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日蓮大聖人・池田大作

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怒濤  

小説「人間革命」3-4巻 (池田大作全集第145巻)

前後
1  一九五〇年(昭和二十五年)八月二十二日という日は、この夏の、いちばん暑い日であった。昼下がりの気温は、都内で三四・二度に上った。
 それでも、夕方、日がかげり、街々の屋根の彼方が夕焼けに染まると、さわやかな風が流れ始める。黄昏の風情は、秋の近いことを知らせていた。人びとが、ほっと息を抜いて、街角で風に吹かれるのを楽しんでいる姿も見られる。
 日本正学館の二階も、ようやく昼の暑熱が消え、開け放した窓から、涼しい風が吹き込んでいたが、明るい電灯の下に集まった社員たちの顔は、沈痛で暗かった。
 戸田城聖を囲んでの全体会議である。社員たちは今、奥村部長から、信用組合の業務は、明二十三日から停止となる旨の話を聞いたところだった。
 こうした事態も、予期しないことではなかった。しかし、それでも一纏の望みをいだいて、ここ数ヶ月、皆、奮闘してきたのである。だが、遂にここまで来てしまったのだ。
 誰もが、言いようのない絶望感に襲われていた。
 前年秋の出版事業の停止、今度の信用組合の業務停止と、たび重なる挫折は、社員たちに深刻な動揺を与えずにはおかなかった。
 彼らは、戸田の顔を、ちらっと見た。豪放な戸田にも、悲痛なまでに憔悴の様子が、ありありとうかがえた。いつもの微笑は頬から消えている。口は固く結ばれて、厚いメガネの奥の目は、心なしか寂しく光っていた。
 戸田は、顔を上げ、いささか、しわがれた声で、はっきりと言葉をかみしめるような調子で話し始めた。
 「今、報告のあった通り、東光建設信用組合は、明日から閉鎖するのやむなきに至った。まことに残念です。一生懸命、働いてくれた諸君も、さぞかし残念に思っていることと思う。責任は、諸君にはない。あくまで、この戸田にある。辛いところを、この戸田のためによく尽くしてくれた。あらためて感謝します」
 戸田は、軽く頭を下げた。女子事務員の一人は、急いでハンカチを目に当てている。万感迫るものが、一人ひとりの胸のなかで波打った。彼らは、それを、じっとこらえていたのである。
 もし、この時、誰かが、「わっ」と泣きだしでもしたら、まだ救われたかもしれない。だが、そうした余裕が許されないほど、緊迫した空気が、その場を支配していた。
 涙というものは、まだ心にゆとりのある時に湧くものらしい。今、この場にいる人びとは、そんなゆとりのある戦いをしてきたわけではなかった。
 去る者は去り、残った者は戸田を信じて、ぎりぎりの努力を傾け、事ここに至ったのである。戦いに悔いはなかったが、敗れた事実に、限りなく無念の思いが、込み上げてきた。沈痛な戸田から視線をそらし、一同は、ただ耳を澄ましていた。
 「今、ぼくは経済戦で敗れたが、断じて、この世で負けたのではない。信心では少しも敗れていない。この五尺の身を、広宣流布の大願に叩きつける覚悟は、今も、これからも、微動だにしないことを、信じてもらって差し支えない。大聖人様の仏法が敗れないかぎり、戸田は、信心では絶対に敗れることはないんです」
 事務所の柱時計は、午後八時三十分を指している。戸田の話は続いていた。
 「信心が敗れないならば、たとえ地獄の苦しみに落ちようが、大聖人様は、必ず救いの手を差し伸べてくださるに決まっている。
 今、ぼくは大聖人様のお叱りを受けているのだろう。仏法の世界に、意味のないことはあり得ない。君たちには、すまない思いだが、自分では、ありがたいことだと思っているんです」
 聞き入る社員たちのなかで、戸田の話を理解できる者は少なかった。ただ、心ある社員は、誰も気づかなかった戸田の苦衷の一端を垣間見る思いがして、かえって揺るぎない信心の灯火を燃え立たせたのである。
 それは、事業の挫折のなかにあっても、なお大聖人のお叱りを全身に受けて戦っている戸田の姿を、ひしひしと感じたからである。
 「事ここに至るまで、いったい、どうしたことか、ずいぶん考えもした。反省もした。初めは、わからなかったが、このごろになって、いよいよはっきり、わかってきたんです。今、それを諸君に話す時期ではないから、言わないが、ありがたいことに、仏法というものは本当に厳しいものだよ。この厳しさがあればこそ、この世のどんな不幸も救われるのだ。
 結局、ぼくは信心では、絶対に敗れてはいないことを、やっと教えていただいたようなものだ。
 そりゃ、今の、ぼくは辛いよ。こんな目にあって平気だと言ったら嘘になる。ここまで苦労を共にしてくれた諸君のことを考えるだけでも、胸が張り裂けるような思いだ。大勢の預金者や出資者に、迷惑をかけなければなら、なくなってしまったことを思うと、実に辛いことだ。
 しかし、それらの一切を、ぼくは一身に受けて立とうと決心しているんです。今までよりも、さらに一層、苦しい、辛い戦いになるだろうが、ぼくは決して卑怯なまねはしたくない。何年かかるかわからないが、必ず完済しようと思っている」
 戸田は、自身の心情を語ると、皆に視線を注いだ。
 社員たちは、真剣な表情で、戸田の顔を見つめていた。
 「これから清算事務に入るわけだが、ぼくの決意を了承してもらいたい。そう簡単に清算できることでもないだろう。今まで以上の努力と誠意で戦うだけだ。また諸君に苦労をかけると思うと、なんとも心苦しく思う。だが、この時こそ、ひとつ頑張ってもらいたい。
 清算ということは、労多くして功少ない仕事だ。債権者の一人ひとりに了解してもらわなければならないが、これが容易な仕事ではないことは、みんな、よく知っての通りだ。しかし、踏み倒すというのでは絶対にない。ただ、しばらく待ってもらわなければ、今はどうにもならんのです。根本の精神は、これだけしかない。こうなっても、なおかつ戸田を信用してくれるか、どうかにかかっているわけだ。
 人間の誠実が、どこまで通じるか、それが戦いのすべてであり、また要諦だ。当面、清算という戦いをやり抜いて、第二段としての再起の工夫もしようと考えている。今の苦労が、やがては大きな実りとなると思う。
