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日蓮大聖人・池田大作

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波紋  

小説「人間革命」3-4巻 (池田大作全集第145巻)

前後
1  池に大石を投げる――そこには大きな波紋が生ずる。現代の社会機構もまた、同じであろう。一つの新しい統治政策が、いざ実施されたとなると、それは、社会のあらゆる分野に波紋となって広がり、とどまることを知らないものだ。
 アメリカの日本占領政策の転換は、一九四九年(昭和二十四年)に、「経済安定九原則」の具体的方針、いわゆるドッジ・ラインの実施となって現れた。日本経済の自立化を図る、との方針の強行は、産業経済の復興を目的としたものだが、やがて全国民の生活を揺さぶることになった。
 この「九原則」が起こした波は、ある分野には大波となって打ち寄せ、また、ある分野には怒濤となって、人びとをのみ込むことにもなった。逆に、ある分野では高波に乗って、利潤を上げ、傲然と肩で風を切る者もあった。
 戸田城聖の事業は、この波を正面からかぶったのである。彼は、むろん、さまざまな手段を講じたものの、資本の背景をもたない中小企業の例にもれず、悪戦苦闘しなければならなかった。戦後日本の経済復興の陰には、多くの中小企業の倒産という犠牲があった。
 ただ、このころになると、「栄養失調」という言葉は次第に聞かれなくなった。国民は、ようやく慢性的な飢餓状態から脱することができたのである。
 戦後の飢餓状態のなかで、いったい、どれほどの人が「栄養失調」によって倒れていったことだろう。ある詩人は腹を立てて、ラジオ放送で叫んだ。
 ――栄養失調とは、詩人の言葉で言うならば、「餓死」ということである。
 長く国民は、餓死との戦いに、栄養失調の体で、懸命であったわけだ。巷には、服の襟が、だぶだぶになった男たち、頬のとけた、もんペ姿の女たち、老人の表情をした路上生活の戦災孤児たちがあふれ、今では、とうてい想像もつかない、厳しく暗い不幸な光景が、随所で見られた。
 飢餓との戦いは、「米よこせ」運動となり、激越なデモが、全国に頻発した。食糧の絶対量が、欠如していたのである。日本政府には、なんの力もない。占領軍は、こうした危機に、そのつど輸入食糧を緊急放出した。国民の胃の腑を、メリケン粉やトウモロコシの粉で満たしてくれたのである。同時に、悪疫の流行を抑えるために、消毒剤などを大量に使用し、社会衛生の保持に努めてくれた。占領軍が、わが国民に感謝されたのは、この時期の食糧の放出と、保健衛生の施策によるところが、大きい。
 戸田城聖は、この時期、事業の再出発と、創価学会の再建に、挺身していた。それは、すさまじい気迫をもって行われ、確かに成功といえる域にまで達することができたといえよう。だが、戦後数年にして、どうやら飢餓状態を脱した国民が、いざ経済再建に目を向けた時、生活は、荒れ狂うインフレーションの真っただ中にあった。
 戸田は、このインフレの高波にもまれながらも、真剣に舵を取りつつ、事業を拡大し、不況を乗り切ってきた。しかし、インフレの収束と経済自立化を目的とする「経済安定九原則」という、激しい波濤に直面しなければならなくなったのである。
 彼は、事業の縮小と整備とをもって、この局面に対処すべきであったかもしれない。しかし、彼の事業家としての積極性と、人情味あふれる性格は、飢えを忍んで共に戦ってきた社員を、簡単に整理することを許さなかった。
 彼は、事業においては、しばしば目を見張るような英断で、人びとを驚かせた。同時に、貧窮に沈んでいる人たちに、身を捨てて救いの手を差し伸べ、彼を知る人びとを驚かすことも、しばしばであった。
 つまり、戸田城聖という事業家は、現代事業家が持たざるを得ない、ある種の冷酷さを、全く欠いていたといえるであろう。「ひばり男」は、ここでまた、当然、身をひそめることになった。「経済安定九原則」の浸透にともなって、彼の事業は、徐々に悪化していったのである。
 ともかく、食糧事情は、かろうじて好転してきた。四九年(同二十四年)四月には、野菜の統制が撤廃されて、自由販売が許されるようになり、五月には、料理飲食店の営業再開が認められた。さらに輸入食糧も増加し、国民は、ようやく飢餓状態から解放されてきたのである。
 しかし、食糧事情は、やや改善されてきたが、国民の生活は、相変わらず苦しかった。当然、国民経済の確立が急務となってきた。そこへもってきて、東西両陣営の勢力の摩擦から、アメリカは、一日も早く、日本をアジアの防衛基地とすることが、これまた急務となったのである。内外の二つの事情から、何よりも、まず日本経済の自立安定を、図らねばならなくなっていたわけだ。
2  アメリカ政府が、マッカーサーに命じたものは、この目的を急速に達成するための、「経済安定九原則」の実施であった。四八年(同二十三年)十二月、吉田茂首相に宛てたマッカーサーの書簡は、占領下とはいえ、驚くほど強硬な内容であった。
 「これはまた日本人の生活の、あらゆる面において、より以上の耐乏を求め、自由な社会に与えられている特権と自由の一部の一時的な放棄を求めるものである」
 「その目的が日本人全体に共通のものである以上、これに対して思想的立場から反対を唱えることも許されず、その達成を遅らせたり、くじいたりしようとする企図は、公共の福祉をおびやかすものとして抑圧されなければならない」
 軍国主義の抑圧から解放されて、やれやれと思っていた国民は、今度は、突然、GHQ(連合国軍総司令部)によって自由の一部の放棄を求められたのである。
 では、「経済安定九原則」とは、どのような内容であったか、主要な条項をあげてみたい。
 「経済安定九原則」の具体的内容は、次の通りであった。
 一、総合予算の真の均衡を図ること。二、税収計画を促進強化し、脱税者を厳しく取り締まること。三、融資対象は真に経済復興に貢献する事業に限定すること。四、賃金安定を実現する効果的計画を実現すること。五、価格統制計画を強化し範囲を拡張すること――などであった。
 これは、インフレーションを抜本的に収束させ、日本経済を一気に安定させようという強行路線であった。
