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日蓮大聖人・池田大作

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結実  

小説「人間革命」3-4巻 (池田大作全集第145巻)

前後
1  秋雨の降る夜道を、戸田城聖は、傘を差して歩いていた。闇のなかに、潮の香りが漂っている。ここは、千葉県・浦安の海岸に近い裏町であった。
 彼は、この日、夕刻早く、官庁に勤める山平忠平を伴って、浦安に向かったのだが、江戸川の対岸の渡船場に着いた時には、あいにく満潮時にぶつかってしまった。この辺は、地盤沈下で橋桁が低くなり、満潮時には、渡し船が、橋の下をくぐることができなくなっていた。
 彼は、川面に降り注ぐ雨を眺めながら、長い時間、待たねばならなかった。そんなことで、河口近くの浦安の町に着いたのは、既に九時を回っていた。
 暗いぬかるみの道である。道の水溜まりを避けながら歩いていたが、靴の中はビシヨピショであった。戸田は、歩きながら、ふと思いついたように山平に言った。
 「山本君はどうした? まだ、来ないじゃないか」
 山平忠平は、戸田の言葉に、初めは、なんのことか気づかなかった。濡れた足の裏が、気になっていたからである。
 「山本君は、いつ来るのかね?」
 戸田に重ねて言われた時、彼は、″しまった″と思った。
 ――二十日ほど前、日本正学館の編集部に、誰か適当な人はいないか、と戸田に聞かれた時、とっさに文学好きな山本伸一を、軽い気持ちで推薦していたのである。彼は、山本に、推薦したことは話したが、積極的に手続きを進めることを怠っていた。
 今の、戸田の待ちかねているような言葉を聞いて、彼は意外に思い、自分の怠慢を恥じた。
 「話してあります。さっそく連絡を取って連れてまいります」
 「そうか。体は、よくなったかね?」
 山平は、ますます意外に感じられてならない。ここ一年、新入会員の青年は、次々と数が多くなっている。そのなかで、戸田は、平常、山本伸一の名前を一度も口にしていないのに、まるで旧知のように、彼の健康状態まで案じている。
 「元気です。大丈夫だと思います」
 「そうか。雑誌の編集は、まず体力だからな。時間は不規則だし、神経はイライラするし、締め切りには追っかけられるし、結局は体力で押し切る仕事になってしまう。山平君も、編集より、今の仕事の方が楽じゃないか」
 「そりゃ、楽といえば楽です。その代わり、一つのものをつくったという楽しみや、感激は全然ありません」
 「そうか。だが、そう、ぜいたくを言うもんじゃないよ」
 暗い道に、二人の笑い声が弾み、水をはねる足音が、響いていった。
2  山平忠平は、一年前まで、日本正学館の編集部にいて、大学に通っていた。戦時中の時習学館時代から戸田のもとで働きながら、学生生活を送っていたのである。山国の寒村の小学校を出た彼は、都会に出て刻苦勉励し、専検(旧制の専門学校入学者検定試験)に合格したあと、時習学館に職を得て、大学にも通った。
 学徒出陣で、学業半ばにして航空兵となった。内地の基地にいた彼は、一九四五年(昭和二十年)八月、終戦と同時に帰郷した。
 そして、九月には上京して、目黒駅近くの時習学館を訪れた。時習学館の跡は、一面の焼け野原であった。しばらくして、山平は、やっと日本正学館の仮事務所に赴くことができた。こうして、彼もまた、戦後、いち早く、戸田のもとに駆けっけ、弟子の一人となった。そして社員となり、大学に復学し、苦しい生活と戦い、ながら、戸田の膝下で訓育を受け、創価学会の青年部の先駆者の一人として、活躍してきたのである。
 入会して六年がたつた四七年(同二十二年)九月、彼は大学を卒業した。そして、官庁に入った。同時に、良縁を得て結婚した。
 敗戦と同時に、無残にも貴重な青春の夢を裏切られた多くの青年群のなかにあって、山平忠平は幸福であった。彼は、冥益の偉大さをしみじみと実感し、なんの不安もなく、着実な人生を歩んでいった。彼は、常に御書を離さず、昼休みや休憩時間など、暇さえあればそれを読んだ。彼の研績は、御書の隅から隅までに及び、目覚ましい教学力の向上を示していた。
 夜は、学会活動に率先して参加した。たゆみない彼の信心活動は、生涯の得がたい福運を積んでいった。
3  この雨の夜、彼は、戸田の無頓着に歩く姿にひやひやしながら、先に立って案内していた。視力の弱い戸田を助け、暗い水溜まりに気を配る山平は、真剣な表情であった。
 座談会場に着いた時、数人の会員が残っているだけであった。戸田が遅いので、散会したという。会場の責任者は、恐縮して悔しがった。
 「誰が悪いのでもない。散会して結構です。遅れて来た、ぼくも悪くない。悪いのは、あの満潮というやつだよ」
 戸田は、悠然と笑い飛ばし、責任者を慰めるのであった。気の弱そうな責任者は、明るい表情に変わった。ほかの残った人びとも、急に明るい顔になって、口々にしゃべりだすようになった。
 戸田は、故郷・北海道の厚田村を思い出していた。
