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日蓮大聖人・池田大作

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小説「人間革命」3-4巻 (池田大作全集第145巻)

前後
1  戸田城聖の人間的魅力は、はなはだ独特なものであった。新しい会員が、ひとたび彼に接すると、たとえ信心のことは何もわからなくても、彼の人間としての魅力に引かれ、終生、忘れ得ぬ感銘を、それぞれいだくのであった。
 彼は、人間操作の技術などを用いたのではない。およそ、その反対であった。無策で、ざっくばらんで、誰であろうと差別をつけなかった。
 世間的な地位の格差など、全く問題ではなかった。仕事がなく、生活苦にあえぐ壮年であろうが、家庭不和に泣く婦人であろうが、それぞれの宿命のもつ悲しさに、彼は誰よりも同情して、わが事として考えるのであった。
 人びとの不幸を黙視することのできない彼は、熱情をもって、彼らに、それぞれの三世にわたる宿命の厳しさを見つめることを教え、御本尊の無量の功力を力強く説いた。そして、信力を奮い起こさせて、絶望のなかから立ち上がらせていったのである。
 この彼の活動を見て、ある人は、あれは戸田の性分であるとか、信者をつくって事業に利用するためだとか、あるいは、好んで人生相談をしているなどと、陰口をたたいていた。
 しかし彼は、それらの悪口など眼中になかった。彼の人間性は、世間的な寛容とか襟度などという概念を、はるかに超えたところに立脚していたからである。
 彼は、接する老若男女に対して、なんの分け隔てもしなかった。誰人であろうと、まさしく一個の人間として、遇していたのである。そこには、虚偽も、欺瞞も、虚飾も、入る隙はまったくなかった。
 彼は、前科何犯であると告白する人の罪は、決して責めなかった。しかし、命をすり減らしての真剣な指導に、虚栄や追従、お世辞や傲慢さで応える者を見る時は、それを許さず、突如、烈火のごとく怒りだす。そして、全精魂をもって、その虚栄と傲慢を叩き出すのであった。不真面目な、ずるい妥協は、絶対にしなかった。
 こうした時の彼の豹変を、人びとは、理解に苦しむことが多かったようである。それは、誰よりも鋭敏に、虚偽をかぎ分ける彼の心の働きを、人びとが容易に気づかなかったからではあるまいか。
 ″こんなことに、なぜ、あんなに怒るのであろうか″と疑問をもった人びとも、後日、叱られた人の身の上に起きた現象を知って、初めて、戸田の怒りは当然であったと納得することが多かった。そして、彼の怒りが、慈愛から発したものであったことを知って、驚くのが常であった。
 彼の振る舞いのさまざまな様相は、まさに仏法に説く「無作」というよりほかになかった。そこには、世間的な通念では律しきれぬものを含んでいたのである。
 多くの人びとにとって、ある時は、最も近寄りがたい戸田城聖であり、ある時は、この世の誰よりも、一切を包容してくれる戸田城聖であった。それは、戸田の心が、その時その時で、目まぐるしく変転したからではない。戸田に接する人びとの心の状態に、戸田は鋭敏に反応したのだ。
 傲慢な心を見るや、戸田の口からは激しい叱責が発せられたし、絶望と悲嘆に暮れる人を見れば、慈愛の言葉で温かくつつんだ。いわば、戸田は鏡であった。
 しかし人びとは、そのことには、少しも気づかなかった。そして、気づかぬばかりか、逆に、彼の″豹変″に、呆気にとられていたのである。
 彼と面識をもった多くの人びとは、その強烈な第一印象を、いつまでも忘れることがなかった。その折、彼らの心に映じた戸田城聖の像は、人生のさまざまな浮沈の時にも、常に色あせることなく、彼の没後、年月を経ても、ますます鮮明さを増して、脳裏に浮かんでくるのであった。
 それは、戸田のもつ独特な魅力の源泉が、全人類の幸福を願う、彼の希有な信心の確信の深さにあり、人びとの心に、それが永遠に生きているからである。
2  東京の下町・小岩方面の新しい入会者を、次々と戸田の前に連れてきたのは、泉田夫妻であった。この夫妻は、小岩の焼け残ったアパートの狭い一室に住んでいた。
 当時は、はなはだしい住宅難で、その深刻さは、悲惨というほかはなかった。屋根さえあれば上等というのが、住居の通念といえた時代でもある。それにしても、彼らの住むアパートは、荒れすぎていたようだ。街の人びとは、″ぼろアパート″の愛称で呼んでいたのである。
 この一室からの唱題の声は、隣近所に、さまざまな物議をかもしたものの、折伏の火の手となっていったことには間違いない。泉田夫妻の歓喜の姿は、たちまちアパートの住人十七世帯のうち、十五世帯までを入会させた。一波が万波を呼ぶように、小岩方面の折伏の展開は、ようやく端緒を開いていった。
 彼ら夫妻は、入会後七年たっていた。戦中戦後を通じて、この七年は、まさに激動の時代であったが、彼らの人生もまた、明日をも知れぬ極度の不安な状態にさらされていた。だが、七年たった時、わが身を振り返ってみれば、まさしく「現当二世」の証拠を、いやでも認めざるを得なかった。二人は、戸田の膝下で、歓喜に燃えて信心に励んでいたのである。
