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日蓮大聖人・池田大作

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新 生  

小説「人間革命」3-4巻 (池田大作全集第145巻)

前後
1  一九四八年(昭和二十三年)元日、快晴である。
 戸田城聖は、学会本部となっている東京・西神田の日本正学館の二階で、御本尊の前に端座し、新年の勤行をしていた。背後には、六、七人の幹部が、御本尊をじっと見つめながら、彼の声に和していた。
 一同の呼吸は、少しの乱れもなく、読経は一人の声のように、力強い和音となって響いている。快かった。
 戸田は、″今日はいいな″と、何げなく思った。
 このあとに、長い唱題が続いた。軽やかなリズムは、いよいよ、はつらつとして、一糸乱れず、意気軒昂ともいうべき響きとなって、彼らの五体をつつんだ。
 戸田は、ふと無数の星雲の渦巻いている、果てしない大宇宙を思い浮かべた。その壮大な景観のなかの、極微に近いわが身の小さな存在が、不思議な思いで感じられてならなかった。
 彼は、″はてな″と思った。
 ――果てしのない大宇宙。ものすごい超高速で運行している星雲の群れ。そのなかに、銀河系という二千億個以上もの恒星の一群団がある。
 この銀河系のなかで、太陽という恒星を中心にして、回転している幾つもの惑星。そのなかの一つの星にしかすぎない、この地球。一瞬の静止もなく、すべてが一定の秩序で変転して、とどまるところを知らない。過去から未来へと、その運動は繰り返され、悠久の時を刻んでいくという。
 地球は自転しながら、太陽との平均距離約一億四千九百六十万キロの軌道の上を、毎秒約三十キロの速度で公転している。その地球のなかの小さい島国の一角で、今、自分は妙法を心から唱えている。この一人の人間、そもそも戸田城聖という俺は、いったい何者なのであろうか――。
 彼は、宇宙の深淵をのぞく思いに駆られながら、自分自身の確固たる存在を確かめようとしていた。
 ″惑星のなかで、太陽にいちばん近いのは水星で、平均距離約五千七百九十万キロの軌道上を、毎秒約四十七キロの速度で公転し、約八十八日で一周し終わるという。
 水星の表面は、昼間は、太陽の強烈な放射熱のために大変な高温となり、逆に夜は、極寒の世界となることから、生物の存在は考えられない。太陽を取り巻く惑星のなかで、地球だけが、不思議にも程よい位置にあって、無数の生物を宿している。そして地球は、三百六十五日五時間四十八分四十六秒で一回の公転を終えている。
 これらの厳然たる事実を、つぶさに知ってしまった地球上の一生物、人間の知恵とは、なかなか大したものだ。
 だが、その知恵ある人間が、それぞれ背負っている、抜きがたい不幸に、いつまでも戸惑っているというのは、いったい、どういうことなのであろう。不幸というものの実態は、宇宙の神秘さよりも、はるかに不可思議で、厄介なものだからであろうか″
 戸田を導師とした唱題の声は、時間を忘れたように、なおも続いていた。その波動は、部屋いっぱいに満ちあふれ、立て付けの悪い部屋から外へ、無限に流れるように思われた。
 ″地球という、この大宇宙に浮かぶ一個の惑星の、その島国の一隅で、俺は、今、何をしているのか。みすぼらしい、寒い部屋で、懸命に唱題している、戸田城聖というこの生命は、いったい何をしているというのか。
 ただ俺は、魔王との戦いを宣言しているのだ。その自分だけが、今、ここに存在しているのだ″
 戸田は自得した。大宇宙のなかで、魔との戦い、すなわち人間の不幸の根源である無明を打ち破る戦いに挺身している、孤独な自分というものを、しみじみと悟ったのである。
 だが、彼は孤独を恐れなかった。五体に、あふれる活力が、見る見る湧き上がってくるのを覚えていた。その生命の力は、もはや何ものも、さえぎることは、できないにちがいない。彼には、唱題の力が、宇宙に遍満するであろうことが、当然のように信じられたのである。
2  戸田は、われに返った。そして、最後の題目を三唱して、勤行を終えた。にっこりしながら、くるりと向きを変え、幹部たちの顔を見た。服装は普段とあまり変わらず、みすぼらしかったが、上気した顔は、つややかに、うっすらと桜色さえしている。どの目も、生き生きと輝いていた。
 「おめでとうございます」
 一同は口々に、あいさっする。原山幸一が、あらたまって、さらに言った。
 「先生、おめでとうございます。本年も相変わらず……」
 戸田は、笑いながら言った。
 「やぁ、おめでとう。ところで、本年も相変わらずじゃ困るなぁ。そうだろう。去年と同じことをやっていたんでは、広宣流布は腐ってしまうじゃないか。原山君は、去年と同じように、もそもそ動こうというわけか」
 どっと笑い声があがった。
 「三島君がぶつぶつ、小西君がふてくされ、関君が青い顔して思案顔というのでは、だいいち、ぼくが困るんだよ」
 さらに高い笑い声があがった。
 「今年は、いよいよ再建三年目に入った。諸君は、自分の持ち味を十分生かしきって、強い強い信心に立って、立派に折伏行を全うしてほしい。そういう年にしたい。みんな大いに変わってもらわなくてはならない」
 一同の顔から笑いが消えた。戸田は、話す言葉を一言一言、繰り返すように言った。
 「諸君は、去年も活躍したように思っているだろうが、実際は、惰性に流された活動であったと言わざるを得ない。
 ぼくが講義をし、ぼくが座談会に行く。そこだけにしか学会活動はなかったといってよい。ぼくがいないところでは、なんの活動もなかった。こんなことでは、『令法久住』――正法をして永遠に住せしめるという経文は嘘になる。観念だけだということになる。
 座談会に、私がいようが、いまいが、どしどし折伏活動を前進させなくてはならない。ぼくの後をつけ回すだけが信心と思ったら、大間違いです。それでは惰性になっていく。大聖人様の仏法を、いつの間にか腐らすことになる。本当に怖いことだ」
 戸田は、ここで口をつぐんで、次の言葉を探すかのようであった。
 彼は、一人が百歩前進することより、百人を一歩前進させることを、常に考えていたのである。
 「だからといって、ぼくの口まねをし、会合をやっていけ、というのでは決してない。ぼくがいようが、いまいが、もっと自分自身の信念で、信心で、心から訴えきっていけ、と言いたいのだ。みなの話は、理屈はわからなくとも、強盛な信心で功徳を受け、歓喜している初信者の確信にも、かなわないのじゃないか。