 ニシン漁で賑わった厚田村は、いつかニシンが来なくなり、衰微したが、東京湾に臨むこの町には、まだ漁師町の活気があった。
 社会は、やや落ち着いてきたとはいうものの、敗戦から三年しかたっていない。経済が安定するには、まだ時間が必要であった。戦後の混乱は、この漁師町にも暗い影を落としていた。彼らは、皆、深刻な生活問題をかかえて、戸田に、その指導を求めきたのである。
 問題は千差万別で、なかには絶望的に思えるものもあった。しかし戸田は、たとえ最悪の場合であっても、実態を深く理解したうえで、信心を根底に、力強い指導をしていった。彼は、生活に根を下ろさない信心は弱く、気休めにすぎないこと、そのような信心では、問題解決への力とはならないことを強調した。
 戸田の指導には、気休めは一言もなかった。彼は数々の体験をあげて、不可能を可能にする御本尊の無量の功力を説いた。会員たちには、それは遠い回り道のように思えてならなかった。しかし結局は、これが唯一の具体的で、確実な道であることを、皆、納得していった。そして、納得してからは、自ら進んで行う信心へと、変わっていくのであった。
 一時間足らずの短い時間であったが、素朴な彼らが頷いて、顔を輝かせて自分を見つめているのを知ると、戸田は立ち上がった。帰りの時間が切迫している。再会を約し、彼は、山平を促して、また雨のなかに出ていった。
 風は強くなり、雨は一段と激しさを加えてきた。
4  翌日、山平忠平は、さっそく山本伸一を訪ねた。そして、今度は、履歴書を書くようにとの戸田の意向を、忠実に伝えたのである。
 法華経講義が行われた夜、その終了直後、山平は山本の側に行って、「履歴書、履歴書」と急き立てた。
 二人が戸田の机の前に座った時、既に個人的な指導を求めている人が、三、四人いた。最初の若い女性は、仏法用語について質問していた。次に五十近い中年の男性が、詐欺にひっかかった問題で、戸田に指導を受けた。三人目は、四十年配の紳士然とした男性である。妻の異性問題であった。くどくど愚痴めいた話を、辛抱強く戸田は聞いている。
 山本伸一は、履歴書を手にし、″先生も、なかなか大変だな″と思いながら、話の終わるのを待っていた。
 戸田は、諄々と指導したあと、力強い声で言つた。
 「男らしい信心に立ちなさい。そして、力ある人生を生ききることだ。あなたの想像を絶した、実に見事な解決が必ずできる。それには、題目をあげきることです。どんなことでも、変毒為薬できないわけがない」
 それから戸田は、山本と山平の二人に顔を向けた。
 「おう……」
 山平は戸田に言った。
 「先生、山本伸一君です」
 「わかっている」
 山本伸一は、黙って履歴書を出した。やや長いまつげが影を落とし、まだ少年らしい面影を残している。
 戸田は、丁寧に履歴書を広げ、子細に、じっと目を注いでいた。やや長い沈黙が流れていく。戸田は、履歴書の記載事項については、何一つ尋ねなかった。やがて顔を上げると、徴笑みながら、山本をじっと見つめ、ひとこと、こう言っただけである。
 「頑張るか?」
 山本伸一は、間髪を入れず答えた。
 「はい! お願いいたします」
 一瞬の気合であった。決定的な瞬間である。時は既に熟していたのだ。一年前、戸田との運命的な出会いとなったあの夏の夜、山本伸一が予感したことは、今、避けがたい現実となったのである。
 紀元前四九年、シーザーは、「骰子さいは投げられた」と言って、ガリアとイタリアの境を流れるルビコン川を渡り、ローマに進軍した。
 山本伸一も、戸田が昭電疑獄について話をした、九月のあの法華経講義の夜、人知れず胸中の思いを日記に書きとめた時、既にルビコンを渡っていたのであった。
 ――「革命は死なり。吾れらの死は、妙法への帰命なり」と書いた時、山本伸一は、妙法に帰命すべきわが宿命と使命を、深く強く自覚していた。それは、「最高に栄光ある青春の生きゆく道」の自覚であったが、また未知への恐怖をはらんだ自覚でもあった。すなわち、彼が自らに強行した革命であったのだ。
 それはまさに、「革命は死なり」であった。つまり、己の一切をかけて悔いない覚悟とは、戦後のあまりにも平凡な、無名の一青年、山本伸一の死を意味する。しかし、彼の死は、「妙法への帰命」であった。この革命を強行した時、山本伸一は、既に妙法の革命家として、蘇生していたのである。
 したがって彼は、あらゆる悩みのなかから、この時、初めて雄渾な勇気と希望を、いだくことができたにちがいない。
 この若い革命家の、「妙法への帰命」という理念は、具体的な実践でいうならば、希有の師と一体となっての「妙法への帰命」であった。つまり、それは、広宣流布の師である戸田城聖に仕え、守り抜き、その構想をことごとく実現し、師弟不二の大道を全うすることであったのである。単純な発想と見る人も、いるかもしれない。しかし彼は、この時、未来に明るい曙光を見た。
 そして、崇高な使命に生きる自己の一生の方途を、明確に感じ取っていた。経験浅い人生行路のなかでの、直観的な判断ではあったが、その決意は深かった。
 それは、山本伸一にとって、栄光輝く青春の大海原へと進みゆく、人生の結実であった。