 変毒為薬と口では簡単に言うが、よほどの信心と勇気と誠実がなければ、できないことだ。中傷だの、面罵だのが、雲が湧くように起きてこよう。誤解のうえに、曲解が重なるだろう。それを恐れていたら、こちらが自滅するだけだ。
 共に、本当の戦いはこれからだと立ち上がり、敢然と突き進もうではないか」
 戸田の話は、気迫に満ちていた。並々ならぬ決意の告白でもある。この、いささかも衰えていない彼の生命力を見て、心ある社員は一層、喜びを増したのである。
 沈黙した空気が、しばし辺りに張りつめていった。粛然として、誰一人、言葉をはさむ人もいない。
 この時、戸田の硬い表情が消えたと思うと、彼は、戸棚から一升瓶を運ばせた。
 「さあ、みんなで飲もうじゃないか。覚悟が決まれば、それでいいことだ。さあ、遠慮なく飲んでくれ」
 みんなの前に、冷や酒がつがれた。それは、最後の盃とも見えたが、また同時に、苦難に立ち向かう決死の盃とも思えた。さらにまた、幾人かの社員が、生活のために去っていく、別離の盃とも考えられた。
2  東光建設信用組合が、わずかの間に、このような事態に至るまでには、五月ごろから、連日の悪戦苦闘が続いていた。経済界の不況による中小企業へのしわ寄せが、一九五〇年(昭和二十五年)の上半期に極点に達したことが、致命的な原因ではあった。日に日に預金と支払いのバランスが崩れ始めてきたのである。もはや、どうすることもできなかった。
 預金高を増加させるために奔走したり、焦げ付き債権の回収にも努力してみた。さらに、日掛け月掛けの預金面の拡張を図ったりして、ある程度の効果を上げたものの、六月中旬から、預金の払い戻しが急激に増加していった。七月に入ると、取り付け騒ぎも起こりかねない形勢さえ予感されるまでになってしまった。
 戸田城聖は考えた。役員会を招集し、預金高の増大を図る方途を検討もした。しかし、誰一人、戸田と苦衷を分かつ者はなかった。逆に役員たちは、組合が危殆に瀕している現状を知るに及んで、にわかに警戒するだけであった。
 そして、自分たちの預金さえ、それぞれ勝手な理由をつけ、引き出そうとし始める者さえあったのである。
 しばらく日をおいて、戸田は、さらに考えた。
 ″役員首脳の支援が当てにならないとなると、どこか他の優良組合との合併策しかない。これが成功するならば、私も組合も、かなりの不利益を被ったとしても、少なくとも預金者へは迷惑をかけずにすますことができる……″
 彼は、役員会を招集して、合併案を提案した。無能な役員たちは、直接、自分たちに迷惑のかからないことだと知ると、大いに賛成したが、誰一人、その実現に奔走しようとする者はなかった。
 「さすがは戸田さんだ。私は、異存はない。よろしく頼むよ」
 「戸田さんに全権を委任しようじゃないか。万事、お任せしますよ」
 彼らは、内心、ほっとしたのであろう。そして、一切を戸田に一任して、自分たちに危険が及ぶのを、早くも逃れようとした。
 しかし、事は機密を要し、急を要することであった。日一日と形勢は悪化していく。おいそれと合併を承諾してくれるような、余裕のある信用組合もない。堅実な組合であればあるほど、話には乗らなかった。
 事態は火急を要するまでになった。戸田は、さらに考えに考えた。そして、最後の一策で勝負を決するよりほかに、対策はないことに気づいた。
 ″このままで、日一日と過ぎていくならば、監督官庁の大蔵省から業務停止処分を受けることは、目に見えている。それならば、組合として、こちらから他の組合との合併の斡旋を、当局に依頼するしかない″
 時は、既に八月になっていた。だが、人は坂道を転がり始めた時には、なかなかその進路を変えることができないものである。
 東光建設信用組合は、直接、監督官庁である大蔵省へ、組合合併の斡旋を正式に申請したのである。当局からは、さっそく、営業状態を調査に来た。
 戸田は、すべての帳簿や書類を一切、調査員に提出した。二人の調査員は、うず高く積まれた書類に目を通しながら、メモを取っていった。
 二日目の夕方、一通りの調査が完了した時、年輩の一人の調査員は、心痛に耐えぬ面持ちで、戸田に向かって言うのであった。
 「戸田さん、この組合を、いったい、どうなさいます?」
 「どうするといったって、名案もないので、合併をお願いしているんですよ」
 戸田は、無愛想に言った。
 「その合併ですが、難問題ですね。このバランスシートでは……」
 調査員は、首をかしげながら、戸田に同情するような調子で言った。
 「ご苦労なさるだけですね。組合自体に相当な不動産でもあるといいのですが」
 「そんなものはありません。役員の資産提供も考えてみたのですが、まあ、無理なようです。私の責任において、どこかと合併するよりほかに手はないのですよ」
 戸田は、断定的に言った。
 「上司に報告して、私からも、よく頼んでみますが、まず、当てになりますまい。戸田さん、ほかの手段もお考えになってはいかがですか」
 「ほかの手段というと?」
 「………………」
 「組合の解散ですか?」
 「まあ、最後の手段としてですね……」
 調査員は、あくまで冷静であった。戸田は、この時、もし彼自身が調査員であったら、同じことを言ったろうと思った。彼も沈着であったのである。
 役員会は、何度も同じ議題を練った。元高級官僚であった組合理事長も、関係官庁へ幾たびも老躯を運んで、説明と嘆願を繰り返したが、埒が明かなかった。
 このような内情を、世間は既に気づいてでもいるように、相変わらず預金の払い戻しは、急速に増加していた。そして、いくら奔走して資金をかき集めても、もはや支払い停止でもしなければ、どうしようもない窮地に陥ってしまった。
 ちょうどこのとろ、そのような窮状と符合したように、八月二十三日をもって業務を停止せよ、との大蔵大臣命令が届いたのである。
 業務停止処分は、「協同組合による金融事業に関する法律」の第六条に基づいている。その第六条を見ると、「銀行法及び貯蓄銀行法を準用」するとある。銀行法の該当する条文は、次のようになっている。
