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日蓮大聖人・池田大作

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小説「人間革命」3-4巻 (池田大作全集第145巻)

前後
1  一九四八年(昭和二十三年)に入ってからの、戸田城聖と、その弟子たちの活発な実践は、確立しつつある組織に、新しい拡大の波紋を投げかけていった。その波紋を真っ先に受け止めたのは、青年男女のグループであった。
 時代の流れは、瞬時の休みもなく、常に新しい息吹を求めていた。日本国内の各界各層では、まだ明治生まれが主流を占めていたが、学会の庭では、大正の末から、昭和生まれの青年たちが頭角を現し、新しい思想によって、新時代を開拓しようとしていた。戸田は、彼らの成長を願っていたのである。
 このころ、彼ら青年の間には、新旧の溝ができつつあった。入会の早い青年たちは、どうしても、活動の重点を、他宗との法論に置きがちであった。他教団の本拠に出向いて法論を挑み、相手の薄弱な教義を叩き、大聖人の仏法の正義を立証する――それは、青年にとって、まことに痛快であり、その中核となっていた一握りの青年は、いつも意気軒昂であったようだ。しかし、入会したばかりの多くの青年には、その感激は伝わらなかった。
 新しい多くの青年たちは、生活は貧しく、何よりも思想に飢え、支えとなるべき人生哲学を、仏法に求めて入会していた。彼らには、先輩たちの他宗との法論闘争は、英雄気取りとも、一種の自己陶酔とも映った。
 そのために、先輩たちと行動を共にしながらも、心では批判し、反発し、いつか青年部の会合から姿を消してしまう人もいたのである。先輩の青年たちは独走し、新しい青年は未熟のままであったといえるかもしれない。
 日を追って、各支部での折伏は活発化し、入会する青年の数は、次第に増大し始めていた。だが、それに比して、青年部員の会合への出席率には、著しい増加は見られなかった。
 戸田城聖は、青年たちの一挙手一投足を、鋭敏に察知し、心を痛めていた。誰が悪いのでもない。いつの間にか、新旧の青年たちの間に、どうしようもない溝が、自然にできてしまったのである。
 初夏に入った六月二十六日は、月例の青年部の座談会の日であった。この日は、珍しく五十余人が参加した。それは、いつもの座談会と違って、新しい構想を語り合う会合だったからであろう。三時間近い話し合いのなかで、堰を切ったように、さまざまな意見が飛び出し、議論は急速に展開した。そして、とうとう、これまでの青年部を解散するという決議にまで突進してしまった。
 むろん、建設的な情熱が、誰の胸にも強く湧いていたことは事実である。彼らは、解散と同時に、新発足の準備委員会を設立し、委員を選出した。
 山本伸一は、この日も身体の具合が悪く、出席していなかった。
 委員となった青年は、今後の基本方針と新組織の構想を述べて、一同に諮った。
 「今、何よりも青年部の飛躍的な成長が、緊急の課題であります。学会の将来を担う、われわれ青年部の活動は、これまでのように、一部の青年の活動に限定されてはならない。今こそ、組織が有機的に、計画的に運営され、入会の新旧を問わず、青年部員の総力をあげて活動し、宗教革命の気概が脈打つ大青年部としようではないか。そして、戸田先生のもとに、栄えある大青年部員として、新たに結集しようではないか。諸君の奮起を促し、新時代の青年部の結成を叫ぶものであります」
 皆、興奮していた。誰もが、胸に漠然と考えていたことが、突然、この夜、一つのかたちとなって出現したのである。
 個人的な自己陶酔や、英雄気取りから脱却して、同志的連帯感に立とう。そして、広い実践活動を展開しなくてはならない。弾力のある、広範な、それでいて強固な組織体としていこう――彼らは、理想の映像を、新青年部に求めたのであった。
 夜は更けていった。やがて、新青年部の運営にあたる委員が、選挙によって選出された。岩田、清原、関、山平、吉川、酒田らの、合計十一人であった。さらに、これら委員のなかから互選で、三人が、常任委員に就任した。そして、結成大会は七月三日と決めた。戸田城聖の出獄の日にちなんだのである。慌ただしい解散と結成であった。
2  戸田は、翌日、彼らから委細を聞いた。しかし、彼らの構想が、戸田のいだく広宣流布への展望と、いかにもかけ離れていることを知ると、硬い表情になった。
 それは、まことに青年部の弱体を物語っていた。彼は、自分と一体となり、直結して、使命感に燃えて進む青年がいないことを、そこに深く感じたのである。
 彼は、一瞬、怒気を含んだ厳しい表情になった。そして、何か言いかけようとして、また口をつぐんでしまったのである。数人の青年幹部は、ヒヤリとして、かしこまってしまった。気詰まりな沈黙が続いた。
 やがて、意外に穏やかな言葉で、戸田は語り始めた。
 「まぁ、一度は、諸君がこうだと思って決めたのだから、責任をもってやりきりなさい。なんでも、やってみなければ、本当のことは理解できないだろう。人間というものは、実に厄介なものだよ。君たちには、今は、わからないだろうが、純粋な教団というものは、決して人工的な組織ではないのだ。御仏意によって出現した教団の組織は、わかりやすく言うならば、われわれが、つくるように見えても、所詮、御仏意によって、つくられていくものだ。