 組織が秩序だってくると、どうしても幹部の惰性が始まる。しかし、自分では気がつかない。相変わらず、結構やっていると思っている。この相変わらずが、空転になる。それがくせものなんだ」
 原山幸一は、いたたまれなくなって、口をはさんだ。
 「先生、さっきは私の失言です。本年は、ひとつ大いに相変わりまして、よろしく、お願いいたします」
 「わかったかい。宇宙のあらゆる一切のものは、天体にせよ、一匹のシラミにせよ、刻々と変転していく。一瞬といえども、そのままでいることはできない。相変わらずでやれると思うのは、錯覚にすぎない。
 そこで、いちばんの問題は、良く変わっていくか、悪く変わっていくかです。このことに気づかないでいる時、人は惰性に流されていく。つまり、自分が良く変わっていきつつあるか、悪く変わっていきつつあるか、さっぱり気づかず平気でいる。これが惰性の怖さです。
 信仰が惰性に陥った時、それはまさしく退転である。信心は、急速に、そして良く変わっていくための実践活動です。
 あらゆるものを、刻々と変転させていく力、それを生命といい、如々として来る、この力を如来といい、仏と名づけるのです。この力を大聖人様は、さらに南無妙法蓮華経と、おっしゃった。そして、それを具体的に、十界互具の御本尊として、お残しになった。一切の根本である、このことを度外視して、われわれの信心はない。
 宇宙自体にも、われわれ一人ひとりの小さい人間にも、すごい生命の力、南無妙法蓮華経があるんです。
 この信心をして、それが自覚できないということは、自分が損です。機械があっても、モーターのスイッチを入れないのと同じだ。音楽家が、ピアノの前に座ったきりで、キーを叩かないのに等しい。諸君が、こんな調子で信心をやっていけばいい、などと考えていたら、なんの意味もない。
 また、今の不幸が、生涯、続くように思えても、それは変わっていく。信心している限り、必ず幸福へと変わっていく。それが自然の理であり、宿命転換ということだ。また、今の幸福が、永久に続くように見えても、この根本の信心がない限り、いつ不幸な方向へと、変転してしまうかわからない。
 国だって同じだ。今、日本の国は他国に占領されて、どうにもならない不幸に陥っている。いったい、いつまた幸福が到来するだろうかと、みんな絶望しているが、私は決して絶望などしていない」
3  戸田は、正確な史観と、誤りのない哲理をもって、すべてを判断し、実践していた。彼の前途には、常に春光が輝いていたのである。
 寒い部屋にも、新年の曙光が差し込んできた。ようやく外の通りに、人の動く気配が出てきた。
 「仏法の法理に照らして、いつまでも、こんな状態であるはずがない。まして広宣流布の第一歩が踏み出されたところだ。広宣流布が進めば進むほど、今の状態から早く脱却できる。
 一国の広宣流布ということは、要するに一国の立正安国を実現し、その国の宿命転換を遂行するということだ。人類史上、誰もやった者はないのだ。
 考えてもみなさい。いかに優れた思想、哲学でも、たった一人の人間を救うことさえ容易ではない。できたとしても、せいぜい気休めの慰めぐらいのことではないか。ましてや、一国を根底からまるまる見事に救ったことなどない。
 そのくせ、いつも飽きもしないで、人びとは理想社会を夢見続けてきた。それというのも、いつの時代も不幸であったからだ、といえるのではなかろうか。
 こうした、誰にもできなかったことが、必ずできると、私は言うのだ。なぜならば、日蓮大聖人が絶対の保証をなされている。不肖の弟子・戸田の知り得た限り、大聖人の御言葉が外れたことはない。それは一切の真理の根本を過たず、お説きになっているからだ。
 万人が万人、理想としていること、しかも、誰一人やろうとしてもできなかったこと、そして誰も信じなくなってしまったことを、今、われわれの手で成就しようというのだ。
 人類にとって、これ以上の最大、最高の偉業はない。難事中の難事だ。しかし、必ずできる。われわれに力があるからだなどと、うぬぼれてはいけない。大聖人様の仏法には、それだけの、ものすごい力があるからだ。
 それを勉強し、実践するわれわれが、いいかげんな覚悟で惰性に沈んでいるとしたら、大怪我のもとだ。仏法は厳しい。厳しいがゆえに、ぼくは、諸君にそれを言っておかねばならない。
 本年も相変わらず……ということろから、とんだ長い話になってしまったが、諸君の何げない一言でも、それを言う時の諸君の心の実相というものが、ぼくには、わかりすぎるぐらいわかる。それが信心というものだ。
 生命とは、形も色もないものだが、現実の姿のうえに、厳然と現れてくるものだ。言葉じりをとらえたなどと、ケチなことを考えては困る。実相は、まさしく諸法であり、諸法はまさしく実相だ」
 彼の気迫は、弟子たちの胸を揺さぶった。部屋は緊張につつまれている。彼らの目は、戸田を凝視して冴えていた。
 色あせて茶褐色になった畳、煤けた壁、染みのついた天井、そのなかに白金のひらめきともいうべき光芒が、戸田の顔から放たれているように思われた。それは厳しく、純粋であったが、それでいて底知れず温かかった。
 「元旦から、やかましい話になってしまったが、今年は、やかましい年だと思ってもらいたい。いよ諸君を徹底的に訓練しなければならない時が来ている。これも時だ。この時も知らずに、うるさいことばっかり言うといって、不平を言つてはなりませんぞ。訓練なくして、偉大な人生を歩んだ人は一人もいない。芸術も、技術も、事業や政治の世界でも、皆そうだ。まして未曾有の革命に、厳しい訓練があるのは、当然だと思わなければなりません。
 戸田は、なにも、君たちを憎んで言うのではない。ぼくが君たちを憎んで、なんになる。ぼくは、諸君たちの一生のことを、それぞれ、ちゃんと考えているんです。心得違いをしてはいけない」
 戸田は、言うべきことを言い尽くしたと思った。身を硬くして聞き入っている弟子たちが、たまらなくいとしくなった。彼は柔和な眼差しに戻って、頬をほころばせながら言った。
 「文句ばかり言って、すまん、すまん。……正月だ、さっそく、お屠蘇といこうじゃないか」
 彼は、一升瓶を持って来させると、自ら栓を抜いて、湯飲み茶わん一つ一つに注いだ。黄金色の酒は、彼の弟子への愛情をささやくように、軽い音をたてて、茶わんを満たしていった。
 「さあ、みんな飲みなさい。乾杯しよう。とっておきの名酒だぞ」
 「いただきます」