 宿命的な、決定的瞬間が過ぎた時、戸田は、履歴書を畳みながら言った。
 「今いるところを、円満に退職しなさい。そのために、日がかかっても仕方がない。今の職場に迷惑がかからないようにして、私のところに来なさい」
5  山本青年に、これだけ言うと、彼は、待ち構えていた次の質問者に目を移した。その婦人が、お辞儀をして話し出すと、赤ん坊は、にわかに大声をあげて泣きだした。婦人は、かまわず急き込んで話を続け、時折、邪険に子どもを叱ったりしている。
 「子どもを泣かしてはいかん」
 戸田は、こう言いながら手を伸ばし、赤ん坊をあやし始めた。山本青年は、山平と共に席を立った。
 山本伸一が、今、勤めているところは、中小企業の助成機関である城南工業会であった。それは、彼の家の近くにあった。
 彼は、その前に、一時、新橋の印刷所で働いていたが、その勤務は一日中忙しく、弱い体を、さらに壊してしまい、自宅で静養することになってしまった。寝汗は夜ごとに続き、朝起きると、ぐったりとして疲労だけが残った。
 家人は見かねて、印刷所を強引に辞めさせた。
 伸一は、静養中ではあったが、元気な友だちが顔を見せれば、連れ立って外へ出ることもあった。学会の座談会や講義の連絡があれば、せっせと顔を出すようになっていた。
 いつか彼は、妙法に哲学的な魅力を深く感じ始めていった。これまで読んだ書物の感銘が、ひどく色あせて思える時があった。彼は、それを病状のせいかと最初は思ったものの、知らないうちに、仏法で、それらの書物を批判している自分に気づいて驚いた。
 彼は、家にあって休養していたが、若い肉体と精神は、いつまでも静養に甘えていることを潔しとしなかった。
 このような時に、城南工業会の話が持ち込まれたのである。彼は、工業会の主事の強い要請で、そこの職員になった。何よりも、重労働の必要がないことを知り、また城南地域に育った人間として、少しでも城南地域のためになればいいとの思いで、勤め始めたのである。
 やがて、この会も大きくなり、城南の中心地に、その会館を造ることになっていた。彼は、真面目な責任感から、それが実現するまで、頑張ることにしていたのである。それは、十二月中旬に完成する予定であり、そのあと後任の人に事務引き継ぎを完了するまで、年の瀬いっぱいは、身を引くことはできなかった。
 彼は、十二月の仕事納めをもって、円満退職をした。その時に、新しくできた会館の二階で、職員全員により、送別会が聞かれた。
 彼が、日本正学館に初出勤したのは、年が明けて一九四九年(昭和二十四年)の一月三日のことである。彼の二十一歳の誕生日の翌日であった。
6  四八年(同二十三年)十月十七日、創価学会の再建三年の節を刻んだ総会が開かれた。再建の結実は、はっきりと教育会館の会場に現れていた。
 総会は、定刻の午前九時三十分より十分ほど遅れて始まった。午前と午後の二部に分かれて、中間の休憩時間を除くと、延々六時間にわたる勤勉な会合であった。終了したのは、午後四時三一十分であった。
 今日から見ると、当時の参加者の辛抱強さに驚くことであろう。しかし、年一回の総会は、全会員が勢ぞろいする唯一の機会である。
 一年間の学会活動の基本方針や、全国各地の注目すべき体験や活躍の様子を知る、年一度の会合である。皆、一年分の信心の養分を吸収しようと必死であったのだ。
 強い求道心をもった参加者にとって、時間の長さは、決して苦にはならなかった。
 総会が終了しても、皆、名残を惜しんで会場を去らず、ここかしこに固まっていた。さらに、それらの人びとは、入会間もない会員を囲んでは、その場で座談会を開催したりしていた。
 この日、体験を発表した人は、十八人に上った。
 体験の内容は、さまざまであった。
 ある若い女性は、親に言われるままに、一応は入会したが、青年には宗教など必要ないと反発していた。そのうちに、だんだんと病気がちになり、敗戦を迎えた時には、自分の人生は闇の底に突き落とされたように思えた。
 その時、姉から、真剣に信心に励む以外に、宿命を転換する道はないと諭された。彼女は、言われるままに唱題に励んだ。すると次第に健康を回復し、自分の将来にも希望がもてるようになった。彼女は、宗教は生活の根源であることを実感したと、その喜びを語ったのである。
 また、年配の壮年は、退職して、まとまった金が手に入り、妻と安定した生活を送り、満足していたが、いつの間にか賭博に手を出し始めた。気がついた時には、すべてを失っていた。そのうえ空襲で家まで焼かれてしまった。しばらくは、わずかに残った妻子の着物を売って生活していたが、それも尽きてしまった。
 ″もはや、一家心中をする以外にない……″
 そう覚悟した時、知人から折伏を受けて入会した。彼は、藁にもすがる思いで懸命に信心に励んだ。願った通り、二カ月もたたないうちに就職先が見つかった。彼は、懸命に働いた。そして、六カ月で、給料は初任給の三倍になり、借金もすべて返済できたのである。まさに生活革命の実証であった。
