思った時、絶対に苦難に流されてはならぬと考えた。
 前年の秋から休学したままになっている「大世学院」のことを、彼は、ふと思い出していた。裸の電灯の下で机を並べた、幾人かの級友たちが、懐かしかった。向学の道の挫折が、今、彼の心に一つの悔いを残していた。
 あの若い院長、高田勇道先生の「政治学」と「政治史」の講義、せめて、あの講義だけでも聴きたいと思った。
 高田は、独自の「理論政治学」を講じようとしたのであろう。基本原理を説きながら、同時に、話は四方八方に自在に飛び、そこには実践的な熱情を帯びた、一種独特の鋭さがあった。
 それは、いつも新鮮な感動が、伸一たちの胸に突き刺さるような講義であった。
 学生たちは、崇敬と憧憬とをいだいて、高田院長の人間的な魅力を敬愛していた。
 その高田は、長年、胸の病で苦しんでいた。休講も多かったが、学生たちは、それを問題にもしなかった。高田の個性と人格が、学院のすべての授業に、戦後の東京では一風変わった学問的雰囲気をつくっていたからである。
 「大世学院」というのは、この高田勇道の創立した学校であった。
 彼は、一九三三年(昭和八年)に、早稲田大学の専門部政治経済科を首席で卒業すると、研究科に籍を置いて学究生活を続けた。
 そして、四三年(同十八年)、中学を中途退学した不遇の生徒たちを集めて、学歴や形式的資格を一切問わず、もつばら有為な実力ある人材の育成を目的とする学校を創立したのであった。実力さえあれば、世間においては有為な人材となるであろうし、また他の専門大学への編入も可能と考えたのである。
 講師は、すべて大学の一流教授をそろえていた。しかし、戦災で焼け出されたりして、「大世学院」の名を掲げての経営が始まったのは、四六年(同二十一年)の春である。
 高田勇道は、病弱を押して、彼の理想とする学院の建設に生命を賭して没頭していった。彼の教育理念は、「人道による世界平和」のための、実力ある人材を育成することにあった。
 「将来の日本は、私の指導し育成した弟子に負わせる。それには、独創的な教育をしなければならない」
 彼は、機会あるごとに口癖のように、その自負と信念を語っていた。
 高田は、向学心に燃えた学生たちに独特の教育をしつつ、彼の学園建設の構想は、「富士短期大学」にまで発展した。
 一学究者は、この実現のために命を削った。富士短大は、文部省の認可が下りて、五一年(同二十六年)四月に開校したが、五月には、彼は世を去っている。四十二歳であった。
 終戦後の荒廃のなかで、未来の青年のために、己の教育理念の実現に殉じた、愛惜すべき一人の傑出した教育者がいたのである。
 没後三年を過ぎ、知友は彼の学究としての業績を讃え、彼が、生前、F・W・メートランドの名著『英国憲法史』を翻訳した草稿をまとめ、刊行した。彼の唯一の遺著である。
10  当時、高田勇道という、非凡な学問的英知と、不撓の情熱を兼備した鮮烈な人格の存在は、山本伸一の強い向学心を満たすに足るものがあった。若い伸一は、どれほどか通学を心に願ったことであろう。
 しかし、大世学院に入学した翌年の四九年(同二十四年)一月から、戸田が経営する日本正学館で働き始め、彼を取り巻く状況は大きく変わっていった。日本正学館での雑誌編集の仕事は多忙を極めた。また、広宣流布に挺身する戸田を支え続けた。
 そのうえ、胸を病んでいた伸一は、微熱の日々が続いていたのである。
 そこに、戸田の事業の挫折が重なったのである。
 社員のほとんどは離散し、本気で戸田を支えようとする社員は、伸一だけであった。四九年(同二十四年)秋ごろには、夜学へ通う時間的余裕はなくなり、やむなく休学せざるを得なかった。
 戸田は、広宣流布のためには、その経済基盤を確保するために、どうしても、自分の事業を軌道に乗せなければならなかった。そして、それには、伸一という柱を失うわけにはいかなかった。
 戸田は、伸一が休学していることは知っていた。向学心に燃えていることも知っていた。できることなら復学させてやりたかった。だが、やむを得ず、伸一に、断腸の思いで、夜学を断念するように頼んだ。
 「君には、本当にすまないが、夜学は断念してもらえないか」
 五〇年(同二十五年)の年頭のことであった。
 そして、この年の秋ごろから、戸田は、日曜日には、伸一を中心に何人かの代表を自宅に呼んでは、御書の講義をするようになっていた。
 伸一は、試練の怒濤のなかで年の瀬を迎えた。彼は、来年、戸田が事業の苦境を乗り越えることができれば、なんとか夜学にも行きたいと思った。彼の向学心は、いかなる状況下にあっても、激しく燃え盛っていたのである。
 伸一は、この年の十二月三十一日の日記に、こう記している。
 「来年は、夜学に再び行きたい。
 来年は、思うように勉強したい。
