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日蓮大聖人・池田大作

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宣告  

小説「人間革命」3-4巻 (池田大作全集第145巻)

前後
2  この判決は、直ちに電波に乗って、全世界に報道された。
 ドイツの戦争犯罪人に対するニュルンベルクの国際軍事裁判は、既に終結していた。今、極東国際軍事裁判の終結を知って、世界の人びとは、事実上、第二次世界大戦の最後の幕が下りたのを見たのである。
 この二つの裁判は、戦勝国が法廷を構成し、敗戦国の戦争責任者を審判するという、世界史上にも例のないものであった。
 これまで、国際法の通念によって、捕虜や非戦闘員への虐待や虐殺などに関して、その直接の実行者か、それを命じた者が、戦争犯罪を問われて裁かれたことはあったが、戦争そのものに対する責任者の追及ということはなかった。戦勝国は、敗戦国に対して、賠償金や領土の割譲を要求して、戦争責任を慣わせるのが常であった。言い換えれば、国家間の戦争において、勝者が敗者の戦争責任を、個人の責任として追及したことはなかったのである。
 ただ、例外的な事例として、第一次世界大戦の際、ドイツ皇帝が戦争責任を問われたことがある。一九一九年(大正八年)六月二十八日、ベルサイユにおいて、ドイツ降伏の講和条約が、連合国とドイツの間に結ばれた。その際、皇帝ウィルヘルム二世の責任を追及するために、連合国側が特別裁判所を設置しようとした。
 しかし、皇帝は戦争終結の直前にオランダに亡命していた。そのオランダが、皇帝の身柄引き渡しを拒否したため、結局、裁判は行われなかった。
 ところが、第二次世界大戦を通して、戦争犯罪の概念は大きく転換された。敗戦国の指導者たちは、戦勝国の裁きによって、個人としての戦争責任を糾弾され、処罰されたのである。その第一歩は、ニュルンベルク裁判におけるナチス指導者たちへの断罪であり、それに続く東京裁判では、日本の戦争指導者たちが弾劾された。
 戦争犯罪の概念の拡大と質的転換は、当然、さまざまな論議を引き起こした。ある人は、国際法による法理論のうえから、裁判の矛盾を突いた。またある人は、人道上から裁判の結果に反対した。しかし、復讐という本能的執念から、この裁判を妥当であるとする人もいたし、あるいは、戦争根絶を念願する平和への対策としての論点から、こうした裁判もやむを得ないと考える人もいた。それぞれの立場から、賛否さまざまの議論が沸き起こった。
 極東国際軍事裁判が、二十世紀最大の関心事の一つであったことは疑いない。欧米各国の論調は、この断罪を至当な宣告とみた。だが、十一人の判事全員の意見が、一致していたわけではない。
 そのなかで、この裁判に異議を唱え、全員無罪を主張したインド代表の判事と、この判決を支持し、アメリカの原子爆弾使用までも、目的のためには正当であったと主張したフィリピン代表の判事は、裁判をめぐるさまざまな意見の両極端に立つものであった。
 だが、最も深刻なショックを受けたのは、民衆であったろう。衣・食・住の乏しい不安定な日々を送りながら、自分一人生き抜くことに懸命であった人びとは、他人の運命にかかわっている余裕などなかった。その人たちにも、この判決は、八月十五日の敗戦の詔勅に次ぐ、第二の衝撃であったにちがいない。
 占領下にあって、人びとは、それぞれ複雑な思いと感慨をもって、裁判を見つめていた。肉親を戦争で失った人びとは、この裁判には不満であっても、断罪そのものには賛成していたかもしれない。復員兵たちは、彼らの生涯を、かくまで狂わせてしまった、かつての戦争指導者たちに対する宣告を聞いて、憤懣を叩きつける相手を急に失い、拍子抜けしたかもしれない。
 多くの国民は、この裁判の終結にあたって、敗戦という冷厳な現実を、心の奥で確認させられた思いであった。だが彼らは、それぞれの感慨を、公然と口にすることは避けていた。それは、占領下にあるという意識からであった。
 日本の民衆は、初めて「無条件降伏」ということが、いかなる実態であるかを、はっきりと自分の目で見たのである。彼らのなかには、この時、あらためて戦争に対する憎悪と、平和への悲願をいだいた人もあるだろう。それらの人びとは、真の恒久平和の達成を、民族の未来の課題としなければならないと、強く感じたにちがいない。
3  戸田城聖は、これらの戦犯者から最大の被害に遭った者の一人として、深い思いに沈んでいた。
 一国が誤った宗教を尊崇し、正法を弾圧する時、梵天・帝釈が治罰を加えさせる――という仏法の法理が、かくも正確に、最後の裁判まで貫かれた実証を見たのである。
 ″正法と邪法の区別、正法を弾圧した時の梵天・帝釈による治罰ということを知っている者は、今の日本には皆無といってよい。それを語ったところで、誰も心から信じはしないであろう。現在は、そういう時だ。だからこそ、広宣流布の戦いを起こさねばならない″
 一切を現実に見た彼は、その一切を胸に畳んだ。
 戸田の弟子たちが、この判決について、彼を苦しめた戦犯たちに対する、激しい憎悪を言葉にした時、彼の心は重かった。
 ただ、こう言っただけである。
 「あの裁判には、二つの間違いがある。第一に、死刑は絶対によくない。無期が妥当だろう。もう一つは、原子爆弾を落とした者も、同罪であるべきだ。なぜならば、人が人を殺す死刑は、仏法から見て、断じて許されぬことだからだ。また、原爆の使用は、いかなる理由があろうとも、あれは悪魔の仕業ではないか。戦争に勝とうが、負けようが、悪魔の爪は、人類の名に、おいてもぎ取らなくてはならん。原爆の使用者は、戦犯として同罪にすべきだ」
 裁判の進行中に、原爆投下の問題に触れたのは、梅津担当の弁護人ただ一人であった。それは、アメリカのベンブルース・ブレイクニーという弁護人である。しかし彼は、原爆の非人道性を訴えたのではなかった。戦争における殺人は、いわゆる殺人罪ではないことを主張し、戦争における個人責任を問おうとする検察側の不当性を訴えるための引例にすぎなかった。
 「キッド提督の死が真珠湾爆撃による殺人罪になるならば、我々はヒロシマに原爆を投下した者の名を挙げる事ができる。投下を計画した参謀長の名も承知している。その国の元首の名前も、我々は承知している。彼等は殺人罪を意識していたか。してはいまい。我々もそう思う。それは、彼等の戦闘行為が正義で、敵の行為が不正義だからではなく、戦争自体が犯罪ではないからである」
 これは、勝者の殺人は合法となり、敗者の殺人は犯罪となるような法は、どこにあるのか、という意味の詰問であり、抗議である。つまり、国家の行為である戦争における殺人は、殺人罪に問われないのであるから、国家の機関として戦争を指揮した個人の行為を、犯罪とすることはできない。ゆえに、戦争裁判で個人の責任を追及することは、国際法のうえから不当である、というのである。