 さらに、ある壮年は、自分の哲学遍歴を語った。彼は、自分の空虚な精神を満たしたかった。まずキリスト教を求めたが、矛盾を感じてマルクス哲学に走った。そこでも矛盾を覚えて、デカルト、カントの哲学を学び、西田幾多郎、三木清の哲学も学んだ。しかし、彼の心が満たされることはなかった。結局、日蓮大聖人の仏法に巡り合って、最高の人生の道、幸福への道は、ここにあることを、彼は発見したのである。壮年は、人生の根本哲学と出あえた歓喜を、力強く訴えた。
 これらの体験には、戦後の混乱期の、さまざまな人生の縮図があった。
 このころから学会では、日蓮大聖人の仏法の正しさを実証するため、いろいろな人の体験談に力を入れていった。それは、体験ほど強いものはないからである。理論だけで正邪を争おうとすれば、観念の遊戯に陥りがちで、いつまでも平行線をたどってしまうことが多い。
 数多くの体験は、単なる観念ではなく、事実のうえからも、仏法の正しさを証明するものであった。美辞麗句の指導や、観念の理論よりも、現実の体験の方が人の心を強く打った。そんな話は偶然にすぎないと考える人が、いるかもしれない。しかし、それが何度も重なったり、多くの人びとが、一致してその実証を感じているのを知って、そこに何らかの必然的な法則性があることを、納得するであろう。
7  体験発表に続いて、三島由造の「経過報告」となった。彼は、この一年間の新しい活動と、その成果を語っていった。
 「……昨年、第二回総会のころにおいては、座談会の会場は、十二カ所を数えるにすぎませんでしたが、現在では東京都内に約二十五カ所、近県に約十カ所、地方に六カ所、合計四十有余の座談会場をもって、折伏教化に遁進している現状であります。
 特に本年に入って、目覚ましい展開を見せているのは、小岩、墨田、深川、向島、西新井の各支部、また、蒲田支部から誕生した浦安支部、山手方面では目白、文京、杉並、中野の各支部などで活発に座談会が開催され、東京二十三区すべてを覆うようになったのであります。地方では、伊豆の伊東支部、埼玉県の上福岡、川口、川越の各支部、北関東の桐生支部等であります」
 支部の名があげられると、その所属の支部員たちは、明るく拍手を送っていた。確かに、創価学会の随所に、新しい息吹があった。
 法主の水谷日昇も、「本宗発展の兆し」と題して講演し、総会を祝福した。
 彼は、疑獄事件の続発、物価騰貴、生産意欲の減少と職場離脱等の世相を語り、これらの暗影に沈みゆく乱世にあって、総本山では新客殿の完成も近く、創価学会もまた、過去の最盛時をしのぐにいたったことは、まことに喜ばしいことであると述べた。
 さらに、宗門の法難史に触れ、今や、広宣流布の大道標に向かって逼進する絶好の時機が来ていると訴え、次のように結んだ。
 「かくして、宗門の僧侶檀信徒中より、産業、財界、文学、科学、政治、教育、宗教界に人材を出し、先ず国家に反映し、さらに世界的に押し広げて、もって永遠平和の道標に光輝あらしめねばなりません。
 これが、本仏・宗祖日蓮大聖人の願業であり、また吾人の大願であらねばなりません。今こそ宗門史上、一大転機を画すべき好機であります。願わくは、下種三宝尊の御冥護の下、宗門僧俗打って一丸となり、異体同心の祖訓に徹して叡智を集めて、一大計画を樹立し、正法弘通、立正安固に努力精進を念願とする次第であります。創価学会員一同の受賜寿命、息災延命を祈ります」
 また、宗門の総監・堀米泰栄は、折伏が当今の民主主義と相いれないように考える向きもあるが、これこそ大なる僻見である。かかる誤った考えでは、とうてい、立派な民主主義は確立できないし、真の民主主義は、この仏法の真髄によらなければならないと、折伏行を力説したのである。
 「……民主主義は、個人の自由を旗印としているが、個人の完成なくして、真の民主主義は完成しない。個人の完成のためには、教育の平等などが、いろいろ叫ばれているが、正しい宇宙観、正しい人生観を持たなければなりませぬ。そのためには、正しい宗教を持たなければ不可能であります。これは、人間完成の最後の鍵なのであります……」
 さらに、常在寺住職の細井精道は、法華経と余経との勝劣を説き、末法の今時においては、法華経の文底秘沈の大法、五字七字の妙法こそ、実生活に即した成仏の唯一の道であると強調した。
8  午前の部で、戸田城聖は、最後に演台に進んだ。
 彼は、紅潮した頬で、まず、「開目抄」の、大聖人の大確信の宣言、すなわち「詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん……我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ」の一節を読み上げていった。そして、その言々句々について、火を吐く気迫で講演した。
 「……『詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん』と。わが学会人は、妙法のためには身命を捨てる覚悟でなくてはなりません。命を捨てて御本尊を護持する功徳のゆえに、御本尊は感応ましまして、所願は満足するのである。だが、かくのごとき功利的な立場は、初信の行者にこそ必要であって、われわれにいたっては、大聖人の御心を心として、ただただ命がけで戦うだけなのであります」