 このことが、今の君たちには、さっぱりわかっていないが、過渡期であればやむを得ない。わからないのに、まっとうなものが、つくれるはずもない。まぁ、思い切ってやってみるがいい。いずれ、学会の組織がどういうものか、どうあるべきか、わかる時がきっと来る。それは、諸君が広宣流布の重大な使命をしみじみと感じ、見事な闘将として成長した時だよ」
 この時、青年たちには、戸田の言っている意味が、よくわからなかった。戸田には、青年たちの組織についての考え方の誤り、偏向を、仏法の根本原理から、指摘することはやさしかった。だが、今は、それよりも、自らの手で組織をつくろうとした、その青年たちの発意を大切にしたかった。
 ただ、彼らが労働組合などの組織を模倣し、それが民主主義に則った組織の在り方であるとする安易さを感じ取っていた。世を挙げて、民主主義を口癖のように叫んでいた時代である。青年たちのこの行動も、当然なこととも考えられる。しかし、戸田の広宣流布という大業に基づく組織論は、彼ら青年たちの理解を、はるかに超えたものであった。
 彼は、青年部の組織が、民主的に運営されることには、異論はなかった。しかし、そのためには、まず一人ひとりが、どこまでも広宣流布の使命に生き抜く、透徹した信仰に立っことが大前提となる。もし、民主主義の多数決原理のみが優先され、広布の戦いのうえで、保身と臆病に満ちた意見が多数を占め、それで進むべき方向が決定されていくならば、学会の組織は、いつか破綻をきたしてしまうことになる。
 日蓮大聖人の仏法の正法正義は、牧口常三郎という一人の仏法指導者の、妥協を許さぬ死身弘法の戦いによって守られた。また、戦後の創価学会の再建も、牧口の遺志を受け継いだ戸田という一人の弟子の、広宣流布への誓いから始まった。広布に一人立つ師子との共戦こそが、学会という仏意仏勅の組織の根幹にほかならない。
 戸田の、この日の謎めいた言葉の意味は、その後の青年部の歩みをたどれば、判然としてくる。彼らは、懸命に活動していったが、学会の活動の原動力には、遂になり得なかった。まさしく「本末究寛して等し」との仏言の通りに、発足当時の偏向は、最後まで広宣流布への鉄の団結を生むことができず、結果的には長く苦しんでしまったのである。戸田の思い描いた真の青年部が誕生するまでには、なお三年余の歳月と、戸田自らの、たゆまぬ訓育が必要であった。
 それはともかく、七月三日には、結成大会が行われた。六十余人の男女青年の結集である。日本正学館の二階は、若々しい情熱があふれでいた。
3  だが、山本伸一の姿は見えない。また発熱のためであろうか。
 まず、戸田城聖の前で、新組織の発表があった。
 当初、十一人の予定だった委員は、十人に決定された。清原かつだけは、戸田理事長の考えから、別の任務のため委員には就任しなかったのである。そして、委員のなかから常任委員三人、会計と庶務に一人ずつが、予定通り就任した。
 戸田は、見かけない新しい青年たちが大勢いるのを見て、にこやかに笑いながら、一人ひとりに温かい視線を送っている。最後に、彼は祝辞を述べたが、いつになく短く、簡素で、「いよいよ青年諸君の奮起を望んでいる」と、力強く結んだ。
 ともかく、青年部は新しく発足したのである。新しい機運が、新しい青年の登場を促したことも否めない。それは、思いがけない方面から、思いがけない青年たちの活動となって現れ始めた。
 たとえば、一カ月後の八月十三日から行われた総本山大石寺での夏季講習会には、東京近県の青年たち、千葉の浦安や、埼玉、群馬などからも、五人、十人と参加してきた。
 皆、初参加の期待に胸をふくらませて、初々しい気持ちでやって来た。彼らは、初めて会った戸田城聖に、この人こそ自分たちが師とするのにふさわしい人物であると感じた。
 山本伸一も、初めて講習会に参加した。だが、彼は、参加してきた青年たちが、お互いに心から打ち解け合うことなく、それぞれ孤独のように見えて、何かしっくりしない雰囲気を感じていた。彼は、丑寅勤行が終わると、何を考えていたのか、ギリシャの詩を静かに口ずさみながら、いつしか眠りに入っていったのである。
  夜はいま
    丑満の
  時はすぎ
    うつろひ行く
  我のみは
    ひとりしねむる
4  夏季講習会も、この夏で三回目を迎えたことになる。参加者は、百八十八人に達した。特に、多数の入会間もない人びとが見受けられた。前年は約百人であったから、八十余人の増加であった。戦前の創価教育学会の最盛期であった一九四二年(昭和十七年)八月の百五十人を思えば、この夏に至って、ようやくそれを凌駕したといえるだろう。
 それが、終戦三年後、すなわち学会再建三年の実態であり、縮図であった。遂に、ここまで発展してきたのである。そこには、未来へ向かって新しく台頭していく力が、幾つも秘められていた。
 講習会は五日間である。戸田城聖は、この五日間に、全参加者には、真の信心の歓喜を自覚させ、なかでも古い幹部たちには、教学に励み、一生涯不退転の戦いができるように、指導したかった。
 彼は、初日の夜の会合で、講習会に集った意義について語った。
 「われわれが、なぜ末法という、乱世のなかの乱世に生まれ合わせたか。そして今、なぜ、ここに集い合っているのか――この厳然たる事実を、諸君は、どう考えているのか。わかっている人は言ってもらいたい」
 誰も答える人はない。だが視線は、皆、戸田の一身に注がれている。その顔は上気していた。
 戸田は、厚いメガネの奥から、人びとの心奥をのぞくように、静かに右から左へと、眼差しを移していった。緊迫した沈黙が、しばらく続く。人びとが耐えきれなくなった瞬間、彼は、いささか、しわがれた声で話しだした。