 「第二十二条主務大臣は銀行の業務又は財産の状況に依り必要と認むるときは業務の停止又は財産の供託を命じ其の他必要なる命令を為すことを得」
 この条文のなかの「銀行」を「信用組合」と置き換えれば、それでよい。国権の発動であった。当然、罰則もある。
 先の法律の第八条には次のようになっている。
 「第八条左の各号に該当する場合には、その違反行為をした信用協同組合の代表者、代理人、使用人その他の従業者を一年以下の懲役又は千円以下の罰金に処する。
 一 第四条の規定に違反したとき。
 二 第六条に、おいて準用する銀行法第十条の規定による業務報告書文は銀行法第十二条の規定による監査書の不実の記載その他の方法により官庁又は公衆をもうしたとき。
 三 銀行法第二十一条の規定による検査に際し、帳簿書類の隠ぺい、不実の申立その他の方法により検査を妨げたとき」
 このように信用組合は、単なる会社ではなかったわけである。一般の会社の閉鎖なら、債権者との交渉の妥結によって、いくらでも穏便にすませることもできよう。だが、信用組合は法律によって、銀行と同等の責住を負わされていた。清算するとしても、監督官庁の許可を、いちいち得なければならない。
 戸田城聖は、困難を極めるであろう清算事務のほかに、心ならずも国法との戦いに入らなければならなくなったのである。
3  ところが、思いもかけなかった事態が、真っ先にやってきた。
 業務を停止した一日目の二十三日――戸田は、山本伸一と連れ立って外出し、昼食を終わって事務所へ戻るところであった。大通りから日本正学館に入る角に来た時、まだ少年である社員の山川が、ただならぬ様子で二人を待っていた。事務所の前に、社旗を立てた車が止まっている。
 「先生、T新聞の記者が、先生に面会したいと言って待っております。留守だと言っても、なかなか帰りません」
 「いいじゃないか。会おう」
 戸田は、無造作に答えて歩きだした。少年は、戸田を引き止めた。
 「先生、だめです。業務停止を知って来たのです。さっき、本社に電話をしていました。″紙面を開けて待っていろ、降版ぎりぎりまで待ってくれ、もう一時間もしたら、必ず記事にまとめて持って行くから″ということなんです」
 戸田は、立ち止まって、伸一の顔を見た。
 「また、やけに早いじゃないか。うるさくなってきたな」
 その日、午後一時半からは、役員会を開くことになっていた。戸田は、懐中時計をズボンのポケットから出して見た。
 伸一は、戸田に話しかけた。
 「先生、私が先に、会うだけ会ってみたいと思います。先生は留守ということで、お待ちになっていてください」
 伸一は、とっさに提案した。
 「では、そうしてくれ。どの程度のことをつかんでやって来たものかわからんが、それが問題だ。こっちばかりしゃべらないで、向こうの話を、よく聞いておいてもらいたい」
 伸一は、山川の先に立って事務所に入った。
 事務所の片隅のテーブルで、三十代と思われる、ベレー帽を被った一人の男が、ザラ紙の原稿用紙に、何やら、せかせかと書き込んでいる。伸一が近寄っていくと、男は顔を上げて、「やぁ」と弾んだ声で、軽く手をあげた。伸一が自己紹介すると、男は名刺を出しながら、組合の責任者に、至急、面会したいというのである。
 伸一は、いよいよ来るべきものが来たと思った。彼は、真剣な眼差しで言った。
 「理事長は、今日は来ません。専務理事も、今、外出中で、帰るのは、相当遅くなると思います。私だけ、今、戻って来たところです。
 山本伸一は、傍らのイスに座って、記者の名刺を見た。T新聞の社会部記者とある。すらっとした体に、目鼻立ちは整っているが、いささか疲れ気味の顔色である。
 「ご用件は?」
 「いや、ちょっと、お宅の組合が業務停止になったことを聞いたものですから、正確な実情を知りたいと思って来たのです。大変ですな、ご同情しますよ。
 ところで、預金者は何人ぐらいですか。被害総額といっては変ですが、お宅の債務はどのくらいの額になりますか」
 伸一は、記者として要を得た質問であると感心してしまった。指導や人との話の在り方の「要」「略」「広」の方程式を、わきまえていると思ったのである。よく戸田が、対話にあって、至急のときは要点を、時間が許されるのであれば概略を、説明の必要があれば広く詳細に、と言っていた指導を思い出したのである。
 ともあれ、記者は焦っている。締め切りの時間に間に合わせようと、やきもきしている。
 伸一は、ここは時間を稼ぎ、よく話し合う必要があると思った。なにしろ問題が問題である。
 「そうですね。相当な額になるとは思いますが、なにしろ、昨日の今日なので、正確なところはさっぱりわかりません」
 「そりゃ、そうでしょう」
 記者は、いかにも、ものわかりのよさそうな振りを見せて、一人で頷きながら、話を続けた。
 「正確なところを知りたいのですが、まあ、概算でも結構です。おおよその見当でも教えてくださいよ」
 「見当は、つかぬことはありませんが、正確なことは、専務理事でなければわかりません」
 「いずれ、正確な数字は、後日、伺うことにして、今のところは、当たらずとも遠からずといったところで結構です」
 「でも、新聞の報道は、正確さが生命ではありませんか」
 真剣な伸一の言葉に、記者は、目をぱちぱちさせて、また時計を見ながら言った。
 「そりゃ、そうです。正確な報道が生命です。しかし、今が今、それが間に合わないとすると、一通りの見当だけでもつけなければなりません。なにしろ、時間に追われている仕事ですからね。どうでしよう、悪いようには書きませんよ」
 「そう願いたいです。お宅は、ずいぶん早かったですね。ほかの社の方は、まだ誰一人、お見えにならないのに……」
 「そこは、蛇の道は蛇ですよ。ある偶然から、わかったんです。他社の連中は、全然、気がついていないでしょう」
 「お宅だけの特ダネですね」
 二人の対話は、こんな調子で進み、時間は刻々と過ぎていった。記者は得意になって、早耳の顛末を語りだしたりした。伸一は、相づちを打ちながら、話を聞いていた。記者は、これまでの幾つものスクープを、かつて新聞記者志望であった伸一に、熱っぽく語っていった。そして、はっと時計を見た時、降版の時間は、もうぎりぎりになっていることを知った。