 一同は乾杯した。そして、なんとうまい酒だろうと思った。彼らは、この時、戸田の愛情を飲む思いがしたのである。彼らにとって、戸田は常に師であったが、ひとたび彼に会うと、いつか、彼らは子となり、戸田は父となった。そして、この間柄は、年齢には、なんの関係もなかったのである。
4  「先生、大聖人は、お正月をどうお考えになっていたんでしょう」
 清原かつである。いつもの人なっこい口調で問いかけた。
 「大聖人の御消息文のなかに、『十字御書』というのがあります。今でいう年賀の御手紙だが、正月の始めから、心を新たにして信心を深めていくことは大したことだ、と仰せになっている。誰か、御書を貸してごらん」
 関久男が、ズックのカバンの中から、縮刷版と呼ばれていた御書を取り出して渡した。
 「重須殿の女房に宛てられた御手紙だから、ずっと後ろの方に載っているはずだ」
 戸田は探し当てると、御書を戻しながら言った。
 「関君、そのページを読んでごらん」
 「『十字御書』ですか」
 戸田は、ちょっと笑いながら、答えて言った。
 「十字と書いて、むしもちと読むんだよ。そこを、ちょっと読んでごらん」
 関は読みだした。
 「十字一百まい・かし菓子ひとこ一籠給いおわんぬ、正月の一日は日のはじめ月の始めとしのはじめ春の始め・此れをもてなす人は月の西より東をさしてみつがごとく・日の東より西へわたりてあきらかなるがごとく・とくもまさり人にもあいせられ候なり……」
 戸田は、そこで区切らせて、話し始めた。
 「重須殿の女房、この方は南条時光の姉さんにあたる方です。南条家から重須の石河新兵衛能助に嫁いでいた。この女性が、正月を祝って、まず大聖人に御供養申し上げた。蒸し餅百枚、菓子、今でいう果物一籠を、わざわざ身延におられた大聖人に届けられた。その立派な真心を褒められているんです。
 元日は、一切の始まりだといわれている。日だの、月だの、春だのと、いろいろ出てくるが、要するに宇宙の運行そのものを指していらっしゃる。宇宙の運行は、それ自体が慈悲なんです。つまり、妙法です。
 正月というのは、平常、忘れてしまっている、そのようなことを自覚することだ。地球は、三百六十五日で太陽の周囲を一周する。これは誰かが命じたものでも、仕組んだものでもない。気づこうと気づくまいと、厳然たる宇宙の運行です。宇宙の法則であり、リズムです」
 和やかな雰囲気のなかで、弟子たちは、戸田の話に真剣に耳を傾けている。彼の話は、常に道理のうえから、科学的に、真の仏法を理解させようとするものであった。
 「地球が、宇宙の惑星の一つなら、われわれ人間も、同じだ。宇宙のなかで活動する、人間という一つの存在だ。人間の活動といったところで、宇宙のリズムある法則から免れることは絶対にできない。
 このことを度外視して、いくら努力しても、何も始まらない。ある場合は、一生懸命、宇宙の法則に逆行している時もある。こうした微妙な一種の不調和が、生活に現れる時、人間は不幸を感じるわけだ。この法則を、生命という分野から、事実に即して根本的に説かれているのが、大聖人の仏法です。
 だから、これがわかってしまえば、我即宇宙であり、宇宙即我ということになる。かつて、どこかの科学者が、人間は一個の小宇宙なり、と言ったことを覚えている。
 しかも、それは観念の世界のことではない、現実の、この世界のことだ。
 この事実を、われわれ凡人が、いくらかでも感得するのは、正月だけらしい。地球が一回の公転を終えて、次の公転にかかる時、それが正月である。
 人びとは、正月になると、自然に、あらたまった気持ちになり、″今年こそは″と決意する。″今年こそは″が、年々歳々続いて、人の一生ということになる。しかし、妙法を受持しない人は、根本的に宇宙運行のリズムに乗ることができないのだ。脱線したまま走っているような人生になるのは、当然の理なんです。
 だが、われわれは、御本尊を受持し、妙法を唱えることができた以上、意識しようがしまいが、脱線した人生から立ち上がって、宇宙運行のリズムの軌道に、ちゃんと乗ることができる。
 同じ、″今年こそは″という決心でも、この信心をしている人と、していない人とでは、天地水火の違いがあることがわかるだろう。
 ″今年こそは″と決心した時、われわれは、その証拠を、その年の自分の生活に、必ず出すことができる。だから、『本年も相変わらず』などと言っていては、仕方がないよ。
 重須殿の女房も、″今年こそは立派な信心、生活を、しっかりやろう″と決心したんでしょう。その初々しい真心を、大聖人はご覧になって、お喜びになり、今年は『とくもまさり人にもあいせられ候なり』と、お褒めになっているんです。
 正月から、こういう信心だと、あなたの人生は大きく開けるぞ、と御手紙の終わりのところにある。そこを読んでごらん」
5  関は、また御書に目を注ぎながら拝読した。
 「今正月の始に法華経をくやう供養しまいらせんと・をぼしめす御心は・木より花のさき・池より蓮のつぼみ・雪山のせんだんのひらけ・月の始めて出るなるべし、今日本国の法華経をかたきとしてわざわいを千里の外よりまねきよせぬ、此れをもつてをもうに今又法華経を信ずる人は・さいわいを万里の外よりあつむべし、影は体より生ずるもの・法華経をかたきとする人の国は体に・かげのそうがごとく・わざわい来るべし、法華経を信ずる人は・せんだんに・かをばしさのそなえたるがごとし、又又申し候べし
 幾たびも読んだ御言葉である。しかし、読むたびに温かく、厳しく胸に迫り、そして、誰人も深く信心に励まなければならないと納得する、因果の道理があった。
 戸田は、大きく頷くと口を開いた。弟子たちの目は、戸田の顔に、一層、熱心に注がれていった。
 「厳しい御言葉です。日本国が御本尊を仇敵にしていると、千里の外から禍を招くという。七百年前の蒙古のことを指しているばかりでは決してない。今度の敗戦日本の姿に、ぴったり符合するではないか。恐ろしいことだ。しかし、信ずる人は、幸いを万里の外より集める、と仰せです。
 広宣流布は、何がなんでも、われわれの手で成し遂げねばならん。この確かな真理を、敗戦国民は、誰人も知らない。そして絶望しながら、ただ苦労しているだけだ。この民衆を救っていけるのは、いったい誰だ。マッカーサーか、日本政府か。とんでもない。大仏法を奉持し、身をなげうって広宣流布に活動する人以外に断じてない
 それが、創価学会の使命であり、今、われわれのほかに、誰一人いない。今年はやるぞ! しっかり頼むぞ!」
 一同は感動した。決意が五体にみなぎり、皆の目は一段と輝いた。
