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日蓮大聖人・池田大作

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渦中  

小説「人間革命」3-4巻 (池田大作全集第145巻)

前後
1  戸田城聖の日本正学館は、その後も、高進していくインフレの荒波を受けたが、たび重なる困難を克服しつつ、経営されていた。一瞬の油断も許されない。事業の再開以来三年、軌道に乗ったとはいえ、小舟のような企業である。日本経済の動揺の渦中にいつ沈没するか、わからない状態であった。
 彼の事業内容は、目まぐるしく変転した。最初、算数・物象(物理・化学など)・英語の通信教授で、好調なスタートを切った事業も、やがて用紙や印刷代の日ごとの高騰から、半年の予約が終わるころには、赤字になってしまう始末である。予約が成功し、膨大な予約数をかかえながら、それによって、むしろ経営は、苦境に陥るのをどうすることもできなかった。
 彼は、思案をめぐらして、次々に手を打っていった。
 まず、単行本の発刊に切り替えた。短期間に売り上げてしまえば、インフレの余波を避けることができたからである。
 読書人は、それらの新刊書に飛びついていった。活字を懐かしみ、文章に飢えていたのであろう。内容は、二の次であった。ただ、新しい活字によって、精神の飢餓から救われたかったのである。あるいは、戦後の平和の実感を、本によって、かみしめたかったのかもしれない。
 たとえば、一九四七年(昭和二十二年)の七月、哲学者の西田幾多郎の全集第一巻が刊行された時のことである。有名な『善の研究』などを収めたこの哲学書が発売される三日前には、東京・神田の岩波書店には、早くも購入希望者が並び始めた。そして、発売日の前日には、徹夜して買い求めようとする多くの人で、歩道には長蛇の列ができた。
 したがって、本の売れ行きについては、心配はなかった。だが、印刷工場の確保と、用紙の調達は容易ではなかった。なかでも最大の問題点は、用紙の入手であった。紙は、戦時中からの統制物資である。政府機関の許可を得なければ、一枚たりとも買うことができなかった。紙の使用量が、文化の尺度を示すとすれば、これでは、まるで非文化国というほかはない。
 戦時中、出版社は、日本出版会という統制機関に、出版すべき書籍の企画を届け出ることになっていた。その内容に応じて、発行部数が決定されていく。それに必要な用紙が、初めて許可され、製紙会社の紙を印刷工場に回すことができたのである。
 しかし、閣の売買は、警察の目をかすめて、堂々と行われていた。敗戦直後には、軍の隠匿物資であった大量の紙が、巷に流れていった。それが占領軍に押さえられ、種が尽きると、今度は、統制外の仙花紙と称する紙が、流れ始めた。仙花紙は再生紙で、ザラ紙よりも品質が悪い代物だった。だが、ともかく印刷はできたので、各出版社とも、法外在価格で仙花紙の入手に全力をあげていた。
 用紙が確保できさえすれば、すぐに出版業は成立した時代といえる。特権で、軍の放出用紙の倉庫を確保した人たちが、幾つもの出版社を設立したのも、とのころのことである。そのなかには、低俗な内容の出版物も少なくなかった。
 たちまち群小出版社が氾濫し、出版インフレともいうべき現象を呈した。利害をめぐる人間同士の醜い争いが、ここにも顔を見せていたのである。
 紙の確保のために奔走した、ある出版社は、山林を買うことまで始めた。山林を伐採し、良質の木材を、わざわざパルプ材として短く切り、製紙工場に発送する。その数量により、製紙会社は出版社に、用紙をこっそり流したという。なんのことはない、物々交換である。貨幣価値の下落が生んだ、原始経済の再現であった。
2  出版業者として、戸田城聖も、こうした渦中にあった。紙の獲得に奔走したことは確かだが、あがくようなことはなかった。所要の数量は、いざという時、決まって調ったからである。諸天善神を叱咤しながらの戦いは、幾度もあった。
 また、ある時は、数人の仲間の業者を統合して大資本とし、多量な用紙を動かしたりもした。
 それでも彼は、用紙の確保には、不思議なほど守られていたといえる。
 戸田は、『民主主義大講座』の数巻や、英文付きの絵本、数々の大衆小説などを刊行していった。それはそれなりに、一応の成功を収めたが、さらに利潤率を高めようとして、再版を狙うと、おかしなことに、かえって採算がとれないというデータが出た。
 出版社の高率な利益は、再版によることが常識である。だが、この常識が通用しない時代であった。売れ行きのよい本を刊行し、数カ月たって再版しても、既にインフレの高進は、資材、印刷費の高騰をもたらし、同じ定価では赤字となって、採算がとれないという計算である。また数カ月後、定価を改定して再版しても、売れ行きが保証される本は少なかった。
 戸田の事業的手腕をもってしでも、時代の波は、どうしょうもなかった。
 「おかしな話だ。苦心して、やっと発刊し、売れ行き良好で品切れとなる。それで注文がたまる。さて、いよいよ楽しみの再版か、と喜んで準備してみると、採算がとれないという。全くおかしな話だ。