 衆議院議員総選挙が終わった直後の四九年(同二十四年)二月一日、デトロイト銀行頭取ジョセフ・ドッジが、トルーマン大統領の委任を受け、GHQの経済顧問として来日した。この九原則に則って経済安定化の路線を確立するためであった。三月七日、彼は、記者団との会見で日本経済の現状を厳しく批評した。
 「日本の経済は両足を地につけていず、竹馬にのっているようなものだ。竹馬の片足は米国の援助、他方は国内的な補助金の機構である。竹馬の足をあまり高くしすぎると転んで首を折る危険がある。今、ただちにそれをちぢめることが必要だ」
 ドッジの指導のもとに、GHQが作成した四九年度(同二十四年度)の予算案が、三月二十二日に池田勇人蔵相に内示された。戦後初の黒字予算であった。これを見た池田は、予算編成の難しさに頭を抱えた。
 この予算案は、日本の経済界を苦しめた。インフレーションの元凶といってもよかった復興金融金庫の融資は、三月で停止された。また、価格差補給金の予算も抑制された。これらに頼っていた石炭、鉄鋼などの重要産業は、大きな打撃を受けざるを得なかった。ドッジ・ラインによってインフレは収束に向かったが、資金力のない多くの中小零細企業が、デフレによって倒産した。産業界全体が、未曾有の苦境に直面したのである。
3  事業家・戸田城聖は、この苦境の克服を大胆に図ろうとした。彼は、そのために、資金源としての小さな金融機関を、自ら持とうとしたのである。折も折、この年の六月のある日、彼のもとへ、あつらえ向きな話が持ち込まれた。
 終戦直後、上大崎に臨時の事務所を貸してくれた、あの栗川が、ひょっこり訪ねてきたのである。二人は、冗談ともつかぬ親しい会話を、あれこれと続けていたが、話題の中心は、いつか金融機関のことになった。
 栗川は、なかなか顔が広く、抜け目がなかった。戸田の意中を知ると、栗川は、「それだ、それだ!」と、にわかに顔を輝かせて膝を叩いた。
 「賛成ですね。この時勢だもの、ぼくらの生きる道は、まず金融機関を手に入れることだと思いますよ。ところで、どうなるかわからんが、ひとついい話があるんですがね」
 栗川の話に、戸田は考えた。人を見ることに最も厳しかった彼は、いくら長年の付き合いでも、人によっては、たとえ、耳よりの話をもってきても、絶対にそれを信用してはならぬ、という主義であった。
 栗川の話というのは、彼の知人に、ある購買組合の理事長をしている、大井徹という元高級官僚がいる。その大井が、購買組合を信用組合に変えて経営したいと奔走しているが、信頼すべき協力者がない。それを今、探している最中だ、というのであった。
 「戸田先生なら、ぼくは安心して推薦できる。ひとつ、やりませんか。大井は人格者だが、老齢だし、経営手腕となると危ない。ぼくも、及ばずながら、できるかぎり手伝わせてもらいますよ。大井さんに、さっそく、話してみますが、いいですかね」
 彼の話に、戸田は笑いながら言った。
 「君は、相変わらず世話好きだな。悪い話ではないが、そう簡単なものでもあるまい。君の話でなけりゃ、信用はせんがね」
 「いや、大井さんの方は心配ない。ただ、法的手続きだけの問題でしょう。出資者は、そのまま継続するだけだから、文句のあるはずはない。新しくつくるとなると、そりゃ大変なことらしいですよ。それからみれば造作ないことですよ」
 栗川の言は、もう明日にでも発足できそうな言い方である。戸田は、ちょっと考え込んで無言でいたが、念を押すように栗川に言った。
 「その購買組合は、つぶれかかっているのと違うかね。ぼくも、これ以上、お荷物をしょっては、かなわんからなぁ」
 「そりゃ、大丈夫です。赤字ではないが、大して利潤もない組合というわけです。要するに、営業手腕がないだけでしょう。内容は、しっかりしたものです」
 「もし、そうなら、悪い話ではない」
 「そりゃ、そうです。うまい話ですよ。さっそく、大井さんに話しておきましょう。二、三日うちに会ってみませんか」
 「会うだけなら、いつでも会おう。一切は、そのうえのことにしよう」
 「そりゃ、そうですね。では、明日にでも連絡をしますよ」
 栗川は、イスから立って帰りかけたが、思いついたように聞いた。
 「時に、戸田さん、出版の景気はどうですか。えらく儲けたという話ですが、当たりましたね」
 「まだ、そこまでいかんよ。今年に入って、返本がだんだん増えてきたよ。出版インフレも、もうおしまいだな。なんとか手を打たなければならんと、考えているところだ」
 「まあ、心配しないでください。この話は、必ずまとめてみせますよ。お膳立てをしてきますから……」
 栗川は自信ありげに帰っていった。
4  数日後、戸田は、理事長の大井徹に会った。
 法的手続きの進行状況や、組合役員の動向について詳しい説明を聞いた。さらに経営内容に話が及ぶと、戸田は、少々、あきれてしまった。この元高級官吏の経営手腕は、皆無といって差し支えなかったからである。
 戸田の事業欲は、この時、猛然と息を吹き返したのである。
 彼は、戦前、次から次へと関連事業を拡大し、十七社を傘下に入れて経営するにいたった。その最後の一社は、兜町へ進出した証券会社だったのである。だが、そのすべての事業は、創価教育学会が弾圧され、彼が入獄するとともに瓦解し、全く無に帰してしまった。
 彼は、およそ事業の基礎というものは、最後には金融資本の掌握が必要となってくることを、痛感していた。
 戸田は、栗川の話に乗った。しかし、購買組合から信用組合への組織変更は、栗川が言うほど単純なものではなかった。
 この大井のもつ、東光建設信用購買利用組合という長い名称の組合は、当時、中小企業等協同組合法、つまり通称、産業組合法と呼ばれる法律に基づくもので、それまで商工省の監督下にあり、五月からは新しく設置された通商産業省の管轄になっていた。
 この組合を金融部門の組合、つまり東光建設信用組合に変更すると、法律に基づいて、大蔵省の監督下に置かれることになる。
 したがって、この新組合の設立免許を得るには、通産・大蔵両省にわたって、多くの捺印が必要であった。官僚出身の大井は、設立免許について自信をもっていたが、時間は、いたずらに流れていった。
 戸田が忘れかけたころ、やっと大蔵省の免許にまで、こぎ着けたのである。その時は、既に秋になっていた。