3  泉田弘の前半生の不幸は、二歳の時、母との死別から始まった。伊豆半島の山奥にあった、禅寺の檀家総代の息子であった彼は、祖父母の手で育てられた。婿養子であった父は、弘が成長し、泉田家を継げることを見届け、他家に婿入りした。弘が、二十歳になった時、祖父母も、相次いで他界した。残されたものは、祖父が他人の保証人になったための莫大な借金だけであった。家屋、家財一切が、その返済にあてられ、彼に残ったものは、健康に自信のある肉体だけであった。
 相次ぐ不運は、彼に、一切をあきらめることを教えた。むろん誰もが、過去に人生や社会の矛盾を感じた経験はあろう。その結果、すべてを宿命とあきらめてしまい、ますます不幸になっていく人はあまりにも多いが、泉田の場合は、それが極端であった。
 泉田弘は、軍隊に入った。彼は、忠勇無比の軍人ではなかった。平凡な一下士官にすぎない。どちらかといえば、軍人が嫌いであった。しかし、職業軍人になれば生活には困らない。これといった特技もない泉田は、そのまま職業軍人の道を選ぶしかなかった。いつも演習を嫌った泉田は、憲兵を志願し、憲兵の酷薄さを嫌うと、今度は経理部の仕事に籍を得た。軍人の天下の時代である。性格の問題はともあれ、彼の人生にも、ようやく幸運が微笑みかけてきたように見えた。
 彼は、生活の設計を夢見て、いろいろ考え始めた。そして結婚した。男の子が生まれたが、生後四日で死んでいる。さらに妻の大病と入院生活で、彼の数年の貯蓄は、ことごとく消えていった。間もなく女の子が生まれたが、思いもかけず脳性まひであった。彼は愕然とした。
 当時、彼は親戚から折伏されていたが、神も仏もあるものかと腹を立てていた。世の中は、なるようにしかならぬという彼の人生哲学は、発育が遅れ、笑いもしゃべりもしないわが子を前にして、全く無力であった。
 彼は、勧められるままに、暗澹たる思いで牧口常三郎に会った。
 牧口は、彼の話を聞き、ただ一言、きっぱりと言った。
 「人生、あきらめなくてよいことが、ここに、たった一つだけあるのです」
 泉田弘は、入会した。一九四〇年(昭和十五年)、彼は二十九歳である。その時、既に、彼の頭髪はきれいになくなっていた。帝国陸軍の非衛生的な制帽のせいであったと、彼は笑う。
 彼の入会は、大聖人の仏法の正しさを知ったからではない。わが子のためなら、いいと思うことは、なんでも手を尽くそうと考えたからである。この世の不運にあきらめていた彼は、後悔をしないために入会したのであった。
 以来、牧口の人格にひかれて、たびたび指導を受ける機会を得ていた。病める子は、ほとんど変化がなかった。だが、彼の信心の実践は、大きな飛躍をしていった。
 ″この子が、万一、死ぬようなことになったとしても、俺は断じて退転はすまい″
 入会二年目のことであった。彼が、心からそう決心した時、その子は安らかに息を引き取った。苦悶のない顔であった。不自由だった手足は、鎖を解かれたように、父の手で初めて自由自在に動いたのである。口もとに微笑みさえ浮かべている小さな亡骸なきがらを見た時、泉田弘は、大きな体を震わせて、大粒の涙をこぼしながら言った
 「俺のような業の深い人間を信心させるために、お前は生まれてきたのか。二年も反対した、ろくでなしの俺に、御本尊のなんたるかを教え、この愚かな父を救うために、お前は、小さい体で、今日まで苦しんでくれたのか。ああ、悪かった。ありがとう」
 死んだわが子に頭を下げ、感謝した彼は、心から唱題したのであった。
 ″つい先刻まで、ここに、小さな、かわいいわが子の生命が厳然とあった。いったい、この生命は、死後、どこに、どうなっていくのだろう……″
 彼は、感傷にふけるばかりでなく、真剣に考えるようになった。
 ″この問題が、政治や科学や、教育の分野では解決できないことは、わかっている。人生にとって最大事の、この根本問題を解決していくのは、どうしても哲学以外にはない……″
 彼は、牧口常三郎が、「日蓮大聖人の仏法は、生命を説ききった偉大な哲学である」と言ったことがあるのを思い出した。そして、それを勉強し、実践して、自分なりに結論を出したいと決意を固めた。
 泉田は、わが生涯を振り返った。
 ″そうだ。わかるような気がする。二歳で母と死別したことも、祖父が借金を残して死んだことも、天涯の孤児となったのも、心ならずも職業軍人の道を選ばねばならなくなったことも、二児を失ったことも、俺のような業の深い者には、正法に巡り合うための必須条件であったんだな。……わが子のためにも、御法のお使いを喜んでさせていただこう″
 彼は、この時、妻と共に、ひそかに誓った。もはや愚痴はなかった。四二年(同十七年)九月のことである。
4  太平洋戦争は、開戦から既に一年になろうとしていた。緒戦の大勝利は、わずか半年しか続かず、この年の六月、ミッドウェー海鮮の大敗北から、攻勢は早くも守勢に変わり、いったん占領した南太平洋の島々も、日に日に制空権、制海権を奪われていった。
 八月には、米軍のガダルカナル反攻が始まった。日本軍も兵力の増強派遣が焦眉の急となった。増援軍の輸送船団は、大挙して南太平洋に向かったが、アメリカ艦隊の攻撃は、しばしば輸送船団に壊滅的な打撃を与えていた。