 「あっ、今日は駄目だな。……ちょっと電話を貸してください」
 記者は、電話で、本社へ記事の間に合わないことを知らせると、がっかりした様子で席に戻って来た。
 伸一は、内心ほっとして、さて、このあとどうしたらよいかと思いをめぐらしていた。
 「山本さん、明日はどうでしょう。私も、いいかげんな記事は書きたくないし、それには専務理事さんから、正確なところをお聞きしたいんですがね」
 それは、威嚇とも、要求とも取れるような調子を含んで聞こえた。伸一は、この時、ともかく誠意をもって当たるべきであると決心した。いや、この姿勢が彼のすべてであったかもしれない。
 「私の方も、いいかげんに書かれては困ります。組合の関係者には、絶対に迷惑はかけぬという自信もあるんです。それで今、真剣に対策を講じている最中です。そこへ新聞記事の影響で、めちゃくちゃにされることが、いちばん心配です。正確な実態をつかんだうえで、書かれるのは致し方ありません。私どもの誠心誠意を、逆に曲げられては困るんです。それを、あなたがわかってくださるなら、正確な資料と、正しい実態を、お話しいたしましょう。そうすれば、間違った世間の噂も封じることになると思いますから」
 「そうです、そうです。しかし、他社には黙っていてくださいよ」
 「承知しました。その代わり、正確な資料に基づいた報道を約束してください」
 「それはもう、安心してください。私も、社会正義に生きる記者と自負しているつもりです。信義を破るようなことはしないつもりです」
 記者は、かなり打ち解けてきたようである。特ダネは、これで手に入ったと、内心ほくそ笑んでいたのかもしれない。伸一は、これでやっと、無茶な報道だけは防ぐことができたと思った。この事務所では、人目につくというので、翌日の午前十一時に、虎ノ門の、ある喫茶店で、戸田を交えて会見することを約束した。
 記者は、それでもなお、なかなか腰を上げず、執拗であった。出入りの人たちの動静や電話に聞き耳を立てたり、職業意識から、何食わぬ顔で神経をとがらせていることが、伸一には、よく感じられた。
 伸一は、信用組合の、そもそもの成立過程などから、戸田城聖という敬愛すべき人物について、真剣に一語ったのである。記者は、非常な好奇心をいだいて帰っていった。
4  翌二十四日の午前十時五十分ごろ、戸田城聖と山本伸一は、T新聞の記者と、虎ノ門の喫茶店の、暗い奥の隅で会見した。午前のことでもあり、客はほとんどいなかった。
 伸一の持参した資料を、記者は、つぶさに身ながら、二、三の質問をした。戸田は、悠然として、悪びれるところが、いささかもなかった。真実の強さが、記者を動かしたらしい。最後に記者は言った。
 「この未回収の債権が、これだけあるとすると、これを全部取り立てることができれば、一切の負債をまかなえるわけですね」
 「そうです。それが、今が今では、できないわけなんです。しばらく時を貸してもらわなければならないんです。預金者には絶対に迷惑をかけたくないので、大蔵省の方へは、こちらから、わざわざ優良組合との合併を斡旋してくれるよう依頼してあったのです。ところが、業務停止命令ときた。寝耳に水です。ただ、騒ぎを大きくしただけなんです」
 戸田は、要点を明快に説明した。
 記者は、意外な顔をした。
 「そりゃ、ひどいですね、こちらが自首したのに、いきなり停止処分とは、冷酷無残な仕打ちだ」
 「ワッハハハ、自首ですか。自首とはよかった」
 戸田は、愉快そうに笑いだした。記者も、伸一も、笑いだした。そして、伸一は、記者に了解を求めるチャンスだと直感して、必死になって語り始めた。
 「今、世間では本当の実情を知らないんです。今、ぱっと世間に知れると、業務停止――やがて解散という予想から、債権者は、わっと押しかけてくるでしょう。また、組合が解散になるのに、借りた金を返しに来る良心的な人もいないでしょう。
 こうなると、もう決済はつきません。預金者たちには迷惑をかけっぱなしで終わるわけです。私どもとしては、これが、いちばん辛いことです。必ず完済するという確信があるだけに、実に残念なんですよ。
 あなたの言う『自首』を当局にしなかったら、業務停止命令は出なかったでしょう。仮に出たとしても、ずっと後日のことになっていたにちがいない。私どもは、ここ二ヵ月、整理にかかりっきりで奮闘していたんです。時間はかかるが、必ず整理はつくはずでした」
 「なるほど……」
 記者は、うつむいて、何か考え込んでいた。伸一は、記者の顔をうかがいながら、はっきり結論を言うべき時が来たと思った。
 「まったく弱り目に崇り目ですよ。整理も容易なことではなくなった。新聞の報道の自由を妨げるつもりはありませんが、このうえ、今、新聞に書きたてられたら、いっぺんに私たちの苦労も水泡に帰してしまう。
 債権者は押し寄せるし、また、債務者はこれ幸いとばかりに、借りた金を返さないことになるでしょう。了解工作は全く不可能となり、組合は悪質組合と言われ、永久に葬り去られる。これが普通の会社ならまだしも、金融機関であるだけに厄介なんです。これが二、三カ月先になって新聞に出されるなら、あらまし整理もすんでいるでしょうし、組合も、それほど打撃を被らずにすむんですが……」
 伸一の自尊心は、嘆願することを許さなかった。ただ、真実を明確にし、誠意と祈りを込めて語ったのである。そこには策略めいた言動は微塵もなかった。
 記者は、顔をそらして聞いていた。新聞報道の自由と、その影響性について、悩み始めたのであろう。彼のスクープによる功名は、多くの人びとの人生を減ぼすことにもなりかねない。彼は、この事件に、ちょっと深入りしすぎたことを知り、今さらのように後悔し始めた。
 「弱ったな……」
 記者は、自らの功名心と、報道の酷薄さを秤に掛け、社会正義を支点として考えこまなければならなかった。秤は保ち合って、どちらにも傾きそうもない。
 しばしの沈黙が続いた。互いに言うべきことは言い尽くし、冷めたコーヒーを飲んでいた。部屋の隅のレコードから、「流浪の民」の曲が聞こえてくる。
  
 …… ……
 なれし故郷を放たれて 夢に楽土求めたり
  
