Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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生命の庭  

小説「人間革命」3-4巻 (池田大作全集第145巻)

前後
1  深夜――戸田城聖は、東京・港区の自宅の二階で、机に向かったまま動かなかった。
 机の上には、原稿用紙が広げられている。その上に、「生命論 戸田城聖」と第一行が書かれただけで、第二行は続かず、何時間も、そのまま白く光っていた。
 こんなことは、彼にとって、めったにないことである。彼は、執筆前には、人一倍、熟慮を重ねたが、いったん筆を執れば、一気に書き上げるのが常であった。それが、今夜ばかりは、そうはいかなかった。一九四九年(昭和二十四年)五月のことである。
 熟慮は、終わっていたはずである。あふれんばかりの思念が、彼の胸中には怒濡のように逆巻いていた。
 書くべき主題も、論述の順序も決まっている。まず、法華経の譬喩品、化城喩品、如来寿量品の一節を、それぞれ引用し、日蓮大聖人の御書から、「開目抄」や「撰時抄」の一節をあげ、「三世の生命観」を明らかにすることであった。次に、如来寿量品の肝要を記し、大聖人の「当体義抄」や、「三世諸仏総勘文教相廃立」から、あるいはまた、「御義口伝」「十法界事」などの御文の助けを借りて、生命の永遠性を論じ、最後に結論として、生命が連続する実相を、具体的に、かつ明晰に解明する――それは、彼にとっては、さほど難事とは思えなかった。論理的に整然と論ずることも、やろうと思えばできることであった。
 今、彼が、万年筆を手に取っては、また置き、思索に思索を重ねていたのは、果たして、そうした論理を追っていくだけで、「生命の実在そのもの」に迫ることができるかどうか、という疑念が立ちふさがっていたからである。
 彼には、わかっていた。彼が、生命をかけて覚知したものは、彼の胸に、しっかり収まっていた。だが、それが、いかに伝えがたいものかを知って、大いに困惑したのである。
 彼は、メガネを外した。そしてまた、それをかけ直したりしていた。腕組みをしては天井を仰ぎ、一行も書けぬまま、時は刻々と過ぎていった。
 彼は、仁丹を口に放り込むと、立ち上がって窓を開けた。五月の夜である。青葉の匂いが流れてきた。窓外の景色は、黒々と静まり返り、犬の遠吠えが、深夜にわびしく聞こえてくる。
 彼は、立ったまま、しばらくその闇を見ていた。やがて、着物の帯に両手を差し込んで、室内を、右に左に、ゆっくりと歩きだした。彼は、あふれる胸中の思念を、もてあましていたのである。
 戸田は、行きつ戻りつしながら、ふと、われに返った。
 ″あの時も俺は、こんなふうに狭い部屋の中を、檻に入った動物のように歩き続けていたのだ……″
 あの時というのは、五年前のことである。彼が、戦時中、巣鴨の東京拘置所の独房に、思想犯として拘禁されていた折のことである。
 その部屋は、今、彼が自由に歩いている二階の部屋よりは、はるかに狭く、陰気であった。独房と廊下とは、幅一メートルばかりの、頑丈な鉄の扉で隔てられていた。鍵を開けて、独房の重い扉を開くと、古ぼけた畳が二枚敷いてあり、その先に一畳ばかりの板の間があった。正面の壁には、縦に細長い窓が、東に向かって開いていて、鉄格子が外界との間をさえぎっていた。
 板の間の隅に、窓を右手にして、物入れが備え付けられ、その上が棚代わりになっていた。この物入れの途中から、机とおぼしい板が突き出していた。
 この板を上げると、洗面台が現れる。机は洗面台のフタでもあった。この机に向かうための腰掛け板があったが、この板を上げると、水洗の便器が現れる。腰掛けは、便器のフタでもあった。
 この簡便至極な独房で、彼は、ぐるぐる歩きながら、深い思索を、あの時、続けたのである。
2  一九四四年(昭和十九年)元旦を期して、彼は、毎日、『日蓮宗聖典』を手にし、そのなかの法華経を読むことにした。さらに、日に一万遍の題目を唱えることを、実践し始めたのである。
 この本の前半には、無量義経、法華経、観普賢経の法華三部経、後半には大聖人の御遺文が収められていた。法華経は、漢文のままであり、読みづらかった。
 拘置所では、日を定めて、希望者に本の貸し出しを行っていた。戸田は、小説を希望したが、回されてきたのが、この本であった。そして、返却しても、また不思議に彼の独房へ舞い戻ってきたのである。それが、拘置所の係官らの、意地悪い作為や怠慢によるものではないことを悟った時、彼は心を定めた。
 「読もう。よし、読み切ってみせる!」
 元旦から読み始め、法華三部経を三度読み返した時は、既に三月に入っていた。
 彼は、毎日、規則正しく、題目は、一回に何百遍と決めて、一日一万遍以上をあげ、法華経は日に何ページと決めて読んだ。さらに大聖人の御遺文も、一ページ一ページ、かみしめるような思いで、読んでいった。寒い二カ月であった。
 三月の初め、まだ寒さも消えやらぬ日、彼は、また、あらためて四回目の法華経を読み始めていた。法華経の開経である、無量義経からである。
  
 無量義経徳行品第一
 如是我開。一時佛住。王舎城耆闍崛ぎしゃくつ山中。輿大比丘衆。萬二千人倶。……
 (是の如きを我れ聞きき。一時、仏は王舎城の耆闍崛山の中に住したまい、大比丘衆万二千人と倶なりき。……)
 戸田城聖には、仏が、この徳行品を説いた時の情景は、既に親しいものになっていた。この情景に続く、仏を讃嘆する「偈」に入った時、″さあ、これからが、いつもわからぬ″と思い、真剣に眼を凝らした。
  
 大哉大悟大聖主(大なる哉大悟大聖主は)
 無垢無染無所著(垢無く染無く著する所無し)
 天人象馬調御師(天人象馬の調御師にして)
 道風徳香薫一切(道風徳香一切に薫じ)
 ……………………
 ……………………
 ……………………
 無復諸大陰入界(復た諸大陰入界無し)
  
 彼は、ここまではわかった。要するに、偉大な大悟大聖主たる、仏を讃嘆する形容句ではないか。仏の正覚の状態を讃嘆しているにすぎないが、次の行に移ると、いったい何をいっているのか、全くわからなくなった。
 わかることは、「其の身」というのは、仏の実体を指しているらしいということだけであった。
3   其身非有亦非無(其の身は有に非ず亦た無に非ず)
  非因非縁非自信(因に非ず縁に非ず自他に非ず)
  非方非圓非短長(方に非ず円に非ず短長に非ず)
  非出非没非生滅(出に非ず没に非ず生滅に非ず)
  非造非起非為作(造に非ず起に非ず為作に非ず)
  非坐非臥非行住(坐に非ず臥に非ず行住に非ず)
  非動非転非閑静(動に非ず転に非ず閑静に非ず)
  非進非退非安危(進に非ず退に非ず安危に非ず)
  非是非非非得失(是に非ず非に非ず得失に非ず)
  非彼非此非去来(彼に非ず此に非ず去来に非ず)
  非青非黄非赤白(青に非ず黄に非ず赤白に非ず)
  非紅非紫種種色(紅に非ず紫種種の色に非ず)
 彼は、この部分に「……に非ず」という否定が、三十四もあることを確かめた。そして、これに続く「戒定慧解知見より生じ」から以下は、また仏を賛嘆する文章に戻っていて、さまざまな形容句が続いている。
 やがて仏の具体的な姿、つまり応身としての仏の表現へと移っていくが、これは、さほど難解ではない。ただ、三十四の否定が、何を表現したいためにあるのか、さっぱりつかめなかった。
 ″冒頭の「其の身は有に非ず亦た無に非ず」というのは、仏の「其の身」は、有るのでもなければ、無いというのでもない、ということらしい。仏法上の空観を持ち出せば、一応、わかったような気にもなる。しかし、その実体は明確にはつかめない。また、「其の身」が、仏の不変の本質、いわゆる法身だとすれば、その法身とは、結局のところ、いったいどういうものなのか。それがわからなければ、法身といっても、衆生が理解し得ぬ、観念にすぎまい″
 彼は、仏法の真髄たる大聖人の仏法を、単なる観念論とは、どうしても思えなかった。そんなはずは絶対にないと思いながらも、どうしても、「其の身」の仏は、観念の霧に包まれていってしまう。
 戸田城聖は、今は、前三回の時のように、気楽に読み流すことはできなかった。彼の日々の唱題と、今、法華経を身で読み切ろうという、すさまじいばかりの気迫が、彼を、いつか踏みとどまらせていたのである。
 彼は、思った。
 ″三十四の「非」は、形容ではない。厳として実在する、あるものを説き明かそうとしているのだ。しかし、その実在は、有るのでもない。無いのでもない。……四角でもなく、丸くもなく、短くもなく、長くもない、という。……動くのでもなく、転がるのでもなく、じっと静かだというのでもない。
 ……まるで、謎解きだが、いったい、なんだというのだろう。今、自分にわかっていることは、この謎解きのような表現をとらなければ説き明かすことのできない、ある偉大な、目に映らない実在が、厳としであるということである……″
 彼は、思索に疲れた。そして、また、唱題に戻つていった。手には、牛乳ピンの紙製の丸いフタにヒモを通して作った、世にもまれな数珠を持っていた。
 戸田城聖は、「其の身」が何を表しているかを、心から納得したいと願った。さもなければ、もう一歩も先へ進まぬと決めた。彼は、法華経に対して背水の陣を張ったのである。その決意は、いわゆる観念の決意ではない。生命の対決であった。