 口から口へ伝わって内地に届く話は、一昼夜、南海の洋上を漂い、やっと無人島にたどり着いて助かったとか、上陸寸前に撃沈され、重油の海を四キロも泳いで九死に一生を得たとかいうものが多かった。第一線の激闘とはいえ、はなはだ悲観すべき情報ばかりである。
 折も折、四二年(同十七年)の暮れも迫ったころ、泉田弘にも出動命令が下った。行く先は、最前線のニューギニアである。
 彼は、大きなため息をついた。
 ″内地には、数百万の将兵がいるというのに、なぜ、自分の部隊だけが激戦地に行かなければならぬのか。信心して二年半たった。わが子は死に、自分も生還は難しい戦地へ行かねばならないとは……″
 彼は慨然として、ひとたびは信心を疑ったが、また信心を奮い立たせるより仕方がなかった。
 「からんは不思議わるからんは一定とをもへ……」
 大聖人の御言葉が、彼の索漠とした心に蘇った。宿命打破のために、くぐり抜けていかなければならない試練が、どんなに厳しいかを、その御金言は示しているように感じられた。
 彼は、御本尊にひれ伏すようにして願った。
 「御本尊様、私はニューギニアにまいります。このところ、九死に一生を得た話ばかり聞きますが、私は、そんな、いやな目に遭いたくございません。御本尊様、どうか平穏無事に行って、平穏無事に還してください。お願いです」
 確かに、虫のよい願いともいえる。はなはだ頼りのない、弱虫の軍人にも見える。しかし、常人、凡夫であれば、何よりも恐ろしいのは、わが身の死することではなかろうか。してみれば、真実の人間の叫びともいえる。いずれにせよ、泉田にとっての、必死の願いであったことに間違いない。それは駄々っ子の願いにも等しかったが、彼の祈りは純粋であった。
 お守り御本尊を受持し、数珠をポケットにしのばせた帝国軍人は、四三年(同十八年)二月三日、広島の宇品港を出帆していった。
 その当時、輸送船団は、敵の潜水艦が出没しているため、ニューギニアへの直航は、既に不可能であった。まず台湾に寄り、制海権の残っている南シナ海をシンガポールに向かい、そして、東南アジアの島伝いに大きく迂回していった。実に危険な、長い航路である。そのたびに、大小さまざまな船にも乗り換えさせられた。
 泉田弘は、船倉にあろうと、また誰人が奇異の目で見ようとも、朝晩の勤行だけは欠かさなかった。常に死と直面している兵士たちは、皆、信仰心が厚くなっている。真面目に勤行する彼の態度には、皆、好意をもっていた。
 二月、泉田たちは、シンガポールから、ジャワ島のスラバヤに渡り、しばらく待機した。その後、セラム島に向かった。セラム島は、オランダ領西イリアンの島の一つである。そのセラムからまた、すぐ側のアンボン島に渡り、そとで数カ月、待機しなければならなかった。南太平洋の最前線ガダルカナル島からの撤退が、この二月一日から開始されていたからである。これは、日本軍の最初の退却であったが、軍の報道は「転進」と言っていた。
 勝てるはずのない敵と戦って、制空・制海権を失ってしまった軍隊ほど哀れなものはない。完全に補給路を断たれて、南海の孤島に駐留する兵士たちの心もまた、不安と焦りで揺れ動いていた。
 ガダルカナルの日本軍は、餓死を待つより仕方がなかった。大部隊であればあるほど、事態は深刻であり、悲惨であった。撤退は、大きな犠牲をともなったが、自滅だけは免れた。
 だが、敵艦隊の跳梁は、泉田の部隊を、アンポン島に釘づけにしてしまった。対岸のセラム島のアマハイに最初に空襲があったのは、四月二十九日の天長節、つまり時の天皇の誕生日であった。
 アンボン島での待機は長かった。そして、目的地の、西ニューギニアの西端ソロンに着いた時は、既に十月になっていた。日本を出発して、八カ月を経ているわけである。だが、彼は一度も敵の攻撃を受けていない。
 この間に、連合艦隊司令長官・山本五十六は、四月、南太平洋の空で戦死している。五月には、北太平洋のアッツ島で守備隊が玉砕し、十一月には、中部太平洋のタラワ、マキン両島の守備隊が玉砕している。また、十二月には、学徒が一斉に出陣するまでになっていた。
 泉田は知らなかったが、まさしく敗戦の憂色が濃くなりつつあったのである。
5  行き着いた赤道直下のソロンでは、部隊は何もすることがなかった。進むことも、退くこともできない。月々細くなっていく補給路を頼りに、敵の反攻を待っているだけであった。
 泉田弘は、時たま見張りの櫓に上り、はるか彼方の日本の方角に向かって、一人、心ゆくまで、題目をあげたりしていた。彼は、日本軍の勝利を願っていたのでもなく、世界の平和を念じていたのでもない。ただ、自己の身の安全を期するために、唱題に励んでいたのである。
 泉田たちの行き着いたソロンは、比較的無事であったが、隣接の東ニューギニアの山中では、死闘が繰り返されていた。南太平洋の島々に駐留する日本軍は、連日連夜の熾烈な空襲に悩まされ、苦しい飢餓との戦いに疲れきっていた。開戦以来、二年を過ぎると、物量の格差、すなわち船も航空機も比較にならぬ敵の優勢さに、手も足も出なくなっていたのである。