 「この意義を、よくよく考えてもらいたい。この意義がわかれば、今回の講習会の目的は十分果たせたといっていい。わかった人は、さっさと帰ってもよろしい。わからなければ、これから、わかった人から帰ってもらおうかな」
 人びとの硬い表情は解けていき、微笑が浮かんできた。だが、戸田の頬には微笑はなく、メガネの奥で、その目は強く光っていた。
 因果の理法を説く仏法から見れば、偶然に集まるということは、絶対にあり得ない。また、目的のない結合では、暗路の遠征となる。
 戸田は、意義のない会合など、決して開きたくなかった。烏合の衆のような世間の集団とは、根本的に異なることを自覚させたかったのである。
 彼は、力を込めて話しだした。
 「われわれが、末法に生まれてきたという本当の意味は、信心によってしか感知できないことだ。皆さんには、この世で果たすべき重大な使命がある。だが、その使命については、今は、何も気がついていないかもしれない。しかし、皆さんの生命は、本来、それを知っているはずです。実は、その使命、その責任を、深く知り、自覚した時、皆さんの心に、無上の歓喜と光栄とが、こんこんと湧き上がってくるんです。
 何を言っているのかと、思うかもしれない。しかし、私の話に嘘はない。
 われわれは、いかにも凡夫です。ところが、それでいて、仏の仕事をしなければならない。なぜであるか。それは、われわれが久遠元初に、ありがたくも下種された仏であるからです。その自覚に立って、よくよく自分を考えてみるならば、その使命がなんであるか、素直にわかってくるはずだ。
 これを、お伽噺や伝説ととるか、または大聖人の御金言ととるか、それは皆さんの勝手ではあろう。
 しかし、ちゃんと信心をしてみれば、やがて誰にでも、これが生命の本質なりとわかってくる。気づこうと、気づくまいと、あなたがたの生命自体は、ちゃんと知っているからだ。
 観念でわかるのと、実践でわかるのとでは、天地雲泥の差がある。皆さんは、信心の実践のなかで、わが生命の使命を自覚してほしい。
 未曾有の乱世に生まれて、仏の使いとしての使命を果たさんがために、われわれは願って、凡夫の姿となって生まれてきているんです。そのわれわれが、いつまでも凡夫の姿にとらわれて、実は仏の生命であるという自覚が少しもなかったならば、信心している意味は、なくなってしまう。
 したがって、この講習会は、実は、大した仏様の集まりなんです。みんな、願って貧乏の姿となり、病身の姿となり、なかなか見事な姿に化けて、お生まれ遊ばして、今、大御本尊のもとに集い合った同志というわけだよ」
 どっと爆笑が湧いた。人びとの目は輝いている。
 「この講習会を有意義に、楽しく送り、われわれが、実は仏であるとの自覚を新たにしたい。そして、何ものをも恐れず、不幸な一人ひとりを救う自分を確立していただきたい。そのためには、題目をあげきり、折伏を実践し、身をもって法を守る覚悟が必要となるんです」
 戸田は、少し難解すぎることを話したと思った。しかし、これでこそ講習会だとも考えた。
 戸田の話を聞いている人びとの多くは、自分が仏だとは、どうしても思えなかった。しかし、日蓮大聖人の仏法には、何か深遠なものがあることには気づいていた。彼らは、人間として生きるためには、どのような信心を実践すればよいのか、また価値を創造する根本法である仏法とは、どのようなものなのかを知りたいと思った。そして、自己の人生の目的は何か、この世に生を受けた使命は何かを、それぞれ自覚しようとして、真剣になっていったのである。
 夏季講習会での、戸田の二回にわたる「法華経要品講義」は、彼らには難解を極めた。だが、日蓮大聖人の仏法の真髄に触れて、わからないながらも受講者は、深い充実感と感動を覚えていた。
 また、他の講師による「日蓮大聖人の伝記」や、「身延離山史」などには、歴史的興味から関心をもった人もいた。
 彼らが、いちばん驚き閉口したのは、勤行であった。朝と晩、戸田を導師とする勤行での唱題は、一時間、二時間と続くのであった。端座することに不慣れな青年たちは、これがいちばんの修行であると、互いに励まし合っていた。しかし、肉体は正直である。しびれた足は感覚を失い、立てば転び、本堂をはい回る人もいた。
 ともあれ参加者は、日一日と、正しい信心の在り方がわかってきたようであった。
 また、座談会、質問会では、爆笑と拍手が、静かな夜の総本山に響き渡っていた。
5  参加者は、十七日の正午、帰路に就いた。五日間の講習会であったが、その意義は実に大きかった。何十日も費やした講習会や会合であっても、なんの意味もなく、参加者の成長もなく終わる場合もある。短い講習会でも、人生の最大の転機となり、幸福な生活への源泉となることがある。今、この講習会によって、彼らの生命には、人生の転換への使命の火が点じられたのであった。
 人びとは、間近にそびえる富士を仰いだ。秀麗な富士は、風雪の歴史を超えて、勝ち誇った姿を厳然と示していた。
 数多くの若人が、その富士のように、生涯にわたって変わることなく、たくましく、自己完成への信心の戦いを貫こうと決意したのであった。
 彼らは、三々五々と連れ立って、笑い合ったり、握手をし合ったりしながら、バスを待っていた。講習会を終えたあとの、爽快な感激とともに、新しい自分を発見して、皆、嬉しそうであった。そして彼らは、来年の講習会に再び集うことを誓い、元気はつらつと全国に散っていったのである。
 九月に入ると、戸田城聖の法華経講義は、第七期を迎えた。受講者も一変し、一段と活気を呈していた。
 五、六十人の受講者は、さまざまな職場から、駆けつけて来ていた。まちまちの服装である。勤労の汗の臭いが、熱っぽい会場に、いつも漂っていた。