 出版業で再版ができないようでは、陸に上がったカッパじゃないか。本当に、おかしなど時世だよ。これじゃ、どうにもならんじゃないか。面白くない商売だなぁ」
 戸田は、カラカラと笑い飛ばしながら、出入りの業者に、その不満をもらしたりしていた。
 「先生、ひとつ、うまい手を考えてくださいよ」
 多くの業者は、戸田を先生と呼んでいた。
 「そりゃ、考えないわけじゃないが、腹が立っているうちは、いい知恵も出んよ」
 「ハッ、ハッ、ハッ……」
 笑い話に終わったが、戸田は、いつまでも憤懣にとらわれていなかった。
 やがて、冷静な思案の末、雑誌の発刊に踏み切ったのである。
 そのころ、薄っぺらな雑誌は、無数に発刊されていた。また復刊されたものもあった。しかし、営業的に、本格的な企画で出された雑誌を目にすることはなかった。
 戦前の大雑誌は、婦人雑誌にしろ、大衆娯楽雑誌や少年雑誌にしても、大量の用紙使用が不可能であることに対する不安から、誰もその刊行に着手することができず、休刊のままであった。
 戸田は、出版事業が隘路に入るのを、なんとか打破しようと決意した。
 ″雑誌は月刊である。単発の単行本とは違う。事業的にも、その月、その月の資材や経費に対応して、定価を改定すればよい。インフレの波に順応しながら、合理的に価格を決めて刊行できるはずだ″
 彼は、そう結論を出すと、電光石火のスピードで態勢を整えた。まず編集陣の増員である。全般的な再編成は、少人数であるから、すこぶる簡単であった。そして、第一歩として、少年雑誌の『冒険少年』を創刊し、娯楽雑誌『ルビー』の刊行も始めた。
 編集室は、にわかに活発な動きを呈してきた。増員された編集者は、作家や挿絵画家のところへ、飛んで行っては帰り、また飛び出した。
 営業部は、用紙の確保と印刷所との交渉に、油断なく目を配らせていく。さらに、販売ルートの開拓への動きも始まった。
 要するに、彼らは、皆、厳しい時間的制限に追われながら、誰一人として、ぼんやりしていることは許されなくなっていたのである。すべての活動が、ある一つの目的をめざして、一個の生き物のように、有機的に動いていた。
 その有機的な動きの中心にいるのが、戸田城聖であった。彼は、藤イスに泰然としながら、編集者たちを相手に、四方八方に目を配り、督励した。彼の身辺には、活気が満ちていた。
 戸田は、いかなる事業、活動においても、惰性に流されることはなかった。常に知恵を輝かして、全精魂を打ち込んでいった。もし、「長」としての自分の惰性に流されれば、自然に、その一念は社員たちに反映し、なんらかの影響を及ぼさずにはいないと考えたからである。
 戸田の真剣な姿を見て、社員たちも懸命に戦った。その結果、『冒険少年』はすぐに数万部に達し、着実に部数を伸ばしていった。やがて出した『ルビー』の売れ行きも、好調であった。かなりの返本もあったとはいえ、ひとまずインフレ高進による被害を、最小限度に食い止めることができた。
3  この二つの雑誌の発行を主とし、単行本の発行を従に切り替えた戸田の事業は、かなりの収益を上げていたと思われるが、資金繰りは大変であった。
 背後に大資本のバックがなかったためではない。収益が多少とも蓄積されていくと、戸田は、戦前の負債の返済を命じたからである。
 インフレーションは、生産を刺激するための経済政策というのが通説であったが、この急激なインフレは、逆に生産意欲を阻害するにいたっていた。
 獄中にあった二年の留守中に、戸田が経営する全会社は崩れ、大きな負債だけが残った。入獄直前の盛業から見れば、不可解なようであるが、残留幹部の不始末であってみれば、当然のことでもあろう。
 普通は、敗戦のどさくさ紛れから、負債の棚上げ、無期延期の支払い猶予を要求したりして、消滅を図るのが当時の常識であった。しかし、戸田は、当時の金額で、合計二百数十万円の負債を、敗戦直前に、一切、引き受けていたのである。当り前のことではあるが、事業に対する信用と責任を、最も重んじたともいえる。
 敗戦直後、大小の軍需工場は、軍から回されていた多量の資材を、軍用物資払い下げという名目で、自己の会社の資産に振り替えたりしていた。そのうえ、敗戦による軍需補償金までも獲得して、澄ましていた者もいる。
 こうした時世にあって、戸田城聖は、人のよい、真っ正直な事業家であったといえる。彼が、自らつくった負債ではない。国家権力によって、やむなく留守にした間に、部下がつくった負債である。それを彼は、進んで背負ったのだ。
 会計の奥村は、好人物で気のいい男である。その彼でさえ、戸田に向かって、「先生は、人がいいんですね」と悔しがったりしていた。苦労の末の収益を、なんの投資にもならない負債の返済に回すことが、不服なのであろう。
 「先生、あの連中も、ずうずうしいですよ。ずうずうし過ぎませんか」
 あの連中というのは、戦前の債権者たちのことである。戸田が出獄直後に整理した、会社の一片の清算書を盾として、金銭を取り立てに来るのが気に入らないのであろう。
 戸田は、奥村に笑いかけて言った。
 「人が悪いより、よい方がいいじゃないか」