 彼らの決意は、観念を超えていた。表面をつくろって、戸田の意に迎合する人もいなかった。彼らは、ただ全身で決意しなければならぬ思いに駆られていたのである。だから、浮わついた言葉など、出るはずもなかった。
 戸田は、茶わんを手にして、ぐっと酒を飲みほすと、一升瓶に目をやった。瓶は、既に空になっていた。
 「さあ、そろそろ時間だろう。出かけよう」
 かれこれ午前八時を回っていた。戸田は、弟子たちと総本山に向かった。
 真冬の空は、晴れ渡っていたが、風は冷たかった。
 どの家も戸を閉め、街並みは寒々としていた。門松ひとつなく、松飾りさえ、ほとんど見当たらない。
 ――この同じ時刻に、人びとは、どんな気持ちで、新年を迎えたことであろうか。往年の正月風景を思い起こして、敗戦国の悲哀を慨嘆しなかった人はいないであろう。
 そのなかにあって、同じ街、同じ国にいながら、戸田の話を聴いた弟子たちは、まことに有意義な新年を迎えたのであった。
 戸田を真ん中にして、駅へ急ぐ一行の胸には、希望があった。彼らは、純粋に燃えていた。
6  元日の下り列車は、身動きもならぬ混雑ぶりである。車中には、人いきれと、鼻をつく悪臭が立ち込めていた。
 乗客は、男たちが大半だった。それは、家族を田舎に疎開させたまま、単身、東京で働いている人たちが、正月休みを好機に、待ちわびている妻子のもとへ急いでいる姿であろうか。哀れといえば、誰もが皆、平等に哀れであった。終戦直後の殺気立つた空気は、この正月ごろには自然に消え、人びとは、いつか辛抱強くなったように見えた。しかし、それは建設のための辛抱ではなく、大半が、あきらめと惰性によるものであった。
 この日、新戸籍法が施行された。また、皇居の二重橋が開放され、一般参賀が許可されている。
 戸田の一行は、富士駅に着いた。既に正午を回つている。身動きならない混雑のため、一行は、皆、窓から降りる始末であった。
 仰いだ空には、白雪の富士の雄姿がそびえ立っていた。一行には、新しい年を告げる、新鮮な富士に見えた。
 乗り換えの身延線は、相変わらず連絡が悪かった。そのうえ、富士宮駅からのバスは、午後は二便しかない。長時間、待たされて、やっと発車したバスは、長い坂道をあえぐように上り始めた。
 途中、何カ所かで乗客を降ろしながら、ようやく、総本山の木立が見え隠れする青木坂まで来た時、急にバスが動かなくなってしまった。坂が急なため、タイヤがスリップしているのである。しかも、木炭車のためか、エンジンの力も弱かった。運転手の困り果てた表情を見て、戸田は、率先して降りながら声をかけた。
 「みんな、降りて押そうじゃないか」
 運転手は、砂を撒いて車道を整備し、一行は、力を合わせてバスを押し上げた。その甲斐あって、やっとバスは動き始めた。
 総本山に降り立ったころには、冬の日は、既に、たそがれ始めていた。
 疲れて、理境坊に着くと、六十人の会員が待っていた。皆、元気そうであった。
 戸田は、一人ひとりの顔を見ながら、二年前の正月のことを、思い出さずにはいられなかった。
 ″あの時は、たった六人であった。それが、この二年間で、十倍になった。むろん、まだ微々たる少人数とはいえ、上昇の機運にあることは間違いない″
 彼は、そう思うと、いやでも感慨が胸に込み上げてきた。
 夕食に、坊では、特に大きい餅の入った雑煮を出して、祝ってくれた。
 夜は、座談会が聞かれ、活発な発言が続いた。
 最後に、誰かが立ち、学会歌の合唱が始まった。なかでも、「同志の歌」は、幾たびとなく繰り返されていった。
 戸田は、じっと耳を傾けていた。そして、すっと立ち上がり、自ら指揮を執った。
 戸田の全身に、感動の波が脈打っていた。
 彼の指揮は、緩急と、抑揚がくっきりとして、歌の心を、余すところなく表現しているかのようであった。自然、歌う人びとは、彼の指揮を通して、その歌の心を理解していくのであった。
 この夜、彼は、多くを語らなかった。だが、歌に託した気迫が、彼の決意を鮮やかに物語っていた。
  捨つる命は 惜しまねど
  旗持つ若人 何処にか
  富士の高嶺を 知らざるか
  競うて来たれ 速やかに
 戸田は、自らに鞭打ち、全員の奮起を促したのである。
 夜は更けていった。静寂のなかで、戸田城聖という、この一人の核は、万人に、生きる信念と偉大な希望を与えきることを、強く確信していた。
7  翌朝も快晴である。風は寒かった。真っ白な富士の山が、雄大で美しい。
 午前八時、宝蔵で全員が、勤行、唱題し、それぞれ一切の祈願をした。そして祈願は、そのまま、彼らの信年の決意に変わっていった。
 この直後、戸田は、新年のあいさつのため、大坊に法主の日昇を訪ねた。
 その折、初めて日昇から、焼け跡のままになっている客殿ならびに六壷の復興計画の話があった。
 ――終戦以来、戦災にあった全国末寺の復興は、次第になされていた。そして、その大半は、目鼻がつくにいたった模様である。そこで、いよいよ総本山の客殿の復興にかかり、総力をあげて、本年の秋までには竣工したい、との話であった。
 焼亡前の客殿より、少々、小さい規模で、その代わり使用しやすく工夫を凝らしたものにする、との計画であった。
 主要資材の木材には、すべて総本山の山林の杉が使用される。また檜の巨木も、これにあてるという。工事費だけでも、当時の金額で、百五十万円の予算が見込まれていた。
 自作農創設特別措置法によって、総本山の農地は、ほとんど国家に買い取られてしまった。総本山の財政的基盤は、全く崩壊していたと思われる。また全国の檀信徒も、極度の貧困にあえいでいた。
 このような時勢での客殿復興である。多額の浄財を集めることは、そう簡単ではないはずだ。しかし、戸田は、総本山を再興しなければならないとの一言のもとに供養を誓った。
 ――この月の二十日、総本山では宗門の臨時宗会が聞かれ、客殿ならびに六壷復興の件は可決された。二十二日には、総本山復興局が創設された。
 戸田城聖は、帰途に就く直前に、客殿の焼け跡に、会員を全員集めるよう指示した。そして、日昇の復興計画を伝えた。これが、学会にとって、総本山復興への第一声であった。
 皆、真剣な、眼差しである。
 ――学会は、新生の時を迎えていた。総本山も新生である。日本の国も、今や新生の第一歩を踏み出していた。そして、ともに一人ひとりの同志も、新生の道を進もうとしていた。