 理事長・大井徹、専務理事・戸田城聖で、東光建設信用組合なるものが発足した。そして、事務所は、日本正学館の一階に置かれたのである。
 最初の組合業務は、なかなか軌道に乗らなかった。経営の一切の責任は、戸田にある。彼は、出版部門に兆し始めた退勢を、この信用組合で、なんとか挽回しようと必死であった。
 後年、彼は、この当時を回想して、「あの時は、全知全能を振り絞って、孤軍奮闘したものだ」と述懐していた。
5  ドッジ・ラインと呼ばれた「経済安定九原則」の実施策の内容が明らかになると、その波紋は各政党にも波及した。それは、各政党が掲げていた、さまざまな政策を、根本から覆すものであった。
 総選挙で絶対多数を獲得した吉田茂内閣は、選挙の時に国民に約束した公約を、次々に破棄していく羽目になった。吉田内閣は、所得税の引き下げ、法人税の大幅な軽減、賃金の引き上げ、金詰まり打開のための中小企業向け金融機関設置、統制の撤廃などをうたい上げていた。これらの公約は、敗戦後の生活苦にあえぐ庶民に、なんらかの変革への希望を与えるものであった。民主自由党が圧倒的支持を受けて選挙で大勝した要因の一つに、こうした公約があったことは間違いないだろう。
 しかし、九原則の実施にともなって、政府は弁解を重ねつつ、庶民の願いを裏切っていくことになった。皮肉なことに、絶対多数の権力は、九原則実施の強力な推進力となったのである。そして、この九原則の実施のために、短期的には、労働者、庶民を苦しめる政策が立案されていくことになった。
 ドッジ・ラインを実施するためには、企業整備・行政整理は避けられない関門であった。これは勤労者の大量馘首となって現れた。
 価格差補給金や復興金融金庫に依存していた企業が苦境に立たされ、多くの中小企業が倒産した。倒産原因の大半は資金難であった。
 大企業も、採算性の低い部門の縮小・廃止や、大量の解雇に踏み切った。
 一九四九年(昭和二十四年)二月から十二月までの間に解雇された勤労者は、労働省職業安定局の統計によると、四十三万五千人を超えている。しかし、実際には、この数字よりはるかに多くの人が、職を失って苦しんでいたことは間違いないだろう。
 世情騒然とならなければ、むしろ不思議である。
 さらに、公務員、官業労働者に対する行政整理という名の解雇は、有無を言わせぬ態勢で進められた。これを実行するために、「行政機関職員定員法」が国会に上程された。衆議院では議論が紛糾したが、結局、賛成二百二票、反対八十二票という圧倒的多数で通過した。参議院でも何度も会期を延長した末、五月末に成立し、六月一日から施行された。
 これにより、政府関係の職員は、二十八万五千人が削減されることになった。
 しかも、この定員法による免職は、国家公務員法で認められていた、不利益在処分に対する審査請求権は適用されなかった。また、日本専売公社や国鉄の職員については、免職になっても、公共企業体労働関係法で認められていた団体交渉の対象とされず、苦情処理共同調整会議にかけることもできなかった。定員法は、問答無用の免職を可能にしたのである。
 「経済安定九原則」という一石の波紋は、日ならずして全国に万波を呼んだ。GHQからの一つの指令が、日本列島を震撼させたのである。
 工場閉鎖などの非常処置に対して、労働組合は防衛に必死となって戦った。
 しかし、「行政機関職員定員法」に次いで、六月十日から施行された改正「労働組合法」、改正「労働関係調整法」などによって、活動は制限された。
 四七年(同二十二年)の「二・一」ストの時のような勢いは出せず、不利な戦いをしなければならなかった。
6  国鉄では、七月四日に第一次の人員整理として、三万七百人の名簿を発表した。労使の激突は避けられない状況となったが、翌五日の朝、出勤途中の下山定則国鉄総裁が、日本橋三越本店に入ったあと、行方不明になるという事件が起きた。そして、六日午前零時二十五分ごろ、東京・足立区内の常磐線綾瀬駅付近の線路上で、死体が発見されたのである。いわゆる「下山事件」である。
 自殺説、他殺説が出たが、ともに決定的な証拠がなく、未解決に終わった事件である。事件の真相は解明されなかったが、労働組合側は、闘争相手の怪死によって矛先が鈍らざるを得なかった。
 「下山事件」の騒ぎの渦中、七月十二日には、第二次の人員整理として、六万三千人が発表された。
 三日後の十五日、国労中央闘争委員会は、当局への警告文を出そうとしたが、これをめぐって闘争委員会は分裂した。
 その夜、またまた怪事件が突発した。中央線三鷹駅構内で、車庫にあった無人電車が暴走したのである。何者かが、電車を全速の状態にして発車させたものと思われた。
 二十数人の死傷者を出した、この「三鷹事件」では、九人の共産党員と、一人の非党員が容疑者として逮捕された。その後、裁判では党員の共同謀議は否定されて無罪となり、有罪となった非党員の竹内景助の供述も信頼性がなく、裏付けとなる物的証拠もなかった。
 庶民には、なんとも割り切れない不思議な事件が、続けざまに起こったのである。分裂した労働組合には、対応する術もなかった。こうした騒ぎのなかで、国鉄の人員整理は完了した。
 民間大企業でも、人員整理が進められた。「下山事件」が起きた七月五日に、電気関連の最大手であった東芝は、四千五百人の人員整理を発表した。
 これに抗議する東芝労働組合連合会(東芝労連)は、波状ストで対抗し、八月十七日には、福島県の東芝松川工場で、二十四時間ストの決行が予定された。
 また、六月に分割されて、郵政省と電気通信省に別れた旧逓信省は、八月十一日に、両省合わせて二万六千五百人の人員整理を全逓労組に通告した。
 官民ともに九原則実施の余波を受け、騒然として夏を迎えていたが、またもや奇怪な事件が起きた。
 東芝松川工場の労組が、二十四時間ストを予定していた八月十七日のことである。人びとが深い眠りについていた午前三時九分、東北本線の松川駅と金谷川駅の中間地点にあるカーブで、上り列車が脱線転覆し、乗務員三人が死亡した。何者かによって、レールの継ぎ目板が外されたうえ、レールを枕木に固定する犬釘も、多数抜かれていた。意図的な列車妨害事件であることは明らかだった。