 「それにしても、先生、限度というものがありませんか……」
 会計責任者の奥村は、やり繰りの必要から不満でならなかった。
 「まぁまぁ、そう怒るな。昔の借金が払えるようになったことは、大した境涯の変化じゃないか。あの連中も、昔は金持ちだった。今は、ぼくよりも、彼らの方がひどく困っている。ぼくは牢屋で、ずいぶん、まずい飯を食っていたが、大勢の社員は、彼らの融資のおかげで、ともかく家族ぐるみ、飢え死にもしないで、戦争のさなかを生き長らえることができた。ぼくも、少しは彼らに感謝しているよ。奥村君、君だって、その一人だろう。それが気に食わんかね」
 奥村は唖然として、何も言えなかった。
 「ぼくだって、儲からなけりゃ、払うわけにいかん。また、支払って、こっちの事業がつぶれても困る。おのずと限度があるわけだ。奥村君の仕事は、この限度をよく見極めていくことだ。無理をせず、せいぜい払ってやってくれよ」
 ″なんという先生だろう″と、この会計責任者は思った。
 奥村の戸田への不平は、きれいさっぱりと消えたが、今度は債権者たちに割り切れない不満を、いだき始めた。
4  戸田城聖は、目まぐるしく変転する社会の動向を見極めながら、事業の血路を次々と切り開いていった。
 昼は、事業に全力を傾注した。夜は、週三日の、法華経講義や御書講義を通しての、人材育成への戦いであった。さらに週三日は、都内および近県の座談会で、多くの人びとへの指導と、折伏の範を示しながらの前進である。そのうえ、土曜、日曜にかけての地方折伏が、たび重なった。
 連日連夜の精力的在活動は、他の事業家たちより、はるかに多忙を極めていた。そのなかで、事業は一つ一つ成功を収めていた。
 彼の日々の行動を、つぶさに目の当たりにした人びとは、信心が、まさしく生活法であるという実証を、まざまざと見る思いがした。
5  一九四八年(昭和二十三年)の早春、戸田は、静岡県・伊豆の下田に向かっていた。
 四六年(同二十一年)九月の、那須への第一回地方指導に続き、翌年一月には、下田への地方指導が行われていた。そして、この一年間に、下田における学会員は八十世帯に増え、強力な広宣流布の拠点となっていたのである。
 下田と聞いただけで、戸田の胸は痛むのであった。恩師・牧口常三郎が、権力によって身柄を拘束された地である。その面影を思い出さずには、いられなかった。そして、恩師に権力の手が伸びたことを知った時の断腸の思いが、胸奥に蘇ってくるのだった。同行の誰一人として、その悲しみと憤りを、察することのできる人はいなかったにちがいない。彼は一人で、その胸の痛みに耐えていた。
 一九四三年(昭和十八年)七月二目、会長・牧口常三郎は、伊豆の蓮台寺の一旅館で、近郷の数人の人びとのために座談会を開いていた。二人の会員が東京から同行した。
 三日前の六月二十九日には、幹部の陣立、有田らが、東京の淀橋署に検挙されていた。忍び寄る司直の魔手が、刻々と牧口の身辺にも近づいていたのである。
 彼は、それを感じてはいた。だが、使命感に燃える牧口は、なおかつ伊豆へ向かったのである。
 「今こそ、国家諌暁の秋だ!」
 牧口が、前年十一月の創価教育学会第五回総会のあと、戸田に、こう壮絶な決意を披歴してから、七ヶ月余りがたつていた。この決意の実践は、いやでも国家権力との対決を意味していたのである。
 彼の胸中には、七百年前、鎌倉幕府を相手とした日蓮大聖人の大師子吼と、蒙古襲来という国家の大危機に、あくまでも国主諌暁を貫いた大聖人の御心境が、あふれんばかりに蘇っていたのである。
 「詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん……種種の大難・出来すとも智者に我義やぶられずば用いじとなり
 牧口は、「開目抄」のこの一節を、日に幾度となくかみしめた。そして、大聖人の弟子としての道を、今こそ貫くべき時であると、心に固く誓ったのである。
 七十二歳の牧口には、予定されていた伊豆旅行の中止は、彼の信心の敗北を意味していた。不自由な戦時下である。しかも、交通の便も悪く、会員も少数である。だが牧口は、彼の指導を求める会員を一人でも無視することを、自分自身に許すことはできなかった。
 ″日々の信心は、何よりも実践が大事である″
 そう考える牧口にとって、自ら老齢を気にかけたり、当局の厳しい監視に二の足を踏むようなことは、問題外のことであった。まして交通が不便であるとか、少人数であるとかの問題は、考慮の外のことである。彼の燃え上がる信心行動は、何ものも抑制することができなかった。己の信ずる道を、危険も顧みず、敢然と邁進する――これほど尊い人生はないであろう。
 牧口が、宗門を挙げての「国家諌暁」をねがった時、総本山は、文部省から思想統一政策の一つとして、日蓮宗各派の統合策を強要され、動揺していた。この問題は、いったんは単立の宗派として認められ、解決していた。
 ところが、宗内の一部には、身延の日蓮宗との統合案を進めようとする悪侶が暗躍していたのである。これらの僧が、時の軍部と手を握ったこともあり、宗門は混乱の極みにあった。