 これは、東京裁判が、戦争犯罪のなかに、「平和に対する罪」を追加したことによって生じてきた問題であった。戦争は、国家の行為であるから、戦争それ自体を裁くには、国家の上位に、国家の行為を裁く機関がなければならないが、そのような機関は存在していなかった。したがって、従来、戦争は犯罪とはされなかったのである。ところが、東京裁判は、戦争を裁こうとして、戦争を計画し、準備し、実行した罪の責任を、個人に求めたのである。
 戦争が悪であることは、誰しも認めるところである。したがって、戦争を指導した者も悪といえよう。しかし、それを罪として罰するには法が必要である。そのような国際法は、この当時、確立していなかった。
 弁護側は、この点に着目し、東京裁判の法廷には、戦争を個人の責任として裁く権利があるか、ないか、いわゆる管轄権の問題を激しく追及した。そして、この問題の底流となった、勝者が敗者を裁く場合、いったい公平な裁判というものが、あり得るのかという疑問は、人びとの胸に、最後までつきまとって離れなかった。
 連合国は、厳正にして正義の裁判を、わざわざ試みようとした。
4  だが、それならば、戦後設立された国際司法裁判所か、または中立国が裁判の衝にあたるべきであったが、アメリカを主体とする戦勝国十一カ国の判事が裁くという方式を取ったことは、表面上の繕いとは別な本心を現していたといえる。そして、「当法廷は、法にもとづき、憎愛の念をはなれて裁判する」と、意気込んだ宣言も、結局は無価値なものになった。
 では、東京裁判をあえて行った連合国の目的というものは、いったい何であったのか。それは、戦前の長年にわたる日本の政治の暗部を暴露すること自体にあったのかもしれない。
 神格化された天皇、神話的な国体、神兵の集団とされた軍部の暴虐、無謀な国家経営の実態……。そして、これらに踊った、かつての権力者や指導者の権威と権力を剥奪してみせることによって、目隠しされてきた国民の目を開こうとしたのであろう。そのために、欧米の民主主義的で公正な裁判のモデルとして法廷を公開し、日本国民に思想的ショックを与えようとしたのではなかろうか。
 このショック療法は、かなり成功したといえる。しかし、裁判の公正さという点では、大きな疑問を残したといえよう。
 このほか、終戦直後から、アメリカ、オーストラリア、オランダ、イギリス、フランス、中国、フィリピンの七カ国が、横浜、グアム、マニラ、シンガポール、香港、上海など、各地で軍事裁判を行う法廷を開設して、多くの日本の将兵を裁いた。その数は、膨大なものであった。これらの裁判は、BC級裁判と呼ばれていた。
 ヨーロッパ戦線において敗れたドイツのナチス幹部を裁く軍事法廷は、ニュルンベルクで開かれたが、連合国側は、戦争犯罪を、(A)平和に対する罪、(B)通例の戦争犯罪、(C)人道に対する罪、の三つに大別してナチスの指導者と将兵を裁いた。
 「平和に対する罪」とは、侵略戦争を計画、実行したこと、「通例の戦争犯罪」は、従来、認められてきた戦争法規違反で、捕虜の殺害や虐待、毒ガスなどの兵器の使用、略奪行為などがそれである。
 「人道に対する罪」は、一般住民に対する殺人、迫害などの非人道的行為を指す。このうち「平和に対する罪」「人道に対する罪」は、ニュルンベルク裁判で初めて登場してきた戦争犯罪の概念であった。
 日本に対しても、この概念が引き継がれ、東京裁判では、特に(A)「平和に対する罪」が焦点となって、戦争を指導した主要人物が裁かれた。東京裁判がA級裁判と言われるのはこのためである。「通例の戦争犯罪」と「人道に対する罪」を裁いた占領地における裁判は、一括してBC級裁判と称されたが、一応、B級は、捕虜や非戦闘員に対する殺害や、虐待を指示した上級指揮官が対象とされ、C級は、それを実行した下士官以下の兵が対象とされた。
 B級裁判は、七カ国が、それぞれ行った裁判である。戦後の混乱期に行われたもので、詳細な記録は残されていない。その実態は、資料によって若干の違いがあるが、『東京裁判』によると、次のような数字になる。
 死刑九百三十七人、終身刑三百五十八人、無罪千四十六人、有期刑三千五十八人。なお、これには、ソ連参戦以来、ソ連内で行われた裁判の戦犯数は含まれていない。
 これらの裁判は、遠い彼方の地で行われていった。日本国民の目には届かず、また報道もされずに、各国で厳しい軍事裁判がなされたのである。おそらく、語り伝える術もない、多くの悲劇がひそんでいたにちがいない。
 降伏し、戦地で捕虜となった日本兵が問われた罪の多くは、住民虐待であった。戦闘地域では、情報収集などを目的とした住民への尋問がなされ、時には拷問も行われた。また、現地での食糧調達なども行われたが、時には略奪に近い強引な方法もとられた。
 当然、住民の憎悪、恨みは抜きがたいものとなって残り、裁判となった時、それは強い報復の念となって燃え上がる。その住民の訴えだけをもとに、虐待を行った本人であったかどうかの証拠による確認もなく、また弁護人が付けられることもなく、処刑されていった日本兵も少なくなかった。
 裁く側の軍事法廷も、敵国軍人であった日本兵に対する敵愾心を克服していたとは思えない。むしろ、住民の意向に沿った判決を急いだと思われる節さえある。
 異国の地で法廷に立つ日本兵にとって、頼るべき故国は、連合国軍の占領下にあって、なんの権限もなかった。
 仮に償うべき罪があったとしても、異国の法廷で、言葉も十分に通じず、弁明する機会も与えられず、一方的に死刑を宣告されて処刑されていった将兵は哀れである。その家族の心情も、悲しみに満ちたものであろう。戦争というものは、どの断面を取ってみても、悲惨であり、残酷である。戦争で殺された犠牲者だけでなく、これらの人びとの冥福をも、祈らずにはいられない。
5  東京裁判の被告たちは、主要戦争犯罪人、つまりA級戦犯と呼ばれた。
 その犯罪行為としては、「平和に対する罪」としての侵略戦争の計画、準備、開始などに関する行為が、主要な犯罪行為としてあげられ、また、「人道に対する罪」として、戦前、戦時中、民衆に対して行った殺害、虐待などの非人道的行為もあげられている。裁判は、これらについて、政府の責任者とみられる政治家、統帥部の軍人、指導者と目される人たちの責任を問うものであった。
 つまり、BC級戦犯を生んだ、元凶たる個人を罪しようとしたのである。第二次大戦以前は、戦争がもたらす結果のすべてを国家の責任として、個人の責任が問われた例はなかった。従来の国際法や慣例にも、このような元凶を罰する条文は、なかったのである。クラウゼヴィッツは、その著『戦争論』のなかで「戦争は他の手段をもってする政治の継続にほかならない」と述べているが、国際法上、そもそも戦争それ自体が犯罪であるとは考えられていなかった。