 東空の白みては 夜の姿かきうせぬ
 ねぐらはなれ鳥鳴けば
 何処往くか 流浪の民
 何処往くか 流浪の民
 流浪の民
5  昼休みになったのか、数人の男女が、快活な表情を見せて入ってきた。
 この時、それまで黙っていた戸田城聖は、いきなり、ぽつんと言いだしたのである。
 「要するに、信用組合のわれわれ関係者を生かすも殺すも、生殺与奪の権は、ことごとく、今の、あなたの手の中にあるわけです。後は、いいようにしてください」
 伸一は、戸田の強さに目を輝かせ、記者を見た。彼は、額に皺を寄せてうつむいていたが、急に顔を上げ、意を決するように言った。
 「わかった。よし、待ちましょう。あなたの方の都合が落ち着いたら、連絡してください。ニュースバリューは、全然、なくなってしまうが、仕方ない」
 伸一は、書類を包みながら、記者に微笑して言つた。
 「そう、お願いしますよ。これで組合も、責任だけは果たせるわけです。必ず果たしてみせます」
 「しかし、惜しいな。いいスクープなんだがなあ」
 記者は、未練を残して、軽く笑った。
 伸一が、戸田を振り返ると、戸田は天井を見ながら、何か考え込むように腕組みをしていた。
 二人は、喫茶店の前で記者と別れた。
 伸一が、車を拾おうとすると、戸田は、それを制して言った。
 「いや、しばらく歩こう」
 二人は、舗道を日比谷公園の方へ歩きだした。空は雨模様で、風が強く吹いていた。街路樹の葉が、二枚、三枚と落ちていく。
 二人は歩きながら、今、一難が去ったことを思い返していた。
 そのうちに、戸田は、伸一を顧みて、しみじみと言った。
 「伸、新聞というものは、今の社会では想像以上の力をもっている。厄介といえば厄介なものだが、一つの新聞をもっているということは、実にすごい力をもつことだ。学会もいつか、なるべく早い機会に、新聞をもたなければならんな。伸、よく考えておいてくれ」
 伸一も、新聞の力はわかっていたが、学会の新聞までは思い浮かんでいなかった。――翌一九五一年(昭和二十六年)四月二十日に発刊した「聖教新聞」の着想は、実にこの激動の、この時に生まれたのである。
 二人は、警視庁の近くまで歩いてしまった。戸田は、そのいかつい建物を、感慨深そうに、眺めていたが、何も言わなかった。七年前、軍部政府から弾圧を受けた、あの一九四三年(昭和十八年)の暑い夏、恩師・牧口常三郎と彼は、あの建物の留置場に、自由を奪われていたのである。戸田の脳裏には、七年の歳月が、牧口の面影とともに、走馬灯のように去来していたにちがいない。
 伸一は、車を拾った。戸田は、車中も沈黙して、何事かを考えているようである。社に戻っても、事務室を抜けると、中二階の和室に入ったまま、姿を見せなかった。
 その部屋には、かつて日本正学館の編集責任者であり、学会の理事である三島由造が、待っていた。
 夕刻、食事を部屋へ運んで、事務室に引き返してきた女性事務員は、戸田と三島が、机を挟んで、何やら深刻な様子で話をしていることを、小声で伝えた。
6  この日、夜の六時からは、二階の部屋で法華経講義が行われることになっていた。
 午後六時前後には、大勢の青年男女をはじめ、元気な学会員たちが慌ただしく駆けつけて来た。汗臭い熱気が部屋に満ちたが、それも参加者には、はつらつたる活気と感じられた。互いにあいさつを交わしたり、楽しそうに冗談を言い合ったり、声を出して今日のテキストを読み合う人もいた。階下の事務室の沈んだ空気とは、全く対照をなしていたのである。
 やがて戸田は、三島を連れて姿を現した。そして、いつものように法華経の講義を始めた。独創的で明晰な、しかも愉快な戸田の講義は、なんの変化も、動揺の影すらなく進んでいく。歓喜した受講者たちの顔は、つやつやと輝き、瞳も生き生きとしてきた。いつもと全く変わらない、法華経講義の光景だった。
 午後八時に、講義は終わった。
 ところが、戸田は急にあらたまり、力を込めて言いだしたのである。
 「今夜は、折り入って諸君に、よく聞いてもらいたいことがある」
 テキストやノートを、しまいかけていた人びとは、さっと手を止めて戸田を見た。
 「諸君には、直接、なんの関係もない、ぼくの一身上のことだが、実は、信用組合は、昨日で業務を停止しました。ぼくは、一切の責任者です。そこで、この厄介な問題の始末をつけなければならんことになった。学会には、全く関係はないことだが、ぼく自身にとっては、容易ならぬことになった。
 そこで考えに、考え、熟慮の末、思うところあって、理事長の職を、今日限り辞住することにしました」
 一瞬、人びとは、わが耳を疑った。青天の霹靂である。そして、聞き違いでないことを悟ると、大きく目を開いて、じっと戸田を注視した。
 「そこで、理事長は、三島由造君に代わってもらいます。
 諸君は、これまで、いたらぬ私に絶大な支援をしてくれたが、同様に、新理事長を変わることなく支援していただきたい。
 私は、思うところあって理事長を辞任したが、信心をやめたわけでは断じてない。広宣流布の大業に身を挺する決意は、少しも変わってはおりません。この決意があればこそ、今は、悩みの真っただ中に突入しなければならんのです。
 私の一身に、どのようなことが降りかかろうと、創価学会は絶対に健在であるべきであり、また御本尊の絶対の加護のもとにあることは、信じて疑いません。つまり、理事長の更迭ぐらいで、少しでも動揺があってはならぬということです。
 もし、この点について不審をいだき、また批判や策動をする者があったとしたら、その所業は、自らを仏敵とすることになりましょう。くれぐれも、心得違いのないよう頼みます。
 深く心に期するところがあります。今後は、新理事長のもとに、異体同心の固い団結をもって、邁進されんことを切望してやみません。では、新理事長の三島君に、あいさつをお願いします」
 戸田の緊張しきった顔は、やや青ざめて見えた。
 清原かつが、目を真っ赤にして聞いている。泉田も、原山も、小西も、寂しそうに顔を曇らせて、なんとも言いようのない表情である。いや、ほとんどの幹部が、割り切れぬ思いで、苦しいわが心を抑えていた。
 三島新理事長のあいさつが続いた。だが、言葉は耳に入っても、人びとの空虚な心には何も残らなかった。