4  周知のように、法華経の解説書や、講義の書は、これまでに無数に出ている。だが、獄中の彼にとって、それらの書の披見は叶わなかったし、この部分の解説は、何一つ思い浮かばなかった。
 それも、そのはずである。大部分の解説書や、講義の書は、この部分を省略し、その前後だけを、くどくどと説明してすましている。たまには、この部分を説いた講義もあるが、仏は、有や無という区別の外にあるとしていたり、仏の働きは、物質の世界とは無関係で、すべてを超越している――などといっている。まことに要を得ない解釈といえよう。
 ちなみに、ここで仏教の歴史をさかのぼってみると、法華経を最もよく理解したとされている天台大師も、この部分については何も述べていない。
 後に、天台宗学の正当な流れを汲んだ日本天台宗の伝教大師が、『註無量義経』のなかで、この三十四の「非」が説かれた部分について解説し、「其の身」を「内証身を明かす」ものと解釈している。
 「内証身」とは「内なる悟りの身」すなわち「内心に覚知している仏身」を指す。理の一念三千の体系を樹立した天台教学は、宗学のなかでは、最高峰の哲理の展開であったかもしれないが、その範疇では、「其の身」を「内証身」として示すのが限界であったといえよう。
 末法濁世の現実に生きる衆生にとっては、「内証身」と言われても、遠い観念の世界のことにすぎなくなる。戸田城聖が、思索に悩んだのも、そこに起因していた。「大悟大聖主」とは、仏のことであり、仏とは、苦悩の衆生を救う現実の存在である。その仏の身とは、もっと具体的で、生き生きとした何ものかであるはずだ。
 彼の思念は、三十四の「非」が続く、経文の冒頭にある「其の身」が、いったい何を指しているかを追究し続けた。彼は、「其の身」の意味する確実な実体の存在を、直感していた。
 戸田は、狭い部屋の中を、のっし、のっしと、痩せた体で、肩を怒らせ、こぶしを固く握り締めながら歩き回り、悩み、考え続けた。
 やがて彼は、唱題を始めた。そして、ただひたすらに、その実体に迫っていった。三十四の「非」を一つ一つ思い浮かべながら、その三十四の否定のうえに、なおかつ厳として存在する、その実体は、いったい何か、と深い深い思索に入っていた。時間の経過も意識にない。今、どこにいるかも忘れてしまった。
 彼は、突然、「あっ!」と息をのんだ。
 「生命」――という言葉が、脳裏にひらめいたのである。
 彼は、その一瞬、不可解な三十四の「非」の意味を読み切った。
  「生命は」は有に非ず亦無に非ず
  因に非ず縁に非ず自他に非ず
  方に非ず円に非ず短長に非ず
  …………………………
  紅に非ず紫種種の色に非ず
 ″ここの「其の身」とは、まさしく「生命」のことではないか。知ってみれば、なんの不可解なことがあるものか。仏とは、生命のことなんだ!
 彼は、立ち上がった。独房の寒さも忘れ去っていた。時間も、わからなかった。ただ、太い息を吐き、頬を紅潮させ、目は輝き、底知れぬ喜悦にむせびながら、叫んだ。
 「仏とは、生命なんだ! 生命の表現なんだ。外にあるものではなく、自分自身の命にあるものだ。いや、外にもある。それは宇宙生命の一実体なんだ!」
 彼は、あらゆる人びとに向かって叫びたかった。
 狭い独房の中は、瞬間、無限に広大に思われた。
 やがて、興奮が静まると、端座して御本尊を思い浮かべ、夕闇迫るなかで、唱題を続けていくのであった。
 戸田城聖の、この覚知の一瞬は、将来、世界の哲学を変貌せしむるに足る、一瞬であったといってよい。それは、歳月の急速な流れとともに、やがて明らかにされていくにちがいない。
 彼は、仏法が、見事に現代にも、なお、はつらつと生きていることを知り、それによって、現代科学とも全く矛盾がないものであることを確信した。そして仏法に、鮮明な現代的性格と理解とを与えたのである。いや、そればかりではない。日蓮大聖人の仏法を現代に生かし、あらゆる古今東西の哲学を包含する生命哲学の誕生であった。
 法華経には、「生命」という言葉そのものはない。だが戸田は、不可解な三十四の「非」の表しているものが、実は、生命それ自体であることを、突き止めたのである。
5  彼は、仏というものの本体がわかった。三世にわたる生命の不可思議な本体が、その向こうに遠く、はっきりと輪郭を現してきた思いがしたのである。
 その後も、彼は、さらに法華経を読み進めていった。幾つもの難解な章句も征服していった。そして、獄中での夏が去り、秋も終わろうとしていた。
 この間のたゆみない思索と精進によって、少なくとも文々句々については、ほとんど理解できるまでになっていた。だが、釈尊は法華経二十八品で、いったい何を説き明かしたかったのであろう、という根本的な疑問が起きたのである。彼を苦しめた第二の問題であった。
 一代聖教の肝要が、法華経であるならば、その法華経の真髄とは何か――それは、取りも直さず、日蓮大聖人の南無妙法蓮華経であり、末法に開顕された、十界互具の御本尊に帰結するはずである。
 彼は、このような論理的な帰結は、既に十分、理解していた。だが、それを動かすことのできない実感として、把握するにいたっていないことを、思い知らなければならなかった。
 彼は、寒々とした独房の中で、時に独り言を言っている自分に、はっと気がつくことも、たび重なっていた。獄窓には、秋の日差しが映えていた。それを見つめる彼の姿は、茫然と放心しているように見えた。
 彼の頭は、寝ても覚めても、法華経の真理とは何か、具体的に何か、と問い続けていた。彼は、かってない苦悶に襲われたのである。
 ″法華経は、見方によれば、インド古代の、優れたお伽噺にすぎないと、とらえることもできよう。しかし、日蓮大聖人は、御書のなかで、再三、法華経の六万九千三百八十四文字は、これことごとく仏なり、と断定なされている。してみれば、ほんのわずかな嘘もないはずだ。大聖人には明確におわかりになっていよう。すると、この不肖の弟子・戸田城聖が読み切れぬだけの話である″
 戦時中の牢獄である。彼は、栄養失調に悩まされていたが、なおも激烈な思索をやめなかった。極限に達した疲労のなかで、肉という肉が落ちた体を、粗末な衣服に包んで、ひたすら唱題に励んだのである。
 十一月中旬、元旦から決意した唱題は、既に二百万遍になろうとしていた。
 そのようなある朝、彼は、窓の明るい朝日を浴びて、澄みきった空に、澄みきった声で、朗々と題目を唱えていた。
 彼は、何を考えていたのだろう。何も考えていなかった。壊滅に瀕している事業のことも、早く釈放されたいという焦慮も、困窮しているであろう妻子のことも、同じ獄舎にいる老体の師・牧口常三郎のことも、この時の彼の念頭からは、すべて消えていた。あえて言うならば、ここ数日、再三読み返している法華経の従地涌出品第十五だけが、頭の片隅に残っていた。
 法華経は、一編のドラマとして展開されており、その構成は三幕に分かれている。霊鷺山で始まった釈尊の説法は、途中から虚空に移り、最後に再び霊鷲山に戻る。天空で説法が行われる虚空会では、末法において妙法を弘める使命を、釈尊が、大地から涌出した菩薩に託す儀式が展開されていく。その地涌の菩薩たちの出現が描かれているのが従地涌出品である。彼は、経文に説かれたその情景を思い描いていた。
 日は暖かかった。春を思わせるような微風が、彼の頬をなでた。ほのぼのとした喜びが、どこからともなく湧いてくる。一切の苦悩を洗い流していくような、清浄で平穏な、それでいて無量の感動につつまれているのであった。
 「是の諸の菩薩は、釈迦牟尼仏の説きたまう所の音声を聞いて、下従り発来せり。
 一一の菩薩は、皆な是れ大衆の唱導の首にして、各おの六万恒河沙等の眷属を将いたり。況んや五万・四万・三万・二万・一万恒河沙等の眷属を将いたる者をや。況んや……」(法華経四五二ページ)
 ――彼は、自然の思いのうちに、いつか虚空にあって、金色燦然たる光を浴びて、御本尊に向かって合掌している、彼自身を発見したのである。
 夢でもない、幻でもなかった。それは、数秒であったようにも、数分であったようにも、また数時間であったようにも思われた。初めて知った現実であった。
 喜悦が全身を走り、″これは嘘ではない、今、ここにいる!″と、自分に向かって叫ぼうとした。その時、またも狭い独房の中で、朝の光を浴びて座っている、わが身を感じたのである。
 彼は、一瞬、茫然となった。両眼からは熱い涙があふれでならなかった。彼は、メガネを外して、目を押さえたが、堰を切った涙は、とめどもなかった。おののく歓喜に全生命を震わせていた。
 彼は、涙のなかで、日蓮大聖人が、「御義口伝」で引かれた「霊山一会儼然未散(霊山の一会、厳然として未だ散らず)」という言葉を、ありありと身で読んだのである。
 彼は、何を見、何を知ったというのであろう。
 大聖人は、「三大秘法抄」のなかで、「此の三大秘法は二千余年の当初・地涌千界の上首として日蓮慥かに教主大覚世尊より口決相承せしなり」と仰せである。
 彼は、これまで、いつも、「口決相承」とは何か、と頭を悩ませてきた。だが、ここに、何も不思議ではないことを、遂に知ったのである。
 ″「口決相承」といっても、形式的な儀式ではないのだ。あの六万恒河沙の中の大衆の一人は、この私であった。まさしく上首は、日蓮大聖人であったはずだ。なんという荘厳にして、鮮明な、久遠の儀式であったことか。してみれば、俺は確かに地涌の菩薩であったのだ!