 東京裁判の法律的な根拠は、まことに薄弱なものであった。それは、ポツダム宣言の第六項の「日本国国民を欺瞞し之をして世界征服の挙に出ずるの過誤を犯さしめたる者の権力及勢力は永久に除去せられざるべからず」や、第十項の「吾等の俘虜を虐待せる者を含む一切の戦争犯罪人に対して厳重なる処罰を加えらるべし」などを、基本としているように思える。そして、連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーの名において、「極東国際軍事裁判所条例」が布告され、これが裁判を正当化する根本の法とされた。しかし、ここには国際法上の重要な問題があった。
 清瀬一郎らの弁護士による反論も、冒頭から、この点を突いて展開されていった。
 ――いかにも日本は、ポツダム宣言の受諾によって、降伏したのであるから、宣言の諸条項に従う義務はあるが、それ以外の義務はない。ポツダム宣言には、「平和に対する罪」「人道に対する罪」を犯した者を罰する条項はない。したがって、連合国は、「宣言」の条項にない、これらの罪に対して起訴する権限はない。連合国から権限を委任されたマッカーサーにも、これらの罪を裁判する権限はない。
 もし、ありとするならば、それは越権行為である。ニュルンベルクの裁判を先例として、平和と人道に対する二つの罪までも裁こうとすることは、ポツダム宣言第五項に示されているが″連合国もポツダム宣言を守る″という条件を無視するものである。したがって、国際法によって認められた通例の戦争犯罪しか、裁判所は裁く権限はないはずだ――。
 弁護人たちは、この裁判の成立のあいまいさを指摘した。それは、裁判の全般にわたる弱点でもあった。彼らは、勇気を奮って、真剣に戦った。しかし、それは聞き入れられなかった。
 当時のGHQ(連合国軍総司令部)のシーボルト外交局長は、開廷の日には傍聴者として出席した。しかし、彼は、裁判の終結を見るまで、法廷に姿を見せることはなかった。
 彼は回想記に、こう記している。
 「私は、起訴状のなかに述べた、いまわしい事件の多くを、よく知っていたけれど、本能的に私は、全体として裁判をやったこと自体が誤りであったと感じた。被告たちの行動が、善悪という哲学的観念から見て、いかに嫌悪を感じさせ、また非難すべきものであったとしても、当時としては、国際法に照らして犯罪ではなかったような行為のために、勝者が敗者を裁判するというような理論には、私は賛成できなかったのだ。(中略)この点に関しては、私の感じは非常に強かったので、この最初の演出された法廷の行事が終るまで、私は、不安の感じに襲われ、再び法廷にはもどらなかった」
 GHQ外交局長という要人でさえ法廷を避けた、疑問の多い裁判であったわけである。
 こうした根本的在、深刻な矛盾をはらんだまま、裁判は強行されたのである。時には、一種の茶番劇に見えることもあった。ともあれ、大がかりな軍事裁判劇は、世界の注目のなかで、一九四六年(昭和二十一年)五月三日から、長期にわたって続けられたのであった。
 検察側の冒頭陳述のあと、立証段階に入ると、昭和裏面史ともいうべき、数々の秘史が暴かれていった。内外にわたって、当時の数多くの関係者が、証人として次々に立ち、立証の陳述をした。
 「聖戦」の名のもとに行われた戦争が、軍事指導者の野心の発意による陰謀であったり、二・二六事件の内幕や、満州国成立へのいきさつ、さらに皇軍の非人道的な残虐性、南京虐殺事件、「バターン死の行進」など、耳を覆いたくなる内容が、白日のもとにさらされたのである。
6  国民大衆は驚いた。しかし、その多くは、世界の人びとには、とうの昔に知れ渡っている事柄だったのである。
 日本軍部の戦時の言論統制は、まことに厳しかった。「神州不滅」を叫び、「聖戦完遂」に駆り立てられ、「悠久の大義に生きる」ことを強要され、十数年の間、馬車馬のように猛進して倒れた日本国民の目隠しは、これによって取り払われたのであった。
 三七年(同十二年)十二月に起きた南京虐殺事件は、その内容に諸説があり、実態が明確ではないが、相当な残虐行為があったことは確かである。アメリカ人の医師や牧師、中国人など九人の証人が、皇軍の占領当時の詳細な模様を語った。
 南京政権のもとで日本大使を務めたこともあった元外相の一人は、あまりの残虐さに被告席で頭を抱え込んだ。彼は漸塊の念に堪えず、獄舎に帰ってから、その日の日記に、「宣教師の南京暴行事件の證言あり、虐殺、強姦、暴行、破壊、數時間に亙つて縷々證言して盡くる所なし。吾人をして面をおおはしむ。日本人たるもの愧死きしすべし」と書いている。
 四二年(同十七年)四月には、フィリピンのバターン半島で、「バターン死の行進」として追及された虐待事件が起こっている。裁判記録によると、投降してきたアメリカ兵一万千人、フィリピン兵六万二千人を、炎天下のもと、捕虜収容所まで約百二十キロの道を、七日ないし十一日問、食物も水もなく、行進させていったというのである。衰弱していた捕虜たちは、次々に倒れていった。そして、収容所で死亡した捕虜も含め、約三万人の犠牲者が出たといわれる。生き残った証人たちは、日本軍の蛮行、拷問、虐使について、耳を覆わざるを得ない事実を述べた。
 さらに、タイ・ビルマ鉄道建設における、捕虜虐使事件も同様であった。
 裁判では、アメリカ軍とイギリス軍の将兵が、ヨーロッパ戦場において捕虜となり死亡した人数と、太平洋戦場において捕虜となり死亡した人数を比較している。
 ヨーロッパ戦場では、二十三万五千四百七十三人が、ドイツ、イタリア両軍によって捕虜とされ、そのうち九千三百四十八人、つまり四パーセントが、収容中に死亡した。
 ところが、太平洋戦場では、十三万二千百三十四人が、日本軍によって捕虜とされ、そのうち三万五千七百五十六人、つまり二七パーセントの高率で、収容中に死亡したことが示されたのである。
 法廷は、この統計を、捕虜に対する日本軍の残虐性の程度を強く示すものとして取り上げ、戦争指導者の責住を追及した。
 日露戦争や、第一次大戦においては、敵国の捕虜に対する日本の処遇は、各国の賞讃を得るほどであった。さすが武士道の国であると、国際的信用を博したものである。しかし、第二次大戦で日本の軍隊がとった行為は、この信用を完全に覆すものであった。日本の精神的荒廃は、この間に急速に進んでいたと、いわなければならない。
 もっとも、第二次大戦の戦場においては、数万の敵国兵が、一挙に投降してくることも珍しくなかった。「生きて虜囚の辱めを受けず」を信条としていた日本軍にとって、戦場における、かくも多数の投降兵は想像の埒外であり、その処置に困惑したということも考えられる。持たざる国の日本軍にとって、捕虜は、まことに荷厄介であったのだろう。しかし、多くの人が残虐であると認めた事実があった以上、その指摘は、潔く受け入れるほかはなかった。