 このころ、戸田は法華経講義の修了者に、銀色の鶴丸のバッジを授与していた。これが多少変わって、後に長く学会のマークになったのである。
 講義の終わったあとは、さまざまな質問が出てくる。社会、経済、政治等々の問題にも及んだ。しかし、やはり生活の問題と、教学についての質問が目立った。戸田は、これらに対して、冗談を飛ばし、人びとを笑わせながら、的を射た回答を与えていった。仏法の極理からほとばしる彼の見解が、どんなに素晴らしい切れ味をもつものかを、受講者たちは、しばしば驚嘆の思いで聞いていた。
 彼の指導法は、いわゆる文化人の観念的な理論や、高僧の難解な説法などとは、全く異なっていた。当時の戸田は、まだ世間的には無名の存在であったが、その指導によって、苦悩に沈む人びと一人ひとり、真に生命の底から復活させていたのである。
 世間の人びとは、一般に名のある人が、指導者であるかのように、錯覚しがちである。確かに、有名人といわれる人は、それぞれの分野で、世に知られるほどの業績を残してはいる。だが、それらの業績と、現実の生活上の悩みを解決するこことは、別次元の問題であろう。
 敗戦後の官界の腐敗ぶりは、驚くべきものであった。汚職その他の犯罪で起訴された数は、一九四六年(昭和二十一年)二千三百三十三人、四七年(同二十二年)二千三百八十八人、四八年(同二十三年)五千六百六人となっている。これらは、まだほんの一端であったかもしれない。
 当時、世間を騒がせた事件に、昭和電工事件、いわゆる昭電疑獄がある。
 戦後経済の復興を促進するため、必要とする資金を供給する目的で、四七年(同二十二年)に、臨時的な特殊法人として、復興金融金庫が設立された。全額政府出資のこの法人は、その運営の在り方に、さまざまな問題をかかえていたが、その象徴ともいうべき事件が、この昭電疑獄であった。
 大手の化学肥料会社であった昭和電工は、巨額融資の便宜を図ってもらうために、政界・官界に金をばらまいた。四八年(同二十三年)六月には、贈賄容疑で昭和電工社長が逮捕されていたが、九月に入ると、高級官僚や与野党の大物議員が、次々と収賄容疑で逮捕された。世間の耳目は、にわかに鋭くなり、人びとの憤激も高まった。
6  一人の青年は、戸田に質問した。
 「先生、一切の悪の根源というものは、誤った宗教にあると教わりましたが、昭電事件のような、悪の根を早く切るには、どうしたらいいでしょうか」
 「面白い質問です。今夜は、みんなで、この問題を考えてみよう。君たち、どうしたらいいと思うかね」
 戸田は、怒りに燃える青年の質問を取り上げて、一同に諮った。しかし、とっさに答える人は誰もいない。前の青年が、再び立って言った。
 「それだからこそ、広宣流布の必要なことはよくわかりますが、こうした社会悪が、ますます平然と横行しているのを、黙って見てはおれないのです。今、私たちは、この世の悪を根絶するために戦っておりますが、どうも『百年河清かせいつ』に等しいように思えてならないのです」
 「『百年河清を俟つ』か。君も匙を投げたいのかね。戸田は、断じて匙を投げません。君たち、考えてみたまえ。今度のような社会悪というものは、最近、始まったことではないのだ。
 人類社会が始まったと同時に、数千年来、続いてきたものではないだろうか。あらゆる心ある正義の士が、なんとか根絶しようと、法律的制裁を加えたり、道徳教育を強調したり、社会組織の改革、政治革命と、あらゆる知恵を絞って努力してきた。しかし、さっぱり駄目だったということになって、『百年河清を俟つ』などと言わなくてはならないのが、現状じゃないか。
 人間の知恵の発達は、すばらしいものだが、悪知恵の発達も、これまた、すばらしいものだからなぁ」
 みんな静かに聞いている。ちょっと微笑を浮かべた壮年もいた。
 戸田の話は、次第に熱気を帯びてきた。
 「このイタチごっこに、人びとは気づかない。どこまでいっても、生命の働きというものは、十界を具している。そういうふうに、人間はできてしまっているのだ。この本質がわからないから、徹底した手が打てないでいるんです。したがって、文明は進歩するが、悪の文明も、それ以上に進歩するといえよう。
 社会が悪い、政治が悪いと、慨嘆するだけなら、誰にでもできることだ。事実、その通りだが、社会にしろ、政治にしろ、それを動かすのは人間だ。十界を具している人間の心というものは、妙であり、また恐ろしいものだともいえる。
 これに気がつけば、根本は、人間それ自身が革命されない限り、どんなに有効に見える対策も、皮相的な空念仏に終わるのは、当然ではないだろうか。
 人類の歴史は、ただ、こんなことばかり繰り返してきた。そのくせ、政治革命や、社会革命は信じても、人間一人が宿命を転換し、自らの人間革命をなし得るという、大聖人の生命哲学は、なかなか信じようとはしない。これこそ現在の、最大の悪の根源といえるだろう。
 これを見極めたわれわれの活動は、このような悪の根源を絶滅する戦いになっているんです。今、世間は、このことにちっとも気づいていないが、やがて、『あっ』と驚く時が必ず来る。もちろん容易な戦いではなかろう。しかし、これこそが確実無比な戦いだということを、断言しておこう」
 「それは、よくわかるんです。しかし、先生、今度のような事件を、数々、目の前にすると、私にはどうも、手ぬるいとしか思えなくなりました」
 思い詰めた青年は、戸田に反発した。
 「わかった。君の心情は、悪い官僚や悪徳政治家どもを、片っ端からバッサリ片付けたら、さぞかし世の中は、さばさばとして住みよくなるだろうというのだろう」