 首脳幹部は、この夜、ほとんど出席していたが、夢にも思わなかった事態が、突然、このように勃発すると、何をどう考えてよいかわからなかった。
 戸田は、絶対に動揺してはならぬと厳命したが、彼らの心は、そうはいかなかった。かすかに戸田の苦悩の深さを感じたものの、それがどのようなことか、理解に苦しんでいた。しかし、不審をそのまま口にする人はなかった。彼らは驚きのあまり、質問できるほど事の成り行きを理解することさえできなかったのである。
 戸田は、また中二階の和室に引っ込んでしまった。受講者たちは、いつもと違って、もの静かに散会した。首脳幹部たちは、三島由造を囲み、打ち沈んだ深刻な様子で、何事か話し合っている。
 山本伸一は、戸田が、「私も深く心に期するところがあります」と言った言葉に、すがりつく思いであった。彼には、戸田城聖のいない学会を考えることはできなかった。まさしく、学会は戸田の生命であり、戸田は学会それ自体であったのだ。
 伸一は、講義会場を出て、一人、戸田のいる部屋に入っていった。戸田は、机に頬杖をついて、何か考え込んでいるようであった。
 戸田は、沈んだ、元気のない伸一の姿を見ると、微笑しながら聞いた。
 「なんだ? どうした」
 伸一は、とっさに言葉が出なかった。彼は、戸田の机の前に端座し、思い詰めてやっと言った。
 「先生……」
 その目には、涙がいっぱいたまっている。
 「なんだね?」
 「先生、今度、三島さんが理事長になると、私の師匠は三島さんになるんでしようか?」
 「いや、それは違う! 苦労ばかりかけてしまう師匠だが、君の師匠は、ぼくだよ」
 戸田からは、明確な言葉がはね返ってきた。
 この一言を、伸一は、全生命で知りたかったし、答えてもらいたかったのである。
 彼の全身には、言い知れぬ喜悦がほとばしった。
 まさしく、それは暗い怒濤の大海に、明々と見えた灯台の光であり、炎熱の砂漠に泉を見いだして、蘇生した思いであった。
 ″これでいい。信用組合がつぶれようと、先生が理事長を辞めようと、先生と自分との師弟の一線が狂わないならば、何が起きようと、かまったことではない″
 だが、この思いは言葉にはならなかった。伸一は、ぱつと明るい顔になって、戸田を見つめて無言でいた。
 戸田の表情にも、はや屈託が消えていたが、目には涙が光っていた。
 「伸、どうした?」
 「いや、先生、いいんです」
 何がいいのか、言葉にならず、嬉しさが彼を襲った。
 「先生、お休みなさい」
 伸一は、急に座を立って、一礼すると、階下に下りていった。ボロ靴を履くと、一人、外に出た。
 彼は、弾んだ足取りで、夜の舗道を大股に歩いていった。そして、彼の好きな「荒城の月」を口笛で吹いていた。
 伸一は、胸奥で、いつまでも頷いていた。
 ″ぼくの生涯の師匠は、先生なんだ。先生なんだ。これでいいんだ。これでよし″
 八月二十四日は、山本伸一にとって、入会満三年にあたる日であった。
7  それにしても、学会員にとっては、戸田の突然の理事長辞任であった。戸田自身、理事長の辞任については、万一の事として考えてはいた。しかし、それが、このように早く来ようとは思わなかった。
 戸田は、信用組合の業務を停止した波紋が、まず第一に、創価学会には波及しないことを念じて、対策を練っていた。ところが、学会よりも早く、社会的事件としての波紋が、先に起ころうとしていたのだ。
 今朝、虎ノ門の喫茶店で、戸田は、そのことばかり考えていた。ひとまず記事になることは避けられたものの、新聞社は、一社だけではない。これと似たような追及が、ほかにも予想された。さらに、大蔵省が、いかなる処置に踏み切るのかを、甘く考えるわけにもいかなかった。
 戸田城聖は、東光建設信用組合の専務理事であり、同時に創価学会の理事長で、牧口亡き後の最高責任者である。社会の追及の目は、当然、学会にも注がれることになろう。
 戸田は、学会を傷つけることにもなりかねない現状を思うと、身を切られるよりも辛かった。組合の崩壊で非難を浴びることは、彼には、いくらでも耐え忍ぶことはできる。しかし、そのことによって学会までも、その飛沫を浴びなければならないということは、彼には断じて我慢のならないことであった。
 戸田の苦悩は、二重に重なっていたのである。彼は、今、怒濤の真っただ中にいることを知った。この怒濤を抜き手を切って、乗り越えなければならない。怒濤にのみ込まれてしまっては、一切が敗北であり、何もかもなくなってしまう。彼は、渾身の勇気を奮い起こした。
 理事長辞任――そのことによって、彼の身がどうなろうと、学会だけは無傷に守り通そうとしたのである。
 この深慮のために、午後の数時間を費やした。そして、この夜の突然の発表となったのである。学会の発展が鈍ることも、また弟子たちが寂しがり、悩むにちがいないことも、彼は百も承知していた。
 戸田は、敢然として、信用組合の整理に没頭した。しかし、事態は既に重症で、深い泥沼に足を取られたように、じっとしていれば、泥の中に体が吸い込まれかねない、泥中のあがきにも似た活動が始まった。債権者のリストを作り、大口の方から順々に、社員を差し向けたのである。
 しかし、一度の訪問で了解のいくような話ではなかった。戸田は、報告を受けると、それによって、すぐ次の指示を与えた。社員たちは叱咤激励され、また出て行くが、ぐったりとして帰ってきた。
 それは、時間を争う真剣勝負に変わっていた。大蔵省の意向が、かなり強硬であったからである。
 山本伸一は、この苦難を、あらゆる意味において、早く乗り切りたかった。誰よりも献身的に奔走した。やがて、一人去り、二人去りして、この第一線の攻防戦を戦う者は、いつしか彼一人になっていった。
 彼らが、戸田のもとを去っていったのは、生活のためか、また批判を恐れたのか、あるいは責任を回避しようとしたのか、ともかく、手のひらを返すような豹変ぶりであった。
 伸一は、憤りを秘めて、ひたすら戸田の再起を願い、連日、夜中まで阿修羅のごとく突き進んでいった。彼の病弱な体躯のどこに、このような気迫があるのだろうかと、思われるほどであった。