 戸田は、多くの同志を前にして、まず、功利的な立場を超えたところに、実は仏法の真髄があることを明らかにした。
 彼は、真の仏道修行は、現世利益のみを追うものではないことを、はっきりさせておこうとした。現世に利益がないわけではない。
 しかし、それらをも、一切、含んだ、何ものにも揺るがぬ金剛不壊の生命を確立していくという、高い次元の信心の決意がなくてはならないと、訴えたかったのである。
 広宣流布という大偉業は、死身弘法の決心なくして、とうてい遂行できるものではない。いくら会員の数が増えても、この決意と実践が、多くの人びとの胸にみなぎっていかなければ、未来の栄光は勝ち取れないことを、彼は深く知っていた。
 「『善に付け悪につけ法華経をすつるは地獄の業』で、信心を離れて、幸福などは、絶対にあるわけはないのであります。
 『身子が六十劫の』云々とは、身子、すなわち舎利弗は、過去世に六十劫もの長い期間、菩薩行を重ねながら、彼の善意を踏みにじるバラモンの振る舞いを見て、菩薩の修行をやめてしまった。そして、自ら成仏の道を閉ざしてしまった、ということです。
 この仰せの通り、今生に、おいて、御本尊に仕えまつるのに、心弱くして捨てまいらせたなら、再び御本尊にお目通りがかなうのは、何億年の後になるものやら。ただただ、涙なしには拝せられません。
 また、『日本国の位をゆづらむ』『父母の頸をはねん』との誘惑や脅しに負けて、どうして、その無上・最高・最大の信仰を捨てられましょうや。
 『智者に我義やぶられずば用いじとなり』と、この大信念、今、われわれ弟子どもは、この大聖人の御義たる生命哲学をもって、日本民族復興の指針としなくてはなりません。
 数百の視線は、戸田城聖の一点に集中している。彼は、コップを手にし、一気に飲み干した。場内は静寂そのものである。
 「日蓮大聖人の仏法は、生命の法則を余すところなく説ききった法理であり、他の思想や哲学に敗れるわけはありません。敗れるとすれば、弟子どもの罪であって、罪、堕地獄にあたるのであります。さればこそ、『其の外の大難・風の前の塵』でありましょう。
 日本の国の敗れた原因は、『我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ』と師子吼せられた大聖人様の教えを、教えとして仰がぬ者の仏罰であると、私は断じます。国家神道という誤った教えを根本としたがゆえに、戦争の泥沼へと突き進んで行ってしまったのであります。
 今こそ、柱を起こし、眼目を聞き、民衆の幸福と平和を実現する大船を造るべき時である。学会人一同、大いに心を同じくして、法のために命を捨てようではありませんか」
 戸田は、しばらく場内を見渡していた。度の強いメガネが、キラリと光を放った。拍手が一斉に湧いた。
 彼は、軽く手をかざして、満面に笑いをたたえながら、こう言った。
 「今日の総会は、この辺でおしまいにしたいのだが、せっかく、はるばる遠い地方から来られた方も、大勢いますし、だいいち、私は皆さんに、お話ししておきたいことが、まだまだ、たくさんあるんです。一日がかりの総会なんて、そう、ざらにあるものではない。世間にまねのできないことをやるのが、創価学会です。廊下にお茶の用意もあるようですから、まあ、ピクニックにでも行ったつもりで、ゆっくり弁当でも食べて、それから午後の部に入りたいと思うが、どうだろうか」
 皆は、笑い、ながら拍手を送ったのである。
 午前の部は終わった。
9  参加者は、腹を空かしていたらしい。今回、初めて参加した人のなかには、ちょっと総会をのぞいて、後は自分の自由にしようと思って来た人も多かった。しかし、午前の感銘は、何ものにも代えがたいものであった。午後の部にも、自然、期待を寄せるようになっていた。だが、弁当を持って来ていない。それに、外食券がないと、ご飯も食べられない時代であった。その食堂も、どこにでもある、というわけではなかった。そこで、彼らは廊下でお茶ばかり飲み、雑談をしたりして、時間をつぶした。帰った人は、ほとんどいなかった。
 午後の部が始まった。
 場内には、和やかな空気が流れ、親しみやすい雰囲気になっていった。参加者は、ユーモラスな体験談では大笑いしたり、宿命との戦いを切々と訴える話には、目を潤ませたりしていた。彼らは、そうした話のなかに、胸に迫るものを感じて、感動していたのである
 圧巻は、なんといっても戸田理事長の講演であった。「民族復興の道」と題しての話は、当時の学会の方針と、その根本理念を、明確に説いていた。それは、戸田城聖の歴史的宣言の一つであった。
 彼は、元気はつらつとしていた。広宣流布への構想の第一歩の具体的実践が、緒に就いた確信に、燃えていたからである。
 「民族が復興するには、必ず哲学が必要である。哲学は、また実践をともなわなければならない。実践のない哲学は、観念の遊戯にすぎないのです。
