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日蓮大聖人・池田大作

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疾風  

小説「人間革命」3-4巻 (池田大作全集第145巻)

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1  一九五〇年(昭和二十五年)元日――。
 この日の新聞は、冒頭に連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーの年頭のメッセージを掲載した。これは例年のことであったが、人びとは、この年のメッセージを、読み過ごすことはできなかった。
 「日本国民諸君
 終戦後五度目の新年を迎えた今日、まぎれもなく一つの際立った事実が認められる。日本は技術的には今なお交戦状態にあるとはいえ、今日、日本よりも平和な国は、この地球上に全く数えるほどしかないという事実である」
 この文中の「際立った事実」とは、一人の兵士もなく、一つの武器も持たない、日本の正月を指して言ったものであろう。確かに、平和国家の姿ということもできる。戦争放棄を憲法にうたった国の、平和な正月を讃えたものにちがいない。しかし、それには占領下という条件が、厳然と付帯していた。占領下の借りものの平和にすぎなかったのである。
 占領政策のプログラムは、やがて近き将来の講和条約も予想していた。そしてまた、年々激化しつつある東西両陣営のわだかまりと、冷戦の谷間に位置する日本の様相の変化も、予想のなかに入っていた。
 アメリカの世界戦略の変更について、どうしても日本を防衛基地化する必要があった。そこでマツカーサーも、もはや手放しで日本占領政策を讃嘆してばかりもいられなかったのであろう。彼は、メッセージの後段に至って、憲法第九条に対する解釈を変更し始めたのである。
 「この憲法の規定は、たとえ、どのような理屈はならべようとも、相手側から仕掛けてきた攻撃にたいする自己防衛の冒しがたい権利を、全然否定したものとは絶対に解釈できない。それはまさに、銃剣のために身をほろぼした国民が、銃剣によらぬ国際道義と国際正義の終局の勝利を、固く信じていることを力強く示したものにほかならない。しかしながら、略奪をこととする国際的な盗賊団が、今日のように強欲と暴力で、人間の自由を破壊しようと地上をはいかいしているかぎり、諸君のかかげる、この高い理想も、全世界から受け入れられるまでには、なおかなりの時間がかかるものと考えなければならない」
 マッカーサーは、前年秋の中華人民共和国の成立から、日本の共産主義化を恐れたのであろう。憲法制定当時、戦争放棄に関して、あれほど賞讃したにもかかわらず、彼は、事ここに至って、憲法にうたった戦争放棄は、自衛権を否定するものにあらずと、新しい解釈を加えなければならなくなった。
 吉田首相は、これに呼応して、一月二十三日、第七通常国会の施政方針演説で、自衛権に触れ、苦しい説明をしなければならなかった。
 「わが国の将来の安全保障につき内外多大の関心を生じていることは当然のことでありますが、我が憲法において厳正に宣言せられたる戦争軍備の放棄の趣意に徹して、平和を愛好する世界の論を背景といたしまして、あくまでも世界の平和と文明と繁栄とに貢献せんとする国民の決意それ自身が、わが安全保障の中段をなすものであります。戦争放棄の趣意に徹することは、決して自衛権を放棄するということを意味するものではないのであります」
 ところで、この三年半前の四六年(同二十一年)六月二十八日の衆議院本会議で、憲法の戦争放棄の条項について、共産党の野坂参三議員が、侵略戦争は「不正の戦争」であり、防衛のための戦争は「正しい戦争」であると位置づけ、″戦争一般の放棄としないで、侵略戦争の放棄とすべきではないか″と質問している。これに対し、吉田首相は、平和の女神のごとく、次のように明確に答えていたのである。
 「戦争放棄に関する、憲法草案の条項におきまして、国家正当防衛権による戦争は正当なりとせらるるようであるが、私はかくのごときことを認むることが、有害であると思うのであります。近年の戦争は多くは、国家防衛権の名において行われたることは顕著なる事実であります。
 (中略)故に正当防衛、国家の防衛権による戦争を認むるということは、たまたま、戦争を誘発する有害な考えであるのみならず、もし平和団体が、国際団体が樹立された場合におきましては、正当防衛権を認むるということそれ自身が有害であると思うのであります。ご意見のごときは有害無益の議論と私は考えます」
 防衛権否定の回答は、明確すぎるほど明確であった。また野坂参三の質問は、結果として自衛のための戦争を認めたことになる。
 ともあれ吉田首相は、五〇年(同二十五年)には、自ら「有害無益の議論」をしなければならなくなった。
 この年の一月三十一日には、アメリカのブラッドレー統合参謀本部議長、コリンズ陸軍参謀総長、シャーマン海軍作戦部長、ヴァンデンバーグ空軍参謀総長など、軍最高首脳陣がそろって東京に集まった。そして、マッカーサーと会談し、各地を視察するなど、二月六日まで協議を続けている。北海道から九州にかけての八カ所の航空基地と、横須賀その他の海軍基地の整備が主題であったことは、想像に難くない。
2  当時、防衛権をめぐって、再軍備が大きな問題として、浮かび上がりつつあった。しかし、憲法第九条は、再軍備を許さない。万一、他国の侵略に対して、いかに対処すべきかとなると、防衛問題は軍備の問題となる。それなら、いかなる程度の軍備かとなると、今や時代は核戦争の時代になってしまっている。
 こうした時代に、自国の防衛について、絶対の確信をもつ国は、世界に一国としてないであろう。それは、核兵器の保有国であるなしにかかわらない。日本だけが、防衛問題に悩んでいるわけではないのである。
 自国の安全保障に、いくら汲々としたところで、どうにも思案がつかぬというのは、第二次大戦をはさんで、防衛力の質そのものが、全く違ってしまったからだ。自国防衛の至難さは、言うまでもなく核戦力の出現が、その質を一変させてしまったからである。想像もつかぬ、天文学的ともいえる数値の破壊エネルギーをもった地球上の核戦力、これが極めて、やっかい至極なものになってしまったからである。