 戸田は、狂喜した。彼は、日蓮大聖人の生命の脈動を、自身の生命に実感したのである。彼は、狭い部屋を、ぐるぐる歩き回っていた。そして机に戻ると、再び涌出品から読み始めたのである。
 彼は、机を叩きながら、「この通りだ。この通りだ」と、深く頷いた。
 さらに寿量品に進み、次々と読み進んで、嘱累品に至った。各品の文字は、急に親しさにあふれ、訴えてきた。まるで、昔書いた日記を読み返す時のように、あいまいであった意味が、今は明確に汲み取れるのである。
 彼は、わが目を疑った。だが、法華経を、このように理解するにいたった、わが心の不思議さは、ささかも疑わなかった。
 激しい、深い感動のなかで、彼は、わが心に誓った。
 ″よろしい、これで俺の一生は決まった。今日の日を忘れまい。この尊い大法を流布して、俺は生涯を終わるのだ!″
 彼は、同時に、わが使命をも自覚したのである。そして、来し方を思い、はるかな未来を望みながら、彼は、今、四十五歳であることを思った。
 年齢が思い浮かぶと、彼も明治に育った人らしく、孔子が生涯を顧みて語った言葉が、念頭に浮かんだ。
 「四十にして惑わず。五十にして天命を知る」
 四十五歳の彼は、そのどちらでもない。しかし、今の彼は、この二つの境地を同時に得たのである。
 彼は、大股に歩き回りながら、何ものかに向かって叫んだ。
 「彼に遅るること五年にして惑わず、彼に先立つこと五年にして天命を知りたり!」
 この叫び声を聞きつけた看守の一人は、怪訝な面持ちで、戸田城聖の独房を、じっとのぞいて立ち去った。
6  ちょうど同じころ、別棟の独房では、会長の牧口常三郎が、一人、病んでいた。老齢による衰弱である。一年半にわたる獄中での栄養失調がそれに加わり、一九四四年(昭和十九年)十一月十七日、自ら病監に移り、翌十八日、安詳として七十三年の崇高な生涯を閉じたのである。
 戸田城聖が、恩師の死を知ったのは、牧口の逝去から五十二日目の、翌年一月八日のことであった。その日、彼は、一人の予審判事から、牧口の死を知らされたのである。
 彼は、働突した。身も世もなく悲しみ悼んだ。そして、涙も枯れ尽くすまで泣いた。しかし、既に、わが身の重い使命を自覚していた彼は、広宣流布という大業によって、この仇は必ず討ってみせるとわが心に誓った。
 彼の保釈出所は四五年(同二十年)七月三日である。そして、彼が学会再建の第一歩を歩みだした時、価値論をひとまず排し、数人の同志を相手に、法華経講義から始めていったのも、獄中で知った自覚と使命を、まず、同志や弟子たちに伝え、学会の真の使命の覚知を促したかったからである。
7  戸田城聖が、今、「生命論」の執筆にあたって、筆が進まなかったのは、ほかでもない。これまで法華経講義や座談会で、折に触れて説いてきた生命論は、すべて受動的で、その場に集った人びとの理解力に応じての説明にすぎなかった。いうなれば、随他意であったのである。
 今、彼が書こうとする生命論は、それらの単なる集大成というより、日蓮大聖人の仏法哲理を現代的に体系化する、その序説ともいうべき生命論である。したがって、必然的に随自意の所説ともいうべき性質のものとならざるを得ない。序説に全体系のすべてが包含されるように、彼の生命論も、確固たる普遍妥当性と、正鵠を射た表現と、適切な説得力をもたなければならぬことを痛感していた。
 思想が育つには、必ず発想の場がある。彼は、書斎をぐるぐる歩き回りながら、「あの時も……」と、ふと思い返していたのだ。そして、彼の生命論が発芽したのは、獄中で呻吟したさなかであったことに気がついた。回想は、彼の生命論の成育過程を、まざまざと思い出させた。彼の書こうとした生命論は、ここで初めて、自然と生きた表現をもつにいたったのである。
8  夜は更けていた。部屋の中を行きつ戻りつして思索していた戸田は、翻然として机に向かい、正座した。自ら窓を閉めたのも、万年筆を手に取ったのも、無意識のことであった。
 彼は、原稿用紙の第二行に、「生命の不可思議」と書くと、続いて三行目に移った。
 「わが国の神道が、超国家主義、全体主義に利用されて、ついには、無謀なる太平洋戦争にまで発展していったときに、私は思師牧口常三郎先生および親愛なる同志とともに、当時の宗教政策のはなはだ非なることを力説した。すなわち、日本国民に神社の礼拝を強制することの非論理的、非道徳的ゆえんを説いたのであるが、そのために、昭和十八年の夏、弾圧されて、爾来二か年の拘置所生活を送ったのであった」
 彼は、手紙でも書くように、よどみなく、ここまで書いた。その時、言い知れぬ憤怒の情が、込み上げてきたのである。
 一瞬、万感胸に迫った。
 ″いや、いや、あくまで冷静に、正確に書かねばならぬ。でなければ、真理は語れないのだ″と思い返した。
 彼は、怒りを抑えに抑えて書き進めていった。
 「冷たい拘置所に、罪なくとらわれて、わびしいその日を送っているうちに、思索は思索を呼んで、ついには人生の根本問題であり、しかも、難解きわまる問題たる『生命の本質』につきあたったのである。『生命とは何か』『この世だけの存在であるのか』『それとも永久につづくのか』これこそ、永遠のナゾであり、しかも、古来の聖人、賢人と称せれる人々は、各人各様に、この問題の解決を説いてきた」
 こう書いて、彼は、いわゆる聖人、賢人の所説を並べようとした。キリストや孔子の言葉を書きかけたが、すぐさま、その思いを打ち消した。
 ″生命の問題は、理論の遊戯では解明できない。また、決して、そうであってもならない。そんなことには、既に人びとは飽きている。真実を知りたいのだ。
 私は、真実を、事実として知らしめたい。その真実は、わが肉団の胸中にあるのだ。わが胸中を、そのまま披瀝することが、わが生命論ではないか。素朴に、簡潔に、書くべきだ。難解な哲学用語を羅列しても、自分も他人もわからぬ理論のみでは、いつまでたっても、なんの価値もない。民衆は納得できないだろう″
 彼は一人、微笑を浮かべながら書きだした。
 「不潔の拘置所には、シラミが好んで繁殖する。春の陽光を浴びて、シラミは、のこのこと遊びにはい出してきた。私は二匹のシラミを板の上に並べたら、かれらは一心に手足をもがいている。まず、一匹をつぶしたが、ほかの一匹は、そんなことにとんちゃくなく動いている。つぶされたシラミの生命は、いったい、どこへ行ったのか。永久にこの世から消えうせたのであろうか」
 彼は、いたずらっぽい笑いを浮かべた。シラミとは、ちょっと不潔すぎた哲学論文かと思いながら……では、きれいな花のことも書いておこう、と考えた。彼は、いつしか楽しくなっていた。
 「また、さくらの木がある。あの枝を折って、かびんに差しておいたら、やがて、つぼみは花となり、弱々しい若葉も開いてくる。このさくらの枝の生命と、元のさくらの木の生命とは、別のものであるか、同じものであるのだろうか。生命とは、ますます不可解のものである」
 難解な問題を、最も身近なところから、わかりやすく知らせる努力をしたのが、彼の特徴であった。最も高遠な哲理も、卑近な日常のことのなかにある。これを洞察していた戸田城聖は、第一流の哲学者の資質を備えていたといえよう。
 彼は、シラミや桜の枝の生命から、人間の生命にいたり、その生死の問題に迫っていった。
 戸田が、人間の生死について深刻に考えたのは、若いころ、親の死や、娘の死、妻の死に直面した時のことである。そして、これらの死に遭った時の悲嘆と苦悩を、彼は、いつまでも忘れることはできなかった。その問題を解決しようとして、いや、自分自身の死を想像した時の恐怖から、キリスト教や、浄土教に、道を求めていったのである。
 しかし、これらによっても、生命の問題を、心から納得することはできなかったと、自分の経験をそのまま書いた。
 「その悩みを、また独房のなかでくり返したのである。元来が、科学、数学の研究に興味をもっていた私としては、理論的に納得できないことは、とうてい信ずることはできなかった。
 そこで、私は、ひたすらに法華経と日蓮大聖人の御書を拝読した。そして、法華経の不思議な句に出合い、これを身をもって読みきりたいと念願して、大聖人の教えのままにお題目を唱えぬいていた」
 すらすらと、万年筆は流れるように進んでいった。
 「唱題の数が二百万ぺんになんなんとするときに、私はひじように不思議なことにつきあたり、いまだかつて、はかり知りえなかった境地が眼前に展開した。よろこびにうちふるえつつ、一人独房のなかに立って、三世十方の仏、菩薩、一切の衆生にむかって、かく、さけんだのである。
 遅るること五年にして惑わず、先だつこと五年にして天命を知りたり。