 ソロンに駐留して一年たった四四年(同十九年)十月、突然、泉田弘憲兵准尉の分遣隊は、アンボン島へ引き揚げよとの命令を受けた。
 彼は、わが耳を疑った。
 ″いったい、これはなんだっていうのだろうか。
 敵の空襲と艦砲射撃が確実に予想されるのに、この転勤命令は、どういうことなのか。ここ、ニューギニアならば、たとえ艦砲射撃にあっても、ジヤングルの奥深く逃げ延びることもできる。アンボン島へ行ったら、淡路島のような、あんな小さな島では、艦砲射撃を食らったら、いっぺんに殲滅されるに決まっている。とうとう、死地に赴かねばならないのか″
 彼は、はなはだ不満であった。そして、諸天の加護を疑った。
 ″俺は謗法したつもりはない。だのに……″
 だが彼は、はっと気づいた。
 ″今、疑いをもっている。これこそ不信謗法ではなかろうか。大聖人が、譬えとして用いられた「うるし千ばいに蟹の足一つ」とは、このことだろう。いけない、いけない。俺は、今、何もできない身だ。だが、御本尊を疑わないことはできる。俺の信心としてできることは、せめて、そのことだけではないか″
 赤道直下の日盛りであったが、彼は、一瞬、ひんやりとした感覚にとらわれた。
 彼は小さな発動機船を雇い、夜を待って、五、六人で、ソロンを出発した。実に心細かった。発見されれば機銃掃射に遭って、死は、当然、免れない。小舟は岸伝いに進み、昼は島陰に隠れ、また、夜になると、少しずつ前進していった。南海の夜の海は、夜光虫がきれいである。しかし、彼には、それを楽しむ余裕などなかった。
 この哀れな航海は、セラム島の岩陰に無事たどり着くまでに、数日かかった。やがて、転勤命令の通り、アンボン島に落ち着いたものの、なぜ、転勤となったかは、依然として不可解な謎であった。
 四四年の七月には、サイパン島守備隊が玉砕した。この時には、日米の戦線は、既に南太平洋のブーゲンビル島や、ニューブリテン島、ニューギニアの日本守備隊の頭上を越えて、はるかに本土に近い一線に移っていた。南海の諸島の日本軍は、まさしく大洋の孤児とされてしまったわけだ。
 空には、敵機が、わがもの顔に飛び回り、敵艦は、日本軍の本土との補給線を完全に制圧していた。そのため、島々の守備隊は、農耕部隊となって、自給自足に専念するほかはなかった。そのなかで、空襲と艦砲射撃は、定期便のように繰り返されていた。守備隊員は皆、悔しがったが、どうすることもできなかった。彼らは、そのうち飢餓と極度の栄養失調で、バタバタと倒れていった。完全に、日本軍首脳部の戦略の誤算であった。
 一方、いわゆる″飛び石作戦″をとった連合国軍は、同年十月には、レイテ島に上陸し、翌年一月には、ルソン島への上陸に成功している。
 主戦場は、南方の島から北へと移っていった。フィリピン全体の制圧も時間の問題となってきた。そこで、刻々と日本本土に迫る戦線の移動から、日本の軍部は、本土決戦を呼号するにいたったのである。
 四五年(同二十年)二月ごろから、米軍機の日本本土への本格的な空襲が始まっていった。内地の各都市は、次々と焼かれて、数百万の罹災者を出した。三月には、硫黄島の守備隊が玉砕している。五月には、ドイツが無条件降伏し、六月には、沖縄守備隊が壊滅させられた。
 断末魔の様相が続くうちに、八月の広島、長崎への原爆投下となり、八月十五日の終戦となったのであった。
 泉田弘もまた、軍人として、敗戦の動揺のなかに巻き込まれた。連合国軍の軍使が白旗を掲げて、アンボン島にやってきた。その白旗を見た島民は、日本軍が勝ったと思ったようだ。
6  島の海軍と陸軍は、和平派と抗戦派とに分かれて争ったが、結局、軍使を出して降伏した。憲兵准尉・泉田は、陸海軍の将校と共に抑留された。捕虜として、当然、苦しい目に遭うだろうと思われたが、泉田は個室に入れられ、ベッドも与えられ、予想外の待遇であった。
 彼が、アメリカのリバティ船に乗せられ、和歌山の田辺港に復員したのは、四六年(同二十一年)六月のことであった。
 下船すると、DDTで消毒され、旧海軍の建物に連れて行かれた。そこで風呂に入り、検疫をすませ、またDDTをかけられた。そして、金三百円をもらって廊下に出た時、彼は、思いがけない人物に出会った。
 「泉田准尉殿ではありませんか」
 日に焼けて、痩せこけた一人の兵士であった。
 「泉田ですが、あなたは?」
 彼は、全く思い出せない。
 「ソロンでお世話になった山際一等兵であります」
 一等兵は、懐かしげに笑う。泉田は、その笑顔に見覚えがあった。だが、痩せこけた兵士・山際の顔は、別人の形相というほかはない。泉田も痩せていたが、山際は、彼の頭ですぐわかったと笑った。ともあれ、二人は生還の喜びを分かち合い、戦地で別れて以来の話が弾んでいった。
 「泉田准尉殿が、アンボンに向かった翌月のことです。米軍機が不時着して、十二人の搭乗員を捕まえました。抑留して、本隊からの命令を待っていましたが、いつまでたっても迎えに来ない。そのうちに、とうとう終戦になってしまいました。
 今度は、こちらが捕虜になる番です。抑留中の虐待がわかると面倒だというので、憲兵隊は、無人島に十二人を連れて行って、処刑してしまったのです。