 防衛問題を、国際間の緊張度や、核抑止力、あるいは、いずれの核の傘に属すべきであるかとか、核戦力の均衡度とか、そうした視点で、いくら知恵を絞ったところで、平面的な技術論を出ないであろう。考えるべき次元は、従来とは、全く違ってしまっているのである。核戦力が出現したという、恐るべき現実を直視したうえにこそ、新たな思考の次元を置くべきだと、私は思うのである。
 この地球上で、唯一の被爆国民である日本の私たちは、広島、長崎への原爆投下の悲惨と残酷を、どこよりも深く、強く、実感として知っている。
 しかし、地球上に核兵器が登場して以来、世界には、幾度となく、廃棄、廃絶の声が上がったが、その願いも空しく、核は、その姿を消すことはなかった。いな、むしろ核戦力の拡大と拡散が続くという、恐るべき時代に入ってしまったのである。
 あの広島、長崎に原爆が投下されてから、十年とたたない一九五四年(昭和二十九年)三月一日には、太平洋で操業していた日本のマグロ漁船・第五福竜丸が、放射能の″死の灰″を被るという大事件が、日本中を震憾させた。マーシャル群島ビキニ環礁での、水爆実験によるものであった。その爆発力は、TNT火薬に換算すると十五メガトンといわれる。広島に落とされた原爆の威力を十五キロトンとして、実に、広島型の千倍もの巨大な破壊力をもつ核爆弾が、登場したのである。
 核の脅威は、加速度的に増大の一途をたどっていった。軍事的に対立する東西両陣営は、熾烈な核開発競争で優位に立つため、核実験を繰り返し、より安価で、より巨大な破壊力をもっ核爆弾を生み出していった。
 そればかりではない。これらの核爆弾を運搬する兵器として、爆撃機やミサイル、潜水艦などの性能と装備が、急速に発達していった。世界の空には、核爆弾を搭載した爆撃機が、常時、哨戒し、海には核ミサイルをもっ潜水艦が潜航し、そして地上には核弾頭をつけたミサイルが、相手陣営の破壊目標に向けられていったのである。
 まさに、二十世紀後半から、地球上は核爆弾に覆い尽くされる恐怖の時代に入っていたといってよい。
 たとえば、米ソが一触即発の核戦争の瀬戸際に立った、あの六二年(同三十七年)十月のキューバ危機の当時、両核大国は、どれくらいの核兵器を保有していたのであろうか。
 ここに、アメリカ空軍や、イギリスの戦略研究所が発表した、データがある。
 それによると、六二年当時で、核弾頭を搭載できる(大陸問弾道ミサイル)は、アメリカが二百基、ソ連が七十五基となっている。
 ところが、キューバ危機のあとも、米ソの核開発競争は、互いに優位に立つべく、エスカレートしていった。五年余り後の六八年(同四十三年)初頭には、アメリカのが千五十四基、ソ連が五百二十基、潜水艦搭載弾道ミサイルが、それぞれ六百五十四基(米)と百三十基(ソてさらにソ連は、中距離・準中距離弾道ミサイルを七百二十五基保有していた。そして、核爆弾を運搬できる長距離重爆撃機は、五百二十機(米)と百五十機(ソ)、中型爆撃機が七十五機(米)と千百機(ソ)などとなっている。
 これらの核戦力などから、総合的に割り出される米ソの核保有量は、アメリカの核兵器が、およそ三万個(爆発力二万五千メガトン)、ソ連の核兵器が一万五千個(爆発力一万二千メガトン)と、推定されていた。米ソ合わせると、三万七千メガトンという恐るべき数字となる。
 ちなみに、この三万七千メガトンという量は、十五キロトンの広島型原子爆弾に換算すれば、およそ二百五十万発分となる。実に、地球上には想像を絶する膨大な量の核爆弾が、発射、投下できる態勢にあるわけである。
 過去の戦争の常識というものは、核戦争を考える時には、もはや最大の障害とさえなっているのだ。
 早い話、第二次世界大戦で連合国が使用した火薬、爆弾の総量は火薬に換算して、五百万トンともいわれているが、これはメガトン級の水爆一発分の爆発力にしか相当しない。つまり、戦後二十余年の地球には、第二次大戦で使用された火薬の、およそ七千四百倍もの爆発力に相当する核爆弾が存在していた。これは、人類を何十回、いな何百回と殺傷し尽くせるほどの、恐るべき量になる。
 ここで、さらに不吉な想像力を働かせて、いざ核戦争が、何かの拍子に突発したとしよう。まず、米ソ両国の核爆弾を運搬する全爆撃機が飛び出していく。そして、大陸間弾道ミサイル、あるいは中距離弾道ミサイルが発射されるであろう。さらに、海中における潜水艦の核ミサイルが火を噴く……。こうした核兵器が、一斉に出動したとしたら、この地球は数時間にして、どこもかしこもキノコ雲に覆われてしまうだろう。そうならぬという保証は、どこにもないのである。
 現実を直視して、ここまでたどってみれば、今日の防衛論議などは、かなり色あせたものに映らざるを得ない。
 自国の防衛を正視するならば、いやでも世界という観点に立たざるを得ない。
 しかし、人類がその未来にかかえ込んだ、この核による破滅的な災害は、不可避な天災ではない。その実体は、幸いにして、全くの人災であるということだ。人災であるからには、それを避けるための手段や方法も、人間の掌中にあることは確かである。
 現代の政治家がなすべき最大の課題は、この問題の根本的な解決にあるといわなければならない。この解決をめざすことなくして、現代のもろもろの政治問題の処理は、無意味にさえ思われる。
 私は、今、正体不明の魔の力に蹂躙されている、現在の地球の防衛について、いかにすべきかに思いを致しているのである。切迫しつつある未曾有の人災を、あたかも天災のごとく錯覚している、現代精神の衰弱とそ、指摘せざるを得ないのである。
 核戦力を保有する各国の指導者たちは、核攻撃の決定権を委ねられて、深い困惑を感じているはずだ。時には、彼らの熱い額は、冷たい汗に濡れることもあるだろう。移ろいゆく時の経過が、人間の正常な感覚を、いつ麻揮させるか、それは誰人にもわからない。世界は、恐ろしい時代に入っている。
3  このような未曾有の危機にあたって、地球の防衛について、真剣に考えた数少ない政治家の一人に、ジョン・F・ケネディがいる。
 彼の政見が、一種の新鮮さをもち、多くの人びとに期待と希望をいだかせたのは、彼のブレーンの優秀さにあったのではない。彼は、現代政治家として、核戦争についての最大の課題を直視し、容易ならぬ事態について、深く心を砕き、そこに一切の政治行動の規準を置こうとしていたからではないだろうか。それは、彼の手にあまり、思案に暮れる仕事であったにちがいない。