 この「松川事件」では、東芝労連松川工場労組の幹部と、国鉄労組福島支部の幹部など二十人が逮捕された。そのうち十九人が共産党員だったが、事件にかかわったという決定的証拠はなかった。その後の裁判によって、全員が無罪になっている。
 一カ月余りの間に、「下山事件」「三鷹事件」「松川事件」と、国鉄にかかわる三つの不可解な事件が起こり、社会全体が得体の知れない黒い霧に包まれるなかで、労働戦線は後退していった。
 これらの事件の背景に何があったのか、真実は今なお不明だが、混乱のなかで、九原則実施に向けた行政整理、企業整備は完了した。
 民衆が、飢餓線上をどうやら乗り越えられたと思って安心したのも、束の間のことであった。今度は失業者が、各地に続出したのである。職を失った人びとが、不況のさなかに新しい職にありつくことは、至難であった。その日、その日の職を求めて、職業安定所に通う人も少なくなかった。幾日も仕事にありつけない人びとは、安定所を襲撃さえしたのである。
 あきらめた失業者のなかには、その日の生活のために、闇米の買い出し人になって、農村と都会の間を、夜行列車に揺られて往復する生活に変わっていった人もいた。警察の取り締まりの目も厳しかった。苦労して入手した闇米を、そっくり没収されるのである。泣くにも泣けない人びとが、どこの駅にもうろついていた。そして、その不平不満を、どこにぶちまけることも、できなかったのである。
 夢も希望もなくなった人びとは、自嘲し合った。それが、時には真面目な人びとの、せめてもの慰めとなる、恐ろしい時代であった。
7  戸田城聖は、日本全土をつつんだ、このような虚無感に、日夜、懸命な戦いを挑んでいた。懐疑はまだよい。虚無とは、信ずるに足るものを、ことごとく失った人間の精神状態である。
 戸田には、命をかけても悔いない、信ずべき日蓮大聖人の仏法があった。
 あの焼け野原の一角に一人立った時から、既に四年にわたる、彼の烈々たる闘志は、この夏に至って、ようやく、各地で弘教、座談会などの活動を推進する指導員、準指導員、合わせて百数十人を生み出したのである。
 それらの弟子たちは、夜ごとに、各地の座談会で懸命に働きだした。東京都内をはじめ、近郊を含めて、座談会は、月に三十七、八カ所になり、青年部主催の座談会も、十七、八カ所を数えることができた。そして、毎月の入会者数も、七十世帯を超えるようになっていた。
 千里の道も一歩からである。その道を確実に前へ進んでいく人は強い。今、少数精鋭で出発した、学会再建期の、この一団には、明るい希望があった。力強い団結の歩調が感じられた。
 一九四六年(昭和二十一年)正月に、わずか四人から始まった法華経講義も、七月の第八回の修了式には、一挙に六十一人が広宣流布の戦士として送り出されたのである。九月から始まった第九期では、受講者百数十人が、月、水、金の夕方には、先を争って日本正学館の二階に詰めかけたのである。
 この年に行われた第四回夏季講習会は、参加者も二百数十人となり、かつてない盛会であった。人びとの功徳の現証は、花盛りのように咲きそろってきた。この講習会の五日間で、驚くべき体験を語った人が、五十八人に達したことでも、その事実が証明されるのである。
 十月二十三日には、第四回の定期総会が開催された。会場となった神田の教育会館の講堂は、一階も二階も早くから満員となった。過去のいかなる総会よりも盛会であった。
 宗門からも、水谷日昇、堀日亨をはじめ、多くの出席者がいた。なかでも細井精道は、この盛会を見て、あいさつの冒頭、次のように語った。
 「戸田理事長は、戦後最初の総会の時に、三年後において、この講堂をいっぱいにしてみせると言われたが、その通り、今日ここに、信者の方々によって講堂いっぱいに埋め尽くされたことは、まことに喜びに堪えない次第であります……」
 細井が満面に笑みをたたえ、戸田の方を振り向くと、戸田は、軽く頭を下げて微笑した。これを見た会場の人びとからは、絶大な拍手が湧き起こり、しばらくは細井の話を途切らせてしまった。
 終戦後の総会のなかで、この時、初めて自信に満ちた歓喜が、満場にあふれたのである。
 総会ばかりではない。すべての会合にも、新芽の萌えるような歓喜が、このころには見られるようになった。
 また、この年、初代会長・牧口常三郎の六回忌法要には、八十人が参集している。参集した人びとのなかには、生前の牧口を知らない、新しい学会員が多く見られた。逆に、牧口時代の幹部で、学会から離れた人びとの顔は、全く見られなくなっていた。いよいよ、新しい時代の様相を示しつつあったといえよう。
 戸田は、この事実に気づいて、この夜のあいさつを、次のように結んでいる。
 「諸君も、このような牧口先生という、世界的偉人の弟子だということを、忘れないでもらいたい。
 そして、私に付いて、純真に法華経を聞く者は、先生の立派な孫弟子であることを確信してもらいたい。
 今後も、毎年の追悼会は、生前に面識のない新しい弟子によって、ますます盛大に営まれることを期待するものであります。たとえ生前に面識がなかったとしても、これらの人びとこそ、真に牧口先生の弟子であることを、私は断言して、はばからないのです」
 戸田が、久しく待望し、その育成に努力してきた新しい萌芽が、今、兆し始めてきたのである。彼は、心のなかで喜んだ。
8  座談会の数が多くなると、戸田の出席できる会場には限りがあるため、彼の姿を見ることは、次第に難しくなっていった。会員たちの熱い求道心は、懸命に戸田を求めた。
 そこで、品川区内で、十一月二十七日に、第一回の総合座談会なるものがもたれたのである。参加者は二百人を超えた。
 多くの未入会の参加者を前にして、戸田は、軽妙にして迫力ある折伏の手本を示していった。また、久し振りに戸田と接した会員たちは、自由闊達に質問をぶつけた。戸田は、その一つ一つに、懇切にして力強い指導をするのであった。
 彼は、組織の増大につれて、一般会員への指導が不徹底になりかねないことを懸念していた。それだけに、こうした機会を活用して、最前線の会員を全力で育成しようとしていたのである。
 ともあれ、再建四年目の創価学会は、着実に発展していた。社会は、いまだ暗くよどんでいる時代である。国民の生活に、希望の灯が消えていたことを思う時、まことに際立った対照であった。