 かかる体験から、私はいま、法華経の生命観にたって、生命の本質について述べたいと思うのである」
 戸田は、ここまで一気に書いた。そして読み返してみた。
 極度の近視であった彼は、原稿用紙に、顔を、こすりつけんばかりである。思ったよりも簡明に表現できたことに、彼は満足を覚えた。
 それは、この序文によって、これから展開する生命論の発想土壌を、ひとまず設定することができたからである。この背景がなければ、彼の生命論の輪郭は浮かび上がってこないであろうし、また、人びとに正当な理解を求めることもできないであろう、と知ったからである。
 彼は、ようやく心満ちた思いで、深く息を吸い、大きく伸びをした。そして、この原稿の締め切りが、一両日に迫っていることを思い出して、論述の順序を、書きとめたメモを広げて点検し始めた。
 しかし、後は、いくら長くてもわけはないと思い、新しい原稿用紙に「三世の生命」とだけ書いて、残りは明日の仕事にしようと決め、ごろりと横になった。快い疲れが、彼の全身をつつんでいった。
 深夜は、いつか夜明けに近づいていた。
9  戸田が、徹夜してまで、この「生命論」を書き上げようとしたのは、新しい機関紙『大白蓮華』創刊号の発刊が、目前に迫っていたからである。
 それまでの機関紙「価値創造」は、創価教育学会の会報として、一九四一年(昭和十六年)七月に、第一号が発行された。しかし、軍部政府から廃刊を命じられ、翌四二年(同十七年)五月に、第九号で幕を閉じている。
 そして、戦後、「価値創造」は、創価学会の機関紙として新たに復刊されることになり、四六年(同二十一年)六月、第一号が発行されている。だが、敗戦直後のことで、購読者数も少なく、東京から地方への、連絡の役目を果たすのみであった。謄写版刷りの、八ページから十数ページほどの小冊子である。それが、今は会員数の増大で、謄写版印刷で対応するには限界があった。
 四八年(同二十三年)の十月、第十六号を出すころには、活版印刷に切り替えざるを得、なくなったのである。その年末の役員会で、これが議題に上ると、「価値創造」は活版印刷とすることに、全員一致で決定をみた。
 戸田城聖は、この機関紙を本格的な月刊の宗教雑誌として発刊しようとした。そして、名前も『大白蓮華』としたのである。
 正月から、編集責任者の小西武雄や、山平忠平たちは、いろいろプランを練った。ところが、原稿も、今までの四、五倍は集めなくてはならない。相当数の執筆陣も必要となってくる。連載論文や、評伝のようなものも載せねばなるまい。粒よりの体験談も大事だ。しかし、編集プランは決まらないまま、一月、二月と過ぎ、三月になってしまった。
 戸田城聖は、みんなの自由な論議や意見を、いつも尊重していた。だが、この時ばかりは、とうとう見るに見かねて、編集プランの即時決定を命じた。
 編集責任者たちは、もじもじしながら、プランを提出したのである。それを手に取ると、戸田は笑いだしてしまった。
 「これでは、いつまで待っても雑誌はできんな。毎日、顔を合わせている、内輪の連中だけで書こうといったって、ろくなものはできるわけがない。だいいち、学者もいなければ、筆の立つ評論家もいないじゃないか。謄写版を活版にするだけでは、あんまり能がなさすぎる。とんだ宗教雑誌だ。学会員以外の世間の人たちにも、読ませなければならない雑誌だよ。君たちは、何か勘違いしているんじゃない
 のか」
 「いいえ、巻頭論文には、先生に、いくらでも長く書いていただきます。後は、われわれが次々に他宗の教義を取り上げて、徹底的に破折していく……」
 山平忠平は、躍起になって説明しかけた。戸田は、それをさえぎり、プランを書いた紙片を脇に置きながら言った。
 「君、そりゃ、ぼくは書くよ。いくらでも書くが、考えてもみたまえ。B5判三十二ページは、いったい何枚の原稿が必要か。しかも、月刊だよ。いいかげんなプランでは、一号で息が切れてしまう。もっと大胆に、視野を広くして、まず、君たちの枠を破ることだ。新しい仕事というのは、自分たちの、これまでの枠を破るところから出発するもんだ。『価値創造』の枠を破って、『大白蓮華』へ大飛躍するんだ。雑誌の編集というのは、毎月、自分自身が脱皮していかなければ、すぐマンネリズムに陥ってしまう。ぼくは雑誌をやっているから、それがよくわかる」
 山平たちは、戸惑ってしまった。戸田は、また、プランを書いた草稿に目を通しながら、きっぱりと言った。
 「では、今日は決定しよう。巻頭に水谷猊下の発刊の祝辞を頂く。これはいい。ついでに『大白蓮華』の題字も、お願いしたらどうかね。巻頭言も、ぼくに書かせるつもりか。巻頭論文も書くんだよ。仕方ない、二つとも書こう。それから、隠退されている堀猊下にもお願いしてあるかね」
 「はい、日興上人のことを、長いことお調べになっているので、それなら書こうと言われました」
 「そうか、それはよかった。ぜひ書いていただきなさい。いくら長くなっても差し支えない。何百枚でも何千枚でも結構ですと、みんなで行ってお願いしてきなさいよ。もっとも、難しい論文で、ぼくらには、わからんかもしれんが……」
 いたずらっぽく笑いながら話す戸田の顔に、みんなは安堵した。
 これが後に、堀日亨の名著『富士日興上人詳伝』になろうとは、誰一人、気づかなかった。
 「堀米宗務総監も、何か書いてくださるだろう。宗門の方は、このぐらいでいいが、さて、こちらの執筆陣が問題だ」
 山平忠平は、編集責任者の一人として、何か言わねばならなくなった。
 「先生、今年になって、国柱会の山田智雄氏に手紙で法論を挑んでいる会員がおります。一度、返事があったと聞きました。また書いたら、今度は、なしのつぶて。そこで鎌倉まで行って、いろいろ、ただしましたが、なかなかはっきりしないので、また手紙を出したところ、なんの返事もない。それで、法論を公開状として書きたいと意気込んでいるのですが……」
 山平の話が、ここまでくると、戸田は、はね返すように、即座に言った。
 「書かせなさい。両方で精いっぱい、法論を戦わせていくうちに、誰の目にも、その勝劣、正邪が判然としてくるだろう。いくら、一人で正しい、優れているといったって、相対するものが、なければ、その正しさは鮮明に浮かんでこない。五重の相対にしても、三重の秘伝にしても、そうだ。仏法の法門というのは、すべて相対のうえに絶対を確立していくものだ。大聖人の御書のすごさは、この点にあるんだね」
 戸田は、咳払いをし、言葉を探すように、しばらく黙っていた。みんなは、静かに次の話を待っている。
10  彼は、興奮して、思わず言葉に力が入った。
 「相対が相対だけに終わるなら、なんの意味もないではないか。相手にとどめを刺すためには、ひとまず相手のベースまで下りていくことだ。そうすれば、やがて相手の誤謬も、弱点も、矛盾も、自然とわかってくる。そこで、それらの過誤に気づかせ、どう正しい論点まで引っぱり上げるか!――これが言論の力だ。説得力というものは、この時の力なんだよ。一方的な主張だけしていたのでは、喧嘩はできても、相手を心から納得させることはできない。
 ところで、大聖人様の説得力は、単なる説得力ではない。よく読んでみなさい。根本が慈悲から発している説得力だよ。だから偉大なんです。われわれには、とうてい、そんなまねはできないが、せめて、しっかりした相対のうえに、辛抱強く戦って、帰結として絶対的なものが、おのずと浮かび上がるところまで論理を尽くすことだ。そうでなければ、これからの世間の人を納得させることは決してできない。
 『大白蓮華』を出すについて、いちばん肝心なことは、広く社会の風波のなかで論戦し、一切の誤った哲学を打破していくことだ。その覚悟がなくては、断じてなりません。ぼくらの仲間だけ、宗門だけに通ずる言葉で、あれこれ言う時代は、もう過ぎた。もっと極端な私の考えを言えば、宗教の分野だけに通用する理屈で事足れりとしている時代では、絶対なくなっている。広宣流布というのは、他の宗教の誤りだけ破っていればすむことでは決してない。あらゆる思想を比較研究して、大聖人の大生命哲学の偉大さを証明していくんです。これからは、それが最も大事になる」
 戸田のメガネが、ずり落ちかかった。彼は、それを手で、ちょっと上げてから、鋭い眼差しを一同に向けて言った。
 「こうは言っても、″はい、なるほど″と、さっそく、わかるものでもないだろう。ともあれ、まずは門戸を開いてみようじゃないか。仏教学者や、仏教史に詳しい人たちにも、誌面を提供してはどうだろう。そうだ、日持の事跡が、近年、相当はっきりしたと、作家の本舟さんが言っていたが、それも連載したら面白い読み物になるかもしれない」