 彼は、アメリカ大統領に就任して、しばらく過ぎた一九六一年(昭和三十六年)九月二十五日に、第十六回国連総会で演説した。
 「すべての男、女、子供は、ダモクレスの核の剣が、きわめて細い糸でぶら下がり、偶発事故や誤算や狂気で、いつ何時切り落とされるかも知れない状態の下に生きている」
 ケネディは、ホワイトハウスの大統領のイスに座った時、恐るべき核戦争を開始する権限が、自分にあるという事実から、目をそらすことはできなかった。
 アメリカで、その決定を下す者は、ほかならぬ彼自身であることを自覚した時、初めてダモクレスの剣が、頭上に危うくぶら下がっている実感を、いやでも味わわなければならなかった。
 ケネディは、歴代大統領のなかで、そのイスを最も悲劇的に考えたにちがいない。
 ギリシャ伝説の登場人物であるダモクレスにとっては、頭上にぶら下がった剣が、彼一人を殺す恐怖だけで足りたのである。だが、ケネディの頭上の核の剣は、彼一人だけではなく、全地球の破滅へと、確実に通じていくことを、知らねばならなかった。
 彼の恐怖は、人類の歴史が始まって以来、最大の恐怖を意味していたわけだ。彼は、二十世紀のダモクレスの宿命を、まざまざと見たことであろう。大統領の栄光は色あせた。
 ダモクレスの主君・ディオニュシオスは、国王という栄光のイスが、見た目ほど座り心地のよいものではないことを、側近が信じないのを知って、いら立った。追従と羨望と虚飾に覆われた宮廷のなかで、王の幸福を讃嘆してやまないダモクレスに、我慢がならなくなった。
 ディオニュシオスは、華やかな宴の宵、ダモクレスを王座に座らせ、その頭上に、馬の毛一本で結んだ白刃の剣を吊したのである。剣の重さは、いずれ、その毛を、プツンと切るであろう。栄光の座は、常にこのような危険にさらされていることを、ダモクレスは、いやでも悟らなければならなかった。
 核保有国の指導者の一人――二十世紀のダモクレスともいうべきアメリカ大統領は、身震いするような最後の決断を下す義務が、いつ何時、必要になるかと、極度の不安な生活を余儀なくされていたにちがいない。
 核攻撃の決定権を握るアメリカ大統領が、どれほどの緊張を強いられているか――。
 大統領選では、ケネディのブレーンを務め、核戦争の危機を警告していた、アメリカの物理学者であるラルフ・E・ラップ博士はこう述べている。
 「発射センターから米大統領への連絡は、ものの数秒とかからない。監視所や指揮所との直通通信連絡は、大統領が、飛行機上でも、自動車に乗っているときでも、また会議中であっても、ゴルフのコースを回っている最中でも、それこそどこに行こうがついてまわるのである。もし警報が鳴ったとすれば、それは北米防空司令部(NORAD)からきたものである。ここは昼夜の別なく、レーダーで空を捜査している大陸レーダー網が送ってくる情報を絶え間なく受信し、分析しているところだ。直ちに行動をとれるように、大統領は、戦略空軍(SAC)や、移動ポラリス潜水艦の司令部との直通電話をもっている。行動に移るか、移らないかの大統領の決定は、一五分以内かそれより以下で行わなければならない。なぜなら、これがミサイル攻撃をうけるまでのギリギリいっぱいの警告時間だからである」
 このような状態に置かれている指導者は、少なくとも核保有国の数だけいることは確かだ。危機に際し、議会を招集して、宣戦の決議などしていたら、その間に自分の国は、とっくに吹っ飛んでいることだろう。
 核戦争という破滅的人災の決定権は、人類のなかで、わずか数人の掌中にあるといってよい。しかも、彼らは、核戦争を決断する恐怖を、身をもって知っているダモクレスたちである。この数人が一堂に会したら、話は早いにちがいない。
 皆、等しく人間であり、理性をもっている。生命の大切さも知った指導者であり、妻もあり、子もあり、その家庭を平和に、幸せにしようと念願していることには、なんの変わりもないであろう。その延長として、他の家庭も、他国の国民も、全人類も、同じ思いであることを、深く理解するにちがいない。
 核戦力廃棄の処置について全会一致の議決に達するのに、なんの困難があるだろうか。全会一致を見るまで、何回でも何日でも、語り合えばよいのである。
 現代政治の、この最大の課題に対して、世界の指導者は、真剣に、勇敢に取り組んでいくべきではなかろうか。一国の代表であると同時に、人類の代表として――。
 結局、問題は簡単ともいえよう。核戦争の恐怖を取り除くには、有害無益な核兵器を、互いに全廃することを話し合い、決議すればよい。
 人間の良心と、英知を信じるなら、これに異議を唱える指導者など、あろうはずがない。もし、あったとしたら、それは魔ものにちがいない。ヒトラーより幾千倍の悪党だ。世界の世論は、その指導者を絶対に許さぬであろう。
 その指導者こそ、地球上から抹殺さるべき第一の人間である。それでもなお、核戦力に異常な執着があるのなら、その人間こそ原子炉の中へ飛び込めと、人びとは叫ぶであろう。
 私は、白日夢を語っているのではない。最も単純な、現実的にして、実践的な問題の解決の方法について語っているのである
 多くの指導者は、これを夢としか思わぬであろう。そして、奇怪極まる複雑な思考に陥り、国際外交の舞台で、時を稼ぎながら、何をするかといえば、核の貯蔵と軍備にせっせと没頭しているのである。彼らこそ、悪夢に酔うサタンではないか。いくら警鐘は乱打されても、悪夢から覚めることはない。
 地球を包む魔のベールは厚い。人類を幾度も殺せるほどの核爆弾をため込んで、「偉大なる社会」などと自讃して他国を見下している姿は、権力の魔性に操られている姿といえよう。
 そうした尊大な国も、少しばかり金が不足すると、大慌てで各国に呼びかけて、″大蔵大臣″を召集しようとする。金のために、そのようなことが可能ならば、最も人類が渇仰している平和のために、生命の安全のために、核戦力全廃のための世界最高首脳者会議を提唱し、徹底して対話を交わす勇気をこそ、発揮してもらいたいものである。魔のベールを引き裂くことができるのは、勇気ある対話以外にはあり得ないからだ。