 ただ、戸田城聖の出版事業は、芳しいものとはいえなくなっていた。経済社会の激動の波を避けるわけにはいかなかった。金融事情の逼迫ばかりではない。一九四九年(昭和二十四年)に入ると、出版物は、もはや過剰生産の様相を呈してきたのである。
 戦前からの、資本と実績をもった大出版社は、戦後、用紙が枯渇していた時代には、出版点数を僅少にとどめていたが、製紙会社の生産力が回復すると、休刊を続けていた大雑誌などを急速に復刊し始めたのである。これが、このころの出版界の新しい動きであった。
 戸田の出版社では、山本伸一が編集を担当する児童向けの『冒険少年』のほかに、『ルビー』などの月刊雑誌や、大衆向けの単行本を刊行していた。
 単行本の売れ行きの停滞が真っ先に来た。いきおい、主力を雑誌に傾注していった。ところが、その雑誌もまた、このころから、月ごとに返本率が上がっていった。『ルビー』は、ことにひどかった。
 そして、早くも採算を割るところまで落ちてしまったのである。
 かろうじて、『冒険少年』は孤塁を守り、十月号から『少年日本』と改題して飛躍を図った。しかし、大出版社による大量の復刊は、戸田の出版事業を蚕食していった。
 秋になると、戸田の出版社の全体の返本率は、七、八割にも達した。採算点はとうに割り、莫大な赤字が続いたのである。
 十月二十五日、肌寒くなった秋の日のことである。朝から空は曇って、今にも雨になりそうな陰鬱な日であった。
 午前九時ちょっと前である。日本正学館の二階の戸田の机の前には、社員全員が集まっていた。経理担当者の奥村が、さっきから細かい数字を読み上げていた。元気のない声である。ここ数カ月にわたっての収支の均衡が、いかに破れつつあるかを説明する数字であった。しかも、月を追って、収支の開きは増大してきている。
 実情は、絶望的な危機を告げていた。ぞっとするような返本率、それは、数百万円からの赤字となって、数字に表れていた。
 社員たちは、自分の耳を疑うような面持ちである。まさか、会社がこれほどの打撃を受けているとは、誰一人、考えていなかった。まして、一昨日の盛大な第四回総会のあとである。彼らの胸には、その時の歓喜の余韻が、まだ残っていた。
 彼らは、日常の仕事のなかで、確かに返本が山となってきたことも知っている。原稿料や画料の支払いが遅延していることも、百も承知していた。紙の業者や印刷会社が、近ごろ、いい顔をしなくなってきたことも知つてはいた。
 しかし、どんな不況でも、自分たちの会社だけは乗り切れるという安心感があった。また、泰然としている戸田社長の姿に、心から信頼を寄せていたのである。彼らは、その致命的な数字が信じられなかった。
 奥村の、わびしい説明が終わると、戸田は、一同を見回して口を聞いた。
 「君たちだから、信頼する君たちだから、一切を公開したわけだ。現状は、かくのごときものです。何か、諸君に意見はないか?」
 戸田のメガネは、冷たく光っていた。とっさに誰も口をきけなかった。まるで思考力を失ったように、唖然とした姿である。しばらくして、沈黙に耐えられないように、庶務の内山が首をかしげながら、弱い調子で言った。
 「奥村さん、その数字は本当なんですか?」
 奥村は、目をぱちくりさせて、どう言ったものかと、戸田の顔をうかがった。
9  戸田は、硬い表情で言った。
 「数字というものは、厳しいものだ。実に厳しいものだよ。数字は、嘘をつくことはできない。奥村君が、昨日から計算してみたものです。勝手に計算をごまかすわけには、いかないではないか。計算した結果が、さっき言った数字になってしまったんだ」
 数字は、居並ぶ一同に、それぞれ何ものかを語りかけ始めた。彼らは、それが信じられなかったが、確かに数字には、嘘はないはずである。してみれば、各人のそれぞれの仕事が、すべて危機に陥っていることになる。
 しかし、彼らは、なんとしても、それを納得することは辛かった。彼らは、自分の心の始末に手間取って、無言でいるより仕方がなかった。
 戸田は、語をついだ。
 「人間というものは、勝手なもので、自分に都合の悪い時には、白を黒と平気で考える。ことに、弱い人間ほどそうだ。しかし、数字というものは、そうはいかない。マイナスなのをプラスであるとは、どうしても考えるわけにはいかない。歴然たる事実を正確に明かしているだけだ。それを率直に認めるには、やはり強い勇気がいるもんだね。
 そのうえで、その怖い数字に基づいた事実をどうするかが、その人間の値打ちとなってくると思うんだよ。それを人間の力といってもよい」
 戸田の顔を見つめていた一同は、いささか、ほっとした。打つべき手を、戸田は知っているにちがいないと思ったからである。ところが、戸田の話は違っていた。
 「厳正な数字に基づいた現状を、どう打開したらいいか、意見があるなら意見を言ってもらいたい。
 まだまだ、この数字は、甘いのです。返本の正確な数字は、三カ月前までしか、わかっていない。八月、九月、十月分の返本は、これから先のことだ。現状から見て、返本率の上昇線は上がることはあっても、下がることは考えられない。これから三ヵ月先、どうなっていくか、よく考えてほしいんだ。さらに厳しい数字となって現れてこよう。
 今の数字を甘く考えて、方針も立てずに、ずるずる三カ月たって、初めて慌てるのでは仕方がない。ここは、よくよく考えねばならなくなってしまったんだよ。ぼくは、諸君を責めてなんかいるのでは、決してない。どうしたらいいか、諸君の意見を聞きたいだけだ」
 ここにいたって、社員たちは、事の重大さに気づいたのである。
 今日の戸田には、冗談がない。彼独特の、あの闊達な指示を即妙に打ち出す、いつもの戸田ではなく、真剣そのものであった。何か重大な決意を秘めているような、戸田の広い額が、今の社員たちには、まぶしかった。彼らには、とっさに、いかにすべきかの適切な意見があるはずもなかった。いつか、みんなは、うつむき気味となっていた。静かな、張りつめた沈黙が、長らく続いてしまった。
 戸田は、しばらく彼らの発言を待っていたが、穏やかな口調で言いだした。
 「諸君に意見のないのも無理はない。ぼくも、このところ真剣に考えるだけ考えてみた。しかし、どうにも名案はない。だが、結論は出たんです」
 一同は、さっと顔を上げた。その視線は、一斉に鋭く戸田に集まっていく。