 八月二十六日は土曜である。伸一は、翌日の日曜を前に、″今日は、一日いっぱい戦い抜こう″と思って、社へ早く出ていった。
 伸一は、三軒、五軒、十軒と、体力の続く限り、回りに回って、ひたすら防戦に努めていた。疲れのためか、熱が出始めていたらしい。背中は痛み、胸は苦しかった。彼は、やせた肉弾となって、ただ誠実に、交渉に動いていたのである。
 しかし、話はどこへ行っても、こじれてしまった。
 彼は、辛抱強く構えていたが、時に侮蔑的な言葉を聞くと、悔しくてならなかった。また逆に、了解を得ようとしても、債権者の窮状を目の当たりにすると、同情が先に立ってしまい、なかなか用件を切り出せなかった。
 この日の交渉も、ついつい夜遅くまでかかってしまったのである。
 午後十時過ぎに、やっと社へ帰ってみると、階下の事務室は消灯されて暗かった。二階へ上がってみると戸田が一人、ぽつんと彼の帰りを待っていた。
 伸一は、驚いて言った。
 「遅くなりました。みんなは、どうしたんですか?」
 「ご苦労、みんな疲れているから、今日は、早く帰ってもらったんだよ。伸、今日はどうだつた?」
 報告を待ちわびていた戸田に、彼は、この日の了解交渉の経過を詳細に報告した。
 戸田は、業務停止後の対策の手応えを、克明に知りたかったのであろう。彼は、いつになく執拗なまでに、細部にわたって交渉の経緯を伸一にただした。
 二人は、業務停止命令が、ますます情勢の悪化をもたらしたことを認めなければならなかった。今後の了解工作には、新しい局面を開かなければ、成功はおぼつかないと知ったのである。
 真摯な誠意というものも、何かしら形で表さなければ、人は信用しない。信用を失いつつある組合であってみれば、なおさらのことである。二人の思案と協議は、静まり返った、わびしい二階で、遅くまで続けられた。
 伸一が戸田を送って、白金の戸田の家に着いた時には、既に午前一時ちょっと前であった。
 玄関のベルを押すと、幾枝が飛んで出てきた。瞬間、幾枝の顔には、危惧に満ちた影が走った。
 戸田の背後に、伸一の顔を見つけると、硬い表情は消え、伸一をねぎらうように呼びかけたのである。
 「こんな遅くまで、ほんとにすみません……」
 「伸ちゃん、さあ、上がろう」
 戸田も伸一をねぎらうように、先に立って二階への階段を上った。
 戸田は、そのまま仏壇の前に端座した。
 「勤行しよう」
 伸一は、戸田の背後に座って、深夜の唱題を心ゆくまで続けた。
 やがて幾枝の足音がし、盆の上に戸田の酒と、伸一のサイダーを持ってきた。
 「今夜は、丑寅の勤行になってしまったな」
 戸田は、にっとり笑いながら、コップの酒を手に取った。幾枝は心配顔に、戸田に尋ねた。
 「会社の方は、どうでしたの?」
 「どうもこうも、えらいことだよ。あんまり心配するな。お前が心配してくれても、どうにもならんよ。先に寝なさい」
 戸田は、他人事のように言って、伸一の顔を見ながら聞いた。
 「どうだ、伸、一局やるか」
 「まぁ、こんなに遅いというのに……、明日になさったら」
 幾枝は、ちょっと、とがめるように言った。
 「いいよ、お前は寝なさい。……明日は明日の仕事がある。伸一、将棋盤だ!」
 床の間から、伸一は将棋盤を運んできた。戸田は、子どものようにはしゃいで、駒をぼちぼちと並べ始めた。深夜の将棋である。ささくれだった伸一の心は、いつか和んできた。
 伸一は、思った。
 ″組合はつぶれ、学会の理事長も辞任したというのに、先生は、こうして懸命に将棋盤をにらんでいる。先生の姿を見ていると、すべての苦境が、嘘のようにも、悪夢のようにも思える。これが、先生の本然の姿なのかもしれない。
 自分も、今、苦しみ悩んでいる日々の活動は、仮の姿なのかもしれない。いずれにせよ、本然の姿だけは、いかなる時にも失うまい″
 戸田の悠然たる態度に押されて、余計なことを考えていた伸一は、簡単に負けてしまった。それを知っていたように、戸田は言った。
 「もう一局、来い」
 二人は、また駒を並べ始めた。いつか二人は、将棋に夢中になっていた。激しい攻防戦になった。最後に危ないところで伸一が勝った。一勝一敗の引き分けである。
 「さあ、寝るか。伸、ぼくの布団で寝ょうよ」
 戸田は、隣室の布団に入った。伸一は、「はい」と返事をしたものの、戸惑ってしまった。彼は、階下に下りて、手洗いに行った。そして、二階へ戻ろうとして、ふと一階の部屋を見ると、中学生の喬一が、布団をはね飛ばして寝ている。
 伸一は、掛け布団を喬一に掛けてやりながら、自然に、その布団の中へ、ひっそり潜り込んでしまった。
 翌日は日曜日である。戸田と伸一は、遅い朝食を二人ですました。幾枝は、夏痩せしたように、げっそりとしている。組合の動向に心痛していたのであろう。
 戸田は茶を飲みながら、悄然としている幾枝にいら立った。
 「つまらん心配はよせ」
 「そんなことをおっしゃっても、心配は心配です」
 幾枝は、静脈の浮き出た手の甲をさすって言うのであった。
 「だから、よせというのだ。心配が役に立つ時と、役に立たん時とがある。今は、それが役に立たん時だ。体をこわすぞ、気をつけなさい。
 事業が、一度や二度、失敗したぐらいで、それで人生が終わったなどと思ったら、大間違いだ。これから、やり遂げなければならん大事業が、ぼくにはある。長い間には、風邪ぐらいひくこともあるさ。今までだって、何度も事業でつまずいたことはある。しかし、そのたびに立ち上がってきたじゃないか。もっと、私を信じなさい」
 「でも、若い時とは違います」
 「なにつ、年寄りくさいこと言うな。ぼくはまだ、御年五十だよ。ハッハッハッ。事業家としては円熟する時じゃないか」
 戸田は不機嫌であった。
 ″お前にも、また苦労をかけなければならん″と言いたいところであったが、剛毅な性格の戸田には、それが言えなかったのであろう。、なおさら不機嫌になった。
 戸田は、伸一と家を出た。日曜の電車はすいている。いつしか車中では、仏法哲学の質問、文学の話、政治の話、そして、必然的に学会の未来の話となっていった。
 伸一は、このような怒濤のさなかにあっても、必ず、深夜、それを自分のノートに書き記しておくことを忘れなかった。