 国民は、聖戦の美名のもとに行われた戦争の実態を知り、わが民族の誇りを傷つけられ、戸惑ったが、立証する証人は、あまりにも多かった。その数は、元満州国皇帝・溥儀ふぎ(プーイー)をはじめとして、四百十九人の多きにのぼっている。そのほか宣誓口供書は、七百七十九通、証拠四千三百三十六件と、膨大な数字であった。
 こうして、東京裁判は、延々、二年六ヵ月余にわたり、開廷日数四百十七日、開廷回数八百十八回に及んでいる。
 多くの矛盾をはらみながらも、東京裁判は、軍国日本の、積年のウミを出すメスとなっていったことは間違いない。そして、このようなことを二度と繰り返さないために、平和な新時代を築いていかねばならない、という思いをいだいた人も少なくなかった。
 裁判が、一コマ一コマ進むにつれて、かつての国家神道の理念は滅び、古い国家が崩れ去っていくのを、人びとは実感した。国民にとっては、夜が深まった果てに、新しい黎明の朝が、刻々と近づいてきたようでもあった。
7  山本伸一は、新しい時代に生きる一人の青年として、この東京裁判の経過を見つめながら思った。
 ″時代の変遷に応じて、新しい理念をもった新しい人が登場し、その人たちによって、新しい社会が創られていかねばならない。それによって、社会も、国家も、人類も、伸展していく。東京裁判は、そうした変遷の、一つの区切りをなすものなのかもしれない。
 新しい時代を創り、未来に生きる民衆は、強い自覚と、正しい批判力をもって、もう絶対に、歴史を後戻りさせるようなことがあってはならない。そして、民衆を基盤にしない限り、何もできない時代にしていくことだ。民衆が為政者を使いこなして、民衆が幸福に生きるために一切がある、という時代にしなければならない。民衆の一人ひとりが目覚め、力をもち、結び合ってこそ、それが実現されていくのだ。
 民衆自身が、無冠の帝王ともいうべき存在になった時、陰気な泥沼の道にも、新しい春光が輝き、平和の花咲く、堅固で盤石な大道に変わっていくであろう。それが新しい社会であり、新しい時代なのだ……″
 伸一は、一つの詩を思い起こし、自身の理想をそこに託していた。それは、ホイットマンが、新天地を築いていく、生き生きとした民主主義の精神をうたった詩の一節である。
  私たちの一人一人は極めて貴重なものなのだ、
  私たちの一人一人は無限だ――
  私たちの一人一人は彼れなりまたは彼女なりの権利と一緒で世界のうへにあるのだ、
  私たちの一人一人は世界の永遠の目的を承認したのだ、
  私たちの一人一人は此処にあっていかなる人が此処にあるにも等しく神聖なのだ。
8  一九四八年(昭和二十三年)十一月十二日――晴天の日には、遠く富士を望む市ヶ谷で演じられた、長い裁判劇は終幕となった。夕闇迫る、その″劇場″の外には、日本を象徴する菊の花が満開となって、かすかに風に揺れていた。後は、刑の執行が待っているのであろう。
 日米の弁護団は、裁判所条例の規定によって、訴願ならびに再審申し立てを行った。彼らの申し立ては、減刑を嘆願せず、判決のなかの事実認定の誤りを指摘し、法理論上から判決の不当を主張したものである。そして最後に、未来の世界を想像して、こう結んでいる。
 「もし、われわれが、法律の下に組織され、法の規則と、正義の原則の下に運営される世界を希望するならば、われわれ自身、法および正義に対して残虐の罪を犯してはならない。東京裁判の判定は、現在るがままでは、何らの善も生まず、かえって悪に悪を重ねるだけである。この少数の裁判官達の行為によって、われわれの諸国が失わせられようとしている権威の多くは、何ものも恐れない経世の行為によって救うことができる。われわれは、その行為がなされることを要請する」
 弁護団は、最高司令官のマッカーサーの勇断を促した。だが、総司令部は、各国使節団の意見を求め、十一月二十四日、再審申し立て却下の特別発表を行ったのである。そして、刑の執行を第八軍司令官に命じた。
 七人に対する処刑は、直ちに行われるものと思われた。
 ところが、一部の米国弁護人は、アメリカ連邦最高裁判所に対して、人身保護の申し立てを行ったのである。その内容は、次のよう、なものであった。
 「東京の国際法廷は、何としても米国の一市民であるマ元帥によって設置したものである。マ元帥は、米国の行政部門(大統領)の命令によって設置したのだが、アメリカの立法府はこのような新奇の裁判所の設置を、遣外司令官に委任したことはない。これは明らかに憲法違反である。――従って、その被告達に、ヘービアス・コーパス(人身保護命令)の手続きがとられるべきである」
 そこで、ワシントンの連邦最高裁は、十二月十六日、四人の関係米弁護人を出席させ、口頭弁論に入った。そして四日後の二十日、このような訴願受理の管轄権は、アメリカ連邦最高裁判所にないとして、却下を言い渡している。つまり、東京の軍事法廷は連合国の機関であり、アメリカの法廷は、その判決を審査したり、確認したり、取り消す権限をもたないというのが、その理由であった。
 最終的な結論が、ここに確定したわけである。
 十二月二十三日、午前零時から二十分の間に、七人の死刑囚は、巣鴨の拘置所内で、処刑台の十三段の階段を上っていった。
 執行は非公開である。そして、マッカーサーの指名により、対日理事会の四カ国代表が、立会人となっていた。日本人は、ただ一人、花山教誨師が、彼らの最後の姿を見送った。なお、法廷を避け続けていたシーボルト外交局長は、この日、対日理事会のアメリカ代表として、立会人にならねばならなかった。皮肉な運命といえよう。
9  既に遠く、過ぎ去った東京裁判ではある。だが、なぜ、このように長々と書き続けてきたかといえば、それは、ほかでもない。あのような未曾有の惨禍を生んだ世界大戦の後始末が、どのように行われたかに、思いを致したかったからである。
 この大戦の総決算のために、二十世紀の人類は、知恵を絞ったわけである。それが、端的なかたちとなって現れたのが、東京裁判の演出ということになったといえよう。すると、人間の知恵などというものは、まだまだ知れたものだと、思わないわけにはいかない。
 現代の人類は、未曾有の惨禍をもたらす知恵と能力は、確かにもっている。しかし、それらの惨禍を絶滅する確実な知恵と能力は、いまだもっていないようだ。そして、未来の不幸を予感して、怯えているのが、地球上の幾十億の人間の心といえよう。
 この東京裁判という、人知を尽くしたかに見えた、拙劣な一つの決算書を子細に見る時、汲めども尽きぬ数々の混沌たる問題が、未来にわたって渦を巻いていることを知るだろう。
 正義は、たやすく復讐に転化し、公正たらんとする力も、たちまち威圧となる。反抗は卑屈に変わり、義侠心は時としては優越感となり、勝利は残虐となる。
 そうした変転のなかで、数百万の若者が殺され、数千万の罹災者が取り残されていった。このような人間活動の決算書の作成のために、文明の名において、拙劣な裁判をしたともいえる。