 来年の、自分の運命は、どう動くか、考えられぬ」
 その伸一の思いは、戸田には痛いほどに伝わった。
 年が明けて、戸田と伸一の苦難に対する戦いが、ひとまず落着の様相を見せ始めたころ、戸田は伸一に向かって言った。
 「伸、心配するな。ぼくが大学の勉強を、みんな教えるからな。待っていてくれたまえ。学校は、ぼくに任しておけ」
 やがて、戸田は、二月になると、伸一をはじめとする青年たちに、御書講義のほか、古今東西の名作といわれる小説をもとに、講義をするようになった。
 さらに、伸一に対する日曜日の戸田の講義は、語学を除いて、政治、経済、法律、歴史、漢文、科学、物理学と、学問百般にわたっての個人教授となった″戸田大学″ともいうべきものであった。そして、日曜日を中心に行われていた、この授業は、会社の始業時間前にも、数年間に渡って、続けられていくことになるのである。
 戸田城聖がいなかったら、山本伸一という人格の形成はなかったであろう。しかしまた、一九五〇年(昭和二十五年)から翌年の初頭にかけて、この苦闘の期間に、年少ではあったが、山本伸一が戸田の側近くにいなかったとしたら、戸田城聖は、おそらく全くの孤絶に陥ったにちがいない。
 戸田と伸一という師弟がつくった、この期間の秘史のなかに、その後の創価学会の、発展と存在との根本的な要因があったといえよう。戸田の会長就任以後の飛躍的な学会の前進と、その没後における急速な躍進も、すべて、その源を尋ねるならば、ひとえに大聖人の仏法の偉大さによることはもちろんであるが、この苦難の歳月の間に、既に決定的な種子の育成がなされていたといえる。
 一見、なんの変哲もない種子は、この時、泥の中に深く植えられたのだが、やがて、それは芽生えて、蕾をもち、刮目すべき開花を待っていた。
 未来のこの開花を、戸田は、この期間に伸一に教え、伸一はそれを信じることができた。それゆえに伸一の心は、戸田の身が万が一、国法にとがめられるようなことがあれば、その身代わりとなって牢獄に入っても悔いない覚悟にまで、高まっていたのである。
 その後も、日曜日の戸田の教授は、着実に、真剣に進められていった。午前、午後と、休息も取らずに、講義が行われることもあった。
 また、毎朝の勉強も、戸田は、疲れた身体も顧みずに、懸命に教え込むのであった。ある時は、疲れきった伸一の方が、朝寝坊してしまい、彼の来るのを、戸田が待ちわびていることすらあった。
 博学な理論家でもあった戸田の講義は、実に明快であった。それは、彼の五十年にわたる人生の蓄積を、すべて余すところなく教えきろうとする、強い決意がにじみ出ているようであった。まるで、″明日にでも自分が死んでいくから、そのために、今、全力を尽くして教えているのだ″といった、遺言の講義のようでもあった。その鋭い名講義に、伸一は感服したのである。教える戸田と、それを全身で受け止めようとする伸一の間には、まさに師弟一体の姿があった。
 また不思議なことだが、この期間に、誰の手も借りることなく、不純な心をいだく学会の幹部は、ことどとく自然に淘汰されていったといってよい。私利私欲のために学会を利用しようとする野心家も、すべて離反し、去っていった。純真な人だけが自然に残り、広宣流布の使命に立つ地涌の戦士の純粋な教団として、わずかの期間に体質を見事に変えていったことは事実である。
 戸田は、遂に競い来た困難の連続に打ち勝ったという実証を示すと同時に、内外に会長就任の機運が熟していることを知った。あとは一潟千里の道程が、はるかに望見されたのである。
 この数カ月の期間、戸田城聖は、まことに絶体絶命の深淵にあった。山本伸一もまた、戸田のもとにあって、その深淵を手探りで進むかのように、苦闘に次ぐ苦闘を重ねてきた。
 しかし、伸一は、その辛労を、自ら勇んで担い、広宣流布の大師匠・戸田城聖に尽くし抜いてきたのである。
 御書には、「一念に億劫の辛労を尽せば本来無作の三身念念に起るなり所謂南無妙法蓮華経は精進行なり」との御文がある。
 ――永劫に重ねるがごとき辛労を、一瞬一瞬に尽くしていくならば、本来、自分の生命に備わっている「無作の三身」すなわち本源的な仏の生命が、瞬間瞬間に起こってくる、との仰せである。
 伸一は、苦境に陥った戸田のもとにあって、「一念に億劫の辛労」を尽くした日々を重ねたのであった。
 戸田は、この直後、その生涯の使命の実現へ、広宣流布の闘将として立ち上がる日を迎えた。伸一もまた、「本来無作の三身念念に起るなり」との御文を、深くわが生命に実感しながら、「南無妙法蓮華経は精進行なり」と自らに言い聞かせ、新しき実践に移っていったのである。
 (第四巻終了)

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