 戸田と伸一が、西神田の事務所に着いてみると、社員たちは手分けして、大蔵省に提出しなければならない経理関係の書類を、ひっそりと作成していた。
 全社員にとって、心の暗い日曜である。だが、伸一の心のなかだけには、昨夜からの不死身の火がともされていた。
8  一九五〇年(昭和二十五年)六月に、韓・朝鮮半島に勃発した戦争は、既に二カ月を経過していたが、戦線は拡大し、戦火は燃え盛るばかりであった。
 八月四日には、韓・朝鮮半島の軍事力増強のために、日本人義勇兵を米軍に徴集する法案が米国議会に提出された。これに対しマッカーサー国連軍最高司令官は、八月八日、「日本とはまだ講和条約が結ばれておらず、日本はいま、国際管理下におかれている」として、日本人義勇兵の実現には疑問があると述べ、「対日講和を結ぶこと」が先決であると表明した。
 推測するに、日本は連合国軍の占領下にあり、法的には、まだ連合国の敵国であって、敵国から義勇兵を募るなどということは、あり得ないということだったのであろう。
 こうして、義勇兵の話は立ち消えになったが、現実には、アメリカ軍の要請によって、海上保安庁の機雷掃海艇が出動し、死傷者も出しているし、日本の船舶がアメリカ兵の輸送にも携わっている。
 ともあれ、アメリカ軍の防衛基地となった日本は、準臨戦態勢とでもいうべき方向に向かって国内の治安組織を改変し、着実に戦争協力へと移行し始めたのである。
 まず七月下旬、GHQ(連合国軍総司令部)の指示によって、経済安定本部が「特需」(特殊需要)の窓口となって、国内態勢を整備することになった。つまり、アメリカ軍に補給する軍需物資を緊急調達するための、日本における調達機関の役割を担うことになったわけである。
 九月一日、経済安定本部は、朝鮮戦争(韓国戦争)勃発以来二ヵ月余りの八月二十八日までに、特需物資の発注は百四十四億円に達したと発表している。また、五〇年(同二十五年)末までに、特需は少なくとも三百六十億円に上ると予測されていた。
 インフレを収束させ、早急な経済の安定化を図ろうとしたドッジ・ラインの強行で、多くの企業が打撃を受け、経営に苦しんでいた。不況の底であえいでいた日本経済にとって、朝鮮特需は、降って湧いたような、景気回復へのチャンスととらえられた。
 経済人のなかには、″太平洋戦争では吹かなかった「神風」が、今になって吹いた″と欣喜雀躍する者もあった。
 急速な景気回復を表現する「特需景気」などという新造語まで生まれた。
 特需と並んで、輸出も急速に伸びた。五〇年(同二十五年)の輸出総額は、下半期の好況によって八億二千万ドルとなり、前年の五億一千万ドルに比較して、約六割もの増加を示した。
 沈滞の極みにあった各種企業のなかでも、特に鉄鋼、車両、機械、繊維、木材などは、突如として活況を呈し、鉱工業の生産などは、同年十月には戦前の水準を超えるまでに回復している。
 韓・朝鮮半島に戦火が上がって以来、日本経済は未曾有のテンポで回復、成長を遂げていった。この年を境として、わが国の産業は、重化学工業中心に著しい発展を示し、日本の産業構造を大きく転換させていった。
 大きな利潤を上げた企業は、その利益を設備投資に向けて近代化を図り、国際競争力の強化をめざしていった。民間の設備投資総額をみると、四九年(同二十四年)が二千八百八十六億円であったのに対し、五〇年(同二十五年)には、三千八百九十九億円と増加し、五一年(同二十六年)には六千九十九億円と、前年の1.5倍以上に急増している。朝鮮戦争による特需が、日本経済をいかに潤したかがわかる。
 そして、それらの企業が、その後の経済成長の原動力となり、日本経済の基調をなしていったのである。
 しかし、この経済回復は、戦争によるものであった。しかも、それは自国の戦争ではない。日本の企業は、戦火を被ることもなく、犠牲を強いられるとこもなかった。狭い海峡を隔てた隣国での戦争が激化すればするほど、破壊と犠牲が増大すればするほど、日本経済は大きな利益を得ていった。
 わが国の高度経済成長への第一歩は、戦火のもとでの民衆の悲惨を踏み台としていたことを忘れてはならないであろう。
 戦後経済の活力が胎動し始めたこの時期に、戸田城聖は、清算事務に没頭していなければならなかった。もしも信用組合が、あと半年、持ちこたえていたら、あるいは彼は、降って湧いた好況の波で、難事業を好転させることができたかもしれない。
 しかし、それは皮相的な見方にすぎない。戸田城聖には、何よりも彼でなければなし得ない前代未聞の大使命があった。国破れて、彼自身も事業に敗れ、そのなかで広宣流布に一途に邁進する使命が、彼の宿命には種子として植えられていたのである。
 時は巡り来り、今、ようやく、その使命の種子が芽吹いたのである。この芽を枯らすことは、障魔にもできなかった。
 ただ彼に、その本来の使命の自覚を促し、その覚悟に立たせるためには、事業における苛酷な試練を必要としたのである。彼が、経済的挫折に苦しんだのは、「願兼於業」のゆえであったといえようか。この道程において、彼の使命の自覚は、初めて不動のものとなったのである。
 戸田城聖の目に映った朝鮮戦争は、世界動乱の縮図であった。アジアの小さな半島に、北朝鮮軍と国連軍とが対峙し、入り乱れての流血の惨事である。
 彼は、この戦争の悲惨から、隣国の民衆が味わわなければならない塗炭の苦しみを、今、思いやった。
 ――まさに、末法濁悪の世界である。つい五年前まで、日本の民衆も、同じ塗炭の苦しみのなかにあった。今、この戦乱の惨状を知るにつけ、戸田は、戦火に追われ、逃げ惑い、流浪する人びとの姿が頭をよぎった。彼は、一刻も早く東洋に正法を流布しなければならないと、痛感するのであった。
 そして、戸田は、妙法の鏡に照らし、いよいよ日蓮大聖人の仏法が、東洋に広宣流布する瑞相が現れたことを確信せざるを得なかった。
 釈尊の仏法の渡来は、インドから中国、韓・朝鮮半島を経て日本に留まった。大聖人の仏法は、「日は東より出でて西を照す」である。彼は、その「時」が来ていることを、しみじみと思ったのである。

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