 戸田城聖が、東京裁判について、「無期が妥当だろう」、また「原子爆弾を落とした者も、同罪であるべきだ」ともらしたのは、決して、体裁のよい法理論や、人間の良心などを、根拠にして言ったのではなかった。それは、真の生命の尊厳をつつんだ、仏法哲学からのつぶやきであったのだ。いかなる理由にせよ、仏法には、人が人を殺すという道理はない。
 彼がもらした、この具体的提唱は、最も身近に実行し得るものでありながら、その実現のためには、生命を脅かす魔との戦いの、万全の準備が必要なことを、彼は自覚していたのである。彼は、この提唱を、全世界に向かっての力ある叫びとすることこそ、自身の使命であると、深く決意していたのであった。
 東京裁判の判決は、決して十一カ国の代表判事が、同意見であったわけではなかった。どの被告を死刑にし、どの被告を無期刑または有期刑にするかは、多数決で決められたのである。
 また、判決以外に、五人の判事が個別意見を出している。この少数意見のうち、オランダ、フランス、インドの三カ国の判事の意見書は、判決を批判するものであった。このほか補足的な単独意見を提出したのは、フィリピン代表の判事と、オースラリア代表のウェッブ裁判長自身である。
 弁護団は、少数意見を、法廷で朗読することを要請したが、却下された。後日、これら少数意見書を、弁護人と記者団が見て、その内容に初めて驚いた。
 なかんずく、インド代表のラダピノッド・パール判事の反対意見書は、英文にして千二百七十五ページに及んでいた。判決文を数十ページも超える大部のものであっただけでなく、その内容は、国際法学者としての高い識見を示していた。
 裁判所が、少数意見書の朗読を却下した理由は、占領下における影響を考慮したにすぎないと思われる。変則ともいえるこの裁判は、結局、最後まで変則であったわけである。自ら判決を下した裁判長自身が、なんの不満あってか、微妙な単独意見書を書かざるを得なかったことだけでも、それはわかろう。
 ウェッブ裁判長の意見書は、多数派判決に結論的には同意するが、それにいたる彼個人の考えを弁明するといった、奇妙なものであった。おそらく、彼は、量刑が気にかかったのではないだろうか。
 また、ニュルンベルク裁判の量刑基準を検討し、日本の被告と比較して、こうも言っている。
 「ドイツの被告の犯罪が、日本の被告の犯罪よりもはるかに凶悪で多様で広汎なものであった。ドイツに情状酌量の一般的根拠があったとすれば、日本にそれがないというわけはない」
 「日本人被告を取扱うについては、ドイツ人被告に対するほどの考慮を払わないというのでない限り、どの日本人被告も、侵略戦争を遂行する共同謀議をしたこと、この戦争を計画及び準備したこと、開始したこと、または遂行したことについて、死刑を宣告されるべきではない」
 彼は、「平和に対する罪」についての死刑を否定したのである。そして、「人道に対する罪」や、「通例の戦争犯罪」によって、死刑を宣告された被告も、むしろ隔離された場所で終身禁固にする方が望ましく、また、老人を死刑に処することは、いまわしいことではないか、と感想を述べている。
 ウェッブ裁判長が、死刑よりも遠島への流刑のような刑罰が望ましいと述べたことをみても、彼自身が、この判決に疑問と批判をもっていたことがわかる。
 これに反し、フィリピン代表判事の同意意見書は、他の四人の、どの意見書とも異なる特異な意見を述べている。
 「本裁判所に対して、いやしくもなんらかの非難がなされるとしたならば、それはただ裁判所が被告のために非常に寛大な態度で行動し、かれらの弁護人を通じて、かれらのもっていた弁護をどのようなものでもすべて提出する機会を完全に与え、そのために裁判を長びかせたということだけである」
 さらに原子爆弾の使用を正当化し、インドのパール判事の反対意見を攻撃し、最後に、刑罰はあまりに寛大であり、犯された罪の重大さにふさわしくないと、多数派判決にまで批判を加えたものであった。
10  このほかオランダ、フランスの判事も、おのおの異なった意見書を出しているが、これら十一人の判事たちは、まちまちな意見をもちながら、裁判は結審となってしまった。ここにも、この裁判の問題点の一つが、伏在しているように思われる。
 多数派判決に真正面から反対したのが、インドのパール判事であった。
 ――彼は東京裁判後の一九五二年(昭和二十七年)、五五年(同三十年)と来日し、六六年(同四十一年)十月に、清瀬一郎氏らの招請に応じて、四度目の来日をした。この最後の来日の際、八十歳の彼は体調を崩していた。予定されていた講演会では、持病の胆石の痛みのためか、一言のあいさつもできず、壇上で合掌しただけで去っていった姿が印象深い。
 少数意見は、タイプ印刷に限られ、公刊されることはなかった。このパール判事の反対意見書も、しばらく、公表されることはなかった。
 この意見書が、『全訳 日本無罪論』のタイトルで翻訳公刊されたのは、裁判終了から四年後の、五二年(同二十七年)十一月のことであった。
 その終章、「勧告」の冒頭に、彼は次のように結論した。
 「以上述べてきた理由に基づいて、本官は各被告はすべて起訴状中の各起訴事実全部につき無罪と決定されなければならず、またこれらの起訴事実の全部から免除されるべきであると強く主張するものである」
 彼は被告たちの「無罪」を主張した。しかし、それは、日本の太平洋戦争を、いささかも肯定しているものではない。この点は、注意すべきところであろう。
 ただ彼には、東京裁判が公正な裁判とは、どうしても思えなかったにちがいない。精密な法理論のうえから、この裁判が不正にして不合理な裁判であることを指弾し、人類の永遠の平和のためには、なんらの寄与もなし得ないことを、指摘したかったのであろう。
 たとえば、法の公正という点に関して、日ソ中立条約を無視したソ連の参戦は、侵略戦とも言い得る非法なものであったにもかかわらず、当のソ連が、勝者の席から日本を裁くことは、公正といえるかどうか、という疑問を提出している。
 ともすれば、勝者が敗者を裁くということは、いかに法律的な装いを凝らしても、結局、執念深い復讐となりかねない。
 また、検察側のいう全面的共同謀議は、被告らにはなかったと説いている。日本の被告たちは、二八年(同三年)から四五年(同二十年)の敗戦まで、十七代の内閣が交代した十数年の間に、次々と国政の舞台に登場したのであって、ナチスのような共同謀議に参画していたと、直接、証明される証拠は一つもない。ドイツのように、一握りのナチ党幹部が、ヒトラーを中心として、長い間、世界制覇の陰謀を企んだのとは、全く異質である。よって、全面的共同謀議と断ずることは、非常識な邪推にすぎない、というのである。