 戦時中、神道を強制して大失敗をしたわが国は、終戦後、いかなる哲学と道徳とをもって、復興すればよいのか。世間をごまかした宗教や、偏頗な思想がはびこっている現在、わが創価学会は、偉大な日蓮大聖人の仏法を身に体して実践し、祖国の復興に寄与しなければならないのであります」
 一語、一語、真剣に力を込めた語り方である。そして、その内容は、誤った宗教だけでなく、偏頗な思想に対する挑戦の宣言ともなっていた。
 「皆さんは、それぞれ、努力しておられるが、まだまだ、生ぬるいものであり、時代の先覚者というものは、殺されようが、焼かれようが、決然として突き進む覚悟が必要なのであります。もとより、その時代が必要としないものは、努力しても無駄であり、今の世の中に、鎧、兜の広まるわけがありません。ところが戦時中に、もんペが期せずして広まったごとく、その時代の国民生活に必要なものが現れたなら、必ず広まらなくてはならないのです」
 もんペが出てきて、人びとは、ほっとしたように頷いたりしていた。
 彼は続いて、皆の確信のなさを突き、広宣流布の先覚者としての自覚を痛烈なまでに促していった。
 全身から、ほとばしるような大雄弁である。覚悟のない者は、その場にいられぬような、激しい言葉であった。
 「戦いに敗れたわが国が、真に、道義と平和を愛好する民族として再起するためには、正しい宗教と正しい思想を根底において、そのうえに政治、経済、文化等を、打ち立でなければならないことは、言うまでもありませんが、この欲求を満たし得るものが、日蓮大聖人の仏法であり、その根本が御本尊なのであります」
 彼は、憂国の情を披露し、民族復興の基盤をここに置いた。まさに、立正安国実現への大宣言であった。
 「かかる意義深い御本尊が、わが国に厳存しているにもかかわらず、多くの日本人は、ほとんどこれを知りません。われわれ学会員は、かかる不憫と煩悶の時代にあって、たとえ命を捨てることがあろうとも、親と妻子を捨でなければならない事件が起きようとも、周囲の者が退転しようと、やめようと、その屍を乗り越えて、決然として進もう。これこそ、唯一無上の学会の大使命であります」
 語る彼の胸中には、戦時中の辛い、苦い思い出が渦を巻いていた。あの弾圧の時、投獄された二十一人の幹部のなかで、退転しなかったのは、牧口常三郎と彼との、二人だけであった。出獄後、荒廃の極に達した日本の国土のなかで、彼は一人立ち、文字通り「屍を乗り越えて」、ここ三年、再建の結実にまで運んできたのである。
 大量の幹部の退転という、すべてを水泡に帰するようなことを、二度と繰り返すまいと、戸田は決意していた。広宣流布の火を、二度と消してはならない。彼は、今、場内の数百人の同志に、命を捨てても退転するなと、訴えずにはいられなかった。
 「この大使命をもって、私と共に進もうではありませんか。この固い決心のない者は、今すぐにでも学会を去って結構です。われらは、いよいよ信心強盛にして、その屍を乗り越えて進むのみであります」
 激しい拍手の嵐が、彼をつつんでいった。彼は、それを耳にしながら、席に戻っていたが、ふと居並ぶ最高幹部に目を移した。彼の背後の席順は、入会の古い順であった。この時、戸田の頭をかすめたのは、友情から拾い上げた理事たちが、どのような心境にあり、いかなる決意を固めているかということであった。
 新時代の幹部は、生き生きと成長し、活躍している。彼らは、常に前進しており、自信にあふれでいた。戸田は、新幹部と、少しも行動せぬ旧幹部との間にある断層を感じていた。そして、いつか新旧をチェンジしなければならないことに、苦慮していたのである。それが、今日の壇上で歴然と見て取れた思いがした。
 戸田は、三年前のゼロから出発して、ともかく戦前の創価教育学会の最盛時をしのぐところまで、創価学会を再建した。弟子たちの目にも、もはや戸田は、戦前の戸田と同じには映らなかった。しかし、古い理事たちは、なんの進歩もしていなかった。戸田は、彼らとの距離が、あまりにも遠くなったことを、寂しく思わずにはいられなかった。
 戸田は一抹の感傷を込めて、背後の席を、もう一度、振り返った。
 ″やがて、この壇上に居並ぶ最高幹部の顔ぶれも、すっかり変わる時が来るだろう。それは近い。その時、長い間の盟友は、時の潮流に没し去ることになるかもしれない。それは、彼ら自身の強い信心によって前進する以外に、防ぐことはできない問題である″
 最後の学会歌が、場内を揺るがして、感激の躍動がいつまでも波打っていた。
10  翌月の十一月に入ると、総本山大石寺では、宗祖日蓮大聖人の入滅の日に行う儀式である御大会おたいえが待っていた。この年は、例年の行事とともに、客殿と六壷の復興落慶法要が、あわせて挙行されるのである。
 十二日午後三時、信徒六百数十人、近郷の参詣者千数百人、計約二千人の僧俗が参加して、新客殿で儀式が行われた。
 法主の水谷日昇の導師で、読経が始まった。「客殿六壷落慶式」である。戸田城聖は、全国の信徒代表として、登山した五十人の幹部と共に参列していた。
 読経が中断し、日昇が慶讃文を読み始めた。
 彼は、日興上人が身延を離山し、この地に大石寺を築いた歴史を語ったあと、近年の痛恨事に触れたのである。