 編集陣にとって、戸田の話は、あまりにも飛躍しているように思えた。作家の本舟は、日蓮大聖人の教えが最も正しいとする考えに立っているから大丈夫だとしても、世間の仏教学者たちは、大聖人を批判するようなことを書くかもしれない。大事な『大白蓮華』を汚されはしないかと、恐れたのである。
 彼らの危慎を、戸田は即座に察した。そして微笑を浮かべ、穏やかな眼差しに戻って言った。
 「心配しなくていい。どんどん書かせなさい。今の多くの仏教学者は、訓詁註釈に蘊蓄を傾けるだろうが、正面切って論争するほどの気概はないよ。だから困るのだ。まず討論の場をつくってみよう。公開討論のなかで、教義の高低浅深は自然に明らかになるだろう。そうなれば、会員も確信をもち、信心も深まる。世間の人の宗教観を改めていくこともできるじゃないか。
 『大白蓮華』の目的は、日蓮大聖人の仏法こそ、最高の教えであることを、世間に知らしめていくことだ。要するに折伏だ。この目的だけは、みんなの胸に、しっかり叩き込んでおいてもらいたい。編集内容は、時代状況に応じて変わることがあったとしても、この根本精神だけは見失ってはならない。そうすれば、あとは大丈夫だ。
 編集方針は、これでいいだろう。さっさと実行したまえ。みんな早く手分けして、執筆者に当たりなさい」
 『大白蓮華』創刊号の骨組みは、まことに呆気なく、やすやすと決定された。戸田の決定は、三カ月も、あれこれと気をもんでいた編集陣に、一つの活を入れるものとなった。行き詰まって元気をなくしていた編集陣は、たちまち生き返ったのである。
 そして、戸田は、『大白蓮華』の創刊にあたり、彼が半生の信心によって得た、確信の結晶ともいう「生命論」を、広く世に問う、第一声にしようと考えたのである。
11  戸田城聖は、不動の確信をもって、生命の「実在」を信じていた。それは、生物学的な、また医学的な意味でもなければ、現世の生死に限定した「生命」でもない。また、いわゆる霊魂などという存在とも異なる、生命そのものの実在であった。法華経の章句を文証として、前世、現世、来世の、いわゆる「三世」にわたる生命の実在を、彼は信ずることができたのである。
 彼は、釈尊よりも、はるかに深く、より本源的に生命の実在が説かれている、日蓮大聖人の「御義口伝」等の諸御抄を拝読し、そのたびに深い感動を覚えながら、思索を重ねてきていた。獄中以来の思索は、明鏡に照らすがごとく、確固たるものがあった。ただ、それを人びとに伝えることの困難さを知って、躊躇していたにすぎない。彼が、法華経講義を、幾たびも繰り返したのも、そのためであり、講義のたびに、弟子たちの理解の限界をも知らねばならなかった。
 彼は、「三世の生命」の章を書きながら、ふと念頭に、したり顔に冷笑するであろう現代知識人たちの顔が浮かんだ。彼は、挑戦するように書き続けた。「多くの知識人はこれを迷信であるといい、笑って否定するであろう。しかるに、吾人の立場からみれば、否定する者こそ自己の生命を科学的に考えない、うかつさを笑いたいのである。
 およそ、科学は因果を無視して成り立つであろうか。宇宙のあらゆる現象は、かならず原因と結果が存在する。生命の発生を卵子と精子の結合によって生ずるというのは、単なる事実の説明であって、より本源的に考えたものではない。あらゆる現象に因果があって、生命のみは偶発的にこの世に発生し、死ねば泡沫のごとく消えてなくなると考えて、平然としていることは、あまりにも自己の生命にたいしで無頓着者といわねばならない。
 いかに自然科学が発達し、また平等をさけび、階級打破をさけんでも、現実の生命現象は、とうてい、これによって説明され、理解されうるものではない。われわれの眼前には人間あり、ネコあり、イヌあり、トラあり、すぎの大木があるが、これらの生命は同じか、違うか。また、その間の関連いかん」
 戸田は、現代知識人の、宗教に関する無知よりも、自己の生命に関する無知と無関心を突いたのである。さらに、生命の実在が、三世どころか、実は無始無終であることを、どのようにして説いたらいいか、考えあぐねるのだった。
 ここで章を改め、「永遠の生命」と書いたあと、まず生命の長さについて筆を進めていった。法華経の如来寿量品から、釈尊の久遠の生命観を明かした、二つの章句を説明したあとに、大聖人の「総勘文抄」「当体義抄」「十法界事」「御義口伝」の極説から、生命とはいかなるものかを、彼は説こうとした。そして、その生命の実相が、一念三千であることに論を進めようとしたが、ここでひとまず、永遠の生命についての、一応の結論を述べなければならない必要を感じた。
 「私に会通をくわえて本文をけがすことをおそるといえども、久遠の生命にかんして、その一端を左に述べていく。
 生命とは、宇宙とともに存在し、宇宙より先でもなければ、あとから偶発的に、あるいは何人かによって作られて生じたものでもない。宇宙自体がすでに生命そのものであり、地球だけの専有物とみることも誤りである。われわれは、広大無辺の大聖人のご慈悲に浴し、直達正観事行の一念三千の大御本尊に帰依したてまつって、『妙』なる生命の実体把握をはげんでいるのにほかならない」
 多くの先哲のなかにも、観念的には生命の本体の何物であるかを思索し、論究した人はいる。しかし、戸田の念願とするところは、彼らとは、はるかに異なっていた。一人ひとりの庶民にいたるまで、それぞれ生命の尊厳と永遠性を知らしめ、その実生活において生命の力を湧現させていくことにあった。
 そこで彼は、現代の生物学の抜きがたい常識を打破する必要を感じた。彼のぺンは、急に速度を増した。
 「あるいは、アミーバから細胞分裂し、進化したのが生物であり、人間であると主張し、私の説く永遠の生命を否定するものがあるであろう。しからば、赤熱の地球が冷えたときに、なぜアミーバが発生したか、どこから飛んできたのかと反問したい。
 地球にせよ、星にせよ、アミーバの発生する条件がそなわれば、アミーバが発生し、隠花植物の繁茂する地味、気候のときには、それが繁茂する。しこうして、進化論的に発展することを否定するものではないが、宇宙自体が生命であればこそ、いたるところに条件がそなわれば、生命の原体が発生するのである。ゆえに、幾十億万年の昔に、どこかの星に人類が生息し、いまは地球に生き、栄えているとするも、なんの不思議はないのである」
 そして、戸田は、こう結論した。
 「あるいは、蛋白質、そのほかの物質が、ある時期に生命となって発生したと説く生命観にも同ずるわけにはいかないのである。生命とは宇宙とともに本有常住の存在であるからである」
12  戸田城聖は、この「生命論」と題する論文を、ここまで書き上げるのに、ほぼ一週間を費やしてしまった。彼は、多忙のため、毎夜、続けて書くわけには、いかなかったのである。
 昼間は、会社での戦いがあった。出版の仕事も、この時勢では、少しの油断もならない。まして、会社を休んだり、出勤に遅れたりすることすらできなかった。
 夕方には、さまざまな境遇の会員たちを指導しなければならない。彼らの問題は、あまりにも切実であり、避けるわけにもいかなかった。
 隔日の講義も、週三回である。これまた絶対に、自分勝手に休むわけにはいかない。
 彼は、講義を、午後六時に始め、七時半には終了するようにしていた。しかし、終わったあとに、熱心な質問が、次から次へと続くのに、閉口した。
 「もう、このくらいでいいだろう。今夜は、かんべんしてくれ。早く帰って、一杯やりたいというわけではないんだ。ぼくは、今、大論文を書きかけているんだ。これじゃ、いつ書き上げられるかわからん。『大白蓮華』の編集からは、″先生の原稿だけがそろわない″と言って叱られるし、ぼくも大変なんだよ。それも無理はない。最後の締め切りを、二日も過ぎてしまったんだからな」
 笑いながら戸田は、ここ数日間の苦労を、初めて打ち明けたのである。それが一同には、ただ面白おかしく聞こえた。無邪気な笑い声が、どっと湧いた。
 「では、後はよろしく頼む」
 戸田は、こう言って、一人、席を立った。期せずして激しい拍手が起こった。
 ″今夜は、何がなんでも書き上げるぞ!″
 彼は、決意した。戸外に出て、足を急がせる彼の長身は、やや前かがみに見えた。
 自宅に戻った戸田は、机の前に、どっかと座った。はや午後九時を過ぎていた。執筆は、最後の章を迎えていた。章のタイトルは、「生命の連続」である。
 ――生命が永遠であるとしても、その生命が、いったい、どういう状態で実在していくのか、いよいよ現実的な問題となってきた。この世に生きている間の生命は、誰にでもわかるが、死後の生命は、どうなっていくのか、これが最大の問題となってくる。