 「………………」
 「思い詰めたものだな。君の正義感は尊いが、既に過去の歴史に、君と同じ考えをもった先輩がいたのだ。それが、たとえば暴力主義に走るテロリストたちだ。
 社会悪に挑戦して、少しばかり真剣に考えれば、一応は、たどり着く結論といえるだろう。だが、これはまことに幼稚極まりない考え方だ。
 なぜかというに、いつも言う通り、仏法は三世にわたる、厳然たる生命の尊厳を説く。したがって、人を殺すことは、これ以上の罪悪はない。人が人を殺す。それで社会が住みよくなったような気がしても、それは独り善がりです。因果の理法は、どうすることもできまい。テロリストの末路というものは、必ず悲惨なものだ。
 ところが、大聖人の広大無辺な仏法は、やがて、どんな人間でも救いきることができるのです。……私が、今、命をかけて戦っているのも、そのためだ」
 みんな、なんとなく不可解な顔をしていた。現実の悪徳政治家の問題と、広宣流布という理念とが、彼らには、どうしても具体的に結びつかなかったからである。
 「では、先生、具体的に、どうすればいいのですか」
 その青年は、疑いを深くして口をはさんだ。
 「まだ、わからんかなぁ。では教えよう。君たちは、もう既に、このような社会悪に対して、いかにすべきか、ちゃんと知っているんだよ」
 戸田の心には、青年の敏感さ、批判力、そして正義感を大切に育てようとする気持ちが、一層、強まってきている。彼の頬には、いつもの人なっこい微笑が浮かんでいた。青年たちは、互いに顔を見合わせたり、首をかしげたりしている。
 「そうじゃないか、君たちの家族に、一人の手のつけられない不良息子がいたとする。不良の兄弟でもいい。その場合、君たちなら、どうする?」
 一同は、なんだそんなことか、という顔をした。なかで、そうした経験をもつ一人の青年が、さっと手をあげて答えた。
 「なんとしても信心をさせ、御本尊の力によって、更生させます。それ以外、どんな方法でも駄目です。ぼくの経験から、断言できます」
 「そうだろう。君たちは、既に実行ずみではないか。ところが、大臣などというと、特別な人間のように考えているが、それは大間違いだ。
 官僚にせよ、政治家にせよ、悪知恵の発達した、不良息子みたいな人間も多い。ただ、国家の不良息子なので、権力を笠に着て、まことに始末が悪い。
 だが、一軒の家の広宣流布と、一国の広宣流布とは、根本原理は全く同じといえる。ただ、一軒の家と、国家とは、まるで規模が違うので、誰もが同じとは思えないだけだ。
 しかし、よく考えてみれば、国家社会といっても、一軒の家よりは、ただ複雑で広範な規模と組織とをもっているにすぎない。これに対応して、こちらの広宣流布への組織と活動も、大規模にならなければ、目的が達せられないのは、当然のことじゃないか。
 学会が、いつまでも、今のままの、こんな状態でいると思ったら、大間違いだよ。見ていたまえ、十年、二十年、五十年先の学会の姿というものを……。ちょっと想像できないほどのものになる。それでなければ、一民族を救い、全人類を救うことはできない。できなければ、大聖人の御金言は、全く虚妄となってしまう。時が来ているとすれば、絶対にこのままであるはずはない。
 早い話が、君たち青年が、純粋な信心に立ち、行学に邁進して何年かたった時には、福運に満ちた、力ある立派な人材に成長しているだろう。
 その君たちのなかに、政治的に優れた才能をもった人がいるとする。この才能は眠っているはずがない。政治の世界で、その力を十二分に発揮していくようになるだろう。その人は、利権あさりの政治家ではない。労働組合のための政治家でもない。一主義のための政治家でもない。世界、人類を視野に、全民衆の幸福を根本に考える政治家だ。このような高潔な政治家こそ、全民衆が頸を長くして待望しているのだ。
 残念ながら、今は、そのような政治家は見当たらない。だが、有意な人材は、必ず出現してくるだろう。それが、どのようなかたちになっていくか。ある場合には、そうした志を同じくする人材が、政党を組織していくこともあるかもしれない。だが、今は、ただこの戸田の胸中にあるだけだ」
 多くの青年は、戸田の話こそ、理想論にすぎないのではないかと思いながら、聞いていた。しかし、この戸田の胸中の一端を、鋭く受け止めた青年も、いないわけではなかった。彼らは、時間のたつのを忘れ、次第に頬を上気させながら、食い入るような目を戸田に向けて聞き入っていた。
 「広宣流布が進めば、あらゆる分野に、民衆のため、人類のために戦う優れた指導者が、続々と出てくるだろう。このことは、大聖人の御書を熟読してみれば、わかることだよ。このような原理が、御書のあちこちに、ダイヤモンドのように、キラリと不滅の光を放って、ちりばめられている。われわれは、それを現実のものとしていかなければならない。政治ばかりではない。経済についても、教育についても、文化についても、科学についても、同じといっていい。
 こうして、物心両面にわたる人類最高の文明を築いていくんです。それが可能であることは、大聖人の御書によって保証されているわけだ。したがって、これには絶対の必然性があるともいえるだろう。そうなり得るのも、大聖人の大生命哲学が、最高の指導理念としてあるからです。大聖人の仏法は、理ではなく、事なのだ。理と事の相違は、水火、天地の隔たりがある。
 こんなことばかり言っていると、誇大妄想と言われそうだから、今夜は、これくらいにしておこう。しかし、これが空想でないことだけは、はっきり言っておく」
