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日蓮大聖人・池田大作

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怒濤  

小説「人間革命」3-4巻 (池田大作全集第145巻)

前後
8  一九五〇年(昭和二十五年)六月に、韓・朝鮮半島に勃発した戦争は、既に二カ月を経過していたが、戦線は拡大し、戦火は燃え盛るばかりであった。
 八月四日には、韓・朝鮮半島の軍事力増強のために、日本人義勇兵を米軍に徴集する法案が米国議会に提出された。これに対しマッカーサー国連軍最高司令官は、八月八日、「日本とはまだ講和条約が結ばれておらず、日本はいま、国際管理下におかれている」として、日本人義勇兵の実現には疑問があると述べ、「対日講和を結ぶこと」が先決であると表明した。
 推測するに、日本は連合国軍の占領下にあり、法的には、まだ連合国の敵国であって、敵国から義勇兵を募るなどということは、あり得ないということだったのであろう。
 こうして、義勇兵の話は立ち消えになったが、現実には、アメリカ軍の要請によって、海上保安庁の機雷掃海艇が出動し、死傷者も出しているし、日本の船舶がアメリカ兵の輸送にも携わっている。
 ともあれ、アメリカ軍の防衛基地となった日本は、準臨戦態勢とでもいうべき方向に向かって国内の治安組織を改変し、着実に戦争協力へと移行し始めたのである。
 まず七月下旬、GHQ(連合国軍総司令部)の指示によって、経済安定本部が「特需」(特殊需要)の窓口となって、国内態勢を整備することになった。つまり、アメリカ軍に補給する軍需物資を緊急調達するための、日本における調達機関の役割を担うことになったわけである。
 九月一日、経済安定本部は、朝鮮戦争(韓国戦争)勃発以来二ヵ月余りの八月二十八日までに、特需物資の発注は百四十四億円に達したと発表している。また、五〇年(同二十五年)末までに、特需は少なくとも三百六十億円に上ると予測されていた。
 インフレを収束させ、早急な経済の安定化を図ろうとしたドッジ・ラインの強行で、多くの企業が打撃を受け、経営に苦しんでいた。不況の底であえいでいた日本経済にとって、朝鮮特需は、降って湧いたような、景気回復へのチャンスととらえられた。
 経済人のなかには、″太平洋戦争では吹かなかった「神風」が、今になって吹いた″と欣喜雀躍する者もあった。
 急速な景気回復を表現する「特需景気」などという新造語まで生まれた。
 特需と並んで、輸出も急速に伸びた。五〇年(同二十五年)の輸出総額は、下半期の好況によって八億二千万ドルとなり、前年の五億一千万ドルに比較して、約六割もの増加を示した。
 沈滞の極みにあった各種企業のなかでも、特に鉄鋼、車両、機械、繊維、木材などは、突如として活況を呈し、鉱工業の生産などは、同年十月には戦前の水準を超えるまでに回復している。
 韓・朝鮮半島に戦火が上がって以来、日本経済は未曾有のテンポで回復、成長を遂げていった。この年を境として、わが国の産業は、重化学工業中心に著しい発展を示し、日本の産業構造を大きく転換させていった。
 大きな利潤を上げた企業は、その利益を設備投資に向けて近代化を図り、国際競争力の強化をめざしていった。民間の設備投資総額をみると、四九年(同二十四年)が二千八百八十六億円であったのに対し、五〇年(同二十五年)には、三千八百九十九億円と増加し、五一年(同二十六年)には六千九十九億円と、前年の1.5倍以上に急増している。朝鮮戦争による特需が、日本経済をいかに潤したかがわかる。
 そして、それらの企業が、その後の経済成長の原動力となり、日本経済の基調をなしていったのである。
 しかし、この経済回復は、戦争によるものであった。しかも、それは自国の戦争ではない。日本の企業は、戦火を被ることもなく、犠牲を強いられるとこもなかった。狭い海峡を隔てた隣国での戦争が激化すればするほど、破壊と犠牲が増大すればするほど、日本経済は大きな利益を得ていった。
 わが国の高度経済成長への第一歩は、戦火のもとでの民衆の悲惨を踏み台としていたことを忘れてはならないであろう。
 戦後経済の活力が胎動し始めたこの時期に、戸田城聖は、清算事務に没頭していなければならなかった。もしも信用組合が、あと半年、持ちこたえていたら、あるいは彼は、降って湧いた好況の波で、難事業を好転させることができたかもしれない。
 しかし、それは皮相的な見方にすぎない。戸田城聖には、何よりも彼でなければなし得ない前代未聞の大使命があった。国破れて、彼自身も事業に敗れ、そのなかで広宣流布に一途に邁進する使命が、彼の宿命には種子として植えられていたのである。
 時は巡り来り、今、ようやく、その使命の種子が芽吹いたのである。この芽を枯らすことは、障魔にもできなかった。
 ただ彼に、その本来の使命の自覚を促し、その覚悟に立たせるためには、事業における苛酷な試練を必要としたのである。彼が、経済的挫折に苦しんだのは、「願兼於業」のゆえであったといえようか。この道程において、彼の使命の自覚は、初めて不動のものとなったのである。
 戸田城聖の目に映った朝鮮戦争は、世界動乱の縮図であった。アジアの小さな半島に、北朝鮮軍と国連軍とが対峙し、入り乱れての流血の惨事である。
 彼は、この戦争の悲惨から、隣国の民衆が味わわなければならない塗炭の苦しみを、今、思いやった。
 ――まさに、末法濁悪の世界である。つい五年前まで、日本の民衆も、同じ塗炭の苦しみのなかにあった。今、この戦乱の惨状を知るにつけ、戸田は、戦火に追われ、逃げ惑い、流浪する人びとの姿が頭をよぎった。彼は、一刻も早く東洋に正法を流布しなければならないと、痛感するのであった。
 そして、戸田は、妙法の鏡に照らし、いよいよ日蓮大聖人の仏法が、東洋に広宣流布する瑞相が現れたことを確信せざるを得なかった。
 釈尊の仏法の渡来は、インドから中国、韓・朝鮮半島を経て日本に留まった。大聖人の仏法は、「日は東より出でて西を照す」である。彼は、その「時」が来ていることを、しみじみと思ったのである。

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