 「国家諌暁」の断行には、第一に宗門の内部の意思統一が必要であることは、言うまでもない。しかし、総本山の首脳は、身延との合併を防ぐことに手いっぱいであった。
 宗内の師子身中の虫ともいうべき一派は、軍人ともつながっていた、水魚会と称する勢力と結託していた。これらが、文部省の宗教行政を牛耳りつつあったのである。そのため、僧たちは、国家の危機より、宗門存立の危機の克服と、延命を図ることに懸命であった。
 牧口の提議した、僧俗一体となっての「国家諫暁」は、時期尚早との理由で、宗門の容れるところとはならなかった。
 牧口の強硬な主張は、今や、彼を完全に孤立せしめていた。結局、創価教育学会は、反政府的な存在として、いきおい鮮明に浮かび上がらざるを得なかった。当局の日蓮正宗弾圧の的は、大きく変わって、創価教育学会を焦点に集中し始めた。
 弾圧の的が変化したことによって、総本山は窮地を脱したが、学会は、一身に国家権力の圧迫の荒波を受け、飛沫のすべてを浴びなければならなかった。
 当局は、学会幹部の一斉検挙の機会を、虎視耽々と狙っていた。そして、神道を尊崇しようとしない言動を理由に、遂に学会を反国家的な団体として決めつけていったのである。
 不合理と矛盾に満ちた時代であった。祖国を真に愛し、民衆の幸福を心から願っている人が、「国賊」と呼ばれたのである。
6  一九四三年(昭和十八年)七月三日、四日と、蓮台寺での座談会に出席した牧口の一行は、五日、蓮台寺を発って須崎へ向かった。
 須崎の林岸子の実家で、岸子の父に会うためであった。岸子は、老いた父をなんとか入会させたかったので、牧口の来宅を願っていたのである。
 須崎は、下田港の東に、拳のように突き出した半島の先端にあった。そこには、一望千里の雄大な眺望が広がっていた。
 この岬の南国的な明るさと風景を、牧口は愛し、賞讃していた。彼は、岸子の父とも遅くまで語り合い、その夜は、彼女の父にも勧められて、同家に泊めてもらった。
 七月六日、朝食の終わったころであった。刑事が二人、牧口に面会を求めにやって来た。
 「下田署まで同行願いたい」と言う。
 林岸子は、顔色を失った。
 「なんです、先生に、なんの用があるんです? 東京ならともかく、ここは下田です。下田署の警察が、なんで先生に用があるんですか」
 玄関口の気色ばんだ岸子の声に、牧口は威儀を正して現れた。
 牧口の目は鋭い。だが、沈着な口調で刑事に語りかけた。
 「なんのご用ですか」
 「署においでになれば、わかります。……ともかく、ご同行願います」
 刑事の一人が、口ごもって言う。牧口は片手を帯の間に挟みながら、しばらく刑事を睨んでいた。
 「今、すぐですか」
 「そうです」
 「それでは、しばらく待ってください。支度をしますから」
 牧口は、奥の聞に行き、悠然と袴を着け始めた。
 それを手伝う岸子の手は、震えている。
 「なんでもないよ。お世話になったね」
 元村長の家である。岸子の家に気兼ねするように小声で言って、廊下に出た。
 茶の間の父親に、丁重なあいさつをすますと、そのまま家族に見送られて、玄関に出て行った。
 「お待たせしました」
 二人の刑事は、ペコンとお辞儀した。
 「林岸子さんも、ご同行願います」
 「私もですか。……ええ、行きますとも!」
 彼女は興奮している。茫然と立っている父親を振り返り、ふと助けを求めているように呼びかけた。
 「お父さん……」
 老いた父は、ただ怪訝な眼差しを、娘に向けていた。
 「大変、お世話になりました。お元気で……」
 牧口は、緊張して見守る家族の人びとに一礼して、先に立って歩きだした。すぐに二人の刑事が追いかけ、一人が牧口の側にぴったりと付いた。
 岸子も足早に急いで、牧口に追いつき、叫ぶように言った。
 「先生、申し訳ありません」
 「何が?」
 「………………」
 牧口は不審そうに、岸子の顔を見つめた。
 「時が来たんだ!」
 彼は、ぽつんとそう言ったきり、黙って歩いていた。岸子には、なんのことやらわからない。彼女が、「申し訳ありません」と言ったのは、信心反対の父が、密告したのだと思い込んでいたからである。
 下田署までは、五キロほどの道程である。太陽が、雲間から四人を照らしていた。周囲の緑は濃い。海面は太陽に照らされて、キラキラと光っていた。さわやかな海辺の風が吹いていたが、牧口の額には、汗がにじんでいた。
 彼は、高齢とも思えない真っすぐな姿勢で、胸を張って歩いて行く。そして、常用のコウモリ傘をステッキ代わりに、歩きにくい石ころ道を、下駄で踏んで行った。時折、足を止め、空を見上げたりしている。辺りの風景を楽しんでいるかのような姿であった。
 彼には、岸子も刑事も眼中にないようで、道中は無言のままであった。緊迫した表情もない。怯えた物腰も片鱗すら見えなかった。
 牧口常三郎は、平然と歩いていた。学者然とした彼の和服姿は、孤高な哲人を思わせた。口を固く結んだ彼の面影は、崇高でさえあった。
7  押し黙って足を運ぶ彼の頭のなかには、さまざまな思いがめぐっていた。
 まず、東京の多くの弟子たちの身の上に、思いを馳せた。
 ″下田まで私の行方を突き止め、検挙しようというからには、当局も緊急な対応を迫られていると見なければならない。幹部たちも、狙われているに相違ない……″