 日本軍隊の虐殺事件については、「それらは戦争の全期間を通じて、異った地域において日本軍により非戦闘員に対して行なわれた残虐行為の事例である。(中略)これらの鬼畜行為の多くのものは、実際行われたものであるということは否定できない」とBC級戦犯を弾劾しながらも、A級戦犯の被告たちが、これらの行為を命令したり、許可を与えた証拠は絶無であると論じている。
 この点について、彼は、ドイツの主要戦犯たちの、あの虐殺指令とは、全く異なるものであると説いていく。さらに、第一次大戦に際して、ドイツ皇帝ウイルヘルム二世が、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフに宛てた、非道な書簡をあげている。
 「予は断腸の思いである。しかしすべては火と剣の生賛とされなければならない。老若男女を問わず殺戮し、一本の木でも、一軒の家でも立っていることを許してはならない。フランス人のような堕落した国民に影響を及ぼし得るただ一つのかような暴虐をもってすれば、戦争は二ヶ月で終焉するであろう。ところが、もし予が人道を考慮することを容認すれば、戦争は幾年間も長びくであろう。従って予は、みずからの嫌悪の念をも押し切って、前者の方法を選ぶことを余儀なくされたのである」
 全く常軌を逸した殺戮命令である。幸にも実行されなかったが、戦後、ドイツ皇帝は、この罪を問われている。しかし、皇帝が亡命したオランダは、皇帝の身柄の引き渡しを拒絶した。
 ここでパールは、アメリカ大統領が、原子爆弾の投下を決定したことを糾弾している。アメリカ占領下の重圧的な空気のなかでの、その発言は、彼の正義感と強い勇気を示すものであろう。それは、原爆投下という悪魔的な行為に対して、怒りを爆発させたような響きをもっていた。
 「太平洋戦争においては、もし前述のドイツ皇帝の書翰に示されていることに近いものがあるとするならば、それは連合国によってなされた原子爆弾使用の決定である。この悲惨な決定に対する判決は後世が下すであろう」
 そして法的根拠から、彼は、次のような結論に到達していった。
 「もし非戦闘員の生命財産の無差別破壊と云うものが、いまだに戦争において違法であるならば、太平洋戦争においては、この原子爆弾使用の決定が、第一次世界大戦中におけるドイツ皇帝の指令及び第二次世界大戦中におけるナチス指導者たちの指令に近似した唯一のものであることを示すだけで、本官の現在の目的のためには充分である。このようなものを現在の被告の所為には見出し得ないのである」
 いかにも非戦闘員の虐殺は違法であると、パールは強く訴えている。そして、それらのBC級戦犯は、既に戦勝国によって処刑されていた。
 しかし、A級戦犯の二十五人の被告たちが、この残虐行為を指令し、命令した者として、さらにその責任を問われるならば、原子爆弾の使用を決定し、命令した者こそ、「人道に対する罪」を犯した者として、最高の戦争犯罪者に問われるべきではないか。法が正しいとするならば、勝者であれ、敗者であれ、法を左右することは許されるべきではない。
 文明に名を借りて、勝者が敗者を裁くことは、公正な裁判とは言い得ない。
 「単に、執念深い報復の追跡を長引かせるために、正義の名に訴えることは、許さるべきではない。世界は真に、寛大な雅量と理解ある慈悲心とを必要としている。純粋な憂慮に満ちた心に生ずる真の問題は『人類が急速に生長して、文明と悲惨との競争に勝つことができるであろうか』ということである」
 このため、パール判事は、東京裁判そのものを不当と断じ、否定するところから、被告全員の無罪を勧告する結論に達したのである。
 これらは、パール判事の理論展開の一例にすぎない。彼は、古今東西にわたる該博な知識を駆使し、裁判官としての、曇りなき良心と信念とをもって書きつづっている。
11  パールは、他の十カ国の判事たちから見ると、まことに風変わりな人物であった。彼は入廷すると、まず、被告席に向かって合掌することを常としていた。
 一九四六年(昭和二十一年)五月の裁判開始から二年半、彼は、宿舎の帝国ホテルに閉じこもって仕事に専念した。他の判事たちが、娯楽や、観光旅行を楽しんでいる時も、彼だけは、調査と資料の読破に没頭していた。彼は、インドの自宅から資料を取り寄せただけでなく、英米の友人たちにも資料収集の協力を依頼した。彼が読破した資料は、四万五千部、参考にした書籍は、三千冊に上ったといわれる。
 殺伐な占領下の日本にあって、他の十人の判事たちとは意見を異にする異国の判事として、彼は、はなはだしい孤独のなかにあった。そのなかで彼は、あくまで法の権威と独立を守るために、卓越した法理論のうえから、また、歴史についての造詣の深さから、法による真の世界平和を祈念する法学者の立場から、精魂込めて二十五万語になんなんとする歴史的意見書を、こつこつと、つづっていったのであった。
 故国インドでは、パールの妻は病んでいた。裁判も終わりに近づいた四八年(同二十三年)八月、夫人が重体であるとの報を受けた彼は、急速、帰国したが、妻は、彼が使命を果たし終えるまでは決して死なないから、すぐ日本に帰ってほしいと、毅然として言い、彼を激励したといわれている。
 六十歳を超えた国際法の碩学せきがくは、太平洋戦争の真因を冷徹に追究し、何が真実で、何が正義か、錯雑極まりない国際戦争のすべての経緯を識別し、誇りと自信に満ちた意見書を書くために、渾身の情熱を傾けた。この努力は、法学者の一つの範として、後世に輝いていくであろう。
 もちろん彼は、単純に日本に同情したのではない。アジア人でなければ理解できないところのものまでを、深く洞察した果ての意見書であった。それは、東洋的な哲理に根差した英知が、彼の所論の随所に、その光芒を放っているところからも証明される。西欧近代に発した思想が、すべて行き詰まりをきたし、世界が、救済の道を東洋の英知に求めようとする時、東京裁判において示された、パールの澄んだ鏡のような厳格な理解と、その底に流れる東洋的発想は、時代を超えて重要な示唆をもたらすものとなろう。
 パール判事の思想形成には、その生い立ちと経歴も、深くかかわっていると思われる。
 彼は一八八六年(明治十九年)、インドのベンガルで、非常に貧しい一家の長男に生まれた。学校では、ずば抜けて優秀な成績を示し、苦学を重ねてカルカッタ大学に入学した。カルカッタ大学で、数学の修士号を取得したあと、法律を学んだ。それは母の勧めによると伝えられるが、一九二〇年(大正九年)、彼は法学の学位を取った。そして二三年(同十二年)にカルカッタ大学の教授となり、二五年(同十四年)には、最高の栄誉と言われる″タゴール記念法学教授″に選出され、講演を行っている。その後、カルカッタ高等裁判所判事を経て、四四年(昭和十九年)に、カルカッタ大学副総長になった。東京裁判の判事に就任するまでは、カルカッタ大学の副総長であったわけである。