 世界のしかるべき指導者の一人が、ある日、正気に目覚めて、平和のために、このような会議の開催を決意し、それを強く世界に向かって主張したとしたら、全世界の世論は、こぞって、絶対の支持を与えるであろう。
 待望すべき、二十世紀の真の英雄がいるとするならば、このような指導者こそ、まさしく英雄の名に値するのである。ここに初めて、全人類がその始末に困ってしまっている、核戦力の地獄の問題は、確実に解決の端緒をつかむにいたるだろう。
4  ところで、核兵器を念頭においた、戦後の平和運動は、一九四八年(昭和二十三年)ごろから、世界の文化人の手によって、各国で開始され、四九年(同二十四年)になると、四月に第一回平和擁護世界大会が、七十二カ国と十の国際団体の代表、約二千人が参加し、パリとプラハの二会場で開催された。そして、平和擁護世界大会委員会を設置し、恒久的活動に入っていった。
 日本でも、この年の七月二十二日には、広島市が、トルーマン米大統領への平和請願十万人署名運動の推進を決定した。九月六日、十万七千八百五十四人の署名嘆願書を、アメリカに発送した。
 五〇年(同二十五年)になると、三月十五日から、スウェーデンのストックホルムで、平和擁護世界大会委員会総会が開かれ、ようやく世界的規模での実践段階に入った。三月十九日に採択された、この時の決議は、いわゆるストックホルム・アピールと呼ばれ、大きな反響を呼んだ。
 「われわれは、恐怖の武器であり、大量殺致兵器である原子爆弾の絶対禁止を要求する。
 われわれは、この禁止が、確実に実行されるための厳格なる国際的管理体制の確立を要求する。
 われわれは、いかなる国に対してであれ、最初に核兵器を使用する政府は、人類に対して罪を犯すものであり、その政府は、戦争犯罪人として、取り扱われるべきであると考える。
 われわれは、世界中の善意あるすべての人びとが、この宣言に署名することを求める」
 このアピールによって、全世界に署名運動の波が起きた。八カ月間に、実に五億人の署名が集まったのである。
 日本の新聞は、占領下にあったためか、この時の委員会のことも、アピールのことも、ほとんど報道していない。それでも、署名運動の波は広がり、六百数十万人の署名があった。
 五〇年(同二十五年)という年は、戦争か平和かの問題が、再び世界的規模で考え始められた年といえよう。すなわち、核への危機感が、今さらのごとく、世界の心ある多くの人びとの胸底に、兆し始めたのである。
 核戦争にからまる、もろもろの懸念は、国家を超え、民族を超え、人種を超え、イデオロギーを超えて、人類の最大にして、最も普遍的な、最も重要な問題となっている。核戦力の問題は、一国の問題でもなければ、同盟国ブロックの問題でもない。全人類の問題となってきていることは、厳然たる事実である。
 にもかかわらず、現在は、この核兵器の問題を、低く狭い次元で解決しようと、小才を弄しているにすぎない。それでは、とうてい解決するはずがない。しかも、この核戦争の悲惨極まりない破滅的な結果を回避できるのは、核使用の決定権を握る責任者の地位にある指導者たちだ。
 これらの指導者たちが、地球の広大さと同じ視野に立った時、つまり地球民族主義とでもいうべき見地、世界民族主義とでもいうべき思考が進んだ時、初めて具体的な解決のカギを手にすることができるにちがいない。つまり、これら数人の指導者の指は、核戦争の引き金を引くことも可能であるし、また、その解決のカギを回すことも可能なのである。
 戸田城聖は、他界する前年、一九五七年(昭和三十二年)九月八日、横浜・三ツ沢の陸上競技場で挙行された、青年部東日本体育大会での講演で、遺訓の第一として次のような師子吼を残した。
 「今、世に騒がれている核実験、原水爆実験にたいする私の態度を、本日、はっきりと声明したいと思うものであります。いやしくも私の弟子であるならば、私のきょうの声明を継いで、全世界にこの意味を浸透させてもらいたいと思うのであります。
 それは、核あるいは原子爆弾の実験禁止運動が、今、世界に起こっているが、私はその奥に隠されているところの爪をもぎ取りたいと思う。それは、もし原水爆を、いずこの国であろうと、それが勝っても負けても、それを使用したものは、ことごとく死刑にすべきであるということを主張するものであります」
 壇上の彼は、春の発病以来、小康を得ていたものの、体調は思わしくなかった。しかし、気迫は、いささかの衰えも見せなかった。晴れ渡った空の下で、後事を託するに足る、万余の青年男女に向かって、彼は遺訓を与えたのである。
 「なぜかならば、われわれ世界の民衆は、生存の権利をもっております。その権利をおびやかすものは、これ魔ものであり、サタンであり、怪物であります。それを、この人間社会、たとえ一国が原子爆弾を使って勝ったとしても、勝者でも、それを使用したものは、ことごとく死刑にされねばならんということを、私は主張するものであります。
 たとえ、ある国が原子爆弾を用いて世界を征服しようとも、その民族、それを使用したものは悪魔であり、魔ものであるという思想を全世界に広めることこそ、全日本青年男女の使命であると信ずるものであります」
 彼の、原水爆禁止を宣言する、この遺訓は、多くの宣言に比べて、一つの際立った特色をもっている。それは、原水爆の使用は、国際間の軋轢であれ、民族の利害の衝突であれ、あるいは一国の野望のためであれ、これことごとく「魔」の仕業であるという深い洞察である。
5  人間は、なかなか「魔」には勝てない。どんなに意志を強固にしても、どれほど善意にあふれでいようとも、人間は、残念ながら、「魔」に勝つことが至難のようである。
 「魔」とは、いったい何なのであろうか。これまで、抽象的な解釈や説明はなされてきたが、要を得た解明は見られない。だが、根本的には、「魔」とは奪命者といわれるように、人間の生命と幸福を奪うもの、つまり、人をして、不幸へ、不幸へと落としゆく作用、力であるにちがいない。
 生あるものすべてを、非情に殺戮し、破滅させる、原水爆の恐るべき破壊力とは、まさに、「魔」を具現化したものといってよい。互いに破壊力を競う「恐怖の均衡」によって、相手の核攻撃を抑止しようという、核戦力依存の現実は、この「魔」に思考力を委ね、奪われてしまった姿といわねばならない。