 理事長・戸田の顔が浮かぶ。牧口は、さらに思いをめぐらした。
 ″寺川、宮島、藤崎、北川、岩森、本田、神田、三島たちは、それぞれどうしているであろうか……″
 そして、彼は、思わず首を振り、どうか弟子たちが、強信であってほしいと祈った。
 「日蓮が弟子等は臆病にては叶うべからず
 彼の口に、この一節がの、ぼってきた。それをのみ込み、心で幾度も繰り返した。
 ″時が来たのだ。いよいよ、命をかけての戦いの時が来たのだ。負けてはならぬ″
 彼は、いつか心で唱題していた。小鳥のさえずりを耳にしながら、ふと孫の、幼い蓉子の面影を思い浮かべた。
 それは、肉親の情として、当然のことであったかもしれない。
 しかし、その時、大聖人の「弟子檀那中への御状」の一節が、ひらめくように忽然と浮かび上がってきた。
 「各各用心有る可し少しも妻子眷属けんぞくを憶うこと莫れ権威を恐るること莫れ
 彼は、われに返った。
 ″そうだ。国家権力と真正面から衝突せざるを得ない時が到来したのだ。この戦いこそ、国家諌暁の実践である。国法によって裁く者と、裁かれる者という、形式はある。だが、それは形式にすぎない。仏法から見れば、この戦いこそ、私に残された最後の国家諌暁の実践である。形式に惑わされてはならぬ。仏法の真髄と価値論とをもって、堂々と国家の誤った宗教・思想政策を呵責する、絶好のチャンスである。その時が到来したのだ″
 彼は、豪快に笑いたくなった。コウモリ傘を振り上げ、路傍の石をハッシとばかりに打った。刑事は、怪訝な顔をして、牧口を見ていた。
 五キロほどの道を歩き、下田署に入った。彼は、屠所に引かれる羊ではない。難に赴く師子王の姿であった。
 警察署で、牧口と岸子は引き離され、それぞれ取り調べを受けた。
 二人は、この日、留置された。翌朝、岸子だけ釈放になった。彼女の取り調べは簡単だったようで、牧口が身柄を拘束されたのは、父の密告ではないことも判明した。
 頑固な父親は、信念を曲げない牧口の生き方に感服し、この事件をきっかけにして、しばらくたって入会している。
 釈放される岸子と別れる際、牧口は言った。
 「戸田君に、よろしく!」
 これが、弟子たちが聞く牧口の最後の言葉となった。
 牧口は、東京から来た警視庁の刑事らによって護送され、思想犯として、身柄を警視庁に移された。
 この日以来、一年有半、牧口は予審で壮烈に戦い抜いた。時には、ある予審判事に対して、価値論を理解させようとさえしている。
 四四年(同十九年)十一月十八日、遂に彼は屍となって、巣鴨の東京拘置所を出所したのである。
 古書に、「国亡ぶるは賢人なきにあらず、用うること能わざればなり」という言葉がある。国家は、牧口常三郎という賢人を、遂に用いようとしなかった。そして、滅びていったのである。
8  戸田城聖は、恩師の追憶にふけりながら、下田に向かった。
 一行が、下田の箕作みつくりのバス停に降り立つや、さっと駆け寄って来る、一人の白髪交じりの婦人がいた。小太りの体で、戸田に抱きつかんばかりにして、彼の手にすがるのであった。
 「先生! 今日は、ほんにありがとうございます」
 誰だかわからない。だが、しばらくして、戸田は微笑んだ。
 「本田さんじゃないか。いや、驚いたな。誰だって、見違えてしまうよ」
 一年ぶりの再会である。彼女の顔は、十年も若返ったかと思われるほど、晴れやかに笑っていた。人相まで、がらりと変わっている。幹部たちも、これが同一人物かと疑った。
 一年前の一九四七年(昭和二十二年)、この地の大屋宅で座談会が行われた。それは、下田街道に面した農家の奥座敷であった。電灯も暗い小さな部屋で、友人も交えて、十人足らずの会合であった。
 この会合に、本田とみは来ていたのである。
 戦前、東京の本所に住んでいた彼女の一家は、日蓮系の、ある寺の熱烈な信者であった。そして、数十年にわたって、鬼子母神を守護神と崇めていたのである。彼女は、法華経に関連する会合には、どこにでも出かけて行った。
 その一つに、創価教育学会の「大善生活実験証明座談会」があった。四一年(同十六年)、たまたま本所の会員宅で聞かれていた会合に来た彼女は、清原かつから、鬼子母神を本尊とするのは間違いであることを、文証、理証、現証のうえから指摘されると、カッとなって、食ってかかった。
 「法華経の題目にや、変わりないはずじゃ。誰がなんと言おうと、絶対に変わりないんじゃ」
 入会一年目の清原かつは、それ以上に意気盛んであった。戦前の罰論を表とする折伏にならって、清原は、本田に厳しく罰論を説いたのである。
 清原は、最後に言った。
 「間違ったものを拝んでいれば、不幸になるわよ」
 本田とみは、憤激して座を立った。
 ″なんじゃい、あの小娘が……″
 そう思うと、彼女は無性に腹が立った。
 電車の停留所まで来た時、彼女は、清原の最後の一言が気にかかった。
 ″電車に乗るのはよそう。ひょっとして、怪我でもしたら、小娘に負けたことになるからな″
 彼女は、夜道を歩いて、無事に、わが家にたどり着いた。
 ″罰なんかないよ″
 彼女は座敷に上がるなり、祭ってある鬼子母神に向かって祈るのであった。