 戸田は、激しく咳払いしながら、おもむろに言った。
 「結論といっても、正しく内外の現状を考えるなら、誰でも下すにちがいない、当然すぎる結論だよ。つまり、一切、休刊ということにしようと思う」
 「休刊」と聞いた時、さすがに社員たちの顔色は、さっと変わった。それを見て取った戸田は、すぐさま激励の言葉を、ぽんぽん打ち出したが、彼の心は辛かった。
 「やがて、第二段の手を打とうと思っている。復刊するような時機が、早く来るかもしれないが、ともかく休刊が、今の会社にとってマイナスかプラスかの両面をよく比較してみて、結論としてそうならざるを得ないのだ。ここは、どうか諸君も、よく了承してもらいたい。実際、一生懸命に仕事をして、どんどん赤字を増やしていく愚か者もいないからな。
 長い間には、こんな日に遭うこともあるさ。休刊としたからには、思い切って、差し当たり残務整理に一生懸命になってもらいたい。その後のことは、おいおい相談しよう。
 こんなことぐらいで、しょぼしょぼするようでは、ろくな人間にはならんぞ。胸を張って残務整理をやってくれ。休刊したからといって、会社は辛いが、世間の誰に迷惑をかけるわけではない。卑屈になっては絶対ならん。戸田の弟子である以上は、意気地のないまねはしないでほしい」
 一階には、二、三人の来客が、既に待っている。
 社員たちは、それぞれの机に戻ったが、今、受けたショックは大きかった。
10  この休刊によって、大部分の人たちの念頭に、真っ先に思い浮かんだのは、今後の生活のことであったろう。心のなかには、会社や、戸田のことよりも、自分自身のことだけしかなかったわけだ。それも無理のないことである。
 最も大きなショックを受けたのは、山本伸一であった。彼は、この時、雑誌のなかで比較的好成績をあげていた『少年日本』の編集責任者であった。
 正月三日に入社して以来、この少年雑誌の編集の道を、ただ懸命に歩んできていた。そして、五月、前任の責任者が異動して、彼が責任者となったのである。
 十月号から、『冒険少年』を『少年日本』と改題して、二十一歳の若き編集長は張り切った。戸田の指導、叱咤は、このころから、にわかに厳しくなってきた。伸一は、毎日、叱られていたが、そのたびに、猛省のなかから新しい勇気を湧き立たせ、仕事に全精力を傾注してきたのであった。
 伸一は、この少年雑誌に誇りをいだいていた。仕事に没頭するにつれて、目にする多くの少年少女が、かわいく思えて仕方がなかったのである。
 元気に路上を走って来る子どもたち、公園でふざけている子どもたち、喧嘩して泣いている子どもたち、教室で鉛筆をなめなめ勉強している子どもたち――彼は、時に彼らを抱き締めてやりたい思いに駆られることも、しばしばであった。若き編集長は、彼らのためなら、どんなことでもしてやろうとさえ思ったのである。
 子どもたちに対する彼の熱情は、『少年日本』の誌面を刷新した。少年の純情と、未来にかける希望とが、誌面にあふれできたのである。
 また、彼のこの熱情は、多くの童話作家や挿絵画家の心を動かした。彼は、作家や画家の家を訪問し、事務的な用件が終わると、さまざまな話題に花を咲かせて話し込むことが多くなってきていた。この若き編集長を、仕事を離れて愛する作家や画家たちも、現れていた。
 作家たちの妻のなかには、伸一を応援してくれる人もいた。伸一が、時に作家に多少無理な注文をしても、彼女たちは、疲れた様子の彼に同情し、口添えしてくれるのであった。こうして、不機嫌な作家の承諾を得ることもあった。
 このように、彼は、ようやく仕事に熟達し、仕事に生きがいを見いだしていたのである。未来に託した彼の大志は、仕事への自信となって育ち始めていた。彼は、ひそかに新年号の飛躍の夢を描いて、既に、その準備に全力をあげ、飛び回っていた。社の興亡を背負う思いが、彼の意中にあったのであろう。
 伸一は、注目し、信頼することのできる二、三の作家、数人の挿絵画家を、一軒一軒、訪ね始めたところであった。彼の頭は、数段の飛躍を遂げるであろう、新年号の一ページ、一ページで、満たされていたのである。
 「休刊」――と、戸田の口から聞いた時、彼を襲ったショックが、どれほど深刻であったかは、想像に難くない。飛行中のジェット機のエンジンが、急に止まったとしたら、その機は失速によって真っ逆さまに墜落するに決まっている。
 青年編集長の操縦する愛機『少年日本』号は、墜落を覚悟しなければならなかった。深い失望が、彼の目の前に立ちふさがっていた。彼の熱い頭は、しんと静まり返ってしまった。まるで、地球が自転を急停止したかのように、この世の終わりとさえ思いながら、彼は、しばらく編集室の中を、ぼんやり眺めていた。
 この時、彼を救ったのは、印刷会社の少年が届けてきた十二月号のゲラ刷りであった。彼は、ゲラ刷りのインクの匂いをかぎながら、これが最後の仕事だと感慨を深くして、いつか仕事に没頭してしまった。
 午前中は、瞬く聞に過ぎ去った。彼は、空腹を覚えた。昼食に外出しようとして机を離れた。この時、ふと振り返ると、戸田は、親しい客を相手に、将棋を指している。
 戸田は、高い笑い声をたてながら、いかにも楽しそうであった。今朝の戸田と、今の戸田は、少しも変わって見えない。
 ″なんという先生であろう″
 彼は、瞬間、理解に苦しんだが、次の瞬間、戸田城聖なる人物を、ひしひしと理解したのである。
 ″先生は健在だ。あの姿は、われ再び戦う、との姿を示している態度だ。何が起きても、健在であるとの姿だ″
 山本伸一は、耳朶に残っている、数日前の戸田の一言が忘れられなかった。その日、戸田と伸一は、二人して雨のなか神田の通りを歩いていた。戸田は、何を考えていたのか、ふと、もらした。
 「長い人生には、敗れることもあるよ。しかし、一回や二回、敗れたからといって、人生全部が負けたというこことは、意味が違うものだ」
 敗れることは、人生にも、事業にもあるだろう。しかし根本的な勝敗は、一生涯を通してみなければ、論ずることはできない|――哲学青年・伸一は、それを確かな道理であると、考えたりしていたのである。
 だが、それはまだ、観念の段階にとどまっていた。今、それが戸田の敗北によって、現実の問題となったのである。
 伸一は、あの日の戸田の言葉を、真剣にかみしめざるを得なかった。