7  受講者にとって、戸田の話を現実のものとして理解するには、心の底に既成概念による思い込みが、たまりすぎていた。彼らは、ただ、ため息を漏らすよりほかに、なす術を知らなかった。
 彼らは、戸田の話を疑いはしなかったが、まるまる信じるには、一種の抵抗を感じていた。そのため、感動は瞬間的で、そのまま持続するものとはならなかった。まことに、信じることとは、そのまま行じるということである。彼らの理解は、観念的なものにすぎず、実践へ昇華することはなかった。
 しかし、この座に一人の青年がいた。
 彼は、戸田の言々句々を、そっくりそのまま、己の脳細胞に吸収して、ほとんど抵抗を感じなかった。彼は、一点を凝視するように、目を聞き、身じろぎもせず、戸田のメガネの奥の瞳を見つめていた。
 それは山本伸一であった。彼は、このころ、第七期の受講者の一人だったのである。
 彼は、この夜、日記に次のように書きとめた。
  ああ、甚深無量、なる、法華経の玄理に、遇いし身の福運を知る。
  戸田先生こそ、人類の師であらん。
  祖国を憂え、人類に、必ずや最高の幸福を与えんと、邁進なされゆく大信念。
  そして、正義の、何ものをも焼くが如き情熱。
  
  唯々、全衆生を成仏させんと、苦難と戦い、大悪世に、大曙光を、点じられた日蓮大聖人の大慈悲に感涙す。
  若人は、進まねばならぬ。永遠に前へ。
  若人よ、進まねばならぬ。令法久住の為に。
  
  妙法の徒。吾が行動に恥なきや。吾れ、心奥に迷いなきや。信ずる者も、汝自身なり。
  祖国を救うのも、汝自身なり。
  宗教革命、即、人間革命なり。かくして、教育革命、経済革命あり、政治革命とならん。
  混濁の世。社会を、人を浄化せしむる者は誰ぞ。
  学会の使命、重大なり。学会の前進のみ、それを決せん。
  
  革命は死なり。
  吾れらの死は、妙法への帰命なり。
  真の大死こそ、祖国と世界を救う、大柱石とならん。
  
  若人よ、大慈悲を抱きて進め。
  若人よ、大哲理を抱きて戦え。
  吾れ、弱冠二十にして、最高に栄光ある青春の生きゆく道を知る。
 この二十歳の青年は、入会して一年しか、たっていなかった。彼は、まだ、名もない一青年部員にすぎない。あの出会いの夜以来、戸田と直接話す機会もなく、はや一年の歳月が流れていたのだ。しかし、戸田の志は、あらゆる遮蔽物を越えて、そのまま、山本伸一の心の底で育ち始めていたといえよう。むろん、それを誰一人、気づく人はいなかった。
8  昭電疑獄は、その後、急速に拡大し、政・財・官界の大物が、相次ぎ逮捕されていった。数十人が起訴され、人びとは腐敗の根の深さに驚き、怒りの声をあげた。
 当初、芦田総理は、この事態を乗り切れると思ったようだが、一九四八年(昭和二十三年)十月六日には前国務大臣(副総理)の西尾末広が逮捕された。西尾は、連立政権を組んでいる社会党の書記長だった。ここに及んで芦田内閣は、十月七日に総辞職した。しかも、二カ月後の十二月七日には、芦田自身が逮捕されたのである。
 政・財・官界の腐敗の根深さを暴露したとの事件は、その後、十余年も尾を引いたのであった。
 昭電疑獄は、腐敗した汚水の一滴にすぎなかった。前年には、炭鉱国家管理法案の審議をめぐって、炭鉱業者が政治家を買収した炭鉱国管疑獄が起こっている。また、翌年には昭電疑獄と同様に、復興金融金庫の融資をめぐる東洋製粉汚職事件や、繊維業界と商工省の官吏や政治家が関わった、商工省繊維汚職事件などが起きている。
 これらの憂うべき社会現象に、国民は等しく憤激した。しかし、憤激だけで終わるならば、何ものをも生むことはできない。不幸から立ち上がって、幸福への道を探り当てることなど、できようはずもない。彼らは、憤激したものの、途方に暮れるしかなかったのである。
 戸田城聖は、途方に暮れてなどいなかった。現時点の、悲しむべき事件を正視し、彼が胸中に秘めている明白な未来像と見比べて、その間の、はるかな距離をじっと測っていた。そして、この距離を、見る見るうちに縮めるべき自己の使命を、彼は痛いまでに感じていた。はるかな距離は、人びとには絶望的に思われたが、彼には、いささかも絶望的には映らなかった。
 憂うべき現象が重なれば重なるほど、広宣流布への一つの道程が、彼には、明白な確信となって思い描かれていった。彼は、世間の憤激に、少しも紛動されなかった。そして、わが道に勇猛精進した。既に、千里の道を、数歩前進したことを確信し、やがて加速度が徐々に増すことを、予見していたのである。苦悩にひしがれた多くの人びとのなかにあって、戸田一人の胸中には、確かな希望の光がともっていた。
9  激しいインフレが、労使の対立を噴出させていた。この年の四月以来、人員整理に端を発し、久しく争議の続いていた、東京・世田谷の東宝砧撮影所で、八月十九日、撮影所保全のための仮処分が強行された。万一の事態に備えて、多数の警官隊が待機しただけでなく、数十人のアメリカ兵と、数台の戦車まで出動した。非常事態を警戒して、上空には米軍機が旋回するという、ものものしさであった。
 撮影所では、人員整理に抗議する組合によって、すべて労働者の手で、映画制作を続けてきた。前年から経営不振に陥っていた会社は、莫大な赤字がかさんでいった。倒産寸前に追い込まれた会社側は、一気に強硬手段に出たのである。会社側と組合側の交渉の結果、組合側も仮処分を受け入れることに合意し、組合員は撮影所を明け渡して撤退した。