8  広宣流布の活動といっても、その実践の根本は、座談会と教学の研績である。この二本の柱が、強力に忍耐強く実践される時、いつか、この社会を変え、新しい日本の基盤を築き、新しい平和の世界を創っていくことができる。なかでも座談会の推進が、大きく広布の歯車を回すことになる。
 戸田城聖の新年初頭の決意はここにあったといえよう。また弟子たちの胸にも、自然に、この決意は染み渡っていった。
 彼らは、敢然と発心したのである。
 ″自分たちで、自分たちの力で、どしどし座談会を開いていこう。それが信心の最も大切な実践だ。そして今年は、座談会に始まり、座談会に終わる年にしようではないか!″
 東京・小岩駅の近くに、青年部員の松村鉄之の家がある。戦災を免れた家で、部屋数もあり、庭からの出入りもでき、だいいち、交通の便がよい。松村青年は、前年、ある新宗教の教団幹部を破折して以来、学会活動が面白くてたまらなくなっていた。大きな体で、自転車のベダルを踏み、江東方面を駆けずり回っていた。
 終戦後の混乱期の青年である。彼も、一時、不良仲間に足を突っ込んでしまったため、入会してからは、その仲間から、さまざまな形で、嫌がらせをされていた。それをはね返すためにも、彼は、青年部員として真剣に学会活動を行い、その自覚と決意は、火のように燃え盛っていた。当時の彼は、いわば信心の火付け役とでもいった存在だった。
 この彼の家で、一月三十一日、座談会が聞かれていた。戸田は、数人の幹部と共に、定刻に姿を現した。そのなかに、南方から復員して活動を再開していた、泉田ための夫である弘もいた。泉田弘は、復員後、自ら戸田を捜し回った、牧口門下生の一人である。やがて戸田のもとに駆けつけ、同志と共に、真剣に学会再建の一翼を担うことになった。
 「今夜は、ひとつ楽しくやろうじゃないか。さあ、みんな、こちらにいらっしゃい」
 戸田の声は明るい。十数人の人びとは、小机の前に集まってきた。彼は、仁丹をかみながら、にっこり笑った。
 「小岩の皆さん。どうだい、景気は?」
 戸田の、この一言で、下町の人びとは相好を崩した。
 「今夜は、なんでも、ゆっくり聞いてあげよう」
 一座の人びとには、確かに、戸田に聞いてもらいたいことが、胸いっぱいあった。しかし、戸田の屈託ない温かい顔を見ていると、そんなことは、どうでもいいような気になってくるのである。進んで話しだす人はいなかった。
 とっさに質問する人がいない様子を見ると、戸田は、片隅で暗い顔をしている中年の女性に呼びかけた。
9  「笹井の奥さん、このごろはどうだね」
 彼女は、最近の入会である。「このごろはどうだね」というのは、彼女の一家の不和の問題を、彼は知っていたからである。
 彼女の夫が経営する町工場は、危殆に瀕しているし、夫は病弱であり、暴君であった。気丈な彼女は、多くの子どもをかかえて、懸命に生活と戦っていたが、力尽きた思いであった。
 途方に暮れていた時、彼女は、信心の話を聞き、入会した。そして、前途に希望をもち始めたが、同時に、暴君の夫の猛烈な反対が始まった。思いのままにならぬ困難のさなかに、入会したことによって、もう一つの困難が新たに加わったのである。
 ″この信心をすれば、万事よくなるというのに、ますます苦しくなってきた。昨夜も、主人は、信心をやめろと、暴力を振るう始末である。信心する以前よりも、その暴力は激しくなってくるばかりだ。いったい、どういうことなのだろう。このままでは、一層、不幸が重なっていくかもしれない″
 笹井きぬは、一日中、そんなことばかり考えていた。
 ″この信心が、間違っているのかもしれない。いや、絶対に正しい信心だと、学会の人たちは確信をもって話した。何がなんだか、わからなくなった。……私ほど不幸な女は、この世にいないだろう″
 彼女は、身も世もない沈痛な思いの果てに、ある一つの結論を得た。
 ″もし、この信心が正しいというなら、きっと、主人と別れろということなんだろう。ともかく、私は、もう我慢できない。そうだ、別れよう。別れれば、いいのだ。別れても辛い思いはするだろうが、今の苦しみよりは、ずっとましなはずだ″
 笹井きぬは、この結論を固くいだいて、この夜の会合に来ていた。戸田に呼びかけられた時、口から飛び出した言葉は、思い詰めた、その結論であった。
 「先生、主人とは、どうしても別れようと決心をいたしました」
 戸田は、じっと、笹井の頬のこけた顔を見つめたまま、しばらく黙っていた。人びとも、体ごと戸田にぶつけたような彼女の質問に、彼が、なんと指導するだろうかと、耳をそばだてていた。
 この広い世の中では、ほとんどの人が世間体を気にして、自ら虚飾のなかに生きている。たとえ高邁な理想に生き、社会の変革を説く人であっても、意外と身近なところに不幸をかかえて、人知れず悩んでいるのではないか。人びとは、それを訴える術も知らず、苦悩を解決してくれる人もいない。だいいち、家庭の不幸を知られることが、人生の敗北を意味してしまう世の中である。
 戸田は、穏やかに口を開いた。
 「あなたが、今、どんなに苦しんでいるか、わからんわけではないが、夫婦の仲にまで入るわけにはいきません。ただ一つ、ここで、あなたに教えておかねばならないことがある」
 ぐんと胸を打つ、強い言葉であった。
 「それは、ほかでもない。あなたの、そういう夫をもたねばならぬ宿命が打開されない限り、その人と別れても、また同じような夫をもつことだろう。同じような夫をもつのなら、たくさん子どももでき、今までも、どうやらやってきたんだから、今の夫で間に合いそうではないだろうか……」
 一同は、思わず笑ったが、戸田は、真剣な表情を崩さない。
 「今のまま、いかにいじめられでも、信心をやり通して、やがてその宿業を打破すれば、その夫は、必ず良い夫に変わるんです。信心を基準にした場合は、冬から春に変わる境目であり、引き潮から満ち潮に変化していく一現象なんです。もし、夫が変わらぬとするならば、その夫の方から、自然に出ていってしまいますよ。別れる、別れないは、その時に考えればよいのです。
 重ねて言うが、別れるなとも言わないし、別れろと言うのでもありません。あなたが半年なり一年なりを、信心の実証を示すために、真剣に家庭革命の中心となって、頑張りきってみることです。宿命転換の実践を、勇敢にやり通してみることです」
 彼女は、明らかに失望の色を浮かべて、うつむいた。
 戸田は、それにはかまわず、さらに続けた。
 「こう言ったからといって、″はいそうですか″と納得のいくことでもないかもしれない。今のあなたは、″そんなことを言ったって、私の、この苦悩はどうしょうもない。いったい、どうしたらいいんです。それが聞きたい″と、思っているんでしょう」
