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日蓮大聖人・池田大作

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秋霜  

小説「人間革命」3-4巻 (池田大作全集第145巻)

前後
10  当時、高田勇道という、非凡な学問的英知と、不撓の情熱を兼備した鮮烈な人格の存在は、山本伸一の強い向学心を満たすに足るものがあった。若い伸一は、どれほどか通学を心に願ったことであろう。
 しかし、大世学院に入学した翌年の四九年(同二十四年)一月から、戸田が経営する日本正学館で働き始め、彼を取り巻く状況は大きく変わっていった。日本正学館での雑誌編集の仕事は多忙を極めた。また、広宣流布に挺身する戸田を支え続けた。
 そのうえ、胸を病んでいた伸一は、微熱の日々が続いていたのである。
 そこに、戸田の事業の挫折が重なったのである。
 社員のほとんどは離散し、本気で戸田を支えようとする社員は、伸一だけであった。四九年(同二十四年)秋ごろには、夜学へ通う時間的余裕はなくなり、やむなく休学せざるを得なかった。
 戸田は、広宣流布のためには、その経済基盤を確保するために、どうしても、自分の事業を軌道に乗せなければならなかった。そして、それには、伸一という柱を失うわけにはいかなかった。
 戸田は、伸一が休学していることは知っていた。向学心に燃えていることも知っていた。できることなら復学させてやりたかった。だが、やむを得ず、伸一に、断腸の思いで、夜学を断念するように頼んだ。
 「君には、本当にすまないが、夜学は断念してもらえないか」
 五〇年(同二十五年)の年頭のことであった。
 そして、この年の秋ごろから、戸田は、日曜日には、伸一を中心に何人かの代表を自宅に呼んでは、御書の講義をするようになっていた。
 伸一は、試練の怒濤のなかで年の瀬を迎えた。彼は、来年、戸田が事業の苦境を乗り越えることができれば、なんとか夜学にも行きたいと思った。彼の向学心は、いかなる状況下にあっても、激しく燃え盛っていたのである。
 伸一は、この年の十二月三十一日の日記に、こう記している。
 「来年は、夜学に再び行きたい。
 来年は、思うように勉強したい。
 来年の、自分の運命は、どう動くか、考えられぬ」
 その伸一の思いは、戸田には痛いほどに伝わった。
 年が明けて、戸田と伸一の苦難に対する戦いが、ひとまず落着の様相を見せ始めたころ、戸田は伸一に向かって言った。
 「伸、心配するな。ぼくが大学の勉強を、みんな教えるからな。待っていてくれたまえ。学校は、ぼくに任しておけ」
 やがて、戸田は、二月になると、伸一をはじめとする青年たちに、御書講義のほか、古今東西の名作といわれる小説をもとに、講義をするようになった。
 さらに、伸一に対する日曜日の戸田の講義は、語学を除いて、政治、経済、法律、歴史、漢文、科学、物理学と、学問百般にわたっての個人教授となった″戸田大学″ともいうべきものであった。そして、日曜日を中心に行われていた、この授業は、会社の始業時間前にも、数年間に渡って、続けられていくことになるのである。
 戸田城聖がいなかったら、山本伸一という人格の形成はなかったであろう。しかしまた、一九五〇年(昭和二十五年)から翌年の初頭にかけて、この苦闘の期間に、年少ではあったが、山本伸一が戸田の側近くにいなかったとしたら、戸田城聖は、おそらく全くの孤絶に陥ったにちがいない。
 戸田と伸一という師弟がつくった、この期間の秘史のなかに、その後の創価学会の、発展と存在との根本的な要因があったといえよう。戸田の会長就任以後の飛躍的な学会の前進と、その没後における急速な躍進も、すべて、その源を尋ねるならば、ひとえに大聖人の仏法の偉大さによることはもちろんであるが、この苦難の歳月の間に、既に決定的な種子の育成がなされていたといえる。
 一見、なんの変哲もない種子は、この時、泥の中に深く植えられたのだが、やがて、それは芽生えて、蕾をもち、刮目すべき開花を待っていた。
 未来のこの開花を、戸田は、この期間に伸一に教え、伸一はそれを信じることができた。それゆえに伸一の心は、戸田の身が万が一、国法にとがめられるようなことがあれば、その身代わりとなって牢獄に入っても悔いない覚悟にまで、高まっていたのである。
 その後も、日曜日の戸田の教授は、着実に、真剣に進められていった。午前、午後と、休息も取らずに、講義が行われることもあった。
 また、毎朝の勉強も、戸田は、疲れた身体も顧みずに、懸命に教え込むのであった。ある時は、疲れきった伸一の方が、朝寝坊してしまい、彼の来るのを、戸田が待ちわびていることすらあった。
 博学な理論家でもあった戸田の講義は、実に明快であった。それは、彼の五十年にわたる人生の蓄積を、すべて余すところなく教えきろうとする、強い決意がにじみ出ているようであった。まるで、″明日にでも自分が死んでいくから、そのために、今、全力を尽くして教えているのだ″といった、遺言の講義のようでもあった。その鋭い名講義に、伸一は感服したのである。教える戸田と、それを全身で受け止めようとする伸一の間には、まさに師弟一体の姿があった。
 また不思議なことだが、この期間に、誰の手も借りることなく、不純な心をいだく学会の幹部は、ことどとく自然に淘汰されていったといってよい。私利私欲のために学会を利用しようとする野心家も、すべて離反し、去っていった。純真な人だけが自然に残り、広宣流布の使命に立つ地涌の戦士の純粋な教団として、わずかの期間に体質を見事に変えていったことは事実である。
 戸田は、遂に競い来た困難の連続に打ち勝ったという実証を示すと同時に、内外に会長就任の機運が熟していることを知った。あとは一潟千里の道程が、はるかに望見されたのである。
 この数カ月の期間、戸田城聖は、まことに絶体絶命の深淵にあった。山本伸一もまた、戸田のもとにあって、その深淵を手探りで進むかのように、苦闘に次ぐ苦闘を重ねてきた。
 しかし、伸一は、その辛労を、自ら勇んで担い、広宣流布の大師匠・戸田城聖に尽くし抜いてきたのである。
 御書には、「一念に億劫の辛労を尽せば本来無作の三身念念に起るなり所謂南無妙法蓮華経は精進行なり」との御文がある。
 ――永劫に重ねるがごとき辛労を、一瞬一瞬に尽くしていくならば、本来、自分の生命に備わっている「無作の三身」すなわち本源的な仏の生命が、瞬間瞬間に起こってくる、との仰せである。
 伸一は、苦境に陥った戸田のもとにあって、「一念に億劫の辛労」を尽くした日々を重ねたのであった。
 戸田は、この直後、その生涯の使命の実現へ、広宣流布の闘将として立ち上がる日を迎えた。伸一もまた、「本来無作の三身念念に起るなり」との御文を、深くわが生命に実感しながら、「南無妙法蓮華経は精進行なり」と自らに言い聞かせ、新しき実践に移っていったのである。
 (第四巻終了)

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