 さまざまな議論を頭に描きつつ、現実には、まだ何一つ確証のない、死後の生命の問題を書き進めていった。
 まず、最も一般的な見解としては、自分は死んでも、生命は子孫に伝わっていくので、生命は永遠であるという考え方がある。これは、まことに噴飯ものである。確かに、遺伝子などは、子々孫々に伝わっていくだろう。しかし、固有の宿命をもった「個」としての生命は、それとは次元が違う。
 もし、自分の生命が子どもに伝わったとすると、その子どものなかにも、自分の生命は生きていることになる。つまり、二つの自分が存在していることになってしまう。
 また、自分の死後は、子孫が絶滅したら、自分の生命もなくなることになる。地球が滅びて、なくなるような生命なら、永遠などという道理はなかろう。
 戸田は、ここで青年時代に傾倒した高山樗牛の言葉を、ふと思い出した。
 樗午は、「死と永生」と題して書いている。
 「まことの永生は名によりて生くるに非ずして、事によりて生くる也」
 つまり、人の偉大な仕事は後世に残り、その偉大な仕事のなかに、その人は、なお生きている、というのである。
 果たして、そうであろうか? 偉大な人間はともかく、凡夫のわれわれや、イヌやネコの生命は、とても永遠の生命などとは、いえないものとなってしまう。永遠の生命は、普遍妥当性をもつものであるはずだ。名声が後世に残ったとしても、その人の生命の連続とは別の話だ。それは、かつて生きた人の思い出にすぎない。
 では、霊魂となって永久に生きていくという主張は、どうなのか。生死にかかわらず、生命の実在の有り様がわからない時に、人は、さまざまな臆測をたくましくする。が、生命が死後に霊魂などというものに変わって、永久にフラフラしているとは、愚かな論議である。
 仏法哲学に、おいても、死後の問題ほど、やっかいな問題はない。それこそ、最高の仏法的素養を要する問題であるからだ。死後の生命を語るにしても、おそらく一般には、誤解と曲解とをもってしか伝わらないであろう。
 戸田城聖は、この問題を、最も素朴に、極めて常識的に扱うことが、今は、まず肝要なことだと思った。
 彼は、経典や御書からの、さまざまな文証を引用することは、なるべく控えた。そして、誰が聞いても、疑う余地のない確実在ことだけを書こうと決めたのである。
 「寿量品の自我偈には『方便現涅槃』とあり、死は一つの方便であると説かれている。たとえてみれば、眠るということは、起きて活動するという人間本来の目的からみれば、単なる方便である。人間が活動するという面からみるならば、眠る必要はないのであるが、眠らないと疲労は取れないし、また、はつらつたる働きもできないのである。そのように、人も老人になったり、病気になって、局部が破壊したりした場合において、どうしても死という方便において、若さを取り返す以外にない」
 彼は、迷った。
 生命が連続するものか、連続せぬものか、何を例に引いて説明したらよいのか――彼は、しばしば筆を休め、思索にふけった。
13  戸田は、ことまできて、やっと心の働きの不思議さを書こうと決めた。それは、生命活動の一現象である心が、喜んだり、悲しんだりしていく、疑う余地のない確実な存在だからである。
 「われわれの心の働きをみるに、喜んだとしても、その喜びは時間がたつと消えてなくなる。その喜びは霊魂のようなものが、どこかへいってしまったわけではないが、心のどこかへ溶けこんで、どこをさがしでもないのである。
 しかるに、何時間か何日間かの後、また同じ喜びが起こるのである。また、あることによって悲しんだとする。何時間か何日か過ぎて、そのことを思い出して、また同じ悲しみが生ずることがある。人はよく悲しみをあらたにしたというけれど、前の悲しみと、あとの悲しみと、りっぱな連続があって、その中間はどこにもないのである。
 同じような現象が、われわれ日常の眠りの場合にある。眠っている間は、心はどこにもない。しかるに、目をさますやいなや心は活動する。眠った場合には心がなくて、起きている場合には心がある。有るのがほんとうか、無いのがほんとうか。有るといえば無いし、無いとすれば、あらわれてくる」
 戸田は、原稿を読み返した。仏法哲学で、最も難解とされている、存在に関する「空」の概念を、さりげなく確実に述べたつもりである。そこには満足な思いがあった。
 西洋哲学では、「有無」の両極端に要約し、「空」という概念に乏しい。「空観」の理解なくして、生命は絶対に理解できない。空観の妙が、そのまま生命の連続する姿を示す、不思議さなのである。
 さて、いよいよ結論となってきた。
 「前にも述べたように、宇宙は即生命であるゆえに、われわれが死んだとする。死んだ生命は、ちょうど悲しみと悲しみとの間に何もなかったように、喜びと喜びの間に、喜びがどこにもなかったように、眠っている間、その心がどこにもないように、死後の生命は宇宙の大生命に溶けこんで、どこをさがしでもないのである。霊魂というものがあって、フワフワ飛んでいるものではない。大自然のなかに溶けこんだとしても、けっして安息しているとは限らないのである。あたかも、眠りが安息であるといいきれないと同じである。眠っている間、安息している人もあれば、苦しい夢にうなされている人もあれば、浅い眠りに悩んでいる人もあると同じである」
 彼は、この面倒な死後の生命について、科学的に実証できない現在、これは、一応、仮説とみなされでも仕方ないと思った。ただ、この仮説を率直に信じ、真面目に行じた人たちの人生が、見事に自己の宿命を転換させ、即身成仏を実証している事実だけは、彼は、身をもって知っていた。この仮説が、いつかは必ず真実であると証明される時が来ることを、彼は深く確信していた。
 仏法の宇宙観、生命観は、二十世紀半ばに至って、ようやく天文学などによって科学的に証明を加えられつつある。同じく戸田城聖の「生命論」も、やがて、その真実が証明される日が来るにちがいない。東洋の叡智ともいうべき仏法の鋭い直観を、現代は無視することができない趨勢になってきているのだ。
 ただ、この叡智の真髄が、日蓮大聖人の生命哲学にあることを、世界の知識人は気がつかないし、たとえ気がついても、直ちに信じようとしないだけである。そして、現代から未来にかけて黒々と広がる、不幸の深淵にたたずんでいる。
 戸田城聖は、この現代風景における、愚かな人間の表情を、心痛む思いで凝視していたのである。
 そして、過つことのない、優れた鋭い直観を、あらゆる行き詰まった人びとに分かつことを、彼は念じ、実践したにすぎない。
 彼は、最後に、次のように結論した。
 「この死後の大生命に溶けこんだすがたは、経文に目をさらし、仏法の極意を胸に蔵するならば、自然に会得するであろう。この死後の生命が、なにかの縁にふれて、われわれの目にうつる生活活動となってあらわれてくる。ちょうど、目をさましたときに、きのうの心の活動の状態を、いまもまた、そのあとを追って活動するように、新しい生命は、過去の生命の業因をそのまま受けて、この世の果報として生きつづけなければならない。
 かくのごとく、寝ては起き、起きては寝るがごとく、生きては死に、死んでは生き、永久の生命を保持している」
14  この「生命論」は、わずか三十枚ほどの原稿であり、わかりやすい論調で書かれていた。しかし、そのなかに、幾多の新学説と原理が含有されていることは事実である。後年、観念的に似通った論じ方をする人が出てくるようになるが、当時、ここまで明晰に論じた人はいなかった。
 締め切りを二日過ぎた深夜、繁多の間に書き上げたこの論文が、後世、哲学史上どのような位置に置かれるか、また人類文明にどのような偉大な寄与をなしていくことになるのか、彼は、いささかも思い及ばなかった。
 彼はただ、精魂を込めて書き上げたとの論文で、どうやら『大白蓮華』の創刊号に対する責任を果たせた喜びをかみしめていた。そして、コップについだ黄金色の酒を、一人、静かに飲んでいた。
 五月末の夜更けは、さわやかだった。
 今日、この「生命論」を読む読者は決して少なくない。この論文のもつ真実の価値を、ようやく一部の識者は、わかり始めたようである。素朴にして強靭、簡潔にして豊かな実りを秘めた、この小論は、やがて一世を風靡するにちがいない。
 思えば、近世ヨーロッパ哲学の祖デカルト(一五九六年〜一六五〇年)『方法序説』という、一本の木の幹から、近代哲学の幾つもの太いたくましい枝葉が茂ったのと同様に、この「生命論」も、今後、数百年にわたって、多くの思想、哲学の枝を茂らせることになろう。