10  笹井は、子どものように、大きく、こっくりと頷いた。
 戸田は、笑った。
 「あなたは正直な人だ。頓服薬が欲しいんだね。私も、そんなうまい薬があれば、すぐさまあげたいよ。風邪なら頓服で間にあうが、夫婦の不和には、そうはいかない。やっかいな、こんな病気には、頓服など断じてない。夫婦不和のウイルスなんて、そんなものは発見されようもなかろう。
 ただ一つ、仏法の三世にわたる因果の法則から見れば、その原因は、判然とわかるんです。あなたが信心したら、主人が猛然と反対し始めた。これは一つの結果です。偶然では決してない。そのあたりの宗教か何かであったら、そんなことは、ないかもしれない。この信心は、力がある生きた信仰なんです。
 正法を受持して、なお、そのような目に遭うというのは、何が原因だと思いますか。あなたの心得が悪いとか、反対する主人が悪いとか、そんなことに根本の原因があるのではない。厳然たる因果の理法によるんです。そんなこと、私は知らんと言っても駄目なんだ。仏様が、ちゃんと、おっしゃっているんだもの。決して嘘ではない。真実なんです。
 だからといって、因果の理法がわかれば、解決するというのでもない。これらの根本的解決のために、日蓮大聖人は、御本尊を顕されたわけです。その御本尊に、たゆまず唱題し、生活革命に努力していくことです。
 若木も一日では伸びない。赤ん坊も、一日や二日ぐらいでは大きくならないのと同じく、宿命打開の長い信心が必要になってくるんです」
 笹井きぬの心の琴線に、ようやく触れるものがあった。
 「ただ、このことを確信して実行してみるか、疑ってやらないか、それで右になり、左になるだけだ。反対されればされるだけ、あなたの宿業は浄化されると決めていってごらんなさい。必ず後になってわかる。
 つまり、その宿業の原因を変えたとすれば、結果はどうなってきますか。宿業が変わる。したがって、あなたの宿命が大きく変わっていきます。
 法華経にも、『衆罪は霜露の如く慧日は能く消除す』(七二四ページ)とある。
 そこまで信心を貫き通さなければ、意味がない。いやだろうが、苦しかろうが、やり抜けば、お灸をしたあとのように、さわやかになるんだよ。
 永遠の生命から見れば、その苦しい半年や一年は、瞬間のようなものだよ。一家の根本的な改革の道があるのだから、あとは勇気をもってやってごらん。この戸田が命にかけて保証します」
 彼女は、返事の代わりに、しくしくと泣きだした。悲しかったのでもない。絶望したのでもない。赤の他人の哀れな女を、こうまでも真剣になって考え、指導してくれる真心に打たれたのである。
 ″これまで、いったい誰が、このように言ってくれたであろうか。本当に初めてのことだ″
 彼女は感動した。そして甘えた。今、初めて戸田の言葉を信じようとした。それで安堵の涙が、あふれてきたのである。
 彼女は、か細い声でやっと言った。
 「先生、すみません……」
 「すまんことなど、あるものか。ただ、いいかげんな信心では、証拠が出ないというのだ。少しの間、しっかり頑張りきることだ」
 戸田は、彼女が心底から発奮し、忍耐強く精進していこうと決意しているのを感じ取っていた。
11  話の途中に、四、五人の人が入って来た。そのなかに、四十がらみの夫と、三十そこそこの妻の夫婦がいた。男は小柄であり、女は病身らしい。泉田ための紹介である。一緒に並んでいた。
 泉田ためは、はきはきした口調で戸田に言った。
 「先生、私の家の近くの山川さんご夫婦です。入会は決意しておりますが、一度、先生にお目にかかりたいというので、お連れしました」
 性急な泉田は、さらに畳み込むように言った。
 「山川さんは失業中です。奥さんは、長いこと胸を患っているんです。お子さんが六人おります。戦災にあって、それから私の近所に移って来られたんですが、最近、お知り合いになった方です」
 戸田は、黙って聞いている。そして、いきなり言った。
 「今夜は、不思議に、夫婦仲のよくない人が集まったなぁ。笹井さん、この方たちも、あなたの仲間だよ」
 山川夫妻は、虚を突かれたように顔を見合わせた。
 「先生、本当によく喧嘩なさるんです」
 泉田ための、この早口に、一座の人びとは、どっと笑いだした。
 「主人は失業中、女房は長患い、子どもは六人、これで夫婦喧嘩が起きなかったらおかしい。誰だって、おかしくなるよ」
 戸田は、夫妻に顔を向けた。
 「こちらへどうぞ……。ご商売は?」
 彼は、いきなり高遠な理論などを説とうとはしなかった。生活の泥沼のなかに生かしきっていける哲学を、庶民に実践させるためには、まず現実の生活に入り込んで、そこから説き始める必要があった。
 二人は、少しずつ戸田の机の前に寄ってきた。まず山川芳人が、うつむきがちに言った。
 「鉄工所をやっておりました……」
 彼の話を総合すると、こうである。
 ――彼は、戦時中、ちょっとした軍需成金であった。本土空襲が苛烈になった時、工場の疎開に取りかかり、工作機械をあらまし荷造りして、地方へ発送する準備をしていた。たまたま駅の構内で発送を待っていた時、運悪く空襲に遭い、荷物は全部灰になってしまった。終戦直前のことである。それより前に、住居も戦災を受けている。
 山川一家は無一物となったが、かなり儲けた金は、焼けずにすんだタンスの引き出しの中に現金のままで、いっぱい残っていた。この八人の大家族の落ち着いた先は、江戸川堤防の脇の知人の一軒家である。
 事業と家とをすべて失った、この一家の前途は暗かったが、手持ちの現金は、夫妻の心の唯一の支えとなっていた。しかし、刻々と悪化するインフレの高進は、この手持ちの現金の価値を日ごとに下落させていった。
 終戦直後、十年以上の生活費に充当できる計算の金が、三年たった今では、全く残り少なくなってしまった。
 職人気質の山川芳人は、見る見るうちに金の値打ちが低下したことに、ただ腹ばかり立てていた。それに病身の妻は、気ばかり強く、世間の急激な変化など理解しようとしない。育ち盛りの六人の子どもは、いくら食糧を闇買いしても、空腹を訴えている。
 山川芳人は、家にいるのがいやになり、日に何度も家の前の堤防に上った。そこには広い空と、ゆったりとした水の流れが待っていた。対岸の田園の風景が、遠く開けて見える。彼は、ほっと息をつき、傷だらけの心を、一人慰めるのであった。