 それがどういうわけか、連合国軍に発覚し、責任者たちは、戦犯として連れていかれました。おそらく軍事裁判にかかり、死刑でしょう」
 泉田は、「あっ」と声をのみ、背筋に悪寒が走るのを覚えた。わずか一カ月の違いである。そしてまた、わずか一片の命令の違いである。人間の生死を左右するほどの決定が、わずか一月の違いで下されたことに、彼は、運命の不思議さを感じないわけにはいられなかった。
 もし泉田が、そのままソロンにいたら、彼こそ捕虜虐待の責任者となったにちがいない。あの転勤命令への疑惑は、一年八カ月たって、初めて氷解した。内地に帰還した第一歩に、それを聞くということも偶然ではあるまい。彼は、仏恩に身震いしながら、諸天の加護を痛感した。そして、浅はかであった己の信心を深く恥じた。
7  彼は、その足で汽車に乗って、まず、日蓮正宗の総本山である富士の大石寺へと向かったのである。
 東京は戦災に遭い、妻の行方さえもわからなかった。大石寺に行けば、妻だけでなく、牧口常三郎をはじめ、創価教育学会の会員たちの消息もわかるのではないかと、彼は思ったのだ。
 復員姿の泉田は、いそいそと総本山の石畳を踏みながら、理境坊に入った。
 住職は珍客を歓待してくれた。しかし泉田は、ここで客殿の焼亡と、牧口の牢死を初めて知り、愕然としたのであった。
 彼は、揺らぐロウソクの火のなかに御本尊を拝し、事なく復員したことを報告した。思えば出征前の彼の祈りは、そのまま、叶えられていたのである。彼は、この間、戦死者一人も見ず、戦傷者一人すら見なかった。また、彼は、弾丸の一発も撃つことなく終わっている。彼の滂沱と流れる熱い涙は、どどまるところを知らなかった。
 泉田弘は、一週間ほど、総本山で麦の収穫の手伝いをしていた。初めは妻の住所もわからなかったが、そのうちに総本山の参詣者名簿に載った住所宛に電報を打って、妻と再会することができた。
 泉田ためは、小岩のアパートにいて、町会事務所に勤めていた。彼ら二人は、さっそく、西神田の日本正学館に戸田理事長を訪ねた。
 泉田を見るなり、戸田は、元気な声で迎えた。
 「よう! 帰ってきたね」
 泉田の数々の話を聞き終わると戸田は、笑いながら言った。
 「南方帰りは、『南方ボケ』などと言われ、調子がおかしい人が多いと聞くが、君はどうだね?」
 「この通り、至極、健全です。戦地では、題目をあげ通しておりました」
 頭をつるりとなでながら答える泉田に、戸田は、重ねて言った。
 「そうか、健康で、こうして生きていることが、最大の財産だ。御本尊から頂戴したその体で、大いに社会に貢献するんだな」
 「はい!」
 「国が破れようと、職を失おうと、あげきった題目の福運だけは厳然と残る。今のうちにゆっくり休み、また互いに頑張ろうよ」
 「よろしく、お願いします」
 泉田夫妻は、その足で恩師の牧口宅に向かった。父の愛を知らない泉田は、牧口という父を失ったことを、霊前で嘆き、心で泣いていた。
8  彼は、軍職を失ったことに、なんの未練もなかった。しかし、復員兵の彼には、世間の門は狭く、しばらく辛い思いをした。少しばかりの貯蓄も、預金封鎖で、月三百円の引き出ししかできない。それも六カ月先になれば、底をつくことがわかっている。彼は、狭い部屋に大きな体をもてあまし、暗い前途を思いつつ、朝晩の勤行に懸命に励んでいた。
 そのうちに泉田は、御本尊に命を助けてもらいながら、今度は、生活が苦しいといって、ロウソクや線香まで、勤行の際に節約するようになっていた自分に気がついた。そして、その浅ましい自分の根性を情けなく思った。
 ″貧すれば鈍するとは、この俺のことだ。貧之がなんだ。たとえ三度の飯が二度になっても、いや、このアパートを追い出されたとしても、仏法のためには、何も惜しむまい″
 彼が、再び信心の覚悟に徹した時は、既に秋になっていた。四六年(同二十一年)十一月、彼は、戸田城聖の推薦で、ある新聞社に就職した。小規模な新聞社とはいえ、彼は、いきなり経理部長の辞令を受けたのである。
 思いがけない就職だけでもありがたかったが、この役職には、本当に驚いた。当時、職業軍人は、引揚援護局や、GHQ(連合国軍総司令部)に勤務する人を除いて、すべて公職追放令の適用を受けなければなら、なかった時代である。軍人の時に経理に携わっていたことが、幸いしたのであろう。経理部長として雇われたことは、不可思議なまでの幸運といわなければならなかった。
 このころから、泉田夫妻の生活は、歓喜に満ちた毎日に変わっていった。彼らには、どのような世の中になっても、信心ある者には恐れるものはない、という確信が湧いてきたのである。それまで、生活苦から、いつも気まずい夫婦喧嘩となり、それが近所の評判になっていた。その後も、夫婦喧嘩は続いたが、どちらかが信心に熱心でないといって、言い争う程度のものに変わっていた。
 彼らは、喧嘩をしながらも、アパートの住民を次々に折伏していった。そして、彼ら夫婦の隣室の若夫婦が、猛烈な反対をして、わめき散らすたびに、泉田の給料は、インフレの速度よりも、早めに昇給していったのである。さらに、町内に不幸な人びとがいると聞くたびに、折伏の手を差し伸べていった。