 ″意地でも、わしをお守りください″
 一週間たっても罰は出なかった。一カ月たっても無事である。一年たったとろには、この夜のことなど忘れ去っていた。教義を学ぶのでもなく、なんの疑問もいだかずに、ひたすら鬼子母神はありがたいものとして、ますます信心に励んでいったのである。
 本田とみ一家は、縫製業を営んでいた。夫婦で働き、裸一貫から五人の職人をかかえるまでに発展していたのである。さらに、かなりの財産もつくり、近所・親戚からも、夫の郷里へ帰って余生を楽しもうと決心し、一切を娘夫婦に任せて、沼津に落ち着いた。この時、夫は疎開荷物の洋服ダンスを二階へ運んでいたが、どうしたことか階段の途中から転げ落ち、その上にタンスが落ちて頭を強く打った。即死である。
 この突発事故から、彼女の夢見た幸福は崩れ去っていった。それからも、することなすこと、ことごとく災難となって苦しい思いをした。
 勝気な彼女は、十一歳の孫を連れて、彼女自身の故郷である伊豆の下田に戻って来た。村には、既に疎開者があふれでいた。彼女ら二人は、納屋の二階に住まねばならなかった。電灯もないので、夜はランプをつるし、孫と、わびしい暗い夜を送らざるを得なかった。
9  ところが不幸は、ここにも追いかけてきた。折も折、四五年(同二十年)三月十日の東京の大空襲で、本所の彼女の家は焼け、娘夫婦は焼死し、全財産も一度に失ったのである。老境に入った彼女にとって、この打撃はあまりにも大きかった。村の人びとも、それぞれ生きることに懸命である。彼女の心を慰め、いたわることもできなかった。
 しかし、彼女には、かわいい孫がいた。そのために彼女は、終戦とともに、荷物を背負って、衣料の行商を始めたのである。
 ここには、米などの闇売りで金をためた人も多かった。そうした人たちは、衣料を欲していた。彼女の行商は有望であったといえる。
 だが、しばらくすると、彼女は月のうち十日ぐらいしか、外に姿を現さなくなった。あとの二十日は、納屋で、ひたすら鬼子母神を拝んでいたのである。彼女は、生活に疲れてしまったのだ。いや、入生そのものに疲れ果ててしまったのである。一日一日が、地獄の晩年として、彼女の心に映り始めていた。
 山奥の村に行商に行った帰り、鬱蒼とした林の中を通りながら、人里離れた林の奥の窪地で、誰にも知られず死ぬことができたら、と幾度も考えた。それが、最も気が楽になる方法だと思ったからである。
 また、海辺の村に行けば、重い荷物に耐えかねて、崖の上の草むらに身を投げ出す時、ふと崖下の青い海に吸い込まれるような死への誘惑とも、たびたび戦わねばならなかった。
 死の影が、彼女を追い駆け始めたのである。ただ、孫の存在が、死への唯一の障害であった。
 彼女は、家の外に出るのが怖くなった。体力も、めっきり衰えた。彼女は辛かった。狭い二階に閉じこもって、辛ければ辛いほど、一心不乱に鬼子母神にすがるのであった。
 孫は風邪をとじらせ、高熱で苦しんでいる。彼女も感染して寝込んでしまった。ようやく鬼子母神が恨めしくさえ思えてきた。
 ――この時である。彼女は、東京・本所の会員宅で聞いた、清原の罰論を、初めて思い出した。
 ″これが、罰じやろうか″
 彼女は考えた。
 ″鬼子母神を、これほど真剣に、真面目に拝んでても、不幸になっていくということは……いや、そんなはずはなかろう。あの小娘の言う題目も、自分の唱える題目も、違うはずはない。しかし、こんな不運が続くのは、何か、ほかの訳があるんじやろう。誰かから、そのわけを教えてもらえないじゃろうか″
 寝込んでいた本田は、この時、見舞いに来た大屋まつから、また信心の話を聞いたのである。それは、東京から偉い先生が、法華経の話をしに来る、ということだった。彼女は、かすかな希望を胸に、病み上がりの体を座談会に運んだ。
 そして、思いがけず、七年目のこの時、戸田に同行した清原かつの前に、その不運な姿を現したのである。
 この六年間の社会の激変は、未曾有のことであった。本田とみの生涯も、それに劣らず波瀾に満ちていたといえる。
10  戸田が会った一年前のあの日、座談会で、本田は、六年間の来し方を、綿々と語った。一座は、しばし沈黙して、静まり返っている。それは真実の声であった。人の声というより、心の暗い映像を、そのまま語ったものである。皆は、仏法の厳しい法理に、慄然とした。
 戸田城聖は、咳払いをしてから、穏やかに語り始めた。座は、厳しい緊張から、ようやく解放されていくようであった。
 「あなたは、幸せになろうと懸命に働いて、鬼子母神を夢中で信心した。その揚げ句の果てが、今の苦悩だ。
 何かが、間違っているようだが、それが何だかわかりますか」
 「わからんのじゃ。それが知りたいんじゃ、本当に」
 彼女の目は、すわっていた。そして、戸田の一言を期待しているようでもあった。
 「真面目に働いて、一心に信心する。その限りでは、人間として立派な人といえると思う。あなたも立派な人だ。そのあなたが、なぜ不幸にならなくてはならぬのか」
 「………………」
 「私が勝手なことを言うのではない。大聖人が、このことを一人ご存じで、私どもに教えてくださっているんです。間違ったものを、絶対に信じてはならぬ。信仰の対象となるものが、幸・不幸の根本となることを知らなくてはならない」