 ″たとえ、この地球が、自転を止めたところで、先生は健在なのだ。おそらく世間の人びとは、雑誌の休刊を知って同情するかもしれぬ。笑う人も多いかもしれない。また、中傷もするであろう。先生について、さまざまな誤解や曲解が渦巻くことも、当然、起きてこよう。
 しかし、世間がなんと言おうと、あの通り先生は先生である。戸田城聖という大使命を担った一つの人格は、不変であるにちがいない。極端に言うならば、雑誌が休刊になろうと、会社が倒産しようと、そんなことで戸田城聖という希有の人格が、埋没してしまうはずはない。これはもう間違いないことだ。その力は優に、どんな嵐も波濤も、乗り越えていくだろう。
 大波の底に沈む時もあるかもしれ在い。しかしまた、その大波の力が、先生を波頭の先端に運ぶのだ。その時こそ、世間は先生を理解し、偉大な人物として尊敬するに決まっている!″
 小雨が降っていた。伸一は、近くの中華そば屋で、そばをすすった。秋雨の舗道を歩いている時も、食事の最中も、今朝のショックから始まった思索の跡をたどって、戸田城聖という人物の、厳たる存在に思いをめぐらしていた。
 ″私もまた、何がどうなろうとも、山本伸一は山本伸一でなければならぬ。私もまた、不変であるはずだ。どんな境遇に落ちようと、私という人間の本質が変わるはずはない。ただ、世間の人びとの眼に、変わったと見えるだけではないか。
 してみれば、世間の人びとの目玉というものが、当てにならないだけの話だ。風向きによって動くような、社会の目玉を恐れるということほど、愚かなことはない。先生が不変であり、私も不変だ。それで十分ではないか
 休刊が、いかなる風波を起こそうとも、先生の指示のもとに、今までと同じように、全生命をかけて努力すれば、それでいい。次の建設が必要ならば、今度こそ私が、全責任をもって、油断なく、どんな障害にも体当たりして、切り開いていけばいいのだ″
 彼は、社に戻った。机に向かった時、既に心の動揺はなく、腹は決まっていた。
 彼は、机の上にある卓上カレンダーを見た。午後には、ある画家に画料を届けることになっていた。
 また、十二月号のための作業が待っていた。彼は、他の人びとより早く、日常の活動に戻っていた。
 戸田城聖は、まだ将棋を続けている。
11  山本伸一は、画料を持って社を出ていった。雨は、しとしとと冷たく降っている。彼は、″今年も、オーバーなしで過ごすことになるな″と思った。めざす画家の家は遠い郊外にある。彼は、いつものように電車の中で本を広げていた。わずかでも時間があれば、読書をすることが、彼の体質となっていたのである。
 書物は精神の滋養であり、苦闘に立ち向かう勇気の源泉となる――それは、伸一の実感であった。
 彼の頭のなかは、仕事と読書が交錯することが幾たびもあった。しかし、青年らしく、知識を吸収しながら、そのエネルギーを、いつも仕事に費やしていった。
 伸一が訪れると、画家は、心待ちにしていたらしい。乱雑な部屋の中で、火鉢の中の乏しい炭に息を吹いて、火をおこしてくれた。画家の目だけが異様に澄んでいた。青く痩せた頬が笑うと、幾条もの皺が浮かび上がって見えた。
 経済的にも苦しく、健康を害している様子である――ここにも、不幸な人が一人いる、と伸一は思った。
 画家は、とっておきの紅茶で、もてなしてくれた。伸一は、この画家と会うのも、これが最後かもしれぬと思い、日蓮大聖人の仏法について、話し始めたのである。
 それは、折伏にちがいなかったが、哲学的な啓蒙であった。初めて聞く画家は、好奇心をもったらしい。画家は、仏法の生命哲学については、反駁すべき、なんの知識もなかった。いちいち頷いて、一応、理解はしたが、いつか、もっと深く話し合ってみたいと言って、真剣な態度に変わっていた。
 秋雨の日は、早くも暮れてきた。
 伸一は、雨に打たれながら、武蔵野の雑木林の中を抜け、駅へと急いだ。昼から降りだした雨は、あちこちに水溜まりをつくっている。
 伸一は、黄昏の路上で、しばしば水溜まりに足を踏み込んでしまった。駅にたどり着いた時には、靴は、ぐっしょり濡れていた。二カ月ほど前に買った中古品の靴には、もう水が染み込んでいたのである。″至急、靴を修繕しなければならないな″と反射的に思ったりした。
 伸一は、仕事を依頼している製版会社のある銀座に出た。辺りは、すっかり夜になっていた。都心の大繁華街である銀座も雨とあって、人通りは、まばらであった。
 彼は、製版会社に立ち寄ったあと、そのまま新橋の方へ歩きだした。靴の中の不快さは耐えがたかった。彼は、ぶるっと身震いした。また、微熱が出てきたらしい。橋のたもとまで来た時、右手の川面が、ひどく明るく光っていた。映画館の電飾が、水面に光を落としていたのだった。
 彼は、川岸の映画館に、吸い込まれるように入った。暗い座席に腰を下ろすと、スクリーンを見るより、まず靴を脱いだ。靴下をとって、それを絞ると、すえた臭いが鼻をついた。
 スクリーンには、アメリカの若い男女が踊っている。そこへ、ヨーロッパの戦場から帰った男が出てきた。この男は、戦傷のために記憶喪失症になっている。彼は、昔の恋人に会っても、それがわからない。病室が出た……。
 伸一は、うとうとと眠ってしまったらしい。目が覚めた時、映画の筋はわからなくなっていた。
 館内には、既に空席が多くなっている。伸一は、ふと今夜の座談会を欠席してしまったことが、心によぎった。水の染み込む靴が悪いのだ、と自己弁護したものの、それはまた、自己嫌悪でもあった。朝のショックが、またよみがえったのであろう。こういう日こそ、座談会で戦うべきなのだと、痛切にわが心を責めたりした。
 伸一は、座談会を忘れていたのではなかった。朝からの激動に、いささか疲れたわが心を、一人静かに慰めたかったのである。その時、目の前に映画館があったのだ。
12  休刊の発表は、さすがに編集室の空気を変えてしまった。一種の挫折感が、社員の表情や動作に表れてきたのは否めない。
 そのなかで山本伸一は、昼は残務整理のため、作家や画家のところを飛び回った。夜になると、学会活動に打ち込んだのである。
 休刊発表の翌々日は、台風が近づいていた。彼は、そんな夜でも、先輩の三島由造と共に、嵐のなかを横浜の座談会にまで、足をはこんだのである。横浜の市電は風雨のため、しばし停電で止まった。定刻には、かなり遅れて、ようやく会場にたどり着いた。こんな嵐の夜にも、なんと五十人ほどの人びとが待っているではないか。