 また、泉田によって折伏された新入会者も、それぞれの友人、知人を、泉田のアパートに連れて来た。枝から枝が伸びて、小岩方面の学会の幹は、急速に大木の観を呈してきた。信心の歓喜が、折伏を容易にしていったのである。
9  戦後、いち早く学会再建に馳せ参じた清原かつは、一九四七年(昭和二十二年)になると、杉並の、ある小学校に就職することになった。
 厳しい冬も去った三月のころである。就職前のある日、清原かつは、思い詰めて、戸田にわが身の不幸を聞いてもらおうと訪ねた。
 「先生、私は入会して七年になりますが、少しも幸福になれません。このごろ、私ほど不幸な女はないと思えて仕方がないのです」
 若い女性のことである。悩みは数々あった。一家は、兄弟姉妹とも最高学府を卒業しており、一見、誰が見ても理想的な中流以上の家庭である。彼女自身も、戦前、早くから、牧口常三郎の独創的な教育論「創価教育学」に共感し、児童に人気のある有能な教師となっていた。しかし、一歩深く自己の境涯を考えてみると、不幸であるように思えてならなかった。
 まず、気の強い妹と、なんとしても気が合わないという家庭的な悩みがあった。そのうえ、彼女は胸を病んでいた。不愉快な家庭生活から脱出しようと結婚を考えたが、その結婚の夢にも破れた。そんなことから、感傷的になり、悲しみに沈む日々が多くなったのである。自身の、女性としての前途が、灰色にしか見えない。彼女は、学んだ仏法の鏡に照らしてみて、自己の罪業の深さに悩んだ。そして、それを戸田に訴えたのである。
 戸田は、いつになく厳しい顔になった。
 「愚痴だ。この信心をなんだと思っている? 楽な暮らしがしたいのか。世間に、ちやほやされたいのか。そんな、かたちだけの幸福にのみ憧れて信心したのか。
 この大聖人の仏法の究極の目的は、永遠の生命を悟ることだ。生命というものが、永遠であるということを、わが身で体得することだ。これを絶対的幸福という。この幸福は、永遠に続くものであり、崩れることは決してない。その確立のために信心していくんです。目的観の低いことが、今の君の不幸なんだよ」
 彼女は、戸田を見つめた。その目は涙に潤んでいた。だが、その視線を戸田からそらそうとはしなかった。
 「その愚痴の心が、君のすべてを殺している。日本一の女性になりなさい。必ずなれるんだよ」
 清原は、泣きながら、にっこり笑った。
 彼女は、戸田に指摘されて、自分の悩みが、単なる愚痴にすぎなかったことに気がついた。そして、もう決して愚痴を言うまいと思った。
 人間として、愚痴を言わないということは、革命的なことであろう。それを彼女は、やり遂げようと決意したのである。愚痴を己の心から叩き出そうと心に決めた。そう決めると、なんとなく身も軽くなったようであった。もう、くよくよと思い煩うことはないのだとわかると、歓喜が込み上げてくるのを覚えた。
 彼女の心のなかに、たくましい、輝くような生命が、かすかに浮かんできた。それは彼女にとって、信心の第二期、第二の人生の出発ともいうべきものであった。
10  彼女は、心機一転し、在職している小学校の教員である友人に仏法の話をした。そのなかに二人の女性教員がいた。一人は大島英子、他の一人は入江千佐子である。清原は、その二人を戸田城聖に会わせようと努力し、遂に実現の日が来た。
 戸田が、懇切に話す価値論や生命論の話を聞いて、入江は、すぐ入会を決意した。大島は、なんとなく暗い表情のままに、その日は帰ってしまった。
 清原は、自分の紹介による入江千佐子の入会を、新しい妹を得たように喜び、信心指導に熱中した。
 当時の教員の生活は、俸給生活者のなかで、最も苦しかったといえるだろう。インフレ高進のため、生産部門に属する俸給生活者は、生産品価格の値上がりから、昇給のチャンスをつかんだ。しかし、官公庁に勤務する人びとは、そうした機会にも恵まれない、哀れな立場にあった。なかでも、教育関係者が最も大変であった。
 俗に、明治開国以来、いつも、いちばん最後になって上がるのが、教育関係の俸給だといわれていた。終戦後の国民生活のなかで、インフレの最も深刻な打撃を受けたのも、この「先生」たちであった。
 教育者が、授業を放棄してまで組合活動に熱中していったのも、餓死を防ぐためには、やむを得ないことであった。そして、この活動は、瞬く間に全国的に波及していったのである。先生たちもかわいそうだが、次代を担うべき子どもたちが、満足に教育を受けられないことも哀れであった。
 これらの暗い戦いのデモのなかで、組合員の清原かつ、入江千佐子の朗らかさは、際立っていた。
 四七年(同二十二年)十一月のある日、教職員の大会が、皇居前広場で開催されることになった。午前中の授業を早々と切り上げた先生たちは、それぞれ皇居前へと急いでいた。
 清原の学校の教職員も、一団となって電車に乗り込んでいった。生活の疲れのためか、なんとなく、皆、暗い感じである。だが、清原と入江は、至極、楽しそうに、始終、話し合っていた。
 同僚の一人、大島英子は、隅の座席から、二人の様子を羨望の眼差しをもって眺めていたが、彼女らの楽しそうな会話に、何か心を引かれているようであった。