 では、その「魔」を見破ることのできるものは何か。ここに、生命哲学の重大さが浮かび上がってくる。結論して言えば、「魔」を破るものは、ただ一つ、「仏」の生命しかないのだ。「魔」は、絶対に、「仏」に勝つことはできない。ゆえに、核戦力という魔の仕業も、所詮は、仏の軍勢によって衰滅するにいたるであろう。
 つまり、仏法による「人間革命」なくしては、核廃絶も、真実の恒久平和もあり得ないといってよい。
 核戦力の絶滅ということは、二十世紀に時を同じくして、この地上に出現した、仏の軍勢の使命である。戸田城聖は、この使命の達成を遺訓の第一としたのである。
 してみれば、原水爆禁止に関する真のオピニオンリーダーたる資格は、いずこにあるのでもない。仏法の真髄である日蓮大聖人の教えを奉じて、「人間革命」をめざし、日夜、懸命に広宣流布の活動にいそしんでいる仏の軍勢、わが創価学会こそ、名実ともに、その資格と使命が備わっていると自覚しなければならない。幾百千の平和運動も、やがて、この「人間革命」という奔流へ、大河へと、注がれていくであろう。
 一九五〇年(昭和二十五年)ごろ、戸田城聖は、世界で平和運動が展開されていることも、また、この運動の軸は原水爆禁止にあることも知つてはいたが、いかんせん、当時の創価学会は、社会に対して宣言するほどの力をもたなかった。
 彼は、はやる心を抑えに抑えて、弟子たちの信心の剣を、ひそかに磨きに磨くことに没頭していたのである。
 彼は、当時の国民の表情を悲しく思った。そして、どうにもならぬ政治悪について、まず政治の根底に仏法の極意を置くべきことを、彼の確信として述べるにとどめていた。この五〇年三月に出た『大白蓮華』第七号の巻頭言に、彼はこうつづっている。
 「ただ悲しみと苦しみが一国に充満し、業をうしない、業に従うものも楽しむことができない。平和と幸福と希望をうしなった民衆ほど、あわれな存在はないと思う。国民に耐乏生活を求めるなどということは、ことばではりっぱであるが、これが国民生活に現れるときには、種々な悲劇を生み出す結果となる。政治をとるものも、その時代として、やむなき事情にあり、それ以外に方法がないとするなら、その民衆も宿命的なものとする以外にあるまい。
 この劣悪な政治を、吾人は、その時代は忍ばねばならぬとしてむ、それでよいとして、泣き寝入りするわけにはいくまい」
 彼は、戦後の不況下における国民生活の哀れさを書き、戦時中の劣悪な政治を指弾し、さらに、彼の救済策の根本をつづっている。
 「(仏の)慈悲の理論が、王法に具現するならば、前にのべたような劣悪な政治はなくなるのである。政治史において、われわれが尊敬をはらう政治は、その政治をとった人たちが、仏法を知ると知らずとに関せず、仏法の極意が王法に具現されたのにほかならない」
 根本であるべき慈悲が失われた劣悪な政治が、今、日本で、まさしく公然と行われていることを、彼は見逃さなかった。
 彼は、その劣悪な政治を根本から変革する道を、仏法のうえから、次のように説いたのである。
 「この理論を、大聖人様は、つぎのように、おおせられているのは、政治の極意を喝破せられたものである。
 『王法仏法に冥じ仏法王法に合し』との一句のおことばは短いけれども、政治をとるものの心すべき事がらではないであろうか。また、おおせには、『大衆一同の異の苦しみは、日蓮一人の苦しみ』と。慈悲の広大をうかがえるとともに、政治の要諦は、この一言に帰するのである。わが国において、いつの日にか、正しく王法仏法に冥じ、仏法王法に合するときがくるであろうか。
 そのときは、正しい仏法が、正しく民衆に理解され、民衆に信じられるときであって、それがゆえに、吾人は大衆のために、正しい宗教を求め、正しい宗教を叫びつ守つけているのである」
 戸田城聖が、王仏冥合の理念について、最初にぺンを走らせたのは、この時であった。
 王法とは、政治のみならず、人間社会のすべての営みであり、広義の意味での文化と言えよう。仏法という慈悲の哲理、生命尊厳の哲理を、その王法の根底とすることが、王仏冥合である。
 彼は、当時の国民に強いられた耐乏生活の困窮を見るに忍びず、その唯一の解決の道を暗示的に説き、心ある学会員の胸に、激励と希望の灯火を与えたかったのであろう。
 その彼自身もまた、苦闘を強いられた国民の一人あった。
 企業の資金難から、借り入れの申し込みは相次ぎ、その十分の一も応じられなかった。しかし、預金額はそれに反し、思うように伸びていかなかったのである。新規の事業は、まことに発展しにくい時勢であった。結局、事業は運転資金が潤沢か、枯渇しているかに、一切がかかっているように見えた。
 彼は、資金調達の血路を開こうと、鋭意努力はしたが、出版を停止してしまった彼に、これまでの出資者たちは警戒しだして、出資をしぶった。そこへ、彼の資金難の隙を狙って、さまざまな人物が登場しだしたのである。
 まず、これまで長い間、事あるごとに戸田と交渉のあった、牧口門下の実業家連中である。戸田は、彼らを、牧口門下の盟友として遇したが、学会の、新しい、激しい進展の軌道が明瞭になるにつれて、彼らは、いつか不即不離のような状態となり、日常活動の第一線から姿を消してしまっていた。
 だが、総会などの壇上には、必ず姿を現すといった、いわゆる名誉幹部になってしまっていたのである。
 戸田は、時に苦々しく思い、若手の幹部に心情をもらすことも多くなっていた。
 「学会は実践の団体だ。この世に生きて、最高の大善を実践する最高の団体です。雛壇は一切必要はない。あの昔からの理事たちが、いつまでも壇上に並んでいるようでは、学会の発展の姿とはいえないんだよ。君たちも、しっかりしなければいけない。青年たちが、早く立派に成長しなければ、とても、この学会を将来とも支えていくことは難しいのだ」
 戸田から遠ざかっていた、この実業家たちが、東光建設信用組合が設立されると、にわかに足繁く出入りし始めた。預金者や出資者を斡旋するかと思うと、また借り入れの申込者も、大勢、連れて来た。いずれの社会でも、醜い利用主義者というものが、悪賢く隙を狙っているものである。
 さまざまな金融ブローカーも、暗躍するようになった。貸し金の返済が不履行になって焦げつくと、貸し先を紹介した者たちは、さっと手を引いた。結局、組合内部では、戸田の責任となったのである。
 「経済安定九原則」が強行されて、一年が経過してみると、その犠牲は予想をはるかに超えていた。
