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日蓮大聖人・池田大作

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結実  

小説「人間革命」3-4巻 (池田大作全集第145巻)

前後
12  この時から一年四カ月、今、客殿の復興は、ともかく成ったのである。
 落慶の法要は慶讃文を終わり、自我偈の読経に入り、唱題に移っていった。
 戸田城聖は、その時の講頭たちが、今日も晴れがましく出席している姿を見ていた。しかし、共に死身弘法を語るに足りる一人の講頭もいないことを、寂しく思った。結局、彼および彼の弟子たちのほかに同心の人はなく、創価学会の使命の重大さを、双肩にひしひしと感じたのである。
 式典は進んでいく。
 堀米宗務総監、高野復興局長の喜びのあいさつがあって、復興局の細井庶務課長が、喜色満面、事務報告として経過を述べていった。
 ――本年一月に復興計画を発表し、三月に予算二百万円で、建築許可を取り、四月から七班に分かれて全国に役員を派遣し、供養を推進。七月十一日に着工、総本山所有の木材をもって建設を進め、八月二十二日に上棟式を挙行した。以来二カ月余にして落成した次第である。
 また、細井は、現在までの収入額は、二百五十四万三千九百余円、支出額は、二百四十四万五千九百余円で、未完成の部分もあるが、寄付の予定額の範囲内で完成させるよう、努力する旨を語った。
 このあと、六人の祝辞があった。いずれも、天高く連山は紅葉に燃え……といったようなことから始まる、美文調の形式的な話が、長々と繰り返されていた。
 ただ一人、戸田城聖のみが、簡潔に意を尽くしてのあいさつであった。その言葉は、慈折広布への赤誠を述べて異彩を放っていた。
 彼の名は、全国信徒代表として指名された。
 「廃墟に等しい日本の国土にあって、今日、客殿の落慶は、得がたい吉兆であり、いよいよ広宣流布の時は熟したと確信するものであります。さりながら、われらの活動の規模は、いまだ未熟であります。未熟ではありますが、大聖人の御金言に照らせば、ことごとくの条件がそろっております。三災七難既に現れ、遂に、いまだかつてなき他国侵逼の大難も、厳然と現れたことは、ご承知の通りです。
 また白界叛逆の難にいたっては、家庭に、おいても、社会においても、国内のあらゆるところに、今の時代ほど、その実相を露呈した時代はありません。物価は騰貴し、生活は苦しく、病人は、年々、増加する一方です。三災もまた、そろっております。
 さらに重要なことは、大聖人御出現の時は、天台法華はほとんど滅んでいました。近年、富士大石寺は、まさに破滅に瀕しました。世界に誇るべき、大仏法の衰微の姿は、悲しむべきことでありますが、法華経にあるように、法滅せんとする時こそ、広宣流布の機会であります。
 つまり、こうした時代なればこそ、民衆の救済のために、われわれは立たねばならない。
 私は、あえて広宣流布近きにあり、と確信するものであります。したがってまた、かつてない三類の強敵の出現も自明の理であります。生やさしい戦いとは、夢にも思いません」
 そして、戸田は、最後に力を込めて叫び、話を結すんだ。
 「広宣流布のため、今こそ死身弘法の実践を、この佳き日に誓うものであります!」
 激しい拍手が、客殿の一角から起こった。それは、参列している学会員五十人だけの拍手である。満堂を揺るがす拍手とはならなかった。だが、戸田城聖の至誠は、巌のごとく不動のものであった。ただ一人、彼の胸中には、広宣流布を成し遂げんとする情熱の炎が、燃え盛っていた。
 式典後、参列者には、お祝いの弁当と記念品が配られた。記念品は、新客殿の天井板の切れ端で作った、檜の素朴な土瓶敷であった。
 当時の宗門の僧侶数は、百二十七人であり、所化八十四人であった。なお、総本山在住者は、三十人にすぎなかったようである。寺院数は、全国で百十三ヶ寺と記録されている。
 十二日、十三日にわたる総本山での儀式は、秋晴れのもと、滞りなく挙行されたのであった。客殿の焼け跡に、新客殿が再び建立され、創価学会もまた、戦前の盛時をしのぐまでになった。終戦から三年を過ぎた廃墟の国土のなかで、ともかく広宣流布へ進む、確かな一つの結実を見たのである。
 しかし、国土を覆う暗い雲は、いまだ色濃く、民衆は苦悩のなかに岬吟していたのである。

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