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日蓮大聖人・池田大作

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渦中  

小説「人間革命」3-4巻 (池田大作全集第145巻)

前後
14  一七八九年のフランス革命も、その底流には、絶対君主政体のもとで苦しむ新興市民層の、自由を求める強い自覚が渦を巻いていた。その渦は、やがて地方都市や農村にも広がり、全土に波及していった。ルソー等の自由の思想が、市民のなかに浸透した時、それは激流となり、奔流となって、革命への道をたどったのである。
 一九一七年(大正六年)のロシア革命は、専制政治打倒をめざして立ち上がった、プロレタリア階級の力によるものであった。彼らは、ロシア社会を衰えさせ、腐敗せしめたツァーリズムの専制に対して、共産主義を理想として戦い抜いたのである。
 日本の大改革、いわゆる明治維新は、王政復古と称されるように、フランス革命やロシア革命とは、やや趣が違う。それは、海外列強による支配を恐れた人びとが、幕藩体制を変革して、朝廷による政治を実現し、列強に伍することのできる、富国強兵策による強国をめざそうとするものであった。
 しかし、その変革の主体となった人びとの多くが、下級武士であり、民衆の力が歴史を動かした点においては、両革命と相通じるものがある。これらの革命や改革の底流には、いずれも下から盛り上がった変革への欲求が、バネとしてあったということである。
 このように、時代の変革の底流には、常に民衆のなかに巻き起こる渦がある。時の権力者は、その渦の存在を知ることがなかった。いや、知っていても、手の施しょうがなかったのであろう。彼らは、自己の保身のために眼が閉ざされ、来るべき時代を見通すことができなかった。
 やがて、それは濁流となって渦巻き、激突し、幾百千万もの尊い人命を犠牲にして、変革が断行されていった。これらは、すべて悲惨な流血の歴史であった。
 しかし、われわれのめざす実践は、決して流血をともなう革命ではない。仏法理念に立脚し、あくまで生命の尊厳を基調とする、無血革命であり、平和革命なのである。この理想的な革命こそ、人類が悠久の昔から待ち望んでいたものではなかろうか。
 伊豆をはじめ、都会や農村、漁村に、小さいながらも動き始めたとの渦巻きを、当時は誰も知らなかった。しかし、それが、やがて日本の、アジアの、世界の渦となり、激流となって、世界平和の源泉をなしていくであろうことを、戸田城聖は確信していた。

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