 彼の借りた家は、かつて詩人の北原白秋が、苦境時代に住んでいたということである。苦難の修業時代の白秋は、堤防の上を行きつ戻りつ、詩作に耽ったにちがいない。白秋が江戸川時代に残した詩の数々は、この山川の家で生まれたものであろう。今、山川芳人は、詩人のように川を眺め、そして苦しんでもいたが、彼は、頑固な一介の職人であって、残念ながら詩人ではなかった――。
12  戸田城聖は、山川夫妻の物語る人生行路を、親身になって聞いていた。そして、何を思ったか、メガネを外し、まざまざと山川の顔を見るのであった。
 戸田は、人間を、人相などといった外見で判断するようなことは、したくなかった。しかし、確かに人間の顔には、時に畜生界や餓鬼界の相が現れるかと思うと、突然に死相をのぞかせることも事実である。山川の顔には、生気がなかった。貧窮したような相が現れていた。
 「ふーん」
 戸田は、なぜか口を開くことをためらうように、考え込んでいる。
 山川には、薄幸そうな雰囲気が漂っている。だが、なんとなく、お人よしの片鱗が見えないわけでもない。良い人相をしているようであっても、不幸に泣く人もいるし、極悪人もいる。即断はできないものである。
 「弱ったな。しかし、はっきり言っておきましょう。あなたには、日本一の貧乏人になる宿命があるように感じられてならない。覚悟して、宿命と戦うことだ。信心に励むからには大福運を積み、その宿命を転換するまで、罪業との勇敢な戦いをする以外にない。辛抱できるかね」
 山川芳人は、うなだれたが、妻の山川きよのは、他人事のように言うのであった。
 「先生、貧乏ぐらい大丈夫です、今までにも、ずいぶん貧乏してきましたから、慣れて平気になりましたもの。ホッホホ……」
 きよのは、朗らかに笑いとばした。人びとも、つられて笑っている。戸田は、笑わなかった。きよのは、まだタンスの底に、三、四万円の紙幣を、しまっていたのである。
 「そうか、しかし日本一というのは、一つで二つとないことだよ。どんな目に遭っても、御本尊を決して疑ってはなりません。覚悟して、しっかり信心を貫くんだよ」
 戸田は、こう言いながらも、側にいる泉田ための夫である復員軍人の弘に言った。
 「山川夫妻を頼んだぞ。よく面倒をみてあげなさい。山川さんも、泉田君を頼って、なんでも相談して、やっていきなさいよ。泉田君、焦らずに、じっくり指導していってごらん」
 「わかりました」
 泉田弘は頷いた。山川夫妻は、「日本一の貧乏人」という、ありがたくない代名詞と″予言″をもらったが、この時は気にもかけていないようであった。
 この一家に、″予言″通りの貧乏が始まったのは、一年後からである。そして、その状態は七年も続いたのであった。戸田の言葉を、しみじみ思い出したのは、そのころになってからだったにちがいない。
 彼らは、この夜の戸田の指導に間違いのないことを一年ごとに知って、心から信心に立ち上がった。
 その結果、次第に福運を積んでいった。子どもも、さらに生まれたが、家族全員が健康に恵まれ、長男をはじめ子どもたちも、社会にたくましく巣立つようになった。山川一家の、幸福への不動の礎が、この夜の戸田の厳愛の言葉によって、築かれたのであった。
 入会した山川夫妻にも、初信の功徳は歴然と現れた。それは、きよのの結核である。彼女は、四年前に大喀血していた。それ以来、年一回は、医者を恐怖に陥れるような大喀血を繰り返し、特異体質の患者として、再起不能とまで言われていたのだ。
 ところが、信心して程なく、一日中起きていられる体となった。さらに、長年の神経痛や、膀胱炎まで治っていったのである。生命に実感として味わった信仰の功力と、その喜びに、一家も楽しく真剣に唱題していった。
 しかし、芳人の事業は、いくら奔走しても、そう簡単には軌道に乗らなかった。夫婦の諍いも、相変わらず、毎日のように続いた。信心を始めて、生命力が強くなったのか、喧嘩は前より熾烈になったのである。
 芳人がバットを手にすれば、女房は帯で応戦した。バットと帯の対戦は、仲間たちの間で有名になり、「あの夫婦は二人とも、題目も強いが、喧嘩も強い」と、もっぱらの噂であった。
 この姿を見て、近所、親類の人たちは、誰も信心などしようとはしなかった。
 長年、使用しなかったホースに水を流すと、最初は濁った水しか出てこない。が、そのうちに、きれいな水が流れ出てくるものだ。周囲の人びとは、このような宿命転換の本質を知らずに、ただ表面だけを見ていたのである。
13  戸田城聖は、そのころ、座談会で見かける新しい人たちにも、まるで旧知のような調子で、一人ひりを指導した。指導は懇切を極めていた。人びとの人相が千差万別であるように、その境遇も驚くほど多岐にわたっている。
 また、その宿命や宿業も、人ごとに違っていた。
 世間では、さまざまな民主化活動も、ようやく多彩に行われるようになった。労働組合の組織活動も、盛んであった。だが、人間の幸・不幸を最終的に決定するのは、一個人の生命の問題である。ほとんどの運動の指導者が、そのことを知らずに活動を行っていた。
 こうしたなかにあって、戸田は、一人ひとりの宿命の打開を、まず第一の問題とし、それに真っ向から挑戦していった。彼の洞察は、驚くべきものであった。
 一人の人間を徹底的に指導し、抜本的に蘇生の実をあげることは、そう簡単に誰にでもできるものではない。おそらく難事中の難事であろう。
 この難事を、戸田城聖は、自ら進んで敢行していた。彼には、自ら信ずる仏法を、人びとの生活と生命のうえに、明確に実証せしめなければならないという使命感と責任感とが、力強く脈打っていたのである。
 ところで、人間一人の不幸という現実は、時には術もないと思われるほど、想像を絶した悲惨なものである。戸田も、これらの姿を見て、たじろぐこともあったろう。妙法の功力の無量無辺であることは確信していたが、絶対に解決すると断言するには、自らが絶大な信力を奮い起こさなければならない。
 彼は、逆流のなかに身を置く思いで、まず、自身の心中で戦ったこともあった。足をさらわれるか、さらわれないか――指導の前に、まず、彼自身が勝たねばならなかった。そして、彼の優しく、また強い心には、この戦いのあとに、慈愛と信念とが満ち満ちてくるのであった。
 「それでいいのだ。大事なことは、所詮、御本尊に対して、赤子のように素直で、たくましい信心さえあればいいのだ。それが、自己も、家庭も、環境も、社会も、すべてを必ず解決していくのだ」
 彼の確信と慈愛の言葉は、この世の不幸と悲惨を、一つ、また一つと、消滅させていくのであった。