 操業短縮や、休業に追い込まれた企業が続出しだした。中小企業にいたっては、前年からの倒産が、なおも後を絶たなかった。新聞は、連日のように、倒産や、税金苦による自殺や、一家心中の暗い事件を報道した。まさしく経済問題は、深刻な社会問題と化していたのである。
6  このような経済危機に関する記者の詰問に、政府要人は楽観を装って答えた。
 「税や倒産が、どれだけ自殺の原因になっていたのか、調べなければ何ともいえぬ」「戦争に負け、大きなインフレ収束を行っている時だから、大きな政策の前に多少の犠牲が出るのは止むを得ぬ」
 このような放言に、民衆は憤激したものの、政治的な重圧と、目前の困窮に追われて、どうしようもなかった。
 戸田城聖は、こうした経済不況のなかで、停止した出版部門の整理も、多くの債権者を相手に進めなければならなかった。社員の給与も、遅配したり、分割払いにしなければならないことも、しばしばであった。しばらくすると、社員のなかで一人、二人と退職していく者も現れてきた。戸田は、そのようような者を決して引きとめなかった。
 何よりも、資金が枯渇していた。借り手は、いくらでもいる。だが、資金の補給路は、月々、細くなっていった。そして、貸付金の回収の遅延が、資金不足にさらに輪をかけた。また、人手も不足になってきた。
 ようやく、彼の事業にも、憂色が濃くなったのである。
 しかし、戸田は、創価学会理事長として、学会の会合では、事業の苦悩など、少しも顔に出さなかった。相変わらず、彼の指導は、時に厳しく、時に慈愛にあふれ、闊達自在のうちに、信心の種子を、しっかりと植え付けていった。講義も座談会も、予定通りに敢行し、一日も欠かすことはなかった。連日、多忙の最中でも、彼を慕って指導を求めて来る人びとには、時間をつくっては、抜苦与楽の指導を懇切に行っていたのである。
 さすがに、彼には、地方指導の機会はなくなってしまったが、主な幹部たちは、土曜、日曜にかけて、栃木や群馬、伊豆、そして近県の拠点で、月々の定期的な戦いを、活発に展開していた。
 社員は別として、連日のようにやって来る幹部たちは、信用組合の苦境など、ほとんど知らなかった。激しい人の出入りを目にして、盛業中とさえ思い、むしろ無邪気に喜んでいたのである。
 このころ、山本伸一は、戸田の指示のままに、毎日、四方八方に飛んでいた。用件のことごとくは、厄介な外交戦といってよかった。だが、彼は、自分の目前の困難な課題を、決して避けなかった。彼の正義感が、それを許さなかったからである。
 彼の仕事は、相手の了解を求めたり、支援を依頼したり、厳重に抗議や督促をしたり、苦情を受け止めたり、一件として気の許せる仕事ではなかった。
 現実の厳しさと、責任の重さに、毎日、くたくたになって、疲労は重なった。若い伸一は、あまりにも早く、社会の大きな波を被ってしまったともいえるのである。
 しかも、大勢は不利であった。彼は、深夜、下宿に戻って、唱題に励んだが、疲れ果てた体は、どうしようもなかった。そして、胸部疾患は、日に日に、病弱な彼を憔悴させていったのである。
 彼は、一年前、実家を出て、ひとり大森のアパートの一室に寝起きしていたのだが、索漠とした深夜の狭い一室は、時に父母の家を懐かしく思い出させた。二十二歳の青年は、心身ともに疲れきった体を、父母の家になら投げ出すこともできたろう。たとえ、それが敗残兵の姿であったとしても、父母は抱き取ってくれたにちがいない。しかし、同時に、彼の体を、これほどまでに痛めつけた会社を呪うであろうことも、今の父母の心情から予想されることであった。
 彼は、戸田城聖という恩師を傷つけることだけは、絶対にできなかった。彼は、悲鳴をあげる代わりに、真剣に唱題に励んだ。せめて体が頑健であったら、あるいはまた、日々の仕事が順風に帆を上げるように進んでくれたのであったら――そのどちらかの一つでもあったら、彼は、これほどまでに悩み苦しみはしなかったろう。
 体も仕事も、二つとも最悪の危機に見舞われてしまっていた。活路を求めて、最大の努力はしていた。だが、時には、あがけばあがくほど、足は深いぬかるみに吸い込まれていくような思いがした。
 彼は、このような時、毎夜、御書の一節を拝読していった。そして、それを日記に書きとめる習慣が、いつか身についていた。それは、孤独な彼にとって、唯一の深夜の会話といってもよかった。それはまた、彼の心に尽きぬ光明をともしたのである。
 そのようなある夜更け、彼は「開目抄」をひもといているうちに、ふと次の一節が目に入った。
 「父母の家を出て出家の身となるは必ず父母を・すくはんがためなり
 彼は、現在の生活を、大聖人に肯定していただいた思いがした。出家といっても、剃髪するわけではなかったが、彼もまた、偉大な宗教革命家としての生涯を、自らの使命としているからには、家を出て、戸田の膝下で全力投球で働いている、との自分こそ、必ず父母を救うことになるのだと、思いを新たにしたのであった。
 ″今の苦闘こそが、やがては自身の人間革命を成就する瑞相であり、同時に、父母を幸福にすることになるのだ。今に見ろ! 今の苦難に莞爾として進めばよいのだ。若いのだ。雄々しく歓喜を湧かせ、たぎらせて、前進また前進しよう。すべては、大御本尊様の照覧のもとにあるのではないか。誹る者には誹らせておこう。笑う者には笑わせておけ。そんなものがなんだ!″
 彼は、狭い部屋の中に寝転んで、じっと天井を仰いでいた。時々、喉にからんだ疲がとれないでいる。
 伸一は、天井を見ているのではなかった。わが人生の危機をひしひしと感じ、思いをめぐらしていたのである。そして、猛然と、わが意志を燃え立たせていた。彼は、疾風のなかにいる思いがして、いつしか厳しい表情に変わっていた。
7  社会の風も、いつか強く吹いていた。日本民族は、疾風のさなかに、さまよっていたともいえよう。
 五月二日、マッカーサーは、新憲法施行三周年を迎えるにあたり、声明を発表した。そのなかで彼は、共産党が日本の民主主義の正常な発展を妨げる存在となりつつあることを指摘し、次のように述べた。
 「同党が破壊しようとしている国家、および法律から、同党がこれ以上の恩恵と保護を受ける権利があるかどうかの問題を提起し、さらに同党の活動を果してこれ以上憲法で認められた政治運動とみなすべきかどうかの疑問を生ぜしめる」
 「共産党運動の底に横たわる諸目的ならびに共産党が政権奪取に成功した諸国では同党が不可避的にどんなことを引起したかという結末がはっきり見とどけられる」