 本田とみには、よく意味がわからない。戸田が話をそらして、あいまいな答えをしているとしか思えなかった。
 その瞬間、戸田の力強い声が響いた。
 「あなたが悪いのではない。鬼子母神という誤った対象を本尊としていることが間違いだったんです。そのために、知らず知らずのうちに、不幸な方向に引きずられているんです」
 戸田の言葉は、彼女の胸を刺した。とみは、激しい痛みを感じないわけにはいかなかった。ただ、顔をしかめるよりほかはない。
 戸田は、法華経の陀羅尼品の話をし、本来の鬼子母神の働きを説明した。
 「……このような理由で、あなたは、鬼子母神を拝んではならないんです。結局、悪鬼神にすぎない。本当の鬼子母神は、妙法を、すなわち真実の御本尊を信ずる人を守護するんです。そして一切の諸天善神とともに、昼夜を分かたず守護してくれるんです。
 鬼子母神は、本尊として持むものではないんです。このことは、法華経にも明らかです。そして大聖人も、明確に説いておられるのです。決して、嘘ではない。本義を何も知らない坊主や、宗教家に騙されては、かわいそうだ」
 「ちょっと、待ってください」
 彼女は、手をあげて、身を乗り出してきた。
 日本では、宗教ほど、その内容について、あいまいにされているものはない。知識人といわれる人でも、たとえば禅宗と念仏宗の教義的な解明を求められて、明確に回答できる人は少ない。いわんや、一般の人びとの宗教への理解の浅さは、嘆かわしいほどである。本田とみも、その例外ではなかった。
 彼女は、鋭い眼差しで、疑い深そうに尋ねた。
 「題目を唱えるもんを、守護するというのけぇ」
 「そうです」
 「そんなら、わしは、守護されていいはずじゃ。何年も何年も、お題目を唱えてきた。これ以上はできない……」
 「あなたは、いかにも題目を唱えた。だが、最も大切な本尊がなんであるか、一度も考えたことがなかったでしょう。大聖人は『本尊とは勝れたるを用うべし』と、七百年前に既に戒められている。本尊とは根本として尊敬すべきものであって、尊ぶ根本の当体を指していう。その根本中の根本となる御本尊を、一切衆生のために大聖人は顕されたのです。末法という今の時代に入ると、法華経の経典も、天台大師の『摩訶止観』も、全部、大聖人の仏法の説明書にすぎなくなってしまう。ちょっと、難しいかもしれないが……」
 戸田は、諄々と、老婦人に説いていく。次第に、彼女の心のなかでは、激しい戦いが始まった。
 ″この人の言うことは、本当じゃろうか。嘘にしては、本当らしい嘘だし、本当としたら、あまりに簡単すぎる″
 「わしは、その理由がわからんのじゃ……鬼子母神様が、そんなに悪い神様なんかなぁ……わしは、一心になって、お題目を唱えてきたのに……」
 人びとは、思わず笑いだしてしまった。しかし、本田とみにとっては、笑いごとではない。未練と、悔恨と、執着が、頭のなかで渦巻いていた。苦悶の表情は、さらに険しくなっていく。
 「おばさん、六年損したのよ。私も、すまないことをしたと思うわ。あのあとで、おばさんのところへ行って、もっとよくお話ししていれば、おばさんだって、こんなにどん底の悲しみをしないで、すんだでしょうからね」
 若々しい清原の言葉は、老婦人の悔恨の念をかき立てた。さらに清原は、元気づけるように言った。
 「もし、あの時、おばさんが御本尊をいただいて、私たちと一緒に信心していたら、六年ですもの、ずいぶん幸福な境遇になっていたと思うわ。私の思いやりが足りなくて、ごめんなさい。でも、まだ大丈夫、これからよ。おばさん!」
11  本田とみは、涙ぐんだ。
 「あんたたちの御本尊は、そんなに正しいの?」
 この時、端座している戸田が言った。
 「日蓮大聖人の残された真実の御本尊です。この世でたった一つの正しい本尊です。あなたが、一年、ちゃんと信心してみれば、いやでもわかる」
 「わしは、もう年をとったし、不運とあきらめたい。だが、孫が不憫で、どうしても死にきれんのじゃ」
 心にかかる最大のことであろう。戸田は、微笑を浮かべて言った。
 「おばさん、こうしよう。あなたが一年間、本気になって信心して、なんにも良いことがなかったら、あなたの大事な孫は、私が引き受けよう。学校も出してあげるし、立派な人にも必ず育てよう」
 「本当けぇ? ほんに嬉しいことを言ってくださるが……」
 「戸田は、嘘をつかんよ」
 「でも……」
 本田とみは、口ごもって、まじまじと戸田を見た。
 「でも、東京と下田ではなあ、話が遠くなるよ。一年たって、あんた様を訪ねなけりゃならん時、広い東京で、どこの誰と尋ねるわけにもいかん。名刺を一枚くださらんか。お願い申しやす」
 戸田は、笑いだした。ポケットの名刺入れから一枚取り出して、彼女に渡した。
 「なかなか、しっかりしたおばさんだ」
 本田とみは、その名刺を恭しく押し頂いてから、大事そうに胸にしまった。
12  一年たった時、この名刺は、とっくに不要になっていた。一年ぶりで戸田に会った老婦人は、戸田の側から離れなかった。
 一行が大屋宅に着くと、一年間の大小さまざまな体験を、事細かに語って尽きない。