 この仮処分の強行は、全国の劇場や映画館にまで波紋を広げ、組合支援のストなどが頻発した。会社側は九月に再建案を発表して組合側と交渉に入り、十月には撮影所を再開した。しかし、人員整理などをめぐる両者の話し合いは難航した。局面打開のために、会社側と組合側のトップ会談が行われ、組合幹部二十人の辞職を条件に打開が図られた。こうして、半年聞にわたる争議は終結したのである。
 芦田内閣が崩壊したあと、政局は揺れ動いたが、結局、民自党(民主自由党)総裁の吉田茂が首班となり、十月十五日に、第二次吉田内閣が成立した。
 吉田内閣は、このあと、第五次まで継続し、六年余に及ぶ長期政権となったのである。
 第二次吉田内閣が、早急に決着をつけなければならなかった仕事の一つは、政令二〇一号の趣旨を反映した、国家公務員法改正の作業であった。政令二〇一号は、芦田内閣が、七月二十二日のマッカーサー指令に基づいて公布したものであった。これは、
 公務員の交渉権を制限し、争議行為を禁止するなど、労働基本権を大幅に制限するもので、改正された国家公務員法は、十二月三日に公布された。
 さらに、GHQ(連合国軍総司令部)は、十一月に「賃金三原則」の指令を出した。これは、インフレに歯止めをかけ、日本経済の安定化を図る目的をもっていた。その内容は、(1)赤字融資の停止、(2)物価に影響を与えるような賃金引き上げの禁止、(3)財政の均衡を破壊する補給金の廃止――であった。
 政府は、石炭・鉄鋼・電力などの重点産業の復興を目的に、復興金融金庫を創設して融資を行っていたが、そのために通貨が増発され、激しいインフレをもたらしていたのである。また、これらの産業を支援するために、政府は補助金を出していた。これは、経済復興に一定の効果をもたらしてはいたが、企業の自立を遅らせる結果を招いていた。
 インフレの高進は、賃金引き上げの要求となり、物価上昇と賃金引き上げは悪循環に陥っていた。労働者の賃上げ要求は、当然のこことはいえ、ともすると企業の支払い能力を超えるようになり、企業の存立さえ危ぶまれる状況になっていたのである。「賃金三原則」は、これらの問題の解決を図ろうとするものであった。だが、別の面では、労働者の賃上げ闘争を抑圧するという問題も生じた。石炭・電産・海員などの労働組合は、これらの方針に反発して、波状的にストを実行した。十二月になると、GHQは、これらの組合にスト中止を勧告してきた。そこで労使交渉が再開され、「賃金三原則」をめぐる対立は終息したが、その後、企業の倒産、従業員の解雇が相次ぎ、日本は長い不況に苦しむことになった。
 GHQは、日本が再び戦争を起こす力をもたないように、占領政策の中心として民主化を進めてきたが、こうした経済界や労使関係のなかに起こったさまざまな動き、変化は、アメリカの政策の転換を反映するものであった。
 この年、一九四八年(昭和二十三年)の三月に、ドレーパー調査団が来日して経済状況を視察し、報告書をまとめた。報告書の内容は、日本の経済復興を占領政策の目的にすべきだと提唱していた。この提唱に基づいて、初期の占領政策は大きく転換され、日本の経済的自立、潜在的工業力の開発促進が図られるようになったのである。この政策転換の背景には、いわゆる「冷たい戦争」と呼ばれる米ソ間の対立があった。
 四六年(同二十一年)三月、イギリスの前首相チャーチルは、東欧諸国を支配下に置いたソ連の封鎖的政策を、「鉄のカーテン」と呼んで批判している。第二次世界大戦の終了と同時に、かつての連合国の間には、早くも東西の対立が生じていたのである。
 ヨーロッパでは、東西ドイツの占領統治をめぐる軋轢から、四八年(同二十三年)四月に、ソ連はベルリンの一部を封鎖し、六月にはベルリンに通じる一切の鉄道・道路・水路を完全に遮断した。「ベルリン封鎖」が始まったのである。
10  また韓・朝鮮半島においても、緊張が高まっていた。八月に、李承晩を大統領とする大韓民国(韓国)が南に樹立されると、北では、九月に金日成を首相とする朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の樹立を宣言した。韓国のバックにはアメリカが、北鮮のバックにはソ連がいた。韓・朝鮮半島では、三十八度線を境にして、激しい南北対立が始まっていたのである。アメリカにとっては、予想外の展開であった。
 もう一つ、アメリカの誤算ともいうべき事態が、中国大陸で進行していた。アメリカが支援してきた蒋介石(チアン・チエシー)の国民党軍は、共産党軍に圧倒され、敗北が続いていたのである。
 孫文(スン・ウエン)が指導した辛亥革命によって清朝は倒れ、一九一二年(明治四十五年)に中華民国が誕生したが、その後十数年の間、この国は軍閥に支配されることになる。軍閥の打倒をめざした孫文は、大衆運動の重要性を自覚し、一九年(大正八年)に新しい国家建設に向けて中国国民党を結成した。そして、二年後の二十一年(同十年)に、共産革命の道をめざす中国共産党が誕生した。軍闘を倒して新しい国家を建設するという目的で一致した二つの勢力は、協力関係を結ぶことになる。いわゆる「国共合作」である。
 「国共合作」のあと、一年ほどで孫文は死去するが、その後、国民党の実質的な指導者となったのが蒋介石である。同時に、共産党との聞に亀裂が入り始め、対立が顕在化してきた。二七年(昭和二年)に、南京(ナンチン)に国民政府を樹立し、軍閥の支配を打倒して中国全土を統一した蒋介石は、農村を根拠地として勢力をもち始めていた共産党の絶滅に乗り出していった。