 彼は、東京裁判終了後、五二年(同二十七年)以降は、国連の国際法委員会の委員となり、「世界法を通じての世界平和」の実現に、沈着な努力を続け六六年(同四十一年)二月、八十歳のパール博士は、カルカッタ大学の集会で、若い卒業生たちに、諄々と説いた。
 「激動する世界の現状は、新しい思考方法を求める。この新しい思考方法は、ただ古い思考方法の線にそって進むことを意味するものでもなければ、科学的技術の方向をも、政治的目的の方向をも意味しない。もし人類自体の存在が問題ならば、それに対する回答は、人間の心髄をもって行わなければならない。諸君よ、思慮なき生気(thoughtless Vitality)に駆られることを避けるように、そして超絶の実在(Transcendent Reality)がつねに諸君の人生の指針であるように――」
 これが、パール博士が生涯の蘊蓄うんちく思惟しいの果てに、青年に与えた指針であった。
 彼は、当時の世界の危機に際して、新しい思考の必要性を説いたが、それは伝統的な思考方法によるのでもなく、また科学技術の発展や、政治機構の改革から生まれるものでもない、と明言した。そして、それは、「人間の心髄」にまたなければならないと語ったのである。
 彼は、「超絶の実在」という抽象的な言葉を用いて、それを人生の指針とすべきであると結んだ。
 だが、英知の最高峰に到達した彼の思想も、その「超絶の実在」に関する明確な映像を、青年に与えることはできなかった。彼は、限りない善意や正義感の根源を、そこに置こうとしたのかもしれない。また、彼がさまざまな機会に語った、東洋の宗教的信念を示唆しようとしたのかもしれない。
12  いずれにせよ、パールが、人間の内面に新しい思考方法の基盤を求めていたことは確かであろう。しかし、そこには、まことに残念ながら、一つの限界があるように思われる。
 ユネスコ(国際連合教育科学文化機関)憲章の冒頭の一節にも、このようにうたっている。
 「戦争は人の心の中で生れるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない」
 戦争の悲惨を絶滅するためには、まず人間の心の中に、平和の砦を建設することが先決だという。確かに、その通りである。しかし、現実は、この憲章を世界の各地で裏切ってきた。してみれば、戦争を退治するよりも、戦争そのものを起こす人間の醜悪な心を退治することの方が、はるかに困難だということを、この憲章は暗黙のうちに表明しているともいえよう。
 このように見てくると、人間はまず、この不可解で、手にあまる、不思議な「心」というものについて、もっと深く認識する必要がある。
 「心」とは何か――。この大問題に対して、まだ、人類は明確な実像を示すには、いたってはいない。
 「心」は、刻々と、さまざまに変化する。これは、誰しも経験的に知っていることである。喜怒哀楽の感情、欲望や衝動……。しかし、それだけが心のすべてではない。思考や理性といった、考える力も心の働きにはある。
 また、小さな卑しい心もあれば、大きく深い心もある。他者に対し、温かい心も、冷たい心もある。他を犠牲にしても自らの欲望を満たそうとする利己の心もあれば、自らを犠牲にしても他に尽くす利他の心もある。
 それら「心」の不思議な有り様を、日蓮大聖人は次のように仰せである。
 「起るところの一念の心を尋ね見れば有りと云はんとすれば色も質もなし又無しと云はんとすれば様様に心起る有と思ふべきに非ず無と思ふべきにも非ず
 すなわち、瞬間瞬間に起こってくる一念の「心」は、色や質、つまり「有る」と言うための物質そのものとして取り出すことはできない。しかし「無い」と言おうとしても、現実には、さまざまに「心」が起きてくる。「心」は、「有る」と考えるべきでもないし、「無い」と考えるべきでもないのである――と。
 では、この「心」を、現代の科学や心理学は、どのようにとらえようとしているのか。
 大脳生理学に代表されるように、「心」の働きは、「脳」のなかにあるとして、脳のどの部分がどう働き、どう作用しあっているのか、脳内の神経伝達物質や神経細胞から、科学的に解明しようとする方法もある。これは、物質的な側面から、「心」の状態や変化をとらえようとする立場である。
 一方、精神分析学のように、「心」そのものに焦点を当て、「意識」や「無意識」という観点から、「心」の働きを解析しようとする立場もある。また、知覚や感情、知性など、「心」の働きと、人間の行動との関係などを探究する心理学もある。
 このように、「心」のとらえ方はさまざまであるが、「心」の全貌が完全に解明され尽くされたとは言いがたい。それどころか、「心」の不思議な様相は、依然、深い謎として残されている。
 大聖人は、この「有」でもなく「無」でもなく、しかも「有」であり「無」でもある「心」の本源を、「中道一実の妙体」であると仰せになっている。「中道一実の妙体」とは、言い換えれば「生命」ということである。
 ここでいう「生命」とは、宇宙の森羅万象すべての本源である。それを「中道一実の妙体」であると、仏法は説いているのである。
 戸田城聖は、獄中で、経典に説く「仏」とは、何ものであるかを追究した。そして、その根源にいたり、「仏とは生命なり」との悟達を得た。ここに日蓮大聖人の生命哲理が、現代に蘇生した淵源がある。
 問題の核心は、「生命」にあるのだ。古来、多くの哲学は、人間の善性や理性を追究してきた。しかし現実に、人間を変革する真の力となり得なかったのは、この「生命」の実在を不聞に付して、「心」の現象だけを、あるいは物質面の現象だけを分析してきたからにほかならない。
 パール博士は、今後の人類の存在の問題に答えるには、新しい哲学を求める以外にないと結論し、それを「人間の心髄エッセンス」にまつとした。そとには、一人の正直な哲学者の憂いに満ちた顔が、浮き彫りにされてくるようである。
 では、そのように強力なエッセンス(心髄)とは、いったい何なのか。彼は、青年たちに、「超絶の実在」を指針とせよ、と訴えた。では、その実在とは何なのか――。この言葉の背景の彼方に、東洋の英知の真髄とも言うべき「生命の法理」が浮かび上がってくるのである。
 パールは、「人間の心髄」「超絶の実在」という言葉でしか表現しなかったが、その心奥に描き、求めていたものは、まさに「生命の法理」であり、大聖人の仏法であったと思われてならないのだ。
 飛躍した論理というかもしれない。だが、それは、精神界や物質界の現象という側面から、人間をとらえようとする思考の壁が、そうさせていると言わざるを得ない。
 歴史に、「もしも」という仮定は無意味であることは承知しながらも、もしも、パールが、同時代に生きていた戸田城聖という人物と出会っていたならば、「人間の心髄」「超絶の実在」が何であるかに、パール自らが大きく眼を開くことが、できたであろうと思えてならない。