 このデカルトと戸田の、二つの論文を読み比べてみれば、直ちにわかることがある。それは、ともにその発想の仕方において、極めて相似た明晰さをもつことである。数百年に一度、あるかないかといった秀抜な発想を、両者とも自分の日常の体験と、日常のありふれた言葉で語ることから始め、その発想の場の設定のうえに、不滅の哲学を発芽させたことである。
15  私は、わが師を宣揚するために言っているのでは決してない。客観的に、第三者として冷静に見ても、しみじみと、その感を覚えるのは、十分な理由があってのことである。
 二つの論文に共通していえることは、これらを、ひとたび読んだ後に、読者は等しく目から鱗が落ちた思いをすることである。つまり、偏見や感情にとらわれて読む人は別にして、読む前の世界と、読んだ後の世界とが、はっきり一線を画して変化し、鮮明な己の心象風景を悟り、それに驚くはずである。
 人びとは、「とっぴなことを言う」と、あるいは笑うかもしれない。もしそうならば、私は言っておきたい。
 いずれ、歳月の流れは、すべての現代哲学の地平の彼方に、忽然として「生命論」を浮かび上がらせるにちがいない――と。
16  ただ、「生命論」と『方法序説』との違いは、戸田城聖が森羅万象ことごとくの、三世にわたる「生命」の実在を根本としたのに対し、デカルトは、物事の真偽や是非を見極める判断力、良識、すなわち「理性」の実在を根本とし、そこに不動の確信を置いたことだ。
 戸田城聖は、生命の宇宙的法則が、実は一切の人びとの幸・不幸を決定する根本であることを説き、この法則をもって、この世の人びとの悲惨を救おうと実践していった。デカルトは、もろもろの学問において、真理を求めるには、その理性をよく導く以外、ほかに道はないと結論し、あらゆる既成の知識を疑わしいものとして、普遍的な理性に基礎を置き、全く新しい哲学を樹立することに邁進したのである。
 両者の論じる本質的な差異は、時代と風土と個性に由来しているところだが、それぞれの伝えがたい微妙な真理を、日常の凡々たる経験から、それぞれの最高の実在へと、強靭な直線を引いた独創性の見事さは、どちらも、まれに見る説得力となっていると、私は思っている。
 デカルトは、『方法序説』の第四部に至って初めて、理性の明証を示すために、あの有名な、「私は考える、ゆえに私はある」という言葉を記し、彼の哲学の確実な第一原理としたのであった。しかし彼は、この一句のために、第一部から第三部まで、自らの思想的遍歴を長々と叙述し、なければならなかった。それは、あたかも戸田が、「生命論」を書くにあたって、どうしても序章の「生命の不可思議」で、自分の経験の不可思議さから語り始め、発想の場の設定を必要としたのと同じである。
 デカルトは、『方法序説』のなかで、自身がたどってきた道を回想している。
 彼は、子どものころから「文字の学問」で育てられたと言っている。そして、名門校の学院、大学で、通算十年間ほど熱烈に勉学に励んだ。やがて、世間の学者仲間に入った時、彼は、せっかく学んだ、それまでの学問が、すべて疑わしいことに気づいた。
 「私は多くの疑いと誤りとに悩まされ、知識を得ようとつとめながらかえっていよいよ自分の無知をあらわにしたというほかには、なんの益も得られなかったように思われた」のである。
 この若い哲学者は、傲慢でも、卑屈でもなかった。増長や慢心とも無縁な、真の学者らしい、求道者らしい姿が見られた。
 デカルトは、ギリシャ語やラテン語などの諸国語や、歴史、数学、神学、法学、医学など、あらゆる分野の学問を学んだ。そして、それらの学問の原理となっている哲学について、なんら究極の真理が明かされてはいないことを悟り、多くの学識ある人びとによって主張されてきたことも、真実らしく見えるにすぎないものであると判断した。彼は、それらのすべてを、「ほとんど偽なるもの」と断定したのである。
 学問と称すべきものの、ほとんどを学び終えた時、彼は青年に達していた。学生生活から解放された彼は、「書物の学問をまったく捨てた」のである。
 以来、彼は、自分自身のなかに発見できるものか、または、「世間という大きな書物」のなかに発見できるもののほかは、「いかなる学問も求めまい」と決心した。
 彼は、記している。
 「私は私の青年時代の残りを旅行に用い、あちらこちらの宮廷や軍隊を見、さまざまな気質や身分の人々を訪れ、さまざまな経験を重ね、運命が私にさしだすいろいろな事件の中で私自身を試そうとし、いたるところで、自分の前に現われる事物について反省してはそれから何か利益を得ようとつとめたのであった」
 彼は、オランダで志願士官となり、ドイツへの軍旅にも参加した。
 当時のヨーロッパは、いわゆる三十年戦争が、ドイツを中心に勃発した直後であった。
 ――冬も間近いある日の夕暮れ、ドナウ川の上流にあるウルム市近郊の静かな宿舎で、彼は、誰にも煩わされることなく、暖かい炉部屋で深い思索に沈んでいた。そして不思議な経験をした。
17  それは、一六一九年十一月十日のことであった。彼は、その体験について、霊感に満たされ、驚くべき学問の基礎を見いだしたと、手記につづった。この炉部屋での体験こそ、デカルトの生涯と哲学を決定づけた瞬間だったといえよう。
 彼は、すべての学問を論理的に統一することが可能であることを感知し、また自分一人の力で、その全体を究め得るとの自負をもった。新しい哲学誕生への第一歩であった。
 若きデカルトにとって、純粋に哲学の探究に一生を送ろうとする決意は、そのまま実践的な、強固な決意であった。彼の胸には、哲学的探究への情熱がたぎっていたが、彼は、少しも焦ることはなかった。
 当時二十三歳だった彼は、哲学的基礎を固める作業を開始するには、もっと成熟した年齢になってからが適当であると考えた。翌年、春を待たずに再び旅に出て、以後、九年もの間、各地を放浪する。「世間で演ぜられるどの芝居においても、役者であるよりも見物人であろうとつとめながら、あちこちめぐり歩いてばかりいた」のである。
 真理を求めた彼は、疑わしいものは、すべて捨て去ったが、疑うために疑うというような懐疑論者ではなかった。そうではなく、「まったく疑いえぬ何ものか」を求めて、懸命な努力を重ねたのである。懐疑の斧をもって、既成の哲学に対する徹底的な解体作業を加えたといえよう。
 そして、解体のあとに建設が始まった。彼は、一六二八年に、学問の方法についてまとめようとし、『精神指導の規則』の執筆を始めた。だが、なぜか未完のまま筆を置いている。そして、その年の秋、オランダに移った。三十二歳であった。
 オランダに移ったデカルトは、形而上学的思索に沈潜していった。この時の思索の成果が、後に『方法序説』として世に出されるが、その前に、力学、天文学、生物学など、自然学について展開した『世界論』を書き上げて出版しようとした。しかし、そのころイタリアで、ガリレイが地動説で宗教裁判にかけられ、有罪になったことを知った。そこで彼は、この本の出版を中止してしまった。それは、デカルト独自の実践倫理であると同時に、彼は、それ以上に大切な著述の出版計画を、胸に秘めていたからである。
 それが一六三六年、四十歳の時に完成した『方法序説』であった。全六部のうち三部までは、彼の半生の忍耐強い思想遍歴と、確かな真理の探究を続けた歳月を、長々と自伝的に語っている。
 ――彼は、いったい、何を言いたかったのであろうか。
 第四部にいたって、あらゆることを疑い続けた果てに、彼が悟ったことを、「私は考える、ゆえに私はある」という言葉で述べている。
 ――どんな懐疑も、このような「私」を、揺り動かすことも、偽なりとすることもできない。すべては偽であると、考えている間も、その考えている私だけは、必然的に何ものかでなければならぬ。
 デカルトは、この「考える私」の存在を、彼の哲学の第一原理として、安心して受け入れるに足る真理とした。ここに初めて、彼は真実の哲学の確かな基礎を置くことができたと思った。
 彼をここまで運んだのは、「想像」でも「感覚」でもなく、明晰な「理性」であった。彼は、本来、人びとの理性というものが、文明社会であれ、野蛮な社会であれ、「この世で最も公平に配分されているもの」であり、普遍的な道具であることを信じていた。
18  デカルトに関して、少々紙幅を割いたのは、不動の真理にたどり着き、それを簡単な言葉で語るには、どれほど深い思索と、斬新な発想が必要かということを、確認するためであった。
 戸田城聖の「生命論」は、極めて明快だが、単純すぎると思う人がいるかもしれない。だがそれは、民衆のための哲学を打ち立てようとしたからである。人びとは、その平易な言葉の背景にある彼の発想の深さには、ほとんど気づかないようだ。彼の「生命論」の深さに気づく人も、まことに、まれではないかと思われる。