 長征によって、国民軍の攻撃から脱した共産党軍は、延安(イエンアン)の拠点を置いて抗日戦争を戦った。日本と友好関係を結んでいた蒋介石も、日本軍の本格的な中国侵略が始まると、抗日の旗を掲げ、三七年(同十二年)九月、敵対してきた共産党軍と手を結んだ。第二次「国共合作」である。しかし、共産党軍攻撃により、この協力関係は数年にして瓦解した。
 四一年(同十六年)十二月八日、日本が米英に対して戦争を開始すると、国民政府は即座に日本へ宣戦戦布告した。アメリカの支援を得て国民党軍も戦ったが、貧弱な武力でありながら徹底抗戦を貫いたのは共産党軍であった。そして、四五年(同二十年)八月、日本降伏の時を迎えたのである。
 日本という敵が消滅して、中国大陸では国民党軍と共産党軍との対立が残った。アメリカは、中国が、アメリカに友好的な極東の安定勢力になることを望んでいた。そこで、国民党政府に対して膨大な援助を与えた。その総額は二十億ドルにも上った。
 国民党軍と共産党軍とによる内戦は、四五年末には始まっていたが、四六年(同二十一年)六月からの、国民党軍による共産党支配地区への総攻撃によって本格化した。アメリカの支援を得ていた国民党軍は、武器においても、兵員数に、おいても、共産党軍を圧倒していた。しかし、一年後には、共産党軍は反撃に転じ、国民党軍は各地で撤退を余儀なくされたのである。勢力において勝っていた国民党軍が崩れていったのは、一族支配の組織をつくり上げて腐敗、堕落し、民衆の心が遠く離れ去っていたところに、最大の原因があったといってよいだろう。
 共産党軍の反攻から一年たった四八年(同二十三年)秋以降、共産党軍は東北、華北を支配下に置き、翌四九年(同二十四年)春には南京、武漢(ウーハン)、上海、秋には広州(コワンチョウ)、重慶(チョンチン)をも制して、実質的に中国大陸全土を支配下に置いた。そして十月一日、中国共産党は中華人民共和国の成立を宣言したのである。
 戦局が国民党軍に利非ずと見た蒋介石は、既に一月には台湾に渡っていたが、年末には国民党政府自体も台北(タイペイ)に移った。
 民衆を抑圧して国民の信頼を失った国民党軍は敗れ、農村を基盤として民衆の支持を集め、国民の信頼を得た共産党軍は勝利したのである。
 このような極東の情勢に、アメリカは焦慮したにちがいない。ヨーロッパ、韓・朝鮮半島、そして中国大陸とソ連を中心とした共産主義勢力の相次ぐ進出に対して、アメリカは、世界的規模で反共体制の強化を図らずにはいられない状況に直面していた。こうした世界情勢の変化により、日本列島は、ソ連・中国に対する反共の防波堤として、にわかに、アメリカにとって重要な価値をもつようになってきた。いきおいアメリカは、対日占領政策を転換せざるを得なくなったのである。
 東西両陣営の対立による「冷たい戦争」には、「熱い戦争」勃発の危機が、常につきまとっていた。ただ、その危機を避け得たのは、第二次大戦の悲惨な体験が、なんといっても、生々しく世界の人びとの心に生きていたからである。しかし、世界の各地で小競り合いが絶え聞なく起こったのは、東西に世界を分かったアメリカとソ連の、それぞれ世界を制覇しようとする野望のゆえであるという以外にあるまい。
11  戸田城聖は、人間の、平和を願う心と、また他を制覇したいと思う心が、一人の人間において共存する実態を知悉していた。つまり、十界の生命の認識である。この本質の認識なくしては、その折々の利害によって動いていく世界は、六道輪廻を脱することができない。それが、文明の発達した二十世紀においても、少しも改革されていないことを、戸田は痛感していた。
 「この世界の真の実態というものが、実は、どういうものであるか、それに気づいている人は、誰一人いないようだ。現代の人間社会の不幸は、ここにあるんだよ。わかってしまえば、簡単なことなんだがね。だが、人びとは嘲笑って、わかろうとしないだけだ。そのくせ、自分にも完全にわかっていない、つまらぬ理屈は、いやになるほど言っている」
 時折、戸田は、世界情勢の分析が話題に上ると、独り言のように、つぶやいたりしていた。
 「理想は理想、現実は現実などといって、その場その場を、ごまかしているのが現代ではないだろうか。この二つを、まるで別物のように扱って、あきらめているのは、現代の精神の薄弱さを意味している。理想を現実化する力、その力がなんであるかを、人びとは深く、強く探究もせず、求めもしない。人間の精神が、これほど衰弱した時代もないだろう。そして、衰弱した精神が、偉そうに利口げなことを言っている。愚かな話じゃないか」
 戸田は、誰に言うとなく、孤独にして強靭な心を、静かに弟子たちにもらすのであった。その表情は、遠く思いを馳せるように、半ば目を閉じていた。
 「現代は、何か重大なものが欠けている。誰も、それがなんであるか気づいていない。いや、気づいているようなことを論じてはいるが、あまりにも皮相的な論議だけだ。それを知っているのは、どうやら、われわれだけのようだ。
 理想を現実化し、現実を理想に近づけていく力、この力こそ日蓮大聖人の大生命哲学です。それを、ただ、人は既成の宗教観で見て、批判しているにすぎない。とんでもないことです。もし、仮にマルクスほどの達人であったら、この大聖人の生命哲学を知ったとすると、必ず、ひざまずいて教えを請うにちがいない。まったく、利口ぶった人間には、いやになるよ」
 幹部たちは、耳を澄ましてはいる。しかし、戸田が何を言おうとしているのか、さっぱり理解できなかった。彼らが、戸田の思想を、いくらかでも現実のものとして理解するにいたるまでには、なお多くの年月をかけた成熟が必要だったのである。

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