 彼女たちの一団は、皇居前広場に着いた。既に多数の教職員が集まっている。この広場は、かつて帝国軍隊の行進したところである。時代が変わり、今は、教職員の集合決起大会の会場であった。
 杉並グループの教員は、松林の一隅の芝生に腰を下ろした。その時も、愉快そうに談笑する清原と入江の姿を見て、大島は、思わず側に寄って行った。
 そして三人の若い女性は、集会を忘れたように話し込んでしまった。清原は、真の信心が、いかに生活の源泉となるかを主張していた。
 大会は、例のごとく決議文を読み上げ、宣言し、文部省へのデモ行進に移っていくところである。この時、慌てて三人は、動きだす隊列の中へ駆けだしていった。
 行列の中には、深刻な表情の人もいた。面白半分の姿の人も見える。無気力な姿で歩く人もいれば、元気よく気勢を上げながら行進する人もいた。だが、教員としての誇りに満ちた、力ある歩みをしている人は少なかった。
 デモがあった翌日の夜、清原の家で座談会があった。女性ばかりの五、六人の会合である。大島も、そのなかの一人に入っていた。みんなが、代わる代わる語る体験を聞き、不幸というものは、実にさまざまであると知った。最後に、彼女も自分の家庭の、どうしょうもない恥と不幸を語ってしまった。
11  大島は幼くして母を亡くし、父親は再婚した。その父も早世し、あとには、継母と彼女、そして妹、弟が残されたが、継母と子どもたちとの確執が絶えなかったのである。
 彼女は、そうした家庭の事情など、今まで、人に話すのがいやで仕方なかった。だが、知らない間に、人びとの真実の情に打たれて反応したとでもいうべきであろうか。
 話を聞いた人たちは、誰も軽蔑しなかった。いや、それどころか、口をそろえて彼女を励ますのだった。
 「それが見事に解決するのよ。あなただって、幸福になる権利があるわ」
 その温かさに心を打たれた大島英子は、この日、入会を決意した。
 英子が入会して間もなく、英子たちが家を出るか、継母が家を出るかという、破滅的な事態にいたった。戦後の生活苦の最中である。どうすればよいのか、若い英子の手にあまる難問であった。
 彼女にとって、清原かつが、唯一の頼りになっていた。ある夜、彼女は、清原にすべてを語った。清原は、英子の話を聞くと、すぐに戸田のいる日本正学館に連れて行った。停電の真っ最中で、中は真っ暗であったが、二階では、にぎやかに人の声がしている。小柄な清原は、長身の英子の手を取って、狭い階段をコトコト上っていった。
 二階には、戸田城聖が藤イスに腰かけ、数人の人びとと談笑していた。太いロウソクが一本、机の上に立ち、その炎は揺らいで、壁や天井に大きな人影をつくっていた。室内には、どことなく和やかさが漂っている感じである。
 清原かつは、戸田に、大島英子の入会の経過を説明した。
 それを受けて、英子は、小さな声で、事の顛末を語り始めた。
 だが、感極まってか、英子は泣き崩れてしまった。
 「わかった、わかった……」
 戸田は、わが娘を諭すように、穏やかに話し始めた。周りの人びとも、英子にすっかり同情して、目には涙を浮かべ、戸田の口元を、ただ見つめていた。
 「案外、早く解決がつくだろう。今の悩みは簡単ともいえる。私は、そのお母さんが悪いというのでもない。あなた方が悪いというのでもない。これには、当然こうなる事情はあろう。だが、それを、今、追及しても始まらない。現実問題、それらの理屈は別として、あなたには御本尊があるはずだ。ひとたび御本尊を受持し、実践するあなたは、仏です。人を憎み、泣いてばかりいる仏などいません」
 強い言葉であった。彼女は、ロウソクの光に揺らぐ戸田の顔を仰いだ。
 「あなたは、もはや大聖人の弟子です。仏様の子どもです。日蓮大聖人は、頸の座にあっても、佐渡の雪のなかで凍えても、『我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ』と、国のため、民衆のために、あれほど戦われた。
 あなたも、少なくとも勇気ある信心で、一家の柱とならなくてはならない。めそめそしているから柱が腐ってしまうんだ。一家の柱になっているか、いないか――その自覚と責任があなたにはない。ふらふらしているから苦悩が増してしまう。今日から強く自覚して立ちなさい」
 「わかりました」
 英子は、素直に頷いたものの、さて、どうしたらいいか、わからない。清原かつの口添えを期待したが、誰も押し黙っている。彼女は、口ごもりながら一言った。
 「母とは、この際、どうしても別れたいのですが……」
 「方法の問題か。方法も大切だが、もう一歩奥にあるものを考えなければいけない。それは、方法を最大限に生かしきっていくものは、信心であるということです。信心が強盛になって、強い自分に立ち返り、女王のような気位をもって、体当たりで問題の解決に取り組んでいくことだ。やってごらん。
 ただし、感情的になっては負けだよ。あくまで冷静に処理し、なさい。後は自分たちの幸福のために、御本尊に願いきっていくことだ。一人が大事なんだよ。その一人の人の信心によって、みんなが最後は幸せになっていけるんだよ」