 彼は、デカルトと違って、発想の場の叙述については、「生命の不可思議」の序章で、原稿用紙わずか数枚を費やしたにすぎない。彼は、思索の過程を記述することよりも、生命の変革の道を説くことに、最大の眼目を置いていたのである。戸田は、革命的な実践家であった。
 デカルトの時代は、ようやく科学革命の始まったころであった。その科学もまた、彼の「理性」の掌中に置かれた。そして彼は、科学を、彼の哲学体系の一分野としてとらえ、「考える私」をベースに真偽を識別した。
 「考える私」を精神の営みの軸とする点では、宗教についても、また同じであった。彼が、「考える私」を踏まえながら、その存在する「私」が、どう見ても不完全なものだと省察を加えていくのは、より完全なものの存在を基準に置いているからにほかならない。この完全な存在者を、神といってよい。しかし、この神は、不完全な「私」が勝手に考えだしたものでは決してない。この神という観念は、完全な存在者たる神が、私のうちに置いたところのものである。
 ――かくして彼は、神の実在を、「私」の実在と同様に確信するのだが、ここでもまた、不完全な「考える私」をベースとして出発しているのである。
 デカルトは、神が、あらゆる人びとに公平に配分した、理性の明晰さを信じた。彼が、理性の陶治に、独特の仕方で、長い年月を費やしたのも当然のことである。
 現代の知識人が、肥大化する科学文明のなかにあって、理性の傲りに悩む時、確かにその一因が、デカルトに帰せられることは明らかである。しかし、中世の学問の因襲をすっぽりと捨てて、あいまいな哲学用語を許さず、日常の言葉を自在に駆使して、深い真実を語ったデカルトの発想が、へーゲルの言うように、「思想の英雄」の歩みとして、時代的制約のなかで、不滅の輝きを放っていることは、否定できないであろう。
 しかし、デカルトは、「私は考える、ゆえに私はある」という疑い得ない結論に達して、「私」の存在を確証したが、そこで踏み止まってしまっている。その「私」の本質が、いかなるものかという探究は、彼の哲学には明確でない。
 いな、情念や感覚や想像力などの現象を、子細にたどっただけで終わっている。思弁哲学者の限界が、ここにある。
 一方、戸田城聖は、仏法でいう生命の実在を信じ、その明断さを初めて説いた。彼は、「考える私」の存在の奥に「生命」をとらえたのである。
 戸田は、日蓮大聖人の教えのままに、あらゆる苦難に耐えて、純粋に実践した果てに、「生仏一如」つまり衆生も仏も一つという、生命の実相を知ったのである。同時に、それが、この世界の悲惨を絶滅する、唯一の法理であるとの確信をもった。
 そして、その法理を現実化する実践こそ、戸田が、「広宣流布」と呼んできたところのものである。
 彼にとっては、思索即実践であった。いや、実践即思索といってもよい。
19  まさに戸田城聖は、全く新しいタイプの現代思想家であり、また宗教家であったといえよう。戸田城聖の哲学と、デカルトの哲学とは、その語る内容は異質であっても、いずれも刮目すべき新しい哲理の誕生を告げたものであると、私は見たい。
 ここに一つの、人間の歴史の規範性がある。
 ――近代の淵源はルネサンスであるが、人間復興の精神は、社会の背後に、人間がはつらつと巨大な姿で現れた事実に由来するといえよう。中世の封建社会に、全く埋没していた人間が、地球の重ささえもつ存在であることに気づいたのである。
 人間における、自由、平等、尊厳の鮮烈な叫びは、社会の大変革さえもたらした。同時に、科学文明の発達は、急速に人間に関する探究を細分化し、専門化し、遂には人間本来の主体性をも見失うところまできてしまった。これが、十九世紀から二十世紀にかけての、文明社会の偽らざる姿態である。
 そして、人間性の喪失、疎外に、人びとが気づき始めた時、焦点のぼやけた「人間」群像の背後に、「生命」が、明晰な姿で現れようとしている。二十世紀半ばを過ぎて、生物学者たちは、期せずして「生命の神秘」に挑戦し始めた。第二次世界大戦後の生化学の発展は、目覚ましいものがある。
 「生命」の問題に対する関心が高まってきたことは、非常に結構なことと思う。しかし、生命を物質的側面からとらえようとする企てによって、遺伝情報を伝えていくDNA(デオキシリボ核酸)などは発見されたが、そうやすやすと生命の不可思議が解明されるとは思えない。
 いずこより来り、いずこへ行くのか――生命の本質的な神秘は、ここにある。試験管や顕微鏡の中にあるのではない。そこでとらえられるものは、生命現象の一面だけではないだろうか。
 結局、私たち自身の存在そのものが、生命それ自体なのである。してみれば、また人間の主体性を回復するためにも、この解明にこそ重点を置かなければならない。
 戸田城聖の「生命論」は、まことに新しい、生命の世紀の夜明けを告げる宣言書であると言わざるを得ない。
 今後、生命に関するいろいろな実験が重ねられ、多彩な論議が沸き起こり、さまざまな仮説も登場することであろう。そして、戸田の論文のある部分を、科学的に実証するにいたることも、おそらくはあるであろう。彼の「生命論」が、真の光彩を放ち始めるのは、その時であると確信したい。
 人びとが、生命の探究にあたって、迷路に入って行き詰まった時、立ち返るべき故郷としての「生命論」を知って、思わぬ幸せをかみしめる時も来るにちがいない。また私は、それを待とう。
 デカルトは、近代文明の夜明けに際しては、得がたい地の塩であった。しかし、彼の使命は、現代では終わったと思える。
 人間の背後に生命が、いやでも鮮明な姿を現した以上、広宣流布による人間社会の変革とともに、戸田城聖という実践的哲学者の「生命論」が、これからの時代の光源となることも、また自明の理ではないだろうか。
20  『大白蓮華』創刊号が、人びとの手に渡ったのは、六月であった。見慣れた、謄写版刷りの「価値創造」が意外な衣替えをしたので、驚いたり、喜んだりしたものである。
 しかし、誰よりも喜んだのは、まず、戸田自身であった。
 ――会員が機関誌を愛し、熟読する限りは、新たな組織の伸長が見られるであろう。その反対に、編集内容が惰性に流され、人びとが心から親しむこともなく、機関誌を大事にしなくなった時には、おのずから学会の発展も止まってしまう。
 彼は、長年の経験から、そのことを肝に銘じていたのである。
 人びとは、新雑誌の表紙を開け、戸田城聖の「生命論」を、まず読んでいった。しかし、ある人は法華経講義の、あの話だなと、軽く読み飛ばした。ある人は、かねて折伏している友人に、この「生命論」を読ませてやろうと勇み立った。またある人は、不思議な感銘をもてあまし、自分の教学力の薄弱さを恥じた。
 人びとの印象は、さまざまであった。だが、この無類の哲学論文が、二十一世紀の「生命の世紀」のために、純粋な真理を語っていることに、気づく人はいなかった。
 山本伸一は、戸田の出版社で編集の仕事を始めて、既に半年が過ぎていた。
 彼は、この創刊号を持ち帰って、夜遅く「生命論」を熟読し始めたのである。鮮烈な感動が、いきなり彼を襲ってきた。彼は、しばらく茫然としてしまった。だが、体の疲労に気づき、寝床を敷いて横になった。
 暗い部屋である。彼の頭は、なお熱かった。覚めやらぬ興奮は、彼の睡眠を、いつまでも奪ってしまった。彼は、やがて布団からはい出すと、スタンドのスイッチを入れた。そして、机にノートを広げたのである。
 彼は、この夜の感動を、彼なりの表現に託そうと、思いをめぐらしていった。詩の語句が、切れ切れに浮かび始めた。そして鉛筆は、紙の上を動き始めたのである。
21  若人に期す
  
 おお、暁の天を衝き
 無数の光彩ひかりを放ち
 燦々と太陽は昇る
 ああ その刹那の感動!
 驚嘆の生命のおののき
 それは若人の心の跳躍だ
  
 若人よ
 いま 二十世紀の原子力時代にあって
 心の哲学でなにを救えるのか 否!
 陰謀と暴力と物の哲学で
 人類が幸福になれると
 誰が信ずるのか 否! 否!
  
 生命の本質を明証し
 宇宙の本源をあかした――
 日蓮大聖人の大哲学にこそ
 若人よ わたしは身を投じよう
 智あるものは知れ
 人類を慈愛する者は動け
 悠久の平和――広宣流布
  
 若人よ 眼を開け
 若人こそ大哲学を受持して
 進む情熱と力があるのだ
 彼は、ノートを閉じて、寝床にもぐり込んだ。しばらくして、安らかな寝息をたて始めた。この夜の詩は、『大白蓮華』第二号の片隅に掲載された。

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