13  日蓮大聖人は、「心の師とは・なるとも心を師とせざれ」との釈尊の言葉を用いて、人間としての誤りなき生き方を示されている。人は、ともすれば、自分の「心」を師とする。しかし、「心」は変化する。時には欲望に翻弄され、時には怒りや憎しみに支配される。二つの「心」、あるいは幾つもの「心」がせめぎ合うこともある。その定まらない「心」を師としている限り、争いの流転を断つことはできないであろう。
 ゆえに、最も大事なことは、「心の師」となり得る、強き回転軸を自己の内に確立することでなければ、ならないはずだ。
 それには、何が不可欠なのか。それは、戒律でもなければ精神訓でもない。倫理や道徳でもない。それは、大宇宙を貫く「生命」の深理に求めざるを得ないであろう。その深理を教えているのが、大聖人の一念三千の生命哲理なのである。
 大宇宙を貫く大法に合致し、慈悲と智慧に満ち満ちた、何ものにも揺るがぬ「仏の生命」を、わが「生命」に脈動させること。そこに、崩れざる幸福と平和への道が開かれることを、仏法は教えているのである。
 パールは、その場所に限りなく近づきながら、遂に到達することはなかった。
 ガンジー逝き、ネルー亡き後、パールの最も心を痛めた問題は、インド数億の民衆の幸福と繁栄を、いかにして実現するか、そして、原水爆に覆われた世界を、いかにして平和に導くか――であったにちがいない。そうでなければ、人びとに、「超絶の実在」という指針を示すこともなかったであろう。
 東京裁判は、本来、解決されねばならないさまざまな国際問題や、戦争問題の解決の因子を残したまま幕を閉じた。詳細な検討がなされ、多くの自由な意見が公開されれば、そこから多大な収穫が得られたかもしれない。
 しかし、占領下にあったためか、国民は、ただ沈黙せざるを得なかった。そして、その記憶は、年々に薄れてしまって、今日に至っている。だが、その記録は、パール判決書をはじめとして、新しい世紀をつくるためにも、得がたい歴史的参考資料であることは間違いない。
14  東条をはじめ、七人が処刑された一九四八年(昭和二十三年)十二月二十三日――この日、第二次吉田内閣に対する、内閣不信任案が可決されている。そして、衆議院は解散となった。例の″なれあい解散″といわれた、おかしな解散である。
 この年の三月十日、民主・社会・国民協同(国協)の三党により、芦田連立内閣が発足した。いわゆる、外資導入内閣といわれた弱体内閣であり、加えて昭電疑獄で、閣僚が相次いで逮捕された。彼らは、小菅拘置所に勾留され、総辞職に追い込まれた。しかも、芦田総理自身も、辞職後、収監されるに及んで、「小菅内閣」という汚名を浴びた内閣となった。
 これにより、政権は民自党に移り、十月十五日に第二次吉田内閣が成立したのだが、衆議院に百五十一の議席しかない、少数単独内閣であった。
 吉田は、議会で多数派を取り、安定政権を確立するため、衆議院の解散・総選挙の時期を、早くつかもうと焦った。しかし、野党の民主・社会・国協の三党は、汚職への強い批判が、国民のなかに燃え上がっているのを恐れ、解散の引き延ばしに懸命であった。
 この時、GHQが斡旋に乗り出し、十二月二十日、野党三党が内閣不信任案を提出して、国会はようやく解散となったのである。
 投票日は、翌四九年(同二十四年)の一月二十三日であった。果たせるかな、国民の批判は厳しく、野党三党は惨敗したのである。よって民自党は、いきなり過半数を占め、共産党も三十五人に躍進し、政局は逆転したのであった。
 また中国大陸では、四八年(同二十三年)十二月十五日、共産党軍が北京(ペイチン)へ入城し、長江(チャンチアン)南岸へと国民党軍を圧迫し始めていた。ここでアメリカは、日本を防共政策の強力な防波堤として仕上げることを決意した。十二月十八日、アメリカ政府は、経済安定九原則の実施を、占領軍に指令してきた。
 後に、この九原則は、「ドッジ・ライン」と通称されたが、日本経済に、大々的な外科手術を強行することになったのである。ここで、さしものインフレも、デフレに変わっていったが、国民の払った犠牲も、また大きかった。
 東京裁判による処刑が行われた翌日の十二月二十四日、GHQは、突如として、まだ裁判に入っていなかったA級戦犯容疑者を不起訴と決定し、釈放した。岸信介以下十九人の容疑者は、師走の街に出された。連合国の、旧日本帝国に対する懲罰作業は、これで、ひとまず終了したわけである。
15  国民の生活は、日々に窮迫していった。余裕など、全くなかった。食べるのに精いっぱいの時代が続いていたのである。
 年末の日々は慌ただしく、寒々と過ぎていった。インフレの高進は厳しく、各家庭の経済生活はトコトンまで破壊され、その限度に達していた。一部の闇成金を除いて、″たけのこ生活″も底をついたのである。社会は騒然として、爆発寸前の状態であった。だが、それらの不満は、占領軍の重圧のもとにあって、くすぶっていたのである。国民は、なお耐え忍ばねばならなかった。
 大晦日、戸田城聖は、白金の自宅で、妻の幾枝を傍らに、既に中学生になった喬一をからかいながら盃を傾けていた。
 なかなかのご機嫌であった。北海道から送ってきた、大好物の身欠きニシンをかんでいた。
 「喬一君、今年は、お前の勉強部屋を、座談会にちょいちょい使わせてもらったが、来年もひとつ頼むよ」
 喬一は眠い顔をしている。ラジオで除夜の鐘を聞こうと頑張っていたのである。まぶたは重く、不機嫌そうであった。
 「お父さん、試験の時は、お断りだよ」
 「その時は、応接間を使っておくれ」
 「応接間? いやだなあ。あの部屋は、玄関の人の出入りで、うるさくて勉強できやしないよ、お父さん」
 「喬一、お前、いつからそんなに勉強家になったんだね」
 戸田は、目を細めて笑いながら、身欠きニシンの身をむしり取って、喬一に与えた。
 「ぼく、ニシンって、あんまり好きじゃない」
 喬一は、そのニシンを戸田の皿に戻してしまった。
 「こんなうまいものの味がわからんか。喬一、お前、まだニシンの勉強が足らんな」
 戦い切ったこの一年を振り返って、戸田には、なんの悔いもなかった。そして、束の間の団欒の安らぎのなかで、彼は酒に酔いたかった。
16  同じ時刻に、森ケ崎の海岸近い家で、山本伸一は日記帳を開いていた。
 年が明けると、戸田の膝下で働く毎日が来る。彼は、異様なおののきを覚えながら、書き始めた。
  昭和二十三年――。
  吾れ二十歳、今、正に過ぎゆかんとす。
  苦悩の一年。敢闘の一年。
  求道の一年。曙光への第一歩の一年なり。
  祖国日本の荒浪よ。世界の大動乱よ。
  師と共に大白法を持し、勇敢にいどむのみ。
  
  永劫の平和のため、
  大聖人の至上命令により、
  宗教革命に、この生命を捧げるのみ。
  
  蛍の光、窓の雪……。
  過去のすべてよ、さらば。
  新たなる、妙法広布の鐘がなる。

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