14  戸田城聖は、渾身の力を振り絞って、日夜、敗戦後の街々を東奔西走していたが、焼け石に水のように思える時もあった。それほど、戦後の人びとの不幸は、怒濤のように荒れ狂っていたからである。
 一月の末、東京都豊島区の帝国銀行椎名町支店で、行員ら十二人が毒殺されるという事件が起きた。銀行閉店直後の午後三時過ぎ、東京都の衛生課職員と称する一人の中年の男が銀行を訪れた。近隣で集団赤痢が発生したから、予防のために、この銀行に来たのだというのだ。そして、机の上のお盆に並べられた茶わんに、持参した薬瓶から少量の液体を注いでいった。
 「GHQ(連合国軍総司令部)の消毒班が後から来るので、この予防薬を飲んでほしい」
 彼がそう言って促すと、行員らは、誰一人疑いもせず、その薬物を飲んだ。青酸化合物であったらしい。行員らはバタバタと倒れ、十二人が死亡し、十八万余円の被害があった――いわゆる「帝銀事件」として騒がれた暗い事件である。
 当時の新聞は、紙一枚の表裏、わずか二ページであったが、その紙面は暗いことばかりであった。
 新聞は、社会の鏡であり、縮図である。各紙は、その報道を通じて、懸命に社会悪と戦っていたが、結果として紙面に現れるのは、悲惨な日本の様相でしかなかった。
 日本の重要な戦争犯罪人に対する、大がかりな極東国際軍事裁判、いわゆる東京裁判は、一九四六年(昭和二十一年)五月三日に開廷され、既に一年半を経過していた。ドイツのニュルンベルクでの国際裁判は、わずか十カ月余で終わったが、東京裁判は長引いていた。四八年(同二十三年)の一月二日には、三百四十六回目の公判が聞かれている。
 裁判は大詰めに近くなっていた。元首相で陸軍大臣等を兼務していた東条英機への、キーナン検事の尋問が続行され、それが紙面をにぎわしていた。
 あと残るのは、陸軍大将で参謀総長だった梅津美治郎被告の個人反証で、それが終われば、いよいよ検事側の最終論告が約二週間続けられる。次いで弁護側の最終弁論に移り、これも二月末で終わり、三月いっぱいには最終判決が出るだろうという見通しが、報道されていた。
 しかし、実際は、東京裁判の終了は、この年の秋十一月十二日になった。
 慌ただしく、しかも暗鬱に、日本の社会は激動していた。
15  新憲法制定後、初めての総選挙が、前年の四七年四月に行われた。
 その結果、日本社会党が、百四十三議席を得て第一党となり、政権を担当することになった。第一党とはいえ、三割勢力でしかない社会党は、自由党、民主党、国民協同党と連立する以外になく、四党政策協定を結んだが、組閣の人選で自由党と社会党の意見が鋭く対立し、自由党は四党連立から脱退した。結局、六月一日、社会、民主、国協の三党連立内閣が、社会党委員長の片山哲を首班として発足した。
 しかし片山内閣は、半年もたたぬうちに、社会党内の紛争もあって、崩壊を始めたのである。
 まず、結党以来の実力者であった平野力三農相が、かつて国家主義者の団体と関係があったことなどが問題視されたことから、片山は、平野に辞任を要求したが、平野はこれを拒否した。そこで片山は、憲法に基づいて閣僚罷免権を発動して、十一月四日に平野を閣外に追放した。
 これに対し、片山内閣の方針に批判的な社会党左派は、翌月、衆参合わせて七十八人の議員の署名を集めて、内閣を批判する声明を発表し、党内野党の立場に立つことを宣言した。
 また、年が明けた四八年(同二十三年)一月初頭、第三回党大会の開催直前に、平野は全農派議員十六人を引き連れて脱党した。
 一月十六日から始まった党大会では、右派と左派の対立が激化し、遂に左派が主張する″四党政策協定の破棄″が決議された。
 さらに国会でも左派の追撃は続き、翌二月四日の衆議院予算委員会で、政府の補正予算案を否決してしまった。予算委員会の委員長は、左派の鈴木茂三郎であった。
 政局は急変し、片山内閣は万策尽きて、二月十日、総辞職するにいたった。わずか八カ月余の短命内閣であった。
 二月二十三日、国会は、民主党総裁の芦田均を総理大臣に指名した。今度は、社会、民主、国協が三党政策協定を結び、三月十日、三党連立の芦田内閣が成立した。だが、芦田内閣は片山内閣よりも短命であった。
 五月に、社会党の西尾末広副総理兼国務大臣が、土建会社から多額の献金を受け取ったことが問題となり、西尾は七月に国務大臣を辞任した。
 時を同じくして、昭和電工事件が起きた。いわゆる昭電疑獄である。九月に入ると高級官僚、閣僚の逮捕が相次ぎ、芦田内閣は、十月七日に総辞職したのである。
 当時の政治道徳の退廃ぶりは、裏面を見ると、目にあまるものがあった。表面だけは民主政治の形をとっていても、実態は金権政治にほかならなかった。わが国の政治が、西欧の十八世紀の段階にあると笑われたのも、理由のないことではない。金権腐敗政治の流れは、その後も長く変わることはなかった。
 国民の一人ひとりが、主権者であることを自覚し、政治への監視を厳しくしなければ、これからも同じような状態が続くであろう。
 政界の退廃以上に、経済界には闇経済が横行し、勤労大衆の生活は、極度に貧困化していった。人心の荒廃は、言うまでもない。
 こうした時に、いつも犠牲になるのは、真面目な庶民である。為政者たちは、大衆を忘れ、自己の権勢欲を満足させるのみであった。
16  戸田城聖は、「末法濁悪」の実態を、まざまざと凝視していたが、そのような社会の激動に関して、極めて寡黙ですらあった。彼は、時代の底流に渦巻く要因を、見抜けなかったわけではない。沈黙を守っていたのである。
 戸田のもとに、弟子たちは、目にする数々の世相をあげては、憤激することがあった。その時に、彼は、決まって沈着に答えた
 「だから、広宣流布の時が来ているというのです。
 今のところは、やらせておけばいいではないか。ただ、彼らがどうやろうと、行き詰まるだけだよ。この時代に、いかに根本的に救済していけるかは、われわれだけが知っているのだ。今のうちに、せいぜい、あらゆることを勉強しておくことだよ。、どうせ忙しくなるんだから」
 戸田は、笑いに紛らわして、政治談議をすることは少なかった。
 彼は、胸中に、広宣流布の伸展につれて、やがて学会が社会をリードしていく時が、必ず到来することを確信していた。彼の今の実践は、その基盤を、一歩一歩、確実に、つくっていることにほかならなかった。
 彼は、野に伏し、山に伏しながら、新しい時代の到来を信じて、未来に羽ばたく愛すべき庶民を、わが弟子として、つくりつつあったのである。

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