 「さきの第二次世界大戦において、日本本土の空襲せらるるや、劫火の炎、国土を蔽い、国民は六親を失い、家を焼かれ、阿鼻叫喚の巷に呻吟す。この時に当たり、当山また祝融しゅくゆうに見舞われ、一瞬にして客殿、六壷、庫裡の大半を焼失す。宗徒これを見聞し、愕然として声を呑み、憮然として悲嘆に沈み、是れ如何なる事か、茫然その所以ゆえんに迷う。然るところ、その後、数カ月を出ずして日本は敗戦し、史上空前の降伏を為すに至る。ここに宗徒始めて、仏意をうかがい得て、峻厳なる現証に恐懼、ただ懺悔の念にとざさる」
 水を打ったような、静かな雰囲気のなかに、日昇の声は一段と高まっていった。
 「即ち、日本の敗戦は、その因って起こるところ歴然たるものにして、一に正法を以て国を治むるを知らず、只いたずら衒気げんきに依って、国策を進めしによる。宗祖の金言七百年の間、遂に顧みられず、謗法の罪その徳を破り、遂に国を破る。痛恨何ものか此に比せん。しかしながら、また我等、自ら省みて、事此に到らしめしは、折伏教化の足らざりしところにして、全く懈怠けたいの罪というべく教家として万死に当たる。六十二世日恭上人火中に遷化せらる。これ誠に恐れ多きことにして、我ら夢より醒め、恐恐自責の念に沈淪ちんりんす。ここに一門宗徒期せずして奮起し……」
 日昇は深き反省に立ち、あえて、かかる慶讃文を読み進めたのであろう。
 皆の心の底には、辛苦の追憶がよみがえり、深い悔恨の念をいだかずにはいられなかった。
 大難を一身に浴びて戦い抜いた戸田城聖には、なんの悔恨もなかったが、未来の広宣流布を思う時、万感胸に迫った。彼は、今、再建された新客殿の中にあって、総本山が疲弊の極にあった当時の姿を偲んでいた。
11  前年の一九四七年(昭和二十二年)七月二十二日、それは第六十四世法主となった日昇の代替の式典が行われた翌日である。御影堂で開催された「講頭会」の折のことであった。
 全国から講頭や各寺院の世話人など三十人が、新法主の出席のもとに参集していた。戦後、最初の講頭会として、重要な集まりであった。だが、焼亡した客殿の再建を、積極的に口にした者は、一人もいなかった。
 問題は、総本山運営のことについてである。約九十町歩(九十ヘクタール)の農地を失った、総本山の目下の財政問題が焦点となったのは、当然のことであった。しかし、直ちに名案が浮かぶはずもなかった。
 北海道から来た一人の資産家の講頭は、総本山の維持運営について、どのくらいの赤字かと執拗に問いただしていった。無理からぬ話である。具体的な数字が出ると、宗門の誰もが口をつぐんでしまったのである。真剣に宗門の維持発展を考えているとは、とても思えなかった。
 富士宮のある講頭は、「しっかりした法華講の組織もない状況のなかで、少数のわれわれだけが集まり、論議し、決議しても、それが実行できるのか」と、総本山当局に疑問を呈した。
 当時、講頭は全国で三十六、七人を数えていた。その講頭らが集まって、総本山再建の最も重大な会議を行っているにもかかわらず、意気は上がらなかった。ある講頭などは、信心よりも目先のことにとらわれて、わが身の保身が大事に映っていたのである。
 話は、法華講の組織の問題にそれたり、機関誌の問題に飛んだり、布教活動が話題になったりして、また自然に財政問題に戻ったりしていた。
 北海道の講頭や、東京のある講頭は、「総本山維持は、われわれの責任であるが、今後の財政を明確にするために、総本山当局に、おいては、決算報告をすべきである。われわれは、いかようにしても協力するが、要するに出しがいのあるようにしていただきたい」などと言い立てていた。
 講頭たちは、膨大な赤字財政に悩む総本山側を、なにかと責めることによって、責任を回避しようとしたのである。
 この時、戸田城聖は、いたたまれなくなって発言を求めた。
 戸田は、この日、いかなる議題についても、自分の意見を言うまいと心に決めていた。総本山の荒廃は、わかりすぎるほどわかっている。容易ならぬ現状も、彼は、まさしく目にしていた。しかし、彼自身も事業再建の緒に就いたばかりであり、彼の率いる創価学会も、第一歩を踏み出したばかりである。
 僧俗一致して広宣流布に邁進していくために、総本山の復興は、彼の切なる念願ではあったが、今、戸田とその弟子たちは、それだけの実力のないことを知らねばならなかった。彼には、実行不可能なことを、口にすることは、とうていできなかった。
 戸田は、心のなかで、つぶやくのであった。
 ″この戸田が、必ず総本山を再興してみせる!″
 彼は、黙して語らずにいたが、他の講頭たちの目にあまる姿に、いたたまれなくなって発言を求めた。
 「収支決算うんぬんと言うこともよいが、国滅びた今日、いかにして布教し、国を救うかということが、私たちの最大の関心事でなければならないと思う。このほかに、大事はありません。もはや、広宣流布の時は来ている。
 当面の問題は、次の三点にあると私は思う。
 第一に政策、第二に哲学、第三に折伏です。
 第一の政策とは、信心においても、世間的にも、実力のある信者を、会長なり総講頭なりにして、寺院教会から、離れて活躍させるべきです。