 「厚くお礼申しますだ。ほんに、功徳をいただきました。正しい御本尊がわかったよ。……ありがとうございます」
 無邪気な喜びである。戸田も、この純朴な話に、ニコニコと頷くのであった。
 彼女は、自ら鬼子母神への信仰を捨て、正法の信仰に入った。それから、病弱な体も次第に元気になったという。行商も、それほど骨を折らずにできるようになった。商売が非常に面白くなってきた、ともいう。売り上げも飛躍的に上昇し、衣料の商売で、かなりの大金を貯金していた。
 孫に肩身の狭い思いをさせたくない。そのうち小さい家を一軒新築したい――と戸田に相談までする始末である。
 本人が、そう語るばかりではない。一年前の彼女を知る人が、驚いて見比べるほどの実証が、そこにあった。
 戸田は、嬉しかった。そして、事実のもつ偉大さを、しみじみと思った。
 大屋まつの家には、カリエスで絶望視されていた息子がいた。彼もまた、一年前に指導を受け、そして今は、既に快癒し、退院して、この夜の座談会に出席していた。
 蘇生である。この二十歳になる息子も、戸田は、激励することを忘れなかった。
 「張りつめた信心で、治ったんだよ。油断しては駄目だよ。自分の体を大事にしなさい。体が大事だったら、あなたの信心を大事にすることだ。わかったね」
 いずれも、下田における涙ぐましい体験である。
 この夜の座談会は、一年前とは違い、活気にあふれていた。参加者も多い。力強い前進の息吹を、戸田は感じ取った。
 暖かい伊豆とはいえ、夜は、さすがに寒かった。多くの人が、体験を語り、夜の更けゆくのも忘れていた。
 東京から来た幹部たちも、大屋宅での座談会には、手応えを、はっきり感じた。
 散会後、この会合の原動力が、本田とみであることに話題が弾んだ時、戸田は楽しそうに言った。
 「いずれにせよ、本田とみさんは、人騒がせなおばあさんだよ。今度は、どんな騒ぎを起こすことか」
 翌日、同行の幹部は、一人残らず四方へ散った。本田とみ、大屋まつ、その他の人びとの案内で、折伏すべき知人、友人宅が、山村、漁村に数多くあったからである。
13  地方指導は、このころから、ようやく実践的になり、時に飛躍的な効果をもたらしていった。
 戸田は、それを指導し、彼の面前に現れる一人ひとりを相手に、親身になってぶつかっていった。ある時は優しく、ある時は厳しかった。また、ある時は、仁丹を噛みかみ、そして冗談を飛ばしながら、彼の指導は続けられたのである。
 彼の存在するところは、それが都会であれ、山村であれ、漁村であれ、広宣流布の渦が巻き始める。むろん、その渦は、まだ小さい。数も少ない。社会の水面にあっては、ほとんど目立たなかった。しかし、それは確実に渦巻きながら、消えることなく、徐々に拡大していった。
14  一七八九年のフランス革命も、その底流には、絶対君主政体のもとで苦しむ新興市民層の、自由を求める強い自覚が渦を巻いていた。その渦は、やがて地方都市や農村にも広がり、全土に波及していった。ルソー等の自由の思想が、市民のなかに浸透した時、それは激流となり、奔流となって、革命への道をたどったのである。
 一九一七年(大正六年)のロシア革命は、専制政治打倒をめざして立ち上がった、プロレタリア階級の力によるものであった。彼らは、ロシア社会を衰えさせ、腐敗せしめたツァーリズムの専制に対して、共産主義を理想として戦い抜いたのである。
 日本の大改革、いわゆる明治維新は、王政復古と称されるように、フランス革命やロシア革命とは、やや趣が違う。それは、海外列強による支配を恐れた人びとが、幕藩体制を変革して、朝廷による政治を実現し、列強に伍することのできる、富国強兵策による強国をめざそうとするものであった。
 しかし、その変革の主体となった人びとの多くが、下級武士であり、民衆の力が歴史を動かした点においては、両革命と相通じるものがある。これらの革命や改革の底流には、いずれも下から盛り上がった変革への欲求が、バネとしてあったということである。
 このように、時代の変革の底流には、常に民衆のなかに巻き起こる渦がある。時の権力者は、その渦の存在を知ることがなかった。いや、知っていても、手の施しょうがなかったのであろう。彼らは、自己の保身のために眼が閉ざされ、来るべき時代を見通すことができなかった。
 やがて、それは濁流となって渦巻き、激突し、幾百千万もの尊い人命を犠牲にして、変革が断行されていった。これらは、すべて悲惨な流血の歴史であった。
 しかし、われわれのめざす実践は、決して流血をともなう革命ではない。仏法理念に立脚し、あくまで生命の尊厳を基調とする、無血革命であり、平和革命なのである。この理想的な革命こそ、人類が悠久の昔から待ち望んでいたものではなかろうか。
 伊豆をはじめ、都会や農村、漁村に、小さいながらも動き始めたとの渦巻きを、当時は誰も知らなかった。しかし、それが、やがて日本の、アジアの、世界の渦となり、激流となって、世界平和の源泉をなしていくであろうことを、戸田城聖は確信していた。

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