 破れた番傘で来た人もいる。玄関には、濡れた足をぬぐえるように、幾つもの雑巾が置いであった。
 活気にあふれた座談会となった。事業に敗れた伸一は、そのたくましい雰囲気に、一つの活路を見たように思った
 ″学会は健在である。戸田先生も健在である。自分も健在でなければならない″
 座談会の終わりごろには、台風は、いよいよ猛威を振るった。だが、彼は、思い切って外に出た。ずぶ濡れになり、題目を唱えながら歩いた。この日、帰宅したのは十二時をはるかに過ぎていた。
 その翌日は、午後から快晴になった。『少年日本』の十二月号が刷り上がった日である。最終号だ。伸一は、雑誌を机の上に置いて、何回となく開いては、一ページ、一ページに視線を注ぎ、決別の思いを込めていた。
 社員たちは、意気消沈している。あちこちの隅で、小声で話を交わしているのが、伸一の耳にも聞こえてきた。
 彼らのなかには、退職を決意している人もいる。新しい就職口を、なにかと話し合っている人もいた。要するに、社員たちの大部分は、今や浮足立っていたのである。伸一は、それらの光景を目にするのが辛く、いら立たしかった。
 そのまた翌日の午後、戸田城聖は、新しい事業の内容について発表し、新しい目標を与えたのである。彼は、社員たちの空気を、鋭く察していた。
 戸田は、二十数年にわたって経営してきた、さまざまな事業について語った。成功したり、失敗したりした数多くの経験を振り返りながら、彼の話は共産主義経済から資本主義経済に及び、信用組合の事業というものの本質に言及していった。そして、彼が、なぜ東光建設信用組合なるものに着手したかを述べ、未来への展望を語った。
 戸田は、全力をあげて話していく。
 社員のなかには、上の空で聞いている者が多い。しかし、伸一は、熱いものが胸に込み上げてきてならなかった。
 戸田は、最後にこう言った。
 「どんな事業であろうと、時に浮き沈みはあるものだ。経済には経済の法則というものがある。それを無視することはできないのです。その法則を見極めたうえで、事業の興亡を左右するものは、努力と情熱と忍耐である、ということを知るべきです。どんな大きな事業であろうと、どんな小さな事業であろうと、その苦労は同じだと思う。ぼくの、これまでの経験から言うならば、苦労さえいとわなければ、行き詰まったように思える時でも、必ず活路が開けてくるものだ」
 彼は、経理担当者を呼んだ。そして、今、手もとにある金を、すべて皆に公平に渡すよう、命じたのである。社員は、分割払いの給料をもらったが、その金が、今の会社にとって、どんなに尊いものかを知らなかった。
 残務整理が一段落すると、正式に全社員は、東光建設信用組合の従業員として、新しい業務に携わることになった。
13  ドッジ・ラインの強行によって、一九四九年(昭和二十四年)秋になると、さしものインフレーションも徐々に収束し、頭打ちとなった。物価も、わずかながら下降し始めたのである。当時の東京の小売物価指数を総理府の統計で見ると、その事実を物語っている。
 三四年(同九年)〜四一年(同十六年)の物価の安定期を一とすると、四九年(同二十四年)は二四三・四に暴騰しており、これが
 五〇年(同二十五年)になると二三九・一と、戦後初めて、わずかながら下降している。つまり、三四年前後の物価に比し、四九年には二百四十三倍であったものが、五〇年には二百三十九倍となり、わずかに低減を示したわけである。
 ともあれ、ドッジ・ラインによって、一時的とはいえ、国民は不況に苦しまなければならなかった。日本が、困苦欠乏に耐えていたこの年の秋には、国際情勢は奔流のように変化していた。
 九月二十三日、アメリカのトルーマン大統領は、ソ連にも原子爆弾が存在する証拠を持っていることを発表した。すると、九月二十五日、ソ連は、二年前から、既に原子爆弾を保有していたことを公表した。だが、ソ連が初めて核実験に成功したのは、二年前ではなく、前月の八月であったといわれている。いずれにせよ、地球上、唯一の核保有国であったアメリカの軍事的優位は、揺らぎ始めたといえよう。
14  十月一日、北京ペキン(ベイチン)で発表された中華人民共和国政府樹立の宣言が、世界の電波に乗った。国民党軍は広東カントン(コワントン)を放棄し、重慶じゅうけい(チョンチン)に遷都した。十一月には、さらに成都せいと(チョントウ)に移ったが、一カ月後、その成都も落ちた。国民党の要人は台湾に向かい、十二月七日、台北たいほく(タイペイ)に遷都した。
 これで国民党軍は、中国大陸から完全に追い出され、広大なる大陸は共産党軍の掌中に落ちたのである。共産党軍の信念と団結が、未曾有の勝利をもたらしたわけである。
 戦っても死ぬ。戦わなくても死ぬ。それならいっそ、戦おうではないか――それが彼らの叫びであり、誓いであった。
 その行動の果敢さと粘り強さは、あの有名な長征に見ることができよう。
 ヨーロッパでは、十月七日、東ドイツにドイツ民主共和国の樹立宣言があり、アジアでも十二月二十七日に、インドネシア連邦共和国が成立している。
 東西両陣営の冷戦は、いよいよ緊迫化しつつあった。そこでアメリカは、日本列島の防衛基地化を急がなければならなくなっていた。十一月一日には、米国務省から、対日講和条約の草案を準備中であることが発表されたのである。
 これこそ、第二次大戦後の、次の時代への態勢を有利に整えるためのものであったと考えられる。いや、それが焦眉の急となっていたのであろう。
 一九四九年(昭和二十四年)は、行く手に風雲をはらんで暮れていった。
 大晦日、山本伸一は、戸田城聖の家で、御書の講義を受けていた。
 終わって戸田は、ささやかながら、ご馳走を出してくれた。和やかな雰囲気であったが、彼は、一言、厳しい眼差しで言った。
 「内外ともに激動のさなかであるが、今こそ、君たち青年が、勉強しておかなければならない時だ。ぼくが、舞台はつくっておく。新しい平和の戦士となって、その舞台で大いに活躍するように――」

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