 大島は、それから真剣に題目をあげるようになった。不安が、まず消えた。そして、話し合いの末に、事態は急転直下、見事解決したのである。二十日ほどして、継母は出て行くことになった。
 大島たちの暮らしは貧しかったが、蘇生の思いに歓喜した。やっと暗雲が晴れ渡ったのである。小さな問題の解決といえばそれまでだが、彼女にとっては、何よりも切実な問題であった。彼女は、この解決を見て、世の中の一切の不幸は、この仏法によって解決することができると奮い立った。
 清原の行くところ、入江と大島が、必ず左右にいた。講義にも、座談会にも、折伏にも、三人は一体となって活動し始めた。学会の同志たちは、意気軒昂とした三人を、いつからとなく、「杉並の三本杉」と呼ぶようになった。
 やがて、杉並の「三本杉」は、求道心をたぎらせ、学会の大地に深く根を張りながら、大きく枝を伸ばし、葉を広げていった。
12  この「三本杉」と好対照をなしていたのが、蒲田支部の「三羽鳥」――原山幸一、小西武雄、関久男の三人であった。そろって理事の任命を受け、戸田の指示に従って、各所の座談会や折伏、指導を、毎日、欠かすことがなかった。
 蒲田方面の焼け残った酒田たけの家と、三川英子の家は、座談会場として、まことに好都合であった。交通の便も、座敷の広さも、拠点としてふさわしかった。折伏活動は、全都にわたって伸び、京浜方面はもちろん、千葉方面の浦安辺りまで、小さい地方拠点をつくっていた。男女の青年部員が、いちばん多く育ったのも蒲田支部であった。
 神奈川方面には、横浜の鶴見に森川幸二がいた。その長男の森川一正は、市役所に勤めながら、新たな青年部の推進力として、活動を開始していた。さらに千葉方面や仙台方面でも、新しい人材の奮闘が目立っていったのである。
 なお東京では、やがて学会再建の中核になっていった人びとが、多数入会し、牧口時代からの人も、新たな決意で活動を開始した。蒲田の春木洋次夫妻や板見弘次、向島の星山進、城東の臼田政雄夫妻、本郷の佐木一信、築地の大馬勝三夫妻、中野の神田丈治、足立の藤川秀吉夫妻らの、壮年、婦人の人びとが、戸田のもとで正法に目覚め、偉大な信心の力を証明しようと、活躍し始めていたのである。
 一九四八年(昭和二十三年)の春ごろ、学会の総世帯数は、実質五百ぐらいと思われる。記録がないため、明確な数はわからないが、人数にして千二、三百人ぐらいであったろうか。
13  あの山本伸一も、入会以来、講義や座談会にも、たまには顔を出していた。だが彼は、依然として病弱に苦しんでいた。
 彼の舌には、食物の味はなかった。もの憂く、黙り込んで自分の部屋に入り、本を広げたと思うと、胸部の鬱血感に耐えかね、胸をかかえて、ゴロリと横に、なるしかなかった。そして、何もかもいやになり、そのまま動かずにいると、間もなく発汗が始まってくるのであった。首筋に、じっとりと、にじんだ汗が走る。しばらくすると、いつか重い体も、一時的に楽になったりした。
 そうしたなかで、夜遅くスタンドを引き寄せては、むさぼるように、本を読んだ。
 彼はふと、痩せた腕を見た。産毛の先に電灯の光を受けて、キラキラと光る汗の粒があった。
 こうして夜の数時間、彼は、読書をしたり、空想に一人、ふけったりしていた。
 戸田城聖の法華経の講義は、彼にとって大きな驚嘆であった。日蓮大聖人の仏法は、最高の驚異であり、戸田城聖の風貌は、彼の心に不世出の師として焼き付き、鮮明に残っていた。それでありながら、彼は心中深く、どうすることもできない一つの困惑を感じていたのである。
 戸田城聖のもとに、全生涯を創価学会に託することは、目的が偉大であるだけに、将来は大変な苦労となるだろう。やり通せるか、通せないか、そのいずれかである。それを、彼は直覚していた。
 だからこそ、心のなかで精いっぱいの抵抗をしていたのである
 ″逃げ出すなら、今のうちだ。後では取り返しはつかないぞ″
 彼は、時に悶々として逡巡した。しかし、読書や思索において直面するさまざまな難問が、戸田城聖に教えられた大聖人の仏法哲学の片鱗によって、ものの見事に割り切れていることを知り、仏法の真髄の偉大さを、日一日と実感せざるを得なくなっていた。
 彼の病気が、その出方によって、朝、昼、晩と、彼の住む世界を、好悪さまざまに変えるように、彼の予感する未来も、明暗両極のなかで、混沌としていた。だが、二十歳の山本伸一の心と体のなかで、何ものかが、すさまじい勢いで育っていた。それは、誰の注意も引かず、そして孤独な彼自身の気のつくところでもなかった。
 ――山本伸一をはじめ、これら数多くの創価の群像は、ことごとく戸田城聖の掌中にあったのである。
 彼は、群像の一人ひとりを、磨いて、掌中の珠にしようと、ただひたすら心を砕いていた。ある時は、やかましく、あるいは千仭せんじんの谷に落とし、さらに厳しく温かく、辛抱強く訓育していった。彼の掌中から脱落していった人びともあった。だが、掌中に残った人びとは、やがて、それぞれ代えがたい珠となっていったのである。

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