 「海外における実例は共産党の支配下では労働者は一切の権利を失うことを示している」
 「現在日本が急速に解決を迫られている問題は、全世界の他の諸国と同様、この反社会的勢力をどのような方法で国内的に処理し、個人の自由の合法的行使を阻害せずに国家の福祉を危くするこうした自由の濫用を阻止するかにある」
 東西の冷戦が激しさを増し、中国では共産党政権が樹立された。そして、韓・朝鮮半島での、南北対立の情勢も看過できない状況になっていた。マッカーサーは、日本を堅固な反共の防波堤にするために、日本国内における共産党の活動を排除しなければならないことを、明確に示したのである。
 五月三十日、皇居前広場で、人民決起大会が開かれ、約二万人の労働者、学生が参加した。
 ちょうど一年前の五月三十日、東京都公安条例反対デモの折に、東京交通労働組合の一組合員が、警官隊との衝突騒ぎのなかで死亡するという事件が起きた。人民決起大会は、この事件の一周年に際して行われた大会であった。
 大会終了後、デモ行進に移ったが、解散地点の日比谷公園近くで、警察官との間にいざこざが起きた。このトラブルに、五人のアメリカ軍人も巻き込まれ、騒ぎは大きくなった。
 MP(アメリカ陸軍憲兵)が駆けつけ、八人の労働者、学生が逮捕されたのである。八人は、即座に軍事裁判にかけられ、六月三日に判決が下された。一人が重労働十年、六人が同七年、一人が同五年の刑であった。
 六月六日、マッカーサーは、吉田首相に対して書簡を送り、共産党中央委員会の全員、二十四人に対する公職追放の指令を出した。そこには国会議員も含まれていた。
 この時の、マッカーサーの書簡には、公職追放に関する全く新しい見解が示されていた。彼は、戦後の日本に対する連合国の基本的方針を再確認したあと、次のように述べている。
 「この措置が適用される範囲は主としてその地位と影響力とから見て、他民族の征服と搾取に日本を導いた全体主義的政策に対して責任を負うべき地位にある人々に限られてきた。
 ところが最近にいたり日本の政治には新しく右に劣らず不吉な勢力が生まれた。この勢力は代議政治による民主主義の線に沿って日本が著しい進歩を遂げているのを阻止し、日本国民の間に急速に成長しつつある民主主義的傾向を破壊するための手段として真理をゆがめることと大衆の暴力行為をたきつけることによって、この平和で静穏な国土を無秩序と闘争の場に転化しようとしている。
 彼らは一致して憲法にもとづく権威を無視し、法と秩序による行動を軽視し、虚偽や扇動その他の手段によって社会混乱を引起し、ついには日本の立憲政治を力によって転覆する段階をもち来らすような社会不安を生ぜしめようとしている。彼らの強制的な手段は過去の日本の軍国主義指導者が、日本人民をだまし、その将来を誤らしめた方法と驚くほどよく似ている」
 公職追放令の対象者は、それまで政界や、財界の軍国主義者や、国家主義者に限られていた。しかし、マッカーサーが書簡を送ったこの日から、共産党員とその同調者が対象となったのである。
 共産党の中央委員二十四人が公職追放となった翌日の六月七日には、共産党機関紙「アカハタ」の編集幹部十七人に対しても、追放指令が出された。共産党は、緊急に会議を開き、幹部は地下活動にもぐることを決定した。
 このような状況のなか、十日前の五月二十七日に、対日理事会ソ連代表部のクズマ・テレビヤンコ中将以下四十九人は、突如、帰国している。米ソの対立は、先鋭化の道をたどっていたのである。
8  マッカーサーは、一九五〇年(昭和二十五年)の年頭の辞で、「終戦後五度目の新年を迎えた今日、まぎれもなく一つの際立った事実が認められる。
 ……今日、日本よりも平和な国は、この地球上に全く数えるほどしかないという事実である」と、占領政策の成功を自賛した。しかし、戦雲は玄界灘の彼方に、暗く立ち込め始めていた。
 六月二十五日、日曜日――。
 正午のラジオニュースを聴いた人びとは、息をのんだ。
 ラジオは、北朝鮮軍の韓国侵入を報じたのである。北朝鮮軍が三十八度線を越えて、韓国に進撃して来たというのだ。人びとは、瞬間的に、五年前までの戦争を思い起こして、ドキッとなった。戦争の悪夢を忘れかけていた脳裏に、第三次大戦勃発の不安がよぎった。
 冷戦のなかで、突如、″熱い戦争″が始まったのである。東西対立の冷戦は、狭い韓・朝鮮半島で、戦火に変貌して広がった。投入された東西の大軍は、半島の南北にわたって押しては押し返され、また押すという激戦を繰り返し、三年一カ月にわたる残虐戦を展開したのである。
 朝鮮戦争(韓国戦争)は、同胞相互の大量殺裁という痛ましい悲劇と、全半島に悲惨な荒廃の姿を残して、その戦いを終えた。そして、元の三十八度線で対峙し、「勝利なき休戦」のまま、長い歳月を経ることになった。まさに、東西両陣営の冷戦の犠牲国といってよい。
 三十八度線という人工的な境界線は、韓・朝鮮半島に住む民衆が、決めたものではない。第二次大戦の末期、日本の降伏が目前になった時期に、アメリカとソ連の間で決められたものだ。正式には、四五年(同二十年)九月二日、日本が降伏文書に調印したあとに、マッカーサーが、連合国軍最高司令部の命令として、韓・朝鮮半島の三十八度線以北はソ連が日本軍の武装解除を行い、以南はアメリカ軍が行うことを発表した。このことに、韓・朝鮮半島の人びとは、全く関与していないし、国家の分裂など夢にも思わなかったことである。
 八月九日、日本に宣戦布告したソ連軍は、八月十五日には半島の東北部まで進撃していた。その後は、降伏した日本軍の武装解除をしながら、三十八度線まで南下した。
 アメリカ軍の先遣隊が、韓・朝鮮半島に進出したのは九月六日である。そして、三十八度線以南の日本軍の武装解除を行った。
 同じ九月六日、既に結成されていた「朝鮮建国準備委員会」は、全民族的政権として「朝鮮人民共和国」の発足を宣言した。しかし、こうした民族の熱願は無視され、米ソ両国による占領態勢が開始された。朝鮮は、日本による被害国ではあっても、決して敗戦国ではなかった。しかし、この占領態勢が、半島を二分して民族が相争う悲劇の幕開けとなった。
 十二月になると、モスクワで米・英・ソ三国外相会議が聞かれ、朝鮮臨時政府の樹立と、五年間の信託統治などを盛り込んだモスクワ宣言が発表された。