 第二の哲学とは、大聖人の時代は、四箇の格言であったが、今は、それだけを振り回してもだめです。現代では、人間を駄目にしたり、無気力にするような悪思想、悪主義を叩き壊すことです。大聖人が説かれた生命の大哲理を、真っ向から振りかざしていかなければなりません。
 第三の折伏とは、なぜ折伏をするか、折伏しなければならないかを、誰でも理解できるようにして徹底することです。
 以上の三点を、着々と実行すれば、広宣流布の実現も、総本山の復興も成ると思うのです」
 この三点は、戸田の胸中に納めていた、戦後の学会の指針と実践でもあった。
 宗門はもちろん、講頭たちも、枝葉末節の問題にとらわれ、戸田の意見を、正しく理解できる者は、ほとんどいなかったといってよい。全国から集まった講頭たちは、ただ経本や数珠の不足を、しきりに訴えているばかりであった。
12  この時から一年四カ月、今、客殿の復興は、ともかく成ったのである。
 落慶の法要は慶讃文を終わり、自我偈の読経に入り、唱題に移っていった。
 戸田城聖は、その時の講頭たちが、今日も晴れがましく出席している姿を見ていた。しかし、共に死身弘法を語るに足りる一人の講頭もいないことを、寂しく思った。結局、彼および彼の弟子たちのほかに同心の人はなく、創価学会の使命の重大さを、双肩にひしひしと感じたのである。
 式典は進んでいく。
 堀米宗務総監、高野復興局長の喜びのあいさつがあって、復興局の細井庶務課長が、喜色満面、事務報告として経過を述べていった。
 ――本年一月に復興計画を発表し、三月に予算二百万円で、建築許可を取り、四月から七班に分かれて全国に役員を派遣し、供養を推進。七月十一日に着工、総本山所有の木材をもって建設を進め、八月二十二日に上棟式を挙行した。以来二カ月余にして落成した次第である。
 また、細井は、現在までの収入額は、二百五十四万三千九百余円、支出額は、二百四十四万五千九百余円で、未完成の部分もあるが、寄付の予定額の範囲内で完成させるよう、努力する旨を語った。
 このあと、六人の祝辞があった。いずれも、天高く連山は紅葉に燃え……といったようなことから始まる、美文調の形式的な話が、長々と繰り返されていた。
 ただ一人、戸田城聖のみが、簡潔に意を尽くしてのあいさつであった。その言葉は、慈折広布への赤誠を述べて異彩を放っていた。
 彼の名は、全国信徒代表として指名された。
 「廃墟に等しい日本の国土にあって、今日、客殿の落慶は、得がたい吉兆であり、いよいよ広宣流布の時は熟したと確信するものであります。さりながら、われらの活動の規模は、いまだ未熟であります。未熟ではありますが、大聖人の御金言に照らせば、ことごとくの条件がそろっております。三災七難既に現れ、遂に、いまだかつてなき他国侵逼の大難も、厳然と現れたことは、ご承知の通りです。
 また白界叛逆の難にいたっては、家庭に、おいても、社会においても、国内のあらゆるところに、今の時代ほど、その実相を露呈した時代はありません。物価は騰貴し、生活は苦しく、病人は、年々、増加する一方です。三災もまた、そろっております。
 さらに重要なことは、大聖人御出現の時は、天台法華はほとんど滅んでいました。近年、富士大石寺は、まさに破滅に瀕しました。世界に誇るべき、大仏法の衰微の姿は、悲しむべきことでありますが、法華経にあるように、法滅せんとする時こそ、広宣流布の機会であります。
 つまり、こうした時代なればこそ、民衆の救済のために、われわれは立たねばならない。
 私は、あえて広宣流布近きにあり、と確信するものであります。したがってまた、かつてない三類の強敵の出現も自明の理であります。生やさしい戦いとは、夢にも思いません」
 そして、戸田は、最後に力を込めて叫び、話を結すんだ。
 「広宣流布のため、今こそ死身弘法の実践を、この佳き日に誓うものであります!」
 激しい拍手が、客殿の一角から起こった。それは、参列している学会員五十人だけの拍手である。満堂を揺るがす拍手とはならなかった。だが、戸田城聖の至誠は、巌のごとく不動のものであった。ただ一人、彼の胸中には、広宣流布を成し遂げんとする情熱の炎が、燃え盛っていた。
 式典後、参列者には、お祝いの弁当と記念品が配られた。記念品は、新客殿の天井板の切れ端で作った、檜の素朴な土瓶敷であった。
 当時の宗門の僧侶数は、百二十七人であり、所化八十四人であった。なお、総本山在住者は、三十人にすぎなかったようである。寺院数は、全国で百十三ヶ寺と記録されている。
 十二日、十三日にわたる総本山での儀式は、秋晴れのもと、滞りなく挙行されたのであった。客殿の焼け跡に、新客殿が再び建立され、創価学会もまた、戦前の盛時をしのぐまでになった。終戦から三年を過ぎた廃墟の国土のなかで、ともかく広宣流布へ進む、確かな一つの結実を見たのである。
 しかし、国土を覆う暗い雲は、いまだ色濃く、民衆は苦悩のなかに岬吟していたのである。

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