 即時独立を求めていた人びとは、信託統治に対して猛烈な反対運動を起こし、独立を求める叫びは南北に広がった。だが、北ではソ連による軍政が敷かれ、南ではアメリカによる軍政が敷かれて、二つの対立する体制が出来上がりつつあった。
 四七年(同二十二年)九月、アメリカは朝鮮の独立問題を国連に提訴した。国連は、韓・朝鮮半島全土で選挙を行うことを決議して、翌四八年(同二十三年)に委員会を送り込んだが、ソ連は北部への立ち入りを拒否した。そのため実施可能な地域だけで選挙を行うことになり、結果的に南部だけで選挙が行われた。
 これにより、同年八月、南部には李承晩を大統領とする大韓民国(韓国)が成立し、国連は、大韓民国を、韓・朝鮮半島における唯一の合法的政府として承認した。これに対抗するように、北部では九月に朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の樹立を宣言した。
 ここに、統一国家への民衆の悲願は、冷戦のなかで、大国の思惑のもとに踏みにじられてしまった。大国同士は、平然と他民族を犠牲にして、相争っていたのである。
 韓・朝鮮半島は戦略上の要地として、歴史上、幾度となく大国に侵略され、支配されてきた。近年だけを見ても、中国、ロシアの影響下に置かれ、さらに日本の植民地支配で、苦汁をなめなければならなかった。そして、今また、東西両陣営の対立の犠牲となり、結局、半島は二分されてしまったのである。
 北朝鮮軍の攻撃が報じられると、アメリカ政府は、国連安全保障理事会の開催を要請した。安保理事会は即座に開催され、ソ連代表の欠席のまま、アメリカが提出した北朝鮮非難決議案が採択された。
 六月二十七日、トルーマン大統領は、安保理事会の要請に応えて、海空軍を出動させると声明を発表した。アメリカは、その夜の安保理事会に、国連加盟国が韓国に軍事援助を与えるように勧告することを提議し、採択された。これによって、アメリカの海空軍の出動は、国連の承認を得た行動となった。
 二十八日早朝、米空軍の爆撃機が初めて日本を飛び立ち、三十八度線に向かった。
 万全の態勢をとって進撃した北朝鮮軍は、怒濤のごとく進んで、早くも二十八日には首都ソウルを陥落させた。この状況に、アメリカ極東軍司令官マッカーサーは、アメリカ地上軍の投入が必要であることを本国に建議した。三十日、トルーマン大統領は、マッカーサーに対し、彼の指揮下にある地上軍を、韓・朝鮮半島に展開させる全面的な権限を与えた。
 七月七日、国連軍統一司令部をつくる決議案が、安保理事会で可決された。韓・朝鮮半島に出動したアメリカ軍は、「国連軍」となった。
 米空軍は制空権を確保したが、地上では北朝鮮軍の進撃が続き、韓国軍は退却に退却を重ねていた。最前線に到着した米地上軍の先遣隊も、北朝鮮軍の猛攻の前に敗れ、韓国軍とともに敗走した。
 ソ連製の強力な兵器で武装し、万全の準備を整えて攻撃してきた北朝鮮軍の前に、貧弱な装備の韓国軍も、訓練不足のアメリカ軍も、その敵ではなかった。七月末には、米韓両軍は、釜山を中心にした、わずかな地域に追い込まれ、北朝鮮軍は半島のほぼ全域を占領した。
 こうして朝鮮戦争の第一段階は、北朝鮮軍の圧倒的勝利であったが、九月十五日の米軍の仁川上陸で戦局は逆転し、第二段階へ移るのである。以後、半島の全域を、両軍は進撃しては後退するという、すさまじい戦闘を繰り返すことになった。民衆は、まるで、左右から致命的な殴打を何回も受けるような、残酷な目に遭ってしまったのである。
 海峡を隔てた半島の戦火は、日本にとっても対岸の火ではなかった。占領下の日本列島は、アメリカの前線兵站基地となり、米軍の作戦基地と化した。
 当然、国内の治安体制は強化され、GHQ(連合国軍総司令部)の指令による日本の再武装計画が、実行に移されていったのである。
9  開戦の翌日、六月二十六日に、共産党の機関紙「アカハタ」は、三十日間の発行停止処分を受け、七月十八日には無期限発行停止を命じられている。また、既に六月十六日から、集会、デモは、全国にわたって無期限に禁止されていた。
 七月二十八日、いわゆる「レッド・パージ」が開始され、新聞・放送・通信機関に従事する左翼的な傾向の人びとが、企業の安全と平和のためという理由で、解雇されていった。それは、やがて日を追って全産業に浸透し、年末までに約一万三千人が職場を追われた。
 八月三十日には、全労連(全国労働組合連絡協議会)が団体等規正令によって解散を命じられている。
 憲法も国内法も、問題にならなくなった。すなわち、GHQは、指令によって、直接、内政に介入するにいたったわけである。
 マッカーサーは、戦争開始二週間後の七月八日、日本政府に対し、七万五千人の「警察予備隊」の新設と、海上保安庁の人員八千人の増員を指令してきた。吉田内閣は、ポツダム勅令としてこれに対応し、国会に諮ることなく、警察予備隊の創設に向けて準備を進めた。
 八月十日、警察予備隊令が公布され、八月二十三日には、早くも七千人の隊員が、第一回の入隊を完了している。これは、米駐留軍が、すべて朝鮮戦線へ移動したあと、占領下日本の治安を確保するのが目的であったことはいうまでもない。
 雲行きは慌ただしく、国民が気づいた時には、いつの間にか準臨戦態勢に置かれていたといってよい。
 当時、占領下にあった敗戦国日本としては、なす術もなかったといえよう。
 ともあれ、大国が自国の利益のために、他国を犠牲にすることは、断じて許されるものではない。それこそ人道に反する、人類の敵ともいうべき行為だ。
 また、国と国とが、社会体制や民族、宗教などを、己が至上の価値として対立していては、この地球上には、いつになっても平和な春は訪れないであろう。対立と偏狭のなかには、平和への真の対話は生まれないからである。
 ここに、人間を分断し、対立させる要因を、大きく包含し、調和を生み出していく高次元の理念が、どうしても必要となる。人類は、心の奥底で、それを待望しているのではなかろうか。
 これこそ、仏法を根底にした中道主義であり、それはまた、人間主義ともいえよう。その思想によって、やがては戦雲はらむ疾風が、平和の薫風へと変わることを願ってやまない。

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